絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

「従属的三一神信仰」の再発見 ―「キリスト中心主義」を乗り越えて―

そもそもキリスト教の中心的教義である「イエス・キリストによる罪の贖い」の意味は、神(御父=エホバ)の聖性を実感する信仰の恵みを与えられていてこそ理解できる。すなわちキリスト信仰に先立って神信仰が成立していなければキリスト教は成り立たない。聖書において神と人とは相互浸透(ペリコレーシス)しない。神が人に成ることは全能において可ではあるが、人が神に成ることはあり得ない。従ってカルケドン信条における「真に神、真に人」というキリスト論は、父と子と聖霊が同一の本質・実体であり同等の位格であるとする三位一体神信仰とは整合しない。イエス・キリストは「真に神」であるだけではなく「真に人」であるからだ。三位一体神論では、この「真に人」ということが考慮されてはいない。聖書において「神」と訳されるものは「絶対」であり「無限」であるから、「相対」かつ「有限」なる人間とは相互浸透しない。するというのはせいぜい悪しき神秘主義思想くらいなものであろう。

あえて三一信仰を聖書から見出し得るとしても自分は同一・同等の三一神信仰ではなく、従属的三一神信仰を受けとめるが、その「従属」というのは経綸的だけではなく本体論的にでもある。御父と御子とが同一でも同等でもないということは、コリント第一15:28その他の箇所に明示されている。

「三位一体は、父・子・聖霊の対等・同等の永遠的な内在的なまじわりと関係を表す観点から考えられる本体論的三位一体(内在的三位一体とも言わる)と、父・子・聖霊が、時間と歴史において、あがないのみわざをされる観点から考えられる経綸的三位一体に区別されます。本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。」(ウェストミンスター信仰告白解説

聖書が示す「神」とは「絶対(者)」を意味する。従って本来は対象化はできないが、「(創造的)空」の自己啓示によって聖書に物語られ、解釈されて、中東一神教の「神」として認識され、信仰されている。人間がこの「絶対」なる「神」といかなる関係を有つのかは、その究極がイエスの自己無化(ケノーシス)によって示されている。人は「神」の前に謙虚であることによって、心を責め苛む世の諸々の偽装絶対を見破り、特にキリスト教イエス・キリストという偽装絶対に翻弄されなくなる。この世に「絶対」なるものがあって、自分の方は日々刻刻と「無」に近づいている。しかしその「絶対」のおかげで、あらゆる諸力に対抗できるし、苦悩をその主体である自我もろとも相対化することができます。

とにかく自分は、一時的であろうと半分であろうと何であろうとも人体を有つ者を「超絶者」という意味での「神」…、すくなくとも聖書に示されている「神」とは信じられないです。聖書が示す神は旧約の出エジプトの神ヤハウェ(エホバ)であり、イエスがアッバと呼んだ神以外の何者でもありません。その点では小田切信男氏の信仰と共通します。自分が死の現実を前に本当に切羽詰まって思考の余裕がまったく無くなった場合にはドグマ盲信的意識になるかも知れませんが、現時点ではそんな悪しき意識状態になることは想像できません。それでもヨハネ福音書などがイエスの父に対する従属的な関係と共にイエスを子なる神として存在論的かどうかは知りませんが同一体とみなしている面もあるのだとすれば、自分も三一神信仰することはやぶさかではありません。しかしその場合も子なる神は父なる神と対等とは認められません。御子従属の三一神信仰であるなら、御子の人体性は認め得ないことは無い。ヨハネ福音書その他にも明らかな父子関係の従属を認めず逆に対等・同等とするのは人間の愚かさゆえでしょうが、「同等」が基本信条・教義になって「従属」は異端とされているのだとすれば、神は自己対象化・自己相対化・自己限定において、敢えて「父子同等」を受け入れておられるとしか思えません。その理由はわかりません。聖書的であろうとなかろうと、「三位一体」も聖書用語ではないのだから、聖書にみられる概念だ…などという詭弁が通るなら「神の自己限定」も通るはずです。このキーワードなしには自分は基本信条を受け入れることはできないので、キリスト教徒を続けることはできません。基本信条の文言は、比喩を含めて方便にすぎないのです。

キリスト教」という名称からして、すでに従属的関係を表しています。「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味です。すなわち、「イエス・キリスト」とは、イエスは油を注がれた者であるということです。「聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。」油を注ぐとはどういう事?油注がれた者とは? (gotquestions.org)
キリスト教」とは、イエスという人物が「キリスト」すなわち「油を注がれた者」であるという信仰を告白する宗教です。そして、イエスに「油を注いだ者」は「父なる神・エホバ」以外の何者でもありません。
ところで、油を注ぐ者が油を注がれた者より上位であることは明らかです。
だから「キリスト教」と言う場合、その「キリスト」にはすでに、油を注ぐ「神」の存在とイエスご自身との人格的かつ従属的関係が前提とされているのです。

私は、プロテスタント教会に属する一信徒であり、聖書にもとづいてイエス・キリストを「主、神」の本質を有つお方として信じ告白しますが、いわゆる「創造主」であるとは信じません。青野太潮先生の論文で、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)と言われているとおりです。h-n62v1-p37-76-aon.pdf (seinan-gu.ac.jp)

エスユダヤ人だったのに、白人画家はイエスを白人化させて描くことが常でした。偶像イエス同好会の諸君が「大好き」だなどと言っている史的イエスならぬ私的イエス…想像のイエスは美しく想い描かれますが、イザヤ書53章2節で「われらが見るべきうるはしき容なく うつくしき貌はなく われらがしたふべき艶色なし」と言われているとおりで、そちらが実在のイエスに近い。彼が神の子キリストであると信じ告白された主旨は、彼自身が神として拝され讃美されることにあるのではなく、彼は神の形のうちにあったが神と等しくあることを固守すべきもの或いは奪い取るべきものとはみなさず、むしろ彼は己自身を無にして(ケノーシス)十字架の死に至るまでも神に従順であられた…、それゆえに神は彼を高挙して主の御名を与え礼拝すべきものとされたわけなので、イエスを「神」と言い礼拝する意味は逆説的であり、父なる神の場合とは区別されて然りなのです。同じく「神」と言ってもイエスを「神」という場合はイエスが神に従属せし「人」として徹底し、信徒の模範を示したことにより、イエスを礼拝する場合もイエス自身が神を信仰し礼拝する者として徹底なさったことによるのです。イエスを栄光の主として高く挙げるのは神であって人間であってはなりません。イエスの使命は「子は親を映す鏡」とも言われるやうに、彼にとっての唯一にして偉大なる父である神を、彼自身の言葉と業を通してわれらに証しする啓示者にして仲介者たることにありました。繰り返しますが彼が「主」として高く崇められるのは彼が人として徹底的に神に服従して生きたことによるのであり、彼は「無」となることによって、言わば裏方に徹して、オモテ舞台で「神」として礼拝され讃美される対象を父として示しているのです。その彼の従順なる信仰にもとづく福音の教えを正しく受けとめるには、逆説的な対応が求められます。それが十字架の神学に現れています。

無からの天地創造は父と子と聖霊の三位一体なる神のみわざでありますが、「創造主」はあくまでも御父のみです。しかし伝統的には御子も造り主だと信じられています。その根拠とされるヨハネによる福音書1章3節やコリント第一の手紙8章6節やコロサイ人への手紙1章16節における前置詞「διά / ディア」の解釈については後述します。

また、三位一体論で言われる三位格間の「同等」ということについても否定的な見方を持っています。聖書でこの点に関連すると見られているのはヨハネ福音書5章18節の  πατέρα ἴδιον ἔλεγεν τὸν θεόν ἴσον ἑαυτὸν ποιῶν τῷ θεῷ (神を自分の父と呼んで自分を神と等しくした)における「等しい、同等の」(イソス)〔<「同等」(イソテース)〕です。しかし、ヨハネ研究で著名な某聖書学者によると、「5,18 と 10,33 に ユダヤ人たちが出てきて、イエスは『神を自分の父だと言い、自分自身を神と等しいと言 っている』と論難しているのは、正にヨハネとその仲間たちが日頃目の前のユダヤ教徒た ちから浴びせられている批判そのものなのです。たしかに全体が殺される前のイエスの時 代に行われた問答として描かれていますが、実際にはヨハネの現在において日々繰り返さ れているユダヤ教徒との論争が持ち込まれているのです。その二つのレベルを読み分ける ことが重要」とのことで、「ヨハネは 歴史的に生前のイエスが実際に自分を神とするような発言をしたと客観的に報告している わけでは」ない、とのことです。つまり、主イエスが「神を自分の父と呼んで」いたことは事実であっても、その意味が「自分を神と等しくした」というのは、ユダヤ人たちの誤った解釈であり思い込みなのであって、実際は主イエスは神と同質ではあられたが、神と等しいということをご自分の方から人々に言っておられたという意味ではない、そのように読むのは間違いということです。たとえば口語訳は、この「自分を神と等しくした」ということを実際に主イエスご自身がなさったと解して、つまり主イエスが「神を自分の父と呼んで」いたのは「自分を神と等しく」していたことなのだ…と受けとめて、「自分を神と等しいものとされた」…「した」ではなく「された」と敬語を用いて訳しています。新共同訳や新改訳2017ともなると、「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」と、「自分」にも「御・ご」をつけて「等しいものとされた」、「等しくされた」と、敬語で訳しています(新改訳第三版は「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」)。
岩波版の小林稔訳では「自身を神と等しいものにし、神を自らの父とまで言っていた」となっています。
いずれにせよ、ここで主イエスが父なる神と「等しい」と言われていることと、三位一体論で(…基本信条では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にはなく、アタナシオス信条にはある、)御父と御子との関係が「同等」であると言われていることとは、直接的な関係はありません。ましてや、新約聖書において父なる神と主イエスとの関係が主従的であることを示す聖句が多く、同等的関係を示す聖句を圧倒的に上回っていることについては、たとえばアタナシオス信条にある「神性については父と等しく、人性については父に劣る。」ということを都合よく用いて、主従的(ないしは従属的)関係は主イエスの「人性」について言われているのであって「神性」について言われているのではない…などと都合のよい説明がなされることがあるが、信徒は聖書を読む場合、必ずしもこれは「神性」について書かれてあり、これは「人性」について書かれてある・・・などと区別しながら読むわけではないし、記者の方もそのような認識をもって書いたわけではないと思います。
話は変わりますが、キリスト教における聖書にもとづく神信仰…人格神信仰は、神の擬人化に陥りやすいので、人格神と非人格神との中間的な(…半人格神とでも言うような)信仰の在り方でないと実際的ではありません。八木誠一氏の言われる人格主義的場所論の立場とも少し違うようです。また、「創造」といった場合にアウグスティヌス以来の「外へ」(ad extra)の創造では飽き足らず、モルトマンのように「継続的創造」だとか、「撤退」だの「収縮」だとかいったカバラ神秘主義的概念を用いて思弁を弄する説には関心ありません。創造主なる神すなわち主イエス・キリストの御父こそ「唯一の真の神」(岩波版 小林稔ヨハネ17:3)なのです。

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。」佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)
しかしそのような信仰的立場では、理論的には神認識が破綻します。すなわち、「無限」とか「絶対」といった言葉は賛美告白の表現としか意味をなさなくなるからです。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)
「絶対」ということは「外」は無いということを意味します。相対する他が存在しないのだから無限なのです。それはあくまでも理屈ではありますが、その形而上学的意味でなら上記の「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである」云々は矛盾した内容ということになります。

讃美告白としての「絶対者」である「神」が、私が信仰する聖書の神ということになります。その神は父・子・聖霊の三一者ではありますが基本信条で既定されているような「同等」の関係ではなく、私の聖書解釈においては「従属的三一神」ということになります。これは、正統主義的キリスト教の立場から見れば、古代教会時代に異端とされたアリウスの従属説よりかはオリゲネスのそれの方に近いとみなされるかどうかはわかりませんが、御父と御子との神性同質を認めた上での従属的関係なら、自分としては聖書を素朴に読んでありだと思います。
「正統の観念そのものが時とともに変わらざるをえない。もしキリスト教徒の大多数が処女降誕を否認するようになれば――否認する信者の数は殖えつつある――否認することが『正統』になるだろう。この点は教会史が証明済みだ、と言うこともできよう。ある時代が正統とみなすものを別の時代は異端と定める。その逆も真である。たとえば偉大なキリスト教思想家の一人オリゲネス(一八五 ― 二五〇)の教えは多くの点で驚くべく独創的であり、かれの生前には正統と認められていたが、四、五、六世紀には激烈な論争をひき起こした。かれの教義のいくつかは、アレクサンドリア、キュプロス、エルサレムの教会会議で、また(これは異論のあるところだが)五五三年のコンスタンティノポリス公会議でも異端の宣告を受けた。ここから、知識の進みが今日よりずっとゆっくりしていた、今から一四〇〇年前に正統の根拠が変化したのであるなら、われわれをとりまく宇宙について毎週のように新しい情報が伝えられる今日、正統の根拠が変わってはいけない理由があるのか、という疑問が生じる。」(D. クリスティ=マレイ著 、野村美紀子訳『異端の歴史』⦅A History of Heresy⦆〔教文館〕p15)
「オリゲネスの神学において(中略)主な欠点は次のとおりである。
一 オリゲネスは子が父と同じ本質を持っているということを正しく認めているが、父なる神について言われているすべての属性、たとえば全知などが子にも同じようにあてはまるかどうかに関して、時として疑いを示し、また、父が『神性の泉』である故に持っている優位を過度に強調するのである。 
二 オリゲネスは、父と子について論ずる時に、まだ、『対他性 relatio 』という概念を用いておらず、したがって父と子の一致をも、また子が父の本質から誕生することと被造物が無から創造されることとの相違をも十分に説明することができない。彼はこの相違を説明するためには、次の四点を指摘している。すなわち、(一)子と聖霊のみが永遠であり、すべての被造物は時間的始まりを持っている。(二)子のみが不変的・実体的に善であり、被造物はその善性を失いうるものとして自由に保有しているにすぎない。(三)子のみが父ひとりから生まれるものであり、すべての他のものは子を通して父から出るものである。(四)子のみが父の善性のすべてを持ち、被造物はいずれも部分的にのみその善性にあずかっており、父のみ旨のすべてを果たすことができない。以上の四点は正しいとはいえ、父と子のユニークな関係の問題を十分に解決しているとはいえない。したがって、オリゲネスの後にも父と子の関係に関する神学になお多くの解決すべき問題が残されていた。そこで、神の子キリストに対する信仰の理解について、四世紀の初めに大きな危機が起こった。それは、アレイオス(アリウス)が引き起こした運動であった。」(P. ネメシェギ著『父と子と聖霊 ―三位一体論― 』(南窓社)p125~126)
「子のみが父の善性のすべてを持ち」云々と言われているのは、善性は本来的に御父が所有しておられたことを示します。御子イエスはマルコ福音書10:17以下の箇所で、ご自分を「善い先生」(以下、岩波版 佐藤研訳)と呼びかけた「富める男」に対して、18「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」と言われて、神の属性である善性を「神お一人」(ここでは御父を指す)に帰して栄光を讃えています。その御子のありさまを受けとめる以上、我々も御父にこそ「善い」(ἀγαθός / アガソス)という神としてのご性質を拝し賛美して然りでしょう。ここにも御父と御子の従属的関係が表わされています。
「オリゲネスは、神の独り子の永遠の誕生、先在のキリストの魂を神と肉体の結び目として神人が生まれたことを論じ、いわゆる『本体論・存在論的キリスト論』を展開し、以上でみたキリスト教の諸相[エピノイア]を通して、いわゆる機能論的なキリスト論を展開しているが、その根底にはギリシア哲学からのロゴス概念の借用がある。それは、キリストの多くの機能の総括的な理解を可能にしたが、子なる神を父なる神の下位に置く従属説的傾向に陥る可能性を含んでいた。オリゲネスは神の像の神学並びに父と子の意思の完全な一致をもってそれを超克しようと試みる。(中略)キリストを信じる者、聖なる者、聖書を霊的に理解する者、完成の域に達した者の内には、実際に現実の力としてロゴスである神の子キリストが存在するのであるが、キリストを知らない者、信じない者、文字にとらわれている者、まだ完成の域に達していない者の内には潜在的な力として存在するのである。こうして、人はロゴスの様々な相[エピノイア]によって導かれ、その内にキリストが形造られ、御子の像と同じ形にされていく――ロゴスは神の子らの原型――のである。これを成し遂げるのは人の内に宿る『キリストの霊』である。そして、完成の域に達した者には、その人の心に、聖霊によって神の愛が注がれ、その豊饒な愛によって神の本性にあずかるものとされる。この愛によってのみ、人はもはや罪を犯し得なくなるのである。こうして、人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」
(小高毅著『オリゲネス』〔清水書院/新装版 人と思想 113〕p117~118)
「私はあく迄も『祈禱論』を中心として、之に爾餘の著書からの言葉を参酌することによって、祈禱の問題についてのオリゲネスの立場及び思想を学ぶことにしたいと思ふ。そこで此の書について先づ一言しなければならないが、この書はラテン譯によらずギリシア原文の儘で今日まで保存されて来た一事を感謝を以て特筆しなければならない。何故それがラテン譯にならなかったか、それは恐らく其の中に於ける若干の思想が後世に異端的と映じた故であらうと云はれてゐる。例へば、その第十五章に、祈りは父なる神にのみ捧げらるべきもので、御子に對して捧げらるるべきものでないと教へてゐるが、是は後の完成せる正統主義の三一神論から見れば明かに異端である。(中略)オリゲネスの著者の多くはルフィヌスの、正統主義的に補足せられた飜譯を通じてのみ傳はってゐるので、之によってはオリゲネス思想の眞相を捉へることが困難な場合が多いからである。(中略)
『祈禱』(プロセウケー)に至っては、キリストにさへも献げらるべきものではなく、たゞ『萬象の神また父』にのみ献げらるべきものである。何故なら、キリスト御自身も亦この神に對してプロセウケーを捧げたまうたのである。又彼自ら、『祈ることを我らに教へ給へ』との請に對して弟子たちに教へたまうた祈りは『天に在す我らの父よ』との祈りであって、己に對するプロセウケーではない。何故であるか。それは御子は御父とその本質を異にしてゐる故に(中略)御父にさゝぐべきプロセウケーを同時に御子に捧げることは出来ないからである。かゝる御子従位論が後世異端の烙印を押されて、それがオリゲネスの著書に非常な禍を齎したことは既に述べた通りである。」※「…同時に御子に捧げることは出来ない」理由として注に書かれているのは、「一、それは祈禱の對象を複数にすることであり、その事はそれ自體として不適當である(中略)。二、聖書にかかる類例を見出し得ない。」。(有賀鐵太郎著『オリゲネス研究』⦅全國書房 昭和21年12月20日発行⦆p49~50、70~71、133)
「彼が『父』と『子』との差別、及び御子の従位を強調した事のために、後世の神学者たちはオリゲネスが御子を被造者と呼んだ事を彼の異端を非難する一つの理由としたのである。何故なら之こそは方にアレイオス(アリウス)の所説であったからである。然しオリゲネスのロゴス論の本質的性格はその永遠生誕説に於て見出さるべきものであって、御子被造説をその核心と見做すことは誤である。ケッチャウの原文並びにバッタワスの英譯(三一四頁)を見よ。」(同上 p508)
「オリゲネスの思想の根本にはプラトン主義的二元論(この世界の成り立ちを【可視的・時間的世界】と【不可視的・非時間的(永遠の)世界】と二つに区別して論じる考え方)があり、それを土台にして御子の生誕を考察し、御父による御子の生誕を不可視的・非時間的(永遠の)世界での出来事として論じました。そうすることによって、例えばユスティノスのキリスト論に見られるような、御子がお生まれになる前には御子は存在しなかった、という従属説的な理解の問題の克服を図り(永遠の世界での御子の誕生においては、誕生の前に存在しなかったという時間的な思考は当てはまらないから)、それによって御子の神性を強調しようとしました。ですからこの点を見るならば、オリゲネスは御父と御子の神性の同質性の理解に近づく議論を展開した人だと言えます。 しかし他方でオリゲネスは、二元論的な思考を創造のみわざにおいてもあてはめて、可視的・時間的世界で神に創造された被造物は、それに先立って永遠の世界において肉体を持たない魂として神に創造された、と主張しました(この被造物の永遠性の主張もまた、オリゲネスが異端宣告される理由の一つになっています。ちなみにオリゲネスがそう主張した意図は、被造物を神格化したかったからではありません。神が創造することによって創造者になられたのではなく、神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えたのです)。こうして御子の生誕の永遠性だけではなく、被造物の創造の永遠性を主張したために、後代になって御子と被造物の本性における区別があいまいであることが問題視され、そのために従属説的だと判断されました。」(~某牧師への質問の返答)
私は職業神学者ではないので曲解や誤解もあると思いますが、このまま話を進めさせて頂きます。ニカイア信条の「(主は)独り子である神の子、すべての時に先立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでは なく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」といった信仰の思想的背景には、「パンタ・レイ」(万物流転)のヘラクレイトスにまで遡る生成・変化の思想があったとも云われています。直接的には新・プラトン主義の創始者と云われるプロティノスの思想の影響で、運動の視点から神についても考察されたのであり、御父を本源として御子、聖霊が生成し発出する三位一体論もそのような観点で捉えないと見当違いになるのでしょう。まさしく聖書が示す神の存在は現代神学のE・ユンゲルが言うように生成においてあるのです。但し、唯一の真の神である御父だけは本源なので、その生成・変化の運動に巻き込まれることはありません。そこが御父と御子や聖霊との根本的な違いです。
「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6岩波版 青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、御父は生む者・本源者であり、御子は生まれる者、聖霊は御父から御子を介して発出する者です。これは、御父と御子と聖霊との主従関係を前提とするものであり、その場合の「従」とは、創造主と被造物との関係におけるそれではなく、本源者と生成者との関係におけるそれです。これはアタナシウスも認めるところであったと認識しています。或る正教会の司祭によると、以下のとおりです(私信なので許可を得ないと名前は出せません)。
< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」ではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>・・・「関係」は「神性」と対置せず、御父と御子との「関係」が「同等」か「従属」(的)か…という判断なので、後述のように御父と御子との関係における神としての「同質」すなわち神性の「同等」を認めたうえでの「従属」は「職務的従属」と言われ、「力と栄光」についても御父と御子は「同等」だと言うのですから、実際は「従属」関係とは言えないような関係です。私は「同質」を認めたうえでも「力と栄光」については「従属」的な関係にあるという立場です。しかし東方教会であれ西方教会であれ、正統であることを自認する教会においては「力と栄光」も御父と御子とは完全に「同等」なのです。後に引用する矢内原氏の文言にあるとおり、御父と御子との関係において大小の区別があるとしてもそれは生む者と生まれる者との違いにすぎず、「能力、権威、栄光等の大小」には当たらない…というのが東西の教会に共通した正統的見方であるとは思いますが、私は「大小」を言う以上、「能力、権威、栄光等」についても御父が御子より上であると信じます。これが私の「従属的三一神信仰」の再発見なのです。 後で引用する『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントのコリント第一3:22~23の注解の中で、「キリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」とあるとおり、御父が唯一の真の神として「力と栄光」において御子に優ることは、終末に明らかにされることです。御子の「力と栄光」はあくまで終末に至るまでの間に御父から預けられた、言わば借り物なのです。父と子という親子の比喩を神とイエスの関係に適用しているわけですが、親子関係が上下関係であるわけがないと思われる人は少なくないでしょう。その是非は私にはわかりませんが、youtube加藤諦三氏の最終講義を聴いていたら、親子関係が上下関係であると述べておられました。
とにかく、同じく正統路線であっても、ギリシャ教父のアタナシウスとラテン教父のアウグスティヌスとは違いがあり、それが東方の正教と西方のカトリックプロテスタントとの教理的違いになっているようです。西方教会の三一神論の基本になり図式化すれば三角形になりましたが、東方教会では直線的であり、それがフィリオクェ論争で明らかになりました。以下、引用。
「アタナシウスは尚ほ『父は子よりも大なり』との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。」「『父は我よりも大なり』(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、『父は我よりも大なり』といふ事は、『我は父より出でたり』といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。」(『矢内原忠雄全集 第九巻』〔岩波書店〕~「訣別遺訓に現れたる三位一体論」〔P338~〕、「三 子なる神」の2〔P345~〕)

但し、この矢内原氏のアタナシウス説についての理解は必ずしも信用できません。と言うのは当時は教理研究の資料は限られていただろうし、以下の北森嘉蔵氏のアタナシウス説についての理解と相反する内容だからです。
「アタナシウスによって、受肉者キリストと神の本質との関係は明確化されたのでありますが、しかしアタナシウスの神学は問題がないわけではありません。それはどういうことかと言いますと、アタナシウスは父なる神と子なる神との同質という面を強調するあまり、父なる神と子なる神との区別という面が、いささか弱いという点であります。(中略)アタナシウスは、アリウスを相手としていたので、いささか反動的でありました。アリウスは、『父なる神と神の子イエスとはまったく区別される存在であり、神の子は端的に神の外にあるだけだ』と主張したので、これを防ぐために、アタナシウスの主張はいきおい、『父なる神と神の子キリストとは同一であり、神の子は神の内にあるのだ』という面だけが、一方的に強調されたことはまぬかれないのであります。したがってアリウスを防ぐ反動として、いささかアリウスと逆のあやまりの立場に近づいたと言えます。この逆の立場が、父神受苦説であり、またの名はサベリウス Sabellius主義であります。そこでたとえば、ラインホルト・ゼーベルク(R.Seeberg)のような教理史家は、『アタナシウスの神学を徹底していくと、サベリウス主義になるかもしれない』というようなことを申しております。つまり、ここではサベリウス主義ないし父神受苦説という異端が、正統的神学の代表者たるアタナシウスと紙一重のところで接触しているという大変興味深い現象を見るのであります。しかし、これは興味深いけれども危険ですから、私たちはアタナシウスにしたがいながら、しかもサベリウス主義ないし父神受苦説と断然違う立場を堅持しなければなりません。それは、子なる神が父なる神と本質を同じくして、神の本質の内にありながら、しかも父なる神の外にあり、いわゆる『融通不可能な固有性』をもって父なる神と区別されるペルソナであるということであります。」(『神学入門』新教出版社 p52~55)
ところで、前掲の矢内原氏の論文の最後のところ、「能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない」ということは、改革派の神学でも御父と御子が「神」として「同質」であることの結果として言われているようです。                       「三つの位格の存在様式(the mode of existence)においては秩序があり、それは覆すことができないものであり、交換され得ない固有性であり、関係の秩序なのである。しかしながら、このことは、従属として解釈されてはならない。位格間のこれらの区別は、本質の区別ではなく、位格の区別なのである。三つの位格は、『本質において同一であり、力と栄光において同等』(the same in substance,and equal in power and glory)。」(webサイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「モートン・H・スミス「組織神学‐その紹介と解説‐」(作成中)の「第10章:三位一体の教理」の「Ⅳ.三位一体の区別」)minoru.la.coocan.jp/morton10.html  しかしそれなら、三位格の間にはいかなる意味においても従属関係(…という表現が不適切なら他に何と言えばよいか…とにかく上下的関係)は無いのか…?と言えばそうではなく「職務的」には従属関係が認められています。「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はなお。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(同上)・・・この「職務的従属」といった観念は、聖書を素直に読む限り御父と御子との従属(的)な関係は否定できないが一方では異端とされている「従属」説と混同されてはならないということで、「従属」に「職務的」と「本質的」とを区別した神学的方便です。私は「職務的」であれ何であれ、要は御父に対する御子の「従属」が信仰告白に含まれることに意義あり!と思い、その優先性においてこれを改革派信仰との接点として、代わりに「同等」ドグマを受け入れています(「同質」はキリスト教信仰の前提として、すでに受け入れている)。但し、改革派では一般的にあまり重視しない(…というか軽視以下。意識さえしない牧師もおられる)「職務的従属」を強調して、その重要性をアピールします。 

「職務」と言うのは要するに類比においては「役割」ということですが、人間社会で役割というものは無条件に与えられるわけではなく、1つの役割は、それに相応しい実力を持つ者に対して与えられるわけです。逆に言えば、その役割を担うだけの実力を欠く者には与えられないはずです。ということは、御父は御子から、同じ神でも「大」なる存在だと言われるだけの実力を持っておられるということです。万物を聖定し創造と摂理の主という役割を担っておられるのは、それに相応しい力・権威・栄光を持っておられるということ、御父こそが三一神を絶対的な主権者たらしめる実力者であられるということを意味する…と、私はそのように確信しています。

ヨハネ福音書14:7でイエスは弟子たちに対して、「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」と述べ、続く8節以下でピリポの問いに対して同様のことを述べているが、これはよく実体論的に解され、イエスの身体を見たことが神の存在を見たことであるかのように言われる。しかしそういう解釈こそイエスを偶像化することだろう。
「ピリポ、我かく久しく汝らと偕に居りしに、我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり」(ヨハネ傳14:9)
「子は親を映す鏡」という諺があるが、福音書を読んで御子の言葉と業を見聞する者は、聖霊によって御父(神)を間接的にイメージできる。間接的という意味は、御子イエスの御父(神)に対する従順な姿を感得することによって、これに応じて聖霊を送り力を与える御父が逆照射的にイメージされるという意味。これは偶像に非ず。イエスを見て「神」として拝することこそ偶像崇拝なり‼

その後の、10、11節「我の父に居り、父の我に居給ふ」、「我は父にをり、父は我に居給ふ」ということを存在論というか形而上学的な解釈の絶対化で「ペリコレーシス」(相互内在・相互浸透)などと主張して他を認めない立場の愚かさには呆れるばかりです。これは単に、御父と御子との親密な関係性を表現していると受けとめればよいだけのこと。
ニカイア・コンスタンティノポリス(ニケア・コンスタンチノープル)信条では、主イエスは「すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」(日基教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)とあり、「同質」とは言われても「同等」とは言われておりません。それはそうでしょう、いくら信条というものが論理的には矛盾したものであるにせよ、信仰告白であり信者の生活現場である教会に関わっているので、所詮は神学者の思弁的作文とは言え、あまり無茶はできません。「~より / from」( ἐκ / エク)と言われている以上、御子は御父と「同等」であるわけがなく、なんらかの意味で「下」であり「小」であり、即ちパウロが「ヒュポタッソー」(原形)を用いて明示しているとおり「従属」です。しかも一方で御父は、「唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主」と賛美せられ、御子についての「すべてのものはこの方によって造られました」の意味は、その造った主体は御父であり、御子は「この方によって」(δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο で、「よって」と訳されてる「ディア」という前置詞の意味は要するに媒介)なので、御子は創造主ではなく媒介者ということで、御父こそ創造主にして全能なる神であられることが明らかにされています。その点でオリゲネス的従属説を採る私でさえ、ニカ・コン信条はエキュメニカルな信条であると尊重するわけです。

八木誠一氏曰く、「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、また、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)と述べておられます。このように、御父と御子との間には「究極者」と「究極的なるもの」との区別があるのです。「相関的」とは相対的ということでもあり、その意味では御子は相対性を持つ、この点で創造主なる御父と決定的に区別されるのです。

また、御子が被造物かどうかについては、コロサイ1:15の「プロートトコス」の解釈で分かれる議論であり、いずれかを絶対化することはできません(エホバの証人さんは被造物説… http://biblia.holy.jp/51-col-1-15.html )。
繰り返しになって恐縮ですが、ニカ・コン信条における「父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」という、その「~より」と言われていること自体が、広い意味では従位・下位にあることを示しています。にもかかわらず、この関係は本質的ではなく職務的であるといった詭弁を弄して三位格の「同等」に固執するのが正統主義者なのです。
私はこのようなドグマティズムには屈せず御父絶対の揺るがぬ確信があります。それは聖霊による確信なので微動だにしないのですが、そうなると御子を相対的存在とみなすことにもつながるのではないか?とか三神論になるのではないか?とか…、それ以上の議論を続けるとますます思弁に陥り、さらには詭弁に変わるおそれも出てくるので、私はいちおう、同じ唯一神教といってもユダヤ教イスラム教のような単神論的唯一神教と、キリスト教の三一神論的唯一神教とを区別すべきだと言うのですが、それ以上は思弁に思弁を重ねることになりますので(…それもまた自分のような者の精神安定にとっては、一利にはなるのだが…)、ヨハネス・G・ヴォスが『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版局)で述べているように(編・訳は玉木鎮牧師)、「聖なる無知を告白」するという頌栄的態度へと聖霊によって導かれるのです。
とにかく、矢内原氏はアウグスティヌスで三位一体論が完成との見解ですが、自分はアタナシウスで完成したと見る方がより聖書的であるとの見解です。というか、矢内原氏のアタナシウスやアウグスチヌスに対する理解が、時代的制約による資料不足のため誤解もあると思うので、矢内原氏がどう言われたかに関わらず、とにかく私は聖書と、青野太潮氏その他有力な解釈者の見解を参考にして、従属的三一神信仰・従属説的三一神論の立場を堅持するのです。古典的三一論に固執して従属説的な見方をまったく認めない正統主義的立場の人は、従属説的な立場は「合理的」だから受け入れやすいといった旨のことを言って揶揄しがちだが、「非合理ゆえにわれ信ず」というような考えを絶対化する方がよほどおかしいのであって、合理的であること自体は何ら問題ではない。問題は、その主張が聖書的か否かであり、それは選択肢が1つだとは限らない。解は複数あり得るのだから、正統主義的に1つに固定する理由は無いのです。

ところで、おもな教父たちの父子関係についての考えが要約されている論文があるので引用します(尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)。
「三位一体論に関して、アウグスティヌスの見解では、神性は三位格の共通の源泉であるが、彼以前の他の教父達は、神性は父にのみあり、他の二位格はそこから派生したとする。即ち、後者では父が子の原因であり、三位格は非対称的である。これに対して前者では、三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。それではアウグスティヌスでは、共通の源泉たる神性は三位格と並ぶ第四の位格なのであろうか。いな、そうではない。神性は共通の源泉として共通の基体であるが、三位格に超越したり、それらの根底にあって先行するも のではなく、神性は永遠から三位格に区別されている。つまり、 父と子とは異なるがその本質〈神性〉は異ならない。神性即三 位格、三位格即神性である。一つの本質にして、同時に三つの位格〈神格〉である。三位格を離れて、それらの基体としての神性が存在するわけではない。これに対して、テリトリアヌスやバシレイオス等の見解では基体は父であり、父はそれ自体生ぜず、子を生ましめ、子は生ましめられるだけの因果関係にある。 ここで基体とは三位格の本質、つまり神性を意味するが、この場合、各位格は個体でもなく、種でもなく、個体と種との結合としての個体的種と呼ばれる。それは、各位格は無体的にして現実的な区別された存在であるからである。(そして無体的、非物質 的存在は個体ではなく、種に属する。三位格は個体的種の違いで ある。即ち、単に名前だけではなく、個体的種として現実的存在 である。)アウグスティヌスは三位格を共通に統一する本質たる神性に対しては類と種の概念を使わず、むしろ基体のカテゴリーを適用する。というのは、三神論に陥るのを避けるためである。オリゲネスによれば、神とロゴスとは現実的存在である。各位格は永遠から特定の個体的存在、第一のウーシアである。(この点で、経綸において顕現したとするテルトリアヌスと異なる。) ウーシア、ヒポケイメノン、およびヒポスタシスにおいて、子は父とは異なる。各位格は単なる個体ではなく、個体的種であり、その共通の統一は種的類である。それは種と類の結合を意味し、 第二のウーシアである。つまり、父と子とは異なった個体的種であり、それらの統一は共通のウーシアとしての種的類にある。父と子との同一本質〈ホモウーシオス〉は、ここにおいていわれる。 父と子とは、ヒポスタシスとしては相異なるが、第二のウーシアにおいては同じである。父は源泉として、そこから神性は多様な レベルで下降・派生する。被造物にとっては、父とロゴスとの原関係は永遠であり、ロゴスは時間的初めがなく、永遠に発生している。神の像としてのロゴスが存在しなかった時はなかった。また不可思議の神から見れば、ロゴスは被造物であり、他のすべて被造物の原型として父からの発出の最初の子である。子は不生とともに生でもある。 父は絶対的な神であるが(The God)、 ロゴスは絶対的には神ではない(God)。ロゴスは種的類において父と本質的に同一でありながらも、派生的神、第二の神として、より低いレベルにおり、従属的で、父と被造物との媒介者である。換言すれば、キリストの媒介なくしては、父へ祈ってはならない。 つまり、子を廃止しない立場である。子は父の為すことを為すことにおいて、その意志も同一である。」
ここで御子キリストを「第二の神」とする従属説が述べられていますが、オリゲネスが異端とされたのはその死後のことであり、生前の彼は第一級の神学者でした。ちなみに某牧師によると、「現代では多くの神学者たちが、オリゲネスを異端としたのは間違いだったと認めている」し「オリゲネスの神学から多くのことを学んでいる」そうです。但しそれは、まだ三位一体論が発展していない時代の思想家だから…ということであり、従属説自体を擁護するものではなくその逆です。アリウスとは違って、御父と御子との、神としての同(一本)質性を認めたうえでの従属説というのは(…それが論理的に成り立ち得るかどうかの神学的議論はさておいて…)、異端とするほどに聖書から逸脱した考えであるとは言えないというのが、すくなくとも中立的、穏健的立場を志向する神学者たちに共通した見解ではないのでしょうか?
「アタナシオスは、神性は異なったレベルに存在するというオリゲネスの主張に反対する。神の本質は父と子において同一であり、 低次の存在秩序に伝達されたり拡張されたりするのではない。ただ子は生まれたものとしては父とは異なるが、神としては同一である。究極的根源としての父は時間的に子に先行しているわけで はなく、子は不生の父とともに永遠である。子は父の神性の形相 〈顕現〉であり、子は完全な神である。子によらずしては、父は何事も為さない。また子は父の意志により生じたのではなく、本質によって生じたのである。」(尾崎誠氏前掲論文より)1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org) 
ここで言われている、「子によらずしては、父は何事も為さない」ということよりも本質的であり深層であるのは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19) ということではないのでしょうか?                              ところで、キリスト教の「三位一体」神信仰は、日本基督教団信仰告白にあるように「唯一神」教という前提のもとで「同等」を言うのでしょうが、「唯一」(エハド)については「複合的独一性」とか「一つのうちにおける多様性」であるとかいった説を見聞きしたことがあります。これはまさに、「唯一の神」と「父なる神、子なる神、聖霊なる神」との矛盾をクリアーしようとする、私見では不確かな言語学的試みとでも言えるでしょう(Edmund J. Fortman 『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』、創造からバベルまで・・・Ⅱ 聖三位一体  - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)他参照)。しかし矛盾は矛盾のままでよいのではないでしょうか?「唯一」(エハド)本来の歴史的意味はけっして「三位一体」の「三位」とは関係ありませんが、関係づけるのが神学的解釈であり、それなしにキリスト教の教義は成立しないわけです。しかし、その解釈は教会が「正統」と決めたロジックでないと認めないということが誤りなのであり、そういう正統主義的態度は批判され改革されて然りです。ともかく、三つの位格を人格に喩える以上、論理的に「三位」は「三神」であり、その(父と子と聖霊の)「神」が同一本質を持つという意味で「一体」なのです(…「三神一質」)。それが「唯一」の神であるということを、私の場合は無理にこじつけず、旧約的唯一神教(=単一神教)と新約的唯一神教(=三一神教)とを貫く「唯一」とは、拝一神教的「一」・・・つまり自分(たち)にとって聖書が示す神のみが礼拝されるべき真の神…という意味でよいと思っています。他人はまた違う意味で受けとめればよいでしょう。
水垣渉氏の論文「キリスト論の思想的射程 ― 古代キリスト教を中心にして―」によると、< 厳密にいえば、三一神論と三位一体論とは区別しなければならない。三位一体論は、三一神論の一つの立場である。(中略)本来なら、宗教史的現象として最も広くは「三一論」、キリスト教においてやや限定して「三一神論」、その内容の正統教義的表現として「三位一体論」と使い分けることが望ましいが、実際には難しいであろう。」ということで、歴史的には、「三一論」>「三一神論」>「三位一体論」という関係になるそうです。
日本のプロテスタント教会には、私見では「キリスト止まり」とも言える、カール・バルトの神学的影響によると思われる過剰な「キリスト中心主義」的傾向があります。その傾向は、例えば1989年に出された「日本キリスト者宣言」なるものに顕著です。
「私たちが、あくまでもキリストの主権のもとに、キリストを中心としながら、歴史と世界の中に生き、また他者と共に生きる以外に、私たちの信仰の証しと告白の道はない。そのようなキリスト中心の信仰から、私たちは、天皇代替りによってあらためられた元号なるものを、主権在民に反する天皇中心の独善的、排他的、閉鎖的な国家主義歴史観、世界観の残滓として、受けいれることができない。」
ここには、イエス・キリストの父なる神への信仰がまったく考慮されていません。御父が後退して御子ばかりが前面に出されるキリスト中心主義を「キリスト止まり」と言わずして何と言うのでしょうか?
ペトロ・ネメシェギ神父は『父と子と聖霊―三位一体論』(南窓社)の中で、「現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。」と述べており、また、D・クリスティ=マレイも『異端の歴史』(教文館)の中で、「今日のキリスト教徒も多くは自分でも知らずにモドゥス的モナルキア主義者なのである。」と同様のことを述べていますが、その「唯位」(モナルキア)なる神こそがキリストであり、父と子と聖霊の三一神が「子」なるキリストのみに集約されてしまうという傾向です。「モドゥス的モナルキア主義」とは様態単一神論であり、「父神受苦説」と言われ、サベリウス主義と呼ばれています。それはともかく、旧約聖書も正典とし、新約聖書の前提としている以上、キリスト教も原則的に「父」なる神が中心であり、究極的には第一コリント15:28のとおり、三一神は御父に集約されないと啓示にそぐわないのでは…?というのが私見です。そしてこの「三一」というのは三つの位格が一体であると言われますが、「一体」という訳が誤解のもとであり、いかにも一心同体というような意味にとられやすいですがそうではなく、「同一本質」の「一」ですから、三位格があくまでも神の本質を共有しているという意味です。その三位格は個別的な自存性とか人格的固有性などが言われ、ひいては「三つの別な自己意識」などと言い出すに至っては何をかいわんやであって、これが「三人格」でなくて何?ってことです。
「三位一体の三位とは、3つの位格あるいは人格という意味です。具体的には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神を意味します。位格(人格)とは、他と区別される自己意識を持っていることを意味します。宗教改革カルヴァンは、『キリスト教綱要』(Ⅰ-13-20)において、位格は、神の存在方式(様式)と言いました。すなわち、神は、父・子・聖霊のお互いに区別されながらも、また同時に、お互いに密接な関係とまじわりをもつ仕方で存在されると述べました。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々区別される自己意識をもっておられます。わかりやすく言えば、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々が、人格、すなわち、知性・意志・感情をもっておられます。各々が心をもっておられます。しかし、お互いに、深い豊かな愛の結びつきとまじわりをされているのです。」(~サイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第2章 神について、また聖三位一体について」の「第3節 三位一体の神」)
三神論的傾向を避けるために用語は「位格 Person」を避けて「存在様式 Seinsweise」としたというバルトの神学系統などでは三位格と三人格とを混同しないとは思いますが、ウェストミンスター信仰基準では三位格は三人格(…この場合の「人格」は心理学的意味の person)なのです。
「問九 神には、いくつの人格があるか。 答 神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮編訳)〔聖恵授産所出版部〕)
ここで言われている「力と栄光において同等」ということ、これが次の「ひとりの、まことの、永遠の神」ということを三位格全体に対して言うための言わば、辻褄合わせであって、実際は「ひとりの」ではなく「三者の」であり、「まことの、永遠の神」は御父のみとみなせば、「力と栄光において同等」と言う必要はありません。そして聖書的には、やはり創造主である御父が最も「力と栄光」を賛美されるお方なのであり、その力によって御子は復活し、その栄光をあらわすべく地上で活動されたのです。無論、合理的であることが聖書解釈の妥当性を根拠づけるものではありません。究極的には、論理的整合性などにこだわっていたのでは神学は成り立ちません。テルトゥリアヌスが言ったとは言われているものの疑われてもいる「不合理なるゆえに我信ず」といった言葉もあり、北森神学などのように詭弁に詭弁を重ねるより、説明できないことは「神秘」とか「秘義」とか言って逃げる教義学者の方はまだしも正直だとさえ言えるかもしれません。神学はそもそも人知を超えた神にかかわる言論として初めから啓示に限定され制約された神認識としての営みなのですから、前掲書の中で言われている、「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。」(p59)ということが必要になってきます。「聖なる無知」(Holy ignorance)という用語自体は、聖書的根拠としてはやはりヨブ記の特に42章3節「『一体何者か、無知であるのに、わたしの経綸をぼかすこの者』。そうです、私は認識していなかったことを語ったのです。私を超えた不思議の数々、それを私は理解してはいないのです。」(岩波版 並木浩一訳)という告白、自分の無知(ベリー・ダーアト)、無理解を認める告白が挙げられるでしょう。
「聖定と人間の責任との問題」以外の問題でも存在論的な問題…、たとえば「相互内在」(ペリコレーシス)に関してなど、考えてみても理解しづらい問題は諸分野にあるので、ある種の思考停止も脳内整理のために必要だと思います。
ちなみに岸田秀氏は、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(『希望の原理』〔青土社〕p17~18)とか、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(前掲書p54)と述べています。
八木誠一氏は、以下のとおり指摘しておられますが、いわゆる正統的キリスト教の三位一体論においては、事実上、三者の神です、三神論なのです。この点でも一皮むけば正統と異端とを区別しきれない曖昧さがあります。
「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)とか、「神を人格として表象し、さらに子なる神、聖霊なる神をも人格(ペルソナ)として表象したら、三位一体は三神論となり、両性論的キリスト論は二重人格となってしまう。人格主義的神学の用語で三位一体論とキリスト論を語ることが困難な所以である。」(『<はたらく神>の神学』p119~120)とか、「三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である。」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221)と指摘している。そもそもギリシャ教父なしいは東方教会の三一(至聖三者)論は何がいけなかったのか?「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏したということである。」(『<はたらく神>の神学』p4)
ヘブライ語聖書だけが教典であったユダヤ教時代までは、唯一神教であり、その「一」が「唯一絶対」の「一」の意味になるのは新約時代に入ってからであって、本来は、同じ「ヤハウェ」の名で呼ばれても多様だった状況の中で「ヤハウェはただひとり」を強調した単一的意味、そして申命記では5章で拝一神教的意味の「第一戒」を含む所謂「倫理的十戒」が語られ、その後の6章に置かれた編集段階からは、拝一神教の「一」、すなわち相対的絶対性の「一」になったのでした。いずれにしても歴史的には「唯一」の意味が、自分たち以外の共同体で信仰し礼拝されている神々の存在を客観的に否定し排除する絶対主義的な意味ではなかったことは確かです。マルコ福音書12章29 , 32節で律法学者の弁として書かれている申命記の「シェマーの祈り」における「エハド」です。しかるに私見では、キリスト教は「唯一神教」であると同時に「三一神教」と言われて然りであり、旧約時代以来、「唯一の(真の)神」は、御子を派遣した御父のみであって、派遣された御子は含まれません(ヨハネ17:3)。ですからこの唯一真神を三位一体の神であるとするのはあくまで一つの解釈にすぎません。しかも明らかにバイアスがかかった偏りある解釈です。
現代神学のガンは、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)ではないかなと思います。北森氏の言う、「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということが「キリスト中心主義」で福音主義的聖書理解を捻じ曲げる原因です。「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提として有限的神を立てる民主神学に利用すべく三一神論に展開するというのは邪道も邪道です。そのような思想は当然ながら非聖書的神話や神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。モルトマンその他、北森神学を高評価する思想も同類です。神は全能であり苦しむことも死ぬことも原理的には可能であってもその必要も理由も無いので、不死不受苦で然りです。
「唯一人不死性を保持し、近づくことを許さない光の中に住み、人間のうちの誰も見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配権力が〔あるように〕。アーメン。」(岩波版〔保坂高殿訳〕テモテへの第一の手紙 6:16)
「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)
「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christo-centrisme)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256頁)
とにかく、バルト神学などの影響で広がった「キリスト中心主義」は極端化すると、神さまはイエスだけでもOK!といった所謂「ジーザス・オンリー」の異端やカルトの「再臨のメシア」にもつながる非聖書的な信仰的立場なのです。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」( 島田裕巳著『キリスト教入門』(扶桑社新書)p103~105)
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
「キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを『神』として 物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への 従属的地位を外す事がなかったのであります。」(小田切信男著『福音論争とキリスト論 』p145)
「キリスト中心主義」は、顕著な形は宗教改革マルティン・ルターの「十字架の神学」の成立によってであるといちおうは考えられますが、遡れば古代教会時代にまで至るようです。その一例が3世紀末頃の話だといわれる『マルケッルスの行伝』の次の文言です。
「七月二十一日に、あなた方が皇帝の(誕生の)祝日を祝っていた時に、私はこの軍団の旗の前で、公に、はっきりと、私はキリスト教徒であってこの軍務に服することは不可能であること、私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみであることを、宣言しました。」(土井健司著『キリスト教を問いなおす』p38)
この宣言によりマルケッルスという人物は斬首刑に処せられるという話だそうです。ここで「私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみである」といわれています。新約聖書の主旨からすれば逆に、「私が仕えるのはイエス・キリストの父なる全能の神」と言われて然りです。少なくともパウロ信仰告白定式ではそうでしょう。ところがこの場合は、重点が「全能の父なる神」ではなく「神の子イエス・キリスト」の方に置かれています。前者の方に重きを置くのであれば、「神の子」という称号は無用になるのです。「イエス・キリストの父なる全能の神」とすれば、その「の」は「血縁・婚姻関係の属格」(織田昭著『新約聖書ギリシア語文法 Ⅲ』〔教友社〕p716参照)ですから、「イエス・キリスト」は自ずと「神の子」ということがわかるからです。いずれにしてもキリスト中心主義的キリスト教は今後、大変革されねばなりません。その障碍となるものが、教会・信条主義的教派であり、その諸勢力です。
<少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)「私を通らずして父のもとに至る者はいない」(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)
ところで、土肥昭夫氏が『日本神学史』(ヨルダン社)の中で、日本のプロテスタント教会では海老名弾正との論争により正統派の代表的人物とみなされてきた、日本基督教会創始者である植村正久牧師について、次のような興味深い指摘をしています。
「植村はパウロがキリストを『神に劣れる者』とした、という。彼は、パウロがコリント人への第一の手紙第一一章で女のかしらは男であり、キリストのかしらは神であるといい、男女の道を説いた個所をとりあげ、次のようにいう。『男女とも類を同じうすといえども、相互の関係より、区別を生じて、道相同じからざるものあり。同類にして本来平等なる人類のうちにも本末の別、従属の関係あるを妨げず。基督の神に於けるまた然なり。彼は真の神格を有し、父と一なりといえども、子たるの故を以て父に従属するところなき能わず。神子は神父を奉じ、これに受け、これに事え、これに従いて、能く子たるの道を行う。孝道これなり』(『植村正久と其の時代』5、三七○ー三七一ページ 傍点ー筆者)。植村は、この論述から、キリストが仕えられる主であると共に仕える僕であることを明らかにしようとした。その限りにおいて問題はない。しかし、彼が父なる神とキリストの関係を男女に関するパウロの倫理や儒教の孝道に類比させてしまうと、オリゲネス派の従属説(subordinationism)にみられることになる。この派はニカイア公会議(三二五)で斥けられた。ところが、植村は、使徒たちのキリスト論は大要においてニカイア信条と一致する、というのである(同上書5、三五五ページ)。」(p42~43)
植村にも異端的要素があったというのは面白いですが、世界的・歴史的にみても、テルトゥリアヌスは従属説的傾向を指摘され、アタナシウスからカール・バルトおよび北森嘉蔵牧師に至るまで様態論的傾向を指摘されている人がいます。正統と異端との差など大してないのではありませんか?現代では正統と異端の違いなどは大した問題ではなく、(島田裕巳氏は区別できないと言われる)宗教とカルトの違いが大きな問題になるのでしょう。
八木誠一氏や野呂芳男氏と親交があり北森氏とは論争して有名になった札幌独立キリスト教会所属の、医師で信徒伝道者であった小田切信男氏ですが、「神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」(『福音論争とキリスト論』p82.p106参照)と述べ、神と神の子との「同(本)質」を認めています。神の子は神と同質だからこそ、受肉しても人とは根本のところで異質であるということです。「神(御父)≒ 神の子(御子)」ということですが、たしかに、「神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」との指摘には説得力を感じます。
ちなみに、立教大学の神学教授で日本基督教団の牧師だった野呂芳男氏は次のように述べておられます。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)
私は、聖書が示す「父、子、聖霊」の関係として「三一」は認めますが、「三位一体」は認めません。すなわち「三一」神信仰は聖書が示す神信仰として認めますが、「三位一体」神信仰は非聖書的であると思います。野呂氏が言っておられることに関連して、古典的三一論において用いられた哲学の「本質・実体」(ウーシア/エッセンチア、サブスタンチア)とか「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)とかいった概念・用語は、聖書が示す神・キリスト論においては認め得ないからです。その野呂氏は、下記のようなことも言っておられます。
新約聖書のキリストは、終末の時に現れる大天使と考えた方がよいのだ。他にも天使たちが新約聖書の中には現れるが、それらの天使たちよりも特別の使命をキリストは与えられている。確かに、実存の視角から見れば、この大天使キリストもわれわれの神に向けられた視線に貫かれているのだから、後から――神によってわれわれに――贈られてきた聖霊と並んで、神・キリスト・聖霊の三位が、われわれを救う業を行って下さる点で一体の行動をとっておられるが故に、実存論的神学のキリスト論はニカイア・カルケドン信条を受け継いでいる。だが、今の私は、神・キリスト・聖霊という三位が、実存と結びつく直線だけでは満足できなくなっている。もちろん、私の『実存論的神学』は、増補・改訂されていない姿においても、キリストが神ご自身であるとは言っていない。本質的にキリストは、神の言葉であると理解している。」…一見、エホバの証人に近い印象を受けます。しかし、こんな発言をなさる人でも牧師を続けられる教会そして教団というものがあり(もっと過激で異端的な考えの人も日基教団なら、少なくとも発言の表面的には昔からいる)、こんな発言をなさる人でも教授を続けられる大学のキリスト教学科というものがある…、それが良くも悪くも現代の日本社会におけるキリスト教(のリベラル派)の実態なのです。
ところで、イエス・キリストを創造主だと主張なさるクリスチャンがおられます。信仰内容は人の自由ですが、聖書解釈としては問題があります。すなわち、この人たちは特にヨハネ福音書1章3節やコリント第一8章6節やコロサイ書1章16節のδιά 「ディア / through」を(誤解とは申しませんが)曲解しているのです。この人たちは翻訳された聖書の一言一句を「誤りなき神のことば」であると信じ込んでいるので、翻訳が曖昧だったり不適切な場合(ここでは「よって」とか「より」)は当然、誤解を生じたり偏った解釈になります。イエスは創造主ではないことを大胆に発言しておられる新約聖書学者もおられます。下記引用。
イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」(~青野太潮氏)http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf         また、青野氏は、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」とさえ指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。
もちろん「従属」と言っても、御子の神としての本質を否定して被造物とみなすアリウス的意味での「従属」説(subordination theory)ではありません。これは「異端」です。ここで言う「従属」は、あくまで御子の神としての本質を認めたうえで、御父との関係については、特にヨハネ福音書パウロ書簡によって「従属」を認め、御父と御子との「一」(ヨハネ10:30他)は実体的同一性ではなく、派遣者と非派遣者との関係における「言」と「業」による作用的同一性であることを主張するものです。
以下は、北森嘉蔵氏の三一神論の引用です。
「アタナシウスの神学的主題は受肉者の問題であった。イエスが『人と成れる神の子』であると告白せられる時、この受肉者なる神の子と父なる神との関係が、その主題を形成した。受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。しかしアリウスにおいては、この『神の子』は父なる神と別の存在であると言うだけで、端的に父なる神の外にあるとせられる。この『外』ということが『神の子』の被造物性である。(中略)たしかに『神の子』は『神』とは別の存在である。しかし、この別の存在たるままで、彼は決して端的に『神』の外にあるのではない。『神の子』は受肉者の存在において『神』とは別の存在でありつつ、しかも決して端的に『神』の外にあるのではなく、『神』の内にある。別であってしかも内にあると言うことが、『本質を同じくする』(ホモウーシオス)という事である。『神の子』は受肉者のままで『父なる神』と本質を同じくしている。今日我々が最も重視すべき点は、受肉者のままで本質を同じくするという点である。受肉者たる限り『神の子』はあくまで『神』の外なる別の存在である。しかもこの存在は受肉者のままで神と本質を同じくしている。この点がアリウスをして決定的に躓かしめた点である。」(『今日の神学』〔日本之薔薇出版社 1984年版〕p29~31)・・・「受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。」と言う点が重要。御子が神の本質を有つことを認めるか認めないかの違いであって、「神そのものとしての父なる神」と「受肉者」である御子イエス・キリストとの関係が「御父 > 御子」という、内包と被内包という一種の従属性を示していることを感じるのは私だけではないでしょう。ちなみに北森氏は、「受肉者が神の外なる存在でありつつ神と本質を同じくしたごとく、十字架もまた神の外なる出来事でありつつ、神の本質にかかわっている。この『外』の契機こそ神の痛みの神学をいわゆる『父神受苦説』(Partripassianism)から区別するのである。父神受苦説においては、受肉者ないし受苦者は『父なる神』の外なる存在ではなく、端的に神の内にある」と言っているが(北森著前掲書p32~34)、野呂芳男からみれば、北森氏の「神の痛みの神学」も広い意味では「父神受苦」説(論)になるのだと言う。
「北森教授は『父神受苦説では、十字架上で苦しみ死んだのは、父なる神自身であったとされるが、モルトマンの場合には、十字架上で苦しみ死んだのはみ子であり、み父ではない。そのみ子の死を、生きたもうみ父が痛みとして苦しみたもうのである。モルトマンの表現でいえばそれは父神受苦論 Patripassianismus ではなく、父神共苦論 Patricompassianismus である』と言っておられるが、既に検討してきたところから明らかなように、少くともテルトリアヌスによれば、モルトマンの言う父神共苦論も父神受苦論であったと言わざるを得ないであろう。」(~「今日における神観の一問題」)
野呂芳男氏によれば北森氏の神学的立場は広義の「父神受苦説」であり、また神の「内」とか「外」とか言うので「遍在」の教理にも反するという。「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書17:3 岩波版 小林稔訳)
この箇所では1節からの筋をふまえれば、「あなた=イエス・キリストを遣わされた方」こそが「唯一の真の神である」とされ、その御父と御子とを知るようになることが「永遠の命」と言われていることは明らかであるのに、ワンネスのキリスト中心主義者はこれを無理に解釈して、「唯一の真の神」とはキリストのことだと言います。また、正統主義者は後代に成立する教義を読み込んで、「唯一の真の神」は「三位一体の神」だなどと主張します。しかしどんなにこじつけても無駄であることは、内に聖霊が住む者であるならわかることです。同じヨハネ福音書が、5章24節その他で御子自身が御父との関係を派遣者と被派遣者…「遣わした」者(御父)と「遣わされた」者(御子)として証言しておられます。御子を派遣するのが「三位一体の神」ではなく御父であることはヨハネ福音書において御子が証言しておられることなのです。
「しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」(コリント人への第一の手紙8:6岩波版 青野太潮訳)
創造主は父なる「神」のみであってキリストは創造の「仲介者」なのです。万物はキリストが造ったのではなくキリストを通して造られたのであり、ここでの前置詞「ディア」(~によって)は媒介の意味です。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いても、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴として「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています。
以下、他の関係個所を引用。
「もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネ14:28 聖書協会口語訳)・・・御子は御父に対して尊敬しておられることがこの「わたしより大きい方」という表現から示されます(『日本語対訳ギリシア新約聖書』(教文館)での川端由喜男訳では「父は/私より/もっと偉大で/ある(から)」(①ホ パテール/③ムー/②メイゾーン/④エスティン)※数字は原文の並び順。「メイゾーン」は「メガス」〔形容詞:「大きい」の比較級で、程度が「大きい」、地位・身分等が「偉い」その他〕)。この「大きい」という意味には当然、子として父を敬う自然な感情が表わされているとみることに何ら問題はありません。人間的との批判は当たりません。そもそもが聖書は神を(人格的とは言え事実上、研究者から指摘されるとおり)擬人的に比喩しているのですから…。御子であるイエスが御父であるヤハウェを敬うことは、十戒に「汝の父母を敬へ」とあるとおりです(「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」〔出エジプト記20:12〕※前半部分の岩波版 山我&木幡訳の訳は「あなたはあなたの父と母を重んじなさい。」となっており、「重んじなさい」の注は、「原語カッベードは『敬う、尊敬する』とも訳せるが、もとになっている動詞が『重くある』(カーベード)なので、こう訳した。」云々とある)。我々は御子イエスに倣い御子イエスと共に御父を尊敬するという信仰態度が促されていると言えます。御子イエスに対しては尊敬というより御父の栄光を現すための信仰実践の範としての敬愛ということで、御子イエス御自身も「わが神」と言って賛美なさる相手の御父に対する存在論的な尊敬とは意味が違うと言えます。そこに優劣をつける必要はありませんが、このような尊敬の違いを無視して、単に「同等」だと言うのは事実上、御父を後衛に退かせ御子を前衛に立てようとする御子中心主義にほかなりません。それは結局、御父よりも御子を敬っていることになり、聖書的神信仰としては誤っていると言わざるを得ません。注目すべきは、このヨハネ14:28の「より大きい(かた)」と訳された「メイゾーン」という形容詞(「大きい」とか「偉大な」を意味する「メガス」の比較級)は、第一コリント13:13でも使われており、(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」というところで「最も大いなる(もの)」と訳されているということです。その点で、「神は愛なり」(第一ヨハネ4:8 , 16)とつながります。無論、この場合の「神」は「三位一体の神」ではなく、「父なる神」を意味します。御子より偉大であり、すなわち最も偉大なるものは御父であるということです(主イエスは、「けがれた霊」との対照ではあるが冒瀆という観点で聖霊を最上位としている⦅マルコ3:28~30、並行箇所⦆)。
ちなみに第一ヨハネという文書は仮現論的キリスト論という異端への反駁を目的として書かれたと云われていますが、ローマ・カトリック教会ではこの文書の5:7~8に関して、写本を捏造してまで三位一体の根拠にしようとしたという「コンマ・ヨハンネウム」というものがあります(詳しくは、田川建三著『書物としての新約聖書勁草書房p417~418参照されたし)。こういう正統主義者たちに対しては、恥を知れ!って感じです。
「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 岩波版 青野太潮訳)
『岩隈直聖書講解双書 4 』(キリスト教図書出版社)では、23節「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」について、「正しい位置づけ」云々というちょっと意味不明な解説に続き、「それに更に『キリストは神のもの』という句を追加した(実際はなくてもよいもの)のは、『考えを神に迄遡らせる彼の性向(一一3、ピリ二11、ガラ一4、5等)」(キュンメル)によるもので、特別の意図があったのではあるまい。唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方(ロマ一一36)の現われで、彼によればキリストも子として神に従い給う(一五28。なお八6、ピリ二10、11等参照)。」と記している。ここでも「(実際はなくてもよいもの)」という補足的挿入句の意味が不明であり、当然のことだから言わずもがなという意味なのか、それとも岩隈氏もしょせん御子キリスト中心主義的信仰立場のゆえに、「キリストは神のもの」ということを軽視しているのか、よくはわかりませんが、とにかくパウロが「唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方」は、パウロ個人の特性として自分たち信徒にとっては関係ないといった考えで述べておられるなら、これも偏った内容の記事ということになります。むしろパウロ的神中心主義的唯一神信仰を我々も学び、体得すべきだと言って然りなのです。織田昭氏の『新約聖書講解集 第一コリント書の福音』(教友社)での23節「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」については、「パウロの使う例えは、時々乱暴なくらいです。パウロやアポロをやたら有難がるな。神様が君たちを所有しているのと同じに、君たちの方がパウロを所有し、君たちの方がアポロを所有していることを忘れるな。君たちの輝かしい未来と命は、十字架で死なれたキリストの中にある。死から復活されたキリストの中にある。そのキリストだけが、あなたを所有して自由にお用いになる。本当は聖なる神御自身がキリストを用いて、そのパウロなり、アポロなり、ケファなりを、道具として(「道具として」が不適切なら、「聖なる器として」)君たちに下さっているのだ。“偉い人”としてでなく、また、あてにできる“知恵者”としてでなく、神様の御意図を受け止めて、フルに利用できねば、意味はない!「人の命も、人の死も、神の賜物として大事にせよ(:22)。」云々と記しておられ、私にはこちらも意味がよくわからない面がありますが、「所有」という言葉を用いておられる点は重視されます。すなわち、我々が御子キリストに所有されるのと相似的に、御子キリストもまた御父に所有されておられるということです。
「しかし私は、すべての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(Ⅰコリ11:3)・・・御子キリストが御父の所有において限定されているということを私は「ゲッセマネの祈り」にみるのです。
「アバ父よ、父には能はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど我が意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給へ」(マルコ14:36 文語訳)・・・要するに「我が意」が「御意」によって限定されているわけで、ここに御子の御父に対する服従の態度が明らかに表わされているのです。

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(Ⅰコリ15:28)・・・普通に解釈するなら、終末には神が特別啓示を中心とする自己限定を解いて、御子が御父から任されていたこの世の主権を御父に返上して三位一体関係は本源者である御父に帰一し、すべての被造物は創造主である御父の絶対主権の下に収斂されて刷新し、唯一者および全一者としての神が支配する御国が実現するということになります。「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、我々被造物に対して「唯一神」である三位一体としての絶対性を示されてこられた神が、終末においては「全一神」である御父としての絶対性を示されるという解釈も成り立ちます。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。< 神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。> 
聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
※「従わせられる」(ヒュポタゲー),「従わせられるであろう」(ヒュポタゲーセタイ),「従わせた方に」(ヒュポタクサンティ)の原形の「従う」(ヒュポタッソー)は「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(配置する)で、織田昭氏の小辞典では「(元は《 軍隊用語 》指揮下に従属させる)下位に置く,服従させる,屈服させる,従わせる」とあり、岩隈氏の辞典では「屈服(従属)させる,従わせる」とあるとおり、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられる」ということはまさに本来、御子は御父に従属する関係にあるということです。
「人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」(小高毅著前掲書p118)
ルカ福音書には「神のキリスト」という表現があります(ルカ9:20,23:35)。これも「神の」という所有,所属の意味があります。 荒井献氏は「神に従属する『神の子』」(『イエス・キリスト 上』(講談社学術文庫1467)p182)と言っておられ、「この表現には、キリストとしてのイエスが、あくまで『神の器』として神に従属するというルカ自身のキリスト論が反映している」と書いておられます(『イエス・キリスト 下』同上、p349)※「この表現」とは、ルカ福音書におけるペトロの信仰告白である「神のキリスト」です。
ちなみに、かつては荒井献氏などと肩を並べる最先端の新約聖書学者であり、のちに宗教哲学へと移行した八木誠一氏は次のように述べておられます。「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)
さらに、宗教哲学者の花岡(川村)永子博士は次のように述べておられます。「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。」云々(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )
「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 岩波版 保坂高殿訳)
以上のように思いつくままに父子従属説を支持するような聖句を挙げてみるだけでも、そういう箇所はたくさんあります。特に「同等」の三位一体論を主張する正統ゴリゴリ主義者が、正典中の正典の如く何かにつけて引用するヨハネ福音書も、その父子関係の従属性をイエス自身の言葉として明示しているのです。例えば岩波版(小林稔訳)5章19節と30節「子は父が行なうのを目にする以外、自分からは何もできない。つまり父が行なうことであれば〔なんでも〕、子も同じように行なうのである。」「私は私自身からは何もできない。聞く通りにさばく。そして私のさばきは義しい。私が自分の意志ではなく、私を派遣した方の意志を求めているからである。」・・・この両節の間には、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。」(23節)という言葉があって、言わば父子相愛関係が前提にありますが、イエス自身が再臨する終末の時をイエス自身も知らず御父のみが知っておられる(マルコ13:32/マタイ24:36)という言葉など、あまたある神中心的聖句を踏まえてみれば、その相愛関係にも父子としての一定の秩序…従属的な性格が認め得ると思われます。父子はあくまで比喩ですが啓示であって、選民社会の父子関係が神の父子関係の理解に反映することも神の御計算のうちだとみることは信仰的に可能です(旧約ではアブラハムとイサクの父子関係や、新約では「放蕩息子のたとえ」などにおける父子関係の比喩が参考になります。そこで見られる父子関係には愛情はありますが完全同等などではありません!また、信徒自身の置かれている環境での類比もあり、日本では植村などプロテスタント教会の先駆者には武家の素養としての儒教的父子関係の類比があった)。だから正統主義者が、三位一体における父子関係には従属性など全く無い…完全同等だ…などといくらいろんなこじつけをして主張してみても、私はけっして父子同質かつ従属関係(=父子同等の否定)の確信が揺らぐことはありません。何故、正統主義者が三位一体における「同等」にこだわるのか?言うまでもなくその理由は「唯一」との論理的整合性でしょう。従属では三が「同質」ではあり得ても「一」なる神ではあり得ないということです。しかし「三一」の「一」は「同質」の「一」であって「唯一」の「一」とは区別されます。旧約時代は「唯一」ですが新約時代は「三一」なのです。旧約から新約にかけて一貫している「唯一」とは主なる神の存在が他の神々の存在を排除して「唯一絶対」という意味ではなく、本来、「シェマの祈り」における「唯一」(エハド)は拝一神教を前提とするものであることが歴史的事実だとされているので(従って、神の主権の絶対性も普遍・客観的な意味の「絶対」ではなく、あくまで選民にとっての共同主観的意味での「絶対」性)、それは主なる神とイスラエルの民との実存的関係の「唯一」性なのです。だから「唯一」と「三一」は論理的に矛盾しないし、「三一」ということは三者が「同(一本)質」という意味であって、その「三一」において父子関係が「同等」ではなく「従属」関係にあるということも整合するのです。山田晶氏は『アウグスティヌス講話』で次のように語っています。
ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば『根源の根源』と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが『それを通して』御父に到るべき『道』となり、聖霊は、『それにおいて』われわれがその道をすすむことのできるいわば『光』のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。」
・・・この山田氏の文言でおかしな点は特に次のところです。「プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがあります」・・・たしかに「プロティノス」の直線と、東方教会の「至聖三者」の直線とは、「人格神」か否かという点で内容的な違いがあります。しかし両方とも「下降」的方向性はあります。すなわち御父を「本源」とか「根源の根源」と言われている以上、そこから生まれるとか発出するとかいわれる御子や御霊との関係がまったくフラットであるとして比喩されることはおかしいからです。「従属」と同様に「下降」という表現に違和感があるなら、もっと他に適した表現があるとすれば…ですが(おそらくは無い)、すくなくともある程度の勾配は認め得ると思います。そしてそのような考えがアリウス説と根本的に異なる点は、要するに御子を御父と「同(一本)質」と認めるか否かにかかっているのです。アリウスは御子を被造物としたからです。
御子は被造物ではないという理解は自分も同じです。ただキリスト教会は三位一体の教義をこの第一コリント15:28でも読み込み、教義では三位格は「同質」かつ「同等」であるということになっているので、「御子も御霊も父から出る(た)」ということについてもいっさいの順位的関係は認めません。しかし、第一コリント3:23や11:3、ヨハネ5:18~19(…18節で「自分を神と等しいものとした」というのはユダヤ人たちがイエスに対する誤解であり、これを事実として口語訳のように「自分を神と等しいものとされた」などと訳してはならない。「神を自分の父と呼」ぶことは「自分を神と等しいものと」することにはならないから。「同質」の参照聖句にさえ必ずしもなり得ないのに、ましてや「同等」の参照聖句になんぞなり得ない!)や5:22や5:43や6:27や14:28や17:3なども参照すれば、まったくの「同等」とは必ずしも言えないわけで、むしろ優劣ではないにせよ従属的関係性を認めて然りだから偉大なるオリゲネスもそうでした。 これに対して、御子と御父との一体を示すヨハネ10:30や14:9などを挙げるのが正統的立場の常ですが、これらも必ずしも御父と御子との実体的意味の一体を意味するとは言えず、むしろ後続の14:10に「言」(レーマ)と「業」(エルゴン)があるとおり、ことばとわざの意思とはたらきの一致としての一体を意味すると読めます。ここで再び、野呂芳男氏の言葉を引用します。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。」
御父と御子との関係については、「従属」という用語が適当ではないと言っても(第一コリント15:28の「ヒュポタゲー」〔従わされた〕、「ヒュポタゲーセタイ」〔従わせられるであろう〕、「トー ヒュポタクサンティ」〔従わせた方に〕の「従う」〔ヒュポタッソー〕は「服従させる、従属させる」の意味あり。第一コリント3:23でキリストは神のもの〔クリストス デ セウー〕と言われているのだから)、御子が所有する能力、権威、栄光も御父から委ねられたもので、終末にはお返しすべきレンタルもの。となれば御父の方が「大である」(メイゾーン)という意味は、観念的「同等」を許さない「大である」意味がある。
「み子と聖霊に見られる性質と力も、父なる神のものである。」
https://adventist.jp/この教会について/信仰の大要/父なる神/
御父と御子との関係を上下優劣のようなニュアンスを避けていろいろ言ってみたところで、要は「同等」ではないということです。そこには何らかの身分的地位の秩序があります。役割と言ったって職位的で上下関係は出ます。だから繰り返しで恐縮ですが、「本源」である御父が御子および御霊との直線的関係において全く勾配が無いなどということは比喩として言えませんので、その点では東方教会の「至聖三者」の直線関係の理解も問題となるでしょう。
私は、訪問先の教会で日曜学校教師のおじさんの話しを聞いていましたら、キリストが神からすべてを託されて、とにかくキリストがすべてのすべてであるかのようなことを言われました。おそらくこのCS教師の頭には、キリストの高挙(エペソ1:20~21、ピリピ2:9~11)及び全権授与(マタイ28:18)は入っていたのかも知れないが神帰一(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)は入っていなかったのでしょう。たしかに神はキリストに全権委任されました。
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 」(エペソ1:20~22 聖書協会口語訳)
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 」(ピリピ2:9 同上)
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 」(マタイ28:18 同上)
しかしそれは終末までです。終末はイエス・キリストの再臨によって来るのですが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する「従」たることが明示されています。
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(コリント人への第一の手紙15:24~25 岩波版 青野太潮訳)
キリストは終末において神に御国を渡します(パラディドー)。ピリピ書での「主イエス・キリスト」告白も「父なる神の栄光のため」なのです。従って「きたるべき世」でのキリストの上位も、あくまでも(父なる)神に及ぶものではありません。そこには御父と御子、神と神の子との主従関係の秩序が横たわっているのです。
この点を明らかにしているのが『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントです。コリント第一 3:22~23の注解の中で次のように述べています。
「集会は、万物に対する支配を自分の手に持つのではない。むしろ集会自体がキリストの所有である。ただキリストから、キリストを通してのみ集会はこの世を支配し、死に勝つということが言われうる。(中略)さらにこの自由と拘束の相互関係は、キリストの神に対する関係についても同じく言われる。キリストは集会の主(一二3以下)であり、世界の主(ピリ二9以下、コロ一15以下、二15)であるが、彼がこの力を持ち、かつキリストとしてありたもうことは、ただ神によって神のためにのみである。いまやパウロの思想の力一杯の高揚は、集会のものであって同時にキリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」(p77~78)
「人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云います。考え過ぎはメンタルヘルスにとってよくありません。程々なら精神安定に益する教理的思弁ですが、内在の聖霊によって程々のとことで判断停止(エポケー)して心を落ち着かせることが肝要です。

 

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(補足的追記)
上記のとおり、私は、聖書における御父と御子との関係に「従属」を認める立場ですが、現実問題として既成教派のどこかを選択して所属しないといけないので、そのためには実務的ではあれ、自分は『ウェストミンスター信仰基準』における三位一体に関する教説に同意することが要件となります。そこに矛盾が無いようにするには、御父の自己限定において御子と「同等」になられたという解釈(…自分では「神の『同等』の自己限定」と呼ぶ)に立つのです。本来というか原事実的には、本源者である御父と生成者である御子との関係は、世の終末における御子の服従(コリント第一15:28)に象徴的に示されているとおり「同等」ではないのだけれど、絶対創造主の聖定は自己限定としての啓示を中心としており、御子キリストに世の主権を委ねられるがゆえにアガペーをもって「同等」になられたのだ…といった受け入れ方です。無からの天地創造は三位一体のみわざではありますが、「創造主」は御父のみです。本源・絶対の非対象たる創造主はアガペーにおいて絶対性に固執しようとはなさらず、すなわち御自身を唯一絶対化せず、御子と聖霊との関係における御父として…歴史的にはイスラエルの神ヤハウェとして、ひいてはイエスとその弟子たちの父なる神として自己相対化(=自己対象化)なさり、神学的には人格的存在として擬人化を許容するほどまで自己限定することによって、人間に対して啓示なさったのだと考えます。このように私自身、正典的聖書解釈から「従属的三一神信仰」の徒たるを標榜しながら、あくまでも改革派信仰の徒として基本信条に根差すウェストミンスター信仰基準に則って自己矛盾なしと言い得るためのキーワードが創造主の「自己限定」…「神の『同等』の自己限定」なのです。もちろん「自己限定」という用語は西田哲学からの影響も否めません。

ご参考までに、解説文から引用します。「対象化されないもの、形象化されないものは、『無』という言葉であらわされるが、それは存在しないもの、非存在というわけではない。むしろこのようなものこそ真の意味で存在している、と西田は考える。なぜなら、それは自己を限定することで有としての個物を産み出すわけだから、有の根拠をなすものとして真の実在といえるわけである。」(~「知の快楽 哲学の森に遊ぶ」の「絶対無の自己限定:西田幾多郎の思想」)https://philosophy.hix05.com/Nishida/nishida10.mu.html

ヨハネ福音書では特にイエスは神から派遣された仲保者であることが強調されており、10:30や14:9などはそのことを前提として解せば、一般的に云われるような父と子との実体的同一性を意味せず、「言」と「業」の作用的同一性を意味することは明らかです。御子は御父と同じ神の本質を有しておられますが、御父との関係は主と従に区別される旨を御子自ら証ししておられることをヨハネ福音書記者が特に強調し、もちろんパウロもきっちり伝えていることです。ところがそのような聖書の標準的な箇所を軽視して神秘主義的解釈を施し得るような箇所ばかりを引用したがる立場がキリスト教の中にあるわけです。
パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)
「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)
日本でパウロ研究の第一人者とも云われる新約聖書学者さんも上記のように発言されているほどに、「父子従属」は聖書を素直に読めばわかることです。「簡単にいへば、キリストは神の子と呼ばれることにより、幾分従属的位置にある神的実在として立てられたのである。この従属的位置は例へばパウロの書翰の数箇処に見える(ロマ一五・六、コリント後一・三、なほコリント後一一・三一、コリント前一・三参照)「我らの主イエス・キリストの神また父」(中略)といふ語によっても明かに示される。(中略)従ってギリシア哲学思想の影響の下に立った神学的思索をパウロにおいても発見する。即ちキリストは神に対しては神の像(中略 コリント後四・四、コロサイ一・一五)、その見るべからざる本質をみるべき形に表現したる啓示者である。」(『波多野精一全集 第二巻』〔岩波書店〕p384~385)
要はその「従属」が「質」的従属まで言われているのか?それとも「関係」的従属にとどまっているのか?ということであって、前者はアリウス系の「異端」とされた立場です。つまり神性という本質をも従属とみなして、御子を被造物とすることになるからです。しかし東方正教会の司祭さんも認めておられるとおり後者は「異端」ではありません。御父と御子および御霊の三一神における「関係」については、本源者とそこから生成した者という従属性があります。改革派神学の方では、これを「職務的従属」と呼んでいる人もおられます。
「本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。」minoru.la.coocan.jp/kokuhakukaisetu2.html                アリウスとアタナシウスとの違いは父子従属ではなく、御子を被造物とするか神とするかでした。アタナシウスは御子を神と信じつつも御子が御父をご自分より偉大であると言われたことを重視し、御父を本源者として、質的従属は否定したが、関係的従属は否定しなかったのです。ところがアウグスティヌスになると後者まで否定して、それが西方神学の神論の基本になります。三一神信仰の見方は、東方教会は直線的、西方教会は三角形的です。

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(修正前の旧文)

私は、プロテスタント教会に属する一信徒であり、聖書にもとづいてイエス・キリストを「主、神」の本質を有つお方として信じ告白しますが、いわゆる「創造主」であるとは信じません。無からの天地創造は父と子と聖霊の三位一体なる神のみわざでありますが、「創造主」はあくまでも御父のみです。しかし伝統的には御子も造り主だと信じられています。その根拠とされるヨハネによる福音書1章3節やコリント第一の手紙8章6節やコロサイ人への手紙1章16節における前置詞「διά / ディア」の解釈については後述します。                                  いずれにせよ人格神信仰は神の擬人化に陥りやすいので、人格神と非人格神との中間的な(…半人格神とでも言うような)信仰の在り方でないと実際的ではありません。八木誠一氏の言われる人格主義的場所論の立場とも少し違うようです。また、「創造」といった場合にモルトマンが提起したような「継続的創造」だとか、アウグスティヌス以来の「外」(extra)からの創造では飽き足らず「撤退」だの「収縮」といったカバラ神秘主義的概念を用いて形而上学的思弁を弄するような説には関心ありません。創造主なる神すなわち主イエス・キリストの御父こそ「唯一の真の神」(岩波版 小林稔ヨハネ17:3)なのです。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)
その意味で私の聖書にもとづく神信仰は「従属的三一神信仰」ということになります。これは、正統主義的キリスト教の立場から見れば、古代教会時代に異端とされたオリゲネス的従属説に近いとみなされるでしょうが、自分としては、聖書に基づいて検証するならば特に問題ないと思うし(オリゲネスの万人救済説などは問題あり!)、それどころかむしろ信仰のあり方としては当然であるとさえ思っています。そして後述の通り、現代ではオリゲネスを異端視していない神学者が少なくないのです(自分は従属説以外のことについては、オリゲネスの聖書的異端性を必ずしも否定はしません)。
「正統の観念そのものが時とともに変わらざるをえない。もしキリスト教徒の大多数が処女降誕を否認するようになれば――否認する信者の数は殖えつつある――否認することが『正統』になるだろう。この点は教会史が証明済みだ、と言うこともできよう。ある時代が正統とみなすものを別の時代は異端と定める。その逆も真である。たとえば偉大なキリスト教思想家の一人オリゲネス(一八五 ― 二五〇)の教えは多くの点で驚くべく独創的であり、かれの生前には正統と認められていたが、四、五、六世紀には激烈な論争をひき起こした。かれの教義のいくつかは、アレクサンドリア、キュプロス、エルサレムの教会会議で、また(これは異論のあるところだが)五五三年のコンスタンティノポリス公会議でも異端の宣告を受けた。ここから、知識の進みが今日よりずっとゆっくりしていた、今から一四〇〇年前に正統の根拠が変化したのであるなら、われわれをとりまく宇宙について毎週のように新しい情報が伝えられる今日、正統の根拠が変わってはいけない理由があるのか、という疑問が生じる。」(D. クリスティ=マレイ著 、野村美紀子訳『異端の歴史』⦅A History of Heresy⦆〔教文館〕p15)
「オリゲネスの神学において(中略)主な欠点は次のとおりである。
一 オリゲネスは子が父と同じ本質を持っているということを正しく認めているが、父なる神について言われているすべての属性、たとえば全知などが子にも同じようにあてはまるかどうかに関して、時として疑いを示し、また、父が『神性の泉』である故に持っている優位を過度に強調するのである。 
二 オリゲネスは、父と子について論ずる時に、まだ、『対他性 relatio 』という概念を用いておらず、したがって父と子の一致をも、また子が父の本質から誕生することと被造物が無から創造されることとの相違をも十分に説明することができない。彼はこの相違を説明するためには、次の四点を指摘している。すなわち、(一)子と聖霊のみが永遠であり、すべての被造物は時間的始まりを持っている。(二)子のみが不変的・実体的に善であり、被造物はその善性を失いうるものとして自由に保有しているにすぎない。(三)子のみが父ひとりから生まれるものであり、すべての他のものは子を通して父から出るものである。(四)子のみが父の善性のすべてを持ち、被造物はいずれも部分的にのみその善性にあずかっており、父のみ旨のすべてを果たすことができない。以上の四点は正しいとはいえ、父と子のユニークな関係の問題を十分に解決しているとはいえない。したがって、オリゲネスの後にも父と子の関係に関する神学になお多くの解決すべき問題が残されていた。そこで、神の子キリストに対する信仰の理解について、四世紀の初めに大きな危機が起こった。それは、アレイオス(アリウス)が引き起こした運動であった。」(P. ネメシェギ著『父と子と聖霊 ―三位一体論― 』(南窓社)p125~126)
「子のみが父の善性のすべてを持ち」云々と言われているのは、善性は本来的に御父が所有しておられたことを示します。御子イエスはマルコ福音書10:17以下の箇所で、ご自分を「善い先生」(以下、岩波版 佐藤研訳)と呼びかけた「富める男」に対して、18「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」と言われて、神の属性である善性を「神お一人」(ここでは御父を指す)に帰して栄光を讃えています。その御子のありさまを受けとめる以上、我々も御父にこそ「善い」(ἀγαθός / アガソス)という神としてのご性質を拝し賛美して然りでしょう。ここにも御父と御子の従属的関係が表わされています。
「オリゲネスは、神の独り子の永遠の誕生、先在のキリストの魂を神と肉体の結び目として神人が生まれたことを論じ、いわゆる『本体論・存在論的キリスト論』を展開し、以上でみたキリスト教の諸相[エピノイア]を通して、いわゆる機能論的なキリスト論を展開しているが、その根底にはギリシア哲学からのロゴス概念の借用がある。それは、キリストの多くの機能の総括的な理解を可能にしたが、子なる神を父なる神の下位に置く従属説的傾向に陥る可能性を含んでいた。オリゲネスは神の像の神学並びに父と子の意思の完全な一致をもってそれを超克しようと試みる。(中略)キリストを信じる者、聖なる者、聖書を霊的に理解する者、完成の域に達した者の内には、実際に現実の力としてロゴスである神の子キリストが存在するのであるが、キリストを知らない者、信じない者、文字にとらわれている者、まだ完成の域に達していない者の内には潜在的な力として存在するのである。こうして、人はロゴスの様々な相[エピノイア]によって導かれ、その内にキリストが形造られ、御子の像と同じ形にされていく――ロゴスは神の子らの原型――のである。これを成し遂げるのは人の内に宿る『キリストの霊』である。そして、完成の域に達した者には、その人の心に、聖霊によって神の愛が注がれ、その豊饒な愛によって神の本性にあずかるものとされる。この愛によってのみ、人はもはや罪を犯し得なくなるのである。こうして、人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」
(小高毅著『オリゲネス』〔清水書院/新装版 人と思想 113〕p117~118)
「私はあく迄も『祈禱論』を中心として、之に爾餘の著書からの言葉を参酌することによって、祈禱の問題についてのオリゲネスの立場及び思想を学ぶことにしたいと思ふ。そこで此の書について先づ一言しなければならないが、この書はラテン譯によらずギリシア原文の儘で今日まで保存されて来た一事を感謝を以て特筆しなければならない。何故それがラテン譯にならなかったか、それは恐らく其の中に於ける若干の思想が後世に異端的と映じた故であらうと云はれてゐる。例へば、その第十五章に、祈りは父なる神にのみ捧げらるべきもので、御子に對して捧げらるるべきものでないと教へてゐるが、是は後の完成せる正統主義の三一神論から見れば明かに異端である。(中略)オリゲネスの著者の多くはルフィヌスの、正統主義的に補足せられた飜譯を通じてのみ傳はってゐるので、之によってはオリゲネス思想の眞相を捉へることが困難な場合が多いからである。(中略)
『祈禱』(プロセウケー)に至っては、キリストにさへも献げらるべきものではなく、たゞ『萬象の神また父』にのみ献げらるべきものである。何故なら、キリスト御自身も亦この神に對してプロセウケーを捧げたまうたのである。又彼自ら、『祈ることを我らに教へ給へ』との請に對して弟子たちに教へたまうた祈りは『天に在す我らの父よ』との祈りであって、己に對するプロセウケーではない。何故であるか。それは御子は御父とその本質を異にしてゐる故に(中略)御父にさゝぐべきプロセウケーを同時に御子に捧げることは出来ないからである。かゝる御子従位論が後世異端の烙印を押されて、それがオリゲネスの著書に非常な禍を齎したことは既に述べた通りである。」※「…同時に御子に捧げることは出来ない」理由として注に書かれているのは、「一、それは祈禱の對象を複数にすることであり、その事はそれ自體として不適當である(中略)。二、聖書にかかる類例を見出し得ない。」。(有賀鐵太郎著『オリゲネス研究』⦅全國書房 昭和21年12月20日発行⦆p49~50、70~71、133)
「彼が『父』と『子』との差別、及び御子の従位を強調した事のために、後世の神学者たちはオリゲネスが御子を被造者と呼んだ事を彼の異端を非難する一つの理由としたのである。何故なら之こそは方にアレイオス(アリウス)の所説であったからである。然しオリゲネスのロゴス論の本質的性格はその永遠生誕説に於て見出さるべきものであって、御子被造説をその核心と見做すことは誤である。ケッチャウの原文並びにバッタワスの英譯(三一四頁)を見よ。」(同上 p508)
「オリゲネスの思想の根本にはプラトン主義的二元論(この世界の成り立ちを【可視的・時間的世界】と【不可視的・非時間的(永遠の)世界】と二つに区別して論じる考え方)があり、それを土台にして御子の生誕を考察し、御父による御子の生誕を不可視的・非時間的(永遠の)世界での出来事として論じました。そうすることによって、例えばユスティノスのキリスト論に見られるような、御子がお生まれになる前には御子は存在しなかった、という従属説的な理解の問題の克服を図り(永遠の世界での御子の誕生においては、誕生の前に存在しなかったという時間的な思考は当てはまらないから)、それによって御子の神性を強調しようとしました。ですからこの点を見るならば、オリゲネスは御父と御子の神性の同質性の理解に近づく議論を展開した人だと言えます。 しかし他方でオリゲネスは、二元論的な思考を創造のみわざにおいてもあてはめて、可視的・時間的世界で神に創造された被造物は、それに先立って永遠の世界において肉体を持たない魂として神に創造された、と主張しました(この被造物の永遠性の主張もまた、オリゲネスが異端宣告される理由の一つになっています。ちなみにオリゲネスがそう主張した意図は、被造物を神格化したかったからではありません。神が創造することによって創造者になられたのではなく、神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えたのです)。こうして御子の生誕の永遠性だけではなく、被造物の創造の永遠性を主張したために、後代になって御子と被造物の本性における区別があいまいであることが問題視され、そのために従属説的だと判断されました。」(~某牧師への質問の返答)
私は職業神学者ではないので曲解や誤解もあると思いますが、このまま話を進めさせて頂きます。ニカイア信条の「(主は)独り子である神の子、すべての時に先立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでは なく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」といった信仰の思想的背景には、「パンタ・レイ」(万物流転)のヘラクレイトスにまで遡る生成・変化の思想があったとも云われています。直接的には新・プラトン主義の創始者と云われるプロティノスの思想の影響で、運動の視点から神についても考察されたのであり、御父を本源として御子、聖霊が生成し発出する三位一体論もそのような観点で捉えないと見当違いになるのでしょう。まさしく聖書が示す神の存在は現代神学のE・ユンゲルが言うように生成においてあるのです。但し、唯一の真の神である御父だけは本源なので、その生成・変化の運動に巻き込まれることはありません。そこが御父と御子や聖霊との根本的な違いです。
「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6岩波版 青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、御父は生む者・本源者であり、御子は生まれる者、聖霊は御父から御子を介して発出する者です。これは、御父と御子と聖霊との主従関係を前提とするものであり、その場合の「従」とは、創造主と被造物との関係におけるそれではなく、本源者と生成者との関係におけるそれです。これはアタナシウスも認めるところであったと認識しています。或る正教会の司祭によると、以下のとおりです(私信なので許可を得ないと名前は出せません)。
< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」ではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>・・・「関係」は「神性」と対置せず、御父と御子との「関係」が「同等」か「従属」(的)か…という判断なので、後述のように御父と御子との関係における神としての「同質」すなわち神性の「同等」を認めたうえでの「従属」は「職務的従属」と言われ、「力と栄光」についても御父と御子は「同等」だと言うのですから、実際は「従属」関係とは言えないような関係です。私は「同質」を認めたうえでも「力と栄光」については「従属」的な関係にあるという立場です。しかし東方教会であれ西方教会であれ、正統であることを自認する教会においては「力と栄光」も御父と御子とは完全に「同等」なのです。後に引用する矢内原氏の文言にあるとおり、御父と御子との関係において大小の区別があるとしてもそれは生む者と生まれる者との違いにすぎず、「能力、権威、栄光等の大小」には当たらない…というのが東西の教会に共通した正統的見方であるとは思いますが、私は「大小」を言う以上、「能力、権威、栄光等」についても御父が御子より上であると信じます。これが私の「従属的三一神信仰」の再発見なのです。 後で引用する『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントのコリント第一3:22~23の注解の中で、「キリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」とあるとおり、御父が唯一の真の神として「力と栄光」において御子に優ることは、終末に明らかにされることです。御子の「力と栄光」はあくまで終末に至るまでの間に御父から預けられた、言わば借り物なのです。父と子という親子の比喩を神とイエスの関係に適用しているわけですが、親子関係が上下関係であるわけがないと思われる人は少なくないでしょう。その是非は私にはわかりませんが、youtube加藤諦三氏の最終講義を聴いていたら、親子関係が上下関係であると述べておられました。
とにかく、同じく正統路線であっても、ギリシャ教父のアタナシウスとラテン教父のアウグスティヌスとは違いがあり、それが東方の正教と西方のカトリックプロテスタントとの教理的違いになっているようです。西方教会の三一神論の基本になり図式化すれば三角形になりましたが、東方教会では直線的であり、それがフィリオクェ論争で明らかになりました。以下、引用。
「アタナシウスは尚ほ『父は子よりも大なり』との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。」「『父は我よりも大なり』(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、『父は我よりも大なり』といふ事は、『我は父より出でたり』といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。」(『矢内原忠雄全集 第九巻』〔岩波書店〕~「訣別遺訓に現れたる三位一体論」〔P338~〕、「三 子なる神」の2〔P345~〕) ・・・最後のところ、「能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない」ということは、改革派の神学でも御父と御子が「神」として「同質」であることの結果として言われているようです。「三つの位格の存在様式(the mode of existence)においては秩序があり、それは覆すことができないものであり、交換され得ない固有性であり、関係の秩序なのである。しかしながら、このことは、従属として解釈されてはならない。位格間のこれらの区別は、本質の区別ではなく、位格の区別なのである。三つの位格は、『本質において同一であり、力と栄光において同等』(the same in substance,and equal in power and glory)。」(webサイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「モートン・H・スミス「組織神学‐その紹介と解説‐」(作成中)の「第10章:三位一体の教理」の「Ⅳ.三位一体の区別」)minoru.la.coocan.jp/morton10.html  しかしそれなら、三位格の間にはいかなる意味においても従属関係(…という表現が不適切なら他に何と言えばよいか…とにかく上下的関係)は無いのか…?と言えばそうではなく「職務的」には従属関係が認められています。「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はなお。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(同上)・・・この「職務的従属」といった観念は、聖書を素直に読む限り御父と御子との従属(的)な関係は否定できないが一方では異端とされている「従属」説と混同されてはならないということで、「従属」に「職務的」と「本質的」とを区別した神学的詭弁です。「職務」と言うのは要するに類比においては「役割」ということですが、人間社会で役割というものは無条件に与えられるわけではなく、1つの役割は、それに相応しい実力を持つ者に対して与えられるわけです。逆に言えば、その役割を担うだけの実力を欠く者には与えられないはずです。ということは、御父は御子から、同じ神でも「大」なる存在だと言われるだけの実力を持っておられるということです。万物を聖定し創造と摂理の主という役割を担っておられるのは、それに相応しい力・権威・栄光を持っておられるということ、御父こそが三一神を絶対的な主権者たらしめる実力者であられるということを意味する…と、私はそのように確信しています。
ニカイア・コンスタンティノポリス(ニケア・コンスタンチノープル)信条では、主イエスは「すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」(日基教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)とあり、「同質」とは言われても「同等」とは言われておりません。それはそうでしょう、いくら信条というものが論理的には矛盾したものであるにせよ、信仰告白であり信者の生活現場である教会に関わっているので、所詮は神学者の思弁的作文とは言え、あまり無茶はできません。「~より / from」( ἐκ / エク)と言われている以上、御子は御父と「同等」であるわけがなく、なんらかの意味で「下」であり「小」であり、即ちパウロが「ヒュポタッソー」(原形)を用いて明示しているとおり「従属」です。しかも一方で御父は、「唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主」と賛美せられ、御子についての「すべてのものはこの方によって造られました」の意味は、その造った主体は御父であり、御子は「この方によって」(δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο で、「よって」と訳されてる「ディア」という前置詞の意味は要するに媒介)なので、御子は創造主ではなく媒介者ということで、御父こそ創造主にして全能なる神であられることが明らかにされています。その点でオリゲネス的従属説を採る私でさえ、ニカ・コン信条はエキュメニカルな信条であると尊重するわけです。 また、御子が被造物かどうかについては、コロサイ1:15の「プロートトコス」の解釈で分かれる議論であり、いずれかを絶対化することはできません(エホバの証人さんは被造物説… http://biblia.holy.jp/51-col-1-15.html )。
繰り返しになって恐縮ですが、ニカ・コン信条における「父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」という、その「~より」と言われていること自体が、広い意味では従位・下位にあることを示しています。にもかかわらず、この関係は本質的ではなく職務的であるといった詭弁を弄して三位格の「同等」に固執するのが正統主義者なのです。
私はこのようなドグマティズムには屈せず御父絶対の揺るがぬ確信があります。それは聖霊による確信なので微動だにしないのですが、そうなると御子を相対的存在とみなすことにもつながるのではないか?とか三神論になるのではないか?とか…、それ以上の議論を続けるとますます思弁に陥り、さらには詭弁に変わるおそれも出てくるので、私はいちおう、同じ唯一神教といってもユダヤ教イスラム教のような単神論的唯一神教と、キリスト教の三一神論的唯一神教とを区別すべきだと言うのですが、それ以上は思弁に思弁を重ねることになりますので(…それもまた自分のような者の精神安定にとっては、一利にはなるのだが…)、ヨハネス・G・ヴォスが『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版局)で述べているように(編・訳は玉木鎮牧師)、「聖なる無知を告白」するという頌栄的態度へと聖霊によって導かれるのです。
とにかく、矢内原氏はアウグスティヌスで三位一体論が完成との見解ですが、自分はアタナシウスで完成したと見る方がより聖書的であるとの見解です。というか、矢内原氏のアタナシウスやアウグスチヌスに対する理解が、時代的制約による資料不足のため誤解もあると思うので、矢内原氏がどう言われたかに関わらず、とにかく私は聖書と、青野太潮氏その他有力な解釈者の見解を参考にして、従属的三一神信仰・従属説的三一神論の立場を堅持するのです。
ところで、おもな教父たちの父子関係についての考えが要約されている論文があるので引用します(尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)。
「三位一体論に関して、アウグスティヌスの見解では、神性は三位格の共通の源泉であるが、彼以前の他の教父達は、神性は父にのみあり、他の二位格はそこから派生したとする。即ち、後者では父が子の原因であり、三位格は非対称的である。これに対して前者では、三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。それではアウグスティヌスで は、共通の源泉たる神性は三位格と並ぶ第四の位格なのであろうか。いな、そうではない。神性は共通の源泉として共通の基体であるが、三位格に超越したり、それらの根底にあって先行するも のではなく、神性は永遠から三位格に区別されている。つまり、 父と子とは異なるが。その本質〈神性〉は異ならない。神性即三 位格、三位格即神性である。一つの本質にして、同時に三つの位格〈神格〉である。三位格を離れて、それらの基体としての神性 が存在するわけではない。これに対して、テリトリアヌスやバシレイオス等の見解では基体は父であり、父はそれ自体生ぜず、子 を生ましめ、子は生ましめられるだけの因果関係にある。 ここで基体とは三位格の本質、つまり神性を意味するが、この 場合、各位格は個体でもなく、種でもなく、個体と種との結合と しての個体的種と呼ばれる。それは、各位格は無体的にして現実 的な区別された存在であるからである。(そして無体的、非物質 的存在は個体ではなく、種に属する。三位格は個体的種の違いで ある。即ち、単に名前だけではなく、個体的種として現実的存在 である。)アウグスティヌスは三位格を共通に統一する本質たる神性に対しては類と種の概念を使わず、むしろ基体のカテゴリーを適用する。というのは、三神論に陥るのを避けるためである。オリゲネスによれば、神とロゴスとは現実的存在である。各位格は永遠から特定の個体的存在、第一のウーシアである。(この点で、経綸において顕現したとするテルトリアヌスと異なる。) ウーシア、ヒポケイメノン、およびヒポスタシスにおいて、子は父とは異なる。各位格は単なる個体ではなく、個体的種であり、 その共通の統一は種的類である。それは種と類の結合を意味し、 第二のウーシアである。つまり、父と子とは異なった個体的種で あり、それらの統一は共通のウーシアとしての種的類にある。父と子との同一本質〈ホモウーシオス〉は、ここにおいていわれる。 父と子とは、ヒポスタシスとしては相異なるが、第二のウーシアにおいては同じである。父は源泉として、そこから神性は多様な レベルで下降・派生する。被造物にとっては、父とロゴスとの原関係は永遠であり、ロゴスは時間的初めがなく、永遠に発生している。神の像としてのロゴスが存在しなかった時はなかった。まの た不可思議の神から見れば、ロゴスは被造物であり、他のすべて被造物の原型として父からの発出の最初の子である。子は不生とともに生でもある。 父は絶対的な神であるが(The God)、 ロゴスは絶対的には神ではない(God)。ロゴスは種的類において父と本質的に同一でありながらも、派生的神、第二の神として、より低いレベルにおり、従属的で、父と被造物との媒介者である。換言すれば、キリストの媒介なくしては、父へ祈ってはならない。 つまり、子を廃止しない立場である。子は父の為すことを為すことにおいて、その意志も同一である。」
ここで御子キリストを「第二の神」とする従属説が述べられていますが、オリゲネスが異端とされたのはその死後のことであり、生前の彼は第一級の神学者でした。ちなみに某牧師によると、「現代では多くの神学者たちが、オリゲネスを異端としたのは間違いだったと認めている」し「オリゲネスの神学から多くのことを学んでいる」そうです。但しそれは、まだ三位一体論が発展していない時代の思想家だから…ということであり、従属説自体を擁護するものではなくその逆です。アリウスとは違って、御父と御子との、神としての同(一本)質性を認めたうえでの従属説というのは(…それが論理的に成り立ち得るかどうかの神学的議論はさておいて…)、異端とするほどに聖書から逸脱した考えであるとは言えないというのが、すくなくとも中立的、穏健的立場を志向する神学者たちに共通した見解ではないのでしょうか?
「アタナシオスは、神性は異なったレベルに存在するというオリゲネスの主張に反対する。神の本質は父と子において同一であり、 低次の存在秩序に伝達されたり拡張されたりするのではない。ただ子は生まれたものとしては父とは異なるが、神としては同一である。究極的根源としての父は時間的に子に先行しているわけで はなく、子は不生の父とともに永遠である。子は父の神性の形相 〈顕現〉であり、子は完全な神である。子によらずしては、父は何事も為さない。また子は父の意志により生じたのではなく、本質によって生じたのである。」(尾崎誠氏前掲論文より)1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org) 
ここで言われている、「子によらずしては、父は何事も為さない」ということよりも本質的であり深層であるのは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19) ということではないのでしょうか?                              ところで、キリスト教の「三位一体」神信仰は、日本基督教団信仰告白にあるように「唯一神」教という前提のもとで「同等」を言うのでしょうが、「唯一」(エハド)については「複合的独一性」とか「一つのうちにおける多様性」であるとかいった説を見聞きしたことがあります。これはまさに、「唯一の神」と「父なる神、子なる神、聖霊なる神」との矛盾をクリアーしようとする、私見では不確かな言語学的試みとでも言えるでしょう(Edmund J. Fortman 『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』、創造からバベルまで・・・Ⅱ 聖三位一体  - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)他参照)。しかし矛盾は矛盾のままでよいのではないでしょうか?「唯一」(エハド)本来の歴史的意味はけっして「三位一体」の「三位」とは関係ありませんが、関係づけるのが神学的解釈であり、それなしにキリスト教の教義は成立しないわけです。しかし、その解釈は教会が「正統」と決めたロジックでないと認めないということが誤りなのであり、そういう正統主義的態度は批判され改革されて然りです。ともかく、三つの位格を人格に喩える以上、論理的に「三位」は「三神」であり、その(父と子と聖霊の)「神」が同一本質を持つという意味で「一体」なのです(…「三神一質」)。それが「唯一」の神であるということを、私の場合は無理にこじつけず、旧約的唯一神教(=単一神教)と新約的唯一神教(=三一神教)とを貫く「唯一」とは、拝一神教的「一」・・・つまり自分(たち)にとって聖書が示す神のみが礼拝されるべき真の神…という意味でよいと思っています。他人はまた違う意味で受けとめればよいでしょう。
水垣渉氏の論文「キリスト論の思想的射程 ― 古代キリスト教を中心にして―」によると、< 厳密にいえば、三一神論と三位一体論とは区別しなければならない。三位一体論は、三一神論の一つの立場である。(中略)本来なら、宗教史的現象として最も広くは「三一論」、キリスト教においてやや限定して「三一神論」、その内容の正統教義的表現として「三位一体論」と使い分けることが望ましいが、実際には難しいであろう。」ということで、歴史的には、「三一論」>「三一神論」>「三位一体論」という関係になるそうです。
日本のプロテスタント教会には、私見では「キリスト止まり」とも言える、カール・バルトの神学的影響によると思われる過剰な「キリスト中心主義」的傾向があります。その傾向は、例えば1989年に出された「日本キリスト者宣言」なるものに顕著です。
「私たちが、あくまでもキリストの主権のもとに、キリストを中心としながら、歴史と世界の中に生き、また他者と共に生きる以外に、私たちの信仰の証しと告白の道はない。そのようなキリスト中心の信仰から、私たちは、天皇代替りによってあらためられた元号なるものを、主権在民に反する天皇中心の独善的、排他的、閉鎖的な国家主義歴史観、世界観の残滓として、受けいれることができない。」
ここには、イエス・キリストの父なる神への信仰がまったく考慮されていません。御父が後退して御子ばかりが前面に出されるキリスト中心主義を「キリスト止まり」と言わずして何と言うのでしょうか?
ペトロ・ネメシェギ神父は『父と子と聖霊―三位一体論』(南窓社)の中で、「現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。」と述べており、また、D・クリスティ=マレイも『異端の歴史』(教文館)の中で、「今日のキリスト教徒も多くは自分でも知らずにモドゥス的モナルキア主義者なのである。」と同様のことを述べていますが、その「唯位」(モナルキア)なる神こそがキリストであり、父と子と聖霊の三一神が「子」なるキリストのみに集約されてしまうという傾向です。「モドゥス的モナルキア主義」とは様態単一神論であり、「父神受苦説」と言われ、サベリウス主義と呼ばれています。それはともかく、旧約聖書も正典とし、新約聖書の前提としている以上、キリスト教も原則的に「父」なる神が中心であり、究極的には第一コリント15:28のとおり、三一神は御父に集約されないと啓示にそぐわないのでは…?というのが私見です。そしてこの「三一」というのは三つの位格が一体であると言われますが、「一体」という訳が誤解のもとであり、いかにも一心同体というような意味にとられやすいですがそうではなく、「同一本質」の「一」ですから、三位格があくまでも神の本質を共有しているという意味です。その三位格は個別的な自存性とか人格的固有性などが言われ、ひいては「三つの別な自己意識」などと言い出すに至っては何をかいわんやであって、これが「三人格」でなくて何?ってことです。
「三位一体の三位とは、3つの位格あるいは人格という意味です。具体的には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神を意味します。位格(人格)とは、他と区別される自己意識を持っていることを意味します。宗教改革カルヴァンは、『キリスト教綱要』(Ⅰ-13-20)において、位格は、神の存在方式(様式)と言いました。すなわち、神は、父・子・聖霊のお互いに区別されながらも、また同時に、お互いに密接な関係とまじわりをもつ仕方で存在されると述べました。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々区別される自己意識をもっておられます。わかりやすく言えば、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々が、人格、すなわち、知性・意志・感情をもっておられます。各々が心をもっておられます。しかし、お互いに、深い豊かな愛の結びつきとまじわりをされているのです。」(~サイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第2章 神について、また聖三位一体について」の「第3節 三位一体の神」)
三神論的傾向を避けるために用語は「位格 Person」を避けて「存在様式 Seinsweise」としたというバルトの神学系統などでは三位格と三人格とを混同しないとは思いますが、ウェストミンスター信仰基準では三位格は三人格(…この場合の「人格」は心理学的意味の person)なのです。
「問九 神には、いくつの人格があるか。 答 神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮編訳)〔聖恵授産所出版部〕)
ここで言われている「力と栄光において同等」ということ、これが次の「ひとりの、まことの、永遠の神」ということを三位格全体に対して言うための言わば、辻褄合わせであって、実際は「ひとりの」ではなく「三者の」であり、「まことの、永遠の神」は御父のみとみなせば、「力と栄光において同等」と言う必要はありません。そして聖書的には、やはり創造主である御父が最も「力と栄光」を賛美されるお方なのであり、その力によって御子は復活し、その栄光をあらわすべく地上で活動されたのです。無論、合理的であることが聖書解釈の妥当性を根拠づけるものではありません。究極的には、論理的整合性などにこだわっていたのでは神学は成り立ちません。テルトゥリアヌスが言ったとは言われているものの疑われてもいる「不合理なるゆえに我信ず」といった言葉もあり、北森神学などのように詭弁に詭弁を重ねるより、説明できないことは「神秘」とか「秘義」とか言って逃げる教義学者の方はまだしも正直だとさえ言えるかもしれません。神学はそもそも人知を超えた神にかかわる言論として初めから啓示に限定され制約された神認識としての営みなのですから、前掲書の中で言われている、「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。」(p59)ということが必要になってきます。「聖なる無知」(Holy ignorance)という用語自体は、聖書的根拠としてはやはりヨブ記の特に42章3節「『一体何者か、無知であるのに、わたしの経綸をぼかすこの者』。そうです、私は認識していなかったことを語ったのです。私を超えた不思議の数々、それを私は理解してはいないのです。」(岩波版 並木浩一訳)という告白、自分の無知(ベリー・ダーアト)、無理解を認める告白が挙げられるでしょう。
「聖定と人間の責任との問題」以外の問題でも存在論的な問題…、たとえば「相互内在」(ペリコレーシス)に関してなど、考えてみても理解しづらい問題は諸分野にあるので、ある種の思考停止も脳内整理のために必要だと思います。
ちなみに岸田秀氏は、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(『希望の原理』〔青土社〕p17~18)とか、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(前掲書p54)と述べています。
八木誠一氏は、以下のとおり指摘しておられますが、いわゆる正統的キリスト教の三位一体論においては、事実上、三者の神です、三神論なのです。この点でも一皮むけば正統と異端とを区別しきれない曖昧さがあります。
「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)とか、「神を人格として表象し、さらに子なる神、聖霊なる神をも人格(ペルソナ)として表象したら、三位一体は三神論となり、両性論的キリスト論は二重人格となってしまう。人格主義的神学の用語で三位一体論とキリスト論を語ることが困難な所以である。」(『<はたらく神>の神学』p119~120)とか、「三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である。」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221)と指摘している。そもそもギリシャ教父なしいは東方教会の三一(至聖三者)論は何がいけなかったのか?「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏したということである。」(『<はたらく神>の神学』p4)
ヘブライ語聖書だけが教典であったユダヤ教時代までは、唯一神教であり、その「一」が「唯一絶対」の「一」の意味になるのは新約時代に入ってからであって、本来は、同じ「ヤハウェ」の名で呼ばれても多様だった状況の中で「ヤハウェはただひとり」を強調した単一的意味、そして申命記では5章で拝一神教的意味の「第一戒」を含む所謂「倫理的十戒」が語られ、その後の6章に置かれた編集段階からは、拝一神教の「一」、すなわち相対的絶対性の「一」になったのでした。いずれにしても歴史的には「唯一」の意味が、自分たち以外の共同体で信仰し礼拝されている神々の存在を客観的に否定し排除する絶対主義的な意味ではなかったことは確かです。マルコ福音書12章29 , 32節で律法学者の弁として書かれている申命記の「シェマーの祈り」における「エハド」です。しかるに私見では、キリスト教は「唯一神教」であると同時に「三一神教」と言われて然りであり、旧約時代以来、「唯一の(真の)神」は、御子を派遣した御父のみであって、派遣された御子は含まれません(ヨハネ17:3)。ですからこの唯一真神を三位一体の神であるとするのはあくまで一つの解釈にすぎません。しかも明らかにバイアスがかかった偏りある解釈です。
現代神学のガンは、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)ではないかなと思います。北森氏の言う、「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということが「キリスト中心主義」で福音主義的聖書理解を捻じ曲げる原因です。「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提として有限的神を立てる民主神学に利用すべく三一神論に展開するというのは邪道も邪道です。そのような思想は当然ながら非聖書的神話や神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。モルトマンその他、北森神学を高評価する思想も同類です。神は全能であり苦しむことも死ぬことも原理的には可能であってもその必要も理由も無いので、不死不受苦で然りです。
「唯一人不死性を保持し、近づくことを許さない光の中に住み、人間のうちの誰も見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配権力が〔あるように〕。アーメン。」(岩波版〔保坂高殿訳〕テモテへの第一の手紙 6:16)
「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)
「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christo-centrisme)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256頁)
とにかく、バルト神学などの影響で広がった「キリスト中心主義」は極端化すると、神さまはイエスだけでもOK!といった所謂「ジーザス・オンリー」の異端やカルトの「再臨のメシア」にもつながる非聖書的な信仰的立場なのです。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」( 島田裕巳著『キリスト教入門』(扶桑社新書)p103~105)
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
「キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを『神』として 物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への 従属的地位を外す事がなかったのであります。」(小田切信男著『福音論争とキリスト論 』p145)
「キリスト中心主義」は、顕著な形は宗教改革マルティン・ルターの「十字架の神学」の成立によってであるといちおうは考えられますが、遡れば古代教会時代にまで至るようです。その一例が3世紀末頃の話だといわれる『マルケッルスの行伝』の次の文言です。
「七月二十一日に、あなた方が皇帝の(誕生の)祝日を祝っていた時に、私はこの軍団の旗の前で、公に、はっきりと、私はキリスト教徒であってこの軍務に服することは不可能であること、私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみであることを、宣言しました。」(土井健司著『キリスト教を問いなおす』p38)
この宣言によりマルケッルスという人物は斬首刑に処せられるという話だそうです。ここで「私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみである」といわれています。新約聖書の主旨からすれば逆に、「私が仕えるのはイエス・キリストの父なる全能の神」と言われて然りです。少なくともパウロ信仰告白定式ではそうでしょう。ところがこの場合は、重点が「全能の父なる神」ではなく「神の子イエス・キリスト」の方に置かれています。前者の方に重きを置くのであれば、「神の子」という称号は無用になるのです。「イエス・キリストの父なる全能の神」とすれば、その「の」は「血縁・婚姻関係の属格」(織田昭著『新約聖書ギリシア語文法 Ⅲ』〔教友社〕p716参照)ですから、「イエス・キリスト」は自ずと「神の子」ということがわかるからです。いずれにしてもキリスト中心主義的キリスト教は今後、大変革されねばなりません。その障碍となるものが、教会・信条主義的教派であり、その諸勢力です。
<少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)「私を通らずして父のもとに至る者はいない」(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)
ところで、土肥昭夫氏が『日本神学史』(ヨルダン社)の中で、日本のプロテスタント教会では海老名弾正との論争により正統派の代表的人物とみなされてきた、日本基督教会創始者である植村正久牧師について、次のような興味深い指摘をしています。
「植村はパウロがキリストを『神に劣れる者』とした、という。彼は、パウロがコリント人への第一の手紙第一一章で女のかしらは男であり、キリストのかしらは神であるといい、男女の道を説いた個所をとりあげ、次のようにいう。『男女とも類を同じうすといえども、相互の関係より、区別を生じて、道相同じからざるものあり。同類にして本来平等なる人類のうちにも本末の別、従属の関係あるを妨げず。基督の神に於けるまた然なり。彼は真の神格を有し、父と一なりといえども、子たるの故を以て父に従属するところなき能わず。神子は神父を奉じ、これに受け、これに事え、これに従いて、能く子たるの道を行う。孝道これなり』(『植村正久と其の時代』5、三七○ー三七一ページ 傍点ー筆者)。植村は、この論述から、キリストが仕えられる主であると共に仕える僕であることを明らかにしようとした。その限りにおいて問題はない。しかし、彼が父なる神とキリストの関係を男女に関するパウロの倫理や儒教の孝道に類比させてしまうと、オリゲネス派の従属説(subordinationism)にみられることになる。この派はニカイア公会議(三二五)で斥けられた。ところが、植村は、使徒たちのキリスト論は大要においてニカイア信条と一致する、というのである(同上書5、三五五ページ)。」(p42~43)
植村にも異端的要素があったというのは面白いですが、世界的・歴史的にみても、テルトゥリアヌスは従属説的傾向を指摘され、アタナシウスからカール・バルトおよび北森嘉蔵牧師に至るまで様態論的傾向を指摘されている人がいます。正統と異端との差など大してないのではありませんか?現代では正統と異端の違いなどは大した問題ではなく、(島田裕巳氏は区別できないと言われる)宗教とカルトの違いが大きな問題になるのでしょう。
八木誠一氏や野呂芳男氏と親交があり北森氏とは論争して有名になった札幌独立キリスト教会所属の、医師で信徒伝道者であった小田切信男氏ですが、「神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」(『福音論争とキリスト論』p82.p106参照)と述べ、神と神の子との「同(本)質」を認めています。神の子は神と同質だからこそ、受肉しても人とは根本のところで異質であるということです。「神(御父)≒ 神の子(御子)」ということですが、たしかに、「神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」との指摘には説得力を感じます。
ちなみに、立教大学の神学教授で日本基督教団の牧師だった野呂芳男氏は次のように述べておられます。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)
私は、聖書が示す「父、子、聖霊」の関係として「三一」は認めますが、「三位一体」は認めません。すなわち「三一」神信仰は聖書が示す神信仰として認めますが、「三位一体」神信仰は非聖書的であると思います。野呂氏が言っておられることに関連して、古典的三一論において用いられた哲学の「本質・実体」(ウーシア/エッセンチア、サブスタンチア)とか「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)とかいった概念・用語は、聖書が示す神・キリスト論においては認め得ないからです。その野呂氏は、下記のようなことも言っておられます。
新約聖書のキリストは、終末の時に現れる大天使と考えた方がよいのだ。他にも天使たちが新約聖書の中には現れるが、それらの天使たちよりも特別の使命をキリストは与えられている。確かに、実存の視角から見れば、この大天使キリストもわれわれの神に向けられた視線に貫かれているのだから、後から――神によってわれわれに――贈られてきた聖霊と並んで、神・キリスト・聖霊の三位が、われわれを救う業を行って下さる点で一体の行動をとっておられるが故に、実存論的神学のキリスト論はニカイア・カルケドン信条を受け継いでいる。だが、今の私は、神・キリスト・聖霊という三位が、実存と結びつく直線だけでは満足できなくなっている。もちろん、私の『実存論的神学』は、増補・改訂されていない姿においても、キリストが神ご自身であるとは言っていない。本質的にキリストは、神の言葉であると理解している。」…一見、エホバの証人に近い印象を受けます。しかし、こんな発言をなさる人でも牧師を続けられる教会そして教団というものがあり(もっと過激で異端的な考えの人も日基教団なら、少なくとも発言の表面的には昔からいる)、こんな発言をなさる人でも教授を続けられる大学のキリスト教学科というものがある…、それが良くも悪くも現代の日本社会におけるキリスト教(のリベラル派)の実態なのです。
ところで、イエス・キリストを創造主だと主張なさるクリスチャンがおられます。信仰内容は人の自由ですが、聖書解釈としては問題があります。すなわち、この人たちは特にヨハネ福音書1章3節やコリント第一8章6節やコロサイ書1章16節のδιά 「ディア / through」を(誤解とは申しませんが)曲解しているのです。この人たちは翻訳された聖書の一言一句を「誤りなき神のことば」であると信じ込んでいるので、翻訳が曖昧だったり不適切な場合(ここでは「よって」とか「より」)は当然、誤解を生じたり偏った解釈になります。イエスは創造主ではないことを大胆に発言しておられる新約聖書学者もおられます。下記引用。
イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」(~青野太潮氏)http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf         また、青野氏は、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」とさえ指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。
もちろん「従属」と言っても、御子の神としての本質を否定して被造物とみなすアリウス的意味での「従属」説(subordination theory)ではありません。これは「異端」です。ここで言う「従属」は、あくまで御子の神としての本質を認めたうえで、御父との関係については、特にヨハネ福音書パウロ書簡によって「従属」を認め、御父と御子との「一」(ヨハネ10:30他)は実体的同一性ではなく、派遣者と非派遣者との関係における「言」と「業」による作用的同一性であることを主張するものです。
以下は、北森嘉蔵氏の三一神論の引用です。
「アタナシウスの神学的主題は受肉者の問題であった。イエスが『人と成れる神の子』であると告白せられる時、この受肉者なる神の子と父なる神との関係が、その主題を形成した。受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。しかしアリウスにおいては、この『神の子』は父なる神と別の存在であると言うだけで、端的に父なる神の外にあるとせられる。この『外』ということが『神の子』の被造物性である。(中略)たしかに『神の子』は『神』とは別の存在である。しかし、この別の存在たるままで、彼は決して端的に『神』の外にあるのではない。『神の子』は受肉者の存在において『神』とは別の存在でありつつ、しかも決して端的に『神』の外にあるのではなく、『神』の内にある。別であってしかも内にあると言うことが、『本質を同じくする』(ホモウーシオス)という事である。『神の子』は受肉者のままで『父なる神』と本質を同じくしている。今日我々が最も重視すべき点は、受肉者のままで本質を同じくするという点である。受肉者たる限り『神の子』はあくまで『神』の外なる別の存在である。しかもこの存在は受肉者のままで神と本質を同じくしている。この点がアリウスをして決定的に躓かしめた点である。」(『今日の神学』〔日本之薔薇出版社 1984年版〕p29~31)・・・「受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。」と言う点が重要。御子が神の本質を有つことを認めるか認めないかの違いであって、「神そのものとしての父なる神」と「受肉者」である御子イエス・キリストとの関係が「御父 > 御子」という、内包と被内包という一種の従属性を示していることを感じるのは私だけではないでしょう。ちなみに北森氏は、「受肉者が神の外なる存在でありつつ神と本質を同じくしたごとく、十字架もまた神の外なる出来事でありつつ、神の本質にかかわっている。この『外』の契機こそ神の痛みの神学をいわゆる『父神受苦説』(Partripassianism)から区別するのである。父神受苦説においては、受肉者ないし受苦者は『父なる神』の外なる存在ではなく、端的に神の内にある」と言っているが(北森著前掲書p32~34)、野呂芳男からみれば、北森氏の「神の痛みの神学」も広い意味では「父神受苦」説(論)になるのだと言う。
「北森教授は『父神受苦説では、十字架上で苦しみ死んだのは、父なる神自身であったとされるが、モルトマンの場合には、十字架上で苦しみ死んだのはみ子であり、み父ではない。そのみ子の死を、生きたもうみ父が痛みとして苦しみたもうのである。モルトマンの表現でいえばそれは父神受苦論 Patripassianismus ではなく、父神共苦論 Patricompassianismus である』と言っておられるが、既に検討してきたところから明らかなように、少くともテルトリアヌスによれば、モルトマンの言う父神共苦論も父神受苦論であったと言わざるを得ないであろう。」(~「今日における神観の一問題」)
野呂芳男氏によれば北森氏の神学的立場は広義の「父神受苦説」であり、また神の「内」とか「外」とか言うので「遍在」の教理にも反するという。「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書17:3 岩波版 小林稔訳)
この箇所では1節からの筋をふまえれば、「あなた=イエス・キリストを遣わされた方」こそが「唯一の真の神である」とされ、その御父と御子とを知るようになることが「永遠の命」と言われていることは明らかであるのに、ワンネスのキリスト中心主義者はこれを無理に解釈して、「唯一の真の神」とはキリストのことだと言います。また、正統主義者は後代に成立する教義を読み込んで、「唯一の真の神」は「三位一体の神」だなどと主張します。しかしどんなにこじつけても無駄であることは、内に聖霊が住む者であるならわかることです。同じヨハネ福音書が、5章24節その他で御子自身が御父との関係を派遣者と被派遣者…「遣わした」者(御父)と「遣わされた」者(御子)として証言しておられます。御子を派遣するのが「三位一体の神」ではなく御父であることはヨハネ福音書において御子が証言しておられることなのです。
「しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」(コリント人への第一の手紙8:6岩波版 青野太潮訳)
創造主は父なる「神」のみであってキリストは創造の「仲介者」なのです。万物はキリストが造ったのではなくキリストを通して造られたのであり、ここでの前置詞「ディア」(~によって)は媒介の意味です。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いても、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴として「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています。
以下、他の関係個所を引用。
「もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネ14:28 聖書協会口語訳)・・・御子は御父に対して尊敬しておられることがこの「わたしより大きい方」という表現から示されます(『日本語対訳ギリシア新約聖書』(教文館)での川端由喜男訳では「父は/私より/もっと偉大で/ある(から)」(①ホ パテール/③ムー/②メイゾーン/④エスティン)※数字は原文の並び順。「メイゾーン」は「メガス」〔形容詞:「大きい」の比較級で、程度が「大きい」、地位・身分等が「偉い」その他〕)。この「大きい」という意味には当然、子として父を敬う自然な感情が表わされているとみることに何ら問題はありません。人間的との批判は当たりません。そもそもが聖書は神を(人格的とは言え事実上、研究者から指摘されるとおり)擬人的に比喩しているのですから…。御子であるイエスが御父であるヤハウェを敬うことは、十戒に「汝の父母を敬へ」とあるとおりです(「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」〔出エジプト記20:12〕※前半部分の岩波版 山我&木幡訳の訳は「あなたはあなたの父と母を重んじなさい。」となっており、「重んじなさい」の注は、「原語カッベードは『敬う、尊敬する』とも訳せるが、もとになっている動詞が『重くある』(カーベード)なので、こう訳した。」云々とある)。我々は御子イエスに倣い御子イエスと共に御父を尊敬するという信仰態度が促されていると言えます。御子イエスに対しては尊敬というより御父の栄光を現すための信仰実践の範としての敬愛ということで、御子イエス御自身も「わが神」と言って賛美なさる相手の御父に対する存在論的な尊敬とは意味が違うと言えます。そこに優劣をつける必要はありませんが、このような尊敬の違いを無視して、単に「同等」だと言うのは事実上、御父を後衛に退かせ御子を前衛に立てようとする御子中心主義にほかなりません。それは結局、御父よりも御子を敬っていることになり、聖書的神信仰としては誤っていると言わざるを得ません。注目すべきは、このヨハネ14:28の「より大きい(かた)」と訳された「メイゾーン」という形容詞(「大きい」とか「偉大な」を意味する「メガス」の比較級)は、第一コリント13:13でも使われており、(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」というところで「最も大いなる(もの)」と訳されているということです。その点で、「神は愛なり」(第一ヨハネ4:8 , 16)とつながります。無論、この場合の「神」は「三位一体の神」ではなく、「父なる神」を意味します。御子より偉大であり、すなわち最も偉大なるものは御父であるということです(主イエスは、「けがれた霊」との対照ではあるが冒瀆という観点で聖霊を最上位としている⦅マルコ3:28~30、並行箇所⦆)。
ちなみに第一ヨハネという文書は仮現論的キリスト論という異端への反駁を目的として書かれたと云われていますが、ローマ・カトリック教会ではこの文書の5:7~8に関して、写本を捏造してまで三位一体の根拠にしようとしたという「コンマ・ヨハンネウム」というものがあります(詳しくは、田川建三著『書物としての新約聖書勁草書房p417~418参照されたし)。こういう正統主義者たちに対しては、恥を知れ!って感じです。
「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 岩波版 青野太潮訳)
『岩隈直聖書講解双書 4 』(キリスト教図書出版社)では、23節「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」について、「正しい位置づけ」云々というちょっと意味不明な解説に続き、「それに更に『キリストは神のもの』という句を追加した(実際はなくてもよいもの)のは、『考えを神に迄遡らせる彼の性向(一一3、ピリ二11、ガラ一4、5等)」(キュンメル)によるもので、特別の意図があったのではあるまい。唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方(ロマ一一36)の現われで、彼によればキリストも子として神に従い給う(一五28。なお八6、ピリ二10、11等参照)。」と記している。ここでも「(実際はなくてもよいもの)」という補足的挿入句の意味が不明であり、当然のことだから言わずもがなという意味なのか、それとも岩隈氏もしょせん御子キリスト中心主義的信仰立場のゆえに、「キリストは神のもの」ということを軽視しているのか、よくはわかりませんが、とにかくパウロが「唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方」は、パウロ個人の特性として自分たち信徒にとっては関係ないといった考えで述べておられるなら、これも偏った内容の記事ということになります。むしろパウロ的神中心主義的唯一神信仰を我々も学び、体得すべきだと言って然りなのです。織田昭氏の『新約聖書講解集 第一コリント書の福音』(教友社)での23節「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」については、「パウロの使う例えは、時々乱暴なくらいです。パウロやアポロをやたら有難がるな。神様が君たちを所有しているのと同じに、君たちの方がパウロを所有し、君たちの方がアポロを所有していることを忘れるな。君たちの輝かしい未来と命は、十字架で死なれたキリストの中にある。死から復活されたキリストの中にある。そのキリストだけが、あなたを所有して自由にお用いになる。本当は聖なる神御自身がキリストを用いて、そのパウロなり、アポロなり、ケファなりを、道具として(「道具として」が不適切なら、「聖なる器として」)君たちに下さっているのだ。“偉い人”としてでなく、また、あてにできる“知恵者”としてでなく、神様の御意図を受け止めて、フルに利用できねば、意味はない!「人の命も、人の死も、神の賜物として大事にせよ(:22)。」云々と記しておられ、私にはこちらも意味がよくわからない面がありますが、「所有」という言葉を用いておられる点は重視されます。すなわち、我々が御子キリストに所有されるのと相似的に、御子キリストもまた御父に所有されておられるということです。
「しかし私は、すべての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)・・・普通に解釈するなら、終末には神が特別啓示を中心とする自己限定を解いて、御子が御父から任されていたこの世の主権を御父に返上して三位一体関係は本源者である御父に帰一し、すべての被造物は創造主である御父の絶対主権の下に収斂されて刷新し、唯一者および全一者としての神が支配する御国が実現するということになります。「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、我々被造物に対して「唯一神」である三位一体としての絶対性を示されてこられた神が、終末においては「全一神」である御父としての絶対性を示されるという解釈も成り立ちます。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。< 神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。> 
聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
※「従わせられる」(ヒュポタゲー),「従わせられるであろう」(ヒュポタゲーセタイ),「従わせた方に」(ヒュポタクサンティ)の原形の「従う」(ヒュポタッソー)は「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(配置する)で、織田昭氏の小辞典では「(元は《 軍隊用語 》指揮下に従属させる)下位に置く,服従させる,屈服させる,従わせる」とあり、岩隈氏の辞典では「屈服(従属)させる,従わせる」とあるとおり、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられる」ということはまさに本来、御子は御父に従属する関係にあるということです。
「人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」(小高毅著前掲書p118)
ルカ福音書には「神のキリスト」という表現があります(ルカ9:20,23:35)。これも「神の」という所有,所属の意味があります。 荒井献氏は「神に従属する『神の子』」(『イエス・キリスト 上』(講談社学術文庫1467)p182)と言っておられ、「この表現には、キリストとしてのイエスが、あくまで『神の器』として神に従属するというルカ自身のキリスト論が反映している」と書いておられます(『イエス・キリスト 下』同上、p349)※「この表現」とは、ルカ福音書におけるペトロの信仰告白である「神のキリスト」です。
ちなみに、かつては荒井献氏などと肩を並べる最先端の新約聖書学者であり、のちに宗教哲学へと移行した八木誠一氏は次のように述べておられます。「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)
さらに、宗教哲学者の花岡(川村)永子博士は次のように述べておられます。「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。」云々(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )
「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 岩波版 保坂高殿訳)
以上のように思いつくままに父子従属説を支持するような聖句を挙げてみるだけでも、そういう箇所はたくさんあります。特に「同等」の三位一体論を主張する正統ゴリゴリ主義者が、正典中の正典の如く何かにつけて引用するヨハネ福音書も、その父子関係の従属性をイエス自身の言葉として明示しているのです。例えば岩波版(小林稔訳)5章19節と30節「子は父が行なうのを目にする以外、自分からは何もできない。つまり父が行なうことであれば〔なんでも〕、子も同じように行なうのである。」「私は私自身からは何もできない。聞く通りにさばく。そして私のさばきは義しい。私が自分の意志ではなく、私を派遣した方の意志を求めているからである。」・・・この両節の間には、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。」(23節)という言葉があって、言わば父子相愛関係が前提にありますが、イエス自身が再臨する終末の時をイエス自身も知らず御父のみが知っておられる(マルコ13:32/マタイ24:36)という言葉など、あまたある神中心的聖句を踏まえてみれば、その相愛関係にも父子としての一定の秩序…従属的な性格が認め得ると思われます。父子はあくまで比喩ですが啓示であって、選民社会の父子関係が神の父子関係の理解に反映することも神の御計算のうちだとみることは信仰的に可能です(旧約ではアブラハムとイサクの父子関係や、新約では「放蕩息子のたとえ」などにおける父子関係の比喩が参考になります。そこで見られる父子関係には愛情はありますが完全同等などではありません!また、信徒自身の置かれている環境での類比もあり、日本では植村などプロテスタント教会の先駆者には武家の素養としての儒教的父子関係の類比があった)。だから正統主義者が、三位一体における父子関係には従属性など全く無い…完全同等だ…などといくらいろんなこじつけをして主張してみても、私はけっして父子同質かつ従属関係(=父子同等の否定)の確信が揺らぐことはありません。何故、正統主義者が三位一体における「同等」にこだわるのか?言うまでもなくその理由は「唯一」との論理的整合性でしょう。従属では三が「同質」ではあり得ても「一」なる神ではあり得ないということです。しかし「三一」の「一」は「同質」の「一」であって「唯一」の「一」とは区別されます。旧約時代は「唯一」ですが新約時代は「三一」なのです。旧約から新約にかけて一貫している「唯一」とは主なる神の存在が他の神々の存在を排除して「唯一絶対」という意味ではなく、本来、「シェマの祈り」における「唯一」(エハド)は拝一神教を前提とするものであることが歴史的事実だとされているので(従って、神の主権の絶対性も普遍・客観的な意味の「絶対」ではなく、あくまで選民にとっての共同主観的意味での「絶対」性)、それは主なる神とイスラエルの民との実存的関係の「唯一」性なのです。だから「唯一」と「三一」は論理的に矛盾しないし、「三一」ということは三者が「同(一本)質」という意味であって、その「三一」において父子関係が「同等」ではなく「従属」関係にあるということも整合するのです。山田晶氏は『アウグスティヌス講話』で次のように語っています。
ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば『根源の根源』と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが『それを通して』御父に到るべき『道』となり、聖霊は、『それにおいて』われわれがその道をすすむことのできるいわば『光』のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。」
・・・この山田氏の文言でおかしな点は特に次のところです。「プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがあります」・・・たしかに「プロティノス」の直線と、東方教会の「至聖三者」の直線とは、「人格神」か否かという点で内容的な違いがあります。しかし両方とも「下降」的方向性はあります。すなわち御父を「本源」とか「根源の根源」と言われている以上、そこから生まれるとか発出するとかいわれる御子や御霊との関係がまったくフラットであるとして比喩されることはおかしいからです。「従属」と同様に「下降」という表現に違和感があるなら、もっと他に適した表現があるとすれば…ですが(おそらくは無い)、すくなくともある程度の勾配は認め得ると思います。そしてそのような考えがアリウス説と根本的に異なる点は、要するに御子を御父と「同(一本)質」と認めるか否かにかかっているのです。アリウスは御子を被造物としたからです。
御子は被造物ではないという理解は自分も同じです。ただキリスト教会は三位一体の教義をこの第一コリント15:28でも読み込み、教義では三位格は「同質」かつ「同等」であるということになっているので、「御子も御霊も父から出る(た)」ということについてもいっさいの順位的関係は認めません。しかし、第一コリント3:23や、ヨハネ14:28、17:3なども参照すれば、まったくの「同等」とは必ずしも言えないわけで、むしろ優劣ではないにせよ従属的関係性を認めて然りだから偉大なるオリゲネスもそうでした。 これに対して、御子と御父との一体を示すヨハネ10:30や14:9などを挙げるのが正統的立場の常ですが、これらも必ずしも御父と御子との実体的意味の一体を意味するとは言えず、むしろ後続の14:10に「言」(レーマ)と「業」(エルゴン)があるとおり、ことばとわざの意思とはたらきの一致としての一体を意味すると読めます。ここで再び、野呂芳男氏の言葉を引用します。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。」
御父と御子との関係については、「従属」という用語が適当ではないと言っても(第一コリント15:28の「ヒュポタゲー」〔従わされた〕、「ヒュポタゲーセタイ」〔従わせられるであろう〕、「トー ヒュポタクサンティ」〔従わせた方に〕の「従う」〔ヒュポタッソー〕は「服従させる、従属させる」の意味あり。第一コリント3:23でキリストは神のもの〔クリストス デ セウー〕と言われているのだから)、御子が所有する能力、権威、栄光も御父から委ねられたもので、終末にはお返しすべきレンタルもの。となれば御父の方が「大である」(メイゾーン)という意味は、観念的「同等」を許さない「大である」意味がある。
「み子と聖霊に見られる性質と力も、父なる神のものである。」
https://adventist.jp/この教会について/信仰の大要/父なる神/
御父と御子との関係を上下優劣のようなニュアンスを避けていろいろ言ってみたところで、要は「同等」ではないということです。そこには何らかの身分的地位の秩序があります。役割と言ったって職位的で上下関係は出ます。だから繰り返しで恐縮ですが、「本源」である御父が御子および御霊との直線的関係において全く勾配が無いなどということは比喩として言えませんので、その点では東方教会の「至聖三者」の直線関係の理解も問題となるでしょう。
私は、訪問先の教会で日曜学校教師のおじさんの話しを聞いていましたら、キリストが神からすべてを託されて、とにかくキリストがすべてのすべてであるかのようなことを言われました。おそらくこのCS教師の頭には、キリストの高挙(エペソ1:20~21、ピリピ2:9~11)及び全権授与(マタイ28:18)は入っていたのかも知れないが神帰一(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)は入っていなかったのでしょう。たしかに神はキリストに全権委任されました。
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 」(エペソ1:20~22 聖書協会口語訳)
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 」(ピリピ2:9 同上)
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 」(マタイ28:18 同上)
しかしそれは終末までです。終末はイエス・キリストの再臨によって来るのですが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する「従」たることが明示されています。
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(コリント人への第一の手紙15:24~25 岩波版 青野太潮訳)
キリストは終末において神に御国を渡します(パラディドー)。ピリピ書での「主イエス・キリスト」告白も「父なる神の栄光のため」なのです。従って「きたるべき世」でのキリストの上位も、あくまでも(父なる)神に及ぶものではありません。そこには御父と御子、神と神の子との主従関係の秩序が横たわっているのです。
この点を明らかにしているのが『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントです。コリント第一 3:22~23の注解の中で次のように述べています。
「集会は、万物に対する支配を自分の手に持つのではない。むしろ集会自体がキリストの所有である。ただキリストから、キリストを通してのみ集会はこの世を支配し、死に勝つということが言われうる。(中略)さらにこの自由と拘束の相互関係は、キリストの神に対する関係についても同じく言われる。キリストは集会の主(一二3以下)であり、世界の主(ピリ二9以下、コロ一15以下、二15)であるが、彼がこの力を持ち、かつキリストとしてありたもうことは、ただ神によって神のためにのみである。いまやパウロの思想の力一杯の高揚は、集会のものであって同時にキリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」(p77~78)
「人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云います。考え過ぎはメンタルヘルスにとってよくありません。程々なら精神安定に益する教理的思弁ですが、内在の聖霊によって程々のとことで判断停止(エポケー)して心を落ち着かせることが肝要です。

 

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安井先生、御返答いただきまことにありがとうございます。(以下、数字が青色になってるところがありますが、お気になさらないで下さい)最後の「オリゲネスだけを従属説だと批判した教会の態度は間違っていた」ということは浅学の私にもある程度はわかったつもりです。その「だけを」というところがポイントであって、「従属説」それ自体はあくまでも異端で然りとの御見解であると承りました。 ところで、オリゲネスは後の時代に異端とされたアレイオスのように御子の神性を認めながらも被造物とみなすようなことはせず、御子の神性を創造者側として認めましたね(ヨハネ1:3、Ⅰコリ8:6、コロ1:16)。但し、私見では、後に基本信条でも記されることになる御子創造主説も、前掲箇所における前置詞 διά の解釈如何では異説も立つと思われますがここでは控えます。 オリゲネス自身は御子創造主説に立ち、今からみれば正統的立場の先駆者のようでさえあるにもかかわらず、結果的には死後に異端とされたということが解せないのです。 オリゲネスの思想は体系的だそうで、従属説以外の万人救済説その他の言説が異端とされたことについては私はまったく関心なく、あずかり知らないことですが、御子の非被造性と神性を認めたうえでの、御父と御子との関係を主従的にみること自体は、聖書的に見て必ずしもおかしなことではないのではないでしょうか? もちろん御案内のプラトン主義における「第一の神」と「第二の神」との関係に、御父と御子をあてはめてみることは、聖書において御父と御子との間に愛・敬意といった人格的関係がある以上、不適切であろうかとは思いますが、主従的関係は明示されていると思います。 聖書の中でも特に御子イエスの超越性ないしは神性を示し(1:1~3,14,18、4:25~26,42、8:5819:3621:28他)、御父との(「ことば」と「わざ」における「みこころ」の一致という意味の)一体性(3:364:345:36~38、8:2910:30,37~38,12:44~45、13:20,31~32,14:9~11,24、15:23~25、17:11,21~23他)を語っているヨハネ福音書は、同時に御父と御子との主従的関係を示している文書でもありますよね? 既成の教理的前提に立たず虚心坦懐にヨハネ福音書を読むならば、御父と御子との関係はすくなくとも表面的には「同等」の面よりも「従属」的に感じられるのは、日本人クリスチャンの中にあって私一人ではないでしょう。神と人との関係を父親と子との関係にたとえているわけですが、社会心理学者の中には、親子関係は上下関係であると言い切る人もおられるので、御父と御子との関係も上下関係として受けとめることは、類比としての限界を踏まえる限りにおいては誤りではないと感じます。その点で、根拠なる聖句は重複するでしょうけど散見されます(3:16~17,34,5:19,30,36,43、6:46,57,7:17~18、8:26,28,41~42,49,54~55、10:17~18,25,29,36、12:27~28,49~50,14:6,28、16:27~28、17:3,5,24~26、20:17,21他)。 但しその主従関係は、フィリピ2章のキリスト賛歌で言われているとおり、御父が御子に神としての主権を全面的に委任している(3:355:226:27、13:3、16:15,23、17:2,6~11,18他)期間すなわち十字架および昇天までの地上におられた期間と、救済史的には教会の時(聖霊の時)を経て御子が再臨されて終末に至り、最終的に御子が御父に服従してすべてが御父に帰される…すなわち御父がすべてのものにおいてすべてとなられる(Ⅰコリ15:28)までは、御父と御子との関係は職務的意味の従属関係にとどまり本質的な優劣や上下は無い…という意味で「同等」であるというのが相対的に最も妥当な聖書解釈ではないのかなと思っています。 そして、オリゲネスの従属説的理解が異端とされたのは、その職務的意味での従属関係から逸脱して本質的意味の従属関係として(実際にオリゲネスの思想がどこまで逸脱していたかはわかりませんが…)誤解されるようなことを言ったからではないかな?と想像している次第です。 オリゲネス本人は、後のアレイオスのような考え方とはまったく違っていたのに、似たような言説として一緒くたに扱われてしまった可能性があるのではないでしょうか? そして、それほどまでに正統派が従属説を嫌ったとすれば、それは「唯一の神」というユダヤ教以来の神観の前提に反することになるからではないでしょうか? 父と子と聖霊という三つの位格が「三者の神」でもなく「三様の神」でもなくそれぞれが固有の自存者でありながら「唯一」であるためには、その三つの位格同士の関係は「同等」であることが当然だとされたからではないでしょうか? たしかに比喩的に考えれば、唯一の神が位格の間に従属関係を持つということは、自己同一性を有する者が、自分の内に、主たる自己と従たる自己との関係を持つような話ですから、フロイト説の超自我と自我との関係でも持ち出さないことには比喩としても成り立たないです。 それはともかく、位格間の関係に「従属」を認めた時点で「唯一の神」という前提と矛盾するから、オリゲネスの従属的言説もアレイオスのそれと混同されて異端と処せられたのではないだろうか?・・・と、何の学問的根拠も無い素人門外漢の想像にすぎませんが、いかが思われますか?その可能性はないでしょうか?この点、どう思われますか?

安井先生、御丁寧にお教え下さり感謝申し上げます。ひじょうに勉強になりました。オリゲネスの従属説が異端とされた主たる原因は、唯一神信仰との関係ではなく、オリゲネス自身の二元論的思考との関係であった…、「神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えた」ということがポイントであることがわかり、目からウロコが落ちる思いがしました。 そういえば、つい先日、あるサイトに「継続的創造」という言葉が出ていて、創造は六日間で終わりヨシとされて7日目の休みに入った歴史的・時間的な出来事であるのに、それを「継続」ということで摂理と混乱をきたすような考え方に対して疑問を抱き、これまた恐れ多くも、その「継続的創造」という言葉を用いていた著名な神学者の先生にメールで質問させて頂いたことでした。 オリゲネスが御父を永遠の創造主であると信じたということは、その創造のみわざをも永遠の事柄とみなすことになり、ある意味、現代リベラル神学が説く「継続的創造」と似たようなことになるのかなと思いました。 かつて、三位一体の理解に苦しんでいた時、本源者である御父から御子が生成し御子を通して聖霊が発出するという営みは永遠においてなので、常に起きているダイナミックな、言わば三位格の回転のイメージだといった解説にふれてハッとしたおぼえがありますが、これは神の事柄だから成り立つのであって、創造のみわざによる被造物の発生まで永遠化されれば、文字通り人間神化(Θέωσις / テオーシス)の非聖書的教説に道を開くことになり危険ですね。これは明確に異端と断じられて然りであったでしょう。 オリゲネスはその二元論的、神秘主義的な部分においてはオカルト思想に利用されている面もあろうかと思いますが、私は「御子の神性の主張が曖昧になっている」ということもさることながら、創造主なる神と被造物である人間との区別が曖昧になっていることも極めて問題であり、そのような危険性を帯びた思想であったと受けとめました。 とはいえ、テオーシスはキリスト教…特に東方正教会の「神成」の教理として受け継がれていますが、私見では、ペトロ第二1:4の曲解とか、コリント第二3:18などの所謂「栄化」との混同によるものではないかと思っています。

オリゲネスが信じた善なる神 『アタナシオス神学における神論と救済論』講話3 - YouTube

安井聖牧師からの返答には、「聖書が職務的な意味で御父に御子が従っておられることはその通りで、おっしゃるように御父と御子の神性の同質性(ホモウーシオス)を曖昧にしてしまう意味での従属説が問題だと考えています。」という文言があり、これにより自分は御子を御父と「同質」であるとする考えと、御子が御父に「従属」するという考えとは両立し得ないのかも…と思うようになりましたが、類比的に考えることにより「従属」と「同質」とは矛盾しないことを確信し、自分としては引き続き、御父と御子とは本質的な意味で主従関係にあるのだが、御父の自己限定によって職務的な意味での主従関係にとどまり、本質的には「同等」とされているのだ…という解釈に立ちます。しかし「職務的」な意味での「従属」とは言え、「職務」にはそれなりの権威があるので、自分としては「従属」が本質的であるかどうかより、御父の本来的主権・権威が御子や聖霊に優ることが重要なのです。御子に対してもあくまで本来は御父が持っておられるこの世での主権・権威の委譲なのですから…。あくまで御子が御父に主権を返す終末までの言わば仮相(仮の宿・幕屋/Ⅱペト1:13~14)であって、真相(神の国)は、最終的に御子が御父に服従し御父がすべてのものにあってすべとなられることによって終末に顕現するのだ…という見方です。

職務的従属を認める人は、それは本質的意味の従属とは違って御父と御子との間に優劣は無いということで軽く考えておられますが、私は本質的意味の従属であろうとなかろうと、職務的従属もあくまで従属なので、それ相応の権威の違いは認めざるを得ない…まったく対等ということにはならない…という点を必要以上に強調することにより、実質的には本質的従属と同様の…つまり御父と御子との間に優劣をつけるほどの上下関係として、この職務的従属ということを対外的には主張したいと思います。もちろん、本質的従属を言わないということは、あくまで異端とならない範囲内で…ということです。そしてそのうえで、改革派教会が採用しているウェストミンスター信仰基準に従います。救済論的観点においては、現実の信仰生活ではどこかの教派・教会に属さないといけないからです。それで創造主の絶対的主権を強調している改革派の教会に属す選択をしました。「従属」と「同質」や「同等」や「唯一」との関係の問答は、そのための教理的調整になります。公式に認められている「職務的」意味での御子「従属」を、類比的思考において、「職務」に応じた「権威」を伴う事柄として重視し強調すること…それが、自分の「創造主帰一」の立場における新しい立脚点となりました。

コロサイ1:16、18などから明らかなことは、御子はたしかに被造物より先に存在していたお方ではあるけど(ヨハネ福音書17:5参照)、何にせよあくまで「生まれた」お方であるということ。御子が生まれたお方であるということは、御子を生んだお方が先在しておられたということ。それは造り主なる御父以外にはあり得ません。そしてそこから言えることは、1:16の「御子によって造られ」たという「~によって」(ディア)はこの場合、御子が造り主であることを意味せず、媒介的役割を果たしたことを意味する。そのように解する方が天地創造を造り主の自己目的とすることにはならず、「御子のために」ということと意味が通じる。

キリスト教ユダヤ教から単一神的意味の一神教を引き継いだわけではなく、同じ一神教でも実体的一ではなく関係的一の意味で、すなわち父と子と聖霊の各位格は相互関係においてのみ個別に存し得るという一体性の意味で「唯一の神」と言われるのであると思う。それは解釈においてであり、聖書では「唯一」が単一的意味の唯一で言われている(例:ヨハネ福音書17:3)。それは新約聖書において「神」と書かれている場合、普通は御父のことを指すことと対応している。

そのように「唯一」の意味を説明して、キリスト教ユダヤ教イスラム教と同じ意味での「唯一神教」ではないということを主張するのもよいが、論理展開としてはそれよりも、キリスト教は厳密には「唯一神教」ではないとして、「三一神教」との違いを説明するし方もある。その場合、キリスト教ユダヤ教イスラム教と同じ一神教ではあるが、唯一神教ではない、ということになる。では、三一神教唯一神教との違いは何か?だが、三一神教の「一」は、父と子と聖霊の三つの位格が神の本質として同一である(ホモウシオス)という意味の「一」であり、存在論的・実体論的に同一という意味の「一」ではない。だから、御父と御子とは個別固有の意思を持つ存在でありつつ聖霊も含めて三者が相互内在関係において不可分の「一」であるという意味になる。つまり、三一の「一」は実体的一ではなく関係的一である。だから三一神教は事実上、三神教なのだ。

正統的立場においても、聖書において御父と御子との関係には、特にヨハネ福音書5~6章を読めば明らかに主従的区別があるわけなので(その他、マタイ24:36、マルコ10:18、ヨハネ14:28、17:1~8他参照)関係が自分としては職務的意味での従属関係という意味をさらに重くして(すくなくとも佐々木稔氏がご自分のサイトで書いておられるよりもはるかに重い意味として)、唯一の真の神である創造主としての御父の権威を強調し、御子中心主義を糺す方向へ行くことは、ケノーシスの姿勢を終始一貫しておられる御子の「信仰の導き手・完成者」(ヘブル12:2)としての生き方に従うことでもあり、自分にとって聖霊の導きによる起死回生的な新生面の開けであると言えます。とにかく御父と御子とを単に「同等」とする見方は必ずしも聖書に合うとは言えないことには確かな自信があるのです。

 

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(追記)

上記のとおり、私は、聖書における御父と御子との関係について歴史的・経綸的には、本質的意味としてではなく職務的意味としてであれ「従属」を認める立場ですが、結果的に自分は『ウェストミンスター信仰基準』における三位一体に関する教説に同意するのであり、そこに矛盾が無いとしたらそれは、御父の自己限定における御子との「同等」であると解するからです。これは自分で「神の『同等』の自己限定」と呼ぶことです。「三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。」(~尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)という表現も、感覚的には無関係とは言えないでしょう。

1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org)

私見では、本来というか原事実的には、本源者である御父と生成者である御子との関係は、世の終末における御子の服従(コリント第一15:28)に象徴的に示されているとおり「同等」ではないのだけれど、絶対創造主の聖定は自己限定としての啓示を中心としており、御子キリストに世の主権を委ねられるがゆえにアガペーをもって「同等」になられたのだ…といった受け入れ方です。無からの天地創造は三位一体のみわざではありますが、「創造主」は御父のみです。本源・絶対の非対象たる創造主はアガペーにおいて絶対性に固執しようとはなさらず、すなわち御自身を唯一絶対化せず、御子と聖霊との関係における御父として…歴史的にはイスラエルの神ヤハウェとして、ひいてはイエスとその弟子たちの父なる神として自己相対化(=自己対象化)なさり、神学的には人格的存在として擬人化を許容するほどまで自己限定することによって、人間に対して啓示なさったのだと考えます。このように私自身、正典的聖書解釈から「従属的三一神信仰」の徒たるを標榜しながら、あくまでも改革派信仰の徒として基本信条に根差すウェストミンスター信仰基準に則って自己矛盾なしと言い得るためのキーワードが創造主の「自己限定」です。もちろんこの用語は西田哲学からの影響も否めません。ご参考までに、解説文から引用します。

対象化されないもの、形象化されないものは、『無』という言葉であらわされるが、それは存在しないもの、非存在というわけではない。むしろこのようなものこそ真の意味で存在している、と西田は考える。なぜなら、それは自己を限定することで有としての個物を産み出すわけだから、有の根拠をなすものとして真の実在といえるわけである。」絶対無の自己限定:西田幾多郎の思想 (hix05.com)

エスユダヤ人だったのに、白人画家はイエスを白人化させて描くことが常でした。偶像イエス同好会の諸君が「大好き」だなどと言っている史的イエスならぬ私的イエス…想像のイエスは美しく想い描かれますが、イザヤ書53章2節で「われらが見るべきうるはしき容なく うつくしき貌はなく  われらがしたふべき艶色なし」と言われているとおりで、そちらが実在のイエスに近い。彼が神の子キリストであると信じ告白された主旨は、彼自身が神として拝され讃美されることにあるのではなく、彼は神の形のうちにあったが神と等しくあることを固守すべきもの或いは奪い取るべきものとはみなさず、むしろ彼は己自身を無にして(ケノーシス)十字架の死に至るまでも神に従順であられた…、それゆえに神は彼を高挙して主の御名を与え礼拝すべきものとされたわけなので、イエスを「神」と言い礼拝する意味は逆説的であり、父なる神の場合とは区別されて然りなのです。同じく「神」と言ってもイエスを「神」という場合はイエスが神に従属せし「人」として徹底し、信徒の模範を示したことにより、イエスを礼拝する場合もイエス自身が神を信仰し礼拝する者として徹底なさったことによるのです。イエスを栄光の主として高く挙げるのは神であって人間であってはなりません。  イエスの使命は「子は親を映す鏡」とも言われるやうに、彼にとっての唯一にして偉大なる父である神を、彼自身の言葉と業を通してわれらに証しする啓示者にして仲介者たることにありました。繰り返しますが彼が「主」として高く崇められるのは彼が人として徹底的に神に服従して生きたことによるのであり、彼は「無」となることによって、言わば裏方に徹して、オモテ舞台で「神」として礼拝され讃美される対象を父として示しているのです。その彼の従順なる信仰にもとづく福音の教えを正しく受けとめるには、逆説的な対応が求められます。それが十字架の神学に現れています。🙏😅😸

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(記事へのコメント)
「キリストが『わたしの神』と呼ばれた、唯一まことの神、み父だけが全能の神であり、イエスは神の子また神の代理者として極めて重要な立場に任命されているお方であることを理解し、その明快な聖書の教えを土台にして聖書を読むと、すべての内容がはっきりと理解できるようになります。」云々には同意です。ヨハネ福音書では特にイエスは神から派遣された仲保者であることが強調されており、10:30や14:9などはそのことを前提として解せば、一般的に云われるような父と子との実体的同一性を意味せず、「言」と「業」の作用的同一性を意味することは明らかです。御子は御父と同じ神の本質を有しておられますが、御父との関係は主と従に区別される旨を御子自ら証ししておられることをヨハネ福音書記者が特に強調し、もちろんパウロもきっちり伝えていることです。ところがそのような聖書の標準的な箇所を軽視して神秘主義的解釈を施し得るような箇所ばかりを引用したがる立場がキリスト教の中にあるわけです。「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)、「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)日本でパウロ研究の第一人者とも云われる新約聖書学者さんも上記のように発言されているほどに、「父子従属」は聖書を素直に読めばわかることです。「簡単にいへば、キリストは神の子と呼ばれることにより、幾分従属的位置にある神的実在として立てられたのである。この従属的位置は例へばパウロの書翰の数箇処に見える(ロマ一五・六、コリント後一・三、なほコリント後一一・三一、コリント前一・三参照)「我らの主イエス・キリストの神また父」(中略)といふ語によっても明かに示される。(中略)従ってギリシア哲学思想の影響の下に立った神学的思索をパウロにおいても発見する。即ちキリストは神に対しては神の像(中略 コリント後四・四、コロサイ一・一五)、その見るべからざる本質をみるべき形に表現したる啓示者である。」(『波多野精一全集 第二巻』〔岩波書店〕p384~385)
要はその「従属」が「質」的従属まで言われているのか?それとも「関係」的従属にとどまっているのか?ということであって、前者はアリウス系の「異端」とされた立場です。つまり神性という本質をも従属とみなして、御子を被造物とすることになるからです。しかし東方正教会の司祭さんも認めておられるとおり後者は「異端」ではありません。御父と御子および御霊の三一神における「関係」については、本源者とそこから生成した者という従属性があります。アリウスとアタナシウスとの違いは父子従属ではなく、御子を被造物とするか神とするかでした。アタナシウスは御子を神と信じつつも御子が御父をご自分より偉大であると言われたことを重視し、御父を本源者として、質的従属は否定したが、関係的従属は否定しなかったのです。ところがアウグスティヌスになると後者まで否定して、それが西方神学の神論の基本になります。しかしそれはあくまで一つの説であって、もちろん異説もあります。

以下は本文に入れ込みましたが、ここでもふれておきます。北森嘉蔵著『神学入門』(新教新書)では次のように書いてあります。

受肉者は父なる神とは区別される別のペルソナであります。父なる神はいかなる意味においても、受肉せず、また受苦しません。受肉し受苦するのは子なる神であります。しかしながらアタナシウスによれば、その受肉者が、父なる神と区別されながら、しかも父なる神の本質と同じ本質をもっているというのであります。これが、ニカイア信条における父なる神と子なる神との『同質』、すなわちホモウーシオス(homoousios)という表現の示す内容であります。(中略)アタナシウスによって、受肉者キリストと神の本質との関係は明確化されたのでありますが、しかしアタナシウスの神学は問題がないわけではありません。それはどういうことかと言いますと、アタナシウスは父なる神と子なる神との同質という面を強調するあまり、父なる神と子なる神との区別という面が、いささか弱いという点であります。(中略)アタナシウスは、アリウスを相手としていたので、いささか反動的でありました。アリウスは、『父なる神と神の子イエスとはまったく区別される存在であり、神の子は端的に神の外にあるだけだ』と主張したので、これを防ぐために、アタナシウスの主張はいきおい、『父なる神と神の子キリストとは同一であり、神の子は神の内にあるのだ』という面だけが、一方的に強調されたことはまぬかれないのであります。したがってアリウスを防ぐ反動として、いささかアリウスと逆のあやまりの立場に近づいたと言えます。この逆の立場が、父神受苦説であり、またの名はサベリウス Sabellius主義であります。そこでたとえば、ラインホルト・ゼーベルク(R.Seeberg)のような教理史家は、『アタナシウスの神学を徹底していくと、サベリウス主義になるかもしれない』というようなことを申しております。つまり、ここではサベリウス主義ないし父神受苦説という異端が、正統的神学の代表者たるアタナシウスと紙一重のところで接触しているという大変興味深い現象を見るのであります。しかし、これは興味深いけれども危険ですから、私たちはアタナシウスにしたがいながら、しかもサベリウス主義ないし父神受苦説と断然違う立場を堅持しなければなりません。それは、子なる神が父なる神と本質を同じくして、神の本質の内にありながら、しかも父なる神の外にあり、いわゆる『融通不可能な固有性』をもって父なる神と区別されるペルソナであるということであります。」(p52~55)

上記のように、アタナシウスの考えがサベリウス主義への志向性を持っていたということが本当であるなら、矢内原忠雄氏が、誰が書いた本を読んでそう言ったのかは知りませんが、アタナシウスがアリウスと同じくヨハネ福音書14:28の御父が御自分より大きい方であるという主旨の聖句を重視していたと書いている内容とは逆方向ということになります。

いずれにせよ、三一神信仰の見方は、東方教会は直線的、西方教会は三角形的です。

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(追記)

パウロ神学は神中心主義か、キリスト中心主義かという問題があります。それで『コリント人への第一の手紙』の第十五章を見ていますと、最後の時に『キリストは神の敵をすべて滅ぼして、すべてを神の御手にゆだねる、そこで神がすべてのすべてになる』と書いてあります(20-28)。神とキリストは、はっきり区別されています。(中略)終末論の一番最後にそう書いてあるわけです。ですから、神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。」(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p147~148)
このように八木氏がパウロを「キリスト中心主義」とするのに対して、青野太潮氏は「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」と指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』⦅新教出版社⦆p5)。そこではコリント第一15:23~28が扱われています。問題は24節であり、多くの学者が2つある接続詞「 ὅταν / ホタン」のうち、2つめの「ホタン」に導かれる文の主語を「キリスト」とみなすのに対して、青野氏は「神」とみなしています。1つめの「ホタン」に導かれる文の主語は「キリスト」であることは誰もが一致しますが、2つめの「ホタン」に導かれる文の主語は「キリスト」か「神」か明確ではないのです。しかし私はどっちでもよいと思います。ここで肝要なのは28節bの主語が「神」であり、創造主帰一の主旨であることに何ら変わりは無いということです。

ところで、キリスト教である以上、「キリスト中心」であるのは当然だと考える人は少なくないでしょう。しかし「キリスト教」の「キリスト=メシア」はあくまでも「神=創造主=ヤハウェ」の存在を前提として成り立つものです。何故ならその意味は「油注がれた者=受膏者」であって、油を注ぐ上位者なしにあり得ないからです。歴史的にも「キリスト者」という呼称が生まれたのは、まだユダヤ教から完全に分離独立していない段階です。従って、神が第一の信仰対象であることはわかりきった上での「イエスとは誰か?」であり、「そのイエスの弟子は何者か?」ということだったのです。

佐藤研氏の著書『はじまりのキリスト教』〔岩波書店〕によると、「ユダヤ教エス派」から独自性を意識して異邦人信者を前面に出したアイデンティティ言語としての「キリスト教」が、第一次ユダヤ戦争をきっかけに伝播したと説いておられるが、私は、「キリスト教」という名称の起源はユダヤ教の中にあった時であると信じる。「キリスト」は決して「ヤハウェ」に取って代わった「神名」などではない!「キリスト」は元来、人間に対する呼称。「『油をそそがれた者(マーシーアハ)』という呼称は新約ではメシアースと音訳され、キリストを指す(ヨハ一41、四25)が、旧約では終末論的救済者を表すことはない。むしろ現実の王(サム上二10、詩一八51等)、祭司(レビ四3、5、16等)、預言者(詩一〇五15)などの称号である。ここでは、四四28の『牧者(ローエー)』が羊の群れを牧するように民を指導する王を指すから、マーシーアハもその言い換えと取るべきであろう。いずれにせよ、それぞれ『わが』、『その』と人称接尾辞が付せられ、ヤハウェによってたてられた王であることが強調されている。」〔~岩波版旧約聖書イザヤ書45章1節の注〕)。決して「御本尊」を宗教名にしているというわけではありません。でもそう考えがちな人は少なくないのです。しかしユダヤ教イスラム教も、信仰対象を名前にはしていません。ヤハウェー教とかアッラー教とは言わないわけです。仏教はどうかと言えば、「仏」は信仰対象ではなく「覚者」を意味します。「キリスト教」の「キリスト」は神名でもなければ教祖名でもないです。 

カルヴィニズムの特徴として「神中心」と云われるのは、それだけ一般の神学がキリスト中心の度を過ぎていることを物語っています。「キリスト中心」は「神」という究極目的に至る手段に注目する意味では妥当であっても、「主義」がつく程に度過ぎては逸脱となります。何故なら「キリスト」は究極の信仰対象である唯一神を表わすものではないからです。あくまでもその神に至るための「道」(ヨハネ伝14:6)であり「(垂れ)幕」(ヘブル書10:20)であり媒介者であり仲保者なのです。見えない神の啓示者として人から見れば前面に立つ、だからキリストが中心となるのです。視点は少し異なりますが、イエス神格化の強調による問題を踏まえて「キリスト中心主義」(christo-centrisme)を批判する論者がいます(加藤隆『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p256~258)。

自分は、御子従属説的立場の「異端」性を抱えながらも、キリスト教ではカルヴィニズムほどに神の絶対性を強調する教派はないので、自分は論理的な矛盾などは神にゆだねて改革派教会への所属を選択しました。その結果、聖霊の導きだと思いますが、創造主なる御父の「『同等』の自己限定」という(真理ならぬ)信理を得たのです。

それはともかく、そもそもなぜ、従属説は異端なのでしょうか?もちろんアリウスのように御子を被造物とする立場はそれだけで(聖書解釈の問題は別にして)異端の烙印を押されてもローマ帝国宗教となったキリスト教としてはやむを得ないと思いますが、オリゲネスのように御子の被造性を否定し、御父との神性同質を認める場合なら異端とまで言う必要はなかろうに…と思うのですが、そうならなかったのは何故でしょうか?従属説は唯一神教と矛盾するからでしょうか?と言うより三位一体内の問題として、従属説は「同質」(ホモウシオス)と矛盾するからであるようです。御子が御父に「従属」するということは、御子が御父と「同質」ではなく、「類質」(ホモイウシオス)になる…という考え方であるようです。しかし本当に、御子は御父と「同質」でありながらなおかつ御父に「従属」するということは論理的に成り立たないのでしょうか?私は現代人の頭で類比的に考えるなら、つまり人間のこととして考えるなら成り立つと思いますが、なにせ神学者…ましてや古代教会時代の教父の頭の中など思い及びませんので、現代の常人とはかけ離れた論理でものを考えていたのかも知れません。それはまさに形而上学的な議論になりますので、私はあくまで現代人の通常の論理で聖書を解釈するしかありません。その結果として、「従属」と「同質」は両立し得ると思います。

たとえ教義学的には「同質」と「従属」との両立が成立し得ないとしても、私にとってそのような問題をクリアーし得るのが創造主の「全能」というものです。私は御父の「『同等』の自己限定」においてその問題はクリアーされていると思うので、たとえ「父、子、聖霊が、何か、その本質、力、永遠という点で上下優劣があるのではありません。このような従属説をウェストミンスター信仰告白は否定しています。」(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』⦅新教出版 ⦆p51)と言われてはいても、私としては、聖書の神話的解釈だけではなく、大貫隆氏によって再構成された古代人イエスの信仰に焦点を当てた歴史的解釈を考慮するなら、やはり御子イエスは元々は「真に神」としての面は無く「真に人」だけのユダヤ人であり、そのイエスが超越的存在とされた…としか思えない(…そうでなければ存在論的に神人イエスといった超越的人物が2千年余り昔のパレスティナにいたことになってしまうので…)真実においては御父(として御子や聖霊との関係対象として自己限定なさっておられる創造主)は、「質」的にも「位」的にも御子と同じではないにもかかわらず、歴史的には啓示において自己相対化なさり同質とか同等とされておられる…と信じるので、そのような御父(創造絶対主)の自己限定・相対化としての有様が、ウェストミンスター信仰告白にも表わされていると解している。他の信条も同様だが、創造主の主権の絶対性を強調する点で、ウェストミンスター信仰告白は他の信条にすぐるとも劣らない。そうまでして聖書および信仰告白にこだわるのは、人としての限界をわきまえ、自分の無能さを反省し、現代人としての知的傲慢を否定するから。大貫隆氏の古代人イエス論に学び、神話に積極的な意義も認めるのはそれゆえだし、史的な次元だけが現実ではなく、霊的な次元もあると思っているから。それにしたって、イエス・キリスト受肉とか復活などを史実と認めることはさすがに出来ないから。

神の中に優劣上位の関係を認めることは三神論へ傾斜することになるということでしょう。しかし私見では、神論についてキリスト教ユダヤ教に対して多神教に近づいたのではないでしょうか?唯一神教と三一神教との違いは、「聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」(~「日基教団信仰告白」)などと北森神学をもって総合できるほどのことだろうか?八木誠一氏が、三位一体のラテン定式について、「ペルソナとは元来は古代ローマの演劇で用いられた仮面のことで、劇での役割、さらに個性の意味になり、発展して言葉のやり取りのなかで自分の義務を遂行する責任主体という意味を担うようになった。つまり、『関係存在』なのだが、西欧における Person 概念はこの系統を引きつつ、一般に『人格』を意味するようになる。三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である」とか「人格主義的概念だけでは説明が困難なのである。例えば、三位一体論は三神論になってしまう」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221、227)とか、「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)と指摘していることになる。三位一体論の主旨は、八木氏も「『太陽そのもの』と『我々にそう見える太陽』と『太陽光』との関係」の比喩で述べておられるとおり(『回心』 p224)認めてはおられるが、それを説明するための表現が「人格主義的概念」だけでは困難であり、「場所論的概念」を用いれば容易に了解できる(同上書 p227)ということなのだ。八木氏は「実は伝統的キリスト教新約聖書の宗教とは違う」と明言しておられるが(同上書 p231「あとがき」)、私にとってはその問題についての答えが八木氏の(なによりイエスの思想がそうだと八木氏は言われるのだが…)「人格主義的場所論」(『イエスの宗教』p18)だけであるとは思いたくない。というのはいずれにしても神観が聖書的にも自分の主観においても場所論的な観方(=はたらき)とは合わないからだ。たしかに擬人的表現を嫌う点では共感できる部分はあるが、絶対主権者である神というものはまずもって存在論的対象であって然りだし、そうでなければ絶対性のイメージに合わない。場所論的に語られてよいものは、「唯一の真なる神」(ヨハネ17:3)以外のキリストであり聖霊である。私見では「三位一体」は「三位同質」と訳した方がまだ誤解を招かないだろう。「一体」という日本語はどうしても身体的同一性を連想させてしまう。しかし同一なのは神の「本質」であって、これが北森氏の言い換えでは神の「御心」になる(『神学入門』p55)。

モルトマン神学の三一論は東方的伝統を受け継いでいるようなことだったが、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にはない「同等」にこだわるという点ではやはり西方的伝統が強いと言えるだろう。ニッサのグレゴリウスの「社会的三一論にモルトマンは積極的な転換点を見出そうとし、「そこでは父と子と聖霊の間に優越と従属の秩序を認めず、互いの相互内在(Perichorese)が前提とされ、また、その視点から神と世界との関係も相互内在的なものと考えられる」という(~小原克博氏の論文「現代における唯一神論と多神論の相克:身体論的視点の可能性を求めて」)。すなわち、三位一体論で「同質」と共に「同等」が重視されてきたのは、「相互内在」(ペリコレーシス)の教理との関連なのであり、それはよくトリニタリアンが指摘するヨハネ10:30の「父と私は一つである」ということであり、八木氏はこれについて久松真一禅師の「絶対他者即絶対自者」を認めておられ(『イエスの宗教』p240)、「自己神格化」の誤解を指摘しておられる。つまり、「父と私(=イエス)は一つである」ということは「相互内在」の関係ではあるが、それは人格主義&存在論で解すると自己神格化になるのであり、その点でトリニタリアンの立場は否定されることになり、これまた場所論的に解さないといけないということになる。従って、モルトマンが思うような意味の「相互内在」かどうかはわからないし、すくなくとも西方的三一神論における「同等」の考えと八木氏の考えとは違うということ。

聖書の解釈では、同じキリスト教神学においても福音派的な保守的立場とリベラル派的な批判的立場があって、私はあくまで後者ですが、ウェストミンスター信仰基準を部分的にであれ尊重するのは、福音派にせよリベラル派にせよ、御父の絶対的主権を重視し強調するより御子キリストへの関心の方が強いからです。他のアスペクトとして私は、福音派であれリベラル派であれ、神学という狭くて特殊な学問よりも、もっと普遍性のある宗教哲学の方を重んじる。聖書解釈においても神学的解釈より宗哲的解釈の方に惹かれます。聖書も教会も人間の思惑が絡んでいる以上(…特に新約正典結集は当時の主流派ないしは正統派によるから…)、福音派のように聖書をも信仰対象とする絶対的見方は出来ない。絶対的とは言え、あくまでも人間の手による相対的信仰基準であり、ウェストミンスター信仰基準のような信仰基準や信条・信仰告白は、さらに相対的信仰基準。

 

十字架上の「わが神…」の叫びについて。下記のような見解がありました。

 

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」というのは、詩篇22篇の書き出しと同じです。しかし、この場面でイエスさまは、詩篇を暗誦していたのではありません。この言葉は、イエスさまの心の底からの叫びなのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 -- ゴスペルハウスな生活 (fc2.com)

エスが十字架上で心の底から「わが神…」と叫んだことと、ふだん、詩篇22の冒頭句を暗誦していたこととは、必ずしも矛盾しないのではないでしょうか?むしろその方が同じ文言として記録されていることの筋が通ります。そしてイエスはこの場面以外でも「父」と「神」と両方を言っている場面はあるので(ヨハネ20:17)、「父と呼べるような神様との交わりが絶たれた」という解釈は必ずしも当たらないのでしょう。むしろ最期の最期まで父子関係が切れないことの現れとも見れます。たしかに真に人としてのイエスにとっては絶望的な状況ではありますが、それゆえに父なる神との関係が断絶するようなことはあり得ず(そういう見方は神の絶対性・全能性・不死性などを否定して神を有限的存在に仕立てる「十字架の神学」〔教義学〕者にみられるもの)、むしろますます色濃く示されています。最期の最期にイエスが御父をあえて(暗誦してきた詩篇22冒頭句を用いて)「神」と呼んだのは、ユダヤ人たちの無理解(…イエスが自分を神の子ということによって神としたこと)への抗議とも言えます。「わが神」とは自分を「神の子」として強調する呼びかけになり、それと御父を「神」と言う場合の「神」とは区別されます。というか御子については、神学的理論的には本質を同じくする「神」であると言えますが、福音書においてイエスが一度もご自分を「神」と名乗っておられないことは軽視できません。あくまで御父の栄光を現すために生きるのが御子であり、十字架上の最期の言葉は、その神の子としての身分を徹底なさったということの象徴的意味が込められているでしょう。父に捨てられても子は子なのです。すなわち十字架は神の栄光を現すために神の子が受けるべきものであり(ヨハネ17:1)御子が御自身の栄光を現すためではなく、十字架は御父の栄光を現す御子の業であるということ、そのことがローマの百卒長の「まことにこの人は神の子であった」(マルコ15:39)という信仰告白から読み取ることもできます。

INCの下記引用の「唯一の神、父」云々には共感し(…その点に限ってみれば、すくなくとも輸血拒否したり終末予言したりするJWよりはまともな団体であると感じられ)、さらにはアデルフィアン派のキリスト論にはJWのような御子被造物(大天使ミカエル)観といった非聖書的解釈は無いので、カルト臭いINCよりかはアデルフィアン派の方がよい。よく、三位一体との比較において、異端の考えの方が合理的だと、合理的だから人が異端になりやすいといったことが言われるが、合理的であること自体は悪くはない。「不合理ゆえに我信ず」といった言葉がどこまで史実性を有するかは知りませんが、信仰の正しさの根拠を不合理性に置くことなどできません。やはりキリスト教信仰は、非科学的迷信ではないのだから合理的な方がよい。ただし、単なる合理性ではなく、聖書的合理性です。

「イエスが、アダムのように創造されたのでなく、神によって“始められた”と言うのはとても意義があります。これはイエスが神と親密であることを説明しているのです。“神はこの世を彼自身に和解させるために、キリストの内におられた”(コリ后.5:19)。キリストは土から創造されたのでなく、神によって始まったために、彼は彼の父神の道を行うに適当な神の素質を持っていたと説明出来るのです。」 https://carelinks.net/languages/japanese/Japanese_Bible_Basics.pdf

これは自分が聖書を素直に読み取って率直に感じることでもありますが、そのホンネをそのまま信仰告白としても通用しないのがキリスト教社会の現実であり、それはローマ帝国の国教になるうえで政治的権力の介入による信条制定などの歴史的事情の影響もあって、しかしそれもまた創造主・絶対者の「聖定」の内だと諦めて(…あきらかにみて)受けとめるなら、たとえホンネの内容が正しくてもタテマエとしては「三位一体」の教義になるということ…それは唯一の真の「神」である創造主なる御父(John1703他)の広義の「啓示」すなわち「自己限定」であると受けとめ、賛美をもって改革派教会の正統的信条に同意するのです。それは当然、下記とは180度異なる内容になります。しかしホンネはあくまでも下記の内容に同意なのです。だから改革派教会に所属していても、正統的立場の三一論として許容される範囲での御子の対父「従属」性…すなわち所謂「職務的」意味での御子従属…すなわち御父と御子との主従関係は、(下で引用している文の執筆者である佐々木氏の見方を超えて)出来得る限り重視し強調することになります。

「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はない。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(~「第10章:三位一体の教理」の「解説」

※このあと「拙著『ウェストミンスター信仰告白の解説』の第一章第三節『三位一体の神』の解説を参照のこと。」と続くが、これは第二章第三節の間違い!)minoru.la.coocan.jp/morton10.html

「本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。」

minoru.la.coocan.jp/kokuhakukaisetu2.html

以上のような神学的矛盾調整の奥義ってわかりますか?

「唯一の神、父 私たちは、創造主である父が、唯一の真の神だと信じている。そう信じるのは、これが主イエス・キリスト使徒たちの教えだからである(ヨハネ17:3,1、Ⅰコリ8:6)。神は霊であり(ヨハネ4:24)、それゆえ、肉や骨がない(ルカ24:39)。神は三位一体ではない。聖書が、父と子と聖霊のことを話していても、それらが神々であると言っておらず、三位一体であるとも言っていない。むしろ、父だけが真の神だということを示している。御子ご自身が、父だけが真の神であり(ヨハネ17:3,1)、御子ご自身は神から聞いた真理を語る人だと(ヨハネ8:40 NKJV)、宗教が本物であるかを見極めるには、その宗教が掲げる信仰を されている。預言者たちもまた、私たちを創造された唯一の父を持っており(マラキ2:10、イザヤ64:8)、父のほかには神はおられないと言っている(イザヤ46:9)。

One God, the Father

We believe that the one and  only true God is the Father, the Creator. We hold this belief because this is the doctrine taught by our Lord Jesus Christ and His Apostles (John 17:3,1;ⅠCor.8:6).God is a spirit(John 4:24),and,therefore, He has no flesh and bones(Luke 24:39).There is no trinity of persons in God.Though the Bible speaks of the Father,the Son, and the Holy Spirit,never does it refer to all of them as gods nor as three persons in one God; rather,it points to the Father alone as the true God. The Son Himself emphasized that only the Father is the true God(John17:3,1)and that He Christ Himself is a man telling the truth which He received from God(John 8:40).The prophets also taught that we have only one Father who created us (Mal.2:10;Isa64:8).He alone is God, there is no other God and no one is like Him(Isa. 46:9).

One God, the Father – Iglesia Ni Cristo (Church Of Christ)