絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

聖書的精神療法・・・対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」を媒介して、対人関係だけではなく対神関係を第一の前提とする「聖霊感知・行動療法」へ

< そもそも、精神療法・心理療法とは、治療者と「対話」「交流」を通じ、「自己」を「深く知る」ことにほかなりません。その際、治療者の「姿勢」「人柄」さらに「人間性」が問われると言っても過言ではないでしょう。世界には数百の精神療法・心理療法があると言われています。スキーマ療法は難治性である境界性パーソナリティ症に効果的であるとされていますが、その背景には冒頭に触れたよう、それ相当の時間・費用・労力に裏打ちされた、治療者の献身的な姿勢があってのことでしょう。>「スキーマ療法」とは | 銀座泰明クリニック (ginzataimei.com)

世の中で心理療法とか精神療法とか云われるものは参考にはしても基本、信用しないし(特にyoutubeやHowto本の類を通して、精神科医や自称カウンセラーの類が語っている認知行動療法またはその類)、聖霊の内住を信じるクリスチャンにとって基本的には必要とはならないもの、無縁でしょう。せいぜいフロイト精神分析くらいは一般教養の一つとして知っておいてもいいかなと思う程度で、非科学的だとして批判される、フランクルの「ロゴセラピー」などは知らなくても全く問題ないでしょう。

認知療法については、有効な方法であることは間違いありません。その技法は現在すでに現場の精神科医の精神療法の中に広く取り込まれており、その意味では一般的な治療法と言えます。また認知療法は数ある精神療法の一つであり、他にも多くの有効な精神療法があり、これらも広く行われています。強調せねばならないことは、認知療法も含めた精神療法は薬物療法と同時並行的に行われる精神科治療の基本であり、薬物療法に代わる治療法という見方は明らかに間違っていることです。その効果は薬物療法を上回るとは限りません。認知療法薬物療法の効果を比較検討した研究データもありますが、薬物療法の方が勝っているという結果も出ています。ただ、どちらが優れている、という比較をするような性質のものではなく、精神療法には薬物療法と同様に意義と限界もあることを知りながら、うつ病の治療技術を高める努力こそ必要であると思います。」 うつ病Q&A | 日本うつ病学会 Japanese Society of Mood Disorders (secretariat.ne.jp)

「認知・行動療法」ならぬ「聖霊感知・行動療法」について書きます。「霊感・行動療法」と命名したかったのですが、マスコミがカルト教団の旧・統一教会の活動に「霊感商法」と言う不適切な名称をつけてくれたおかげで、「霊感」という言葉のイメージが「霊能」などと同様、とても怪しげで悪くなってしまいました。それで私は「聖霊感知」という表現を選んだのです。

アメリカ人のハリー・スタッフ・サリヴァンは「精神医学は対人関係の学問である」と述べたそうですが(~和田秀樹著『比べてわかる!フロイトアドラーの心理学』青春出版社 p68)、対人関係だけを前提とする精神医学や臨床心理学…特に「認知・行動療法」によっては、人間の精神的な問題は根本的な解決を得られないし、患者の究極的救済は望み得ないと私は思います。精神分析を除く「精神療法」の多くは要するに気休めであり誤魔化しであり、自分で自分の脳を錯覚に陥らせるような、あるいはあまり意識しないように思考ポイントをずらすような、そんな小手先のやり方にすぎません。実際は傷ついた記憶を前意識まで抑圧しているだけであり、何かのはずみで意識の表面に浮上して来るのです。認知療法的なことをしたところで受傷記憶の場面が少し変容しこそすれ不快であることに変わりなく、時々、夢に現れるのです。スキーマがどうの自動思考がどうのこうのと言ったところで、ものの観方は少しは変えることが出来ても心の中をすっかり変えてしまうことは出来ないわけだから、例えば部屋の掃除を怠って、ほこりの上に布か何かをかけてほこりが無いかの如く思っているけど現実には布の下にはほこりがあるということと同様、触れたくない受傷した記憶を意識の下の方に押し込めているだけで現実には心の中に刻まれている不快な記憶は消えないのであって、評価の高い認知・行動療法が保険適用になったといったところで、せいぜい局所的救済にとどまるということです。とは言え、無論、精神療法を全否定するものではなく、むしろ受傷体験の省察…それこそ認知の点では大いに参考になり、宗教的観点から研究し霊的療法を現実的・実践的に確立するうえではその媒体として有益だと思います。しかし重要なことは、対神関係を前提としていない以上、人間における「魂」(ネフェシュ / プシュケー)は救われるとしても「霊」(ルアハ / プネウマ)は救われないので、そのような根無し草的「精神・心」理解に基づく「療法」に対しては、過度の期待はいましめなければならないということです。対神関係を前提としていない人間の営みは例外なく限界があるからです。下記の引用文のように、いろんな用語によっていろんな作業なり行動をやったところで、結局、本人自身の「(原)罪」に由来する「古き我」…過度の自尊心(自己愛)と承認欲求が変えられない限り、改善とか言ったところで受傷者によっては報復感情が残り、小手先の精神療法などでは深部に届かず、結局、気休めの治療による表面的な変化に留まるわけです。人間の(原)罪の深刻さを軽く見てはいけません。そこに私などが、「認知・行動療法」を参考にし媒介しつつ、聖書的精神療法として「聖霊感知・行動療法」を探求すべき所以があるのです。受傷と言っても、あるいは心的外傷後ストレス障害Post Traumatic Stress Disorder)と言うように「外傷」(トラウマ)などと言ったところで、実際には自分の身体の外から受けた傷ではありません。これは人体がウイルスの侵入に対する免疫反応において白血球などの免疫細胞が活動して発熱したり、インフルエンザに感染した場合にインターフェロンの作用によって倦怠感や食欲低下が起きるのと同じことで、精神の方も自己防衛の構造によって生じるものであり、言わばメンタルの免疫反応です。傷つくのは自分を守ろうとする自尊感情が強いからであって、自尊感情が抑制されれば傷も軽いのです。だからと言ってガードを下げてもろに相手のパンチを食らったらノックアウトしてしまうので、自己防衛のためにある程度の自尊感情は必要になります。これをいかにバランスよく維持できるかが重要です。ガードを強くしてもダメだし、弱くしてもダメです。上げ過ぎても下げ過ぎてもダメなのです。程々のところで自尊心を持ちながら、外圧に対してはレジリエンス(resilience)で対応できるように、すなわち柳の木の枝とかグラスロッドの釣竿に喩えられるようなしなやかさを身につけなければ立ち行きません。

ところで「認知行動療法」というふうに、「認知」と「行動」とをつなげて書くのが一般的であるようですが、私は「認知」と「行動」との間に中点を入れて「認知・行動療法」と表記する方が適切だと思います。なぜなら元来「認知療法」と「行動療法」とは別の療法であり、それが合成されたからです。

「行動療法における説原理のキーワードは『学習』というところにある。行動の形成や変容、消去は学習によるものであって、神経症でさえ、それは何らかの理由で不適応的に学習された習慣であるにすぎず(Eysenck,1960)、他の行動の学習とは何ら区別されるべきものではないと考えられている。したがって、行動療法における治療の手続きも、学習理論に裏づけられた具体的なものであり、それゆえ行動療法は、他の精神療法に比べて比較的短期間で大きな治療効果が期待できる治療法であるという評価を受けてきた。さて、行動療法は長きにわたって、その理論的基盤を学習理論(あるいは行動理論)の中心であった条件づけ理論に依拠することで大きな発展を遂げてきた。それ故、行動療法はその発祥以来、『条件づけ療法』と呼ばれることもしばしばであった。ところが、一九七〇年代に入って、行動療法は大きな転機を迎えることになる。認知行動療法と呼ばれる新しい治療体系が誕生し、大きな発展を遂げたのである。(中略)客観的な測定と観察が可能であり、同時にそれが行動変容にどのような機能を果たしているかという点を実証的に検証することのできる認知的変数を取り上げ、その研究成果を行動変容の基礎理論として体系化したという点で、バンデューラが行動療法と認知行動療法の発展に貢献した点は大きい。そして、こうした学習理論の変化に応じて、行動療法は認知を治療に影響を及ぼす変数として重要視する方向へと変化の道を辿るようになった。一方、ベック(Beck)が、うつ病患者と非うつ病患者の思考プロセスを比較することによって、うつ病患者には彼ら特有の非論理的・非現実的な思考パターン(認知の歪み)があることを指摘し、認知の歪みの原因となっている個人のスキーマ(個人の中にある、かなり一貫した知覚・認知の構え)を変容させることによってうつ病の治療を行なうという認知療法を提唱したことは周知の事実である(Beck,1963,1964)。認知療法では、行動異常あるいは病理的症状は、個人の生育史の中で学習された固定的なスキーマにしたがって判断された歪んだ思考様式によって引き起こされ、維持されていると考えられ、そのために自己の行動を客観的に評価し、スキーマを修正し、歪んだ認知を修正することが介入の主眼とされる。

ベックは精神分析の訓練を受け、それを実践していた臨床家である。しかし、ベック自身が『一九五〇年代初頭に言われていた精神分析学の将来性が一九五〇年代の半ばには崩れさり、精神分析を志す臨床家は患者に何の変化ももたらさないまま何年もそれを続けた』と述べている(Beck et al., 1979)ように、ベックは精神分析の理論と技法を否定し、彼ら独自の治療理論を構築するようになった。また、ベックは、認知を単に説明概念として用いるのではなく、操作可能なものとして捉えるという行動療法の発想を引き継いでいると言える。ここに、行動療法と認知療法の接点が生まれることになる。(中略)

行動療法と認知療法は、その発展の経緯は異なるものの、臨床の現場においては一九七〇年代から急速に接近を初め、一九八〇年代に至って、両者の関係はもはや切り離すことのできないものとなり、認知行動療法として一つの治療体系を形成するようになった。(中略)

『患者は不適応的な反応パターンを獲得してしまったのであり、それは「学習解除」できるものである』というベックの指摘にあるように、行動療法と認知療法の両者には、『学習』あるいは『獲得』というキーワードのあることがわかる。すなわち、認知療法における『再学習』によって認知を変容するという発想は、治療は新しい適応行動を学習することによって達成されるとする行動療法の基本的発想に通じるものでもある。認知療法がしばしば『教授法』、あるいは、”teaching therapy" であると言われるのも、患者の適応行動の学習を強調しているところにその所以があると言える。また、行動療法と認知療法には、①行動を単に刺激と反応の接近・連合だけで説明するのではなく、予期や判断、思考や信念体系といった認知的活動が行動の変容に及ぼす意味を重視し、それらが行動に影響を及ぼすと考える、②人間の行動に関して、それが結果によってコントロールされているという『受動性』よりも、人間が自分の行動を自分自身で如何にコントロールしているかという『能動性』を強調し、コントロールする個人の変数として認知を考える、③認知的活動が行動に影響を及ぼすと考える、④認知的活動はモニター可能であり、変容可能であると考える、⑤望ましい行動の変容は、認知的変容によって影響を受けると考える、という発想の共通点が認められる(坂野、一九九二)。したがって、両治療法には、①治療の標的はあくまでも行動のみの変化であると考えるのではなく、信念や思考様式といった個人の認知の変容そのものが治療の標的となったり、認知の変容をきっかけとして行動変容をねらう、②治療の方略として行動的な技法のみならず、認知的な技法を用いる、③行動と認知の両者を治療効果の評価の対象とする、ただし、認知を重視するといっても、最低限行動や症状の変容を厳密に査定する、という点が共通して認められる(Kendall & Hollon,1979)。(中略)

患者が日常生活を送るなかで対処の方法を学ぶことができるよう援助を行なうという基本的発想が両治療法には認められる。つまり、患者が問題への対処の方法やセルフコントロールの方法を習得するということが両治療法の目的の一つとしてあげられる。具体的な治療のストラテジーとしては、日常生活における対処行動とセルフコントロールの獲得は通常、適切な問題解決スキルや対処スキルを教授するということが行なわれる。そのために、適応行動を習得するために必要な下位目標の設定、モデリングを通した適切な行動の具体的師範と行動リハーサル、段階的なホームワークの割当といった対処行動とセルフコントロールの獲得をねらった学習プログラムが展開されることになる。(中略)

認知療法では、活動スケジュール表の作成、習得度・満足度スケジュールの作成、行動リハーサル、社会的スキル訓練、主張訓練、リラクセーション、呼吸訓練、in vivo exposure, 段階的な課題の割当といった行動的技法と、否定的思考の変容、原因帰属の型の変容(再帰属法)、言語化、自己教示、思考中断法といった認知的技法が治療技法として活用される(Beck et al.,1979)。行動療法はこれまでの長い歴史の中で実に多くの技法を開発し、その効果を確認してきたが(赤木、一九八九;内山、一九八八)、認知療法で取り上げられている各技法の多くは、いずれも伝統的な行動療法の中で多用されてきた技法である。(中略)認知療法では『今、ここで』の問題に焦点が当てられる。そして、現在観察できる事柄を明らかにするため以外には、子どもの頃を想起するということに注意を払う必要はないと考えられ、治療セッション中、あるいはセッション間の患者の思考と感情を明らかにすることが中心となる。行動療法においても、問題となる症状や行動がどのように形成され、維持されているかという行動分析の観点を除き、過去の出来事を解釈するようなことはいっさい行なわれない。むしろ、今何が問題となっているかを明らかにし、どうすれば問題解決がはかられるかということを重視する。(中略)治療者と患者の関係に関する見解についても、認知療法と行動療法には共通するところが認められる。精神分析に代表される従来の心理療法では、治療者と患者という二者関係が固定されて捉えられるのに対し、行動療法と認知療法では、制御行動理論の発想(春木、一九七八)や認知療法の『協力的経験主義』の発想(Beck,1976)に代表されるように、行動変容プロセスにおける治療者と患者の相互影響過程を重視し、治療者と患者はまず協力して問題の解決にあたろうとする。そして、その中で患者が適切な対処行動とセルフコントロールの方法を学習できるように援助し、最終的には、患者が自分の問題を自分で処理できるように仕向けていく。また、治療者と患者の転移や逆転移といった関係は、治療を妨害こそすれ、何ら治療にとって有益なものではなく、むしろそうした関係が生じることなく客観的に治療が行なえるよう配慮を行なう。(中略)

行動療法の新しい発展形である認知行動療法認知療法のキーワードとなる『認知』という概念をどのように理解するかという点を見のがすことはできない。そもそも行動療法は、直観や思弁によって得られた知識体系を排除し、客観性と普遍性を備えた事実によって体系づけられた科学的心理療法をめざして構築されてきたものである(園田・高山、一九七八)。したがって、行動療法の中で認知の問題を取り上げるときには、実証的な検討を伴わない単なる説明概念として認知的変数を用いるのではなく、認知を明確に定義し、客観的な観察と測定が可能であり、しかも認知を操作することでどのような治療効果が得られるかという認知の機能を検証することが重要である。ベックは、認知療法を発展させる際、認知を『説明、自己命令、あるいは自己批判といった特定の思考』であると定義した(Beck,1963)。そして、こうした認知を査定するために『非機能的思考記録票』や『ベック抑うつ性尺度(略)』といったさまざまな評価用具を開発し、それによって認知をいわば目に見えるものへ操作的に置き換えようとした。認知行動療法認知療法は、認知的変数を行動変容の媒介変数としてではなく、独立変数として捉えようとする。そのためには、認知を操作的に定義、査定し、そして認知の操作を客観的に記述することによってその機能を明らかにしなければならない。そうすることによって認知的変数は行動変容を予測することのできるものとなる。また、このとき認知行動療法認知療法は、治療の目標を不適応行動の消去と適応行動の積極的学習に置くという基本的発想を共有することができるようになるのだろう。したがって、行動療法と認知療法において認知を論じる時には、次のような点が問題となる。1.認知を如何に操作的に定義するか 認知的変数はそもそも、古くはマウラーやオスグッドの学習の媒介過程説にあるように、行動変容を説明する中で、刺激と反応の間の関連性をよりよく説明するための媒介変数として取り上げられてきた。ところが、認知行動療法認知療法には、認知を単なる説明のための媒介変数として考えるのではなく、それを操作可能な独立変数と位置づけるところに、その基本的な発想があると考えられる。このことは、認知行動療法認知療法における『認知』は、『操作可能な』という但し書きとともに理解しなければならないということを意味している。言い替えるならば、認知は常に何らかの査定を行なうことによって操作的に定義されるものであると考えられる。不合理な信念、論理的誤謬、期待、対処可能性、自動的思考、自己効力感、原因帰属といった、これまでさまざまな形で取り上げられてきた認知的変数は、いずれも何らかの査定によって操作的に定義することのできる認知的変数であると言える(坂野、一九九二)。2.認知を構造として捉えることはできるか これまでに、認知をある種の『構造』として捉えようとする試みも行われてきた。『認知構造』、『スキーマ』、『自己概念』、『自己イメージ』といった認知的変数がこれにあたる。いずれも、基本的には過去の経験を体制化した、かなり持続的で、しかも将来の経験や行為に影響を及ぼすものであると理解されており、『認知構造』、『認知的構え』、あるいは『認知的表象』とでも呼ぶことのできるものである。」(大野 裕、小谷津孝明 編『認知療法ハンドブック 上巻』星和書店 p99~109 「第5章 認知療法と行動療法」※執筆者の坂野雄二氏については、早稲田大学人間科学部とだけ書いてある。)

その「スキーマ」ですが、次の説明がいちばん納得できました。「スキーマは『自分の人生に対する認知』であり、短いセンテンスで言語化が可能なものである。例えば『自分は他人より能力があり、成功する運命である』のようにポジティブな場合もあれば、『一生懸命やっても人は絶対認めてくれない』のようにネガティブな場合もある。角度を変えて言えば、一種の『信念体系』とも『生きる上でのルール』とも言うべきもので、長年にわたり形成されたものであるだけに、確信的で簡単に変えることはできないのが特徴である。もちろん個人によってスキーマは唯一つではなく、いろいろの局面でさまざまのスキーマを持っているのが普通である。これが歪んでいるがゆえに、自動的に思考の歪みが出るのであり、病気との関連ではスキーマは『患者の状況ごとの歪んだ自動思考の原点』であり、『病気を引き起こす基底にある認知』と言える。」(『認知療法ハンドブック 下巻』星和書店 p7~8 「第1章 うつ病認知療法」⦅野村総一郎⦆※野村氏は、「国家公務員等共済組合連合会立川病院神経科」⦅当時⦆)

浅井昌弘氏は、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の認知・行動療法的理解についての章」云々と述べておられ、「認知・行動療法」という書き方をされています(大野 裕、小谷津孝明 編『認知療法ハンドブック上巻』⦅星和書店⦆ 序文 v  ※この本の第12章「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の認知・行動療法的理解と治療」⦅西園マーハ文氏⦆参照)。

これに対して認知療法の提唱者であるアーロン・T・ベック博士に師事して日本における認知・行動療法の第一人者と言われる大野 裕氏は、「『認知療法』(「認知行動療法」とも呼ばれます)」と、「認知療法」と「認知行動療法」とがほぼ同義として使われている旨を示されたうえで、やはり「認知」と「行動」との間に中点なしで表記しておられます(大野 裕著『はじめての認知療法講談社現代新書 p3)。まあ、精神科医も医師であり理系なので、文言の表し方などあまり気にならないのかも知れません。以下、引用。太字は私記。

認知療法を理解するためのキーワードは、『自動思考』と『スキーマ』です。『自動思考』というのは、瞬間、瞬間に頭に浮かんでくる考えやイメージのことをいい、私たちが現実をどのように見ているかが、そこに現れます。たとえば、不安になっているときには、『何か危険なことが起こりそうだ』と考え、その『危険に対処するだけの力が自分にはないし、きっとまわりの人からも必要な助けが得られないだろう』という考えに支配されるようになります。こうした考えの流れを『自動思考』と呼びます。(中略)『スキーマ』というのは、『自動思考』を生み出すもとになっている考え方のクセです。『なんでも完璧にしなくてはならない』とか『誰からも嫌われないようにしないといけない』といった、一種の考え方の傾向、性格のようなものです。ストレスにたいして強い心を育てるためには、『自動思考』だけでなくこの『スキーマ』に気づく練習をする必要があります。ですから本書では、まずあなたが自分の『自動思考』に気づき、それに大きく影響を与えている『スキーマ』に働きかけることを最終の目標とします。」(大野 裕著『こころが晴れるノート』p1~2)

認知療法の効果を実証し、健康保険の診療報酬の対象となる基盤を作った厚生労働科学研究『精神療法の実施方法と有効性に関する研究』研究班が使用した認知療法マニュアルの流れを簡単に紹介します。それによれば、まず患者さんの性格や気質、生い立ち、発症のきっかけや症状の継続に影響している問題について詳しく尋ねて、患者さんの考え方の特徴(スキーマ)を明らかにします。そして、どのような考え方が問題になっているか、それに対して認知療法はもちろんのこと、薬物療法や環境調整をどのように治療に取り込むかを判断します。これを『症例の概念化』と呼びますが、その情報は患者さんにも説明して、理解を共有します。認知療法では、こうした全人的な患者理解に基づいて面接の方針を立てることと、患者さんと治療者とが強力して治療を進めていく『協同的経験主義(collaborarive empiricism)』と呼ばれる治療関係が重要な意味を持っています。続いて、治療者は、患者さんの問題を一緒に整理しながら、日常の生活の中で楽しいことややりがいのあることを増やしていく『行動活性化』、具体的な問題を解決するスキルを伸ばしていく『問題解決技法』、自分の気持ちや考えを適切な形で相手に伝える『アサーション(主張訓練)』など、様々な行動的技法を用いて考えのバランスをとり、うつや不安などを和らげていく過程を手助けします。それと並行して、患者さんの気持ちが大きく動揺したりつらくなったりしたときに、どのようなことを考え(自動思考)、それが気分や行動にどのように影響しているかを現実にそいながら検討していきます。これが『認知再構成法(コラム法)』と呼ばれる方法で、そうすることで、自動思考の内容と現実との『ズレ』に気づくことができ、柔軟でバランスの良い考え方ができるようになって、気持ちが楽になります。そのほかに認知療法では、最後に、患者さんのこころのクセ(スキーマ)を理解して患者と共有し、必要であればそのスキーマを修正し、治療が終結することになります。」(『はじめての認知療法』p49~51)

ここで「アサーション」の後に「主張訓練」と書いてありますが誤解を招きかねない表記です。この語には「訓練」に相当する意味は含まれません。実際、現場では「アサーション」という言い方で「訓練」の意味も含めて用いられているのではないかと推察しますが、動詞のassert が「主張する、断言する」で、名詞のassertionが「主張、断言」ですので、「アサーション(主張)訓練」と書いた方がよかったと思います。

メンタル関係の用語に、「アサーション」と似た言葉で「アファメーション」(affirmation)という言葉がありますが、これは「断言」とか「肯定」を意味する英語で、肯定的発言による自己暗示を意味するようです。自己暗示は精神療法的に有効とのことです。自己暗示に効果はあるのか?【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

ちなみに、カウンセリングにおけるアセスメントでの相談の実例を挙げてみます。そこには報復感情が示されています。

「困っていることは職場の対人関係でマウントを取られたり無礼なことをされてムカっとした時など、あとになってその時の場面がフラッシュバックというか脳内に自動的に再生されて、メンタルにものすごい損害を被ったような感じになり、自己防衛できなかった自分に対する腹立たしさ、情けなさがこみあげてきて、あの時、ああ言えばよかった、こうすればよかったなどと後悔し、今度、同じ相手に会ったら言い返さないと気がすまないという強い報復感情が生じます。作業中でもそのような思いが脳内をぐるぐる廻って、注意が散漫になり、心ここにあらずでミスの原因にもなります。また、前述の脳内で自動的に再生される受傷場面によってさらに傷つき、ストレスで動悸など身体反応が生じます。それが夜間に起きれば睡眠にも支障を及ぼします。目標としては、前述の脳内における自動再生の受傷場面に対して防止することはできないとしても、その場面によるストレスを軽減するためのレジリエンスを身につけること。そもそも、相手がリスペクトできる人であるなら、少々無礼な振舞いをされてもそんなに腹立たしくはないが、相手が自分も軽んじている人の場合、その人から自分が軽んじられる、ばかにされるということは耐え難い。この点を改善するには、自分が相手を軽んじるということをなくす以外にはない。しかし、すべての人をリスペクトできるわけがない。それこそ理想論にすぎない。」

イエス・キリストの「ケノーシス」を模範として、すべての人をリスペクトできる心を持つことができれば平安に満たされることでしょう。仏教徒が相手に対して合掌する姿を見ると、ますますその感を強くします。しかし実際に、あらゆる他者に敬意を持つなんて煩悩具足の凡夫にはあり得ないこと。誰もが自他の比較において自尊心を持ち承認欲求を持っている以上、それは無理です。むしろ常人なら自己卑下という自虐行為をしてまで生きたいとは思わないと言うでしょう。ということで、「自動思考」だの「スキーマ」だのといった用語を並べていろんな作業をやってものの見方を少々変えたところで苦しい現実状況は大して変わらないし、そういうことは現実逃避的な気休めの自慰的療法にすぎないのではないか…、やはり相手との直接対決が必要になるのではないか…と思うに至ります。それって「アサーション」ということではありません。キレイゴトは無意味です。一部の宗教者や政治的極左の人のいわゆる絶対平和主義が非現実的ないわゆるお花畑に過ぎないことは(日本共産党でさえ「ただちに」とは言っても事実上半永久的に日本においては自衛隊の存在を否定しない、否定できないのであって)所謂「北東アジア」における日本の中国や北朝鮮との関係における国際情勢を見るまでもなく明らかです。前述の「一部の宗教者」の中には「政治的極左の人」とも重なって国家というものを幻想であるかのように思いこんでいる人もいるようであり、キリスト教徒の場合はヘブル書11:13で「地にては旅人また寓れる者」(文語訳)・「地上では旅人であり寄留者」(口語訳)と言われているように、一見すると来世(天)と現世(地)との二元論的思考により所謂、歴史的社会的現実における生活世界の自己限定的側面を観念的に軽視するかのように曲解される傾向は否めません。その点では特に戦後民主主義の社会を生きている現代日本のクリスチャンには信仰と矛盾しない愛国心とか国防意識といったものは生じにくいのかも知れませんが、聖書が示す神には万軍の主・戦争神としての側面もあり(…批判的解釈により、その戦争は自国・自民族の自衛のための戦いであって侵略であると解することはできませんが)、「仮の宿」とは自分自身の身体であり、それは現世を幻とすることではなく、物質的な体を生きる以上に内なる聖霊によって生かされる者としての自覚です。聖霊のはたらきが現実世界で信仰生活も歩む霊的旅人に生じる以上は、幻想的な愛と平和に限定されるものではないということも考慮して然りです。イエスも、「視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。」(マタイ10:16)、「われ地に平和を投ぜんために來れりと思ふな。平和にあらず、反つて劍を投ぜん爲に來れり。」(マタイ10:34)と言っておられるように、現実には「敵」が存在する以上、厳しい現実に追い込む場合もあり得るのです。もちろん、その中で「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)との律法的福音が与えられていることに対神関係ならではの希望があります。但し、福音書に示されているイエスの隣人愛や愛敵の教えも上記の言葉と同じく通常の心理を前提とする倫理などではなく、ましてや現代からみれば古代といわれる時代のユダヤ人の意識であり、「ただ信ぜよ」的な単純な救済第一の実践主義的信仰においても、現代社会にあってカルト宗教化防止の理性的志向を保持する限り、その終末論的状況倫理としての特殊性を看過してはならないのであって、神の子キリストによる発言とはいえ必ずしも永遠不変の真理を語る格言のように受けとめることはできません。

前述の直接対決の意味は報復するということです。報復感情が少しずつでも満たされなければ受傷者のメンタルに平和は戻ってきません。受傷者が現実的意味において救われるためには、苦しみの期間から脱し得たという開放感が必要なのです。聖書においても受傷者の救いには報復が必要であることが示されています。「復讐するは我にあり」、これは旧約の預言者の言葉ではなく使徒パウロの言葉です。よく、旧約聖書を軽視するクリスチャンが啓示の漸進性という教理を用いてキリストが啓示される以前のことだからどうのこうのといった屁理屈をこねることがありますが、そのような詭弁は通用しないのです。そして現実的には、報復はすべて神にお任せというわけにはいかず、自分自身でもやれるだけやらなければなりません。以下は自分が実践したことなので心してお読み下さい。まずは表情が硬くてはダメです。平常心を目標とし、薄笑いを浮かべられるくらいの余裕で臨めるようにメンタルをトレーニングします。そして、前もって言う効果的なセリフをよく考えて用意して、相手に再会した時にそれを発しても不自然ではない話の流れにもってゆけるように導入のし方・言い出しなど構成を考えます。そうやって戦略、戦術を練り、シミュレーション通りにはいかないにしても自己採点70点以上の小さな成功体験を積み重ねて達成感や自信ないしは自己肯定感を高めるのです。「小さな」と言う理由は、一度に有効なセリフを集中砲火的に使ってしまうと相手にとっては攻撃された感じになるので、全面的な争いに発展するおそれがあるからです。感情が先走りしたら失敗します。万が一、手が出てしまうと職場などでは処分されて大損し、本末転倒になってしまいます。自分はかつて包丁を向けられた経験があるので、報復と言ってもあまり相手を興奮させないよう、自分の感情を理性で抑えながら、ボクシングで言えばストレートやアッパーカットを炸裂させるよりもジャブやフックでねちねちと効果的に刺せるようにセリフの言い方も内容も程々のところで抑えなければなりません。あとは自分にとって都合悪いことはスルーするか忘れるかです。

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(ローマ12:19)

この言葉も文脈を踏まえて解釈次第です。個々人の「古き我」が変えられるためには聖霊のはたらきが不可欠です。復讐は自分でやってはいけない、神にまかせなさい…ということは結局、現実的には復讐心・報復感情を持つなということと同じです。それが通常、感知される聖霊のはたらきであろうとは思いますが、私は、そこまで行く前にやってみてもよいと思っています。認知療法とか言って、自動思考やスキーマがどうのこうのと相手不在の所謂コンフォートゾーンの中…自分の内側だけで自慰的にいろいろやっているくらいなら、現実的な直接対決、一度はやってみる意義はあります。男ならやられっぱなしではダメです、自信が持てないからです。いくらかでもやり返さなければなりません。そしてやる以上は成果をあげなければなりません。他人からすれば自己満足に過ぎないと思われるほど小さな成果でよいのです。最低限の自信を維持できればよいのです。とにかく自尊のための自衛の戦いである復讐はやれるだけやって、あとは神にまかせればよいです。それもまた、聖霊のはたらきに従うことでもあるのです。但し、直接的な行動に出ずに解釈によって相手への報復感情が満たされるなら、キリストの平和という観点においてそれに越したことはありません。聖霊のはたらきによる信仰実践という点では、「復讐は我にあり」ですからまるごと我(神)におまかせして、自分はいっさい報復的行為をせずに済むに越したことはありません。ただ、解釈で済む程度の受傷では済まない深刻なケースもあるということを私は言いたいのです。そこはキリスト教が歴史的に認識不足の点だと思います。説教はキレイゴトの集積です。どうしても心身に余裕ある階層の信者たちの意識を代弁し、それが信仰書などに色濃く反映されてきたのでしょう。罪悪深重の凡夫である信者の現実生活とは大きなズレがあります。受傷の痛みは当人にとっては深刻なものであり、ある程度は報復感情が癒される必要もあります。但しそれは必ずしも私の経験のように言い返しによってなされなければならないわけではなく、以下、引用させていただく説教の内容のように、同じく報復感情を満たすにしても私のように直接的行動によってではなく、自分の心の内の、言わば解釈のレベルで済ませることが出来るなら、それに越したことはないと思います。

「万軍の主に届いている」と題されたメッセージです。 

https://www.youtube.com/watch?v=REQ6NySA4BM

(1:01:20 / 1:10:55 ~)
「今週は、神の正義を心にとめて、平和な子で暮らす一週間というのはいかがでしょうか?まあ皆さん、理不尽なことに遭うかも知れません。でも、怒りは神の義を実現しないんだと…、で、私たちの悔しい思いとか傷ついた思いというのはちゃんと神さまに届いてるんだということですね。でも皆さん、おっしゃるかも知れない…、いや、私、神さまに裁きを委ねたんですけど、あの人になんにも起こってません…とかね…、そういうことを思うかも知れない。そういう時はですね、自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないわけです。あるいは、実は自分の方が悪いかも知れないわけです。私たちはですね、ひとを実際以上に悪く思う傾向があります。ま、どちらにしても、神さまは正しく裁いておられるわけです。皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、それはその人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんでしょ。なんにも起こんなかったら、まあ、それほど悪い人でもなかった…どっちにせよ、正しい裁きは常になされるんだと、だから、私たちの怒りは常に神さまにゆだねて、平和な子で暮らす一週間でありたいと思います。」
・・・「自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないわけです。あるいは、実は自分の方が悪いかも知れないわけです。」というところは認知療法的ですね。そして「皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、それはその人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんでしょ。」というところは(そこに重きが置かれているわけではないにせよ)、キレイゴトの高尚な説教とは少し違う凡夫信徒のホンネに呼応するような斬新さが感じられます。私なりに敷衍させて頂くなら、自分をいびっている人間が急にケガをしたり病気になった場合、ざまあ見ろ、いい気味だ…と思うこと自体は普通ですが、そのように思って少しは傷を癒すことができる(としたら、ですが…)こともまた神のお情けとして感謝するということも聖霊のはたらきによるということです。いや、いや、いくら自分をいびる人だからといって、その人の不幸を喜ぶようなことを神が許すはずはないし、そんな不純な気持ちは聖霊のはたらきによるものであるわけがない…といった優等生的あるいは所謂、敬虔なる信者らしき思弁は聞き飽きた…スルーします…ということ、それが私の信仰的立場です。むしろ敵であると感じる相手の不幸を喜ぶことでとどまれるなら、私のように言い返して直接的報復行為に及ぶよりかは、よほど信仰的・霊的な対応だと思います。もちろん、「自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないわけです。あるいは、実は自分の方が悪いかも知れないわけです。」ということで、相手の不幸を願ったり喜ぶことさえせず、ただすべてを神にまかせて切り換えることができるなら、それもまた聖霊のはたらきであるとは思いますが、そうでない場合と優劣比較して評価することもしません。聖霊のはたらきは各人の状況に応じて多様で豊かだからです。

いずれにせよ、唯一絶対である創造主の聖霊によらずして罪の問題が解決することはなく、罪の問題が解決せずして人間精神の苦しみが解消されることはありません。罪の問題の解決はまずもって贖罪の救い主を信じて悔い改めること、それが聖書の教えるところであり、この一点についてはキリスト教諸派は共通の認識です。聖霊のはたらきを感知できるうちは、その人には救いの希望があります。聖霊のはたらきを感知できなくなってしまったら、対神関係の喪失ということになり、それこそが滅びだからです。罪悪深重の煩悩具足の凡夫の現実においては、擬人的表現では聖霊を悲しませるといわれるようなことも多々あるでしょう。しかしそのような中でも聖霊のはたらきを感知できるのは、やはりその人が教会につながっているからだと思います。教会には内なる聖霊のはたらきによって生活している信仰者がいるわけだから、そのような人と交流することによって自分の内なる聖霊のはたらきが活性化されるわけです。いかに恥さらしになろうとも侮辱を受けようとも日曜礼拝を守るということが生活の軸として立っている限り、聖霊はその人を見放しはしないと思います。タダ~し!教会も対人関係に変わりありません。しかも罪人の集まりなので、職場なんかと大差ない、否それよりももっとエグい面もあろうかと思われるほどです。だから教会では他の信徒への気配りは無用です。牧師だけには敬意を表して説教に傾聴するも、他の信徒にまでいちいち気を遣う必要はありません。それをやると職場などと同様のストレスを抱え込むことになり意味が無いのです。礼拝を守ることによって対神関係の恵みは持続されるのです。牧師の説教さえもひどい教会がありますので、そうなると他の教会へ移る必要があります。あと、暗い顔したおじさんがリードボーカルで何曲もワーシップソングをすまして歌い続けるような教会も御免です。自分の方が、巡る巡るよ、教会をめぐる~♫ と歌ってパスします。

精神科医の大野裕先生は、「こころの力を高めるためには、自分のなかに、『もう一歩引いたところから見ている自分』を育てることが大切だ」と書いておられますが(『こころの自然治癒力講談社 p183)、私見ではそれって対人関係だけを前提とする以上、極めて難しいと思います。やはり対神関係を前提としてこそ、「一歩引いて見ている自分」をしっかりと育てることが出来て、打たれ強い自分を生きることができるのだと思うのです。

聖書的精神療法においては、「神」は(イメージとしてはおのずと人格化されて表現されますが…)余りに擬人化されたり実体的な存在として観ることなく、あくまで「はたらき」として解することが重要です。

聖書において「神は愛」である前に「神は霊」です。聖霊が贖罪主の救いを信じさせ、神の愛を人々の心に注ぐはたらきであり、父神が創造主・存在の本源として贖罪主を立て、聖霊を送るはたらきであり、子神が贖罪主として救いを起こすはたらきです。これを私の「三位一体」理解として、「三働一救」(さんどういっきゅう)と言います。贖罪主(子神)なしでも人間精神の救済はあり得そうですが、「ケノーシス」という理想的目標が掲げられるためには御子キリストの実践が必要でした。そういうことで聖書は創造神と聖霊だけではなく贖罪救済主も書いていますので省略はできません。ただし私は聖書において聖霊の送り手は父神だけと解し、所謂「フィリオクェ」(子からも)は否定する正教説に立ちます。

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(付記)

日本公認心理師協会の会長である信田さよ子さんは、もう1つの公認心理師の別団体である日本公認心理師の会は、認知行動療法(CBT)を標榜する人たちの会であると言っておられ、その認知行動療法についてはDSMⅢ(とは、アメリカ精神医学会の診断マニュアルである、Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders=「精神障害の診断と統計マニュアル」の第3版のことであり、1980年には、「PTSD心的外傷後ストレス障害)」という診断名が採用された⦅~和田秀樹著『比べてわかる!フロイトアドラーの心理学』青春出版社p124⦆。)の賜物であり、認知と行動を変えることによって人間を変えてゆく、うつもこれでやってゆく…アメリカやイギリスの国家公認であり、それは測定可能な結果が出るからで、エビデンスがはっきり出るので、認知行動療法は国にとって非常に都合の良い方法で刑務所の性犯罪者処遇プログラムやカナダのDV加害者更生プログラムは認知行動療法で自分もやっているがそれなりにいいが、やはり因果…文脈性、歴史性、物語性は捨てがたいものがあり、CBTだけでは不十分だと思う…といったことを述べておられます。 ちなみに、DSMというのは精神疾患の診断・統計マニュアルであり、そのⅢというのは、要するに精神分析のように原因を問うということをせず、今の症状を薬物治療によってなくすということで精神科医でなされているということでした。原因を問うと、精神科医にとっては面倒で時間がかかり、クリニックなどはやってゆけなくなるとのことです。今の精神科医の面談が10分以下と短いのはそういう理由によるとのことです。自分なりの聴き方、まとめ方で誤解があるかも知れませんので、気になる方は本編でご確認ください。

Air Revolution』(エアレボ)信田さよ子氏出演!『家族、暴力、国家』(2024年3月24日放送前半無料パート) 

https://www.youtube.com/watch?v=YyeVcOxbeN0 (※25:00~26:12)