絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神

私にとって聖書的神観は、以下の量義治氏の説をもって最適とする。

神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(『宗教哲学入門』p108~109)

以下、花岡永子博士の論文「神の概念の問題 世界の対話の中で」より引用。太字は私記。

「自然科学・技術との連関において。この連関においては、十九世紀末以来の、相対性理論や量子理論や不確定性原理等々の新しい物理学の発展により、単に人格的な神、あるいは祈りの対象としての人格的神は、妥当しなくなりつつあり人格性と非人格性の根源における神が生き始めていることが語られ、議論され、対話されるべきであろう。」、「神が人間によって対象化されるような人格的な絶対者としての神であるに留まるならば、仏教徒キリスト者となることが殆ど不可能である。しかし、もしキリスト教の神が人格的神と非人格的神のいわば根源としての絶対無にまで開けていると理解され得るならば、仏教徒は同時にキリスト者ともなりうることが分かるのである。また逆に、仏教における究極的実在ないしはその実在のあり方としての縁起や空や絶対無が、人格的な神の根源であって、それは自由自在に人格的な神の形(父、子、聖霊)を取りうることが理解されうるならば、キリスト者は仏教者と対立しなくてもすむことになる。」 

神の概念の問題 : 世界の対話の中で

聖書に示された「神」は啓示された「神」であり、本来は「霊」なので、「人格ー非人格」とか「対象ー非対象」といった分別を超えた無制約の、まさに「絶対無」とか「(創造的)空」とでも言い表すしかない何かですが、それが人格的対象に喩えられて聖書で物語られることによって、人間が認識できる「神」として自己限定されたわけです。神の「啓示」とは神の自己限定なのです。さて、そこで神の「非客観化・非実体化」は正しいが「非対象化」は誤りであるとの考えが生じてくる。以下、八木誠一著『イエスの宗教』より引用。※太字は私記。

「『愛する者は神を知る』とは、著しい言葉である。ここでは『神を信じる』ではなく、『神を知る』と言われている。いったい、どのようにして神を知るのであろうか。ここでの神認識とはいかなる認識であろうか。認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)このような知を自覚という。自分に目覚める知である。現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。(中略)デカルトの立場、一般に近世の観念論哲学の中心は理性の自覚であった。それは、『考えることを考える』意味での自覚へと展開するのである。自覚が『心理』に解消されないことは、近世哲学が心理学に解消されないことから明らかである。」(p8~9)

ここで八木氏は、場所論的立場においては、「神が対象として認識されることはない」と述べておられます。神を知るというその「知」は「(対象)認識」ではなく「自覚」によるとのことです。ただ、「自覚」においても「神」に対象性が皆無であると言えるのかどうかは疑問です。一般に私たちが生活の中で何かを自覚する場合、自覚する内容が意識・関心の対象としてあるからです。例えば自分が社会人であることを自覚して行動するという場合、社会人としての自分という対象が意識されています。以下、小田垣雅也氏のみずき教会説教「母の日」より引用。※太字は私記。

< メアリー・デイリーは、この「全体なるもの」は認識の対象としては存在しないから、フェミニスト神学は「無の神学に直面する実存的勇気を必要とする」とまで言っている(Daly, op. cit., p.23)。そしてまた、この無としての神は、名詞ではなくて動詞であると言う。神を名詞とすることは、神を対象化するということだからだ。対象化された神とは、フォイエルバッハが言った通り、人間の自己の反映である。しかもデイリーによれば、この動詞は自動詞であって、自分の動詞としてのあり方を限定するものとしての目的語をとらない。とにかくデイリーの理解によると、近代思想の特徴は「二元化―具象化―客観化症候群であり、それは父権制的意識の特徴であって、『他者』を、失われた自己の内容物の貯蔵庫としたのであった」。>

以下、フッサール現象学に関するwebサイトからの引用。太字は私記。

現象学創始者である20世紀ドイツの哲学者、エドムント・フッサール(1859-1938)によれば、いかなる対象もある意味を伴った見え姿(ノエマ:見られたもの・知られたもの)において意識に現れる。また、それが意識に現れている以上、それを構成している意識の働き(ノエシス:見ること・知ること)をそこに想定することができる。『意識はつねに何ものかについての意識である』というフッサールの有名な言葉が意味するのは、意識の対象側の極(ノエマとそれを構成する意識の働き(ノエシス二つの側面から意識は成立しているのであり、したがって意識を超えてそれ自体として存在しているかに思われる物体も、それが意識に現象するかぎりにおいては、ノエマとして意識の一部にほかならないということである。」現象学 – Center for Design Fundamentals Research, Kyushu University (kyushu-u.ac.jp)

以下、ヘーゲルの『精神現象学』に関するwebサイトより引用。太字は私記。

「G・W・Fヘーゲル(1770―1831)は、主著である『精神現象学』においてわれわれ人間意識の形成過程を最も単純で素朴な意識である感覚的確信(sinnliche Gewißheit)から、対象を捉える理性的な自己意識へと到る意識の経験する過程を展開したのである。こうした意識の展開は、端初的な意識形態である直接的で無媒介な感覚的確信から対象意識を性質の持った物として捉える知覚(Wahrnehmung)する意識へと進展し、さらに対象と自己意識の関係を考察するという悟性(Verstand)へと到る意識の形成過程の展開を指し示したものである。こうした人間の意識は、われわれを取り巻く世界において対象を捉えることによって次第に対象意識と自己意識の関係を、把握してゆくのである。」13-085-096-Kawata.pdf (nihon-u.ac.jp)

西田幾多郎氏の「純粋経験」とか八木誠一氏の「純粋直観」などは一種の宗教体験と言えるにしても、そんなに大層なものではないから、八木氏との対談においては滝沢克己氏もあまり重視しなかったようですが、ここで言われている「端初的な意識形態である直接的で無媒介な感覚的確信」とでもいったことでよろしいのかも知れません。但し、人間は四六時中、意識的に生きているわけではなく、当然ながら無意識といわれるような状態もあるわけですから、その間は対象不在ということで、対人関係はもちろん対神関係さえも中断するのか…?という疑問は生じます。信仰的省察としては(…聖霊による再生の理性による私なりの考えでは)詩篇3:6「この私は、臥して眠り、目が覚めた、ヤハウェが私を支えているからだ。」(岩波版)を引用すれば十分でしょう。

以下、小川圭治氏の論文「神概念の転換——E・ユンゲルのバルト解釈を手がかりとして——」より引用。太字は私記。jcs_6_306.pdf (kyoto-u.ac.jp)

「さらにG・F・W・ヘーゲルの絶対精神としての神においては、『われわれの内なる神』と『キリストにおける神』との、人間精神内における弁証法的統一という一つの極点に達する。ここでは伝統的形而上学における最高存在者、絶対的超越者としての神と理性的人間の精神に内在化された神が合一させられているのである。しかし問題が神と人間である以上、両者が均等の比重をもって弁証法的に統合される場合には、あの神の絶対的超越性と究極性は重大な制約をうけ、内在化への傾斜をすべりはじめるのである。このようにして人間精神に内在化された神は、人間の自己絶対化の完成と保持に奉仕せしめられる。F・ニーチェが『神の死』を宣告したのは、このような形で真の絶対的超越性を制約され、やがてはそれをまったく喪失して行った近代主観主義の神に対してである。その結果、この『神の死』を越えて、真に生ける神、真の絶対的超越神が復活するか、あるいは死んだままでニヒリストの手によって埋葬されるかという可能性がのこされる。さきにユンゲルが、有神論と無神論形而上学ニヒリズムの対立が、『そこに人間の現われる余地のない高み』として実体化され、さらに理念として内在化された神概念という一つの基盤から、それを軸とした反転によって生じるといったのは、まさにこのような事態であったと考えられる。その上で、この有神論と無神論の排他的、非生産的二者択一の彼方に、このディレンマまたは矛盾対立を越えた新しい神概念の発見、または生ける神への神概念の転換が可能かという問いが提起されているのである。それは別の面からいえば、先に述べたように、絶対的超越性のみを一方的に追求し、超越ということそのものの意味も失われるような抽象的超越性に転落するのではなく、神の真の絶対的超越性が具体的、現実的に確保される可能性があるかという問いである。この課題に答えうるためには、この真の絶対的超越性を確保した神が、その自らの優先権において(人間理性の要請によってではなく)、自らを、歴史的現実において(理念の世界においてではなく)、具体的に一人の実在の人間において(たんなる観念や実体としてではなく)示すのでなくてはならない。つまり神の啓示の出来事が、一つの具体的な歴史上の出来事として生起し、一人の実在の人間において示されなければならない。すなわち、真の神性を確保した神が人間性を獲得しなければならないのである。この神の第二の本質的要素を、ここでは神の歴史的現実性とよびたい。ユンゲルは、その最初のバルト神学との対論の書『神の存在は生成においてある——カール・バルトにおける神の存在についての責任的論述——一つのパラフレーズ』において、すでにこのような神概念の転換を、『教会教義学』Ⅰ、Ⅱの三一論的神観の中に見出そうとしている。ユンゲルはここでは、神の存在、とくにその存在の対象性をめぐるH・ブラウンとH・ゴルヴィッツァーとの対論に含まれる問題点から出発する。つまり『教会教義学』Ⅱ/1、12ページ以下の『神の対象性』の解釈をめぐって議論が展開する。ブラウンがブルトマン学派の実存論的解釈の方法に従って、神を『たんに与えられたもの』とする『客観化的思考』(ein objektivierendes Denken)を批判することは理解できる。それは、先に述べたように、有神論であれ無神論であれ、神を実体として措定する態度に対する批判である。しかしゴルヴィッツァーも指摘するように、バルトの『神の対象的存在』の主張は、『対立して・立つもの』(Gegen-Stehendes)としての神の絶対的超越性、神の神性を回復し、一切の内在化、実体化を拒否することを目ざすものである。したがってゴルヴィッツァーは、『非客観化』(Ent-Objektivierung)と『非対象化』(Entgegen-standlichung)とを区別することを提案し、『非客観化』の主張は正しいが、それがただちに神の存在の対象性、その絶対的超越性を否定する『非対象化』にまで拡大されることは誤りであるという。それはさきに述べた本論文の問題との関連においていえば、神概念の本質的要素としての神の絶対的超越性が抽象的超越性へと転落することを回避しつつ、真の絶対的超越性を確保するという課題に対応する論点である。ユンゲルは、ゴルヴィッツァーがこの課題の遂行を、『存る=命題』(Ist-Satz)の必然性と不適格性の弁証法的対置という形で、いわば論理的手続によって進めようとするのを批判する。むしろバルトが『教会教義学』1/1において行ったように神の行為の三一論的構造の解明によって進めるべきだと主張する。つまりユンゲルによれば、バルトにとって、絶対的超越性を本質的要素とする神が歴史的現実性において自らを示すことは、まさに三一論的な神理解の問題であるという。したがって『神の存在は生成においてある』というユンゲルの書物の表題の示すテーゼは、神の存在を客観化、実体化から解放し、歴史において生きて働く神として神を理解することを目ざしている。『神学的に《生成》といわれるものは、存在論的、根源的には三一論的範疇として理解されるべきであり、そこでは神はその現臨を、自らにとって異質な未来に向って進むために過去として自らのあとにするのではなく、むしろ三一論的躍動性(die trinitarische Lebendigkeit)において《不可分に原初と持続と終局であり、その本質において同時にすべてである》(K・バルト『教会教義学』Ⅱ/1)』という。『生成』とは、ユンゲルにおいては、生ける神の歴史的現実性をあらわす範疇なのである。したがって『その存在が生成においてある神は、人間として死ぬことができる』ともいう。ここに『十字架にかけられた者の神学』への歩みが、すでに踏み出されている。このような『神の存在の具体性』は、バルトの神論においては、伝統的な三一論における三つの位格の『相互関入論』(Perichoreselehre)と『固有分与論』(Appropriationslehre)との対論によって展開されているとユンゲルは考える。」

「存在」と「生成」との関係については八木誠一氏が、有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』(創文社)を参照して、旧約宗教からキリスト教の重要な特徴である「歴史性」について述べたあと、「旧約聖書の考え方が上の意味で歴史的であり、存在を生成という観点からとらえていることは、単に民族性によるのではあるまい。(中略)我我が『統合への規定』と呼ぶリアリティにふれていたのである。」と述べています(『キリスト教は信じうるか』講談社現代新書 p188~189)。

自分も、聖書が示す「神」については、対神関係と対人関係との「不可分・不可同・不可逆」という考え方で、対象性なき「神」への信仰はあり得ないと思う者であり、人権尊重の前提に神の主権尊重を置く者なので、その点ではリベラル・左翼的立場のクリスチャンのように、ヒューマニズムに矛盾しない限りでの神信仰ということではなく、戦争にせよ災害にせよ、不条理、理不尽な出来事をも最終的には神の聖定として受容する立場なので、当然のことながら絶対的超越性を肯定し尊重する者であり、「神=霊」の聖書を介しての啓示を歴史的社会的現実に即して解すれば、「神=霊」は本来無制約であり「対象ー非対象」も「人格ー非人格」も「外在ー内在」も「遍在ー局在」も何らの分別も無い…超えているとみるのが(再生の)理性においては最も妥当であるということは直観的に何故なしに、言わば滝沢氏の言われるような意味で独断的に言い得るわけですが(…「独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」)、それでは対神関係が成り立たないので、神の自己限定…神の自己対象化…という物語が必要になるわけで、それが聖書に神話の形で表されています。そこから「神」には、同じく絶対他者でありながらも人間に対して外在する面と内在する面との両面があるということがわかります。三一論的には「御父=創造主」と「御霊=力・はたらき」です。対神関係にはこの両方のアスペクトがあります。問題は「御子=救い主」の意味です。イエスという史的人物との関係は、「神=霊」が歴史的社会的現実に関わるための要件であろうと一応は認め得ます。しかし、この史的人物を「神=霊」の化身の如き存在とみなすことは自分にはできません。それはヘブライズムを源流とする聖書の宗教とはみなせません。せいぜい聖書に入った異教的要素であるとみなすことになります。「御子」に関する物語…キリスト神話の核心は「ケノーシス」です。イエスは自身を神に向けて徹底服従することにおいて救い主たり得たわけで、「非対象の対象」なのです。自分には、神の真の絶対的超越性が具体的、現実的に確保されるということが、神が人間性を獲得するとか、人間として死ぬことができるとかいった話につながるのかはわかりませんが、「神=霊」が啓示すなわち自己限定・自己対象化において、形而上学的次元から歴史的社会的現実の次元に入るうえで必要な手続きであるということなのでしょう。自分は、三一論について従属的三一論としてでなければ受け入れられない理由は、御子(=主イエス・キリスト)について言われる「神(性)」を実体化しないためということです。すなわち、「御父」と「御霊(聖霊)」を「神」と言う場合の意味と、「御子」を「神」と言う場合の意味とは異なって然りであるということです。後者はあくまでも賛美表現としての(キリスト)神話であり、その中での「神」にすぎません。ヨハネ福音書1章にせよフィリピ書2章にせよコロサイ書1章にせよ…そこで物語られているキリスト神話はあくまでイエスの超人的な神への信従を賛美告白したものであって、それがそのまま歴史的事実などということではありません(神話批判および「キリスト神話」に関しては、上村静著『キリスト教自己批判』⦅新教出版社⦆が参考になる)。そもそも先在の御子などという歴史を軽んじた考え方は形而上学的思弁にすぎません。「受肉」の意味はイエスが神の化身的人物だということではなく、イエスという人物を通して「神=霊」が歴史的社会的現実にコミットされたということです。それなしには人間にとって具体的な(心身の全人的)救いというものは無いからです。御子は信仰の対象であるとしてもあくまで自己無化(ケノーシス)による「非対象の対象」であり、せいぜいヘブライ書にあるとおり、大祭司としての働きがメインということで然り。「彼はいつの世までも留まるゆえに、不滅の祭司職を有している。それゆえ、彼はまた、自分を通して神のもとに進み出る人々を、完全に救うことができる。いつまでも生きていて、彼らのために取りなしているからである。」(岩波版 7:24~25)…これはテモテへの第一の手紙の、「神は唯一人、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波版 2:5)とも主旨が一致します。コロサイ人への手紙で、「万物は御子を通して、そして御子に向けて創造されている。」(岩波版 1:16)と言われているところの「~を通して」(ディア)に示されているとおり、御子(キリスト)は信の対象ではなく、対象に至るための「道」であり「媒体」です。イエス・キリストは創造主ではないことは青野太潮氏が明らかに指摘しておられます。

「…イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」「『障害者イエス』と『十字架の神学』」です。160824-04.pdf (touhokuhelp.com)

神話での御子の位置づけがそのようであるということは、そもそも歴史的社会的現実との接点とされた史的イエスの生涯もまた、我々にとっては対神関係の接点ということになります。すなわち信仰者のあり方としての模範というわけです。いかに神の御霊に生かされ、神に対して従順に生き得るか…ということ…対神関係における外在と内在との両面での模範です。健全なる対神関係ではない宗教…すなわち、神人合一の神秘主義的宗教ないしは人間神化のオカルト的宗教を嫌悪するからこそ、神と人間との隔絶性…すなわち神の絶対的超越性が(抽象的であれなんであれ)強調されなければならないと思うので、バルトの神が人間性を獲得するとか人間として死に得る神とかいった考えには抵抗を感じます。人間イエスを絶対化して「神」と呼ぶくらいなら、内在的神観でもよいので、非人格的存在としての聖霊への信仰の方がよいです。三一論的に考えるかぎり、神の絶対的超越性とか対象性とか言っても、自分はそれは御父についてしか認め得ず、御子イエスには絶対性は認め得ません。

ところで、遠藤周作氏がエッセイ『私にとって神とは』で述べているような「神」は、私見では量義治氏が言うところの「自我の中に吸収され解消される神」です。そのような「神」は哲学史ではいわゆるドイツ観念論における「フィヒテ」の「絶対我」でしょう。カントの「モノ自体」を「自我」に内包されるとしたのですから…。一方、北森嘉蔵氏はブルトマンにとっての「神」が人間の主体性に吸収された旨を述べておられます。以下、『神学入門』新教新書 p6668より引用。太字は私記。

< ブルトマンによれば、新約聖書というものは、「私」という主体の変革をめざしているものであって、主体の変革と切り離されて客体的に起こる出来事を示しているのではないと申します。彼のいわゆる非神話化は、客観化的な思惟としての神話的な表象から、主体的実存的な真理を救い出すという企てであります。(中略)ブルトマンについては一つだけ指摘されなければならない重大な問題があります。さきほど私が、正しい神学は、どこまでも神と人間との関係を問題にすると申しましたが、ブルトマンにおいては、いささかこの関係が解体されて、神の側までをも人間主体の側に吸収する傾向をもつに至っております。救いたもう側としてのキリストの論すなわちキリスト論と、救われる側の人間の論としての実存論的な救済論とが、相即されねばなりません。しかるに、ブルトマンの場合には、いささか救済論がキリスト論を吸収するという傾向をもっています。これは、先ほど申しました正しい神学のあり方からはずれる危険を示しております。バルトの神学が、どちらかというと客観的なキリスト論の優位を強調するあまり、主体的な救済論に妥当な位置を与えないことへの反動のあまり、ブルトマンは逆にキリスト論を救済論に吸収する傾向をもっております。だから、キリストの事実は、あたかも人間実存の変革への象徴にすぎないかのようにさえ取られるのであります。とくに重要なのは、キリストの十字架の理解であります。ブルトマンは、「キリストの十字架を信じるということは、キリストの十字架を自己のものとして引き受けることである」などと申しておりますが、これではもはや「私のための」キリスト、「私の外で」起った十字架の事実は、見失われていると言えましょう。たしかにキリストの十字架は、私たちが模範として共に負うべきものでありますが、しかしその前に、私が十字架を負うに先立って、キリストが私のために私の外で負いたもうた十字架を、第一義的に意味するはずです。キリスト論と救済論とは、本来救い主の論として相即しておらなければなりません。救う側のキリストと、救われる側の主体との両方とを一挙にとりあげるようなものであって初めて、正しい神学であります。私は、それは結局神の愛であると思います。〔「神の愛」の各文字に傍点あり。〕>

関連して小川啓治氏の言葉を引用。太字は私記。

「これは人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道の究極であって、その道をさらに進むと、〈神〉という言葉なしに新約聖書の内容を述べることもできるという点にまで達する。すなわちここでは、神の存在は、その非対象性を通じて人間の実存の中に解消されたのである。もちろんブルトマンは、この点まで同行することはしない。しかしブルトマンの神学の中には、ここまで行ってはならないという明確な歯止めはない。」(小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p120)前半で批判されている対象が何だったかは忘れたが、「人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道」だと言われ、非対象的な神観だということ、そしてブルトマンがそこまでは行ってないと言うことから察すれば、現代神学における史的イエス主義か、近代以降の自由主義神学かなと思います。本が今は手元に無いので確認不可。

いずれにしましても、新約聖書における「キリスト神話」を徹底的に批判すれば、おのずと信仰的立場はユニテリアンになって然りでしょう!

ところで遠藤周作氏にとって「神」は人格でもなければ実体でもなく、存在とも言えないような「はたらき」であるとのことですが八木誠一氏が指摘しておられるように単に「はたらき」と言っても現実にはその「主(ぬし)」があって三分節されるわけです。< 神ご自身とは、「神のはたらき」(作用的一)の主(ぬし)のことである。「はたらき」にはその「主」がある、とわれわれは考える。それはこういうことである。言表は必ず主語と述語とから成っていて、主語だけ、述語だけでは文にならない。だから、われわれは作用を述べるとき、必ずその「ぬし」を主語として設定する。「ぬし」が存在しない場合ですらそうするのである。(中略)「雨だ!」と言えば済むところを、わざわざ「雨が降る」と主語を設定して文を作るのである。西欧語では、このような場合にはいわゆる非人称の主語を使う(It rains;Es regnet.などのように)。(中略)一般に作用にはその主体〔ぬし〕があるという通念は、文には必ず主語があるという言語の事実からきた思考の習慣にすぎない。よく考えればわかることだが、はたらきとは別の不変恒常の実体があって、それが「はたらく」(他者を動かす)のではない。動態においては一般に主体と動態は切り離せない。(中略)神はもともと「はたらく神」である。「神のはたらき」の「ぬし」は経験の対象ではない。うちに経験される「はたらき」(ここでは「ぬし」は語られていない)は、自覚内容の言い表しだが、それと「区別」される「ぬし」が実際にあるのかどうかわからない。にもかかわらず、その「ぬし」を神と言うと、「はたらく神」は「神がはたらく」と言い換えられ、この場合の「神」は「信仰の対象」となる。実は、そもそも「はたらく神」を「神」がはたらくと称したときに、すでにはたらきの「ぬし」が前提されたのである。「神」ご自身という呼称は、それを明確化する。そして、「ぬし」としての「神」は信仰の対象となる。>(八木誠一著『イエスの宗教』p46~48)

その「主」なしに「はたらき」だけがあるということはないと自分は信じます。(以下、引用。太字は私記。)

「『新約聖書』には定式にされた三位一体論はありませんが、それが出てくる根はあると思います。それをいちばん簡単に分かりやすく言ってしまえば、『新約聖書』でも超個とは働きなんです。あるいは本来的に人を人として生かす働きなんです。ところがそれを分析してみると、働きには主体があるわけですね。そして内容があって、さらに働きかけという伝達があります。構造契機は三つあるわけです。すると、主体=神、内容=キリスト、伝達=聖霊、ということになる。救済の働きを、たとえば啓示と言い直すと、カール・バルトが啓示の分析から三位一体論を基礎づけたような具合になります。バルトは、啓示の主体=神、啓示そのもの=キリスト、啓示が露わになること=聖霊というふうに言っているんです。それは当たっているし、これを言い換えれば、いま言ったように、救済の働きは三つに分節される。働きの主体と、働きの内容と、働きの伝達とがある。そうすると、働きの伝達の中には当然働きの内容があるわけだから、聖霊の中にキリストが在すと言えるし、伝達の働きはどこに根拠があるのかをつきつめれば、結局、救済の主体(神)なんですから、それを伝達する聖霊は神から出る、聖霊は神の霊であると言えるわけです。結局、救済の主体と、内容と、伝達は三だけど一だし、どの一つとってもその中には他が含まれてくるから、三位一体論的な構造が出てくるわけです。三位一体論とは区別されるんですが、伝達の働きは救済の主体から出るものでもあり、また救済の内容から発するものである。つまり聖霊は神の霊であり、またキリストの霊である(『ローマ人への手紙』八・9)という関係があって、これは聖霊論の問題ですが、パウロにおけるキリストと聖霊の関係はこうなっていますね。」(八木誠一、秋月龍珉著『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p151~152)

「歴史の中に『神の働き』の現実性がありますね。そうしますと、その『働き』についてですね、『働くもの』、それから『働きの内容』、それから『働きの伝達』とがあります。『三』が『一』になっています。そういう意味で、『神』の歴史の中における働きの現実性というと、やっぱり『三の一』、『一の三』が出てくるんです。要するに、『三位一体』論は『神の働き』を分析しているだけです。」(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p268)

「はたらき」と区別される「ぬし」が実際にあるのだと言えば「人格主義」になりますが、さりとて自分は場所論的思考はできないし、八木氏もイエスと同じく場所論的人格主義的(同書p113他)だといわれるなら、その「区別」は認めてほしいものです。要するに自分も、聖書が示す「神」は「はたらき」と不可分であるという意味では「はたらく神」と言えますが、その「はたらき」だけを語って「はたらきの主」である「神」については論じない…ということはあり得ないと思うのです。すなわち自分の場合、その「主」である「神」の「What」を問わずして、その「はたらき」の「How」を問うことはあり得ないのです。すなわち有賀鐵太郎氏の所謂「ハヤトロギア」の考え方…< 神の「われ」が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の「われ」は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している。>とか、< 神は「何であるか」よりむしろ、「何をなし、また何をなそうとしているか」が問題となる。>といった『キリスト教思想における存在論の問題』で述べられていることには、自分は同意しないということです。

ところで、遠藤氏が言うような無人格・無実体・非存在…というような「神」に対して、けっして人間の自我には吸収・解消するなどあり得ない「神」とは、スピノザの唯一実体神の如く万物をその中に包む「神」…ヤスパース的には「包括者」です。但し、それは汎神論の「神」であって下記のとおり「超越」性を欠くので、スピノザの神観に超越性を加えるべく汎在神論の「神」として再考察されなければなりません。(以下、引用。太字は私記。)

以下、長文でテーマとは直接関係ないことを書き込むことに恐縮しつつ、三木清氏の『人生論ノート』から自分がクリスチャンの立場において特に感銘を受けた「怒について」に関して、三木氏と同じく京大哲学科卒の異色の神学者である北森嘉蔵氏の言葉を御紹介させて頂きます。どうかお許しを…。                     三木氏は「怒について」で冒頭からキリスト教の神観について鋭い洞察を語っておられます。              

Ira  Dei(神の怒)、――キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。」

そして結論的には、「愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。」と、実に重要な、特に日本のキリスト教においては本質的な事柄をズバっと指摘しておられます。(;'∀') その三木氏の批判を受けるかのように、「神の怒り」について「眞劍に語らうとする」神学者が現れたのです。それが日本のプロテスタント神学者では稀有の世界的ヒット作『神の痛みの神学』を書いた北森嘉蔵氏です。以下『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p148~150より・・・「神は愛である(ヨハネ第一書四・一六)がゆえに、敵としての人間は神の愛の外に脱落している。神の愛は人間の反逆敵対によって破れている。この神の愛にとって人間はいかにしても包むべからざる者である。(中略)このような人間に対して神の愛は、神の怒りとなる。神の怒りは、人間の反逆敵対によって破られた神の愛である。イエス・キリストの福音は、このような徹底的なる他者としての人間を徹底的に包む神の愛である。(中略)イエス・キリストの十字架こそ神の痛みである。神の痛みとは、神の怒りの固有性を徹底的に認めて、しかもこれを貫き突破せる神の愛である。(中略)キリストの十字架はあくまで痛みという質をもてる矛盾である。痛みとは、怒りと愛との自己同一性である。いかにしても罪人に怒りをくだすべき神が、しかもこの罪人を愛する時、その怒りと愛との矛盾的自己同一が神の痛みである。痛みをして痛みたらしめるのは、怒りの固有性である。怒りが固有性をもたなくなれば、愛の一元主義があるのみで、痛みは消失する。キリストの十字架においては、神の愛が神の怒りを負ったのである。神の愛が神の怒りを負ってこれに撃たれたという事が、神の痛みである。福音を定義して、神が他者たる人間のために徹底的に責任を負うことである、となしたのも、その責任を負うという言葉の背後には、神の愛が神の怒りを負うという事が意味されていたのである。神の怒りとは、人間の罪に対して人間の責任を問う神の意志にほかならないからである。」・・・北森氏は「愛の一元主義」といわれる思想を剔抉し、聖書が明示している「神の怒り」との緊張関係において独自に「神の痛み」を説いたのです。「『十字架』というのは単なる寛容ではないのです。厳しさというものが位置を持っているわけです。例えば、旧約聖書では、『神の怒り』とか『審き』というのが大変に強調されているのです。(中略)新約聖書にも、『神の審き』ということは決してなくなってはいないのです。キリスト教は『愛の宗教』だというふうに言われて、甘いことずくめととられるならば、大変な誤解です。そうして、『審き』というのは頑固なものであって、いわゆる融通の出来るものではないのです。日本的特質の中で『融通無碍』ということもいわれます。(中略)『融通無碍』というのは仏教の非常に深い教理なのです。(中略)しかし、融通不可能な頑固さというものも考えられるのです。」(『日本人と聖書』〔教文館〕p50~51)という指摘からも日本的宗教性に「愛の一元主義」的な傾向が「融通無碍」的にあり、それが遠藤周作氏や井上洋治神父の思想への共感を招いたとも見られます。「イエスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のほうです。イエスは人間に信頼感を持っていました。聖書の中で裁きのことをイエスが言っているのは、それはイエスが死んだ後、原始キリスト教団の意識を反映した部分だと思います。何度も言うように、イエスが説いたのは、そういう神ではなく愛する神、許す神であったのです。神は、何を過去にしていても、最後に、本当におれは悪かったと後悔する者は救われるのだ、と言ったのです。」(遠藤周作著『私にとって神とは』)といった教説こそ、遠藤氏の『沈黙』によって問題とされたキリスト教土着化において日本人の心を根腐れ沼地にする思想であると思われます。聖書が示す神については「愛」だけではなく「怒り」をも語らなければならないのですが、多くの牧師は会衆受けする説教を志向するので「神の怒り」は後退し隠れてしまいます。その意味で北森氏のメッセージは貴重です。「神が神であることは、怒りにおいてこそ示される。怒ることなき神は、真実ではない。怒りなき神は、つねに人間と同意する神である。しかして人間とつねに同意する神こそ、偶像にほかならない。怒りによってこそ神が生ける神であることが示される。」(北森嘉蔵著『救済の論理』p34)私見では聖書の中で最も「神の愛」と「神の怒り」とが融合している言葉は、「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(ロマ12:19)です。私にとって宗教の中で最も嫌悪すべきものはカルト云々というより二言目にはイエス様イエス様…愛します愛します…といった「愛の一元主義」的な甘ったれたキリスト教です。SNSでもこういうタイプのクリスチャンの発信によく出会うのですが、これこそ日本人の性根を最も腐らせてきた思想だと思います。このようなタイプのキリスト教信仰に対してはまさに「神の死」を告げて然りです。遠藤周作氏や井上神父の著書で強調されてきた「愛の一元主義」的思想における「神(観)」は、死なないかんたい死なな…です(;´∀`)

 

ここで八木誠一氏の、コリント第一15:28に関する見解も見ておきます。(以下、引用。太字は私記。赤字は傍点。)

パウロの場合は、『キリスト』中心的で、パウロ神学の中で『神』がどう語られているかというと、終末のときに、『キリスト』が『神』の敵を亡ぼして、支配権を『神』にゆだねる(『コリント人への第一の手紙』第十五章)、そこで『神』が『すべてのものにあって、すべてになる』と、そういうふうに書いてあります(二十八節)。そう言うと、当時のストア的な言い方とも近くなってくるんですが、そこまで突きつめてくると、これはユダヤ教的な『人格神』と違ってくる。だから、『無相』とまで、はっきり(イエスほど)言えないことは確かですけれども、いま申した箇所には、『神』は『パンタ・エン・パーシン』と書いてある。『すべての内にある、すべてだ』と。(中略)それから、これと関係があるんですが、『コリント人への第一の手紙』の第八章六節ですね。ここにも『神』が出てくるわけですけれども、『父なる神はおひとかたである』と言って、『すべてのものはその神から出る』、『私たちもその神に帰する』とこう書いてあります。(中略)そのあとに『キリスト』のことが出てくる。『主なるイエス・キリストもおひとかたである』と。この場合『すべてはキリストを通して』と書いてある。『キリストを通して』すべてのものが成り立ち、私たちもまた『キリストを通して』成り立っている、ということでしょう。(中略)『神』については、『神から』と言って、万物の根源が神であることを示す。そして『私たちも神に帰する(into Him)』と。『キリスト』のほうは、すべてのものがキリストを『通して』成り立ち、そして私たちもキリストを『通して』成り立っている、ということで、『神』の場合と前置詞が違うわけです。ここに区別があります。(中略)直訳すると “we into Him“ (中略)『神は万物がそこから出てそこ帰する』ということになるんです。そうすると、すべて、『そこ』から出てくるものは形あるものだとすると、神それ自身は形がないと言わざるを得ないし、また形あるものはすべてそこに帰することになる。だからやっぱり『神』は形がないということになるんです。もっとも禅なんかとは違って、禅では『万物は一に帰す、一はどこへ帰するか』というと、『万物に帰す』ということになりますから、パウロのほうはそういう言い方とは違います。『万物は神から出て、神に帰するのだ』と言う。ここには『不可逆』がありますね。そういう言い方だから、禅との違いは非常にデリケートだけど、『神は万物の根源だ』、そして『万物の中にある』ということになると、キリスト教でも神はやはり『形あるもの』ではなくなってくる。『見えざるもの』で、キリストが『見えざる神の形』だ、ということになる(『コリント人への第二の手紙』第四章四節)。もともと神はユダヤ教以来『見えざるもの』、『形に現わすべからざるもの』なのです。ところで、『神はすべてのものの内にあるすべてだ』という言い方はストア哲学の影響だという説があるんです。とにかくヘレニズムの宗教思想には、汎神論ないし万有在神論への傾向が強いのですから。だけど、私たちの問題は宗教史的な背景ではなくて、思想構造上の問題ですから、背景がどうであれ、パウロがそういう言い方(神は「すべてのもの」の内にある「すべて」となる)をしているということが大事なので、こういう言い方が成り立ってくるというのは、伝統的なユダヤ教とはずいぶん違うんだと思います(ヘレニズム的ユダヤ教は別です)。」(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕)p165~168)

そして、< パウロはそこをつきつめて展開してはいない。「一切に内在する一切としての神」をつきつめるとどうなるかということは、パウロは展開して語ってはいない。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p179)と言われています。

いずれにせよ、このように八木氏は、神が「パンタ・エン・パーシン」を「すべての(ものの)うちにあるすべて」と訳しておられ、「すべてにおいてすべてと」(川端訳)とか「すべてのものにおいてすべてと」(青野訳)という「おいて」を「うちに」と訳しているのでて神の内在の面が強調されています。神が「すべてのもの」の内にある「すべて」となる…というのは汎在神論的というよりも汎神論的です。

「キリストが『統合への規定』であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七)こうして神は、すべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。」(八木誠一書『キリストとイエス講談社現代新書 p148)

 

スピノザ哲学における「神」は「絶対」であることから「無限」であることが論理的に導かれています。

「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。」スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

ということは、スピノザの「神」は創造神ではないということです。上記の形而上学的神論は、論理的には正しいと思われますが、これでは「超越」性が無い「神」ということになります。「超越」性なき「神」は、一神教における「神」たり得ません。無論、聖書では「神」は「絶対(者)」であるとか「無限(者)」であるとは言われていません。解釈としては「唯一」ということから「絶対」であると推察され、「永遠」ということから「無限」であるとも推察されるだけのことです。しかし、「神」が「絶対」であり「無限」であっても「超越」していなければ、創造主としての被造物との不可逆性が成り立ちません。ということは相対の絶対化…人間神化にもつながるおそれがあります。そうなると神秘主義に陥り、本来のヘブライ的神信仰から離れてしまうことになると思います。この点が宗教と哲学…特に形而上学との大きな違いであり、宗教…特にキリスト教においては、神が「絶対(的)」だと言ってもそれはあくまで信仰告白…賛美の表現としてです。信仰告白は論理的には矛盾しても問題ないのです。例えば、聖書的には「神」は「天」に局在しつつも遍在しておられることになるからです。従って「神」が「絶対(的)」だからといっても、信仰告白ないしは神学においては、そこから論理的に「無限」につながり「外部が無い」といったことには、必ずしもなりません。ここで改革派神学における「神」の属性について、特に「無限」についてみておきます。田吉和著『改革派教義学 2 神論』(一麦出版社)では、「神の属性」の分類として、1.本性的属性と道徳的属性(natural and moral attribute)、2.絶対的属性と相対的属性(absolute and relative attribute)、3.自動的属性と移行的属性(intransitive and transitive attribute)、4.否定的属性と肯定的属性(negative and positive attribute)、5.不流通属性と流通属性(incommunicable and communicable attribute)、6.A. カイパーにおける神の属性の分類、7.H. バーフィンクにおける神の属性の分類、8.「ウェストミンスター小教理問答」と神の属性の分類(第四問の属性論に関する岡田稔の理解)・・・と8分類が挙げられており、この本では従来通り5の「不流通属性と流通属性」が採用されているということ。次は、その「不流通属性」のうち「無限性」に関する記事の引用です。

< 3.神の無限性    神の無限性は、「インフィニタス」(infinitas , infinity)という用語で表現される.これは神の本質と属性においていかなる限定も存在せず、時間・空間の世界のあらゆる限定から自由であることを意味する.しかし、この無限性は汎神論的に理解されてはならない.むしろこの無限性は神によってのみ完全に把握された神における現実性と理解されるべきである.この神の無限性にかんして、歴史的改革派神学は、「神の完全性」「神の永遠性」「神の遍在性」という三つの要素において論じてきたのである.

a.神の完全性  すべての流通属性といわれるものを神の属性たらしめるものは、この完全性(perfectio , absolutus)においてである.たとえば、聖という属性においてすべての限定から、すべての欠陥から完全に自由であることにおいて、すなわち質的な無限性において聖という神の属性はまさしく”神の属性”なのである.この意味において神の無限性は、神の本質の完全性と同じである.

b. 神の永遠性  神の無限性が時間との関係で考えらるとき、神の永遠性(aeternitas Dei)が語られることになる.神の永遠性は、本質的に時間から区別される.神は、世界が存在する前から存在する神であり、この世界がもはや存在しない時でさえ、そこに存在する神なのである.神の永遠性は、単なる時間の前後への無限な延長ではない.時間の限定から超越しているのであり、絶対的超越性である.この意味においては、K.バルトが、『ローマ書』において主張した永遠と時間の無限の質的核絶性は真理契機を保持する.すなわち、われわれは、日、週、月、年によってしるしづけられ、さらに過去、現在、未来とに分かたれる存在である.しかし、神は、日、週、月、年に限定されず、過去、現在、未来に分かたれない.神には、初めもなく、終わりもなく、神にとって過去、現在、未来は一つの今であり、”永遠の現在”とも言えるものである(詩90:2、102:28、イザヤ57:15、Ⅱペトロ3:8、黙示1:8).しかし、神の永遠性は時間に限定されないが、同時に「時間の中で」が語られうる.永遠の神は「時間の中で」人間と交わりをもたれるからである.

c.神の遍在性   神の無限性が空間との関係で考えられる時、神の遍在性(omnipraesentia Dei)が語られることになる.神の遍在性は、否定的に表現すれば、神は空間的なあらゆる限定から完全に自由であるということを意味する.この場合の空間とは被造物の現実性の全体を意味している.「天も、天の天もあなたをお納めすることができません」(列王上8:27).神も遍在性を、肯定的に表現すれば、神はその全存在をもってあらゆる空間的限定を超越して、空間のどの点にも、いかなる部分にも遍在されることを意味する(詩139:5-10).これは神の遍在的力によるすべてのものの支配と統治と密接に関係する(「ハイデルベルク信仰問答」第10聖日).

神の遍在は、神の遍在のしかたが常に一様であることを意味していない.神は、天にあっては地とは異なっている(イザヤ66:1).天においては、すべては神の栄光に満ちた遍在が充満している.神の民における神の遍在と被造物における神の遍在とは同じではない.神に背を向ける者には、神の遍在は恐れるべきものであり、神の民にとっては慰めと平安である.神は高く、聖なるところに住み、へりくだる霊の人と共にある(イザヤ57:15-21).この点は、さらに御子における神の臨在、さらには聖霊による臨在、さらには終末的栄光の御国における神の全き臨在の問題にまで展開されるべきものである.ここに至るとき、神の遍在性の問題は神の民にとって根源的な慰めの問題と結びついてくる.>(p123~125  ※「不流通属性」は「非流通属性」とも言われる。)

汎在神論における「神」の「超越」性とは、被造万物に「内在」はするけどしきらない…すなわち「所有」されない…「従属」はしない…という意味だと心得ます。聖霊も人の内に住み給いますが、その人の所有にはならず、むしろ主導なさるのです。この点、聖書が示す「神」…キリスト教の三一神における信徒への「内在」は「超越的内在」であると言えます。これに対して、スピノザの「神」の万物への「内在」は超越性なき内在だから「即」なのです。「汎神論」の「神」は創造主ではないので、万物に「内在」するだけで「超越」はせず、自然・万物との不可逆的な関係は成り立ちません。これに対して聖書的「汎在神論」の「神」はあくまでも創造主なので、万物に「内在」はするものの不可逆性を保持し「超越」性を維持するのです。

キリスト教的(三一)神観に対してスピノザの汎神論が有意義なことは、ユンゲルの「神の存在は生成においてある」(Gottes Sein ist im Werden)への批判になるということです。

フィヒテスピノザの共通点について、彼は次のように語る。 「(1)存在。生成の絶対的否定という性格。一である存在のうちに一切のものがあり、存 在の中では何も生成しない。ここから自立性(Selbständigkeit) が、また不易性 (Wandellogigkeit)という否定的概念が、同じように出てくる。ここから存在は一である とか、その他の諸命題が生じる。スピノザにおいて然り、我々において然り。」 (GA,II-13, S.51, FW, X, S. 326,フィヒテ全集第 19 巻 226 頁)> (~入江幸男氏の論文「フィヒテによるスピノザ批判」)31 フィヒテのスピノザ批判 (20210918) - 哲学の森|入江幸男のブログ (irieyukio.net)

モルトマンは、『外部から創造がなされた』という発想から、キリスト教神学が解放される(自由になる)必要があると考えます。神が神自身に働きかけるプロセスとして創造を理解すべきであるというユダヤ教カバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築するというのがモルトマンの戦略です。そのためには、アウグスティヌスによって、カトリック神学、プロテスタント神学の双方にとって公理系のごとくなった、創造を神の業の外部に向けた作用という見方を改めなくてはならないと考えます。〈アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいるキリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。」佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

「神」は世界に「内在」するからといって世界から「超越」することが否定されなければならないわけでもありません。むしろ両方が肯定されます(「超越的内在 即 内在的超越」)。それは神は「全能」であるという信仰告白が前提としてあるからです。聖書では「神の存在」自体が証明を要さない公理のような大前提です。それを定理でもあるかの如くカン違いすると聖書の誤った読み方に陥ります。信仰は理屈ではないのです。客観的な事柄ではなく、さりとて単に主観的な事柄でもなく、信仰心を与えられている人々の間に成立する共同主観的な事柄です。ブーバーの表現を借りれば、信仰は「はじめに関係ありき」なので、対神関係においても、「はじめに賛美(頌栄)ありき」というのが宗教であって、「はじめに理屈ありき」というのがスピノザのような哲学者の神論です。従って哲学的には矛盾した言い方であっても宗教においては成立するのです。つまり、半分は理屈を採用する神学においても、「汎神論」は超越を欠くということであれば、これは否定されて「汎在神論」が支持されます。「神」の超越性は、絶対性以上にキリスト教信仰における「公理」であって、証明すべき「定理」ではないからです。

実存哲学者のひとりに挙げられるカール・ヤスパースの「神」は「超越者」であり「包括者」とも言われます。問題はそれが「絶対者」であり得るかどうかです。

ところでパウロ書簡には、「神はすべてにおいてすべてとなる」とあります(コリント第一15:28)。「~となる」ということは、神は今は「すべて」ではないということを意味します。なぜなら、今のこの世では神は自己を限定しておられるからです。
しかしこの世の終末において、その限定を解かれる時が来たなら、神は本来の「すべて」に戻られるのです。
「そこで(デ)すべてのものが(パンタ)彼に(アウトー)従わされた(ヒュポタゲー)とき(ホタン)そのとき(トテ)子(ヒュイオス)自身(アウトス)も([カイ])彼に(アウトー)すべてのものを(タ パンタ)従わせた方に(トー ヒュポタクサンティ)従わせられるであろう(ヒュポタゲーセタイ)神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)ため〔である〕(ヒナ)」(希和対訳)
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波委員会〔青野太潮〕訳)
コリント第一15:23~28に関しては、青野太潮氏の論文『パウロの神中心主義』(1997年4月7日の1997年度西南学院大学神学部開講講演において青野氏は同テーマで話をされ、この論文は問題をⅠコリント15:23-28との関連に絞って細かい釈義とともに展開していると注記されています。まさに文法的な細かい内容が記されており、この段落における主語は24節cにおいてキリストから神に変わっているとのことです。以下、訳出されたものを書き写します。(以下、引用)

23a  さて、各自は自分自身の順番に従うのである。

23b 初穂はキリストであり、

23c 次いで《彼》の来臨におけるキリストのものである者たちであり、

24a 次に終りがあり、

24b その時、<彼>は、王国を神すなわち父に渡し、24c (また)その時、<彼>はすべての君たちとすべての権威と権力とを壊滅させるのである。

25a なぜならば、《彼》は支配することになっているからである、

25b <彼>がすべての敵を《彼》の足下におく時まで。

26 最後の敵として死が壊滅させられる。

27a なぜならば、<彼>はすべてのものを《彼》の足下に従わせたからである。

27b さて、すべてのものが従わせられてしまったと言う時、

27c そのすべてのものを《彼》に従わせた方が(そこに)含まれていないのは明らかである。

28a すべてのものが《彼》に従わせられる時、

28b その時には御子自身もまた、すべてのものを《彼》に従わせた方に従わせられるであろう。

28c それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。

(以上、引用終わり)(以下、引用。太字は私記。)

ちなみに、八木誠一氏は次のように述べておられます。
パウロ神学は神中心主義か、キリスト中心主義かという問題があります。それで『コリント人への第一の手紙』の第十五章を見ていますと、最後の時に「キリストは神の敵をすべて滅ぼして、すべてを神の御手にゆだねる、そこで神がすべてのすべてになる」と書いてあります(20-28)。神とキリストは、はっきり区別されています。(中略)終末論の一番最後にそう書いてあるわけです。ですから、神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。>(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p147~148。『徹底討論 親鸞パウロ』〔青土社〕p165~68参照) 

以下、量義治著『宗教哲学入門』より引用。

「救済信仰の必然性

親天新地が完全なる救済世界であるといっても、われわれはそのような世界を信ずることができるであろうか。それこそ新天新地の到来は大いなる神話ではなかろうか。新天新地は神による新しい創造である、と言う。それはいつのことか。世の終末において神の子が到来する時である。では、その神の子が到来するのはいつか。神の子は言う、『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。』(『マルコによる福音書』一三章三二節および並行記事)

神の子が到来する、と言う。(中略)いったいだれがこのような物語を信ずることができようか。(中略)イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。(中略)このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。(中略)義認は完全救済ではなくて部分救済ではあるが、その信仰は他力的である。(中略)

宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。ところで、新天新地の到来とは第一の古い創造に代わる第二の新しい創造である。再創造である。この救済の終局としての再創造はすでに始まっているのである。すなわち、救済の第一歩はすでに始まっているのである。それではそれはなにか。それは現実の苦を罪に対する審判として受け取ることである。審判が即救済なのである。このような即非の論理、または絶対矛盾的自己同一が成り立ちうるのは、絶対者自身が絶対有にして絶対無であるからである。絶対有としての絶対者はわれわれを絶対的に否定せざるをえない。しかし、この同一の絶他者は同時に絶対無であるがゆえに、われわれをどこまでも肯定せざるをえない。このような絶対者においては、絶対否定即絶対肯定、審判即救済なのである。真の肯定は否定なくしてなく、したがって真の救済は審判なくしてないのである。このような否定―肯定の構造、または審判―救済の構造は、絶対者自身の絶対有―絶対無の構造に基づくのである。(中略)救済は絶対者に基づく。すなわち、救済は絶対者による救済である。信はこのような絶対者との根源的関係である。」(p207~238)

上記で、「救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。」と言われているように、自分個人の内面においても「救済」論への集中は「キリスト論」はもちろん(って言うか自分の場合はそれよりも)「神」論にも無関心ではあり得ない。あくまで「救済」と「絶対他者」とはセットなのだ‼ その点で、新約聖書学者であるのに教義学的論述をされている青野太潮氏の下記の発言は重要であり、それに対している寺園喜基氏の発言も逆の意味において重要だと思う。

※以下、いきなり敬語に変わります。なお、引用元は前掲の青野太潮氏の論文「『障害者イエス』と『十字架の神学』」です。160824-04.pdf (touhokuhelp.com)

すなわち、障害者神学の関係で青野氏は、「極限状況にある『重度の障害者』においてまず第一に成立しえないような『神理解』は、キリスト教の『神理解』とは関係がない、と私は考えている」と極めて大胆なことを述べたうえで(…このようなことは神学者は誰でも言いたがる)、注目は次の文言です…「しかし、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」…これは凄いと思います。何が凄いかと言えば、対論者の寺園氏の以下の文言の凄さに対抗し得る説得力を感じさせるからです。

「神を創造主として語り、創造主との関連で障害者を語るのは第二のことなのであり、しかも限界があることなのであって、神をイエス・キリストにおける主なる神として語り、そのようにして神の存在と働き及び神認識を語り、キリスト論からしかも十字架のキリスト論から障害者について語ることこそが、第一の根源的なことなのである。」

私自身も救済の現実に集中する以上、「神を創造主として語り、創造主との関連で障害者を語るのは第二のこと」でり、第一には実践経験およびその志向的思索が来て然りだと思っていました。そして青野氏も、「たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。」ということは言っておられるわけです。しかしそれと、バルト神学的キリスト論的集中とは区別されるわけです。青野氏の独自性はそのキリストを通しての神認識の理由です。キリストにおける神のみを神とするということは福音主義神学者なら誰でも言いそうなことです。キリスト啓示を自然啓示より優先したがるのは自然啓示が自然神学につながるおそれがある以上、当然と言えば当然だからです。しかし青野氏はその後に次のことを言われたわけです。

「『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである

ここで「そのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか」と言われているところの「イエス」とは、青野氏においてはいわゆる「史的イエス」であって、カルケドン信条にあるようなドグマティックな『真に人』としてのイエス」ではないと確信します。従って青野氏は、古代教会時代以来の御子創造主説を否定し、従属論的御父創造主説に一元化するかたちになっています。それは事実上、コロサイ1:16の「御子によって造られ」という「~によって」(ディア/ through)という前置詞の解釈を媒介的意味に限定されたということです。御子は創造の目的(エイス/ for)ではあっても根源ではないということです。これも新約聖書学者としては凄い発言だなと思います。御子創造主説の解釈の可能性を事実上、否定することを意味するからです。

その点で下記の和田幹男司祭の記述とは意味が微妙に異なるかも知れません。

キリスト教にとって、イエスは神であり、人間であり、このイエスが信仰の対象である。エスご自身は一人の人間として何を信じておられたのであろうか。イエスは一ユダヤ教徒として生まれ、成長されたので、当時ユダヤ教が教える神を信じておられた。 ユダヤ教モーセの律法に基づく宗教で、その基本は旧約聖書に書きとめられている。 イエスは律法に現れるこの神の意志を尊重し、それに徹底的に従われた。 またイエスは自分と同じようにその神を信じ、その意志に従うように人々に教えられた。」和田幹男/父なる神の慈愛

ここで和田神父のいわれるイエスは、「キリスト教にとって、イエスは神であり、人間であり、このイエスが信仰の対象である」と言われているとおり、カルケドン信条における「真に人、真に神」であり、ここでは前者の側面に注目してのことだと思います。

上記のように、バルト神学の所謂「キリスト論的集中」という方法論が反映している寺園氏による熊澤(的「障害者神学」)説批判に対する青野氏の創造主とキリストとを峻別する論述にふれて想起されるのは、啓示に関する下記のバルト神学に対する批判的記述です。

「『キリストの啓示は排他的(exclusive)か』という見出しは、もちろん、キリスト以外の啓示はないのかという意味です。カール・バルトをはじめとする弁証法神学者たちは、キリストだけが啓示とである、人間はキリストにおいてだけ神を知るという、いわゆるキリスト集中論的(Christ-concentration)啓示観をとても強く主張した。神の啓示はキリスト以外にない、キリストだけだと強く主張し、キリスト以外の一切の啓示を認めないが、その主張が正しいかどうか、ベルクーワは検証する。そして、結論的に言えば、バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神はヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。とても説得的でよい。(中略)

3.キリスト集中論的啓示観へのベルクーワの対応
(1)バルトとブルンナーのキリスト集中論的啓示観

ベルクーワは、いよいよ、バルトをはじめとするキリスト論集中の啓示理解を取り上げる。ベルクーワはキリスト論集中の啓示理解について、どのように考えるのかを見よう、バルトは、1927年に書いた『神学序論』(プロレゴメナ)において、イエス・キリストは、『神の啓示の現実的出来事であって、イエス・キリストは単に神の啓示でなくて、神御自身であり、それによって、神が歴史化した啓示である』と語って、イエス・キリストだけが啓示であることを強く主張した。また、バルトは1934年の『クリスマス』という随想において、イエス・キリストは、『これのみが啓示である。神の秘儀の強奪(rending)として、真のそして現実の啓示である(real and actual revelation)』と語って、イエス・キリスト以外の他のものは、イエス・キリストの周囲に集まるものであって、それにある仕方で参与するものである。しかし、それらは肉のかたちの神御自身である御言葉の真の意味での啓示ではなく、イエス・キリストだけが啓示と主張した。それゆえに、バルトにとっても自然と歴史における神の啓示活動はないし、また、さらに、旧約時代における神の啓示あり得ないことになる。すなわち、歴史において一回的に受肉した御言葉以外には、他のいかなる真の啓示もあり得ないというのが、キリスト一元的啓示概念(Christmonistic conception of revelation)になるわけである。そこで、同じキリスト一元的啓示観に立つエミール・ブルンナーも、次のように言う。1927年の『仲保者』において、ブルンナーは、『旧約聖書預言者とも区別して、預言者は御言葉をもつ、しかし、御子が御言葉である』と言った。また、ブルンナーは、『預言者たちによる啓示は、最終的であり得ない。それは、真の啓示でなくて、啓示の影にすぎない。』。意味は、旧約聖書には真の啓示はないという意味である。イエス・キリストだけが啓示であるので、イエス・キリストが出現しない旧約時代は預言者がいても、真の啓示がないという考えである。旧約時代は、啓示の影の時代である。すなわち、バルトもブルンナーも、歴史上に一回的に出現したイエス・キリストは、受肉による和解と考えるので、和解はイエス・キリストだけにしかない。旧約預言者には、受肉による和解のわざはできないので、旧約時代には啓示がないことになるし、啓示がイエス・キリスト以外にも多数な仕方で与えられたことを否定する。ベルクー言う。『この概念において、啓示の多様性や歴史に対する余地がない。というのは、受肉においてのみ、神が御自身が肉となってわたしたちの世に来たからである』と解説している。すなわち、バルトやブルンナーにとっては、神が受肉したことが啓示と考えるので、他に啓示はないことになる。旧約時代には啓示がないことになるという意味である。

(2)キリスト集中論的啓示観に対するベルクーワの批判

そこで、ベルクーワは、イエス・キリストだけが啓示と主張する人々に対して、どのように反応するのか。すると、ベルクーワは彼らの考えはおかしいと言う。何故なら、聖書は、イエス・キリスト以外にも啓示があることを自由に語っているからである。聖書はキリスト以外にも多様なかたちで、神の啓示がなされた歴史、すなわち、旧約時代を語っているからである。そこで、ベルクーワは、ヘブライ1:1、2を根拠にして、キリスト以外にも、すなわち、旧約時代に啓示があったことを語る。ベルクーワは聖書の使い方が上手で的確である。ヘブライ1:1、2は、『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。』である。ここは、啓示の歴史的進展、そして、啓示の完結、頂点が語られている。『この叙述の非常に強く驚くべき局面は、手紙のはじめに、イエス・キリストにおける絶対的で、排他的救いが、ひっくり返さない石がないほどにはっきり示しているということである。そして、救いの排他性は、御子において、また、御子を通して、神が語ることがいろいろなし方で、神が以前に語ることとともに述べられていて、少しも矛盾していない。大祭司であるキリストにおける独自な救いの視野は、神が過去において語ったことと啓示したことを過小評価するきっかけにしていない。逆に、神が語ることが、広い多様な視野で知られている。すなわち、いろいろな時に、いろいろな方法で言われている』(104頁-105頁)。『それは、ひとつの長い歴史的期間にわたる多様な形態(multiform)であり、神の歴史的多様な活動であり、それは、御子によって神が語ったことに並べられており、そして、著者の評価にとって、イエス・キリストを少しも過小評価せず、かつ、弱めていないのでる。・・・そして、最後に、地上における神の救いの決定的局面において、神が御子を通して語ったのである。以前と後の神の語りの差は、前者が後者より現実の啓示の性質を少ししか含んでいないということではない。それらすべての推論を完全に除き去っている。』(105頁)。その意味は、ヘブライ1:1、2は、明白に旧約時代から神の啓示があったことを語っている。イエス・キリストにおいて完結し、頂点に達したことを教えている。したがって、イエス・キリストだけが啓示であるという考え方は誤りで、自分勝手な考えになる。バルトの啓示論は、大きな影響を与えたが、しかし、正しいとは言えない。また、ヘブライ1:1、2だけでなく、旧約聖書を見ると、聖霊による啓示があったことがわかる。たとえば、サムエル下23:2で、『主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。』と言っていることからも、旧約時代に啓示があったことが十分わかる。また、ペトロ一1:11では、『預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。』と言われていて、キリストの霊、すなわち、聖霊が旧約時代の預言者たちを通して、啓示していたことがはっきりわかる。すなわち、旧約時代時代には啓示が幾らでもあったのである。したがって、イエス・キリストにだけ啓示があるというのは成立しない。

※以上、サイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ベルクーワ教義学の紹介と解説 Theology of Berkouwer 『教義学研究シリーズ』(全14巻)の「ベルクーワ神学の紹介と解説」の「5.ベルクーワの著作の紹介」の「第5章 キリストの啓示は排他的か」より。minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

私たちは聖書の唯一の内容がキリストであることを徹底的に明らかにしたバルトの偉大な功績は公平に認めますが、しかし、その際に彼が取ったやり方には行き過ぎと不十分さがあったことを見過ごしてはならないと思います。即ち、聖書はキリストについての証言と言う時、彼は聖書から啓示性を奪ってしまっていたのです。私たちもオランダ改革派のH・バービンクに倣って聖書はキリスト証言と考えます(『まじわり』九月号拙論参照)。それ故、バルトも私たち改革派もどちらも聖書はキリスト証言と言います。しかし、同じ言い方をしても両者は意味が大きく違います。私たちが聖書はキリスト証言と言う時に私たちは当然のこととして聖書は霊感の故にそのまま、直接的に神の言葉であり、啓示であると考えています。しかしバルトは違うのです。彼は聖書はそのまま、直接的に、即座に神の言葉、啓示ではなく、受肉した神、イエス・キリストだけが神の言葉であり、啓示であると考え、聖書は神の言葉、啓示であるキリストについての人間的文書とするものです。勿論、私たち改革派も聖書が人によって書かれた文書であることは十分に認めます。しかし、聖霊の霊感によって与えられたので、聖書がそのまま、直接的に、即座に神の言葉であり、啓示であることを確信して今日まで来たのです。いずれにしても、こうしてバルトは聖書と啓示(神の言葉)を区別するのです。バルトが、聖書と啓示(神の言葉)を区別する誤りをしたことについては、改革派神学者のクラース・ルーニアの『カール・バルトの聖書についての教理』(1962年)において詳述されています。わたしは、このルーニアの『カール・バルトの聖書についての教理』を、研修所の講義において、1章づつ丁寧に紹介・解説しました。さて、ではバルトはどうして啓示はイエス・キリストだけであると考えたのでしょうか。実はそれにはドイツの教会闘争と言われる当時のドイツの神学の状況と深い関わりがあったのです。ドイツの教会の中にはヒットラーに率いられるナチスの出現に、ドイツ民族を救済する神の意志、神の啓示を見て、ナチスを翼賛していくドイツ・キリスト者が生じてきました。そこでバルトはこのドイツ・キリスト者の神学と対決するために、神の啓示はキリストだけに現われており、ドイツ民族の法や歴史には在り得ないことを強く主張したのでした。彼はこの根源的確信に立って1934年に6項目から成る『バルメン宣言』を書きました。そしてその第一項目には神の啓示はキリストだけであるとの彼の根本的確信が明白に表わされております。引用してみましょう。『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』(ヨハネ14:6)。『よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からではなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は教われる』(ヨハネ10:1、9)『聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉(啓示)である。教会がその宣教(説教)の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらにほかの出来事や力、現象や、真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければ ならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける』。こうしてバルトは現実の戦いの中で神の啓示はキリストだけであることを声高らかに宣言したのでした。私たちもバルトがキリストの教会のために最大限の努力をしたことは十分に評価したいと思います。しかし、そのような大きな理由があったにせよ、神の言葉(啓示)はキリストだけであるとして、聖書がそのまま啓示であること、文書化された啓示であることを認めなかったことは重大な誤りと言わねばなりません。改革派の神学者たちも、バルトの偉大な神学的貢献は認めつつも、次々とこの点を批判し始めたのでした。

(4) 結論

バルトの聖書論および啓示論については更に多くのことが語られねばならないと思いますが、ここでは彼が聖書を『神の啓示(テキスト)についての証言』という考え方で聖書の唯一の独自な内容・主題がキリストであることを明らかにしたこと、しかし、その際に啓示をキリストだけに限ってしまうという行き過ぎをしてしまったこと、このふたつの点を見ておけばよいと思います。」

※以上、サイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「聖書の権威Ⅲ ―聖書の内容であるキリストとの関連で―」の「3.バルトの場合」の「(3) 聖書観」より。

minoru.la.coocan.jp/ksseishonokenibarth.html

にかく、前述のとおり長年、西南学院大学神学部で組織神学者の寺園喜基氏と同僚であった新約聖書学者の青野太潮氏は、バルト神学のキリスト論優先的な考え方を、「認識論」では肯定しても「存在論」としては否定しているわけです。私のような者からすれば、パウロからルターへ通じる「十字架(につけられてしまったままでいるキリスト)の神学」に重きを置いて自論を展開してこられた青野氏が、これほどまでに創造論存在論を重視することは驚きであり、聖書学者の論述としては画期的なことであると思いました。その青野氏の発言の背景には必ず滝沢克己氏の「インマヌエルの原事実」の思想からの影響があると思います。そもそもいわゆる滝沢神学に新約聖書学者の青野氏が関心を持ったこと自体、九大と西南という、同じ福岡市にある大学同士という関連性はあるにせよ、非常に興味深いのです。その反対に寺園氏も滝沢神学から多少なりとも影響を受けているはずですが、この青野氏との対論ではその反映は見受けられません。なおもう一人、青野氏の対論相手でなおかつ滝沢克己氏の関係者として八木誠一氏がおられます。つまり滝沢つながりで、青野、寺園、八木の三氏がいるわけです。特に八木氏はその関係で九大から文学博士の学位を取得しておられます。それはともかく、救済に関する量義治氏の注目すべき文言をまた引用します。

「仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。これに対して、キリスト教およびイスラム教における絶対者は、さしあたり有的絶対者であると言って差し支えないであろう。ヤハヴェもアッラーも唯一にして、創造者なる、全知全能なる、生ける神である。もっともここで注意しておかなければならないことは、イスラム教は唯一神教であるが、キリスト教は、厳密に言えば、そうではない。キリスト教の神はたしかに唯一ではあるが、父と子と聖霊という三つの位格を有するのである。すなわち、三位一体の神である。(中略)キリスト教の神はさしあたりは有的絶対者であると言って差し支えないが、後に見るように、単にそう言い切るわけにはいかないのである。それは、キリスト教の神が単なる唯一神ではなくて三一神であることと深く関わっている。神が単に有的であるならば、そのような神においては三位一体ということは成り立ちえないであろう。いま結論的なことだけを述べておくならば、キリスト教の神は絶対有即絶対無なる神なのである。(中略)宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。このことは自力・他力を問わない。(中略)人間の絶対者関係には二通りある。一つは人間のほうから絶対者と関係を結ぶ場合である。もう一つは絶対者が人間と関係を結ぶことによって人間が絶対者との関係に入る場合である。この場合には、根本的なのは絶対者の人間関係であって、人間の絶対者関係は絶対者の人間関係に対する応答としての関係である。自発的な関係にせよ、応答的な関係にせよ、およそ人間の絶対者関係は信に基づく関係である、と言うことができるであろう。」(~前掲書 p190~192)

「現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。もはや文明はあがけばあがくほど虚構を堅くし、空虚の深淵に落ち込んでゆくであろう。このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。」(p215~216)

「『不動の動者』において典型的に見られる哲学的絶対有は死せるものである。また、西田哲学的絶対者は結局は絶対無であって、絶対無即絶対有とは言われるけれども、絶対有の絶対有としての意義が十分に認められているとは言えない。(中略)三位一体論における三位格は絶対有である。しかし三位一体論には論理的難点がある。それは絶対が三つもあって、しかも一である、ということである。(中略)一なる有が三なる有である、または、三なる有が一なる有である、と言うのである。そのようなことは理解できるであろうか。絶対有の立場に立つかぎり、三位一体論は支持しがたいのではなかろうか。あるいは三位一体論を保持しようとするかぎり、絶対者観を変えなければならないのではなかろうか。(中略)三位格はそれぞれ絶対有である。しかし、単に絶対有であるならば、三位一体ということはおよそ思惟不可能である。三位一体ということが成立しうるのは、各位格が単に絶対有ではないからなのである。絶対有としての各位格はいかなる場所において存在するのであろうか。もしその場所が有的であるならば、絶対有としての各位格の存立の可能性は保証されても、これら三つの絶対有が一つであるということは、とうていありえないことであろう。問題の場所は無、厳密に言えば、絶対無以外ではありえないであろう。絶対有としての各位格は絶対無の場所において存在するのである。絶対有が絶対無の場所において存在するということは、絶対有の存在性格を規定するであろう。すなわち、絶対無の場所において存在する絶対有はもはや単なる絶対有ではなくて、絶対有にして絶対無であるということになるであろう。三位一体の神は絶対有にして絶対無なる神なのである。それゆえに、三位一体ということが可能となるのである。(中略)もしも三位格が単なる絶対有であったならば、相互に対立するだけで、相互相入などありえない。というのは、絶対者はつねに一であるからである。そもそも三位格の定立自体が不可能となる。三位格が絶対有にして絶対無なるがゆえに、三位格はそれぞれ独立の位格でありつつ、同時に相互相入が可能となるのである。そして、これによって三位一体が成立しうるのである。神は絶対有にして絶対無であると考えることによってはじめて相互相入が理解可能となり、三位一体論が納得がいくように基礎づけられるのである。(中略)絶対矛盾的自己同一が成り立ちうるのは、絶対者自身が絶対有にして絶対無であるからである。絶対有としての絶対者はわれわれを絶対的に否定せざるをえない。しかし、この同一の絶対者は同時に絶対無であるがゆえに、われわれをどこまでも肯定せざるをえない。このような絶対者においては、絶対否定即絶対肯定、審判即救済なのである。真の肯定は否定なくしてなく、したがって真の救済は審判なくしてないのである。(中略) 多くの場合、無神論の絶対者観は絶対者は絶対有である、というものである。たしかに、従来、西洋においては神は絶対有であると考えられてきた。無神論はこのような絶対有としての神を否定してきた。神を絶対有として主張するのが有神論であるとすれば、有神論対無神論という構図も成り立ちえよう。しかしいまや、絶対者は単なる絶対有ではなくて、同時に絶対無であることが明らかになった。絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。神が絶対有にして絶対無であるということは、絶対有なる神が絶対無において在るということである。絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもあるのである。(中略)神が絶対有にして絶対無であるということは、旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神とが同一の神であることを意味する。そして、この同一の神においては、義の審きと愛の赦しとが一つなのである。絶対有は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。我―汝の関係という人格的関係は契約と律法を介して成り立つ。契約と律法なしには我―汝の関係という人格的関係は成り立たない。そして、人格的関係のないところには責任ということも成り立たない。」(~前掲書 p229~293)

「神関係と人間関係の相即

ここで神関係とは人間の神との関係のことであり、人間関係とは人間の人間との関係のことである。前者は絶対的関係であり、後者は相対的関係である。前者が絶対的関係であるのは、この関係が神の人間との関係の応答としての人間の神との関係であるからである。このように、人間の神関係は神の人間関係に対するアナロギア(類比)なのである。いずれにせよ、人間の神関係と人間の人間関係という二つの関係は相即するものである。ブーバーは人間的な我―汝の関係の奥にというか、延長戦上にというか、神的な我―汝の関係を予感している。すなわち、我と人間的な汝(du)との関係の奥に、我と神的な汝(Du)との関係がある、と言うのである。キルケゴールはもっと直截的に、人間関係の中間規定として神関係がある、と言うのである。すなわち、人間と人間との真の関係は、人間と神との関係をその真の関係の中間規定としてもっている、と言うのである。わたしが神関係と人間関係とは相即するものである、と言うとき、一方の関係は他方の関係なしにはありえない、ということである。すなわち、人間関係なしには神関係はなく、また、神関係なしには人間関係はないのである。二つの関係は一つの関係であり、また、一つの関係は二つの関係なのである。言い換えれば、神関係と人間関係とは不一不二なる関係なのである。聖書は次のように述べている。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(中略)

(『ヨハネの手紙Ⅰ』四章一九ー二一節)

関係内存在

人間存在はすでに神関係と人間関係の内にあるのであるこれは現象学的な事実である。(中略)人間存在は関係内存在である、というのは、わたしの哲学の根本的前提である。わたしはあえてこれを論証しようとは思わない。いろいろ説明することはできても、そもそも論証できる性質のものではない。それぞれの哲学にはその哲学固有の直覚的な前提といったものがあるのである。デカルトの『コギト・エルゴ・スム』しかり、(中略)関係内存在ということの内で、神関係に関しても、わたしは人間の神関係よりも、神の人間関係のほうが根源的である、と解している。前者は後者に対する応答なのである。すでにわたしは、自己の宗教的意識ないしは宗教的体験に基づいて語り出していることを自覚している。」(p169~171)

「救済は生の苦からの救済である。苦は現実である。いっさいが虚構に覆われている時代にあっても、苦は現実である。苦の原因がどこにあるにせよ、苦しんでいることは現実である。苦の内容はさまざまであっても、苦そのものは虚構ではなくて現実である。そして、その苦からの救済を求めることも事実である。生は生への意志にほかならないからである。生が生であるかぎり、生を否定する苦からの救済を求めないということはない。(中略)生が苦からの救済を求めることは生の事実である。苦の現実とこの現実からの救済を求める生の事実を前にして、無神論はいかに応えるのであろうか。無神論という思想のゆえに生の事実を否定するのであろうか。それとも無神論の立場から生の事実に応えようとするのか。しかし、無神論にそれを期待することができるであろうか。なぜなら、全人的・全人類的・全宇宙的救済は、この世界においては、または現世においては、不可能なのであり、新天新地の到来または来世の存在が必要不可欠であるからである。現実の苦がなんともならないものであるとき、われわれはその苦からの救済を求めて新天新地の到来を、または来世の存在を信じざるをえないのである。信仰は必然性である。無神論は傍観的な有閑な理論にすぎない。現代に生きることはさまざまの苦の渦中に投げ込まれていることである。われわれは苦の当事者なのである。現実を正視するとき、無神論などをうそぶいている暇はない。もちろん、究極的な救済を信ずることは、他力本願にあぐらをかいて、自らはなにもしないことではない。かえっていっさいがわれわれの努力にかかっているかのように尽力するのである。人事を尽くして天命を待つのである。無神論から出てくるものは絶望と無関心である。しかし、救済を求める者は希望を抱き、努力せざるをえない。」(前掲書p229~292)

「十八世紀的人間の自己絶対化は、神を排除することによってではなく、逆に神を理念としての人間理性の中に内在化させることによって遂行されたのである。したがって理念としての神が死んだとなると、この近代的人間の自己絶対化も崩壊するわけで、そこにヨーロッパの、そしてやがては世界の運命となるはずのニヒリズムが到来する。」

小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)より「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)

「このようにして形成された人間中心主義の考え方、すなわち〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉の姿勢を、ここでは『近代主観主義』と呼びたいと思う。この人間の知性の絶対化による近代主観主義の立場に思想的表現を与えたのがドイツ理想主義の哲学である。(中略)G・W・F・ヘーゲルの『絶対精神』において完結を見るのである。バルトは、このヘーゲルの哲学は『最高の謙虚さであることによる最高の巨人主義(略)である』といった。『人間の自己信頼が、そのままもっとも信実な神信頼になる』立場だという。近代主観主義における、〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉の姿勢は、ここに究極の形をとったと言えるであろう。(中略)〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉という原理に立つ近代主観主義は、ドイツ・ロマン主義にも受けつがれ、さらにC・シュミットの『政治的ロマン主義』(略)となってナチ・ドイツのファシズム形成の背景となった。」(同上)

心理療法と称するものはあまり信じないし聖霊の内住を信じるクリスチャンにとって基本的には必要とはならないもの、無縁でしょう。せいぜいフロイトのそれくらいは一般教養の一つとして知っておいてもいいかなと思う程度です。さらに付け加えればフランクルの「ロゴセラピー」とそれに対する非科学的との批判も、簡略なまとめサイトレベルで誤解せぬ限りにおいては知っておいて損はないと思います。ちなみに「信仰治療」というものはあって、自分もそれと違う意味ですが「絶対神信仰治療」ということを自分用のセラピー(自己治療)として考えています。これと似た発想が以下のことです。

エスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して『神の権威』に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。」(荒井献著『イエスとその時代』〔岩波新書〕p185)

絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

ここで引用した言葉は相対化の対象が自己だけになって、肝心の世俗的価値観という偶像の相対化には関心が向いていません。それはこの論者たちがインテリ&ブルジョワだからでしょう。いずれにしても、「その実在を信じるかどうかはともかくとして」という考えがある以上、私の「絶対信仰治療」とは無関係ということになります。信仰を前提としない行為は神を(…いかに倫理・道徳的にとは言え)利用しているということになり、元々は信仰心が第一であったとしても結果的には、(斉藤仁作氏の論文「三一論の研究」におけるバルトの三一論について「三者はそれ自体において神なのではなく、他者への献身をとおして自己の存在と神性(アイデンティティ)を獲得している」といった言葉への批判の同意を求めた私の手紙に対する)寺園基喜牧師(からの返信)の「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」とか、あるいは量義治氏の言い方を逆用すれば、神が「自我の内に吸収され解消され」てしまうような、あるいは「これは人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道の究極であって、その道をさらに進むと、〈神〉という言葉なしに新約聖書の内容を述べることもできるという点にまで達する。すなわちここでは、神の存在は、その非対象性を通じて人間の実存の中に解消されたのである。もちろんブルトマンは、この点まで同行することはしない。しかしブルトマンの神学の中には、ここまで行ってはならないという明確な歯止めはない。」(小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p120 ※ブルトマン学派に属すとされるブラウンについて言われている。)といったことになります。しかもその「信仰」が真に神の賜物としての…他力的恵みとしての信心でなければ、現実に治療効果を発揮することはないでしょう。いずれにせよ常に何らかの言葉(ロゴス)に意識を向けることが精神の安定を支える…という現実が自分などにはあるわけで、だからその精神支柱である言葉(ロゴス)を何にするかが重要になるのです。

以下、関根清三氏の、「神」を「絶対」とする言葉を引用しておきます。

「士師時代以降の他宗教排斥には、様々なレヴェルで様々な動機が考えられるとしても、基本的には、ギデオン、エリヤに通底しつつ、記述預言者たちによってより明確に指摘された点が、重要であろう。すなわち、バアル宗教がいつの時代にもヤハウェ宗教の指導者たちに拒否され排斥されて来たのは、それが絶対的なヤハウェへの忠実な信仰を脅かすものだったからである、と考えられるのである。」(関根氏前掲書 p146)

我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。信仰者はしばしば、聖書を文字どおり一字一句信じることが信仰だと思って、現代の科学の知見に反する到底信じられないようなことも、信じようと無理をすることがあります。逆に信仰をもたない方は、聖書が現代人には信じられない荒唐無稽な話の寄せ集めだと思って、これを拒否します。しかしどちらも根本的に誤解であって、それは直解主義にすぎないと私は思います。それは、あくまでも時代の限界の中で語られた、相対的な人間の言葉にすぎない聖書の言葉を、絶対化してしまう、言わば偶像崇拝でしょう。偶像崇拝というのは相対的なものを絶対的なものと取り違えて崇拝することで、聖書自身が排撃するところです。その意味で、聖書の直解主義的な信仰は、聖書自身が否定していることだと言うべきでしょう。むしろ、そういった時代の限界は取っ払い、時代の概念装置はあくまで相対化し、それらを用いて作者が指し示したかった無制約的なリアリティの方を、解釈学的に解きほぐしていくこと、そちらの方に眼差しを向けて行くこと、それこそが聖書に対する正しい対し方だと思うのです。」(関根清三著『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書p7780

ここで言われている「その時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けません」という点は非常に重要な指摘であり、ヤハウィストと呼ばれる人々が表現したかったことが、現代人が共感的に想像すれば、「我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティ」であったと仮定し得ても、そのように「全く超えた神」とか「絶対的な根拠」などといった概念が当時の人々には存在していなかった…そういう極めて抽象的な語彙はなかっただろうから、聖書には神について「絶対」と訳されるような言葉が無いのは当然と言えば当然なのです。

関根氏は、「独断的な言い方しかできないことを私は恥じます」と述べておられますが、そもそも宗教的実存的真理というものは客観的真理とは違って、滝沢克己氏が「私の言うことは独断的にみえるでしょう。神は人間の意志とは全く独立だというのだから。しかしその独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」と言ったとおり、そもそも「独断的」にしか言えない面もあるのでしょう。自分自身の対神関係については「証言」は出来ても「証明」することは出来ないといった意味においてです。関根氏は、大事なことは「我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティ」だと言われ、そのような超越的な事柄を聖書は「象徴的な言葉で指し示している」のだと言っておられます(前掲書 p52)。

岸田秀氏は「現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」と指摘しておられます(『希望の原理』〔青土社〕p93)。また、古くはアドラーが『嫌われる勇気』であらゆる悩みの原因は対人関係にある旨言っているそうですが、私の「超絶神観、超絶神信仰」および「絶対神信仰治療」の考え方では、対人関係を平和にするには自分が謙虚になれることが要点であり、それがイエスの「ケノーシス」を理想とする信仰実践になります。そして謙虚になれるために必要なことが自他の相対化であり、絶対である唯一の神のみを絶対とするべく、人間社会で絶対視される偶像を消すことを意味します。

非科学的なロゴセラピー(「ロゴ」はギリシャ語「ロゴス」に由来し「意味」を意味する。)は実存主義ということで哲学的であると同時に隠れ神学的であるようです。何故ならフランクルのロゴセラピー自体、基本対象が欧米人でありキリスト教文化を前提としているので、暗黙の裡に「神」信仰が関わる場合があるからです。しかしフランクルは療法としている以上、宗教色はあまり出せないので、「隠れ」となるのです。「意味」と「神学」とくれば想起するのが、土井真俊著『意味の神学 宣教の神学序説』 (日本基督教団出版部 1963年)ですが、内容的にはロゴセラとは関係ないようです。フランクルのロゴセラと神学的な接点を見いだしたのが滝沢克己氏であり、彼のフランクル論も参考になります。

フランクルは興味深い神の定義――「神とは我々の親密な自己対話の相手である」(一一四頁)という操作的な神の定義を挙げる。この神の定義から、フランクルは話題をさらに無神論者の神信仰へ移していく。そして「根底において、無意識の深みにおいて、本来は我々の誰もが語の最も広い意味において〔神〕信仰的である」(一一五頁)という謂わば「信仰の遍在」(同上)が主張される。フランクルによれば、人間は生きる限り何らかの仕方で(超越的な)意味を信じているのであり、そうである限り、無神論者を含めすべての人が神信仰を持つと見なされるのは、必然的な帰結と言ってよいであろう。さて滝沢であるが、インマヌエルの原事実は、すべての人に、いや極悪人のもとにも「一厘一毛の緩みなく臨在している」のであった。インマヌエルの原事実の絶対平等性である。「信仰の遍在」とは、原事実に対する人間の無意識における感応として理解できるであろう。このようにフランクルの「意味」と滝沢の「原事実」は限りなく共鳴しあうのである。>(~芝田豊彦氏の論文「フランクル滝沢克己――人生の「意味」を巡って)KU-1100-20100308-17.pdf

< PIL概念
以上のことから, PIL,すなわち, 「人生の目的」という概念(言葉)が, 「生きがい」のことであり,この概念が以下のようなものであると分かる。
「生きがい」欲求は,人間存在が生来的にもつ「意味への意志」にその源泉をもち, 「生きがい」の対象となる「価値」の選択は人間存在に生来的に備わった「実存的自由」により可能となる。そして, 「生きがい」欲求の充足,ということは, 「生きがい」感・意識は,神から人間存在に課せられた「責任t使命」である「価値実現」を通して神から付与されるということが分かる(中略)PIL理論においては,前述のように「神」に根拠づけられた(基盤を置く) 「良心」から生まれる「責任・使命」である「価値実現」が「生きがい」 (欲求の充足)(ということは「生きがい」感・意識の獲得)であった。つまり, 「生きがい」は「神」によって付与されるものであり,換言すれば, 「生きがい」調達の源泉は「神」であった。欧米社会,欧米文化,ということは,欧米人の精神構追(心)の根底,根源に存在するのは「神」 (キリスト教)である。欧米人においては,人間個々人の存在そのものが神によって根拠づけられ(許され)ている。したがって,人間個々人の生が価値を有するか,生きるに催するか,つまり, 「生きがい」があるかを決定するのも当然神なのである。これに対して,日本の社会,日本人の心には,神,宗教が不在である。 (見田[14],宮家[15])。したがって, 「生きがい」調達の源泉を「神」に求めることはできない。日本人にとって「生きがい」調達の源泉は「人間関係」なのである。 >(~「PIL 概念についての考察」bnit1997_217.pdf )

ちなみに滝沢克己氏は、あくまで(宗教)哲学者であって正規の意味での神学者ではないので、神信仰とはいっても彼にとっての「神」とキリスト教の伝統的な神観との異同が問題です。いわゆる汎在神論的な形而上学的思弁に及ぶ可能性もあります。少なくとも滝沢氏の神学的思想は客観主義であり、「原事実」は御自身も認めておられるとおり「独断」です。そして対論者の八木誠一氏の「直観」を迷いと一蹴したはずです。バルト神学との関係でか神秘主義はお嫌いのようです。一方の傾倒先である西田幾多郎氏及びその関係者には、神学的立場からみれば神秘主義的な面があるようですが…。「絶対神信仰治療」にしたって独断と偏見から始まります。けっして聖書正典絶対主義が原点などではないのです。その点ではこういう信仰治療は治療ではなく自慰にすぎず罪であると言われそうですが、それを否定することはできない代わりに、本人のメンタルヘルスに必要な遊びとして神がその愛において許容しておられるのだと、自分に与えられている対神関係を省察します。

さてそこで、私の自分用のセラピーである「絶対神信仰治療」について要約します。それは、神の絶対主権の下に、自分の悩みの原因となるあらゆるものを相対化するということです。例えば職場や学校での人間関係における苦悩・心労ですが、職場も学校も日常生活の中で長い時間を費やす場であるという点が問題になります。それは生活の場であり、当人にとっては生活世界の主戦場です。そこで関わる人たちは、自分の勤務年数が長くなればなるほど自分の人生の中で大きな意味を有します。そしてその人たちとの関係が良好であればよいのですが敵対するような場合、それが死後にまで及ぶかのような不安を抱くことにさえなります。ふだんのコミュニケーションさえ、簡単にはスルーできないのでストレスが溜まるというのに、当人にとって生活世界が現実世界全体を吸収する感じになるし、特に職場は自分の生存を左右する正念場なのでそこでの人間関係における自分に対する評価などが絶対化され、それが永遠に続くような錯覚に陥ると恐ろしくなるのです。それが精神に異常をきたす原因になる場合、その人間関係を相対化するための根拠が必要になってきます。これが「絶対神信仰」です。しかもその場合の「絶対神」は聖書から示される人格的な存在としての(御子従属的)三一神でなければなりません。後述の小川圭治氏のように伝統的キリスト教の「三一神論」の神と「絶対一神論」の神とを対置させることには反対です。以下の小川氏の文章には(実際、バルトもモルトマンもそういう考えの持ち主なのでしょうが…)憤りさえ感じられてきます。自分には小川氏の言う「新しい神」とは無縁です。逆に小川氏が嫌悪する「絶対一神」こそが…「絶対」だからこそ救い得る者もあるのです。

< J・モルトマンは、あの抽象的、排他的、非歴史的、非現実的な一神論的絶対主義の神の根本的性格を、「非受苦性原理」(略)、「受苦不能性」(略)などの用語で表した。このモルトマンの論述の背景には、彼は公然とは述べないが、明らかにバルトの『和解論』における「死ぬことができる神」、「受苦可能な神」についての、はるかに周到で精細な論述があることを忘れてはならない。この和解論の神は、派遣されて人間となったからこそ死ぬことができる神であり、苦悩、苦痛を共にする「同伴者」として、人間と共に歩むことができる神なのである。この神こそが、近代主義的内在化の神の一神論的絶対性を根本的に突破する、今日の新しい神なのである。>(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)

また、野呂芳男氏のように「絶対的なもの」(the Absolute)と「究極的なもの」(the Ultimate)とを区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ない などと言うこと(『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎 p335他参照)にも反対しなければなりません。また、野呂氏は「絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。」(『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)とも言っています。但し野呂氏は人格主義神観に徹したし、アルタイザーの「神の死の神学」に関するエッセイでは、「我々は旧・新約聖書が、神を霊として表現している点にもっと注意を払わなければならない。ネルス・フェレーが言うように、キリスト教の神は「愛なる人格としての霊(Personal Spirit as Love)と表現するのが適当であろう。聖書において神が霊であるということは、神の存在が月や太陽のように他の存在するものと同様の仕方で、どこかに存在するということの否定である。また、何かの物ではないということなのである。(中略)霊なる神は、人間がプライヴァシーのほしい時には、人間から遠くに離れていることのできる存在であり、近くにいてほしい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近くいてくれる存在なのである。」と述べておられます。但し「霊なる神」については、『旧約新約聖書大事典』(教文館)では、旧約聖書では「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。なぜなら旧約聖書は、神の本質について、世界ないし人間との関係においてのみ語るからである。ヤハウェは霊を与え、またそれを取り去り(詩104:29-30)、かくして被造物の生と死とに働きかける。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(p1291)と言われています。

また、バルトのように聖書が示す「(三一)神」を、イエス・キリストを通してのみ見ようとすることは誤りだと自分は思うし、実際、ベルカウアーもそういったことを言っています。以下、佐々木稔牧師のサイトから引用。

カール・バルトをはじめとする弁証法神学者たちは、キリストだけが啓示とである、人間はキリストにおいてだけ神を知るという、いわゆるキリスト集中論的(Christ-concentration)啓示観をとても強く主張した。神の啓示はキリスト以外にない、キリストだけだと強く主張し、キリスト以外の一切の啓示を認めないが、その主張が正しいかどうか、ベルクーワは検証する。そして、結論的に言えば、バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神はヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。>minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

ところで、私が野呂氏の神学ではダメである最大の理由がその「有限なる神」という神観です。野呂芳男氏は北森嘉蔵氏に関する記述で、「少くともある時期に、北森教授は、われわれが通称で有限の神(a finite God)と呼ぶものに接近された」と言っておられます。結局、北森神学も野呂神学も、広義の「神義論」を前提として形成されているのであり(但しルターは「神義論」それ自体を否定したらしい)、「神」を有限化・相対化する人間中心的方向に向かうのです。ちなみに野呂氏は北森氏の「神の痛みの神学」における父神共苦も「父神受苦説」に含まれる旨のことを述べておられます。神義論自体は聖書にもあるテーマだから否定する必要はないが、この議論にこだわりを持つことが無駄。八木誠一氏は、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と述べておられるとおり、人格神観の最大の陥穽が神義論であると言えるでしょう。

宗教哲学においては「絶対(者)」と言ってもいろいろあります。まずもって想起されるのが、教会教父に多大なる影響を与えたとされるネオ・プラトニズムでしょう。

ネオ・プラトニズムの影響を受けたイスラームのイブン・アラビーの思想について井筒俊彦氏は次のように述べておられます。

<存在モデルとしての三角形の頂点を(中略)イブン・アラビーは、三角形の頂点に、(中略)「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(ahad)と呼びます。(中略)三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしろゼロであります。(中略)ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。(中略)このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤ(ahdiyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。(中略)この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。>(『イスラム哲学の原像』p122~)

この「究極の源」としての「絶対的一者」ということがネオ・プラ的であり、ネオ・プラでは「絶対的一者」(ただし人格神ではない)の「顕現(エピファニー)」として「多」なる存在者が流出し生成流転するのです。ネオ・プラとキリスト教の三一神論との関連性については、「御父本源説」が接点となります。これは東方教会の神学的特徴と言えますが、これは山田晶氏が『アウグスティヌス講話』で次のように語っていることと符合するのです。

ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば「根源の根源」と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが「それを通して」御父に到るべき「道」となり、聖霊は、「それにおいて」われわれがその道をすすむことのできるいわば「光」のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。>

上智大神学部教授の岩島忠彦氏も、「ギリシア語圏が父のみが源にこだわり続けた」と述べており(私信)、矢内原忠雄氏は、< アタナシウスはなお、「父は子より大なり」との主張を把持したのであった。三位一体論が完成されたのは、アウグスティヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、この書において、父と子と御霊との全く相等しい神性が論定されたのである。>(~「ヨハネ伝講義」No.56の「訣別遺訓に現れた三位一体論 一 三位一体論とは何か」)と述べている。ニカイア信条はある意味、御父本源(=御子従属)的三一神論と必ずしも矛盾しないともとれます。それなら植村正久が聖書解釈で御子を御父より劣れる者と解したがニカイア信条を信じていたということもおかしなことではないわけです。

「仮りに私を愛しているのなら、あなたがたは私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は私よりも大いなる方なのだから。」(ヨハネ14:28)

関西にある正教会の某司祭(自分の認識では正教会の「手引き」の作成者で現役)は次のように言っておられます。< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」においてではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>(~私信)とのこと。 

こうして見ると三位格の何もかもが「同質」であり「同等」とする西方教会に比べたら、「関係」だけでも「同等」とはせず、御父を「源」とする東方教会の方が聖書的であり、アリウス説のように御子被造物説は否定するにせよ、御子従属説に対しては、西方教会よりは近いと言えます。私見では青野氏は御子従属説に立っておられ、私もそうなのです。

量義治氏は宗教哲学入門』において「絶対者」を三様に分け、「仏教の空は無的絶対者である。それに対して、アッラーは有的絶対者である。キリスト教の三位一体の神は単なる有的絶対者ではないであろう。」(p29)ということで、じゃあなんなの?と言えば、「絶対有にして絶対無」(p232他)とのこと。その根拠として挙げられているのが「ペリコレーシス」(相互相入説)だ。量氏は、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(p190)と述べ、さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(p292、293)と述べています。また、「絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもある」(p292)と述べています。「超越」が「内在」に先行しなければ聖書的ではないのに、量氏の宗教哲学では、滝沢克己氏の宗教哲学では言えるところの「不可逆」を言えないようです。量氏は汎(内)在神論とか万有(内)在神論についてはどのように考えておられたのかは知りませんが、「超越神であると同時に内在神」というのはコレにあたります。スピノザの神は汎神論の神と云われていますが、以下のような内容であれば、汎(内)在神論の神に限りなく近い感じがします。(以下、國分功一郎氏の文言を引用。太字はブログ主の自分による。)

スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たち人間は有限です。空間的には身体という限界を持っていますし、時間的には寿命という限界を持っています。
神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。
すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」といいます(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。
神すなわち自然は外部を持たないのだから、他のいかなるものからも影響を受けることがありません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。絶対的な神が存在しても、超自然的な奇跡などは存在しないということです。
「神」という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの「神即自然」の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。
このような神の概念は、意志を持って人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。もちろんこれはおかしな話です。神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考えるほかないはずだからです。しかし、そのような理屈が通用するはずがありません。教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力を持っていた時代において、スピノザの考え方は人々には受け入れがたいものでした。別の言い方をすれば、非常に先進的であったわけです。>

スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

スピノザの思想が部分的には汎神論(pantheism)よりも汎在神論(panentheism)…万有内在神論に近いと思われることについて参照⇒結局、スピノザは汎神論なの?汎在神論なの? - 当方、なんとなくスピノザ... - Yahoo!知恵袋

「神が無限ならば、神には外部がない」ということについては、アウグスティヌス以来の創造説の伝統的理解とはズレるようです。(以下引用。佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

「〈 世界の創造は、神の創造者への自己決定に基づいている。創造しながら自己から出ていく前に、神はご自身に対して決心し、決定し、定めることによって、内側にご自身へと働きかける。「神の自己限定」(Zimzum)というユダヤ・カバラ的教義を使って、このような考え方が深められねばならない。そうすることによって、無からの創造(Creatio ex nihilo)の教義について、より深い解釈が得られねばならない。しかし、われわれは神の自己限定と無についての教義を、十字架にかけられた神の子に対する信仰のメシアニズムの光に照らして、取り上げ用いるであろう。〉(ユルゲン・モルトマン[沖野政弘訳]『創造における神 組織神学論叢2』新教出版社、1991年、135頁)

 モルトマンは、「外部から創造がなされた」という発想から、キリスト教神学が解放される(自由になる)必要があると考えます。神が神自身に働きかけるプロセスとして創造を理解すべきであるというユダヤ教カバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築するというのがモルトマンの戦略です。そのためには、アウグスティヌスによって、カトリック神学、プロテスタント神学の双方にとって公理系のごとくなった、創造を神の業の外部に向けた作用という見方を改めなくてはならないと考えます。

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいるキリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも「外」を持つのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限界となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。〉(前掲書135~136頁)」

このようなリベラル神学者の言説などは、倫理的なもの以外は教会現場と懸け離れています。聖書が示す三一の「神」には「大きさ」など無いということは、無限ということで明らかです。だって「外」を持たないのですから…。しかし宗教はイメージの世界です。理性的に考えれば大きさなど無い「神」に対して、大か小か…と言えば、前者を選ぶ子どもの方が圧倒に多いはず。そしてこのようなイメージは重要だと思っています。

ユダヤ教カバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築する」なんてことは非現実的であることは言うまでもありません。そんなことは何の意味もないのです。なぜならキリスト教の教義は基本信条によってすでに決定しているからです。私は自分の信仰では基本信条を認めることは出来ません。そこにアポリアが生じます。しかし教会から離れた個人的な信仰生活といったものも聖書に基づく限り考えられないでしょう。そこで仏教のように「真実」と「方便」との区別が必要になります。二重真理説ならぬ二重信条主義です。「真実」としては、自分にとっての(「神」という語はできるだけ使いたくない)聖定主はイエスの御父のみであり、御父が唯一絶対者なのです。当然、御子との従属的関係も聖書から示されることです。そして聖定主は超絶の人格的存在ではありますが、被造世界に遍在しておられるので「超越≧内在」という不可逆的関係ということで万有在神論の神ということになります。「神」の内に万物が存在するとも言えるし、逆に万物の内に「神」が宿るとも言えますが、あくまで超越の方が内在よりも優先されるのです。そこに聖定主の全能性や無限性があります。聖定主は時間的には創造と摂理の主です。「方便」としてはそれらが聖定主の啓示すなわち「自己限定」において、改革派教会の信仰基準に一致するのです。真実は「従属」であっても、方便としては「同等」ということを認めざるを得ないのです。コリント第一15:28の「神がすべてのものにおいてすべてとなる」(青野太潮訳)の解釈はいくつかあるでしょうが、自分はこれを万有在神としての「神」が、自己限定して三一神となっていた状態から本来の唯一神ないしは全一神へ戻ることだと解する。そう、御子イエス・キリストを含めて歴史を通して啓示されたイスラエルの神エホバ乃至は父と子と聖霊の三一神は、真の神の自己限定されたかたちにすぎない。真の神は汎在神だから、我々を包む人格的存在であり、その中に自分が生きていることに気づく者と気づかない者とが分かれる。だから小田垣雅也氏が言うように、汎在神だから対象ではないってことはない。気づける人にとっては信仰の人格的対象なのだ。「私は今、あなたたちが知らずに崇拝しているもの、それをあなたたちに告げ知らせましょう。/世界とその中の万物とを造られた神は、天地の主なのですから、手で造られた神殿などには住まわれません。/また、何か不足なところがあるかのように、人間の手によって仕えられることもありません。神自らがすべての人々に、命と息と万物とを与えて下っているのですから。(中略)われわれは神のうちに生き、働き、存在するのですから。また、あなたたちのある詩人たちも、われわれもまた、その子孫であると言っている通りです。/このように、私たちは神の子孫なのでありますから、神的なるものを、人間の技術や思惑の産物である金や銀や石などの像と同じものと思ってはいけないのです。」(使徒17:23~29 荒井献訳)※28節の注は、「汎在神論」という用語で新しい版から書き直されたはず。

「汎神論(pantheism)が、「πᾶν(all)- θεός(God)」、すなわち「万物(世界)=神」だと考えるのに対して、万有内在神論(panentheism)は、神が万物(世界)よりは大きいもの、それを超え出て包み込んでいるもの、すなわち「万物(世界)⊂神」と考える。」(~wikipedia「万有内在神論」)

「万有在神論ともいう。ドイツの哲学者 F.クラウゼが自説に与えた名称。神は世界に内在するが,世界よりも大きく,すぐれている。すなわち万有は神の内にある。」(~「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「世界内在神論」)

万有在神論的「神」は、人格的存在とは言え摂理は自然法則にまかせておられる(その点ではスピリチュアリズム普及会の神観、摂理理解にも共感し得る部分がある。神の摂理(法則)について (spiritualism.jp))。実際は個々人について神の意志が徹底されているのかもしれないが、神義論的問いや悩みが生じないためには、「神」は摂理において自然法則を用いておられると思いたい。

というか、聖書の神への信仰が神義論に陥るのは擬人化されているからであり、キリスト教では異教の神々に対して人間にとって都合の良い偶像である旨言うが結局何にせよ世の出来事はすべて神の意志によって意味あるとされて不可解なことは人知を超えた神秘として思考停止したりするのだから「不条理」を排除するという点では同じく人間に都合のよい神観であることに変わりない。人間の都合を超えた神と言えるのは「不条理」をも包容し得る存在なのである。この世の出来事は有意味だけではなく無意味もあるとする…八木誠一氏の思想における「創造的空」にも近づく聖書的神観ということで、これは汎在神論(=万有在神論)の神以外には無い。

ところで、小田垣雅也氏は『知られざる神に』(創文社)の中で次のように述べている。(以下、引用。太字は自分。)

 <神の完全性とは(中略)両極的なものだとハーツホーンは主張する。つまり絶対的、恒常的な存在者であると共に、自己超越的という意味で相対的で自己創造的存在者でなければならない。言いかえると、神は原初的本性であると同時に結果的本性でなければならない。そしてハーツホーンが言う意味の汎在神論はこのような事情であろうと理解される。それは神を世界の創造者であり世界を超越する者であると考えて、その結果、世界への神の内在を否定する有神論ではないし、世界と神を同一視し、神を世界に遍在すると考える汎神論でもないという意味で汎在神論である。汎在神論の神は、永遠不変であると同時に時間的流転的であり、超越的であると同時に内在的であり、世界に含まれると同時に世界を含んだ至高の人格的存在者であると言う。(中略)それに対して西田幾多郎は汎在神論を別様に理解している。(中略)神は絶対無である。この絶対無が他のもろもろの個物をあらしめ、それ故にまたそれは絶対の有でもある。このような意味で神は万物の創造者であり、被造物としての世界は神に依存する。また逆に、被造物としての世界があるから神がある。そして西田が言う汎在神論(西田の訳では万有在神論)とはこのような事情を指している。神は絶対無として、すべてのものがそれによって在らしめられるという意味で、すべてのものは神の中にあるのである。>(p130~131)

私見では、 小田垣は、ハーツホーンのプロセス哲学の神理解における「両極・二極」性に普遍論争以来の二項対立の思考から脱しきれていない、不徹底さを指摘し、それと比べて西田哲学の方を評価しているようです。単純に見れば、西田哲学では「万有」が「神」に「内在」しているということであって、「神」が「万有」に「内在」しているという論ではありません。そして自分もその方が聖書的だと思います。重要なことは創造主と被造物との「不可逆」の関係性であり、ホワイトヘッドの「世界が神に内在しているということが真であるのは、神が世界に内在していると言うことが真であるのと同じである。」とか「神は世界を超越していると言うことが真であるのは、世界は神を超越していると言うことが真であるのと同じである。」(p142)といった命題は非聖書的ということになるでしょう。ハーツホーンは下記のとおりハートショーンと読まれもするそうですが、彼の思想的欠陥は喜田川信氏の指摘のとおり、汎神論と汎在神論との区別が曖昧であることです。

 <かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)。もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(Pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。(中略)時間にしても、時間と空間が被造物の存在形式であるならば、神は時間を創ったというより神御自身が時間の中にあると言ってよいであろう。>(喜田川信著『神・キリスト・悪』〔新教出版社〕p20)

この喜田川氏の批判にかかわらず、自分は「創る神と包括的な宇宙とは一つの神」だという神観に触発されて参考にし、聖書が示す(…本来の、すなわち三一神として自己限定・自己相対化する前の)「神」は、「人格」的な面と「非人格」的な面、「対象」的な面と「非対象」的な面、「歴史」的な面と「非歴史」的な面、「有意味」(摂理)的な面と「無意味」(法則)的な面など、相対的構図を調和するシステムの構造になっており、神義論的問いに対して答える面と答えない面とがあります。キリスト教では前者の面に偏っている。そういうことを思い巡らしてゆくと、八木誠一氏の「創造的空」という神観にも通じるものが出てきそうな気がします。それは要するに「万有在神論=汎在神論」の「神」観との異同ということです。

救拯学入門 | 記事編集 | note

「ハートショーンは,神をその全体性における世界自体であるとする汎神論(Pantheism)を拒否する.なぜなら神は一方では,超越的自己同一性を持っているからである.しかし神は他方,世界に対する知識と愛によって世界に関係付けられており,それを自己の内に包含し,その創造的出来事を把持する.万物は神の内にある.ハートショーンは,このような万有神論(Panentheism)の立場は現代の哲学者の神概念に対する懐疑ないし否定に有効に答え得ると考える.最高完全存在は,必然的に存在するか,必然的に存在しないかのいずれかでしかないが,自己矛盾したものは必然的に存在しないがゆえに,最高完全存在は必然的に存在することになるからである.」《じっくり解説》プロセス神学とは? | Word of Life ワードオブライフ

私は、聖書にもとづいてPantheismは否定しつつも、Panentheismはどこまでキリスト教の枠内で受容し得るかに関心があります。

汎神論(pantheism)と汎在神論(panentheism)の違いを小田垣雅也氏は以下のように説明しています。

「汎神論は、あらゆるものの中に神を見る。その神々は同一水準に並んだものである。山の神も、木の神も、水の神もいる。世の中に神々は、対象として沢山いる。対象的思考とは、もともとそういうものだ。一方、汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。それは超・対象論理的な神で、対象論理的に、つまり汎神論的に考えた一つの神を、絶対視するのではない。具体的歴史内での啓示を神とするのであり、それは汎神論的意味での神ではない。」(~説教「インマヌエル」)

http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0609.html

聖書では創世記11:5に「ヤハウェは降りて行き」云々とあるとおり、また12:7や17:1や18:1でアブラハムに顕れ、全一者が啓示のために自己限定して一個人のようになっておられます。それこそ全能のなし得る業でしょう。真の絶対者・無限者は自らを相対者・有限者に化すことが出来るのです。ここは本多峰子先生の資料批判としての見方は採らない方が、生活実践的神信仰としてはよいでしょう(⇒二松学舎大学 学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)「ヤハウィストの神 : 旧約聖書のはじめの神観」)。

「神即自然」だから人格神ではないとは言え、擬人化され過ぎる聖書的人格神(観)よりもむしろ人格的というか神格的だと言えるかも知れません。コリント第一15:28の終末における創造主帰一では、もはや霊(無形)と物(有形)との区別も越えて唯一・絶対ないしは全一である神が「一」を徹底されるのです。それって「神=自然」ではなく「神≧自然」といったイメージになります。全一者たる神は万物を包むのです。それは絶対者⇒無限者⇒包括者という必然的帰結です。「聖書の神は霊であって、大きさなんか無いんだ」という人に対しては、必ずしもそうとは言えず、聖書に「遍在」の教理がある以上、上記のような論理が成り立つということを語ってあげなければなりません。聖書の神のイメージとして大きいか小さいかと問えば、少なくとも小さいより大きいとなると言えます。そして宗教においてはそのイメージが重要な意義を持っているのです。八木誠一氏は、絶対は普遍性を含意する旨のことを言われましたが、上記の國分氏の論述では、絶対は無限性を含意するのです。このように唯一・絶対・無限・普遍・超越かつ内在なる存在として聖書の三一神を信仰するなら、論理的必然として汎神論ではないけど汎在神論的な神として信じて然りだということ。そもそも肉体か霊体かはともかく、傷などが肉眼で見えて食事もする物質的な「からだ」を持って昇天し、そしてその同じ姿で再臨なさる(「真に神」であると同時に)「真に人」であるイエス・キリストが第2位格となっている三一神が遍在しておられるということ自体、人知を超えた神秘にほかならないのです。

ところで量氏と同じく無教会系の関根清三氏は、「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」(~『倫理の探索』〔中公新書〕p133)と言っておられます。これが私の言う人格神の非擬人化に通底することなら賛成ですが、そうではなく小田垣雅也氏のような神理解に近づくことを意味するなら、つまり神を人間の主観に吸収し解消するような考えにつながるのであれば反対です。小田垣氏は「汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。」(説教「インマヌエル」)と述べておられますが、「人間の思考の対象にはならない」ような神は、聖書が示す活ける神ではないと思います。およそキリスト教徒であるにもかかわらず宗教哲学的アプローチで仏教的「無」の境地に近づくような人は、御自身が社会的に「有」たる御身分である場合が多いのではないでしょうか?概して言えば、有産市民の信者は、その「有」たる度合いに反比例して「神」をより「無」化したがる傾向があるのではないか…と、嫉妬ではないですが穿った見方をしてしまいます。

 

「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)

 

前述の「絶対神信仰治療」の要約の続きになりますが、イエスの「ケノーシス」を理想として、自己謙卑(卑下ではなく、ただ相手に従属しゴマ擦りするようなことを意味しない。無用なプライドは捨てて虚勢を張ったりせずに合わせるべきとことは合わせるということ)の信仰実践においては当然、優勝劣敗の「劣・敗」感が少なからず生じようが、いかに劣りいかに敗れても、それで自分が失われることは決してないという信仰がこの治療の基軸である。なぜ自分が失われないのかと言えば、自分が関係を与えられている神が絶対実体だからである。この実体という言葉も確固たる実在感を得るうえでのイメージ喚起として治療には有意義である。自分の原関係相手の神が絶対他者であるからこそ、自分は神以外の者によっては失われない…つまり上記の聖句のとおり、自分の心身を殺し得る者はあっても霊魂を殺し得る者は人間には不在でそれは神のみということ。そう思うと勇気が生じる。

私の「絶対神信仰治療」においては、「(三一)神、超越、絶対、人格、実体、霊、遍在、愛、義」…これらはセットです。しかし彼らには天性の素質があるのでしょう。人の霊魂を救い得るのは聖書が示す「神」のみであり、それは原罪を持つ人間を「超越」しており不可知な面があるが啓示によって認識し得るのであり、その中心事項は父・子・霊の「三一」であること。そして「人格」的存在であって、はたらき・作用といった機能論に解消されるような神論・神観でなく、目には見えない…感覚器官ではとらえられないけれど、信仰を与えられている者たちにとっては「霊」として自由自在に、そして「遍在」しておられるがゆえに祈る時、詩篇16:8で「われ常にヱホバをわが前におけり ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし」と言われているように自分の心の内にも臨在され「われ動かさるることなかるべし」と言われているとおり確固として存在するという意味で「実体」であり、その本質が「愛」なるお方だからこそ、このように人間が対神関係において苦悩からの癒しを求めることに応じ給い、また「義」ゆえに世の中の苦悩の原因である原罪および原罪に由来する人間の営みを公正に裁き給う。ちなみに、神の絶対性を言う場合、「遍在」は必然的に出てくるわけですが、これと悪魔や悪霊の存在とがどのように折り合うかが問題です。人間社会の「悪」は人間の原罪に由来するものと説明できますが、そうでない実在としての「悪」は、神が遍在する世界でいかに存立し得るのでしょうか?それは神がそれを許容しておられるとするしか説明はつきません。

聖書から「絶対神」を示されるうえでは、聖書が神の絶対性を教えているのかがまず確認されなければなりません。そこで自分が聖書的教理として尊重しているウェストミンスター信仰基準に注目すると、かろうじて「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」という言葉もあり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。

「神はモーセに言った、『わたしはなる、わたしがなるものに』。彼は言った、『あなたはイスラエルの子らにこう言いなさい、「『わたしはなる』が私をあなたたちに遣わした」と』。」

残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しませんが、とにかく「絶対的」という言葉で翻訳されていることは重視されねばなりません。

< 聖書やクルアーンには「絶対神」という表現は一回も出てこない。だから「唯一絶対神」という表現もない。「一神教」という言葉もない。>という指摘もあります。

「絶対神」は聖書やコーランに出てこない | ユダヤ教とキリスト教とヨーガ好きなイスラーム教徒のブログ (ameblo.jp)

…コメントからの引用…<「絶対」という用語については、「ウェストミンスター信仰告白」の「二、神について、また聖三位一体について」で、「最も絶対的で」あると言われており、その参照聖句として出エジプト記3:14が挙げられています。「絶対」ではなく「絶対的」と言われているわけですが、表現としてはその程度の違いなどは問題にならないわけで、キリスト教で神を「絶対者」と言う場合、その「絶対」というのは、厳密な意味で「絶対」だと言っているのか、それとも「絶対的」という意味で言っているのか、そんなことはアバウトでよいのです。要は、「ひとりの生けるまことの神」の栄光がほめたたえられることなのですから…。

「日本人に多く見られる多神教的,汎神論的思想は『絶対者』の欠如の現れである。」(~永野孝典氏の論文「なぜ日本人はキリストの救いからもれるのか ―― 日本人の価値観とキリスト教の精神 ――」の「要旨」

BS00220L100.pdf (bukkyo-u.ac.jp)

小川圭治氏によると、「絶対的な神」が用語として用いられるのはアンセルムスからでだそうですが(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)、八木誠一氏の「絶対性」は普遍性を含意するという指摘はわかるし(シンポジウムでの発題「仏教とキリスト教の場合」)、_pdf (jst.go.jp)それは、遠藤周作氏の『沈黙』におけるフェレイラが語る人間と隔絶した普遍的な神と通じるものがあります(問題は、遠藤氏がエッセイ『私にとって神とは』で言われている「沈黙」の主人公ロドリゴ神父にとってのイエス・神(=はたらき)と、フェレイラが語る神とのギャップです)。意外に説得力ある言い方は前に引用した國分攻一郎氏の言、「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。」

こういう文言も神学する人には所謂、形而上学的思弁であると批判されるとは思います。つまり客観的過ぎるのです。論理的には、神が「絶対」→「無限=外部が無い」→「すべては神の中にある」というところまでは正しいのでしょうが、神学は信仰心(再生の理性)を前提とするので、神を全能者と信じ告白します。従って「無限=外部が無い」といった決めつけは無用です。さらには神の創造が「収縮」によるものだといったカバラ思想由来とされる考え方などは論理性も欠く戯言であり(西村俊昭著『「コーヘレトの言葉」注解』〔日キ教団出版局〕p32~33)、あまりに考え過ぎで神話化しすぎです。自分にとっての神は「有限」性と矛盾しないような「無限」性…とか、「相対」性と矛盾しないような「絶対」性を実現することができ得るから真実の意味で「絶対」なのです。そこは各人の信仰と、その共同体における最大公約数的信条に関わる問題です。すべてを合理的に説明しようとするところに思弁の陥穽があります。どうせ理詰めで考えるなら、「汎神論」だけでなく「汎在神論」乃至は「汎内在超越神論」とでもいったことまで考えてみるべきですが、教会の信条とは相容れません。教会中心の信仰生活においては現場から遊離した考え過ぎということになるのでしょう。しかし自分のように教会中心ではなく社会生活中心の信仰生活の場合はどうでしょうか?

結局、聖書的標準はコヘレト書における個人的な実存的対神関係と人生観に見ることになります。

但し、ここで私が押さえておきたいことは、もはや聖書だけを誤り無き唯一の信仰生活規範とする正典絶対主義は、この情報化社会にも合わないし、そもそも現代神学のリベラルな立場においては事実上、その正典絶対主義は相対化され、さらには否定されているということです。それは特に社会倫理の面で(…特に近年は、ジェンダー思想・フェミニズム、LGBTQ関係の思想が勢力を有して)、聖俗の境界が成り立たなくなっています。これは世俗の価値観だ、考え方だ…といった理由で聖書の釈義において無視することは出来ない、そんな現場の現実状況になっているということです。大学の研究室や学者さんの書斎ではなく、教会や信徒の生活環境といった信仰現場ですべてが決まるのですから…。この現場でもはや聖書正典絶対主義が通用しなくなっているなら、大胆に改革されなければなりません。すでにリベラル派は正典絶対主義ではなく、昔で言うところの世俗の価値観や考え方、教説を聖書の解釈に採用し、言わば人権問題を聖書の記事に読み込むなどしてきたわけです。それなのに表向きは福音派と同じく聖書正典絶対主義です。信仰告白の上でだけ聖書を信仰生活の誤りなき唯一の規範だと言ってきたのです。口だけです。実際は聖書以外の教典であれ教説であれ思想その他、なんでも聖書解釈の相対的基準として採用してきています。だから多様な史的イエス像も生まれてきたのです。革命戦士イエス、被差別者イエスフェミニストエス、最近のジェンダー主義では同性愛者イエスないしは、LGBTQの神とか語られているのかも知れません。リベラル派にはそのような欺瞞があります。自分もその欺瞞に満ちたリベラル派プロテスタント教会の一隅に身を置いてきました。自分は明らかに聖書正典絶対主義を否定してきています。そして神学よりも宗教哲学に関心が向きましたが、いずれにせよ神論が一番の関心事です。これを軽視しては倫理も救済論も何もありません。形而上学思弁も、自分のような精神不安定者にとっては癒し効果がある場合もあるのです(信仰治療)。これは「遊び」であり、「遊び」はドーパミンノルアドレナリンなどの脳内麻薬と云われる物質を分泌させ、メンタル的には最高の脱鬱効果があります。自分にとって最高の遊びが「信仰治療」なのです。ネットを介してであれ、この手の話題が合う人と会話することは最高に楽しいことです。

ここで遠藤周作氏の「私にとって神とは」と題されたエッセイを真似て、自分も「私にとって神とは」を書いておこうと思います。遠藤氏はこの本の中で、御自分にとっての神は「はたらき」であり「存在」とか「対象」ではない旨のことを言っておられますが、すくなくとも人格性を否定することはできないし、実際にしてはおられないと思います。遠藤氏がその「はたらき」としての神観を形成するうえで感化を受けたと思われる八木誠一氏ご自身も人格性は排除し得ず、人格的場所論というふうに人格を付けずにはあり得なかったからです。それにしても遠藤氏にとっての神は、波多野氏が言っておられるところの「自我の内に吸収され解消される」神だと思います。『沈黙』において主人公のロドリゴの中で生きてその人生を通して雄弁に語っておられた神・イエス(…この御父と御子の二位格の区別が曖昧であることからして自分にはなじめない。自分には同じく転向宣教師のフェレイラが日本人の神観についてけっこうボロクソに言った、「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間とは同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」という、彼にとっての基督教の神…トマス神学の神…人間とは全く隔絶し人間を超えた神観の方が自分には合う)は、小田垣雅也氏が言っておられる「生きられ得るもの」としての絶対他者・絶対無としての人格神にも通じるだろう。そのような神は「人間の外に存在する絶対的実在」ではなく「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」すなわち「自我を超越するもの」ではないということになるだろう(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)。また、荒井献氏の神観は、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきもの」と述べられているとおり宗教学的分類では「機能神」になるでしょう。

< これまで哲学・神学・宗教学等の立場に基づき神観念は研究されてきた。それらの神観 念を抽出・類別すると以下の三種類に分けられる。第一に、 「自然神」(例:天体・気象現象等)。第二に、「人間神」(例:人格的神・機能・祖先神等)。第三に、「超越神」(例:キリスト教等の唯一絶対神)である。>と書かれてある。144255092.pdf (core.ac.uk)

さらに、佐藤研氏の非人格的神観もまた、伝統的キリスト教における人格主義的神信仰を受け継ぐ者としてはとても耐えられません。すなわち佐藤氏は一方では、「少なくとも、イエスを全能の神の『実体』として把握し、そのキリスト論への『信仰』を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)『私を通らずして父のもとに至る者はいない』(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。」(『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)などと伝統的キリスト教に対して異端とも言われかねない、かなりラディカルな批判を述べ、一方では、「とにかくも、坐禅の体験知がキリスト教内部で展開すれば、ある『絶対人格』がどこか特別なところに実体として存在しており、それが人間を支配・制御しているというような観念的発想は、放棄されざるを得ないであろう。その代わり、『神』をわれわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギーとして見るような理解が発生するであろうと思われる。」(同上書p19~20)などと御自分の教説を語られるその内容を見ると何をかいわんやであり、神論が聖霊論に解消されているとかいった次元の話ではなく神性が霧散霧消してるといった感じで、「絶対人格」である「神」を「われわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギー」などと同一視するということはやはり人格神を「自我」の内に吸収・解消させる神秘主義的なカオス宗教に落ち込んでしまっておられるとしか思えません。

なお、井上洋治神父は、『日本とイエスの顔』で小田垣氏と同様の考えを示している。

「無はただ生きて体験する以外に仕方のないものだ・・・神が、無を生き体験する行為の中にしか己れをあらわさない」

「もし私が神の外側に主体として立つことができて、外側から客体としての神について考えるのならば、たしかに神について普通のものと同じように、あるとかないとかを論ずることもできるでしょう。しかし、そのときには、その論じられている神というものは、私に対して存在している単なる相対的な一つのものにすぎず、もはや絶対でも無限でもないことになりましょう。それは絶対なる神を相対の世界に、偶像の世界に引きずりおろして、多くのもののなかの一つのものとしてしまうことであって、まったく大きな誤りだといわなければなりません。主体-客体の分離と対立を超える世界に、私たちは論理や言葉によって入ることはできません。」

私自身にとっての「神」はそのような理屈から自由自在に、あらゆる矛盾を超えつつも歴史的現実に即して、「超越」より「内在」の方へ、あるいは「他者」より「自者」の方へ偏った観方によるものではなく、そのような対立・矛盾を統合した絶対者ではあるが、信仰的自覚および表現の面では逆に「超越」が「内在」よりも、また「他者」が「自者」よりも、優位になるような実在であって然りです。

(1)絶対者 ― 従属的三一神(御父(本源) → 御子 → 御霊)―

神が絶対者であるということは、あらゆる矛盾を統合しているということです。その第一は、従属と相互内在との矛盾の統合です。私はイエスを、正教で言うところの「本源(者)」なる神とは思えないし、ヤハウェ(エホバ)と比べると史的イエスにはその倫理的戒めと共にあまり興味が無いので、これを神話上の御子キリストとしても、再臨してこの悪しき世を裁き刷新する解放者とみて、なんとか媒介者として相対的絶対者としての(父,子,聖霊の)三一入りかな…と思うにとどまる。関心はあくまで絶対的絶対者としての(御父ではなく)唯一神。だからヤハウェ(エホバ)とイエス・キリストとを同一視はできない。同じ「神性」者としては質的に同等だとしても、御子より御父の方が「偉大」であることは御子自身が発言しているのだから、三一関係においては従属説。この点は私の独断とは言えず、新約聖書学者の青野太潮氏も以下の2箇所の引用を並べれば、明らかに従属説的な立場である。

イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf

以下、『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)より

パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(p5)

「こうした箇所にふれるとき、われわれはただただ正統主義的な『キリスト論的集中』といったような捉え方の中に止どまり続けていてよいのだろうか。三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(p61 )(※「こうした箇所」とはその前で挙げられているⅠコリ15章の諸聖句および、ローマ1:25、8:26~27、9:4~5、15:7、Ⅰコリ3:22~23、11:3、Ⅱコリ5:18、ガラテア1:4)。

しかし、伝統的キリスト教の中に位置を得る以上、三一信仰は避けられない。そしてその三位格の関係は「相互内在」(ペリコレーシス)というのがキモであるから、論理的にはこれが従属説と矛盾することになる。だから、絶対と相対、無限と有限、不変と可変などの諸矛盾を統合するように、絶対神の「絶対」は、「絶対無」と言うより「絶対…の絶対」ないしは「超…絶対」と表記せられるから、「従属」と「相互内在」の矛盾も統合されるのだ。

(2)超越者・絶対者・全能者、自存者(実体)、無限者、不変者、唯一者

神にはできないことはない(ルカ1:37/エレミヤ32:27)。人によっては神にもできないことはある。神は悪をなすことはできません、などと言うがそれは誤りです。正解はコレ ↓

「神にできないことは何一つありません。
しかし、神がなさらないことはあります。
神が悪をなすことは決してありませんし、
愛の裏づけのないことはなさらないのです。」

神にできないこと - 京都シャロームチャーチ「今日の聖書」 (goo.ne.jp)

「できない」ということと「しない」ということとは違う。そもそもこんな悪の世の中を予定において、原因ではないにしても結果的には成し得るお方が純善だけであり得ると考えることは論理的にも筋が通らない。ましてやそういう擬人的な考え方は避けるということならなおさら、人間ならどうであれ、神は純善であっても悪の世を予定し得るとは言えるだろう。これも絶対者は矛盾を統合できるという全能性にて解決する。

私はこれまでの人生を振り返ってみて、自身が極めて不安定で頼りない者であるだけでに、その分、確固たる(中性)人格的存在との関係に依拠するしかなく、それは聖書が示す「主、神」以外にがあり得ず、これについては「霊、絶対、人格、超越、自存、実体、唯一、無限、永遠…」といった用語を使うことにこだわる。信仰告白の表現言語としては、下記引用の「絶対的な霊的実体」とはとても良い表現である。

<「この神秘的な宇宙には,人間がそれは確かだと感じ得る事柄が一つある。人間それ自体は宇宙の最大の霊的存在ではない。……宇宙には人間自身よりも霊的にもっと偉大な実在者がいる。……人間の目標は現象界の背後の実在者との霊的な交わりを求め,それも自己をその絶対的な霊的実体に調和させることを目指してそのような交わりを求めることである」―「一歴史家による宗教の研究方法」,アーノルド・トインビー著。>

まことの神とあなたの将来 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org)

< エホバは非常に偉大な方なので,エホバに並ぶ者はなく,その主権は絶対的なものです。>

エホバはとこしえの賛美に値する神 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org)

<  ご指摘の通り、神について「絶対」という言葉は聖書に出てきません。そもそも、哲学的意味での「絶対」という言葉が聖書にはありません。新共同訳聖書には意訳として列王上3:26とダニエル2:5に「絶対」という言葉が出てきますが、神についての「絶対」という意味ではありません。そしてご指摘の通り、「ウェストミンスター信仰告白」で神について「絶対」という言葉が使われているのは2章だけです。もっとも、この2章は神について述べている個所ですから、そこに神について「最も絶対」と述べていることは重要です。神の絶対性について他で述べる機会がないだけで、ウェストミンスター信条が神の絶対性を過小に扱っているわけではありません。同様に2章で神について使われている「immense」(日本語訳では「遍在」と訳されていますが、「計ることができない」という意味です)や「incomprensible」(捉えつくすことができない)という言葉は、にしか出てきませんが、どちらも神の大切な属性です。 先ほど、聖書には「絶対」という言葉がないといいましたが、概念がないわけではありません。「絶対」という言葉は、「相対」という言葉の対義語です。「相対」というのは、常に何かに比べての話です。例えば、人間が「自分は正しい」と言っても、それはその人なりの基準で言っているだけで、絶対的な基準で正しいと言っているわけではありません。絶対的に正しいという場合は、何かに比較して正しいのではなく、その基準そのものが絶対的で、他の基準を許さない場合です。 そういう意味では、「神は唯一である」という信仰は、神の絶対性を表現しているということができると思います。聖書の言葉で言えば、「雲の上で、誰が主に並びえましょう 神々の子らの中で誰が主に比べられましょう。」(詩編89:7)は、稚拙な表現かも知れませんが、神の絶対性を表現している言葉です。あるいは「主のほかに神はない。 神のほかに我らの岩はない。」(詩編18:32)という言葉も、神の絶対性への信仰ということができると思います。 わたしたちの神への信仰は、「相対的に正しい」神を信じているわけではなく、「相対的に清い」神を信じているわけでもありません。それらを裏返せば、絶対的なお方を信じているということになるのだと思います。 そういう意味で、神を絶対者だと呼ぶことは、信仰的に少しもおかしなことではないと考えます。>(~ラジオ牧師山下正雄先生の私信への御返答)

プロテスタント教義学において、カトリック教義学と属性論においては大きな差がないように思います。原因は、プロテスタント教義学においても、こと属性論においては、スコラ神学の決定的影響下にあります。この点ではカトリック神学との共通性があります。例えば、属性の「絶対性」の概念は、トマス的な神存在の証明における「否定の道」の方法論に基づき、「地上的・相対的なのもの」を否定的にひっくり返した属性概念として「絶対性」が語られることになります。この場合、絶対性の単純な主張は一種の自然神学になります。つまり、「絶対性」の概念は哲学的概念規定と結びつきます。私の神論の属性論において「絶対性」という概念への警戒心はここに理由があります。しかし、私の著書における「自存性」も「不変性」も「無限性」も、「唯一性」も、神の絶対的属性として事実上「絶対性」を表現しているはずです。神の唯一性の論議の中では、「排他的・絶対的唯一性」を示すものとして論述しています。十分ではありませんが、哲学的概念の抽象化に入り込むのではなく、聖書的概念の文脈で表現するように努めたつもりです。しかし、神の属性論はプロテスタント神学においてやはり十分には展開できていません。私の教義学においても同様です。>(~改革派神学者兼牧師の牧田吉和氏の私信への御返答)

「絶対性の単純な主張は自然神学につながります」とありますが、この「自然神学」はカトリック神学であって、改革派では認めていないとのこと。以下、佐々木稔師のサイトから引用。

自然神学とは何かと言うと、それは神により創造された被造物を通して、神を知ることができると主張する神学のことである。すなわち、ローマ・カトリックの神学が自然神学を語る。では、プロテスタントはどうかと言うと、改革派神学では、自然啓示が客観的に存在することは認めていますが、しかし、人間の心が罪によって覆われているので、自然を通して神を知ることはできないと考える。でも、特別啓示、御言葉、そして、聖霊によって心が再生すると、自然が神を啓示していることがわかるという考え方である。したがって、改革派は、自然啓示は認めるが自然神学は認めないという立場である。>minoru.la.coocan.jp/berkouwergeneralrevelation2.html

重要なことは、ここからベルク―ワによる、バルトの神認識におけるキリスト一元主義への批判が展開されるということです。

< バルトは、キリスト一元主義とかキリスト論集中とか言われるように、啓示はイエス・キリスト以外にはあり得ないことを主張して、自然啓示を通して、神を知り得るという自然神学は、「根本的な誤り」(radical error)として、「宗教改革者的教理による神認識と神奉仕」(1938年)において、とても強く排除した。そして、これとともに、自然啓示あるいは一般啓示も否定した。(中略)バルトは、人は最初に他の何かによって神を知っていて、それからキリストによって神を知るということがあり得ないことから出発する。人は神を知るためにイエス・キリストを知る。何故なら、イエス・キリスト受肉した神であって、この受肉者以外から人は神を知ることができないからと考える。したがって、イエス・キリストだけが真の厳密な本来的な意味においての啓示と呼ばれ得ると考える。受肉のキリスト以外には、啓示はないという根本確信である。受肉のキリスト以外に神を認識する途はなく、受肉のキリスト以外は闇であると考える。そして、啓示はひとつで(only)、それは受肉した神イエス・キリストということはとても徹底していて、それ以外のものは啓示のしるしと考える。たとえば、イエス・キリストの言葉やイエス・キリストが行った行為、イエス・キリストが処女マリアから生まれたこと(Virgin Birth)、イエス・キリストの復活した空の墓、そして、預言者使徒の証言、そして、聖書も、これらすべてが、キリストというたったひとつの啓示のしるし(signs)と考える。したがって、聖書自身も、バルトにおいては、啓示ではなく、啓示のしるしのひとつにすぎないものと考える。さらに、説教、礼典もキリストというたったひとつの啓示のしるしと考える。また、教会も啓示の第二次的しるし(secondary sign)と考える。これらはすべては、啓示それ自身ではなく、啓示であるイエス・キリストを指し示すもの(ドイツ語でHinweis)で、啓示はあくまでも排他的にイエス・キリストだけとした。そこで、よく知られているように、聖書のうち、旧約聖書はキリストという啓示についての待望(expectaion)、また、新約聖書は既に到来した啓示であるイエス・キリストを想起するもの(recollection)、すなわち、思い出すものとされた。以上のようにして、バルトはキリスト一元主義(Christmonism)と言われるほど徹底して、神が現われている啓示はキリストだけであることを主張した。では、バルトがイエス・キリストだけが啓示という場合の特色は何かというと、イエス・キリストの啓示は和解の啓示であるという点であると、ベルクーワは言う。(中略)ですから、バルトにとって、神を知るということは、ただ単に存在を知っているのでなくて、キリストによって、和解をもたらしてくださる恵みの神を知ることになる。それゆえに和解の恵みをもたらすことのない神の知り方はあり得ないことになる。(中略)人が神を知るときには、いつでも常に和解をもたらす恵み深い神を知るのであって、それ以外の神の知り方はないという意味である。ところが、自然神学は、キリストによる和解の恵みをもたらさない神を自然を通して知ることができると主張するので、これは抽象的にキリスト教な神認識としては成立しない単なる存在として、神を知る知り方、認識の仕方はあり得ない。これはキリストの神認識ではないと考える。そこで、ベルクーワは、バルトの自然神学反対について、次のように言う。「この点において、バルトの自然神学の対する反対はまたもや明白である。自然神学は、恵みと憐れみの認識が含まれない仕方で、神を知ることとの不可能性を認めず、自然神学はイエス・キリストの憐れみ深い父についての認識でない前の段階の認識の可能性を認めるのである」(26頁)とベルクーワは語る。だから、バルトは、自然神学を決して受け入れないとベルクーワは説明している。すなわち、バルトの神認識は、キリストの和解の恵みを知ることを同じことなので、和解の恵みをもたらさない自然啓示による自然神学を決して認めないのである。そこで、バルトは、ローマ・カトリックの自然神学を考えているわけであるが、バルトはローマ・カトリックの自然神学は、神の恵みと憐れみを知らない仕方で、神の存在を知ることができると考えていることが、根本的に誤りと語る。すなわち、神の恵みと神の存在を分離していること(being apart from grace)が大間違いというわけである。創造者なる神と贖い主なる神を分離していることが間違いということになる。では、どうして、ローマ・カトリックは、そのように人は神の恵みを知ることなしに、人は神の存在を知り得ると考えたかというと、それは、よく知られた存在の類比(analogia entis)という考え方に立つからである。すなわち、カトリックでは、存在を一番下等な無機物、すなわち、生命のないものからどんどん上へ上ってきて植物の存在、動物の存在、人間の存在、天使の存在、そして、神の存在と高度な存在へと考えていく。このやり方で人間は神の存在を知ることができると言う。しかし、バルトは、このローマ・カトリックの存在の類比の概念での神認識は、人が「恵みと信仰と関係をもたない」神の存在についての確かで真の認識(being apart from grace)に到達しようと試みることで、この仕方はまったく不可能と主張する。バルトは、カトリックの存在の類比は、「反キリストの発明」(invention of the AntiChrist)と呼んで、激しく批判した。(中略)バルトは、キリストにおいてだけ神は認識され得ると言ったが、では、聖書において、キリスト以外にも啓示があると言われていないかどうかということに関して、バルトは聖書にもないと言う。すなわち、キリスト以外に啓示がないかどうかについて、バルトとどのように考えるのかということになる。すると、バルトは啓示はイエス・キリストだけであるが、しかし、イエス・キリストの啓示がこだま(echo)を産み出す、また、光を投げかける(cast a light)ということはあると言う。すなわち、イエス・キリストの啓示がこだまとして世界に響いいている、また、イエス・キリストの啓示が世界に光を投げかけているということはあると語る。たとえば、旧約聖書詩編19編がそうである。ここは、伝統的には改革派神学においては自然啓示を教えているところとされてきた。神に造られた被造物である世界は、創造主である神の存在、栄光、知恵、力を啓示していると理解されてきた。カルヴァンは世界は神の知恵や栄光や力を表す舞台であると言った。では、この詩編19編をバルトはどのように考えるのか。すると、世界は、神に造られていても、特に神を啓示しない。何故なら、19編3節で、「話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても」言われているからである。しかし、では、「天は神の栄光を物語り」と言われているのは何故かと言うと、バルトは、それは、キリストにおける啓示の光が世界(コスモス)の中に輝いていることを表すと考えた。すなわち、バルトは、神に造られた世界における自然啓示の客観的存在そのものを否定した。したがって、自然啓示を通して人が神を知ることもまったくあり得ないことになる。これは改革派の伝統とは異なる。また、カルヴァンとは異なる。カルヴァンは、神に造られた被造物世界における自然啓示の客観的存在を認めた。しかし、人間は罪人で心が罪に支配されているので、客観的の存在する自然啓示を通して神を認識することは不可能と言った。カルヴァンは、自然啓示の存在と認識を区別した。カルヴァンは、自然啓示があることと自然啓示を通して神を認識することを区別した。しかし、バルトはカルヴァンと違って、被造物世界に自然啓示が客観的にあるということそのものを否定した。したがって、人は自然啓示を通して神を認識できるなどということは、バルトにとってはなおさらあり得ないこととされた。(中略)カルヴァンによれば、被造物現実を通して神についての客観的認識可能性が既にその創造者の跡をもっているということが、バルトによっては拒否されるのである。しかし、カルヴァンは、主観的反応から啓示を決定することを拒否したのである。カルヴァンの問題はバルトの問題とまったく違うのである。カルヴァンは常に鋭く存在論的なものと認識論的なもの、知ることと存在することを区別したのである」(30頁)。その意味は、自然啓示についてカルヴァンとバルトはまったく違うという意味である。バルトは自然啓示そのものが存在しないと主張した。カルヴァンは罪人である人間の心には破れがあるので、自然啓示を通して神を知り得ないが、しかし、だからと言って自然啓示の客観的存在までも否定するということをしなかった。カルヴァンは自然啓示の存在と認識を正しく区別した。しかし、バルトは、自然啓示の存在そのものを否定して、神に造られた世界にはキリストの啓示のこだまと光はあるが、啓示はないと否定して誤ってしまったという意味である。(中略)ベルクーワは、バルトのローマ1章の解釈は、創造による自然啓示に直面した異教徒の問題でなく、福音に直面した異教徒の問題が扱われているという解釈をしていると言う。こうして、バルトは、啓示論は何でもキリスト論的に(Christlogical)解釈してしまう。ベルクーワは、「バルトは、啓示のすべてにおいての疑問をキリスト論的に見る。そして、彼は、カルヴァンが人間は神の前に言い訳ができないと考えた、パラダイスから堕落への歴史において、目に見えるようになった破れを考慮していないのである。バルトにとっては、問題は創造における異教徒と啓示の問題でなく、キリストの十字架によって、異教徒は以前の状態と違ったものになったということなのである。(中略)ベルクーワは、バルトのローマ1章の解釈が自然啓示論でなくて、キリスト論的であることを語る。では、バルトは、どうして、そのようにローマ1章を解釈したかと言うと、自然啓示を認めるとキリストにおける和解の啓示以外の啓示があることになってしまうからと考えたからである。バルトにとっての啓示は、単に和解と同じもの、贖いと同じものである。そうでないと神が恵みの神にならないと考えた。したがって、恵みにならない啓示である自然啓示をバルトは認めることができなかったのである。(中略)以上のようにして、バルトは、自然神学、そして、自然啓示を排除した。バルトにとっては、自然啓示を認めると自然神学が成り立つと同一線上で考えてしまったので、自然神学だけでなく、自然啓示までも否定する行き過ぎをしてしまった。ベルクーワは、「バルトにとって、一般啓示と自然神学は密接不可分に結びついている。バルトの激しい攻撃の根本的理念は、バルトが一般啓示と自然神学を同一線上にあるとみなした事実にある」(33頁)。

結び

バルトが自然神学を教会の敵として激しく攻撃したのは、自然神学は恵みの神でない神を認めることになる。そんな神は神でないという根本的確信からであった。でも、これは、もちろん、行き過ぎであった。> minoru.la.coocan.jp/berkouwergeneralrevelation2.html

「自然神学は、神についての認識(知識と訳してもよい。英語でknowledge)を含む(involve)」(61頁)。「自然神学あるいは神についての認識は、キリストと聖霊によらない、他の手段、すなわち、自然と人間理性の途によって考えられるものである」(61頁)。「自然神学は、一般啓示に基本的に依拠する。そして、その一般啓示というのは、キリストと聖霊による特別啓示でなくて、創造と創造された現実における一般啓示のことである。そして、一般啓示は、自然的神知認識の土台である」(中略)自然神学は、一言で言えばキリストと聖霊によらない、あるいは、聖書によらない神学のこと、聖書がなくても自然とから得られた神についての認識として成り立つ神学のことである。(中略)自然神学は、キリストと聖霊によらない自然世界から得られた神についての認識として成り立つ神学のことで、ローマ・カトリックが中世から主張してきた神学である。(中略)カトリックにおいては、人間理性は罪によって堕落していないので、創造されたままの状態と機能を今ももっているので、自然を通して神を正しく理解できると考えるのである。(中略)ローマは、罪が特別な超自然的な賜物の喪失により、人間性を傷つけたことは認めるが、しかし、人間理性の自然能力は破壊されなかったし、また、妨げられなかった。その結果、理性はまだなお神に達することができる。(中略)わたしたち改革派は、罪による全的堕落で、理性も罪に汚れて、最早創造における神認識は不可能になったと考えるが、カトリックは、理性は傷がついた程度のことと軽く考えるのである。(中略)ローマ・カトリックは、もちろん、人間理性を使って、自然界を通して神を知ることには限界があることを認めている。結論から言えば、万物の創造主としてのひとりの神がいることを知ると言う。しかし、その神が、父、御子、御霊の三位一体であることは、知ることができないと言う。(中略)存在の類比とは低次の存在から高次の存在へと上っていく考えカトリックの独自の考え方で、生命のない無機質なもの、植物的生命、動物的生命、人間的生命、天使的生命、そして、創造主なる神に至るという考え方である。そして、これらすべての存在には原因があるはずで、それは創造主である神であると考える。(中略)「神は第一原因、すべての被造物の根源、起源として知られる。理性の自然的は光は、この認識を超越的啓示から離れて、すなわち、創造された現実の事実性から直接に得る」(70頁)と語る。すなわち、この存在の類比という考え方によって、万物の存在のこれ以上行くことのできない大元としての創造主なる神を知れると主張する。以上のようにして、カトリックはキリストと聖霊なしで、すなわち、聖書なしで、人間理性はこの第一原因としての創造主なる神の存在を正しく知れると主張する。(中略)18世紀のドイツの哲学者カントは、「純粋理性批判」、その他において、人間の理性は万人が経験できるものだけを知れるのであって、自然の光を通して、神の存在まで知ることができないことを強く主張して、批判した。すなわち、人間理性によっては、万物の第一原因としての神は証明できないとした。カントによれば、神の存在は理性の領域の問題でなく、道徳の要請として扱われるべきものであった。(中略)カントは、万人が経験できないことに理性を使うことは、思弁、すなわち、自分勝手であって、客観性をもたない。それゆえに、カントが人間理性で神を知り、存在の類比で神の存在を論じるということはとんでもない飛躍であると批判した。(中略)バルトは、ローマ・カトリックの自然神学は「反キリストの発明」と呼んで激しく批判した。また、バルトは、自然界を通して理性によって得られた神認識は「バアル礼拝」と呼んで、キリスト啓示に対立するもの、また、キリスト啓示と相容れないものとした。(中略)ハイラーは、「その存在を自然神学が証明する神は、憐れみの生きた神ではない。それゆえに人は絶対者の現実(the reality of the Absolute)に対する合理的証明を語ることになる。しかし、神の存在の証明を語っているのではない。すなわち、カトリックが万物の存在の第一原因として、人間理性は神を知ることができると言うが、その場合の神は聖書が教える神でなくて、理性が要求する絶対者にすぎない聖書の教える神は別ものである。」と述べている。(中略)カトリックの人間理性が存在の類比で知る神というのは、中身のない神、内容のない神、形式的な神で、聖書の教えている神、憐れみ深い生ける神とは言えないのである。(中略)マックス・シェーラーは、人間理性の力を強調するのでなくて、自然、すなわち、被造物における神の一般啓示を強調するやり方で、神の存在を知る方がよいとして、伝統的なカトリックの存在の類比を批判し拒否した。したがって、カトリックの中にも存在の類比批判がある。いずれにしても、シェーラーの特色は人間理性の強調でなく、一般啓示の強調である。(中略)カール・アダムは、シェーラーが人間理性の力の強調でなく、一般啓示の強調をしたことは正しいとして、さらに一般啓示を一層強調した。(中略)事物は神の啓示でなくて、神から出てくる直接啓示の条件また機会(occasion)なのである」。すなわち、カール・アダムは、シェーラーよりももっと一般啓示を強調して、神に造られた被造物が神の属性を示すと言うよりも、神御自身が被造物を通して、自己を啓示しているというところまで行ってしまった。被造物は神を反映していると考えた。さらに、カール・アダムは、人は自然を通して、神が存在するということだけでなく、神は人間の暖かい活きた心の源であることまでも知るというところまで行ってしまった。こうして、カール・アダムも、人間理性が存在の類比によって、神を知るというやり方でなく、被造物における客観的な一般啓示を通して、神を知るというやり方にすべきことを主張した。以上のようにして、カトリック内部においても、伝統的自然神学に対して、批判(中略)ローマ・カトリックは、公に人間理性は罪によって傷ついたぐらいで、ほとんど創造時の状態をもっているので、自然を通して、神の存在を知ると言うが、それは、聖書が教える本来の自然における一般啓示による神認識を語っているのでなくて、カトリック独自の存在の類比という考え方で、万物の第一原因としての創造主なる神としてであるので、とても聖書本来の正しい一般啓示を捕らえていない>

minoru.la.coocan.jp/berkuwergemeralrevelation4.html

「御指摘のとおり<「自存性」も「不変性」も「無限性」も「唯一性」も、神の絶対的属性として事実上「絶対性」を表現して」ございました。また、「神の唯一性の論議の中では、『排他的・絶対的唯一性』を示すものとして論述 」れてございました。(中略)125頁「4. 神の唯一性」の「a.『神の単一性』(ウニタス・シングラリターティス:unitas singularitatis)」のところでは、「唯一無比な絶対的存在としての意味をも併せもっている」と書かれてあり、それがイスラエルの置かれていた宗教的環境が背景にあることが示されていました。これは旧約学者がよく「拝一神教」だと指摘する、その「一神」を意味するものと存じます。>(~牧田吉和牧師の御返答に対する2通目)

啓示神学ではもちろんないし、自然神学でもないようだが、八木誠一氏の場所論的神学(宗教哲学)における「はたらき」としての神でさえ「人格」性を排除はできない。すなわち八木氏の言うところの「人格主義的場所論」の立場における神観は擬人神観から自由だし、思弁から離れて経験的事実に沿う感じを受けはするが、そのようなメリットがあるにもかかわらず、やはり神観としては淡泊で魅力を欠き飽きてしまう。だから思弁だとわかっていても上記のような絶対神観ないしは超絶神観に戻ってしまう。他人からは思弁だと唾棄されても、自分にとってはその思弁に耽る時こそ癒しの時でありストレスから解放される効果があるのだ。そのような営みにも福音的な意義がある。不安定な心において「神」は詩篇で比喩されているように心の岩であり砦なのです。

さて、特別啓示と言えば、北森嘉蔵氏は「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」(『神学入門』p74)、「絶対性は相対性をも自己のうちに含むことによって、真に絶対性となる」(『神と人間』〔現代文芸社〕p16)と述べています。関連して…田中裕氏の論文「西田哲学とキリスト教」では、<即非弁証法すなわち西田のいう絶対矛盾的自己同一が、自己と絶対者との関係について述べられるに先だって、絶対者自身の事柄として論じられ、「絶対の神は自己自身の中に絶對の否定を含む神でなければならない」ということ、「悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神である」という独自の神観が提示される。

「絶対」は聖書用語ではないですが、「三位一体」と同様、そのままでは書かれていないが、その概念は明示されていると言えるでしょう。ところで、その三位一体の神観を「三一的一神論」と呼び、「排他的、絶対主義的一神論」と対置させているのが小川圭治氏であり(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)、その点ではバルトもモルトマンも軌を一にしているような言い方になっています。しかし私は、聖書が示す神は「三一」だからこそ真実の意味で「絶対」だと言えるのだと言いたいのです。すなわち御子という人にして神の相対的絶対者を中心位格としているという意味で、北森氏の相対性を含む絶対性ということが言えるし、三一でなければ「過去・現在・未来」の時間および歴史の支配における主権の絶対性を保持し得ないだろうからです。

いちばん私がしっくりくる言い方は量義治氏の言葉です。「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)※最初、これは波多野精一氏の言葉だと読み間違え・カン違いしていましたが、これは量氏の言葉でした。

日本キリスト教会の信仰問答では、「神の唯一性と、その絶対主権」(8)とか「絶対者なる神の主権」(54)という表現がありますが、これらは「十戒」についての問答に出てくるもので、「神」についての問答には「絶対」という用語がありません。そのことにも、キリスト教において神を「絶対」という言葉で言い表すことの非厳密的で慣用的な性向が現れていると思われます 。聖書解釈としては「唯一」(エハド)ということを敷衍することにおいて「絶対」と同様の意味に解し得ると言えなくはないでしょう。

ちなみに矢内原氏は、「絶対最高唯一」と言うふうに「絶対」を「最高」とか「唯一」と区別して、聖書が示す神の特徴を表す用語としています。

神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~矢内原氏の論文「日本精神への反省」)

以下、神についての「唯一」聖句

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(申命記6:4)

「主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」(ゼカリヤ14:9)

「私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」(マラキ2:10)

「イエスは答えられた。『第一の戒めはこれです。< 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(マルコ12:29)

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」(コリント一8:6)「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ一2:5)

「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」(テモテ一6:16)

聖書に神についての用語で「唯一」はあるが「絶対」は無いという一つの理由の歴史的背景として、次のことは考慮されるでしょう。

古代イスラエルでは、一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。」(~深津容伸氏の論文「全能の神」)ja (jst.go.jp)

「拝一神教」ということに関して深津氏は論文<「一神教をめぐって」― 旧約聖書ユダヤ教キリスト教 ー >(『基督教論集』第46号 抜刷 2003年3月20日発行)の中で次のように述べておられる。

パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(コリント信徒への手紙Ⅰ8:4)と述べる。この唯一神教的発言に続く次の言葉は注目に値する。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」(同5節)と語り、異教徒たちが信じているように、神々はいるかもしれないという含みを残している。そしてさらに続く節では、「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。」(同6節)と述べる。唯一の神であるというのは、あくまでも「わたしたちにとっては」なのである。それは旧約からの伝統に沿って言えば、「神との契約の中にあるわたしたちにとっては」である。それは、わたしたちは複数のではなく、単一の神と契約を結んでいるという意味である。また、天地を創造した神は唯一(すなわち、他の神々は創造しなかった)であるということである。これは第二イザヤの神認識に一致していると言える。すなわち、パウロの神観もほぼ、多神教を背景とした拝一神教であったと言える。彼が異教を排撃しているのは偶像崇拝の故であり、十戒の第二戒に基づいてであり、これも第二イザヤと一致している。>(p18)

上記の「神にも不可能が存在している」というのは、仮にイスラエルの民の神観がそのような認識を含むものであったとしても、それは論理的にはある意味では正解だが、ある意味では誤解だとも言える。後者から言えば、相対的絶対者であるとは言え、自分たちにとってはあくまで全能なる絶対者なのだから、自分たちにとっては「神のもとでは、なにごとも不可能なことはない」(ルカ1:37 岩波版佐藤研訳)といえるから。前者の場合は、「神にも不可能が存在している」こともまた神の全能の故であるということ。つまり真の全能は不能を含むという意味です。そこまで深い理解がなされているとは思えませんが、そのような見方なくして私の超絶神観は成り立ち得ないのです。

また、神の属性に「絶対」はなくても、「唯一(性)」や「全能(性)」が事実上の「絶対(性)」を含意もしくは敷衍していると言えるかどうかの問題についても、日本のプロテスタントの中の福音派の某教団の信仰告白における「神の絶対主権」の「絶対」を申命記の所謂「シェマ」の「唯一」(エハド)を敷衍したかたちで根拠づけることは、山我哲雄著『一神教の起源』における「拝一神教」関係の引用から明らかなとおり誤解です。なぜなら、申命記的「唯一」の意味は所謂「唯一絶対」という四文字熟語で使われる「唯一」とは違って、一般的な個物を排除する絶対的な「唯一」ではなく、「神」の場合で言えば、いろんな神々の存在を否定するという意味の「唯一(神)」ではなく、ヤハウェという固有名の神が唯一であるという意味だから。人間で言えば、「あなたはあなた。この世にあなたはあなた一人だけ…」みたいな、わかりきった、個別的意味の「唯一」なのです。だから主観的にも客観的にも「絶対」とは結びつかない「唯一」であり、「唯一絶対」の「唯一」として理解したその某教団の信仰告白解説は申命記における「唯一」(エハド)の意味を誤解しているにもかかわらず、その誤解した「唯一」を、聖書には無い「絶対」が信仰告白の中で「神の絶対主権」というかたちで用いられている根拠としているわけです。

ちなみに「拝一神教」に対置されるのは「唯一神教」ではなく「絶対的一神教」(=唯一絶対神教)のようです。

絶対的一神教 - Wikipedia

ところで私は、パスカルの言葉に反して「哲学者の神」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは必ずしも矛盾・対立しないと思います。何故なら、前に引用した宗教哲学者でキリスト教徒の波多野精一氏の神についての言葉のように、哲学者は聖書に示されている神の本質や属性も要約したり敷衍して、信徒に対してわかりやすく的確に伝えてくれているとも言えるからです。これなしには誤解に陥るおそれさえあります。聖書の言葉も解釈なしには読み取れないのですから…。そもそもキリスト教の歴史において(定義にもよりますが、一般的に見ても)神学と哲学とをくっきりと分けることができるのかが問題でしょう。いくら神学は啓示にもとづくとは言え、特別啓示だけではなく自然啓示(一般啓示)にもとづく部分においては、哲学的概念の使用もありだし、すでにリベラル派においては神学と(宗教)哲学とが相互補完的な関係とでもいえるような状況があるでしょう。

ちなみに「自然啓示」と「自然神学」とは直結しない。

< 非再生者も福音受容の前提になるようなある程度の正しい神認識を持っているというような,自然神学を容認する主張として読むことはできない.聖書の一般啓示・自然啓示の主張は決して自然神学を容認するものではないことを銘記すべきである.非再生者は,正しく神を認識し神の要求に服従するという認識的・倫理的な意味においては神の像(かたち)を喪失している.>《じっくり解説》啓示論とは? | Word of Life ワードオブライフ

「絶対」という用語が哲学的で非聖書的だと言うのなら「唯一」を用いてもよいですが、それでは神信仰によって偶像化された世の諸事物を「相対化」するという、私の「絶対神信仰治療」における肝心な言い方が出てこないので、「唯一(絶対)の神」というふうに、「絶対」をカッコに入れて表記するなどの工夫も必要になります。

新約学者の荒井献氏も御自分の信仰する神について「唯一絶対」という言葉を用いておられます。以下、引用。

「私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、イエスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」

pdf_christ_140705.pdf (keisen.ac.jp)

聖書では神について「絶対」という言葉は書かれてないのに、なにゆえキリスト教では神を絶対だと言うのか…?などとつまらぬ問いを投げてくる輩に対しては、聖☆お兄さんならぬ聖☆おっちゃん,じいちゃんが、「世の中、『唯一』とくりゃあ『絶対』と決まっとるんじゃあ!『唯一』…『絶対』!『唯一』…『絶対』!」とでも言うしかないでしょう。私の宗教的立場は、「絶対神信仰」ではなく「超絶神信仰」です。「超絶」とは「超越かつ絶対」という意味です。ただ、信仰治療名としてはよりわかりやすいように「絶対神信仰治療」としています。

但し、聖書が示す神を「唯一(絶対)」だと信じるだけでは信仰生活にはならないことは、ヤコブが「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ2:19)とシニカルに批判しているとおりです。それはあたかも自分のような観念的で行動が伴わない傾向のある人間に対する戒めのようにも感じられます。従ってその信仰は隣人愛を中心とした生活実践を伴わなければなりません。それはますもって、人間関係における自衛のための戦いです。自分の体と心と霊とを守るための戦いなのです。教会の信仰告白においては、三一神は、その「存在」自体が「絶対」だということより、その「主権」が「絶対」だということのようです。

「唯一」という言葉さえ批判的に捉えられる場合もあります。旧約聖書学者の中には、拝一神教を考慮してか、「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)。これは前に引用した深津氏の「全能の神」と題された論文における古代イスラエルの拝一神教に関する言葉と関連して受けとめることができるでしょう。

たしかに、旧約のヘブライ的な面においては、存在論というようなギリシャ的な思想は入っていないのかもしれません。しかし問題はキリスト教としての現代における信仰です。長い歴史の中でキリスト教信仰は聖書を存在論的にも解釈してきたのであって、その結果、神の唯一性を存在の絶対性のように解することは誤りとは言えないし、実際、すくなくとも日本において世間一般的には、一神教…特にキリスト教の神観を「絶対」という二文字を用いて表記することは常識の如くであり、歴史的には例えば昭和初期の「国体の本義」における「所謂絶対神とか」という表現に現れていると言えましょう。問題は、そのような一神教的神観について、排他性とか暴力性といった負の面だけを見るのではなく、唯一絶対の存在である神を信仰することによって得られる精神の安定など、正の面も公平に評価する必要があるのではないか?ということです。

神の唯一性や自存性や無限性など、絶対性に関する事柄は、「改革派教義学」においては「不流通属性」で扱われています。但し、神の唯一性を存在論的に解するにせよ、歴史的批判的にみれば、ヤハウェが「唯一の神」というのは旧約聖書ではまずもってイスラエルとその周辺世界においてであって、宇宙的スケールで言われているわけではないでしょう。むしろヤハウェには「嫉む神」といわれるほど人間的で相対的な面があります。但し一方においては旧約聖書の思想は、ギリシャ形而上学などを介さずとも本来のヘブライ的枠組みの中で、ヤハウェが唯一絶対的存在として解し得る箇所があることもまた事実であり、真の絶対性は相対性を含む…といった宗教哲学的理屈で思弁するなら、それも矛盾とは言えないでしょう。

なお、「絶対他者」と「神の国」との関係に関して以下のような言葉もあります。「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳氏前掲文)

まさにこの高柳氏の神の観方は、量義治氏の言うところの「自我の内に吸収され解消される」神ということになるのでしょう。これと似たようなこと小田垣雅也氏も絶対無について「生きられるもの」ということで言っているし( …< このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える「対象」ではなくて「それを生きるもの」であり、その意味で人格的であるほかはないのです。生きられた無ではなくて考えられた無は、無について人間が考える思考の対象です。それは人間によって「考えられた」対象として、対象論理的でして、したがってそれは人間の思考の対象として、絶対他者としての絶対無ではありません。絶対無は、無という対象、有の対極概念として、人間によって有と区別された無、いわゆる分別知による無ではなく、だからそれはただ生きられるものだ、と言われているのです。その意味で、絶対無は「ただ生きられるもの」です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。>〔~みずき教会説教「復活について」〕)、「絶対」を否定するという点では野呂芳男氏が「絶対」と対置させて「究極」を言うこと、すなわち、「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを分けて「神」は前者だと言うことにもつながります(~「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於 立教大学チャぺル)。「絶対」は「相対」と「相対」するといった理屈で「神」の「絶対」性を否定しているわけです。上記の小田垣氏の「ただ生きられるもの」で私が連想するのが、遠藤周作氏の以下の言葉です。

「私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。(中略)

――なるほど神は働きだとおっしゃるんですね。

いまはそう簡単に言えますがね、それがわかるまでには『沈黙』という小説を書くまでかなり長い年月を要しました。だから『沈黙』の最後に、『おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない』と書いたのは、いま言ったXの中で私が神の働きの証明をしているのだということを言いたかったからです。あの一行は私にとってとても大事だったのですが・・・・。」(~『私にとって神とは』光文社)

遠藤氏は同書でこの他にも、「神の存在は対象として見るのではなくて、その働きによってそれを感じるんです。」とか「神が存在するという前に、神でも仏でも、自分の心の中にそういうものが働いているかどうかということが問題です。」とか「神の存在ではなくて、神の働きのほうが大切だということなのです。」と述べておられます。これは上記の、高柳氏の「神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののこと」と同じようなことであり、繰り返しになりますが、「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」という量義治氏の神理解とは反対の、「自我の内に吸収され解消される」ような神ということになるでしょう。おそらく八木誠一氏の場所論的神学からの影響があると推察しますが、無神論前提の科学を絶対的真理とする学校教育を受けてきた人たち…特に成績優秀な人たちは、家庭環境などとの事情から宗教とのアポリア状態に陥る傾向があります。そのような人たちによく見られる抜け道として、神は「存在ではなく働き」であり「知るより感じる」ものだ…といった主観主義的ロジックがあります。八木氏も遠藤氏もその点では共通しています。私の場合も、聖書の三一神に対しては、その存在を論じても自分の現実生活には直接関係なく、苦の現実の中でいかに救いのはたらきを実感できるかが重要なのだ…と思ってきました。そして対人関係におけるメンタルストレスの問題に応じ得る実践的な信仰としては、内住の聖霊のはたらきを体験するのみであるとの結論を得て、牧師が説教で原稿棒読みみたくぼそぼそ言ってるような改革派系の教会ではなく、力強いメッセージと賛美と祈りの、聖霊のはたらきを強調し体験する教会に行きたいと思うようになりました。しかしそんな教会観は一面的であり、若い人たちがカラオケで自己陶酔しながら歌うのと似たような感じでポップな賛美を歌うような光景も見られるなど、反面で何かおかしいのであって、キリスト教会としてはバランスを欠いており、聖霊派などと言ってもまともな教会としてはなかなか存在しません。ということで、私の場合は遠藤氏とは違って、「神の存在ではなくて、神の働きのほうが大切だということ」にはならないのです。上記の青野太潮氏が述べておられる、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」ということも心強い言説となって、自分もあくまで「神の存在も神の働きも両方、大切だ」と言い切ることができます。「聖定」に意識を向ける場合もそうです。(三一)神論や創造論を軽視してはキリスト論や聖霊論はないし、救済論もありません。そしてその上で次の問題に取り組むことになります。

「アンセルムスの神の存在証明の議論で述べられているように、『それよりも大きいものを考えることができないもの』といった『大きさ』において神を定義することは、通常の場合、あまり一般的な議論ではないと考えられることになります。なぜならば、例えば、キリスト教聖典である新約聖書の「ヨハネによる福音書」においても、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(「ヨハネによる福音書」第4章24節)と記されているように、通常の場合、神という存在は、大きさや空間的な広がりといった物質的存在としての属性を持たない霊あるいは精神的存在として捉えられることになると考えられることになるからです。つまり、キリスト教における神は、通常の場合、空間的な広がりを持たない精神的存在であると考えられるのに、そのような霊あるいは精神的存在としての神が、一般的には、物質的存在の属性として捉えられている『大きさ』を持った存在として定義されるということは、一見すると、少し奇妙な矛盾する議論であるようにも思われてしまうということです。したがって、アンセルムスによる神の存在証明において示されている『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義のあり方を、キリスト教における一般的な神の定義に矛盾することのない整合性を持った神の定義として捉えようとするならば、そこで語られている神の『大きさ』とは、一般的な意味におけるように、単に空間を占める体積や量としての大きさのことを意味するわけではなく、ここでは、そうした通常の意味における『大きさ』とは別の意味において『大きさ』という概念が用いられていると考えられることになるのです。それでは、そうした空間的な広がりという一般的な意味とは異なる意味における神の『大きさ』とは、具体的にどのような意味における『大きさ』であるのか?といういうと、それは、一言でいうと、神が有する知性や能力といったあらゆる属性における完全性を意味する概念として『大きさ』であると考えられることになります。」

神が「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される理由とは?アンセルムスによる神の存在証明② | TANTANの雑学と哲学の小部屋 (information-station.xyz)

ということで、「神が有する知性や能力といったあらゆる属性における完全性を意味する概念として『大きさ』」とは結局、「偉大」ということになります。

「神は、そうした知性や能力といったあらゆる属性において最も偉大で限りなく大なる存在であるというという意味において、『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義が示されていると考えられることになるのです。」

アンセルムスの「神」の定義である「それよりも大きいものを考えることができないもの」という、その「大きいもの」は、原文のラテン語maius(マイユス)で、「大きい」を意味するmaior(マイヨル)またはmajorの中性形であり、その意味は「より大きな」です。maiorの本来的意味は英語のlargeでありサイズとしての「大」でしょう。これをgreatの意味でmaiusを「より偉大な」と訳すことは、誤りではないにせよ、非本来的ではないのでしょうか?これはイメージの問題であり、偶像崇拝とは関係ありません。信仰の対象である神は何らかのイメージなしに祈ったり礼拝することができるでしょうか?できると言う人も無自覚的に何らかの神のイメージを有っておられると思うのです。その一つとして自分の場合には「大きさ」ということも、その実在を感じるうえで有用なのです。そもそも、聖書ないしはキリスト教の「神は霊である」ということと調和するためには、「一般的な意味におけるように、単に空間を占める体積や量としての大きさ」ではなく「偉大さ」として解されて然りだ…といった趣旨ですが、果たしてアンセルムスはそのような意味でmaiusという語を使ったのでしょうか?そしてこれは単に「それよりも大きいもの」…「より大きなもの」と訳すのではなく「それよりも偉大なもの」というふうに訳さないと、本当に「神は霊である」という聖書の教えに反することになるのでしょうか?

< アンセルムスの神概念を継承した重要な思想家の一人にニコラウス・クザーヌスがいる。彼は、アンセルムスの議論を、独自の「万有在神論」として、「知ある無知(de docta ignorantia)」のなかで展開する。彼は言う「(神に関しては)無知が最大な知であるということについて研究を始めるに先立ち、私は最大性 maximitas そのものの本性を追求しなければならない。さて、最大なものと私が言うのは、<それよりも大きなものは何も存在し得ないもの hoc, quo nihil maius esse potest> の事である。」>万有在神論覚え書き-クザーヌス (sophia.ac.jp)

 

「アンセルムスの神の存在証明においては、こうした新約聖書における全知全能や完全性といった神の定義に基づいて、空間を占める大きさが大きいというよりは、能力や知性の大きさや偉大さといった意味において、『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義が示されていると考えられることになるのです。(中略)アンセルムスによる神の存在証明の議論においては、まず、全知全能や完全性といったキリスト教における神の定義が念頭に置かれたうえで、神は、そうした知性や能力といったあらゆる属性において最も偉大で限りなく大なる存在であるというという意味において、『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義が示されていると考えられることになるのです。」というこのサイトの結論は本当に正しいのでしょうか?

神が「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される理由とは?アンセルムスによる神の存在証明② | TANTANの雑学と哲学の小部屋 (information-station.xyz)

また、それがこのサイトだけではなくキリスト教思想においても正しいとされているとしても、批判の余地は無い完璧な説と言えるのでしょうか?自分はそうは思えません。「神は霊である」というのは旧約聖書にはない神理解であるといわれているし(⇒『旧約新約聖書大事典教文館p1291参照)、「霊」=「非物質」であるとしても、測定はできににせよ、いかなる意味においても大きさが無いとは言い切れないでしょう。神は唯一であり比較対象が無いから大小を言うことなどできない…という意見もあるようですが、創造主は被造世界との比較において全一者であると言うことはできると思います。「遍在」という教理がある限り、創造主は被造世界(宇宙)を包括していると言えます。ヤスパースも神を包括者と言っているでしょう。万有内在神論ではそういうことになるでしょう。スピノザ的汎神論では神即自然なので、神は少なくとも自然界の大きさ以上の大きさがあると言えます。一者から万物が生じたとする流出説では、論理的帰結として、その一者は万物よりも大きいのです。御父は本源者なのだから御子や聖霊よりも大きいと言えるでしょう。矢内原忠雄氏は、「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~矢内原氏の論文「日本精神への反省」)と述べていますが、「絶対」と「最高」と「唯一」だけでは聖書の三一神を特徴づけることはできないと思います。「超越と内在」そして「遍在」ということも言われなければならないのであり、その「遍在」の必然的帰結として、被造世界を包む存在であるということ…包むということは比喩ですが、それに伴って被造世界より大きいというスケール・イメージも比喩として生じます。そうでなければ、 「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28)といった万有内在神論的言い方にはならないはずです。宗教ないしは聖書はイメージの世界です。類比とかメタファーなしにはあり得ません。自分のイメージでは、御父(神)の中に信者たちがおり、個々の信者の内に聖霊がおられるのです。主イエスは人が肉眼で見える体を持っておられるので、集まった信者たちの間または中心におられます。それにしても「大きな神さま」というタイトルは注意しないと、人名にある「大神」とカン違いされます。だから自分は「大」と「神」とは決して併用しません。タイトルは「おおきな神さま」とするか「大きなかみさま」と書きかえる。この歌の詞は「偉大」としての意味が言われていますが、ダンスはサイズの「大」を表わしています。聖書の神はまずもって天地・宇宙を創造なさった主というイメージは、当然、その無限大のような宇宙の大きさにまさるでしょう。【大きな神さま 】ダンスで賛美 - YouTube

同じく「遍在」ということは言う人であってもそれが聖書的意味ではなく、聖書の創造主への信仰を持っていない人は、「神」をマクロ的視点ではなくミクロ的視点の方に観ようとする傾向があるようです。彼らの信仰対象は絶対他者としての創造主である「神」ではなく、自分自身を含む宇宙(意識)かなんか(…すなわち聖書的には被造物)にほかなりません。自分たちが「神」になるには「神」ができるだけ小さい方が都合がよいのでしょう。

コメント

  • 1.
    >神は全てである、神は遍在するというマクロな視点とは対照的に、これが神ですって一言でいえるものはないのでしょうか。もし神をミクロに表現するとしたら、それはプライムパーティクルというものに例えることができるのではないかと思います。
    ・・・聖書には神の遍在が示されています。遍在する神とは万有在神論の神です。聖書の神は、被造物に内在しつつも解消することなく超越している絶対者…被造世界(宇宙)全体を包むことのできる唯一神です。だとすれば、私はマクロな視点の方が聖書の神にふさわしいと思います。宗教・神話は科学ではないので理屈ではなく、直感的なイメージでありいろんなメタファーで語られます。子どもたちに向かって神さまって大きいと思うか小さいと思うかを訊けば、天地創造主だから、どちらかと言えば大きいという答えの方が多いのでは…?https://www.youtube.com/watch?v=FCqdgtVcod4
    abema

一方、キリスト教に限らず宗教組織は自分たちに都合の良いことばかり言うので根本的に信用できません。聖書のみに信を置いて、教会の言説を批判的に検証してみなければならないのです。存在論的神論において、サイズ的な意味の大きさを排除しなければならないとすれば、三位一体論における他の存在論的概念もすべて排除して然りでしょう。つまり「神は霊である」ということを「神は非物体」であると解することによって、神論ではいっさいの物質的概念を使用すべきではないとするのであれば、三位一体論につきものである「同質」とか「同等」とか「本質」とか「実体」(or 「本体」)とか「位格」とか「相互内在」(or 「相互浸透」)とかいった用語は比喩としてであれ一切使用すべきではないし、神を存在論的対象として考察することはできない…ということになり、「遍在」を含めてキリスト教教理の根本的な捉え直しを要することになるでしょう。それって八木誠一氏の言う「場所論」的神学の復権とか再発見ってことなのでしょうか?ちなみに「神は細部に宿る」とは建築家の言葉らしいから、存在論的意味ではなく、「細部」とは作品の細部であり、「ディティールへのこだわりが作品の本質を決める」といった意味らしいので、この「神は細部に宿る」を神論的・存在論的に解して言う人の方が愚かということになります。

ところで、上記の高柳氏の考えは、八木誠一氏や、前述の通り小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

小田垣氏は「汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。」(説教「インマヌエル」)と述べておられますが、小田垣氏はよっぽど「対象」ということが嫌いなのでしょう。しかし「人間の思考の対象にはならない」ような神は、聖書が示す活ける神ではないと思います。自分の場合は小田垣氏などとは反対に、聖書が示す「神」の要件として「対象」性や「最大」性…「唯一・絶対」性、「無限」性を挙げます。まさに小田垣氏が「すべてを包むものとしての唯一の神」だという聖書の三一神を想い描きます。それが自分にとっては魂の治療にもなるのです。(以下、引用。太字は私記。)

絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)※量氏の「絶対」に関する叙述は、前記の通り『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の29頁,

190頁に記されている、「仏教の空」⇒「無的絶対者」で「アッラー」⇒「有的絶対者」で、「キリスト教の三位一体の神」⇒「絶対有にして絶対無」(232頁)という類型を参照されたし。量氏が「絶対有」と共に「絶対無」に対しても「超越性、他者性、人格性」の欠如を指摘して批判し得ている点はとても貴重な発言で好評価すべきことだが、いかんせん同じ宗教哲学でも滝沢克己氏の言う「不可逆」の独断的意義を認めておられなかったのか、「超越」と「内在」が並立して、お考えが後者に前者が優先されることはなかったようです。でもこの優先なくして私の「超絶神信仰」は成り立ち得ません。滝沢氏の大胆なる「原事実」の独断こそ、理屈抜きの宗教的真実として見習うべきなのです。もちろん、そこには厳しい自己批判が媒介されていなければ、容易にカルト教祖の独裁に接近する危険性がありますが、宗教は本来、釈徹宗師が言われるとおり「非社会」とか「脱社会」といった要素があるわけで、その点ではカルトと紙一重なのです。現実において、天才と狂人、真実と虚偽とは紙一重なのです。

とにかく、日本の宗教哲学およびその影響を受ける神学は、西田哲学に影響され過ぎると神秘主義的になって、創造主なる「神」の実体性が否定され非対象化され相対化されて得体の知れぬ「存在」(?)と化してしまう。その典型が西谷啓治氏の『宗教とは何か』(創文社)における「宗教における人格性と非人格性」の見解であり、その影響を受けた上記の小田垣雅也氏の「絶対無=生きられるもの=人格的存在」といった考えである。小田垣氏は、「本当の信仰とは、イエスまで、ないし釈迦までであって、それを超えて、絶対なる神、ないし絶対無が、男か女かということになると、話は一挙にお伽話めいてくる。それは狭い意味での、対象としての、『人格神』になる。それは神話での復活であろう。人格とは、対象にならないものを人格と呼ぶのである。」と述べて、伝統的「人格神」観を否定し、これに替えて言わば非対象的意味での「人格神」を説いているが(~みずき教会説教「人格神」)、これは思弁に過ぎた感がある。遠藤周作氏にとっての「神」が、『沈黙』の主人公ロドリゴ神父を通して生きて語っていたとされる「神=イエス」のように、「だれか人を通して何かを通して働く」というのは、その「だれか」からすれば「神」を生きているということになる。これは所謂「生(き)神」とか「現人神」とは異なるが、そう誤解されかねない表現もある。まあ、このような神観は波多野精一氏の言う「自我の内に吸収され解消される」(~量義治著『宗教哲学入門』p108~109)神観にすぎないので批判するのは容易だし、自分の神信仰においては大した脅威にもならなければ参考にすべきところも無い。ちなみに八木誠一氏も「絶対他者即絶対自者」および「絶対他者が絶対自者だと言うしかない」などと述べておられる(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東京大学出版会〕p24~25)。

また、佐藤研氏の「禅キリスト教」の立場における神観もまさに「自我の内に吸収され解消される」類のものであろう。以下、引用。

< 西洋キリスト教は「神と人間」、「絶対と相対」を質的に峻別する宗教です。それを無視する考えを「異端」として排除・弾圧してきました。しかし、この二元論でやる限り、「神」は人間に結局は抑圧的に関わってきますし、人間も神への基本的な反逆を常時潜ませています。「和解」などと言ってもそう簡単ではなく、それを「贖罪」だとか「信仰義認」だとか言って神学的に跡づけても、あまり実感としてハッピーにならないのです。つまり、以上の二つの西洋的前提が実はもはや機能しなくなった、ということを多くの人が肌で感じ出しているのです。真の人間の深層現実は理論や言語で接近・獲得できるものではなく、何かこれまでとは異なった「体験」的次元が必須であること、また、神と人間の「二元論」には傲慢な人間を抑え込む効果は若干予測できるとしても、本当の真実はそれを超える「一元」の世界にあるのではないか、と多数の人が予感し始めたのです。そうした感じ方を後押しするものとして、現在の西洋に広く浸透している、一種の「終末論」的事態を挙げておきます。結局、20世紀の二つの世界大戦を経て、ここまで来てしまったのでしょう。「このままではもう先が見えている」という感覚、文化的・宗教的な「いき詰まり」に達してしまったという感覚、それを打破するには、今までの西洋的精神の大前提から何らかの飛躍が必要だ、それなしには生きて行けないという感覚――そうしたものが至る所に潜んでいます。ドイツなどはそれが最も鮮明です。ところが、坐禅の世界に参入すると、キリスト教徒であっても、ものの見方が大きく変貌して行きます。単にこれまでの欠けたところを補う、というのでは終わらなくなります。(だからこそ伝統的な人々からは極度に警戒されるのでしょう。)その際の最大の変化は、「神」観の変化です。先ほども言いました、本質的に自己に二元論的に相対する、いわば超越者・審判者としての「神」という面が脱落するか、弱体化するのです。「神」とは自分の本質の別名、という理解に接近し、さらに体験的に一線を越えると、その生々しい事実をまじまじと体験することになります。そうすることによって、理解を超えた、ある根源的な平安にたどり着くのです。これは、知的論理的な構築を行う「神学」がどのような言語を尽くしても、与えることができないものです。しかし、禅の体験を通せば自明の事実となります。だからこそ、世界の多くのキリスト教徒が、現在坐禅によって、そのような「腑に落ちる」安寧――その深浅の差や強度の差はあれ――を見出だそうとしているのでしょう。これは、底なしの終末論的不安が支配している現代および現代のキリスト教において、やはり刮目すべきことではないでしょうか。>

神観の変化には必要も感じるし、禅的体験の宗教的意義は自分なりにわかるが、やはり広い意味では、神が自我の内に吸収・解消されている感じを否めない。