絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

メンタルヘルスと神観…コヘレトの神…非人格神、「創造的空」の自己限定…自己対象化、聖定信仰の捉え直し、認知行動療法的宗教論

認知療法では、対人関係などでトラウマになるようないやな体験をした時に自分の中に生じる「自動思考」を省察し、これを柔軟な考え方に変えることによってストレスの衝撃を軽減しようとします。「自動思考」に影響を与えるいるものが「スキーマ」であり(schemaで独語読みはシェーマで元々、図や図式を意味する)、そこから生じるものが「認知バイアス」(物事の解釈)です。加藤諦三氏がよく事実と解釈とを区別してお話される後者を指します。「スキーマ」が自分の思考傾向を形成する図式ひいては思考の元になる価値観だとすれば、その価値観から偏見(バイアス)が生じてきます。そして何かあると瞬時に脳内に生じる思いやイメージが「自動思考」であり、それが様々な感情を生み行動へとつながるのです。性善説性悪説も共に本人の価値観であり「スキーマ」です。いずれも一長一短があり優劣左差はありません。要はそれが社会に適応するか否かです。自動思考を修正しても、また新たな自動思考が生まれてしまっては意味がありません。抜本的解決のためには「スキーマ」を変えるべき対象とするしかないのです。すなわち日常生活に支障をきたす社会非適応型スキーマから社会適応型スキーマへと変えてゆく…、それはいかにして可能でしょうか?人それぞれだとは思いますが、自分の場合は宗教なしには考えられません。「神」という絶対的存在との関係を体験してこそ、既存の価値観を相対化することによって自分の心を変えることが可能になります。

私見では、実際は「思考」の流れだけが問題なのではありません。自動的に脳に生じるのは、思考や感情を含むその時の状況・場面(シーン)全体です。自分にとって大きなストレスになるような人間関係の映像的記憶(※「映像記憶」と混同せぬこと‼ 映像記憶は特殊な能力であり、その持ち主は私の場合、高村薫作「レディー・ジョーカー」の主人公である警視庁刑事・合田雄一郎氏以外は知りません!)は、動画撮影に喩えれば1コマずつのショットのような記憶よりも、それが一定の意味で連結されたシーンとして再生する場合が多いと思われます(シークエンスまではいかない)。相手のセリフはもちろん表情や動作などまで一体となって自動的に再現される…、いわゆるフラッシュバックするのです。それによる自身のストレス反応は睡眠障害だけではなく動悸など明らかに心臓にも悪いということは、不整脈心室性期外収縮)を持つ自分はなおさら実感しています。身心全体に負担となるのです。その軽減は心理療法のような小手先と言うか気休めのような方法では期待できません。あくまで科学的な力に期待するのであれば、薬物を使ってでも記憶自体を整理して、身体に悪影響を及ぼすような記憶は排除するような画期的な方法の発明を求めてゆかねばなりません。

いずれにせよ、自分のメンタルヘルスの改善は聖霊のはたらきという他力によらずしては不可能であると自覚しています。臨床心理学が無神論を前提とする限り、科学と言ってみたところで現実化することは困難でしょう。

自分の場合、子供の頃から実学科目には関心が薄く成績も悪かったですが、非実学的な科目には関心が強く、その種の本は好んで読みました。それって結局、実学的には低能であり社会的に不適応である自分が将来メンタルを壊さないための予防を意図せずやっていたようにも思えます。対神関係とその省察・信仰なしに自分の人生はあり得なかったのです。生まれつき低能な人間にとって、よりよく生きてゆくためには将来的にメンタルをより健やかに保つための術が必要です。その点で宗教とか哲学とか文学は人生において大いに意義があると思います。実学的・社会的には低能でもそちらの方面では有能であるとも言えます。そしてそのノウハウが、極めて個人的内面的なところから、同じような問題に直面している人々にも何らかの役に立つ可能性を信じて発信するなら、そこに社会性が生れてきます。人間には共通することがある以上、純然たる個人主義は無いと思います。要は自分の内側だけでとどめず、つまり秘事とせずに外へ表現し発信してゆくことです。誰かがその一端をキャッチすることによって何らかの意味を得ることができるかも知れません。それはいわゆる社会貢献活動のように明確に社会の役に立つ即効性こそありませんが、だからといって単なる私事として、非社会的・観念的な遊戯とか自己満足・自慰行為のようなものとしてその意義を否定されたり貶められるべきことではないと思います。

信仰はメンタルヘルスにおいて自己治療(self healing)になる(一般的な「信仰治療」…特にオカルティックな療法などとは無関係。信仰治療 ― どのような効き目がありますか — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org) )。それが最も現実的な神信仰の実効性である。心理療法でも認知行動療法(CBT)などある程度は自分でやれるようだし、とにかく脳内のセロトニン分泌を増やすことが肝要。日光を浴びての朝散歩励行。

セロトニンの分泌には日光を浴びることが欠かせません。運動に関しては一定のリズムで行う運動がセロトニンの分泌を高めてくれます。リラックスして朝、太陽の光に当たりながら毎日15分程度のウオーキングを楽しむといった方法が良いでしょう。」一般財団法人 脳神経疾患研究所 総合南東北病院【地域がん診療連携拠点病院・地域医療支援病院】 (minamitohoku.or.jp)

【セルフ認知行動療法のや方・ポイント】自分の考えを見つめ直し、心を軽くする | NHK健康チャンネル

認知行動療法を自分でやってみる方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)認知行動療法を日本で一番わかりやすく説明してもらった【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

「深い瞑想の境地では脳内の神経物質であるセロトニンドーパミンが分泌される」そうですが、 お釈迦様の脳 | 会員によるエッセイ&コラム | 仏教クラブ (bukkyoclub.com).      「深い瞑想の境地」とか、ましてや神秘体験といった大げさなことまで言わなくても、普通に信仰生活をしている中で神を賛美したくなる気持ちとかの通常的信仰体験においても、要は脳内物質の働き如何であると思われます。自助努力的には通常的信仰境地につながる脳内物質の分泌を活性化させることが第一。療法だの技法だのと言っても本人の心理なのだから専門家との対面による作業にも限界があって、セルフでしかやれない面もあるでしょう。

ところで、キリスト教の本質は倫理(対人関係)ではなく救い(対神関係)であり、信仰はこの両関係(…滝沢氏の表現を借りれば「不可分・不可同・不可逆」)における生活である。しかし、ヤコブ書のように信と行との不可逆性を考慮せず意地悪な言い方をするような者は使徒の名に値せず、その書が「藁の書簡」(~ルター)と云われていることもわかる気がする。キリスト教に倫理基準を求めるクリスチャンは少なくない。聖書の言葉…特にイエスの言葉が情況から捨象されて永遠不変の真理を語る格言の如く扱われる。倫理的平和は神信仰の結果であって、先ずは自分が対人関係において受けた傷が対神関係において癒されてこそ対人関係に戻って主の平和を実行し得るようになるのだ。倫理先行のキリスト教においては、「神は愛なり」の「愛」の方に重きが置かれて「神は」の方が副次的になる傾向は否めない。現代神学が神の主権よりも人権に偏向していることもその現れである。社会倫理…特に人権関係を重視した上での宗教というものは異常なほど個人主義的思考を嫌うので、宗教体験などの個人主義的要素が稀薄になって、クリスチャンの中には消化不良というか欲求不満的な人々も生じてこよう。つまり倫理先行のキリスト教は川島隆一牧師が指摘なさる社会福音の「同情的イエス」中心になったり、「民主的な神」中心になってしまって、要するに人間社会における幸福が宗教の究極目的となり第一義となるので、神にせよキリストにせよ、そのための媒体として機能し得る範囲で尊重され、賛美・礼拝される…という本末転倒の状態になる。現代は人権尊重が度を過ぎてイデオロギーとなって先鋭化し、それがキリスト教神学にも多大な影響を及ぼしている。主権在民であって神の主権は人間の主権の絶対化のもとで相対化され、「有限の神」だの「神の死」だの十字架刑で「死にうる神」といったことが云われています。

「—— 現今、多くの人々がいわゆる『民主的な神』の存在を信じたいという。この神概念によると神は御自身の栄光のためではなく、その被造物の大多数の便宜と、できるだけ多くのものの最大の便宜のために、働き存在となってしまう。(中略)聖書によれば、被造物(人間を含む)の幸福は主要なことがらではなく、神の栄光をあらわすことの副産物にすぎないのである。」(ヨハネス・G・ヴォス 著、玉木鎮 編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)p81)

このような相対の絶対化は、神やキリストを偶像化して十戒の第一、第二戒に反することにもなる。「十字架のキリストを拒否する者たちは、現代の教会にも見られます。社会福音派です。(中略)彼らの神は、人間の理想的属性を具現化した愛と憐れみという存在です。(中略)贖罪信仰は消え去さり、『同情的イエスカルバリーのキリストに取って代わってしまった』のです。」 kawasima520.blog.fc2.com/blog-entry-233

救済は個人の事柄を越えて共同体ないしは世界・人類の普遍的な事柄であるというのが量氏など知識人によくみられる救済観ですが、それは個々人の苦悩に対する省察や共感が甘いのです。特に現代社会では、心の闇…メンタルな問題によっていかに個々の深刻な苦悩が社会的な問題に発展しているか…。個の救いに徹してこそ類としての救いが見えてくるのであって、いきなり新天新地到来という普遍的救済が第一とされて、そのためなら個人としての疑問などは抑圧して然り…といった考えは現実的でもありません。ところで、自分にとってキリスト教という宗教はあくまでも聖書的宗教が説く救済の媒体であり、教会組織は個々人が聖霊のはたらきによって対神関係を得て救われるための媒体にすぎないのであり、私自身はコヘレトの宗教を参考にしたいと思っています。関根清三氏によれば「実際コーヘレスは終始、他者と出会っていない」と言われ、四章1-4節に関しては「結局は虐げられた他者のために労さずただ拱手傍観している、そういう知者の姿が図らずも露呈されて」いると言われています。二章18-19節については「後世に対しては、自分の子も含めて関心を示しません。親や隣人は視野にすら入ってきません。女性も概して軽蔑の対象でしかありません。その他たとい他者に関心を抱く場合もコーヘレスは結局、己の利益になるか否かというエゴイズムの視点でしか見ることができなかったように思われるのです。例えば『一人より二人の方がよい』(『コーヘレス書』四章9節)と言われますが、その理由は『二人なら、一方が倒れても他方が助け起こしてくれる、二人で一緒に寝れば暖かく』て、得だ(『コーヘレス書』四章10-11節)というわけです。」とのことです。但し、岩波書店版の勝村弘也氏の解説では、「友人はいた方がよいのに決まっている(四7以下)。」と書かれています。いずれにせよ、コヘレトは関根氏が言うほど他者との関係を「己の利益になるか否かというエゴイズムの視点」だけで見ていたとは自分には思えません。

神観についても「コーヘレスが応報の神を否定した先に発見した神は、他者を排除した次元で、己一個のエゴイスティックな快楽において辛うじて感じ取られるような神でしかなかった、と言わざるを得ない(中略)コーヘレスは終始エゴイズムを抜け出せず、他者については、これを排除するか、己の利益の問題に還元するか以外、遇する術を知らない」などと、散々な言われようで(以上、『倫理の探索』中公新書 p24~27)、関根氏自身はそのようなコーヘレス(=コヘレト、コーヘレト)の神観は、応報の神の否定という点では時代的な因果応報の考え方の破れの認識として承認しつつも、それだけでは限界があり倫理にはダメであって、「他者関係をも視野に収めた、新しい神」を旧約聖書(の特に専門とされているイザヤ書)に求めるというわけです。しかし関根氏のこのようなコヘレト批判には、それこそ知識人で学者としての社会的地位を得ている人の健常者中心的な考え方が滲み出ていて、家族に恵まれない人…特に社会的に孤立した境遇にある少数者の心理などがどこまで考慮されているのか疑問です。実際、関根氏は放送大学の講師をされていた時、質問をしたことがありますが、成績が一定水準以上だから答えてやろうといった態度だったし、その後に一読者として質問した時は研究の邪魔になるからもう手紙など書いてよこすなといった趣旨の返事をしてきました。私の経験では多くの神学や聖書関係の学者はまともな返答をしてきています。関根氏だけが門前払いをしたわけです。そういうところに彼の人間性が滲み出ており、とてもとてもコヘレトを倫理的にどうこう言える人物とは言えません。そして彼の思想内容も狭すぎるのであり、今の日本社会ではメンタルヘルスの異常者が犯罪や自殺の危険をも抱えながら苦悩しているのであり、そういう人々が精神医学や臨床心理学なんかでは救えずに宗教に活路を求めているような現実もあるわけなので、現場の実情を知っている者としては個の救いに集中するような、コヘレトの神信仰、神観がむしろ参考になるのではないかと思います。無理して他人との共同性に宗教的救済を限定する必要はないと思います。他人には共感されなくても本人が救いを実感することができて、メンタルヘルスが好転してゆくのであれば、特に他人に迷惑をかけない限り、どのような神観や信仰を持とうと自由ではないかなあと思います。神観が人格主義的だから個人的・閉鎖的信仰では幻想だから現実的には他人との共同性が必要だ…といった話になるのであって、対神関係は人格的であることを全否定することはできませんが、神観は擬人化につながるような人格神観は極力、排除してゆくことは可能です。それは「信」から「覚」へ意識を変えてゆくことによって可能になってきます。コヘレトの神は、最低限度の人格性はあるものの、いわゆる人格神といえるほどではないのです。けっして擬人化にはつながらない程度の対神関係なのです。それなら個のレベルでも幻想とはならない。禅の「空」観に近いからです。集団は媒介にすぎません。教会のように指導的立場の人が教えを垂れるのではなく、そこに集まった個々人が自覚によって真実にふれるのです。人は関係存在だから宗教とて孤独では成り立たないというのであれば、他者との共同性は最大公約数的一致によらなければならず、神観とか信のあり方とかいうことは多様化しているので無理に合わせることは出来ない。

イリアム・ジェームズが、「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である…私たちの解するような意味の宗教から、いろいろな神学や哲学や教会組織が第二次的に育ってくるであろうことは、明らかである」とか、「宗教的生活の旋回している枢軸は……個人が自分の私的で個人的な運命についての関心を持つこと」だと言ったそうで、また、「向こう側」の神的な存在を特定の何か、例えば聖書の神ヤハウェだと信じるようなことを「過剰信念(over-belief)」と呼んだそうで、その「過剰」という意味は、そういった個々の宗教に固有の教義やそれに基づく具体的な表現は、誰もが共有できる範囲を越えているということだそうですが、ジェームズはこれを退けるのではなく、過剰信念こそが「ある人間についてもっとも興味深く価値あるもの」だと言ったそうです。また、ジェームズは、「人は心の持ち方を変えることによって人生を変えることができるということ、これは私の世代の最大の発見である。」(The greatest discovery of  my generation is that a human being can alter his life by altering his attitudes.)といったことを述べたそうですが、これって認知療法では? 

ウィリアム・ジェイムズの宗教思想 ―科学時代の救済論として

結局、絶対なるものとの関係において、この世の絶対化される諸価値(偶像)を相対化する…という方法はセルフ認知療法の一種だと言えるだろう。それが宗教になるのは、その「絶対なるもの」が真に「絶対」であると信じられなければ効果はなく、そのためにはそれ相応の権威が必要だからだ。それが「神」ということになり宗教となる。

ジェイムズは当時流行していた『マインド・キュア』、すなわち精神の持ち方によっ. て病気を克服するという一種の信仰治療運動を、一度生まれの宗教として ...」

宗教的実存を重視する人は宗教を個と共同体とに分立するような理解はしない。個人主義的傾向が強い宗教は幻想的だとか、共同体主義だから現実的だとか、そういった偏見は宗教の本質を見誤ることになる。個人における対神関係が宗教…就中、一神教の信仰的核心であることは実存的事実である。問題はその場合の「神」が単なる人格神ではなく、人格的関係性は保持されながらも「神」観や「神」イメージは擬人化が回避されることを条件として(…人格神観は擬人化を免れ得ないといった主旨の並木浩一氏の指摘を考慮しつつも…)私は宗教的個人主義の立場である。個の求道を徹底することによって種・類の救いへと通じてゆけるからであり、それが宗教的実存の弁証法だと思うからである。そしてそれは、「不可同・不可逆」の面が曖昧な神秘主義的信仰…すくなくとも自覚の表現としては「不可分」に偏りすぎて「神人合一」とか「人間神化」といった言葉も出てくるような立場とは真っ向から異なり、対局的である。社会倫理を強調する者は共同体主義的宗教を志向する傾向があるが、自分にとっては、宗教は共同体主義的であるよりも個人主義的であるほうが自然な感じがする。なぜなら「共同」とは対人関係の事柄であるが、日常生活においては、その対人関係にこそストレスなどの救われるべき問題が生じるからだ。それは聖書的には自分個人の「罪」から救われることにつながってゆくのだが、神の前に「単独者」として立たないことには悔改めはできない。キリスト教的に言えば最後の審判での裁きは個別なのだから救済も個人単位であって然り。エゴイズムに陥らなければ、宗教者は個人主義者でけっこう。 

信念をめぐる倫理とW.ジェイムズの個人主義

 

広く世の為人の為にならない宗教…普遍性が弱い宗教はカルト・邪教であるかの如くみなすような考えは、宗教というものの本質を知らないと言える。聖書の教えの中心に「イエス・キリスト」を置くのがキリスト教であるにしても、「神の国・神の支配」が「神」よりも重要であるはずはない。「神」あっての「神の国・神の支配」なのだから…。しかし「神の霊=聖霊」はそれ自体が「神」なので、「神」について言わずともいきなり主語になり得る。救いの核心が「永遠のいのち」であるとしても、それはヨハネ福音書においてはイエスから見て「唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになること」(17:3)である。この「永遠のいのち」こそ神の救いの目的である(3:16)。従って聖書が教える救いは共同体単位であって個人単位ではない…といった主張には誤解がある。宗教のベクトルは「個」から「種・類」へであって、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といった言葉は美しいが、いきなりそのような考えが絶対化されるとしたら、それは理想主義であり、ファンタジーであり、いわゆるお花畑である。現実世界では、そんなことを思う人は少数派だからである。そもそも宗教は幸福になるための道ではない。

神の国」は「神」あってのことで、「神」についての論考なしに、いきなり「神の国」すなわち「神の支配・神のはたらき」を論じることはおかしなことです。ただし、その「神」を過剰に人格的に…つまり擬人化して観る、イメージするというのもおかしなことです。関係は人格的でなければ非聖書的ですが、「神」自体は人間ではないので神話的なイメージは無用。むしろ「空」といった非実体的・非人的なイメージが必要。

「創造的空」が意味/無意味の対立を超えているように、倫理に規制された宗教は人権活動に益しないような教えを頭から否定し去る。自分にとって宗教は自分自身が生きてゆくうえで、特に対人関係のうえで活力につながるものであって、その結果、社会的広がりや普遍性を持ち得る可能性があるということであって、最初っから社会に役立つ思想でなければ意味が無いとかいったことにはならない。公益性などを宗教の評価基準にしている限り、宗教は衰退の一途をたどることになるだろう。

矢内原忠雄氏は、キリスト教を受容して「正しき神観」を獲得することによってのみ、日本を復興できると考えていたそうです。彼も宗教は公益性があって然りと考えていたのでしょう。ただ、彼の思想的独自性は、キリスト教について共同体性と直結する「神の国」論には走らず、あくまで「神」論に入っているということです。その理由として一つには天皇問題があったことは確かですが、社会主義的傾向の強いインテリのクリスチャンは昔から「神」(それ自体)よりもユートピア的「神の国」の方に関心を持つ傾向がある中で、この点はとても重要だと思います。

「…神と人の区別がなされていない日本人の神観では、人を神として崇める危険性が存在するからである。実際に、天皇が現人神として崇められていた当時においては、その危険性が表れていたのは明らかであった。矢内原は、この危険性を克服するには、絶対者かつ人格者である神、つまりキリスト教の神を受け容れなければならないと主張する。日本人の神観の危険性を克服するには、キリスト教を冷遇していた、これまでの日本の態度を改め、『正しき信仰正しき神観をもつべき』であるというのである。」(菊川美代子さんの論文「天皇観と戦争批判の相関関係――矢内原忠雄を中心にして――」より)。そして矢内原氏は、「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質」であると述べています。

エスの神観については、矢内原氏は次のように述べています。
<「父なる神」、之(これ)が人格神としての神の性格である。而(しか)して神を父と見るこの信仰が、イエスに対し神の本質についての深き洞察と、神との親しき霊交と、論戦を一貫しての自由さ、新鮮さ、智慧(ちえ)と勇気とを賦与したる根本である。イエスの敵は神との活ける交りを欠いたが故に、彼等の神観は形式的であり、概念的であり、化石したる公式主義的把握となった。之に反しイエスは神を父と信じたが故に、自由無礙なる新鮮なる生命力、行動力が、彼の神観より泉み出たのである。>(『全集』第6巻 p220~221)

国木田独歩氏は、「神を忘るゝ時程薄弱なるわれは非ず。」(~『欺かざるの記』明治26年9月8日)と述べていますが、私の場合は「神の実体が不確かな時程薄弱なるわれは非ず。」です。自分は「神」を観想したり思弁的に論じる時が最高度の癒しになるので、メンタルヘルスとしてはこれをセルフ治療…信仰治療と呼んでいます。しかしその場合の「神」は聖書の「神」であると同時に哲学的、形而上学的な「神」、スピリチュアリズムの「神」でもあります。すなわち単なる「人格神」ではなく「理神論」の「神」、「汎神論」の「神」、「汎在神論」の「神」…といった多様な要素を有する「神(観)」の創造性ということです。自分の場合の「神(観)」も、歴史性や人格性は無いわけではないし無いというのはダメですが、最小限度にしないと旧約聖書に描かれているエホバのように擬人化されすぎてよくありません。というのは、メンタル問題の核心は対人関係におけるストレス苦であり、人格神観の誤解である擬人神観は、対神関係が対人関係のようになってしまうことを意味するからです。人間との関係から解放されるための砦として「神(観)」があるのに、それまでも人間化してしまったら逃げ場がありません。自ら精神的な逃げ場を失うようなことをしてはいけない…自殺行為になります。だから擬人神観は厳に拒否しなければならないのです。並木浩一氏によると、「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ないとのこと(~私信)。(以下、引用。太字は私記。)

神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに「あなたは私たちの神です」と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。>(『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』〔日本基督教団出版局〕p208)

今年に入って私はクルマ関係の理不尽な被害の出来事により「神」の人格性…というより、自分の中で擬人化してイメージしていた「神」を希釈していって、最低限「信仰」の対象たり得るだけの人格性を維持した「神」観に修正してきました。そのままの擬人的神観ではいわゆる神義論的問いから自由ではあり得ないからです。「信仰」には「愛する」ということも含まれます。「神を愛する」という場合の「愛」は対人関係におけるそれとは質的に異なる要素があります。「愛」と訳すから福音派信者などに甘ちゃん信仰という誤解を与えるのです。「神への愛」の「愛」は「信頼」であり「尊敬」です。甘え甘やかすような愛情ではありません。そこに「肉の父」と「霊の父」との質的差異があります。「神を愛せ」と言われて愛そうとして現れてくる「神」は幻想であり偶像です。真実の生ける神は、そもそも真実だの生きているだのと人間が規定せず求めずともおのずから現れてくる「空」です。意味の有無をも超えて自他を包むように拡がってくる「創造的空」なのです。

そんな自分が聖書の記事の中で最も重視するものはパウロのコリント人への手紙第一15:28であり、自分が大雑把に知る範囲では、その神観に最も近いのがスピノザの「汎神論」(パンセイスム)における唯一にして無限なる実体としての「神」です。但し、スピノザの思想が「汎神論」にとどまって「汎在神論」まで至っていないのなら、「神即自然」は「神即人」とも解されかねないおそれを感じます。自分は、神道的要素は排除したいし、少しでも本質的に相対的な被造物(…特に人間)と接近し混同するおそれがあるような「神」には興味がなく、「神即自然」が真理だとしてもそれは聖書ではあくまでも終末において実現するとされており、終末では現世の対人関係などなくなっているので、単純な人間神化説に堕する危険性は無いが、現世では何の歯止めもないから、汎神論的な言説には十分、警戒しなければならないし、出来得る範囲で改善し修正しなければなりません。なお、人間神格化に関する八木誠一氏の見解が、佐藤研著『禅キリスト教の誕生』(岩波書店)の論評の中で述べられているので、参考としてここに引用させてもらいます。(以下、太字は私記。なお、前掲論文ではイエスの「復活」について、佐藤研氏の「空虚な墓」論とは異なる八木氏の見方が論じられている。)

キリスト教がローマの国教となってキリスト者が法的に定義されたとき.キリスト者とは信条を受け入れて教会の行事に参加する人間ということになった。つまり「救済の経験」は信徒の必要条件ではなくなった。それ以来「正しい教え」の受容を重視する伝統的基督教には特に西方において「作用的ー」を見失う傾向が生じて現代に至っている。現在回復が求められているのはこの作用的「一」の経験と自覚だ。この「一」を明確にするためには.滝沢克己が提唱したキリスト論的区別(神われらとともにいますという「原事実」と「それに目覚める自我」の区別と関係をイエスの人格にも適用する)が重要である。私はこの区別を「自己」(わがうちに生きるキリスト)と,その活性化を自覚する「自我」との区別と関係として認識している(ガラテア 2, 19 -20にはこの区別と関係がある)。ちなみにこの区別は鈴木大拙ー一秋月竜眠における「超個と個」の区別と関係に相当する。この場合「自己」とは神と人の作用的ーのことである。「まことに神, まことに人」とは元来「自己」(信徒のなかで生きるキリスト,作用的一)についていわれることである。これはイエスの全人格が作用的ーである限りでも言えるのだが,イエス個人には自己(「人の子」)と自我の区別と関係がある。これは「キリスト両意説」と一致する。エス個「人」がそのまま「神」だということではない。自己に目覚めた自我は自己を映すのだから,自己と自我の区別と関係は厳密に認識されなくてはならない。そうでないと折角生まれつつある正当な認識が人間神格化として流産させられる危険がある。古来基督教界では,誰かが神と人との一をいうと,必ずそれは人間神格化だいって葬り去ろうする人が現れる。だから「一」の意味を厳密にしなければならない。「人間神格化」とは伝統派が新しい認識を異端として排撃するための絶好のロ実なのである。マイスター・エックハルトも同じ憂き目にあった。これと関連して「自己の死滅」という表現にも問題がある。作用的ーに目覚めた「自我」は死減するのではなくて正常化されるのである。「大活」とはこのことだ。西欧では仏教は自我の死滅を説くニヒリズムとして恐れられ,嫌悪されてきた (R. p. ドロワ.島田裕巳訳「虚無の信仰J. トランスピュー. 2002年)。現在でも仏教は自我の解消を説く虚無主義だという誤解がある。しかし実は滅ぴるのは我執であって自我ではない。自我が失せたら人間は人間でなくなってしまう。カール・バルトは人と神の一を説く神秘主義および自我の解消を説く仏教を排撃した。その影響はプロテスタントのなかになお強く残っている。>ja (jst.go.jp)

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「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波版〔青野太潮〕訳)

パウロによって「神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)」と言われたその主語の「神」は、本来は「すべて」(パン、パース)であったが啓示において創造から終末までの歴史(救済史)を通して自己限定(…自己対象化・自己相対化・自己有限化)して、イスラエルの神エホバおよびイエスの父なる神として人間に対向する人格的存在となられ、しかもそれは新約聖書が示すとおり父・子・霊の三一神として生成において在るという仕方であって、御父は御子に主権を委譲して後退しておられたが、終末に至りその主権を御子は御父に返上し服従されるということ。キリスト教の三位一体の神というのは究極の「神」の実相ではなく、あくまでも「啓示された神」であって、元来の「(啓示する)神」が自己限定した様相なのです。だから伝統的なキリスト教の神論では、コリント第一15:28あたりは(12:6「すべてのもののうちにあってすべてのことを働かれる神」も参照)パウロの「復活」論の文脈での事柄として…せいぜい終末論の中でふれられる程度であって、神論として正面から受けとめることは避ける傾向にあります。ウェストミンスター信仰基準では無視されています。特に「すべてにおいてすべてとなる」ということをまともに受けとめると、従来型の有神論では根本から問い直されることになるからでしょう。ある改革派の牧師は以下のような返答をされました。

<「神がすべてにおいてすべてとなられるため」とは「神の王的な御支配が完全に実現するため」と言い換えることができると思います。私たちは、神がイエス・キリストを復活させて、天に上げられ、御自分の右の座に着かせられたと信じています(使徒信条)。古代イスラエルにおいて、王の右の座は、王と共に支配する者(皇太子や大臣)が座(すわ)る座(ざ)でした。ですから、私たちは、神とイエス・キリストが、この世界を共同で統治しておられることを信じているわけです。しかし、第一コリント書のこの箇所において、パウロはそれをさらに勧めて、終わりの日には、キリストが父なる神に王国(王権)を引き渡されて、キリスト御自身も父なる神に服従されて、神の王的な御支配が完全に実現すると語っているのです。パウロがこのように記したのは、神の右に座しておられるキリストが、まことの神でありつつまことの人である二性一人格の御方であるかただと思います。キリストの人性を考慮にいれて、パウロはこのように記したのだと思います。一コリント15:28節と『ウェストミンスター信仰基準』との関係ですが、聖句索引を調べましたが、ありませんでした。しかし、文脈から言えば、終わりの日、キリストの再臨に関係していることは明かであると思います。>・・・ここではカルケドン的キリスト論まで持ち出して三位一体神信仰との調整がなされていますが、御父と御子の従属関係を御子の人性によって説明しようとすることはさすがに無理過ぎる感じです。

八木誠一氏は、『創造的空への道  統合・信・瞑想』(ぷねうま舎)の中で、「信とは具体的にどういうことか。それは『君たちのなかではたらいて、(君たちの)はたらきと意欲とを成り立たせる神』(『ピリピ書』二章13節)への信である。」と述べ(p2)、また、「統合体形成作用はイエスのいう『神の支配』に、『創造的空』はイエスのいう『神』にそれぞれ対応する。これはイエスが、世界を超えて一切を無条件に受容する『神』(『マタイ福音書』五章45節)と呼び、パウロが『すべてのなかにあって、すべてを成就する神』と称した(『Ⅰコリント書』一二章6節)現実である。この創造作用に触れたとき、無意味感・虚無感 —— キリスト者でも陥りがちな —— が消滅する。」と述べておられます(p3~4)。さらに「神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。」と述べておられるが(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p148)、御父が御子に主権をゆだねて被造世界を支配せしめたのだから、終末に至るまでの間は御子(キリスト)中心的であるのは当然であり、全体のスケールで見れば青野太潮氏が「パウロの神中心主義」という論文ないしは『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)の第一部 5章 「序にかえて」(p5) で指摘されているとおり、パウロの思想は「神」中心的なのです。ちなみに御子を創造主と誤解する多くのクリスチャンに対しては、八木氏の次の指摘が参考になります(太字は私記)。

新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』)

ここでは明示されていませんが、御子が創造に参与したとする記事で必ず用いられている前置詞「ディア」は媒介を意味します。御子は創造の主体というより媒体なのです。以下も同様。

「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。(中略)キリストが『統合への規定』であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七)こうして神は、『すべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147~148

御子と御父との違いが、「究極的」と「究極」との区別によって示されています。だから自分は、聖書が三一神の生成における存在とはたらきを物語っていると信じるにおいて、その三一神は基本信条(…明示しているのはアタナシウス信条)における「同等」の三一関係ではなく、御父と御子との「従属」的関係を前提とするものとして信じているわけです(…これは従属的三一神信仰であり、正統的キリスト教からすれば「異端」だと言われるかも知れませんが、私は聖書の使信に反しないと思います。但しキリスト教会組織の教理とは、聖書学的知見も踏まえないと相反することになるかも知れません。すなわちユダヤ教以来の「唯一」神信仰と矛盾する「三」神論的な信仰の立場になるからですが、そもそもシェマーの「唯一」(エハード)は存在論的意味の…すなわち所謂「唯一絶対」という場合の「唯一」ではなく、同じ「ヤハウェ」でもイスラエルの地方聖所ごとに多様であった信仰を中央聖所に一局集中させたことが背景としてあるので矛盾には当たらないし、「三位一体」の「一体」というのは「神」としての本質が同一ということなので、父も子も聖霊の「神」である…という意味では三神論と矛盾しないです)。なお、八木氏は神が「絶対」であるということは「普遍」的である旨のことを述べておられますが、そこでは「無限」であることには言及されていません。また、八木誠一氏と交流があった野呂芳男氏は「神」を「究極的なもの」(the Ultimate)と「絶対的なもの」(the Absolute)とに区別して論じました。前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うなら、その「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ないので、野呂氏は「究極的存在者」としての「神」を求めるのだというのです。従って野呂氏の実存論的神学における「神」は「無限」ではなく、すなわち「遍在」せず、野呂氏自身、北森神学の「神」が「有限なる神」に近づいたと言って自身の相対的・有限的神観を露呈しています。「神」の絶対性を犠牲にしてまで人格性を担保しようとする野呂氏の動機にはあまり共感できません。無論、「神」の人格性が全く無くなったなら、それはもはや聖書とは関係ない神観ということになりますが、擬人的に語られることとは峻別されて然りです。神の人格性は本来、神の主権について言われて然りでしょう。そこから「裁く」といった義の面も「赦す」といった愛の面も生じるのです。多くの人は愛の面だけを見ようとします。それは新約聖書が「神は愛なり」だけを言っているかのように誤解しているからです。そこを強調してきた教会の説教にも原因があります。

ところで、北森嘉蔵氏は次のように述べています。太字は私記。)

「いわゆる近代主義(Modernismus)もしくは自由主義神学liberal theology)(中略)その特質は直接的な神関係の主張にあります。これは『異なる福音』でなくてなんでしょうか。パウロがガラテヤ人への手紙において戦ったのは、キリストの死をむなしくする立場に対してでありました。しかるに近代主義神学では、キリストの死による仲保媒介なくしても神人関係が成り立つ、というのですから、『異なる福音』と言わざるをえません。さてこのような直接性の立場が次第に徹底すると、神が人間の中に内在するという『内在主義』となり、これが主観主義、心理主義等となり、また神が人間歴史の中に内在化するという形では、歴史主義ともなって行くわけです。一言にして言えば『人間の内なる神』の立場であります。さて、バルトは近代神学を訂正すべくあらわれたと言いますが、そのさい彼の訂正が第一義的に向けられた点は、このような『内在主義』に対してでありました。従ってバルトは『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いたのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』〔新教出版社〕p24)※関連記事として、小川圭治氏の『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)の、「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)参照。

北森嘉蔵著『対話の神学』(教文館)によると、鈴木大拙氏の以下の指摘があるとのこと。(太字は私記。)

<「西洋的な」キリスト教が神と人間とを「対立」させることは、「相対立」するかぎり神を「相対的」なものにしてしまい、真の宗教的「絶対性」を逸すると同時に、二元対立の「分別知」へ傾かしめ、ひいては政治的な「分割統治」の植民地主義をさえ生むに至るとまで批判される。(鈴木大拙東洋文化の根底にあるもの』、朝日新聞、昭和三十三年十二月二十二日号)。>

北森氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と言っておられますが(『神学入門』新教新書 p74)、「人間に対立する神」が理論的には「絶対者」ではあり得ないのだから、矛盾したことを言っておられるわけです。バルトが『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いた…ということ自体は、私は共感します。自分は「神」を「内」よりも「外」へ、つまり「内在」より「超越」へ、自分よりも小なるイメージではなく大いなるイメージで観想するからです。しかし、バルト神学はいわゆるキリスト論的集中であり、イエス・キリストにおける「神の人間化」といったことを説いているので、とてもとても「神」を超絶的に語っているとは思えません。(以下、前掲書より引用。)

< 三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>

西田幾多郎はバルトが語る「神」について「君主的神」といった観方もしたようですが、とにかくそのような「(人格)神」は、内外いずれにせよ「絶対」とは言えません。スピノザ神論のように「絶対」は内と外といった境界なき「無限」へと徹底され、全一現実となるからです。そしてそれが徹底されて「(創造的)空」となるのです。それは人格性を排除するのではなく、非人格性と共に包括するのです。あらゆる二項対立をまるごと包み込み生成させる動的「空」であり、意味の有無さえ包括するからこそ「創造的」な「空」なのです。「絶対の無限の開け」と表現されていることと同じリアリティーでしょう。

日本の近代以降の思想史においては屈指と思われる女性の宗教哲学者、花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます。 

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )NIRC (nanzan-u.ac.jp)

ここで言われている「神が自らを空しくして」云々が私の言う「神」の「自己限定」であり、ここでは特に三一論の生成的存在としての面が、西田哲学的というか仏教哲学的に表現されています。これについては、北森嘉蔵氏と量義治氏の以下の指摘が重視されます。まず北森氏の方から引用します(太字は私記)。

< 西田博士はその最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』の中で、次のように述べている。―「今日の時代精神は万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。(略)」(略)ここに「万軍の主の宗教」といわれているものがどのような立場を指示しているかは、次の文章において明白となる。―「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。(中略)」(略) 西田博士が最後に表明したこのような主張の中には、最初から一貫していた根本的な立場が現われている。今やそれが「絶対無」という表現から「自己否定的な神」という表現に変わっただけである。そして、この神に対比されているのは、「君主的神の宗教」の立場である。(中略)第一戒を神学的公理とする神学が、いかに「人間とのかかわりにおける神」を語るように「転向」したといわれようとも、また「否」よりも「然り」を言うようになったといわれようとも、その基本的方法論としての「序説」(プロレゴーメナ)が変革されないかぎり、究極的には依然として律法的排他性によって「人間的現実」を否定・排除してゆくのである。その具体的な表われは、この神学が実存性や土着性に対して究極的には否定・排除の態度をとることである。これでは依然として「自己否定を含まない神」といわれねばならないであろう。(中略)さてしかし、次の問題は、このような「自己否定的な神」が果して「東洋的」な立場や西田哲学において十全に明らかとされているかということである。(中略)ここにある問題点は次のような西田博士の文章の中に示されている。―「自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。しかして自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無となるということでなければならない。……真の絶対とは、かくのごとき意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、かくいうの外はない」(略)この文章の前半については、私はほとんど問うべきものを持たない。かえって、神学が逆に聞くべき問いと考えたい。神と人間との「対立」を主張する神学は、それによってかえって真の絶対性を逸する結果にならないかということを、この西田哲学の主張から問われるであろう。しかし、問題は後半にある。そこでは、自己否定的な神が絶対無としてとらえられている。この事と、さきに西田博士が言おうとした「絶対悲願の宗教」とは、どのように関連するであろうか。おそらく、悲願の宗教は絶対無の宗教にほかならないと言われるであろう。(後述される田辺哲学において、大非即大悲といわれることと通じる)。しかし、私は「悲願」を「絶対無」と等置することの中に、西田哲学の根本的な問題点を見るのである。西田哲学が西洋的思惟への批判を通して打ち出そうとした立場は、個体の固有性と独立性とを認めながら、しかもこれを自己の場所のうちに包む絶対者の立場であった。このことは、「包まれ得ないものを包む」こととして表現されるであろう。西洋的キリスト教の立場では、その「包まれ得ない」という固有性が十分生かされないと考えられたわけである。西田哲学が「絶対矛盾的自己同一」と呼ぶのは、このような絶対者の立場である。しかし問題は、その「絶対矛盾」にある。ここで私は二つの問題点を指摘したいと思う。(1)包む絶対者と包まれる個体との間に、「絶対矛盾」が成り立つということは、どのようなことであろうか。もしその場合、包む絶対者が「無」と考えられるだけであるなら、それに対して個体が絶対矛盾的になるということはなくなるのではあるまいか。絶対者と個体とが絶対矛盾の関係にはいるのは、個体がその絶対者にそむく場合であるが、〔※「そむく」の各文字に傍点あり。〕しかし個体によってそむかれるものが無であるならば、「そむく」ということもなくなるのではあるまいか。「そむく」という事実が成り立つのは、そむかれるものが「有」である場合だけではあるまいか。有なる個体が有なる絶対者にそむく場合にだけ、固有の意味において「そむく」という事態が成り立つのではあるまいか。ここに、従来のキリスト教が説いてきた「有」としての神の意義があるのである。これを端的に否定することは、西田哲学が最後に明らかにしようとする「絶対矛盾的自己同一」をかえって成り立たせなくするのではあるまいか。「絶対矛盾」は、いかにしても包まれ得ないという事態だからである。仏教的絶対者から区別されるキリスト教的神のもつ「律法」や「怒り」の意義は、ここに求められる。これらの事実の中に見いだされる融通不可能な固有性は、仏教的思惟の融通無碍性からキリスト教を区別するのである。「第一戒」の神の意義もここに見いだされる。(2)しかし、真実の絶対者はこの「いかにしても包まれ得ないもの」をあくまで包むところに見いだされることは、西田哲学の言うとおりである。絶対矛盾的「自己同一」はその間の消息を言おうとするのであろう。しかし、西田哲学はこのことを「絶対無」と「絶対悲願」との二つの概念で示そうとする。「無」と「悲」とである。しかし、この二つの概念の間には問題が見いだされるのではあるまいか。(中略)絶対矛盾を背負った自己同一は、無以上の性格をもたねばならないのではあるまいか。これが悲痛の性格である。キリストの十字架はその具体化である。>(~『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p138~143)、<一般者は個体と対立する相対有ではなく、有たる個体を限定する絶対無であるとされる。これが西田哲学がヘーゲル哲学をも越える画期的意義をもつとなされるゆえんでもある。しかしここでもまた極めて重大な問題の伏在することを明らかにするのが神学ではなかろうか。一般者が個体を限定する場合、有としての固有性が個体の側にのみ与えられて一般者の側に与えられないならば、そこにはまた真の意味での「絶対矛盾」は成り立たなくなるのではなかろうか。なんとなればこの時一般者は個体を徹底的に自己の外に撥く一般者の固有性が始めから奪われている。個体を「包むべからざるもの」となす主体としての固有性が一般者にない。したがって無の自己限定は真の絶対矛盾ではなくなる。無が無であって痛みでないゆえんである。福音における神の痛みは、罪人を徹底的に審くべき怒りの神の固有性を前提として、しかもこの怒りの神が罪人を赦して愛の内に包む所に成り立った。罪人を審くべき怒りの神の有としての固有性が始めて神の痛みを成り立たしめるのである。もしこの怒りの神の固有性がないなら、罪人に対する神の愛は単なる「無」としての愛であり得たであろう。しかし単なる無即愛は未だ真の絶対矛盾としての痛みではない。無と痛みとは論理の形としてはいずれも「絶対矛盾」をなしているが、それに入れられている質が全く異なる。人間が神に反逆する時に、その反逆が神にとっていかにしても審くべき怒りの対象となるのは、人間によって反逆される神があくまで有としての固有性をもつ時のみである。神が有としての固有性をもたないならば、反逆せる人間が神にとっていかにしても「包むべからざる者」となることはない。したがってこの人間に対する神の愛も決して痛みではなくして、単なる無即愛にすぎないしかしこれは絶対矛盾の破棄にほかならない。>(同上、p151~)

西田哲学の「神」は「万有在神論」の「神」であると云われます。それは万物を包む神であり、その包むという点で真の「絶対者」は「自己否定」を含まなければならない…と言われています。この「自己否定」は三一神論的にはキリストの十字架刑死に象徴されますが、私の全一神論的には「自己限定」の主旨をキリスト神話を物語ることにおいて生じる事柄なのであって、文字通り「絶対者=神」が「自己否定」しきることは、歴史の中ではあり得るとしても終末に至って以降は、いかに「全能」だと言っても究極的主権者である以上、あり得ないことです。「全能」も「ケノーシス」も賛美告白の表現にすぎず、それを客観的事実とみなすのは混同であり混乱です。

次は、量氏の指摘です。

< 絶対と云へば、云ふまでもなく、対を絶したことである。併し単に対を絶したものは、何物でもない、単なる無に過ぎない。何物も創造せない神は、無力の神である、神ではない。無論、何等かの意味に於て、対象的にあるものに対するとならば、それは相対である、絶対ではない。併し又単に対を絶したものと云ふものも絶対ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾があるのである。如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによって絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対すると云ふことは、自己が自己矛盾的に自己自身に対すると云ふことであり、それは矛盾的自己同一と云ふことでなければならない。単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。……自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むと云ふことは、自己が絶対の無となると云ふことでなければならない。自己が絶対無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとは云はれない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立すると云ふことは、無が無自身に対して立つと云ふことである。真の絶対とは、此の如き意味に於て、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神と云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三九六-三九八ページ)「絶対の無なるが故に絶対の有」晦渋にして難解である。精細に読解しなければならない。「対象的にあるものに対するとならば、それは相対的である、絶対ではない」と言う。ここで、「それ」とは、前後の文脈からして、「絶対」のことである。したがって、ここで言われていることは、絶対が対象的にあるものに対するとするならば、そのような絶対は実は相対であって絶対ではない、ということである。それでは「真の絶対」とはいかなるものなのか。西田は言う、「絶対は、無に対することによって絶対の有であるのである」と。ここは、前半はさして難解ではないが、後半はきわめて晦渋難解である。(中略)西田において、絶対が絶対の無であること、そのことがまさに絶対が絶対の有であることなのである。絶対は「絶対の無なるが故に絶対の有」なのである。絶対者としての「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである」。この「絶対の無なるが故に絶対の有」という表現は、もっと簡潔に、「絶対の無にして有」というようにも言い換えられている。西田の神観は、神は、「絶対の無にして絶対の有」、または「絶対無即絶対有」である、というものである、と言うことができるであろう。 世界としての絶対者  西田によれば、絶対無としての真の絶対有は「無限に自己自身を限定する」ことによって「無限に創造的でなければならない」(上掲書四〇〇ページ)。一なる絶対有は直ちに自己否定によって多としての世界となる。つまり絶対者は絶対者として絶対有なのではなくて、世界として絶対有なのである。西田の絶対無即絶対有とは絶対無即世界ということであり、それは端的に言えば、「空即是色」ということである。西田においては絶対有は絶対有としての意義は認められていないのである。>(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p224~228)

量氏は、「絶対無」に「超越性、他者性、人格性」が欠如し、「無律法性」と「無責任性」を指摘しています。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著前掲書p293)

また「神関係」という用語に加えて「絶対者関係」という表現も使っています。

「無」神論について関根正雄氏は次のように述べています(引用文中の太字は私記)。

<我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134)

以下では、旧約聖書的神論と汎神論との違いが示されています(引用文中の太字は私記)。

旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えているモーセの召命の時の神の顕現、これはやがてイスラエルが神の山でモーセを仲介として神と出会うが、その時のいわば前ぶれである。」(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p87 )※「越えている」は「超えている」と書くべきだったと思います。とにかく、「神」が万物に「内在」しつつも「超越」性を失わないということが「汎神論」と区別される「汎在神論」の特徴でしょう。

(以下、引用。赤字は傍点部分。太字は私記。)

< ではスピノザの思想はいかなるものであったのでしょうか。教科書などではしばしば、『エチカ』に見られるスピノザの思想は「汎神論」と解説されています(ちなみに、哲学ではよくあることですが、これは本人によるネーミングではありません)。「汎神論」とは、森羅万象あらゆるものが神であるという考え方です。日本では『八百万の神』のような、多神教的な自然崇拝のイメージが馴染み深いと思いますが、スピノザの『汎神論』では神はただ一つです。(中略)スピノザの哲学の出発点にあるのは『神は無限である』という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、『ここまでは神だけれど

、ここから先は神ではない』という線が引けないということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たちは有限です。空間的には身体という限界をもっていますし、時間的には寿命という限界をもっています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている、ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』と言います(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。神すなわち自然は外部をもたいないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。超自然的な奇跡などは存在しないということです。『神』という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの『神即自然』の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。このような神の概念は、意志をもって人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。もちろんこれはおかしな話です。神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはずだからです。しかし、そのような理屈が通用するはずがありません。教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力をもっていた時代において、スピノザの考え方は人々には受け入れがたいものでした。別の言い方をすれば、それは非常に先進的であったわけです。(中略)

最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus 」というスピノザの有名な概念です。あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向をもった力」と考えればよいでしょう。コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に非常に近いと言うことができます。(中略)

おのおのの物が自己の有〔引用者注:存在〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。(第三部定理七)

文中の「有」という訳語より、「存在」としたほうがわかりやすいかもしれません。ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物がもつコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質 essentia 」であるとスピノザが考えていることです。(中略)「本質」が「力」であるというスピノザの考え方(中略)

個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である〔……〕、言いかえればそれは〔……〕神は存在し・活動する能力をある一定の仕方で表現する物である。(第三部定理六証明)

(中略)「変状」という概念についてはすでに触れました。物が何らかの形態や性質を帯びることを変状と言います。ここにはそれに加えて、「属性」と「様態」という専門用語が使われています。この一節はスピノザにおける個物の地位、より詳しく言うと、神と個物の関係を説明したものです。

前章で、神は無限であり外部がない。したがって、私たちも含めた万物がその中にいるのだという話をしました。だからこそ神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。このことを説明するためには、神のもう一つの定義を紹介しなければなりません。神は自然であるだけでなく、『実体 substantia』とも呼ばれます。実体というのは哲学で古くから使われてきた言葉ですが、その意味するところは決して難しくはありません。実体とは実際に存在しているもののことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。私たちは神という実体の変状であるというのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えませんスピノザは水を例にしてこんな風に述べています。

水は水としては生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない。(第一部定理一五備考)

水は化学的には分解してしまうこともあるでしょうし、固体や気体にもなります。しかし、水へと変状していた実体が消え去るわけではありません。これは質量保存の法則にも似た科学的な考え方だと思います。(中略)

この個物が『様態』と呼ばれていることです。様態はラテン語で modus であり、英語で言うと mode です。なぜ個物がモードなのか。(中略)モードという言葉は、『仕方』とか『やり方』とか『様式』を意味します(中略)スピノザはつまり、私たち一人ひとりが『仕方』や『やり方』や『様式』だと言っているわけです。どういうことでしょうか。ポイントは変状にあります。私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状してさまざまなものになります。(中略)神は実にさまざまな仕方で存在できる。すると、私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式であると考えられます。そもそも自然は無限に多くの個物からなっているわけですから、神はそれら個物として存在している。個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです。この論点はさらに敷衍することができます。個物が、神が存在するにあたっての様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができます。(中略)個物が神の力を表現しているということは、自然の中で働いている、自然法則という力を表現しているということなのです。(中略)私たち一人ひとりを実体だと考えるならば、一人ひとりが名詞のような存在だということになるでしょう。これはアリストテレスデカルトなどの考え方に対応しています。ところが、スピノザの考えでは実体は神だけです。私たち一人ひとりは、神の存在の仕方を表現する様態でした。ならばこんな風に考えられます。ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人ひとりは神の存在の仕方を説明しているというわけです。(中略)確かにスピノザの言う様態は、神にとって副詞のようなものだと考えることができます。ただし、スピノザは様態を幻想のようなものと考えているわけではないことには注意しなければなりません。確かに様態は、神という実体の変状にすぎません。しかし、本章で見てきた通り、それぞれの様態は個物としての本質をもっています。神の変状であり、神の一部であるけれども、それぞれが神であるわけではないし、それは幻想でもない。それぞれの個物は本質をもつ。この繊細な論理構成にスピノザ哲学の妙味があると言ってもいいでしょう。もう一つ、『属性』という言葉にも説明が必要だと思います。この言葉は一般的には実体がもつ性質を意味します。スピノザの考える属性は、この一般的定義と矛盾するわけではないのですが、そこには独特の意味が込められています。(中略)神という実体が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在する(たとえば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。そして先に見た通り、そのそれぞれが神の力を表現している。「個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態」とはこの事態を意味しています。スピノザは精神が身体を操縦しているという考え方を何としてでも斥けようとしているわけです。(中略)

神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。(第一部定理一一)

神は精神に対応する思惟と物体に対応する延長の二つの属性だけでなく、無限に多くの属性から成っている。しかし、人間はその知性的限界故に、そのうちのたった二つしか知ることができない。>(~國分功一郎著『はじめてのスピノザ』〔講談社現代新書〕p35~87)

上記文中で著者が「神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはず」なのに、スピノザのように、つまり外部がないとか言わず、「神」の創造のわざはアウグスティヌス以来、その「外部」へのわざとされてきたし、裁きを下す神といった人間的・有限かつ相対的な存在として語っているのは「おかしな話」であると批判していますが、なぜ著者がそういうことを「おかしな話」だと感じるかということがまず問われるのであって、それは著者が「神」というものを理屈だけで認識しようとしているからです。「神」は直観的かつ直感的な対象です。その存在・働きについては知るというより感じるものなのです。だから信仰者が口にするのは、理屈としての「絶対(的)」とか「無限」ではなく、賛美としての「絶対(的)」であり「無限」なのです。神が「絶対」であるなら「無限」であり外部がないはずだ…といった形而上学的理屈は、まさに哲学的神学者小田垣雅也氏が好むような話であり、神は認識の対象にはできない存在ということになりますが、信仰の対象は理屈では認識できない、対象とはなし得ないものをなし得るものです。なぜなら信仰心は、その対象とはなし得ないところの対象である「神」から与えられる賜物だからです。だから國分氏のような理屈は、神から信仰心を得てはいない、言わば無神論者ならではの考えにほかなりません。このようなことは理屈としては、「絶対 → 無限 → 外部が無い → すべては神の中」というふうに筋は通るのでしょうが、信仰対象となる「神」というのは理屈で把握しきれるものではないのです。

< 神がもつ諸々の特性のうち主軸となっているのは自己原因である。ゆえに、確かに神には発生ということがありえないとはいえ、原因によって対象を定義する発生的定義の原則は神に対しても変わらず適用されていると言えるのだった。とはいえ、スピノザは神を直接に自己原因によって定義するわけではない。なぜならば、神が神であるのはそうした特性によってではないからである。神が神であるのはその「本質 essentia 」ゆえのことである。では神の本質とは何か。スピノザはそれに対し、「その〔神の〕存在はその本質に他ならない」という答えを与えている(第一部定理一一備考)。また次のようにも言われる。「神の存在とその本質とは同一である」(第一部定理二〇)。(中略)この定理は、神が存在しているという事実そのものが神の本質であると言っている。我々は本質というとその物の奥底にある何かを想像してしまう。しかし、神の本質は、神のうちに想定される<もの>ではなくて、神が存在しているという事実そのもの、無限に多くの属性からなる実体として存在しているという<こと>そのものである。だから、神の本質をその能力と同一視する定理、「神の能力は神の本質そのものである」(第一部定理三四)を読む際にも注意が必要である。ここに言う「能力 potentia 」とは発揮されるべく神の中で待機している潜勢力のようなものではない。神の能力とは、神を貫く法則にしたがって神が作用している<こと>そのものである。『エチカ』においては神の存在と能力と本質が等しい。神が自然と同一視される根拠の一つもここにあるだろう。スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行ったのではなくて、神が自然としてここに存在していることを描写しているのである。(中略)

神は無限である。では無限とはどういうことか。スピノザの言う無限は、どこまで行っても果てがないという意味での無限ではない。「果てがない」という否定的な表現によって説明される無限はしばしば「無際限」と呼ばれる(数学で言う可能無限をイメージするとよい)。それは人間的な視点から無限を捉えようとする時に現れる観念である。追いかけても追いかけても果てには届かない。このような無際限という意味での無限は、完成しない無限である。その結果として、無限の外側に、何か曰く言いがたいものが想定されてしまう。無際限は人間的視点が不可避的に抱え込む、到達できない外部を伴っている。それに対してスピノザの言う無限とは、言わば神の視点で捉えられた、完成している無限である。それは「完成している」という肯定的表現によって説明される(数学で言う実無限をイメージするとよい)。『エチカ』では、有限であるとはその存在の本性の部分的な否定であり、無限であるとはその絶対的肯定であると言われる(第一部定理八備考一)。つまり無限とは肯定であり、有限とは否定である。無際限の場合、有限を否定するものとして無限が捉えられている。つまり有限があり、そこからその否定としての無限が目指される(人間的視点)。それに対し、スピノザはまず無限を肯定した上で、そこからその否定としての有限を考えるのである(神の視点)。だからスピノザの無限には、無際限の場合のような外部が存在しない。(中略)神は無限であるとは、その外部が存在しないということ(中略)

神には外部がないのだから、自分以外のものから影響を受けることがない。時間的にもそのように言えるのであって、神は永遠であって、始まりも終わりもない(第一部定理一九)。外部からの影響が一切考えられないのだから、神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のものに左右されない(第一部定理一七)。(中略)したがって神が存在し、また作用する際の法則は不変である。そして無限なる神に外部がないのだから、この法則には例外がない(例外とは法則の外部である)。すべては神の法則、すなわち、自然の法則にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない。(中略)

すべて在るものが神のうちに在るとは、したがって、あらゆるものが神の一部であることを意味する。神こそは存在する唯一の「実体 substantia 」であり、様々な個物はその実体の「変状」として捉えられることになる。「変状 affectio 」とは何かが性質や形態を帯びることを言う。実体の一部が何らかの刺激を受けて変状し、個物が成立する。だから個物は生まれたり消えていったりするが、実体そのものは生まれることも消えることもない。(中略)実体の変状である個物のことを、スピノザは「様態 modus 」と呼ぶ。(中略)

存在する実体は神ただひとつだけであるが、神は実際には、常に既に変状して存在している。この自然ないし宇宙は、どこを取っても神の変状である。つまり神は無数の仕方、無数の様態で存在している万物はそのそれぞれが神の存在の仕方、つまり様態であって、だからその意味で個物は様態と呼ばれるのである。これは言い換えれば、あらゆる個物は、神がいったいどのような仕方で存在できるのかを、それぞれがそれぞれの仕方で説明しているということだ。(中略)神は草木のような仕方でも、鉱物のような仕方でも、惑星のような仕方でも、そしてもちろん人間のような仕方でも存在する力をもっている。一つひとつの個物は神が存在する仕方そのものである。だからそれぞれが神の力を説明しているわけだが、スピノザはこのことを指して、万物は神の力を「表現している exprimere 」とも述べている。(中略)

一般に、原因と結果は働きかけるものと働きかけられるものの関係として理解できる。そのように理解された時、原因と結果は二つの別の存在である。(中略)神は自分以外の何かに働きかけているわけではない。神という実体以外に何も存在しないのだから、確かに神は原因であるけれども、自分とは何か別の存在に働きかけることはできない。だとすると、万物の原因としての神を理解するにあたっては、一般的な因果性の概念は不適切だということになる。この一般的な因果性の概念をスピノザは「他動原因 causa transiens 」と呼び、神は万物の原因であるとは言っても、それは「他動原因」ではありえず、「内在原因 causa immanens 」として理解されねばならないと述べている(第一部定理一八。なお、causa transiens は畠中訳では「超越原因」となっているが、そこには特に「超越」の意味はなく、原因が結果を自らの外に生ずることを指しているだけであるから、英語で言う「他動詞 transitive verb 」に倣って、「他動原因」と訳すのがよいだろう)。(中略)内在原因はつまり、神というただひとつの実体しか認めないスピノザ存在論によって要請された因果性の概念であり、この概念の基礎となっているのが表現という考え方なのである。>(~國分功一郎著『スピノザ ―― 読む人の肖像』〔岩波新書〕p146~158)

前述のことの繰り返しになり恐縮ですが、スピノザの思想が「汎神論」にとどまって「汎在神論」まで至っていないのなら、「神即自然」は「神即人」とも解されかねないおそれを感じます。自分は、神道的要素は排除したいし、少しでも本質的に相対的な被造物(…特に人間)と接近し混同するおそれがあるような「神」には興味がなく、「神即自然」が真理だとしてもそれは聖書ではあくまでも終末において実現するとされており、終末では現世の対人関係などなくなっているので、単純な人間神化説に堕する危険性は無いが、現世では何の歯止めもないから、汎神論的な言説には十分、警戒しなければならないし、出来得る範囲で改善し修正しなければなりません。

「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。」スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

ここで言われている「絶対(的)」とか「無限」とかいった概念はことごとく信仰告白の賛美表現としての意味で用いられることになります。従って用いられている言葉が哲学用語であるにせよ、それらの概念によって規定されることはありません。例えば以下の、ユルゲン・モルトマン著、沖野政弘訳『創造における神 組織神学論叢2』(新教出版社)に書かれているような疑問に陥ること自体、「神」が信仰の対象から逸脱していることの証左でしょう。(太字は私記。)

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも「外」を持つのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限界となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。〉佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

ここでも「全能」とか「遍在」は、あくまで「神」の現実世界における主権を尊重し賛美する表現として用いられているのであって、客観的事実として「神」がそのような概念で規定される存在であるということでは全く無いのです。私などは、「神」という言葉を使うこと自体は嫌なので創造主とか絶対者とか無限実体とか言いますが、それって、無限大としてはすべての被造物を包み、無限小としてはすべての被造物に宿る…「汎在神論=万有在神論」の「神」であると信じ告白しています。「汎在神観想会」とでもいった会を作りたいとさえ思います(「汎在神信仰会」としない理由は、信仰というとどうしても人格主義的な印象を与えますが、確かに「神」の現世における「主権」とその「公正」な裁きなどのはたらき⦅…人間にとっての「公平」とか「正義」とか「愛」とは必ずしも被らない!⦆としての人格的な面は否定しないまでも擬人神観に陥りやすいところは削除したいので、敢えて人格主義的言語は避けるという主旨です)。だから、「全能と遍在の神が、そもそも『外』を持つのだろうか」?…などというモルトマンの疑問は、神信仰の実存においては、答えられるべき意味のない、どうでもよい問いなのです。肝心なこと、重要なことは、そのような賛美をもって信仰を告白している人間が現実に存在しているという事実であり、それ自体、信仰対象である「神」のはたらき(他力)によるとしか思えない…ということなのです。逆に、このはたらき(他力)がなくなれば、おのずと神信仰自体が失われ、上記の如き疑問さえも生じてこなくなるのです。それは虚無でしかありません。

契約の神…出エジプトの神は選民を試みるお方です。救いは決まっていないからこそ試みるのでしょう。それは救いが決まっている者への鍛錬とはまた意味が違います。自分の場合、救いは未決であると思うので、試みに遭わせられるだけでストレスによるメンタルの苦しみ…地獄的状況となります。自分にとっての救いは現在的なので、死後に神の民に入れてもらうといった共同体的救いに与るために現世で苦しめられることは御免こうむりたいわけです。自分にとって都合の良い神を想い描くことが自分にとっての信仰です。救済宗教は救われることが目的であって、既定路線の教義・信条を知情意で受け入れられないものを無理に盲信してまで受け入れるべきものではありません。フォイエルバッハの如き無信仰者が、「神」が人間を創造したのではなく人間が「神」を創造したのだ…と言うのは誤りとして一蹴しますが、人間は「神」を創造するのではないが「神信仰」は創造的な営みであって然りです。聖書はその創造行為の素材にすぎません。信仰は能動的かつ実存的であって然りです。そうであってこそ「霊、体、心」の全一的救いにつながるのです!救いが目的なのに苦しめられることには耐えられません。もちろん自分だけが現世利益を得たいということではありません。そうではなく信仰者は現世利益ではなく現世不利益・不運からなるべく避けられたいのです。それを利益とは言わないでしょう。べつにお金持ちにしてくれとか不死身にしてくれといったことではないんです。要は、不運に遭う頻度を少なくしてもらいたいのです。でも聖書の神は逆でしょう。選民だからこそ試練を与えます。救いに選ばれたことが決定している人も、その救いが死後に神の民とされることであるなら、いや、そんな救いよりも生きているうちに経験できる救いを優先してほしいと願うでしょう。死後にどんな素晴らしい恵みを受けるとしても、生きている間に苦しめられるのなら、そんな救いはいりません、それより生きているうちに味わう苦しみを軽減して下さい…と願う人の方が多いのではないでしょうか?

…ということで、最初に「聖定」信仰の捉え直しから書きます。聖書の三一神の(主権の)絶対性が最も明示されるのが「聖定」という教理ですが、その「聖定」、精神的に余裕があれば神義論的な私的問いなど突破して、成るように成る…聖書の三一神の定めに従って、いかに「不運」と感じられるような出来事に見舞われても受け入れてゆけると思っておりましたが、実際にはそうもいきません。特に台風です。今回はこれが自分の住む地域を直撃することになり、まあ、毎年のようなことでもあるので慣れてはいるとは言え、やはり確率的になぜこちらが、そしてよりによってなぜ自分が…という疑問というか怒りはつきまといます。何がイヤかと言えば、台風による直接的被害もさることながら、自分が周囲の人よりも台風被害に見舞われることになると、バカにしている人間を喜ばせる材料を与えてしまうということです。ふだんの人間関係におけるメンタルヘルス的事情によるのです。いちばんいけないのは自分の無用なというか過剰な自尊心でしょうが、特にことの年齢になるとほとんどの男性にはあることです。自分などはまだ理性で抑えられているとさえ思ってるくらいです。職場には6、7人もの人間がいて、台風来襲で直接の被害を受けるのは2人…すくなくとも6.5割以上の確率で無被害になれるというのに、いつもよりによって確率の低い反対の有被害の側になってしまう…しかも自分にとって「敵」である人間には大した被害はなく、自分に対してほくそ笑む顔が脳裏に浮かんでしまう…、そんな「不運」に対して感情を抑制し得るだけの精神的余裕はないのです。やはり偏り見る神でないと守護神のはたらきは信用できません。出エジプトの神は選民イスラエルを偏り見るがゆえにこそ妬む神であったのでは…?自分が被害側になればその分、他の人が被害を受けなくて済むから、そういう役とされてのこと…だなんて聖人気取りでもあるまいし、そんな思い上がった受けとめはできない…自分はそこまで強い信仰心は得ていません。「試練」と受けとめるにも限度があります。日常生活に起きるいろんな「不運」をすべて「試み」だと解するには心が貧しすぎるのです。特に台風来襲の時は自分が休日の後になることがよくあります。この休日の間に来て過ぎ去ればよかったのに…と歯がゆい思いになり休日もリラックスできません。休み明けに待ち受けている台風被害…という構図にはほんとに吐き気がします。せっかく2日もある休日がストレスで無駄になります。そんなことが毎年、夏に訪れるようなことでは、自分は「不運」を「試練」として受けとめる「聖定」信仰は維持できません。そういう感情抑制の信仰態度は疲れ果てるのです。自分の人生など死ぬ前に肯定できなくても当然。聖定ということ自体は聖書的真理として否定はできませんが、自分のその肯定できない人生こそが自分の場合の神の「聖定」なんだろうって感じです。それに「聖定」信仰と言っても結局、その主体である「神」についての考察を軽んじてはあり得ないことも歴然たる事実ですから、「聖定」信仰よりも「理神論」(deism)や「汎在神論」(Panentheism)の「神」信仰の方が現実的であり、その現実的という意味は神義論的問いに対応し得る…ということを含みます。

「苦しいときにどれほど神にすがっても救いの手がいっこうに差し伸べられないと、人間は『なぜ神は、自らの力で自分を助けてくれないのか?』『神の直接の関与は果たしてあるものなのか?』と疑問を抱くようになります。理神論は、そうした疑問に対する解答として考え出されたものです。理神論は、『神は法則として人間の前に現れる』『神の直接の関与はない』というスピリチュアリズムの神観に共通する一面を持っています。」従来の神観の整理 (spiritualism.jp)「神を法則として」と言っても、法則自体を「神」とみなすわけではありません。

シルバーバーチが『摂理(法則)』をあまりにも強調したことで、神とは法則そのものであるかのような誤解を生むことになってしまいました。しかし文字どおり『神は摂理(法則)であるああ』と受け止めるのは間違いです。シルバーバーチは、神と摂理を全く同じものと考えているわけではありません。これまでの人類の神観の根本的な間違いを正すために、あえて『神は法則です』と強調したのです。これまでの一方的なご利益信仰・神への願い事信仰を正すために、神と人間は直接的な関係を結ぶことはないこと、摂理を通してしか関係を持てないことを強調したのです。それが『神は法則です』という言葉となって示されたのです。言うまでもなく、摂理は神そのものではなく、神が造られた属性です。摂理は、神が宇宙・万物を支配するために自らの叡智によって造られたものなのです。」

スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

スピリチュアリズム普及会のサイトを見る限り神観は、私の場合、キリスト教などよりも共観できるところが多く感じられます。もちろん異なる点も多くあるので(例えば、「神に祈るかどうかは“救い”とは関係ありません。それどころか、神を信じるか信じないかということも“救い”とは直接関係してはいないのです。たとえ無神論者であっても利他愛を実践する人は『神の摂理(利他性の法則)』に一致し、霊的成長をして“救い”を得ることになります。それとは反対に、口では神を信じていると言いながら自己中心的な生き方をする人は『神の摂理(利他性の法則)』から逸脱し、カルマをつくって“救い”から遠ざかることになります。」ということ。『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「神観」 (spiritualism.jp) ・・・「祈り」(の定義にもよるが…)が「救い」の要件ではないということはわかるが、信じること…信仰(心)をも相対化している、それも倫理的行為のもとで、あってもなくても同じであるかのような言い方になっているのはヤコブ書2章の17~20節あたりを中心とした自力的な行為義認主義との誤解を招きやすい箇所の影響が察せられ、その一方でエペソ書2章の8~10節で示されている賜物としての信仰による行為という他力的なことが重視されていないと思われるところ。)、自分がこれに参加するようなことはあり得ません。そもそもスピリチュアリズムというもの自体、江原某氏のような胡散臭い人物が付きものであり、それを批判している普及会も同類であるとみなしています。自分は聖書以外のものを教典とするような団体は全く信用しないので、普及会についてはあくまでも神論的な部分だけを批判的に参考とするだけです(以下、引用。太字は私記)。印象としては、多神教よりは一神教、日本の神道よりはキリスト教の方に近いのかな…と。(;'∀')

<「一神教(一神論)」は、全世界に存在する神はただ一つであると信じる立場です。ユダヤ教キリスト教イスラム教がその代表です。スピリチュアリズムは、それらの宗教と同じく「唯一の神(大霊)」を崇拝の対象とします。背後霊や霊界でスピリチュアリズムの総指揮を執っているイエスに対してさえも、これを崇拝の対象としない徹底した「唯一神信仰」なのです。この意味で、多神教である神道スピリチュアリズムを安易に折衷しようとすることは明らかに間違っています。>従来の神観の整理 (spiritualism.jp)

<神に対する考え方――それが「神観」です。「神観」とは、神をどのような存在と見なすか、神をどのようにイメージするか、ということです。同じ「神」という言葉を用いていても、神に対する考え方や概念は、人によって、また宗教によって異なります。(中略)「神観」は、宗教(信仰)を形成するうえで最も重要な要素です。神観と宗教(信仰)はきわめて密接な関係にあり、神をどのような存在としてイメージするかによって、信仰の形態や祈りの内容が変わってきます。このように神に対する考え方は宗教の土台となる重要なものですが、現在に至るまで地上には明確な神観(神に対する考え方)は存在しませんでした。その結果、さまざまな宗教が乱立し、それぞれの考え方のもとで神への崇拝・信仰が行われてきました。(中略)エスは地球人類に画期的な神観を示しましたが、それから2千年後の現代に至って地上に登場したスピリチュアリズムによって、イエスの「神観」をさらに深めた、より画期的な「神観」が提示されることになりました。(中略)霊界通信によって地上にもたらされたスピリチュアリズムの「神観」は、まさに画期的なものでした。霊的知識を土台とした神観の形成に最も重要な役割を果たしたのが『シルバーバーチの霊訓』です。シルバーバーチは神を「大霊」と呼んでいます。「大霊」とは、神の超越性を強調した呼称です。スピリチュアリズムによって新たな神観がもたらされるまでの永い間、地上人は物質次元から「神」について解釈してきました。それは常に、人間の立場から神の姿を思い描いたものであったため、神観の中に物質的な要素が濃厚に含まれることになってしまいました。そうした物質次元の要素を取り除いて霊的観点から神の姿を示すために、シルバーバーチは神を「大霊」と呼んだのです。「大霊」という呼称には、それまでの神のイメージをはるかに超えた多くの霊的な意味が含まれています。(中略)この一節には、シルバーバーチが神を「大霊」と呼んでいる深い理由と、神の超越性を強調するシルバーバーチの「神観」がよく示されています。

神とは非人間的存在でありながら、同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性を持つことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性を持つ存在として顕現したことになります。ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰ひとり存在できません。神から切り離されるということがあり得ないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。」『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.108~109(中略)シルバーバーチの「神観」の内容は、次の5つの定義に整理することができます。①創造主としての神 ②大霊としての神 ③愛の始原としての神 ④究極の理想としての神 ⑤摂理(法則)としての神 

①~③の定義は、キリスト教の神観と共通していますが、それぞれの内容の深さはキリスト教とは次元が異なります。一つ一つの定義についてシルバーバーチが示す見解は、これまでのキリスト教の神観とは比べものにならないほど深遠なものになっています。『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした神観は、どの点をとっても画期的で、地球人類がこれまで信じてきた神観に大きな修正を迫るものです。その中でも特に重要なものが⑤の定義――「摂理(法則)としての神」です。(中略)シルバーバーチは「摂理の神」を説明する際に、しばしば「神とは摂理である」と述べています。シルバーバーチのこの言葉を文字通りに受け取ると「神」と「摂理」は同じものになり、神を創造主とする神観と食い違うことになってしまいます。創造主としての神は存在しないことになり、シャカが神の存在を不問に付し、法(真理)のみを真実在として自説を組み立てたのと同じ立場に立つことになります。もし神と摂理が同じであるなら、わざわざ「神(大霊)」という言葉を用いる必要はなく、シャカ仏教(原始仏教)のように「神(大霊)」を抜きにして「法(摂理)」から論を展開してもよいことになってしまいます。シルバーバーチの「神とは摂理である」という言葉は、これまで地球人類が「神の直接関与」を大前提としてきた神観の間違いを正すために、あえて強調したものです。言うまでもなくシルバーバーチは、「神(大霊)=創造神」としての立場に立っています。したがって、シルバーバーチの「神とは摂理である」との言葉を「神=摂理」と解釈することは間違いです。シルバーバーチは別のところで、大霊が摂理を創造したことを明言し、「神」と「摂理」は同じではないことを明らかにしています。>『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「神観」 (spiritualism.jp)

神観はよいのですが、肝心な教典が聖書ではなく、シルバーバーチ(…ネイティブ・アメリカンの男性ではないそうで、元の人物については謎とのこと)の霊訓となっていることが最大の問題です。聖書に加えて、そのようなものが準教典としてあるというならまだしも、聖書はほとんど顧みられていないのです。また、神観の分類に「汎在神論=万有在神論」が入っていない点は、この「普及会」における神論の狭さ…知識的限界を感じさせます。

スピリチュアリズムは明確な『創造神論』の立場であり、神と世界、神と人間との間に明確な一線を画しています。言うまでもなく“汎神論”を否定しています。」

従来の神観の整理 (spiritualism.jp)

スピリチュアリズムの神観のポイントが10個掲げられています。

< 1)神は「創造主」として、霊界と宇宙を造られた。私たち人間をはじめとする万物は神によって造られた 2)神は人間をはじめとする被造物を、自らに似せて創造された。そのため被造物は、神と同じ要素を有している 3)神は無形の存在であり、あらゆる区別・形式・概念を超越し、被造界・被造物に遍在している 4)神は人間にとって「霊的な親」である 5)神は私たち人間を愛してくれている。私たち人間と万物は、神によって愛されている 6)神は摂理(法則)を通して世界を支配している 7)神は人間・万物のすべてを完全に把握し、完全平等・完全公平に扱っている 8)神の完全性は、摂理(法則)の完璧性を通して知ることができる 9)人間は永遠の霊性進化の道をたどるが、それは終わりのない神への接近のプロセスである 10)人間は利他愛の実践を通して神を愛することになり、神により接近することになる >                    さらに次のように書かれています。

「神と私たち人間には、『造ったもの』と『造られたもの』という決定的な違いがあります。神と人間との間には、創造主と被造物という明確な一線が引かれています。先に述べたように、人間・万物を神の一部と見なす“汎神論”は間違いです。」スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

上記のとおり、普及会のサイトでは汎神論は明確に否定されているので、この会に代表されるスピリチュアリズムの立場では汎在神論が採用されていると思われます。実際に「シルバーバーチの霊訓(11)」では、汎在神論に該当するような言葉が記されています。

「ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性であり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在できません。神から切り離されるということはありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在するかぎりはすべてのものに宿っているのです。私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難の業です。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。」スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

また、キリスト教が「愛の宗教」といわれることに関する誤解も指摘されていて、正解と言えるかどうかはともかく、批判の動機としては、それはそれでよいと感じます。

キリスト教が説く『一方的に罪や過ちを許す愛の神』は、イエスの『愛なる神』を歪曲してでっち上げたニセの神観です。それは地上の人間が、自分たちの知性と都合によって勝手につくり上げた神観に他なりません。この『一方的な許しの神』という最悪の神観が、イエスによってもたらされた『愛の神』に取って代わってしまったのです。」時代とともに進化してきた神の概念 (spiritualism.jp)

シルバーバーチは、「愛の神」の概念に反するような見解を述べています。「私は自然法則について語っているだけです。私は父なる神などという言い方も致しません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。私は法則に目を向けます。私は宇宙の目的に目を向けます」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.123)と、まるで正反対の内容を述べています。この言葉は、従来の宗教(特にキリスト教)が、父なる神・愛の親神という概念のもとで、あまりにも神の摂理から懸け離れた自己中心的・人間中心的なご利益信仰に陥っている実情を批判するために語ったものです。間違った愛の神観を是正するために、「神の法則性・法則の神」を強調して厳しい言い方をしたのであり、決して「親なる神・愛の神」を否定したものではありません。>スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

< スピリチュアリズムの神観の最大の特徴は、「摂理(法則)の神」を強調するところにあります。「愛の神」と同時に「摂理の神」、すなわち神の摂理性を徹底して訴えます。時には「愛の神」以上に「摂理の神」を重要視します。それは地球上における従来のすべての宗教の欠点が、そこにあったからなのです。地球人類は「摂理(法則)の神」について理解していなかったために、間違った神信仰を延々と続けてきました。長い間、ずっと的外れな神信仰・無意味な信仰をしてきたのです。地球上における宗教の間違いは、この「摂理の神」に対する無知に起因します。そのため高級霊は神について論じるとき、必ず「神の摂理(法則)」について言及するのです。(中略)地球人類が神に近づくためには「神の摂理(法則)」を正しく理解し、摂理にそった生活を送るように努力していくことです。神に特別な配慮を願うのではなく、自分の方から神の造られた摂理に合わせていくべきなのです。そうした努力こそが、まさに「正しい信仰」なのです。スピリチュアリズムは、神に願い事をするのではなく、自分から神の摂理に一致していく、摂理に自らを従わせる努力をしていくことが正しい神信仰であることを明らかにしました。それこそが、人間が長い間求め続けてきた幸せに至る唯一の道なのです。これまで地球人類は、神を絶対的な権威者として崇拝し、神に願い事をすることが信仰であると錯覚してきました。今、スピリチュアリズムによって地球人類は、初めて本当の神信仰を知りました。神に願い事をしたり、一方的に神にすがるのではなく、神の絶対性を信じて人間の方から神の摂理に合わせていくことが「正しい信仰」であることを理解するようになりました。こうして人類史上、初めて真実の神信仰が始まることになったのです。*シルバーバーチの「摂理の神」についての誤解 シルバーバーチが「摂理(法則)」をあまりにも強調したことで、神とは法則そのものであるかのような誤解を生むことになってしまいました。しかし文字どおり「神は摂理(法則)である」と受け止めるのは間違いです。シルバーバーチは、神と摂理を全く同じものと考えているわけではありません。これまでの人類の神観の根本的な間違いを正すために、あえて「神は法則です」と強調したのです。これまでの一方的なご利益信仰・神への願い事信仰を正すために、神と人間は直接的な関係を結ぶことはないこと、摂理を通してしか関係を持てないことを強調したのです。それが「神は法則です」という言葉となって示されたのです。言うまでもなく、摂理は神そのものではなく、神が造られた属性です。摂理は、神が宇宙・万物を支配するために自らの叡智によって造られたものなのです。>スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

普及会の最大の問題は教典です。

シルバーバーチが一番と言うと“シルバーバーチ教”と批判する人々がいますが、それは誤解です。『シルバーバーチが一番』ということの真意は、シルバーバーチの霊訓の内容が、スピリチュアリズム関連の多くの霊界通信の中で、霊的真理を最も広範かつ正確に示しているということなのです。私たちは、シルバーバーチという一人の高級霊を崇拝しているわけではありません。シルバーバーチを信仰対象とはしていません。私たちにとっての崇拝の対象は『神(大霊)』であり『神の摂理』です。」スピリチュアリズム普及会の紹介 (spiritualism.jp)と言いながらも、「私たちは現時点の地球上には、『シルバーバーチの霊訓』以上の真理は存在しないと考えています。」と言ってるのだから「シルバーバーチ教」との批判は、あなたがち誤解とまでは言えないのではないでしょうか?実際、サイトを見ればシルバーバーチの霊訓至上主義みたいな印象を受けます。シルバーバーチという人物およびその霊は崇拝対象ではないとしても、その霊訓の内容は福音派クリスチャンにとっての誤りなき神のことば的な信仰対象のレベルに達している感じがします。

ところで、キルケゴールの主体性を真理とする思想を神信仰にあてはめると、要は、自分に対する作用・はたらきが良ければ、その主体である「神」の性格も良いに決まっている…というのがより実践的な信仰であり合理的な考えのようでもありますが、自分の場合、その(「神」からの)はたらきが良いとは感じられないわけですから、そこで神信仰を維持しようとすれば、やはり「神」そのものを理神論とか汎在神論的に論じる必要が生じてきます。そうでなくても自分はイエス・キリストを「真に人」としてはもちろんのこと「真に神」としてであれ、人を愛するという意味で愛するということは難しいので(せいぜい親である御父を映す鏡としての尊敬にとどまる)、キリスト教の三一神への信仰を受け入れるためには、御父を中心としなければならない…御子従属説です。三一信仰自体は、ヘーゲル弁証法…生成し自発自展する絶対精神を「神」に応用した(神の)存在は生成においてある(~ユンゲル)といった「生ける神」という神観において必然的なので、その点では認めますが、聖書的という点では御子従属が前提とならなければ受け入れられません。御子従属といっても無論、アリウス系異端説のように被造物(=天使)御子説ではなく、あくまでも創造者側の御子説です(但しその場合、御父のみである創造主とは区別されてコロサイ1:16の「エン」〔~にあって〕と「ディア」〔~を介して〕に示されている媒介者としての役割)。

ウェストミンスター信仰基準および改革派神学は参考にはしますが、絶対化したり執着はしません。教派の如何に関わらず教会というものは、毎月、献金支出で生活費を削られることになるからです。献金が大半が牧師家族を養うための経費になるわけだし、どんな牧師の説教も聴く気にならないので…。自分はキリスト教という宗教自体から脱却する方向になりつつあります。個人的に信仰を持つことはあっても、もはや共同体主義的な信仰はあり得ません。確かに聖書の宗教は必然的に共同体主義的信仰となっています。信仰対象が創造主である「神」であるなら、自分だけが関係を持つわけがありません。対神関係は個人的な面だけではなく普遍的な面があり、主観的な面だけではなく客観的な面があるはずです。その普遍性や客観性が哲学の理屈で示され、その究極がスピノザの「神即自然」(Deus sive Natura)です。創造主は「能産的自然」(Natura naturans)と表現されます。そのような自然(世界、宇宙)を創造した「神」を信仰対象とするのだから、まったくの個人としての宗教ではないことは言うまでもありません。しかしそれは哲学的理屈の同意による客観性および共同性ということではおかしいのです。宗教的には哲学や科学とは独立した客観性・共同性があるわけで、それは神の賜物としての信仰に基づく以外にはないのです。そしてそれは理屈ではなく賛美なのです。絶対だから無限で外部が無い…などという理屈への同意としての客観性ではなく、「神」を「絶対(的)、無限、」さらには「永遠」といった形而上学的用語を賛美告白に使う信仰心での一致であり、それって組織・制度化の志向とは相容れません。

それにしてもキリスト教は本来、教会主義となるべき宗教だったのか?それともエクレシアとは「神」と個人信者との媒介的存在であって、それ自体に権威などを付与するものではなかったのではないか…?それが使徒信条では「聖なる公同の教会」という絶対的な宗教組織として信仰の対象になっています。教会はキリストの体として普遍的神秘体とされています。そういうのは終末以降の話としてはともかく、カトリシズムのようにすでに現世からの事柄としては、自分の信仰にはまったく合いません。教会組織にはいっさいの権威など認め得ません。聖書が教会がキリストの体であるというならそれはそれで認めるしかありませんが、べつにかまいません。そもそも自分は「キリスト」の体などに関心は無いからです。体に関心があるとすれば、それは「神」の体です。その「神」は終末において「すべてにおいてすべてとなる」わけで、それはつまり創造主の自己限定していた状態が解除されて元来の全一者に帰するということです。これは汎神論的な意味ではなく、全被造物が神の体になることを意味します。隔絶しつつ同一化する、超越しつつ内在するのです。

ところで、F・ニーチェは「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と言ったそうで、加藤諦三氏も「事実は直接人には影響を与えません。 事実はその人の解釈を通じて、その人に影響を与えます。」と述べておられます。 テレフォン人生相談 事実はその人の解釈を通じてのみ影響を与えます!加藤諦三&大原敬子! - YouTubeほんとうにそうだろうか?と考えてみると、やはりこれも「程度」を入れて考えないと現実からズレてくると思います。自分の子が反抗期だからか急に無口になってしまったという事実が問題ではなく、それに対する親である自分の感じ方、解釈が問題である…ということですが、両方にそれなりの問題があるのかも知れません。親が受け取り方を変えるだけで事態が改善させるのかどうなのか…?

無口ならよいですが暴言の場合には、身内であっても、解釈の余地なく客観的事実として心を傷つけるということはあると思います。悪意むき出しなんですから当然です。しかしそこまでハッキリしない動機による曖昧な振舞いもあろうかと思います。疑えば悪意であり暴言にもなり得るような言葉…。格言などに見られる上から目線で言い切り型の極端な思考…いわゆるゼロ百思考が認知の歪みにつながっているのでしょう。

対人関係におけるストレス苦は心臓に悪いと痛感します。自分心室性期外収縮なので、不快な言葉やそれを言った人の表情およびそのシチュエーションが脳内で自動的に思い出されるたびにドキっとするので、なおさらそう思います。対象者の不快な発言にその時うまく対応できなかった自分の低弱さへの怒りが自分自身の心を傷つける刃となるのです。自尊心の自分(自我)が、その自分に縛られている現実の自分(自己)を傷つけるのです。すなわち精神的被害は、他人の暴言とか不快発言だけが一方的に外から凶器として自分の心を刺すという場合だけではなく、その他人の言葉が、暴言とか誹謗中傷とはっきりわかるようなものではなく、言い訳次第ではなんとでも言える程度のものである場合の方が健康上、深刻なこともあり、そのような場合は、その言葉を悪意によるものとして解釈することが、直接的な被害をもたらすことになります。たしかに相手に悪意がなければ悪意があると解することはなく、ほとんどの場合、その動機的な面では主客一致です。主客が分かれてくるとしたら、動機としての悪意に加えてさらにいろんな思惑を想像する時でしょう。当たっている部分はかなりあるとは思いますが、被害妄想的な面も否定しきれるわけではありません。ただ、当たっていることの確信を得て、それがさらにショックになることがあるので、程度としては妄想より事実であると思う方が大きいのです。

これに対しては、現実の自分(自己)が、自尊心の偏主としての自分(自我)に従って、ことあるごとにいちいち反撃行動に出て争い続け、小さいながらも成功体験を積み重ねて自信を確立してゆくとか…、そうやっていちいちドキドキしながら言い返しては一喜一憂する心貧しき自分(自我自己=肉自)であり続けるか、または同じく心貧しき自分に変わりはなく、その自分を直視して、貧しきなりに心の中に散らばっているエゴ汚物の悪臭だけでも外に捨てて気分的には空(カラ)に近い状態…すなわち謙虚になって心を軽くしラクになるために、宗教的な意識変容を試み(…その具体的方法を試みるための行動は聖霊派系に行って自分なりに体験してはみたが…)、あるいは精神医学の関係で認知行動療法を自分なりに試したりして、他人の言葉に対する怒りなどのネガティブな感情を相対化する工夫をしてみる自分(…肉自よりは少しましな霊自)として生きるより、やはり自分には信仰的な解決の方向に進んでゆくより仕方がないと思えるのは、いちいち言い返したりしても一時的にはフックとかボディーブローが決まってポイントを少しは挽回できた感じにはなっても、そこで返された小出しのジャブがまた利いてきて再びフックを決めないといけなくなってキリがないし、へたすると妙なことを言ってしまったり不適切反応しちゃってオウンゴールというかカウンターをくらう危険もあるからです。だからある程度まで戻したら、あとはよほど致命的ダメージになるようなパンチを相手が出してこない以上は、あるいは出してきてももろにくらわないようにいなしかわしながら、とにかく打ち合いになるようなことは避けて、相手がなめるならなめてもいいといったゆとりを持った態度で進んで行く方が無難でしょう。最悪な事態は心身に病や障害が生じて生活に支障をきたすことです。経済的には医療保険があるので休職しても(有給も使えるなら)なんとかなるとは思いますが、夫婦の和が壊れるようなことがあってはいけません。たとえ自分が壊れても相手を壊さないように心していなければならないのです。現状から一歩引いて大局的に生活世界を見てゆくことが高齢になった人間には必要なことになります。特に自分たちの場合は実際問題として転居を志望する理由があり、どうせ高い費用をかけて人生最後の転居をするなら医療の面や教会のことも考えて都会の方が良いに決まっているので、それに向けて心を向けるなら収入を確実に得てゆくこと、すなわち職場で失敗を犯したり生活の中で損失を出さないようにすることを第一として集中しなければなりません。年をとって脳の使用力が落ちている以上、少々のストレス苦などより、生活経済の維持管理の方に意識を集中してゆかねばなりません。それは宗教的、信仰的なレベルでは、救いの確証を得るための聖霊信仰による解消(は現状の自分にとっては観念にとどまり行動にする余裕はないので、試みるだけ無駄なこと)を求める信仰より、人生の終末まで考慮したうえでの聖定信仰(によってすでに解決されていること)を生きていって然りだと思う、そんな自分(空自)に至りました。

つまり自分の場合は、メンタルが受けるダメージに対して対処療法的にその時々、聖霊信仰(体験)による自己治療を試みる志向より、長いスパンでこれからの生活の保守・維持管理などに心を向けて、あくまで聖定信仰により人生の終末の迎え方といった観点で考えながら進んでゆく方が、自分の人生全体を、時制を超えて大所高所から総合的に俯瞰するなら、そういうことになるだろう。八木誠一氏のいわれる「創造的空」は「神(のはたらき)」のことのようだけど、自分にとっては意味は違うだろうが、信仰ある自分の心の呼称として相応しい。単に空(カラ)っぽということではなく、創造主による意味を与えられての「空(カラ)」なのです。自分にとって創造主は被造物と隔絶した超絶存在であり、イエスが「アッバ」と呼んだおかたなのである。イエス自身は肉体を持って生きておられた以上、超絶者ではあり得ず、彼も自我無化(ケノーシス)して生きた「創造的空」であり、それが霊の親(=御父)である創造主の、「愛」という名の自己限定を映す鏡だったのです。自我自己である煩悩具足の我らは自我無化なんてできやしないし、御計画にあっては無理にするそんなことする必要はないのですが、自分の負うべき十字架としては、キリストの平和を願って少しでも近づける努力はすべきでしょう。

福音派的な聖書の読み方も、時には個人の問題で有効な場合があるらしい。今回は「万軍の主に届いている」と題されたメッセージがためになりました。https://www.youtube.com/watch?v=REQ6NySA4BM

「今週は、神の正義を心にとめて、平和な子で暮らす一週間というのはいかがでしょうか?皆さん、理不尽なことに遭うかも知れません。でも、怒りは神の義を実現しないんだと…、私たちの悔しい思いとか傷ついた思いというのはちゃんと神さまに届いてるんだということですね。でも皆さん、おっしゃるかも知れない…、私、神さまに裁きを委ねたんですけど、あの人になにも起こってません…とかね…、そういうことを思うかも知れない。そういう時はですね、自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないのです。実は自分の方が悪いのかも知れないんです。私たちはですね、他人(ひと)を実際以上に悪く思う傾向があります。どちらにしても、神さまは正しく裁いておられるわけです。皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、その人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんですよ。何も起こらなかったら、それほど悪くはなかった…どっちにせよ、正しい裁きは常になされるんだと、だから、私たちの怒りは常に神さまにゆだねて、平和な子で暮らす一週間でありたいと思います。」

・・・クリスチャンは怒りをもってはいけない、ましてや復讐心などはもってのほかである…みたいなことを説教でいくら言ったところでキレイゴトになるだけで問題の解決には寄与しません。罪ある人間としてマイナスの感情があることを認めたうえで、それをどう調節してゆけるかという可能性を信仰的観点から探るのが現実的なメッセージになります。

「すべて悩みは対人関係の悩みである」といった言葉、考えがあるようですが(~アドラー)、聖書的には「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(文語訳 ロマ12:19)というみ言葉は慰めの言葉ですね。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」(新改訳 同上)・・・上記引用の長澤牧師のメッセージにおける「私たちの怒りは常に神さまにゆだねて」ということは、直接的にはこの聖句に依拠していると思われますがいかがですか?パウロは言います、「わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。」(口語訳Ⅱコリ12:20)・・・新改訳では「私は心配をしています。そちらに行ってみると、あなたがたは私が期待したような人たちでなく、私もあなたがたが期待したような者でなかった、ということにならないでしょうか。争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、混乱がありはしないでしょうか。」と、口語訳の「怒り」が新改訳2017では「憤り」になっています。まあ、同じことですね。クリスチャンは、人として他人の言動に対して「怒り・憤り」を感じますが、それを自分自身で復讐行動に表わすのではなく、全能なる絶対主権者であられる三一の「神」にゆだねる…ということが、「対人関係の悩み」の最も有効で実際的な解決法であるということなんですね‼

ところで、対人関係のストレス問題は、経験から言って、客観面と主観面との両方を適切な比率によって見なければ実際的判断が出来ないと思います。前述の加藤諦三氏の「事実」と「解釈」のお話のように、客観面だけを見ると世の多くの気短な男たちのように感情をさらけ出し、実力行使によって解決しなければならなくなります。これではクリスチャンとしての「キリストの平和」主義的志向に逆行します。さりとて主観面ばかりに偏向しても相手との関係は続くので現実的な対応とは言えません。加藤諦三氏の言われることは「解釈」すなわち主観面の方に偏っていると思います。それは認知行動療法ではないでしょう。あくまで「行動」せずして認知(ものの見方)だけ変えようたって無理だからです。小さな成功体験を積み重ねるという「行動」による客観的変化があってこそ、精神的な余裕も生まれ自信も出て来て、それによって狭小的だった見方が少しづつ開かれてゆくのです。そのように余裕にもとづく認知の向上が聖書の教えとの接点を得られるようになるのです。逆に言えば、心に余裕なくして聖書のメッセージを落ち着いて読み取ることは困難です。読むということ自体が受け身であると同時に能動的な知的行為なので、それなりの精神的な余裕なしにはできません。ましてや聖書は…です。頭の中に悩みが場面として浮かんでくると、ドキっとして心臓に悪く不整脈の原因にもなりそうです。自分が若い頃に心室性期外収縮になったのは小心者という性格と無関係とは思えません。そして自己愛的な潔癖主義的なところがあり、頭の中がすっきりと片付いていないと安心して眠れないのです。つまり悩みの断片が頭の中・心の中にちらかっている状態では落ち着かないのです。その断片のひとつひとつが走馬灯のように自動的に思い巡らされて、特に不快な場面が来るとドキンとするのです。自分がその断片ごとに相手がこう思ったんだろう…と悔しがるほどに相手がその場面を思い出して悦に浸っているかどうかはわかりません。自分が思う程には気にしていないかも知れないし、自分が推察する内容とは違う意味でほくそ笑んでいるのかも知れないし、あまり気にしていないかも知れません。あるいは、自分がこれは相手はあまり気にしてないだろう…と思っていることを気にしているかもしれないわけで、主客の一致の度合いは測り難いのです。したがってそうした不快な記憶の断片が頭の中にちらばっている状態であっても、ちらかった部屋に住んでいて平気な人のように、慣れて平気でいられる逞しさを持つしかないのです。そのためにも信仰の力が必要です。いわゆる「ドルト信仰基準」の5点の頭文字を集めて「チューリップ」(1.「全的腐敗」〔Total depravity〕、2.「無条件的選び」〔Unconditional election〕、3.「限定的贖罪」〔Limited atonement〕、4.「不可抗的恩恵」〔Irresistible grace〕、5.「聖徒の堅忍」〔Perseverance of the saints〕)と呼ばれる、最後の「聖徒の堅忍」も、「堅忍」できる「聖徒」とは「神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々」ということです。その反対は「み言葉の宣教で召され、みたまの一般的な活動に浴しても、真実にはキリストにこない」人々だと言われています(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』〔新教出版社〕p178~179)。

自分がどっちであるか判断できるならよいのですが、それは無理ってことです。予知にもとづく条件的選びを主張するアルミニアンの場合なら、現時点で自分がどちらに属するか判明してもそれが死ぬまで変わらないと保証はないわけです。どっちの方が人間にとって都合がよいのかはどうでもよいことだというのが改革派の立場でしょう。しかし現実の倫理的な問題の解決のためには、そのような高尚なる教義では無効であり、もっと実践的な知恵が必要になります。凡人であっても信心のみによって「堅忍」する術を身につけられなければなりません。救いに選ばれているか否かが不明である以上、対象は聖徒だけではなく、福音的精神においては、現時点で父・子・聖霊の三一神を信仰するすべての人であって然りなのです。

「カルヴィニストは真の信仰者の堅忍の確実性と無謬性は、父、み子、聖霊なる三位一体の神の首尾一貫した主権的な救いのみわざにその根拠を持っていることを確信し(中略)恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ないことを主張します。」(前掲書p181)

「真の信仰者は、信仰と悔改めの生活に励み、聖化の戦いを戦い続けて遂に勝利する(中略)のは、不確かな人間の意志にではなく、神の主権的恩寵によってです。ドルト信仰規準は聖徒の堅忍という言葉と共に保持という言葉を用いています。(中略)聖徒が信仰と聖潔の道を歩み続けることなしに救いはありません。神が信仰者を力強く恵み深く保持したまわなければ、聖徒の堅忍はありません。ですからベルコフやヘルマン・カイパーなどは聖徒の堅忍というよりは、神の恵みのみわざの主権的な首尾一貫した貫徹という面からむしろ「保持」とした方がよいとさえ言っています。一つの考え方でしょう。わたしとしては、むしろ両者の密接不可分性を強調した方がよいと思います。」(同、p183)

まさに絶対他力の考えなので、上記のようなことになります。「不確かな人間の意志にではなく、神の主権的恩寵によって」とはそういう発想です。だからこそ根拠は常に神の客観性に置かれます。自由主義神学聖霊派が批判されるのは、「絶対依存の感情」というように、あるいは体験主義のように、根拠を人間の主観の側に置く傾向があるからでしょう。改革派的思考では、教理の根拠を信徒の主観に置かず、あくまでも神論的な客観性に置こうとします。バルト神学も客観主義と言われています。もちろん客観性と言ってもそれはあくまでもキリスト教内でのことであって、一般的には通用し得ません。救いの根拠という点では実存論的神学においても神の側の客観性に置かれているとは思うし、自分も従属的理解においてであるなら三一神信仰を告白するのです(神の「自己限定」による「従属→同等」)。たしかにイエスは肉体を持った以上は有限・相対なる人間なので、絶対超越者という意味の「神」とは認め得ませんが、その「御子」という従属的立場として神性を有することは認め得るし、啓示という点ではやはりそのような媒介的存在が必要ではあります。だから真の意味での「神」は御父のみであるが、その御父との関係を結び、その関係を生き得るためには御子と御霊の2者が論理的に要請されてくるのです。御子はあくまで御父を映す鏡であり、昇天後は人性よりも神性に重きが置かれて、イエスではなくキリストとか御子と呼ばれて然りです。

それにしても改革派教理で、救いの予定の如何にかかわらず人生論的に使え得るのは「予定」および「聖定」だけです。自分で救いに定められていると信じ込めばよいのだから…。それにしても救いの確証を得ての精神的余裕で愛をもって生きる…という展開には、神学的客観主義ではなりません。だって信仰論的には、「確証」というその「確かさ」は「確信」と同じことであって自分自身の内に住んでおられる聖霊のはたらきによって実現されるとしか言えないからです。

「ドルト信仰規準では第五の教理『聖徒の堅忍について』の章は、第一条から第八条までは聖徒の堅忍について、第九条以下で、恵みと救いの確信について教えていて、この二つの真理が密接不可分に教えられ、学ばれ、信ぜられなければならないことが分かります。ドルトの教えとウェストミンスター信仰告白の教えとはこの点まったく同一です。(中略)聖化の未完成、罪の残存からくる自分の弱さ、世の誘惑、悪魔の攻撃にさらされているわたしたちは、しかもなお真の信仰を持っているならば決して恵みの状態から落ちることはないばかりか、恵みと救いの確信を与えられるのです。(中略)キリストを信ずる信仰を木にたとえれば、自分が救われているという確信は実です。この順序を取り違えてはなりません。信仰には、人により、また同じ人であっても時により、程度に強弱の相違があります。しかし、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストは、必ずわたしたちに勝利を与え、また、わたしたちの信仰を全き確信に至るまで成長させて下さるのです。神学では、前者を信仰の確信(ヘブル一〇・二二、コロサイ二・二)、後者の自分が救われているという確信の方を希望の確信(ヘブル六・一一、一二)ということがあります(中略)救拯的信仰が、正しく導かれ、育てられ、キリストの恵みによって全き確信にまで成長して行くとき、第一八章で教えられているように、自分の恵みち救いについての無謬の確信がわたしたちの心の中に与えられるのです。(中略)他のさまざまの救いの祝福と無関係にではなく、共に与えられることを強調しています。ですから他の恵みと切り離して、この救いの確信だけを求めても駄目だということが分かりますね。」(前掲書p186~188)

・・・結局、すべて神さまの御意志如何であり、人間の側でいろいろ考えてやってみたところで、出来ないことは出来ないのです。心機一転、教会生活に打ち込もうとか聖なる生活に転じようなどと思い立って威勢よく始めてみたところが、そもそも無理なので早々に失速して挫折した経験があるので、ましてや高齢になって繰り返す愚は避けます。聖定信仰で、成るように成るといった気楽な思いで、すべて神におゆだねして生きる…その中でやる気にさせられたことは自主的にやるのだから、主体性や能動性を捨てることではない…とは言え、教会生活なしには救われない…といった外的要素もあるのでしょうから、結局、形として敬虔なるクリスチャンみたいなイメージの生活態度に現れてこない人は救われないってことです。つまり救われるという確証は客観的に成り立たないが(⇒いくら教会生活に熱心だからといって救われるとは限らない)、救われないという確証は客観的に成り立ち得る(⇒すくなくとも教会生活ができていない者がそのままで救われることはない)ってことです。

ということで自分の現状はおそらく死ぬまで大した改善はないのでしょうから、こんな状態でも救われるという福音を聞きたいわけです。それが改革派では無理…キリスト教では無理…ということなら、浄土真宗ではどうか…?ということになりますが、仮に真宗では可とされるとしても、信仰対象が聖書の三一神ではないということのゆえに、これは見送らなければなりません。なぜなら絶対他力の救いだからこそ、最終的な根拠は「神」の側にあるのだからです。その「神」が聖書以外によって物語られる(「仏」を含む)偶像である以上、相対の絶対化という愚を犯すことになります。法蔵菩薩は元は比丘という人間にすぎません。それが修行によって阿弥陀仏になったとしても、それはけっして絶対かつ超越なる者とは言えないのです。イエスも人間ではありますが、神性を持つということで、いわゆる「神が人間になった」という受肉の教説は「神の子が人間になった」というふうに小田切信男氏のような解し方をしたところで、神性を有つ者が肉体を持ったということに変わりはないので、やはり神性者にはある種の序列をつけて解するしかありません。ヨハネ福音書17:3にあるとおり、「唯一の、まことの神でいますあなた」すなわち御父が最上位の「神(の中の神)」なのです。しかしそれを「同等」としているのが御父の「自己限定」ということで、聖書の神論はこの「神の自己限定」ということなしに論じても表面的理解にとどまります。

結局、自分のような者はキリスト教にとどまりながらも救いを望めない状況に生き続け、そしてそう長くない先に絶望的な死を迎えるわけです。

「肉体の死によって、からだを離れた霊魂は無意識な睡眠状態に陥るのでもなく、また消滅してしまうのでもありません。天国に行った信仰者の魂にしても、地獄に行った不信仰者の魂にしても、この世における以上のはっきりした意識を持ち続けるわけです。しかし信仰告白がはっきり語っているように、その意識の内容がまったく両者で異なるわけですね。『義人の霊魂は……光と栄光のうちに神のみ顔を見る』のに対して、『悪人の霊魂は……そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける』のです。」(前掲書p303)・・・「聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない」(前掲書p303)・・・「苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける」なんておそろしいですね。ただ「苦悩」と言っても生前のそれと根本的に異なるのは、生前はまだ「死」を経験してないので、死の恐怖に伴う苦悩が含まれますが、死後は永遠の恐怖ということになります。無限に苦しみ続けるということです。

「悪人たちは審判の日に、自分たちが不公平にとり扱われると感じるだろうか。—— 決して感じない。彼らが神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていないとしても、彼らは自分の良心をもって、神がその正義にしたがって、自分たちを厳密にとり扱って下さったことを知るのである。審判の日には、神の完全な正義が最終的に、すべての被造物の前に確立される。そして、すべてのものが神が義しいと告白するのである。神は不正だと神を非難しつつ、自分の生涯を送った人々も、自分の心の中で、神は義しいということと、自分たちが悪いということとを認識するにいたるのである。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版局〕p345~346)「神はきわめて善い方であり愛に富む方であるから、悪人を永遠に罰することはされないという考え方はどうか。―― あやまった考え方である。神の善と愛について私たちが知る道は、ただ聖書からだけである。その聖書は『神は愛である』と教えると共に、又、『神は焼きつくす火である』(ヘブル一二29)とも教えている。聖書の多くの教えの中から、あるものだけを選んでとりだすことはまちがっている。(中略)私たちが神の愛について、聖書が教えることを受け入れるのならば、又聖書が神の義と罪に対する神の怒りについて教えていることも、受け入れねばならない(ローマ一18)。」(前掲書p347~348)・・・そもそも「神の愛」の「愛」と訳された「アハバー/アガペー」を、人間の一般的な愛情と混同してはならないし、そもそも日本語としては「愛」と訳すことがベストだったかどうかもわからない。不適切な訳語だったからこそ、「愛に富む方であるから、悪人を永遠に罰することはされない」などという誤解が生じるのではないでしょうか?

改革派信仰において死後には天国か地獄かしかありません。「シェオール/ハデス」(陰府)も「ゲヘナ」(地獄)としてしか存在しないのです。

とにかく、理屈では確率50%とは言え、今の自分のままでは「善人」であるよりはるかに「悪人」の方であって、死後は最後の審判の結果、「天国」ではなく「地獄」に堕ちて永遠に苦しまなければならないであろうことは覚悟しておかなければならない。実際にはその確率の方が高い。但し、自分は悪人の中でも少しはマシな方だろうと思うのは、さすがに「神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていない」(前掲書p345)ということはない、それほどはひどくなくて、「愛」と言えるかどうかはともかく、神を畏れよと言われるように畏敬の念は信仰心において持っているからだ。主イエスに対しても、ヨハネ福音書における御父に対する従属的関係においては、自分たち信徒に対して「信仰の導き手であり、またその完成者である」(ヘブル12:2)と思えます。そして現時点で私にとっての最大の救いは、生前から死後状態を先取りするかたちにはなりますが、宇宙・世界の絶対主権者にして自分の人生の主権者でもある父・子・聖霊の三一神に対しては、「愛」と言えるかどうかは定かではないが、信仰心は得ており、その対象である「神」の聖定によって自分の人生が…これから死を迎え、その先に行く、そこでの状態が決められているということです。聖書が示す三一神…特に霊魂の父(ヘブル12:9~10)によって聖定されたことである以上、死後がいかなる状態になっても受け入れ得るということです。救いに選ばれている者もいない者もすべての人間およびすべての被造物が、この三一神によって永遠に聖定されているのです。