絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

自殺するなら「自己」としてではなく「自我」でどうぞ!怨憎会苦する「自我」をキリストの贖罪の十字架に磔殺してラクになりましょう…聖霊他力による救い ~「絶対」と「他者」とを分かつ高柳氏と小田垣氏~

なぞなぞ:あればあるで困るし、なきゃないで困るもの、な~んだ?

私の場合、自分(自我)を捨てるということ、自我の磔殺(たくさつ)ということは、下の引用文のように主イエスの命令だから、その命令に従わないと救われないから…といった律法主義的なことではなく(0-100思考・白黒思考、脅迫・強迫的ストレス)、自我を捨てないことには現実の自分(自己)の苦しみが続くからです。つまり最もラクになる方法が自我を殺すこと、自我を滅することなのです。主イエスへの熱情的信仰が動機ではなく、自分自身が精神的にラクになりたいということが主たる動機なのです。私はこの本心を誤魔化すことはできません。その本心を隠して敬虔を装ってキレイゴトを語っても現実と合わずに挫折するのです。実際、自分は昔、その挫折を経験しているのです。だから聖霊によって心を潔められて…とか、内住のキリストによって聖化されて…とかいったことはあまり思わないし語ることはせず、たしかに聖霊による信仰の賜物であることは実感しますが、それはあくまで自身が精神的にラクになるための自我滅ぼしの福音であることを自覚し発信しているのです!

「世間の生き方に迎合し、肉の楽しみを追い求めるキリスト者はみな十字架を避けるでしょう。自分のうちにある肉性が幅をきかせ、古い自我性が生々しく生きているクリスチャンは決して十字架を負うことはできません。ですから、主イエスは他のところで、『自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい』(ルカ9:23)と命じられました。小島伊助先生が先の記念誌で、その肉を十字架につけ、キリストのものとなることを語られましたが、『自分を捨て』という『自我の磔殺』による『己れの聖別』こそが、自分の十字架を喜んで負う秘訣であることを知りましょう。」日本イエス・キリスト教団香登教会 (biglobe.ne.jp)

私のように自分第一の福音信仰ということ自体、自我のはたらき…煩悩が熾盛・活発であることを意味します。ともすれば宗教的実存が、社会優位的救済観よりも個人優位的救済観に傾くことは宗教の頽落であるかの如き言説が聞かれますがその是非はともかく、宗教がネガティブな意味でアヘンのような役割をするか否かはともかく、脳内麻薬と呼ばれるドーパミンオキシトシンなどの分泌とも関連するポジティブな作用を及ぼして、メンタルで苦しんでいる個人にとっての一種の治療法として宗教が役立ち得る可能性もあるとしたら、そこにも見つけようと思えば何らかの社会的意義は見出し得るのではないでしょうか?だからこそこうして自分の所感を公表すべく発信しているのであって、誰かにとって何らかの効果があればよいわけです。たとえ、その有効性が一部の人々にしか通用しないとしても、根本にある社会的原因に対して政治的に解決しようとする意志を妨げるものであるといった否定的な評価を必ずしも下さなければならないものでしょうか?たしかにそのような面もあるかも知れませんが、今、一人の人間が絶望して自暴自棄的になることを思いとどまらせ得る力が宗教にあるとするなら、そういった個別のはたらきにも注目し評価して然りでしょう。今の時代、宗教に対して社会優位的救済観に偏った評価が強調されるのは、いわゆる反社・カルト問題への反動ということもあろうかとは思いますが、それ以前に社会全体に広がる所謂、人権イデオロギーの勢力の影響です。特に日本では「解・同」による行政機関や宗教団体への介入がその中心に位置しています。これにより、宗教者が宗教について語る場合には強迫神経症的に政治的な事柄を意識して教典の解釈ないしは教説に関連づけるといった傾向が顕著だと感じます。そういった傾向からもっと自由になってもよいのではないでしょうか?私見ではメンタル・ヘルスにおいては、宗教は政治的な事柄や社会倫理などに関連づけて考えなければ個人主義化して観念的・幻想的になるからダメだ…といった思い込みもストレスにつながっており、修正される必要があると思われます。しかし、そのような思い込みが生じてストレスになるのは、それ相応の言説(イデオロギー)がストレッサーとして機能しているからにほかなりません。聖書の説教にしても、つねに人権問題などに結びつけた解釈をしたがる牧師や司祭がいるし、そのような教会のあり方を志向する勢力もあり、そういった人々に迎合する神学者もいるわけです。人権問題が説教に取り上げられること自体が間違いだということではありません。それは誤解であり、たとえば聖書の中には現代で言えば人権問題に当たることが書かれてあり、主イエスの言動がそれに取り組んでいるものとして解される理由はあるわけです。しかし、そういったイエスの言動には、表面的な意味にとどまらない霊的に深いメッセージが込められていて、その根源的な意味を汲み取る作業こそ説教の使命です。現代の教会においては、「福音」と言い「宣教」と言っても、政治的志向の圧力やバイアスがかかるので、その内実は非宗教的なものになりやすく、自我は攻撃にさらされて防御の必要性から、衰えるどころかますます強化されてしまいます。これでは「宗教はアヘン」であるとは反対の意味で、「宗教はカンフル剤」かなんかにはなるとしても、人格に対しては同じく否定的な作用を及ぼすことになるでしょう。やはりバランスが大切です。あまりに個人主義的になることもよくないけど、さりとていつものように説教なんかで時事批評めいた話を聞かされるのもおかしいのです。昔、自分は牧師の説教で延々とベルリンの壁の崩壊という出来事についての感想を聞かされて閉口したことがありますが、そういう話なら政治の専門家の講演を聴く方がためになるでしょう。牧師は何よりも個人の霊的な問題に重きを置いて聖書を解説すればよいのです。それを自分がドイツに留学したからとか、たまたまそのドイツで歴史的出来事が起きたからといって、他教会からの説教依頼を講演会にする必要はないのです。そんな話を聞きに来る信徒や求道者ばかりではなく、むしろ日常の社会生活では聞けない、違った宗教的価値観にもとづいて霊魂にうったえかけてくる「福音」を聴きたいと思って来る人の方が多いだろうし、本来、そのように思って説教の準備をすべきなのです。聖書にかこつけた政治的講演なんかをやってもらっては困るわけです。プチブルのインテリなど精神的に余裕ある人たちと、自分たちのようにプロレタリアートというか(差別的意味ではなく実態として…)ルンプロに近く日々の暮らしに追われてメンタルバランスを維持することが焦眉の課題になっているような者たちとは、同じ宗教についての観方も違ってくるのは当然です。個人と社会、信仰と倫理…といった二項対立に問題意識が生じて、人はその境遇によっていずれかに偏るのです。比較的余裕ある人はその分、他人に関わりたいという欲求が高まります。それが上から目線の慈善という名の偽善につながることもあるわけです。

メンタルヘルスにおいて自己を苦しめるものは、対人関係であればストレッサーとなる相手(の言動)だったりするが、直接的原因はそのストレスに反応する自我である。この自我というものがなければ現実社会を主体的に生きることは出来ないが、怨憎会苦や愛別離苦など、苦悩はこの自我から生じる。だから要はこの自我の強度を弱めることが自分自身をラクにできる最も有効な方法なのである!

しかし自我は扱いにくく、強すぎても弱すぎてもだめである。強すぎることが今、問題になっているメンタル苦の最大要因であり、弱すぎると加害者から自分を防衛できない。同じ身体である自分(自我)が自分(自己)を苦しめているのだから、この自我を程々の度合いで制御することが肝要である。正確には、自我を「殺す」のではなく「生かさず殺さず」の状態に制御するってことです!その具体的な方法が現在の私の最大の関心事である。とりあえずはメンタル疾患者に対する治療法(精神療法、心理療法)…特に、認知行動療法を参考にして、宗教的には聖霊のはたらきによる言わば、聖霊感知行動療法とでもいうことになるのだろう…と見当はついている。後者の前提となる自覚は、自分にとって理不尽なことや絶望的にいやなこともまた創造主(=霊の父)による処遇であるなら仕方がないという諦め(=あきらかにみる)である。そこに身心脱落的・空観的境地が開かれます。その心境を省察すると、神は「創造的空」ということになります。

ところで、心が「傷つけられる」という比喩は他人から、肉体の場合のように外部から…の暴力被害としていわれるが、私の実感ではそうではなく、自分(自我)が自分(自己)を傷つけるのである。この「自我」と「自己」の区別は便宜的によくなされることだが、私見では前者はまずもって自尊心であり、それが度過ぎると後者を苦しめることになる。いわゆる自尊心だとか自己愛だとかプライドだとか承認欲求とか…要するに自分を守り保とうとする意識が、逆に自分を失うことにつながりかねないという現実は人間の矛盾した実態を示している。その矛盾存在である人間が救われるためには、やはり矛盾したあり方を必要とする。すなわち自己が自我を制御するという逆作用におけるポジティブな意味での自滅であり自棄である。

「かくて群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて我に從へ。 己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我が爲また福音の爲に己が生命をうしなふ者は、之を救はん。人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、人その生命の代に何を與へんや。不義なる罪深き今の代にて、我または我が言を恥づる者をば、人の子もまた、父の榮光をもて、聖なる御使たちと共に來らん時に恥づべし』」(マルコ8:34~38)

「『自己』の問題は、古代西洋哲学における主要な論題としては立てられなかったかもしれない。しかしすでにヘレニズム世界において無視することの許されぬものであった。学者の言うところによると、【聖書】のうちの原初的な資料によると、初めのうちは『自分を捨てる』ということが説かれているだけであったが、やがて『十字架を背負う』ということが課せられるようになった。

『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て(aparnesastho heauton)自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。』

学者が指摘するように、『十字架を背負うて』という表現は、キリストの死後に、信徒がキリストの口にもち込んだことばであり、生きているときのキリストが口にしたものではない。この段階になると、『自分を捨てる』だけでは不充分で、別の条件が余分に付加されている。そこで一部の人々と他の一般の人々とが遮断されている。『自分を捨てる』ことなら、誰に対してでも勧めて然るべきことである。しかし『十字架を背負う』ということになると、反発を感ずる人が当然出て来るであろう。しかるにそれを強行しようとすると、一種の集団的エゴイズムが発生したのであった。しかし、恐らく最初に説かれたであろうところの < 自分を捨てる >ということは、まさに仏教の無我説に対応するものである。ただしインドではアートマン(「自分自身」を意味する再帰代名詞的に用いられる)の哲学が発展したのに、ヘレニズム世界では『自分自身』(seauton……)を取り出した哲学が発展しなかったというところに、やはり相違点を見出さざるを得ない。」(中村元著『自己の探求』青土社 p19~20)※ 引用聖句(注に「『マルコによる福音書』八・三四」と記されている)中、「自分を捨て」と「自分の十字架を負うて」の文字に傍点あり。また、aparnesasthoのeとoの上に長音記号(マクロン)あり。荒井献著『イエス・キリスト』(講談社学術文庫)の上巻(「三福音書による」が付く)によれば、「三四-三五節から推定すれば、ペテロには『自分を捨て、自分の十字架を負うて』イエスに従い行くのではなく、むしろ『自分の命を救うために』イエスに従ったことを、イエスが見抜いていた可能性がある。(中略)マルコにとってイエスの弟子は、あくまでマルコの現在における弟子と重なっている。従って、現在の『弟子』もまた、『ガリラヤ』の民衆の只中で振舞うイエスに出会い、彼と共に『自分の十字架を負うて』イエスに『従う』ことなしには、イエスを『キリスト』または『神の子』と告白しても、イエスによる批判の対象となり続けるのである。」とのことで、荒井氏のいつもながら倫理的辛口で宗教実存的色調の薄いコメントになっている。一方、北森嘉蔵氏は中村元氏との対談で、この聖句の並行箇所に当たるマタイ16:24を挙げ、「『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』。これは比較的よく知られた言葉ですけれども、ここに『自分を捨てる』という命令がイエスによって与えられているわけです。これは自我を捨てるというわけで、いちばん無我に近い表現だろうと思いますね。このごろ流行語みたいになっている『自己否定』という言葉のみなもとも、だいたいこのへんにあるだろうと思われます。キリスト教的にいうと、自己否定という表現はなじみの深いものですけれども、それは日本の伝統に即していうと『無我』に似ているというふうに思いますね。」

これに対して中村元氏が次のように述べておられます。

「(前略)無我の観念はキリスト教にもあるという議論です。ただ今度それに対してコメントを申し上げますと、たしかあの場合に新約聖書の原語では、『自分を』というところが、ギリシア語で seauton となっていたと思いますね。そうすると『彼を』ですね。ところがインドの場合は自己といえば必ずアートマンなのです。『彼を』というのは、英語でいえば『ヒム』といういい方ですね。インド人はそういういい方をしないのですね。すぐ『アートマン』と一般的にいっているわけです。だから西洋人の場合、どこまでも個別的なものを考えて、『自分を』といってます。インド人は一般的なものを考えるという、この違いがあると思います。」

そこから少し飛んで再び北森氏の発言・・・

「さっきの新約聖書の話にもういっぺん返りますと、キリスト教の性格というのが非常にはっきりでてくると思います。イエスの言葉では、『自分を捨て』という言葉の次に、『自分の十字架を負って』という言葉がすぐつづくのです。さっきわたしは、仏教の無我とキリスト教の自己否定が非常に似ているということをいったのですけれども、違いもあると思います。それは『本来空』という考え方が、もし仏教の特色、性格だといたしますと、キリスト教は『本来空』というよりも、『本来実在』的ということを、神についても人間についてもいいますから、したがって実在的自我というものが位置を与えられているわけです。そこで『本来実在性を持っている』自我という場合には、かりに座標を書いてみますと、コンパスの足がプラスの方に踏み込んでいることになるわけです。ところが、そのコンパスの足をまわしますと、ゼロのところではなくて、マイナスのところへ行きますね。プラスに踏みこんでいるコンパスをまわせば、ゼロには行かないで、マイナスに行くわけです。『本来空』の悟りが、ゼロをゼロと認識することだといってよろしいということであれば、キリスト教の場合には実在としての自我というのがありますから、それを捨てるときにはマイナスに踏みこむわけです。そのマイナスの性格が、さっきの『十字架を負う』というすがたをとるわけです。十字架は苦痛ということになります。(中略)苦を伴うという性格をもった自己否定ですね。自己否定が一種の性格を持っていることになります。自己否定にはいろいろなタイプがあると思うのです。無我も自己否定ですし、このごろの学生運動の自己否定もあるし、いろいろありますね。じつは最も強烈な自己主張が、自己否定の名のもとに行なわれているという奇妙な現象も現在はあるわけですから、いろいろな質の自己否定があるわけです。キリスト教的な自己否定の特色は何かというと、やはり十字架の性格だといえましょうね。」

この場合の北森氏の「本来空」に対する「本来実在」という考え方は、ギリシャ形而上学存在論)の影響を受けた伝統的キリスト教に対する批判的省察を欠くという点で、日本の神学関係の思想界ではその代表的立場ともいえる八木氏の神学ないしは宗教哲学における「創造的空」のの思想の方が説得力に優ると言えます。

ちなみに前掲書での中村元氏と北森嘉蔵氏との対談は次のようなことにも及んでいます。

スコットランドフォーサイスという神学者が、『魂から底の落ちる経験』という表現をしています。これはなかなかいい言葉だと思います。さきほど桶のお話がでましたが、たとえば風呂桶。風呂桶でも底がしっかりしているときには、ちょっと風呂桶にたまっているお湯が濁ったりしても、それを入れかえればいい。ところが底がどっと落ちていくという経験をしますね。底が落ちていくときには、どうにも、底の内側にあるものでは間に合わないのです。底が落ちていくときに、底から支えるものがあるとするなら、それはもう底を超えているものだという意味での超越者ですね。それがキリスト教的な意味での超越的他者の問題、仏教的にいうと他力の『他』の問題ですね。他力の『他』というのは、他者の『他』ですから、超越の問題がどうしてもでてくる。徹底的に自己を認識するという場合の『底』が、超越者と出会うところだというような一種の考え方の革命が必要ではないかと思います。

中村 いまおしゃいましたことは、仏教の言葉で申しますと、心身脱落というのです。心とこの体とが抜け落ちてしまうわけです。すっかりもう脱落して、何もかも滞ることのない境地に達する。

北森 あるいは『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』というわけですね。

中村 通俗的にはそうですね。」

この、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」に近い心境が今の自分です。その「身」とはまずもって自我のことです。身体ではありません。自我を捨ててこそ自己の新生面が開けてくるということ、希望が見えてくるということです。逆に自我をそのままにしておいたら、メンタルがどんどんやられて自己は疲弊してゆきます。フラッシュバックによるダメージは続いてゆくし、新しい対人関係においても他人の言動に対してこのまま歪んだスキーマで反応してマイナスの自動思考を繰り返していたら、抑うつ的状態が激化してゆくのは当然です。それをなんとか防ぐためには、自我を制御する力を身につけなければなりません。その力は聖霊によってもたらされるものです。復活のキリストの力を内包する内なる聖霊のはたらきです。

「御靈みづから我らの靈とともに我らが神の子たることを證す。」(ローマ8:16)

聖霊は人の霊に働きかけるのでしょう。聖霊と「我らの霊」との言わば協働の神の子証言ということです。しかし私は絶対聖霊他力派なので、神人協働説は否定します。

聖書(詩篇51)には「砕かれた、悔いた心」だけではなく「砕かれた霊」と訳される言葉もあって、ダビデ王は神によって「魂・心」(ネフェシュ)における「自我」だけではなく霊までも砕かれたというわけです。

以下は、武藤健牧師の説教より(『日本の説教12 武藤健』日キ教団出版局 p205~207)引用します。

イエス・キリストの人間観には、やはりこの否定の面があったことを聖書は教えているのであります。その否定の面が聖書全体に表われているのを、われわれは知るのでありますが、それが言葉の上ではっきりとでているのは、マタイによる福音書十六章の、ペテロが信仰告白をしたあとで、イエス・キリストが自分の生涯の生き方に十字架があるということをお教えになったところであります。それに続いて、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』といわれた。自分を捨ててこい。自己を放棄してこい。イエス・キリストはまた、『われよりもその父母を大事にするものは、われにかなわないものである。』と、ずいぶんひどい断言的ないい方で、否定の論理を人々につきつけておられます。(中略)自分を捨ててこい。これは否定の倫理、否定の実践であります。しかしながら、イエス・キリストにおいては、その否定がこの世を離れ、山にはいり、いっさいの社会的環境から離れて行ないすますところの、無欲恬淡の中の生活をさしているのでありましょうか。ルカによる福音書の、あの墓場で気が狂っていた者をお癒しなさった時、彼に向かって、『家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。』といって帰された一節がありますが、イエス・キリストにとっては、否定が、われに従ってこいという、真の肯定をさすものである。われに従ってこいというのは、つぎの段階において、もう一つのものを実現していく、新たなるものを作りあげていくということでありました。捨てるとは、物をどぶの中にすてるということではない。すてるということには、よい芽を出すという、積極的な論理がある。否定するとは、否定して暗黒にかえるということではない。否定して肯定が生まれてくることを意味する。何がそこに生まれてくるのか。何がそこに実現されてゆくのか。そこに、福音がある。(中略)イエス・キリストの福音には、否定した後にあらわれてくるものがある。われを信ぜよ、神を信ぜよとの、イエス・キリストの信仰の確信であります。『わたしの言葉を信ずるならば、あなたがたはわたしの中にある』。わたしは、あなたがたの中にあるのだ。『ある』、『おる』ということ、キリストわれにあり、われキリストにあるという新しい存在の形は、否定しっぱなしの無我の教えとはちがう。山の中にはいって、じっと座っているのとはちがう。それは活発な活動的なキリストがわが中にあり、われキリストにあるという、新たなる生活態度の中にあらわれてくるものであります。使徒パウロが、『もはや、わたしが生きているのではない』といった。これが自己否定であります。ガラテヤ人への手紙でいっている、『わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。』新たなる生命がそこに芽生えている。一度きってしまった枝のあとに、新しい生命が芽生え、動いている。そこにわたしたちに独特なキリスト我、キリストという自我、キリストという性格を与えられた自分が、新たに生まれて動きだしてくる。」

ところで、宗教に関して、学者はとかく個人主義的傾向をまるで劣等コンプレックスのように嫌って、社会主義的であるべきだ、本来は共同体主義的であるのだ…といった趣旨のことを言いたがります。「こころの時代」の「無宗教からの扉(6)慈悲の実践」(2022年)における阿満氏の解説にもそのような傾向が感じられました。高木顕明師の思想は宗教社会主義というか念仏社会主義といったものであったにせよ、それが真宗ないしは宗教の唯一の見方とか生き方というわけではないはずです。同じ浄土真宗においても、結果的には本願寺派西本願寺)のスローガンでもある「御同朋の社会をめざす運動」の推進ということにはなるにせよ、そこに至る過程が、道が、ベクトルが、はじめっから社会主義的に入るのか、それとも個人主義的に入ってそこから社会主義的に展開してゆくのか、すなわち自己の問題に徹底することを通して他者との共通課題への答え探しに通用し得る…といったアプローチもあろうかと思います。結果となる目的地は一つなれど、そこに至る道は一つでない、とうことはあり得ると思うのです。親鸞の生き方はまさに個の問題に取り組むことを通して種・類の問題に答えを見い出してゆく…という方向性だったと解します。ところが阿満利麿氏の解説はそうではなく、まるで高木師のような生き方こそ真宗徒ないしは宗教者の理想であるかのような言い方でした。悪しき所謂ゼロ百思考、個人主義社会主義かの二者択一の白黒思考です。これでは宗教的実存の自覚として浅いと言わざるを得ません。高木師の置かれていたような時代・社会状況ではそのような狭い考え方に陥ったとしても無理からぬことだとは思いますが、現代日本宗教学者がそれではダメです。慈悲の社会的意味は当然といえば当然で言わずもがなでさえあるわけですが、問題は答えに行き着く方向性です。「明治以降、日本社会、宗教、?日本の社会状況というのはたいへん厳しくてですね、天皇崇拝というものを維持するためにですね、宗教というのは個人のことなんだと、しかも私事なんだと、こういうふうに宗教というものを閉じ込めてきている」などと言っておられます。これではいかにも宗教は本来は社会主義的なものであるのに、日本では天皇制の維持のために都合のいいように宗教を個人主義的なものとして国民・皇民に喧伝したのだと言わんばかりです。これは非常に浅薄な宗教理解であり、歪曲された宗教解説ではないかと思います。そうではなく、宗教は本来、社会か個人かといった分別を超えた次元から始まるものであって、そこで個から種・類へという方向性が生じてくるのだと思います。お釈迦さんが個人として瞑想して悟りを開いたことが社会に救いをもたらしたのです。イエスとて自身の個人的な対神関係から弟子との共同的対神関係となり、それを通して社会的意義を持つようになっています。出発点はあくまでも個であり己事究明であって、いきなり共同体とか社会から始まっているのではありません。八木誠一氏の「創造的空」の思想も、法則的には統合作用であって共同体形成ですが、それは結果であり、始まりはあくまでも個としての自覚であり、単なる自我から自己・自我への他力的変革なのです。それが私の言う「聖霊のはたらき」です。

ちなみに、基督教神学と仏教学を修めておられる大和昌平氏は、親鸞聖人の「親鸞一人がためなりけり」に関する、佐古純一郎氏と滝沢克己氏の考えについて、次のように述べておられます。『歎異抄』と福音 第十二回 親鸞一人がためなりけり | 月刊いのちのことば (wlpm.or.jp)

要するに、大和氏が言われる「パウロ一人」の宗教的実存における福音が、阿満利麿氏の如きリベラル宗教者が批判するような利己的個人主義にとどまらないのは、その私利私欲が先行してしまう自身の原罪意識が、その救済願望と表裏一体になっているからであり、否定媒介の過程を経ているからであろうと思われます。そこに救済宗教の実存主義的本質があるのであって、宮澤賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(~農民芸術概論綱要)といった思いは、自分のような煩悩具足の凡夫の中の凡夫のような人間には出てこないわけです。それどころかキレイゴトにさえ感じます。いわゆる「シャーデンフロイデ」や「スパイト行動」などの心理に象徴されるように、原罪を持つ人間の現実においては、まずは自分(たち)の幸福がある程度感じられていてこそ、その余裕によって他人の幸福を願い得るのではないでしょうか?いきなり世界人類の幸福を祈るところからは始まらないのではないかと思うわけです。その点で中野信子氏がどちらかと言うと性悪説の方をとるという御意見には共感します。「性善説性悪説ってありますよね。私はどっちかと言うと性悪説に立っているんですね。なぜなら性善説の立場にあると、いい人から損するから。うん。悪い人が一番得するんですよ、性善説のシステムってね。ずるした方が得しちゃう」心を癒す!イヤな記憶ツライ過去の克服法!中野信子 (youtube.com) (0:50/9:16 ~)

まさに理不尽なこと、不条理感を生むことが性善説によって生じてしまうというわけですが、これは例えば、国会での野党議員の過激なまでの発言について自分が感じていることです。現実に本当に生活に窮して、困っていて、公助を必要としている人なのか疑問に思うような人たちの代弁者として結果的に補助金ばらまきになることを訴えているからです。シングルマザーが皆、貧乏であるわけではなく、学生が皆、奨学金を必要としているわけでもないのに、十把一絡げにして特定の人たちを公助の対象とすべきマイノリティーとして印象づけてきました。これは、高齢者といえば高額年金を受給して悠々自適に老後の暮らしを送って、結果的に若年層にお金を廻さない社会的原因をつくってる人たちといった偏ったイメージを持って、腹を切るなりしてはよ死ね…みたいなことを主張する一部の若者たちと同様です。表現は別として主旨としては、たしかにそのように言われてもしかたないような高齢者もいるのかも知れませんが、私のように子どもはいないにせよ貧乏な高齢者も少なくないと思うし、福祉行政は公平を旨とする以上、性善説に立ったら税金の無駄遣いにつながります。不正受給が多発した新型コロナ対策での雇用調整助成金などがそうでした。さりとて特に生活保護受給では命にかかわるということで、反動的にか性善説に傾く場合もあるでしょう。

性善説というのは、確かに美しいのですが、善き人がその美しさの陰で犠牲になってしまう構造であることを忘れるべきではありません。そもそも、性善説等でいうところの「善悪」も、実はその基準は極めて恣意的であり、その時の社会的背景等の状況を鋭敏に反映して、コロコロと変わってしまいやすいのです。」中野信子「この残酷な現実に、果たして性善説だけで対峙していけるか」人間の闇、脳の“暗部”に着目する理由 | めざましmedia (mezamashi.media)

アダムとエバが口にしたものが善悪を知る木の実であったことはこの点で感慨深いです。そもそも性善説性悪説キリスト教の西洋ではなく儒教の中国が発祥とのこと。「人間の本性は善であると説く『性善説』は、中国の古代の思想家である孟子が唱えたものです。もともと人は道徳的に生まれたのであり、人が悪を犯すのは、自分の本来の姿を忘れているからだと説きます。現実には、こんなふうに考えられたらいいなと思う人も多いのではないでしょうか。とはいえ、この孟子の思想は儒教に大きな影響を与えたので、かなりの説得力を持つものといえるでしょう。一方、人の本性は悪だとする『性悪説』を唱えたのは、孟子とおなじく古代中国の思想家である荀子とされています。ただ、だから手の打ちようがないと説いているわけではありません。人は環境や欲望によって悪に走りがちだから、努力して善を目指すべきと考えたのです。」人は根っからの善人?悪人? 赤ちゃんが教えてくれた人の本性とは! | 一般社団法人 日本産業カウンセラー協会ブログ 「働く人の心ラボ」 (counselor.or.jp)

神の聖定において、善悪を知る木から取った実をアダムとエバが食べることになったのは、本人たちが原罪を自覚し、それゆえに神に従わないことの悪を知るためだったと思います。エバを誘惑した蛇は悪霊の象徴でしょう。自分が創造主なる神との関係において罪人であり悪人であることを知ったことによって楽園的現実は喪失し、苦悩を通らずしては楽することができない戦場的現実を生きることとなり、だからこそ自力の限界の壁にぶち当たって絶望的になるたびに、他力に依拠する信心が生きる希望として示されてきます。自分は「救いとは活力なり」と確信しています。活力とは文字通り活きる力であり、それは単に生きる力…生きながらえる力という意味にとどまらず、あらゆる困難を乗り越えて絶望的状況ひいては死をも超えるほどの大いなる他力、絶対他力を意味します。それはパウロの場合、次の言葉として表されています。

「実際、もしも私が誇ることを欲したとしても、私は愚か者にはならないであろう。なぜならば、私は真実を語るであろうからである。しかし、私は〔誇ることを〕断念する。それは、人が私を見たり、あるいは[何か]私から聞いたりすること以上に、私を買いかぶることのないためである。それも〔私の受けた〕もろもろの啓示の卓越ゆえに〔、である〕。そのために、私が高慢にならないようにと、私の肉体には棘が与えられた。それは、私が高慢にならないようにと、私を〔拳で〕打つための、サタンの使いである。この彼について私は、彼が私から離れ去るようにと、三度主に懇願した。すると主は、私に言われたのである。『私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである』。そこで私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。それは、キリストの力が私の上に宿るためである。それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ。なぜならば、私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだからである。」(コリント人への第二の手紙12:6~10  岩波版 青野太潮訳 ※注に、7節の「棘」は「パウロの持病を指す、と思われる。民三三55、ガラ四14-15 参照。」とある。)

いわゆる個別的限界状況すなわち人生の「行き詰まり」の絶望的心境…絶体絶命の境涯において、復活するほどに超越的な人間の活力である「キリストの力」を我がうちに宿らせ給うのは絶対神の霊…聖霊である。「神は霊なり」、父と子と聖霊はその全体が霊としての神であり、そのはたらきこそ、聖霊他力にほかなりません。神学的思弁の理屈では聖霊は三位一体神の位格の一つですが、体験的には聖霊が三位一体神の全体を包んではたらいているのです。私が現実に神の愛・恵みを感じるのは聖霊によるのであり、神への畏れも聖霊によって感じさせられるのです。「神」は観念ですが、その観念としての「神」のはたらきを実感させるのは現実の聖霊のはたらきなのです。これは経験できない観念ではなく、日々の現実生活において実体験されるのです。この聖霊他力を受けて、どん底まで堕ちても立ち上がって生き抜いてゆけることが福音本来の示す目的である「救い」なのです。

以下、八木氏と秋月氏の『徹底討論  親鸞パウロ』より引用。

(秋月氏)「私が分からないのは、阿弥陀仏をなぜ『報身』と言わなければならなかったかということです。わざわざ非歴史的な法蔵という名の比丘を持ち出して、その菩薩が、四十八の願をかけて、五劫の思惟という修行の末に大願成就して、その報いとして得た身が阿弥陀仏だ、と言うでしょう。なぜそんな神話が必要だったのか。まあ、いちおうは前に言ったように、『覚』と『法』の宗教のなかから『人格』信仰が起こってきた、というふうに考えているのですけれどね。」(p147~148)

(秋月氏)「『法蔵菩薩の神話』と『イエス・キリストの贖罪神話』との間には、『信の宗教』としてのあまりにも相似た照応があることは否定できません。この『信の宗教』としての共通点にもかかわらず、両者の間には決定的な相違点があるというのです。これもその頃聞いた話なのですが、イエス・キリストの贖罪は厳然たる歴史的な事実なのに、阿弥陀仏の本願は法蔵菩薩の神話にすぎないという説です。それは、イエス・キリスト受肉を歴史上ただ一回きりの神の啓示であるとする正統派神学から当然に出て来る立言なのですが、私は先に思わず『法蔵菩薩の神話』と並べて、『イエス・キリストの贖罪神話』と言いましたが、贖罪の事実も、異教徒にとっては、一種の神話にすぎないと思います。だからと言って、これを事実ではないとしてむげに否定しようというのではなく、いわゆる非神話化する、すなわち、神話の形で伝えられたものにひそむ実存理解を取り出すことが大事なのだと思います。このことは、キリストの贖罪についても、弥陀の本願についても、まったく同じことだと思います。」(八木氏)「歴史的事実という点からすれば、イエスが十字架につけられて刑死したのは歴史的事実ですが、贖罪という意味づけは、歴史的客観的事実の次元の事柄ではありません。だから歴史的事実性とそれが人間の救いに対して持つ意義・意味とは、区別して考えたほうがいいと思います。贖罪は神話といえば神話ですが、解釈といってもいいでしょう。」(p30~31)

浄土真宗の「法蔵菩薩の神話」にせよ、キリスト教の「キリスト神話」にせよ(…「贖罪」は神話と言うより、やはりイエスの十字架の「解釈」と言う方が適切だろう)、神話は単なる作り話ではなく、それなりの意味があることはわかります。しかし現代の科学的世界においては、神話を史実として語り伝えることは無茶であり悪です。やはり非神話化することが真っ当な態度だと思います。それは私の聖霊感知とは矛盾しません。

キリスト教をはじめとする宗教には神話はつきものであり、それが教会での礼拝説教などで批判的に解釈されないために、教義受容を困難とする原因にもなっています。神学的には救済史と世俗史との二元論があり、さらに現代においては、ユダヤ的直線的歴史観の相対化によって歴史の定義が多様化していますが、そういうことは許されません。歴史観は国際的に一致しなければなりません。実際、基本的には共通しているからこそ国際政治も成り立ち得るのではないでせうか?しかし歴史観が共有されていない部分もあって、そこに政治的混迷も生じるのでせう。

それはともかく、話は少し変わりますが、「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(『宗教哲学入門』p197)と主張し、「新天新地の到来」といった世界的終末論的救済という至上目的を掲げて、その実現のためならキリスト教の神話の如きを歴史的事実として受容するかの如く述べておられる宗教哲学者・量義治氏のロジックは、高尾利数氏の言われる「知性の犠牲」を強いる「無理」ということ以前に、「人間性の犠牲」として批判されて然りではないでしょうか?それって私的には聖霊による「再生の理性の犠牲」にほかなりません。救済を第一に優先して観念的信仰内容を排してゆくあり方は参考になったし、自分も救済を第一として、キリスト神話については批判的態度に変わりはないにしても、できるだけ神話に含まれている普遍的主旨を汲み取り、必要以上の否定は慎むように軌道修正しました。それにしてもやはり盲信に陥るようなことになってはいけないということは、カルト宗教の社会問題から示されています。無論、当方、福音派信者のように純朴な信仰心は持っていないので、「ただ信ぜよ」と言われても、神話を史実とみなす教会のドグマについては決してそうはいかないわけです。( `ー´)ノ しかしそれゆえにまた、自分の信仰的立場は自虐・自滅(…自我の十字架磔殺)的な形態になってくるわけです。

「イエスが死人の中から甦ったというようなことは、時空内の史実的現実としては、生起しえようはずもない。われわれの認識は有限であるとか、われわれが理解できない事象も生起しうるからという一般論を盾に、イエスの復活の時空内的現実性を最初から排除した世界観を持つことは、近代の合理主義的独断である、などということは――たとえその場合、『新しい歴史的理性』とか『死と罪責と虚無を突き破る<新しいもの>の希望の秘義的しるし』とか『神の<充満 プレーローマ >を指示する奥義』とか『史実ではない真実』とか、さまざまな神学的思弁が伴われようと――とどのつまり、護教論的意図に発した一種の循環論法であり、深いところで『不誠実』を宿し、『知性の犠牲』を強いる『無理』ではなかろうか。絶対化された観念としての『イエスの復活』に依拠した伝統的・正統的キリスト教は、そもそもそうした『無理』の上にうち立てられた巨大な観念の神殿なのであった。」(『聖書を読み直すⅡ』p38~39)

以下、菅原伸郎氏のレポート「八木宗教哲学 禅と浄土をめぐって」の「討議 Ⅲ」より引用。 八木宗教哲学

「わたしが創造的空というふうに言う、その場合の創造的空というのは、これは創造ですから、働きなんです。ただ、創造的空といった場合に、そこから出てくるものとして、僕は統合作用というものを置くんです。それで、創造的空の中で統合作用が働いて、全部が統合体になるわけじゃもちろんないんだけれども、順調に、条件に恵まれているものが統合体へと変わっていって、現在の我々人間の世界に至るまでの連鎖があると。そうすると、創造的空と、それから統合、それからそれによって成り立つ個々の人という、三つのものが出てくるんですが。わたしはこれが、仏教の所謂三身論ですね。ダルマ・カーヤーとサンポーガ・カーヤーとニルマーナ・カーヤーですか、それと対応するのが、よく三位一体だと言われるんですけど違うんです。三位一体というのは、神の、いわば内部構造のことだから。そうじゃなくて、三身論が対応するのはむしろキリスト論なので。ロゴスとキリストとイエスと、その三つに対応する。だから、ロゴスといった場合、それはまた神自身とは区別されるんですが、仏教のほうではその区別はなくて、事柄上両方含んでいるように思われます。そうすると、そこで、いずれにしても、サンポーガ・カーヤーということがあって、それは方便仏というふうにも言われるわけです。方便仏というと、ちょうど、創造的空がダルマ・カーヤーに対応するとすれば、方便仏とは統合作用(つまりキリスト)に当たるわけなので。そうすると、これが方便に当たるのかな。考えてみますと、やっぱりそういうところがあると僕には思われるんです。」云々。

自分が「創造的空」にすべてをかけてキリスト教を脱出すること、クリスチャンをやめてフリーの宗教者にならない理由は、特殊に徹して普遍にふれるという否定媒介の弁証法的生き方を旨とするからです。キリスト教という特殊性を捨てたら自分のは救いの普遍性は得られません。普遍性なき救済などは人生をかけるに値しない幻想です。救済宗教の第一は言うまでもなく救済です。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(『宗教哲学入門』p236)

それにしても量氏の思想は比較的わかりやすくとても参考にはなるが(…特に気に入った言葉がコレ ⇒「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」⦅『宗教哲学入門』p108~109⦆…この量氏の神観は、「遠き神」として人格性および擬人性が稀薄であることを前提とするなら、私にとっても諸偶像の相対化による精神的均衡保持のための基軸として有効であり必要。 逆に、受け入れられないというのがコレ⇒「信仰というのは意識の事柄(認識論的事態)ではなく存在の事柄(存在論的事態)である」⦅…『無信仰の信仰』〔ネスコ/文藝春秋〕p53、『関根正雄記念 キリスト教講演集 Ⅰ, Ⅱ 』(関根正雄記念キリスト教講演会準備会)p62⦆…対神関係と、その関係において神から与えられた人の応答行為である信仰とを混同しておられる。人の意識なくして、神から人への関わりは成り立つが、人の神に対する信仰は成り立たない)、キリスト教については三位一体論も「絶対有にして絶対無」(前掲書p231~232参照)という修正くらいであとは穏健というか正統的であり、また、宗教哲学であるわりには(繰り返しの引用になりますが…)、「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(前掲書、p197)といった「個」と「類」とが対立した非弁証法的救済観を示しているので、全体的には「個即類」的救済観の八木誠一氏の「創造的空」の思想の方がなんぼかよかろう…。(;´∀`) 

現代社会は精神が病んでいる人が多く、救いといえばいきなり世界・人類などといった大風呂敷を広げて言うのは偽善的に聞こえます。えてして対人関係で苦労と言えるほどの苦労を知らないインテリのエリート層の人々は何かにつけ共同性を美化します。怨憎会苦の経験が不足なのでしょう、世の中の現実がわかっていません。他者との関係(倫理)なしに宗教的救済なんてあり得ないと言うのです。キリスト教神学者も聖書が示す救いは個人的ではなく団体的であるというわけです。たしかに終末論的には「新天新地・神の王国・神の支配」の到来といったことになるのでせう。しかしその実現は「個」の救いなしにはあり得ないとも言えます。宗教の教えを説く前に、その教えを受けることができる社会的環境づくりが必要だということで宗教者の社会実践…しかも世代を越えて継承されてゆく宗教的社会変革などということも言われますが、自分はそのような大きなことは考えません。コヘレト教で十分です。不条理に満ちた現実の中で正気を維持して生きてゆくことに精一杯の個人がいるのですから、自分自身の救いに集中してゆけばよいと思います。そこはコヘレトの知恵に学んで、ささやかな楽しみに神の賜物を感じ取り、人生を肯定的に過ごしてゆけばよいと思います。社会変革などというのは精神的にも物質的にも余裕あるインテリ&ブルジョワの方々におまかせすればよいと思います。自分たちは個の救いに徹することを通して世界・人類の救いへと広がってゆくことを信じるだけです。個人主義的救済論を否定するなら、現代のストレス社会における救いはありません。精神的な重荷を負うて苦しむ個々人がニヒリズムに陥ることなく自殺を思いとどまることができる教えがあるのなら、宮澤賢治が言ったとされる「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのは質屋の長男坊として育ったファンタジー好きの彼にして言えた美辞麗句であって、インテリが好む普遍的救済や世界平和・人類の幸福といった言葉は日本国憲法の前文の如く理想的で聞こえは良いけれど、苦悩を抱える生身の個々人の現実的な救いにはなじまないのではないかなと自分は思います。だからどうせ格言めいたことを言うなら、「個々人が幸福になれないうちは世界全体の幸福はあり得ない」と言う方がまだマシだと思います。個々の救いや幸福の内容は人それぞれ。人生色々です。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』後序より)

ある意味、切実に心身の救いを求める宗教心とは究極のエゴイズムです。他人のことを慮る余裕など無いのが個別的限界状況というものです。

「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著前掲書p93)

無論、自己は実体ではなく関係存在として存在しているわけで、対人関係が不要だ、対神関係だけでよい…などといった神秘主義的な戯言を言うつもりはありません。対人関係なしに個人の人生が成り立たないことも現実です。問題は、個人か社会かの2択ではなく、個から社会へ…なのか、社会の中で個が…なのか、です。

「たしかに私のこの身体は存在していますが、この身体を私の身体であると言うときのというものはそれ自体としては存在していません。私が私であるというのは、他との関係で私なんですから、そういう関係から切り離したら、私というものはなくなってしまうわけです。(中略)属性の集合が自我なわけです。」(岸田秀著前掲書p14 ※下線部の文字には傍店がふられている。)

「自己の個体性といった場合(中略)むしろ、名もなき庶民、平凡な暮らしを営む万人がみな、それぞれ、かけがえのない、ひとごとならぬ、それぞれの尊い人生とその一回限りの人格的生涯を生き抜いているのである。(中略)ヤスパースは、このように自己自身へと態度を採り、それを通じて超越者へと態度を採ることを、人間の実存と呼んだ。自己の自己性は、そうした実存に存すると言ってよい。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p95~99)
「『限界状況』を見つめることによって初めて、私たちは、『私たち自身へと生成』してゆくことができるのであって、『限界状況を経験することと、実存するということとは、同じことなのである』。そこでこそ初めて人間は、『存在を確認することができる』のである。」(同著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p149)

 

以下、引用文中の太字は私記。

新約学者のブルトマンはイエスの復活は神話であり、それは神話の形式で、イエスの十字架上での死という史実の意味を表現しているのだ、と言った。イエスが十字架上で刑死したのは、人々を後期ユダヤ教の非人間化から救い出そうとし、そのことが多くの虐げられた人々を周囲に集める結果になり、一種の社会勢力になって、それが当時のユダヤ教指導者たちにとって危険思想になり、遂に政治犯として刑死したのだという。そのことに対する弟子たちの感動が、復活神話になったのだと。現今、合理主義者であるか否かは別として、イエスの復活を文字通り信じている人は少ないだろう。しかしブルトマンに代表されるようなこの人々の復活理解は少し違うのではないか。ロマンティシズムの見解によれば、たとえば無言館の青年たちの絵が、それとしての欠如と中断をもちながら、ある種の完成に直結しているように、イエスという一人の人間の刑死、すなわち欠如と中断の中に、人々がある種の永遠性を見たということ、それが復活ということの現実ではなかろうかと思う。人間イエスの実際の行動の中に、普通の人間の欠如や中断があることは明らかだ。それがなければイエスは単に架空の神の子になる。しかしそれにもかかわらず、イエスは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ、二の七)のである。その普通の人間の中に臨在している神の子性を、イエスの復活という神話で聖書は表現したのではないかと思われる。昔、シュライエルマッハーというドイツの神学者 (1768-1834) は、イエスは単に人間の模範(Vorbild)ではなくて原型(Urbild)であると言った。シュライエルマッハーはロマンティシズムの代表的神学者だが、模範、つまり人間としてのイエスの中に、原型としての、つまり永遠の人間性を見たこと、そのことが、復活節の真意ではあるまいかと思われる。>(~小田垣雅也氏のみずき教会説教「無言館」)※無言館とは、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館。小田垣氏はこの説教の前半でそこに見学に行った感想を述べ、遺作について「未完成即完成」と言っています。

<イエスの復活を文字通り信じている人は、現代では少ないだろう。ルードルフ・ブルトマンという現代の神学者新約聖書の非神話化論を唱えたことで有名だが、エスの復活は神話であると言う。新約聖書にはイエスの復活をはじめ、その他にもいろいろな神話がある。神話の中にある不思議な話は、当時の世界観にもとづいたことであり、その当時には不思議な話とは思われなかった。当時の宇宙観によれば、宇宙は天・地・陰府の三階層からなっており、天から天使が、陰府の国からは悪魔がこの地上に出てきて、不思議な業を行っても、それは不思議なこととは思われなかった。だから古代とは別の現代的世界観をもっているわたしたちが、神話を文字通り信じる必要はなく、むしろそれは有害で、問題はそれぞれの神話がその不思議な話で表現しているその「意味」を、わが身のこととして、受け取ることが大事であると言う。それが神話の「実存的」解釈である。そしてその手続きが非神話化論である。イエスの復活に関して言えば、イエスの人々に対する、とくに虐げられている人々に対する根源的な同情のゆえに、多くの人々がその身辺に集まる結果になった。それが新しい宗教勢力になって、当時のユダヤ教の特権階級に自分たちの保身の危険を感じさせ、自分たちの特権を守るためにイエスを捉え、十字架に架けて死刑にした。それが史実だとブルトマンはいう。そしてその史実の「意味」が復活だというのである。十字架刑にいたるほどに神に忠実であったイエスに感動した弟子たちが、当時の世界観では珍しくなかった復活をイエスに適用し、イエスが復活したと唱えはじめ、それが原始教団のはじまりになった、という。イエスの復活を信じた弟子たちがあつまっていると、使徒言行録二章一~四節にあるような聖霊臨降の出来事があり、それによって、それまで神の国を宣教していたイエスが、宣教される者となって、それによってキリスト教会が始まった、とされるのである。そこには次のように書いてある。「五旬節の日が来て一同が一つになって集まっていると、突然、烈しい風が吹いてくるような音が天から聞え、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」これも神話的表現だが、これがいわゆる原始教団の復活節信仰の始まりである。ブルトマンに代わって言えば、この復活節信仰の発生までは史実であった神の国を宣教していたイエスの刑死が、この聖霊臨降によって、その「意味」が分かり、宣教される者となって、キリスト教会が成立した、というのである。このブルトマンの復活の非神話化論は説得的だが、根本的な難点があるとわたしには思える。それはこの聖霊臨降、つまり復活節信仰の発生が、弟子たちの上に一斉に起こった史実として理解されている点である。実際、わたしが学生のころも、「この時点で教会が始まった」と講義された記憶がある。しかしイエスの復活はもちろんだが、それを信じた弟子たちへの聖霊臨降とは、そのような、時間や場所が特定されるような、対象的史実だろうか。>(~みずき教会説教「イエスの復活」)

私もブルトマンのように復活が史実ではなく弟子たちが宗教体験を通して語った神話であると考えますが、さりとて復活が史実である十字架の意味を表わしているといった抽象的解釈には違和感を抱きます。さりとて、小田垣氏のロマンチックな解釈も抽象的でいただけません。復活はブルトマンが指摘するとおり、あくまでも史実ではなく神話ですが、その意味は十字架刑死という最低の出来事を、父なる神の力によって贖罪という最高の出来事へと変えるための媒体なのでしょう。復活がなければイエスはただの極悪政治犯でした。復活顕現という共同主観が成立してこそ、イエスの十字架刑死が積極的意義を得たのです。たとえ実証的歴史の次元とは別の救済史の次元に於いてであっても、要は、イエスの十字架と復活に対する積極的・肯定的解釈を可能とする以上、福音主義信仰に反するものではありません。むしろ復活を史実として説教することは、実証的歴史と救済史との区別がつかないことを露呈しています。ちなみに北森嘉蔵氏は、「私は『空なる墓』の史実性を認めます。しかしそれは『認識』の対象として認めるのではなく、信仰の対象として認めるのであります」云々と述べています(『神学入門』新教新書 p87 ※「信仰」の2文字に傍点あり)。

そもそも私の聖書的神信仰においてはキリスト中心ではありません。あくまでも神中心です。いや、「神は霊である」から聖霊のはたらきによって父・子・聖霊の三位一体を包むというイメージです。武藤健牧師は、「三位一体は教理ではなくて、経験なのであります。ありのままを、信ずるという形で、いい表わしたのが、信仰告白であります。理論を先に考えて後から組み立てたものではなくて、ありのままの経験、ありのままの信仰を、そのまま表現したものです。」と述べておられますが(前掲書の「説教」における「十字架の真理」)、それなら自分の場合、むしろ三位一体は従属的なかたちで言い表わされてくるはずだと思います。「ありのままの経験、ありのままの信仰」ということであれば自分の場合、父・子・聖霊の三位格が同一かつ同等だなんてことはありえません。聖霊が「父(エホバ)-子(キリスト)」関係を包含するのであり、省察された場合には「父-子」関係は従属関係であって同等関係などということはありません。そこに私の信仰上の葛藤があります。そもそも自分にとってイエス(相対・有限存在)は人間でしかなく、けっして神(絶対存在)ではないのですから…。しかし救いのためになんとかイエス・キリスト・「真に神」告白を聖霊によってなそうと思っても、こればかりは無理です。無理を無理にやろうとしても無理はどこまでいっても無理です。自分はキリスト論の問題をルターの「福音の再発見」ならぬ「キリストの再発見」をガラテヤ書1:4「主は我らの父なる神の御意に隨ひて、我らを今の惡しき世より救ひ出さんとて、己が身を我らの罪のために與へたまへり。願はくは榮光、世々限りなく神にあらん事を、アァメン。」という聖句によってなし得て、イエス・キリストが単なる人としての相対的存在にとどまらず超越的存在であることを、「悪しき世より救い出す」という世界・人類の救霊の必要という意味において、そのための復活、昇天、再臨ということで認め得たのですが、それにしたって御子の御父への従属性は否定し得ません。自分個人の救霊のレベルが創造論であり神論であるなら、そこから世界・人類の救霊のレベルがキリスト論であり、これらを包んで体験させるのが聖霊のはたらきなので、その三一論的な信仰が自分の生きる道である。イエス・キリストの超越性は世界・人類の救いという必要から認め得ても、そのイエス・キリストが父なる神と同一で同等であるということは認め得ません。理屈ではなく体験だといっても、その体験を省察した場合には、けっしてそういうことにはならないのです。あくまでイエス・キリストは神ではなく、神に対して従属な立場の媒介者・仲介者です。それはそうですが、とにかく聖霊がはたらいてくれるうちが救いなのであって、キリスト教の教義の根幹ともいえるキリストが「真に神」であることを信仰告白することはできないにしても、それでも聖霊のはたらきに感謝しつつクリスチャンとして歩むしかない。それは救済の社会的現実の面では納骨という問題があるからです。キリスト教会に関わり続けないと、自分などは無縁仏の合葬に陥ってしまいかねない。無縁仏なんぞになることは避けたい。

キルケゴールのように逆説的意味付けによって神人二性一人格キリスト論の矛盾を突破することは、自分にはできません。それこそ奇跡でも起こらない限りは…。それでも救われるための最低限度の信仰体験は聖霊のはたらきによって与えられていると思うし、その恩寵の灯が自分の心から消えないかぎり、自分はキリスト者であり続け得るし、救われて生きることができます。というのは、自分にとっての救いとは聖霊のはたらきを体験することによって生きる力(…「神」エロヒーム < 「エル」=力」)が得られること。

キリスト教ユダヤ教イスラム教とは違って、イエス・キリストという存在が「神」と「人」との「仲保者・仲介者」として介在する意義はわかります。だって人間(相対)は「(原)罪」があって汚れているので、聖なる神(絶対)と直結できませんから、「神(絶対)」と「人(相対)」との間に、「真に神(絶対)、真に人(相対)」というイエス・キリストという特別な存在が立っている必要性があるわけです。人から見れば、神へ向かうための「道」としてキリストが存在するわけです。しかし、キリスト教はそのイエス・キリストを「三位一体」の神の第二位格とするのです。これは「道」を「目的地」と混同することを意味します。それは「神中心」ではなく「キリスト中心」とすることを意味します。

私は、信仰はあくまで「救済第一」ですが、省察における論としては、救済論第一ではなく創造論第一です。おかしな神学者創造論から入ると差別になるかのようなことを言いますが、ユダヤ教を母体とするキリスト教は共通の土台から始めて然りでせう。従って私にとって創造主はイエス・キリストではなく、あくまでもイエス・キリストの父です。キリスト論の意義は私の場合、テモテ第一2:5「事実、神は唯一人〔ただひとり〕、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波版 保坂高殿訳)の「仲介者」としての「人間」であって、カルケドン信条における「真に人」は文字通り受けとめますが、「真に神」は賛美の表現として修辞的にしか受けとれません。文字通りに取るということは、自分の場合「神=絶対」なので、一個人を絶対化する愚を犯すことになります。プロセス哲学ではイエスを「創発的(emergent)進化の被造者」だと言うそうですが(野呂芳男著『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p226)、「被造者」といわれている点が重要です。アリウスにせよ、現代では「エホバの証人」にせよ、イエスは被造物だということだから、プロセス哲学もその観方に沿っているということでせうか。異端とのそしりを気にしないのであれば、自分も当然のことながらイエス・キリストは被造者であると言うことになります。従って仲介者であり、目的地ではなくそこへの道であるイエス・キリストは信仰の対象ではない…すくなくとも究極的対象ではない…ということになります。私は三位一体の「一体」(同一実体・同一本質)は形而上学的意味では断じて認めません。それこそ理性も知性も犠牲にすることであり、正統的キリスト教ドグマを盲信することを意味します。イエス・キリストの贖罪ということが重要になるのは神信仰が人格神観が前提となる場合です。すなわち「神」の前に罪を犯しながら生きていることは信者として葛藤を抱きます。例えば、近親相姦の罪を犯しながら(…自慰行為における妄想の内であっても…)神信仰を生きることは恥ずかしく苦痛です。「神」は聖なる存在であり、その聖なる存在の前で生きるには自分に汚れがあってはならないからです。それは自分の中にはたらく聖霊に反する状態だからです。その矛盾を解消するには、そのような罪を贖ってくれる存在が必要になります。それがキリストです。彼の、過去・現在・未来に及ぶ贖罪の福音を信じることなしには、人格神との関係を生きることはできないのです。逆に言えば、人格神観を放棄して非人格神観に交替することができれば、罪ある状態での対神関係も恥はなくなります。しかしそれは伝統的なキリスト教の環境で育った者にとっては極めて困難です。聖霊によって三位一体信仰を理屈ぬきで受容できるという体験を得られないのは自分がキリスト教的救済に選ばれていないからかも知れませんが、はっきり言ってそんなことは堂々巡りの自問自答になっちゃうのでこの際、それこそどうでもよいことです。

ところで量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。

<……エスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうかエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

この「不可分性が必然性」ということなどはいかにも宗教哲学ならではの詭弁っぽいが、イエスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち人は個別的限界状況に置かれたなら、知的欲求よりも救済願望の方が優ると解することはできます。たしかに背に腹はかえられんということで、苦しい時の神頼み、ワラにもすがる思い、イワシの頭も信心から…とかなんとか云われますが、とにかく量氏のこのような考え方は、座右の銘に出る類の四字熟語で言えば「捨小就大」と同じことです。救済という大目的を実現するためなら、イエスの復活神話を史実とみなすような、あるいは学者の中にも聖書的根拠を否定する「三位一体」などというキリスト教教義を受け入れるという、積極的意味での(高尾利数氏が『聖書を読み直すⅡ』⦅春秋社⦆p39においてイエスの復活について言っておられる)「知性の犠牲」のロジックです。北森嘉蔵氏は、ブルトマンがキリスト論を救済論に吸収させている旨のことを述べておられますが(『神学入門』新教新書 p67)、量氏の場合はキリスト論だけではなく三位一体論も何もかも救済論に吸収させてしまっているかのようです。これは「神の側までをも人間主体の側に吸収する傾向」(同上)とまでは言えないにせよ、結局、聖書が示す神は人間の救済願望を実現することが信仰対象として条件づけられているかの如き観があります。上記の引用文にある「苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。」という量氏の言葉には同感ですが、その「なんらかの意義」というものが私の場合は創造主の意志による苦しみであるということで済むのであり、せいぜい、ヘブル人12:5以下に書かれている霊父としての試練だの鍛錬だのいった意味付けでよく、それ以上のことは余計なのです。なぜなら自分にとっての救いとは創造主との関係の内に生かされているということであって、新天新地の到来うんぬんの神話はどうでもよいからです。「此日は我らの主の聖日なり汝ら憂ふることをせざれヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかしと」(ネヘミヤ8:10)

聖霊によって再生した理性や知性なら三位一体信仰を受容できる…といった考えもドグマとなり自分にとっては体験が無いからなのかどうかは知りませんが、仮にそんな、キリスト教会にとって都合のよいやうな体験を自分がしたとしてもすぐ醒めるだろうし、聖霊による再生した理性によって省察すればむしろ三位一体信仰なんてドグマ洗脳で無理な道理ってことになるだろう…とさえ思います(高尾氏は『キリスト教を知る事典』⦅東京堂出版⦆で、三位一体については「迷信」であると言っておられます)。その聖霊のはたらきがホンモノである限りは…。いかに宗教的真理は合理主義的思考を超える神秘的な面があるからとはいえ「不合理ゆえに我信ず」などというのがキリスト教信仰だとか云われても、こういった問題を「小」とみなせ得るかどうかは人によりけりでせうが、私はとても「小」とはみなさせません。いかに「救済第一」だからとは言え、「知性の犠牲」は「理性の犠牲」…人間性の抑圧へとつながる危険があるので、積極的意味なんて認め得ません。カルト団体のマインド・コントロールほどではないにしても自分にとってはムリムリです。復活と蘇生は違うとか言うけど、確実に死んだ人間が活動するってことに違いはないから、そんなことがイエスという歴史上の人物に起きたなんて認められるわけがありません。自分のような落ちこぼれの愚者でさえ科学の時代に自己限定されているのです。受肉だの復活だのを史実とみなさなければ受け得ないような救いなら自分にとっては全人的救済とはならないと思います。二千年余り前の旧パレスティナガリラヤ地方のナザレ村のイエスというユダヤ人男性が「真に神(絶対・無限)、真に人(相対・有限)」の両性一人格という特異な人間であったなどと信じ得るくらい本当の意味で愚かであるのなら、そんな自分には苦悩などありません。自分がイエス・キリストという存在を神信仰において必要であると認め得るとすれば、それはあくまで信仰の対象である「神」が三位一体などではなく(…というのは元々一人物であり「真に人」であるイエスが第二位格として第一位格の御父と第二位格の聖霊と相互内在・浸透⦅ペリコレーシス⦆しており同一実体・本質であるということは(各位格ごとの固有性はあるとは言え「一体」なのだから)、この「神」は人格化ないしは擬人化されるのは当然のことなので、すくなくとも第二位格の御子を信仰対象とはできないので(しかし聖書はイエス・キリストを信ずることを救いの要件としているのでそこは理知的には詰めず聖霊による体験においてぼやかしての受容となる…)、第一と第三だけの二位一体ならまだしも…といったことになり、その「神」は、イエスがアッバと呼んだエホバとその霊であって、その人格神との関係において自分の淫らな罪を不問にふして頂く…無いことにして頂くための贖罪者としてです。然るにその贖罪者には自分の妄想内淫行が晒されるということになるのだろうから、いずれにしても人格神とか人格的超越者への信仰は現実に合わないことになります。あくまで「はたらき」への信です。他人に知られて恥ずかしいようなことを妄想などしなければよかろう…と言ったって煩悩衆生なのだから自力ではどうにもなりません。結局、イエス・キリストへの信は、「絶対」者という意味の「神」ではなく、十字架刑死の「絶体絶命」の贖罪者であり復活者、再臨者としての超越者への信なのです!

それはともかく、前に引用しているところの量義治氏の言葉ですが、これまた大いなる疑問を招きます。新天新地の到来という悲願のためなら、冒頭言われているイエスに関する諸々の疑問もどうでもよいこととして解消され得るとでもいうのだろうか?そもそも何故、「新天新地の到来」というようなユダヤキリスト教的救済概念に執着するのだろうか?無論、それが大乗仏教の救済概念であっても同様の疑問が生じるのであるが、救済論的には特定の宗教を絶対化しているのではなかろうか?それって量氏が(宗教)哲学者でありながら同時に無教会キリスト教の指導者であったという実存的事実に由来することなのでせうか?量氏も小田垣氏のように、特殊(個別)に徹して一般(普遍)に通ずる…みたいな弁証法的ロジックを説いておられるのでせうか…?

量氏自身は以下のようなことは言っておられないが内容から私なりに敷衍するなら、誰もが確定死刑囚の坂口弘氏のように死の現実と向き合う個別的限界状況に置かれた場合、イエスとの共在による救済の体験においては、聖書神話やキリスト教教義に対する諸々の疑問などは「どうでもよい」と思えて(…『続あさま山荘1972』⦅彩流社⦆の「魂の救済」参照)解消すると言い切れるのだろうか…?それは坂口氏その他のような非凡なる才能等を持っておられる人々の場合には言えても、我々の如き一般大衆の凡人たちには妥当しないのではなかろうか?仮に誰にでも妥当するとしても、それが盲信の類といかにして分別できるのだろうか?あるいは、そんな分別は最早無用とでも言うのだろうか?私がキリスト教の教義・信条の大半を受け容れ難い理由は、教義・信条というものは聖書の神話を史実として伝えているからです。だから相対の絶対化に陥るのです。従って教義・信条をそのまま受け入れ、自分の信仰告白とすることは自己洗脳と言っても過ぎないでせう。現代の教会は昔から受け継いできている教義・信条の定式などは変えなくてもよいから(…例えば「三位一体」とか…)、その意味については史実と区別して、神話を実存論的か共同体論的かといったことはともかく解釈しなければダメです。いくら苦しいから、救われたいからといっても、自分は教義・信条を史実としては認めません!キリスト教義の無批判な受容は、悪魔に魂を売り渡すようなことです。イエスの実体論的意味の神性などはマジで信じることはありません。たとえ異端とされる仮現論であろうとも人になった神などというものは神話であってそのまま歴史的出来事としては信じ得ません。自分にとって聖書が示す神はあらゆる点で人と隔絶しているのです。神が人になる必要はなく、絶対と相対とは交わりません。八木誠一氏も、「人格存在の根柢の認識といっても、それはいわゆる神秘主義的な神人同一の静的・没我的直観とは質を全然ことにしている。第一に、神と人との関係は、前述のように、〝 即 〟ということでもなく、〝 統合 〟ということでもない。絶対の質的差別の上に成り立つ上下の相互内在なのである。とすれば神と人とは本質的に同一なのではない。ゆえに第二に、神と人との関係は、人格存在がその根柢を認識すると言っても、それは静的・没我的ではない。それは、統合の実現への自覚的参与として、主体的・行動的なのである。」と述べておられます(『キリスト教は信じうるか』講談社現代新書p192~193)。

神話はあくまでも神話として冷静に受けとめ得る理性がたいせつです。神話を事実の如く信じ込むことは拒否します。それにしたって何故、聖書なのか?キリストなのか…?という基本的な問題についてはクリアーされていないと、自分にとって聖書の宗教ないしはキリスト教との関係は何も始まりません。直観によるしかないのでせうか?盲信は排除しますが、疑問点をすべて合理化して解消することも間違いだと思います。「知性の犠牲」とまで言うほどの知性を自分は持っていないでしょうけど、自分も理性は犠牲にはできません。理性的判断としては、自己限定と言うしかないです。実存的事実として、自分はキリストと共に十字架につけられて聖書の枠内で生きるようになっているというわけです。イエスに関してはケノーシスということくらいしか自分は関心ないし、キリスト教ではなく聖書の宗教(…ユダヤ教という意味ではなく…)を信じるということなら、私は旧約聖書のコヘレト書だけでよいのです。あとの文書は参考までであり、コヘレトのような神信仰と人生観で生きて行ければそれでよいとさえ思います。そこには盲信的要素はほぼありません。しかしイエスにこだわり、キリスト教にこだわり続けるのは、墓地の問題があることもありますが、反抗的にではあれ子どもの頃から環境としてあった宗教なので、縁を切り難いのです。赤岩栄氏のようなカッコ悪い脱出なんかもマネしたくありませんし…。これもまた、盲信の類、洗脳のようなものが自分の中にあるってことでせうか?いずれにせよ、救いの必要に迫られたら、客観的な理由など無用です。あと20年もすれば、自分は孤独のうちに死んで火葬場で業火に焼き尽くされるのかと思うとゾッとします。そんな恐怖から救われたくて独自の神信仰を持ち続けているとしても、それは他人に説明して納得してもらう必要などありません。ただ自分自身で納得できればそれでいいのです。もはや知的レベルでは自分にとってイエス・キリストは救い主ではありません。「知性の犠牲」とまでは言う必要はないかもしれない、そもそも犠牲にするほどの知性が自分にあるとも思えないから。でも、理性は犠牲にできないのです。いかに来世救済を願う場合もです。但し、キリスト教徒として終わるなら、人になった神なんてものは納得できませんが、最低でも死後の救いを求めるならキリストの再臨とか新天新地の到来は受け入れなければなりません。受肉という神話はさすがに史実として認めることはできません。神話の実存論的解釈としても受肉なんて神が人になったという、ただただ異教的なバカげた話で何の意味も無いとしか思えません。しかしその他は、神の全能において認め得なければならないのでせう。その点で救いには個別的葛藤の面があるのです。救済論的先行ということで、「事(存在)が言(観念)に先行し、言を基礎づける」(八木誠一氏前掲書p74)ということなのかどうかはわかりません。だって「事」にキリスト教義…すなわち聖書神話の史実視ということが入るわけがないからです。救済論的に先行すべき「事」は、歴史と区別された神話の実存的意味でなければなりません。いずれにせよキリスト教信仰についての八木氏の重要な指摘は、「歴史的事件を救済の根拠にするということ自体、相対の不当な絶対化なのである」(八木誠一氏前掲書p68)ということです。

救済は個人の事柄を越えて共同体ないしは世界・人類の普遍的な事柄であるというのが量氏など知識人によくみられる救済観ですが、それは個々人の苦悩に対する省察や共感が甘いのです。特に現代社会では、心の闇…メンタルな問題によっていかに個々の深刻な苦悩が社会的な問題に発展しているか…。個の救いに徹してこそ類としての救いが見えてくるのであって、いきなり新天新地到来という普遍的救済が第一とされて、そのためなら個人としての疑問などは抑圧して然り…といった考えは現実的でもありません。

聖書における救済史の順序としては新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。従って、この箇所を私なりに敷衍すれば、イエスの神性は切実なる終末救済の要請において認められるということです。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。自分も職場での人間関係における出来事をきっかけとしてメンタルヘルスへの関心と共に、大仰に言えば「社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験」したのです。但しそれは人類が被害者としてというより加害者としてであり、原罪を有つゆえの悪魔性と、それによって生じる闘争関係の地獄的現実の苦しみです。そこから救われるためには、真に人にして真に神であるような超越かつ内在的な救い主を必要とするのです。その救い主であるキリストの再臨が待望されるのです。再臨によって神の支配が普遍的に実現されるからです。これが神の救済の究極です。このように自分が個として体験した人類の原罪性と虚無、そしてそこから救われることへの渇望に伴うイエス・キリストの神性の承認と再臨待望における終末の神の国信仰が、要するに自我が反発してきたオーソドックスな福音主義信仰の特殊性に徹することを通して、宗教の一般的真理を超えて宗教的実存の普遍性に及ぶ…という、これもまた否定的媒介の弁証法が成り立つのです。

小田垣氏の「回心」や十字架と復活の福音についての理解は極度に主観的かつ観念的であり、御自分の主たる思想が主-客構図脱却の「二重性」云々のワンパターンであることを自覚しておられました。

<わたしは二重性ということを繰り返し言っているが、イエスの復活は二重性的な、ある種の「さりげなさ」のものであるように思われる。たとえば復活とは、論理的には「さりげない」ものではあるまいか。ナザレのイエスが、神の子キリストであったという逆説を信ずることが、あえて言えば信仰である。しかし本来論理にはなりえない逆説が信仰の「対象」であるかぎり、信仰の「主体」である人間は、その「対象」から分離され続けている。だから対象は対象としてありうるのである。そしてイエス・キリストという逆説的矛盾は、人間のロゴスの中に取り込まれて、その逆説的対象を信ずるか、信じないかということが、信仰の分かれ道ということになろう。しかし人間のロゴスの中に取り込まれた以上、その折角の逆説も、逆説としての本来の意味を失っているのである。わたしが少年時代、信仰ということに躓いたように、である。つまり、イエスが十字架の上で死に、復活してキリストになったという逆説が、信仰の「対象」であるかぎり、それは人間のロゴスの中での復活であり(またはその否定であり)、それは人間の分限をこえた、本当の意味での復活ではないということだ。その場合、復活信仰は虚しい神話になる。だから復活は、復活についての人間の対象論理的信仰が無用とされるときにのみ、復活なのである。エックハルトについてはこれまでに何回も言及したことがあるが、エックハルトの言い方によれば、イエスがキリストになったという逆説を信ずるという自分の信仰心の高ぶりを捨てて、その意味で心が貧しくなり(そういう題とテーマの説教がエックハルトにある)、イエス・キリストの復活という逆説を、信仰の「対象」として求めなくなったときに、人間は復活という絶対的逆説の意味を悟るのだと、エックハルトはいう。これは人間のロゴスの終焉である。そして人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。実際、パウロがアレオパゴスで「知られざる神」について話をし、復活について言及したときも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と言ったのであった(使徒言行録一七章三二節)。>(~説教「花吹雪と復活」)

エスの人間を超えた性質…神性についての両性論とか単性論とか合性論といった教理的な事柄は、客観的な説明であり形而上学的思弁にすぎません。自分の場合はこれらを、歴史的現実を踏まえての救済願望に基づく象徴として受けとめます。

それにしても、まずは本人自身の「救済の出来事」が先行していなければなりません。人類の悪魔性の体験は、救済されねばならないと実感した出来事ですが、まずはこれがなければ、自分が歴史上に実在したナザレのイエスではなく宣教されたキリスト……福音書に書かれた「神の子キリスト」にこだわらなければならない実存的理由を得ないのです。赤岩栄氏のようにキリスト教を「脱出」したっていいはずですがそうならないのは、人類の悪魔性の実感とその元凶である「(原)罪」の認識という否定的な経験を媒介してこそ自分は、キリスト教徒であり続ける積極的な意味を得られるとすれば得られるのでせう。実際、神がそのように定めておられるならです。いずれにせよ、自己というものを実感するには「我思うゆえに我あり」では不足であって、心身の「我痛むゆえに我あり」と、否定的媒介によってこそ可能であるということがこの世についてはどうやら言えるやうです。

< 「前提」は一言にしていえば問いであった。〔※「問い」の各文字に傍点あり。〕 これに対して「現実」は答えであった。〔※「答え」の各文字に傍点あり。〕 そこで問題は、問いと答えとの関係になる。問いと答えとの間には一般的にいえば、問いより答えへという方向が成り立つ。問いが先に来たり、答えが後に来る。救済の論理においてもこの一般的な方向が一応は成り立つであろう。それなればこそ、「現実」の前に「前提」が語られたのである。しかし救済の論理においてはこの順序はあくまで一応のことにとどまる。〔※「救済」の各文字に傍点あり。〕 本来的にいえば救済の論理においては、救済の現実が先であって、これによって始めて救済の前提がその真相に徹して明らかとせられるのである。〔※「現実」の各文字に傍点あり。〕 すなわち、救済の論理においては、答えが先であって、問いはこの答えの光によって始めてその真相に徹するのである。>(~北森嘉蔵著『救済の論理』p58)

聖書で物語られている神は、人間が邪悪化したことで創造を悔いて洪水を起こしていたり(創世記6~8章)、万軍の主…いくさの神として怒りに燃えて敵を殲滅したり、計画を思い直したり(ヨナ書)、サタンを用いて人間の信仰を試したり(ヨブ記)、また、妬む神(出エジプト記20:5)とも言われているからです。完全無欠ならそのようなことはないでせう。 従って、聖書で物語られている神、そしてその神を、哲学的神観の影響も受けながら解釈して、使徒信条やニカイア信条などで、三位一体など独特の神観を立ててきたキリスト教の神は、真の意味で「絶対神」とは言えません。相対的な面、有限な面・・・欠点もあり、使徒信条などで告白されている「全能」という言葉も、文字通り完全無欠といった意味ではなく、あくまで賛美の表現なのです。すなわち人格神と云われますが擬人化されて描かれているので、人間的な存在なのです。 しかし!です。聖書に物語られ、ユダヤ教キリスト教で教義とされている「神」は、あくまでも「啓示」によって自分を人間に対して表現したのであって、元々の「神」は真に絶対の存在です。それは人間が対象として認識することのできない「霊」であり、宗教哲学では「空」とか「絶対無」とか「絶対無限の開け」などと云われています。 その「霊」なる非対象の「神」は、自己啓示し自己対象化することによって人間の認識し得る存在として対象化され、聖書に描かれ物語られているのであり、さらにそれが解釈されてユダヤキリスト教の神になっているわけです。その非対象の「霊」なる「神」こそ、完全無欠の絶対神です。なぜ「神」は「絶対」である必要があるのか?それは「神」に託される人間の生涯ないしは生命がかけがえのない「絶対」なるものだからだ。したがって以下の北森嘉蔵氏の言葉は受け入れがたい。

「オットーが愛用した言葉に、『絶対他者』という言葉があるわけです。これはいかにしても人間と混合されない、実在的他者ということですね。しかしわたしは、そういう人間とどうしても一緒にならないような神と伝統的な考え方は、キリスト教にとっての必要条件であるけれども、十分条件ではないと思うのです。それがなければキリスト教にならないけれども、それだけでもキリスト教にはならない。キリスト教というのは、絶対に人間と違うはずの神が人間になったということですから、人間になったという点では、隔絶ということは、乗りこえられている。しかし人間が神になったときに、それでは神も人間もなくなって、何か合金みたいなものになったかというと、そうではない。論理化すれば、二によって媒介された一とでもいったらいいかと思うのですが、そういう媒介的な思考がキリスト教の特色じゃないでしょうか。」(『宗教を語る』UP選書 p29)

「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して『神の権威』に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。」(荒井献著『イエスとその時代』〔岩波新書〕p185)

「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

ここで引用した言葉は相対化の対象が自己だけになって、肝心の世俗的価値観という偶像の相対化には関心が向いていません。それはこの論者たちがインテリ&ブルジョワだからでしょう。

小川圭治氏のように伝統的キリスト教の「三一神論」の神と「絶対一神論」の神とを対置させることには反対です。以下の小川氏の文章には(実際、バルトもモルトマンもそういう考えの持ち主なのでしょうが…)憤りさえ感じられてきます。自分には小川氏の言う「新しい神」とは無縁です。逆に小川氏が嫌悪する「絶対一神」こそが…「絶対」だからこそ救い得る者もあるのです。また、野呂芳男氏のように「絶対的なもの」(the Absolute)と「究極的なもの」(the Ultimate)とを区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ない などと言うこと(『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p335他参照)にも反対しなければなりません。

「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)

アドラーは『嫌われる勇気』であらゆる悩みの原因は対人関係にある旨言っているが、要は自分が謙虚になれることであり、私が精神的苦痛に対処すべく必要に迫られて考え出した(とは言えこれもフランクルのロゴセラピーと同程度かどうかはともかく非科学的な哲学的自己治療…自分用のセラピーである「絶対神信仰治療」について、以下要約。

神の絶対主権の下に、自分の悩みの原因となるあらゆるものを相対化するということです。イエスの「ケノーシス」を理想として、自己謙卑(卑下ではなく、ただ相手に従属しゴマ擦りするようなことを意味しない。無用なプライドは捨てて虚勢を張ったりせずに合わせるべきとことは合わせるということ)の信仰実践においては当然、優勝劣敗の「劣・敗」感が少なからず生じようが、いかに劣りいかに敗れても、それで自分が失われることは決してないという信仰がこの治療の基軸である。なぜ自分が失われないのかと言えば、自分が関係を与えられている神が絶対実体だからである。この実体という言葉も確固たる実在感を得るうえでのイメージ喚起として治療には有意義である。自分の原関係相手の神が絶対他者であるからこそ、自分は神以外の者によっては失われない…つまり上記の聖句のとおり、自分の心身を殺し得る者はあっても霊魂を殺し得る者は人間には不在でそれは神のみということ。そう思うと勇気が生じる。

私の「絶対神信仰治療」においては、「(三一)神、超越、絶対、人格、実体、霊、遍在、愛、義」…これらはセットです。そして、トインビーの「絶対的な霊的実体」と、波多野精一氏の「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)といった考え方が重要。

私が、神については「実体」(スブスタンチア)という言葉を是非用いたいのは、「本質」(エッセンチア)の同意語にとどまらず、漢字にすると「実」と「体」という…客体的に確固たるイメージを表わせると思うから。

人を救い得るのは聖書が示す「神」であり、それは原罪を持つ人間を「超越」しており不可知な面があるが啓示によって認識し得るのであり、その中心事項は父・子・霊の「三一」であること。そして「人格」的存在であって、はたらき・作用といった機能論に解消されるような神論・神観でなく、目には見えない…感覚器官ではとらえられないけれど、信仰を与えられている者たちにとっては「霊」として自由自在に、そして「遍在」しておられるがゆえに祈る時、詩篇16:8で「われ常にヱホバをわが前におけり ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし」と言われているように自分の心の内にも臨在され「われ動かさるることなかるべし」と言われているとおり確固として存在するという意味で「実体」であり、その本質が「愛」なるお方だからこそ、このように人間が対神関係において苦悩からの癒しを求めることに応じ給い、また「義」ゆえに世の中の苦悩の原因である原罪および原罪に由来する人間の営みを公正に裁き給う。ちなみに、神の絶対性を言う場合、「遍在」は必然的に出てくるわけですが、これと悪魔や悪霊の存在とがどのように折り合うかが問題です。人間社会の「悪」は人間の原罪に由来するものと説明できますが、そうでない実在としての「悪」は、神が遍在する世界でいかに存立し得るのでしょうか?それは神がそれを許容しておられるとするしか説明はつきません。

ウェストミンスター信仰基準に注目すると、かろうじて「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」という言葉もあり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しませんが、とにかく「絶対的」という言葉で翻訳されていることは重視されねばなりません。

日本キリスト教会の信仰問答における「神の唯一性と、その絶対主権」(8)とか「絶対者なる神の主権」(54)という表現(「十戒」についての問答に出てくる)も良いと思います。日本同盟基督教団信仰告白にも「神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。」(1-3)との文言があり、その「絶対」の聖書的根拠が申命記の「唯一」(エハド)とされているらしく、2023/03/16 15:00頃に電話でこの件について質問した同教団苫小牧キリスト教会の水草牧師も「唯一は絶対と同義」だと言っておられました。しかし申命記の「唯一」(エハド)の歴史的意味は、山我哲雄著『一神教の起源』(筑摩書房)によると、「ヤハウェは唯一」ということで、神々の中でホンモノの神はヤハウェだけといった排他的意味ではなく、alone in all でもなく、「あなたという人はこの世界にひとりだけ」といった意味のようだから、神の主権を「絶対」であると信じ告白する聖書的根拠には適さないと思われます。

「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳氏後掲文)

この高柳氏の考えは、八木誠一氏や小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)

前記のように、高柳氏の場合は次の引用文にみられるとおり、「唯一」が存在論的な意味ではなく関係論的意味だとするのと同様、先行する関心が常に民主的価値観であるから、「絶対」が「他者」と結びつかず、人間が絶対化される愚に陥っている。

「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)

これに対して、小田垣氏において「絶対」が「他者」の結びつかないのはあくまで宗教哲学的理屈によるもの。

信仰告白関係で神を「絶対(的)」と言う場合、それは哲学的な意味で「絶対」だということではない(にもかかわらず神学者の中には後述の小田垣雅也氏や野呂芳男氏などのように、神が「絶対」であるといわれることについて、所謂、哲学的な意味でその「絶対」性を論じる人もいる)。ちなみに並木浩一氏は、神の「絶対」性を否定しておられる。

「この人間の尊厳の感覚と神の尊厳、神が神であること、これははっきりと車の両輪として関係づけられている。これが大事なポイントです。ですから神がすべてで、神は絶対なのだ、という言い方は決して聖書的ではないのです。神の主権の主張と人間の尊厳の主張とが常に車の両輪としてはたらいている。神の立場を主張することが、人間を虫けらのごとく扱うことを許すとすれば、これ以上にひどい間違いはありません。(中略)たしかに、神と人間とは違います。一方は創造者、一方は被創造者です。人間を神格化することはできません。それにも拘わらず、神が神でありたもうことを語るということは、神が神でありたもうがゆえに人間、一人の人間が神によって大事にされていることを語ることになるのです。これが聖書の根本のメッセージです。」(~『旧約聖書の基本的感覚』)

jpnaz.holy.jp/jpnazarene/pdf

私への返信メールにも次のとおり書いて下さいました。

<「絶対」という言葉はヘブライズムには馴染まないと思います。私は旧約聖書には神の「絶対」を指示する言葉を見出すことができません。問題となるのは「神の唯一性」(例えば、イザヤ43:11)ですが、それは「人間の業と思いを完全に超えた」という意味であると説明できますね。人間が神に対して取るべき態度は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)です。神を絶対者と見なすなどということはどこにも記されていません新約聖書でも事情は同じでしょう。「絶対」は抽象的な哲学概念だと私は理解しています。「絶対矛盾の自己同一」なんかその典型ですね。これ以上のことは、私には言えません。>

こりゃダメだ~です。著名な旧約学者も神観が相対的存在としての人格神であるなら(…たしかに人間と向き合う人格神は相対的存在にならざるを得ず、擬人神はなおさらではあるが…)、とても人間の自己絶対化を断ち滅ぼし得る神信仰を聖書から説き明かすことなど出来ない。

私見では、キリスト教が甘ちゃん信仰的に誤解されてきた最大の原因は、ヨハネの手紙における「神は愛なり」ばかりが強調され、ヨハネ福音書における「神は霊なり」の省察が不十分だったからではないかと思います。

京大の哲学科および院を出たうえに西独のハンブルグ大学に留学して神学博士の学位も取得されたという稀有の女性宗教哲学者の花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます(ちなみに私は電話では話したことがあります)。 

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ 

ところで、西谷啓治氏や小田垣雅也氏の説く理詰めの「絶対他者なる人格神」の問題点は、「他者」とは言われながらも実は波多野氏の言う「自我の内に吸収され解消される」観念であるということ。しかもそれを生ける神というか生き神のように言い放っていることだ。それが「生きられ得るのみの無」ということである。これは量氏においては「無的絶対者」ということで処理できるのだろう。すなわち、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(量義治氏前掲書p190)さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(同書p292、293)と指摘されているからだ。これに対して一神教ユダヤ、キリスト、イスラムの諸教における絶対者は有的絶対者であると言い切るならまだしも、キリスト教イスラム教の絶対者はそうではなく、特にキリスト教の絶対者はまたしても三位一体論を持ち出すことにより「絶対有即絶対無なる神」などと嘯いている(同書p191)。これこそ「人生の神学」と懸け離れた哲学者の神学にほかならない。わけのわからない用語は「人生の神学」では非実践的であり無用として排除される。

人間の主体性において能動的に生きられるようなもの、それも(「絶対」と付くにせよ)「無」と表現されるようなものが、どうして「人間の外に存在する絶対的実在」とか「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」などと言えるであろうか!「絶対的実在」とは「有りて有る」と「有」が強調されるべき「神」なのだ。これは理屈ではなく賛美の信仰告白なり!西谷氏や小田垣氏には「神聖性」の理解が不十分、すなわち人間存在の原罪性の感覚と認識がそれこそ欠落しているのである。だから「神」に対して(いかに理屈があろうとも)「無」などという言葉を当てて平気でいられるのであろう。そして量氏には、キリスト論に吸収・解消し得ない神論の特質が軽視されているようだ。だから彼の「無信仰の信仰」論は、もともと放送大学のテキスト(『宗教の哲学』)であったこの『宗教哲学入門』にまで述べられているが、おこがましいと言わざるを得ないし、その問題設定すなわち、「わたしは無神論ニヒリズムの現代における真の宗教の可能性は『いかにして無信仰の信仰は可能であるか』という問題にかかっていると思っている。(中略)われわれはどうして神が無い時代に神と共に在りうるのであろうか。アウシュヴィッツを見よ。広島・長崎を見よ。そこに神はいたか。世界全体がますます混迷を深めつつある今日、神はわれわれと共にいるのか。」(同書p33)といった考え自体が、まさに形而上学的思弁的なのである。宗教者というのは、理屈のレベルでは山ほどの疑問を抱きながらも、生得的に与えられている「縁(えにし)」によって何故なしに、理屈ぬきに、「神」を信仰し得る、信仰せざるを得ぬ、そんな存在者なのであり、それは新約聖書における、罪人がキリストと共に十字架に磔にされて古き自我に死ぬという物語に象徴的に示されることである。信仰を賜った者は「神」の前に磔にされているのであり、古き自我が生きている限り、いかに神義論的な深い疑念を抱こうとも、それでも「神」との関係から出ては生き得ないことを自覚しているのである。量氏の場合はとにかく、屁理屈が多すぎる。そのわりのは学習不足で、同書p60で、ルカ福音書9:20を「神からのメシア」と訳しているが、荒井献氏が「神のキリスト」と訳して「この呼称には、ルカのイエス理解が適確に言い表されている。(中略)ルカのイエスは神に従属する『神の子』なのである。」(『イエス・キリスト 上』〔講談社学術文庫〕p183.下巻p349参照)と指摘しているとおり、ここの属格は「から」を入れずに訳す方がより適切なのだ。

自由主義キリスト教は、聖書およびキリスト教の相対的かつ有限なる(父・子・聖霊の)三位一体の神を礼拝することを通して、その背後に啓示元であり元来の絶対神を信じ仰ぐ宗教です。信条・教義の「神」としては、相対的には「ウェストミンスター信仰基準」に示された絶対的主権者としての「神」観をキリスト教神観の中では第一とはするものの、それもあくまで聖書解釈の産物であるので絶対視するものではないし、特に「三位一体」神論については、御子イエス・キリストを御父と全く同一の意味で「神」と呼ぶことは拒否する。

『無意味に耐える強さ』『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。」( 八木誠一著『創造的空  統合・信・瞑想』ぷねうま舎 p97)

直感か霊感か知れんけど、そういうのでわかる人にはわかる、わからん人にはまったくわからん…といった世界…宗教ってそもそもそんなもんでせうが、自分の最終的境地である創造的空こそそんな感じです。人はなにかにつけ意味の有無を言うけど、それも執着であり迷いなんでせう。そこを突き抜けて無限の開けに出ちゃうといいんですね。ちなみに劣者にとっての救いはそういう世界にこそあると思います。イエスのケノーシスみたく卑下を徹底してゆくと自我執着の底を突き抜けて無限の開けに出ます。それが創造的空の世界です。偽善や作善のはからいも思い煩いもありません。悪人は悪人であるがままに、無能は無能であるがままに…生死を超えて完全自由です。

ところで、五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。

まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。親鸞の「自然法爾」に通じる境地。

「運命と宿命とは別のものであるという主張が述べられている。高橋穣博士は、< 宿命 >とは、われわれの自由意志のはたらく余地がないほど、未来にわたってすべてが決定されていると考えることである、と言う。【運命の支配をもっと深刻なものであると考える人もある。即ち運命の支配は我々の生前より定まり居り、我々の生れる境遇や性格が運命的であるのみならず、生後の一切の出来事も運命によって定められているとする。これは我々の意志の努力そのものを運命によって定められていると考えるからである。そのような運命の支配を私は運命と言わずして宿命と呼ぼうと思う】これに対して、運命は偶然性を許容するものである。【運命とは偶然にして不可知な起生原因の一種である。】(中略)宿命と運命との区別は、西洋でははっきりしていないが、理論的に高橋穣博士が立てたものである。日本人のあいだにおいても、この区別は、はっきり自覚されてはいなかったであろう。」(中村元著『自己の探求』青土社 p276~277)

 以下、五木寛之著『人生の目的』より。

中村さんは、<宿命>とちがって、<運命>には偶然性が働く余地がある、といった意味のことを書かれている。私はそのあたりはまだよくわからない。<宿命>と<運命>のちがいも、はっきりとはつかめていない。あるとき、こう考えてみたことがある。<運命>はすべてのものが背負う共通の大きなものだ。人間として生まれたという運命。(中略)人類の運命とか、一国の運命とか、とにもかくにも私たち個人の枠を超えた共通の大きな流れ、それを運命とみるのはどうだろうか。反対に<宿命>とは、個人のものである。全宇宙にただひとりの自分、『唯我独尊』の『唯我』にかかわってくるのが<宿命>と考えれば、<運命>と<宿命>のちがいが、かなりはっきり見えてくるだろう。『歎異抄』のなかに親鸞の言葉として、<業縁>という表現が出てくる。私はこの言葉が、なぜか重苦しい感じがして嫌だった。私流に考えてみると、この<業縁>という言葉は、<宿業>の<業>と、<因縁>の<縁>との組合わせのように思われる。<宿業>も、<因縁>も、私の苦手な言葉である。見ると本能的に何か暗いものを感じてしまうのだ。しかしいまでは、この親鸞の<業縁>という表現は、じつに深い意味をもったすばらしい言葉だと思うようになってきた。そして自分勝手に、これを<業と縁>と読み、<宿命と運命>と読みかえて理解している。」(p5253)※「中村さん」は中村元氏。ここではその著書『自己の探究』の中の《運命と宿命》という章を踏まえて書かれている。

その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。

日本の、神学者を兼務した牧師には、ドイツ語ができても日本語があまりできない人が珍しくないのです。

< 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。>説教要旨 (church.ne.jp)

 

2000年に放送されたNHKスペシャル「選『雨の神宮外苑 ~学徒出陣・56年目の証言~』」で 出陣当時、東京帝国大学法学部2年生だった志垣民郎氏の言葉が実に印象的でした。学生の間で「運命」(独語「シックザール」 Schicksal)という言葉が流行っていたということでした。当時の若者の多くは、よりによって戦争の時代に青春期を過ごす運命を背負った世代であることを自覚し、そのことについていろんな思いを語り合っていたのでしょう。
ところで、私は「ウェストミンスター信仰基準」を通して「聖定」(Decree / Dekret)という教理を知り、それまで読み聞き知っていた「予定」より以上の大いなる意味を知るに及んで、一般世間的にみれば無きに等しいと言われるであろう自分のような者の人生が、死に臨んで無条件に肯定して笑って死ねるような恩寵に支えられていることに気づかされました。もし「聖定」とか「予定」といった教理に出会っていなければ、過去についていろいろ後悔して思い煩いながら空しき晩年の日々を過ごすことになったでしょう。端的に言えば、「聖定」は世界全体に対する「永遠」の「神」の決断であり、「予定」は人間に対する…すなわち人生の「時間」的な「神」の決断です。だから「聖定」とか「予定」といった「神」のはたらきだけに注目していてもダメで、まずもってその主体である「神」ご自身に注目しなければなりません。

私は戦争中の若者たちのことをドラマや本などを通して見聞きする時、彼らの中にはクリスチャンがいただろうし、その中には「運命」とか「宿命」といった言葉の代わりに「予定」とか「聖定」といった言葉を用いて、自分が直面している現実と向き合った人もいるのではないだろうか?いればよいな~と思うようになりました。信仰にもとづいて自分の運命を神の定めと受けとめることができれば、ただ偶然に流されるような運命による死の虚しさからは救われたのではないだろうか…と思うからです。学徒出陣を見守るスタンド側の、当時、東京女子医専の学生だった中尾聰子氏は、「全然、抗い難い歴史の大きな流れに巻き込まれてるっていう感じ」と言われ、当時、慶應義塾大学3年生の西川千孝氏は「諦念=あきらめ」…「時間と空間の接点に来ちゃった…観念しちゃう…自分を納得させる」と言っておられました。

池田浩平著『運命と摂理—戦没キリスト者学徒の手記—』(新教出版社)を読んだのですが、その中に、「運命の愛」という言葉が出てくる次のような文章があります。「ヤスパースは、『われと事態とが一つになっている。この歴史的限定性の中にあって余はあるがままのわが現存在を肯定する。この沈潜にあって余は運命を単に外的のものとしてではなく『運命の愛』においてわがものとして運命をつかまえることである』と言っている。……私はむしろ運命と摂理との二種の概念を截然と区別しうるということ、否、区別しうると言わざるをえないことを主張するのである。結論を言うと、ここに学問の世界と信仰の世界との相違が錯綜しているのであり、ひろく『運命の愛』を考えるのは学問的であり、その意味で少なからず客観的であるが、事態を摂理という一点に集中せんとするのは信仰的であって、少なからず主観的、いや非合理的主意主義的であると言わねばならない。この事実は、左の波多野先生の文章が明らかに物語っている。  啓示は彼ら――偉大なる宗教家たち――にとっては無限の光栄と歓喜とを宿す運命――とにかく運命であった。 先生が一度運命と言いながら、その含む客観性のゆえに躊躇し、よほど信仰をもって摂理と表明したかったところであろうが、学者としての責任より先生はここにダッシュをひき、『とにかく運命であった』と言わざるをえなかったのではないだろうか。」云々(p146~147 ※「歓喜とを宿す運命」の「運命」と、次の「とにかく運命であった」の「運命」に傍点あり。)

「聖定」は運命や宿命といった一般的観念に対応して、人生論のような誰もが関心をもって考えるテーマに通用し得る教理なので興味深い。「運命」を相対化し得るから…。しかし何よりもまず、「聖定」の主である「神」について観想されなければならない。それなしには聖定信仰もあり得ない。

現在の世界中の出来事が…特に一般大衆が首をかしげるような理不尽な出来事であれ、あらゆることが、その(直接的原因ではないが)由来に創造主の聖定を仰ぐという世界観を構築する。しかし前述のことを繰り返すが、聖定だけ信じたところで意味はない。重要であるのは聖定の主であり、あくまでも創造主という存在への関心が、聖定への関心より優先されて然り。信仰者である以上、救いの主体はあくまで「神」であり「キリスト」であって人ではないので、「神論」や「キリスト論」抜きで「聖定」ないしはその観点から人生を論じることもできません。また、論じることなしに体験だけを得ようとするのは神秘主義であり非社会的・非現実的です。《目的地》は「神」でそこへ至る《道》が「キリスト」であるように、救いの体験が目的であるが、そこへ至るには言葉による思索や議論を通らねばなりません。

北海道家庭学校の第5代校長・谷昌恒先生の「運命愛」に関するエピソードが印象に残りました。人が自分の人生を…特にネガティブにしか思えないような人生を肯定するうえで運命を愛するということに意義があるということですね。 クリスチャンではない人々、ましてや少年少女の皆さんに対しては、いわゆる対機説法的な意味で「運命」という言葉を使わざるを得ないことはわかります。当面は、運命を愛するという気持ちで、とにかく人生を肯定的に受けとめて希望をもって社会に出てゆければよいと思いますが、いつまでもそうではなく、将来的には「運命」を愛するのではなく、願わくは「汝の少き日に汝の造主を記えよ 」(傳道之書12:1)ということで造り主なる神の「摂理」を、もっと言えば創造と摂理を神が定められた「聖定」ということを学び知って、これを愛し受け入れる境地へと成長してほしいと感じました。復讐せず、悪に勝つ道 - YouTube

聖書が示す「神」については、第一に、もはや「神」という訳語は人名にもあるので、便宜的、限定的にしか使用できないということ。自分としてはなるべく「創造主」とか「絶対者」などの言い方を心がけたい。第二に、「神」については擬人化に陥らぬように、人格神信仰とはきちっと区別して継続してゆくこと。

以下、引用文中の黒太字は原文にはなく、ブログ管理者の私によるものです。これはこのブログ全体において毎度のことで、このようにいちいちことわりの表記をしていないページもありますので御留意ください。

以下、太字は自分が記す。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p108~109)

存在論的証明とは、神の『概念』だけから、その『存在』を証明しようとするもののことを指している。たとえば、神とは、それよりもより大いなるものが考えられないような存在者である。ところが、もしも、そうしたものが実在せず、思考のなかだけにあるのだとすれば、そのときには、そうしたものを考えている思考のほうが、より大いなるものになってしまう。しかし、これは矛盾である。、神は、思考や観念よりもより以上のもの、すなわち実在ゆえにするものである、というわけである。(中略)カントは、こうした推論が誤りであることを、あばいてみせたわけである。すなわち、それらは、『概念』から直ちに『存在』を導出しようとする、論理的矛盾を犯した、誤った推論だというわけである。(中略)こうしたカントの考え方を、その暫くあとに出たヘーゲルという大哲学者が、厳しく批判している(中略)たしかに、この世の中の『有限』な諸事物についてならば、その『概念』と『存在』とは別物である。しかし、神というような『無限』な存在者に対して、そうした区別を当てはめて考えるということ自体が、そもそも誤りである。なぜなら、神とはまさに、その『概念』と『存在』とが不可分であるようなもの、つまり、絶対的に『存在』するということが、そのまま直ちに神ということの『概念』にほかならないからである。したがって、神という無限者は、絶対的に存在すると考えねばならない、というわけである。神という無限者の存在は、この世の有限者の存在とは、まったく別個の、それとは比較を絶したものなのであり、そうした存在観念ないし実在観念なしに神のことを考えようとすること自体が、誤りであり、無理解の極致だ、というわけである。実際、西洋では、昔から、神こそは、『在りて在るもの』であり、その『本質』がまさに『存在』そのものであるようなもの、すなわち最高の完全な実在的な存在者であると考えられてきた。ヘーゲルにとっては、そうした別格の無限者の存在を、この世の儚い有限者にのみ当てはまる思考法によって想像し、それの存在を証明不可能なものだと決めつけることは、到底許しがたい、無理解の極みと見えたのである(ただし、それなら、ヘーゲルという人が、まったく伝統的な神中心の哲学と同じ思想を説いた哲学者であったと言えるかどうかは、ここでは問題外とする)。(中略)ヘーゲルは、カントの批判哲学の真意を理解せず、再び、神中心的な伝統的な形而上学の立場に逆戻りして、そのテーゼを繰り返しているだけであるようにも見える。それどころか、両者の見解は、まったくその出発点において真っ向から対立しており、そこには、なんらの調停も不可能であるように見える。実際、一方は、有限者の立場に立ち、ものの『概念』と『存在』との区別を根拠にして、神の存在を証明不可能なものとしているのに対して、他方は、無限者の立場に立って、神とはそもそも『概念』と『存在』との一致しているもの、つまり、不可疑の最高の実在者だと、初めから前提しているからである。けれども、よく考えてみると、この対立から私たちが学べるのは、神に関しては、その『存在』を語る場合には、神に関するどのような『経験』にもとづいて、神のことを考えているかが、きわめて重大だ、ということではないであろうか。実際、ヘーゲルが言ったように、神という無限者に関しては、この世の有限者について妥当する考え方の枠組みでもって思考してはならず、それとは別の思考法によって考えるべきであり、それこそが神の問題の核心をなすという思想は、世界中のあらゆる宗教的体験に本質的に認められる事柄だと言ってよい。したがって、たとえば、神については、それは、この世のどんな言葉でも言い表しえず、この世の事象を絶した、否定的な仕方でしか、神については言い述べることができないと説く、いわゆる『否定神学』の思想が、西洋では、さまざまな形で、いろいろな人々によって説かれてきた。ある意味では、それは、神に関する最も根本的な経験を言い表した思想だと言ってよいのである。したがって、神については、それ固有の神秘的体験にもとづいてのみ、語られるべきだということになる。実際、だからこそ、神については、『いかなる像』をも造ってはならないと、神はモーセに告げたのである(出エジプト記二〇、四)。なぜなら、神は、この世のものでは測られず、比類を絶した、超越的な絶対者だからである。(中略)神は、『御自分を隠される神』(イザヤ書四五、一五)なのである。だからこそ、この絶対の他者である神が、人の世に神の子として顕われたという逆説を信じ、その愛の教えに従って、悔い改めて生きることを決断するところに、神を信ずる実存的生き方の核心があると、キルケゴールは述べたのである。(中略)したがって、神の存在については、それに対応する経験のなかのみでこの問題を考えねばならないということになる。西田幾多郎が言ったように、神の問題は、宗教的要求や宗教的体験との関連において考えられねばならないのである。西田幾多郎は、宗教的経験を『心霊上の事実』と見た。ただし、それは、この問題を、非合理の圏域に押しやることではない。あくまでも、冷静に、宗教的経験の現象学的考察と、それにもとづく決断の問題として、神の問題は考えられねばならないのである。(中略)私たちは、どうしても、善を目指して努力する道徳的人間に、『幸福』を授ける『神』というものの存在を『要請』せざるをえない、とカントは考えたのである。ただし、この『自由』と『霊魂の不死』と『神の存在』という三つのものは、理論的には、証明できない『理念』なのである。けれども、実践的立場に立つとき、そうした理念を人間は『要請』せざるをえず、それらを『理性的に信ずる』ことが不可避であるとカントは考えた。カントは、こうして、『理性信仰』の立場において、『神の存在』を信じねばならないと言ったのである。(中略)カントは、この世の中で道徳的に努力して生きる人間の労苦と艱難という、人生経験の場のなかに立って、神の存在を要請したと言える。神の問題は、理論的科学的な知識の場面においてではなく、人生における生き甲斐や苦悩、挫折や労苦、死や不幸といった、人間の有限性と限界性、この世に生み落とされた、限りある『いのち』の享受とその使命の達成という問題意識のなかでのみ、論ぜられるべき事柄だったのである。このカントの指摘は正しいように思われる。神の問題は、科学的知識の問題ではなく、この世における、死すべき人間の、魂と心の救い、その真正の浄福と至福の問題に関わっていたのである。(中略)私たちは、そうした、故知らぬ存在の場のなかにあって、やがて死ぬべき自己の存在を思うとき、あらゆる出来事の背後にあって、私たちには隠れている永遠的な絶対者に思いを馳せ、その絶対者によって嘉せられ、救われ、安らぎを得、こうして、絶対者の懐に抱かれて、自己の存在の真実の意義に蘇ることを冀⦅こいねが⦆う精神が、目覚めてくることも否定できない。永遠の浄福と至福は、そのときにこそ、私たちに授けられるであろうと期待する心は、私たちの胸の奥深くに燃え盛っている。(中略)このように、私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司る絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。人間のうちに潜むこの葛藤と矛盾、懐疑と欣求、理性知と救済知との格闘が、絶対者の存在への問いの誕生の場であり、また、それへの答え、すなわち、信仰と懐疑の成立の母胎である。人はそれぞれ、英知を傾けて、自分の人生の最後を賭けて、この問いに答え、決断して生きねばならない。(中略)シェリングによれば、神は、最初から、絶対的な神として存在するのではない。むしろ、底知れぬ深淵のなかから、万物は生まれ、そのなかの葛藤にみちた出来事の果てに、しかも善を目指す人間の努力の果てに、やがて、いつの日にか、愛の神が出現し、新しい大地が開けることを、シェリングは期待した。(中略)私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」(渡邊二郎著『現代人のための哲学』p246~258)

ここで問題となることは、3点。

(1)アンセルムスの神の存在証明では「神とは、それよりもより大いなるものが考えられないような存在者である」という命題が前提とされているが、それ自体、不確かだから、その前提の推論も不確か。

(2)「ヘーゲルが言ったように、神という無限者に関しては、この世の有限者について妥当する考え方の枠組みでもって思考してはならず、それとは別の思考法によって考えるべき」ということと、「神については、それは、この世のどんな言葉でも言い表しえず、この世の事象を絶した、否定的な仕方でしか、神については言い述べることができないと説く、いわゆる『否定神学』」云々で「神については、それ固有の神秘的体験にもとづいてのみ、語られるべきだということ」については、一般的な批判として「啓示」の範囲では語り得るし語るべきであって、いたずらに神秘主義に陥ることなく、啓示の範囲を超えるような事柄については思弁をひかえて「聖なる無知を告白」する(ヨハネス・G・ヴォス)といった態度を求められるが、その「啓示」については議論があり、自然(一般)啓示を過小評価するキリスト啓示主義が大勢をしめる観があるが、自分としてはとにかく聖書の解釈において「神」(…人名にもある「神」は使わず、その代わりに「絶対者」を用いたい。本当は御父を「絶対者」と呼び、これに対して御子は「超越者」とでも呼びたい。御子は肉体を有し見える存在なので「絶対」とは言い難いからだ。でも三一論的には、そんな使い分けは実際、無理だろう。「聖霊」は「者」は付けず、そのまま「聖霊」と言えばよい。)を語り得ると見る。それは聖書において御自分を救済史としての歴史に関わる「父」として対象化させ、その自己限定において人間の神論を可能にせしめたと見るから、神学的とは言えあまりに庶民の現実生活から乖離するような特殊な思考法は無用とする。人格神観を徹底したら「(創造的)空」に行き着くだろう。(以下、引用。太字は私記。)

< 八木 (中略)パウロがそういう言い方(神は「すべてのもの」の内にある「すべて」となる)をしているということが大事なので、こういう言い方が成り立ってくるというのは、伝統的なユダヤ教とはずいぶん違うんだと思います(ヘレニズム的ユダヤ教は別です)。

秋月 八木さんは、「神」は形なきもので、それを形に現わしたものが「キリスト」であると言われるんですね。そうすると、「神」は「無相」すなわち「空」ということになりますか。(中略)そうすると、キリスト教の中でも「無相」体験。大乗に言う「空」、いわゆる人格神を突き抜けた「無相」体験があると言ってよい。

八木 その可能性があるということでしょう。つまり、パウロはこの世の終末論的完成として、そういう世界を考えていた。万物の根源で絶対の超越である神がそのまま万物と一であるという矛盾的自己同一の世界です。ただ、その状態は現出してはいない。(中略)パウロ神学はプロチノスとは違って、流出説ではないけれど、当時の宗教哲学でよく用いられたのと共通の前置詞を使っている。だから、その場合には、「人格神が世界を創造した」とそう考えているには違いないけれど、しかし「エック」と「ディア」をわざわざ使い分けている。それで「すべてのものが神から出た」と言い、それから「すべてはキリストを通して成った」と言うのです。

秋月 「ディア」は “ through ” ですね。“ by ” ではなくて。 

八木 ええ。「通して」です。それで、神が「すべてにおけるすべてだ」と言うのです。そうすると、これは少なくともユダヤ教的な人格神とは違ってくる。あまりよい言葉ではありませんが、存在論的な面が出てきている。(中略)現にパウロは働きの面では神と人の一を言う。人の働きは神の働きに基づくけれど、それと一である(『ピリピ人への手紙』第二章十三節)。ただ、パウロはそこをつきつめて展開してはいない。「一切に内在する一切としての神」をつきつめるとどうなるかということは、パウロは展開して語ってはいない。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p168~179

八木誠一氏の言われる「創造的空」に関しては、以下、『創造的空への道  統合・信・瞑想』(ぷねうま舎)より引用。

「実際、等価性は交換また応報の原則であり、正義と公正の基本である。しかし人格関係においては無償の贈与や無条件の赦しがあるものだ。(中略)等価性は交換と応報の基本であるとはいえ、『創造的空』にもとづく『自由』においては、等価性は失効しうるのである。ここにも一般の自我の知性と宗教的な『自己・自我』との違いが現れている。」(p35)「神とは『場のはたらき、その実現・伝達者』と区別される『場そのもの』を指す。それは世界と人間、存在者の一切が、そのなかにある、無限で究極の場だということになる。それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は『空』であり、しかし虚無ではない『創造的空』である。その創造力が場のなかにさまざまなレベルの統合体を形成し、人格に宿っては統合作用(自己)として自覚され現実化される。ただし、それがすべてではない。『神』とは、生と死、存在と非存在、生成と衰滅を超えて包む根源である。」(p94~95)「『無意味に耐える強さ』は『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。(中略)統合心の自覚の進化が、『創造的空』に導くのである。この場合の創造的空は、まずは場としての『こころの空』であって、上記の『神、場そのもの』ではないが、『場そのもの』の類比であり、比喩だといってもよい。(中略)こころが創造的空であることを知る人は、こころの創造的空が、世界を超えた究極の創造的空を映すことを、『仄かに直覚し、見通す』という仕方で『神を知る』。(中略)客観的に見られた『創造的空』と、自覚の底に見られる『創造的空』とは同じではないであろう。それは、客観的に見られれば脳細胞の活動であるものが、主体的に自覚されれば『こころ』であるというような、同一と差異があるということだろう。本書はもちろん、後者の道を行くものである。」(p97~98)「本書はもとより科学書ではない。自覚の深まりの方向に究極者、『神』を探るものである。それはやはり『創造的空』である」(p162)「こころの内容には、さらに奥がある。それは統合心を容れる『場』としての『こころ自体』である。それはこころの内容が『無』となったとき、『創造的空』として露わとなる。(中略)こころに現れる統合作用と、世界内に認められる統合作用とは、同じ超越的な『統合作用の場そのもの』、つまり『創造的空』に根差す、その表現の『場所』だということである。」(p182~183)「『神』を、場所論的観点から究極の場(創造的空)とし、『ロゴス・キリスト』を統合作用とすれば、その作用をそれぞれの『場所』において実現するはたらきのことを新約聖書は『聖霊』と呼んだ。」(p221)「『無意味に耐える強さ』があるが、これは『統合心』を超えるところがあり、『創造的空』に触れたとき、意味・無意味の価値づけが超えられることによって生起する」(p222)『こころ』という『場』そのものは、ただの『容れもの』ではない。それは統合作用を生み出す『創造的空』だということだ。『創造的』空というのは、こころの諸活動は、この『空の場』のなかでなされているからである。(中略)『神』とは両者を含む場そのものということになる。それは、全現実を包みつつ超える場そのもの、つまり『創造的空』である。(中略)『場』としての、こころと世界という二つの創造的空には類比的な関係がある。(中略)『創造的空』としてのこころは、『時間、空間、物質界、生命界、人間界、つまり存在と非存在のすべてを容れ、そのなかで統合体が形成される。究極の場としての創造的空(神)』を暗示している。我々は神そのものを見ること、経験することはできない。ただ『場』としてのこころが創造的空であるとき、一切の存在と非存在とを容れる究極の超越的な場としての創造的空が『神』と呼ばれたことが『見えて』くる。それは究極的な場そのもの(神)である創造的空と、こころという創造的空とが類比的だからだ。物質としてのからだは客観的統合作用のもとにあり、こころには統合心が現れる。両者は同じ場のはたらきが現実化する『場所』である。『神』(創造的空)の実在に客観的な証明はないが、ある種の『直覚』があるとはいえる。それは、創造的空としてのこころの(こころは実体ではなく、身体の一機能である)『創造性』は、究極の創造的空としての神の『創造性』と、存在論的には無限の違いがあるが、作用的には一だという直覚である。それを支えるのが、『身・心』が統合作用のもとにあるという、自覚される事実である。換言すれば、統合作用とカオスとの両者を容れる究極的超越と、統合作用と散乱(死)とに関与する『人間のこころ』との類比からして、『神』が創造的空であることが、いや、実は新約聖書はそれを神と呼んだことが納得されるのである。問題は神の存在証明ではない。むしろ、新約聖書パウロヨハネ、特にイエス)が何を『神』と名づけたか、現代の状況では、まずはそれを理解することが肝要なのである。『統合作用』に客観面と主観面とがあることはすでに述べた。超越的な創造的空のなかに統合作用があり、創造的空としての人間のこころにも統合心が成り立つ。後者が前者を宿すことが見えてくるとき、我々はロゴスまたキリストと呼ばれた『世界と人間とにおける統合作用』が超越的な『神』のはたらきとされたことも了解されるのである。(中略)なお、創造的空が意味・無意味を超えることについては、こころの平和と関係するところが大きい」(p229~230)「『創造的空』(「場としての自分のこころそのもの」と超越的な『神』という、二重の意味でのそれ)へという道が辿られたときに成り立つことである。(中略)二重の意味での『創造的空』は同時に意味と無意味、生と死の葛藤が超えられる場である。自分の存在と生涯に果たして意味があったかどうかということは、青年期に自分の将来がおぼろげに姿を現すときに始まり、中年から老年になって自分の全体が見えてくるにしたがって、誰をも悩ます問題である。(中略)自分の生は『創造的空』(神)のはたらきにもとづいて成り立つ、ということが納得できたときに、自分の生は元来それ以外ではありえないことが解り、自分の生が最深の次元では、価値・無価値を超えていることが解る。そのときに価値・無価値、意味・無意味が超えられるのである。終わりのない苦悩も耐えやすくなる。存在と非存在、生と死についても同様である。存在者も生者も、創造的空の創造性のなかで成り立ち、滅びるものだからだ。」(p234~235)

ここでみておきたいことは、仏教における「空」と「創造的空」との違いです。これについては西谷啓治氏の「空」に関する論文と、花岡永子氏の西田哲学における「絶対無」に関する論文が参考になります。その共通項は「無限の開け」です。

※(ちなみに八木誠一氏によると、龍樹の大乗仏教的縁起論における「空」とは「縁起するものの『非実体性』のことである」とのことで〔~『創造的空への道』p258〕、「『神』と呼ばれる究極の『はたらきの場』が単なる空ではなく、『創造的空』なのである。」〔同上 p259〕と言われている。その「創造性」については、「意味と無意味を超えて人を生かし、耐えさせ、死なせ、生と死の受容にいたらしめる。それは創造とは、古いものを去らせ(死)、新しいものを来らせることだからだ。最深の次元で創造性は、生と死、意味と無意味の対立を超えさせる。他方、そのいわば上の層にある統合の次元、さらにその上層にある自我(言語による区別の次元)では、生の意味と無意味、業績の質と量が量られる。しかし、それは相対的な事柄である。」云々とある〔同上 p234~235〕。そして、ここで「創造的空」と区別されている「単なる空」というのが大乗仏教的縁起論における「空」か。)

まずは前者から引用(~長谷正當氏の論文「『空と即』における西谷の空の思想 ―― 空のイマージュ化と有の透明化をめぐって」)

< 中期において、空が超絶的天空ともいうべきところに捉えられたのは、空がニヒリズムの克服という観点から追究されたからである。ニヒリズムとは宗教以前ではなく、宗教以後に、これまでの一切の宗教の立場を否定するものとして歴史に登場してきたものである。ニヒリズムの虚無は、西谷によれば、二乗化された虚無である。それは、これまでの歴史において人間が直面した虚無を克服しようとして生み出された諸々の思想的営為(その最高の表現が宗教である)を無効にするものとして、宗教のただ中に、宗教と同じ高さをもって生じてきた虚無である。それは、新たな耐性をもって出現してきたヴィールスのごときものであって、それを治療する宗教はもはやない。それは、人間に内在的な要求に基礎を置く一切の宗教を跳ね返すような絶対否定性を秘めていて、外から手出しすることができない閉鎖性をもった虚無である。そのようなニヒリズムを克服する可能性をもった唯一のものとして西谷が空の思想に着目するのは、空の思想ニヒリズムをさらに徹底し、人間に内在的なものをすべて打ち破る絶対否定性をその根幹に有するものだからである。人間が手足をつける処、枕する処なき場に立つという徹底した非情性、無私性を、如来の境涯として示すところに空の立場がある。それは、業や輪廻において究極の表現をもつような絶対的閉鎖性を打ち破るものとして仏教において登場してきた。そのような空の絶対否定性だけがニヒリズムの否定性、閉鎖性を内から破ることができるとされる。こうして、空は、ニヒリズムを内から破る思想としての力を仏教の伝続から得てきているのである。そこで、ニヒリズムが人間的世界を象徴する雲海を突き破って聳える山脈に賛えられるならば、空はさらにその上方に広がる天空、無限の開けとして捉えられる。それは行人の絶えた荒野、飛ぶ鳥無き極北の地であり、およそ人間の情意は取り付く州をもたない。しかし、そのような非情で無私な世界が却ってさばさばした自由で解放された世界を示している。そのような空を自己の心の底にもつことによって、人はニヒリズムの閉鎖性を破ってその外に出たところに立つ。ニヒリズムの否定性を「百尺竿頭なお一歩」を超え出た空の絶対否定性によって、ニヒリズムはいわば出し抜かれ、空無化される。ニヒリズムの虚無の閉鎖性ないし閉合性は、空によっていわば内から透過されるのである。ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」と西谷が言うのはこのような意味である。>

次は後者(花岡永子氏の論文「西田哲学における『絶対無の場所』の論理をめぐって」)

「もしも作曲家が自らの作曲した曲を私物化するならば、その曲は、絶対の無限の開けとしての絶対無における作品であるということはできない。何故ならば、絶対無の開けに生きていない限り、そのような場で作られた作品は、閉じられた作品であり、万人に開かれた作品であることはできないからである。」

そこで、書いておかなければならないことは、西田の「絶対無」と西谷の「空」との区別についての、氣多雅子氏の次の言葉です。

 西谷の「空」は西田幾多郎の「絶対無」の思想を受け継ぐものであるが、ヨーロッパのニヒリズムの「虚無」と対決するなかで導出されてきたことにおいて、「絶対無」とは違う独自の思想となっている。その「虚無」との対決はヨーロッパの科学・哲学・宗教のすべての伝統を受け取り直すことを要求し、その受け取り直しは絶えず反復されて西谷の思索の歩みを促し続けた。その思索の歩みは、最晩年の論文「空と即」において「情意のうちの空」という思想に結実している。この「情意のうちの空」とは何であるか、空の思想はどのような展開を示してそこに至ったか、そして、西谷の空の思想はどのような現代的意義をもっているか、それらを考察するのがここでの研究の趣旨である。>(「第19 回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR Tokyo 2005)パネル企画」 )rel-annual2005-no.1.pdf (kyoto-u.ac.jp)

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*

加藤諦三氏が、逆境に強い人と弱い人との違いに関して話しておられる中で、弱い人の特徴の1つに価値の相対化が出来ないということを挙げておられた。多くの価値の中の1つを唯一絶対の価値とみなしてしまうということ。弱い人も価値の相対化ができると新たな人生を始められるということ。2めとして時間的枠組みの違いについても言われた。逆境に強い人は長い枠組みの中で考えるので、過去のマイナス的体験が将来において活かされるといった考え方。3つめに人間関係のことも言われたが、自分にとっては1つめの価値の相対化が最も共感され、重要に思えた。シリーズ4 加藤諦三さんが語る、著書「逆境に弱い人―ここに気づけば強くなれる―」 - YouTube

それにしても、価値を相対化するには何かを絶対と認めている必要があるのではないかと思えた。加藤氏はそこまでは言っておられなかったし、その必要はないということだとは思うが、そこが学問と宗教との違いだろう。自分にとっては創造主という絶対者の実在を信じてこそ、この世のあらゆる価値を自分にとっては相対的なものとみなすことができるのであって、その創造主との人格的関係がなければ、やはりお金とか地位といったことを絶対的なものとみなす偶像崇拝に陥っていると思う。

人生を振り返って自分の過去は気づきが遅かったがゆえにつまらないことになってしまったと思うと何かのせいにして自分を正当化しようとするが、自業自得だと考えるのがイヤなら他人のせいにすることもダメなわけだから、そうなると神様のせいにさせてもらうしかない。しかし神様のせいにしても、直接のダメな原因は神のせいではありえないので、結局、成るようにしか成らないということで諦めるしかないことになる。それが自分の聖定信仰である。

自分は謙虚に自分のつまみ食い学習者としての無知・無能・無教養さを自覚して、特定教派教会が信仰基準とするものを誠実に信奉して、日々の生活における信仰実践に努めるというのが良いことはわかっているが、たとえ終末論的意識を高めて救済論的関心に集中して、具体的には聖書と改革派諸信条・教理を実生活の信仰基準としようとしても、どうしてもそこからはみ出してしまうのが聖書の従属論的三一神信仰なのです。つまりそれは単に観念的関心事ということでは済まない自分の信念に関わる事柄だということです。

旧約聖書を通して神の超越性と絶対性より国家の相対的、被創造性を説き、国家神道を否定する。」

「基督教的な立場からするならば、世界を創造しこれを支配する唯一絶対なる聖なる神の御意、即ち正義と愛とを実現することが、民族や国家の使命であり、且つ責任である」(~金田隆一氏の論文「戦時下における日本キリスト教会の一動向」※上段引用は金田氏の言、下段引用は金田氏が引用している『信仰と生活』44号の中の浅野順一牧師の「国家と道徳」の一節。kiyou14-25.pdf (tomakomai-ct.ac.jp)

また、自分は、とにかく擬人的人格神観(…並木氏の言うには人格神観は擬人神観を避け得ないとのこと。それは旧約聖書をちょっと読めば解る)は受け付けず、さりとて人格性が稀薄すぎる形而上学的実体的神観や逆に非形而上学(=存在論)的場所論的(「はたらき」の)神観もそのままでは受け入れられず、修正された(後者の場合なら)人格主義的場所論(八木誠一氏など)でもどうかなと思うところもあるほどで、擬人神観ではないにせよ一定程度の人格的存在性は不可決なのであり、その点で問題となることが三一論における従属性です。あくまで御父が自分にとっての「神」であり、「神からの神」である御子は自分にとって「真の唯一の神」とは言えません。やはり第一コリンと8:6のとおり御子は「唯一の主」として「唯一の神」である御父と区別します。その場合の「神」と「主」との違いも、教会で主張されるような同一的意味ではなく、イエスを「主」という「主」は(被造物とはせずとも)ヨハネ福音書17:3で「唯一の真の神であるあなた」(小林稔訳)の「真の神」とは区別される存在であるとみなします。この人格神へのこだわりがなくなれば、もはや神論への関心は相対化されて、神のはたらきへの関心に集中することができ、福音主義的神学としてはカルヴィニズムの「聖定」教理(およびそれによる人生観⇒「聖定論的人生神学」)への関心に集中できます。そうなれば改革派信仰における矛盾・葛藤は、無関心…消極的受容ないしは告白…ということでクリアーできるのか?と言えば、そう単純にはいきません。やはり御父と御子との関係については聖書を中立的に解する限り、同等説よりも従属説の方が正であるという信念に変わりはないからです!もちろん大病でもして、そういった思考をすること自体が面倒になった場合には話は別であり、それこそ「心(魂)、体、霊」の全一的救いに集中すべく改革派終末論の個人的救済に関心を持つことになるでしょう。しかしそのような限界状況に至るまではどうしても観念的欲求が抑え難くはたらくのです。そして神論への関心があるうちは、改革派教会に入会する場合、その矛盾・葛藤を合理化することはできません。神論より救済論の方に重きを置いて集中してゆくにしても、その救済は下記引用文において量氏が述べているとおり、あくまでも絶対者による救済だから、救済論は実存的にも、絶対神論とセットで考えられなければならないのです。そうなるとどうしても自分はキリスト論より神論に優位性を置き、御子の神性は認め得ますが、御父と御子との関係を主従とせざるを得ないのです。

(以下、引用。太字は私記。)

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からし絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(~『宗教哲学入門』p236)

量氏は同書で「絶対者による救済」という項目のもとで、「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調している。

それにしても、三位一体論は量氏のように「絶対有即絶対無」と解するだけでクリアーされるわけでもなし(前掲書p231~235参照)、元・エホバの証人のS牧師のように聖霊論的にクリアーできるわけでもありません。聖霊のはたらきは現実の体験であり、(S牧師は体験し得たのかも知れませんが…)そのような体験を得ない以上、観念的クリアーでは意味が無いのです。あくまでも御子従位・従属説を聖書的解釈として維持するしかありません。

人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)

自分はユニテリアンのような御子「被造」説は克服して、正統派の御子「同質」説は受け入れられますが「同等」は受け入れられません。そして所謂「ニカイア信条」においては、用語として前者はあっても後者はないのです。原ニカイア(325年)の「父と同質」(ομοούσιον τωι πατρί / being of one substance with the Father)は、コンスタンティノポリス(381年)では「父と一体」(ὁμοούσιον τῷ Πατρί / of one Being with the Father)に変わっています。基本信条において御父と御子との「同等」を明記しているのはアタナシオス信条。

自分の場合、あまりにキリスト教がかった神学…いわゆる福音主義神学とかいったものには興味はなく、どちらかというと形而上学的体系に基づいた哲学的神学などと云われるような思想の方に興味があるだろうとは思います。ただし、神論については汎神論的なプロセス神学だのユダヤ教神秘主義カバラ思想の収縮論などのような過剰思弁には関心ありません。

佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

せいぜい、下記のネオプラの影響を受けたイスラム教徒の思想に関する井筒氏のお話くらいはついてゆけるかな…?といった感じです。

「存在モデルとしての三角形の頂点を(中略)イブン・アラビーは、三角形の頂点に、(中略)「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(ahad)と呼びます。(中略)三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしろゼロであります。(中略)ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。(中略)このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤ(ahdiyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。(中略)この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。」(『イスラム哲学の原像』p122~)

それはともかく、最悪に過剰思弁の非神論的神論は、西谷啓治氏に影響を受けた小田垣雅也氏の『復活について』と題された説教にみられる、人間に内在化した人格神論だと思っています。特に下記の部分は、日本基督教団の補教師という立場(教団所属の教会ではない家庭集会⦅みずき教会⦆主宰)での「説教」とは言え、当人の神信仰が問われるところです。

「絶対他者なる神は、人間の立てた仮構である人間中心的主観―客観的認識構図の対象である神、人間の主観による認識の対象としての神ではなくて、つまり一つの存在者として人間に認識された神、さらに言えば、信仰の「対象」としての神ではなくて、その認識をも超えた、その意味で、人間の認識にとっては絶対無としての神になるほかはありません。それが絶対他者としての神でしょう。(中略)そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。また西谷博士こうも言っています。(絶対無理解に関して)『徹底した生成の世界がそのままで、一種の完結性を持ってくること、生成が生成そのものとして、一種の存在という意味を持ってくるというべき世界であると』(西谷啓治「虚無と頽廃」上田閑照編『宗教と非宗教の間』、岩波現代文庫、二〇〇一年、一一八頁)。ほぼ同じことを鈴木大拙禅師も、『存在は生成であり、生成は存在である』と言っています(T. Merton, Zen and the Birds of Appetite, A New Directions Book, 1968, p.111)。このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える『対象』ではなくて『それを生きるもの』であり、その意味で人格的であるほかはないのです。

小田垣雅也|復活について (fc2.com)

後半は西谷氏が言われていることを鸚鵡返ししたようなことであり、いずれにしても哲学的神学の立場であり、「信仰の『対象』としての神」を否定している時点でキリスト教の伝統的神理解とは異なります。さらに小田垣氏は、以下のようなことまで述べています。

「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)

再び引用します。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109 ※波多野精一氏の言葉を引用したものかと思い込んでいたが、読み返したら量氏の言葉でした。)という神理解とは相反する内容です。まさに小田垣氏は「考え過ぎ」であり、観念的知的欲求に歯止めが効かない過剰思弁と言えます。

その点では、野呂芳男氏による下記の小田垣氏に対する批判は的を射ていると言えるでしょう。

「小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。神が文字通りに一人格者(a person)であるとは思わないが、キリスト教の言うアガペーの神は人格的なもの(The person)であり、人格的象徴(symbols――ティリッヒの使う意味でのそれ)(10)によってでも表現しない限り、表現できないリアリティーキリスト者の神体験にはあるのではないか。やがて小田垣さんも神学の各論を、即ち、贖罪論や義認や聖化やキリスト者の生活を、あるいは、三位一体論を何らかの仕方で語らない訳には行かないであろうが、その折には、たとえ神を無、あるいは、絶対無で表現しようとも、その無あるいは絶対無の人間に対する愛・恵み・慰め・命令等について語らざるを得なくなろう。そういう信仰体験の事情を、我々は神が人格的であるという主張で意味しているに過ぎないのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)※(10) 「実存論的神学」167頁

野呂氏はこうして小田垣氏の思想を批判することを通して人格主義的神学者としての面目を躍如されているかのようですが、野呂氏の方は神の「絶対」性を否定して神を相対化する愚を犯してしまっているので、結論的にはどっちもどっちということです。職業神学者の言うことは、先行研究者のいろんな学説をあたっている分には参考になる発言がある反面、自身ではそういうひどすぎる愚説を平気で公言する場合もあるわけです。野呂芳男氏などはその典型的な例であり、日本のプロテスタント神学者で転生輪廻まで言い出すことなど前代未聞でした。私自身、電話取材で、自分が牧師をしている教会の信徒も信じている旨のことを言っておられ、呆れたことを憶えています。

「つまり神学と哲学との神に対するかかわりは、実存的であるか客観的であるかという相違である。その際、哲学が確認する絶対者は、それはそれとして認められており、ただそれが『究極的なかかわり』とは区別されているだけである。しかし、われわれは、客観的に論議されうる『絶対者』、『無条件者』なる『最高のもの』(“a highest thing” とティリッヒ不定冠詞をつけている)が、本当に絶対的でありうるかどうかを、更につきつめて考えてみる必要があろう。(中略)つまりティリッヒの言う哲学の神は、絶対者についての人間の想念にすぎないのではないかということを、考える必要がある。言いかえれば、本当の絶他者は、ティリッヒの文脈で言えば『究極的なかかわり』としてのみあるのであって、哲学者の神なるものは抽象的な神にすぎないのではないか、ということである。」(小田垣雅也著『哲学的神学』p11)※「のみ」に傍点あり。「くり返すようだが、哲学が把握する絶対は、哲学が人間の思弁による作業である限り、絶対ではありえないというのが哲学的神学の基本的な認識である。ティリッヒのように、哲学は神を理論的に理解するというような考えは、神に対する幻想ないし、観念であるにすぎない。このことは、神の絶対性を論証することが不可能だと言っているのではない。哲学が神を指向として持っているということも、その論証が中途で論理的に挫折するという意味ではない。論証はできるであろうし、それはなされてきた。そうではなくて、論証ということそのことが、神の絶対性とは往き違った所作であり、したがって神の絶対性そのものには至れないということである。」(小田垣雅也氏前掲書p20~21)

弁証法的神学は近代の人間中心的神学に否を言った。神は絶対他者である。神は人間の認識の外にある。しかしそのことの意味は、右に述べたような近代の無神論の超克ということ、言いかえれば、有神論―無神論という対立構図の人為性そのものの中に潜んでいる無神論の超克ということであるべきである。そこで求められているのは認識にとって有―無をこえた神であるべきである。しかし弁証法的神学は、そのことに充分徹底していない。神の絶対他者性は、それをいか程、徹底的に、くり返し、主張しても、むしろその主張そのものによって、その神は人間のその主張の中に捉えられている。『理』としては正しいその主張――人間の――そのものの故に、『事』としてはその主張即ち神の絶対他者性が裏切られている。むしろ神の絶対他者性の主張が熄む時に、絶対他者なる神は現成する。現代における神の問題は無神論に対抗した有神論を主張することではない。(中略)現代における神理解の課題は、絶対他者なる神をどのように『事』そのものとして、『理』としてではなく、理解するかという点にある。(中略)絶対他者なる神を理解するためには、絶対他者を求めている自己を放棄すること、自己を空ずることが必須である。(中略)絶対他者が事実として絶対他者でありうるためには、それは自己の絶対他者へのかかわりの外にある他はなく、絶対他者にかかわる自己を空じた時に、絶対他者として――理解され得べくんば――理解されるであろう。しかしこのことを自己の側から言えば、その時は絶対他者もまた、少なくとも自己の視界からは、消えることになる。」(小田垣雅也氏前掲書p60~61)

神を「絶対」と言う場合、それも比喩的表現であるとすれば(…しょせん「神」は啓示された範囲外は不可知なのだから…)「絶対的」という用語で言わなければそれこそウソになる。神そのものが絶対であるというのは唯一ということから敷衍されることではあろうけど、その「唯一」の意味も歴史的な意味は他の「神」と称されているもの(偶像)との関係が前提とされているとは限らない。「ヤハウェ」という名の神が地方の諸聖所ごとに礼拝されていたのを中央に統一したということなら、「唯一」と訳すより適切な訳語があるのかも知れない。それはともかく、自分は神について「絶対」とは言わず「絶対的」と言いたい。「絶対」を言う場合は「神」そのものではなく、その主権について言えばよい。

形而上学は確かに神ないし絶対者をとり扱う学であり、その点で神を対象とする神学と似てはおりますが、はっきりした区別があります。 形而上学においては、その絶対者ないしは神を人間主体との関係から切り離して、客体的に眺めるという態度をとるのに対して、神学は神をどこまでも人間主体、すなわち『私自身』との関係において考えていくという点であります。 形而上学は実体概念的でありますが、神学は人格概念的であります。(中略)聖書において示される神は、どこまでも人間にかかわりをもつ神でありまして、したがって神を考える場合には、『私自身』というものを中に引き入れて神を考えなければなりません。つまり、関係において神を考えなければなりません。神の啓示と言い、神の愛と言い、ことごとく関係概念であります。そこでイエスの神性をも形而上学に属する実体概念たる『本質』と結びつけるよりも、関係概念として考えなければなりません。関係概念は具体的に言えば『愛』であります。『イエスは神である』という信仰告白は、神の愛という見地から今日考え直されなければなりません。イエスが神であるという信仰告白は、イエスの愛が、とうてい人間の領域に見出され得ないものであるという告白から生まれてきます。(中略) 関係概念においてイエスの神性を考えるということは、古代から中世の神学ではきわめて困難であり、それが自覚的に明確化されたのは、プロテスタントの神学においてであります。(中略) ルターが神を考え、キリストを考える時はいつでも、『私にとっての神』、『私にとってのキリスト』というかたちをとりました。言いかえれば、キリスト論が救済論と結びついたわけであります。キリストを客体的に思索するのではなく、自己の救いと結びつけてキリストを考えるということです。 (中略)リッチルの神学の方法論は価値判断(Werturteil)と呼ばれます。価値判断とはどういうことかと言いますと、『キリストを神として告白する信仰は、キリストが私のためになしたもうたことの価値を判断して生まれる』という考え方です。キリストを客体的に、『形而上学的に』考えるのではなく、キリストが私のためになしたもうた業が、神でなければとうていできないことであった、ということから、キリストを神と告白するのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社 p62~65)

「神」について関心を持つ場合、それが「形而上学」的であるより「神学(特に救済論)」的である方が現実的意義がある…ということは自分も認め得ることです。しかしそもそも、対神関係について哲学と神学とを区別しきれるかどうかは疑問です。表現の面においてであれ、野呂氏のように「絶対」は哲学用語であって神学用語ではないなどということは言えないでしょう。キリスト教は非聖書的な「三位一体」論においてギリシャ哲学の論理や用語を用いています。これは構造的な事柄です。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。」

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量氏前掲書p293)

「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」(関根清三著『倫理の探索』p133)というように、何かしら「有的」だけではダメで「無的」な神観がよりリアルで現代的であるかのように思い込んでいる人がいるわけですが、清三氏の御父上の関根正雄氏は次のように述べておられます。

< 我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134) 

ところで、所謂「知、情、意」の比率は人によって違うので、自分の場合はすくなくとも、「情(緒)」中心(例えば、所謂、イエスさま信仰…女性に多い)でも「意(志)」中心(例えば、所謂、社会的福音信仰…男性に多い)でもないので、どれかと言えば「知(識)」中心(…といっても関心分野は偏っているので飯さんみたいに専門以外は非常識タイプで、「神」については、形而上学的関心と神学的(救済論的)関心とは半々くらい?)なので、そうなると、キリスト論よりも神論、御子より御父の方に優位性を置く信仰形態になっていることに筋が通る。しかし、特にメンタルヘルス的には、自分も救いを求めて神を信仰しているので、その意味でも形而上学的関心だけで済まないし間に合わないということは自覚しているし、身体的には終活という実際問題に即して考える以上、日本における既成のプロテスタント教派教会のどこかに所属する必要があり、そのようにしている(61歳から改革派信徒)。それは形而上学的関心より神学的(救済論的)関心の方を先行させる必要に迫られてのことではあるが、やはり形而上学的関心もある程度はあるわけだから、当然、ウェストミンスター信仰基準の如き体系的信条では相容れぬ部分も出てくる。これが日本基督教団の如き簡易信条であれば解釈次第でクリアーできないこともないが、体系的信条となるとそうはいかない。しかしその分、「神」については相容れぬ部分が生じてくる半面、極めて共感し強調すべき部分も生じてくる。それが主権の絶対性の強調である。特に「聖定」の教理とその強調は、改革派系諸教派の最大の特徴であり、日本ではその代表がRCJ(Reformed Church in Japan)なのである。

形而上学的神観と神学(救済論)的神観との違いを比べてみよう。まず、前者のメリットだが、これは特定宗教としてのキリスト教に囚われることなく、普遍性ある神観を学ぶことができる。動機に救済的要素があるいくらかはある以上、神観もある程度は人格的にならざるを得ないが、神学のような擬人化は最小限度に抑えられるので介入されることへの圧迫感も少なく、神義論の如き愚問に縛られることはない。デメリットは、形而上学的救済としてはあくまで観念的、精神安定に益するレベルにとどまる。一方、後者のメリットとしては共同体への所属による社会生活への実現ということで、それは終活(…特に墓地・埋葬問題の解決)も含まれ、教会というキリストの体における現実的な手応えを得られるということ(但し美化することはできない!聖徒の交わりというのはあくまであの世の理想であり観念であって、この世においては世俗社会の対人関係と大差ないのでストレスも生じる)。デメリットは神観が擬人的になるので、野呂芳男氏のようにプライバシーを尊重して介入しない神といった都合の良い神観でも持たない限りは圧迫を感じて、場合によっては神の監視という強迫観念が植え付けられ神経症的状態に陥る。対神関係も対人関係と同様に、あまり近すぎるとストレスにつながるので、つかず離れず…美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感がちょうど良い。

神学(救済論)的関心を優先させる以上、救いに無用な形而上学的疑問は思弁しても意味はないということで、そういうどうでもよい無用な問いは聖霊のはたらきによって停止し、教義…特に「三位一体」とか「予定」および「聖定」など、通常の論理を超えていると思われるものについては、聖霊他力の働きによって聖なる無知を告白するという謙虚な態度にされて、これをクリアーするしかない。しかし、形而上学的関心も一定程度はある自分の場合は、いかに聖霊のはたらきが与えられても、信条における三位一体神への疑問や反論思弁も捨てきれない。すなわち御父と御子とが「同等」などということは、聖書を素直に読む限り、平気で告白することなど出来ない。せめて元・改革派教会の牧師である佐々木稔氏が自サイトで用いた「職務的従属」という概念でもよいから、三位格における御子従位・従属を述べて「同等」は言わないことを心がける。

パウロが「神」と「キリスト」とを言い分ける理由は、「キリスト」も「神(の子として、神の性質を持つ者)」ではあるが、あくまで「神からの神」であり、聖書で「神」と言われているのはその神ではなく、「神の神」としての御父であるということ。「神からの神」は「神(の神)」と同等ではあり得ない。「から」(エク)と言った時点で同等ではなく従位なのである。

「(父なる)神⦅神の神⦆、神の子(キリスト)⦅神からの神⦆、聖霊⦅神の霊⦆」

「愛」も「愛の愛」(=無償の愛である理性的な愛である「アガペー」)、「愛からの愛」(=「アガペー」の比喩的派生形態としての親愛「ストルゲー」)、「愛への愛」(「フィリア」)という区別が端的には可能だが、これを「神」に対応させることには無理がある。ただ、三位一体批判としては、第一コリント13章の所謂「愛の賛歌」の最終13節、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」の「信仰」に御子、「希望」に聖霊、「愛」に御父を代入するというやり方もある。「愛」に御子を入れたがるのが世のクリスチャンという者であるが、自分は「神は愛なり」の「神」(は、三一神の非ず御父なり!)とする。これに対応するのが、ヨハネ14:28 , 17:3、第一コリント11:3など。

ちなみに、第一コリント13:13(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」の「最も大いなる(もの)」と、ヨハネ14:28(口語訳)「父がわたしより大きいかたであるからである」の「~より大きい(かた)」と、原語は同じ「メイゾーン」(「メガス」〔大きい、偉大な〕の比較級)という形容詞である。第一コリントの方は、比較級なのに最上級の意味に訳している。形容詞という意味では、川端由喜男訳の「愛はこれらのうちで最も偉大(である)」というふうに訳すほうが、口語訳や青野訳のように「最も大いなるもの」と訳すより良い感じではあるが、川端氏の対訳では「訳語については、ギリシア語本文を読む助けを提供することが主眼であり、釈義的に正確な訳を試みたものではない。」とことわった上で「訳語選択にあたっては」、口語訳、新共同訳、青野太潮訳などを参照したと書かれているので、その点では不安だ。

織田昭著『新約聖書ギリシア語小辞典』では、「メイゾーン」の第二義として「②(最上級の意味で)最も大きい , いちばん偉い , マタ23:11 , Ⅰコリ13:13. 」と書かれている。また、岩波版 青野太潮訳の注には、「これは形の上では比較級(meizon)。一二31bの「さらに卓越した道」からして最上級が予期されるが、ヘレニズム的ギリシア語では最上級 megistosはあまり用いられなかった。」とある。「愛」については、「『信・望・愛』の三幅対は、パウロではⅠテサ一3、五8、ロマ五2-5に出る」とある。

第一ヨハネ5:7~8「なぜなら、証しする者が三人いるからである。霊と水と血である。そしてこの三者は一つのものを指し示している。」(岩波版 大貫隆訳)の注に、写本において7節と8節の間に置かれた「ヨハネの文節」(コンマ・ヨハンネウム)にふれられている。これについては、田川建三著『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中で次のように書かれている。「この場合のコンマというのは読点の意味ではなく、『句』という意味である。第一ヨハネ書簡五・七ー八の文を、もしくはそのヴルガータのラテン語訳を指す。ギリシャ語の原文は『証言するものは三つある。霊と水と血である。そしてこの三つは一つになる(逐語的に英単語に置き換えると、these three are into the one)』という文である。しかしこれがヴルガータでは Quia tres sunt qui testimonium dant, in terra, spiritus et aqua et sanguis. et tres sunt, qui testimonium dicunt in caelo, pater, verbum et spiritus, et hi tres unum sunt となっている(ヴルガータも写本によって少しずつは異なる)。「証言を与えるものは次の三つである。地上では霊と水と血である。そして天にて証言を述べるものが三つ、父と言葉と霊である。この三つは一つである(最後の文を逐語的に英語の単語にすると、these three are one)。」つまり、三位一体のドグマを宣言する句がつけ加えられたのである(ここの「言葉(verbum)」はロゴスなるキリストを指す)。新約聖書の中に三位一体のドグマを明言する文は存在しない。これは今日ではよく知られていることである。まあ、無理にそちらの方向につなげようと思えばつなげられる考え方が出て来ていないわけではないが、はっきり明言している文はない。それでカトリック教会は困ったのであろうか。ラテン語訳の写本のどこかの段階でここにこの句がつけ加えられた。(中略)何年もたってからやっと一つ写本が提示された(小文字写本の61番)。その結果エラスムスはこれを第三版から挿入したのだが、この写本はどうやら彼をおとしいれるために後からあわてて作られたらしい、という疑念を註に記している。今日の研究では、この61番の写本は一五二〇年にオックスフォードで書かれたということがわかっている。つまり、エラスムスのテクストが発行された後にあわてて捏造されたものである。」(p417~418)

ローマ・カトリック教会ぐるみで聖書を捏造したということらしい。「父と子と聖霊」を、ここの「霊と水と血」にあてはめるなら(上記のヴガータ訳の関係でしょう、カトリック教会の公教要理では「霊と水と血」が「聖父と御言と聖霊」になっているという)、第一コリント13:13の「信と望と愛」にあてはめたってよいでしょう。第一ヨハネでも八木氏が場所論の基本文の一つだという(『イエスの宗教』p23)「愛は神から出る」(4:7)とか「神は愛」(4:8 , 16)といわれています。もちろん、聖書を捏造する必要などはありません。本質的意味として通じ合うのはこちらの方です。信も望も、愛から生まれてくる、愛が源です。神はどうしても人格的に比喩表現されるので、愛も八木氏が言われるとおり3つに分節すると愛の源が御父で愛の内容が御子、愛の伝達が聖霊といったことになろうか。ちなみに「唯一」というのは御父についても御子についても言われている(第一コリント8:6)。従って「唯一」の歴史的意味における原段階では中央集権体制に関して同じく「ヤハウェ」の中での「唯一」であり、拝一神教的意味は次の段階であり、「唯一絶対」という意味は本来的でないが、パウロ的には「神」と「主」とを区別する意味での「唯一」であり、それとキリスト教の実質「三神論」である「三位一体」とは矛盾しない。

この第一ヨハネは、仮現論的キリスト論という異端説を論駁することを主たる目的として執筆された由であるが、それは「神の子キリスト」が洗礼において「人間イエス」と合体し、十字架刑に際して離れたというもの。大貫氏の指摘でより重要なことは、「後一世紀末から同二世紀にかけて原始キリスト教会の内外に登場して、やがて正統主義を自認する教父たちから『異端説』のレッテルを貼られてゆく立場は大小多種多様で、一概に論じることはできない。その中で、ヨハネの第一の手紙が対峙している『異端説』の右のような仮現論的キリスト論と救済論にもっとも近いものを探せば、(中略)ケリントスの立場が挙げられる。(中略)これら二つの類例とヨハネの第一の手紙が対峙する『異端説』の間には軽重を問わず多くの相違も同時に存在するので、お互いを直接的に同一視するわけにはゆかず、思想史的な類似に止まる。」ということ。

(第一コリント13:13)

νυνὶ δὲ μένει πίστις ἐλπίς ἀγάπη 

τὰ τρία ταῦτα μείζων δὲ τούτων  ἀγάπη.

川端訳:(②今 ①そこで ⑧存続する ③信仰 ④望 ➄愛 ➆三つのものが ⑥これら ⑫最も偉大⦅である⦆➈しかし ⑪これらのうちで ➉愛は)

青野訳:「そこで今や、信仰、希望、愛、これら三つが存続する。しかし、それらのうちで最も大いなるものは、愛である。」

②ヌニ ①デ ⑧メネイ ③ピスティス , ④エルピス , ➄アガペー , ➆タ トリア⑥タウタ. ⑫メイゾーン ➈デ ⑪トゥートーン ➉ヘー アガペー

ヨハネ14:28)

 ἠκούσατε ὅτι ἐγὼ εἶπον ὑμῖν ὑπάγω 

καὶ ἔρχομαι πρὸς ὑμᾶς εἰ ἠγαπᾶτέ 

με ἐχάρητε ἄν ὅτι πορεύομαι πρὸς 

τὸν πατέρα ὅτι  πατὴρ μείζων μού ἐστιν.

川端訳:(➉あなた方は聞いた ⑨ことを ➅私が ⑧言った ➆あなた方に ①私は行く ②また ➄私は帰って来ると ④ところに ③あなた方の ⑬なら ⑫あなた方が愛している ⑪私を ⑱あなた方は喜ぶはずである ⑰のを ⑯私が行く ⑮ところに ⑭父の ⑲なぜなら ⑳父は (22)もっと偉大で (21)私より (23)ある⦅から⦆)

小林稔訳:「あなたがたは私が自分たちに『私は往くが、あなたがたのもとに来る』と言ったのを、聞いた。仮りに私を愛しているのなら、あなたがたは私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は私よりも大いなる方なのだから。」

➉エークーサテ ⑨ホティ ➅エゴー ⑧エイポン ➆ヒュミーン ①グパゴー ②カイ ➄エルコマイ ④プロス ③ヒュマース ⑬エイ ⑫エーガパーテ ⑪メ ⑱エカレーテ  ⑰アン ホティ ⑯ポレウオマイ ⑮プロス ⑭トン パテラ ⑲ホティ ⑳ホ パテール (22)メイゾーン (21)ムー (23)エスティン.

(※N&A原典でも、また『日本語対訳 ギリシア新約聖書』(川端由喜訳)の原文(The Greek New Testament )でも、コンマやピリオドが付いているが、Blue Letter Bible にはそれは無し。)

聖書的には、コーヘレト的神観すなわちコーヘレト的対神関係は実存主義的信仰であると云われるように好感を持てる。すなわち、形而上学的(存在論的)に過ぎず神学的(救済論的)に過ぎず、非擬人的人格的(哲学的)に過ぎず擬人的人格的(神学的)に過ぎず、つかず離れずでちょうどバランスが良いと思う。

私は、バルト神学の(キリスト特別)啓示偏重は自分の中で否定しています。改革派の中にも、「バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは、行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない」との批判があるくらい(~webサイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ベルクーワの著作の紹介」の第5章 キリストの啓示は排他的か)、バルト神学の「神認識・啓示」の教説は極端なのです。 そのバルトにおける「愛」に関する論文では、バルトのマルコ12:29-31の釈義として「『主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』(29節)。ただ愛することだけが、神の唯一無比性に対応することである。この愛することは、神の唯一性のゆえに『選ぶこと』を意味する。」云々と書かれている(~佐々木勝彦氏の論文「K. バルトにおける『愛』(1)」)。

そして私は、「神は愛なり」の「愛」も「神と隣人を愛せよ」の「愛」も「アガペー」というのは人間の愛情と違って、あえて人間の感情に喩えるなら「尊重する気持ち」だとみます。「愛」という訳語が誤解のもとだと思います。「尊重する」ことなら「敵」に対しても上杉謙信の「塩をおくる」というか、「敵ながらあっぱれ」ということなら非現実的とまでは思わないし、戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長が「最高の敬意を払い、礼砲を5発、乗組員全員が敬礼をして、若き日本兵を海へ送り出し」た行為などは、それ自体、尊敬すべきことです。偉大な司令官 ウィリアム・キャラハン艦長 | 株式会社 海星 (kai-sei.com) そのような意味での「愛敵」なら受け入れます。しかし、そうではなく単なる愛情ということなら「非現実的」としか思いません。そこには「好き」という感情があるからであって、「敵」に対してそんな感情を持つ人は異常であるか実際は「敵」ではないということになるからです。そんな非現実的な言葉は、いかにイエスの言葉であるといっても、信仰と生活の誤りなき規範とか規準と謳っているところの聖書である以上、意味をなさないということで受け入れることはできません。 

ところで多くのクリスチャンは、信仰対象である神なりキリストについては、自分によくして下さることを期待しての愛であるがゆえに信仰するのであるが、そういう人は苦難に陥ると当然、信仰がおかしくなる。神・キリストは人を…特に自分を愛してくれるからこそ信仰するに値するのであって、愛してくれないなら、苦難に遭わせるなら、そんなもの信仰などする意味はない…ということである。苦難がまったくないということは現実的ではないから、災難が何度かあってもそれで信仰をやめない人もいるにはいるが、人生を総合的にみれるなら、最終的にプラスの方がマイナスより多い勘定にならなければ信仰生活の意味は無いということになる。そこに擬人的人格神観の限界がある。自分は人格神観とは言え、聖書で描かれているような擬人的、情緒的な神観ではない。むしろ「絶対」神観が哲学的で神学的ではないと言われるとしても、それなら自分は開き直って神学より哲学の方に近い神観であると思う。人の親の如く愛情を注いでくれる神などではなく、要は現実世界に唯一の絶対実在として、あらゆる偶像を相対化し得る権力者であることなのだ。

「現実世界(全体論の社会)は,神と直接的な関係の下では低 い価値を持つに過ぎないのである。つまり,ここには神との関係による個人と現世秩序のヒエラルキー化が見られ,世俗秩序は絶対的な価値に従属するものとして相対化され,ここに序列化された二分法が成立するのである。」 (~新矢昌昭氏の論文「個人主義 の『淋しさ』」佛教大学大学院紀要 第28号〔2000年3月〕)

佛教大學大學院紀要 28号(20000301) L165新矢昌昭「個人主義の「淋しさ」」.pdf (ddo.jp)

< 価値相対主義に立つ限り、どんな天才も偉人も英雄も自分の価値判断を「絶対のもの」として他人に押し付ける特権を許されない。これに対し哲学上の絶対主義は、ある特別な人間に対して絶対的な「真理」と「正義」の独占を認める。そうなると、この絶対的な「真理」と「正義」に反対する人々の実力行動はもとより、言論の自由も認められないことになる。そういう事態が民主主義・自由主義とは相容れないことは明らかだ。ケルゼンの言うように、民主主義論には、その根底に価値相対主義を内在していると考えるべきなのだろう。とりわけ議会制民主主義を考えた場合、多数決制原理の陥穽を明らかにする。「多数ゆえに正しいとは限らない」とか「少数意見にも耳を傾けよ」という主張は、価値相対主義に立ってこそ説得力を有するではないか。万人は自説と異なる価値判断に対しても寛容でなければならないという謙虚な態度は、学生時代の私にとっては、とても魅力的なものに見えたのである。私は、価値相対主義によって「寛容と忍耐」という態度を学んだといえよう。>法律学に学んだこと~大学時代の講義の思い出~(法苑175号) | 記事 | 新日本法規WEBサイト (sn-hoki.co.jp)

神学においては「類比」が用いられます。カール・バルトトマス・アクィナスないしはローマ・カトリックの「存在の類比」を否定して「関係の類比」を肯定しました。

「神学は『神についてのことば』である。しかし、一体どのようにして神は人間の言語を用いて記述され、論じられ得るのであろうか。ヴィットゲンシュタインはこの点を強力にこう語っている。人間の言葉がコーヒーの特色ある香りを表現出来ないなら、どうして神のような微妙なものに、人間の言葉は取り組めるだろうか、と。

こうした問いに対する神学の答えの基礎となっているおそらく最も基本的な思想は、普通『類比の原理』と呼ばれているものであろう。神が世界を創造したという事実は、神と世界との間の基本的な『存在の類比(analogia entis)』を指し示している。世界の存在における神の存在の表現ということに基づく神と世界との連続性がある。こういうわけで、被造秩序の中にある実体を神の類比として用いることは正しい。このようにすることで神学は、神を造られた客体や存在に引き下ろすのではない。神とその存在との間に類似性や対応があるということを肯定しているに過ぎない。これによって後者は神を指し示すものとして働けるようになる。造られた実体は神に似ているが、神と同一であることなしに、そうなのである。『神は我々の父である』という言葉を考えてみよう。アクィナスの主張によれば、これは神が人間の父親に似ているという意味だと理解されるべきである。言い換えれば、神は父に類比的である。ある面では神は人間の父のようであり、他の面においてはそうではない。本当に類似しているところはある。神は人間の父親が子供に配慮するように我々に配慮する(マタ七・九-一一を参照)。神は我々の存在の究極的な源であり、それはちょうど我々の父親が我々を存在させるのと同様である。神は人間の父親がするのと同じように我々に対して権力を行使する。また、全く似ていないところもある。例えば、神は人間ではない。また、人間には母親が必要であっても、神の母親が必要である、つまり、ふたりの神が必要であるということにはならない。アクィナスの言いたいことははっきりとしている。神の自己啓示が日常的な存在である我々の世界と結び付いている像や観念を用いるというのである。とはいえ、そうした像や観念は神を日常世界に引き下ろしはしない。『神は我々の父である』と言うことは、神はただ、もう一人の人間の父親に過ぎないと言うことではない。また、後で見るように、神は男性であるべきだと考えられているのでもない(三六三―六頁参照)。そうではなくて、人間の父親について考えることが神について考える助けになると言っているのである。これは類比である。あらゆる類比がそうであるように、成り立たなくなるところがある。しかしながら、類比はなおも神について考える上で非常に役立つ、また生き生きとした仕方なのである。これによって我々は、我々の世界の語彙と像を用いて、究極的にはそれらを超えているものを記述出来るようにされることになる。『神は愛である』と言うとき、我々は我々自身の愛する能力のことを言っているのであり、この愛が神において完全である場合を試し、想像するのである。『神の愛』を人間の愛の水準にまで引き下ろすのではない。そうではなくて、ここに示されているのは、人間の愛が神の愛の表示となるということであり、この表示はある限界の中で神の愛を写し出すのだということである。」(アリスター・E.マクグラス著、神代真砂実訳『キリスト教神学入門』〔教文館〕p347~349) 

自分にとって信仰の目的は精神の安定であり、メンタルヘルスにおける救いであり平和であるので、とにかく「絶対」なるものがこの世に実在していなくては困るのだ。そしてその「絶対」なるものは必ずしも倫理的に最高でなくてもよいので、つまり人間に対して公平平等に扱う存在である必要はない。創造主の主権の絶対性を考慮せず自分たちの人権(イデオロギー)を主張し、そのための根拠として神を利用する偶像崇拝的な人々に対しては躓きを与える神であって然りだ。要はこの世の相対的な価値観を変える力を発揮してくれないと困る。たとえば、世の中で絶対化されている容姿とか学歴とか…幸福の要件として固定的に言われるようなものである。その絶対性こそが自分にとって精神を安定させる支柱となる。それが確固としていなければ、愛だの何だのといった擬人的神観はかえってうざったく感じる。いくら聖書には無いとか哲学的だとか言われても、自分にとっての神は矢内原氏が言うとおり絶対でないと困る。絶対ということは対象化できないということだが、そこは神ご自身の自己限定という恵みを信じるしかない。啓示というものもその一環なのだから…。すなわち旧約では「神の顔」が、絶対者なる神の自己限定すなわち自己対象化の象徴である。「君はわが顔を見ることは出来ない。人がわが顔を見て、なお生きていることは出来ないのだから」(同、出エジプト記33:20)と言われていながら、その一方では、モーセは神の「後ろ」(アーホール)を見ることが許されたのであり、絶対なる非対象の「神」が関係性の構築として創造主となられ、一民族の神であるヤハウェとなるという自己限定において、認識対象となり給うたのです(出エジプト記33:11他参照)。従って人間の側の「神」認識としては、「神の顔」を見ることは出来ない(「霊」は非対象である)ということと、だからいかなる対象性もあり得ないということとは違うということ(…「神」御自身による自己対象化=啓示という恵みがあること)。霊なる「神」に「実体」と言える何かを認め得るとすれば、あくまで「神」の側からの一方的な「関係」による以外にあり得ない…ということが言える迄。それ以上のことは人間の思いを超えている(イザヤ書55:9)。

なお、神聖法典の用語法の「私の顔を与える」は神の怒りと処罰の意志を表すとのこと(岩波版レビ記17:10の注参照)。

イスラムでも「神の顔」が重要なメタファーのようです。

クルアーン28:88「アッラーとならべて他の神を拝んではならぬ。もともと、ほかに神はない。すべてのものは滅び去り、ただ(滅びぬは)その御顔のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されて行く。」(井筒俊彦書『コーランを読む』〔岩波セミナーブック1〕p85)

この「お側に連れ戻されて行く」という訳は重要。コヘレト書12:7の「そして、塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る」と、「神に戻る」あるいは「神に帰る」と言っても、「神」本体への帰入とか言うのではなく、あくまでも「神」の「お側に」であり、神秘主義の「神人合一」とは根本的に異なる。

<現世は儚い仮の宿であるが、この現世在住の間、霊魂は物資の桎梏に纏綿されて不純不浄な状態に堕している。この不幸な霊魂を、真の認識と敬虔な行為との二つの手段によって浄化し、地上生活の牢獄から一刻も早く解放してその神聖な太源に「還行」(maad)させることが存在の最高目的なのである。>(井筒俊彦著『イスラーム思想史』〔中公文庫〕p257)※「還行」に「マアード」とフリガナあり。発音記号は省略。

「神聖な太源」が「神」であるなら、この「神」に万物は帰一する。御子自身も従わせられる。(コリント一15:28参照)

以下、前掲の『イスラーム思想史』より「神(観)」に関する記述を抜粋引用。

<アラビア人は極めて視覚的、聴覚的な民族であった。そしてムハンマドは恐らく本能的に、無意識的に、このアラビア人の根本的特質を完全に把握していたのであった。

当時のアラビア人は何でも自分の眼で視てからでなくては信用しなかった。彼らに向って抽象的に神の存在や、神の偉大さを説いて見たところで一向利き目はなかったのである。だから、コーランにおいてはアッラーはまず何にもまして「生ける」神であることが強調され、アッラーはあたかも人々の目前にありありと見えるかの如く描かれている。そこで神は人間と同じように手もあり足もあり、顔もあり、顔には勿論目も耳も口も、更に口には舌もあって人々に話かける。彼は人間が善い事をすれば喜んでこれを愛し、悪い事をすれば烈火の如く怒る。一口にいえば極めて人間的な神である。そして、この人間的な神は空一杯にひろがる大きな玉座にどっかりと腰を下ろしているのである。但し、このような神の観方はアラビア人に対して異常な効果を収めた一方、人々を駆って極端な擬人神観(Anthropomorphismus)に走らせる危険も多分に含んでいた。この神の擬人観をアラビア語ではタジュシーム(tajsim 肉体付けること)と呼び、非常に沢山の回教徒がこれに陥った。西洋で歴史上アルモラヴィド(Almoravids)と称されるアフリカ・スペインの回教徒団体 al-Murabitun などは、後述する通りこの種の思想を抱いた代表的なものである。いずれにしても、コーランでは、神が全く眼に見えるように書いてある。また、それのみならず、神自らも視力すぐれ(basir)聴力秀でた(sami)ものであることが到る処で強調されている。事実、当時のアラビア人の間では、「耳も聞えず眼も見えず」といえば生命のない木偶坊というのと同じだったのである。(中略)「アッラーはあらゆる事に対し能力をもち給う」とだけ言っても、アラビア人は少しもアッラーの偉大な力を感じはしなかった。(中略)何でも眼に見える物が神の力の具体的な現れとして説かれた。通常、英語でsign(しるし)と訳されているアラビア語 ayah(複数 ayat)は、こういう神の力の眼に見える現れをいうのである。こうしてアラビア人達は宇宙万象に神の偉力の現れを見る、新しい自然の観方をイスラームによって教えられ、自分の身の廻りに神の力をしみじみと感じて深い喜びに包まれたのであった。(中略)今まで説明して来たように視覚的・聴覚的であるアラビア人が、結局、本質において感覚的であり物質主義者であったことは当然である。仮に彼らを哲学者に見たてるならば、彼らは個物主義者であり、ノミナリストであった。感覚的な現実の彼方に、それを超越するイデア的なものの実在を信じるレアリストではあり得なかった。(中略)彼らが観るものは常にこの時、この場所という時空に制限された個々の物である。個物を超えた一般者には彼らは全然用がない。(中略)眼の前にある大小様々の円は視ても、そこに個々の円形を超えた円というものを視ようとはしない。つまり物をいわゆる「永遠の相の下に」(sub specle aeternitatis)視るなどということは彼らの思いもかけない所であった。彼らには事物の非合理的側面しか見ることができなかった。現実的な彼らはイデアの世界はかつて顧みたことがなかったのである。激烈な、妥協を許さぬ現実主義、徹底的な感覚主義と個物主義がそこにあった。>(p20~24  ※改行は本文の通りではない。発音記号は省略。)

< 更に、もう一つムアタズィラの思想で重要な点は、神を人間化して表象すること(前出、tajsim 別に tashbih ともいう)に徹頭徹尾反対したことである。コーランにあれ程ありありと生きた神として描かれたアッラーの姿は、ここに全く粉砕されるに至った。ムアタズィラは第一章に述べたアラビア固有の精神とは正反対の方向に向って極端にその合理的理論を推し進めて行ったのである。(中略)果して大きな反動が起った。それが次章に述べるアシュアリーの運動である。それはともかくとして、ムアタズィラは、神に関してコーランに見出されるあらゆる人間的な表現はアレゴリーに過ぎないと考えた。例えばアッラーの手といえば、その惜しみなく与えることを、アッラーの顔といえば、その知識を表わすものと解釈された。こういう比喩的解釈法を術語ではターウィール(ta`wil)と呼ぶ。

神は始めなく終りなく、全てを含み、何者にも含まれることなく、時間、空間、概念を超越した無限者であり絶対者である。コーランでは神は大空に拡がる玉座に腰かけていることになっているが、勿論比喩に過ぎぬ。神は無限者である故に、何処にいると場所を定める訳には行かない。神は宇宙を充たし、しかも同時に宇宙を超越し、これを包含している。この考えをムアタズィラはその分派により色々に表現している。(中略)このように神は具象的形態では全く想像もつかぬ無限者であり、従ってまたどのような状態においても人間の眼には絶対に見えぬ、と彼らは説いた。神が人間の眼に見えるか見えないかというような議論は、一神教的神学においては一つの重大な問題である。そのことはキリスト教における「至福直観」(visio beatifica)の問題の重大さと思い合せて見れば容易に納得されるであろう。>(p58~60)

< 彼はコーランの章句は全く文字通りに解釈しなければならぬ、神があたかも人間の如く描かれてあっても、それがコーランの章句である以上、アレゴリカルな解釈(ta`wil)を加えてはいけないということを盛んに力説している。人はコーランにおける神の人間的描写を象徴的に解釈して、それで擬人神観(Anthropomorphismus―tajsim,tashbih)に陥ることを避けようとするが、その代りに ta'til に陥ってしまう。アッラーから人間的要素を排除(tanzih)しようとするあまり、ta'til を犯してはならない。この種の誤りを犯した極端な者はジャフム派(Jahmiyah)の人々である。彼らは、アッラー自らがコーランの中ではっきりと自分には顔があるとしているにも拘らず、これを無視して、アッラーには顔は無いという。(中略)彼らは単に神の唯一性のみを認めて、その種々の属性を否定する。(中略)彼らの指導者の一人のごときは、アッラーの知識はアッラーそのものであって、つまり「アッラーは知識である」との説を吐いているが、かくして彼は表面上アッラーの知識を認めるかのように見せながら、実はそれを否定しているのである。もし本当に彼の主張する如くアッラーの知識がアッラー自身なら、神に呼びかけるかわりに、「おお知識よ、何卒わが罪を赦し給え」とでも言ったらいいではないか、とアシュアリーは皮肉っている。こうして、世の合理主義的思潮に対抗するため、極端な伝統主義者、イブン・ハンバルに徹頭徹尾従おうとしたアシュアリー(中略)彼自身の信条は次の通りである。(中略)(5)アッラーは、コーラン二〇章四節に「限りない慈悲の主(神)は玉座に腰を下ろし給う」とあるに従い、玉座の上にあることを信じる。(6)神はコーランの多くの章句により、顔をもち、手をもち、眼をもつ。但し、これ以上に詳しくそれは如何にあるかということは問わずに、そのまま(bila kaifa)受け容れねばならぬ。神を上の如く解さぬ者は、全て迷いの路にある人々に属する。(中略)(23)神は日々天の最下層に降り立って、「何か願っている人は無いか。誰か我が赦しを請うている者は無いか」と尋ね給うというハディースの真実性を信じる。(中略)果して彼は単に従来の慣習通りに信仰して行きさえすればよいとする無反省的伝統墨守(taqlid)を排し、思索によって神を認識する努力を始めたのであった。世にいう所の「アシュアリーは中間を行った」(salakatariqah baina-huma)という彼の立場は、この頃の彼の態度を表わすものであろう。(中略)アシュアリー派がこの点でムアタズィラと違っていたのは、ムアタズィラが飽くまで論理的な推理を進めて、コーランの教えと正反対の結論に達しても何等意に介さなかったのに反し、常に理性の自由をコーランに反さぬ程度にのみ限っていた所に在るが、要するに程度の差であって本質的な差ではない。故にアシュアリーのイスラーム改新運動はいわゆる正統派(orthodox)の教義に至るには未だ路遠く、後述するガザーリーをまって初めて決定的な形となるのである。>(p71~82)

ムアタズィラ派はイスラームにおいて最初に「理性」を真理の標準として認め確立したそうだが(p56)、彼らの「比喩的解釈法(=ターウィール)」は聖書の解釈にも通じる当然のことだと思う。その点で私はアシュアリーの保守性をこそ批判したい。「神」の身体的表現など比喩に決まっている。類比という方が適切だろう。

イマーム・ル・ハラマインは正統派の神学者として、神は、語の本来の意味において(すなわち比喩としてでなく)視たり聴いたりする者であることを主張する。これに対してカアビーおよびバグダードにおけるカアビーの弟子達の説では、人が「神が聴く」とか「視る」とか言うのは、そのまま解されるべきではなく、神は認識の対象を、あるがままに正確に認識することを意味するとした。そしてこの説にはナッジャールの一派も一致していた。また、ムアタズィラ派では内部に意見が分裂し、例えばバスラの人々は、神は、本来の意味において聴き、視る者であると説いたのに反し、ジュッバーイー父子は神が聴き、視るとは神が生きており欠点がないことであるとした。>(p115~116)

「神」が「聴く」も「視る」も比喩は比喩、類比は類比だが、だからといって「神」にいかなる意味でも「体が無い」というわけではなく、その「名」において「体」があるのだ。しかしそれは所謂「実体」ではない。少なくとも普通の意味では「神」は「実体」ではない。「実体は通常、神学では延長をもつものとされているが、神が延長をもたぬことは先に証明した通りであり、また実体とは偶有を受け入れるものと定義する人もあるが、神が偶有を受け入れるということはあり得ない」(p112)からだ。

絶対的、実体的存在(自性⦅じしょう⦆が無いことを「空」というそうだ。コーヘレト思想はそのような龍樹の縁起的世界観(中観)と似てはいるが根本的に違って、唯一、創造主なる「神」だけは絶対的、実体的存在(自性)なのだ。空 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)

人間関係の悩みも、本来、優でも劣でもないものを、優とか劣とか判断する人の心の分別作用から生ずるのだろうか?それはともかく、「神」は「霊」であり「絶対」であるから、「神」の側から云々ということ自体、「神」を相対的に考えていることになる。「神」が本来「非対象」というか「空」だということなら、「神」の自己対象化において人間との関係が成立した後でも、対神関係において人間の状態は意識と無意識とが混合している。信仰は常に意識的である(というか、対神関係における意識的状態を「信仰」と呼ぶのだ)が、無意識的状態での関係がメインだとも言える。

「この私は、臥して眠り、目が覚めた、ヤハウェが私を支えているからだ。」(詩篇3:6)

「平安に、臥すとすぐ私は眠る、まことに、あなたヤハウェだけが安らかに私を住ませて下さる。」(詩篇4:9)

信仰はアンコンシャス、告白はコンシャスって感じ…?

特に死に臨む限界状況における信仰は脳のはたらきが鈍って昏睡状態にもなるわけで、対神関係が意識的ならそうなった場合には失われていることになるが、そんなことはあり得ないということが上記の聖句が示している。ヤハウェはこちらが信仰を働かせていない無視状態においてもしっかり支えておられる。

  • 「すべてのものは彼から〔出で〕、彼によって〔おり〕、そして彼へと〔向かっている〕」(ローマ11:36)

エク(から) アウトゥー(彼) カイ(また) ディア(より) アウトゥー(彼に) カイ(また)エイス(に向かって) アウトン(彼) タ パンタ(すべてのものは)

※前置詞「ディア」はこの場合、属格支配で手段・媒介・原因を意味する。「~を通して、~によって」。

 

  • 「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(コリント一8:6)

エク(から) ウー(彼) タ パンタ(すべてのものは) カイ(そして) ヒュメイス (私たちは)エイス(へと) アウトン(彼)

※前置詞「エク」は属格支配で「ウー」は関係代名詞「ホス」の属格。前置詞「エイス」は対格支配で「アウトン」は「アウトス」の対格。「ヒュメイス」は「エゴー」の複数主格。

  • 「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(コリント一15:28)

トー ヒュポタクサンティ(従わせた方に) アウトー(彼に)タ パンタ(すべてのものを)ヒナ(ためである)エー(なる)ホ セオス(神が)[タ]パンタ(すべてと)エン(おいて)パーシン(すべてに)

 

「タ パンタ」は「パース」(〔名〕全て〔形〕全ての)の中性複数主・対格で、主格は「万物」と訳される。「冠詞+パンタ」も「パンタ+冠詞」も「全~」の意あり。新改訳の「すべてのこと」よりも、口語訳、岩波版(青野)訳の「万物」、あるいは新共同訳、新世界訳、川端由喜男訳の「すべてのもの」の方が妥当。なお「パーシン」は「パース」の男・中性複数与格。

 

キリスト教の絶対者の人格性について 

キリスト教では、絶対者としての神は、一般的には、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354–430 ︶以来、 彼の『三位一体』De Trinitate, 419 )に見られるように父、子、聖霊という三つの位格(persona)と一つの 実体(力、智慧)から成り立っていると理解されている。しかも三つの位格ペルソナという時の「位格 ペルソナ」とは、ラテン語personaの語源が演劇用の仮面であることからも分かるように、社会で一定の役割を持ち、かつ責任を負い得る「人格性」を意味する。事実、エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったアダム(adam =  man )に「お前は何処にいるのか」と呼び掛けている神は、人間と二人称的な関係を結んでいる人格的な神である。更に、S・キェルケゴール以来、一般的には、キリスト教で人間における神の像(imago Dei )は、神と人 間との間で二人称で語り合える人格的関係を結び得ることであると理解されている。その上、神の一人子が神の人類に対する愛の故に受肉してキリスト(救世主)として生まれ、人類の贖罪の為の死を十字架上で遂げ、死後三日目に復活する。聖書でのこのような記事は、キリスト教の神が、絶対的な人格としての神であることを物語っている。事実、旧約聖書の創世記で、天地の創造主として働き、十戒をモーゼに与えたのも、人格的な神である。

しかしながら、一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖書を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。>

(花岡永子「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』 Vol 5 2006 http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ )

 

アリストテレスは「全体は部分の総和にまさる」と言ったとのこと。

ところで聖書において「神」を「父」と比喩することは次のような意味をもつらしい。

 

< 父なる神は恩寵と自由を象徴し、円熟と信仰、生の源が神にあることを親しく知り、存在が窮極において善であることを確信し、成長と創造が可能であること・・・・・を象徴している。したがって、正しく解するならば聖書の「父」という象徴は・・・・・束縛ではなく解放を、依存ではなく責任を、幼児性ではなく成人性を意味しているのである。>(~R・H・ケリー『父なる神 イエスの教えにおける神学と父権制』)

「神は霊」なので、「神」のイメージは間接的にイメージされて然りです。聖書には「神」の姿形を直接にイメージさせるような描写はほとんどなく、イエスの譬え話などは間接イメージです。また、私は「ソロモンの祈り」(列王記上8章27節)の「神は本当に地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることができません。私が建てたこの神殿などなおさらです。」(その他、新約聖書使徒行伝7:48~49、17:24~28参照)から、間接的に「神」を「(無限)大」なる存在としてイメージします。

 

以下、量良治氏による波多野精一氏に対する批判と、その愚かさ。

<波多野は宗教を定義して次のように述べている。

他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる――これが宗教であり、これが又生の真の相である。(上掲書二一六ページ)

宗教は自我において、自我よりして、自我の力によって生きるのではない。そうではなくて「他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる」のであると言う。この他者は、観念的ではなくて実在的であり、相対的ではなくて絶対的である。宗教において自我が関わる他者は絶対的実在としての絶対的他者なのである。このような他者はふつう神と呼ばれる。宗教とは自我としての人間の絶対的実在としての絶対的他者、すなわち神との関係である。

神聖性

神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。

それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは「神聖性」である、と。(以下、略)>

(量氏前掲書p108~109)※「上掲書」とは、『宗教哲学』(『波多野精一全集 第四巻』〔岩波書店〕)。

<仲保者論の欠落

総じて波多野宗教哲学の著しい特徴は仲保者論、キリスト教神学的に言えば、キリスト論が欠落していることである。波多野は次のように述べている。若し現実に存在する諸宗教のうちに、絶対的他者と人間的主体との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は実は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は実は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであろう。

(上掲書四三三 ― 四三四ページ)

波多野はこの文章に注をつけて、「それ故、例へばキリスト教神学の説くキリストの神性は、神の神聖性の必然的帰結とさへいひ得るであろう」と述べている(上掲書四三四ページ)。しかし、キリスト教神学では、キリストは単性論的にではなくて、すなわち、単に神でも単に人でもなくて、両性論的に、すなわち神性と人性との矛盾的自己同一としてとらえられているのである。波多野においては、キリスト論だけではなしに、聖霊論も欠落している。言い換えれば、波多野宗教哲学は三位一体論的にではなくて、ユニテリアン的に論じられているのである。このことは、波多野宗教哲学が宗教一般の哲学であると言うならば、看過することができるが、キリスト教的宗教の哲学としてはやはり問題であると言わざるをえないであろう。>(量氏前掲書p122~123)

三位一体論的に論じたら宗教哲学ではなくキリスト教神学になるだろう。量氏の方が、宗教哲学キリスト教神学になっているのである。「ユニテリアン的に論じられている」のは大いに結構!同じく「一神教」のユダヤ教イスラム教にも通底し得るには「仲保者論の欠落」はむしろ当然であろう。第三者を立てれば、それは神そのものか、無神論になるということなら、第三者は立てる必要はない。新約聖書の物語においては仲保者キリストには「神」の性質があり、それは現実世界のこと、つまり歴史上の事実の「History」ではなくて、あくまで「His Story」たる物語の中での話なのだから別に認めても良い。 

 

以下、関根清三氏の言葉。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書p7780)

なんだかんだ言っても宗教である以上、そして救済を切実に真剣に求める相手だからこそ、神の「絶対」性は必然的に要請されるってことでしょう。小田垣氏の言うような他者性の無い非対象的な神など信仰できますか?また、野呂氏のように絶対的ではなく究極的な存在なんて信じられますか?自分は小田垣氏は考え過ぎで、人格神が絶対無であり「ただそれを生きられるもの」とする理屈は受け入れません。また、野呂氏についても自分は究極的存在より絶対的存在の方を信仰します。野呂氏が選んだ「究極」の方こそ日常生活では一般大衆にとって使い慣れない抽象性の高い言葉ではないでしょうか?「絶対」ではなく「絶対的」と言えば、哲学的な意味で「対」なしだから無だ…とかいった話にはならず、最近の言い方では「超越」と似たようなことで、「ヤバイ」って感じの形容になります。「超絶」と言うこともありでしょう。

量氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で次のように述べています。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(p236)

以下は、岡田稔著『(改革派)教理学教本』より「聖定」に関する文言の引用です。

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。>

 「運命(fate)でなく、また聖定(decree)と表現するより、神の計画(plan)を信じる < 人間の理解を越えた、万事を益をされる神の計画 >」Microsoft Word - 配布用B5小教理問答③.doc (murraylawn.org)  否‼ 否‼「神の計画(plan)」などとするより「聖定(decree)」と表現する方がいいです❕

「アウグスチンは神の先行的恩恵〔プレヴィニエント〕、常勝的恩恵〔プレヴェーリンク〕、進んで不可抗的恩恵〔イレジスチブル〕といふことを申します。神が人に恩恵を下さるのに、いつも先手をうたれる、如何なる障害をも突破して下される、神の与える恩恵は不可抗的で、何人も之れを妨げることは出来ないといふ事です。神は恩恵をしばしば人に強ひられる、神は同情の押売をせられる。だからいかに暗く、つらく見える運命でも、之れが神の自分に強ひたまふ恩恵でないと誰が断言出来ませう。私共は自分の過去を顧みて、あの時、この時、神が自分に強ひて恩恵を与へたまはなかったら、今頃自分はどんなであつたらうと考へさせられることもあります。」(~『恩寵の王国』の「神を嗣ぐ者」一〇)

恩寵の王国 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

ちなみに、川島隆一牧師は葬儀説教で以下のように語っておられます。

< 教会の歴史の中でその名を記憶される優れた指導者トマス・アクィナスの言葉に、「神はそれが偶然に起こることを欲した」というのがあります。偶然とは、起こるべからざることが起こるということです。キレネ人シモンに、「キリストの十字架を負う」という、まさに起こるべからざることが起こったのです。そして聖書は、このキレネ人シモンの中に、「自分の十字架を負うてキリストに従う」という、キリスト者の理想を見てきたのです。キリスト者はこれを、「強いられた恩寵」と表現してきました。ここには、自分はすべてを捨てて神に従ったという、自己栄光化が入り込む隙はないのです。それは「強いられた」ものであり、しかも「恩寵」なのです。恩寵である以上、その務めを果す力は神によって備えられるのです。>

ホスティア 「強いられた恩寵」 (fc2.com)

聖書において証しされているところの、予定および聖定の主としての神の絶対的主権によって相対化されるべきことは、メンタルヘルスにおいては、世間的価値観としてのいわゆる富や名誉や生産性などだけではなく、「運」というものが、きわめて普遍的で絶対的な意味を得ている。「運命」にせよ「運勢」にせよ、まさに古今東西、人格神に対抗する最強の偶像だ。これの良し悪しで人生が決まるかの如く信じ込んでいる人のなんと多いことか…?自分自身、その信じ込みから解放されねばならぬうちの一人である。

ところで、野呂芳男氏については親交があったといわれる八木誠一氏が、野呂氏は人格主義神学で「内在」とかには関心なかったと証言しているとおりで、野呂氏のホンネは八木氏も親交があり本人も葬儀を司式したほど親交があった信徒神学者・伝道者の小田切信男医師へのエールに如実に露呈されていると思われます。以下、引用。

< 神は、三でなくて一つなので、三が同時にイコール一だなどという数学方程式は成り立たないではないか。だから一は一で、三は三であり、唯一の神はやっぱり唯一なのだから、三位一体論は成り立たないというような、先生のお話をどこかで承ったことがあるように思うのですけれど、私はこれが神学的に非常に重要なモチーフを中に含んだ三一論の否定だと思っております。それは何かというと、神の人格性を最後迄守ろうという意図がその中にあるからだと思うのであります。即ち神が唯一であるということ、それは人間と本当の意味で我と汝の形において対決する神である。(中略)そういった激しい人格的な邂逅があるんだからその邂逅をくずすような三一神論などというものはまっぴらご免だと、こういうような動機が私はあるように思うのであります。実は私はそれに心から共鳴するわけであります。キリスト教というものが、こういう意味での唯一神論というものを捨てたならば、私はたかだか一つの哲学に転換するだろうと思うのです。やはり組織神学を勉強する一人の人間といたしまして、この点を無上に尊いものとして評価したいと思うのであります。>(野呂芳男氏の論文~小田切信男著『神学と医療との間』〔創文社〕p271~272)ふだん口では、伝統的キリスト教の中で神学者としての立場を得る以上は、モルトマンの社会的三一神論なるものにまで言及して、古典的三一神論ではないにせよ、いちおうニカイア信条由来の三一神論を信奉して正統的系統に立つかのようなことを言いながら、一方では明らかに御子従属説を唱えて三一神信仰を否定する「異端」(というものを認めるか否かは別問題として…)に位置する小田切氏に対して、これだけの賛辞とエールを贈っているということは、野呂氏の二枚舌ぶりを露呈しているとも言える。しかし野呂氏は所によっては次のような大胆なことも述べています。一方ではモルトマンないしはカパドキア3教父の「社会的三一論」がいいとか言う人なので、その内容がどこまで信用できるかはともかく…。

< 私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書に元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。(中略)『三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない』」(野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)

いわゆる「人格神」でも「擬人神」に近いような神話的神観なら信仰生活には使えません。スピノザの神観のような「非人格」では聖書が示す神観にはならないが、さりとて「人格」が「擬人」に近づくことは、「インマヌエル」を救いのメッセージたらしめない。人格神観の野呂芳男氏が「霊なる神は、人間がプライヴァシーのほしい時には、人間から遠くに離れていることのできる存在であり、近くにいてほしい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近くいてくれる存在なのである。超越の神が死んだり、あるいは、死んで内在化したりするような神の幼椎な観念、旧約聖書でさえも本質的には所有していないような観念を、我々は捨てなければならない。」とか「神は人間が全く神からも離れて孤独になりたい時には、遠くにいて下さる」と述べておられるとおり、対神関係は対人関係と同じく距離を置いてもらわないと鬱陶しくていけませんから…。(参照:野呂芳男 NORO, Yoshio, bibliography (eucharistia.tokyo)

コヘレト的神観は「人格神」と「非人格神」との中間的でよろしいかと思います。そういう神なら共におられてもストレッサーにはならないでせう。

並木浩一氏は私からの質問メールへの御返答として次のように書いて下さいました。(※一部の太字化は私による)

ヤハウェ擬人神観の起源はイスラエル本来の伝統と、おそらくペルシア中期以降の周辺世界の神話的な表現の採用と、二つの主要源泉があるでしょう。本来の伝統とは、出エジプト以来の「連合戦争神ヤハウェ」の受容です。イスラエルの指導者たちは神を見ながら飲み食いしています(出24:7-9)。この記事は新しいものですが、古来のヤハウェ契約の特色を残しているでしょう。そもそも、「主」(アドナイ)という理解が擬人神観を前提にしています。神を超越神として、この擬人神観をできるだけ排除しようとしたのが、祭司文書、エロヒストでした。エロヒストはヤハウィストの擬人神観をできる限り払拭しようと努めましたアブラハムに対してエロヒームが夜に、おそらく幻の中で、呼びかける存在として描かれています。また祭司文書は神を創造神にまで超越化しましたが、それでも創造神は、「われわれは、われわれの形にかたどって」人を創ろうと言っています。一般的には、一人称複数形は「尊厳の複数」などとして理解されていますが、おそらく、ここでは神の自己内対話(対話は複数として観念される)が考えられているでしょう。「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ません神学者はこのような擬人神観をポジティヴに受け止めて、神と人間との質的な差異を認めつつ、人間との「類比」(アナロギア)において神を語る手法であると見なします。「人となった神」という受肉の理解は、まさにアナロギア的に考えない限り、躓きます。しかし、人格神に抵抗を示す神学者もいます。ティリッヒのような宗教哲学者(本人は神学者と自認する)は神から人格性剥ぎ取り、神を「存在の構造の根底」(the ground of the structure of being)と定義します。「徹底的唯一神論」を主張するリチャード・ニーバーもティリッヒ存在論を肯定しているでしょう。しかし、宗教哲学者による神の定義を聖書的に根拠づけることは難しいでしょう。>

並木氏はまた、『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』(日本キリスト教団出版局)では「人格神」に関して以下のことを述べておられます。

「神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに『あなたは私たちの神です』と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。(中略)神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。『人称』はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに『神称』とは言いませんし、言っても意味がありません。」(p208)

以下、有賀鐵太郎博士の論文「第二世紀の希臘教父に於ける擬人の問題」より「一、ヘブル的観とギリシア観」から引用します(※以下、漢字は一部を除き常用漢字に改める。濃い字はブログ主の私による)。

< ヘブル的一神教は始から存したわけではなく、又その完成は一夜の中になされたのでもない。それは長い間の発展を経た後アモスからエレミヤに至る偉大なる預言者たちの信仰に於て完成した處のものであった。けれども今我々はその過程を論じようとしているのではない。我々はたゞ基督教徒がイスラエルの遺産として受継いだところの神観は如何なるものであったかを想起したいのである。自分はそれに就ても只次の諸点を指摘するに止めよう。

一、イスラエルの神はあく迄も人格神である。勿論その初期に於ては極めて擬人的に表象せられた神であった。それが発達するに従って外形的擬人観は減じたが、人格神の信仰から擬人的要素を完全に抜き去ることは不可能である。人間との隔りは如何に遠くあるとも、やはり神は人格的な存在として考へられたのである。イスラエルも又他の国々もその御前に責任を感じなければならないところの、世界の創造者、支配者、審判者として表象せられたのである。固よりイスラエルに対しては、神は特別の恩寵を以て之を選び、之に特別の使命を与へ、之を護り且救ひ給ふ慈悲と恩寵の神で在すのである。かくの如き神として、神は歴史の神であり、摂理の神である。

二、神は唯一である。而してこの神の唯一を高調することは、当然他の神々を拝することを禁ずることとなる。十誡の第一誡は言ふ迄もなく「汝わが面の前に我の外如何なる神をも拝すべからず」である(出埃二〇・三)。此の神は嫉む神で在す故に、他の神々を許容し給はない。イスラエル一神教絶対に多神を排除する意味に於ける人格的一神教である。

三、又此の事に関係して、偶像崇拝の禁止がある。第二誡の命ずる如く「汝自己のために何の偶像をも彫むべからず」である(出埃二〇・四)。而して偶像と神々とは事実上同一視されているので、一の禁止は又他の排撃をも含むのである。

四、既に第一の点に於ても触れた様に、ヘブル思想自体に於て、擬人的要素を能ふ限り少くして、神を超越的存在として説く傾向が虜囚期以後特に著しくなったことを記憶する必要がある。

このような人格的一神教を受継いだ基督教徒が、多神を信じ、偶像を拝する異教の信仰を許容出来なかったのは当然である。>170201.pdf

(※後は本文を直接読まれたし。)

ここでは特に、「擬人的要素を能ふ限り少くして、神を超越的存在として説く傾向」という点が自分にとっての「絶対神信仰治療」に通じており、自分も人格神の非擬人化というテーマで自分の神観を考えます。できるだけ擬人神的要素を排して、擬人化傾向を避けるようにしなければ、神が自分と共にいると言われてもあまりありがたくはない。擬人的要素が強い神が遍在するとなると、自慰の時には神は不在でいてもらわなければ困ります。でも擬人的要素が低いのであれば、そんな気遣いは無用になり、共におられても問題ありません。

以下、山我哲雄著『一神教の起源  旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩書房)より引用。

申命記は形式的にも内容的にも 、条約文書としての性格を備えていることになる。ただし、それはもはやアッシリアの大王を宗主として忠誠を誓う文書ではなく、自分たちの神、ヤハウェのみに仕えることを誓約する神との「契約」の文書なのである。申命記の著者たちは、明らかに自覚的・意識的に、アッシリアの条約文書の形式と用語を用い、それを自分たちのヤハウェとの関係を規定するために転用している。前八世紀の預言者たちが「世界神」という普遍的なアッシリアの神観念をヤハウェに転用したように、前七世紀の申命記の著者たちは、アッシリアの条約文書の様式と用語や観念を逆転させ、ヤハウェイスラエルの関係を描くために用いたのである。(中略)本書の主題である一神教の問題との関連で申命記を見てみよう。ヤハウェ以外の神々の崇拝を厳しく禁じるという点で申命記一神教的であったとすれば、(中略)結論を先取りして言えば、申命記の神観は、前八世紀の文書預言者たちの多くの場合と同様、拝一神教的であったと見るべきである。ただし、前八世紀の文書預言者の場合には、ヤハウェが世界を支配する神であるという普遍的な神観を示し、イスラエルを圧迫する異民族をイスラエル・ユダを罰そうとするヤハウェの道具と見て、それらの民族の神々の存在を事実上黙殺することを通じて、民族的な拝一神教の枠を超えていく傾向が見られたが(中略)、申命記の場合には、そのような傾向はあまり見られない。(中略)申命記では、(中略)明らかに後代の付加である少数の例外的な箇所(申四35・39、三二39)を除き、他の神々の存在そのものを否定したり、ヤハウェイスラエルを超えた世界全体の神と見なすような記述はほとんど存在しない申命記においてヤハウェは、あくまで「あなたの神」(申六2・5・10等参照)、すなわちイスラエルの神であり、イスラエルヤハウェの選んだ「宝の民」(申七6、一四2、二六18)なのである。(中略)先住民(すなわちカナン人)の神々を礼拝しないように警告する場合でも、それらの神々の存在自体が否定されたり、それらが例えば「偽りの神々」だと喝破されることはないのである。(中略)

さて、「シェマの祈り」の場合、一人称複数形で書かれた前半は、二人称単数形で書かれた後半よりも古いと考えられる。逆に言えば、「聞け、イスラエルよ。われらの神、ヤハウェは唯一のヤハウェである」という独立した宣言文に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、ヤハウェを愛しなさい」という奨励文が後から加筆されたのである。ここで問題になるのは、より古いと考えられるその前半部で、ヤハウェが「唯一(エハド)」であるということがどのような意味で言われているのか、ということである。(中略)実はこの部分の原文は、簡潔すぎて非常に意味の取りにくい難文なのである。原文はわずか六つの言葉からなり、冒頭の「シェマ(聞け)」という動詞の命令形以外、動詞はない。左に、原文の音写とその直訳を示そう。

「シェマ・イスラエルヤハウェ・エロヘヌー・ヤハウェ・エハド」

「聞け・イスラエルヤハウェ・我々の神・ヤハウェ・一」

最後の「エハド」は、ある物の数が「ひとつ」であることを示す数詞である。それゆえ、最初の「シェマ・イスラエル」を除けば、残りの四語は「ヤハウェ」を主語とする二つの並行句が並んでいるもの(「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」)とも解せるし、最初のヤハウェと「エロヘヌー」を同格ととって、「我々の神ヤハウェ」を主語とする一つの文とも解せる。新共同訳は後者の読み方を採用しているわけである。これに対し、英語圏で広く用いられている新改訂標準訳(略号NRSV)はむしろ前者の読み方を採り、しかも数詞「エハド」を副詞的に意訳して、次のように訳す。The Lord is our God, the Lord alone. 直訳すれば、「主は我々の神、主のみが」ということになろう。ただし、NRSVではこの箇所に脚注が付いていて、他の三つの訳の可能性が注記されている。

The Lord our God is one Lord.(新共同訳はこれに近い)The Lord our God, the Lord is one. The Lord is our God, the Lord is one.

(中略)筆者自身は、右の四つの訳の中では、第四のものが最も単純であると考える。すなわち、ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」である。NRSVの本文のように数詞「エハド」が「~のみ」、「~だけ」という副詞的意味で用いられる例は、ないわけではないがむしろ例外的である。(中略)「エハド」を数詞と解し、「ヤハウェ・エハド」という表現を極めて単純素朴にとれば、ヤハウェはひとりしかいない、ということを意味する。神一般がひとりしかいないということではなく、あくまで「ヤハウェという神」がただひとりだ、ということである。(中略)このことが初期の申命記運動で強調された背景として、二つのことが考えられる。一つは、それが祭儀集中と関連する可能性である。すでに述べたように、申命記運動の柱の一つは、各地の地方聖所を廃止して、エルサレム神殿ヤハウェ祭儀を限定するという祭儀集中であった(中略)初期申命記運動は、「ヤハウェがただひとり」であることを強調することにより、それに対応して聖所も唯一であるべきだ、と主張したものと思われる。すなわち、「我々の神ヤハウェ」は「エルサレムヤハウェ」ただひとりだ、ということなのである。一部の研究者は、このような主張を「単一ヤハウェ主義(モノ・ヤハウィスム)」と呼ぶ。

もう一つの可能性は、前八世紀の末にイスラエル北王国がアッシリアによって滅ぼされたこととの関連性である。(中略)今やユダ王国自体が唯一の「イスラエル」にならなければならなかった。その際に、ヤハウェという神の共通性が重要な役割を果たしたと考えられる。(中略)この二つのいずれの場合においても、「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教だからである >(p271~276)

十戒の第一戒も申命記の「シェマ」における「唯一」も、共に単なる唯一神教ではなく、「拝一神教的」であるということが極めて重要。なお、私見ではこの「拝一神教」的信仰形態を、異教国である日本社会の中でヤハウェ信仰を維持するために応用できるし実際に自分はそうしてきていると思うが、それは言わば積極的な意味での宗教的相対主義であり、「唯一」(エハド)の元々の意味は「ヤハウェが唯一」であっても、それを現代日本社会の現実状況に即して再解釈して、自分(たち)にとってはヤハウェのみが(「神」と言うより「主」であり)「絶対(主権)者」である、ということが信仰告白の表現として有効であり必要だと思います。その際、私見ではある種の「エポケー」(判断停止)が必要になると思います。他人には他人にとっての「神」や「仏」といった信仰(礼拝)対象があるので、その(実在ではなく)観念としての存在は認めたうえで理論的に黙殺するとか言論として否定するといった態度ではなく、実在か観念かの区別なしに要は他の宗教的対象が存在することは認めつつも、それに対しては肯定も否定も言わず思考や判断を停止して、行動面ではいっさい関わらないということ(実際は和のために関わらざるを得ない面もあり、そこは程々にして、あくまで形式的なレベルに止める)。

また、信仰告白における「絶対」という用語は、客観的事実を表わす記述言語ではなく、主観的事実を表わす表現言語なので、「絶対」なんて哲学用語だから不適切だ…などと言われる筋合いのことではありません。そもそも神学(用語)と哲学(用語)との厳密な区別などはキリスト教の歴史を通して見るならば、そう簡単ではないはず。この点は苫小牧福音教会の水草牧師も、2023/03/16の電話で言っておられたことでもあります。

「相対は絶対がなければ相対では有り得ない。逆も真である。相対は可能態として絶対を含んでおり、絶対は現実態として相対を前提している。このことは、相対なる人間が手にし得るものは相対だけだということである。」(~小田垣雅也)宗教多元主義の諸相 (sophia.ac.jp)

勝村弘也著『旧約聖書に学ぶ 求めよ、そして生きよ』(日キ教団出版)では、次のように述べられています。

< 神は、わたしたち人間の眼には見えない御方であるとよく言われます。これは単に、神が物質的な存在なのではないという意味なのではなく、神がわたしたちの想像を絶する御方であること、つまり、超越的存在であることを述べようとしたものでしょう。たしかにわたしたちの信じている神は、人間の感覚で直接とらえることはできませんし、その存在を論理的に証明することもできません。しかし、聖書は、神が眼や耳や手や足を実際に持っておられるかのように述べています。眼がないのに「神はその光を見て、良しとされた」(創世記1・4)というのは変です。神に耳がなくては「彼らの叫ぶのを聞いた」(出エジプト記3・7)とは言えず、「主よ、わたしのことばに耳を傾けて下さい」(詩篇5・1)との祈りは意味をもちません。神が食べてはいけないと命じられた木の実を取って食べたアダムとその妻は、神が園の中を「歩まれる音」を聞き、「神の顔」を避けて身を隠した(創世記3・8)と聖署は語っています。また出エジプトの出来事に関して、「主は強い手と、伸べた腕と」をもってイスラエルの民をエジプトから導き出された(申命記26・8等)と繰り返し述べています。神に関するこのようなものの言い方を、もちろん比喩的表現と呼んでもかまわないでしょう。神は実際には人間のように眼や耳のような器官を持ってはおられないのだと、一応考えられるからです。しかし、それにしても聖書にはこのような表現の何と多いことでしょう。単なる比喩とするには、あまりにも用例が多すぎます。それに、人間の創造に関して「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1・27)とも言われています。この箇所については、別に綿密な考察が必要なのかもしれませんが、素朴に考えれば、人間のからだにいろいろな器官があるのだから、神にも同じ器官があって当然ということになります。そして、このように考えて聖書を読んでいって特に矛盾するところは、多くはなさそうです。もっとも、「神さまって、どうやってわたしたちの祈りを聞かれるのかしら、いったいどんな耳をしてるのかしら」とか、「神さまって、男なのかしら女なのかしら」等と考えはじめると変なことになるのですが。いわゆるヘレニズム時代になって、旧約聖書が哲学者たちの眼に触れるようになって以来、神の眼、耳、顔、手、足といった表現は、当然真剣な問題になりました。神学者たちは、これをアンスロポモルフィズム(Anthropomorphism)と呼ぶことにしました。日本語には、<神人同形法>(『キリスト教大事典』参照)とか<擬人神観>(『旧約新約 聖書大事典』参照)と訳されています。たしかにこのような表現によって、聖書の神が、自然の諸力を神格化したものでも人間の論理的思考の結果として要請される存在でもなく、人間と出会う生きておられる御方であることが知られるのです。聖書の神は、人間を限りなく愛されるがゆえに、また悩まれるような御方なのです。ホセア書には、神のことばとして「わたしは神であって、人ではない」とありますが、これは神の「心」が人間の予想をはるかに超えて慈愛に富むものであることを述べる文脈に出てくるのです(11・8-9)。神は人間のように家には住まないと、その超越性について語る同じ箇所で、神の「足台」や「手」が問題になっています(イザヤ書66・1-2)。聖書の世界では、神人同形法によらずに神について語ることはおよそ不可能だとさえ言えるでしょう。(中略)旧約には精神と肉体とか、観念の世界と物質の世界の対立のような二元論はないとよく言われますが、このことと、世界で起こるさまざまな事象を具象的に表現しようとする態度との間には明らかに関係があります。人間が<からだ>であるよりも前に、精神的な存在であるとか、肉体よりも精神の方がすぐれているというような考え方は、旧約にはありません。したがって、人間と神とは別であるのは当然ですが、神を<からだ>として表現することには、単に比喩としてそのように語ること以上の意味があるのではないでしょうか。>(p32~35)

次は一転して、コヘレトに関する引用です。

「神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(~有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)。「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(→五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し( 3:117:142912:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13175:1719他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:3134、ルカ12:2931参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派教理で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのです。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。

誰からも特定の「神(観)」を押しつけられることはない。それがコーヘレトの場合も、あえて固有名ではなく普通名で「神」を語った意味であろう。人格神には変わりないが、ヨブのように神義論に陥るような神観と比べれば、はるかに擬人性が薄い点が良い。

< 神名としての「エロヒム」のみの使用は、コヘレトが人間の普遍的な状況について語ろうとする試みとして理解され得る。愚かさと虚栄に他ならぬ人間の多くの営みを対比的に語りつつ、『コヘレトの言葉』は、私たちの生の目的は神との関係のうちに生きることである、と示唆する。>(「IP-J-63」所収.ダグラス・K・フレッチャー/竹内裕訳「コヘレトの言葉五章一― 七節」p120

五木氏の『人間の覚悟』では、< じつのところ、私は「教え」としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。>(p123)とか、<「中道」という考え方は「いつも真ん中にいればいいというわけではない。両方を大事にせよということです。」云々と講じたりしていますが)、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」>(p129)という言葉が印象に残った。

私にとって宗教とくれば民衆救済宗教であり、(超)人格主義的宗教ということになり、対神関係は「対(超)人格神関係」ということになります。仏教には「絶対者」としての人格的存在としての「神」が実体として無いわけですが、人間はこれがないと苦悩そのものを相対化することができないのではないかと思います。これも迷いなのかもしれませんが、神観は迷妄だとしても、その迷妄ゆえに対人関係による心労などから解放されるとしたら、その事実は認めざるを得ません。ゆえにその効果においてそれは迷妄と言って否定し去ることは出来ないのです。確かに遠藤周作氏のエッセイで言われるような「はたらき」としての神観は現実的・経験的で説得力がありますが、救済の観点からみるといずれにしても人格性が必要だし、それは確かな存在であり対象であってこそ、その救いのはたらきを期待できるのであって、信仰対象としての主体なき働きだけに意識を向けることはできません。もちろん、遠藤氏が感化を受けたと思われる八木誠一氏も、外からのはたらきかけを言う場合には人格的存在として神を語らざるを得ない旨のことを述べておられます。但しそれは実体では無いということです。実にギリシャ教父の古典的三一論の問題点は、八木氏によると人格主義と実体論(存在論)との組み合わせでした。その反対側に場所論がありますが、対局ではないのは、場所論も人格主義を否定しないからです。八木氏によるとイエスは人格主義的場所論であり、八木氏自身も同じ立場だということです。

「イエスの宗教は場所論的である(正確にいうと後述のように人格主義的要素を併せもつ場所論)。(中略)私がいう意味での『場所論』は、新約聖書学および『仏教とキリスト教の対話』を経て構想されたものなので、西田哲学と同じではない。(中略)

まず場所論は神を人格や存在というよりは、まずは『はたらき』の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、『はたらき』の面が優越するのである。むしろこう言った方がよい。神を、経験と自覚に現れる『はたらき』として把握して語ると場所論になるのである。」(八木誠一著『イエスの宗教』〔岩波書店〕p1~2)

「ここで読者は、神(キリスト、聖霊)が場所論では『霊』として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、『霊』は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。『霊』は人格や存在というよりは、『はたらき』である。」(同、p3)

やはり比喩的には、神さまもどっしりと構えたお方でないと頼りがいが感じにくいので、どうしてもイメージ的には存在の確かさを求めるような感じで絶対とか人格とか実体といった言葉づかいにはなる。しかし目に見えない「霊」であるという点では、あまり擬人化した神話的イメージはリアリティーを薄めてしまう。だから宗哲的に、絶対の人格的実体といった表現にとどめるのだ。

「認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。」(同、p8)

「宗教には、第一に人格主義的宗教がある。(中略)第二に非人格主義的宗教がある。(中略)第三のものとして、以上二つの間に、人格主義的場所論(あるいは場所論的人格主義)ともいうべき立場がある。イエスの立場はこれである。私も従来、そして今でも、この立場に立っている。」(同、p18)

八木氏の宗哲思想に対しては、「霊」と「愛」の2つの観点で批判を試みなければならない。

まず「霊」に関しては、ヨハネ福音書4:24で「神は霊」だと言われているが、その意味は必ずしも非対象・存在的であるとは言い切れない。さらに『旧約新約聖書事典』では、「神は霊」であるとは旧約では言われていないと明記されている。むしろ旧約聖書における神話の比喩的表現…特に所謂「ヤハウィストの神」などは人間的とさえ言える。次に「神は愛」だということに関連してか「愛する者は神を知る」とヨハネは言うし八木氏もこれに呼応するわけだが、救済宗教は愛なき者が必要とするものであって、愛ある者ならすでに救われているのだ。従ってヨハネの愛の神学は救われた者の神学なのであって、最初からこれが出されるとどうにもならない。愛なき者が神との関係に入って救いを体験して愛する主体になるまではそう簡単ではないのだ。愛なき者にとって相対化すべき事柄は多い。だからこそ神の絶対性もますます強く要請されよう。すると神はまずもって愛し得ぬ者をも愛す神ということになる。自分を愛せない者を愛し得るからこそ超越者であり神なのであって、自分を愛する者だけを愛するなら人間と変わりあるまい。

 

youtubeなどで精神科医やカウンセラーのような人たちがメンタルで苦しんでいる人々へ向けて自己啓発的・心理学的な話を発信していますが、一時的にはうまい発想で自分の脳を誤魔化せたつもりが、すぐに懐疑が生じて誤魔化しきれなくなるようなおそれがあるのです。仏教的知恵はキリスト教などよりも現実的諸問題の解決に於いて参考にできると思いますが、絶対他者が唯一の実体として存在しない世界では積極的相対主義の立場も無いでしょう。聖書において積極的相対主義とは拝一神教の立場です。矢内原忠雄氏が本居宣長批判で述べているとおり神の絶対性ということが民衆の救済宗教では不可欠だと思います。ただしその「神」はコヘレトの場合のように「遠くの神」でなければなりません。その存在を忘れるくらいの距離が逆対応的に「近くの神」となるのです。エレミヤの「わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか」(エレミヤ23:23)に関しては並木浩一氏が『人が孤独になるとき 説教・講演・奨励集』(新教出版社)の中の「2 遠くの神ではないのか」で詳しく解説しておられます。特に重要な箇所を以下、引用します。

「神はヨブに対して神の神たることを貫かれましたが、エレミヤの場合もそうでした。エレミヤの激しい抗議と嘆きにもかかわらず、神は彼と妥協することはありませんでした。神はエレミヤにとって遠い神としてのご自身のありかたを貫き通したのです。神は彼の抗議を適当に聞き入れるようなことをしません。そこで彼は傷つき破れます。神は神であり、彼は人であるという事実があいまいにされることはありませんでした。彼は人間として破れましたが、しかし彼が破れても神は神でいたまいます。神は神でいたもうことによってエレミヤに対する真実を貫いたのです。神がエレミヤと妥協しない神であればこそ、彼は再びこの神に立ち返ることができました。彼は破れましたが、この神を唯一の頼みとすることができたのです。そのとき遠い神が同時に近い神となりました。神が人に対して遠い神であることを貫かないとしたら、エレミヤのように破れ傷ついた人は、神に本当の信頼を寄せることができるでしょうか。」(p32)

私にとってはストレスフリーの精神的自由こそ最高の目標であり、その自由を得るために「神」を必要とするのです。これは矛盾ではなく、「神」なき自由は虚無です。まず、自分の中の権威を相対化する必要があります。権威主義的志向が人を苦しめるからです。他人と優勝劣敗の比較をするから敵が現れてしまうのです。誰でも世間体の良い場所で生きたいと願うのが人情です。しかし現実はそうはならない時、自分が価値を認める権威自体を相対化することによって、その場所に入れない自分自身を否定することなく、他の場所で生きてゆけるのです。いつまでも幻の絶対的権威に縛られて、特定の場所でしか自分は生きてゆけないんだと思い込んでいる限り、人生は前に進んでゆきません。その空白期間が無駄になります。人はつねに前へ前へと進んでゆかなければならないのです。そのために自己暗示といった程度のことかもしれませんが、自分で自分に思い込ませるのです……他の場所だっていいんだと思い込ませるのです。それが私にとってのセルフ・マインド・コントロールであり、「絶対神信仰治療」と名付けたロゴセアピー的信仰治療なのです。

人格的神観が擬人的神観にとどまっているなら、そういう「対(人格)神関係」は常に「遠くの神」でなければダメです。いちいち神の目を気にしていては大衆現場での優劣比較に満ちた殺伐とした対人関係に対処してはいけません。いつも神の臨在を意識して社会生活を過ごせる人たちというのは恵まれた環境に生まれ育ったぼっちゃんじょうちゃんの類です。…って言うか、そもそも人格神は擬人神でなく、いわゆる神義論的問いにみられるような不条理現実がある以上、人間が神に対して抱く「善」とか「公正、正義」とかいった道徳的・倫理的概念も、神のそれは次元を超えた意味があるだろうし、あまりに擬人化された旧約物語などを読むことで形成される神イメージでは遠く及ばない人格(というか神格)である可能性の方が高いと思うから、べつに敢えて「遠くの神」を求めずとも最初から「遠い」と思えばよい。教会的には「臨在」している、近くにおられるお方だと言うし、「遍在」という言葉の意味からして遠くもあり近くもあるわけだが、いわゆる人格的「我-汝」関係としては、神秘主義者でもないかぎり、汝である神は近い存在であるより遥か遠い存在として感じられて然り。イエスとて十字架の死に臨んで御父をいかに遠くに感じておられたことか…。ちなみに並木浩一氏は「遍在」についてうまい説き方をしている。以下、前掲書から引用。

< 二四節をご覧下さい。「わたしは天と地に満ちているではないか」と神はいわれます。もちろん神は神秘的な仕方で天と地に満ちているのではありません。この言葉は神が創造主として、歴史の支配者として、契約の主宰者として世界に臨みたもうご自身の自由を語っています。神は人が何か神々しいと感じることのできるような場所に閉じ込められる方ではありません。日常世界のすみずみにまで神は臨みたまいます。社会の一隅で貧者がしいたげられることをも、神は見のがしません。それどころか、神は個々人の心の偽りさえ追及されます。人が神の眼から逃れられるような領域は天と地のどこにもないのです。人と共にいましたもう神は徹底して近い神なのです。>(p28~29)

 

経済学にマクロとミクロとがあるように、人生論にもマクロとミクロとがあって、自分の場合はマクロが聖定論、ミクロがメンタルヘルス論である。このブログはその両方によって構成されている。はじめの方はマクロ、後はミクロだ。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

 

< 神の絶対的な予定と人間の自由意志とは後世の神学をまつまでもなく、既にコーランにおいて衝突していたことは、前章に述べた通りである。世に起るありとあらゆる事柄はあらかじめ神が定めて置いたものが実現するに過ぎないという、この神の予定、宿命のことをアラビア語では「カダル」qadar と呼ぶのであるが、そのカダルの絶対性を主張し、人間にいささかも自由意志を認めない一団の人々が、神学上にいわゆる、ジャブル派(Jabriyah)である。ジャブル(Jabr)とは字義通りには「強制」、誰かを嫌でも応でも強制し、暴力を用いてでも何かをやらせることを意味する。コーランでは、アッラーは「全てをあらかじめ定め給える」もの(alladhi qaddara)(八七章三節)と呼ばれ、反対に人間の側から見ては、「あらかじめ神の書き定め給うた事の外、我らに起ることはない」(九章五一節)と言われているのを見ても分る通り、人間はその一挙手一投足、いや、一瞬のまばたきすら自分の自由にできるものではないという考えは、コーランの多数の章句から生ずる当然の帰結である。(中略)

さて、ジャブル派に対して全く対蹠的な態度をとる学派が前章の最後にその名を挙げたカダル派(Qadariyah 一名、Ahi al-qadar「カダルの人々」)である。彼らは神の予定、宿命を正面から否定し、人間の自由意志を認めた。元来、カダル qadar という言葉は、(神の)定めたもの、即ち宿命を意味するのであるから、カダル派といえば寧ろ宿命論者に適した名称であって、宿命を否定し、カダルを認めない人々をカダル派と呼ぶのは、いささか妙な名付けかたである。>(p35~41)

ここにはキリスト教神学における所謂「自由意志論争」と同様の構図がある。すなわちイスラム教における「ジャブル派 VS カダル派」は、キリスト教における言わば「恩寵派(アウグスティヌス、ルター、カルヴァン )」VS 「自由意志派(ペラギウス、エラスムスアルミニウス)」に対応する。

 

次は、イスラーム神観へのネオ・プラトニズムの影響と差異に関する記事の中から抜粋引用する。

 <ファーラービーは獲得知性の現成を神秘主義的「合一」(unio mystica,〔略〕)と混同してはならないと言う。地上に生きているかぎり人間の神化は絶対に不可能である、と彼は確信していた。この点でファーラービーはプロティノスやポルフュリオスとは立場を異にする。人はスーフィーの主張するように絶対者の中に融入しきりこれと合一しきることはできない。ただ神に近付くことができるだけである。正しい認識によって、人間能力の限界内において神に接近することがファーラービーにとって哲学の究極の目的であった。(中略)原因を順々に辿って行くと、一番端に、それ自身は最早何者をも原因としてもつことなく、絶対に必然的に存在し、最高度の完全さと無比の実在性とをもち、自立、不変、純粋善であって且つ純粋思惟である存在者があると考えねばならぬ。原因の系列はこの根本原因に突きあたってその遡行は停止するのである。もはや他の何者をも原因としてもたず、しかも自らはありとあらゆる存在者の原因である必然的存在者、「第一存在」(al-wujud al-awwal )はその存在を我々は論証することはできない。なぜならば彼自身が全てのものの証明であり、第一の原因であるから。また、これを我々は定義することもできないのである。この定義できず、証明できない完全無欠の存在、第一原因を神(アッラー)と言う。この意味に解されたアッラーは全く質量性のかげりをもたない故に絶対的叡智体である。そしてこの根源的な叡智体から全存在界が幾つかの層をなしつつ「流出する」。

ここで我々はファーラービーと、流出論の始祖プロティノスとの差異に注意する必要がある。プロティノスにあっては全存在界の太源である「一者」は完全な超越者であり、言亡絶慮の幽邃な「無」であるのに反して、ファーラービーの「第一存在」は既にそれ自身が知性的である。すなわち「第一存在」としての神は自ら知性そのものであり、同時に知性自身の対象であり、また知的認識活動の主体でもある。かくて神は自分自身を超時間的に認知する。そして神のこの知的活動によって一つの超時間的存在者が超時間的に流出する。これが最初の被造物であり最高の存在界であるところの「第一知性」である。これがプロティノスの「ヌース」に当る。第一知性はその本質上、可能的存在者であるけれども、神との関聯において必然的である。可能的でありながら必然的なもの、これを範疇化して相対的必然性(自分自身では本来可能的でありながら他によって必然的であること)を考え出して哲学上の一つの根本概念としたところにファーラービーの特色がある。(中略)神は言葉によって、その(神の)本質を成立させている数々の要素に分解することはできない。という訳は、言葉によって神の概念を規定しようとすれば、どうしてもその言葉は神の本質を成すものの一部か、或はせいぜいその内の幾つかの部分を指し示すに過ぎないからである。一体、或る一つのものの定義の諸部分が指し示す意味は、その定義されたものの存在に対して原因(illah―ここで「原因」とはあるものの本質構成要素を意味する。原因―結果という意味の因果律的「原因」ではない)をあらわす訳であるから、もし上のようなことを可能であるとするならば、神の本質を形成している諸部分が神の存在に対して原因となることになってしまう。(中略)神がこのように部分に分解できないとすれば、まして量やその他の方面から見た部分に分解され得ないことは当然である。従って、必然的に我々は神には大きさもなく、体軀も絶対にないと言わなければならぬ。そして、この点からして神は一であることが知れるのである。なぜなら、神は一であるという意味の一つは、神が分解されないことであるから、そして、全て或る方面から見て分解されないものは、その方面において一であらねばならぬ。(中略)この神の「一であること」こそ神の根元的な本質をなす。(中略)こう考えて来ると、「第一存在」(神)は、その存在において完全である点から推して、我々の心におけるその表象もまた完全の極限に在らねばならぬはずである。ところが事実は決してそうではない。一体、これはどうしたことであろうか。まず我々は、神の側からすれば決して表象困難ではないことを認めなくてはならぬ。なぜなら、神は極度の完全さに在るからである。従って我々の心の裡に映る神の姿が完全でないのは、勿論、神の方に欠陥があるためではなくて、我々の知性の力が弱いためであり、我々の知性が質料と非有とに包まれているためであるとしなければならない。こうして我々は、我々の側に欠陥があるために、神を完全に心に映すことができず、神を真にあるがままに把握することができないのである。神は余りにも完全である故に、我々は眼がくらみ、完全に心に映し得ないのである。それは丁度、光線の場合とよく似ている。光は第一の、完全な、しかも最も明らかな「見えるもの」であり、これによって始めて、ありとあらゆる他の見えるものは見えるものとなるのである。>(p245~252)

以下は小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)より。

<『教会教義学』Ⅰ/1にいおいて、歴史の中で、人間に対してなされる神の行為の三一論的構造が、内在的三一論に対する経綸的三一論の優位において成り立つことを、伝統的教義学における相互関入論と固有分与論の相関によって論じた。ここに示された三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>

 

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 

ウェストミンスターの「小教理問答」の「問7 神の聖定とは何であるか」で「答 神の聖定とは、神の御旨の深慮による永遠の計画であって、これにより、神は御自身の栄光のために、何事によらず起こってくるすべてのことを予定しておられる。」の参照聖句、エペソ1:4,11、ローマ9:22,23 この4つの聖句をまず記憶にとどめておきたい。但し、1:4で聖定に関係する言葉としては、「選んだ」を意味するエクセレクサト(ἐξελέξατο < ἐκλέγομαι)であり、これを聖定とみなすことには疑問。むしろ予定を意味する言葉、プルーリサス(προορίσας < προορίζω)が5節にある。RSVではdestined、KJVではHaving predestinated。

(岩波版 エフェソ1:4~5

「私たちが御前に聖なる者、咎めるべき点なき者となるようにと、愛をもって世界の開闢以前に、キリストにおいて私たちを選んで下さった〔ことに呼応する〕ように。/私たちを、イエス・キリストを通し、イエス・キリストに向かって、御心の気に召すところに従って子たる身分に前もって定めた〔神〕。」

(口語訳 エペソ1:4~5)

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、/わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

4節最後の ἐν ἀγάπῃ を口語訳では5節で訳している。その点で新改訳2017版でも、「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と、口語訳と同じように訳している(ただし新改訳2017の方は11節の訳を参照すると、分詞形であることを考慮して⦅敬語と意味が重なるので実際はどうだったのかは不明だが⦆「定め」たではなく「定めて」いたということで、「定めておられ」たと訳している)。こちらの方が、岩波版保坂訳よりも意味はわかりやすいだろう。聖定は神の愛(アガペー)においてなされたということ。

(岩波版 エフェソ1:11)

「このキリストにおいて私たちはまた、〔自らの〕意志の意向のままにすべてのことを成し遂げる方の意思に従って前もって定められた通りに、相続分を与えられたのである、」

(口語訳 エペソ1:11)

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」

(新改訳2017 エペソ1:11)

「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」

こちらは原文では「プルーリスセンテス」(προορισθέντες < προορίζω)が「聖定」に該当すると思われる。これは「プルーリゾー」(予定する)に由来するという点では、5節の「プルーリサス」と共通するが、「プルーリサス」は第一アオリスト分詞(男・単・主)で「予定され(てい)た」という過去を表わすのに対して、「プルーリスセンテス」は受動態の第一アオリスト分詞(男・複・主)なので、「定められ(てい)た」と受け身に訳される。

(岩波版 ローマ9:22~23)

「しかし、もしも神が、怒りを示すことを、そして自らの力を〔人に〕知らしめることを欲しつつも、大いなる寛容をもって、滅びへと造られた怒りの器を耐え忍ばれたとするなら、/ しかも、栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器の上に自らの栄光の富を知らしめるために〔そうされたとするなら、どうであろうか〕。」

(口語訳 ローマ9:22~23)

「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、/ かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」

(新改訳2017 ローマ9:22~23)

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。/ しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。」

ここで、「聖定」に該当する言葉は無い。これは「選び」の参照聖句ではあっても、「聖定」の参照聖句ではない!しいてあげれば23節の「プロエートイマセン」(προητοίμασεν < προετοιμάζω)だが、これは「予め」は「予め」でも「定め」るのではなく「準備する、用意する」を意味する「プロエトイマゾー」の3単過であり、「予め用意した」という意味なので、「予定」はともかく「聖定」には該当しない。

・・・ということで、「聖定」の参照聖句を、ウェストミンスター「小教理問答」から取ることは無理!ということがわかった。それなら「信仰告白」からということで、最低でも3-1だけは憶えておこう。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが」の参照聖句は、エペソ1:11、ロマ11:33、ヘブル6:17、ロマ9:15、9:18である。以下、すべて順番に岩波版で引用。

「このキリストにおいて私たちはまた、〔自らの〕意志の意向のままにすべてのことを成し遂げる方の意思に従って前もって定められた通りに、相続分を与えられたのである、」(エフェソ1:11)

直接、「聖定」に該当する聖句はコレだけである。岡田稔著作集2『教理学教本』(いのちのことば社)では、「特にエペソ一・九 ― 一一は重要である。」と書かれて、「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。

……わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」と、新改訳2017の訳が引用されているのだが(p79)、聖定聖句の代表は、特にこのエペソ1:11ということにしておこう。ちなみに文語訳は、「我らは、凡ての事を御意の思慮のままに行ひたまふ者の御旨によりて預じめ定められ、キリストに在りて神の産業とせられたり。」(御意:「テーン ブーレーン < ブーレー」⦅意図、企て、計画、決議、決意、決定⦆、思慮:「トゥー セレーマトス < セレーマ」⦅御旨、みこころ、意図(された内容)、意志、意欲、意向、願望、欲求⦆、御旨:「プロセシン < プロセシス」⦅前に置くこと、企て、計画、意図、意志、決心、決意、目的⦆、預じめ定められ:「プルーリスセンテス < プルーリゾー」⦅予定されていた⦆、産業とせられたり:「エクレーローセーメン < クレーロー」⦅くじで選ぶ、くじで定められる、くじで割り当てる⦆

次、「ああ、神の豊かさと知恵と知識の深さよ。神のさばきのなんと測りがたく、神の道のなんと探りがたきことか。」(ローマ11:33)「神は約束を受け継ぐ人々に自分の意志の変らないことをさらに充分に示したいと思った時、誓いによって保証したのだった。」(ヘブル6:17)

「なぜならば、神はモーセに対して〔次のように〕言われているからである。私は私が憐れもうとする者を憐れむであろうし、私が慈しもうとする者を慈しむであろう。」(ローマ9:15)「それゆえに神は、自ら欲する者を憐れみ、自ら欲する者を頑なにされるのである。」(同、9:18)

次の、「それによって、神が罪の作者とならず」の参照聖句は、ヤコブ1:13、1:17、Ⅰヨハネ1:5である。

(岩波版 小林訳 ヤコブ1:13、17)

「試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受けえない方であるし、自身誰をも試みたりはなさらないからである。」

「あらゆる善き贈りもの、すべての全き賜物が上から、光の父から降って来るのである。その〔光である〕父のもとには、移り変りも運行によって生じる影も存在しない。」注に、「同じ光でも、天体には季節による移り変りや、夜と昼、日食・月食のようなものがあるが、父なる神にはそのような変化がない。」とある。

(岩波版 Ⅰヨハネ1:5)

「私たちが彼から聞いており、あなたがたに告げる知らせとは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇も存在しないということである。」

これらが、「聖定」の教理における「神が罪の作者とならず」の参照聖句なのか…?と疑問に感じるほど説得力は感じられず違和感だけが残る。

結局、「聖定」の参照聖句としては、最低、エフェソ1:5と11の2か所だけを憶えておけばよいと思う(「ウェストミンスター大教理問答書講解」⦅ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮編訳⦆では、「聖定」の参照聖句はエペソ1:11が筆頭であり、後の方でエペソ1:4も書かれてはいるが、その括弧内には「人間の永遠の運命についての聖定は天地のつくられる先より永遠に定められている」とあるとおり(p56)、これは直接的には原文で1:5の冒頭に書かれている προορίσας ⦅予定していた⦆を指すのだから、1:4とすることはおかしい(英訳では、RSVの destinedは「運命的な、運命づけられた」ということで「運命」という概念が入るので良くない。その点、KJVの having predestinatedは、原形の predestinationが神学用語として「予定(説)」を意味するようになっているようだから、まだマシではないだろうか…?

1:4は、「キリストにおける選び」の参照聖句となっている⦅矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』p58⦆)。

その次の「また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである」の参照聖句は、行伝2:23、4:27、4:28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴16:33である。

ここは最後の箴言16:33「くじは、衣の膨らみの中に投げられる。だが、その事の決定は皆、ヤハウェから〔来る〕。」(岩波版 勝村訳)だけ憶えておけばよいと思う。注に「神意を伺うためにくじをひくことは旧約でよく見られる(レビ一六8以下、サム上一四41以下、ヨナ一7等)。」とある。文語訳「人は籤をひく されど事をさだむるは全くヱホバにあり」

(以上、ウェストミンスター信仰規準』⦅日本基督改革派教会大会出版委員会編、新教出版社⦆ より)