絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

絶対主・エホバの御聖霊

「神は靈なれば、拜する者も靈と眞とをもて拜すべきなり」(ヨハネ4:24)

元来、「霊」である「神」が「神」として信仰の対象となるのは、本来、非対象(…というか「対象ー非対象」、「人格ー非人格」の分別を超えたもの)である「神」が、言わば自己限定・自己対象化によって創造主ヱホバとして啓示なさり、選民が内に与えられている霊と真心をはたらかせることによって信仰および礼拝の対象となられ、救い主となられるのである。「ヱホバ」という呼び名を文語訳聖書より踏襲していますがあくまでも便宜的な意味にすぎず、まあ、付け加えるなら正統主義キリスト教に批判する立場としての一環です。自分は「エホバの証人」のシンパではありませんが、その聖書解釈に関してはアデルフィアン派などのそれと同様に参考にはしています。団体自体にいわゆる「カルト」的な面が認められるかどうかはわかりませんが、キリスト教会が「異端」として排除してきた基準については絶対視はしていません。ということで聖書が示す神名は世に知られているものであれば何であれ同等とみなします。学問的には「主」(YHWH)の呼び方として「ヤハウェ」その他が挙げられますが、信仰は学問を介さずしては盲信や迷信になる一方、信仰は学問に規制されると霊性が奪われるということがあります。いずれにしても神名に関しては次の聖イエス会さんの観方に共感し、引用させて頂きます。

< 私たちはその対象を把握し、理解したときその対象の「名」で限定します。たとえば、「そこの赤いもの」と呼んでいる間は、それを知っているとは言えませんが、それが何かを知ったとき「リンゴ」という名で呼ぶようになるのです。神様は、人間の理解をはるかに超え、限定されることのないお方ですから、本来、わたしたちは、神を名で呼ぶことは不可能です。しかし、神様は愛ゆえに、人類にご自分を知らせ、ご自分を与えたいと願われました。そこで、神様は私たちにご自分との出会いの方法として、「御名」を知らせて下さいました。この「御名を呼ぶ」という信仰の行為は、聖書の中で脈々と受け継がれてきました。>神の御名 (fukuinchurch.org)

但し、神名は絶対主ご自身が人間に対して信仰の対象となられるために与えられた手段であって、十戒で主の名をみだりに唱えてはならないとされている主旨も、「名は体をあらわす」という面もあろうかとは思いますが、むしろ神名に対する執着を無用とすること…「神名についてみだりに論争などするな」との主旨で、聖書の神名を特定したり序列をつけたりする必要はないということを暗示しているようにも思われるのです。もちろん、手段であるとは言え神名を軽視するわけではなく、御名の聖性は尊重されて然りではありますが、「ヱホバ」は学問的には誤読の結果とは言え、日本初の全巻聖書(明治元訳)に採用された神名として普及した事は、ヨセフ物語などに示されている如く負を正に変える主のくすしき摂理の内であると解し得ます。その点では「神(神)」という語も聖書訳語としては批判されてきたのであり、特に日本のような多神教や汎神論の宗教的土壌がある国では不適当だったと言えますが、それでも普及している以上、普通・一般名詞としてはそれ以外の語を用いる方が今さら困難であり支障を来すので、やはりこれも摂理と受けとめて然りでしょう。

 

◎以下、次の赤二重丸(◎)付きの赤字文までの文章は、note mimemoにはコピペしておらず、ここだけに書かれています!御注意ください。

 

もっとも私のように絶対・超越・無限・無形の「霊」なる創造主(…「絶対無」とか「創造的空」と区別して「絶対空」とも呼ぶ)の自己限定として、聖書の神話・物語を解する立場においては、普及している神名の便宜的使用価値ということだけが重要なのではなく、その神観が「絶対(的)」であるというイメージの普及が重要です。ちなみに「絶対的な神」という語が用いられるのは、神の存在証明で有名な中世のカンタベリー大司教アンセルムスからであるそうです(~小川圭治著『神をめぐる対話』新教出版社 p62)。日本の教義学の神学者として有名な北森嘉蔵氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と述べています(『神学入門』新教新書 P74)。古くは高倉徳太郎牧師が、「聖書は神に関して我らに教える書ではなく、活ける神そのものに直面せしめ、その実在にまのあたりふれしめる書である。聖書において我らに迫り来る神は絶対他者としての活ける神、我らの罪をさばくことによって、これを赦したもう聖なる父である。」と述べているとおり(高倉徳太郎著『福音的基督教』第1講第3節)、神について「絶対」という表現は聖書用語としてはありませんが、福音信仰においては当然の事として考えられていたのです。

「絶対」と「絶対者」と「絶対的」の3語を区別するなら、後の2つは比喩であり、特に3つめは人間の実存のかけがえなさについても言えることです。聖書が示す創造主は、その創造の業に始まる救済史物語において絶対性を放棄して(自己限定)被造物…特に人間に対向する存在としての相対性を受け入れ(自己対象化)、人間と、父子関係に喩えられるような人格的関係を結ばれました。そのことを聖書などを通して人間に示しておられます(啓示)。

キリスト教は「霊」なる神が自己対象化されたのがイエス・キリストであると言います(特別啓示)。これ自体は受け入れ得ますが、神が人になったという実体論的な意味では受け入れません。それは神話を無批判に受け取っているからであって、「ひとり子なる神」(ヨハネ福音書1:18)も非神話化すれば、「神」に重きが置かれているのではなく「ひとり子」に重きが置かれていることがわかります。カルケドン信条の「真に神、真に人」のいわゆる両性一人格のキリスト論も非神話化によって重きは「真に人」の方に置かれていると言わなければなりません。すなわち、神が対象化されたものはイエスという存在ではなく、その「ひとり子」としての「言」と「業」…振舞い言動なのです。「ひとり子」とは、「子」の中でも啓示者・仲介者として選ばれた特別な「子」という意味であり、超人ましてや神性者などということではありません。そんな人間が歴史上に存在したなんて信じることは神話と歴史の混同であり相対の絶対化であって、それこそ迷信です。そのような神話的教理を無批判に受け入れることはそれこそ高尾利数氏の言われる「知性の犠牲」という無理であり、いくら救済第一なので不合理も合理化される…といった理屈を立てるとしてもそれは詭弁でしかなく、現代人に相応しい信仰のあり方ではないのです。そうではなく、エスの存在を神が人になったものとして実体論的に説く根拠聖句の代表がヨハネ14:8~11のピリポとイエスの問答における、特に「我を見し者は父を見しなり」(9)というイエスの言葉です。しかし私はそうではなく、この箇所はイエスの「言」と「業」(10)による「父-子」としての関係論的意味に受け取ります。すなわちイエスの言動が父なる神の人格を表しているということです。それを「子は親を映す鏡である」という諺に喩えているわけです。すべての信者が神の「子」であり、その中でもイエスは「信仰の導き手であり完成者」(ヘブル人への手紙12:2 岩波版訳)すなわち模範的人物として特別な「子」なので、聖書では「ひとり子」とか「長子」に喩えられています。ヨハネ福音書は特に5~8章でイエスと神との派遣者と被派遣者という主従的な父と子の関係を伝えています。ここにこそ私はキリストの特別啓示の内実をみるのです。イエスの「ひとり子」としての振舞いはキリスト神話において語られていますが、その中心は自己無化(ケノーシス)です。エスが徹底的に服従した父なる神こそが唯一の真実なる神であり、その神に位格などは無用です。聖書が示す創造主なる「神」は唯一、イエス・キリストの父であられるエホバのみです。この点については新約聖書学者の青野太潮氏の以下の発言が非常に参考になりました。

「…イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」「『障害者イエス』と『十字架の神学』」です。160824-04.pdf (touhokuhelp.com)

私は、イエス・キリストではなくその御父を「唯一の真の神」(ヨハネ福音書17:3)と信仰する者として、イエス・キリストが創造主として信仰した御父のみを「唯一の真の神」として信仰します。その意味で…すなわち御父を創造主として信仰する者の模範者として「御子」(イエス・キリスト)を信じるのであって、自分にとっての「救い」とは、すなわち「永遠のいのちを得る」(ヨハネ福音書3:16)という意味は、「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」(ネヘミヤ記8:10)にあるとおり、何か良いことがあるとかいった御利益的なことではなく、ただ、創造主ヱホバとの関係に人生があることの喜び。我々の生きる力・活力は、その創造主との関係にあることの喜びから湧出してくる。エホバとの関係には哀しみや苦しみもあるから、神義論は成り立たない。滝沢克己氏の(神学的というのか宗教哲学的というべきなのかは知らないが…)思想の影響を受けておられる新約聖書学者の青野太潮氏は、「神は太初の昔から、『力は弱さの中でこそ十分に発揮される』というような意味での『逆説的な生命の法則』とでも呼ぶべき法則を置いてくださっている」と述べておられます(神戸栄光教会での講演「どう読むか、聖書――『イエスの十字架』理解をめぐって――」より)。th-n68v1-p31-76-aon.pdf (seinan-gu.ac.jp)

私はこれに対して、必ずしも「逆説的」なかたちになるとは思わないけど、先に否定的なことが来ることは確かなので、「否定媒介的な生命の法則」とでも呼びたいと思っています。言わんとすることは、私にとって聖書に示された「神の救い」というのは(北森嘉蔵氏が『宗教を語る』⦅UP選書⦆の中で「救う」と「掬う」との関係に着目して「徹底」について論じておられますが、それはともかく…)、「救い」という言葉の感じからしてもそうですが、何か否定的な事実が先行するということです。あえて単純化して言えば、キリスト教的救済は「罪と死からの解放」であり(北森氏は、「救い」とは「神の外に脱落している人間を、神がふたたび愛の内に入れたもうこと」であると要約しています⦅『神学入門』新教新書 p78⦆)、仏教的救済は「苦からの解放」ですが、両方の根底にあるのが「虚無」からの解放…、ニヒリズムからの救いではないかと思います。人間は苦しみにも何らかの意味を認め得るなら、なんぼかでも耐えられます。しかし無意味には耐えられません。きつい仕事でもやり甲斐を感じることができれば、体力が続く限り続けてゆけますが、いくらラクな仕事であってもやってることに少しも意味を感じられなければ、体力的には問題なくてもなかなか続くものではありません。

一般的に言って「幸せ」というのは、必ずしも否定的な事実が先に来るわけではないです。例えば、宝くじに当たって急に大金持ちになるとか、理想的な人と出会って交際し結婚して家庭を築くとか、そういった夢見てたことが実現するといった、直接無媒介に肯定的な事柄の方が該当すると思われます。その点、聖書から示される摂理の法則性というものは、ヨセフ物語に象徴的に示されているとおり悪(闇)を変えて善(光)となすという否定媒介なのです。そもそも「無からの創造」ということからしてそうとも言えます。「無」は一般的には肯定的なイメージよりも否定的なイメージで受けとめている人が多いと思うからです。だから宗教哲学関係の本などで「神」を「絶対無」と言い換えているものがありますが、定義の問題はともかく、いろいろ読んで感じることは、やはり「絶対無」と言うよりも「絶対有」と言う方が、すくなくとも聖書に示された神ないしは一神教の神については相応しい…と思うのは自分だけではないということです。「無」という否定的なものを介して「有」という肯定的なものを創造された神は、この否定媒介を世界統治の摂理法則とされたのだと信じられるのです。使徒パウロが主から受けたといわれる「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである』。」(コリント第二12:9)ということ、そしてパウロ自身、「キリストの力が私の上に宿るため」に「むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう」(同上)と言い、「私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだ」(同、12:10)という自覚に至ったことは、これは「弱い」という否定的なことが、キリストの力がはたらく媒介として神に用いられ、本当の意味というか霊的な意味で「力ある者」…強い人とされるんだよ…ということだと解します。それを「逆説」と言い表わすのは、なんか作為的な感じがして、創造主が定められた生命の法則の呼び方としては、私の感覚には合わないのです。また、青野氏は前掲論文の中で「マクグラス先生は、十字架上でイエスが叫んでおられたときに、『神はどこにいたのか』と問われます。そして神は『誰も予想していない場所に』すなわち『イエス・キリストの十字架の苦しみと恥辱と、屈辱と無力さと愚かさの中に』いることを選んだのだ、と言われます。」云々と述べておられますが、神を絶対主であると信知しておる私にとっては、「神はどこにいたのか」といった問い自体がおかしいと感じます。絶対なる神は無限であり遍在しているのであって、「どこ(か)に」いるというのではなく「どこにでも」いるのだからです。ましてや、「『イエス・キリストの十字架の苦しみと恥辱と、屈辱と無力さと愚かさの中に』いる」などというおかしな文章を読むと、私は量義治氏の次の言葉を想起するのです。                「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」

神がイエス・キリストの十字架の苦しみと恥辱と、屈辱と無力さと愚かさの中にいるということは、量氏の言葉を借りれば、神がイエス・キリストの「自我の内に吸収され解消され」ているということです。神の絶対的実在性が、たとえ悲惨の極みと云われる十字架刑によるものであるにせよ、「苦しみと恥辱と、屈辱と無力さと愚かさ」というイエスの身心状態の中に消滅しちゃってる…、そんな神観がベースにあるような気がします。神の遍在はあくまでも人格的実在性を失わないあり方であり、そこは聖霊のはたらきと区別しなければいけません。

いずれにしても、このような言葉は神義論的な問いとして見聞きすることがありますが、そのような問い自体が対神関係の喜びを知らない人のもの言いではないかなとさえ思うのです。贖罪論についても否定媒介的に受けとめれば特段、しゃにむに否定し去る必要もないと思います。私の場合、聖書の内容はしょせん、絶対なる創造主・神それ自体を示すものではなく、その自己限定・自己対象化(啓示)を歴史的に物語っているのでありますから、その素材が何であろうと決定的な重要性は認めないのです。もちろん神話は単なる作り話ではないので、それなりの意味を汲み取る釈義は尊重しますが、非神話化的方法は当然のことになります。従って、ケリュグマがキリストの十字架刑死による私たちのための罪の贖いということを伝えているのであれば、べつに史実として受け入れなければ無意味というわけではないので、復活信仰と共に否定媒介的に解しておけばよいのではないかと思います。

ところで、日本の旧約聖書学者として著名な関根正雄氏の『古代イスラエルの思想』(講談社学術文庫)における、自然の中に神性が宿るという「万有在神論」理解は、宗教哲学的にはどこまで正確だと言えるのかは疑問ですが(p86)、神学者として「旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。」と述べてはおられます(p87  ※「越えて」は「超えて」と書く方がよさそう)。 そしてその御子息である旧約聖書学者の関根清三氏は、私にとっては次のように興味深いことを述べておられます。

「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書〕p77~80)また、関根正雄氏と同じく無教会の指導者として著名な量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で、「絶対者による救済」という項目のもとで、「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調おられます。私見では、救済が絶対者と不可分であるのは、救済宗教における救済はいのちの救いであり、その救われるべきいのちというのは、人命救助とか救急救命などと一般的に言われるような身体的意味に限らず、聖書の生物観は体と心(魂)に加えて霊というのがあり、その霊的意味のいのちが救われなければならないからです。すなわち生物は、物質的な面では相対的な存在ですが、霊的な面ではかけがえのない命であり、特に人間は個々に人格としての特別性、絶対性を有しています。だからこそ多神とか汎神ではなく、あくまで唯一絶対なる神との個別の1対1関係がアプリオリにかどうかは知りませんが、人の要請などの思いに先んじて必要なものとして与えられているのでしょう。だから量氏は前掲書で次のとおり述べておられます。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(p108~109) 

私見では、逆に「自我の内に吸収され解消される」といった神観を著書を通して示しておられる日本人キリスト教徒の代表的人物としては遠藤周作氏が挙げられると思います。特に『沈黙』という小説および『私にとって神とは』というエッセイによく示されていると思われます。また、神学者の中にも聖書が示す「神」の絶対性を否定する人もおられます。組織神学では野呂芳男氏、旧約聖書学者では並木浩一氏や高柳富夫氏が挙げられます。野呂氏は「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを峻別した上で、「神」は前者だと言っておられます(~「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於. 立教大学チャぺル)。そして、「絶対的なものという言葉は哲学的概念であって、相対的なものという概念と対になる。もしも神を絶対であると言うならば、その神は一存在(a being)ではあり得ない。なぜなら一存在は、他の諸存在と並んで存在するに過ぎない一つの相対的存在であるからである。したがって神を絶対的なものとすると、どうしてもその神は存在者ではなく、ティリッヒの言うように、諸存在を存在させるような存在の力、あるいは、そこからすべての存在するものが出てきて、またそこへ帰って行くような存在の根底とならざるを得ない。私のようなプラトンキリスト教の延長線上にある実存論的神学の立場から言うと、このような絶対としての神は無であり、不条理であるに過ぎないのである。」とも述べておられます(~『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』ぷねうま舎 p335)。並木氏は、私信からの引用で恐縮ではありますが一読者に対するものなので公表は想定しておられると存じ、他の読者諸氏との共有ということで書かせて頂きますが、「『絶対』という言葉はヘブライズムには馴染まないと思います。私は旧約聖書には神の『絶対』を指示する言葉を見出すことができません。」と述べておられます。また、高柳氏は「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」と述べ、「唯一」の意味についても、「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と述べています(~「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)。「神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか」と言われている点は、前に引用している量義治氏の(神の存在が)「自我の内に吸収され解消される」ということが該当する感じがします。北森氏が前掲の『神学入門』(新教新書)の中で近代神学の傾向として指摘しておられる「内在主義」…「『人間の内なる神』の立場」にも通じる神観ではないかと思います(p24)。カール・バルトはこれに対して「人間に対立する神」を説いたのに、後期は「神の人間性」とか言って変節したようですね。その「内在主義」と批判されている源流の思想はヘーゲル哲学であるようです。小川圭治氏は次のように述べています。

「このようにして形成された人間中心主義の考え方、すなわち〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉の姿勢を、ここでは『近代主観主義』と呼びたいと思う。この人間の知性の絶対化による近代主観主義の立場に思想的表現を与えたのがドイツ理想主義の哲学である。(中略)G・W・F・ヘーゲルの『絶対精神』において完結を見るのである。バルトは、このヘーゲルの哲学は『最高の謙虚さであることによる最高の巨人主義(略)である』といった。『人間の自己信頼が、そのままもっとも信実な神信頼になる』立場だという。近代主観主義における、〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉の姿勢は、ここに究極の形をとったと言えるであろう。(中略)〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉という原理に立つ近代主観主義は、ドイツ・ロマン主義にも受けつがれ、さらにC・シュミットの『政治的ロマン主義』(略)となってナチ・ドイツのファシズム形成の背景となった。」

関連して小川氏は、ブルトマンの神学について、「これは人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道の究極であって、その道をさらに進むと、〈神〉という言葉なしに新約聖書の内容を述べることもできるという点にまで達する。すなわちここでは、神の存在は、その非対象性を通じて人間の実存の中に解消されたのである。もちろんブルトマンは、この点まで同行することはしない。しかしブルトマンの神学の中には、ここまで行ってはならないという明確な歯止めはない。」と述べています(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』新教出版社 p120)。

同様に北森氏も、「ブルトマンによれば、新約聖書というものは、『私』という主体の変革をめざしているものであって、主体の変革と切り離されて客体的に起こる出来事を示しているのではないと申します。彼のいわゆる非神話化は、客観化的な思惟としての神話的な表象から、主体的実存的な真理を救い出すという企てであります。(中略)ブルトマンについては一つだけ指摘されなければならない重大な問題があります。さきほど私が、正しい神学は、どこまでも神と人間との関係を問題にすると申しましたが、ブルトマンにおいては、いささかこの関係が解体されて、神の側までをも人間主体の側に吸収する傾向をもつに至っております。救いたもう側としてのキリストの論すなわちキリスト論と、救われる側の人間の論としての実存論的な救済論とが、相即されねばなりません。しかるに、ブルトマンの場合には、いささか救済論がキリスト論を吸収するという傾向をもっています。これは、先ほど申しました正しい神学のあり方からはずれる危険を示しております。バルトの神学が、どちらかというと客観的なキリスト論の優位を強調するあまり、主体的な救済論に妥当な位置を与えないことへの反動のあまり、ブルトマンは逆にキリスト論を救済論に吸収する傾向をもっております。だから、キリストの事実は、あたかも人間実存の変革への象徴にすぎないかのようにさえ取られるのであります。とくに重要なのは、キリストの十字架の理解であります。ブルトマンは、『キリストの十字架を信じるということは、キリストの十字架を自己のものとして引き受けることである』などと申しておりますが、これではもはや『私のための』キリスト、『私の外で』起った十字架の事実は、見失われていると言えましょう。」と述べておられますが(『神学入門』新教新書 p66~68)、とにかく自分にとっては、神が人間の内に解消したり吸収される神学よりかは、イエス・キリストが人間の内に解消したり吸収される神学の方がよいと思います。

話を戻しまして、「神の唯一性」については同じ旧約聖書学者と言っても高柳氏よりも有名である並木浩一氏も次のように、「絶対」とは関係ない意味として指摘しています。

「問題となるのは『神の唯一性』(例えば、イザヤ43:11)ですが、それは『人間の業と思いを完全に超えた』という意味であると説明できますね。」(~私信)                                          関根清三氏のように聖書が示す「神」の絶対性を自分の存在根拠として信知信覚して、そのリアリティーを感じる人は、現代の日本人の中にも増えてゆき、絶対的存在としての神イメージが定着してきたのでしょう。これこそ日本文化にとってはくすしき摂理と言えます。私の場合は、そのような存在根拠としての神の絶対性が、マスメディアによる諸々の偶像的価値観を相対化し得る視座として受けとめ、メンタル・ヘルスの問題解決のために精神療法的に応用するという人も少しはいるかも知れません。私自身にとっては対人関係でのストレスに対する実効性が体験によって確認されています。

新約聖書学者では、荒井献氏が次のように述べておられます。                                         「私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、イエスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」(~特別講演会 2014年5月31日「キリスト教の再定義に向けて ー 新約聖書学の視点から ー 」)         但し、名著『イエスとその時代』(岩波新書)における次の文言、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。」といったことについては、寺園喜基氏から他の論文についてではありますが指摘して頂いた「神論が機能論に解消されている」といった批判が当たるのではないかなと感じました。

日本の哲学教育者として著名な渡邊二郎氏が、「日本に西洋哲学が受け容れられ、またキリスト教が広まってゆくに従って、次第に、絶対者としての神の存在という観念が、人々の間に浸透し、人々に信仰心を呼び起こ」したと述べておられるとおり(『現代人のための哲学』放送大学教育振興会 p240 )、多神教的、汎神論的な日本の宗教的土壌に「絶対者としての神の存在という観念」が定着してきたことに注目します。渡邊氏は前掲書の終わりの方で、「私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司どる絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。(中略)私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」(p257~258)と述べておられます。たしかに若年層を中心として、逆に特定の個人をその卓越した能力により「神」と言い表す様式が見聞されることがよくあり、日本における神観問題の根深さを感じます。しかし、だからこそ創造主の自己限定・啓示においては、否定媒介の摂理といった特殊な方法が用いられているのかなと思うこともあります。以下のように「エホバ」と「神」の併用は、二重の意味で否定媒介の摂理だと思われます。

「エホバの神という万国の神は、外国の神であると思ってはいけないのであります。元来はエホバという名はイスラエル民族に顕わされた名でありますが、そのイスラエル預言者たるアモスみずからがエホバはイスラエルの神ではない、宇宙の神であり世界の神である、と宣べているのでありまして、エホバは外国の神ではありません。エホバは宇宙の神であり、また万国の神であり、それ故に日本の神であります。日本人は、西洋人がしばしば言ったように、異教徒 heathen であるとしていやしめるような民族ではありません。日本民族は万軍の神エホバによって古い歴史を与えられ、その古い歴史とともに古い使命を与えられ、特別に導かれて来た民族であります。(中略)アモスの預言に照してみるならば、日本民族も神の選民である。(中略)日本人は日本人として選民としての特別の使命があります。」(~『日本の説教11 矢内原忠雄』〔日本キリスト教団出版局〕p155~156)

 

◎はい、ここまで。以下の文章に接続します!

 

いずれにしても上記の聖イエス会さんにせよ関根正雄氏や量義治氏や矢内原忠雄氏など無教会さんにせよ、その団体自体は、イエスをキリストとみなすだけではなく(ヱホバと同じ意味で)「主」であり「神」であると信じる伝統的キリスト教であるので、当方とは信仰的立場を異にします。さらにイエス之御霊教会教団においては、「特徴的といえるのが一体についての理解である。一体の部分のそれが何であるかを明確にしない限り礼拝の対象が定まらず正しい神観が得られないとし、即ちイエス・キリストがそれであると明確に示す。言葉を変えて言うなら唯一の神の中に父、子、聖霊の三つの位格が存在すると説く三位一体論と比較して、唯一のイエス・キリストの中にこそ父、子、聖霊の三つの位格が存在していると説く点に教理的違いがある。」(Wikipedia)と、やはり「神」の対象性を重視している点には共感しますが、普通のキリスト教会以上にイエス・キリストを「神」として実体化し、三位一体論をキリスト論が吸収しているような教理を掲げている点には信仰の多様性を尊重しつつも、これほどまでにイエスの超絶性が強調されて前面に立てられると正直、辟易します。

新約聖書ではペトロが、ナザレ人イエス・キリストの名を別にしては救い主の名は誰にも与えられてはいない旨のことを主張していますが(使徒4:10~12)、「ナザレ人イエス・キリスト」の前に「神が死人の中からよみがえらせた」とあるとおり、あくまで絶対主によって与えられた名であり、「イエス=イェホシュア」には神名の短縮形(イェ)が含まれており、創造主との関係そのものが救いであることを証しする名として当時のユダヤ人に多くみられました。

唯一絶対である創造主が相対的存在である人間になったものがイエスであるという実体論的解釈に立つ正統的キリスト教の立場では、イエスの名も神名ということになるようですが、その点では当方は関係論的解釈なので見解が異なります。

いずれにせよ、肝要なるは、現実に自分自身が置かれている「(対)神関係」の自覚です。人間に内在するといわれる「神」は、「神」御自身というより「父(なる神)の霊」(マタイ10:20)と解することもできる。前述のとおり「父(なる神)」と「父の霊」とは「不可分」ですが「不可同・不可逆」なのだ。「神は霊なり」(ヨハネ4:24)という言葉は、絶対主(=神)を物体などのように限定し相対化して対象化する(=偶像化する)ことの誤りを戒める主旨であり、「神」本体とその「霊」とを混同して示しているのではない。それを単純に直解すると対象性そのものを否定する言葉とみなされてしまう。

ところで、神学と呼ばれる思想の中には、神の対象性を否定する向きもある。以下、引用(太字は自記)。

<メアリー・デイリーは、この「全体なるもの」は認識の対象としては存在しないから、フェミニスト神学は「無の神学に直面する実存的勇気を必要とする」とまで言っている(Daly, op. cit., p.23)。そしてまた、この無としての神は、名詞ではなくて動詞であると言う。神を名詞とすることは、神を対象化するということだからだ。対象化された神とは、フォイエルバッハが言った通り、人間の自己の反映である。しかもデイリーによれば、この動詞は自動詞であって、自分の動詞としてのあり方を限定するものとしての目的語をとらない。とにかくデイリーの理解によると、近代思想の特徴は「二元化―具象化―客観化症候群であり、それは父権制的意識の特徴であって、『他者』を、失われた自己の内容物の貯蔵庫としたのであった」。>(~小田垣雅也氏のみずき教会説教「母の日」)

神を名詞としようと動詞としようと、またその動詞が自動しか他動詞かの違いに関係なく、このように神を論じること自体、神を対象化することであり、いずれの場合もその点に変わりはない。神について考えるということは神を思考の対象としているということであり、それなしに神学的営みは成り立たない。しかしそれを言えば、なんだって対象ではないか?と問われるだろうけど、まさにそうなのであって、本来、対象と非対象の分別を超えた「神」が自ら人間の思考対象のひとつとして、それゆえに啓示認識の対象…信仰の対象として自己限定し給うたのであって、上記のデイリーの発言などは、すでに啓示において対象化された神について非対象性を主張しているとんちんかんな意見にすぎない。さらにとんちんかんな、フォイエルバッハの意見なども気にする必要はない。彼は対神関係の中に生かされていないから、聖書が示す神のことは何もわからないのだ。また、以下の発言は、せっかく対神関係の中に置かれているのに、考え過ぎのために脱落してしまっている例である。

「へブライ的思考において、神の本質は存在論的ではなく救済論的である。神は「何であるか」よりむしろ、『何をなし、また何をなそうとしているか』が問題となる。その結果人間に対しては、『何をなすべきか』が要求されることになり、ここにおいてイスラエルの宗教は本質的に倫理的宗教とならざるを得ない。」(~『人文学と神学』第4号所収、北博氏の論文「主体性と言語 ―失われし《情況》を求めて―」)

「何であるか」にせよ「何をなそうとしているか」にせよ、その「何」を問うことは神を対象として関係することを意味する。神を対象化せずして神に関する問いは無理だし、仮に可能であっても行為の主体抜きでは意味が無い。

「 神はハーヤーするものとして『いる』のである。しかも、そのハーヤーすることの中に神の『われ』は隠れている。神の『われ』が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の『われ』は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している。」(~『キリスト教思想における存在論の問題』〔創文社〕p172) 

< ハヤトロギアという著者の中心概念は、出エジプト記三・一四を典拠としている。文語邦訳では、「我は有りて在る者なり」となっており、口語邦訳では、「わたしは、有って有る者」となっている。しかし著者によれば、これらの訳は「少しも原典の意味に近づいておらず、依然としてギリシァ訳に準じたと思われる翻訳にとどまっている」(一七〇以下)。問題は、「有る」と訳されている「ハーヤー」というヘブライ語の原意を探ることにある。ハーヤーという語は「生起する」「生成する」「存在する」のいずれとも取ることができる。これを「存在する」に一義化することは、根拠なくヘレニズム的存在論に近づけることであり、その事への批判が著者をハヤトロギアの挙揚へと衝き動かしたといえよう。「神が有るということは生成することでもあり生起することでもある」(一七一)。言いかえれば、ヘブライズムにおいては、神が存在するということは、神が働くということである。「神の『われ』が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の『われ』は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している」(一七二)。ヘブライ語における動詞の動的性格からして、「なる」と「ある」とが一如に考えられていることが注目されねばならない(一八五以下)。「成る」とか「生起する」を離れた「有る」は考えられていない(一八八)。>(北森嘉蔵氏の論文「ハヤトロギアをめぐって ― 有賀鉄太郎博士著『キリスト教思想における存在論の問題』― )

この「ハヤトロギア」思想というのも、考え過ぎてかえって神の対象性を喪失しかけてしまっている例です。まだかろうじて神の「われ」が存在していると言われているので、神の対象性を喪失したメアリー・デイリーの発言よりは救いがあるが、その「われ」が出エジプト記3:14において、英字表記では ehyeh(エフイェ)という未完了形の動詞の接頭辞 ‘e(エ)に表されているといった文法主義に陥ってしまっている。有賀氏はインテリの典型として、考え過ぎて余計なことにこだわったがために、かえって神の対象性が、文法的には独立人称代名詞と人称語尾との差程度以上に、本人の対神関係の実感が弱まったという意味ではマイナスになります。但し、本来は人知を超えておられる「神」との関係の自覚においては、モーセが、神の「顔」は見れなくてもかろうじて神の「後ろ姿」を見ることはできたように、我々信者も、モーセに示された神の名 ehyeh(エフイェ)・「我は成〔有〕ろう」の人称が、独立した代名詞としてではなく未完了の接頭辞(‘e )としてかろうじて示されていることに注目して、神学的営みはそれだけ謙虚になされなければならない、そうでないと金の子牛のような偶像を刻む大罪を犯すことにもなるといった教訓として受けとめることはできます。

また言われた、『しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』。 そして主は言われた、『見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。  わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう』。」(出エジプト記33:20~23) 

「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされたので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」(24:10~11)

徒に「神の顔」とか「見神」などに関心を向けることは、かえってモーセの神については「的外れ」(ハマルティア)ということになります。「いまだかつて神を見た者はいません。」(Ⅰヨハネ 4:12)

ちなみに、マルティン・ブーバーは上記の出エジプト記3:14の英訳として、" AM WHO AM " とか、 " AM THAT AM " ではなく、" I am who I am " も誤訳であり、" I will be there as I will be there "とでも訳すべきだと言ったそうです。どちらにしてもちゃんと主体を表わす "I"があります。

八木誠一氏は、「『われわれのなかではたらく神』は、アリストテレスの神のように自らは動かずに外から他者を動かす神ではなく、『人格神』のように、外から命令し、外から操作して世界と人間を動かす神でもなく、人間のなかではたらいて、人間のなかに『意欲・はたらき・遂行』を成り立たせ、人間を通じて行為する神である(ロマ一五18参照。パウロがいなければ、キリストだけでは宣教はできない)。」(『<はたらく神>の神学』〔岩波書店〕p109)と述べていますが、「『われわれのなかではたらく神』は」と、主語に「神」を置いていることで神の対象性は受け入れておられることになります。

 旧約聖書では、「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。なぜなら旧約聖書は、神の本質について、世界ないし人間との関係においてのみ語るからである。ヤハウェは霊を与え、またそれを取り去り(詩104:29-30)、かくして被造物の生と死とに働きかける。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p1291)

新約聖書では、「否定的にも肯定的にも、パウロ主義とヨハネ主義は霊の精神主義的解釈に傾く。すなわち、神は霊であり、主は霊であり、その中に神がいるとされるものである(ヨハ4:24、Ⅱコリ3:17、5:19)。」(同書p1293)※「5:19」は誤記と思われる。

「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8,16)も「神は霊なり」(ヨハネ4:24)も共に象徴的表現であって単純に「SVC」の文型で解すべきではない。前者は「神は愛(の源)なり」、後者は「神は霊(の源)なり」と解して然り。聖書が示す創造主なる神(ヱホバ)を「霊」として解することはよいが、それによって信仰の対象性が失われるようでは本末転倒ということになります。

「神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています」(~キリスト教アデルフィアン派の「聖書基本知識」)・・・「神の身体的存在」という表現は物体であるかのようで問題がありますが、いずれにせよ「霊」ということによって人格的対象性が失われるようでは聖書神学的思索として不十分ということになります。霊の父であるヱホバは唯一絶対の主権者である。被造物、特に個々人が実存において、かけがえのない命を生きている人間にとっては「絶対」なるものが必要である。その点では無教会指導者の矢内原忠雄氏が神観について本居宣長批判において、「神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」と述べているとおりです(~論文「日本精神への反省」)。                       

「絶対」性を重視したことは共感できる。創造主なる神の絶対性によって世間的価値観を相対化することによって偽りの「神」(=偶像)に支配されて奴隷とされないためである。信仰は創造主に対してであり、救済はその創造主との関係に生き得ることである。キリストの贖罪は歴史的事実ではなく、本来、罪悪深重なる自我が聖なる対神関係に入れられる畏れ多いことへの信仰告白であり、イエス・キリストの神話は創造主ヱホバの人格的対象性を示す物語に過ぎない。旧約聖書の神話ではモーセダビデやヨブや預言者などとの関係において、新約聖書の神話ではれはイエスとの関係において(イエスの言と業…「子は親を映す鏡」)、ヱホバの霊の父としての人格的対象性が権威をもって示されている。そのヱホバの聖霊のはたらきを特に必要とするのがメンタル・ヘルスにおいてであり、信仰生活の人生は楽より苦の方が多いが、それを霊父の躾・訓練と説くのがヘブル書12:9~11であり、そこに神義論的思弁の生じる余地は無い。