絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

創造的空(超「意味ー無意味」)と世界の現実(戦争と平和)と「倫理と理論と直観」

八木誠一によると、「神の支配」のもとでは、人間の行為は定められた律法によって決定されるのではなく、「神の支配」によって決定されるのであり、人間の側の意図的な判断を超えていることになるという。「敵を愛しなさい」というイエスの教えは、実際には実行不可能な究極の愛を命じることによって、人間の能力を超えた絶対的な神の計画やその崇高な命令を、逆説的に私たちに教え示しているのであろう。>(~「人類が生き残るために『敵を愛すること』は可能か?」(塩尻和子⦅筑波大学名誉教授⦆)

・・・「人間の能力を超えた絶対的な神の計画やその崇高な命令を、逆説的に私たちに教え示している」のだとして、その教示にどのような意味があるのですか?

世界宗教について、一般的には一神教は好戦的であり多神教は平和的であるかの如く云われますね。私はそこに多くの誤解や誤謬が混じっていると思っているのですが、それはともかく。ところで、チャンネル桜【討論】戦後日本と宗教[桜R5/12/20] (youtube.com)の中で、乙骨正生氏が言われた宗教の多元主義的なあり方というのは、世界史の現実が自分で言っておられるとおり、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のバチカンにおける祈りとか決め事とは違う結果になっているとおりで、「神」の御意は成るべくして成るわけで、人間が自発的に何を言い、何を行おうとも、それが神の定めに一致していない限り実現しないのです。いくらその場で乙骨氏が感動したかしれないけど興奮気味に言ったところで、成るべきことでないから成ってないわけ。きれいごとの観念論なんですよ、そこで乙骨氏が言ったことは…(上記の動画の2:00:00あたりからどうぞ)。

それを受けて富岡幸一郎氏は人権ではなく神権ということを強調したのはかろうじてクリスチャンを自称なさる立場を示しましたが、それでも宗教多元主義が必要だと言われたのはどうかなと思います。私見では、宗教多元主義は宗教の共生の前提とは言えません。それは、八木誠一氏や小田垣雅也氏なども批判しているとおりです。宗教多元主義というのは、必ずしも宗教の主旨に沿うあり方とは言えないからです。

小田垣氏の宗教多元主義への厳しい批判は、『コミュニケーションと宗教』(創文社)などに書かれています。特に「架空の高みに立って」云々などは我が意を得たりといった感じがします。(参考書評)_pdf (jst.go.jp)

また、上祐氏の発言にも誤りがあって、キリスト教善悪二元論の宗教であるかの如く言っておられますが、キリスト教は聖書のとおり創造主一元論です。サタンはヨブ記にあるとおり創造主の配下に位置付けられ、けっして対抗者たり得ないのです。また、「汎神論」的な宗教思想を好評価している点にも疑問を感じました。

私は世界平和に関しては、汎神論とか宗教多元主義の類とは異なる思想的立場に注目します。なぜなら私は、真の意味において「絶対」なる「神」は「創造的空」とでも呼ぶしかしようのない非対象というか超「対象ー非対象」の何かであり、それは自己限定において世界の現実に非戦平和を求める人間を然らしめて、矛盾した言い方ではありますがその理想型として具現していると思うからです。そこで、けっして宗教多元主義的立場ではなく、そんな単純な発想ではない宗教的実存の実例として、いわゆるバルティアンの関田寛雄という牧師の意見を引用しておきたいと思います。

「それぞれの文化・民族においてさまざまな宗教があるわけですが、一番の問題は自分の宗教をドグマティックに絶対化している。これが宗教の破綻であろうと思います。人類が新しい統合のシンボルを求めていくとすれば、まず原理主義から脱却しなければならない。キリスト教原理主義も、イスラム原理主義も悪魔化しています。およそ宗教というものが成熟していくならば、自分自身の特殊な信仰対象に真実に従うということを一貫しながら同時に他の宗教形態に対する寛容性をもつはずです。それは決して他の宗教に対する妥協ではありません。むしろ自分自身が信じている宗教の普遍性に目覚めればこそ、他の宗教に対して開かれていくという、そこにヤハウエという神の持つ非常に大きな意味があるのだと思います。わたしたちはイエスキリストに対する信仰を毫もゆるがせにすることはできません。しかし同時に本当にまじめに人権と、平和と、共に生きる社会を求めている諸宗教に対して、心を開き協力の手をさし伸ばすこと、そして自分自身の信じる信仰の一貫性を貫くと同時に他の宗教に寛容であること、それが自分自身の信仰の徹底のゆえにうまれてくる普遍性だと思います。そういうものを持たせてくれるのが、実は『ヤハウエ』というシンボルで言われていることではないか。」

聖書研究 – 全国キリスト教学校人権教育研究協議会

要するに、特殊に徹底することにおいて普遍的真理に到達する…といった弁証法的思想です。これも観念的思弁と言えば言えなくもないわけで、上記の動画の中で『宗教問題』編集長の小川寛大氏が指摘しておられるとおり、日本基督教団に代表される日本のプロテスタントキリスト教は「どっぷり戦後民主主義」であり、じつに日基教団がいちいち出している「声明」などを見ると、それでも宗教団体かと言いたくなるほど政治的関心が強すぎるわけです。いわゆる社会派と呼ばれる牧師たちがいて、関田氏もその一人でした。教団はその一方で霊魂救済への関心が弱いのではないかと疑いたくもなります。特にバルト神学の影響もあって、イエス・キリスト中心主義が度過ぎていて、青野太潮氏がパウロ神学を取り上げて指摘しておられる神中心主義的思想が後退しています。

「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)

また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christ-centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書p255256

「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263

宗教の主旨に沿ってなおかつ共生に開いてゆくあり方は、旧約のイスラエルにおける神信仰である拝一神教です。言わば相対的絶対主義です。下記を参照されたし。

<「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、拝一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教的だからである >(山我哲雄著『一神教の起源』筑摩書房p271~276)

ついでに関連すると思われる議論を引用しておきます。

「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)

この高柳氏の考えは詭弁のようにも思われます。「絶対」と「他者」とは論理的に結びつかないというわけです。しかし、だからと言ってなぜ「神」が「自己」の中のはたらきだということになるのでしょうか?飛躍としか言えません。対を絶するということは比べものが無いということであり、対象化できないということ…「空」とでも言うしかないってことなんです。

量義治氏の『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)では「絶対者」は認めるが三様に分け、「仏教の空は無的絶対者である。それに対して、アッラーは有的絶対者である。キリスト教の三位一体の神は単なる有的絶対者ではないであろう。」(p29)ということで、じゃあなんなの?と言えば、「絶対有にして絶対無」(p232他)とのこと。その根拠として挙げられているのが「ペリコレーシス」(相互相入説)です。これが三一神論では大いにクセモノです。

量氏は、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(p190)と述べ、さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(p292、293)と述べています。理屈としてはいかにもバランスがとれていそうですが、信仰を生きる実際の体験的事実に照らせばやはり観念的であることは否めません。量氏の思想には滝沢氏の言うところの「神と人との不可分・不可同・不可逆」における「不可逆」が弱いので、「絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもある」(p292)と言う場合に、「超越」が「内在」に先行しなければ聖書的ではないのに、その「不可逆」を言えないわけです。但し、直観レベルでは傾聴に値するところは多大です。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(p236)                                        そもそも量氏の神観ってどんなんだろう…と思って見てみますと、引用が前後して恐縮ですが次のように書いてありました。                                        「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(p108~109) 

私見では、「自我の内に吸収され解消される」といった神観は、日本人にありがちだと思われます。遠藤周作氏などもその一人でしょう。

量氏の前掲書の文言の引用に戻ります。

「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調おられます。そしてさらに、「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」と指摘しておられますが( p292~293)、この点、量氏は神論においては西田幾多郎氏はもちろん西谷啓治氏やその影響を受けた小田垣雅也氏など「有」より「無」に偏向した立場を超えていると思います。但し神学的には、三位一体論を「絶対有即絶対無」と解してクリアーできるかどうかは疑問です(p231~235参照)。

ところで、前記の高柳氏の考えは八木誠一氏や小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

前記のように、高柳氏の場合は次の引用文にみられるとおり、「唯一」が存在論的な意味ではなく関係論的意味だとするのと同様、先行する関心が常に民主的価値観であるから、「絶対」が「他者」と結びつかず、人間が絶対化される愚に陥っている。

「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師前掲文)

私見では遠藤周作氏の弱者イエスの宗教ほど不気味で無用な宗教はありません。そのような宗教こそアヘンとでも何とでも言って敬遠されて然りかと存じます。下記の動画で言われている「神の存在を信じていると、自分の行動を律するようになり、結果的に、他者からの評価が高くなる」…「神という見えない存在を意識した場合、まるで、自分が悪い事をしていないか、大きな存在に監視されているかのような錯覚を覚え、悪事を働く可能性が低くなる。」…「聖書などでは、我慢や自制、謙虚さなどを良いものとしている点も重要」…「これらは、他人の評価を上げるために必要なもの」…「そのため聖書の教えなどが長期間にわたって残り続けているのは、その内容が美徳だから語り継がれてきたわけではなく、自らの地位を守るために必要な、実用的な教えだったからと考える科学者もいる。つまり、信仰心を持っている人ほど、自らの行動を律するようになり、悪評が立つリスクが低くなると言える。これにより、結果的に仲間内での地位が高くなり、子孫を残せる確率が高くなった」といった単純極まりなき、信仰効果論もあるわけですが、すくなくとも「神について考えることは、自分が誰かに見られているという意識を高めるから、模範的な行動をとるようになる」なぜ人は神を信じるのか?【ゆっくり解説】 (youtube.com)

などということは頭の中での話であって、現実には必ずしもそうはなりません。「実用的」というなら、聖書から信仰の倫理・道徳的な面だけを抜き抱してきてもダメです。聖書の信仰については全体的にとらえなきゃ…。なぜなら、聖書における信仰主体は生身の人間なのだから、他にも性的なことや内面的なことなどいろんな悩み苦しみを抱えており、それによって信仰的行動が阻害されるということも往々にしてあり得るからです。例えば、職場の人間関係にストレスの苦悩を抱えている者が、神信仰を持っているとしても、その信仰によって本人がとるべき行為は、倫理・道徳的に模範的な行動である前に、その行動のエネルギーを促進するための心の状態を、より軽くして能動的にすることです。自分の場合であれば、自分が囚われている悩みから自分を解放するための神学的な認知行動療法です。それって要するに、絶対神信仰にもとづく苦悩主体である自我の相対化ないしはケノーシス(無化)にほかなりません。

「己を空しうし」(ピリピ2:7)に由来するイエスの生き様です。これは自尊心を棄てるということではなく、人間に先天的に備わっている自尊心は保持しつつも、信仰によって承認欲求を制限して用いてゆくということでせう。日本では稀有の女性宗教哲学者として知られる花岡(別名:川村)永子先生の言葉も引用致します。                                       

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。フィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

だから、個人と社会(共同体)とは区別はできるが対立的に論じることは無意味です。なぜならすくなくとも宗教的には、社会的(共同体的)な平和は、諸個人の内面的な平和(平安)抜きにしてはあり得ないからです。ところが宗教団体が政治に首を突っ込んで論じている時の意識では、個人と社会とが対立的構図に陥っているわけ。愚かなり、愚かなりです。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治氏前掲書 p292~293)

絶対有と絶対無との対立をも超えた「神」は「空」…否、単なる「空」ではなく「創造的空」としか呼びようもない。人格ー非人格を超えているだけではなく、意味ー無意味を超えているがゆえに、キリスト教神論の如く、川島隆一牧師の言われる「同情的イエス」の如き偽善的な左翼センチメンタリストたちの私的イエス像に蹂躙された偽神学によって浸食されるおそれもない。

 

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(諸雑記)

スピノザは『神あるいは自然』と言う。それは人類を世界の外から見守っている創造と審判の神ではない。『エチカ』によれば、われわれのいるこの世界がそっくり『神』であって、銀河も地球も人間も石ころも、みなこの『神あるいは自然』の具現である。どこまでいってもその外がない現実、それをスピノザは神だと言っているのである。自然という名の神には目的も何もない、ただ自分自身の必然性から存在し一切を生み出しているだけだ。こんなミもフタもない考えは、もう異端を通り越して唯物論無神論のように思える。(中略)そんなスピノザが書くのだから、『神学・政治論』は当然、攻撃的な無神論だと思うではないか。(中略)ところが、である。実際に読んでいくと、なんだか様子が変なのである。スピノザは、聖書は真理など教えてはいない。ただ服従を教えているだけだと断言する。(中略)だからこそ聖書は神聖であって、私は聖書の権威を台無しにするあらゆる試みから『神の言葉』を守るつもりだ。そんなことを言う。いや、少なくともそう言っているふうに見える。読んでいくと変なところはいっぱいある。たとえば聖書の預言者はまったく無知だったがそれでも十分信じるに値する、とか、七箇条からなる『普遍的信仰の教義』(?)なるものをわざわざ書き出して、これは真理である必要はないけれど万人が受け入れる義務がある、などと言っている。国家と宗教にしても、その結託を批判するどころか、国家は不敬虔な者を断固処罰する権限を持つ、などと言っている。つまり、どういうわけか無神論』と目される哲学者が聖書の権威を擁護しようとしているように見える。それもなんだか奇妙な仕方で。何だろう、これは?そんなの無神論の計算された戦略さ、と言うのは簡単である。実際、高名な政治学レオ・シュトラウスの偽装説にならってそんなふうに言う研究者は少なくない。考えてもみよ、当時は教会に行かないというだけで白眼視される時代である。無神論は迫害にそなえ偽装しなければならない。用心ゆえのカモフラージュかもしれないし、一般読者への配慮かもしれないが、いずれにせよ本心は別なところ、恐るべき無神論の伝播にある、読者よウラを悟れ、というわけだ。『神学・政治論』という本はあちこちで一見矛盾したことを言っているように見えるので、そう読まれてしまうのも無理はない。あとで見るように、当時の読者もたいていそう受け取った。うわべは敬虔を擁護するようなことを言いながら、こいつは密かに無神論を説こうとしているのだと。しかし、そうだろうか。どうも私は、そんなふうに片づけるとスピノザもとても大事な部分を見落とす気がする。ひょっとすると、スピノザの一見奇妙な議論は、案外ストレートで真剣なものかもしれない。(中略)いずれにせよ『神学・政治論』は無神論の常識を裏切る。だから得体が知れない。しかしそれは、この書物がわれわれの知らない未知の可能性を秘めているということではないか。」(上野修著『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』〔NHK出版〕p8~13)

ここで上野氏が「変」だとか「矛盾」だとか言っておられる原因として、上野氏を含むスピノザ研究者たちがスピノザに対して無神論者的な固定観念をもって臨んでいることがあるのではないでしょうか?スピノザユダヤ教の環境に生まれ育った人であり、宗教的影響は外部の人間の想像を超えるものだったでしょう。いかに異端的な言説を唱えてユダヤ教社会から追放されたとしても、スピノザの中にはユダヤ教の神信仰の核になるようなものは残存していた…むしろ異端として先鋭化されていったのかも知れません。だから「普遍的信仰の教義」といわれる7つの信条も、「真理である必要はないけれど万人が受け入れる義務がある」と言ったのは、すくなくともスピノザ自身、聖書が教えていることを認めた隣人愛による服従の対象となる人格的な神観を意識的か無意識的かによらず心の底に持っていたからではないかと推察します。これは自分も共通の神観を持つので直感的に言えるのであって、研究者たちにはスピノザのような人格神観のかけらも無いので宗教的な側面は理解できないのです。どうしてもスピノザの言葉の表面を表層意識でなぞってるだけなのでスピノザ無神論的神発言者という前提で捉えようとするのです。これが大きな間違いだと思います。スピノザの真意を捉えるためには、彼自身さえ自覚はしていなかったかもしれない心の中の人格神信仰の残影を、その深層意識の領域まで及ぶ霊的アンテナによって探ってゆくしかないのです。

< 人間は第三種認識においてよりすぐれているにしたがって、「それだけよく自己および神を意識する」(第五部定理三一備考)。スピノザによれば、その時に人間が感じるのは「神への知的愛」である。神への知的愛もまた、『エチカ』の中でよく知られたテーマの一つである。だが、結局のところ、それはいったい何なのだろうか。一見したところ神秘主義的にも思えるこの概念を、スピノザは観想の概念を使って次のように説明している。「この愛は精神が原因としての神の観念を伴いながら自己自身を観想する働きである」(第五部定理三六証明。」(~國分功一郎著『スピノザ ―― 読む人の肖像』〔岩波新書〕p332)「神」に対して「知的」であれ何であれ「愛」ということを言えば、大体がその「神」は人格的な面があるものだ。スピノザの場合も人格的神観を全く捨てていたわけではないだろう。たとえ自分は非人格的神観に大きく傾いていたとしても、「神」を(擬人的にではなく)人格的に信仰する宗教は認めていたと思うし、それは倫理がそのような信仰においてこそ現れると思っていたでしょう。だから信仰形態は異なれど、同じ「神」に対するものとして聖書の宗教(ユダヤ教キリスト教)を全否定していたわけではなく、むしろ隣人愛による服従といった倫理的な面ではその意義を認めていたと思われます。だからスピノザの思想については単に「無神論」だとか「汎神論」だとか言って済まされるような表層的というか浅薄な内容ではないってことです。

「実体という概念はデカルトから受け継いだものだ。デカルトは実体というものを、世界の根本的な構成原理と考えた。あるいは世界の根本的な構成原理を実体という言葉で呼んだ。しかして実体には二種類あると言った。精神と物体である。言い換えれば思惟と延長ということになる。それに対して神は、この世界を超越したものとして、実体とは異なるものと考えられた。したがって、この世界から超越した神の存在についての証明をするように迫られた。この世界に内在するものであれば、存在は必然的なこととなるが、この世界から超越しているということになれば、存在は必ずしも必然的とは言えないからだ。しかしデカルトによる神の存在証明は、万人に納得できるほど自明なものとは思われなかった。この世界から超越しているということは、この世界の外側にあるということである。この世界の内側に生きている我々人間が、この世界の外側にあるものを、どうして認識することができるのか。そういう疑問がつねにつきまとうからである。スピノザは、神を実体だとした。しかして、実体とはこの世界の根本的な構成原理だとした。ということは、神は超越的なもの、この世界の外側にあるものではなく、この世界の内側にあって、世界の原因となっているものである、ということになる。実在している世界の原因なのだから、神は無論存在していることが前提となる。存在していないもの、つまり無から、存在すなわち有が生まれることはないからだ。ここがスピノザを、デカルトから決定的に隔てるところである。デカルトには、キリスト教の超越的な神を、疑いえない前提とする素朴な信念があった。だからこそ、その超越神の存在について、やっきになって証明しようとしたわけであろう。(中略)存在する、しかも絶対的に、無限に、永遠に存在するものが実体であるとすれば、それを神という言葉で呼ぶことに不都合はないはずだ。神はだから、超越的な存在として、世界の外部から世界に働きかけるのではなく、世界に内在するものとして、世界の内側から世界に働きかける、というか世界を絶えず生成させているものなのである。そのような神が、果たして神の名に値するのか、という疑問はあると思う。しかしスピノザは、そうした疑問を妄想だとしてしりぞける。彼は神を世界に内在する構成原理だとすることで、キリスト教的な神の概念から大きく逸脱したわけである。スピノザの神は、この世界そのもののことを意味するのだ。」

スピノザの「エチカ」その二:神について (hix05.com)

「神は、この世界を超越したものとして、実体とは異なるものと考えられた」は誤解の可能性がある。デカルトは「厳密な意味での実体は神のみである」としているからだ(ルネ・デカルト著『哲学の原理(原題:プリンキピア・フィロソフィー)』Ⅰ,51.⦅t. VIII-1,p.24⦆~福居純氏の「デカルトにおける『実体の表現』の問題」p312)。 ronso0850300010.pdf (hit-u.ac.jp)

「完全独立存在という実体条件は神以外のものに適用されるには余りに強すぎるのである。そこでデカルトは、52節で、より弱い意味の実体概念を『存在するために神の強力だけしか必要としない』ものと規定する。」(~松田克進氏の論文「『哲学の原理』第1部に於けるデカルトの実体論」p23)236175931.pdf (core.ac.uk)

デカルトにとって「神」は「無限実体」で「物体と精神」は「有限実体」であるとされました。「無限実体」は「無限」なのですから「延長」(=空間的な広がり)はないってことでしょう。

いずれにせよ小田垣雅也氏にかかれば、そもそも「神」は非対象ということになりますが、それは理屈の上であり、認識し信仰する以上は対象性なしにあり得ません。とにかく、汎神教の「スピノザの神」に「超越」性を加えれば汎在神教の「神」になるので、自分にとっての聖書的な「全一神」になるでしょう。要は「神の大きさ」と「神の非人間性」(…「非人間」性は「非人格」性にあらず!)であり、前者は「絶対→無限(…万有包括者なので無限「大」)」であり、後者は対人関係での苦しみからの救いを「神」に求める者が「神」を擬人化することによって「対神関係」を「対人関係」にするようなことをすればオウンゴールになってしまうということ。
スピノザの「必然主義」と擬人神化の否定に学ぶ理由は、むしろ頌栄であり、対神関係を対人関係化してしまって、神をも怒りや憎悪の対象としないため、そのために神義論的問いが生じないように神の擬人化は避けるが、それと人格神観の否定とは直結しない。人格神観が神の擬人化に陥る危険を伴うとしても、擬人神観とか神人同形説などは否定されなければならない。スピノザに欠けがあるとすれば、擬人神と人格神との区別が曖昧なために、汎神論だとされ、汎在神論とは言われないということだろうか?いずれにせよ、聖書的創造信仰…無からの創造が成立し得なければならない。鈴木 泉「必然主義の哲学―スピノザと共にあまりに人間的な偶然性概念を消去しよう―」(2017年度朝日講座〈偶然〉という回路「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」第8回) - YouTube

スピノザは「神」を深く愛した人だったようです。上野修氏は、スピノザは自分に対する「無神論者」との風評を否定し、むしろ神を肯定していた旨を指摘され、それを「過剰な神の肯定」と表現しておられます(22:20あたりから…上野修教授最終講義「大いなる逆説スピノザ」(1/3) - YouTube)。スピノザの「神」への「肯定」すなわち愛は深すぎて逆説的に「神」を形而上学的に高度に抽象化させて「人格」が否定し去られたとか希薄化したと誤解されるほどになってしまったのでしょう。真実はただただ「神」への深い愛の結果であったと感じられます。愛の対象となる「神」は人格的存在であることは聖書解釈として常識です。従ってその「愛」がスピノザにおいては「アーハブ、ヘセド/アガペー」とは異質なものであるかもだし、一般的には「スピノザの神」はユダヤキリスト教的な「人格神」では無いと云われています。(以下、引用)

スピノザの代表的な著作である『エチカ』における「神」概念は特殊です。というのも、スピノザの『エチカ』においての「神」は、あのイエス様的な人格を持った"いかにもな神様"ではなく、現代で言う「自然法則」のような意味だからです。國分さんによると、スピノザは「神は無限である=外部を持たない=すべては神の中にある」という思想です。(中略)スピノザは、「普段は経験できないし知覚できない超自然的な(=自然を超え出た)カミサマ」なんていなくて、あるのは"法則"だけだぜ」と現代からするとマトモなことを言ってたわけですね。つまり「神即自然」とは、要するに「あなたも僕も周りのモノもすべては神(法則)の中=あなたも僕も周りのモノもずっと普遍的な法則に貫かれている」ということです。>『はじめてのスピノザ』(國分功一郎著)の要点やおもろい内容を紹介|うぇい@哲学 (note.com)

それならスピノザは何故、「神即自然」(Deus sive Natura)の「神」(Deus)を言ったのか…?ということになります。法則なら法則、自然なら自然だけを言えばよさそうなものを、「神」にこだわったのは時代背景だけが理由ではないでしょう。神学的には「神の世界内在」の強調ということになるようです。(以下、引用。太字は私記。)

 < この世にも「神の国」があると考えるモルトマンが採用する汎内神論とはいかなるものか。後期において「汎神論(Pantheismus)」を採らず、「汎内神論(Panentheismus)」を展開するモルトマンの主張を吟味してみよう。先ず汎神論とは、万物に神性が宿るという考え方である。スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)は「神即自然(deus sive natura)」を唱えて、神の世界内在を一方的に強調した。他方、汎内神論は、神が世界、もしくは宇宙に内在すると共に超越するという考え方である。モルトマンは「神の世界内在(Weltimmanenz)なしに神の世界超越(Welttranszendenz)を考えることは決してできない。また逆に、神の世界超越なしに進化する神の世界内在を考えることは決してできない」と重なり合った両者について述べる。そして「世界の神的な彼岸について有意義に語られるのは、世界の中の神的な此岸が認められる時だけである。そしてまたその逆でもある」と教会が彼岸のみへと退いて行ったことを非難する。そして特徴的なこととして「単純な汎神論が永遠の神の現在だけを見る所で、汎内神論は将来の超越、進化と志向性を認識することができる」と主張する。モルトマンは終末論において現在的終末論という視点は採らず、将来的終末論を提唱するが、彼の主張する内在と超越は、静的な「永遠の今」ではなく、「進化のプロセス(Evolutionsprozesse)」の中に現れるのである。モルトマンによればその「進化のプロセス」を導くのは内在する聖霊である。人はこの世に内在する聖霊を経験することにより希望を持ち、将来を汎内神論的理解によって捉えるからである。>(~関口佐和子氏の博士論文「モルトマン神学における『神の国』理解)

モルトマンは『創造における神』の中で「神の世界内在(Weltimmanenz)なしに神の世界超越(Welttranszendenz)を考えることは決してできない。また逆に、神の世界超越なしに進化する神の世界内在を考えることは決してできない」と述べる。ここで注意したいのは、「進化する(evolutiv)」という言葉である。モルトマンは創造論において汎神論(Pantheismus)を採らず、汎内神論(Panentheismus)を展開するが、「汎内神論は将来の超越、進化と志向性を認識することができる」と考える。西田幾多郎は「万有在神論(Panentheismus)」という訳語を使い、「自らを、汎神論者ではなくして、むしろ万有在神論者であると称している」。この西田の概念には将来的終末論も現在的終末論も共に含まれていると理解されうる。つまりモルトマンも西田も終末論的将来という視点を採用するのである。しかしモルトマンは現在的終末論という視点は採らない。>(~関口佐和子氏の論文「モルトマンの宇宙的キリスト論 」)

< 汎神論は、こう説明されています。「宇宙と神とを同一視し、それゆえ神の人格性、道徳性、超越性を認めない宗教的信念や哲学説。…正統教会の立場からは、神の超越性を侵害する無神論として指弾された」(『岩波キリスト教辞典』) また、汎在神論という言葉を紹介している井上洋治神父は、この意味を、こう説明しています。パウロの考えによれば、キリスト教は、決して自然と神とを同一視する汎神論ではないけれども、万物が根をキリストにおいて同じくしているという意味では、汎在キリスト論だということがいえましょう。そしてキリストが、三位一体の神の第二のペルソナであるならば、汎在キリスト論はとりもなおさず汎在神論であるといえるはずです」(『風の薫り』あとがき、聖母の騎士社) >汎神論と汎在神論: ケーベル先生とともに (cocolog-nifty.com)

井上洋治神父の「汎在神論」は「汎在キリスト論」ということで、またしてもキリスト中心主義かあ~と感じます。

< もし神の本質が人格なき存在に求められるならば、神はこの世に在るものをその背後で支える根拠ということになるだろう。神は事物に内在(Immanenz)するのである。しかしここに困難が生ずる。なるほどこのような神は概念として比類ない純度を獲得しているが、この純度とひきかえに、神を事物から区別する明確な境界線が失われるのである。スピノザが神と事物を混同する汎神論者であるという非難はここに淵源する。もっともスピノザ自身がこの問題に決して無頓着ではなかったことは、いわゆる「能産的自然」と「所産的自然」の対比を考えてみれば、容易に理解できる。超越(Transzendenz)という完全な断絶を手放してしまった以上、神と事物のあいだの関係を明らかにする事が重要な課題となる。もしここで全面的に理性の声に従うならば、(当時これは理性の逸脱的誤用として厳しくいましめられていたが、神は事物に他ならないということになろう。スピノザ主義者にはこのような大胆な(しかし首尾一貫した)道をとる者が確かにいた。 >(~海老坂高氏の論文「スピノザ主義」)C:\WINDOWS\デスクトップ\15\帝京国際 (teikyo-u.ac.jp)

コリント第一15:28では、神はすべてにおいてすべてになるのだから、神には本来、霊的・精神的な面だけではなく事物的な面もあるとみて然りだ。そうするとまた、プロセス神学のチャールズ・ハートショーン(or ハーツホーン)の神論に戻ります(彼の神理解については、本多峰子氏の論文「プロセス神学の神義論」の中でもふれられている。229745916.pdf (core.ac.uk) )。

すなわち「神」というのは、創造神と被造界の宇宙とをセットで言うのであって、原因(創造)と結果(宇宙)は「神」の両面だというわけです(~喜田川信著『神・キリスト・悪』p13参照)。でもハートショーンは、「ホワイトヘッドの理念をさらに発展させて、生成は本質存在、無限、永遠と共に神の属性の一つであるとし、神もまた有限で時間的なものであるとした。ハートショーンは神はプロセスそのものであると言い切った」(~Wikipedia「プロセス神学」)とのことでなので、自分の絶対的主権者としての創造神観とは合いません。

<破られた神話としてなおも存在意味を失っていないとするのか、あるいは神話機能自体が喪失されもはや存在意味を失ってしまったとするのか、という点で、ティリッヒは前者を選択し、アインシュタインは後者を選択するのである。アインシュタインに関しては、すでに論じたように、後者を選択した上で、近代の精神状況にふさわしい「真の宗教」として、「宇宙的な宗教感情」が語られるのである。この「真の宗教」の神は伝統的な人格神ではなく、スピノザ的な神である―つまり、アインシュタイン無宗教でないばかりでなく、無神論でもない。これに対して前者の破られた神話としての人格神象徴の保持を選択するティリッヒについては、なぜ、そのような選択がなされたのか、が問われねばならない。>、アインシュタインスピノザの間には神理解において相違も見られる。「アインシュタインが、自然を認識する者が神を認識するという点で、スピノザに同意するのは、自然が神であるからではなく、自然研究における科学の探究が神へと導くからである。」(Jammer[1999], pp.148-149) >(~芦名定道氏の論文「ティリッヒアインシュタイン:人格神をめぐって」)ashina_5.pdf (kyoto-u.ac.jp)

たしかにスピノザの「神」はユダヤキリスト教における「伝統的」な意味での「人格神」ではないだろう。しかしそれは表層意識(言語レベル)でのことであって、深層意識においては表層において「人格」と表現されてくる事柄の実質とは異質な「神」ではないと私は直観します。スピノザユダヤ教徒2世であり、その信仰を本人の深層意識において受け継いでいるはずだと思うからです。子ども時代に植え付けられた宗教心というものはとても根深いのです。これはスピノザ研究者とは言え、國分氏その他の無神論者には思い及ばないことでしょう。たしかにスピノザは表層意識においては異端化して共同体から破門されることにはなりましたが、そういうのは宗教にはあり得ることだし、破門とまではいかずとも信仰内容に曲折が生じることは自分なども経験していることです。だからスピノザの思想は、ユダヤ教の信仰…すなわちキリスト教で言う「旧約聖書」をユダヤ教団が解釈したその内容(教義)とは異なる部分もあるのでしょうが、意識の表層においては「人格神」…というか「人格」という言葉で言い表わされ翻訳されている事柄が否定されていたとしても、スピノザ自身でさえ気づかないような意識の深層においても否定することになっていたのかどうか…すなわち無神論者と同様になっていたのかどうかは、スピノザが自覚的に細かい議論を展開していない以上、断定できないと思います。自分が彼に関する言葉を読んだ感じでは、スピノザがその存在を否定したのはあくまでもユダヤキリスト教の「人格神」ないしは宗教学で定義されるような「人格神」一般であって、「神」の人格性それ自体ではなかったのではないか…?と思われるのです。それはあまりに「愛」のことが多く語られているからです。そもそもスピノザ研究において「人格神」を否定してきた人たちというのはその多くが無神論者ないしは無信仰者ではないかと思われます。観念として「人格神」というものを知っているにすぎません。「信仰」なき者にはこの点、限界があると思います。自ら体験してみなければわからない「神」との関係…日本語では「人格(的)」とか「愛」といった言葉を用いなければわからないことがあると思います。その領域は神学に入ってくるのでしょう。自分は、ヤスパース選集23 スピノザ <ヤスパース選集> を読んでみたいと思います。ヤスパースの「包括者」がスピノザの「神即自然」の「神」概念の影響をどのように受け、またそこにスピノザ独自の観方がどのように表わされているかを知りたいからです。カール・ヤスパース『スピノザ』(原書1957, 訳書1967) 理想社 ヤスパース選集23 - 読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ (hatenablog.com)

いずれせよ自分は、人間の自我に解消されるような「神」は断じて信仰対象とは認めません。そもそもスピノザの「神」もヤスパースの「包括者」も対象化できないわけですが…。私見では、すくなくとも日本において従来の通俗的な「スピノザの神=汎神論の神」理解とは違う「スピノザの神」への観方を見い出すためには(…すなわち外形的には「汎神論」ではあっても多神教的な「汎神論」とは区別される一神教的な「汎神論」であり、「汎在神論」との違いを論じ、「人格」性も全否定するのではなく、いくらか残存するといった…)スピノザ研究者の中にクリスチャンなど一神教徒がいないかを調べて、いたらその人のスピノザ哲学に対する関心や着眼点を聞き出してみないことにはどうしようもないのです。「スピノザの神」に関する真相を知るためには、研究者自身に聖書の「神」に対する「信仰」(愛)がなければならないし、さらには神学以外の専門分野として、精神分析というか深層心理学的な観点での研究も必要になると思われます。なぜならスピノザユダヤ教の環境に生育しており、いかに20代前半で共同体から破門されるような事態に至ったとは言え、彼の中には伝統的な神観・信仰心が刷り込まれていて、それが希釈されたとしても根っからの無神論者のようになっていたわけではないからです。だからこそ「神」にこだわり「愛」を語っているのでしょう。スピノザ研究は神学をかじってもいない無信仰者には限界ある作業なのではないでしょうか?

(以下、引用)

スピノザは実体と実体の様態を厳密に区別している。そこが理解の分かれ目となるだろう。神は実体でわれわれ人間は実体の様態である。そこはきちんと分けて考えなければならない。様態に『理性の有』としての全体や部分を見ているだけで、実体には部分も全体もない。ここまでは仮に理解し納得できたと仮定してみることも可能だ。しかし、次の精神についての認識の前には足を止める。スピノザは無機物も有機物も有情も非情もいっさい区別なく精神を持つという。精神の有無では物のあいだに違いは認められない。この認識をベースに語られるのがスピノザの心身合一なのであるが、にわかには受け入れがたい。しかし私はスピノザ好きなので単に受け入れてしまいたいという誘惑にも駆られる。」スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』で境界のない世界像に触れる - 読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ (hatenablog.com)

(以下、引用)

「だがスピノザの神への愛は、どんな宗教家よりも強かったのである。神は我々一人一人にとって外的な信仰の対象ではない。神は我々自身の中にそのままに現れているのであり、したがって我々自身に命を授けてくださっている。有機体の一部が全体あって初めて存在できるように、我々は神が存在の一部なのである。だから我々は神を愛すべき十分な理由がある。精神の最高善とは神についての知識であり、最高の徳とは神を知ることである。こうスピノザはいう。こんなところから、スピノザを称して『神に酔える哲学者』というようになった。だがスピノザの神は、キリストの神を含めてこの地上で信じられているどんな神とも似ていなかった。彼の思想が長い間誰からも評価されなかった所以である。」スピノザの神 (hix05.com)

スピノザの「汎神論」については「過剰な神の肯定」(~上野修氏)と言われています。彼はユダヤ教の共同体から破門されて無神論者とも言われているにせよ、ユダヤ教徒の環境で育ったので、彼は書簡で自分がヘブライ的伝統を自覚的に受け継いでいることを告白しています。「神」の絶対性への賛美・頌栄から形而上学的抽象化に至っているのがスピノザ哲学の特徴と言えるかもしれません。そして私たちも「神」の絶対性への頌栄のゆえにこそ形而上学的抽象化を否定はしないのです。

スピノザは次のように述べている。『私は神と自然について、現代のキリスト教徒たちが擁護する見解とはかなり異なる見解を採りたいと思っています。すなわち、彼らの言い方にしたがえば、神をあらゆる諸事物の他動因ではなく内在因だとみなすということです。あらゆるものが神のうちにあり、神のうちで動かされるということを、私はパウロとともに、そして別の仕方ではあるけれども古代のすべての哲学者たちとともに肯定するのだと言いましょう。また、古代のすべてのヘブライ人たちとともに、そのことを肯定するともあえて言いましょう。古代のヘブライ人たちの伝統は、多くの仕方で破壊されてしまいましたが、その伝統から推測できるかぎりにおいて、私はそう言うのです」(笠松和也氏の論文「〈史料研究〉クリストフ・ヴィティヒ『アンチ・スピノザ』を読む(3)訳と注解」より。 Ep 73; G IV, 307, 3–11.)

007009.pdf (jinbunxshakai.org)

現実に起きていることはすべて神のわざであると考えていた点では、彼の母国オランダで支配的な改革派(カルヴァン派キリスト教の教説にも通じる部分があります。

上野修教授最終講義「大いなる逆説スピノザ」(1/3) - YouTube

スピノザの「神即自然」と訳されている語は「Deus sive Natura 」で すが、「sive」は「即ち」という意味よりも「もしくは」という意味の 方が強いと思います。ちなみに上野修氏は、「神あるいは自然」(Deus seu -Natura)とラテン語訳にしています(『スピノザの世界 神あるいは自然』〔講談社現代新 書〕p75)。私見ではスピノザの一元論は徹底一元論ではなく、言わ ば「不一不二」元論だと思います。「神=実体」と「自然=属性、様 態」との二面を区別するからです。一元論なら「神」を言う必要はないはずです。殊に「神」の人格性が否定され、完全に無しとされるのであれば、「神即自然」の「自然」の方だけ言えば済む話でしょう。ところが「神即自然」というふうに「神」と「自然」と両方が言われているのは、「神」の人格性も擬人化に陥らないための必要最低限度は認められているからであり、「即」の関係で言われなければならないわけで、それは一元論ではなく、さりとて二元論でもなく…すなわち「不一不二」元論だということになります。しかも「神」と「自然」とは「不可分」であるだけでなく、すくなくとも名称が異なるという点では「不可同」であり、さらにスピノザの場合、ユダヤ教的神観・神信仰の素地があるので、神の人格性はユダヤキリスト教に比べれば希薄であるとは言えても無いわけではないので、キリスト教的な創造は認めないにせよ自然界については被造物という見方がある以上、「神即自然」の「神」(創造主)と「自然」(被造物)との「不可逆」の関係が認められるので、「即」は単なる等号(=)ではなく不等号( >)を伴う「不可逆」の「即」ということになります。

「人間も創造されるのではなく、神のうちに産出されるのだとスピノザは考える。」

tanemura.la.coocan.jp/re2_index/S/spinoza.html

スピノザは自然を大きく二種類に、つまり一方で第一原因としての唯一の実体あるいは「神」としての「能産的自然」と、神に依存しかつ神から生じる事物としてのすべての様態からなる「所産的自然」とに区別している(KV 1, 8)。後者は「神から直接に創造された結果」などとも比喩されている(KV 1, 9)。所産的自然(諸様態)は、さらに二種類に分類される。一つは「神に直接依存するすべての様態からなる」「普遍的な所産的自然」、もう一つは「普遍的な様態から生ずるすべての個物からなる」「個別的な所産的自然」である。>(~佐々木晃也氏の論文「スピノザ『エチカ』における共通概念の対象 ― Proportio の概念史的な含意― )6779d6c7524221119372f90b5794064c.pdf (osaka-u.ac.jp)

スピノザの「汎神論」は、日本のアニミズム的・多神教的な「汎神論」とは違って「神」を「唯一の実体」と言っているとおり、唯一神信仰の影響が見られます。無からの創造が独自の解釈で受け継がれているとしても、スピノザの「神」は超越的な人格神ではないので、キリスト教的有神論的な創造神とは異なるのです。

「[11]するとどう言えばいいのだろうか! もし神があらゆる被造物を無から産出したことが不条理であり、かつ知解作用が知解する神から流出するのと同様に、あらゆるものが神から流出するということもまた、われわれが今しがた示したとおり不条理だとすれば、あらゆるものが神に由来するということが誤りだと言わなければならないのではないだろうか。これは私たちの考えからかけ離れている。むしろ神があらゆるものを無から産出したということが本当に不条理であるのかどうかを吟味しようではないか。[12]だが、われわれは、自らの把握力を超えるものをただちに不条理なものとみなしてしまうということに注意しなければならない。それはあたかもわれわれの知性が諸事物の尺度となり、そうしてわれわれが神に成り変わるかのようなものである。むしろ、われわれは、自らが有限である一方、神の力能は無限であり、それゆえわれわれが知解することで追いかけることのできるものよりもはるかに多くのものを神が生じさせうるということを、いっそうしばしば思惟し、自らの魂に向けて喚起することにしよう。ゆえに、たとえ神が何らかのものを無から作ったその作用をわれわれが知解しないとしても、そのことがそうした作用を否定する十分な理由になるのだろうか。」(~笠松氏前掲論文)

彼自身は自分の思想を「汎神論」であるとは認めていなかったようです。『スピノザ往復書簡集』(岩波文庫)によると、彼は、神と自然を同一視する思想に立っている事を否定しています。神と物質を混同していると非難されていることは心外だったようです。「人々が私の立場は神と自然を同一視する思想に立っていると考えているのは、自然というものを一定の質料あるいは物体と理解しての上のことですから、全然間違いです。」(書簡73) 

スピノザも、自説がキリスト教の見解と異なることをはっきり自覚しており、返信には、『私は敢えて、いっさいが神の中に生き神の中に動いていると主張しています』(書簡73)とまで断言している。」書斎の窓 2018年7月号 市場ゲームと福祉ゲーム④ 救済という非合理 稲沢公一 (yuhikaku.co.jp)

以下は、前に引用した記事の筆者である稲沢公一氏の見解です。専門家ではない人の意見なのであまり参考にはできませんが、スピノザの「神」と「自然」との関係を不等式とか等式を用いて表現している点で自分と似ているので引用してみました。

「創造主である超越神という捉え方からすると、前回のスピノザがいかに異端であったかがわかる。彼は、神>『すべて』という不等式を神=『すべて』(「神即自然」)という等式に変換してしまった。それによって神と『すべて』との間にあった落差は解消され、人間は罪の意識をもつ必要もなくなり、裁きの神もいなくなった。」

稲沢氏の見解では、ユダや・キリスト教の「神 > 自然」⇒ スピノザ哲学の「神=自然」ということのようですが、私はそもそも聖書の汎在神論的解釈では「神 ≧ 自然」であり、スピノザの場合も「神」と「自然」とがまったく同一とはされていないようであり、「神」の「自然」に対する不可逆性が認められているなら、そこに超越性が認められるので「神 ≧ 自然」…すなわち「汎神論」というより「汎在神論」の方に近づくと思う。スピノザに欠けがあるとすれば、擬人神と人格神との区別が曖昧なために、汎神論だとされ、汎在神論とは言われないということでしょうか?いずれにせよ、聖書的創造信仰…無からの創造が成立し得なければならなりません。

スピノザの「汎神論」にも教義があったそうな。以下の内容から察するに、スピノザの「神」はユダヤキリスト教のように、擬人的ではないが人格的ではある…そういう部分はあるようです。なにせ「聖書の教義」なんてことを言うんだから…。本当に、スピノザは「汎神論者」だったのでしょうか?

「第十四章でスピノザは次の七箇条を聖書の教義として書き出している(下巻一三八-一三九頁)。

一、神、いいかえれば正義と愛の生き方の真のお手本となるような最高の有が存在する。

二、神は唯一である。

三、神は遍在する。

四、神は万物に対する最高の権利と最高の権力を持つ。

五、神への崇敬と服従は正義と愛すなわち隣人愛のうちにのみ存する。

六、神に服従する者は救われ、服従しない者は捨てられる。

七、神は悔い改める者をゆるす。

いったい『無神論者』みたいに見えるスピノザが、なぜこんなことを……と人は驚き怪しんできた。しかしわれわれはもう、スピノザが次のように言っても驚かない。信仰は真なる教義よりはむしろ敬虔な教義を、いいかえると精神を服従へと動かすような教義を要求する。たとえそうした教義のうちに真理の影さえ持たないものが多くあっても、受け入れる者が虚偽であると知らなければかまわない。さもないとその者は必然的に反逆者になってしまうだろうから。(下巻一三五頁)」(上野修著『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』〔NHK出版〕p52~53)

「1.神の存在 2.神の単一性 3.神の遍在と正義 4.神は至高の権利を以て万物を支配すること。5.神への敬虔や服従とは、正義と隣人愛を指す。6.こうした生き方によって神に従う人は救われる。7.人がもし悔い改めるなら、神はその人の罪を赦す。

第7条にキリストへの言及があるものの、基本的にはユダヤ教徒にもキリスト教徒にも受け入れられうる、公約数のような最低限の教義であり、逆にいえば創造も三位一体も魂の不死もなく、ヘブライズムの根幹をなすともいえる神の人格性と超越性が、限りなく希薄になった教義でもある。7箇条あるが、中心となっていてその後の議論でもずっと効力を及ぼしているのは、第5条つまり敬虔(pietas)、服従、正義、隣人愛である。」(~川添美央子氏の論文「スピノザの寛容論における神学と哲学」)

(以下、引用。太字は私記。)

「限りなく希薄になった」としても「人格性と超越性」がスピノザの思想には見られるということであり、それならスピノザの思想を「汎神論」と言い表わすにせよ、その「汎神論」の意味は、日本の宗教において言われる「汎神論」とはかなり違うということになるでしょう。擬人化された神と人格的な神とは違います。スピノザは前者については否定したけど後者については…つまり人格神それ自体は否定していないのではないでしょうか?そうでなければ、「神」について聖書の教義がどうの、正義とか愛がどうの…と言うこと自体、矛盾します。私が神の擬人化とか神人同形説を否定する理由は、それによって神を相対化してしまうからです。その結果、神義論的な問いが生じてしまい、神を神として信仰することができにくくなるからです。つまり神を擬人的にイメージするから、自分にとって不都合な出来事が起きると神義論的な問いに襲われたり、それは神の試練だの裁きだのといった解釈で納得しようとするのですが、対神関係を対人関係化することになるので、人間関係に生じるストレスの苦しみを神との関係でも抱えることになり、本当なら対人関係での苦悩を緩和して救ってもらいたい対神関係が、対人関係化することによって、別にもうひとつ苦悩を抱えることになるわけです。だから自分は、擬人神観は否定しても人格神観は否定しません。人格神観は擬人神観に直結するおそれがあることは、並木浩一氏の私信からも知らされていますが、さりとて人格神観と擬人神観とを混同してどちらも否定することは、赤子と一緒に盥の水を捨てるようなものです。神に対して怒りや憎悪などマイナスの感情を持ちたくないからこそ、神を擬人化することは避けなければなりません。

自分にとって悩みの元である人間(関係)に神(との関係)を引き下げるようなことはしてはならない、命取りになります。神の超越性とは、万物に内在しても従属はしないということです。また、スピノザが偶然性を否定して必然性を強調し、人間の自由意志をも否定するのは、偽善的な行為義認主義を排するという意味で自分にとっては重要だと思われる。私情にかられての行為は、神であれ人間であれ良いことにはならないと思われます。(以下、引用。太字は私記。)

やはり自分は、「よしんばそのかかわる対象が非真理であったとしえも、主体のかかわり方が真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っているのだ」というキルケゴールの考えを神信仰に適用することは無理だと悟りました。つまり、対象がいかなる存在かを問わずして主体のかかわり方も決まらないのです。つまり「神」のいかなる存在かもわからないのに、誠実な信仰態度を求めるなんてことは実際のところ無理ってことです。

真理は主体性にあり:キルケゴールの真理論 (hix05.com)      

キルケゴールにとって「真理」は、自ら「道、真理、いのち」だと言われた(ヨハネ14:6)イエス・キリストとしての面もあるのでしょうが、自分はこの場合の「真理」をキリストとは思えないし、ましてや(三一の)「神」とは思えません。信仰の対象のイメージがまったく無しには、信者の関わり方、信仰態度、礼拝の態度が「霊とまこと」(ヨハネ4:23)によるものとはならないからです。もちろん信仰対象・礼拝対象である「神」のイメージ(神観)は聖霊によって備えられるものと信じます。その先行なしには霊的で誠実な態度は生じてこないのです。

以下、引用。太字色付けのは私記。

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私が過剰な自尊心と言っていることを専門用語では神経症的自尊心と言うのかな?と思いきや、加藤諦三 | 神経症的自尊心 (katotaizo.com)どうもそうではないらしいことがわかりました。と言うのは私が過剰な自尊心と言うのはまさにそのままの意味であり、必ずしも虚勢を張るといった態度になるとは限りません。問題は自尊心が過ぎてるから傷つきやすいわけです。べつに大言壮語することではないんです。傷つきやすいので、他人と接触することを恐れます。特に職場関係では自分が上司や同僚などから軽んじられている、なめられていることがわかるので、なにか傷つくような言葉を投げかけられたりはせぬかと常にびくびくしているわけです。その傷つく自分は、もうひとりの自分であり、この自分からみれば扱いかねる自分ですが、放置するわけにはいかないので、何らかの方法によって(セルフ・マインドコントロールとか自己洗脳とかいうことが実際に可能なら、強い自分にできるのでしょうが…)、その恐怖や不安に耐えてゆくしかないのです。

いちいち傷つくことには疲れて飽き飽きしている自分がいます。その自分のままでは身がもちません。それで広義の洗脳を自分に対してやらなければならないと思うのです。自分では自己洗脳と言っていますが、洗脳とまでは言えないにせよ、要は自分の脳に暗示をかけるとか錯覚させるとでも言いましょうか…。思い込みですね。自分は救われているんだ、だからこんなことをいちいち気にすることはおかしいし、そんな必要なんかないんだ~と自分に言い聞かせるわけです。そう、人間関係において、気にさわることはあってもそれにいちいち囚われないだけの余裕を心に持つためには、「救われている人間」としての言動はいかにあるべきかを考えることが有効だと思います。まず自信を持つのです。救われていることを確信すべきです。すなわち「救拯的信仰」です。これによって自分は抑圧して意識から追いやった感情を回収してひとつに統合されます。

第14章 救拯的信仰について           1 選ばれた者が、それによって、自分の魂が救われるように信じることができる信仰の恵みは(1)、彼らの心の中で働くキリストのみたまのみわざであって(2)、通常、み言葉の宣教によってうみ出されるものであり(3)、み言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される(4)。 

(1) ヘブル10:39     (2)Ⅱコリ4:14、エペソ1:17-19、2:8 (3)ロマ10:14,17 (4)Ⅰペトロ2:2、行伝20:32、ロマ1:16-17、4:11、ルカ17:5

私は、聖書的信仰において「絶対(的)」という表現を「神」について用いる場合、それは形而上学的な意味ではなく、あくまで賛美告白としてであると自覚します。例えば「ウェストミンスター信仰告白講解」(信仰告白の本文ではないことに注意!)は「第二章 神について、また聖三位一体について」の第一節で、「神は多くの属性を持たれ(知、聖、義、善、愛、憐れみ)、永遠的、不変的、絶対的な生ける唯一の真の霊である。ヨハネ4:24」と述べて「絶対的」という言葉を用いている。ウェストミンスター信仰告白 講解 - ひたちなか教会 (hitachinaka-church.org)

上記は講解であって、信仰告白の本文では、2章の1で「最も絶対的」という表現がなされています。

このように信仰告白関係で神を「絶対(的)」と言う場合、それは哲学的な意味で「絶対」だということではない(にもかかわらず神学者の中には後述の小田垣雅也氏や野呂芳男氏などのように、神が「絶対」であるといわれることについて、所謂、哲学的な意味でその「絶対」性を論じる人もいる)。

その他、例によってヨハネ福音書4:24の「霊」や創世記17:1の「全能」やエレミヤ23:23の「遍在」など、聖書における神の主格補語としては定番的言葉が見られます。神は「霊」であり「遍在」だからこそ信仰を賜っている者においてはどんな環境に置かれていてもその存在を確固として実感できる「人格的」で「絶対的」な「実体」であるとのロジックを構築し得るとしたら、それはこれらの言葉が客観的事実を示す記述言語ではなく、信仰告白の言葉としての表現言語だからでしょう。

ちなみに、神について「絶対(的)」という表現は、この他の箇所には大.小教理問答も含めて皆無です。

「ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、とがある者を決してゆるさないおかたである(24)。」

「かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(~有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)。それはカント的「公準」としての「要請」ではなかろうが、とにかく人間の必要と切り離された客観的「啓示」を前提とする神学的思惟にはリアリティーが無いのは確かだ。バルトのように「聖書に証しされたイエス・キリスト」を客観的な神啓示とみなすことには大いなる独断と無理がある。「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(→五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し( 3:11、7:14,29、12:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13,17、5:17~19他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:31~34、ルカ12:29~31参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派教理で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのです。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。

誰からも特定の「神(観)」を押しつけられることはない。それがコーヘレトの場合も、あえて固有名ではなく普通名で「神」を語った意味であろう。

< 神名としての「エロヒム」のみの使用は、コヘレトが人間の普遍的な状況について語ろうとする試みとして理解され得る。愚かさと虚栄に他ならぬ人間の多くの営みを対比的に語りつつ、『コヘレトの言葉』は、私たちの生の目的は神との関係のうちに生きることである、と示唆する。>(「IP-J-63」所収.ダグラス・K・フレッチャー/竹内裕訳「コヘレトの言葉五章一― 七節」p120)

五木氏の『人間の覚悟』では、< じつのところ、私は「教え」としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。>(p123)とか、<「中道」という考え方は「いつも真ん中にいればいいというわけではない。両方を大事にせよということです。」云々と講じたりしていますが)、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」>(p129)という言葉が印象に残った。

私にとって宗教とくれば民衆救済宗教であり、(超)人格主義的宗教ということになり、対神関係は「対(超)人格神関係」ということになります。仏教には「絶対者」としての人格的存在としての「神」が実体として無いわけですが、人間はこれがないと苦悩そのものを相対化することができないのではないかと思います。これも迷いなのかもしれませんが、神観は迷妄だとしても、その迷妄ゆえに対人関係による心労などから解放されるとしたら、その事実は認めざるを得ません。ゆえにその効果においてそれは迷妄と言って否定し去ることは出来ないのです。確かに遠藤周作氏のエッセイで言われるような「はたらき」としての神観は現実的・経験的で説得力がありますが、救済の観点からみるといずれにしても人格性が必要だし、それは確かな存在であり対象であってこそ、その救いのはたらきを期待できるのであって、信仰対象としての主体なき働きだけに意識を向けることはできません。もちろん、遠藤氏が感化を受けたと思われる八木誠一氏も、外からのはたらきかけを言う場合には人格的存在として神を語らざるを得ない旨のことを述べておられます。但しそれは実体では無いということです。実にギリシャ教父の古典的三一論の問題点は、八木氏によると人格主義と実体論(存在論)との組み合わせでした。その反対側に場所論がありますが、対局ではないのは、場所論も人格主義を否定しないからです。八木氏によるとイエスは人格主義的場所論であり、八木氏自身も同じ立場だということです。

「イエスの宗教は場所論的である(正確にいうと後述のように人格主義的要素を併せもつ場所論)。(中略)私がいう意味での『場所論』は、新約聖書学および『仏教とキリスト教の対話』を経て構想されたものなので、西田哲学と同じではない。(中略)

まず場所論は神を人格や存在というよりは、まずは『はたらき』の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、『はたらき』の面が優越するのである。むしろこう言った方がよい。神を、経験と自覚に現れる『はたらき』として把握して語ると場所論になるのである。」(八木誠一著『イエスの宗教』〔岩波書店〕p1~2)

「ここで読者は、神(キリスト、聖霊)が場所論では『霊』として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、『霊』は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。『霊』は人格や存在というよりは、『はたらき』である。」(同、p3)

やはり比喩的には、神さまもどっしりと構えたお方でないと頼りがいが感じにくいので、どうしてもイメージ的には存在の確かさを求めるような感じで絶対とか人格とか実体といった言葉づかいにはなる。しかし目に見えない「霊」であるという点では、あまり擬人化した神話的イメージはリアリティーを薄めてしまう。だから宗哲的に、絶対の人格的実体といった表現にとどめるのだ。

「認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。」(同、p8)

「宗教には、第一に人格主義的宗教がある。(中略)第二に非人格主義的宗教がある。(中略)第三のものとして、以上二つの間に、人格主義的場所論(あるいは場所論的人格主義)ともいうべき立場がある。イエスの立場はこれである。私も従来、そして今でも、この立場に立っている。」(同、p18)

八木氏の宗哲思想に対しては、「霊」と「愛」の2つの観点で批判を試みなければならない。

まず「霊」に関しては、ヨハネ福音書4:24で「神は霊」だと言われているが、その意味は必ずしも非対象・存在的であるとは言い切れない。さらに『旧約新約聖書事典』では、「神は霊」であるとは旧約では言われていないと明記されている。むしろ旧約聖書における神話の比喩的表現…特に所謂「ヤハウィストの神」などは人間的とさえ言える。次に「神は愛」だということに関連してか「愛する者は神を知る」とヨハネは言うし八木氏もこれに呼応するわけだが、救済宗教は愛なき者が必要とするものであって、愛ある者ならすでに救われているのだ。従ってヨハネの愛の神学は救われた者の神学なのであって、最初からこれが出されるとどうにもならない。愛なき者が神との関係に入って救いを体験して愛する主体になるまではそう簡単ではないのだ。愛なき者にとって相対化すべき事柄は多い。だからこそ神の絶対性もますます強く要請されよう。すると神はまずもって愛し得ぬ者をも愛す神ということになる。自分を愛せない者を愛し得るからこそ超越者であり神なのであって、自分を愛する者だけを愛するなら人間と変わりあるまい。

youtubeなどで精神科医やカウンセラーのような人たちがメンタルで苦しんでいる人々へ向けて自己啓発的・心理学的な話を発信していますが、一時的にはうまい発想で自分の脳を誤魔化せたつもりが、すぐに懐疑が生じて誤魔化しきれなくなるようなおそれがあるのです。仏教的知恵はキリスト教などよりも現実的諸問題の解決に於いて参考にできると思いますが、絶対他者が唯一の実体として存在しない世界では積極的相対主義の立場も無いでしょう。聖書において積極的相対主義とは拝一神教の立場です。矢内原忠雄氏が本居宣長批判で述べているとおり神の絶対性ということが民衆の救済宗教では不可欠だと思います。ただしその「神」はコヘレトの場合のように「遠くの神」でなければなりません。その存在を忘れるくらいの距離が逆対応的に「近くの神」となるのです。私にとっては自由こそ最高の目標であり、その自由を得るためには「神」を必要とするのです。これは矛盾ではなく、「神」なき自由は虚無なのです。でも自由は自由であり、神観であれ何であれ変わり得るものであり、「神」も忘れ得てこその自由なのです!滝沢克己氏のいう「インマヌエルの原事実=神人の第一義の接触」は彼の独断に於いて普遍不動の真理なのであって、宗教とは所詮そういうものでしょう。独断である以上、一般化して他人にも適用しようとしてはいけません。人それぞれなのです。私の場合は「インマヌエル」の「共なる神」は自由を侵害するので御免です。キリスト観も大きく変わりました。すなわち神話性を排除した「ただの人・イエス」になったわけです。今となっては、イエスが「まことに人」であるだけではなく「まことに神」であるなどと嘯いて受肉や復活を歴史の出来事だとしゃーしゃーと主張する神学者などには憤りを感じるほどです。およそ30年前の自分とは真逆ですから、信仰心などというものもわからないものです。もともと信仰心などなかったのか、それとも芯の部分は簡単には変わらないけど実や皮は変わり得るのでしょう。赤岩栄などキリスト教徒の中ではかなり変節した人物のようですが、私は赤岩のようにキリスト教を完全に脱出して禅に向かうなどということはしません。籍はあくまでもキリスト教会(非信条派)に置いているし、死んだらその墓地に埋葬してもらうべく毎月の献金は欠かさないようにしています。無縁仏ほど惨めなものはないと思うからです。さて、そのような私ですが、このように信仰心が変わり得たのは、社会現実の自分に信仰内容を合わせるという必要があったからです。それはまず、自分の中の権威を相対化することと関係があります。権威主義的志向が人を苦しめます。自分もブランド的な世間体の良い場所で生きたいと願うのが人情です。しかし現実はそうはならない時、自分が価値を認める権威自体を相対化することによって、その場所に入れない自分自身を否定することなく、他の場所で生きてゆけるのです。いつまでも幻の絶対権威に縛られて、特定の場所でしか自分は生きてゆけないんだと思い込んでいる限り、人生は前に進んでゆきません。その空白期間が無駄になります。人はつねに前へ前へと進んでゆかなければならないのです。そのために自己暗示といった程度のことかもしれませんが、自分で自分に思い込ませるのです……他の場所だっていいんだと思い込ませるのです。それが私にとってのセルフ・マインド・コントロールです。

「対(人格)神関係」は「遠くの神」でなければダメです。いちいち神の目を気にしていては大衆現場での優劣比較に満ちた殺伐とした対人関係に対処してはいけません。いつも神の臨在を意識して社会生活を過ごせる人たちというのは恵まれた環境に生まれ育ったぼっちゃんじょうちゃんの類です。一般庶民は、普段は自分が「対(人格)神関係」に置かれていることを忘れるくらいに意識のうえでは自力でなければならない。