絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

「絶対」と「絶体(絶命)」…拝一神教では神にも不可能が存在している(~深津容伸氏)、絶対性は普遍性を含意する(~八木誠一氏)。メンタル問題から終末、聖書と死後生(来世)――

『死ぬ瞬間』の著者として有名である精神科医の故・エリザベス・キューブラー・ロス博士は、死へのプロセスを、(1)否認、(2)怒り、(3)取引、(4)抑うつ、(5)受容の5段階として示しました。(3)の取引というのは人格神観の信仰を前提としてこそ意味を持つと思います。しかし人間は最悪の場合、希望も持てない。前述の呼吸困難や激痛の例のような極限状態においては、本人が何かを思ったりする余裕などないのです。ただ痛くて苦しくてのたうつだけです。だから日常生活において神の言葉に養われ、信仰的環境の中に置かれていることが肝要です。救いか滅びか、天国か地獄かといったプラスかマイナスかの価値分別を超えて神の御手の中に身をまかせて生きる信心を決定させておくべきなのです。そのためには人格神観から創造的空観へと意識が変革される必要があります。これも脳内物質セロトニンの分泌と作用における他力の成果です。地獄に行くのは恐いからいやだ、救われて天国に行きたいなどといった執着がある限り真の平安は得られません。創造的空に覚するということはそういった価値判断…「意味-無意味」のこだわりからも手を離すということです。心理療法ではすくなくともロゴセラピーではなにごとも救えません。聖書が示す「救い」、私たちが信仰において求めるべき「救い」とは神の御意に服従する絶対的救いであって、人間の損得勘定の延長のような考えにもとづく相対的救いではないのです。だから聖書的信仰は「受容」であって「賭け」ではありません。パスカルの思想は浅薄だ。人間がいくらあがいてみたところで運命は変えられません。運命なるものがあるとしても、それを支配しておられるのは父なる神であり(「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。」〔詩編16:5〕 ※「運命」=「籤」〔岩波版訳〕)、その聖定であり、イザヤ書45章7節(岩波版翻訳)に、「〔わたしは〕光を造り、闇を創造する者、平安を作り、災いを創造する者。わたしはヤハウェ、これら総てを作る者』。」(口語訳:「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、/繁栄をつくり、またわざわいを創造する。/わたしは主である、/すべてこれらの事をなすものである。」)とあります。また、「わたしのほかに、神はいない。わたしは死に至らしめ、また生かす、わたしは撃ち、また癒す、誰も、わたしの手を逃れえない。」(岩波版訳申命記32章39節 )、「『この陶器師のように、わたしがお前たちに対してすることができないだろうか、イスラエルの家よ―ヤハウェの御告げ―。見よ、粘土が陶器師の手の中にあるように、お前たちもわたしの手の中にある、イスラエルの家よ。わたしが、一つの国民、一つの王国について、あるいは引き抜き、あるいは引き裂き、あるいは滅ぼすと語ったその時、もし、わたしが災いを告げたその国民が、悔い改めるならば、わたしはこれに降そうと思っていた災いを思い直す。」(岩波版訳エレミヤ書18章6~8節 )(口語訳:「イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災いを下そうとしたことを思いかえす。」)とあります。宗教改革者のマルティン・ルターは、「神に逆らって神へと逃れる」と言ったそうです(~北森嘉蔵著『聖書百話』)。ヨブは応報の神に逆らったのですが、彼がその試練から逃れる道は、やはり同じ神の、しかし人間の都合のよい考えにすぎない因果応報を超える絶対者としての神に向かう道しかなかったのです。ここで引用させていただきます。キリスト改革派稲毛海岸教会の三川牧師のメッセージです。「聖書は、『すべての命あるものは、御手の内にある』、つまり神さまの手、神さまの守りの中にあると語ります。ヨブ記12章10節です。思いもかけない不幸に出会ったヨブという人が、しかし自分の出会った不幸や災いも、みんな神さまの御手の中にある、神さまのご支配の中にあると語るのです。すべてを支配される神さまが、今日のわたしの問題と悩みをも支配し、導いてくださっている、小さな自分が、その大きな神さまの御手に包まれて、支えられていることを信じて、今日を始めていきましょう。 」(~<ふくいんのなみ>番組「あさのことば」2004年7月12日放送 )ここで、「思いもかけない不幸に出会ったヨブという人が、しかし自分の出会った不幸や災いも、みんな神さまの御手の内にある、神さまのご支配の中にあると語るのです。」といわれています。幸いや恵みだけではないのです。私たちにとっては都合の良いことも悪いこともすべて神さまの御手の中に起こるのです。そこから神の正義を論じる神義論という思弁も生じますが、結局、神の義は人間社会の正義と同じではなく、次元が違うのです。だから最終的には、ヨハネス・G・ヴォスという神学者が『ウェストミンスター大教理問答書講解』の中で述べているとおり、(ソクラテスの「無知の知」とそのパクリであろうクザーヌスの「知ある無知」ならぬ)聖なる「無知」を告白して聖定の神秘を受け入れる謙虚さが求められます。しかし神観が人格神観であるかぎり、これはどうしても無理強いの面が生じます。聖霊によって再生された理性でなら不条理も神義論なしに受け入れられることですが、真宗的には煩悩を抱える現実の衆生キリスト教的には弱き罪人ですから、そう簡単に教団に都合よく思考停止はできません。

「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p17~18)、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(同、p54)

だから自分は人格神観を八木誠一氏の場所論的神学のように働き・作用神観へと変えるしかないと言うのです(その場合、八木氏のように人格神観も排除はしません)。この世が終わるまでは神の主権の全権を御父からゆだねられた御子キリストです。最後の審判の結果はキリストにおまかせするしかありません。天国に入るための善行など、まさに五木氏も言われているとおり偽善にほかなりません。聖書の宗教の信仰は個人的ではなく共同体的であり、救済までもが個人的ではなく団体的などとも云われます。しかしどうでしょうか?たしかに神観が人格的存在ということになると個人的では自分に都合よいことばかりが神観に反映されるので、それこそ偶像的であり、フォイエルバッハの宗教批判が妥当することになるのでしょうが、さりとて共同的ならよいかと言えば、それって結局、個の信仰を抑圧するドグマティズムや律法主義に陥ることになり、組織化されてゆくと罪人の集まりですから内部で争いや比べ合いも生じるので、倫理面では偽善に陥ることにもなります。これまた一長一短というわけです。

「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著前掲書p93)

古代イスラエルでは、拝一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。」(~深津容伸氏の論文「全能の神」)ja (jst.go.jp)

上記の内容には異論がある。拝一神教だから神の全能性や絶対性を否定することにはならないからだ。要は、真に絶対なる神においては全能性は不可能性を包含し、絶対性は相対性を包含するのだ。

聖書には神を「絶対」であると書いた箇所は皆無だが、所謂、シェマーの箇所のように主なる神を「唯一」であると述べたところはあるので、「絶対」はその「唯一」ということから敷衍してのことであろうと解し得る。但し、旧約聖書申命記6章4節の「唯一」(エハード)の歴史的由来については、「唯一絶対」の「唯一」という意味ではない可能性がある(山我哲雄著『一神教の起源』⦅筑摩書房、2013年⦆参照)。一方で神学的には、「絶対」は「哲学的な表現」としてネガティブにみられる傾向もある(一例として、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』⦅新教出版社⦆p47参照)。

ちなみに、北森嘉蔵氏によると、「絶対性は相対性をも自己のうちに含むことによって、真に絶対性となる」(~『神と人間』〔現代文芸社〕p16)とのこと。また、北森氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と述べたうえで、古典的三一論において用いられた「神は母ではなく父であるとか、女性でなく男性であるとか、という相対的なかたちにおいてでなく、男性・女性、父・母という相対性を超越した絶対的なかたちで表現されるべきではなかろうか、という疑問も当然とりあげられるでありましょう。」と述べ、結論的には「以上のように反省してきますと、『父なる神が子なる神を生みたもうた』という古典的三一論の表現形式は、さまざまな矛盾を私たちに感じさせます。ここで、私たちはアウグスティヌスの有名な言葉」…「われわれが、神の父子関係について語るのは、『この表現が適切であるからではなくて、まったくそれを言表せずに置いてはならないからである』と。アウグスティヌスによれば、神に父とか子とかがあるというのは、それが適切だからそういう表現を用いるのではなく、そういう言葉ででも言わなければ沈黙するよりほかしかたがなくなるから止むをえずそういう表現を用いるのだ、と言うのであります。」云々と述べています(『神学入門』新教出版 p74~76)。そもそも北森氏のように「神」が「痛」むなどといったあまりに擬人的な表現を使用すること自体、「神が絶対者である」という「公理」に反することです。

私見では聖書における神の絶対性は客観的ではなく、拝一神教における拝一的絶対性として、あくまで一つの共同体の中での絶対であるから、(共同)主観的絶対である。絶対神観は排他的宗教の特徴として批判されることを考慮するなら、拝一神教的観点からも神の「絶対」性は「相対的絶対」性(という表現が誤解を招くなら)あるいは「主観的絶対」性であるということになる(この場合の「主観」は単なる主観ではなく「共同主観」)。「相対的絶対性」ということは後で引用する八木誠一氏の文言にもある。神の「絶対的絶対」性ないしは「客観的絶対」性は宗教間対立を生む独裁的神観として否定される時代なのだ。聖書において証しされているところの、予定および聖定の主としての神の絶対的主権によって相対化されるべきことは、メンタルヘルスにおいては、世間的価値観としてのいわゆる富や名誉や生産性などだけではなく、「運」というものが、きわめて普遍的で絶対的な意味を得ている。「運命」にせよ「運勢」にせよ、まさに古今東西、人格神に対抗する最強の偶像だ。これの良し悪しで人生が決まるかの如く信じ込んでいる人のなんと多いことか…?自分自身、その信じ込みから解放されねばならぬうちの一人である。その解放が、人間によって作られた絶対的なもの、すなわち「偶像」の相対化であり解体である。聖書の律法主義批判は現代社会において、絶対化されている偏った差別的価値観やイデオロギーの批判と重ねて読み取れる。

悪魔はイエスを最高の山に連れて行き、世の諸々の国と栄華とを示して言った、「汝もし平伏して我を拜せば、此等を皆なんぢに與へん」。これに対してイエスが言ったことは、「サタンよ、退け『主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事へ奉るべし』と録されたるなりということだった(マタイ4:8~10)。新改訳では「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」。「あなたの神を礼拝し」、「主にのみ仕え」るということは、われら信者は聖書が示す神のみをわが絶対主として信仰するということ。神を拝するというのは教会での礼拝だけを意味しない。聖書が示す絶対主(ヤハウェ)のみを崇拝するということ。悪魔が言ったこの世の栄華とは、世俗の魅力的で悪しきものを象徴し、テレビのバラエティー番組などが醸成させる支配的価値観すなわち絶対的な偽神(偶像)を意味するが、これに心を奪われず、これらを相対化し滅ぼし去らせるということ。特にメディアが人間の評価基準として絶対化している偏差値などを相対化するということ。それが宗教的価値観の固有性を示すことにもなる。

「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

新約学者の荒井献氏も御自分の信仰する神について「(唯一)絶対」という言葉を用いておられる。以下、引用。

私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、エスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」

pdf_christ_140705.pdf (keisen.ac.jp)

客観的絶対ではなく、私(の立場を共有する共同体)にとって絶対だ…という意味は私の言うところの「共同主観的絶対」ということであって、そのような絶対なる神は、私が「拝一神教的神観」とか「実存的絶対神信仰」という場合の非実体的「神」に一致する。

私があることで寺園氏に質問した、その返答で言われている表現が、「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」ということでした。荒井献氏も『イエスとその時代』(岩波新書)において、「エスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ」云々と言っておられるので、その意味ではやはり神論が機能論に解消されているとか吸収されている感もあると言えるでしょう。

小田垣雅也氏は上記の荒井氏の文言について次のようにコメントしておられるが、ちょっとピントがはずれていると思います。

「荒井献教授によれば、聖書学的に言って、エスにとって神はもろもろの存在者を相対化する視座であったとされる。その視座を喪った時、人間は自分の理念で宗教性を神として立てる。エスにとって、神は人間のすべてを相対化すると共に、人間を根元的に支える存在の根拠であったと言う。そしてこのような神理解は、人格神としての神理解には盛り切れないように思われる。」(「哲学的神学と神」~山本和編『現代における神の問題』〔創文社〕p163~164)

小田垣氏は、荒井氏にとってのイエスの神を「もろもろの存在者を相対化する視座」として受けとめているが、荒井氏は、イエスにとっての「神」が「自己相対化の視座」だったと書いておられます。この違いは小さくないでしょう。但し、小田垣氏の視点・理解も重要であると思います。私にとって神の絶対性の意義は、自分自身を相対化する(…謙虚にする)はたらきと、それによって偶像化されている諸々の世間的価値を相対化するはたらきとは不可分だからです。自己卑下と言われるほどに無用なる自尊心や過度な承認欲求を弱体化させるはたらきこそが、無能者・劣者にとって対人関係のストレスを軽減させる。そのような神の絶対性の効用は自己相対化にとどまるものではなく、自分を束縛する世間の外的価値の偶像化された絶対性を相対化して実像に戻す意義があります。

高学歴でこの世的価値に富んでいる者は、自分を少々相対化したところでプライドを十分に保てるが、社会の底辺で侮辱されながらも地べたにはいつくばるようにして生きている者たちにとっては、自己相対化なんて自殺行為に値する。相対化されるべきは自分たちではなく、自分たちをバカにしているあいつらだ…あいつらの言い分だあ!ということになる。あいつらの言い分、それはまさに能力主義であり学歴主義である。自己相対化などは心に余裕ある上層インテリ階級者の好むところで、下層愚民大衆にとっては自殺行為であるとは言え、宗教的には、その自己相対化の「自己」にはそのような階級的ルサンチマン嫉妬視点を持って世の中を見ている「自己」も含まれ、自分で自分を洗脳やマイコンするかのようにネガティブなことを思い込んでいる「自己」も含まれていると思えば、その「自己」を自分が絶対化することによって自らを苦しめ悩ませているという現実の観方もあるわけで、自己相対化にいっさい意味は無いと言うこともできない。但し、単に自己相対化と言うのではなく、あくまで自分にとって否定的な自己を相対化するのである。すなわち自分の苦悩の原因を相対化するというより、苦悩している自分ごとを相対化するということ。要は絶対化されているものが苦悩の中身なのか?それとも苦悩している自分自身なのか?という話。前者については社会的に絶対視されている…例えば、対人関係における優劣の問題などは、心理学的、精神医学的に、気休めの対処法が言われていても実際には大した有効性を認め得ないように、対人関係における無用なプライドや過剰な承認欲求の然らしめる苦悩の絶対性は、社会において普遍的に共有されているだけに、自分が主観的にそれを相対化したところで自慰にとどまり、現実的な意義はなかなか生じてこない。だからそれよりもそういう問題に囚われてしまっている自分を相対化して、他の問題へ関心を向ける自分へと意識を転換する方がより現実的なのだ。それは問題から目をそむけて放置したまま他のことへの関心を持つという点では消極的だが、大きな興味対象を持つことによって小さな不安対象からのストレスを緩和するという方法とも言える。それは小手先の心理学的な気休め方法よりもよほど有効だと言える。但し心理療法の中でも認知行動療法では、認知(主観)における考え方の変更だけではなく行動(客観)における成功体験の積み重ねということがあるので、この療法は現実的であると言えます。

対人関係で言えば、例えば、とても魅力的な愛人との充実した関係・極楽を持つことによって、職場の同僚のような相手との怨憎会苦的関係・地獄を最小化することが可能だということ。愛人とまではいかずとも、同じ対人関係において、自分にとっての苦の関係に対して楽の関係をぶつけて(…というか囲み込んで…)弱毒化する方法があるということ。対人関係に対人関係をぶつけることが無理であれば、対人関係以外のものでもよいから、要は苦の世界を楽の世界で囲む込んで、少しでも無力化してゆくということ。

「現実世界(全体論の社会)は,神と直接的な関係の下では低 い価値を持つに過ぎないのである。つまり,ここには神との関係による個人と現世秩序のヒエラルキー化が見られ,世俗秩序は絶対的な価値に従属するものとして相対化され,ここに序列化された二分法が成立するのである。」 (~新矢昌昭氏の論文「個人主義 の『淋しさ』」佛教大学大学院紀要 第28号〔2000年3月〕)

佛教大學大學院紀要 28号(20000301) L165新矢昌昭「個人主義の「淋しさ」」.pdf (ddo.jp)

ところで、「絶対」は「普遍」とも不可分の関係にあるとするのが以下の八木誠一氏の論文。

「絶対性」は普遍性を含意する。だから(ある人の)キリスト教が絶対なら、それ以外のキリスト教、いわんや他宗教は誤謬で、すべての人が「絶対的」キリスト教に帰依するのが当然となる。(中略)よくキリスト教は「私にとっては」絶対だといわれる。(中略)普遍性を断念した絶対性の主張はもはや絶対性の主張ではなく、相対的絶対性のうちである。各人が自分の宗教を選ぶ権利を尊重しているまでだから、実質上は宗教的多元論と大差はないが、但し学問的な多元論者とは違って、当人が他宗教の根拠を立ち入って吟味しているとは限らない。>(シンポジウムでの発題「仏教とキリスト教の場合」)_pdf (jst.go.jp)

松本正夫氏は論文「絶対他者と絶対自己の理念的対決」で、「あえてキリスト教とはいわない」と前置きしたうえでではあるが、「キリスト教神学はその内容上プロティノスに始まる新プラトン主義から多くのものを受けついでいる・・・キリスト教神学がキリスト教から逸脱し、いわばグノーシス的汎神論的な観念論的異端にしばしば陥いる傾きが生じてくるのではないか」云々と述べておられる。

なお、「絶対者」は、「自らをことさらに作示する『汝』であるような客観的絶対者」と「おのずから露呈された限りでの『我』であるような主観的絶対者」とに区別される由。「絶対他者」も「絶対自己」も矛盾した言葉である。自他の区別を持つということは相手があるということであり「対」を「絶」っしてはいないからだ。

北森嘉蔵著『対話の神学』(教文館)によると、鈴木大拙氏の以下の指摘があるとのこと。

<「西洋的な」キリスト教が神と人間とを「対立」させることは、「相対立」するかぎり神を「相対的」なものにしてしまい、真の宗教的「絶対性」を逸すると同時に、二元対立の「分別知」へ傾かしめ、ひいては政治的な「分割統治」の植民地主義をさえ生むに至るとまで批判される。(鈴木大拙東洋文化の根底にあるもの』、朝日新聞、昭和三十三年十二月二十二日号)。

そこで関連して2つ、引用する。1つめは、旧約聖書学者の深津容伸氏の「キリスト教と日本人」という論文から。

「…日本の教育がキリスト教信仰を天皇信仰に置き換えて取り入れられていることを内村鑑三は批判しているのである。これは何も教育に限ったことではなく、明治憲法キリスト教の神を天皇に置き換えて制定されたため、以後天皇絶対神(古来から日本の神々に絶対神は存在しなかったのであるが)として信仰されるようになったのである。キリスト教信仰を省いてキリスト教文化を受け入れることを内村は欺瞞として批判しているわけであるが、これが今日に至るまで、日本人がキリスト教に接する傾向であるといえる。」(※濃字は私)

2つめは、東大教授を退官後、放大教授に就任され、哲学の生涯学習に大きな貢献をなさった渡邊二郎氏の『現代人のための哲学』(放送大学教育振興会)から。

「日本に西洋哲学が受け容れられ、またキリスト教が広まってゆくに従って、次第に、絶対者としての神の存在という観念が、人々の間に浸透し、人々に信仰心を呼び起こ」したと述べておられ(p240  ※濃字は私)、「西洋哲学が受け容れられ」たことに関してはともかく、すくなくとも「キリスト教が広まって」いったとしても実際に「絶対者としての神の存在という観念」を受容し得たその「人々」というのは、あくまでも一部の知識人に限られていたのではないかと私には思われる。いずれにしても渡邊教授は終わりの方で、「私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司どる絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。」と語り(p257)、最後は、「私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」と結んでおられる(p258 ※濃字は私)。

なお、どういう人物かはわからないが、宗教社会学者か何かだろうか…?定島尚子さんという人の論文「日本における社会意識としての神観念」では、< これまで哲学・神学・宗教学等の立場に基づき神観念は研究されてきた。それらの神観 念を抽出・類別すると以下の三種類に分けられる。第一に、 「自然神」(例:天体・気象現象等)。第二に、「人間神」(例:人格的神・機能・祖先神等)。第三に、「超越神」(例:キリスト教等の唯一絶対神)である。>と書かれてある。144255092.pdf (core.ac.uk)※「機能神」とありますが、そんな用語があるのか?このサイト主の造語ではないのか?と疑わしいですが、仮にそのような神観があるとすれば、寺園喜基氏の私への個人的な言葉である「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」という批判の対象に該当すると思われます。

神学者カール・バルトは「絶対他者」と訳されることを言ったようだし、宗教学でも神については「絶対(者)」と言われ、宗教哲学では「絶対有」とか「絶対無」といった言い方もなされる。いずれにせよ「絶対」なるものは「相対」なる人間とは隔絶して然りであるが、ここに「絶対他者」と「絶対自者」との区別を曖昧化するロジックもある。以下は、小田垣雅也氏の言葉。

<元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは「絶対他者なる神を信じる」などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。>(~『現代のキリスト教』)

まさに小田垣氏は「考え過ぎ」だと思う。そこまで考えたら却って「絶対他者」である「神」(のはたらき)を見失うことになる。その点で次の野呂芳男氏の人格主義的神学サイドからの批判は的を射ているだろう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。神が文字通りに一人格者(a person)であるとは思わないが、キリスト教の言うアガペーの神は人格的なもの(The person)であり、人格的象徴(symbols――ティリッヒの使う意味でのそれ)(10)によってでも表現しない限り、表現できないリアリティーキリスト者の神体験にはあるのではないか。やがて小田垣さんも神学の各論を、即ち、贖罪論や義認や聖化やキリスト者の生活を、あるいは、三位一体論を何らかの仕方で語らない訳には行かないであろうが、その折には、たとえ神を無、あるいは、絶対無で表現しようとも、その無あるいは絶対無の人間に対する愛・恵み・慰め・命令等について語らざるを得なくなろう。そういう信仰体験の事情を、我々は神が人格的であるという主張で意味しているに過ぎないのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)※(10) 「実存論的神学」167頁

野呂氏はこうして小田垣氏の思想を批判することを通して人格主義的神学者としての面目を躍如されているかのようであるが、野呂氏の方は神の「絶対」性を否定して神を相対化する愚を犯してしまった。

ちなみに「人格神」について、並木浩一氏は次のように説明している。

神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに「あなたは私たちの神です」と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。(中略)神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。「人称」はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに「神称」とは言いませんし、言っても意味がありません。>(『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』〔日本キリスト教団出版局〕p208)

八木誠一氏も言っておられるとおり「人格神」の「人格」とは比喩であり、上記のとおり「神自身の本質が人格であるということでは」ない。しかし聖書が示す「神」について語るには「人格」という比喩が実践的意味でも不可欠と言えるほど重要だという意味では「本質的」である。並木浩一氏によると、「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ないとのこと(~私信)。

「人間が求める神は真・善・美への憧れを十分に満たしてくれる究極的な存在者であって、絶対的なものではないのである。絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。(中略)哲学的に絶対とか無とかいう言葉で表現されているものは神ではなく、そこで神や人間やその他の存在が生きて、真・善・美を求めて苦闘する場であると、私は考えているのであるが、これは教会教父たちの贖罪論に見られる二元論に近い発想である。」(~野呂芳男著『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)

量義治氏の場合は、以上のような問題意識はなく、別の問題意識が示されていることは以下のとおり。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)

「神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは『神聖性』である、と。」(量義治著『宗教哲学入門』p109)

これは波多野氏の文章を引用している文脈の中にあるので、太字の部分だけ見ていたので、波多野氏の言葉かと思いきや、終わりの方に「波多野は言う」とあるとおり、量氏の言葉であった。

それはともかく、改革派教理における神の絶対的力(Potentia abosoluta)への信仰は先行的恩寵の現実認識を伴う。実際に神の恵みが先行しているからこそ、自分のような愚かな罪人にも信仰が与えられ聖霊が内住されたのだ。

以上のように、矢内原氏が強調するとおり、聖書が示す三一の「神」の特徴を「絶対」だと言うことについては、日本社会においては明治以来、神学的是非の議論は別にして、一般化されていたと言えよう。

 

相対性の中での唯一存在の選択は、小田垣雅也氏が重視した個別・特殊に徹して普遍・一般へ至る道であろう。想起するのは、「わけのほる ふもとの道は おほけれど おなじ高ねの 月をこそみれ」(一休宗純わけのほる(一休宗純): 和歌の世界 (jpn.org) という歌。登ってゆく麓の道は違っても、同じく高い山に登る月が見えるということで、いろんな宗教の中でキリスト教という一つの道を究めてゆけば、他の宗教においても見えてくる普遍的真理が見えてくるのではないかと思われる。しかしそのことを客観的事実として認めることは、荒井氏も採らないといわれる宗教多元主義のようなことになるので、自分の場合、拝一神教的信仰というのは自分にとっての道は対外的(・客観的)には相対的であっても対内的には唯一であるから、その特殊な道を通って見出される神も自分にとっては絶対なのだ。あくまで対内的(・主観的)にだが…。

ちなみに日本語では「絶対」と「絶体」とが間違われやすい。前者の英訳はabsolute.後者の英訳はdesperate. 絶体絶命な状況から救済し得るのは絶対他力である。絶対なるものは必然的に人格的になる。存在でなく働きであっても人心に作用する以上、同じ力であっても物理的力ではなく、希望とか励みとかいった活力…生きる力だから人格的ならざるを得ず。ついでに言えば、自分が「内住の聖霊」や「聖定」といった教理概念を受け容れながらも福音派ではなくリベラル派の側に足を置くのは、その教理的意味に制約されたくないからであり、実際に私的生活現実においては、聖霊のはたらきを感じても教理の定義からは逸脱する部分があるからだ。

私の神信仰における主たる問題は、対人関係における不安や恐れが日常的な苦しみなので、対神関係において心労軽減という救済願望への有効な作用が神の働きとして要請されるということ。ここで「対神関係」と「信仰」と「救済」との関係をまとめてみたい。そこで入り口として扱いたいのが量義治氏の妙な説で、それは、「信仰は認識論的事態(=意識の事柄)ではなく存在論的事態(=存在の事柄)」であるということ(『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』〔ネスコ/文藝春秋〕参照、『関根正雄記念 キリスト教講演集Ⅰ,Ⅱ』〔関根正雄記念キリスト教講演会準備会〕参照)。

量氏は、信仰は主観的には確実だが客観的には不確実な意識であり、知識は主観的にも客観的にも確実な意識であるといわれてもいる(『無信仰の信仰』p54)。

私見では、量義治氏は「信仰」と「(対)神関係」とを混同していると思われます。上記のとおり信仰がある種の意識であることは量氏自身認めておられます。人が神を信ずるということは意識を介するのです。だから当人の自覚なしに信仰の成立はありませんが、救いというのは当人の意識の問題ではなく、その自覚なしに神から霊魂に対して一方的な働きかけとして与えられる恩寵です。そしてその出来事を「救い」として反省し自覚するためには意識のはたらきが不可欠です。但し、現実には神が救っても、本人が救われたことを自覚も認識もしていない場合、その人には救いはまだ訪れておらず、神の救いの業は成就していない…などということは、客観的には言えません。もしそんなことが言えるなら、重度の意識障害の人などは救われないことになってしまいます。しかし神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのであり、たとえ外見的には岩石や丸太のようになった人からも神の民の成員が選ばれているのです。

キリストによる救いを信じることができるということが、すでに救われているということなのです!そこには論理的な矛盾があります。しかしこのようなロゴスの次元を抜けるパトスの次元にこそ道が開かれるのです。たしかに宗教体験を省察するための概念や論理すなわちロゴスは必要ですが、意識がその表層レベルにとどまったのでは宗教ではなく(宗教)哲学にすぎません。小田垣氏が、「人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。」と述べているとおりです(~説教「花吹雪と復活」)。

本題に入るが、対人関係においては少々のことは黙認しないといけないし、いちいち気に障る言葉が耳に入っても流すようにして、でき得るかぎり平穏無事に…、キリストの平和を第一に心がけて歩んでゆくしかない。対立関係の緊張した状況は自分のメンタルにとって自殺行為になると心せよ。そんな自分にとっての「神(との関係)」はおのずと「癒し」とか「励まし」乃至は「慈愛」といった人格的なものになる。それは自分にとって、唯一回限りの人生を実現させているこの生命の絶対性に対応する絶対なるもののはたらきでなければならない。そうなるとそれは生命の源・付与者のわざいうことになり、そこで創造神話が意味をなし、聖書の創世記の物語から示される創造主のみわざいうことになる。それは、そのためなら生命を捨てることができるというような…国家とか悠久の大義とか誇りとか…そのような実体なきものではないのだ。あくまでも聖書が示す父・子・聖霊の三一の主なる神以外にあり得ない。すなわち現実の死を超えて他を生かし自らも生き得る永遠の存在であって然り。そして聖書が示す神は、必ずしも絶対的でもなければ超絶的でもなく、実在性はあっても実体性は薄かったりする。例えば旧約聖書でも従来の文書資料仮説においては代表的とされるヤハウィスト資料での神観は、イエス受肉以前の受肉と言おうか…、アブラハムとサラの前に現れた「3人の客」の話のように、神の人間化といえる記事がある。

「このように、神が歩いてきて問いかけをする、というような光景は、『創世記』3章の失楽園以降は見られないが(中略)それでも、ヤハウィストの神は、人間に問いかけ、人間と会話を交わし、時には(老いたアブラハムとサラのところに、子供が生まれることを告げに来た3人の人のように(18:2-15)、人間の姿に身をやつして現われる。アブラハムは100歳、サラは90歳で、子供が生まれるという。その知らせを聞いて、『サラはひそかに笑った』。その後の会話は、超越的絶対神と人間の対話というには、あまりにも人間的である。(中略)そして、このような対話を交わした後でも、このように、(いわば主を侮辱するように)笑ったサラは特に罰せられもせず、サラは子供を恵まれるのである。(ヤハウィストの描く神は、一度約束したことは、必ず守る。特に、一度与えた祝福は、取り去ることがない。それだから、創世記に出てくる者たちは、神の祝福を得ることに何にも増して大きな意味を見るのである)。」(~本多峰子氏の論文「ヤハウィストの神 ― 旧約聖書のはじめの神観 ―]」)KJ00004509326.pdf

本多峰子さんによると、「ヤハウィストの描く世界は、かなり、異教的な要素がのこっており、それが必ずしも罪とみなされていない」とのこと(~上記論文)。

ところで、「絶対的な神」が用語として用いられるのはアンセルムスからであるというが(~小川圭治著『神をめぐる対話』〔新教出版社〕p62)、野呂芳男氏は「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを分けて「神」は前者だと言う(~「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於 立教大学チャぺル)。「絶対」は「相対」と「相対」するといった屁理屈(…それこそ哲学的思考)で「神」の「絶対」性を否定している。

「史上,絶対的な全知・全能の神がしばしば専制政治に利用され,民衆を弾圧する道具に使われてきたことを考えますと,多元が多元のままで,そこに愛による-時代によってその形が独創的に変化して造られる-調和形成を目指す多元論のほうが,キリスト教という愛の宗教には相応しいと思うのです。アウシュヴィッツなどの強制収容所におけるユダヤ人虐殺,中国などにおける日本軍による虐殺事件,広鳥や長埼への原爆投下,東京下町の大空襲などを体験した私たちにとっては,もしも神が全知であり全能であるならば,何故にそれらの出来事を阻止できなかったのか,分からないのです。」

歴史の表面だけを見たような観念的で神義論的動機によるものであるから、この野呂氏の「神」の「絶対」性の否定には説得力がない。下記の方がまだマシか…。

「絶対的なものという言葉は哲学的概念であって、相対的なものという概念と対になる。もしも神を絶対であると言うならば、その神は一存在(a being)ではあり得ない。なぜなら一存在は、他の諸存在と並んで存在するに過ぎない一つの相対的存在であるからである。したがって神を絶対的なものとすると、どうしてもその神は存在者ではなく、ティリッヒの言うように、諸存在を存在させるような存在の力、あるいは、そこからすべての存在するものが出てきて、またそこへ帰って行くような存在の根底とならざるを得ない。私のようなプラトンキリスト教の延長線上にある実存論的神学の立場から言うと、このような絶対としての神は無であり、不条理であるに過ぎないのである。」(~『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p335)

神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~矢内原氏の論文「日本精神への反省」)

このように矢内原氏が本居宣長批判において「神の神たるに必要な本質」とした「絶対最高唯一」なる存在が、私立にとっても信仰に値する主なる存在であり、聖書が示す三一神である。その聖書が示す創造主なる「神」はその存在の「絶対最高唯一」(に加えて「超越」ないしは「包越」)性によって人の魂を平安にし霊を活かし救われるのであり、人間の肉的・物質的生活の都合に合わせて有限化され相対化された非聖書的で脆弱なる神観では、特に多神教で汎神論的な日本社会においては得体の知れない存在へと変容してしまう。実際、野呂氏にとっての「キリスト」は「他の宗教の神仏や――アニミズムを起源とする――天使たちや精霊や妖精たちと手を結んで」いると言われているが何をかいわんやであろう。とにかく、神の絶対性は存在そのものというより、その主権およびはたらきについて言われて然りだ。言わば、個別に絶対性を有する生命の、その本源としての絶対性である。人の実存的唯一絶対性が創造主の唯一絶対性を反映しているのだ。野呂芳男氏は「神」を前述のとおり「究極的なもの」(the Ultimate)と「絶対的なもの」(the Absolute)とに区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ないので、野呂氏は「究極的存在者」としての「神」を求めるのだというのだ。

「人間が求める神は真・善・美への憧れを十分に満たしてくれる究極的な存在者であって、絶対的なものではないのである。絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。(中略)哲学的に絶対とか無とかいう言葉で表現されているものは神ではなく、そこで神や人間やその他の存在が生きて、真・善・美を求めて苦闘する場であると、私は考えているのであるが、これは教会教父たちの贖罪論に見られる二元論に近い発想である。」(~『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)

私にとっては特に精神的な問題の解消としての救いのみわざは、御父から与えられた内なる聖霊のはたらきである。御父エホワとか御子イエスとかは擬人的にイメージされるので、関係の距離感ではあまり近くない方が良い(…美輪明宏氏の「腹六分」は対人関係だけでなく対神関係でも…)。三者の中では擬人的イメージが最も弱い御霊の方がちょうどよく、自分の内に宿るといわれるほどに近くても御霊なら気にならない。インマヌエルはまずもって聖霊なる神が前面に立つ三者との関係であると思いたい。自分の心の内に与えられている御霊のはたらきこそが、世間的価値という偶像の絶対性を相対化して真の絶対性を自覚させる。それは現実の苦悩から癒し励まし力づける人格的業であり、日常において体験される救いの出来事なのだ。

荒井献氏は『イエスの時代』(岩波新書)の中で次のように述べておられる。

エスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して「神の権威」に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。>(p185)※「機能」という点に関しては、私信における寺園喜基氏の次の言葉が思い出されます。「斎藤氏でいくと、神の存在・人格は機能論に解消されてしまうでしょう。しかし、両者は同時的でなくてはならないと思います。」・・・ここでの斎藤氏とは「三一論の研究」の斎藤仁作氏。私は特に、「三者はそれ自体において神なのではなく、他者への献身をとおして自己の存在と神性(アイデンティティ)を獲得しているのである。このように、父と子と聖霊とその統一は、神的な愛の具体化・形態化として理解されるのであり、その意味では三一論とは『神が愛である』ことの具体的で、より正確な言表にほかならない。」との斎藤氏のもの言いに疑問を感じて寺園氏に質問した、その返答で言われている表現が、「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」ということでした。荒井献氏も『イエスとその時代』(岩波新書)において上記のとおり、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ」云々と言っておられるので、その意味ではやはり神論が機能論に解消されているとか吸収されている感もあると言えるでしょう。

 

とにかく一神教的人格主義的実体論的神観は聖書的に通用しないということは、ヘブライ的思考が主体を独立人称代名詞ではなく動詞の人称語尾で示すことが多いことに反映された「はたらき、出来事」主義的思考ということもあるし、また、遍在という聖書的教理があることも…。そしてキリスト教の神といえば日本人の多くはその特徴として「絶対」よりも「愛」を想起するだろう。

「神は(無償の)愛」だけの存在だというような考えは、キリスト教について日本人が最も誤解している点です。

「愛の神はどのような贖い(賠償)をも要求されないで、罪人をゆるされるはずであるとか、そのひとり子を十字架につけなければ罪人をゆるすことをしない神は、苛酷にして復讐的な存在であるとかいう人々に対して、私たちはどのように反論したらよいのであるか。
まず第一に、私たちはそのような人々に、神は愛以外の何者でもないかのように、いわゆる『愛の神』又は『愛なる神』について語る権利はないということを思い起こさせねばならない。聖書の中に啓示されている神は愛の神であると共に義なる神でもある。愛というのは神の御性質の中の一面にすぎないのであってすべてではない。」(ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版部〕p254)

たしかに新約聖書には「神は愛なり」と、第一ヨハネ4章なんかに書いてはあります。神の一面を強調した言葉ですが、実に誤解されやすい言葉です。それって、「神はあなたがたを耐えられないような試練にあわせることはない」(第一コリント10:13)といった言葉と同様、不特定多数の読者に向けて言われているわけではありません。これまで人生の苦難を神の試練と受けとめて耐え抜いてきた信仰者に向けて言われているのです。

改革派神学者のベルクーワは、カール・バルトの神義論を次のように批判したという。

<結論としては、バルトは、神の義を正しく理解していないと言う。何故か。すると、バルトは、この罪の世界は、神の愛において、キリストにおいて、受け入れられているということで、この罪の世界を神の義と直面させないで、神の愛ばかりに直面させているからである。神の愛が神の義を支配、神の恵みが神の怒りを支配しているからである。>http://minoru.la.coocan.jp/berkouwerprovidence8.html

一般信徒がこの世の苦難とこの世の造り主である「神」との関係について疑問を感じた時、それは「神義」論的な問いと言うよりは「神愛」論的な問いではないかと思う。多くの信徒にとっては「神の義」よりも「神の愛」の方に関心があるからだ。聖書が示す「神」は「愛」であると言われ(ヨハネ一4:8他)、だからこそ「義」なる方であるよりも前に「愛」なるお方であるのだ。その愛なる「神」が造られた世界、支配しておられる世界に、なぜ、これほどまでの苦難が起きるのか・・・?それがどんなに切実な問題であっても、そしてそれに対していかなる答えが提示されようとも、人間救済中心主義は偶像崇拝になる。不毛な「神義論」ならぬ「神疑論」に陥らないために、私は理神論的要素を持つ聖定論が有効だと思う。

ちなみに佐藤優氏は次のように述べています。

「フロマートカは、よく言われる、旧約聖書の神は『裁きの神』で恐ろしいけれども新約聖書は『愛の神』で優しいというような見方を退けます。イエスは、律法を廃止するためではなく完成させるために、われわれの世界に現れた神です。新約聖書も『裁きの神』なのです。それですから、イエス・キリストの前に立つとき、キリスト教徒は恐れの感覚も持つのです。このことを多くの神学者は見逃していますが、フロマートカは、シモン(後のペトロ)が、イエスと出会ったときの物語から読みといています。」(~『神学の技法』〔平凡社p58

とにかく私は、「神」そのものよりもその「はたらき」に意識を向けるほうがよいかと一時的に思ったが、それはやはり逆順であり、神観第一の思いに変わりは無い。矢内原氏もどこかで述べておられた通り、神観は重要なのだ‼ 神学的思考の基盤とも言えるだろう。でも主体とその行動とは一体なので、神から与えられた「内在の御霊のはたらき」に意識を向けることによって対人関係におけるストレスに耐えて生きることが可能にはなる。だからといって大局的には「聖定」に重きを置く…という信仰ではやっぱりダメです。「聖霊」の働きに重きを置くのはよいが、創造主である御父への信仰が第一である。無論、聖霊のはたらきへの信仰も重要だ。

< 春名純人氏の論文だっただろうか。カギは「理性の再生」ということである。アダムの堕落にあって、人間の理性は死んでしまっている。人は聖霊によって理性を再生してしていただく必要がある。つまり、世には未再生の理性と再生した理性があるのである。対立しているのは理性と信仰ではなく、未再生の理性と再生した理性なのである。再生した理性はキリスト信仰によって再生したのであり、未再生の理性は自然主義とか無神論とか多神教など「異なる信仰」によって未再生の状態にある。

 この見解の根拠は聖書にある。

「十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。御霊を受けている人はすべてのことを判断します。」(1コリント2:14,15)

 文脈上、ここで「御霊に属すること」とは「十字架のことば」である。御霊によって再生した理性は「十字架のことば」を理解することができるが、再生していない理性は「十字架のことば」を理解することができないと聖書は教えている。>理性の再生 - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)

実践面では、キリスト者にとってこの世が仮の宿であると言っても、日本という国に限定されている意義がある以上、その固有性において「二つのJ」(ジャパンの頭文字のJともう一つの方のJは、自分にとっては内村とは違って、ジーザスの頭文字のJではなくジェホバの頭文字のJ)という現実的立場が生じる。

しかし究極的には、その絶対主権者なる神との関係においてこそ、この世の偶像的価値を相対化し得るのであり、それによって自由になり心労の重荷が軽くなる。ただ、いつもいつも擬人化される絶対神の視線を…対面を…意識するのもメンタルにはそれなりに負担になるから、御父や御子よりかは擬人的イメージではない御霊が前面になる方がよい。いずれにせよイエスさま中心主義的信仰が大の苦手なのだ。そういうキリスト教は御免こうむりたい立場なのだ。自分はそのイエスさま及び父なる神さまによって内に与えられた主の霊…御霊のはたらきに意識を集めたい。但し、例えば対人関係でのストレス苦の軽減作用を期待して「内なる御霊のはたらき」を求めたとしても、はたらかない時ははたらかないのであり、いろいろと方法に工夫や心がけはあろうけど、ダメな時はダメだから、そういう切り替えというか諦めを持つことも前向きに生きるには必要であり、そのためには「聖霊」信仰だけではなく「聖定」信仰も持たなければならない。これは森田療法における「物事本位/ともかく主義」と関係ある。相撲取りがインタヴューを受けてよく言う「目の前の一番一番をいっしょけんめい取る…」ということとも…。以下、ちょっと小田垣雅也氏の話を聞いてみよう。

<…思考依存型というのは、そこから脱したいという思考に捉われて、捉われるからかえってその思考に固着してしまう、という精神の状態である。それが思考依存である。その思考は、どうしてもそれから脱することはできない。思考すればするほど、それは思考として増殖する。それが妄想と言われる理由である。だからその思考を諦めて、行動する。そして「行動優先という点で思い出すのは、何と言っても有名な森田療法である」と蟻田氏はいう。森田正馬博士は思考依存型妄想病から脱することを「物事本位」と呼び、「気分本位ではなく、物事本位」をすすめていると蟻塚氏は言っている(同書、一二三頁)。森田療法ではそれを、「何も考えないで飛び込む」「恐怖突入」と言うそうである。そしてそれを実行するのは「ともかく主義」であると言う。「ともかく主義」とはこういうことである。少し長いが、再度引用してみよう。「心身の病的抑制(たとえば、思考するのはやめようという思考引用者)を打破して目前の行動に踏み切るには、『ともかく主義』が良いという。もしも不登校の子供がいたとする。で、朝起きたら何も考えずに、『ともかく顔を洗う』、『ともかく食事する』、『ともかく服を着る』、『ともかくカバンを背負う』、『ともかく靴をはいて家を出る』、家を出れば大抵、学校にも会社にも行けるもの」のよし。これはわたしにも経験がある。「問題は行動に移す以前の葛藤だから、そこを『ともかく、目前の課題に限定してひとつひとつこなす』ことによって乗り越えようというのが『ともかく主義』だそうだ。森田療法では、行動に移す以前の『もやもやした気分にひたる状態』を『気分本位』、逆に『ともかく』目前の課題をこなすことを『物事本位』と呼び、『気分本位でなく、物事本位をすすめている』」と言っている。わが家では、家内が仕事で遅くなることが時々あるが、そのようなとき、わたしは何かしていた方が、たとえば皿を洗うとか、米をといでおくとか、何もしないで徒らに待っているよりも楽だという精神状態を、発見したことがある。「ともかく」何かしていた方が、何もしないで待っているよりも楽なのである。これは「ともかく主義」の応用編であると言えるかもしれない。いまこの文章を書いているのにしてもそうである。「ともかく」書いてみる。また、わたしは散歩を毎日(雨が降らないかぎり)するが、これも身体のためというよりも(七十八才になって身体のためでもないだろう)、一日家に引き込んでいると、それだけでイライラしてくるからである。「ともかく」散歩に出る。これも「ともかく主義」の変形であろう。「うつの能力」というのは、森田療法の言葉を使えば、物事を「気分本位」に耐えていること、それには「高い精神の能力」が必要だということも含まれているだろうが、それよりも、それを「事物本位」に、「ともかく主義」に転換することを言うのだろうと思われる。イエスは「思い悩むな」(マタイ六章二五節以下)ということを言っているが、これは森田療法の「事物本位」、「ともかく主義」のことを言っているのではないか。とにかく「気分本位」「思考依存型妄想病」とは逆のことである。それが「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」ということの本意ではなかろうか。>(~みずき教会説教「うつになる能力」)※濃い字は私。

自分としては常に「内なる御霊のはたらき」を期待して、人間関係で嫌な思いをしても、敢えて謙虚になって、気にしない…気にしない…と自分に言い聞かせたりして、とにかく感情的にならないように、特に怒りが出ないように…と理性で抑えるようにしているけど、そういう制御がある程度利くうちは御霊のはたらきがあると言えるだろうから、そう思い込むのだけれど、そういう抑圧がある時マックスに至って爆発的に出ちゃわないとも限らないから、やはり「内なる御霊のはたらき」ばかりに意識を集めても、そうなったらなったで、神義論みたいな無用な思弁に陥ることなく神信仰を維持し得るには、やはり「内なる御霊のはたらき」よりもひとまわりもふたまわりも大きな観点で、「聖定」をも意識していないといけない。

「聖定と予定とのちがいは何か。―― 聖定とは創造された世界の中にすべて起こってくることに関する神の計画をいう。予定とは、天使と人間の永遠の運命に関する神の計画を指す。」(~『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』p59)※濃い字は私。

このように「聖定」は人間に関して「運命」を支配する事柄なのだ。

「神の聖定は異教宗教の『さだめ』『運命』『幸運』といった理念のような気まぐれ的決定と同視されるべきであろうか。―― 否、決してそうではない。神の聖定は気まぐれではない。何故ならば、それは神のみむねのよしとするところに従っているからである。神の聖定の背後には、無限の人格にいます神のみこころとみむねがある。したがって、聖定は『運命』『運』などとは断じてちがうのである。」(同上書p57)

もとより「聖定」と「運(命)」などを一緒にすることはあり得ないが、日本人キリスト者における聖書信仰的人生論においては、「聖定」と「運(命)」などとの異質性を踏まえつつも分離させずに考える必要はある。そこに自分の「聖定論的人生観」乃至は「聖定的人生論」が成立する。私の場合は教理主義で「聖定」にこだわっているわけではなく(従ってアルミニウスの所謂「条件予定説」も主観的には正しいと思う。ただ、神中心というタテマエ上、客観的には「二重予定説」を認めて然りで、そこは二重性の真理であって然りとする、神学的というより宗哲的立場)、あくまで人生観なり人生論として、この日本語が気に入っている。ちょうど五木寛之氏が「他力」という言葉を好み、それが必ずしも仏教教義として言うのではないと書いておられる(『人間の覚悟』)のと同様、私も「聖定」という日本語を好み、意味的にはキリスト教を前提としながらも、改革派神学用語(decretum、dcree)の和訳語としての教理的意味に限定せず、文芸創作などに人生観的意味で使用する。

たとえばダニエル書3:18の「たといそうでなくても」〔聖書協会口語訳。関根正雄訳(新訳)では「もしそうでなくても」〕(「ヘーン ラーア」:「ヘーン」は接続詞「もし、~かどうか」。「ラーア」は副詞「~ない」)という言葉も、「ウ・信・基」では聖定聖句に入っていないかも知れないが、自分はこれに入れる。というのは、神の人間に対する予定は人間には未知はあくまで未知であって、しかしそれが神による聖なる定めであるがゆえに、愛と義にもとづくものであると…、必ず肯定的・積極的な意義ある定めであると希望するのが信仰だから(…そこがネガティブな意味での「あきらめ」ではなく、ポジティブに明らかに見究めるという意味の「諦め」なのだ!)である。そうなると、「そうならない」可能性もおさえつつ…つまり必ずそうなると一方の可能性だけに限定せずそうならない場合を仮定して言うところにむしろ神の意志を自分にとって都合よくだけ受けとめる御利益信心的あるいは賭け事的な態度を否定する意味も生じて…「たといそうでなくても、もしそうでなくても」といった仮定的な言い方も(英語ではふつうEven if not)、聖定信仰的であると言い得るだろう。すくなくとも「聖(なる)定(め)」をテーマにした人生小説でのセリフなどには使える。

ちなみに仮定的な訳と言えば、詩篇23:4が、口語訳で「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも」とあるが(関根正雄の新訳も「たとえ」があるが)、それは「ガム キー」で「たとえ~しても」と訳されるからであり(~谷川政美著『旧約聖書ヘブライ語独習』〔キリスト新聞社〕p422)、そのような仮定的表現でなくても「ガム」を「~もまた」、「キー」を「時に」と、両方とも接続詞として訳す訳し方もある(ミルトスの対訳、新共同訳、岩波版松田訳など)。

なお、岩波版松田訳は「暗黒の谷を私が行くときも私は災いを畏れない」となっており、「恐れ」ではなく「畏れ」というのは疑問。

 

以下、参考引用。

キリスト者である医者が言った、『私が医学部に入って最初に教授に言ったことは〈医学は唯物論だ。人間を物質と思え〉であった、』と。人間の精神活動が物質の機能にすぎないとされ、人間の霊魂が否定されたとき、神が霊であることが理解できなくなった。従って、人間の人格性が否定されると同時に神の人格性も否定されてきた。その上、日本においては、汎神論的地盤の上で、人間や自然が神とされ、人間の欲望の反映としての偶像がおびただしく造られ、礼拝されている。この倒錯した精神状態で生が行われているのである。すなわち、神なき生の実験が世界到る所で行われているのである。人類の危機の根源はここにあるのである。このような状況の中で、神の言葉である聖書の言に人類はもう一度耳を傾けるべきである。聖書の言を信じ受けいれ、これを正しく理解しようとして苦闘したカルヴァンの神観を今日もう一度学んでみることも意義なしとはしないであろう。(中略)もし、カルヴァンの二重予定ということが正しいとするなら、敵対するものをすべて包む北森嘉蔵氏の『神の痛みの神学』は崩れるのではなかろうか。『神は如何にしても包むべからざるものを包み給ふが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給ふのである。』(同箸、昭和二二年版七頁)。『神の痛みは、絶対に受け容るべからざる者を敢えて受け容れるが故にこそ、神の痛みなのである。』(一一一頁)。『神の真実の怒を神の愛が負ひこれを克服するといふ事実こそ、神の痛みにほかならぬ。』(一三九頁)。『神の痛みは神の本質である』(四六頁)。北森氏が聖書の学びを通して、神理解について世界に大きな貢献をしていることを、積極的に認めるものであるが、同時にこの神学がもつ抽象性を見逃すわけにもいかないであろう。すなわち、神の痛みが神の本質とされ、包むべからざるものを包む神として規定され、これが神学の原理とされているのである。だが、実はここに大きな落し穴があるのではなかろうか。一つの神学的思考が原理とされるとき、それは抽象概念に転落するのである。創造主なる神を、相対的な人間の概念によって規定することはできない。聖書に示された神は、聖なる神として示され、その聖は汚れを焼きつくさなければおかない聖さである。(中略)聖なるものが汚れを包むということは聖書においては考えられない。(中略)異ったものを包む『神の痛み』の原理が人間の倫理に応用された場合、非常な混乱を生むのである。(中略)カルヴァンが聖書によって理解した神は、無から有を造り、罪悪と死に勝ちたもう絶対の主権者である。(中略)たとえ、人間の目に不条理に見えても、神は正しく、愛でありたもう。その神の前でただ讃美と感謝を捧げるのである。」(~『現代における神の問題』〔創文社〕所収、日本キリスト教会の平田正夫牧師による「聖定の神」。p77~96)

 

現実的に「最もたいせつなこと」(コリント第一15:3)は言い伝えのような外的な事柄ではなく、あくまで自分自身の心的状態(心境、境地)です。いかに福音と言われるものであっても、「キリストは聖書の示すとおりに私たちの罪のために死なれたこと・・・」といった未知未体験の出来事を耳にして、自分の心がどうなっているのかが最大の問題なのです。それが見聞きした時点では心に変化らしきものが生じなくても、時間が経って何かの出来事がきっかけになるなどして急激な変化を生じることはあるでしょう。いわゆるコンバージョンと呼ばれる体験です。そういうことはないうちは、いくらその言い伝えを受けても、それは当人にとって「福音」とはならないのです。パウロは福音が神の力であると言っていますが(ローマ1:16)、当人が生活上のさまざまな困難を乗り越えて生きるだけの力にはならないのです。このような考え方が神学的立場として認知される場合、これを主観主義であると評する声は多いはずです。近代神学がそのように言われ、現代のバルト神学が客観主義と評せられる旨は耳目にふれることもありますが、神学を体系的に学んではいない神学的雑学者にすぎない私の関知し得るところではありません。とにかく、使徒的宣教(ケーリュグマ)を見聞きしただけで聖霊体験で入信および救済といった瞬時的出来事が誰でも起こるわけでないことは言うまでもありません。やはり時間内であれ外(永遠)であれ、その時点でアオリスト的意味(…エペソ1:9「プロエセト」⦅「前もって定めておき」〔岩波版 保坂訳〕「プロティセーミ」〔前に置く、供える、決心する〕の中動態第2アオリスト直説法3人称単数⦆、1:11「プロオリスセンテス」⦅「前もって定められた」〔岩波版 保坂訳〕「プロオリゾー」〔前もって(限界を)定める、予定する〕の受動態第一アオリスト分詞男性複数主格⦆)で予め救いへの選びに定められている人でないと…。時間をかけて漸次的に回心体験してゆく…すなわちじんわりと心境が変化してゆく…というのが普通の考え方でしょう。いずれにしても客観主義神学は否定されなければなりません。すなわち体験的出来事を軽視して、聖書にこう書いてあるからこうなるんだと決めつけるやり方が歴史的背景などの情況を捨象している(抽象している)がゆえに非現実的なのです。例えば「敵を愛せ」とイエスが言った場合(そもそもイエスはそういう「愛」を語っていないとの田川説のような見方もある→「イエスが語った「敵への愛」とは、 普遍妥当的真理・絶対的真理ではなく、 逆説的反抗として語られた時にのみはじめて意味を持つ」〔『イエスという男』p43~44〕)その「敵」については当時のイエスと弟子たちにとっての迫害者のような具体的な存在がいて、そういう相手に対する一つの対処の仕方…方法として言われているわけで、そういう事情を抜きに単に現代社会の人間観で敵とみなされる様々な相手を代入して、どんな人に対しても愛情を持てと命じているかのように解釈したところで、そんなこと無理に決まっています。それでも救われた者なら出来るはず…ということで無茶な実行を自らに課して試みて傷つく者もいるわけで、そういう客観主義は否定されて然りなのです。だからといって主観主義神学が肯定されるべきだとも言えませんが、主客を超えたことを言い出すとこれは神学の域を出て宗教哲学の領域に入り、そうなると自分の場合は八木誠一氏の思想に傾倒してゆきます。

時折、終末期の…言わば個別的限界状況における最終的・究極的な自分自身にとっての支えとは何か?という問いが脳裏をよぎる年齢になりましたが、その場合は末期がんになって抗がん剤治療とかの苦しい日々を送る自分を想像してみるのです。そうすると現在、支えのようにしている思想などは吹っ飛びます。論理的に思索する余裕などは失われてきます。自分の人生神学的に言えば、形而上学的思弁的な事柄…三一神論などは吹っ飛び、救いのはたらきの現実性に関心が集まるのです。端的に言って「神」は感覚的対象ではないので、その点では「(居)無い」のですが、人によっては何らかの感じはあるのです。その感じは感覚器官のそれではないことは言うまでもありません。そしてその霊感とでもいうべき感じによって、ある人々の主観においては神が「有る」からこそ宗教現象もあるわけです。従って神は「無」と「有」との二重性において「相対無」ではないという意味で「絶対無」と云われますが、「無」は「無」なのでどうしても「有」の反対のように思われるので、これは「空」と呼ぶ方がいいでしょう。しかも創造者に比喩されるという意味で「創造的空」という八木誠一氏の命名もわかります。ただしこれは実体ではなくはたらきとしてイメージされなければなりません。しかも創造的、人格的なはたらきです。絶対的なはたらきはおのずと人を生かす人格的な関係としてイメージされます。

さて、そのような救済論的関心においては、「聖霊の内住」などは限界があります。なぜならその内住の聖霊のはたらきによって治療の苦しみや死への恐怖への忍耐とかいった問題は解消されないからです。体力がどんどん弱くなって忍耐するにもできなくなるからです。体力があるうちは一定の忍耐は可能だし、そのために聖霊の力による作用を感じ得るでしょうが、食欲もなくなって体力が激減してくれば、もはや死へ向かう時の流れに身をまかせるしかありません。残る希望はそこに聖意を信じ、できるだけ苦しまずに逝けることを念願することです。スケール的に見ても、「内住の聖霊」を超えるのは「聖定」です。なぜなら自分の心に負担をかけ苦しめるもう一人の自分(自我)というはたらきもまた「聖定」の内ということになるからです。善悪二元論は通用しません。「内住の聖霊」の教理では、その聖霊はあくまでも善霊であって、悪霊のはたらきに相対するものであることはイエスの言葉に明らかです。もっとも悪霊はイエス支配下にはあるのですが…(ルカ10:17~20他参照)。イエスを荒野で誘惑したサタンもまた聖定の内に位置ずけられているわけです。だから、終末期的教理的には「聖定」しか脳裏には浮かべ得ません。すべてを主にゆだねるのみなのですから…。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

聖定をどう信じるか…ということは神学的教理によって制約されるべきことではなく、聖書を踏まえつつ自分の人生経験から実存的に考えるべきことです。なぜなら教理というのは所詮、演繹であり情況捨象だからです。例えばウエストミンスター信仰基準もその時代的制約を免れ得ておらず、その部分は後世の有志が適宜、修正する必要があるのです。そもそも信仰の規準・基準というものも抽象です。個々人の事情がすっぽりと抜け落ちたメルクマールにすぎません。目標それ自体ではないのです。ただしそれが聖書釈義の客観的な指標となって説教に一定の制約をかけ、内容が説教者の主観的ないしは恣意的になることを防ぐのです。それは便利な反面、用い方を間違うと教条主義的になっておかしなことになります。だから予定説も、主観的・実存的には条件付き選びの方が二重予定説より正しいと言えるのです。しかし客観的・教理的には二重予定説の方が立てられなければなりません。なぜなら本来は神中心だから、二重予定説に方が条件予定説よりも論理的には神中心的だと言えるからです。その点で自分の在籍教派は改革派にはなりますが、その信条とすべて一致していないといけないわけではないでしょう。

自分も「聖定」に関しては人間の自由意志の条件を付けるべき面があってこそ現実的だと思うので、アルミニウス主義に関心はある(アルミニウスという人物自身の考えと違いがあるとしてもそこは気にならない。カルヴィニズムもカルヴァン本人の考えと合致するかわからないし…)。

以下、 引用。特に濃い字のところを重視。

アルミニウスの死後,彼を支持する人々が,彼の予定論に対する見解を5条項の抗議書にまとめた(このため彼らはレモンストラント派〔抗議派〕と呼ばれるようになった).(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,神の恵みを離れて善を行う力はない.(2)神は誰が信じるか,誰が信じないかをあらかじめ知っており,その予知によって人を救いに予定している.(3)誰でも悔い改めて信じるなら,救われることができるように,キリストの贖いはすべての人を対象としている.(4)恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない.(5)信仰者であっても,恵みの働きかけにあえて耳を閉すことによって,救われた状態から転落することもあり得る.救いはキリストにあって耐え忍ぶ者に保証される.<復> もちろん,ここで問題になっているのは,単なる予定論に関する解釈の相違ではない.神の主権や恵みが人間の自由意志とどのようにかみ合っているのかという,神学全体に影響する大きなテーマが,論争の根底にある.アルミニウスは,われわれが意志を働かせて努力すれば神のもとに上っていくことができる,とペラギウスのように考えたわけではない.アルミニウスにとって神の恵みは,人間の努力を助ける道具でも薬でもなく,救いの本質である.主権者なる神が愛をもって人間をあわれみ,行動を起さない限り,人間の側に救われる望みはない.人が神の前に義とされ,また義人として歩んでいく時,そこには人的功績のかけらもない.すべてはキリストが獲得して下さった功績によるのであり,同時に,人が自らを施しを受ける者の空の器のごとくに思い,その恩恵を受け取る信仰によるのである.この点において,アルミニウスはカルヴィニストのごとく生き,そして死んだと言えよう.<復> だが,彼は,「神の恵み」の質量を保持するために,人的働きの意義を極限にまで減少させなければならない,とは考えなかった.また,創造者である神の主権が人間との関係において絶対的・不可抗力的な形で行使されなければ主権の意義がないがしろにされるとも考えなかった.確かに,アルミニウスによれば,救いも信仰も人間の功績とは無関係に,キリストの恵みのゆえに与えられる神の賜物である.しかし,その信仰は人が自分で受けて,それを働かせなければ意味はないと言う.先行していく恵みに対して,付いて行くのかそれとも拒むのか,また神の一方的な愛に対して,どのような態度をとり,どのように反応するのかは,人間の責任領域にあると言う.愛や礼拝の世界では,自発的に参加することは,強制的に中に引き込まれるよりはるかにすばらしいという道徳的な原則を,神の主権は否定しない.<復> プロテスタント神学にこうした問題提起がなされたのは,アルミニウスが最初で最後なのではない.ルター派の中でのメランヒトン,英国宗教改革の中でのラティマー,福音リバイバルの中でのウェスリ(ウェスレー),新正統主義の中でのブルンナー,それぞれが,キリストと神の恵みの絶対性を保持しつつも,極端な人力卑下の傾向と格闘してきた.そうした神学の中には,いつもアルミニウスの面影を見ることができる.<復> さて,アルミニアン論争の嵐は,オランダ全土に広がり,政情を揺がすまでに発展していた.そこでドルトに宗教会議が召集され,1618年から翌年にかけての会議に,102名のオランダの保守的カルヴァン主義者と28名の諸外国からの代表が出席したが,いわゆるアルミニウス主義者はわずか13名の出席が許されただけであった.すでにアルミニウス主義者は,教会と国家が信仰表現のある程度の相違を寛容に受け入れるべきであるとの主張のゆえに,反逆罪に定められており,発言も投票も許されないままであった.ドルト会議は,レモンストラント派の5条項をすべて否定する形で,TULIPとして知られる「カルヴィニズムの5特質」を正統的見解として承認し,ドルト信仰規準を定めた.すなわち,(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,自らの意志で神に仕えることを選び取れない(T_otal depravity—全的堕落),(2)神は,無条件に特定の人間を救いに,特定の人間を破滅に選んでいる(U_nconditional election—無条件的選び),(3)キリストの贖いは,救いに選ばれた者だけのためにある(L_imited atonement—制限的贖罪),(4)予定された人間は,神の恵みを拒否することができない(I_rresistible grace—不可抗的恩恵),(5)いったん予定された人間は,最後まで堅く立って耐え忍び,必ず救われる(Perseverance of the saints—聖徒の堅忍).この五つが,ベルギー信条(1561年)やハイデルベルク教理問答(1563年)とともにオランダ改革派の正統主義の標準となった.<復> 会議後,アルミニウス主義は異端であると弾劾され,H・グローティウス(国際法の父として知られる)などは投獄されるに至った.1625年までは,迫害の波は緩和されたものの,アルミニウス主義はオランダで勢力を伸すことはできなかった.しかし,その影響は外に向かって広がり,17世紀英国では,ロード派の反カルヴァン主義運動に神学的な支援を提供した. >《じっくり解説》アルミニウス主義とは? | Word of Life ワードオブライフ

自分にとっては「聖定」そのものが恵みであるから、その先行する恵みに応えて、自分に定められたことがより良いようにと健闘することが実際の「聖定信仰」だと言える。ただし、その健闘においてどうしても「ブラッシュアップライフ」で描かれているような「徳を積む」という自力作善の動機が生じてくることもまた人の現実である。現在の苦痛なる人間関係が死後にまで続くような恐怖感があるから現在の人間関係にとらわれてしまう。それは文脈的状況はまったく違うが、結局「神のことを思わず人のことを思っている」(マルコ8:33 / マタイ16:23 )ということであり…、なぜならつねに神の絶対主権への信頼をもって生活し、対人関係においても神信頼によって意識しておれば、そうした「恐れ」など生じず、むしろ友愛の希望へ志向するはずだから…。しかしそうなっていない者があえて神の絶対主権信仰による人生問題での相対化…などということを自覚的に言わなければならないのだ。

これについては太宰治氏の『トカトントン』の終りに出てくる 「人を恐れず神を(畏れて)恐れよ」(マタイ10:28 / ルカ12:4 ※マタイでは「魂を殺すことのできない者たち」とあるのがルカでは「それ以上なにごともできない者たち」となっている。)を想起することになる。

ところで五木寛之氏は『人間の覚悟』(新潮社)の中で、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると…、そして、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」と述べておられます。

また、「『結局、最後のところは、やはり<他力>ということなんだろう』と(中略)あれこれ考えるのですが、やはりいきつくところはこの、他力、というその一点なのです。」(五木寛之著『他力』より)

まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。真宗の「本願他力」および「自然法爾」に通じる境地か…。

自分は生きるうえで神信仰を要する。なぜなら精神安定のために「絶対」なるものを要するからである。それは矢内原忠雄氏の「贖罪の信仰はキリストの神性を要求し、キリストの神性は三位一体の神観を必要とする。三一神観をして単一神観に対し勝利を得しめたるものは、人の側に於いては贖罪信仰の実際的要請である。併しながら三一神観は人の要請によつて造り出された神観ではなく、神の本質に関する神御自身の啓示に基く神観である。」だとか、有賀鐵太郎氏の(コーヘレトの神は)「自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である(中略)かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)といった文章などを見れば、自分の場合もカント的「要請」の主観的応用と言えるだろう。つまり精神的な問題を主題とする信仰生活の実践においては、重荷となるさまざまな偶像を相対化するための神の主権の絶対性が要請される…といったかたちにおいてである。そこまでまず相対化されねばならないものが自分自身である。自分が謙虚にされること、卑下とまでは言わずとも腰が低くなるというか頭が下がるようになるというか…要するに無用なプライドを捨て、過ぎた承認欲求から自由になれる状態になることが解決の早道である。他人を変える前に自分を変えなければならない。他人は変わらなくても自分は変わらなくてはならない。そのためには主観的にであれ、自分に心労を負わせる諸々の勢力を無力化しなければならない。それが神の絶対主権による相対化の意味である。ある意味、神を自分の問題解決のために利用することになる…との批判もあるだろう。実存的信仰というのは結局のところ神中心に徹することではなく人中心…自己中心になるのだ。これについては判断停止。まさに考えてみたってどうしようもないこと。とにかく救われる方向に歩むしかない。これもまた聖定の中での生き方であり、自分としては救いを求めつつ、やれることをやるだけやって、結果は主にゆだねるしかない。

「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」(~アドラー)と云われるように、自分にとって最もそこから救われたい状態とは対人関係のストレス地獄であり、そのために有効な方法とは自分が他者との優劣比較の基準として絶対的に思い込まされているもの(…それを「偶像」と呼ぶ)を相対化することによって無力化することだからだ。だから私が最も好きな日本語の言葉は「絶対」である。

神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」(北森嘉蔵著『神学入門』p74)

しかし「絶対」は聖書用語ではない。ただし、「三位一体」と同様、そのままでは書かれていないが、その概念は明示されていると言えよう。神論的にも、神の絶対主権ということは実力的・直接的に実現されるわけではなく、まずその絶対性のもとで自分自身が相対かされる…謙虚にされる(…無用なプライド、過剰な承認欲求…の放棄)というイエスのケノーシスにつながる謙卑の心境を経るという…否定媒介的に実現される。それは例えば、職場での人間関係におけるストレス地獄からの救いという主題で言えば、老後の暮らしに向けて厳しい経済環境の中で生計を立ててゆくために現在の職を維持するための忍耐なども含めて、イエスのケノーシスに倣う実践としての自己謙卑の境地になるための「内在の御霊のはたらき」を希求することになる。そこでその「はたらき」の実力が発揮されるかどうかは、「それにしても…」とか「いくらなんでも」といった思いの処理にかかっている。謙虚になるべきことはわかるし、実際、ある程度は考えだけではなく実際に謙虚になれた。しかしそれにしてもあいつに対してなぜそこまでへりくだらなければならないのか…?いくらなんでもあんな無教養で下品な人間に対しては謙虚になる必要はないだろう…。といった例外的な対象が存在するからだ。そのような相手を、愛するとまではいかずとも敵対しないためには、それ相応の対応が必要になってくる。これは自我のプライドやら承認欲求やらの抑圧だけでは済まない問題であって、それこそ、とても自力ではなし得ないと実感させられる。ここが変わってこないと自分は内住の聖霊なる神の大いなるみわざを見ることにはならない。

但しそういう「聖霊・御霊」(「御霊」の方は神道用語でもあるので「神」などと同様、単独では使えない!)とか「聖定」とかいった宗教用語は第二義的なものであって変化し得るものだ。第一義的には「絶対/相対」といった哲学用語で示される。自分の経験に戻るたびに自覚的にはどうしてもそのような表現になる。そこからさらにキリスト教という文脈の中では…ということで「神」とか「聖霊・御霊」とか「聖定」とかの表現になってくる。とにかくその「(聖書が示す三一の)神」とか「(内在・内住の)聖霊・御霊」といった神話的物語や表現によって自覚される体験を日々の暮らしの中で、小さくても積み重ねてゆくことが人生の最終的な救済の確信になるのだが、自分にとってはそのような道場としての機能が教会には求められるものの、そのような教会はなかなか見出し得るものではない。所謂ペンテコステ・カリスマ派の門をたたいても他の問題も生じて進展はない(そもそもフルゴスペル別府教会が賛美礼拝でクラスターやらかしたように、霊的活力と言っても個人レベルであれ霊肉不離だから保健衛生のような生命に関わることに優先されるべきことではない)。そこは「聖霊の内住」信仰以前に「聖定」信仰を理性的に働かせて受けとめる必要もある。「聖定」のおもな効用は所謂「神義論」的問いの無用化である。

 

社会的には確かに…例えば自分がNHKあたりのドキュメンタリー番組で取材されその生活が放送される場合のことを他の放送される人々のことを参考にして想像すればわかるが…まずは職業とか学歴といった外的な面がクローズアップされる。そこが自分の人となりを伝える窓口となるからだ。内面的なことは二の次だ。あくまで第一次の外的なことが前提されてのことになる。そうなると自分の場合、元は牧師のフリーターみたいな感じになる。そうすると立場的にもクリスチャンということであれば、「聖霊内住」であれ「聖定」であれ何の教理信仰を重んじているにせよ、実践面がクローズアップされることに変わりはない。メディア的には、何を信じているという内的なことよりそれによって何をしているのかという外的なことに関心が集まるからだ。それがボランティアのような倫理的なものか創作のような趣味的なものか…といった違いはともかく、何か客観性ある形になっていかないと社会性が出ないので番組としての体をなさないかの如くだ。それで自分の場合、「聖霊内住」の信仰に重きを置いてそれによってなし得る何らかの倫理的実践を確立するか、あるいは「聖定」の信仰に重きを置くなら趣味的実践…というか実践にとらわれず、創作の方を淡々とやってゆくか、ということになる。「聖霊内住」の倫理的実践を志向する以上、当然、教会という場がそうであることを求めることになる。教会が聖霊信仰を重視しないと、そのような環境が自分にとって信仰生活の場になるのかと疑問にとらわれる。「聖定」に重きを置くコースなら、教会については道場的機能は求めず、「聖定」教理の共有という点に重きを置いて日本キリスト改革派教会とする(…定年後の転居先予定地との関係もある)。なにせ「聖定」は聖書用語ではなく、一般的なキリスト教の神学用語でもなく、あくまで改革派神学に特殊な、カルヴィニストの造語なのだから…。改革派神学の神論においては、その主権の絶対性が強調される。そして説教も信仰基準(ウ信基)によって規定され、牧師の恣意的な語りには(原理的には)ならないはずだ。この点はアルミニアン・ウェスレアン系の福音派諸派よりも徹底しているという点で積極的な入会動機になる。そして上記の自己(相対化ではなく)謙卑化して自分をラクにするためにも、自分にとって「神」の絶対性は重要であるが、世間で絶対化されている価値(偶像)の無力化としての相対化の方法は、苦悩・心労の軽減に友好的とは言え、死への恐れの苦悩には限界がある。死も生と同じく絶対だから…。その点ではやはり人生神学の中心テーマのスケールとしては「聖定」に如くはないのだ。そして前述の「絶対(性)」は、必ずしも矢内原忠雄氏が本居宣長批判において「神」の要件とした「絶対」ということにつながるかどうかはわからない。と言うのは、聖書において「神」の属性を表わす用語としては「唯一」はあっても「絶対」は無いし、その「唯一」の意味は「唯一絶対」というように「絶対」と不可分のそれとは限らず、すくなくともギリシャ存在論的意味ではなく、ヘブライ的実存(論)的意味乃至は拝一神教的意味であるとみて然りだからだ。ただし、例えば1937(昭和12)年5月31日に文部省が第一刷を発行した「国体の本義」では、「二、聖徳」で天皇を「現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」云々とわざわざ断っているとおり、日本の世間一般では、キリスト教のGodは「絶対神」であると認知されてきている。

以下は、スピノザ研究の哲学者で東京工業大学教授だという國分功一郎氏の言、

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』といいます(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。」

ここでは「絶対」が「無限」と密接な関係があることが示されている。ただ、スピノザ的汎神論が神の絶対性を示し得ていると言えるのか?あるいは汎神論ではなく汎(内)在神論までいかないと神の絶対性を示すことにならないのではないか…?といった疑問が残る。バルト後の現代神学においては神の絶対性は否定的に見られているようだ。

小川圭治氏は以下のように述べている。

<バルトが『教会教義学』第Ⅳ巻の『和解論』のキリスト論で提示しようとしたのは、このような絶対主義的一神論の神を突破して、近代主義思考の枠を越えた新しい神概念の神学的叙述なのである。ここに提示されたイエス・キリストの出来事において人間との和解を実現した神は、あの近代絶対主義の神が抽象的、排他的な超越者として人間と世界から超脱するのとは反対に、本来人間と世界を超越した「高み」にある神自身が、その高みの座を棄てて自らを卑下し(Erniedrigen)、人間と世界の直中に到来し(Kommen)、地上に歴史的出来事として現れ(Erscheinen)、人間となる(Werden)神である。E・ユンゲルは、このような新しい神の現実を「神の存在は生成においてある」というテーゼにまとめた。(中略)このような神概念は、バルトが一九五〇年代に「転向」して、それまでの排他的絶対性の神に代わるものとして、新しく構想した人間性あふれる神概念だというのではない。すでに『教会教義学』(Ⅱ/1)の『神論』(一九三九年)において、神の「自存性」(Aseiat)とは、「人間を愛するという、神の自由な一方的決断にある」といったときに、和解の主導権を持つ神が登場していたのである。この一九三〇年代の神論においてはっきり示されているように、この神はインマヌエル(神、われわれと共に)の神なのである(マタイ福音書一・二三)。(中略)「キリスト教は一神論である」という俗流の通念に重大な保留を付けなければならない。むしろキリスト教の神観念は、三一論的一神論であって、排他的、絶対主義的一神論とはまったく対極に位置するものなのである。(中略)J・モルトマンは、あの抽象的、排他的、非歴史的、非現実的な一神論的絶対主義の神の根本的性格を、「非受苦性原理」(略)、「受苦不能性」(略)などの用語で表した。このモルトマンの論述の背景には、彼は公然とは述べないが、明らかにバルトの『和解論』における「死ぬことができる神」、「受苦可能な神」についての、はるかに周到で精細な論述があることを忘れてはならない。この和解論の神は、派遣されて人間となったからこそ死ぬことができる神であり、苦悩、苦痛を共にする「同伴者」として、人間と共に歩むことができる神なのである。この神こそが、近代主義的内在化の神の一神論的絶対性を根本的に突破する、今日の新しい神なのである。>(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)

 

経済学にマクロとミクロとがあるように、人生論にもマクロとミクロとがあって、自分の場合はマクロが聖定論、ミクロがメンタルヘルス論である。このブログはその両方によって構成されている。はじめの方はマクロ、後はミクロだ。

聖定教理の積極的運用…聖定論的人生観…聖定を肯定的意味で受けとめる…という作業を展開すべし‼

「ケ・セラ・セラ」が「成るように成るさ」という意味なのかどうかは定かではないが、それはともかく、仏教的にも「因縁に運ばれて在る 成るように成る」(慶泉)という色紙がTwitterに出ている。

https://twitter.com/PgPyQb9700rrBCg/status/1624343789174419456

もちろんそれは聖書的考えとは異なるわけだし、クリスチャンの場合、「成る」となればすぐにルカ福音書22:42「父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御意の成らんことを願ふ」

 λέγων πάτερ εἰ βούλει παρένεγκε τοῦτο 

τὸ ποτήριον ἀπ᾽ ἐμοῦ πλὴν μὴ 

τὸ θέλημά μου ἀλλὰ τὸ σὸν γινέσθω.

(1) 言うのには/(2) 父よ/(4) なら/(3) 御心である/(9) 取り去って下さい/(5) この/(6)杯を/(8) から/(7) 私/(10) しかし/(13) なく/(12) 意志では/(11) 私の/(14) ただ/(15) あなたの(意志が)/(16) なるように

という主イエスの祈りを想起するが(上記のとおり、「御心・御意」はルカ22:42と同じく「セレーマ」、「御旨」はマタイの「主の祈り」にはなく「ブーロマイ」(~しようと思う、意図する、決意する、計画する…)の2単現の「ブーレイ」、「成るように」は「ギノマイ」(生じる、成る、ある、起こる、行われる…)の3単現命の「ギネスソー」である。「主の祈り」の「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」の「なる」( it is )「なさせ」る(be done)という語だが、御意の天のごとく地にも行はれん事を」(マタイ6:10)

 ἐλθέτω  βασιλεία σου γενηθήτω

 τὸ θέλημά σου ὡς ἐν οὐρανῷ 

καὶ ἐπὶ γῆς.

(3) 来ますように/(2) 国が/(1) あなたの/(6) 行われますように/(5) 意志が/(4) あなたの/(9) ように/(8) おける/(7) 天に/(12) も/(11) に/(10) 地

「行われるように」は「ギノマイ」の3単過命受の「ゲネーセートー」。「過」=「第一不定過去=第一アオリスト」。これを完了形の done で訳し、しかも受動態なので、be +過去分詞形の done 。

要は大いなる他力のはたらきの中で自由意志を行使してゆくということ…つねに自力の限界を感じながら自助努力してゆくということだろう。積極的な意味でのおまかせ主義とでも言おうか…、そのおまかせする対象が相対者の人間ではなく絶対者の神であるという点が重要。自分の人生が未決ではなく既決であるということを自覚することによって、無用な思い煩いから解放される。さりとてその聖定の海の中では止まったら溺れることは間違いないのでとにかく泳ぐしかない。その泳ぎもまた既決ではあるが、その時その時、ただ懸命に泳ぐのである。これが決定の中での自由…、既決の中での未決…なのである。自分にとって聖定的人生観とはそういうものだ。決定と未定との緊張関係の中で生きるということ。結局それは大いなる他力信仰であり、「力」に重きがあるのではなくその「はたらき=作用」に重きがある。それを神のみこころとして、自分にとっては意味あることとして信じて主イエスのように「我が意にあらずして御意の成らんことを…」と祈り得ることもまた他力のはたらき。そうすると無用な争いを防げる。無用なプライド、過剰な承認欲求の台頭を抑制できる。ということは、結果的に相手とぶつかることに成っているならそうなるわけで、それがいつかはわからないわけで、とりあえず当面は、わざわざ自分から争いになるリスクをかけてまで余計なことを相手に言って刺激するよりも、言わないで当面は確実に争いを避ける方が賢明だからだ。どうせぶつかることになるなら近いうちにでもそうなるんだから、自由意志の面ではとにかく争いを避けること…「キリストの平和」を第一に心かげて生きる以上、当面はそのように、争いを避ける方向に行くべきだ。その結果、ストレスがたまってガンになって死ぬことになると定められているとしてもそれはそう成った場合の話であって、定められている限り、自分がどうあがいてもガンに成る時は成るわけだから、ここはストレスをためることになるとしても、結果的にガンに成らないかも知れないわけで、とにかく結果に思い煩うより、当面のことに意識を集注すべきであり、争いを確実に回避すべく卑下(とまではいかずとも)して感情を抑える…我慢する方向に自分の心を動かすのみだ。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「諦め」は「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。

「諦め」を否定的にではなく肯定的に解して人生観に活かすところに宗教的境地の意義がある。まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。親鸞の「自然法爾」に通じる境地。

その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。

日本の、神学者を兼務した牧師には、ドイツ語ができても日本語があまりできない人が珍しくないのです。

< 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。>説教要旨 (church.ne.jp)

パウロは三つの天国があるとか、天国に三つの段階があると言っているのではありません。多くの古代文化では、「天」ということばで、三つの違った「領域」―つまり、空、地球の大気圏外の宇宙、それから霊的な天を表現しました。これらのことばは特に聖書的ではありませんが、一般に地上、 宇宙、天国として知られています。パウロは、天国、つまり神の住家である領域としての天国に、神が連れて行ってくださったと言っているのです。いろいろなレベルの天国という考えはいくぶんダンテの「神の喜劇」からきたのかもしれません。その中で詩人ダンテは天国と地獄にそれぞれ九つの段階があると述べています。しかしながら、「神の喜劇」は作り話でしかありません。違った段階の天国があるという考えは聖書にはない考えです。聖書は、いろんな違った報酬が天国にはあることを述べています。報酬についてイエスは、「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはぞれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えてくる。」(黙示録22章12節)と言われました。イエスは今度戻ってこられるとき、人々がした行いに応じて 彼らに報いるために、褒美を持ってくると言われたのです。それで、信者には報いを受けるときがあることがわかります。第2テモテ4章7-8節で、パウロの宣教の奉仕が終わろうとしているときのパウロのことばを読むことができます。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義に栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。>

天国にはいろいろな段階があるのですか? (gotquestions.org)

 

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岡田稔著『改革派教理学教本』から抜粋

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。>

カルヴァンは綱要の中で予定論を第3篇の終わりに置き、摂理論を創造論の中で扱い、両者を別個の事柄として把握するが、その把握が徹底せず、また、両者を一つのこととして見ているところも少しある。そのため、カルヴァン以後においてはこの二つを一括して扱う傾向が強くなる。カルヴァンも「聖定」(decretum) という言葉を用いたが、カルヴィニストたちは聖定概念を強化し、これを予定の上位概念とし、この中に予定と摂理を含める考えになる。>14 (imcj.org)   広瀬薫牧師 (imcj.org)

パウロは神を「みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って」(エペソ1:11)と語って,世界と歴史に対して包括的な御計画を持って働かれる方であると言う.聖書の神は御計画を持つ神である.神の永遠の計画を神学用語では聖定と言う.ウェストミンスター小教理問答はこの聖定について古典的な定義を与えている.「神の聖定とは,神の御旨の深慮による永遠の計画であって,これにより,神は御自身の栄光のために,何事によらず起ってくるすべてのことを予定しておられる」(問7の答).(中略)永遠と時間,神の主権と人間の責任との関係は,神の永遠の聖定についての人間の理解を非常に困難にする.幾つか区別をすると理解しやすいであろう.聖定が永遠であると言っても,神が永遠であるというのと全く同じ意味で永遠なのではない.聖定は神の自由な,主権的な意志の働きの結果である.この活動は三位一体の神の内における神の必然的な活動から区別されねばならない.聖定はまた歴史の中における聖定の実現と区別されねばならない.天地を創造するという聖定行為は永遠であるが,聖定に基づく創造行為は,時間とともに,時間の中で行われる神の行為である.イエス・キリストをこの世に遣わされる永遠の聖定は,皇帝アウグストの時代にイエスがマリヤより生れるまで遂行されなかった.神が聖定された出来事のうち,創造,再生,イエス・キリストの第1,第2の到来のような出来事は神の直接的なみわざとして起る.他の出来事は聖定に基づき,神の摂理の下で,人間の働きを媒介として歴史の中に実現する.ある場合には,神の律法に従って生活する人間の服従行為を通して起ってくるが,またある場合は,キリストの十字架の場合のように,人間の,神のみこころに反する罪深い,不服従の行為を通して聖定は実現される.神の主権と人間の責任あるいは無責任が,聖定の実現という場で,複雑に関係している問題点はイエス・キリストの十字架についての聖書の言及を検討する時明らかになる . >《じっくり解説》神の計画とは? | Word of Life ワードオブライフ

 

以下、前掲の『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』より引用(※〔参照聖句〕の箇所は編集した。)

 

<神の聖定(問一二~一四)

問一二  神の聖定とは何であるか。

答  神の聖定とは、神のみ旨の計画の賢く、自由な、きよい決定であり、それによって神は、永遠から、ご自身の栄光のために、なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのこと、特にみ使いと人間に関することを、不変に予定された。

〔参照聖句〕エペソ一4,11、ローマ一一33、九14,15,18、22,23、詩篇三三11

(中略)

10 神の聖定の性質は何か。

―― 神の聖定は不変であり、変転することはありえない。だから、それらは必ず実現される(詩篇三三11参照)。

11 神の聖定は何を包含するか。

―― 神の聖定は一切のものを包含する。すべておこりきたることを包含する。

12 神の聖定は一般に偶発的とか偶然事とかいわれる出来事をも包含していることを聖句によって示せ。

―― 箴言一六33、ヨナ一7、使徒一24,26、列王上二二28,34、マルコ一四30。

(中略)

もし我々が神の聖定と人間の責任のいずれかに対する信仰を放棄するならば、直ちに、大きな誤りの中に陥って、多くの点で聖書の教えと矛盾するものとなるのである。我々は単純な信頼をもって聖書が教えているところを受け入れ、聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については「聖なる無知」を告白するのが賢明であり、よいことなのである。

14 聖定と予定とのちがいは何か。

―― 聖定とは創造された世界の中にすべて起こってくることに関する神の計画をいう。予定とは、天使と人間の永遠の運命に関する神の計画を指す。>

 

聖定聖句(~『ウェストミンスター信仰規準』〔日本基督改革派教会大会出版委員会編〕)〔新教出版社

信仰告白3ー1

  • <神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが>

エペソ1:11

 ἐν  καὶ ἐκληρώθημεν προορισθέντες κατὰ πρόθεσιν τοῦ τὰ πάντα ἐνεργοῦντος κατὰ τὴν βουλὴν τοῦ θελήματος αὐτοῦ. (11)

 εἰς τὸ εἶναι ἡμᾶς εἰς ἔπαινον δόξης αὐτοῦ τοὺς προηλπικότας ἐν τῷ Χριστῷ (12)

 

(11)「このキリストにおいて(エン オー )私たちはまた(カイ)、〔自らの〕意志の(セレーマトス アウトゥー)意向のままに(カタ プロセシン)すべてのことを成し遂げる方(トゥー タ パンタ エネルグウーントス)の意思に従って(カタ テーン ブーレーン)前もって定められた(プルーリスセンテス)通りに、相続分を与えられた(エクレーローセーメン)のである、/私たち、強い希望を抱き続けている者がキリストにおいて神の栄光を称えるべき者となるようにと。」(岩波版 エフェソ1:11~12)

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。/それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」(口語訳 エペソ1:11~12)

「またキリストにあって(エン オー カイ)、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。(エクレローセーメン)すべてをみこころ(トゥー タ パンタ 、トゥー セレーマトス アウトゥー)による計画のまま(カタ プロセシン)に行う方(エネルグーントス)の目的にしたがい(カタ テーン ブレーン)、あらかじめそのように定められていた(プルーリスセンテス)のです。/それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」(新改訳2017 エペソ1:11~12)

「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。/それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 」(新共同訳 エフェソ1:11~12)

 

ᾧ  (him/)関係代名詞「ホス」の男・中性単数与格

ἐκληρώθημεν 動詞「クレーロー」(くじで定める,任命する,割当てる、単に定められる,選ばれる、神の相続人として定められる,選ばれる)の受動態第一アオリスト直説法1人称複数

προορισθέντες  動詞「プルーリゾー」(前もって定める、予定する)の受動態第一アオリスト分詞男性複数主格

πρόθεσιν 動詞「プロセシス」(陳列,提示、企て,計画,意図,意志,決心,決意)の単数対格

ἐνεργοῦντος  動詞「エネルゲオー」(はたらいている、はたらく、活動する)の現在分詞男性中性単数属格

βουλὴν 「ブーレー」(計画、意図、企て)の単数対格

θελήματος  名詞「セレーマ」(意志、意向)の単数属格

αὐτοῦ 人称代名詞「彼の」(3人称男性属格)

 

προορισθέντες 以下の訳文を語順に合わせて書きかえると、「あらかじめそのように定められていたのです。目的にしたがい、すべてを行う方の 計画のままに みこころによる」

 

 τοῦ τὰ πάντα  τὰ 

 

「またキリストにあって」⇒ ἐν ᾧ καὶ

「私たちは御国を受け継ぐ者となりました」⇒ ἐκληρώθημεν

「すべてを」⇒ τοῦ τὰ πάντα 

「みこころによる」⇒ τοῦ θελήματος αὐτοῦ

「計画のままに」⇒ κατὰ τὴν βουλὴν 

「行う方の」⇒ ἐνεργοῦντος

「目的にしたがい」⇒ κατὰ πρόθεσιν

「あらかじめそのように定められていたのです」⇒ προορισθέντες

 

In him, according to the purpose of him who accomplishes all things according to the counsel of his will,

 

 

ロマ11:33

 

 

9:15,18

 

 

ヘブル6:17 

  • <それによって、神が罪の作者とならず>

ヤコブ1:13、1:17、Ⅰヨハネ1:5

  • <また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである>

行伝2:23、4:27、4:28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴16:33

信仰告白3-2

  • <神は、想像されるすべての条件に基づいて起こってくるかも知れず、また起こってくることのできることは何事でも、知っておられるが>

行伝15:18、サムエル上23:11、23:12、マタイ11:21、11:23

  • <しかし何事であっても、それを未来のこと、あるいはそのような条件に基づけば起こってくるであろう事柄として予知したから、聖定されたのではない>

ロマ9:11、9:13、9:16、9:18

信仰告白3-3

  • <神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たち>

Ⅰテモテ5:21、マタイ25:41、

  • <・・・・が永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている>

ロマ9:22、9:23、エペソ1:5、1:6、箴16:4

信仰告白3-4

  • <このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない>

Ⅱテモテ2:19、ヨハネ13:18

信仰告白3-5

  • <人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって>

エペソ1:4、1:9、1:11、ロマ8:30、Ⅱテモテ1:9、Ⅰテサロニケ5:9、

  • <それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく>

ロマ9:11、9:13、9:16、エペソ1:4、エペソ1:9

  • <すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである>

エペソ1:6、1:12

信仰告白3-6

  • <神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた>

Ⅰペテロ1:2、エペソ1:4、1:5、2:10、Ⅱテサロニケ2:13

  • <だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ>

Ⅰテサロニケ5:9、5:10、テトス2:14

  • <時至って働くそのみたまによってキリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ>

ロマ8:30、エペソ1:5、Ⅱテサロニケ2:13

  • <み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる>

Ⅰペテロ1:5

  • <他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである>

ヨハネ6:64~65、8:47、10:26、17:9、ロマ8:28~39、Ⅰヨハネ2:19、3-7

  • <人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた>

マタイ11:25、11:26、ロマ9:17、9:18、9:21、9:22、Ⅱテモテ2:19、2:20、ユダ4、Ⅰペテロ2:8

信仰告白3-8

  • <予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう>

Ⅱペテロ1:10、ロマ9:20、11:33、申命記29:29

  • <そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の>

エペソ1:6、ロマ11:33、ロマ8:33、11:5、11:6、11:20、Ⅱペテロ1:10、ルカ10:20

 

おもな聖定聖句(~『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)、岡田稔著『改革派教理学教本』〔元々は新教出版社〕、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』〔新教出版社〕)

 

  • <神の聖定は人間の有罪行為をも包含するもの>

創世45:5,8、50:20

  • <神の計画と目的は不変>

詩篇33:11

  • <神の聖定は一般に偶発的とか偶然事とかいわれる出来事をも包含している>

箴言16:33、ヨナ1:7、使徒1:24,26、列王上22:28,34、マルコ14:30

 

 בַּחֵיק יוּטַל אֶת־הַגּוֹרָל וּמֵיְהוָה כָּל־מִשְׁפָּטֽוֹ׃

「バヘック(ひざに)/ユータル(投げられる)/エット(~を)/ハ・ゴーラール(くじ)/ウメ(しかし~から)/ヤハウェ(主)/コール(すべての)/ミシュパート(彼の裁きは)」(くじを、ひざに、、投げられる。しかし、すべての裁きは主から」

חֵיק(ヘック)…「ふところ、胸」に、「バ」(~に)という前置詞が付いている。

(into the lap)Lap=ひざ

טוּל(トゥール)…「投げる」のホフアル(~フフアル)態。未完了。

(is cast)cast=投げる

אֶת־(エット)…前置詞「~を」

גּוֹרָלゴーラール)…「くじ」に、冠詞「ハ」が付いている。

(the Lot)

וּמֵ(ウーメー)…「ウー」は接続詞「しかし」。「メー」は前置詞「~から」。

(from)

יְהֹוָה 

(the LORD)

כָּל(コール)

wholly)すべての

 

מִשְׁפָּט(ミシュパート)…「裁き」

(decision)決断

 

 

The lot is cast into the lap, but the decision is wholly from the LORD.

 

「くじは、衣の膨らみの中に投げられる。だが、その事の決定は皆、ヤハウェから〔来る〕。」(岩波版)

 

 

  • <神の聖定は人間の有罪行為をも包含するものである>

サムエル上2:25、使徒2:23

  • <神の予定〔predestination〕>

使徒4:28(神の聖定は神を罪の創始者とせず、神の聖定は神のみむねのよしとするところに従う。又、聖定は神の外側のいかなるものにも拘束されない)

ローマ9:14~15

〃  9:18(神はある者を神の怒りに、あるものを栄光に定められた)

ローマ9:22~23(神の計画と目的は人によっては説明も発見もされえない)

ローマ11:33

  • <永遠の摂理>

Ⅰコリ2:7(人間の永遠の運命についての聖定は天地のつくられる先より永遠に定められている)

エペソ1:4

  • <神の聖旨〔意志〕>

エペソ1:9(みむねのよしとするところに従い、すべてのことをなしたもう神は、ご自身の目的に従って人々を予定された)(わたしたちは御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下にキリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである)・・・大教理問答の問14では聖定が創造と摂理のわざにおいて実行されることをも示す参照聖句。1:10も重要。

エペソ1:11

  • <中心は、わたしたちの主キリスト・イエスによって実現される神の永遠の救いの計画。>

エペソ3:11

 

救済は個人レベルではなく、神の民という共同体レベルであるというのが聖書的教理であろう。自己同一性は存続するが神の民の一員としてである。自分個人の救いということに執着している限り「二重予定」説も「最後の審判」の教理も受け入れられず安易に「万人救済説」に走ることになる。聖書が示す創造主なる神の正義以上の正義などありはしないのだから、歴史の終末に究極の正しさ・真実が具現されることをもってよしとする境地にならなければどうしようもないのである。

ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』の345頁に書かれている問八九の講解(p62)で、「4 悪人は神が彼らを、永遠の生命に予定しておられないから、定罪されるのか。 ―― 神が「みすごしにされ」て、永遠の生命に選んでおられなかった人々は定罪される。しかし、彼らの定罪は彼らの罪の故であって、神の予定という聖定の故ではない。彼らは選ばれていない人々であるから、定罪に予定されているのではない。」とあるが、問一三の講解で、「聖書は神の見捨ての行為は、神の主権に基づくものであると教えている。(中略)見捨てられた人々を神が理由なしに見捨てられたということではない。しかし、その理由は神の秘められたみ旨の中にあるのであって、我々には啓示されていないのであり、人間の側の性格や行為や行動に基づいているのではないという意味である(ローマ九13、15、20、21参照)。」と書かれてある。そして「神の聖定は一切の者を包含する。すべておこりきたることを包含する。」(p58)とされている。