絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

矢内原氏の「キリスト教入門」批判

自分は日本のキリスト教指導者の中でも思弁の巧みさという点では北森嘉蔵氏と並んで矢内原忠雄氏の著述にも関心を持ってきました。従って批判対象としての価値もその分高いと思います。ここでは矢内原氏の『キリスト教入門』を批判することを通して(否定的媒介の思弁法)、自分の信仰内容を披歴してみたいと思います。

矢内原忠雄 キリスト教入門 (aozora.gr.jp)

「新たにキリストを学ぼうとする人々は、導かれるままに教会に行ってもよいが、しかしまた教会で洗礼を受けなくてもキリストを信ずる道のあることを、知っておくことが有益であろう。それによって教会の不当な束縛から解放される人々も少なくないであろう。」という点は「無教会」の良いところだが、自分は基本的にカルヴィニズムの「聖定 >予定」説(のすくなくともアウントライン)を聖書に根拠ある教理として信じているので、その点では信仰を得た者は再生の理性により教会と無関係には信徒としての生涯を送ることはないと確信しています。もちろんそれはどこかの教会組織に所属していなければ救われないといった意味ではまったくありません。さりとて、新約聖書が教会を介しての信仰を示している以上、人生が信仰生活として定められている人は聖霊が教会の礼拝参加へと導くので、どこの教会組織にもまったく関係ないような人が神から信仰の賜物を受けているということは(重い障害とか病気など特殊な事情でもない限り通常は)考えにくいということです。

キリスト教によれば、神は人間ではなく、人間が神になることはできない。いわんや神は自然物とは本質的に異なるものである。神は人間と自然との創造主であり、造った者と造られたものとの間の混同を許さないのである。」という点は日本的宗教…特に神社神道と画然たる主旨であり全く同意ですが、神は全能なので人になることもできるということはあるわけで、キリスト教では「人が神になる」とは言わないが「神が人になった」とは言うのです。

また、「他の民族もしくは他の宗教でいう『神々』と、キリスト教の信ずる『神』との間には本質上の差異があるのである。要するに、神についての観念は、キリスト教において最も純粋化されたと言ってよいのである。」といった宗教進化論的な考えは、矢内原氏の時代はともかく今の時代ではほとんど支持されません。さりとて宗教多元主義の類も無節操といった感じで批判する人もいて、私自身も多元論的思弁は全く支持しません。それは多神教と同様、主体性を曖昧にした無節操な宗教論に堕した観があるからです。ちなみに宗教多元論批判では小田垣雅也氏の思弁が参考になりますが、ここでは引用致しません。

私はあくまで拝一神教的なエホバ信仰者です。ユダヤ教イスラム教ではなく、あくまでキリスト教を媒介した神信仰者ですが、キリスト・イエスは人間が神と関係するための「道、仲介者」すなわち媒体なので(ヨハネ福音書14:6、テモテ第一2:5)、信仰対象では「無」い存在です。自分が所謂ユニテリアンと違う点は、人道主義とか社会主義とかの思想は関係ないし、キリスト神話の意義は批判しつつ賛美告白の表現として認めるところはあるので、史的イエス主義ということでもないということです。「無い」というのはイエスが(絶対者という意味の)「神」では無いということです。「真に人」の意味は文字通り解しつつ「真に神」は文字通りには認めません(両性論は「キリストは一つの位格に二つの本性があると述べるが、本性が「混ざり合うこともなく、変化することもなく、分割されることもなく、引き離されることもない」⦅~カルケドン信条⦆という点を強調する立場)。信仰にもとづく賛美告白の表現として受けとめるということ。すなわち「非神話化」が自分流の「ケノーシス」の意味であり、キリスト・イエスという人物の存在意義が全く「無い」ということではなくて、「道」はどんなに無きに等しき小道であろうと、「道」は「道」であり、俗なる罪人が聖なる神と接触し得るための唯一の媒体なのだ。「父は我よりも大なる」(14:28)とある以上、「我と父とは一つなり」(10:30)とか「我を見し者は父を見しなり」(14:9)を三一説に結びつけて「父=子」と解するはあまりに稚拙なり、愚かなり。これは「父」と「子」との親密な関係を示しているにすぎないし、「子」が「父」と同じく神であるとの意味は全く示されていない。合掌。

「汝等はキリストの有、キリストは神のものなり。」(コリント前3:23)

「凡ての男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり。」(同、11:3)

「萬の物かれに服ふときは、子も亦みづから萬の物を己に服はせ給ひし者に服はん。これ神は萬の物に於て萬の事となり給はん爲なり。」(同、15:28)

聖書においてイエス・キリストは「親を映す鏡」としての「子」のはたらきとして、特にヨハネ福音書において、またはパウロ書簡においても、その従属的身分を示されているのです。

パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)、「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)

「エホバは世界に唯一・最高の神であって、エホバに並ぶべき神は他にない。」とか「エホバは絶対的な実在であり、したがって永遠的な実在である」ということは全く同意ですが、「キリスト教によれば、神があって万物が存在するのであり、神は万物存在の基底をなすところの実在である。したがってかりに現在の宇宙が消滅しても神は依然として実在し、神の実在を基底としてさらに万物は生成させられると信ずるのである。」という点は、「神の存在は生成においてある(Gottes Sein ist im Werden )」(~E・ユンゲル)といった神論も考慮する必要があると思います(これについては詳しくは当ブログの救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神での小川圭治氏の論文「神概念の転換――E・ユンゲルのバルト解釈を手がかりとして――」jcs_6_306.pdf (kyoto-u.ac.jp)の引用を参照)。但しその「神の存在は生成においてある」という場合の「神」は、「真に神」であるだけでなく「真に人」でもあるところの、すなわち生まれて死ぬという有限な身体の持ち主であるイエス・キリストを第二位格の御子とする三位一体の神であることを前提とします。同じ一神教であってもユダヤ教の神(エホバ)やイスラム教の神(アッラーフ)も「存在」するとして「生成」するかどうかはわかりません。すくなくとも本来の「神・霊」は「存在-生成」とか「不変・静止-変化・運動」といった二項対立を超えているからです。キリスト教の場合、テモテ第一6:16では「ただひとり死のない方であ」ると言われており、伝統的には変化しない静止的な神観が主流だったようですが、現代神学ではそれが形而上学的であって聖書が示す「生ける神」ではないとみなされ、生成流転とか生成消滅とか言われるように変化する存在とみなされるようになりました。しかもそれが「三位一体」との関係で言われているわけです。古来、「存在」と「生成」とは形而上学におけるアポリアであり、それを克服するような野心が現代の哲学者さらには現代の神学者にみられるということです。ギリシャ哲学の影響を受けた伝統的キリスト教神学の神観は静的ですが、現代の聖書解釈において啓示された神は、不変であり、かつ、動的ということで、それを表現したのが「存在は生成においてある」いうことなのでしょう。だから私は、聖書が示す神より前の(…「前」と言っても無時間的・永遠的次元でのことなので「前」も「後」もないのですが、比喩的に言えば「後」ではなく「前」であり「本来」であるところの)、つまり、啓示された「神」ではなく、啓示(=自己限定・自己対象化)する主体としての「神・霊」(ヨハネ福音書4:24)にこそ意識を向けなければならないと信ずるのです。それはあらゆる二項対立を超えるので、八木誠一氏の用語である「創造的空」とでも呼ぶのが相応しいと思います。それって所詮、観念にすぎないじゃないか!と批判されてもしかたありません。たしかに「啓示」される「前」なので聖書に明記されているとは限らず、その点では観念と言えなくもないでしょうが、暗示的にではあれ聖書から察し得る部分はあるし(具体的には「遍在」を示す箇所⦅詩篇139:8、エレミヤ23:23,24⦆。啓示される「前」の本来の「神・霊」は、ぎりぎり対象として論理的に言えばスピノザの神観に近い。⇒< スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たち人間は有限です。空間的には身体という限界を持っていますし、時間的には寿命という限界を持っています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。> 

スピノザの考える「神」とは - NHKテキ

 

無論、私の神信仰は「汎神論」ではなく「汎在神論」の方に近いが、外部なしということは聖書の創造説と合わないので、その点では「汎」無しの「有神論」的立場であり、しかもキリスト教に対しては一つの宗教として相対視して批判する立場なので、「拝一神教的有神論」ということになる。すなわち自分たちにとっては聖書の神エホバが天地に唯一絶対であるが、自分たち以外の人々においては関知せず…ということで、論理的には自分たちの信仰的立場の相対性を含意するということ。※太字は私記。)、そもそも信仰の対象範囲は啓示において限定され、科学的・客観的に認識したり証明することはできないのですが、私自身にとっては現実に経験している対神関係における信仰対象であることに違いはないのです。但し、八木氏の神論に欠如しているのは「創造的空」(神=霊)が啓示された「神」は人格神であり、量義治氏の言われる「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」であるということです。逆にその量氏の神論に欠如しているのは擬人化されない「神」の人格性ということであり、聖書の神話に対する批判的視点と、対神関係の「種・類」に対する「個」の優先性です。すなわち量氏は、「現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。もはや文明はあがけばあがくほど虚構を堅くし、空虚の深淵に落ち込んでゆくであろう。このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。」と述べておられますが(『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p215~216)、私見では誤解を招くおそれがある文章だと感じます。人類の普遍的救済のためなら、神話を無批判に事実として信じるべしといった「知性の犠牲」的主張ともとれるからです。すくなくとも個別救済よりも普遍救済を、知より情・意を優先させる量氏の考え方には偏向があるので、「宗教哲学入門」と題された、本来はニュートラルな立場であるべき書物の内容にはなじまないと思います。たしかに聖書の創造神話にはそれなりの意味があり、「単なる神話」だとか「虚構」だということではありませんが、著者の量氏の立場が、いかに救済を第一目的とする救済宗教にあるとは言え、自然科学を学問の中心とする現代にあって宗教を論じる以上、八木誠一氏のようにより普遍性ある表現に努めて然りであって、歴史の終末とか死後の救いを語る前に、生きている今の時代の現実的な救いが語られるべきです。多くの現代人にとって宗教の意義とは、個別的限界状況に耐え得る希望や活力を呈示し得るかどうかにかかっているのではないでしょうか?逆に、寺院や教会などの組織が信者個々人よりも前面で出る宗教、個人主義的宗教観ではなく共同体主義的宗教観は、多くの現代人…特に日本人にとってはどうしてもカルト教団のような洗脳やマインド・コントロールをするような印象に傾くのではないでしょうか?実際、普通のキリスト教会であっても程度の差こそあれ多少は何らかの刷り込みはなされるのです。それは教えるとか伝えるといった上下関係が成立する環境においては避けられないことでしょう。だから私はその点で無教会主義に近く、教会組織はあくまで個々人の信仰生活の媒体であって本体ではないと考えます。無教会の集会も教会のような組織とは異なり、その会員になることが救いの要件ということではないのです。あくまで聖書が示す救いについて学ぶ機会となり得るだけです。

三一神論的には、御子は御父から生まれ、御霊は御父と御子から発出される…というわけで、永遠の相においては三一神の存在はこのような生成運動として認め得るということでしょう。聖書の神は生けるお方であり、けっして静止してはおられないのです。出エジプト記3:14「エフイェ・アシェル・エフイェ」の「エフイェ」は「在る」という意味だけではなく「成る」という意味もあり、言わば「存在」と「生成」の二重性です。しかしこの「生成において存在する神」は、啓示前・本来の「神・霊」ではなく、その啓示として(…自己対象化として)聖書で物語られている神話の「神」です。たとえ経験世界が生成流転とか生成消滅とか云われて、「生成」との関係なき「存在」など観念世界でしかあり得ないと言われても、本来の「神・霊」は人知を超え、その経験世界などは超えているわけで、同じ神話なら、仏教の縁起的世界観…すべてが「空=非実体」の世界においても、創造主エホバのみは実体として自存して「空」を突き抜け出ているといった物語の方が、どうせ神話を物語るのであれば、聖書の神話として相応しく好ましいと、私自身は思う次第です。

また、エホバが「歴史を通じて顕現される神である。すなわちエホバの完全な性格と能力と栄光は、人類の歴史を通じ、その発達段階に応じて啓示され、顕現されていくのであって、人類の歴史の最初からエホバの全貌が現わされているのではない。エホバの全貌は、人類の歴史の完成する時において人間に現わされるのである。永遠的実在であるエホバそのものに変化と進歩があるわけではないが、エホバの顕現には進歩がある。それは人類の歴史の進歩に照応するものであると言える。このようにエホバの顕現が歴史を通じてなされることは、エホバが人類の歴史の中に生きてはたらくからであり、そのことはまた、エホバが人類の歴史の指導者であることを意味する。」ということ、これは矢内原氏の用語ではなく、一般的に「啓示の漸進性」とか「漸進的啓示」などと云われますが、これについては特に注意が必要です。

つまり、本来「神」は「霊」であって、「エホバ」はその非対象的な(…というか「対象-非対象」とか「人格-非人格」とか「存在-生成」とか「実体-作用」とかいった分別・二項対立を超えた)「神」が言わば自己限定して(…というふうに擬人的に表現するしかない)、特定の時間(歴史)と空間(国)の中で神話として物語られるべく自己対象化した(…それが「啓示」された)存在であって、だから「エホバ」とか「エフワー」とか「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」などと発音されるテトラグラマトン(神聖四文字YHWH)で表される名前があるわけで、その「エホバそのもの」も「変化と進歩があるわけではない」けれど、「エホバの顕現には進歩がある」ということです。

だから「三位一体の神」という教会の神観も、信徒個々人レベルでは必ずしも聖書に即した神観として納得はされず多くの人々が疑問を呈してきましたが、教会組織の維持運営に伴う実務上の歴史的な神観としては、その「啓示の漸進性、漸進的啓示」などというロジックを用いないことには、旧約時代には御子(イエス)や聖霊はどこでどうしていたのか…?という問いに答えられないわけです。なにせ旧約聖書にはイエス・キリストなど出てこないのですから…。しかし「啓示の漸進性、漸進的啓示」といったドグマを用いることによって、実在としては創造の時から御子(イエス)も神としておられたが旧約聖書の諸文書が書かれた時代に至っても未だ人間には認識されていなかったから書かれていないだけであって、イエス自身はエホバと共にちゃんと存在はしていたのだ…と言い得るわけです。全然説得力はありませんが、いちおう理屈は通るし、聖書的根拠という点でも、旧約聖書でこう書かれているのはイエスのことを指しているんだよ…といったこじつけの説明がなされるわけです。しかしそれによってイエスは神とみなされるどころか天使ではないのか…?という疑義も生じてしまったように見受けられます。そのようなおかしな…というか行き過ぎたキリスト中心主義的キリスト教を修正すべく、私は新約聖書学者・青野太潮氏の以下の文言を常に掲示しておきたいと思います。(太字は私記。)

「しかし、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」

(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」160824-04.pdf(touhokuhelp.com)

※「認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない」という点は、私の見方とは異なります。私は「神が受肉したことが啓示と考えるので、他に啓示はないことになる。旧約時代には啓示がないことになる」というバルトやブルンナーの「キリスト集中論的啓示観」を真っ向から批判した改革派神学者・ベルクーワの説に立つので、その点では青野氏の御説とは違いますが、コロサイ書1章などのキリスト神話の無批判的読解によって御子キリストを創造主とみなす立場に対抗する点では同じです。

 minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

私見では「三位一体」神論の根本的な欠陥は、第二位格の子なる神(=イエス・キリスト)がカルケドン信条においては「真に神」であるだけではなく「真に人」であるとされているという矛盾です。「われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。」(~カルケドン信条)ということで、「真に人」であるイエス・キリストは「肉体」を有って昇天し在天して神の右に座しておられるわけです。「肉体」(物質)を有つ「神」が三位一体の第二位格であるというわけです。しかるに、「真に人」(相対かつ有限な存在)である以上、それが「真に神」(絶対かつ無限な存在)と一体化されることがないことは、聖書の示す神が、「造った者と造られたものとの間の混同を許さない」という原理原則に反するからです。しかしこのような論理的矛盾も不整合も、信仰および救いの個人主義的見方を排して教会主義的見方をする場合には問題にはなりません。なぜなら聖書において「神の國は言にあらず、能力にあればなり。」(コリント一4:20)と言われているとおり、救われるためには信者各人の個別の理屈などよりも信仰共同体に共通の体験および教会の権威の尊重…といったことになるからです。しかし私は、自分自身が理性で納得できないことを盲信するつもりはさらさらありません。「知性の犠牲」などと大げさに言えるほどの「知性」など持ってはいないにせよ、それが自分の宗教に対する基本的なスタンスであるべきだと自覚しています。キリスト教会もしょせん相対的な宗教組織の一つであり、カルト教団の如く洗脳とかマインド・コントロールを犯すとまでは言わずとも刷り込みによるメンタルヘルスへの影響は十分注意すべきことなので、そのような団体の営みに対しては自分が持つ一分の理性も犠牲にはできません。むしろ批判することを通して検証するしかないと思います。

また、私は神論よりもキリスト論よりも、また創造論や救済論よりも、なんと言っても聖霊論こそが第一に重要だと思っています。聖霊は感じるものです。神やキリストは出会うものであり、それとの関係は人格性が濃厚です。神やキリストは見方が擬人的になりやすいです。

聖霊ヨハネ福音書14:26において弁護者(パラクレートス)として人格的存在化されていますが所詮は比喩であり、「神は霊」(ヨハネ福音書4:24)とあるとおり、結局、父と子(という言い方も比喩)と聖霊の三位一体の神は(「人格ー非人格」とか「対象-非対象」とかいう分別を超えた)「霊」であり、父とか子とかいった人格的存在としての「神」を中心にして三位一体なる神を観ること、イメージすることは一神教同士の対立及び戦争に陥るので、聖霊を中心にして三位一体なる神を理屈で知るのではなく体験的に知る…感じる…ということがよいと思います。理屈はえてして排他的ですが体験は必ずしもそうではありません。聖霊に感じさえすればおのずと教会の教義・信条(ドグマ)を受け入れるようになるとは言い切れませんが(教義・信条それ自体は相対性を免れ得ないから…)聖化された知性や理性において聖書全体の核心部分である「イエス=主・神の子・キリスト」という信仰告白に導かれることにはなるでせう。パラクレートス(助け主)である聖霊 | AMOR (webmagazin-amor.jp)

この「イエス=主・神の子・キリスト」という信仰告白の意味は、イエスを絶対者と信じ告白するという意味ではまったくありません。そうではなくて、イエスという人は神(=絶対)の聖霊に満たされて生きた人である…ということ、その霊満者イエスの対神関係の生き様を福音書を通して参考にするということです。