絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

聖霊のはたらきと創造的空、心理療法と自虐的信仰、メンタルヘルスにおけるセロトニン活性化、対人関係だけの臨床心理学の限界…対神関係を前提としたスピリチュアル認知行動療法

「かくして、私の愛する者たちよ、あなたがたがいつも従順であったように、私が〔あなたがたのところに〕いる時のみでなく、むしろいない今は、よりいっそう〔従順になり〕、恐れとおののきとをもって、己自身の救いを獲得しなさい。というのも、〔自らの〕意にかなったことがらのために、あなたがたのうちにあって〔あなたがたに〕働ききかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方は、まさに神だからである。」(フィリピ人への手紙2:12~13 岩波書店版〔青野太潮〕訳)

メンタルヘルスの諸問題の解決・解消策としては、心理療法よりも聖霊のはたらきを受けることが有効である…というのが私の結論ですが、それにしたって心理療法の学習が無用だということではなく、それは聖書神学的学習と同様、自分自身の内なる聖霊のはたらきを省察し自覚化するうえで有効な面があります。ただ、学問知識などは聖書的救済の必要・十分条件ではないということは確かです。人は脳を中心に生きているにせよ脳だけで生きているわけではなく、救いは脳だけの救い…理知的充足だけではなく、理知を超えて包むいのちの充足…全人的救いを求めています。そしてそのいのちの充足・全人的救いを受けるためには聖霊のはたらきを受けるということのみが不可欠なことなのです。但し、それは誰にでも起こることではありません。心理療法でさえ誰にでも有効であるとは言えないでしょう。そこにはおのずと限定があり選びがあります。人は自己限定されているからこそ自分を知り、生きることができるのです。

上記の聖句の13節の方八木誠一氏の思想においてはそこで言われてる「はたらき」が「パウロ神学の中心」とも言われて(『創造的空への道』ぷねうま舎 p67)重要視されています(前掲書 p2、『はたらく神の神学』岩波書店 p4参照)。私にとって「働ききかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方」は聖霊なる神であり、キリスト教の三位一体の第3位格という規定を超えて(…そもそも「神は霊である」ヨハネ福音書4:24)、「人格-非人格」とか「対象-非対象」といった二項分別対立をも超えた唯一の「神」です。私自身にとっての救いは、この「神」のはたらきがあればそれで実現するのです。聖霊による救いこそ、わが人生において最優先の課題です。私にとっては御霊の他には御父も御子も不要です。聖霊は神の霊であり、その場合の神とは御父を意味するので御父(エホバ)の存在は暗黙の前提とはなりますが、創造主ということ以外には敢えて御父についてどうこう語る必要はありません。形而上学的思弁に陥るだけで時間の無駄です。ましてや御子であるイエス・キリストに関する考察などは無用です。復活などは、高尾利数氏が「共同幻想」だと述べておられるように(『キリスト教を知る事典』東京堂出版 p39、『聖書を読み直すⅡ』春秋社 p37~38)私も客観的事実(史実)とは異なる次元の、せいぜい共同主観的事実とでも言えることだと思います。

「イエスが死人の中から甦ったというようなことは、時空内の史実的現実としては、生起しえようはずもない。われわれの認識は有限であるとか、われわれが理解できない事象も生起しうるからという一般論を盾に、イエスの復活の時空内的現実性を最初から排除した世界観を持つことは、近代の合理主義的独断である、などということは――たとえその場合、『新しい歴史的理性』とか『死と罪責と虚無を突き破る<新しいもの>の希望の秘義的しるし』とか『神の<充満 プレーローマ >を指示する奥義』とか『史実ではない真実』とか、さまざまな神学的思弁が伴われようと――とどのつまり、護教論的意図に発した一種の循環論法であり、深いところで『不誠実』を宿し、『知性の犠牲』を強いる『無理』ではなかろうか。絶対化された観念としての『イエスの復活』に依拠した伝統的・正統的キリスト教は、そもそもそうした『無理』の上にうち立てられた巨大な観念の神殿なのであった。」(『聖書を読み直すⅡ』p38~39)

「我々が歴史的に確認できるのは、イエスの十字架を境にして、その前に師を見捨てた弟子たちが、その後に彼をキリストと信じ、宣教を開始したという事実だけである。彼らの振舞にこのような転換が起った原因としてあげうるのは、彼らが復活のイエスの顕現体験を持ったということのみであって、イエスの復活と顕現そのものの史実性を問うことは無意味である。当然のことながら、我々が歴史的『事実』と言うとき、それはだれに対しても実証される一つの事態、だれもが追認できる一つの事態のことである。しかし、この意味で復活は、はっきり言って『事実』ではありえない。もし復活が、この世の原因と結果の連鎖の中にはめ込まれる事態であると言うのであれば、それはむしろ復活という事柄の本質に反するであろう。」(荒井献著『イエス・キリスト 上』講談社学術文庫 p33~34)

それにしても荒井氏が引用しておられる佐竹明氏の「復活信仰」解釈もあまりにセンチメンタルで非現実的な観を否めません。とにかくキリスト教では、高尾氏の言う「無理」を自覚せず、教会の説教などではイエスの復活を史実として語ります。実にナンセンスの極みです。

「初代キリスト者は、『神がイエスとして現れた』事実を客観的に観察・認識したのではない。彼らはまずは、『十字架につけられて死に・復活したイエス』に『神のはたらき』を見たのである。(中略)だから最古の福音書である『マルコ福音書』は『悪霊に勝利したイエス』を『神の子』として描いたのである(神の聖者とは神を宿す人間のこと―― 一章24節。さらに五章7節等参照)。」(八木氏前掲書p66~67)

キリスト教徒は、聖霊のはたらきを受けているなら必ず主イエス・キリスト信仰告白へと導かれるのであって、そうなっていないのは君のうちにはたらいているものは聖霊ではなく悪霊だからであろう…などと非難するのがキリスト教というものの実態です。

「現代人はもはや、教会教義を客観的事実の告知として受け取ることはできなくなっている。(中略)教会教義を客観的事実の記述として宣教するのは元来不可能であったのだ。それは新約聖書を正確に読めばすぐわかることである。そうであればこそ、本書は教義の根底にある『経験、むしろ経験を成り立たせるはたらき』に到達する道を探っているのである。(中略)ニーチェは、上記のように、『理性より深い』生の自覚に立って、後期ギリシャ以来、『生を知に還元してきた』自我、要するに近代主義を批判したのだが、彼の『生の自覚』は宗教性には届いていなかったので、力の肯定、強者の礼賛に傾いたのはまことに残念なことであった。(中略)バルト神学は、『イエス・キリストの出来事』を客観的事実として、この出来事の内容と、それが人間にとって意味するところとを述べたもので、伝統的プロテスタント神学を詳しくかつ正確に語ったものだ。しかし、それだけに現代の批判的新約聖書学の成果を汲みきれないものとなっている。またバルト神学には、やはり信仰的生を知(教義学)に解消する傾向が強い。(中略)現代人は、客観的事実だけが真実ではないことを、客観的認識の偏重は、『こころの文化』つまり自覚によって成り立つ人間性を無視し破壊することを、銘記すべきなのである。」(八木氏前掲書p71~80)

それなら、八木氏の思想において「神」とは何か?と言えば、「神とは『場のはたらき、その実現・伝達者』と区別される『場そのもの』を指す。それは世界と人間、存在者の一切が、そのなかにある、無限で究極の場だということになる。それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は『空』であり、しかし虚無ではない『創造的空』である。(中略)『神』とは、生と死、存在と非存在、生成と衰滅を超えて包む根源である。」(八木氏前掲書 p94)ということであり、注目すべきは、「『無意味に耐える強さ』は『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。」(八木氏前掲書  p97)ということ。八木氏によれば、「新約聖書では、統合作用の場そのものは神、統合作用はキリスト、場所において統合を実現させるはたらきは聖霊と呼ばれている(新約聖書には明言されていないが、実質上、三位一体論がある)。」(八木氏前掲書 p150)とのことで、「世界と人間に及ぶ統合作用の場とは、伝統的な神学用語でいえば、『聖霊に満たされた空間』、遍在する聖霊のはたらきの場である。そして聖霊とは、場の統合作用を『場所』において実現するはたらきのことである。これは実は、力を失って潜在していた統合作用が現実化されて主体となることである。」(八木氏前掲書 p150)

一方、上村静氏は『キリスト教自己批判 明日の福音のために』(新教出版社)において次のように述べておられます。

「聖書は神話である。これには2つの面がある。ひとつは、聖書は神が『歴史』に介入する物語となっているということである。聖書各文書の著者たちは古代人であり、神話論的世界観を前提としている。聖書は神が地上の出来事に直接間接にかかわるお話であるから、それは『神話』という言葉がそのまま当てはまる。もうひとつは、それが『聖書』とされているということにかかわる。異なる時代・場所に生きた複数の人間の書いた書物の寄せ集めを『神の言葉』とし、それを共同体の紐帯とするために、『聖なる書物』という『神話』が作られた。これは『安全神話』というのと同じように、根拠なく多くの人がそのように信じさせられている作り話という意味での『神話』である。この二面は表裏一体の関係にある。前者なしに後者はないが、後者なしに前者は伝達されない。(中略)『聖なる書物』であるとは、そこに書かれていることが『神の言葉』であるという主張である。『神の言葉』であるならば、それは唯一絶対の真理であるということにされ、それゆえに規範性・拘束性が与えられる。(中略)『言葉』は必ずしも一義的ではない。つまり、多様な解釈の可能性がある。ここに『聖書』なるものの矛盾がはらまれている。(中略)特定の解釈を絶対化したいという欲求が生じ、『権威』が求められるようになる。ひとたび『権威』が容認されると、今度は『聖書』がその権威を絶対化するようになる。こうして『神』の名のもとに『権威』に逆らう者への暴力が正当化される。(中略)神話は史実の報告ではない。けれど、だからといって荒唐無稽なおとぎ話として切り棄ててしまえばよいというものでもない。(中略)*19世紀のヨーロッパで近代神話学が成立するが、聖書はその対象とはされなかった。(新約)聖書をはじめて『神話』として認識し、その『非神話化』を提唱したのはブルトマンであった(ブルトマン「新約聖書と神話論」1941年)。(中略)現代人は、すべては自然法則のもとにあるとする合理的・科学的世界観をもっている。『神の死』が語られる由縁である。聖書は古代人の世界観のなかから生み出されたものなのだから、聖書を史実の報告とする『神話』はもはや現代人には無意味なだけでなく有害である。(中略)聖書は史実の報告ではないが、神話であるがゆえにこそ人間存在についての洞察を内包している可能性がある。神話論的表象によって表現された古代人の現実理解・洞察を現代人に理解できるものへと抽象化することを『非神話化』、その抽象化された現実理解・使信を現代に向けて語り直すことを『再神話化』と呼ぼう。再神話化は、聖書は神話であるという単純な事実を認め、その神話に内包されている洞察を現代人にも理解可能なものにする試みである。(中略)牧師が礼拝のなかで行っている『説教』とは、聖書テキストを解釈し、それを現代の聴衆に理解できるように語り直しているのだから、それは『再神話化』なのである。語り直しなのだから、『神』や『キリスト』などという『神話』的表現をそのまま使わずに、他の表現に置き換えることは可能だし、その方が『信仰』と呼ばれている事柄の内実を多くの人によりわかりやすく提示できるはずである。(中略)『神』の実在はもはや信じられないが、『神』という表象がかつて担っていたリアリティを再生させることはなお可能であると思われる。」(p10~16)

「聖書と歴史には複合的な関係がある。聖書の多くは『歴史物語』であり(モーセ五書申命記史書福音書使徒行伝)、それは『物語られている歴史』と呼ぶことができる。しかしながら、この『物語られている歴史』には著者・編纂者がいるのであり、彼らは自分の生きている時代という『歴史』の制約を受けている。つまり、『物語られている歴史』はそれを『物語る者の歴史』と不可分の関係にある。さらに、聖書は読まれることを期待しているのだが、読者の側も自分の生きている時代という『歴史』の制約のなかで聖書を解釈する。すなわち、読解という作業には『読者の歴史』がかかわっている。このように、聖書解釈には以上の3つの『歴史』にかかわる視点が交錯している。(中略)『歴史』とは、過去の出来事を羅列する『年代記』(年表)ではなく、出来事と出来事の相互連関を叙述する『物語』である。それには『歴史家』による出来事の取捨選択と関連づけがともなう。すなわち、『歴史』とは歴史家にとっての『意味』の探求の結果なのである(historyの語源であるギリシャ語のhistoreinは『探求する』の意)。(中略)『歴史』は歴史家によって意味づけられた『物語』なのである(historyとstoryはどちらもギリシャ語のhistoriaに由来する)。」(p18~19)

・・・「『神』という表象がかつて担っていたリアリティ」ということですが、私見ではいずれにせよ人格的なイメージは避けられないと思います。仮に八木氏のようにこれを統合体形成へのはたらきだと言うにしても、そのはたらきは物理的作用というだけのことでは、人を生かす力にはならないからです。やはり「神」という表象は人を生かす原動力、活力源として観てこそ現代社会の生活においてもリアリティーなり普遍的意義なりを得られると思うし、人を生かすものは人格的なものなので、それは擬人的になってはいけないので微妙なところではあるが、人格的としか言いようのないものは必然的に生じてきます。「非神話化」から「再神話化」へ…ということに関して思うことは、まずイエスの復活という出来事を未熟な信仰では歴史的事実と混同して受けとめていますが、そのままでは現代人としては高尾利数氏の言う意味での無理を生じることになるので、そこから「非神話化」がなされて、イエスの復活は「キリスト神話」の中心として、歴史的事実と区別される段階へ進まなければなりません。しかしそのままでは「信仰」は成立しません。宗教の信仰は神話と歴史とを区別しつつも、両者を不可分(・不可同・不可逆)として受けとめ直す必要があります。そこでは「復活」とは単に「死人のうちよりよみがえ」ることでは済まなくなります。その神話的世界観における古代人信者による信仰の告白が、科学的世界観における現代人信者にとってはどういうリアリティーたり得るのか?ということです。実存論的には、やはり活力が自分の内に生じるということではないのでしょうか?パウロという人物の場合には、コリント二12:7以下の体験…すなわち主・キリストが「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである」と言われたということ、それでパウロはその「力」…「キリストの力」が自分のうえに宿るために「むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう」と言うわけです。その「もろもろの弱さ」に加えて「侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まり」が挙げられていますが、これは「もろもろの弱さ」とは別のことと言うより、その具体例として受けとめてもよいと思います。ここで特に現代の読者にも通じるのは「迫害」以外の3つであり、まさにメンタルヘルス的な意味の「危機」にもつながる深刻さが感じられます。臨床的には精神療法による治療を要する場合もあることです。しかし聖書ではまずもって「キリストの力」が、社会生活における精神的・人格的危機を回避するために必要だと教えているように思われます。薬物療法をはじめとするいろんな治療法を試すことも必要ですが、それだけではなく霊的治療とでも言いますか、人は心と体だけではなく霊によっても出来ていると聖書は教えているので、その人の霊にはたらきかける内住の聖霊から力を受けなければ、全人的救いにはならないというわけです。ここで重要なことは「私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだ」という逆理的な自覚です。これこそ時代や民族を超えて普遍性あるケリュグマの核であり、キリスト教という宗教のいのちではないでしょうか?キリストの復活という神話がこうして現代人にも通用するリアリティーとして文字通りよみがえるためには、その「力」のはたらきが生きる力・活力として体験されなければならないのです。その体験させる神こそが神の霊・聖霊なのです。だから聖霊は歴史と神話とを貫いています。父と子と聖霊の三位格のうち、聖霊のみがそのはたらきを…キリストの復活の力を体験せしめるものとして現実的なのです。神とキリストは神話の中ですが、聖霊だけは神話から現実へ入っているからです。聖霊だけは冒瀆してはならないということの主旨はそこにあるのかも知れません。聖霊によってキリストの復活の力を自分の中に宿らせて頂き、そうを月ごとに更新させられるのが聖餐の意味だとも言えるわけでせう。とにかく実生活で自分が対人関係その他による苦悩の中で、自分の「弱さ」を痛感させられる時にこそ聖霊によって生きる力が与えられるという「再神話化」が実生活において自分の復活信仰を成り立たせるわけです。

三位一体」論については、八木氏は上記のように伝統的な定義とは違う内容で解釈し、定式は継承しておられますが、高尾氏によれば「こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」(高尾氏前掲書 p212)ということになります。

哀しいかな私は、好むと好まざるとにかかわらず、そんなキリスト教という宗教を否定的にではあれ媒介しないことには、自分にとっての救いを見い出して体験することができません。なぜなら、聖霊なる神の存在自体、聖書を教典としてそこから聖霊について説き起こすキリスト教説なくして聖霊体験を省察し自覚するに至ることはなかったからです。イエスの復活ということも私にとってはどうでもよいことですが聖書に書かれていることに違いはなく、結果的にはその聖書に書かれているイエスの復活という出来事を中心とするキリスト神話がなければキリスト教信仰が成立していないわけで、キリスト教信仰が成立していなければそれを媒介して私自身に及んでいる聖霊体験の救いということもないわけなので、私にとっての聖書的・キリスト教的救済は、批判され否定されることにおいてのみ真実性を現し得る逆理的現実ということになるわけで、私の精神面では自虐的信仰ということになるわけです。私見では八木誠一氏などの神学および宗教哲学の思想もキリスト教を否定的に媒介して成立しているものです。自分はその八木氏の思想の学徒になることでよしとしないのは、やはりそれは宗教ではなく学説だからです。自分にとって最優先課題としての「救い」は、学説を信奉することではなく、やはり神話であれ何であれ聖書というものの権威に身をゆだねて教会という信仰共同体に加わることなくしては無いからです。それは「知性の犠牲」(高尾氏前掲書 p195、『聖書を読み直すⅡ』春秋選書 p39)とはなりません。なぜなら知性とか理性より深い生の自覚に立つことを自覚するからです。仮に「知性の犠牲」というような自己抑圧的な状態であるとしても、そもそも私は高尾氏のような高度な知性など持ち合わせていないから、客観的事実としては「犠牲」と言えるほどの大げさなことではなく、その点ではキリスト教がその初期に無きに等しい愚人の宗教としてスタートしたこともわかる気がします。しかし主観的事実・自覚としては自虐的信仰と言わざるを得ません。でも聖霊のはたらきを体験するという救いを第一とする以上、自虐と言いつつも開き直って信仰生活してゆくのみです。たとい醜態を晒し侮辱を受けても惰性的でもよいから足しげく教会には通うべきです。自分が言う、聖霊のはたらきを体験するという救いとは、なにか神秘的な特殊な体験をすることではなく、ただ理屈ぬきに生きていること、生かされていることの歓びを感じることであり、ちょっとした脱日常的意識になれるということです。それって、自分が散歩の延長で運動のため登っている近くの低山の中で深呼吸するようなことかなと思います。そのためには、とにかく余生の生活の軸として、まともな献金はできないし交わりもしないということで会員にはなれないけど恥を晒してでも教会に関わり続けるということになります。教会から離れると聖霊がはたらきかけてくれなくなるような気がして・・・それも一種の強迫神経症(=強迫性障害)的なことなのかも知れませんが…。どうせクリスチャンとして生きるうえで三位一体神観は回避できないのであれば、様態論的三位一体神観・・・イエス之御霊教会教団の、言わば、御子(キリスト)内包三位一体神観としての様態論(…スウェーデンボルクの三位一体神観と酷似している)とは違って、御父(エホバ)内包三位一体神観としての様態論(サベリウス主義)でもなく、聖霊内包三位一体神観としての様態論がよろしいかなと思います。その場合、外延の聖霊が濃くて、内包の父と子と聖霊が薄くなるイメージです。

ここまでの内容と以下の内容とは部分的に矛盾することもあろうかとは思いますが、そもそも自分が書くことは支離滅裂な観もありますので、読者諸氏は気にせずに読み過ごしてください。要は絶望せず、聖霊のはたらきによって生かされて生き得るだけ生き抜いてゆくのみ!

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「『統合体』形成は、実は客観的世界にも見られるはたらきであり(原子、太陽系、生体など)、人間には『きよらかな、やさしいこころ、平和への願い、自分の不利になっても真実を求め語る誠実さ』等として現れる。つまり客観面にも、人間の主体面にも、事実として確認可能なはたらきである。とすれば両者の共通の根源があるはずだ。ただし、それを客観的に見る場合と、主体的に自覚する場合とでは、語り方は同じではない。それは客観的には脳細胞のはたらきとして観察されることが、主体的にはこころのはたらきとして自覚されるのと類比的である。一方が他方を生むのではない。両者を同時に見ることはできないが、両者の関係は因果ではなく、変換というべきである。本書では当然ながら、『主体の自覚』の道をゆく。具体的には瞑想のなかで統合心を掘り下げるのである。すると統合心の奥に、『創造的空』があり、これが統合心をつくり出すことがわかってくる。とすれば、そこからいえることがある。すなわち個々の人間のこころの奥底にある『創造的空』は、世界に見られる統合作用と、その奥底にある『創造的空』を映すということである。直接見ることはできないが、これは知に伴われた『信』である。」(『創造的空への道』p3)。

ところで、人は心と体だけではなく霊によってもできています。だから人を全体的に救うものは臨床心理学でも精神医学でもありません。もちろん宗教学や神学でもない!学…ロゴスではないのです。ロゴス・キリストでもないのです!理論、理屈ではない、体験です!聖霊による体験あるのみ!その体験知が、ドン底まで堕ちた人間を救うのです。どうやって?…それは、それは聖霊が苦悩する本人の心に直接はたらきかけて、生きる希望と生き続ける力を与えてくれるのです。神の霊だから…。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ書5:5)「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」(ローマ15:13)

「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」(テモテ第二1:14)

一般的には、心理学者は人の苦悩…精神的地獄状態の原因を指摘することができます。そしてその原因を除去するにはどうすればよいかという課題をも指摘できます。ところが、その課題は凡人には極めて困難な場合が多く、いかにしたらその課題をクリアーできるか?という実際の答えはなかなか示すことができません。それは個人差があるということもあるでしょう。聖書も人の苦悩…霊的な地獄状態の原因を指摘することができます。そしてその原因を除去するにはどうすればよいかという課題をも指摘できます。ところが、その課題は凡人には極めて困難な場合が多く、いかにしたらその課題をクリアーできるか?という実際の答えは示されていません。それもまた個人差があるということもあるでしょう。

すなわち霊的な救いはイエス・キリストの十字架刑死による贖罪を信じることによると言われても、それを信じるためには自分の頭で理解して納得するというやり方ではなかなかうまくゆきません。結局、聖霊の他力による以外にはありません。しかしその場合でも「盲信」のような「知性の犠牲」的なことにつながっては意味はないのです。

「信とは不可解な教義を、それでも疑いを抑えて信奉することではない。まずは客観的にも確認可能であり、主体的にも自覚可能・了解可能な『統合体形成作用』への信である。原始キリスト教的宣教の中心は、『罪に支配されるあり方から、わが内にキリストが生きるあり方』への転換、つまり罪の支配力の克服である」(八木誠一著『創造的空への道』p2)

「創造的空」は「神」、「内なるキリスト」は「聖霊」であるとも言われています(八木氏前掲書p3~4、18)。

キリスト教には「不合理ゆえに我信ず」といった言葉がありますが、たしかにこの世の合理的思考に挫折して不合理の世界に真実を求めて入信する人もいるでしょう。しかしそういう人ほど教団によって洗脳とかマインド・コントロールされやすい傾向があるかもしれません。それでは真実どころか逆に一部の人間たちの悪しき妄想を吹き込まれて人生の貴重な時間や財産を奪われる被害を受けるおそれもあります。だから合理主義を批判することはよいとしても、けっして不合理主義に陥ってはならないのです。つまり理性は常に正常に保っていなければならず、それも聖霊のはたらきによる再生の理性としてであって、聖霊のはたらきと言っても教会組織を介しての神学的自己省察における教理的に制約された聖霊のはたらきでは無効ということです。ところで以下の引用文には、キリスト教神学ならではの詭弁というかこじつけが明るみになっています。

「ヤロスラフ・ペリカンは、イエス・キリストに(新約聖書ヨハネによる福音書において)『ロゴス』という名が与えられたことは、キリスト信仰の逆説性を、信仰の非合理性を讃美するほどに重んずる傾向に歯止めをかけるはたらきを持つものであるとし、これを前提とした上で、テルトゥリアヌスによる本来の文言を紹介。テルトゥリアヌスの文言が直解主義・反知性主義といったかたちで独自に権威主義的に取り上げられることについて批判的に述べている」(~ヤロスラフ・ペリカン著、小田垣雅也訳『イエス像の二千年』⦅講談社学術文庫⦆< wikipedia「テルトゥリアヌス」)・・・ヨハネ福音書においてロゴス・キリスト神話が物語られているからといって、それが「キリスト信仰の逆説性を、信仰の非合理性を讃美するほどに重んずる傾向に歯止めをかけるはたらきを持つものである」だなんて、とんでもないこじつけです。イエス・キリストがなんと呼ばれようとも、聖書の神話…特にキリスト神話は不合理であり非合理です。就中、復活という出来事はまったくもって不合理で非合理で反合理です。パラドックス(paradox)すなわち、逆説とか背理とか逆理と訳されることとは違います。キリスト神話においてパラドックスと言えることは、神の子がケノーシスを徹底して十字架刑死という悲惨の極みまで自己無化することを通してこそ(否定媒介)父なる神の絶対有たること、その偉大さを示し得た…ということであり、復活および主としての栄化・神格化はその逆説性を妨げる不合理性でありこそすれ、けっして理に合うような神話では無く(背理・逆理も理である以上は無理ではない!)、もはや不合理・非合理を無理に正当化することにほかなりません。だから自分はキリストの復活がその信仰如何でキリスト教の立ちもし倒れもするような事柄であるとしたら、キリスト教という宗教自体が不合理・非合理であって信仰は無理な宗教であると思います。すくなくとも私としては、使徒信条の「聖なる公同の教会を信ず」の文言によって教会組織を神聖化したり絶対化するようなことがあってはならないし、その「聖なる公同の教会」を信の対象とすることが教会の信条・教義を金科玉条の如く奉じることにつながってはならないと思います。自分自身の理性に合わない物事は受け入れる必要はありません。この世にあるキリスト教会はしょせん人間集団として相対的なものであり、掲げられている信条・教義の類もけっして万人が無批判に認めるべき普遍的真理などではあり得ません。そもそもその信条・教義の由来である聖書自体、神の言葉とは言え人間を通して語られている以上制約があり、決して無批判に文字通りのまま真実として認めるべきものではないのですから…。聖霊のはたらきということも含めて聖書の言葉は批判的営みにおいてこそ、その真実味が発現するのです。逆に言えば、私の場合、キリスト教徒として生きるということは最高度に自虐的なことでもあります。なんと言っても(同一・同等の)三位一体神論などという余りに非聖書的な教義を信奉する宗教の徒になることなのですから、自虐的な心理にでもならないことには自分がキリスト教徒である意義は皆無です。そして自分が自虐的心理になってでもキリスト教徒たる必要性とか必然性があるとすれば、それは自分にとってキリスト教的救済が何よりも有意義であり必要であるという一事以外にはあり得ません。理性も知性もすべて犠牲にしてまで求めるものが聖書の示す救いないしはキリスト教的救済であるが故に自分は自虐という名の自己無化をイエスのケノーシスに倣ってかどうかはわかりませんが為してゆく過程においてこそキリスト教徒であり得るわけです。そしてそのことが、私の言うところの聖霊他力の信仰…すなわち聖霊という「神」そのもののはたらきが個別の対神関係において完全に自由自在であり無制約であるゆえに、たとえキリスト教会の伝統的信条や教義とは合わないことであってもそれが聖書が示す神の霊によるはたらきとして感じるのであれば、そこに自分のすべてを信頼して救われるべく、再生の理性的境地に至るということと矛盾するとしても、それはそれとして…やるしか生きる道は無いのです。言わば、私にとってキリスト教信仰という最高度に不合理・非合理・反合理という無理な営みをして背理・逆理という有理な営みへと昇格せしめ得る唯一の手段が「自虐的信仰」という一事にほかなりません。これは私が批判してやまない量義治氏の『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)に説かれている思考停止的思考を地で行くことに他なりません。この本では、「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べられています。

<……イエスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち人は個別的限界状況に置かれたなら、知的欲求よりも救済願望の方が優るというわけです。たしかに背に腹はかえられんということで、苦しい時の神頼み、ワラにもすがる思い、イワシの頭も信心から…とかなんとか云われますが、とにかく量氏のこのような考え方は、座右の銘に出る類の四字熟語で言えば「捨小就大」と同じことです。救済という大目的を実現するためなら、イエスの復活神話を史実とみなすような、あるいは学者の中にも聖書的根拠を否定する「三位一体」などというキリスト教教義を受け入れるという、積極的意味での「知性の犠牲」のロジックです。救われたいからといってキリスト教のドグマを盲信することにほかなりません。まさに「恥を知れ!」と自分に対して言いたいほど、最低の人間の考えだと私は思います。いいえ一般論で言っているわけではありません。他人は他人、私は私であり、自分がクリスチャンであることは最高なんだと思う人はそれでけっこう、私の知ったことではありません。私が最低の人間だというのはクリスチャン一般に対して批評的に言っているのではなく、あくまで自分自身に対してそう言っているのです。自分の中では、クリスチャンになるということは教会ドグマの盲信なしにはあり得ないことなので、それが最低の人間に身を落とすことを意味するのです。そんなことを受け容れるということは本当に人として恥ずかしく情けないことであり、自ら宗教教義を盲信するということは人間として最低のことだと思うわけです。でもその最低のことをする最低の人間…非人的境涯にまで身を貶めてさえ必要とする救いがあり、その救いによって生き続けようとするいのちがあるわけです。そのいのちこそ世に無きに等しき者が多かったと云われる(コリント第一2:26~28)原始キリスト者の歴史に立つ人格です。それもこれも私の余生における優先順位の第1が聖書およびキリスト教的救済であることによるものです。ドン底まで身を落として最低の人間になってこそイエスのケノーシスが共感されてくるという逆説的福音の救済信仰、

「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。」(コリント第一1:18)

イエス・キリストの福音…復活の出来事を中心とするキリスト神話は、結果的に救われる者にとってはどうであれ、救いを求める私にとってはそれこそ「愚」の骨頂なのです。そんなキリスト神話を「盲信」して、自ら最低の人間にまで身を落として思考停止してまで得たい救い…それこそが「神の力」…聖霊のはたらきにほかなりません。そのはたらきによって極楽天国に行けることが救いなのではないのです。ただ生きる力・活力が自分の体内に湧き起こることが救いなのです。活力源は脳内物質のセロトニンです。セロトニンの脳内作用を活性化させて精神を安定させてくれるのが聖霊のはたらきなのです。精神が安定し、理性が機能しているうちは人間でいられるからです。それって私がキリスト教的家庭環境に生まれ育ったことと無関係ではあり得ないでせう。救済と言っても単なる気休め的なものではなく、聖書が示す霊と魂(心)と体の全人的聖化ないしは救済です(テサロニケ第一5:23)。

(参考まで)シーズンⅡ, Chapter22. 全人的な救いとはl 癒やしの祈り l カングレイスl 祈りの学校 (youtube.com)

そしてその宗教的実存は観念的な傾向の個人主義的信仰にとどまらず(…それも救いにはなり得るのだが…)、個人を媒介して社会ないしは世界人類へと開かれてゆくこともあり得るのです。(関係ないけど「宗教的実存」と言えばキルケゴールです。彼の観念性、保守性については⇒) キルケゴールは観念論者か キェルケゴールにおける教会批判の射程

 

 

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「私は知った。神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。」(共同訳 コヘレト3:14)

「神の前に言葉を注ぎ出そうと焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。言葉を控えよ。」(同上 5:1)

「見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。」(同上 5:17)

「人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって応えてくれる。」(同上 5:19)

「幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように神は両者を造られたのだ、と。」(同上 7:14 )

「ただし、見よ、これを私は見いだした。神は人間をまっすぐに造ったのに人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。」(同上 7:29)

百度も悪を重ねながら生き長らえる罪人がいる。しかし、私は知っている神を畏れる人々には神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には神を畏れることがないゆえに幸せはない。その人生は影のようで、生き長らえることがない。」(同上 8:12~13)

「愛する妻と共に人生を見つめよ空である人生のすべての日々を。それは、太陽の下、空であるすべての日々に神があなたに与えたものである。それは、太陽の下でなされる労苦によってあなたが人生で受ける分である。」(同上9:9)

youtuber精神科医の樺沢紫苑氏は、しおんという名前からして生い立ちがユダヤキリスト教的環境と関係があるのではないかと推察しますが、聖書を読むという話も聞いたし、イスラエルの歴史にも詳しいようだし、動画のロケ先がマサダだったこともあり、当たりかなあと勝手に思っています。実際は確認していないのでわかりません。

さて、その樺沢氏が「許せない相手を忘れる方法」と題しての質問に対する回答では、なんと相手を「許す」ということを言っておられます。【まとめ】許せない相手を忘れる方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

これはもう心理療法のレベルの話ではなく、言わば宗教的境地の話です。だって「許せない相手を忘れる方法」ですよ!結果的に「許せる」相手なら、「許せない相手」だと思っていた自分が思い違いしていたことになります。しかし実際はなかなかそうはいかないものです。自分が相手を「許せない」と思っているその思いは決定的だからです。だからこそ怒りの感情に身心が支配されて苦しいのです。そこから脱却するために「許す」ということまではできない人が多いと思います。だから、せいぜいできることは、もうこれ以上「憎まない」ということ、それなら何とか可能ではないでしょうか?

怨憎会苦は人生のうちに多くの人が経験することでしょう。職場などいろんな生活の場で会って一定期間を同じ環境で共に過ごす相手を怨んだり憎んだりしないようにすること、それは自分がこれ以上、苦しまないために「憎まない」のですから、自分自身のためなのですから、「許す」ことと比べれば、なんとかやれると思います。だって「許す」ということになると、なんか相手に降参したような、自分を苦しめた相手の方がやったもんがちで得するのを認めるような、そんな自己犠牲的なマイナス感情を伴います。だからさすがにそれは凡人には無理であり、宗教的回心体験でもしないことには心身にかなりのストレスとなります。だけど、もうこれ以上思い出したくもないから相手を「怨まない、憎まない」ということであれば、かなりラクになれるはずです。

結局、心理療法も限界があり、宗教的境地に入ることを促すようなことにもなり得るのでしょう。それが私の言う、対人関係はいくら心理学だ、精神医学だ…などと言ったところで所詮、対人関係の中で解決しようとする限り行き詰まるのであり、対人関係の問題は最終的・究極的には対神関係によってこそ解決される…ということです。だから、心理療法はどんな方法でも神信仰を前提とするかしないかで、その有効性はまったく違ってくると思われるのです。ちなみにキリスト教の「主の祈り」では、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとくわれらの罪をも赦したまへ」と一見さらっと言われていますが、「われらに罪を犯す者」を赦すとか許すということは、煩悩をかかえる衆生にはとても自力ではなし得ません。そこで聖霊による他力のはたらきが必要になるのです。キリストが私の罪を御自分の命を犠牲にして赦して下さったのだから、私も私に罪を犯す者を赦さなければならないのだ…といった理屈によって怨憎の相手を赦す・許すことはできません。そういった理屈も損得勘定も抜きで相手を赦せる・許せる境地へと変えられる体験をするかしないかです。すべては神とかキリストとか言うより聖霊のはたらきにかかっています。三位一体というのはその存在を知るよりも働きを感じるべきことです。私は、聖霊信仰と心理療法」というタイトルで信仰治療的アプローチを追究してみたいと思っています。

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そもそも煩悩の元凶は大脳のはたらきにあるのだから、そこをどうにかするのが一番です。しかし人間の自力による脳制御の限界はアヘン中毒に明らかです。でも医療用に正しく使うならモルヒネは不可欠。それでも効かない痛みに対して患者さんを助けるものは医療用大麻ということになるのかどうかは知りませんが、人間は脳内の作用によって苦しめられ脳内の作用によって救われもする。セロトニンにもさすがに救いには限界がある。他の脳内物質も同様。なくてならぬものであるが決定力には欠ける。麻薬など使うことは違法であるうえに中毒になるので、これまた人間の自力的脳制御としては限界がある。

ちなみに「アヘン」(opium)という名称はケシ(poppy)の乳液を意味するギリシャ語のオポス(oπos)に由来するとのこと。「アヘンケシ」(opium poppy)。「ケシ(ソムニフェルム種)は医薬品原料として、重要な薬用植物です。インドから小アジアにかけての西アジア原産とされる1年草で、高さ100~150cmになります。全体に帯白緑色を呈し、ほとんど無毛。葉は大きな長楕円形で、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いています。5~6月に直径10cmほどの大きな花を開き、花弁は通常4枚で、白色、赤色、紫色などがあります。また、ヨーロッパで品種改良されたケシの園芸品種には、花の色がより鮮やかなものや、八重咲きなど様々な品種があります。これらのケシと(2)のアツミゲシは、麻薬の原料となるモルヒネを含有しているため、日本ではあへん法により栽培等が禁止されています。

(2)アツミゲシ(セティゲルム種)Papaver setigerm ケシ科ケシ属・・・北アフリカ原産の1年草で、愛知県の渥美半島帰化して大繁殖していたことからアツミゲシの名があります。ケシによく似ていますが、全体に小さく、まばらに小剛毛があります。高さ30~80cmで、枝分かれし、葉は狭心臓形で、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いています。花弁は4枚で、基本性質は紫色花とされますが、まれに紅紫色花もあります。繁殖力が強く、空き地などに野生化していてしばしば取り締まりの対象になっています。」

アグネス・チャンのデヴュー曲で有名な「ヒナゲシ」(虞美人草)は植えてもよいそうです。

「あへん法で規制されるケシ・アツミゲシは、開花期であれば毛の状態や葉の形および葉のつき方で見分けることができます」とのこと。そして、「不正なケシは葉や茎にほとんど剛毛がない」、「不正なケシの葉には葉柄がなく、茎を抱いている」、「不正なケシの葉の切れ込みは比較的浅い」とのこと。また、「全草(特にさく果・根)にテバインを含有し、麻薬の原料植物となるハカマオニゲシは、「麻薬および向精神薬取締法」によって、栽培が禁止されています。草70~100cmになる多年草。葉は羽状に深く切れ込み、全体に白色の剛毛があります。花は大きな深紅色で、花弁は4~6枚。通常花の下部に苞葉を6枚つけ、苞葉は蕾の時からみられ、最後まで残ります」とのこと。東京都健康安全研究センター » 不正なケシの見分け方 (tokyo.lg.jp)

それはともかく、認知行動療法唯物論的立場では困難だろう。これは神信仰の立場の方が親和性があり効果も上がるのではないだろうか?なぜならモノの見方を変えるということのためには、今までの自分の考え方、モノの見方を変えるための絶対的な根拠や基準を得られないと、例えば裁判で再審請求が受理される場合って新証拠が出たりとか、よほど判決が覆る可能性があるような理由が生じる場合であるやうに、個人はそれまでの認知の歪みを糺すためにはそれ相応の理由が必要なのだ。そしてそれって絶対性を扱い得て、今まで自分が刷り込まれてきたものを反転するための言わば逆刷り込み…ある意味、自己洗脳というか、セルフのマインド・コントロールが可能な宗教的理由に如くは無しって感じを受ける。ネガティブな自動思考を断ってポジティブ思考に転換してゆくためには聖霊の力が必要。対人関係で失敗すると、しばらくして脳内で自動的に時々、グサッ、グサッと刺さる記憶が出てきます。恥ずかしい感情がメインで添付される場合もあれば、怒りの報復感情が添付され、実際に翌日とかに報復として言い返して少しすっきりすることもあります。そのグサグサ記憶が出てくるというのは自動思考ではありません。フラッシュバックというと少々大げさんなので、仮に自動再現と名付けておきます。自動思考というのは端的に言うと脳内無言の独り言だということですが、自分はそういうのはあまりなく、すぐに感情ないしは身体反応が生じます。認知にはゼロか百か白か黒かといった極端な二択思考や、小事を人生全体における大事として拡張する過度の一般化や、ネガティブなことだけに焦点をあてる選択的抽出や、他人の意図を悪い方に思い込む読心術など、4つほどのパターンがあるそうですが、自分の場合は運勢の破局視的傾向が子どもの頃からあって強迫神経症気味であるうえに(日常の些細な行為でも普通にやっていたら悪いことになるよう設定されているので、それを乱して悪いことが起きることを回避すべく、傍から見たら奇行に思われるようなこともやり、それがルーティン化することもあるが、さすがに不審者と誤解されるような行為は思いとどまることはできる)被害妄想気味なので、職場などでも何か変わったことがあると自己関連付けのクセが出るようなことで、すくなくとも二極化思考以外の3つは確実に当たっています。対人関係でなめられたことがあると、しばらくして自動再現が出てきて、あの時こう言い返せばよかったとかこれを言わなきゃよかった…といった後悔の念が脳内に広がり、今やっている行為が疎かになってしまって、気づくと日常的な単純作業をミスっていたりします。なので自動再現が生じている時は単純ミスのリスクが高くなるので、それを防止するには目の前のことに集中するということを心がけます。自動再現は、イヤな場面が脳内で出てきますが、それをやり過ごすことは可能です。再現場面が生じても意識を他のことに向ければよいのです。しかしそれはまさに対処療法の一時しのぎであって、すぐにまた再現されてしまいます。意識対象の記憶のフィルムは円環なので、焦点が当てられているコマをスルーして別のコマに廻してもすぐに前のコマに廻ってくるのです。そういう状態から逃れるためには長時間連続で我を忘れるほどに何かに集中(熱中)するか、睡眠等で意識を失うかしないと無理でせう。酒や薬で意識を変えようとするのは安易な方法で、中途半端だと却って怒りなど不快な感情が高まり睡眠に支障をきたし、さらには依存になるのでよくないから、健康的な方法としてはまずもって運動です。毎朝、散歩することから始めます。日光浴を伴うとセロトニンの分泌が促進されメンタルヘルスに良いと云われるので、そう思って自己暗示をかけると少しは精神安定に役立つでしょう。実際は大した変化は感じませんが…笑 日光欲、リズム運動、咀嚼の他、トリプトファンをたくさん含むバナナを食べることもセロトニン活性化に役立つらしい。

セロトニンを出す方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

  朝散歩以外でセロトニンを活性化する方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com) 

ところで、youtubeの樺沢紫苑チャンネルで和田秀樹氏が出た時に和田氏がご自身の娘さんが経験したエピソードを通して、いじめられっ子が自分のパフォーマンスを発揮できる世界を探すということに関して重要な指摘をなさっています(34:15~35:41/1:47:39)。精神科医・和田秀樹/樺沢紫苑対談 【2021.4.28】YouTubeライブ!【樺チャンネル】

「自分のパフォーマンスが発揮できる場所を探さないと、今いる場所がすべてって人間てつい思いがちで、よくいじめ自殺とかっていわれる人たちも、なんで逃げないのとか、なんで学校休まないのと言われるんだけど、そこしか世界知らないと逃げようがない(全世界になってしまいますのでね、そのひとつの世界がね)…だから数多くの世界を知らせた方がいい…」

・・・( )内は樺沢氏の発言ですが、これが重要であり、対人関係におけるストレスの苦しみというのも、その相手との関係が大げさな言い方かも知れないがその時の本人にとっては生活世界全体って感じになっていて、その相手との関係が自分にとって苦痛であっても逃れられないものになってしまっている場合があると思う。だからそうではなく、たかが学校、たかが職場の、全人生においては短い間だけの関係だし、大した意味はないものだと受けとめることが出来ない。だからそれほどまでに、言わば自分の人生において決定的なものであるかのように思い込んでしまっている対人関係の重さを軽減するためには、その対人関係をまずは観念的に相対化しなければならないわけで、そのためには絶対とみなすものが必要であり、それが「神」ということになる。「絶対=神」との関係に立ち返ることの生活上のメリットは、何よりも自分の思い込み…絶対化されている対人関係や世間的価値観(偶像)を相対化して、その束縛から解放されること。それが場合によっては自殺の防止にも役立ち得るというわけだ。

但し、即効性(速攻性)という点では自分の経験から、やっぱり少しでもいいから直接、相手に反撃することによって少しでもいいから成功体験を得て、それを積み重ねて対抗する自信をつけてゆくという方法と方向がいちばん健全であり、メンタル的に良いと確信する。もちろん和田先生の娘さんの例では実際に行動を起こして中学受験塾という具体的な場を得て、実際に自分のパフォーマンスを発揮するという行動につながり成果が出ているのだから、これは単なる観念レベルの気休めとかいうことではないが、認知療法的な方法…すなわちモノの見方を変えるとかいった主観主義的なやり方はどこか誤魔化しが感じられ、結局、相手と関わらない自分サイドだけの内向的な方法なので、どうしても現実逃避の気休め的な感じが残り、解決とか解消まで至り得ないからだ。前述の「絶対=神」信仰も観念的自慰でとどまってはダメで、和田先生の娘さんのように実際的な行動に結びつけられなければならない。それは信仰的には聖霊の力を受けるしかないわけだが、自分は基本、保守的立場なので、男はやはり直接対決で解決を目指すのが本来であるが、それは怖くて出来ないから認知レベルでの気休めのような方法を取らざるを得ないのである。言わば「信仰的認知行動療法」とでもいったことで、「認知」だけではダメで「行動」に結びつかないと実効性は得られない。心理療法的にも認知療法よりも認知行動療法の方がマシってこと。

キリスト教が弱者の宗教であるやうに心理学などは弱者の学問なり。しかし心理療法の如きは、ストレッサーに対して物理的な対応…すなわち暴力的な解決・解消を図るというリスクの高いやり方よりも正しいといった公共的・倫理的な信念によって支えられてはいる。しかし自分個人にとっては最善の方法であるとは限らない。暴力を避けられるのであれば、つまり話し合いで決着できれば、それに越したことは無いのである。しかし話し合いと言ったって感情的になりかねないし興奮すればすぐに手が出る者もいる。直接対決は話し合いだと言ったって、いつ暴力に発展するかわからないリスクがつきまとう。自分自身の場合は小心者で怪我をしたくはないので、やはり暴力につながりかねない直接的方法は用いたくはない。実際、一度、職場で相手からナイフを向けられた経験もあるからなおさら直接的な対応を避けて、心理療法に頼ろうとしているのだ。しかも認知療法的な、いちばん主観主義的で女々しく誤魔化しの気休め的なサイテー弱者のやり方に…である。

いずれにしても相手と腹を割って思っていることを言い合うことが本来の人間…特に武士道的な男子のあり方であるが、そのような正々堂々の直接的解決を志向できないほど弱体化した現代人が選択する内向的で自慰的な方法である認知療法などは、日本男児としては恥じることなしには使えないのだから、その効果もたかが知れているし、本当に女々しく恥ずかしいことだし、自己欺瞞的でさえあるということは重々、自覚しておかなければならない。心理療法それ自体が心身の弱者のためにあるようなものであって、自分は本来、弱者志向は大嫌いなので、心理療法などに世話になりたくはないのだけれど、脳の問題は現実そのものであって、けっして甘いものではない。それにしても聖霊の働きはメンタルヘルスにどのような影響を及ぼすのだろうか?そもそもメンタルヘルスの問題などは宗教で対応するほどのテーマではなく心理学的方法で対応すればよいのであり、宗教はもっと世界・人類レベルでの救済といった壮大なテーマを扱って然りだ…みたいな量義治氏の思想のような考えは私は持ちません。宗教こそ人間生活の足下の問題から対応すべきものだと思うからです。対人関係ストレスをいかに処理するか…といった問題はまさに宗教のテーマだと思います。

信仰は神の賜物であり、聖霊によって信仰心を与えられた信者にとって、メンタルヘルスの問題とはいかなることか?信者とて対神関係だけで生きているわけではなく日常生活は対人関係の中で生きているのであるから、当然ながらストレスによる苦悩もあるだろう。但し、信仰を持たない者とは何か違う。その何かとは対神関係において得られる御霊の実…「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22~23)などと言われている…要するに精神的な余裕です。ストレスに対しては、精神的回復力…レジリエンス(resilience)とでも言えるでしょう。寒い冬の朝でも早起きして日光を浴びながら歩いてセロトニン分泌を促す行動への気力も聖霊から与えられています!(^^)!

父と子と聖霊の三位一体なる神においては、どうせ祈るなら自分は、父なる神や子なる神よりも聖霊なる神に祈ります。…というのは、三つの位格とも「人格」(persona)と言われてはいるが、これはしょせん比喩であって、三つの位格の中では「聖霊」がもっとも非人格的すくなくとも非擬人的だから。祈りと言っても自分はいちいち言葉を口から声に出して言うようなことは致しません!神社の宗教でもあるまいし、聖書の宗教は御利益願いの宗教ではないのだから、いちいち願いごとするような祈りなんて意味が無い。世界の現実は創造主が聖定したままに成るべくして成るのだから…。声に出す言葉の祈りは「主の祈り」だけ。それさえも自分はあまり言わない。祈りはつねに聖霊の働きを感じながらの黙想、黙祷でよい!

ヨハネ福音書 141626節の「パラクレートス」は、「パラ」⦅そばに⦆+「クレートス」(~「カレオー」呼ぶ)=「そばに呼ばれた者」岩波版 小林稔訳では「弁護者」。

聖霊は下記のとおり「弁護者」などと言われてはいるが、はたらきとしては人格的な活動力であるとは言えるにせよ、けっして擬人化され得ない。

「〔将来、〕私が父のもとからあなたがたに派遣することになる弁護者、父のもとから出てくる真理の霊が来る時、その方が私について証しするであろう。」(ヨハネ福音書1526

聖霊の働きとして自分が最も重視しているのが理性の再生ということ(~「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ」の2022.04.23「理性の再生」)。 https://koumichristchurch.hatenablog.jp/entry/2022/04/23/114522

聖霊の働きに対して、人為的に精神(心)を制御する「マインド・コントロール」に関しては、法律との関係など、上祐氏がわかりやすく述べておられます。

【宮台真司×上祐史浩(前編)】なぜ高学歴エリートがカルトにハマるのか?現代日本の問題点と新興宗教について徹底討論 (youtube.com)