あなたの重荷を主にゆだねよ。 

シャローム!「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(詩55:2)「「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5:7)

聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察④

ここで扱うテーマは自分にとってメンタルヘルスにおける主要な問題であり、キモとも言えるところです。すなわち自他の優劣比較という問題です。

紫苑先生は、レオン・フェスティンガーという一般には知られていないアメリカの心理学者の言葉「人間は他人と比較してしまう生き物である。」を引用しています。

自分などは、そんな言葉を引用するまでもなく、人間が他人との比較なしに生き得ないことは他でもなく自分自身および周囲の人間を見ていれば明らかすぎることです。実際、へたな心理学者の話なんかより、自分自身と周囲の人間を観察してるほうが、よっぽど生きた現実の人間の心もようを知ることができると思います。

ではなぜ、人はそれほどまでに他人との優劣比較をするのでしょうか?それは紫苑先生は明言しておられませんが、ひとことで言えば、人間は関係(内)存在だからです。それは哲学者だけではなく精神科学者においてもわかりきったことでしょう。現実に人は独りでは生きてゆけないものですから…。孤立しては生き得ないということは、人間に限らず生物全般に言えることではあるのでしょうが…。

他者との関係において生きているものが他者と自分とを比較することは自他の区別という点でも当然のことでしょう。幼児は親(…特に母親)との対話を通して自我に目覚めるのです。一体であった母親と別存在になって独立し自立してゆく過程が発達・成長です。その過程においては友人などとの関係で自我が形成されてゆきます。自我とは他人の写しです。オリジナルの自我なんてわかりません。ラッキョやタマネギの皮に喩えられる、いろんな他者の外的特徴がプリントされて自我になります。芯に当たるオリジナルの自我なるものが理論的にはあるはずですが、現実には無いのです。「俺はコレや!」「あたしはコレよ!」と叫び出したいくらいに言えるものってなんなんでしょうか…?自分を生きてる実感といったものでしょうか?自分が最も充実できる状態にあるとき、その自分がそうなのでしょうか…?対人関係だけではそのオリジナルの自我なるものはわかりません。でも対神関係にもとづく対人関係においてなら見えるくるのです。それは後述の、自己否定を媒介した自己肯定によるその自己です。それは「内なるキリスト」すなわち内在する神の栄光に照らされた自我…八木誠一氏の思想の用語では、<「自己・自我」の自我>なのです。

さて、紫苑先生は、自他比較による落ち込みは誰にでもあることやで、そう気にするこたあねえと言うてはります。そして自分より優越する人との比較を「上方比較」で、これには「ポジティブ」なものと「ネガティブ」なものとがあって、「ほとんどの人は、他人と比較して自分の欠点を探し出す、ネガティブな上方比較を無意識に行っています。」(p43)

そして紫苑先生が何を言い出すか?と言えば、「他人ではなく、自分と比べる」ということです。過去の自分と今の自分とを比べて、進歩、上達していることでよしとする…つまり、<過去の「マイナスの状態」と比べると、現在は「ポジティブな状態」にいることが明確になります>(p44)と…。それで自分の成長を実感できると、モチベーションが湧いてくるし、少しずつでも結果が出ると楽しくなり、やる気が出てくると…。

そういう面はたしかにあるとは思いますが…、過去の自分の状態が「マイナス」で今の自分の状態が「プラス」だという評価自体、他人との比較によって生まれているのです。つまりそこで評価の基準になっている価値観は社会的に形成されている価値観だからです。だから他人との比較なしに自分自身の中での比較をしても何ら客観性も社会的意味もないってことになります。

ところが、宗教的価値観というのは対人関係より先ず対神関係において与えられている価値観です。対神関係も共同体レベルと個人レベルとに大別されますが、その共同体というのは一般社会とは区別された霊的性格のものなので、必ずしも社会的価値観と重ならないのです。世間でいわれる「プラス」が、あるいは「マイナス」が、そのまま通用するわけではありません。容姿や所有や能力その他が単純に比較されるものではないのです(もっとも教会のような組織では、その置かれている社会に開くうえで通俗的価値観を許容せざるを得ない)。そして「下方比較」をやめよというのも、これは権力体制側がその心理を利用して封建社会ないしは階級差別社会の秩序を維持してきたくらいだから、親の子に対するしつけでもそれに近いようなことが言われてきたわけで、人間には非常に根深いし、その下方比較によって一時的には慰撫される人間がいることも事実なのです。だから、それを自己啓発本かハウツー本の簡単な言い方でどうこうできると思うほうがおかしい。

…ということで、この点では紫苑説は宗教的見地を無視しては徹底し得ないと思われます。

ましてや「他人と比較するのではなく、他人を観察する」とか「『妬む』のではなく『リスペクト』する」なんてことは、自分の評価で「嫌いな相手」=学ぶものはない相手と、「自分より優秀な人」=学ぶことができる相手とを、分けることが前提なので、後者だけ見れば「ポジティブ」だと言えるかも知れませんが、前者で特定の人たちとの関係を排除している点では「マイナス」は続くのです。そのマイナスの関係から生じる問題は何ら解決されていません。言わば臭いものにフタをしているだけの状態、先送りの状態なのです。

これも結局のところ、宗教的自意識を無視しては非現実的な言説にすぎないと私は思います。宗教的な自意識というのは、自己否定を媒介しての自己肯定による自意識です。「マイナス」の人間関係においてが自我を捨てて無になっている…、つまり無用な自尊心・プライドを捨てきれた状態の自分の意識ってことです。

 

ストレスホルモンはストレスではなくストレス対応でその代表がコルチゾール(副腎皮質ステロイド)で活力剤やけど免疫抑制。夜に下がらんと睡眠に支障をきたす。切り替え重要。レジリエンスセロトニン高める。 言うても結局、他力や。自力でできることは一時的で限られる。
「ストレス」の全てがわかる!超まとめ動画【精神科医・樺沢紫苑】
【チャンネル登録をお願いします】http://www.youtube.com/channel/UC1WkFVOCTPdY782AJ1PZ-JQ?sub_confirmation=1【全動画プレゼント】YouTube「樺チャンネル」の全動画3313本のリストをプレゼント中。今すぐダウンロードしてください。 http...

聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察➂

朝散歩の効果については、紫苑先生は動画でもよく言っておられます。

<私は25年間以上、精神科医として、メンタル疾患が治りやすい人と治りにくい人の特徴を観察してきました。メンタル疾患が治りにくい人の特徴は、「昼まで寝ている」ことです。>(p36)

特に疾患がなくてもメンタルが弱い人は早起きが苦手だと感じます。かつての自分もそうでした。現実逃避願望があるとなおさらフトンの中が居心地よいのです。

<実際に「昼まで寝ている」という患者さんが、「朝散歩」をはじめた途端に、症状が急激に改善する事例を多数観察し>云々。

その「朝散歩」の効能は…?と言うと、「(1)セロトニンの活性化」、「(2)体内時計のリセット」、「(3)ビタミンD生成」の3つです。

特に重要と思ったことは、「体内時計をリセットするには、太陽の光(2500ルクス以上)を5分浴びるのが効果的」ということで、散歩時は「サングラスはかけず、紫外線を防御しすぎないのがポイント」だというのは「セロトニン神経が活性化するためには、ある程度の明るさの光が『網膜』から入らないといけないから」ということ。ビタミンDの生成・活性化は「皮膚に日光(紫外線)が当たる」ことによるので、肌を出さない・覆うことはNG。長袖はあかんのやな。紫外線が嫌いな女性も、だから散歩するのは陽射しが強い昼ではなく、比較的弱い朝なんやと言われると、納得できるんかな…?

基本的な方法は、「起床後1時間以内に、15~30分の散歩を行う」…健康な人であれば、15分ほどでセロトニンが活性化します。「メンタル疾患のある人」「メンタルが弱っている人」「睡眠に問題がある人」などであれば、セロトニン神経が弱っている可能性が高いので、30分を目安にしてください。ただし、30分を超えるとセロトニン神経が疲れてしまい、逆効果になるので注意しましょう。また、起きて3時間以上が経ってから朝散歩をすると、体内時計が後ろに3時間ズレてしまうので逆効果です。必ず、起きて1時間以内に行ってください。

…朝散歩の後には朝食を食べましょう。朝食を食べることで、さらに「脳の体内時計」と「体の体内時計」のズレが補正されます。…よく噛んで朝ご飯を食べましょう。「咀嚼」もリズム運動なので、それだけでセロトニン神経を活性化します。また、「リズム運動」であれば、セロトニンは活性化するので、悪天候で外に出られないときは、室内で「ラジオ体操」で代用してもいいでしょう。>(p39)

このように「セロトニン」が大切であることはわかるし、それが脳内物質であることもよく言われて聞くところですが、「セロトニン神経」との関係でまとめられた文言を引用します。

セロトニンという物質はテレビなどのメディアでもよく取り上げられており、ご存知の方も多いのではないでしょうか。このセロトニンは体のあちこちに存在しますが、なかでも脳において重要な役割を果たしています。また、セロトニンうつ病などの精神疾患にも深くかかわっており、近年話題となっている物質でもあります。このセロトニンを出しているのが、セロトニン神経です。」

脳におけるセロトニン神経の特徴 | メディカルノート (medicalnote.jp)

セロトニン神経は脳のどこにあるのでしょうか?脳は外側を大脳が囲み、中間部・脳の根っこに脳幹というものがあります。この脳幹という部分のなかに、セロトニン神経が存在します。その数はヒトの場合、数万個といわれますが、これは脳全体で140億の神経細胞があるなかのほんのわずかな量です。このわずかなセロトニン神経が、脳全体にセロトニンを分泌させるという構造的特徴をもっています。」(同上)

セロトニン神経は「脳幹」の中にあるということがわかりました。この神経が脳全体にセロトニンを分泌するというわけです。

 

セロトニンは、覚醒、気分、意欲と関連した脳内物質で、セロトニンが低下するとうつ的になります。セロトニンが活性化すると、清々しい気分となり、意欲がアップし、集中力の高い仕事ができます。そして、セロトニンを材料に夕方から睡眠物質のメラトニンが作られます。…朝散歩によって、毎日、セロトニン神経をしっかり活性化することで、ストレスを受け流し、脳の疲労を回復できます。>(p37)

大脳辺縁系セロトニンが分泌されると、心のバランスが取れ、安定した心理状態になります。その結果、集中力低下やイライラ、平常心の乱れといった心の乱れを改善させてくれます。」脳におけるセロトニン神経の特徴 | メディカルノート (medicalnote.jp)

セロトニン神経は交感神経と副交感神経のバランスを整えます。ヒトは、寝ているときに副交感神経が働き、起きると交感神経が活発化します。そして、ストレスが過剰に加わった場合、さらに交感神経が活性化し、自律神経のバランスが乱れていきます。セロトニン神経は、交感神経の過剰な興奮を抑え、自律神経のバランスを整える役割を持っています。」(同上)

セロトニン神経は、「痛い」と感じた際の脳への伝達をある程度調整(抑制)しており、わかりやすく述べると一種の鎮痛剤の役目を果たします。」(同上)

セロトニンは、私たちが寝ているときには分泌されず、覚醒し始めると分泌されます(覚醒している最中はずっと分泌されています)。そのように考えると、覚醒しているときの前述の5つの機能は、セロトニンがきちんと分泌されていれば、起きているときはしっかりと機能しています。反対に、覚醒してもセロトニンがきちんと分泌されていない場合、頭がボーッとして目覚めが悪い、自律神経失調症や心の不安定、不定愁訴が出る、姿勢も悪いといった症状が出てきます。」(同上)

「太陽の光を浴びない生活環境は、鬱病の発症頻度を増やすことが分かっています。また、太陽の光が網膜を刺激して直接セロトニン神経を活性化させることも判明しています。『部屋には常に明かりがついているから、太陽の光をわざわざ浴びなくてもいいのではないか』と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、電灯の光は太陽の光の明るさには到底及ばないため、部屋にこもって電灯がついていてもセロトニン神経の活性化にはならないのです。太陽の光を浴びるときの浴び方としては、長時間浴び過ぎないことを意識すると良いでしょう。セロトニン神経は30分も日光浴すれば活性化が起こります。目の網膜から強い光が入ればセロトニン神経の活性化が促せるため、皮膚のUVカットも、長そでの着用・帽子の着用も問題ありません。日焼けが気になると思っていた方でも、問題なく太陽の光を浴びることが可能です。」

セロトニンを増やすために。脳におけるセロトニン神経を活性化させるには | メディカルノート (medicalnote.jp)

聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察➁

「悩み」については、聖書においてイエスご自身も人として悩んでおられます。

「そして、ペテロ、ヤコブヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、」(マルコ14:33 新改訳2017)

「そこで彼は、ペトロとヤコブヨハネとを自分と共に連れて行く。するとイエスは、ひどく肝をつぶして、悩み始めた。」(同上 岩波版 佐藤研訳)

ここで「悩み」と訳されている動詞は「アデーモネオー」で「苦悩」だけではなく「不安」や「当惑」も表わします。従って対訳(川端由喜男訳)では、「悩み始めた」ではなく「不安になり始めた」となっています。

エスその人は人に対してどのように言ってるかと言えば、その代表的なものが下記です。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6:27)

要するに、我々は生活において何かに悩む必要はないってことです。ここで「思い悩んだ」と訳されている動詞「メリムナオー」は、新改訳(旧版も最新版も)では「心配した」と訳していますが、他の訳では「思いわずらった」・「思い煩った」(口語訳、岩波版 佐藤研訳)とかもあり、どれが最も原意に近いのかはわかりませんが、要は当人にとってストレスになる心の動きでしょう。ですからイエスの言葉は、この点に関してはストレスフリーな志向性があると言えるでしょう。但し、神による人間への養いを鳥や野の草花への養いと比べて言ってるように、ここでイエスが述べていることは現代社会の生活ではありえへんことです。衣食について思いわずらうな…父なる神は必要を御存知なのだから…といった、そんな楽天的な考えでは路上生活でもするしかないって感じです。「神の国と義を求め」るという条件ではないけど、課題が与えられている点では一般化できない宗教的要素があるわけですが、それにしても衣食についてのもの言いは、我々の現実的な実践課題にはなりません。言わば極端なもの言いによって神の国と義への集中力を高めることや、神の大いなる愛とか恩恵などを表現している言葉とでも受けとめるしかないです。

前掲引用句の後の、「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(6:34/「心配しなくてよい」は「思い悩むな」)も、一日一日を懸命に生きることに重きが置かれているとも言えるでしょう。

さて、紫苑説では、「悩み」とは「ある問題について、苦しみ、思いわずらっている状態」(p24)といわれています。

紫苑説では、「悩み解決の手順は、簡単です。対処法や解決法を知る(Know)。そして、それを実行する、行動する(Do)。それだけです。」と言われ(p24)、< 「悩み」を「ToDo」に置き換える>ということで、「悩みを消す手順」を、「(1)悩みを書く」、「(2)対処法を調べる」、「(3)やってみる」、「(4)評価する(フィードバック)」としていますが、(2)では「本を読むときのポイント」として、<「ToDo」を3つ見つけること >とあります。その3つは、<自分ができそうな「ToDo」>です。この「できそうな」という点が問題で、必ずしもそういったものが見つかるとは限りません。それはともかく、紫苑氏は「ToDo」について説明不足の感が否めません。一般に「ToDo」は「タスク」と比較され、後者が「決められた期限までにやらなければいけない仕事」であるのに対して前者は「先延ばしにしても困らない、いつかやらねばならない仕事」です。この「いつかやらねばならない」という未定で義務のようなノルマとしての性格が「ToDo」の特徴ってわけです。

「ToDo」とはいわば「いつかすること」です。この「いつかすること(ToDo)」をリスト化したものが「ToDoリスト」になります。

「タスク」と「ToDo」の違いって?仕事がはかどるタスク管理術・ツールを紹介! (stock-app.info)

「To-Do リストは指定の期日までにすべてがやり終えられることが前提の量で作成しましょう。そうすることで優先順位が明確になり、ノルマ意識を持ち続けることができます。」もっと上を目指す人のための To-Do リスト活用術とおすすめツール 3 選 (dropbox.jp)

紫苑説では、(4)で「3つのToDo」がどこまでできたかを評価し、その「評価の手順」は「1.うまくいっていない理由を3つ書く」、「2.うまくいっている点を3つ書く」、「3.次のToDoを3つ書く」ということですが、実際はこのように機械的にそれぞれ3つ書き出すことは困難です。3つより多くてよい…多ければ多い方がいいが、最低でも3つ書くという点は非現実的だと思います。とにかく、<「悩み」をすべて「ToDo」に置き換える習慣を身につけましょう。>(p27)と言うのも、私が実際的だと思えるのは(1)の書き出し(文章化)くらいなもので、あとは悩んでいる人間にはなかなかきつい作業です。特に人間関係のストレスで心がやられている場合というのは、そういう作業にはなじまないのです。常に心の傷が痛み疼くので、理性的で丁寧さや忍耐を要するような作業をする余裕はありません。その点では紫苑説にも観念的な傾きが見られます。宗教的批判としては、そもそも「自力で解決できるようになる」(p24)という題からしてアウトです。< 対処法を知る方法は、「自分で調べる」(自力で解決)と「人に相談する」(他人の力を借りる)の2パターンしかありません。>(p25)

具体的なことはたしかに人間に頼らなければわかりませんが、悩み解決の決め手は人力だけではなく、「自力」にせよ「他力」にせよ、その人間の力の背後に働く「絶対他力」を信頼せずしては「この先どうなるんだろう」「どうすればいいんだろう」という「先行き不透明感」…紫苑氏の表現の「濃い霧」が晴れる…ということには至りません。人力頼みでは、今の一時的な、あるいは暫定的な対処にしかならないからです。「遠くに目的地が見え」るためには、心・身体・霊(魂)という3つの中で「霊(魂)」が慰められる必要があるのです。このような人間観は科学のそれとは違います。紫苑説も科学なので、「心・身体」の二部構成の人生観を前提としていますが、宗教…特にキリスト教の聖書的人間観は3部構成なのです。心が癒されるだけでは不十分であり、霊(魂)が癒されなければなりません。精神医学や心理学が対処できるのは「心」ではあり得ても「霊(魂)」ではあり得ないのです。
 紫苑先生は、ストレスのOUTPUTとして書くことを含めた自他コミュニケーションを提示しておられます。自他というのは私個人の言い方ですが、紫苑先生が言われるのは、コミュニケーションは必ずしも他人との関係に限らず、自分との関係…独り言や書き出しもアリということです。

「独り言が多い」の対処法【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

エクスプレッシブライティングがストレス発散にいいということはこうして書いている自分は経験的にわかりますが、それがやり過ぎて「誹謗中傷」とまではいかずとも批判の集積になって日共のような独善に陥るおそれも多々あります。

ネガティブなOUTPUTは1回だけにしないと記憶されてストレスになるという注意点も、本などでは言われてないようですが、【2021.12.24】裏しおんちゃん先生 爆誕祭【YouTubeライブ!】で言っておられました。これは重要な指摘だと思いました。結局、ストレス対策というのは自分が自分の脳をいかに制御できるかということにかかってくるのであり、嫌なことを考えない方法…みたいな内容の動画をあがておられる精神科医もおられますが、その内容も自己暗示みたいな話です。自分で自分を騙したりすかしたりすることによって、脳が勝手に苦悩するという現象に対処するしかないわけです。自分の脳は自分で管理しきれない…というかその管理する自分が脳にあるのですから…(;'∀') 最終的にはそういう自己の否定しかないです。苦悩する自我に死んで、苦悩しない自己に甦るしかない…それが究極の解決ですが、これは宗教的にしかありえへんです。

 

ツイート

 

会話

 
 
 
 
 
 
 
 
福音堂(聖書、宗教思想、メンタルヘルス)
 
@kourakudou
樺沢紫苑氏の『精神科医が教えるストレスフリー超大全』(ダイヤモンド社)はわての場合、2章(プライベート)と3章(仕事)と4章(健康)と終章(生き方)は後回しでええ思う。 メンタルヘルスの要旨は、序章(ストレスフリーの基本)と1章(人間関係)と5章(メンタル)の完読でOK!
 

聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察①

何故、私がキリスト教福音主義信仰の立場でメンタルヘルスの問題を考えるうえで、科学的なストレス対策を参考にするのか…?と言えば、聖書は、現実的で実際的な内容を持つ仏典などと比べて理想的かつ観念的な面が多く、実践的なことは書かれていても具体的な方法論が非常に弱いために、現代人がメンタルヘルス対策として使える直接的な言葉は(当然のことながら)皆無に近いので、聖書から現代人がメンタルヘルスのことで実際的な知恵を得ようとするなら、非聖書的知識を宗教的見地から批判することを通して追求するという、否定的媒介の手法を用いるしかないと思ったからです。
 
以下、樺沢紫苑著『精神科医が教えるストレスフリー超大全』(ダイヤモンド社)より引用し、宗教的立場より批判的に考察します。なぜこの本を批判対象にするか?と言えば、心身的・一般的には信用できる内容だと直感するからです。それはYouTubeの「樺チャンネル」を視聴してのことです。特にストレス関係を視聴しています。
(以下、Twitterより引用)
樺沢紫苑氏の『精神科医が教えるストレスフリー超大全』(ダイヤモンド社)はわての場合、2章(プライベート)と3章(仕事)と4章(健康)と終章(生き方)は後回しでええ思う。 メンタルヘルスの要旨は、序章(ストレスフリーの基本)と1章(人間関係)と5章(メンタル)の完読でOK!
ストレスホルモンはストレスではなくストレス対応でその代表がコルチゾール(副腎皮質ステロイド)で活力剤やけど免疫抑制。夜に下がらんと睡眠に支障をきたす。切り替え重要。レジリエンスセロトニン高める。 言うても結局、他力や。自力でできることは一時的で限られる。

「ストレス」の全てがわかる!超まとめ動画【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

紫苑説は、社会生活の実際においては肯定すべきことはたくさんあって参考文献として有効です。何から何まで批判するということではなく、むしろ大半は無批判に受容し習得したいと思います。

批判にせよ無批判にせよ、樺沢紫苑氏の本や動画のすべてを対象とすることはできないので、特にストレス関係のさらに特に人間関係での要点は当方が把握していると確信しているので、いちいち言わなくても、それを前提として書いていると思って下さい。
しかし人間には霊魂の領域があります。これを扱えないことが科学の限界です。心も体も霊・魂を根本として成り立っているのですから、精神的な問題も究極的には霊的な問題を扱う宗教を抜きには解決できません。すなわち精神医学にせよ心理学などにせよ、対人関係のみを前提としている限りは対処療法的言説にとどまるのです。究極的言説は対神(仏)関係を前提として対人関係を考察されなければなりません。
 
<「レジリエンス」という心理学用語があります。「回復力」「復元力」という意味です。同じ環境下で同じストレスを与えても、人によって「感じ方」は異なります。ストレスを我慢する、耐え忍ぶというイメージではなく、バネのように元に戻る感じです。あるいは、「受け流す力」と言ってもいいでしょう。私は「心のしなやかさ」という訳を好んで使っています。「心が折れる」という表現がありますが、それは耐え忍ぶから折れてしまうわけです。ストレスをしなやかに「受け流す」ことができれば、決して「折れる」ことはありません。私の臨床経験では、「几帳面でまじめな人ほどうつになりやすい」という傾向を感じます。なぜなら、ストレスの原因を真正面から受け止め、不安になり、悩み続け、リセットできていないからです。この「不安」や「悩み」は、先ほどの「いいストレス」ではなく、「悪いストレス」になります。悪いストレスをなくしていくことも、「ストレスフリーな人」になるためには重要です。「不安」や「悩み」に直面した場合、多くの人は「原因」を取り除こうとします。そして、「原因」が取り除けないと、絶望し、余計に心身を消耗します。しかし、「ストレスの原因」は取り除く必要はないのです。
あなたの「考え方」「受け止め方」を少し変えるだけで、ストレスをしなやかに受け流せるようになります!
それだけで、「不安」や「悩み」は消すことができます。そこで本書の出番です。本書では、誰しもが悪いストレスを感じやすい「人間関係」「プライベート」「仕事」「健康」「メンタル」という5つのテーマに対し、「科学的なファクト」と「今すぐできるToDo」を明確に示します。ファクトをつかみ、ToDoを知れば、悩みの9割は解決します。あとは、行動するだけになるからです。>(p4~6)
<不安を脳科学的にザックリと言えば、ノルアドレナリンの分泌です。人間が緊張、不安、恐怖の感情を持つとき、脳内物質のノルアドレナリンが分泌されます。(中略)闘争か、逃走か。ノルアドレナリンが分泌されると脳が研ぎ澄まされ、集中力が高まり、どうすればいいのか一瞬で判断できるようになります。そして、ノリアドレナリンとともにアドレナリンも分泌され、心拍数が上がり、全身に血液が行き渡り、いてもたってもいられない状態になります。(中略)つまり、ピンチのときに、「さっさと行動しろ!」とあなたを猛烈にせかす物質が、ノルアドレナリンです。>(p20~21)
<不安を消すことは簡単です。「行動する」ことです。いきなり不安が「ゼロ」にならないまでも、行動することで、不安は必ず軽くなります。「何もしない」と強まるだけなので、何かするだけで気分は変わります。
人間の感情において最も根源的なものは恐怖であり、不安である。―― トマス・ホッブズ(イギリスの哲学者)不安の源、ノルアドレナリンは「行動するためのエネルギー」、つまり行動の「ガソリン」です。あなたを苦しみから救ってくれるエネルギーが、「不安」なのです。不安というエネルギーを使い、行動を起こす。そうすると、ガソリンである不安は確実に減っていき、あなたはどんどん楽になっていきます。>(p21)

<人間の悩みは、行動しながら、解決していくもの。…

(1)話す…友達とのおしゃべりでも、ストレス発散できます。…

(2)書く 「書く」というのは、さらに強烈なアウトプットです。自分の悩みを書き出すだけで、ストレスが吐き出されます。また頭の中が整理され、悩みが明確化します。毎日、日記をつけることで、自己洞察力が鍛えられます。書くことで脳内が整理され、自己洞察が深まり、間違った考え方や不親切な感情に気づき、修正する手がかりを得ます。

(3)体を動かす

…不安というのは、「何かをしなさい!」というエネルギーなので、全力で何かに取り組めば軽減、解消するのです。その最も良い例が、「運動」です。…

以上、不安があるならば、まず「行動」することです。>(p23)

友だちとのおしゃべりでストレスが発散できると言いますが、その場合の友だちが、ある程度、こちらの話を聞いてくれる場合です。相手もこちらとの会話をストレス発散に利用できると思っているかもしれません。そうなるとお互いに自分の言いたいことを言い合うだけでキャッチボールにはならないので、へたをするとストレスを発散するどころか新しいストレスが生じることになります。私のように聞き上手が奉仕に徹して相手の話に傾聴してあげるでもせぬ限り、対人関係でストレスを発散することなど無理です。かえって新しいストレスを抱え込むことになります。

また、私などの感じる「不安」は直接的に「行動」にはつながりません。すなわち、芥川龍之介が言った「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」に近い感覚を持つので、紫苑先生の説でいけば芥川は自殺という行動にしたのかどうかはわかりませんが、「ぼんやりした不安」は私にとってはむしろ行動を思いとどまらせる、ブレーキをかける、そんな感情です。いろんなことに向けて消極的にさせるのです。守りに徹するようにさせる…お金と時間に吝嗇になります。

以下、聖書は新改訳2017で「不安」を検索したら、5箇所が出てきました。しかし原文は必ずしも「不安」と訳すべき語ではないし、訳語も「不安」と「恐怖」などとが区別しきれない面があるので、そういった事情を踏まえて考察すると、聖書も「不安」をはじめから肯定的にみているわけではなく、むしろ「恐怖」とともに否定的にみていると言えます。しかし聖書の場合、そのようなマイナス心理も大局的には下記の➁のように、主なる神のはたらきによる場合が多いので、当面の状況においては「罪」や「悪」との関係でマイナスでしかないわけですが、これを否定媒介して信仰による希望へと踏み出す境地が開かれるということを忘れてはなりません。不安は「平安」に変わるということです。
「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)
 
①創世記32:7「ヤコブは非常に恐れ、不安になった。それで彼は、一緒にいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けた。」ヘブル語原文では、צָרַר ツァーラル。RSVでは、distressed。「不安」と言っても極度で、「苦悩、心痛」。
申命記28:65「これら異邦の民の間にあって、あなたは一息つくこともできず、足の裏を休める場もない。主はそこで、あなたの心を不安にし、目を衰えさせ、たましいを弱らせる。」ヘブル語原文では、רַגָּז ラガーズ。RSVでは、trembling。「不安」ではなく「震え、おののき」。
詩篇38:18「私は 自分の咎を言い表します。自分の罪で不安なのです。」ヘブル語原文では、דָּאַג ダーアグ。RSVでは、 I am sorry for my sin.と訳しているので「不安」に該当する単語なし。その点では、I am full of anxiety because of my sin. と訳したNASBの方が少なくとも新改訳2017には合う。該当単語は、anxiety。
箴言12:25「心の不安は人を落ち込ませ、親切なことばは人を喜ばせる。」ヘブル語原文では、דְּאָגָה デアーガー。RSVでは、anxiety。 
⑤ルカ21:25(または 26)「それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。」
ギリシャ語原文では、φόβος(英字写しで)phobos。「不安」と言うより「恐れ」です。RSVでは、fear。

聖書の実践的解釈(1) 捨てても失われない自分

厚労省の調査結果を見るまでもなく、我々のストレス(=刺激に対して脳から生じる反応。心的/身的の別。脳内物質ノルアドレナリンドーパミンの過剰分泌により諸症状が発症)の原因(=ストレッサー)の多くが人間関係にあります。それで以下のような指摘もあります。

「…調和的な共同主観などは幻想であり、むしろ、個別的な自由な主体同士の峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本事実と見なされたわけである。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p186~187/同著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p147~156参照)「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p93)

結論から先に言います。主イエスは、自分を捨てて自分の十字架を負って自分に従えと言いました。自分を捨てるというのは、自分自身すべてを捨てるという意味ではもちろんありません。あくまでも過剰な自尊心とか承認欲求なんかに囚われている自分を捨てろ…ということです。そうでないと人はへり下れないからです。へり下らなければ、人と人との間に「シャーローム」…すなわち真の平和・キリストの平和を実現することはできません。平和の関係がないところでは心の平安などありません。心の平安なくして魂の安らぎもないのです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)

では実際にどのようにすれば、人は他人の前で無用な自分を捨ててへり下り、平和を築いてゆくことができるのでしょうか…?それは自力だけでは無理であり、聖霊による他力のはたらきを受けてこそ可能なので、まずは祈り、瞑想することです。自分の場合、いちいち型にとらわれず、常住坐臥が禅だといわれるように、目をあけて生活している中で祈り瞑想しています。

もちろん手を組んで目を閉じて神に語りかけるといった宗教においてよく見られる形をとって祈ってもよいのですが、祈りは、所謂「主の祈り」だけでもいいと思います。その中で「われらの日用の糧を今日も与え給え」と言うように、「~してください」と言っても私欲からの願い事ではありません。日ごとの糧は霊的な栄養という意味の方が多いでしょう。人はパンのみにて生きるのではなく神の言葉によって生かされているからです。なにより、信仰においては「なるようにしかならない」からです。祈りの本質は、その「なる」ことが神のみ旨によるものと信じ、「みこころの天になる如く地にもなさせたまえ」と、神の支配の実現を求めることです。

最近の例で言えば、SNSでも問題になっている誹謗中傷(…きちんと「批判」と区別すべし)とかの他人の言葉に過剰に反応しないことです。自分の心を傷つけるさまざまな言葉が飛んできても、いちいち反応していたら身が持ちません。侮辱されたからといっていちいち反撃に出ていたのではつぶされます。小を捨てて大につく考え方が必要です。それがストレスコーピング(=ストレスの対処法)です。聖書にもとづく信仰的ストレス対処法は、一般に大別される「問題焦点型」「情動焦点型」「ストレス解消型」のうち、「情動焦点型」の特に「認知的再評価型」が基本となります。すなわち、ストレスの原因となっていることに対して自分の主観を変えて対応するのです。これには柳の木の枝のようなしなやかさ・柔軟性が要求されます。

それをイエスの言葉に照らしてみると、重要なことは、人前で(主観的)自分を捨てても、それで(客観的)自分が失われるわけではなく、むしろ神の前では余計な(主観的)自分が十字架で死ぬことによって本来の(客観的)自分が現れてくる…ということを常に念頭に置くということです。それだけで現実はかなり変わってくるものです。十字架で自分を死なしめるというのももちろん主観です。それは実際に十字架の磔刑に処せられた史的イエスから得た比喩にすぎません。毒をもって毒を制すと云うように、悪しき主観はこれを否定する主観によってしか制することはできないのです。

十字架に磔にすべき(主観的)自分とは、ストレスに苦しみ悩んでいる自分、心が傷ついたと感じている自分です。しかし客観的に苦しみ悩み傷ついているのかといえば、それはそうではない。(客観的)自分とは、ストレスがあろうがなかろうが現実に存在している(実存としての)自分です。実際には肉体が傷ついていない以上、実害はないのです。心身と言いますが、心の傷はあくまでもストレス感覚の比喩であって、外傷とは違って主観的なものであり、本人の気持ち次第で癒えるのです。心に傷がつくなどと余計なことを思っているから、実際に傷ついたかのような気になるわけです。

その、余計な自分が死んで真の自分が現れてくることを八木誠一氏の著書では(「単なる自我」と区別して)「自己・自我」として説かれています。これは「自己」(=内なるキリスト)に動かされ、それを表現する(映す)自我です。「自己」とは要するに自分の本質であり、キリスト教的には、「内なるキリスト」に生かされ動かされる自我です。それは復活したキリスト(…青野太潮氏の言い方では「十字架につけられてしまったままのキリスト」)であり、そのキリストが自分の内に現れたという感覚によって人は「単なる自我」から本来の「自己・自我」の自我となる。

「私はパウロ的『うちなるキリスト』を、それがまさに自分であるからして、自我と区別して『自己』と呼ぶことにしている。身体のなかに『自己』が現れた場合、人は『単なる自我』ではなく『自己・自我』となる。」(~エッセイ「私の仕事について 歩みとまとめ」)

「内なるキリスト」とは「私たちの中ではたらく神」であり、イエスの言う「人の子」・「神の支配」と一致する。クリスチャンの自我とは本来そういうものなのです。ところが私のように、すぐに「単なる自我」へと転落してしまいます。それは罪によるものです。八木氏の思想において、「単なる自我」の反対の、本当の「正常なる自我」は「『自己・自我』の自我」であるといわれます(八木氏の前掲エッセイ参照)。

4743 (nanzan-u.ac.jp)

八木誠一氏の「自己・自我」説については、『創造的空への道』(ぷねうま舎)p18,19、『イエスの宗教』(岩波書店)p160~166 、『回心 イエスが見つけた泉へ』(ぷねうま舎)p158~166、その他を参照。

ところで、イエス・キリストが言った自分を「捨てる」ということに関して、武藤健氏は次のように述べておられます。

「自分を捨ててこい。これは否定の倫理、否定の実践であります。しかしながら、イエス・キリストにおいては、その否定がこの世を離れ、山にはいり、いっさいの社会的環境から離れて行ないすますところの、無欲恬淡の中の生活をさしているのでありましょうか。ルカによる福音書の、あの墓場で気が狂っていた者をお癒しなさった時、彼に向かって、『家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。』といって帰された一節がありますが、イエス・キリストにとっては、否定が、われに従ってこいという、真の肯定をさすものである。われに従ってこいというのは、つぎの段階において、もう一つのものを実現していく、新たなるものを作りあげていくということでありました。捨てるとは、物をどぶの中にすてるということではない。すてるということには、よい芽を出すという、積極的な論理がある。否定するとは、否定して暗黒にかえるということではない。否定して肯定が生まれてくることを意味する。何がそこに生まれてくるのか。何がそこに実現されてゆくのか。そこに、福音がある。(中略)イエス・キリストの福音には、否定した後にあらわれてくるものがある。われを信ぜよ、神を信ぜよとの、イエス・キリストの信仰の確信であります。『わたしの言葉を信ずるならば、あなたがたはわたしの中にある』。わたしは、あなたがたの中にあるのだ。『ある』、『おる』ということ、キリストわれにあり、われキリストにあるという新しい存在の形は、否定しっぱなしの無我の教えとはちがう。山の中にはいって、じっと座っているのとはちがう。それは活発な活動的なキリストがわが中にあり、われキリストにあるという、新たなる生活態度の中にあらわれてくるものであります。」(『日本の説教 12 武藤健』〔日キ教団出版局〕p206~207)

これはキリスト教において「自分を捨てる」ということが単に否定的なことなのではなく、キリストが内にいる自分になるという肯定的なことへ媒介される積極的なことだというわけです。キリストが内にいる自分とは、八木先生の御著書では「自己・自我」になります。

その八木誠一氏の宗教哲学的思想においては、キリスト教と仏教との共通点でもある「直接経験」では、「主・客」や「我・汝」の直接経験よりも「自己・自我」直接経験が特に重要です。これは、「主体の交替」であり、「『単なる自我』が絶命して、統合心からはたらく『自己・自我の自我』として甦る」ことです。但し、「単なる自我」は必ずしも「凡夫」ということでもなさそうで、要は「倫理性の完成に自分の存在根拠を見ている」人であり、「キリスト宣教に接しても、倫理的努力を放棄したらどこまで堕ちるか判らないという不安に襲われて、なかなか『信仰の決断』を実行する決心にいたらない」が、それが「どのみち倫理的完全性は不可能だとわかって、イエス・キリストにある贖罪を仰ぐ」ことになって「主体の交替」に至るわけなので(以上、引用は『創造的空への道』p200~201)、落語に出てくる煩悩の塊のような一般大衆のクマつぁんハっつぁんの類とは違うようです。それはともかく、承認欲求にとらわれ無用なプライドをかかえて自ら心に傷を招いている人間もまた「単なる自我」と言えるのでしょう。そんな自分をキリストと共に十字架につけて殺す、すなわち自分を捨てることによって、内なるキリスト(自己)を主体とする自我として復活するのです。それをいかにして為し得るかが実践的テーマであり、まずが瞑想とか祈りといったことがあげられるわけですが、いかがでしょうか…。「単なる自我」から「自己・自我の自我」への主体交替に必然性はなく、「ある確率をもって『統合心』が目覚めてくる」と言われています(『回心』p173.166参照)。

父・子・聖霊なる神は絶えず、信者の「我執」(=「単なる自我」が自分のプログラムに固執すること)をキリストと共に十字架につけて砕き、そこから自己(内なるキリスト)によって生かされる自我を復活させて救い給うのです。これが「『我』の消滅」であり、その「我」は「自我」ではありません。自我の「志向」としての「我執、我欲、我意」です。岸田氏と八木氏との対談にも示されているとおり、自我が消滅しちゃったら、人はわけがわかんなくなるからです。「よく宗教の目的は自我を滅ぼすことだといわれるが、この言い方は誤解を招く。滅びるのは自我ではない。自我が滅びたら大変だ。人間が人間でなくなってしまう。滅びるべきは我執・我欲・我意の『我』なのである。」(『回心』P158)

しかし言い方としては「『古い自我』(単なる自我)に死んで『キリストが私のなかで生きている』という生き方に転換する」という表現を八木氏はしています(同上)。他のところで聞いたことですが、昔の福音派では「自我磔殺」などという言い方もあったようです。

問題は「転換=主体の交替」(=「単なる自我」から「自己・自我」への転換)の自覚であり、これがイエスの言う「メタノイア・回心」であり、これは仏教の「悟り」に対応すると八木氏は述べています。そしてそこに「確率」論が出てくるのです(『回心』P173他参照)。

八木誠一氏の「自己・自我」説などは、人間関係の問題に関して、へたな心理学の本など読むよりも有益だとは思いますが、いかんせん表現が難解で、哲学的思考に慣れていない人にはついてゆけない感じがします。それでも八木氏ご自身は現代人に通じることばで語っておられるようですが、その現代人というのもインテリ層が中心になります。自分はもっと一般大衆の層にもわかるような言葉で語ってほしいと思うし、八木氏ご自身には無理な注文なら自分たちがそれをやるべきだと思います。もちろんこれまた難しいことですが…。

とにかく八木氏の著書は「統合」などの難しい概念が多いので、そのような表現を「非神話化」ならぬ「非神学化」によって解釈し、少しでも平易な表現に変える必要があります。そして、聖書にせよ八木氏の言説にせよ、倫理的には庶民の現実から遊離した理想的傾向があるので、これを現実的に捉え直す必要もあります。それによって、対人関係にも応用できる実践的な思想になるはずですが、自分が「単なる自我」から「『自己・自我』の自我」へと、すなわち内なるキリストを映す正常な自我へと回心したのだ…ということは客観的な事柄ではなく、自分がそう思い込むことが何よりたいせつ。すなわち、最後の決め手は自己暗示です。この点に私の応用におけるオリジナリティーがあります。

たとえば「単なる自我」から「自己」を映す「自我」になる…内なるキリストによって生かされる自分になる…ということを日常の経験を通して私なりにわかりやすく言えば、自分の過剰な自尊心とか無用なプライドが信仰によって無効となり、他人からの侮辱的言動にも感情的に反応しない自分に替えられる…ということで、それが無理ではなく自然なことであるためには、我執が滅ぼされて自分が死んでも、神・キリストに生かされている本来的な自分は死んでいない…むしろ自分が死ぬことによって本来の自分が立ち現れてくる…ということを自覚するのです。とは言え、実際には一度、本来の自分になったからそのままずっといけるかというとそうではなく、罪人である以上、常に単なる自我すなわち感情的に反応してしまう愚かな自分に戻ってしまうので(『創造的空への道』p184では「坐禅から立ち上がれば、また元の単なる自我に戻ってしまうという問題」にふれられています)、悔い改めは生涯を通して絶えずなさねばならないわけです。もちろん実践的には瞑想もたいせつなことでしょう。しかしそれ以上にたいせつなのは「自己暗示」の力です。例えば職場の人間関係において、腹が立つようなことを言われても「自己・自我」であるべしと思い、平常心を心がけます。そして自分は八木氏の「自己・自我」(説)を実践し体現し得ているのだと自分に思い込ませる…暗示をかけるのです。この暗示かけがなければ、私が「自己・自我」の自我になったとか自己になったとかいったことは客観的事実として証明することはできないし、実際に急に人間が変わるわけではないのですから、現実に主体が交替してはいないとしても、交替したと自分に思い込ませられればOKだし、そういう暗示かけがなければ、八木氏の「自己・自我」説など我々の日常生活では実践的関心事とはなり得ません。仮に「自己・自我」説を本気でやるとなると、「無相の自己」として自分は「迷いが無い」とか「死なない」とか言った久松真一氏と同様、世間的には気が変な人とか誇大妄想の人…と思われることになりかねません。

アドラー心理学ではマズローの欲求階層説における「承認欲求」は否定されるといいます。youtuberでひじょうに胡散臭いカバ先生によると、同じ「承認欲求」にもドーパミン型とオキシトシン型とがあって、後者の方ならよいのだそうです。承認欲求は良いのか? 悪いのか?【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

許せない相手を忘れる方法【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

私は対人関係におけるストレス問題に関しては心理学は信用しませんが、精神医学は少しは信用します。但し、いずれにしても八木氏が言われる「単なる自我」による営みである以上、治療と言っても根本的な解決にはなりません。

さらに、この場合はどうでしょうか?脳のことがらで型とか言ってそんなに明確に分けられるものでもないでしょう。仮にそういう型で分けられるとしても一人の個人において前者が良い場合もあれば悪い場合もあり、後者も同様で、固定的な見方は危険だと思います。

柳澤桂子さんは神秘主義について、快感物質のエンドルフィンが作用するものとの見地から宗教的苦行を意味付けされましたが、エンドルフィンは脳内麻薬でランナーズハイです。ふつうの人の生活にはあまり有用ではないでしょう。救済宗教はそのような特異な領域に矮小化されるものではないのです。ちなみにタバコを吸うとひらめきのアセチルコリンの分泌をさまたげるそうなので禁煙してよかったです。

キリスト教では対人関係の問題ではよく「許す・赦す」ということを言います。それは独善的な心情と不可分です。主の祈りでは「我らに罪を犯す者」なので、これは「敵」であり、その「赦し」は別の箇所の所謂「愛敵」の教えとも関連すると見ることも可能です。そこで肝心なことは「赦す」ということを上から目線で考えてはいけないということです。

「許し」にせよ「赦し」にせよ、個人の内での対機説法ならぬ対処療法的な意味では暫定的な有効性を認め得ると思いますが、それはしょせん個人内でのことであり、外界なしに自己も無いわけなので幻想にすぎません。これは自分で自分を誤魔化すということにすぎないのです。それは心理療法的に自分の脳をだますこととは意味が若干ちがうのであり、対人関係でのストレスに対する療法としての自己暗示ないしは自己詐欺は、要は被害にあっている脳と同じ脳が自らフラッシュバックなど再現作用によって自分の身体にストレスを与える加害的作用を及ぼしているという自己矛盾的事態を客観視することが基本であって、ストレスを与える無駄な思考を停止したり、苦しんでいる自分を客観化することによって苦しみそのものを相対化し無意味化するといった工夫です。具体的には前述のとおり、文字にして書くということ。

「感覚が自我は身体の一機能であることを示している」(『〈はたらく神〉の神学』134頁)

私のメンタルヘルス的自我論の目的は、自我を弱体化しつつ、それによる生活への支障を防ぐこと。自我弱体化こそがメンタルヘルスのカギになると確信する私ですが、自我弱体化によって生活に支障が生じることは防止せねばなりません。単純化して言えば、お人好しになるのはいいが、他人に利用されて損するようなことがあってはならないわけです。自己の安全保障を考慮した上での自我弱体化でなければなりません。

「自我」とか「自己」に関する本で私が過去に目を通して印象が残っているのは、上田閑照著『私とは何か』(岩波新書)、酒井潔著『自我の哲学史』(講談社現代新書)、船津衛著『自我の社会学』(放送大学教材)、『岩波講座 現代社会学2 自我・主体・アイデンティティ』(岩波書店)など。この中で上田氏の本から、私が前述の「自我弱体化&自己防衛」の観点で特に重要と思われる箇所を、長くなりますが引用というか抜き書きしておきます。

※〔 〕内はルビ。

< あるとき、「私」という「無いもの」を忘れていた「私」という「有るもの」に「私」という「無いもの」がまたまた突然現れ、風のように、「私」という「有るもの」を吹き冷ました。すると、それまでのことがきれいに吹き消されて、「私」という「無いもの」と「私」という「有るもの」との、今はじめてであるかのような出会いが始まった。ところが、いつのまにかまた先と同じことが起こった。「私」という「有るもの」と「私」という「無いもの」との「私」なる関係は、こうしてくりかえしくりかえし同じことになった。「私」という「有るもの」は、良くもならず悪くもならずこのくりかえしが「私」ということかと思いつつ、しだいに歳をとっていった。一方「私」という「無いもの」は、歳というものを知らなかった。ところで、「私」という「有るもの」が「私」という「無いもの」に出会う前から、「私」という「有るもの」は、どちらを向いても「私」という「有るもの」に出会っていた。「私」という「有るもの」と「私」という「有るもの」とが出会うとき、いつも、大きな音ではないが、はっきり聞こえるなにか奇妙な音がした。ぶつかり合ったり、捕まえ合ったり、抱き合ったり、手をつなぎ合ったり、つき放したり、つき飛ばしたり。ときには殴ったり、殺したりさえして。「怨憎会苦」〔おんぞうえく〕(いやな人と出会う苦)あり、「愛別離苦」〔あいべつりく〕(愛する人と離別する苦)あり。このようにして、「私」は疲れ、「私」は疲れさせ、「私」は傷つけ、「私」は傷ついた。「私」という「有るもの」が「私」という「無いもの」に出会ったのは、そのようなときであった。そしてくりかえされる出会いをへながら、「私」という「有るもの」はしだいに歳をとっていった。「私」という「無いもの」は、歳を知らなかった。「私」という「有るもの」がこの世での折々に「我あり」と叫ぶと、何処からともなく「我なし」とこだまが帰ってきた。「私」という「有るもの」はそれに苛立ちを覚えていたが、歳をとるにつれて苛立つこともすくなくなり、しだいに「我なし」とこだまする声に聞き入るようになった。>(p29~30)

< 仏教の基本思想は「私なるものはない」と言う。仏教成立当時の印度思想が言う「常一主宰者」としての「我」の存在を否定し、したがってまた当時の宗教・哲学における主潮をなしていたいわゆる「梵我一如」を否定して、「無我」ということを立場としたのである。「我なるものはない」は、実践的修道論的意義を強くこめて人間主体の「我」の否定を説くのみならず、すべての存在するものが自己同一的な実体として存在することを原理的に否定する。「我なるものはない」がこのように存在論的なテーゼとして出された場合、存在の肯定性はどのように見られてくるか。「何もない」のではないとすれば(「何もない」とするいわゆる「断無論」「偏無論」は仏教も否定する)、そもそも何がどのように「ある」ということになるのであろうか。無我説では、通常「我なるものはない」ということとスムーズに連動して「すべては関係のうちにある」という関係性に存在が見られることになる(仏教で縁起という見方が出されているのはここである)。しかも「我なるものはない」のであるから「関係するもの」も「存在するもの」としてはないのであり、「関係するもの」もまた関係から成立するということになる。「存在するもの」と「存在するもの」があって関係するのではなく、「関係するもの」もまた関係から成立するということである。このようないわば超関係論が存在論になると、すべてが関係に還元され溶解されてしまうであろう。そしてこれがそのまま実存の自己理解にうつされ(映され、移され)、「私」が関係性へと溶解されて、解消する。このようなところにまでくると、「我」〔が〕からの脱却のための導きという実存的実践的意義の射程をこえて、不適切な存在論・実存論となるおそれがある。「ある」がすべて超関係性のうちにあるということで終わりであって、「私なるものはない」即「あるのは関係のみである」が人間主体である「私」という「存在するもの」の最後のことであるとするならば、自発性や責任など、人間にとっての基本的な事柄の場所がないことになってしまうであろう。単純化して「私と汝」の場合、「私」という独立独自の起点の可能性なしに「私」が「汝の汝」、「他者の他者」という関係にほぐされた場合、そもそも「私と汝」ということも成立しなくなるであろう。(中略)「我」が関係性に解消されて「我なし」であるとき、「我なし」のその「無」は関係に満たされるとともに、関係を透過して関係の究極の場所である「限りない開け」、すなわち関係の底なき底、いわば「永遠の無」に通じている。このように、「我なし」の「無」は実は関係に解消される以上の「無」である。また、そうであってこそ、「我」〔が〕によって握りしめられている「我」が否定され得るのである。「我なし」の「無」は単に我の「無」ではなく、「底なき無」である。関係の交わる結節点が突起するごとくに「我」が生起するとき、全関係を唯一独自の仕方で集約映現〔えいげん〕するその結節点は、全関係の底の「無」から突起してくるのである。「無から」全関係が唯一独自に結節するところに、「我」が生起する。こうして「我」はあらためて「無」から始まり、「無」から始めることができるのである。真に「我」と言い得るのは、このように、「無から」(ex nihillo)始め得る限りにおいてである。「我なし」は関係性に解消され、(逆に言えば)関係性に満たされるだけでなく、「我なし」の無は関係性の底の無底である「永遠の無」にとどいていて、関係の結節点である「我」はこの無から関係性を通って働くことができ、それによって全関係性に新しいものを加えることができるのである。これが無からの真の自発性である。以上の全過程をひとつにつないで形式化して言えば、「我は、我ならずして、我なり」となる。これは「我は我なり」という一直線の連続的自己同一ではなく、「我なし」によって非連続的に切断され、そして「我なし」が確保されたうえでの「我」である。(中略)以上、「私はあるか」への一方の極端な答、「我なるものは存在しない」即「あるのは関係のみである」という考えをその根本動機にそって修正して、創造的自発性の非実体としての「我」を見、またそれをそういうものとしてそのまま「夢」と見た。その動的な事態の全体を自覚の形式で言えば、「我は我なり」ではなく、「我は、我ならずして、我なり」となるであろう。あるいは単純化して「我は、我なり」。「我は」と言いだした「我」は、「我なし」と関係に解消されるだけでなく、いったん無にまで解消され、そこから再び「我なり」と蘇り、関係を個々一人一人独自に集約しつつ立ち上がってくる。そのとき、立ち上がってきた「我」は、立ち上がる勢いに存在の充実が荷電されていると同時に、存在するままで「無」に透かされて「夢」でもある。立ち上がるその勢いは、古来無我の働きと言われる。無我を言う伝統のなかでは、無我はむしろ働きとして見られている。>(p154~160)

その上田氏は、『岩波講座 現代社会学2 自我・主体・アイデンティティ』所収の「自己の現象学」の中で「十牛図」を通して「自己」を現象学的に説いておられます。

< 自己とは、自己が自己になるということ、しかもその「自己になる」は単なる生成、ないし連続的実現ではなく、「真の自己になる」、即ち非本来的な在り方から本来的な在り方への転換を含んで始めて真の自己になるということである。このような「自己」の独特な在り方を主題としたものの一つに、「十牛図」と呼びならわされている禅の古典的テクストがある。これは、真の自己の自覚に訴えるために、自己が真の自己を求め、自己が真の自己を自覚し、その自覚として真の自己になるという現成の歩みとその真の自己の在り方とを十の場面に分けて図示したものである。>(p212)

同書所収の論文では放送大学教材と重複するが、船津衛氏の<「自我」の社会学>が必見でしょう。

<自我は、これまで、デカルトの「ワレ思う、ゆえにワレあり」に代表されるように、孤立的なものとして考えられてきた。この自我イメージは近代社会の成立と結びついて登場した。それは封建社会を打破し、多くの束縛から解放され、自己を強く主張する、自由で独立な「近代的自我」として出現した。フランス革命の精神的支柱となるほど、それは歴史的に大きな役割を果たしてきた。しかし、近代的自我は、次第に、他者の存在を無視し、自己中心的なものとなり、さらには、自己を絶対化し、また他者を手段視するようになった。その結果、エゴイズムがはびこり、社会の拡散や社会解体が生じ、アノミー状態がもたらされた。ここから近代的自我の存在自体が問われることになった。このような近代的自我のイメージとは対照的に、自我はあくまで他の人間とともにあると考え、現代人の自我の社会的様相を解明しようとするのが自我の社会学である。自我の社会学は、人間の自我が他者とのコミュニケーションを通して形成されることを具体的に解明していこうとする。日本人の生き方は、浜口恵俊によると、「人と人との間に自分がある」という間人主義である。間人主義とは「対人的な意味連関の中で、連関性そのものを自分自身だと考えるような人間のあり方」(浜口、一九八ニ、五八頁)であり、その特徴は相互依存、相互信頼、対人関係の本質視である。このような間人主義においては自我は他者とのかかわりにおいて形成されている。日本人の自我は社会性を有しているといえる。また、木村敏によれば、日本人において自我は、「自分自身の内部において決定されるのではなく、自分の『外部』において、つまり、人と人、自分と相手の『間』において決定される」(木村、一九七二、一四二頁)ものである。(中略)山崎正和によれば、現代の消費社会における人びとの自我は「柔らかい自我」として、他のひとを気にする自我、他人を内に含んだ自我となっている(山崎、一九八四)。それは他者に依存する点において独善的ではなく、「柔らかい個人主義」の自我である。現代消費社会の自我は他者を考慮する社会的自我となっている。(中略)近代的自我もまた他者を気にする「柔らかい自我」となっている。ここから、人間の自我はすべて社会性を有しており、自我は本質的に社会的であるといえる。(中略)「分裂症」患者の自我も社会的である。「分裂症」とは自分は誰か他のひとによってあやつられているとか、他人が自分の中に入り込んでいると思うように、自己が確実な自己性を有していないとされる状態を指す(木村、一九八一)。このような「分裂症」における「他者の介入」は、他者が存在していることが前提となる。つまり、「分裂症」の自我も他者とのかかわりにおいて生み出されていることになる。(中略)人間の自我は、他の人間との関連において社会的に形成される。自我は本質的に社会的性格を有している。したがって、他者から離れると、自我は消滅してしまう。(中略)自我の社会性をもっともよく表現した言葉がC・H・クーリーの「鏡に映った自我」(looking-glassself)である。クーリーによると、人間の自我は鏡としての他者を通じて初めて知ることができる。人間は自分の顔や姿を自分で直接に見ることができないが、しかし、鏡に映すことによって具体的にわかる。それと同じように、人間の自我は他者を鏡として、鏡としての他者を通じて知ることができる。(中略)このような他者とのかかわりは三つの側面においてなされている。第一は、他の人間がどのように「認識」しているかについての想像を通じて、第二は、他の人間がいかに「評価」しているかについての想像によって、そして、第三に、これらに対して自分がもつ自己「感情」である。他の人間によって「仲間」の一人とみられ、しかも「優等生」、また「将来有望」として尊敬に値する人物と考えられ、自分もまた、それを誇りに思っている人間の自我は大きく豊かなものとなる。しかし、他の人間によって、その存在が無視され、さらには、「ヨソもの」、「落ちこぼれ」、「窓際族」などと否定的に評価されて、失意の状態にある人間の自我は縮小し、また崩壊してしまうおそれがある。人間の自我はこのように他の人間とのかかわりにおいて社会的に形成される。このような「鏡に映った自我」の概念によって自我の社会性を強調するクーリーは、当然のことながら、デカルトを批判する。クーリーによると、デカルトの「ワレ思う、ゆえにワレ有り」はきわめて不十分な表現である。なぜなら、ワレは人間の誕生とともに最初から存在するのではなく、それは成長のやや進んだ段階において初めて現れてくるものだからである。また、ワレはワレだけで終わるのではなく、必ずワレワレとなるものである。そして、ワレはワレワレのなかにおいて生まれ、発達するものである。ここから、クーリーは「ワレ思う、ゆえにワレ有り」ではなく、「ワレワレ思う、ゆえにワレ有り」が適切な表現である、と述べている。(中略)自我は他者とのかかわりにおいて形成されるという自我の社会性をもっとも強調し、そのことを具体的に明らかにしたのがG・H・ミードである。ミードは自我の孤立説を否定して自我の社会説を主張した(Mead,1934)。自我の孤立説とは自我が社会に先行して存在しているとする考え方であり、デカルトの自我論がそれに該当する。しかし、それでは自我はどこから生まれるのかを説明できない。ミードによると、社会は自我に先行して存在し、自我は社会から生まれる。自我はそこにおける社会的経験と社会的活動の過程において他者とのかかわりから生み出されてくる。そう主張するのが自我の社会説である。ミードによると、自我はそれ自体として自然発生するものではない。それは他者の態度、期待、パースペクティブとの関連において生み出されてくる。人間の自我は他者の態度、期待、パースペクティブを自らのうちに取り入れること、つまり「役割取得」(role-taking)を通じて具体的に形づくられる。そして、このような「役割取得」による自我形成にかかわる他者は一人ではなく、複数存在している。しかも、その間に調和ではなく、ズレや対立が存在する場合も少なくない。このような複数の、ときに対立することもある他者とのかかわりについて、ミードは「一般化された他者」(generalized other)の概念を用いて明らかにしている。(中略)このような自我の社会性の拡大は、しかし、それによって、人間の主体性を否定することには必ずしもならない。むしろ、両者の結びつきにおいてはじめて自我のあり方が具体的に理解される。ミードによると、人間の自我には二つの側面がある。ひとつは「主我」(I)、もうひとつは「客我」(Me)である。「客我」とは他者の期待をそのまま受け入れたものであり、「主我」とはその「客我」に対する反応である。「客我」が自我の社会性を表わし、「主我」が人間の主体性を示すことになる。自我はこの「客我」と「主我」とのかかわりから成り立っている。そして、ミードによれば、「主我」は自我の積極的側面を表わし、それは人間の個性、独自性を示し、そして、新しいものを生み出すものである。この「主我」は人間の本能あるいは衝動を意味したり、「客我」以外の残りのものすべてを指すというようなものではなく、人間の「創発的内省性」(emergentreflexivity)を表わしている。「創発的内省性」の出現によって、自分が新しく生まれ変わる。それと同時に、新しい自我の働きかけを通して、他の人間も変わるようになる。ここから出てくる他者や社会のイメージは、動かないもの、固定したものではなく、変化するもの、ダイナミックなものとなる。このように、自我は社会的なものであると同時に主体的なものであるといえる。(中略)ミードによると、人間は「意味のあるシンボル」を通して、他者の態度をイメージに描くことができる。そのことによって、人間は自己を「対象化」しうるようになる。自己を「対象化」することは、すなわち、自己を内省化することを表わす。つまり、他者の観点から自己を省みて、自己のあり方を検討するようになる。そこに内的世界が開かれ、内的コミュニケーションが展開されることになる。この内的コミュニケーションにおいて、他者の態度が表示され、それに関連して自己の態度が表示される。このことによって、自己と他者との関係が再構成され、新たな行為の可能性が追求されることになる。すなわち、内的コミュニケーション過程においては、内在化した他者の態度の解釈、つまり、意味の選択や評価がなされ、その修正や再構成が行なわれる。内的コミュニケーションは、「現在の行動の問題を、過去と未来の両方に照らして、あるいは、それらとの関連において解決しうる能力」(Mead,1934: 100.邦訳一〇八頁)である。H・ブルーマーは、このことを「自分自身との相互作用」(self interaction)として解明している(Blumer,1969)>(p46~60)

一方、酒井氏の『自我の哲学史』では、単なる社会的自我説などでは済まされない自我の根本問題が示唆されているので、これも書き写しておきます。

< 「自我」とは、「自らの」「我」のことである。誰でもそれぞれその人なりの「我」とか「私」をもつが、同じようにこの私も自分の我をもつ。これが自我である。(中略)その「自我」のことをわれわれは、ふつう多かれ少なかれ、「主体」(subject)、「意識」(conscience)、「心」(mind)などの概念とダブらせて解してはいないだろうか。身体にしても、自我=心がこれを「所有する」のだとイメージされる。いわゆる「所有」(property)の概念も、ジョン・ロック(一六三二 ― 一七〇四)などにより主題的に論じられ、近世における自我概念の形成にじつは関係している。「私」はまず心であり、その私がこの身体をもつのであって、身体が心をもつとはふつう言わない。英語のI(self)、ドイツ語のIch、フランス語のmoi、あるいはラテン語のegoなどに対応する「自我」という言葉は、それ自体一定の意味内容を含んだ概念を指すのである。(中略)デカルトはわれわれが心の中にもっている観念のなかで何が最も確実かを問う。(中略)「自我」という観念こそは最も明晰で判明であって、その現実存在がいささかも疑い得ない、とデカルトは判定する。では、その「自我」はどのような存在者かといえば、それは何よりもそれだけで存在するもの(実体)であり、しかも考えるもの(res cogitans)である。考えるというのはこの場合、広く意識し意志することの全部を指す。私が考えている間は、私を「存在しないもの」ということはできない。自我が現実に存在するのは、何よりも自我が考えるもの、すなわち精神だから、というのがデカルトの議論である。われわれの自我は、認識し意志する主体だが、それはさしあたり精神としての自我として了解されていると思われる。>(p3~5)

< 改めて賢治や西田の自我(自己)論を概観するならば、それらがデカルトとカントを起点とする実体、自己同一的、統一的自我と非常に異なっていること、そして西洋哲学の伝統とは異質な、むしろ仏教的な見方に近いことがはっきりわかる。これを表象化したものが賢治の「因果交流電燈」的自我だった。それはともかく、西田はとくに一九三〇年代以降、「歴史」の問題に向かい、歴史を、無を根底として個が相互に無尽に限定しあう絶対矛盾的自己同一としてとらえようとする。そこでは世界も自我もそういう矛盾的自己同一のいわば坩堝、大海のなかに吞み込まれていくかのようだ。自我の営みや作用は全面的に歴史の中に収容される。自我と他者、自我と世界は相互に溶解する。そうした全体が、西田によってしばしば日常的全体あるいは歴史と同一視されるのである。しかし疑問も残る。われわれは、「何であるとは言えないような」、「無に包まれた」、「絶対矛盾的自己同一」としてのこの歴史的世界において、現実にはどうふるまうことができるのであろうか。私は何でもない、私は変化するし、同一的でない。そのような自己理解でわれわれは、今日の公共の、つまり個人の権利と義務を縦軸横軸とする社会で、個々の局面にどれだけ有効に対処し得るのだろうか。心象スケッチの賢治も、述語論理の西田も、ともに、自我をコレコレであると概念規定するよりも、もっと深いところで自己を体験することをわれわれに説く。囚われのない自由な自我ということは、自我があらゆる悟性的論理的規定から解放されているというだけでなく、己れの内奥に深まり、内在的な超越の可能性を開示する。何であるともいえず、せわしなく点滅する断続的な自我は、その表層の下に深い可能性を秘めているのかもしれない。西洋の哲学では、表層的な自我の根底に、それに内在しつつそれを超越するような契機(内在的超越)がしばしば主題的に問われてきた。カントの実践哲学などはその好例であろう。表層の自我とは、公共的生活を営む社会的自我であろうが、身体と結合しているゆえに、つねに傾向性の支配に服している。それに逆らって各人の内なる善意志が命令を下し、表層の自我を服従させる。それが自律という事態である。(中略)このような本来の深い自我(自由)の体験は、道徳のみならず、芸術、宗教などの可能性を基礎づける場合にも重要である。>(p181~182)

デカルトの意識の明証性、ならびに精神の実体性、および身体(延長実体)との区別という形而上学的前提を継承しながら、ユニークな自我論を展開するのがライプニッツである。ライプニッツは自我について実在的観念を主張した。それが「個体的概念」説と呼ばれる議論である。ライプニッツは、自我が存在者(あるいは実体)であるか、自我とは何であるかを認識するためには、デカルトのように単に自己意識(自分が何々していることに気づくこと)だけでは不十分だと批判する。そしてそのためには「私」と呼ばれるものの全内容をアプリオリに含む「私の個体的概念」(la notion individuelle de moi)がなければならないと主張する。>(p74)

ニーチェの自我は、理想化された啓蒙のあるべき自我、あるいは目的や完成に向けて常に限りなく前進する自我ではなく、どこまでも現実的な自我をそのモデルとしている。合理的ではないものや醜さも含めた自我の考察が、ヘーゲル以降のショーペンハウアーキルケゴールニーチェの立場となる。しかしその場合でも、自我が、世界を認識し意欲する主観、能動的、欲求的自我として見られているという特徴は、デカルトやカントから一貫している。世界は意志としての自我によって表象された像となる。後にハイデッガーニーチェを評して、近世の表象的主観の形而上学の極点であるとみなすことになる。(中略)

ニーチェの自我論の特徴と貢献をいえば、われわれ現代人(基本的には近代人の延長である)の自我観念を、それに先駆け、予想して論じていることであろう。ニーチェは近代人の標準的な価値観、たとえば世俗化されたキリスト教的徳目(隣人愛、同情、慈善等)、民主主義、市民道徳等を痛烈に批判する。それはまた、われわれが自己を過大評価または過小評価したり、自惚れや卑下を行いがちだということへの鋭い指摘でもある。ニーチェは人間を理想化せず、その現実相において観察し批評しようとする。その意味で彼は自我のリアリズムに徹しようとしているとも言えるが、しかし同時に俗物性への激しい反感があることも看過できない。そういう世間的なもの一切への嫌悪感、反俗性はニーチェの重要な要素である。じつはニーチェには理想主義的なところがある。既成の市民道徳の偽善や形骸化をよしとしない。それらのイデオロギーだった民主主義とかキリスト教とは異なる、別の道徳を目指すのである。それは、一言でいえば「力への意志」に依拠した新しい自我の有りかた、つまり「超人」(中略)の道徳である。「超人」とは〝スーパーマンなどではなく、自己を超えて(中略)ゆく、自己超克する自我のことをいう。偽善や自己欺瞞を激しく糾弾するニーチェは、リアリストでありながら、神なき時代の人間の生き方を模索するアイディアリストでもある。『ツァラトゥストラはかく語りき』第一部終わり近くに、「隣人愛」と題した一節がある。そこでニーチェは、キリスト教の徳目の代表である隣人愛が、じつはエゴイスティックな自己愛の裏返しでしかなく、他人への残忍な復讐であることを暴露する。彼は、他人に厳しい愛、それゆえ他人を辱めないような「遠人愛」を勧めるのである。また第二部のはじめの「同情者たち」では次のような語句が目を引く。「高貴な者は、他者に羞恥の思いをさせるな、とおのれ自身に命じている」。「まことに、わたしはひとに同情して幸福を感ずるようなあわれみ深い人たちを好まない」。「大きい恩恵は相手に感謝の念を起こさせない。それどころか、相手のうちに復讐心を芽ばえさせる」(手塚富雄訳、中央公論社)。だから、ニーチェによれば、あらためて「力への意志」として肯定された自我は、もはや他人に同情せず、擦り寄らない。その意味で高貴な、それゆえ孤独な者である。(中略)ニーチェは自我の観念を、自己の良心において徹底的に裸にする。そして近代の啓蒙的、理性的、民主主義的な自我像の欺瞞、すなわちわれわれの自己理解の齟齬、あるいは偽善を糾弾した。たしかに自我は卑しく、自らの倒錯した弱さやルサンチマンを姑息にも隠蔽する。にもかかわらず、そういう自己を「汚い」と感じるのもまた自我である以上、ニーチェは後者の自我に自己超克、ニヒリズムの克服の可能性を見てとる。このときニーチェの拠って立つものが、きたるべき「超人」の道徳であり、「同じものの永劫回帰」という思想である。『ツァラトゥストラ』は、「力への意志」に基づく新しい道徳の書なのだ。とかくニーチェは道徳否定論者と受けとられているようだが、それは一面であって、むしろ人間の生を圧殺する奴隷道徳に代わる新しい道徳を志向しているのである。このような意味でニーチェは隠れたモラリストといえよう。(中略)ニーチェが「自我」とか「個人」とかいうとき、それは他の自我たちから見ても同じように見える、ワン・ノブ・ゼムとしての、単に孤立したアトム的自我ではない。そのような自我は、己れをつねに他の自我たちに合わせながら生きる。ニーチェは民主主義や自由主義の時代における個人が、多くの場合、そうした集団の中の一人でしかないことを看破していた。真の自我は、本来他人との比較を絶したものである。他者の発言や過去の伝承を、自我は自己に照らして解釈する以外にないのである。ゆえに真の自我とは「創造する者」でなければならない。しかし、力への意志としての、超人としての自我は、この生成の歴史において存在するとニーチェは考えている。つまり、超人は時間的世界の歴史のうちにありながら、歴史を超克するという存在なのである。(中略)超人にはたしかに「超える」という面がある。しかしそれは、くり返すように、自己を超えゆく人である。俗世間や既成道徳に漬かりきった自己を超えて、生き生きした生の本源に立ち返る、すなわち彼岸の真理に代えて、此岸の生を欲するのでなければならない。これは、生きていくうえでのさまざまな伝統の規範、表象、イデオロギーから脱して、生きる意味を自分で解釈し直す、すなわち創造することなのである。しかし生の意味を、全く新しく創造するということは難しい。その具体例について、ニーチェは、古代ギリシアディオニュソス神を、その典型ないし原型として見ている。だがニーチェでは他方で、人間の自我のあるべき姿が「超人」として未来に置かれる。つまり、過去(ディオニュソス)と未来(超人)の中間が近代という堕落した時代である。超人の存在はここで価値にも結びつけられている。超人とは良きものであり待望される存在者だ。(中略)自我をデカルトやカントのように、純粋な精神とか意識として把握するのは狭いといえよう。これに対してニーチェは、一種の反俗的で超俗的な感情を示唆する。そして自我を理念化するかわりに、「没落しつつ生を意志するもの」として際立たせる。すなわち身体性をも考慮しつつ、しかし生の衰退としての知識や、そのような知識としての歴史(史学)とは距離を保つのだ。感情、身体、生の全体からなる自我、すなわち「力への意志」こそ、ツァラトゥストラが体現しているところの自我像に違いない。このようにしてこそわれわれは、人間の現実をすべて「歴史的」と見なし、人間存在の意味を全面的に歴史に回収しようとする歴史主義の頸木から、解き放たれることができるであろう。(中略)キルケゴールニーチェも、人間の自我を普遍的理性として取り扱うのではない。あるいは思惟実体という形而上学的定義、超越論的統覚という論理的規範とも見ない。そうではなくて自我を現実の相から見る。そしてその根底に「意志」をみてとる。それは、必ずしも気づかれないが、真理への意志をも支配するような根源的意志である。自我の根底にこのような意志が看取されることを通じて、しかし、デカルトからカントを経て確立された自我の連続性、同一性、主体性は一層強化されるのである。ニーチェは根源的な意志が、単独者としての自己を貫徹するというところに、自我の本分、あるいは道徳性の発露を認めた。そのとき、「私が私を」というカントの二元論的モデルも温存されるのだ。自我の倫理的、理想的性格も、現実社会との対比対決を通じて、かえって一層強められるのである。社会の因習や偽善に抑圧されることなく、また自らをルサンチマンから解放しつつ叱咤激励し、きたるべき時代の主人公として前面に押し立てる。ここにおいて、カントの理想的自我は、立場を理性から意志へ移しながらもキルケゴールニーチェに継承されている。(中略)「単独者」も「超人」も、もちろん彼岸やプラトン的なイデア界の住人ではなく、われわれ一人一人がそこで生き、そして死にゆく世界の住人である。しかし「単独者」も「超人」も、その存在の意味は、「歴史的」ということによって汲み尽くされるものではない。自我はそのように、単なる時間的世界としての歴史を、いわば共時的に、垂直に超越する面をあわせもつはずである。それが社会の効率や伝統や価値観から自由な者としての、「自我」の超越面を指しているだろう。このように、いわゆる善悪からは自由だったはずのキルケゴールニーチェにおいてさえ、「自我」はあるべき自我として理想化される傾向をもつことは否めない。>(p108~117)

<賢治は「自我」についても、これを「実体」(彼の語では「本体」)ではなく、「現象」と考えたいと表明している。自然も人も出来事もそのつど心に浮かんだ風景であり、そのあいだに脈絡や、ましてライプニッツのような確実性など措定せずに、そのまま手をくわえずにスケッチしていかねばならない、というのが賢治の信念である。自我についても同じである。自我という何か一個のモノ(たとえば思惟するもの)がまず有って、それが折々にいろいろな変化や出来事を被るというのではない。自我とは毎回、瞬時ごとに、私の心に生じた現象そのものである。自我は、それではどのようなものとして私の心に現出するのであろうか。あらかじめ言うなら、賢治の断続的な自我観は、西洋近世哲学の連続的で貫通的な自我概念への対決をつうじて形成されている、といっても過言ではない。賢治のモチーフは必ずしも単純ではない。『法華経』への傾倒なども無視できないが、少なくとも「自我」に関して、西洋のそれを異質なものとして彼が強く意識していたことは間違いない。(中略)自我も賢治の手法にかかれば、心に次々と浮かんでは消えゆく心象の一つにすぎない。『春と修羅』冒頭で賢治が、「わたくし」とは「せはしくせはしく明滅」する「因果交流電燈」のひとつの照明であると言明するとき、その「わたくし」は明らかに西洋近世哲学の「本体」論的な自我に対置されている。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

(中略)「わたくし」とは賢治によれば、さしあたり「現象」であるといわれる。しかしそれは「本体」(実体)に対して言われるのであって、本来は「心象」と呼ばれるべきである。(中略)自我を実体ではなく現象、さらには心象だと宣言することは、自我から実体性を除去する試みを意味するにとどまらない。(中略)心象に映された内容に判断も加工も加えず、そのまま浮び上がるイマージュ、それが「わたくし」である。(中略)「わたくし」は、電流の向きが一定方向であるような直流ではなく、「交流電燈」である。「交流」は絶えず方向を転じ交錯する電流を指す。時系列も成立しないような断続性、それが自我のありのままだというわけである。自我は発展しない。変化すらしない。自我はいわば連続的に創造される他ない。各瞬間瞬間の相がすなわち自我の全部である。それも「青い」「幽霊」のような、か細くもなかば怪しい照明だ(線香花火は可愛いが、賢治のいう「わたくし」には一種の妖気もうかがえる)。いまにも消え入りそうなかよわい電燈、それが自我の現象であり、心象に映った自我の姿である。しかもそれは単独でははっきりしない。まわりの物と一緒にかろうじて、それも「せはしくせはしく」「明滅」する電燈にすぎない。「せはしく」という形容は自我からあらゆる連続や持続を拒否する見方を示唆している。だがそれでも自我は無ではない。私は自存する物ではないかもしれないが、現れていることまでは否定できない。自我は、「いかにもたしかにともりつづける」のである。だがそれにしても、自我は単独で見える光を発するにはあまりに弱い。そこで、賢治は他者の霊と一体となることも否定しない。自我はそのまま「あらゆる透明な幽霊の複合体」なのである。賢治は、現実世界とは別の世界が存在すると信じていたし、亡くなった妹としも、「別の世界」に生き続け、なんらかの仕方で交信が可能とさえ考えていた。そのか弱げな照明を発する交流電燈は「因果」のそれだと言う。ここで「因果」というのは、いわゆる西洋の範疇でいう、あるいは自然科学でいう因果性(causality)ではない。むしろ仏教的な意味での、人間の行為とその報いとの行きがかり、絡み合いを指す。つまり自我の内容的成分をなすのは、他人や社会や過去との果てしのない連関なのである。自我といわれる内容自体は、この全時空にいわば依存しているのである。この意味では、デカルトが自我の存在論的身分を「思惟実体」としたのと対照的である。「実体」は「それ自身によって有り、それ自身によって解される(中略)」ところの存在者だと定義されたのだった。実体のそういう「自己原因」(causa sui)的性格を徹底させれば、自我を超えて唯一なる神になるはずだ。この道を選んだのがスピノザであった。ともあれデカルトの思惟実体としての自我は、「原因」という意味で、すっくと立ち続け、微動だにしない。これに対して賢治の言う「因果交流電燈」としての自我は、行為と結果のはてしのない縺れが、そのままの縺れとして現出している現象なのである。このように、賢治は「交流」、「せはしなく」、「因果」等々の語を意図的に用い、依存的で外的事物に翻弄されてやまない現象的心象的自我という概念を、その断続性、か弱さ、相互依存性の方向へ際立たせようとしている。(中略)賢治にとって、宇宙も、自我も、そのつど自分の心に映った「心象」の内容に他ならなかった。そういう意味で賢治の心象世界はまさに何でもありの世界である。そこには、一方では天台や華厳などで説く「一念三千」や「三界唯心」との、また他方では「宇宙の鏡」として全世界を表出するライプニッツの「モナド」との近さも見出される。そしてそれはそのままスケッチされ、詩作の素材にされるべきものだったのである。(中略)自我の絶えず変転するその下に、同一的で変わらざる自我を推論するのではない。そのつど意識にのぼり、意識された自我をそのつど受け入れ、一貫性や連続性を見出そうとはしない。それは日本人の自然な感じ方にどこか馴染むものを含んでいるように思える。私はいつも私であり続ける必要はない。そう考えること自体、囚われである。私が私でなくなることへの違和感とか恐れよりも、むしろ「囚われのなさ」を求め、一種の解放感すら感じ取る向きも、われわれの伝統的な生活感情には存するのではないだろうか。しかし、自我のそのような断続性や非同一性が前面に出るだけではない。賢治において自我は、西洋近代においてデカルトからキルケゴールさらにはハイデッガーまでくり返し強調されたされたような単独者ではない。むしろ個人は、いつでも他人や集団と、さらには周囲の世界と一つになり得るもの、あるいはすでに一体化したものとして描かれている。(中略)他人といってもそれは自分の心の中に映った他人の心象である。また私も、他人にとって、外部の絶対的な他者でなく、他人の心の内部に映った心象なのである。要するに私といっても他人といってもすべて心象内部のことである。そのかぎりにおいて、デカルトの引いた内と外という区別は意義を失う。私と他人、他人と私、個人と個人はいわばたえず境界を自由に出入りする。境界の維持されるフッサール的な類比に基づく感情移入論ではなく、越境型の自他一元論とでもいえよう。このように個人と個人の区別が、志向的区別でも、まして実在的区別でもなく、ファジーなままである点、そしてその曖昧模糊とした越境なき境界を自由に横断してやまないという点が、少なからぬ日本人の感じ方にどこか馴染む面を含むことは否定できないだろう。論理的には有り得ないといいながら、そのような感じ方は不思議にリアリティーをもつ。つまりわれわれの現実に有形無形の影響を与えている。なお、賢治の多層的、多元的な「自我」観に、民俗学者南方熊楠(一八六七 ― 一九四一)の「複心」論との類似が認められると指摘する向きもある。われわれは普通、自分の意志、感じ方、価値観、行為を統一的、連続的なものとして、あるいはそうあるべきものとして了解し、前提している。「私の心は一つである」、「私は一つの心をもつ」というのは奇妙でないが、もし「私はいろいろな心をもつ」といえば、公共生活、まして約束や契約の場面等では、不誠実であると咎められさえするだろう。それこそ他人や世間に対して自分の立場を悪くしかねない。それであってもなお、自我を、複数の心たちから成り立っているモザイクのようなものと解する思想が、わが国には存したし、存するのである。>(p154~166)

その< 多層的、多元的な「自我」観 >などというものは、私からみればそれこそ精神異常によるものということになります。そうでないとしても、そのような「自我」観とか「越境型の自他一元論」をもつ人というのは、すくなくともメンタルヘルス的課題とは無縁だと言えるでしょう。なぜなら対人関係でのストレス苦を経験した人なら、「私と他人、他人と私、個人と個人はいわばたえず境界を自由に出入りする」なんてことには耐えられないだろうからです。それでも、このような「自我」観がメンタルヘルスとの関係で何か参考になるとすれば、それはここまで自我が弱体化され得ることを知るということ、それによる希望とでも言えようか…。但し、このような「自我」観は引用の最後にふれられているように公共生活とは矛盾します。つまり現代社会における日常生活では「自我」観としてはアブノーマルなのだから生活にも支障が生じるという問題は残るのです。

最後に、西田幾多郎の「自我」論について引用します。

< 一途に究極的なものをめざした西田が正面に問い続けたもの、それが「自我」である。より西田に即した言い方をすれば、「自己の真実」であろう。西洋的な、それ自身で存在するような、しかも連続的、同一的、主体的な「自我」概念は、西田では最初から採られていない。そうではなく、この私が存在するという原事実を、その生死も含め、どこまでも真摯に見据え、そういう我が我として有る、我が我に対して現れるというそのこと、すなわち「自己」を問うのである。デカルトが「我思う」(cogito)から、自我という「実体」(res cogitans)を結論したのに対し、西田は最初から「自己」の事実を問い、問い続けようとする。(中略)デカルトは、自我は思惟実体すなわち精神である、と定義した。自我には、ゆえにいかなる延長も属さない(もちろんここに、延長的実体である身体との結合をどうやって説明するのかというアポリアが残された)。カントの超越論的自我あるいは道徳的意志も純粋な精神に属する。しかしそのような西洋近世哲学の傾向に対して、西田はあえて「場所」として自己を見るのである。(中略)西洋哲学では、とくにカント以来、「知る」(認識)ということは「限定」することを意味する。(中略)「私は教師である」という自己認識は、主語「私」を限定して、社長でも大臣でもなく、まさに教師として限定することによって成り立っている。西洋哲学では、したがって自我を通常は主語の側に置き、その自我をそのつど述語によって限定するという仕方で、自我をあれこれ論じてきたともいえる。また心理学的な自己意識にしても、結局のところ主語的な自己をさまざまに限定している。(中略)しかし西田はそれとは逆の方向に、つまり「述語」の方へ、より正確にいえば、「述語づけるはたらき」の中に自己の真実を見ようとする。つまり「私とはこれこれのものである」と限定して初めて自己を知るというのではない。これこれのもの(同時に、これこれでない)として目の前にあるものは、自己のありのままの姿ではなく、一つの抽象に過ぎない。では自我は何であるかというと、それは何であるとも言えないのである。もしそれでも何であると言おうとすれば、それはもはや自我ではなくなってしまうだろう。アリストテレスは、変化を通じて常に存在するものとしての実体(または基体)を、「主語となって述語にならないもの」と定義した。そのような実体とは個体である。(中略)伝統的形式論理学では、このように主語が述語によって限定されることを、主語が述語によって「包摂」される(「周延」)という。(中略)アリストテレスによる論理学の建設以来、西洋哲学の伝統においては、「有るもの」は外延(クラス)、つまりそれが含む構成メンバーにおいて最大であって、それよりも外に拡がる概念は考えられない。したがって、実体としての自我を限定する概念のうち、最大の普遍的な概念は「有るもの」以外にはない。(中略)西田は、このように述語をさらに包む一般者の方向に、自我をも含めた一切の限定の根拠を見ようとする。西田においては、自己は、主語の側に囲い込まれて限定されるのではなく、より大きな外延の概念の方向へ向けて見られるのだ。>(p168~174)

このへんで引用はやめたいと思います。そもそも考え過ぎはいけません。難しいことを考えてると頭がおかしくなりそうです。「自我」なんていろいろ考えたってしょうがないところがあります。

西洋哲学史における「自我」は、デカルト的意味での「実体」ではないにしても、ライプニッツの思想における「個体的実体」として認めることができます。ただし、デカルトにせよライプニッツにせよ、彼らの主張は「神」の存在を前提としており、科学的な思想ではないので、現代社会におけるメンタルヘルスの問題解決においては参考程度にもならないでしょう。

キリスト教徒においても、たしかに自分という存在は「神」の存在を前提とし、信者は対神関係においてこそ実存し得るのではありますが、思想信条としては中世の人間が語っていることと一致するわけでは必ずしもないので、これまた参考程度にしかなりません。

ここで断り書きします。このブログで自我論にふれているのは、あくまでもメンタルヘルスに関係すると私が思う範囲においてであって、べつに自我論一般に関心があって引用などしているわけではありませんので、その点、読者は注意してください!

とにかく、デカルトにせよライプニッツにせよ、哲学者が人間に関して「実体」などという概念を用いても、現実的に個人の実体性を問うなら、宗教的人間観とは逆に唯物論的身体観を参考にする必要があるので、『唯物論研究年誌 第6号  こころとからだ』を挙げたわけです。この本から特に注目した箇所を抜き書きしてみます。

デカルトは、精神(魂)と物体(身体)がこの世界に存在する互いに独立した二つの実体であると主張する。その場合、精神とは「考えるもの(res cogitans)」、物体とは「延長するもの(res extensa)」であるが、われわれ唯物論者にとっては、この世界には物体以外に実在するものはないのであるから、精神という実体を物体から独立に認める二元論は認められないことになる。しかし、「考えるもの」、「精神」という実体が物体から独立して存在することは認められないが、考えるという働き、精神の心的作用、意識活動が存在することは、唯物論者といえども認めることができる。心的な意識内容を身体的な振る舞いにすべて還元する極端な行動主義や、意識や表象の存在を否定する消去主義などの、よほど特異な唯物論でないかぎりは、人間が心的作用をもつことを唯物論者も認めている。色や匂いの知覚が神経脳過程の働きに依っていること、推論や思考のような高次精神機能が脳の神経生理的な統合機能に依っていることは認めても、だからといって神経脳過程、脳の統合機能そのものと表象や意識が同じであるとは、唯物論者の誰も主張しないからである。唯物論者が否定するのは、脳や神経過程から独立した精神機能が存在するということである。唯物論者が主張するのは、すべての精神機能は脳や神経過程に依っているということである。しかしこの唯物論の規定からいくと、デカルトはもちろん唯物論者ではない。なぜならデカルトは、神経や脳を含むすべての身体から独立に精神機能が存在すると主張するからである。もちろんここには、少しの注釈を入れておく必要はある。デカルトが身体に依存することなく心的機能が成立すると考えるのは、純粋な精神の働きと見なす理性や知性、意志の諸作用であって、感覚や想像力についてはそうは考えていないからである。これらの心的作用は、確かに身体から独立した精神が存在しなければ成立しないとしても、身体や神経過程に依存しなければ働くことはできないと考えているのである。 >(p9~10)

ちなみにこの本では、私自身もおかしなことを言うと思った市川浩氏の「精神としての身体」説が批判されています(p36~37)。

唯物論的立場から見た「自我」とか「自己」とは…?

ポパーは、自我ないし精神が大脳の創発的所産である(つまり大脳に起源をもつ)ことを率直に承認した。>(p39)

<ところで、私が英米系の心脳同一論に違和感をいだくもう一つの論点がある。それは心身関係への論及がないこと、より直截には身体が軽視または度外視されていること、である。心身関係は心脳関係に収斂できない豊富な内実をもっていることは、他の著作でも論述したので、ここではくり返さないでおこう。ただし、身体の軽視・度外視については、改めてここで強調しておく必要を感じる。デネットも指摘している通り、中枢神経系の認知機能や制御機能が個体にとってひじょうに高度で中核的であるとしても、それは身体のもつ代謝・免疫・内分泌その他のシステムの上に形成されたものであり、それらと連携し、それらと適合してのみ発達してきたことを看過すべきではない。多田富雄が『免疫の意味論』で次のように述べていることも、それと深く関係している。「ここ〔ウズラの脳胞をニワトリに移植する実験結果〕ではっきりしたことは、個体の行動様式、いわば精神的<自己>を支配している脳が、もうひとつの<自己>を規定する免疫系によって、いともやすやすと<非自己>として排除されてしまうことである。つまり、身体的に<自己>を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである」。脳には、たしかに一種の精神的自己を認めることができるだろう。だが、そうだとしても、その土台として、あるいはそれを自らの一部とする全体として、身体的な自己を承認すべきだ、という多田の主張は説得力をもっている。身体には身体固有の進化論的自己再編の遼遠たる過程があったのであり、異生命をとり込みつつそれらと共生する不断の自己革新を通じてはじめて、この地球上の苛酷な環境に適応でき、生き残ることができたのであった。脳中心主義的な人間観では見落とされがちな「身体の自己性」は、神経系の出現・発達以前に獲得された、免疫系をはじめとする生命維持の諸システムを見つめ直すことによってこそ浮かびあがってくる。(中略)心脳同一論に立つチャーチランドは、「脳=意識(中枢)=自己(ないし人格)」、そして「脳死=人の死」を唱える典型的な論者である。もちろん、心脳同一論を採用する人が、必ず「脳=人格」「脳死=人の死」という結論にいたるわけではないだろう。存在論、世界観と人格論、生死観とは相対的に独立して論じることができるからだ。だが、脳機能を極度に重視する立場が、上述の両者をひじょうに強く関係づけてしまう傾向を示すことは、容易に察せられよう。個々人の身体の固有性に目を閉ざし、身体的自己を忘却するなら、脳にのみ自己を承認しようとする傾向が高くなる。理性的な意識に尊厳を認め、それゆえそれを喪失した植物状態脳死状態の患者を尊厳の欠如した存在だとみなす、英米系の「パーソン」論は、やはり脳中心主義、「自己=ニューラルネットワーク」論にしっかり支えられているように思われる。また、人間そのものの理解、人間観の構築にさいして身体を軽視することは、進化史の中で形成された身体的自己(その内実は自己維持機能を発揮する自然性・生理性であった)を看過するだけでなく、人間進化史における身体の社会性・文化性をも看過することになる。人間の尊厳問題を論ずるとき、まさにこの「社会的文化的身体」を俎上に上せないかぎり、ほんとうに説得力ある答えはのぞめない。肉親または親しい知人が植物状態脳死状態になったとき、それをパーソン論者がどれほど尊厳が失われた存在だと評しようと、関係者がけっして尊厳ないし価値が完全には失われていないと感じ、当該患者に強い愛着をいだきつづけるのは、「尊厳」が人間身体と切り離しがたい社会的文化的概念であることを如実に示している。(中略)脳にだけ自己や尊厳を認めるパーソン論者や多くの心脳同一論者と異なって、私は、人間身体にも「自己性」を認め、マルクスのいう「全世界史の労作」である社会的文化的身体に尊厳性を承認する立場に立つ。(中略)ただし、誤解を避けるために付言すれば、私は、「自己性」と「人格性」とを概念的に区別した方がよい、と考えている。より具体的には、理性的意識を意味する精神的自己の他に、自己維持機能を担う身体の自己性を認めつつ、しかし、狭義の人格性を前者の精神的自己と等置してよい(精神的自己と身体的自己とを統合している自然的文化的身体が広義の人格性と呼ばれるにふさわしい)、という立場である。ここでいう狭義の人格性とは、「自らの個体性を意識し、個としての要求・権利を主張し実現しようとする主体(およびその可能性をもつ存在のありかた)」だ、と私は定義する。「人格」概念は、狭義には、自由や権利と同様に、近世以降人類が測り知れないほどの労苦を重ねて社会内部でその市民権を獲得・拡充してきた、法的文化的道徳的概念だからである。その意味で、狭義の人格性の物的な基礎ないし源泉を、知・情・意という精神的諸作用の座としての中枢神経系(とくに大脳)に求めることに同意する。しかし、この人格性だけに人間的価値や尊厳を帰着させることには、私は賛成しない。感性的意識的活動主体である身体こそ人格性の担い手であり、たとえそれが理性的道徳的意識を喪失した場合でも、尊厳が完全には失われはしない、あるいは、コミュニケーション関係の中で一定の尊厳性が保持されうる、と考えるからである。H・ヨナスと同様に、「人工的に支えられた昏睡している患者の状態は、たとえ減退したものであるとしても、まだ生の一つの状態」だ、と捉えるからこそ、私も、「脳死=個体死」という主張に左右されることなく、周囲の人々の要求や同意があるかぎり、この類の患者に対する治療やケアがなお誠実につづけられるべきだ、と考えている。以上のように、「こころ ― からだ」「心 ― 脳」関係を問う議論は、否が応でも自己性や人格性、生命価値や尊厳の問題と深くかかわり合ってくること、この種の生々しい社会的テーマへの的確な答えを強く世間から求められていること、に対して論者はつねに自覚的でなければならぬだろう。>(p54~59)

ところで一般的にみれば、(「自我」と区別された)「自己」はともかく、「自我」というものをいくら「無我」とか「非我」とか言って批判したところで、現実に公共的生活を営む社会的自我としては、何人といえどもその存在を認めざるを得ないわけです。ただ、その社会的自我としての「自我」は他者との関係なしにはあり得ないので「実体」では無いということになります。さりとて単なる関係の網の目にすぎないわけでもない…ということです。この件に関しては『自我の行方』で八木誠一氏は次のように述べています。

< 〈 いのちの営み 〉といった場合、その営みは自我の固定化を壊すものだと。そしてその都度新しい形の自我をつくってゆくものだと。(中略)まずは壊していくものだ。しかし壊しても、そういう自我が全然なしでは、やっぱりこの世界、社会の中で生きてはいけないわけで……(中略)で、現在という状況に即応するために、仮りそめのものとして自我を持っている。それは仕方ないことですね。それはそれでいいけれども、そういう自我が限界を超えて何か究極的なものだって言いだすと、いろんなことが狂ってくるわけです。宗教、たとえば仏教が〈 無我 〉といって、自分を忘れるとか滅ぼすとか言う。キリスト教が〈 自分に死んでキリストから生きる 〉と言った時に、自分という言葉で意味されていたのは、ちょうど岸田さんがおっしゃったそういう構造の自我だと思うんですね。>(p93~94)

その、八木誠一氏と岸田秀氏との対談『自我の行方』では、岸田秀氏によって次の指摘がなされています。

< 人間は自分についての何らかの説明は持たざるをないんですね。(中略)自分についての説明、または説明体系といってもいいと思うんですけども、そういうものを常に持たざるをえないと。その説明体系というのが、常に現在の時点で自分が知っている自分に関するいろんなことについての一応納得できる説明を与えてくれる説明体系であれば、それをわれわれは受け容れるわけです。しかし、それはあくまで現在その説明体系が自我の安定をもたらしてくれるものである限りにおいてですね。または少なくとも、そんなにひどくは自我の安定を乱さない限りにおいてですね。(中略)強迫的な観念や行動は、狭く固まった自我の領域から排除され、抑圧された心的要素が歪んだ形で出てきたものですから、それらの要素を包み込んだ、より広い、より柔軟な自我を築くことによって、解決することができますから。だから、強迫的な観念や行動がなくなったということは、そういう新しい自我が築かれたということではあります。しかし、その新しい自我にせよ、まだまだ別の要素を排除しているかもしれない。それらの要素は、今度は強迫的な観念や行動という形ではなく、わけの分からない抑鬱感や、対人関係の障害といった形で現われているかもしれない。>(p69~p74)

新しい自我を築くということが当面の実際的課題となりそうです。自分にとって都合の悪いことも排除せず受容することによって新しい自我を築けるようです。それは自分の弱さなどネガティブなことを受容するということでしょう。

問題なのは、自我というものは安定を求めるということで、岸田氏は次のように述べています。

「自我というのは安定を求めますから、今すでに真理に到達したとか、正義をつかんだとか、あとは、『まだ目覚めていない』人たちにこの真理なり正義を伝える崇高な使命が残っているだけだと思いたい誘惑に、常にわれわれは陥りがちなんじゃないですかね。(中略)だから、何ていうか、世界が矛盾なく首尾一貫して説明できて、自分がその真理を把握してて、正義の立場に立っているというふうに思うことができれば、人間は非常に安定して楽なわけですね。人間はそういう自我の安定を守るためなら、人殺しはおろか、自分の生命を投げ出すことさえやりかねません。〈 殉教 〉とか言ってね。(中略)だから、常にそれを求めるわけですね。宗教でも精神分析でも、どんなものでも、そのために悪用できるというか……」(p89)

精神分析を利用するという点では、岸田氏の次のような指摘があります。

「そして、母親に対してそういう感情を持つのは罪であるというのも……罪であるという判断があったわけですね。(中略)そして、その罪をキリストが背負って贖罪のために死んでくれているから、自分の罪も洗われているんだというふうに考えたわけですか。(中略)何といいますか、精神分析理論そのものがね、いわば防衛に使われるということもあるわけですよね。(中略)例えば、〈 エディプス・コンプレックス 〉という説明がありますね。そうしますと、父親に対する憎しみがあるということが説いてあるわけですから、自分の心の中に父親に対する憎しみが感じられても、ああこれはエディプス・コンプレックスだって言ってすましてしまう。それで説明がついた気になって、それ以上追究しなくなる。あるいは、相手の心理を実に理路整然と精神分析的に説明し、問題をすべて相手の無意識的コンプレックスや防衛機制に関係づけ、自分は何の問題もない冷静な観察者のつもりになってしまう。これは、神経症や非行や自殺や登校拒否などの問題を抱えた子どもを持つ親で、心理学や精神分析の本を読み漁ったインテリによく見られることです。彼らは世の一般の無知な親たちと違って自分は自分の子供のことをよく理解しているつもりですが、その子供『理解』は、実は、彼らが自分の側の問題から眼を外らし、それを子供になすりつけるための手段に過ぎない。そのために子供はますます障害がひどくなり、それをまた、そういう親は理路整然と説明するわけです。だから、同じように、八木さんの場合も、キリストの贖罪といっても、逃げだったかも知れない。僕の場合でもそうですが、誰の場合でも、自己理解、自己分析はどこまでいってもある程度の逃げっていうのはつきまとってるんじゃないかと思うんですけどね。(中略)ですから、自己分析っていうのは、どれほど自分で自分の逃げ道をふさいでいくかということになるんですが、しかしそれは、全面的にふさぐということはできないんで、人間はどこまでいってもある程度は逃げてるんじゃないかと思いますけどね。だから、現在の自分の状態で受け容れられる範囲でしか無意識的なものの意識化というのも受け容れられないんじゃないかと、そういうふうに思いますね。」(p70~71)

ここで特に重要な部分は、「現在の自分の状態で受け容れられる範囲でしか無意識的なものの意識化というのも受け容れられないんじゃないか」というところです。

これに対して八木氏のことばにも凄いものがあります。それは八木氏自身がエゴイズムの苦しみから解放された経験にもとづくものです。

「…自分のエゴイズムに気が付いて苦しんでいたんです。しかもエゴイズムを克服しようという努力自体がエゴから出ていて、だからエゴを強化するんですね。それで聖書を読み、パウロ的な贖罪信仰を受け容れて、それで自分のエゴイズムに対する絶望という苦しみから解放されたということがあるのです。(中略)当時人生に未経験な僕がたったひとりでそういう事実に直面して、しかもそういう事実を事実としてそのまま直視し、また受け容れて、それに耐えられたというのは、やっぱり僕が当時そういう形で、罪人である自分を自分で受け容れるということのできるような信仰を持っていたからだと思うんです。」(p68)

この八木氏の贖罪信仰によるエゴイズム苦からの解放という体験は決定的だったようで、岸田氏が贖罪信仰を「逃げだったかも知れない」と相対化しても、それを超越的に批判し得ています。すなわち、「現在ではキリスト教の本質の理解も、当時とはすっかり変わってしまいましたから、キリストの贖罪ということも文字通りには受け取らなくなってしまっているわけなんですが、もっと端的に言えば、ここでやはり〈 罪 〉という言葉を使えば、自分のどんな罪や醜さにも関係なしに、そういうものに耐えて生きていく力が、あらゆる人にもともと備わっているんだというような言い方をしてもいいと思うんですね。立ち入って言えば、それはやはり個人を超えたものの働きによるということになるんですけれども。だから、自分は自分の罪とか醜さを直視しても、いっこうに恐れる必要はないんだ、自分の罪が明らかになっても、それで自我が崩壊するわけではない、ということなんですね。こういうふうに、ごく簡単に説明してしまえば、今だったら人間には自己の反価値に耐えてゆく力が備わっているという言い方も許されるんじゃないかと思っているんです。つまり、贖罪信仰を持っていた当時とは、この点で変わっちゃったわけです。しかしそういう意味で、結局は今でも、宗教的な自己認識が、自分のありのままの姿を受け容れる枠組をつくっているとは思うんですね。」(p73)

要するに、「贖罪信仰」というかたちではなくなったけど、自分に「罪とか醜さ」といった「自己の反価値」を「直視」し認めたとしても、自分にはこれに「耐えてゆく力が備わっている」ということ、それゆえに「恐れる必要はない」し、実際、「自分の罪が明らかになっても、それで自我が崩壊するわけではない」というわけです。問題は、その自分に「備わっている」ところの「耐えてゆく力」とは何か?です。八木氏はこれを「個人を超えたものの働き」(p73)と呼んでいます。これは八木氏の「統合」論に示されています。

私自身も結局やっぱり、自分の「罪とか醜さを直視しても、いっこうに恐れる必要はないんだ、自分の罪が明らかになっても、それで自我が崩壊するわけではない」と思える根拠は、八木氏が言われる「個人を超えたものの働き」すなわち統合作用ということになるのだとは思いますが、そこは宗教として神話的な表現もアリだと思います。すなわち「神(、キリスト、聖霊)のはたらき」だと…。自分は八木氏とちがってエゴイズムに苦しむのではなく、劣等感に苦しんできたわけです。まあ、自己中心的性格という点では通じるのかもしれませんが、劣等感の苦しみからの解放ということになると、贖罪信仰ではピンとこないわけです。他人と優劣を比較する心のあり方から解放されなければならないので、その心のあり方も罪からきているのだ…と言われれば結局、その罪をキリストに贖ってもらうことが解決の道ということになるのかもしれませんが、もう少し実際的に方法論的な答えを求めるのです。するとどうしても瞑想のような身体を使う信仰生活が出てきます。心身一如…、心(意識)の改革は身(体)の改革と不可分…というわけです。ところが私はそういうことはあまり好みません。ただ寝てラクにしている時に空想に耽ることはあります。それくらいはしますが、坐禅のようにいちいち決まった姿勢とかやり方を特定の時・所でやるなど面倒だし、そんな気にはなりません。そういうことをしてまで、精神的に解放されたいとは思いません。

ちなみに、岸田氏と八木氏との意見の相違点として私が注視したのは、次のことです。

「宗教的な究極の悟りとか解脱とか、そういう境地は、一切の逃げなしに、すべての自分の生命といいますか、醜いドロドロしたものを含めて自分の存在すべてを認めて、そしてかつ自我が崩壊しないという状態だ、というふうに精神分析的には考えられると思うんですけれども、そういうことはやはり現実には、ありえないんじゃないかと思うんですけどねえ。この点で八木さんと一致すると思うんですけど、もうこれでそういう境地に達したと思ったら、それは、まちがいなんだということですね」

という岸田氏の意見に対して八木氏は、

「ええ、これはさっき問題になった点ですね。つまり、自分の無価値とか無意味とか醜さとか、あるいは自分はやがて死滅してしまう存在であるとか、そういうことを率直に認めても自我の崩壊が起こらない地点があるということですね。僕は、たしかにそういう地点があると思うんです。事実、実感としてそう思うし、またそれは誰にもあるのなら、それはそれで非常にけっこうなことですし、実際、あると言っていっこうにさしつかえないと思うんですけれども。ただ、それに関する自我の認識とか洞察とか経験とかですね。それについてここが行きどまりで、最後であって、これが究極だ、というふうに主張するのは、これは非常に警戒すべきだと思うんですね。それはいつのまにか自我の絶対化になっているんです」云々と述べておられます(p86~87)。

ここで岸田氏の意見と八木氏の意見とが一致しているのは、八木氏が終わりの方で言われている「…これが究極だ、というふうに主張するのは、これは非常に警戒すべきだ」、「…それはいつのまにか自我の絶対化になっている」ということです。岸田氏は、悟りの境地すなわち八木氏の言う「自分の無価値とか無意味とか醜さ」云々を「率直に認めても自我の崩壊が起こらない地点」などありえないとはじめから否定していますが、八木氏は「ある」と肯定しています。この点が両氏の根本的な相違点であり、これは心理学者と神学者との立場による相違とも言えるでしょう。ただし岸田氏は次のように述べています。

「八木さんは『いのちの営み』という表現を使ったが、とにかく個人の生命存在の全体は、個人がこれこれが自分というものであると思っている自我よりはるかに広く深いものであるということ、個人はその狭く浅い自我に固執し、自我以外のおのれの生命活動を否認し、抑圧するが、そのためにさまざまな障害(それは、八木さんに言わせれば、エゴイズムやニヒリズムであり、精神分析の臨床から言えば、神経症や精神病、対人関係の障害などである)が起こるということ、そうした障害を克服するためには、自我への固執を捨て、おのれの生命全体を生きるように努めなければならないが、自我にしてもそれなりの理由があって存在しているのであって、自我への固執を捨てると言っても、それは容易なことではないということ、これらの点に関して八木さんとわたしは、ほぼ考えを共通にしているようである。もちろん、われわれの考えが一致しなかった点もいくつかあるが」云々(p5~6)

ところで、無用なプライドが高い人は自分の弱点を認めたくないので、虚勢を張って他人とぶつかります。しかし真の強者ではなく実力がないのでボロが出て、それをごまかすために争うのです。やくざのように大声をあげ、手を出すことにもなります。

なぜ自分のネガティブなこと、都合の悪いことを排除しようとするのでしょうか?あくまでも私自身の経験を通しての推測ですが、おそらくは自分が他人のいいところを見て憧れ、自分も他人からそのように扱われたいと欲するからです。すなわち他人に対して優越したいのです。劣者として侮辱されることが最大の恐怖なのです。やはり日本人は「恥」をおそれる民です。

ちなみに三島由紀夫氏は、「人生で、いちばん空しく、みじめなことは何でしょうか?それは『かつては……だった』『かつては美しかった』『かつては強かった』『かつては有名だった』等々、生きながら、自分の長所に過去形を使うことです。」と述べたそうです。

また、「自己」については、「自己を過程あるいは道具あるいは手段あるいは方法と考える思考はすべてむなしく、自己はそこにおける成就であり、成果であり、そしてそこで終るべきものなのである。」とか、「現在は死のための最終的な成果であるがゆえに未来は存在しない。未来は存在しないから、未来への過程としての自己も存在しない。」と述べています(「砂漠の住民への論理的弔辞」)。

それはともかく、他人に優越して振る舞える理想的な自分になるには目の前の相手がそれを承認してくれなければなりません。しかし相手がそのような態度をとらず、それどころか反対に相手の方が自分の理想とする人のように振る舞うこともあります。そうするとさらに怒りが生じてくるのです。

これは二重の怒りです。1つは相手が期待される承認を拒否したことに対して。もう1つは相手が自分の理想人になろうとしたことに対して。

これは自分が主役で相手を脇役なり観客にしようとしていたのが、当てがはずれて相手が自分を脇役なり観客にしようとしたということです。これは「自分を主役として他人に承認させようとする欲求」の挫折として怒りを招くのです。このようなかたちで自我を安定させようと企んでいたのが、そのようなかたちは承認者不在により成立しなくなったので怒りが生じたのです。

このような「怒り」を「抑える」のではなく、そもそも「生じさせない」ようにするためには、すなわちキリストの平和を実現してゆくには、第1に、ふだんから承認欲求を制御し、他人の承認を求める理想的自分といったものを持たないようにすることです。意識の主軸は人との関係ではなく神との関係に置くことが必要なのです。すなわち自分のあるがままを、弱さなどネガティブな要素も含めて受容するためには、それを知悉している絶対的人格との関係を基礎にするしかないのです。それが聖書的には、「それまで自我しか知らなかった単なる自我に『自己』が現れて自我の主体となった『自己・自我』」(八木誠一著『創造的空への道』)となる…ということです。これは岸田秀氏の言い方では、「狭く固まった自我の領域から排除され、抑圧された心的要素が歪んだ形で出てきたもの(中略)を包み込んだ、より広い、より柔軟な自我を築く」(『自我の行方』p74)ということになるのかどうかわかりません。というのはその後で、「…強迫的な観念や行動がなくなったということは、そういう新しい自我が築かれたということではあります。しかし、その新しい自我にせよ、まだまだ別の要素を排除しているかもしれない。それらの要素は、今度は強迫的な観念や行動という形ではなく、わけの分からない抑鬱感や、対人関係の障害といった形で現われているかもしれない。」と言われているからです(p74)。

第2は、そこまでゆくまでの過度的処置として、相手の振る舞いが自分に対してどれだけの「悪意」によるものかを推し量るということ。相手が自分に先輩面を吹かせたいとか物知りだと思わせたいくらいの気持ちでやっているならともかく、自分を侮辱してその場から排除しようとするほどの強い悪意によるものならば、これはその相手との関係にとどまらず周囲にまで発展するおそれがあるので、これに対しては怒りを感じ、それ相応の報復を行うことも自分の心身を守るためには必要な場合があるでしょう。つまり何も言わないということは必ずしも平和解決の道とはならないということです。たとえば職場のような相手との関係を継続せねばならない状況においては、同じことを繰り返させないことが必要になるからです。不快なことが繰り返し起こればストレスが溜まって精神衛生上よくありません。自我が崩壊の危険に晒されることにもなります。崩壊したら犯罪者か発症者(精神病患者)です。だから、そうならないためには最低限度の対抗処置がなされなければなりません。相手に非を気づかせて改善させるための限定的な軍事的行動が求められます。

もちろん悪意がそれほどでもない場合には、目立った行動を起こさずとも関係を継続できます。相手の自分に対する振る舞いが、攻撃的な面だけではなく、自分の何かをほめるような好意的な面も見せているならなおのこと、行動のような客観的対応ではなく、自分の内面において均衡を保ち、自分が気になっている出来事についての自分の記憶と相手の記憶内容と解釈が違うかもしれない…それこそアドラー心理学でいうところの「課題の分離」みたいに、自分が憶えていることも相手は憶えていなかったり、自分が気にするほど相手は気にしていなかったり…といったこともあるでしょう。そもそも、仮に相手が自分をバカにし、優越感に浸るために攻撃してくるとしても、それが自分にとって自我が破壊されるほどの、精神を病むほどの、それほど大きなダメージになっているのかを考え、それに比べて交戦する場合のリスクを考えるのです。相手1人が自分に対して優越感に浸るとしても、それで自分がその職場なら職場でやってゆけなくなるわけではないでしょう。実害としたらその相手1人に対する屈辱で済みます。生涯、つきあわねばならぬ人でもないわけで、その人との関係内での屈辱などマイナスの感情は、記憶が薄れてゆけば軽減されてゆくでしょう。

そのような主観的操作によって、自我が、不安定にはなっても崩壊まではいかない範囲で、ある程度は対応できます。

それはともかく、「ワレ痛む、ゆえにワレあり」…自我なり自己…要するにこの自分の存在感がより明確になるのは苦しい時や死の恐怖に苛まれているような時…すなわち限界状況だ。ほかでもない、PTSDのような精神疾患は、患者自身がストレスによって心に傷を受けたと意識することにおいて成立し発症する。ほかでもない「ワレ」の傷であり痛みとして実感しているからこそである。仮に「ワレ」が何ものがわからない、つまり自己同一性が不安定な状態では、このような疾患が成立しうるとは思えない。簡単に逆に言えば、ワレ意識が強いからこそ、ストレスによって受けた心の傷を感じるのである。ワレが不確かなら、傷つくべき心もまた不確かなのだから…。要は、社会的自我という公共生活を営む表層の自我は、孤立した実体的なものではないにせよ、世の中の現実を見れば、かなり確かで固いイメージで自覚されていると言える。しかし、そのような自我では承認欲求とか自己実現欲求などの過剰な個人的欲求が伴うのであり、ストレスによる自我問題は深刻化を増すばかりである。解決の道は、宗教哲学によって深層の自我へと体験的に追求することであって、自分の場合、その手がかりとして八木誠一氏の「単なる自我」から「自己・自我の自我」への主体交替(回心、悔い改め)という思想がある。

とにかく、傷とか痛みといった否定性を媒介してこそ自分というものがはっきりと自覚される。他でもなく、対人関係においてストレスに苦しむとか心が傷つくとかいった経験が自分にとって大きな問題になるのは、その苦しんでいる自分というものが「単なる自我」であり、確固たる存在として実感されているからである。そして何より、自分の何たるかが明らかになるのは、自分を造った存在を信仰してであるから、結局、一般の心理学や社会学によっては自分というものを確固として認識し自覚することはできない…宗教においてこそ可能だ…ということである。なぜなら心理学や社会学は対人関係においてのみ自分というものをとらえようとするので、他人あっての自分ということになり、関係性の中に自分の主体性が解消されてしまう。すなわち実体としての創造主を認めない限り、自分の(実体性というか)主体性を認め得ることはできない。「要するに実体(Substanz)としてではなく主体(Subjekt)として把握される時のみ、キリスト教は福音となる。」(北森嘉蔵)

確かに私は人が関係存在であるがゆえに孤立した自己は観念であると思う。人間には自存はあり得ない。しかし個体性が無いかと言えばそんなことはなく、個別的限界状況において、つまり否定的媒介によって、自分の個体性をいやがうえにも実感するのである。「我思う、故に我あり」ではなく「我痛む、故に我あり」なのです。前述の武藤健牧師は前掲書に収めされている『自我の再発見』という題の説教で、「我信ず、故に我あり=神我をよぶ、故に我あり=神我を愛す、故に我あり」と述べておられます。

しかし私は、「信ずる」は「思う」よりは深いが、より実感を得るのは「痛む」ことではないかと思います。これは身体全体のことだからです。「思う」とか「信ずる」は自分にとって肯定的に都合よくいきますが「痛む」は自分にとって否定的です。

「自己の個体性といった場合(中略)むしろ、名もなき庶民、平凡な暮らしを営む万人がみな、それぞれ、かけがえのない、ひとごとならぬ、それぞれの尊い人生とその一回限りの人格的生涯を生き抜いているのである。(中略)ヤスパースは、このように自己自身へと態度を採り、それを通じて超越者へと態度を採ることを、人間の実存と呼んだ。自己の自己性は、そうした実存に存すると言ってよい。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p95~99)

「『限界状況』を見つめることによって初めて、私たちは、『私たち自身へと生成』してゆくことができるのであって、『限界状況を経験することと、実存するということとは、同じことなのである』。そこでこそ初めて人間は、『存在を確認することができる』のである。」(同著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p149)

「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p17~18)

「たしかに私のこの身体は存在していますが、この身体を私の身体であると言うときの私というものはそれ自体としては存在していません。私が私であるというのは、他との関係で私なんですから、そういう関係から切り離したら、私というものはなくなってしまうわけです。(中略)属性の集合が自我なわけです。」(岸田秀著『希望の原理』p14 ※下線部の文字には傍店がふられている。)「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(岸田秀著『希望の原理』p54)

ところで人間関係のストレスの問題においては、普通は心が傷つきやすいとかいって自我を守ろうとするから実際的な対処法が見えてこないのであって、自我を守り労われば、わかりきったような心理学的概念などで誤魔化されるのがオチです。自我を守ろうとするのではなく、逆に十字架につけてキリストと共に死なしめることが、ストレス問題に対する福音的アプローチではないかと思います。自分を甘やかすような考え方ではなく、むしろ罪人としての自分を裁くこと、自己否定することを通して、傷つかない心を持つ強い自分になることができるということです。しかもその強さというのは、キリストの力が弱いところにこそ現れるという、パウロの逆説的福音理解によるものなのです。

このように、自我が傷つかないように守るという立場ではなく、自我が傷ついてでもキリスト(自己)に生かされる自我となることを第一とする立場は、これも私の応用におけるオリジナリティーです。

ところで北森嘉蔵氏は、マタイ福音書16:24の「自分を捨て」および「自分の十字架を負って」という言葉に関して次のように述べています。

「『本来空』という考え方が、もし仏教の特色、性格だといたしますと、キリスト教は『本来空』というよりも、『本来実在』的ということを、神についても人間についてもいいますから、したがって実在的自我というものが位置を与えられているわけです。そこで『本来実在性を持っている』自我という場合には、かりに座標を書いてみますと、コンパスの足がプラスの方に踏みこんでいることになるわけです。ところが、そのコンパスの足をまわしますと、ゼロのところではなくて、マイナスのところへ行きますね。プラスに踏みこんでいるコンパスをまわせば、ゼロには行かないで、マイナスに行くわけです。『本来空』の悟りが、ゼロをゼロと認識することだといってよろしいということであれば、キリスト教の場合には実在としての自我というのがありますから、それを捨てるときにはマイナスに踏みこむわけです。そのマイナスの性格が、さっきの『十字架を負う』というすがたをとるわけです。十字架は苦痛ということになります。日本語では『苦もなく』という言葉がありますけれども、いまの場合には『苦もなく』ではなくて、苦があるわけです。苦を伴うという性格をもった自己否定ですね。自己否定が一種の性格を持っていることになります。(中略)キリスト教的な自己否定の特色は何かというと、やはり十字架の性格だといえましょうね。」(『宗教を語る』〔東京大学出版会 UP選書〕p26~27)

中村元氏は『自己の探求』(青土社)の中で、マルコ8:34~35を引用したうえで、「学者が指摘するように、『十字架を背負うて』という表現は、キリストの死後に、信徒がキリストの口にもち込んだことばであり、生きているときのキリストが口にしたものではない」と述べています(p19)。また、「わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう」(ルカ14:26では「自分の命までも捨てて」)と言われているところの「命」は普通「霊魂」と訳される「プシュケー」であり、「呼吸、息」を意味する語ということで「アートマン」に対応するとのこと。ここでは再帰代名詞「自分自身」という意味の「自己」として解されています。

キリスト教の場合、実在としての自我を捨てると、仏教のようにゼロになるのではなく、マイナスになる…という考え方には、西田幾多郎氏の「底への超越」という考え方と発想が似ている感じです。言わば、一般に正当な主体と思われている「有なる我」が否定されて本来の主体といったものが自覚されるのは「無なる我」ではなく「負なる我」ということです。これは言い方を換えると、人は「苦」の経験ないしは個別的限界状況を通してこそ本来的実存に目覚めるということ、それを聖書は、イエス・キリストの「十字架」の出来事を通して示しているということです。

上田閑照氏の、関係の網の目に解消されるような自我観を批判したのは誰だったか忘れたが(『私とは何か』岩波新書)、それは「我」が「無」に帰するということで(上田氏がそのように言っておられるというのではなく、その批判者の考え)、これは中村元氏がいわれる「非我」の誤解としての「無我」です。それはともかく、上田氏の「私とは、私ならずして、私である」という「二重存在」のテーゼは弁証法的表現として、いちおう正しいと言えるのでしょう。いずれにせよ、その「私」は他者との関係においてある以上、実体ではないし、八木氏も個は実体ではなく極であると言う。理論的にはそうだが、現実には自分には他者に依存しない個性とか主体性のようなものが感じられる。それは実体と言えるかどうかはともかく、絶対者すなわち実体である創造主との関係という矛盾した現実においてのみ実感できる。

 

「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。/私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。/(中略)/生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。」(詩篇22:6~10)

エスの十字架上の詩篇22篇冒頭の言葉は、その先にこのような(ダビデの賛歌に仮託した)詩人の叫びを指し示しています。これはまさにイエスに従って生きる者が自分を捨て、自分の十字架を負うている姿を表わすものです。

すなわち自分をあざけり蔑む者に怒るのではなく、主の平和を念じつつ主なる神に身をゆだねて生きる者は、どんなに蔑まれようとも自分を失わないということです。

捨てるべき自分とは、あざけり蔑まれるのとは反対に、自分を誇り他人を見下そうとする我です。この我はキリストと共に十字架につけることによって死にますが、それでもなお自分のすべてが失われるのではなく、神の前に生き残る自分がある…神との関係における「私」は永遠の生命を得ている…というメッセージです。

だから、どんなに人の前でへり下るとも、それは主の平和を維持するための信仰心における自己否定である以上、単に卑屈に生きるということではなく、神の前ではちゃんと肯定される自分が在るということです。

エスは言います、「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。/いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。/人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24~26)

自分を捨てるという場合の自分とは、他人との平和関係に矛盾する生き方をしようとする自分…すなわち必要以上に自尊心や承認欲求を抱える自分です。そんな自分が無用なプライドを持っているためにちょっとしたことで他人に対して怒り、争うことになるのです。そんな自分は捨てなければ「キリストの平和」を実現することはできません。これを実現できなければ、この世はサタンの支配のままです。サタンとは何か…?我々人間の原罪のはたらきを対象化し人格化したものにすぎません。

上記の詩篇22篇の詩人のように、どんなにひどい言葉で人格を傷つけられても、それでも相手への憎悪で自分をますます地獄に陥らせない、むしろ信仰において平安である…キリストの平和を築ける…その秘訣とは何でしょうか?それは本人が存在している場というか世界が固定されず開放されいる…ということです。肉体的には職場や学校など、対人関係の社会現実において限定されています。そしてそれが自分を規定する世界のすべてだと思い込まされています。だから会社組織で失敗した人は人生を失ったかのように絶望的になって、最悪、自殺する場合もあります。確かに肉的いのちが第一にたいせつです。これなしには信仰もなにもありません。だって人間として歴史上に存在しないのですから…。クリスチャンだのなんだのというのは、あくまでもこの歴史的社会的現実に存在してこそ成り立つことです。ところが、いったん肉体的いのちとして存在してしまうと、人はそのいのちだけでは済まないことを痛感して知ることになります。それが人間関係におけるストレス地獄です。これからの解放は、自分のいのちが肉体的では終わらないことを自覚し、霊的ないのちを生き始める…神信仰を持つ…対人関係だけではなく対神関係に入る…ということによってしかあり得ません。それによって肉的いのちによる人生を相対化できるからです。肉的いのちによる人生だけが人生であると絶対化した思い込みを持っていると、この世的価値観に支配されて、いわゆる「勝ち組」すなわち、自分という存在が他人との優劣比較の中に埋没し、承認欲求や自尊心の過剰、無用なプライドの強化に苦しむのです。それでも強い人はよいでしょう。問題はそこでついてゆけない弱い人です。そのような人にとっての現実的な救いをキリスト教もしんけんに考えないといけないと思います。従来は神学的にもあまり扱われなかったテーマだと思います。それで八木誠一氏の思想にヒントを見出したのです。

人は日常生活におうて肉的いのちを生きています。他人との関係の中で生きて喜怒哀楽を経験しています。そうした中で傷つけたり傷ついたりすることがあります。それが対人関係の社会的現実の宿命なのです。でも、霊的には対神関係の信仰現実において自由である…ということ、肉体は有限の世界にあっても霊は永遠の世界にあるので、肉体的いのちは有限であっても、霊的いのちは無限である…ということ、そこに福音の核心があります。肉的いのちを軽視した思想はグノーシス主義的になって観念論に陥ります。

さて、人前で自分を捨てても神の前では自分が失われていない…在り続ける…という例話として、異邦の女性(マタイ15章:カナンの女性、マルコ7章:シリア・フェニキアの女性)…ここではマタイの方の物語を読みます。

「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。/すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。』 /しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、『あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。』と言ってイエスに願った。/しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。/しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください。』と言った。/すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』と言われた。/しかし、女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』/そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:21~28)

ここでは、イエスが敢えて異邦人の女性の信仰を引き出すために、一見、自国民第一主義的な考えを示しています。女性は母親として愛するわが娘の命を救うことを、相手がかつての占領者であるイスラエル民の子孫であるとか、そのイエスから犬扱いされたこと(イエスが「犬」に「小」を付けて愛玩的意味を込めたか否かの議論は歴史的に確認できないのだから不毛であり、ユダヤ人が異邦人に対して「犬」という呼称を使用することがあったことは事実のようで、イエスも本心ではないにせよ前例を踏襲したとすればそのこと)への反感…といったプライドのことなんかよりも優先し、イエスの前に跪いて(マタイ15:25の「プロスクネオー」は「礼拝する」のに対してマルコ7:25「プロスピプトー」は「平伏する」)礼拝し自分を捨てたのです。だって、イエスは神(の子)なんだから当然でしょう…この女性もイエスを「主」と呼んでいるのだから、預言者とかユダヤ教のラビのような普通の人間とは思わず、あくまでも神性を有する存在としていたからこそ礼拝したのだ…といった解釈もあるようですが、私はそこまでいくとドグマの読み込みになると思います。女性はイエスを「ダビデの子よ」とも呼んでいるので、やはりイスラエルの中で待望されていたメシアとしてリスペクトしたとみて然りかと思います。但し、異邦人である彼女にとっては必ずしもメシアではないのであって、今、自分の子を救ってくれることによってイエスは、異邦人の彼女にとってもメシアであることが示される…という状況です。だから彼女がイエスに対して、普通の対人関係における自我のはたらきを感じたとしてもおかしなことではなかったのです。しかし彼女はそうはならなかった…、それは愛するわが子を救うため、小事を捨てて大事を取るためのなりふりかまなわない強い意志の現れでした。

私たちは、神様に救いを求めて行く中でも、自分のプライドを捨てることができず、それを傷つけられることには我慢ならないのです。(中略)このティルスの女性はそういうプライドに固執していません。『私のことを犬呼ばわりするなんて何よ』と怒るのでなく、『主よ、そうです。私は犬です。あなたの恵みをいただく資格のない者です』と認めているのです。(中略)主イエスが自分のことを「小犬」と呼んだことを受け入れる、心からのへりくだりです。つまり彼女は自分の一切のプライドを捨てて、主イエスの前に、恵みに値しない者としてひれ伏したのです。そのように主イエスの前に真実にへりくだった時に彼女は、表面的には自分を冷たく拒んでいるように見える主イエスのお言葉の背後に、恵みへの招きが隠されていることを感じ取ることができたのです。」

横浜指路教会 www.yokohamashiloh.or.jp

この説教における「私たちは、神様に救いを求めて行く中でも、自分のプライドを捨てることができず」というところに、前述のとおり、ドグマの読み込みがあります。すなわち異邦人女性にとってイエスは、我々キリスト教徒にとってイエスが三位一体の第二位格である「子」としての「神」であるのと同じく「主=神」であった…という前提に立っています。しかしそれは無理でしょう。我々は神に対してプライドを持つことはありません。プライドはあくまでも自分の方から自分の能力などをアッピールして承認させ得ると思える人に対して持つものです。神は造り主であり支配者なので、こちらから何かを認めさせ得るような相手ではありません。その被造意識を人は心の深層に内蔵されています。この説教者は、人も神に対して怒りの感情を持つのだと言いたいかも知れませんが、その場合はプライドによるものではなく、反抗期に子どもが親に対して感じるような感情とでも言えばよいでしょう。すなわち、自分より強く大きな相手に対してこそ感じる本能的な反発です。それはプライドとは言いません。

我々は自分と大差のない人との関係でこそ…つまり自分が軽んじる相手から自分が軽んじられる…バカにされる…ということには耐えられない…それが無用なプライドなのです。自尊心は常に承認欲求を抱え、傷つくことを恐れています。防備のためには競争心を過剰に燃やして自己アッピールせねばならないわけで、それが満たされない、遂げられないことによって苦悩し、怒りや怨みの感情に囚われて問題行動を起こすことにもなりますが、そうならないために我々は、対人関係に生きていると同時に対神関係に生きていることを常に自覚し、対人関係では「肉」的に満たされないことが対神関係では「霊」的に満たされていることを信じる必要があります。すなわちそれは「キリストの平和」なのです。

この異邦人女性の大事(救い)のためには小事(自尊心負傷)も厭わぬ捨て身の信仰によって娘の悪霊からの救済を勝ち取りました。しかし真相は逆で、彼女の「偉大」とされた信仰(マタイ15:28)が歴史上に現れて伝わってゆくための媒介として、イエスと異邦人女性との出会いの出来事があるのです。我々の信仰者としての模範として、この異邦人女性が物語られているわけではないのです。我々が注目すべきは人ではなくその信仰なのですから…。

※村山盛葦氏の「シリア・フェニキアの女(マルコ7:24-30)についての一考察:イエスのユーモアの観点から」003074020001 (1).pdf

の結論部分である「イエスは初めからこの女を受け入れることを前提にこのような揶揄を行ったことになる。あえて差別的な用語を使用することで逆に相手の存在価値を認めたのである。連帯に基づいた信頼関係から創出されるイエスのユーモアと人間的暖かさをここに見出すことが出来るのである。」というのは、共感できる面はありますが、基本的なイエス理解の違いにおいて、私はユーモア説ではなく、信仰のソクラテス的産婆術説を採ります。

同様に「救いをとりあげて、それを小犬である異邦人に投げてやるのはよろしくない ―― 。この言葉は、異邦の女性の信仰を試みる、ある種信仰問答的なイエスの教育的配慮から出た言葉なのだ、という解釈もあります。けれども果たしてそうでしょうか。存在全体が祈りそのものとなって必死の懇願をしている一人の人間に対する姿勢として、教育的配慮などという余裕の姿勢があってよいはずはない。このイエスの言葉は完璧な拒絶です。」という笠原氏の説教信濃町教会/説教集 (shinanomachi-c.jp)

にも違和感を抱きます。「教育的配慮」という表現はともかく、この説教はイエスをあまりに人間として見過ぎています。そこがプロテスタントの中途半端なところです。イエスを歴史的に扱いたいなら徹底して史的イエスを究めるべきです。すなわち基本信条のニカイア・カルケドン的キリスト論は放棄すべきです。特に「真に神、真に人」という神人両性一人格説を都合よく使い分けて、場合に応じてイエスを神にしたり人にしたりする従来の説教の仕方は恣意的な感じを否めず、聖書学が発展した現在に至っては滑稽ですらあり、すくなくとも大衆への伝道説教としては通用しません。しかしキリスト教が基本信条を前提とする以上、説教は史的イエスではできないので、私は、信仰対象としてのイエス・キリストは、あくまで聖書の再神話化によって構成されて然りだと思います。そうでないと、イエスの神性と人性とが入り混じったような話になってわかりにくいのです。イエスに神性(超越性)を認める以上、説教者がイエスに対して笠原氏のように「存在全体が祈りそのものとなって必死の懇願をしている一人の人間に対する姿勢として、教育的配慮などという余裕の姿勢があってよいはずはない。」などと制約をかける資格なんか無いでしょう。だから、村山氏も笠原氏も私は合いません。その基本には予定ないしは聖定を聖書的教理とみなす信仰の有無があるでしょう。

異邦人女性の諦めない姿勢、愛する人の命を守るためなら自分のプライドなんて捨てることのできる女性のへり下りの信仰が、イエスの産婆的対話術によって現れ、聖書の中に収められて伝えられているのです。

私たちは無用なプライド、無用な自尊心・過剰な承認欲求のために捨てきれない自分を抱えて苦しむことがあります。異邦人女性はわが子のために自分を捨てましたが、我々は肉親のためだけではなく、要は愛する人のために、さらには愛情がなくても隣人となる人のために、自分を捨てることができます。そしてその捨てた自分は同時に神の前で永遠の命を得ている自分でもあります。

ちなみに、従来、「自尊心」と言われてきているのは「顕在的(意識的)自尊心」であり、これとは別に「潜在的(非意識的)自尊心」の側面があると云われています。心理学では自尊心が「顕在的」にも「潜在的」にも高い状態が安定していると言えるそうですが、 いずれにせよ対人関係だけの心理学に対して、聖書の宗教は対神関係もあるので、自尊心が低くても自己肯定感を高く保ち得るのです。そこを理解できない点が、科学といわれる精神医学とか臨床心理学の限界でしょう。人間の精神を扱うのに対人関係においてしか出来ないということです。人間の精神は対人関係だけでなく対神関係において(真宗であるなら対仏関係ということになるかもしれないが、対象が人格的存在であることに違いはない)究明されて然りです。

エスは言います、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。/わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。/わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

いずれにしても「くびき」は負わなければならないのです。まったくの無条件で休ませてもらえる、安らぎを与えてもらえる、ラクにしてもらえる…などということではありません。

そんなことを望むことは自己中心ないしは人間主義の甘えでしかないのです。現実は厳しいのであり、いかにイエスが救い主といっても、その救いの意味内容は創造主の意志によるものであって、人間の都合に合わせたものではありません。

聖書の宗教は日本の民衆宗教にみられるような現世御利益を目的とする信心ではないのです。商売繁盛や家内安全は創造主なる神の恩寵の結果であって、信仰の目的ではありません。むしろ商売衰退や家内分裂に見舞われることもあるのです。

しかしその否定的出来事が媒介となって真の平安に導かれるという流れが聖書の救いの歴史なのです。だから困難な時こそ信仰を堅くすべきであり、希望を持ち続けることです。

よく一般に言われる「神は乗り越えられない試練は与えない」といった言葉ですが、引用元と思われる新約聖書の第一コリント10:13は、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(新改訳2017)となっており、たしかに「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」ですから、「神は乗り越えられない試練は与えない」とか「神は乗り越えられる試練しか与えない」と言い換えることは可能でしょう。

しかしこの箇所の強調点はそこではないと私は思います。肝心なのは後段の「試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」の方ではないでしょうか?

なぜなら、試練を経験する前から誰にとっても、神は人が乗り越えられないような、耐えられないような、そんな試練は与えないんだ…試練を与えるとしても耐えやすい…全然心配いらないラクチンな試練なんだ…なんてことなら、そんな試練って試練としての意味あるの?…って話です。

それって、聖書が示す試練の主旨とは違って、人間の都合に合わせた、実際には神の試練を無化するような解釈ではないでしょうか?そう、それが信仰ぬきの一般的な、神の試練に対するイメージなのです。

創造主である父なる神は被造物であり神の子なる人間を、訓練し教育するためにこそ試練を与えられるからです(ローマ5:4、ヘブル12:10、ヤコブ1:12、第一ペトロ1:6~7、箴言3:11 , 13:24 , 23:13 その他参照)。

従ってその内容は、そんなに軽いものであるはずがないのです。訓練にならない程度の試練は、実質、試練と呼ぶに値しません。つまり試練を与えないのと同じことになってしまうのです。しかし神は試練を与えるのです。

箴言19:18では、「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺そうとまで考えてはならない。」と書いてあるように、殺すまではいかないにしても、死の危険を考慮するくらい、それ程の重さのある懲らしめなのです。

だからこそ訓練になるのであり、ラクチンな試練など訓練にならないから試練とは言わないのです。現実には神の試練はきつくしんどいのです。苦しく悲しいのです。それでも神への信仰があれば耐えられないものではないということ、それが「脱出の道」としての備えです。

つまり、今、経験している苦難が創造主による訓練・鍛錬であり、「単なる自我」から「自己・自我の自我」へと主体交替するため、すなわちキリストという自己を主体として生きるためであると信じることができれば、その受けとめによって絶望から希望へと、道が開かれてゆくということです。

「脱出の道」は、原文の言葉では「エクバシス」で、「逃れ道」ではなく「出口」という意味だそうです(~『新約聖書パウロ書簡』〔岩波書店〕)。

上記の注釈をしておられる青野太潮氏の訳は、「…その神は、あなたがたをが〔耐え〕得ないような仕方で試練に会うようにはせず、むしろあなたがたが〔それに〕耐えることができるために、試練とともに出口をも造って下さるであろう。」(前掲書p94)

この「出口」というのは、「『逃れ道』ではなく、「試練の真只中を通っていったのちにそれを突き破っていく『出口』」とのことなので、要するに、人間は「試練」をまるごと経験しなければならないということです。しかもその試練は経験しない前から、ただ耐えやすい、乗り越えられる…などとわかりきったラクチンなものではなく、耐えるためには、出口が必要なほど、実質ある内容の試練だというわけです。

神は人間に試練を与えられます。あくまで試練としての実質ある試練として与えられます。だからその試練は耐えるための出口が必要であり、それが備えられている試練なのです。

このように聖書の本文を学ぶと「神の試練」ということを、一般に信仰抜きで言われているほど簡単に考えてはいけないということがわかってきます。