絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

自殺するなら「自己」としてではなく「自我」でどうぞ!怨憎会苦する「自我」をキリストの贖罪の十字架に磔殺してラクになりましょう…聖霊他力による救い ~「絶対」と「他者」とを分かつ高柳氏と小田垣氏~

なぞなぞ:あればあるで困るし、なきゃないで困るもの、な~んだ?

私の場合、自分(自我)を捨てるということ、自我の磔殺(たくさつ)ということは、下の引用文のように主イエスの命令だから、その命令に従わないと救われないから…といった律法主義的なことではなく(0-100思考・白黒思考、脅迫・強迫的ストレス)、自我を捨てないことには現実の自分(自己)の苦しみが続くからです。つまり最もラクになる方法が自我を殺すこと、自我を滅することなのです。主イエスへの熱情的信仰が動機ではなく、自分自身が精神的にラクになりたいということが主たる動機なのです。私はこの本心を誤魔化すことはできません。その本心を隠して敬虔を装ってキレイゴトを語っても現実と合わずに挫折するのです。実際、自分は昔、その挫折を経験しているのです。だから聖霊によって心を潔められて…とか、内住のキリストによって聖化されて…とかいったことはあまり思わないし語ることはせず、たしかに聖霊による信仰の賜物であることは実感しますが、それはあくまで自身が精神的にラクになるための自我滅ぼしの福音であることを自覚し発信しているのです!

「世間の生き方に迎合し、肉の楽しみを追い求めるキリスト者はみな十字架を避けるでしょう。自分のうちにある肉性が幅をきかせ、古い自我性が生々しく生きているクリスチャンは決して十字架を負うことはできません。ですから、主イエスは他のところで、『自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい』(ルカ9:23)と命じられました。小島伊助先生が先の記念誌で、その肉を十字架につけ、キリストのものとなることを語られましたが、『自分を捨て』という『自我の磔殺』による『己れの聖別』こそが、自分の十字架を喜んで負う秘訣であることを知りましょう。」日本イエス・キリスト教団香登教会 (biglobe.ne.jp)

メンタルヘルスにおいて自己を苦しめるものは、対人関係であればストレッサーとなる相手(の言動)だったりするが、直接的原因はそのストレスに反応する自我である。この自我というものがなければ現実社会を主体的に生きることは出来ないが、怨憎会苦や愛別離苦など、苦悩はこの自我から生じる。だから要はこの自我の強度を弱めることが自分自身をラクにできる最も有効な方法なのである!

しかし自我は扱いにくく、強すぎても弱すぎてもだめである。強すぎることが今、問題になっているメンタル苦の最大要因であり、弱すぎると加害者から自分を防衛できない。同じ身体である自分(自我)が自分(自己)を苦しめているのだから、この自我を程々の度合いで制御することが肝要である。正確には、自我を「殺す」のではなく「生かさず殺さず」の状態に制御するってことです!その具体的な方法が現在の私の最大の関心事である。とりあえずはメンタル疾患者に対する治療法(精神療法、心理療法)…特に、認知行動療法を参考にして、宗教的には聖霊のはたらきによる言わば、聖霊感知行動療法とでもいうことになるのだろう…と見当はついている。

ところで、心が「傷つけられる」という比喩は他人から、肉体の場合のように外部から…の暴力被害としていわれるが、私の実感ではそうではなく、自分(自我)が自分(自己)を傷つけるのである。この「自我」と「自己」の区別は便宜的によくなされることだが、私見では前者はまずもって自尊心であり、それが度過ぎると後者を苦しめることになる。いわゆる自尊心だとか自己愛だとかプライドだとか承認欲求とか…要するに自分を守り保とうとする意識が、逆に自分を失うことにつながりかねないという現実は人間の矛盾した実態を示している。その矛盾存在である人間が救われるためには、やはり矛盾したあり方を必要とする。すなわち自己が自我を制御するという逆作用におけるポジティブな意味での自滅であり自棄である。

「かくて群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて我に從へ。 己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我が爲また福音の爲に己が生命をうしなふ者は、之を救はん。人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、人その生命の代に何を與へんや。不義なる罪深き今の代にて、我または我が言を恥づる者をば、人の子もまた、父の榮光をもて、聖なる御使たちと共に來らん時に恥づべし』」(マルコ8:34~38)

「『自己』の問題は、古代西洋哲学における主要な論題としては立てられなかったかもしれない。しかしすでにヘレニズム世界において無視することの許されぬものであった。学者の言うところによると、【聖書】のうちの原初的な資料によると、初めのうちは『自分を捨てる』ということが説かれているだけであったが、やがて『十字架を背負う』ということが課せられるようになった。

『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て(aparnesastho heauton)自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。』

学者が指摘するように、『十字架を背負うて』という表現は、キリストの死後に、信徒がキリストの口にもち込んだことばであり、生きているときのキリストが口にしたものではない。この段階になると、『自分を捨てる』だけでは不充分で、別の条件が余分に付加されている。そこで一部の人々と他の一般の人々とが遮断されている。『自分を捨てる』ことなら、誰に対してでも勧めて然るべきことである。しかし『十字架を背負う』ということになると、反発を感ずる人が当然出て来るであろう。しかるにそれを強行しようとすると、一種の集団的エゴイズムが発生したのであった。しかし、恐らく最初に説かれたであろうところの < 自分を捨てる >ということは、まさに仏教の無我説に対応するものである。ただしインドではアートマン(「自分自身」を意味する再帰代名詞的に用いられる)の哲学が発展したのに、ヘレニズム世界では『自分自身』(seauton……)を取り出した哲学が発展しなかったというところに、やはり相違点を見出さざるを得ない。」(中村元著『自己の探求』青土社 p19~20)※ 引用聖句(注に「『マルコによる福音書』八・三四」と記されている)中、「自分を捨て」と「自分の十字架を負うて」の文字に傍点あり。また、aparnesasthoのeとoの上に長音記号(マクロン)あり。荒井献著『イエス・キリスト』(講談社学術文庫)の上巻(「三福音書による」が付く)によれば、「三四-三五節から推定すれば、ペテロには『自分を捨て、自分の十字架を負うて』イエスに従い行くのではなく、むしろ『自分の命を救うために』イエスに従ったことを、イエスが見抜いていた可能性がある。(中略)マルコにとってイエスの弟子は、あくまでマルコの現在における弟子と重なっている。従って、現在の『弟子』もまた、『ガリラヤ』の民衆の只中で振舞うイエスに出会い、彼と共に『自分の十字架を負うて』イエスに『従う』ことなしには、イエスを『キリスト』または『神の子』と告白しても、イエスによる批判の対象となり続けるのである。」とのことで、荒井氏のいつもながら倫理的辛口で宗教実存的色調の薄いコメントになっている。一方、北森嘉蔵氏は中村元氏との対談で、この聖句の並行箇所に当たるマタイ16:24を挙げ、「『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』。これは比較的よく知られた言葉ですけれども、ここに『自分を捨てる』という命令がイエスによって与えられているわけです。これは自我を捨てるというわけで、いちばん無我に近い表現だろうと思いますね。このごろ流行語みたいになっている『自己否定』という言葉のみなもとも、だいたいこのへんにあるだろうと思われます。キリスト教的にいうと、自己否定という表現はなじみの深いものですけれども、それは日本の伝統に即していうと『無我』に似ているというふうに思いますね。」

これに対して中村元氏が次のように述べておられます。

「(前略)無我の観念はキリスト教にもあるという議論です。ただ今度それに対してコメントを申し上げますと、たしかあの場合に新約聖書の原語では、『自分を』というところが、ギリシア語で seauton となっていたと思いますね。そうすると『彼を』ですね。ところがインドの場合は自己といえば必ずアートマンなのです。『彼を』というのは、英語でいえば『ヒム』といういい方ですね。インド人はそういういい方をしないのですね。すぐ『アートマン』と一般的にいっているわけです。だから西洋人の場合、どこまでも個別的なものを考えて、『自分を』といってます。インド人は一般的なものを考えるという、この違いがあると思います。」

そこから少し飛んで再び北森氏の発言・・・

「さっきの新約聖書の話にもういっぺん返りますと、キリスト教の性格というのが非常にはっきりでてくると思います。イエスの言葉では、『自分を捨て』という言葉の次に、『自分の十字架を負って』という言葉がすぐつづくのです。さっきわたしは、仏教の無我とキリスト教の自己否定が非常に似ているということをいったのですけれども、違いもあると思います。それは『本来空』という考え方が、もし仏教の特色、性格だといたしますと、キリスト教は『本来空』というよりも、『本来実在』的ということを、神についても人間についてもいいますから、したがって実在的自我というものが位置を与えられているわけです。そこで『本来実在性を持っている』自我という場合には、かりに座標を書いてみますと、コンパスの足がプラスの方に踏み込んでいることになるわけです。ところが、そのコンパスの足をまわしますと、ゼロのところではなくて、マイナスのところへ行きますね。プラスに踏みこんでいるコンパスをまわせば、ゼロには行かないで、マイナスに行くわけです。『本来空』の悟りが、ゼロをゼロと認識することだといってよろしいということであれば、キリスト教の場合には実在としての自我というのがありますから、それを捨てるときにはマイナスに踏みこむわけです。そのマイナスの性格が、さっきの『十字架を負う』というすがたをとるわけです。十字架は苦痛ということになります。(中略)苦を伴うという性格をもった自己否定ですね。自己否定が一種の性格を持っていることになります。自己否定にはいろいろなタイプがあると思うのです。無我も自己否定ですし、このごろの学生運動の自己否定もあるし、いろいろありますね。じつは最も強烈な自己主張が、自己否定の名のもとに行なわれているという奇妙な現象も現在はあるわけですから、いろいろな質の自己否定があるわけです。キリスト教的な自己否定の特色は何かというと、やはり十字架の性格だといえましょうね。」

この場合の北森氏の「本来空」に対する「本来実在」という考え方は、ギリシャ形而上学存在論)の影響を受けた伝統的キリスト教に対する批判的省察を欠くという点で、日本の神学関係の思想界ではその代表的立場ともいえる八木氏の神学ないしは宗教哲学における「創造的空」のの思想の方が説得力に優ると言えます。

ちなみに前掲書での中村元氏と北森嘉蔵氏との対談は次のようなことにも及んでいます。

スコットランドフォーサイスという神学者が、『魂から底の落ちる経験』という表現をしています。これはなかなかいい言葉だと思います。さきほど桶のお話がでましたが、たとえば風呂桶。風呂桶でも底がしっかりしているときには、ちょっと風呂桶にたまっているお湯が濁ったりしても、それを入れかえればいい。ところが底がどっと落ちていくという経験をしますね。底が落ちていくときには、どうにも、底の内側にあるものでは間に合わないのです。底が落ちていくときに、底から支えるものがあるとするなら、それはもう底を超えているものだという意味での超越者ですね。それがキリスト教的な意味での超越的他者の問題、仏教的にいうと他力の『他』の問題ですね。他力の『他』というのは、他者の『他』ですから、超越の問題がどうしてもでてくる。徹底的に自己を認識するという場合の『底』が、超越者と出会うところだというような一種の考え方の革命が必要ではないかと思います。

中村 いまおしゃいましたことは、仏教の言葉で申しますと、心身脱落というのです。心とこの体とが抜け落ちてしまうわけです。すっかりもう脱落して、何もかも滞ることのない境地に達する。

北森 あるいは『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』というわけですね。

中村 通俗的にはそうですね。」

この、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」に近い心境が今の自分です。その「身」とはまずもって自我のことです。身体ではありません。自我を捨ててこそ自己の新生面が開けてくるということ、希望が見えてくるということです。逆に自我をそのままにしておいたら、メンタルがどんどんやられて自己は疲弊してゆきます。フラッシュバックによるダメージは続いてゆくし、新しい対人関係においても他人の言動に対してこのまま歪んだスキーマで反応してマイナスの自動思考を繰り返していたら、抑うつ的状態が激化してゆくのは当然です。それをなんとか防ぐためには、自我を制御する力を身につけなければなりません。その力は聖霊によってもたらされるものです。復活のキリストの力を内包する内なる聖霊のはたらきです。

「御靈みづから我らの靈とともに我らが神の子たることを證す。」(ローマ8:16)

聖霊は人の霊に働きかけるのでしょう。聖霊と「我らの霊」との言わば協働の神の子証言ということです。しかし私は絶対聖霊他力派なので、神人協働説は否定します。

聖書(詩篇51)には「砕かれた、悔いた心」だけではなく「砕かれた霊」と訳される言葉もあって、ダビデ王は神によって「魂・心」(ネフェシュ)における「自我」だけではなく霊までも砕かれたというわけです。

以下は、武藤健牧師の説教より(『日本の説教12 武藤健』日キ教団出版局 p205~207)引用します。

イエス・キリストの人間観には、やはりこの否定の面があったことを聖書は教えているのであります。その否定の面が聖書全体に表われているのを、われわれは知るのでありますが、それが言葉の上ではっきりとでているのは、マタイによる福音書十六章の、ペテロが信仰告白をしたあとで、イエス・キリストが自分の生涯の生き方に十字架があるということをお教えになったところであります。それに続いて、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』といわれた。自分を捨ててこい。自己を放棄してこい。イエス・キリストはまた、『われよりもその父母を大事にするものは、われにかなわないものである。』と、ずいぶんひどい断言的ないい方で、否定の論理を人々につきつけておられます。(中略)自分を捨ててこい。これは否定の倫理、否定の実践であります。しかしながら、イエス・キリストにおいては、その否定がこの世を離れ、山にはいり、いっさいの社会的環境から離れて行ないすますところの、無欲恬淡の中の生活をさしているのでありましょうか。ルカによる福音書の、あの墓場で気が狂っていた者をお癒しなさった時、彼に向かって、『家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。』といって帰された一節がありますが、イエス・キリストにとっては、否定が、われに従ってこいという、真の肯定をさすものである。われに従ってこいというのは、つぎの段階において、もう一つのものを実現していく、新たなるものを作りあげていくということでありました。捨てるとは、物をどぶの中にすてるということではない。すてるということには、よい芽を出すという、積極的な論理がある。否定するとは、否定して暗黒にかえるということではない。否定して肯定が生まれてくることを意味する。何がそこに生まれてくるのか。何がそこに実現されてゆくのか。そこに、福音がある。(中略)イエス・キリストの福音には、否定した後にあらわれてくるものがある。われを信ぜよ、神を信ぜよとの、イエス・キリストの信仰の確信であります。『わたしの言葉を信ずるならば、あなたがたはわたしの中にある』。わたしは、あなたがたの中にあるのだ。『ある』、『おる』ということ、キリストわれにあり、われキリストにあるという新しい存在の形は、否定しっぱなしの無我の教えとはちがう。山の中にはいって、じっと座っているのとはちがう。それは活発な活動的なキリストがわが中にあり、われキリストにあるという、新たなる生活態度の中にあらわれてくるものであります。使徒パウロが、『もはや、わたしが生きているのではない』といった。これが自己否定であります。ガラテヤ人への手紙でいっている、『わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。』新たなる生命がそこに芽生えている。一度きってしまった枝のあとに、新しい生命が芽生え、動いている。そこにわたしたちに独特なキリスト我、キリストという自我、キリストという性格を与えられた自分が、新たに生まれて動きだしてくる。」

ところで、宗教に関して、学者はとかく個人主義的傾向をまるで劣等コンプレックスのように嫌って、社会主義的であるべきだ、本来は共同体主義的であるのだ…といった趣旨のことを言いたがります。「こころの時代」の「無宗教からの扉(6)慈悲の実践」(2022年)における阿満氏の解説にもそのような傾向が感じられました。高木顕明師の思想は宗教社会主義というか念仏社会主義といったものであったにせよ、それが真宗ないしは宗教の唯一の見方とか生き方というわけではないはずです。同じ浄土真宗においても、結果的には本願寺派西本願寺)のスローガンでもある「御同朋の社会をめざす運動」の推進ということにはなるにせよ、そこに至る過程が、道が、ベクトルが、はじめっから社会主義的に入るのか、それとも個人主義的に入ってそこから社会主義的に展開してゆくのか、すなわち自己の問題に徹底することを通して他者との共通課題への答え探しに通用し得る…といったアプローチもあろうかと思います。結果となる目的地は一つなれど、そこに至る道は一つでない、とうことはあり得ると思うのです。親鸞の生き方はまさに個の問題に取り組むことを通して種・類の問題に答えを見い出してゆく…という方向性だったと解します。ところが阿満利麿氏の解説はそうではなく、まるで高木師のような生き方こそ真宗徒ないしは宗教者の理想であるかのような言い方でした。悪しき所謂ゼロ百思考、個人主義社会主義かの二者択一の白黒思考です。これでは宗教的実存の自覚として浅いと言わざるを得ません。高木師の置かれていたような時代・社会状況ではそのような狭い考え方に陥ったとしても無理からぬことだとは思いますが、現代日本宗教学者がそれではダメです。慈悲の社会的意味は当然といえば当然で言わずもがなでさえあるわけですが、問題は答えに行き着く方向性です。「明治以降、日本社会、宗教、?日本の社会状況というのはたいへん厳しくてですね、天皇崇拝というものを維持するためにですね、宗教というのは個人のことなんだと、しかも私事なんだと、こういうふうに宗教というものを閉じ込めてきている」などと言っておられます。これではいかにも宗教は本来は社会主義的なものであるのに、日本では天皇制の維持のために都合のいいように宗教を個人主義的なものとして国民・皇民に喧伝したのだと言わんばかりです。これは非常に浅薄な宗教理解であり、歪曲された宗教解説ではないかと思います。そうではなく、宗教は本来、社会か個人かといった分別を超えた次元から始まるものであって、そこで個から種・類へという方向性が生じてくるのだと思います。お釈迦さんが個人として瞑想して悟りを開いたことが社会に救いをもたらしたのです。イエスとて自身の個人的な対神関係から弟子との共同的対神関係となり、それを通して社会的意義を持つようになっています。出発点はあくまでも個であり己事究明であって、いきなり共同体とか社会から始まっているのではありません。八木誠一氏の「創造的空」の思想も、法則的には統合作用であって共同体形成ですが、それは結果であり、始まりはあくまでも個としての自覚であり、単なる自我から自己・自我への他力的変革なのです。それが私の言う「聖霊のはたらき」です。

ちなみに、基督教神学と仏教学を修めておられる大和昌平氏は、親鸞聖人の「親鸞一人がためなりけり」に関する、佐古純一郎氏と滝沢克己氏の考えについて、次のように述べておられます。『歎異抄』と福音 第十二回 親鸞一人がためなりけり | 月刊いのちのことば (wlpm.or.jp)

要するに、大和氏が言われる「パウロ一人」の宗教的実存における福音が、阿満利麿氏の如きリベラル宗教者が批判するような利己的個人主義にとどまらないのは、その私利私欲が先行してしまう自身の原罪意識が、その救済願望と表裏一体になっているからであり、否定媒介の過程を経ているからであろうと思われます。そこに救済宗教の実存主義的本質があるのであって、宮澤賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(~農民芸術概論綱要)といった思いは、自分のような煩悩具足の凡夫の中の凡夫のような人間には出てこないわけです。それどころかキレイゴトにさえ感じます。いわゆる「シャーデンフロイデ」や「スパイト行動」などの心理に象徴されるように、原罪を持つ人間の現実においては、まずは自分(たち)の幸福がある程度感じられていてこそ、その余裕によって他人の幸福を願い得るのではないでしょうか?いきなり世界人類の幸福を祈るところからは始まらないのではないかと思うわけです。その点で中野信子氏がどちらかと言うと性悪説の方をとるという御意見には共感します。「性善説性悪説ってありますよね。私はどっちかと言うと性悪説に立っているんですね。なぜなら性善説の立場にあると、いい人から損するから。うん。悪い人が一番得するんですよ、性善説のシステムってね。ずるした方が得しちゃう」心を癒す!イヤな記憶ツライ過去の克服法!中野信子 (youtube.com) (0:50/9:16 ~)

まさに理不尽なこと、不条理感を生むことが性善説によって生じてしまうというわけですが、これは例えば、国会での野党議員の過激なまでの発言について自分が感じていることです。現実に本当に生活に窮して、困っていて、公助を必要としている人なのか疑問に思うような人たちの代弁者として結果的に補助金ばらまきになることを訴えているからです。シングルマザーが皆、貧乏であるわけではなく、学生が皆、奨学金を必要としているわけでもないのに、十把一絡げにして特定の人たちを公助の対象とすべきマイノリティーとして印象づけてきました。これは、高齢者といえば高額年金を受給して悠々自適に老後の暮らしを送って、結果的に若年層にお金を廻さない社会的原因をつくってる人たちといった偏ったイメージを持って、腹を切るなりしてはよ死ね…みたいなことを主張する一部の若者たちと同様です。表現は別として主旨としては、たしかにそのように言われてもしかたないような高齢者もいるのかも知れませんが、私のように子どもはいないにせよ貧乏な高齢者も少なくないと思うし、福祉行政は公平を旨とする以上、性善説に立ったら税金の無駄遣いにつながります。不正受給が多発した新型コロナ対策での雇用調整助成金などがそうでした。さりとて特に生活保護受給では命にかかわるということで、反動的にか性善説に傾く場合もあるでしょう。

性善説というのは、確かに美しいのですが、善き人がその美しさの陰で犠牲になってしまう構造であることを忘れるべきではありません。そもそも、性善説等でいうところの「善悪」も、実はその基準は極めて恣意的であり、その時の社会的背景等の状況を鋭敏に反映して、コロコロと変わってしまいやすいのです。」中野信子「この残酷な現実に、果たして性善説だけで対峙していけるか」人間の闇、脳の“暗部”に着目する理由 | めざましmedia (mezamashi.media)

アダムとエバが口にしたものが善悪を知る木の実であったことはこの点で感慨深いです。そもそも性善説性悪説キリスト教の西洋ではなく儒教の中国が発祥とのこと。「人間の本性は善であると説く『性善説』は、中国の古代の思想家である孟子が唱えたものです。もともと人は道徳的に生まれたのであり、人が悪を犯すのは、自分の本来の姿を忘れているからだと説きます。現実には、こんなふうに考えられたらいいなと思う人も多いのではないでしょうか。とはいえ、この孟子の思想は儒教に大きな影響を与えたので、かなりの説得力を持つものといえるでしょう。一方、人の本性は悪だとする『性悪説』を唱えたのは、孟子とおなじく古代中国の思想家である荀子とされています。ただ、だから手の打ちようがないと説いているわけではありません。人は環境や欲望によって悪に走りがちだから、努力して善を目指すべきと考えたのです。」人は根っからの善人?悪人? 赤ちゃんが教えてくれた人の本性とは! | 一般社団法人 日本産業カウンセラー協会ブログ 「働く人の心ラボ」 (counselor.or.jp)

神の聖定において、善悪を知る木から取った実をアダムとエバが食べることになったのは、本人たちが原罪を自覚し、それゆえに神に従わないことの悪を知るためだったと思います。エバを誘惑した蛇は悪霊の象徴でしょう。自分が創造主なる神との関係において罪人であり悪人であることを知ったことによって楽園的現実は喪失し、苦悩を通らずしては楽することができない戦場的現実を生きることとなり、だからこそ自力の限界の壁にぶち当たって絶望的になるたびに、他力に依拠する信心が生きる希望として示されてきます。自分は「救いとは活力なり」と確信しています。活力とは文字通り活きる力であり、それは単に生きる力…生きながらえる力という意味にとどまらず、あらゆる困難を乗り越えて絶望的状況ひいては死をも超えるほどの大いなる他力、絶対他力を意味します。それはパウロの場合、次の言葉として表されています。

「実際、もしも私が誇ることを欲したとしても、私は愚か者にはならないであろう。なぜならば、私は真実を語るであろうからである。しかし、私は〔誇ることを〕断念する。それは、人が私を見たり、あるいは[何か]私から聞いたりすること以上に、私を買いかぶることのないためである。それも〔私の受けた〕もろもろの啓示の卓越ゆえに〔、である〕。そのために、私が高慢にならないようにと、私の肉体には棘が与えられた。それは、私が高慢にならないようにと、私を〔拳で〕打つための、サタンの使いである。この彼について私は、彼が私から離れ去るようにと、三度主に懇願した。すると主は、私に言われたのである。『私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである』。そこで私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。それは、キリストの力が私の上に宿るためである。それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ。なぜならば、私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだからである。」(コリント人への第二の手紙12:6~10  岩波版 青野太潮訳 ※注に、7節の「棘」は「パウロの持病を指す、と思われる。民三三55、ガラ四14-15 参照。」とある。)

いわゆる個別的限界状況すなわち人生の「行き詰まり」の絶望的心境…絶体絶命の境涯において、復活するほどに超越的な人間の活力である「キリストの力」を我がうちに宿らせ給うのは絶対神の霊…聖霊である。「神は霊なり」、父と子と聖霊はその全体が霊としての神であり、そのはたらきこそ、聖霊他力にほかなりません。神学的思弁の理屈では聖霊は三位一体神の位格の一つですが、体験的には聖霊が三位一体神の全体を包んではたらいているのです。私が現実に神の愛・恵みを感じるのは聖霊によるのであり、神への畏れも聖霊によって感じさせられるのです。「神」は観念ですが、その観念としての「神」のはたらきを実感させるのは現実の聖霊のはたらきなのです。これは経験できない観念ではなく、日々の現実生活において実体験されるのです。この聖霊他力を受けて、どん底まで堕ちても立ち上がって生き抜いてゆけることが福音本来の示す目的である「救い」なのです。

以下、八木氏と秋月氏の『徹底討論  親鸞パウロ』より引用。

(秋月氏)「私が分からないのは、阿弥陀仏をなぜ『報身』と言わなければならなかったかということです。わざわざ非歴史的な法蔵という名の比丘を持ち出して、その菩薩が、四十八の願をかけて、五劫の思惟という修行の末に大願成就して、その報いとして得た身が阿弥陀仏だ、と言うでしょう。なぜそんな神話が必要だったのか。まあ、いちおうは前に言ったように、『覚』と『法』の宗教のなかから『人格』信仰が起こってきた、というふうに考えているのですけれどね。」(p147~148)

(秋月氏)「『法蔵菩薩の神話』と『イエス・キリストの贖罪神話』との間には、『信の宗教』としてのあまりにも相似た照応があることは否定できません。この『信の宗教』としての共通点にもかかわらず、両者の間には決定的な相違点があるというのです。これもその頃聞いた話なのですが、イエス・キリストの贖罪は厳然たる歴史的な事実なのに、阿弥陀仏の本願は法蔵菩薩の神話にすぎないという説です。それは、イエス・キリスト受肉を歴史上ただ一回きりの神の啓示であるとする正統派神学から当然に出て来る立言なのですが、私は先に思わず『法蔵菩薩の神話』と並べて、『イエス・キリストの贖罪神話』と言いましたが、贖罪の事実も、異教徒にとっては、一種の神話にすぎないと思います。だからと言って、これを事実ではないとしてむげに否定しようというのではなく、いわゆる非神話化する、すなわち、神話の形で伝えられたものにひそむ実存理解を取り出すことが大事なのだと思います。このことは、キリストの贖罪についても、弥陀の本願についても、まったく同じことだと思います。」(八木氏)「歴史的事実という点からすれば、イエスが十字架につけられて刑死したのは歴史的事実ですが、贖罪という意味づけは、歴史的客観的事実の次元の事柄ではありません。だから歴史的事実性とそれが人間の救いに対して持つ意義・意味とは、区別して考えたほうがいいと思います。贖罪は神話といえば神話ですが、解釈といってもいいでしょう。」(p30~31)

浄土真宗の「法蔵菩薩の神話」にせよ、キリスト教の「キリスト神話」にせよ(…「贖罪」は神話と言うより、やはりイエスの十字架の「解釈」と言う方が適切だろう)、神話は単なる作り話ではなく、それなりの意味があることはわかります。しかし現代の科学的世界においては、神話を史実として語り伝えることは無茶であり悪です。やはり非神話化することが真っ当な態度だと思います。それは私の聖霊感知とは矛盾しません。

キリスト教をはじめとする宗教には神話はつきものであり、それが教会での礼拝説教などで批判的に解釈されないために、教義受容を困難とする原因にもなっています。神学的には救済史と世俗史との二元論があり、さらに現代においては、ユダヤ的直線的歴史観の相対化によって歴史の定義が多様化していますが、そういうことは許されません。歴史観は国際的に一致しなければなりません。実際、基本的には共通しているからこそ国際政治も成り立ち得るのではないでせうか?しかし歴史観が共有されていない部分もあって、そこに政治的混迷も生じるのでせう。

それはともかく、話は少し変わりますが、「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(『宗教哲学入門』p197)と主張し、「新天新地の到来」といった世界的終末論的救済という至上目的を掲げて、その実現のためならキリスト教の神話の如きを歴史的事実として受容するかの如く述べておられる宗教哲学者・量義治氏のロジックは、高尾利数氏の言われる「知性の犠牲」を強いる「無理」ということ以前に、「人間性の犠牲」として批判されて然りではないでしょうか?それって私的には聖霊による「再生の理性の犠牲」にほかなりません。救済を第一に優先して観念的信仰内容を排してゆくあり方は参考になったし、自分も救済を第一として、キリスト神話については批判的態度に変わりはないにしても、できるだけ神話に含まれている普遍的主旨を汲み取り、必要以上の否定は慎むように軌道修正しました。それにしてもやはり盲信に陥るようなことになってはいけないということは、カルト宗教の社会問題から示されています。無論、当方、福音派信者のように純朴な信仰心は持っていないので、「ただ信ぜよ」と言われても、神話を史実とみなす教会のドグマについては決してそうはいかないわけです。( `ー´)ノ しかしそれゆえにまた、自分の信仰的立場は自虐・自滅(…自我の十字架磔殺)的な形態になってくるわけです。

「イエスが死人の中から甦ったというようなことは、時空内の史実的現実としては、生起しえようはずもない。われわれの認識は有限であるとか、われわれが理解できない事象も生起しうるからという一般論を盾に、イエスの復活の時空内的現実性を最初から排除した世界観を持つことは、近代の合理主義的独断である、などということは――たとえその場合、『新しい歴史的理性』とか『死と罪責と虚無を突き破る<新しいもの>の希望の秘義的しるし』とか『神の<充満 プレーローマ >を指示する奥義』とか『史実ではない真実』とか、さまざまな神学的思弁が伴われようと――とどのつまり、護教論的意図に発した一種の循環論法であり、深いところで『不誠実』を宿し、『知性の犠牲』を強いる『無理』ではなかろうか。絶対化された観念としての『イエスの復活』に依拠した伝統的・正統的キリスト教は、そもそもそうした『無理』の上にうち立てられた巨大な観念の神殿なのであった。」(『聖書を読み直すⅡ』p38~39)

以下、菅原伸郎氏のレポート「八木宗教哲学 禅と浄土をめぐって」の「討議 Ⅲ」より引用。 八木宗教哲学

「わたしが創造的空というふうに言う、その場合の創造的空というのは、これは創造ですから、働きなんです。ただ、創造的空といった場合に、そこから出てくるものとして、僕は統合作用というものを置くんです。それで、創造的空の中で統合作用が働いて、全部が統合体になるわけじゃもちろんないんだけれども、順調に、条件に恵まれているものが統合体へと変わっていって、現在の我々人間の世界に至るまでの連鎖があると。そうすると、創造的空と、それから統合、それからそれによって成り立つ個々の人という、三つのものが出てくるんですが。わたしはこれが、仏教の所謂三身論ですね。ダルマ・カーヤーとサンポーガ・カーヤーとニルマーナ・カーヤーですか、それと対応するのが、よく三位一体だと言われるんですけど違うんです。三位一体というのは、神の、いわば内部構造のことだから。そうじゃなくて、三身論が対応するのはむしろキリスト論なので。ロゴスとキリストとイエスと、その三つに対応する。だから、ロゴスといった場合、それはまた神自身とは区別されるんですが、仏教のほうではその区別はなくて、事柄上両方含んでいるように思われます。そうすると、そこで、いずれにしても、サンポーガ・カーヤーということがあって、それは方便仏というふうにも言われるわけです。方便仏というと、ちょうど、創造的空がダルマ・カーヤーに対応するとすれば、方便仏とは統合作用(つまりキリスト)に当たるわけなので。そうすると、これが方便に当たるのかな。考えてみますと、やっぱりそういうところがあると僕には思われるんです。」云々。

自分が「創造的空」にすべてをかけてキリスト教を脱出すること、クリスチャンをやめてフリーの宗教者にならない理由は、特殊に徹して普遍にふれるという否定媒介の弁証法的生き方を旨とするからです。キリスト教という特殊性を捨てたら自分のは救いの普遍性は得られません。普遍性なき救済などは人生をかけるに値しない幻想です。救済宗教の第一は言うまでもなく救済です。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(『宗教哲学入門』p236)

それにしても量氏の思想は比較的わかりやすくとても参考にはなるが(…特に気に入った言葉がコレ ⇒「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」⦅『宗教哲学入門』p108~109⦆…この量氏の神観は、「遠き神」として人格性および擬人性が稀薄であることを前提とするなら、私にとっても諸偶像の相対化による精神的均衡保持のための基軸として有効であり必要。 逆に、受け入れられないというのがコレ⇒「信仰というのは意識の事柄(認識論的事態)ではなく存在の事柄(存在論的事態)である」⦅…『無信仰の信仰』〔ネスコ/文藝春秋〕p53、『関根正雄記念 キリスト教講演集 Ⅰ, Ⅱ 』(関根正雄記念キリスト教講演会準備会)p62⦆…対神関係と、その関係において神から与えられた人の応答行為である信仰とを混同しておられる。人の意識なくして、神から人への関わりは成り立つが、人の神に対する信仰は成り立たない)、キリスト教については三位一体論も「絶対有にして絶対無」(前掲書p231~232参照)という修正くらいであとは穏健というか正統的であり、また、宗教哲学であるわりには(繰り返しの引用になりますが…)、「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(前掲書、p197)といった「個」と「類」とが対立した非弁証法的救済観を示しているので、全体的には「個即類」的救済観の八木誠一氏の「創造的空」の思想の方がなんぼかよかろう…。(;´∀`) 

現代社会は精神が病んでいる人が多く、救いといえばいきなり世界・人類などといった大風呂敷を広げて言うのは偽善的に聞こえます。えてして対人関係で苦労と言えるほどの苦労を知らないインテリのエリート層の人々は何かにつけ共同性を美化します。怨憎会苦の経験が不足なのでしょう、世の中の現実がわかっていません。他者との関係(倫理)なしに宗教的救済なんてあり得ないと言うのです。キリスト教神学者も聖書が示す救いは個人的ではなく団体的であるというわけです。たしかに終末論的には「新天新地・神の王国・神の支配」の到来といったことになるのでせう。しかしその実現は「個」の救いなしにはあり得ないとも言えます。宗教の教えを説く前に、その教えを受けることができる社会的環境づくりが必要だということで宗教者の社会実践…しかも世代を越えて継承されてゆく宗教的社会変革などということも言われますが、自分はそのような大きなことは考えません。コヘレト教で十分です。不条理に満ちた現実の中で正気を維持して生きてゆくことに精一杯の個人がいるのですから、自分自身の救いに集中してゆけばよいと思います。そこはコヘレトの知恵に学んで、ささやかな楽しみに神の賜物を感じ取り、人生を肯定的に過ごしてゆけばよいと思います。社会変革などというのは精神的にも物質的にも余裕あるインテリ&ブルジョワの方々におまかせすればよいと思います。自分たちは個の救いに徹することを通して世界・人類の救いへと広がってゆくことを信じるだけです。個人主義的救済論を否定するなら、現代のストレス社会における救いはありません。精神的な重荷を負うて苦しむ個々人がニヒリズムに陥ることなく自殺を思いとどまることができる教えがあるのなら、宮澤賢治が言ったとされる「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのは質屋の長男坊として育ったファンタジー好きの彼にして言えた美辞麗句であって、インテリが好む普遍的救済や世界平和・人類の幸福といった言葉は日本国憲法の前文の如く理想的で聞こえは良いけれど、苦悩を抱える生身の個々人の現実的な救いにはなじまないのではないかなと自分は思います。だからどうせ格言めいたことを言うなら、「個々人が幸福になれないうちは世界全体の幸福はあり得ない」と言う方がまだマシだと思います。個々の救いや幸福の内容は人それぞれ。人生色々です。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』後序より)

ある意味、切実に心身の救いを求める宗教心とは究極のエゴイズムです。他人のことを慮る余裕など無いのが個別的限界状況というものです。

「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著前掲書p93)

無論、自己は実体ではなく関係存在として存在しているわけで、対人関係が不要だ、対神関係だけでよい…などといった神秘主義的な戯言を言うつもりはありません。対人関係なしに個人の人生が成り立たないことも現実です。問題は、個人か社会かの2択ではなく、個から社会へ…なのか、社会の中で個が…なのか、です。

「たしかに私のこの身体は存在していますが、この身体を私の身体であると言うときのというものはそれ自体としては存在していません。私が私であるというのは、他との関係で私なんですから、そういう関係から切り離したら、私というものはなくなってしまうわけです。(中略)属性の集合が自我なわけです。」(岸田秀著前掲書p14 ※下線部の文字には傍店がふられている。)

「自己の個体性といった場合(中略)むしろ、名もなき庶民、平凡な暮らしを営む万人がみな、それぞれ、かけがえのない、ひとごとならぬ、それぞれの尊い人生とその一回限りの人格的生涯を生き抜いているのである。(中略)ヤスパースは、このように自己自身へと態度を採り、それを通じて超越者へと態度を採ることを、人間の実存と呼んだ。自己の自己性は、そうした実存に存すると言ってよい。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p95~99)
「『限界状況』を見つめることによって初めて、私たちは、『私たち自身へと生成』してゆくことができるのであって、『限界状況を経験することと、実存するということとは、同じことなのである』。そこでこそ初めて人間は、『存在を確認することができる』のである。」(同著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p149)

 

以下、引用文中の太字は私記。

新約学者のブルトマンはイエスの復活は神話であり、それは神話の形式で、イエスの十字架上での死という史実の意味を表現しているのだ、と言った。イエスが十字架上で刑死したのは、人々を後期ユダヤ教の非人間化から救い出そうとし、そのことが多くの虐げられた人々を周囲に集める結果になり、一種の社会勢力になって、それが当時のユダヤ教指導者たちにとって危険思想になり、遂に政治犯として刑死したのだという。そのことに対する弟子たちの感動が、復活神話になったのだと。現今、合理主義者であるか否かは別として、イエスの復活を文字通り信じている人は少ないだろう。しかしブルトマンに代表されるようなこの人々の復活理解は少し違うのではないか。ロマンティシズムの見解によれば、たとえば無言館の青年たちの絵が、それとしての欠如と中断をもちながら、ある種の完成に直結しているように、イエスという一人の人間の刑死、すなわち欠如と中断の中に、人々がある種の永遠性を見たということ、それが復活ということの現実ではなかろうかと思う。人間イエスの実際の行動の中に、普通の人間の欠如や中断があることは明らかだ。それがなければイエスは単に架空の神の子になる。しかしそれにもかかわらず、イエスは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ、二の七)のである。その普通の人間の中に臨在している神の子性を、イエスの復活という神話で聖書は表現したのではないかと思われる。昔、シュライエルマッハーというドイツの神学者 (1768-1834) は、イエスは単に人間の模範(Vorbild)ではなくて原型(Urbild)であると言った。シュライエルマッハーはロマンティシズムの代表的神学者だが、模範、つまり人間としてのイエスの中に、原型としての、つまり永遠の人間性を見たこと、そのことが、復活節の真意ではあるまいかと思われる。>(~小田垣雅也氏のみずき教会説教「無言館」)※無言館とは、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館。小田垣氏はこの説教の前半でそこに見学に行った感想を述べ、遺作について「未完成即完成」と言っています。

<イエスの復活を文字通り信じている人は、現代では少ないだろう。ルードルフ・ブルトマンという現代の神学者新約聖書の非神話化論を唱えたことで有名だが、エスの復活は神話であると言う。新約聖書にはイエスの復活をはじめ、その他にもいろいろな神話がある。神話の中にある不思議な話は、当時の世界観にもとづいたことであり、その当時には不思議な話とは思われなかった。当時の宇宙観によれば、宇宙は天・地・陰府の三階層からなっており、天から天使が、陰府の国からは悪魔がこの地上に出てきて、不思議な業を行っても、それは不思議なこととは思われなかった。だから古代とは別の現代的世界観をもっているわたしたちが、神話を文字通り信じる必要はなく、むしろそれは有害で、問題はそれぞれの神話がその不思議な話で表現しているその「意味」を、わが身のこととして、受け取ることが大事であると言う。それが神話の「実存的」解釈である。そしてその手続きが非神話化論である。イエスの復活に関して言えば、イエスの人々に対する、とくに虐げられている人々に対する根源的な同情のゆえに、多くの人々がその身辺に集まる結果になった。それが新しい宗教勢力になって、当時のユダヤ教の特権階級に自分たちの保身の危険を感じさせ、自分たちの特権を守るためにイエスを捉え、十字架に架けて死刑にした。それが史実だとブルトマンはいう。そしてその史実の「意味」が復活だというのである。十字架刑にいたるほどに神に忠実であったイエスに感動した弟子たちが、当時の世界観では珍しくなかった復活をイエスに適用し、イエスが復活したと唱えはじめ、それが原始教団のはじまりになった、という。イエスの復活を信じた弟子たちがあつまっていると、使徒言行録二章一~四節にあるような聖霊臨降の出来事があり、それによって、それまで神の国を宣教していたイエスが、宣教される者となって、それによってキリスト教会が始まった、とされるのである。そこには次のように書いてある。「五旬節の日が来て一同が一つになって集まっていると、突然、烈しい風が吹いてくるような音が天から聞え、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」これも神話的表現だが、これがいわゆる原始教団の復活節信仰の始まりである。ブルトマンに代わって言えば、この復活節信仰の発生までは史実であった神の国を宣教していたイエスの刑死が、この聖霊臨降によって、その「意味」が分かり、宣教される者となって、キリスト教会が成立した、というのである。このブルトマンの復活の非神話化論は説得的だが、根本的な難点があるとわたしには思える。それはこの聖霊臨降、つまり復活節信仰の発生が、弟子たちの上に一斉に起こった史実として理解されている点である。実際、わたしが学生のころも、「この時点で教会が始まった」と講義された記憶がある。しかしイエスの復活はもちろんだが、それを信じた弟子たちへの聖霊臨降とは、そのような、時間や場所が特定されるような、対象的史実だろうか。>(~みずき教会説教「イエスの復活」)

私もブルトマンのように復活が史実ではなく弟子たちが宗教体験を通して語った神話であると考えますが、さりとて復活が史実である十字架の意味を表わしているといった抽象的解釈には違和感を抱きます。さりとて、小田垣氏のロマンチックな解釈も抽象的でいただけません。復活はブルトマンが指摘するとおり、あくまでも史実ではなく神話ですが、その意味は十字架刑死という最低の出来事を、父なる神の力によって贖罪という最高の出来事へと変えるための媒体なのでしょう。復活がなければイエスはただの極悪政治犯でした。復活顕現という共同主観が成立してこそ、イエスの十字架刑死が積極的意義を得たのです。たとえ実証的歴史の次元とは別の救済史の次元に於いてであっても、要は、イエスの十字架と復活に対する積極的・肯定的解釈を可能とする以上、福音主義信仰に反するものではありません。むしろ復活を史実として説教することは、実証的歴史と救済史との区別がつかないことを露呈しています。

そもそも私の聖書的神信仰においてはキリスト中心ではありません。あくまでも神中心です。いや、「神は霊である」から聖霊のはたらきによって父・子・聖霊の三位一体を包むというイメージです。武藤健牧師は、「三位一体は教理ではなくて、経験なのであります。ありのままを、信ずるという形で、いい表わしたのが、信仰告白であります。理論を先に考えて後から組み立てたものではなくて、ありのままの経験、ありのままの信仰を、そのまま表現したものです。」と述べておられますが(前掲書の「説教」における「十字架の真理」)、それなら自分の場合、むしろ三位一体は従属的なかたちで言い表わされてくるはずだと思います。「ありのままの経験、ありのままの信仰」ということであれば自分の場合、父・子・聖霊の三位格が同一かつ同等だなんてことはありえません。聖霊が「父(エホバ)-子(キリスト)」関係を包含するのであり、省察された場合には「父-子」関係は従属関係であって同等関係などということはありません。そこに私の信仰上の葛藤があります。そもそも自分にとってイエス(相対・有限存在)は人間でしかなく、けっして神(絶対存在)ではないのですから…。しかし救いのためになんとかイエス・キリスト・「真に神」告白を聖霊によってなそうと思っても、こればかりは無理です。無理を無理にやろうとしても無理はどこまでいっても無理です。自分はキリスト論の問題をルターの「福音の再発見」ならぬ「キリストの再発見」をガラテヤ書1:4「主は我らの父なる神の御意に隨ひて、我らを今の惡しき世より救ひ出さんとて、己が身を我らの罪のために與へたまへり。願はくは榮光、世々限りなく神にあらん事を、アァメン。」という聖句によってなし得て、イエス・キリストが単なる人としての相対的存在にとどまらず超越的存在であることを、「悪しき世より救い出す」という世界・人類の救霊の必要という意味において、そのための復活、昇天、再臨ということで認め得たのですが、それにしたって御子の御父への従属性は否定し得ません。自分個人の救霊のレベルが創造論であり神論であるなら、そこから世界・人類の救霊のレベルがキリスト論であり、これらを包んで体験させるのが聖霊のはたらきなので、その三一論的な信仰が自分の生きる道である。イエス・キリストの超越性は世界・人類の救いという必要から認め得ても、そのイエス・キリストが父なる神と同一で同等であるということは認め得ません。理屈ではなく体験だといっても、その体験を省察した場合には、けっしてそういうことにはならないのです。あくまでイエス・キリストは神ではなく、神に対して従属な立場の媒介者・仲介者です。それはそうですが、とにかく聖霊がはたらいてくれるうちが救いなのであって、キリスト教の教義の根幹ともいえるキリストが「真に神」であることを信仰告白することはできないにしても、それでも聖霊のはたらきに感謝しつつクリスチャンとして歩むしかない。それは救済の社会的現実の面では納骨という問題があるからです。キリスト教会に関わり続けないと、自分などは無縁仏の合葬に陥ってしまいかねない。無縁仏なんぞになることは避けたい。

キルケゴールのように逆説的意味付けによって神人二性一人格キリスト論の矛盾を突破することは、自分にはできません。それこそ奇跡でも起こらない限りは…。それでも救われるための最低限度の信仰体験は聖霊のはたらきによって与えられていると思うし、その恩寵の灯が自分の心から消えないかぎり、自分はキリスト者であり続け得るし、救われて生きることができます。というのは、自分にとっての救いとは聖霊のはたらきを体験することによって生きる力(…「神」エロヒーム < 「エル」=力」)が得られること。

キリスト教ユダヤ教イスラム教とは違って、イエス・キリストという存在が「神」と「人」との「仲保者・仲介者」として介在する意義はわかります。だって人間(相対)は「(原)罪」があって汚れているので、聖なる神(絶対)と直結できませんから、「神(絶対)」と「人(相対)」との間に、「真に神(絶対)、真に人(相対)」というイエス・キリストという特別な存在が立っている必要性があるわけです。人から見れば、神へ向かうための「道」としてキリストが存在するわけです。しかし、キリスト教はそのイエス・キリストを「三位一体」の神の第二位格とするのです。これは「道」を「目的地」と混同することを意味します。それは「神中心」ではなく「キリスト中心」とすることを意味します。

私は、信仰はあくまで「救済第一」ですが、省察における論としては、救済論第一ではなく創造論第一です。おかしな神学者創造論から入ると差別になるかのようなことを言いますが、ユダヤ教を母体とするキリスト教は共通の土台から始めて然りでせう。従って私にとって創造主はイエス・キリストではなく、あくまでもイエス・キリストの父です。キリスト論の意義は私の場合、テモテ第一2:5「事実、神は唯一人〔ただひとり〕、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波版 保坂高殿訳)の「仲介者」としての「人間」であって、カルケドン信条における「真に人」は文字通り受けとめますが、「真に神」は賛美の表現として修辞的にしか受けとれません。文字通りに取るということは、自分の場合「神=絶対」なので、一個人を絶対化する愚を犯すことになります。プロセス哲学ではイエスを「創発的(emergent)進化の被造者」だと言うそうですが(野呂芳男著『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p226)、「被造者」といわれている点が重要です。アリウスにせよ、現代では「エホバの証人」にせよ、イエスは被造物だということだから、プロセス哲学もその観方に沿っているということでせうか。異端とのそしりを気にしないのであれば、自分も当然のことながらイエス・キリストは被造者であると言うことになります。従って仲介者であり、目的地ではなくそこへの道であるイエス・キリストは信仰の対象ではない…すくなくとも究極的対象ではない…ということになります。私は三位一体の「一体」(同一実体・同一本質)は形而上学的意味では断じて認めません。それこそ理性も知性も犠牲にすることであり、正統的キリスト教ドグマを盲信することを意味します。イエス・キリストの贖罪ということが重要になるのは神信仰が人格神観が前提となる場合です。すなわち「神」の前に罪を犯しながら生きていることは信者として葛藤を抱きます。例えば、近親相姦の罪を犯しながら(…自慰行為における妄想の内であっても…)神信仰を生きることは恥ずかしく苦痛です。「神」は聖なる存在であり、その聖なる存在の前で生きるには自分に汚れがあってはならないからです。それは自分の中にはたらく聖霊に反する状態だからです。その矛盾を解消するには、そのような罪を贖ってくれる存在が必要になります。それがキリストです。彼の、過去・現在・未来に及ぶ贖罪の福音を信じることなしには、人格神との関係を生きることはできないのです。逆に言えば、人格神観を放棄して非人格神観に交替することができれば、罪ある状態での対神関係も恥はなくなります。しかしそれは伝統的なキリスト教の環境で育った者にとっては極めて困難です。聖霊によって三位一体信仰を理屈ぬきで受容できるという体験を得られないのは自分がキリスト教的救済に選ばれていないからかも知れませんが、はっきり言ってそんなことは堂々巡りの自問自答になっちゃうのでこの際、それこそどうでもよいことです。

ところで量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。

<……エスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうかエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

この「不可分性が必然性」ということなどはいかにも宗教哲学ならではの詭弁っぽいが、イエスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち人は個別的限界状況に置かれたなら、知的欲求よりも救済願望の方が優ると解することはできます。たしかに背に腹はかえられんということで、苦しい時の神頼み、ワラにもすがる思い、イワシの頭も信心から…とかなんとか云われますが、とにかく量氏のこのような考え方は、座右の銘に出る類の四字熟語で言えば「捨小就大」と同じことです。救済という大目的を実現するためなら、イエスの復活神話を史実とみなすような、あるいは学者の中にも聖書的根拠を否定する「三位一体」などというキリスト教教義を受け入れるという、積極的意味での(高尾利数氏が『聖書を読み直すⅡ』⦅春秋社⦆p39においてイエスの復活について言っておられる)「知性の犠牲」のロジックです。聖霊によって再生した理性や知性なら三位一体信仰を受容できる…といった考えもドグマとなり自分にとっては体験が無いからなのかどうかは知りませんが、仮にそんな、キリスト教会にとって都合のよいやうな体験を自分がしたとしてもすぐ醒めるだろうし、聖霊による再生した理性によって省察すればむしろ三位一体信仰なんてドグマ洗脳で無理な道理ってことになるだろう…とさえ思います(高尾氏は『キリスト教を知る事典』⦅東京堂出版⦆で、三位一体については「迷信」であると言っておられます)。その聖霊のはたらきがホンモノである限りは…。いかに宗教的真理は合理主義的思考を超える神秘的な面があるからとはいえ「不合理ゆえに我信ず」などというのがキリスト教信仰だとか云われても、こういった問題を「小」とみなせ得るかどうかは人によりけりでせうが、私はとても「小」とはみなさせません。いかに「救済第一」だからとは言え、「知性の犠牲」は「理性の犠牲」…人間性の抑圧へとつながる危険があるので、積極的意味なんて認め得ません。カルト団体のマインド・コントロールほどではないにしても自分にとってはムリムリです。復活と蘇生は違うとか言うけど、確実に死んだ人間が活動するってことに違いはないから、そんなことがイエスという歴史上の人物に起きたなんて認められるわけがありません。自分のような落ちこぼれの愚者でさえ科学の時代に自己限定されているのです。受肉だの復活だのを史実とみなさなければ受け得ないような救いなら自分にとっては全人的救済とはならないと思います。二千年余り前の旧パレスティナガリラヤ地方のナザレ村のイエスというユダヤ人男性が「真に神(絶対・無限)、真に人(相対・有限)」の両性一人格という特異な人間であったなどと信じ得るくらい本当の意味で愚かであるのなら、そんな自分には苦悩などありません。自分がイエス・キリストという存在を神信仰において必要であると認め得るとすれば、それはあくまで信仰の対象である「神」が三位一体などではなく(…というのは元々一人物であり「真に人」であるイエスが第二位格として第一位格の御父と第二位格の聖霊と相互内在・浸透⦅ペリコレーシス⦆しており同一実体・本質であるということは(各位格ごとの固有性はあるとは言え「一体」なのだから)、この「神」は人格化ないしは擬人化されるのは当然のことなので、すくなくとも第二位格の御子を信仰対象とはできないので(しかし聖書はイエス・キリストを信ずることを救いの要件としているのでそこは理知的には詰めず聖霊による体験においてぼやかしての受容となる…)、第一と第三だけの二位一体ならまだしも…といったことになり、その「神」は、イエスがアッバと呼んだエホバとその霊であって、その人格神との関係において自分の淫らな罪を不問にふして頂く…無いことにして頂くための贖罪者としてです。然るにその贖罪者には自分の妄想内淫行が晒されるということになるのだろうから、いずれにしても人格神とか人格的超越者への信仰は現実に合わないことになります。あくまで「はたらき」への信です。他人に知られて恥ずかしいようなことを妄想などしなければよかろう…と言ったって煩悩衆生なのだから自力ではどうにもなりません。結局、イエス・キリストへの信は、「絶対」者という意味の「神」ではなく、十字架刑死の「絶体絶命」の贖罪者であり復活者、再臨者としての超越者への信なのです!

それはともかく、前に引用しているところの量義治氏の言葉ですが、これまた大いなる疑問を招きます。新天新地の到来という悲願のためなら、冒頭言われているイエスに関する諸々の疑問もどうでもよいこととして解消され得るとでもいうのだろうか?そもそも何故、「新天新地の到来」というようなユダヤキリスト教的救済概念に執着するのだろうか?無論、それが大乗仏教の救済概念であっても同様の疑問が生じるのであるが、救済論的には特定の宗教を絶対化しているのではなかろうか?それって量氏が(宗教)哲学者でありながら同時に無教会キリスト教の指導者であったという実存的事実に由来することなのでせうか?量氏も小田垣氏のように、特殊(個別)に徹して一般(普遍)に通ずる…みたいな弁証法的ロジックを説いておられるのでせうか…?

量氏自身は以下のようなことは言っておられないが内容から私なりに敷衍するなら、誰もが確定死刑囚の坂口弘氏のように死の現実と向き合う個別的限界状況に置かれた場合、イエスとの共在による救済の体験においては、聖書神話やキリスト教教義に対する諸々の疑問などは「どうでもよい」と思えて(…『続あさま山荘1972』⦅彩流社⦆の「魂の救済」参照)解消すると言い切れるのだろうか…?それは坂口氏その他のような非凡なる才能等を持っておられる人々の場合には言えても、我々の如き一般大衆の凡人たちには妥当しないのではなかろうか?仮に誰にでも妥当するとしても、それが盲信の類といかにして分別できるのだろうか?あるいは、そんな分別は最早無用とでも言うのだろうか?私がキリスト教の教義・信条の大半を受け容れ難い理由は、教義・信条というものは聖書の神話を史実として伝えているからです。だから相対の絶対化に陥るのです。従って教義・信条をそのまま受け入れ、自分の信仰告白とすることは自己洗脳と言っても過ぎないでせう。現代の教会は昔から受け継いできている教義・信条の定式などは変えなくてもよいから(…例えば「三位一体」とか…)、その意味については史実と区別して、神話を実存論的か共同体論的かといったことはともかく解釈しなければダメです。いくら苦しいから、救われたいからといっても、自分は教義・信条を史実としては認めません!キリスト教義の無批判な受容は、悪魔に魂を売り渡すようなことです。イエスの実体論的意味の神性などはマジで信じることはありません。たとえ異端とされる仮現論であろうとも人になった神などというものは神話であってそのまま歴史的出来事としては信じ得ません。自分にとって聖書が示す神はあらゆる点で人と隔絶しているのです。神が人になる必要はなく、絶対と相対とは交わりません。八木誠一氏も、「人格存在の根柢の認識といっても、それはいわゆる神秘主義的な神人同一の静的・没我的直観とは質を全然ことにしている。第一に、神と人との関係は、前述のように、〝 即 〟ということでもなく、〝 統合 〟ということでもない。絶対の質的差別の上に成り立つ上下の相互内在なのである。とすれば神と人とは本質的に同一なのではない。ゆえに第二に、神と人との関係は、人格存在がその根柢を認識すると言っても、それは静的・没我的ではない。それは、統合の実現への自覚的参与として、主体的・行動的なのである。」と述べておられます(『キリスト教は信じうるか』講談社現代新書p192~193)。

神話はあくまでも神話として冷静に受けとめ得る理性がたいせつです。神話を事実の如く信じ込むことは拒否します。それにしたって何故、聖書なのか?キリストなのか…?という基本的な問題についてはクリアーされていないと、自分にとって聖書の宗教ないしはキリスト教との関係は何も始まりません。直観によるしかないのでせうか?盲信は排除しますが、疑問点をすべて合理化して解消することも間違いだと思います。「知性の犠牲」とまで言うほどの知性を自分は持っていないでしょうけど、自分も理性は犠牲にはできません。理性的判断としては、自己限定と言うしかないです。実存的事実として、自分はキリストと共に十字架につけられて聖書の枠内で生きるようになっているというわけです。イエスに関してはケノーシスということくらいしか自分は関心ないし、キリスト教ではなく聖書の宗教(…ユダヤ教という意味ではなく…)を信じるということなら、私は旧約聖書のコヘレト書だけでよいのです。あとの文書は参考までであり、コヘレトのような神信仰と人生観で生きて行ければそれでよいとさえ思います。そこには盲信的要素はほぼありません。しかしイエスにこだわり、キリスト教にこだわり続けるのは、墓地の問題があることもありますが、反抗的にではあれ子どもの頃から環境としてあった宗教なので、縁を切り難いのです。赤岩栄氏のようなカッコ悪い脱出なんかもマネしたくありませんし…。これもまた、盲信の類、洗脳のようなものが自分の中にあるってことでせうか?いずれにせよ、救いの必要に迫られたら、客観的な理由など無用です。あと20年もすれば、自分は孤独のうちに死んで火葬場で業火に焼き尽くされるのかと思うとゾッとします。そんな恐怖から救われたくて独自の神信仰を持ち続けているとしても、それは他人に説明して納得してもらう必要などありません。ただ自分自身で納得できればそれでいいのです。もはや知的レベルでは自分にとってイエス・キリストは救い主ではありません。「知性の犠牲」とまでは言う必要はないかもしれない、そもそも犠牲にするほどの知性が自分にあるとも思えないから。でも、理性は犠牲にできないのです。いかに来世救済を願う場合もです。但し、キリスト教徒として終わるなら、人になった神なんてものは納得できませんが、最低でも死後の救いを求めるならキリストの再臨とか新天新地の到来は受け入れなければなりません。受肉という神話はさすがに史実として認めることはできません。神話の実存論的解釈としても受肉なんて神が人になったという、ただただ異教的なバカげた話で何の意味も無いとしか思えません。しかしその他は、神の全能において認め得なければならないのでせう。その点で救いには個別的葛藤の面があるのです。救済論的先行ということで、「事(存在)が言(観念)に先行し、言を基礎づける」(八木誠一氏前掲書p74)ということなのかどうかはわかりません。だって「事」にキリスト教義…すなわち聖書神話の史実視ということが入るわけがないからです。救済論的に先行すべき「事」は、歴史と区別された神話の実存的意味でなければなりません。いずれにせよキリスト教信仰についての八木氏の重要な指摘は、「歴史的事件を救済の根拠にするということ自体、相対の不当な絶対化なのである」(八木誠一氏前掲書p68)ということです。

救済は個人の事柄を越えて共同体ないしは世界・人類の普遍的な事柄であるというのが量氏など知識人によくみられる救済観ですが、それは個々人の苦悩に対する省察や共感が甘いのです。特に現代社会では、心の闇…メンタルな問題によっていかに個々の深刻な苦悩が社会的な問題に発展しているか…。個の救いに徹してこそ類としての救いが見えてくるのであって、いきなり新天新地到来という普遍的救済が第一とされて、そのためなら個人としての疑問などは抑圧して然り…といった考えは現実的でもありません。

聖書における救済史の順序としては新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。従って、この箇所を私なりに敷衍すれば、イエスの神性は切実なる終末救済の要請において認められるということです。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。自分も職場での人間関係における出来事をきっかけとしてメンタルヘルスへの関心と共に、大仰に言えば「社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験」したのです。但しそれは人類が被害者としてというより加害者としてであり、原罪を有つゆえの悪魔性と、それによって生じる闘争関係の地獄的現実の苦しみです。そこから救われるためには、真に人にして真に神であるような超越かつ内在的な救い主を必要とするのです。その救い主であるキリストの再臨が待望されるのです。再臨によって神の支配が普遍的に実現されるからです。これが神の救済の究極です。このように自分が個として体験した人類の原罪性と虚無、そしてそこから救われることへの渇望に伴うイエス・キリストの神性の承認と再臨待望における終末の神の国信仰が、要するに自我が反発してきたオーソドックスな福音主義信仰の特殊性に徹することを通して、宗教の一般的真理を超えて宗教的実存の普遍性に及ぶ…という、これもまた否定的媒介の弁証法が成り立つのです。

小田垣氏の「回心」や十字架と復活の福音についての理解は極度に主観的かつ観念的であり、御自分の主たる思想が主-客構図脱却の「二重性」云々のワンパターンであることを自覚しておられました。

<わたしは二重性ということを繰り返し言っているが、イエスの復活は二重性的な、ある種の「さりげなさ」のものであるように思われる。たとえば復活とは、論理的には「さりげない」ものではあるまいか。ナザレのイエスが、神の子キリストであったという逆説を信ずることが、あえて言えば信仰である。しかし本来論理にはなりえない逆説が信仰の「対象」であるかぎり、信仰の「主体」である人間は、その「対象」から分離され続けている。だから対象は対象としてありうるのである。そしてイエス・キリストという逆説的矛盾は、人間のロゴスの中に取り込まれて、その逆説的対象を信ずるか、信じないかということが、信仰の分かれ道ということになろう。しかし人間のロゴスの中に取り込まれた以上、その折角の逆説も、逆説としての本来の意味を失っているのである。わたしが少年時代、信仰ということに躓いたように、である。つまり、イエスが十字架の上で死に、復活してキリストになったという逆説が、信仰の「対象」であるかぎり、それは人間のロゴスの中での復活であり(またはその否定であり)、それは人間の分限をこえた、本当の意味での復活ではないということだ。その場合、復活信仰は虚しい神話になる。だから復活は、復活についての人間の対象論理的信仰が無用とされるときにのみ、復活なのである。エックハルトについてはこれまでに何回も言及したことがあるが、エックハルトの言い方によれば、イエスがキリストになったという逆説を信ずるという自分の信仰心の高ぶりを捨てて、その意味で心が貧しくなり(そういう題とテーマの説教がエックハルトにある)、イエス・キリストの復活という逆説を、信仰の「対象」として求めなくなったときに、人間は復活という絶対的逆説の意味を悟るのだと、エックハルトはいう。これは人間のロゴスの終焉である。そして人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。実際、パウロがアレオパゴスで「知られざる神」について話をし、復活について言及したときも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と言ったのであった(使徒言行録一七章三二節)。>(~説教「花吹雪と復活」)

エスの人間を超えた性質…神性についての両性論とか単性論とか合性論といった教理的な事柄は、客観的な説明であり形而上学的思弁にすぎません。自分の場合はこれらを、歴史的現実を踏まえての救済願望に基づく象徴として受けとめます。

それにしても、まずは本人自身の「救済の出来事」が先行していなければなりません。人類の悪魔性の体験は、救済されねばならないと実感した出来事ですが、まずはこれがなければ、自分が歴史上に実在したナザレのイエスではなく宣教されたキリスト……福音書に書かれた「神の子キリスト」にこだわらなければならない実存的理由を得ないのです。赤岩栄氏のようにキリスト教を「脱出」したっていいはずですがそうならないのは、人類の悪魔性の実感とその元凶である「(原)罪」の認識という否定的な経験を媒介してこそ自分は、キリスト教徒であり続ける積極的な意味を得られるとすれば得られるのでせう。実際、神がそのように定めておられるならです。いずれにせよ、自己というものを実感するには「我思うゆえに我あり」では不足であって、心身の「我痛むゆえに我あり」と、否定的媒介によってこそ可能であるということがこの世についてはどうやら言えるやうです。

< 「前提」は一言にしていえば問いであった。〔※「問い」の各文字に傍点あり。〕 これに対して「現実」は答えであった。〔※「答え」の各文字に傍点あり。〕 そこで問題は、問いと答えとの関係になる。問いと答えとの間には一般的にいえば、問いより答えへという方向が成り立つ。問いが先に来たり、答えが後に来る。救済の論理においてもこの一般的な方向が一応は成り立つであろう。それなればこそ、「現実」の前に「前提」が語られたのである。しかし救済の論理においてはこの順序はあくまで一応のことにとどまる。〔※「救済」の各文字に傍点あり。〕 本来的にいえば救済の論理においては、救済の現実が先であって、これによって始めて救済の前提がその真相に徹して明らかとせられるのである。〔※「現実」の各文字に傍点あり。〕 すなわち、救済の論理においては、答えが先であって、問いはこの答えの光によって始めてその真相に徹するのである。>(~北森嘉蔵著『救済の論理』p58)

聖書で物語られている神は、人間が邪悪化したことで創造を悔いて洪水を起こしていたり(創世記6~8章)、万軍の主…いくさの神として怒りに燃えて敵を殲滅したり、計画を思い直したり(ヨナ書)、サタンを用いて人間の信仰を試したり(ヨブ記)、また、妬む神(出エジプト記20:5)とも言われているからです。完全無欠ならそのようなことはないでせう。 従って、聖書で物語られている神、そしてその神を、哲学的神観の影響も受けながら解釈して、使徒信条やニカイア信条などで、三位一体など独特の神観を立ててきたキリスト教の神は、真の意味で「絶対神」とは言えません。相対的な面、有限な面・・・欠点もあり、使徒信条などで告白されている「全能」という言葉も、文字通り完全無欠といった意味ではなく、あくまで賛美の表現なのです。すなわち人格神と云われますが擬人化されて描かれているので、人間的な存在なのです。 しかし!です。聖書に物語られ、ユダヤ教キリスト教で教義とされている「神」は、あくまでも「啓示」によって自分を人間に対して表現したのであって、元々の「神」は真に絶対の存在です。それは人間が対象として認識することのできない「霊」であり、宗教哲学では「空」とか「絶対無」とか「絶対無限の開け」などと云われています。 その「霊」なる非対象の「神」は、自己啓示し自己対象化することによって人間の認識し得る存在として対象化され、聖書に描かれ物語られているのであり、さらにそれが解釈されてユダヤキリスト教の神になっているわけです。その非対象の「霊」なる「神」こそ、完全無欠の絶対神です。なぜ「神」は「絶対」である必要があるのか?それは「神」に託される人間の生涯ないしは生命がかけがえのない「絶対」なるものだからだ。したがって以下の北森嘉蔵氏の言葉は受け入れがたい。

「オットーが愛用した言葉に、『絶対他者』という言葉があるわけです。これはいかにしても人間と混合されない、実在的他者ということですね。しかしわたしは、そういう人間とどうしても一緒にならないような神と伝統的な考え方は、キリスト教にとっての必要条件であるけれども、十分条件ではないと思うのです。それがなければキリスト教にならないけれども、それだけでもキリスト教にはならない。キリスト教というのは、絶対に人間と違うはずの神が人間になったということですから、人間になったという点では、隔絶ということは、乗りこえられている。しかし人間が神になったときに、それでは神も人間もなくなって、何か合金みたいなものになったかというと、そうではない。論理化すれば、二によって媒介された一とでもいったらいいかと思うのですが、そういう媒介的な思考がキリスト教の特色じゃないでしょうか。」(『宗教を語る』UP選書 p29)

「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して『神の権威』に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。」(荒井献著『イエスとその時代』〔岩波新書〕p185)

「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

ここで引用した言葉は相対化の対象が自己だけになって、肝心の世俗的価値観という偶像の相対化には関心が向いていません。それはこの論者たちがインテリ&ブルジョワだからでしょう。

小川圭治氏のように伝統的キリスト教の「三一神論」の神と「絶対一神論」の神とを対置させることには反対です。以下の小川氏の文章には(実際、バルトもモルトマンもそういう考えの持ち主なのでしょうが…)憤りさえ感じられてきます。自分には小川氏の言う「新しい神」とは無縁です。逆に小川氏が嫌悪する「絶対一神」こそが…「絶対」だからこそ救い得る者もあるのです。また、野呂芳男氏のように「絶対的なもの」(the Absolute)と「究極的なもの」(the Ultimate)とを区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ない などと言うこと(『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p335他参照)にも反対しなければなりません。

「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)

アドラーは『嫌われる勇気』であらゆる悩みの原因は対人関係にある旨言っているが、要は自分が謙虚になれることであり、私が精神的苦痛に対処すべく必要に迫られて考え出した(とは言えこれもフランクルのロゴセラピーと同程度かどうかはともかく非科学的な哲学的自己治療…自分用のセラピーである「絶対神信仰治療」について、以下要約。

神の絶対主権の下に、自分の悩みの原因となるあらゆるものを相対化するということです。イエスの「ケノーシス」を理想として、自己謙卑(卑下ではなく、ただ相手に従属しゴマ擦りするようなことを意味しない。無用なプライドは捨てて虚勢を張ったりせずに合わせるべきとことは合わせるということ)の信仰実践においては当然、優勝劣敗の「劣・敗」感が少なからず生じようが、いかに劣りいかに敗れても、それで自分が失われることは決してないという信仰がこの治療の基軸である。なぜ自分が失われないのかと言えば、自分が関係を与えられている神が絶対実体だからである。この実体という言葉も確固たる実在感を得るうえでのイメージ喚起として治療には有意義である。自分の原関係相手の神が絶対他者であるからこそ、自分は神以外の者によっては失われない…つまり上記の聖句のとおり、自分の心身を殺し得る者はあっても霊魂を殺し得る者は人間には不在でそれは神のみということ。そう思うと勇気が生じる。

私の「絶対神信仰治療」においては、「(三一)神、超越、絶対、人格、実体、霊、遍在、愛、義」…これらはセットです。そして、トインビーの「絶対的な霊的実体」と、波多野精一氏の「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)といった考え方が重要。

私が、神については「実体」(スブスタンチア)という言葉を是非用いたいのは、「本質」(エッセンチア)の同意語にとどまらず、漢字にすると「実」と「体」という…客体的に確固たるイメージを表わせると思うから。

人を救い得るのは聖書が示す「神」であり、それは原罪を持つ人間を「超越」しており不可知な面があるが啓示によって認識し得るのであり、その中心事項は父・子・霊の「三一」であること。そして「人格」的存在であって、はたらき・作用といった機能論に解消されるような神論・神観でなく、目には見えない…感覚器官ではとらえられないけれど、信仰を与えられている者たちにとっては「霊」として自由自在に、そして「遍在」しておられるがゆえに祈る時、詩篇16:8で「われ常にヱホバをわが前におけり ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし」と言われているように自分の心の内にも臨在され「われ動かさるることなかるべし」と言われているとおり確固として存在するという意味で「実体」であり、その本質が「愛」なるお方だからこそ、このように人間が対神関係において苦悩からの癒しを求めることに応じ給い、また「義」ゆえに世の中の苦悩の原因である原罪および原罪に由来する人間の営みを公正に裁き給う。ちなみに、神の絶対性を言う場合、「遍在」は必然的に出てくるわけですが、これと悪魔や悪霊の存在とがどのように折り合うかが問題です。人間社会の「悪」は人間の原罪に由来するものと説明できますが、そうでない実在としての「悪」は、神が遍在する世界でいかに存立し得るのでしょうか?それは神がそれを許容しておられるとするしか説明はつきません。

ウェストミンスター信仰基準に注目すると、かろうじて「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」という言葉もあり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しませんが、とにかく「絶対的」という言葉で翻訳されていることは重視されねばなりません。

日本キリスト教会の信仰問答における「神の唯一性と、その絶対主権」(8)とか「絶対者なる神の主権」(54)という表現(「十戒」についての問答に出てくる)も良いと思います。日本同盟基督教団信仰告白にも「神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。」(1-3)との文言があり、その「絶対」の聖書的根拠が申命記の「唯一」(エハド)とされているらしく、2023/03/16 15:00頃に電話でこの件について質問した同教団苫小牧キリスト教会の水草牧師も「唯一は絶対と同義」だと言っておられました。しかし申命記の「唯一」(エハド)の歴史的意味は、山我哲雄著『一神教の起源』(筑摩書房)によると、「ヤハウェは唯一」ということで、神々の中でホンモノの神はヤハウェだけといった排他的意味ではなく、alone in all でもなく、「あなたという人はこの世界にひとりだけ」といった意味のようだから、神の主権を「絶対」であると信じ告白する聖書的根拠には適さないと思われます。

「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳氏後掲文)

この高柳氏の考えは、八木誠一氏や小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)

前記のように、高柳氏の場合は次の引用文にみられるとおり、「唯一」が存在論的な意味ではなく関係論的意味だとするのと同様、先行する関心が常に民主的価値観であるから、「絶対」が「他者」と結びつかず、人間が絶対化される愚に陥っている。

「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)

これに対して、小田垣氏において「絶対」が「他者」の結びつかないのはあくまで宗教哲学的理屈によるもの。

信仰告白関係で神を「絶対(的)」と言う場合、それは哲学的な意味で「絶対」だということではない(にもかかわらず神学者の中には後述の小田垣雅也氏や野呂芳男氏などのように、神が「絶対」であるといわれることについて、所謂、哲学的な意味でその「絶対」性を論じる人もいる)。ちなみに並木浩一氏は、神の「絶対」性を否定しておられる。

「この人間の尊厳の感覚と神の尊厳、神が神であること、これははっきりと車の両輪として関係づけられている。これが大事なポイントです。ですから神がすべてで、神は絶対なのだ、という言い方は決して聖書的ではないのです。神の主権の主張と人間の尊厳の主張とが常に車の両輪としてはたらいている。神の立場を主張することが、人間を虫けらのごとく扱うことを許すとすれば、これ以上にひどい間違いはありません。(中略)たしかに、神と人間とは違います。一方は創造者、一方は被創造者です。人間を神格化することはできません。それにも拘わらず、神が神でありたもうことを語るということは、神が神でありたもうがゆえに人間、一人の人間が神によって大事にされていることを語ることになるのです。これが聖書の根本のメッセージです。」(~『旧約聖書の基本的感覚』)

jpnaz.holy.jp/jpnazarene/pdf

私への返信メールにも次のとおり書いて下さいました。

<「絶対」という言葉はヘブライズムには馴染まないと思います。私は旧約聖書には神の「絶対」を指示する言葉を見出すことができません。問題となるのは「神の唯一性」(例えば、イザヤ43:11)ですが、それは「人間の業と思いを完全に超えた」という意味であると説明できますね。人間が神に対して取るべき態度は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)です。神を絶対者と見なすなどということはどこにも記されていません新約聖書でも事情は同じでしょう。「絶対」は抽象的な哲学概念だと私は理解しています。「絶対矛盾の自己同一」なんかその典型ですね。これ以上のことは、私には言えません。>

こりゃダメだ~です。著名な旧約学者も神観が相対的存在としての人格神であるなら(…たしかに人間と向き合う人格神は相対的存在にならざるを得ず、擬人神はなおさらではあるが…)、とても人間の自己絶対化を断ち滅ぼし得る神信仰を聖書から説き明かすことなど出来ない。

私見では、キリスト教が甘ちゃん信仰的に誤解されてきた最大の原因は、ヨハネの手紙における「神は愛なり」ばかりが強調され、ヨハネ福音書における「神は霊なり」の省察が不十分だったからではないかと思います。

京大の哲学科および院を出たうえに西独のハンブルグ大学に留学して神学博士の学位も取得されたという稀有の女性宗教哲学者の花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます(ちなみに私は電話では話したことがあります)。 

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ 

ところで、西谷啓治氏や小田垣雅也氏の説く理詰めの「絶対他者なる人格神」の問題点は、「他者」とは言われながらも実は波多野氏の言う「自我の内に吸収され解消される」観念であるということ。しかもそれを生ける神というか生き神のように言い放っていることだ。それが「生きられ得るのみの無」ということである。これは量氏においては「無的絶対者」ということで処理できるのだろう。すなわち、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(量義治氏前掲書p190)さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(同書p292、293)と指摘されているからだ。これに対して一神教ユダヤ、キリスト、イスラムの諸教における絶対者は有的絶対者であると言い切るならまだしも、キリスト教イスラム教の絶対者はそうではなく、特にキリスト教の絶対者はまたしても三位一体論を持ち出すことにより「絶対有即絶対無なる神」などと嘯いている(同書p191)。これこそ「人生の神学」と懸け離れた哲学者の神学にほかならない。わけのわからない用語は「人生の神学」では非実践的であり無用として排除される。

人間の主体性において能動的に生きられるようなもの、それも(「絶対」と付くにせよ)「無」と表現されるようなものが、どうして「人間の外に存在する絶対的実在」とか「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」などと言えるであろうか!「絶対的実在」とは「有りて有る」と「有」が強調されるべき「神」なのだ。これは理屈ではなく賛美の信仰告白なり!西谷氏や小田垣氏には「神聖性」の理解が不十分、すなわち人間存在の原罪性の感覚と認識がそれこそ欠落しているのである。だから「神」に対して(いかに理屈があろうとも)「無」などという言葉を当てて平気でいられるのであろう。そして量氏には、キリスト論に吸収・解消し得ない神論の特質が軽視されているようだ。だから彼の「無信仰の信仰」論は、もともと放送大学のテキスト(『宗教の哲学』)であったこの『宗教哲学入門』にまで述べられているが、おこがましいと言わざるを得ないし、その問題設定すなわち、「わたしは無神論ニヒリズムの現代における真の宗教の可能性は『いかにして無信仰の信仰は可能であるか』という問題にかかっていると思っている。(中略)われわれはどうして神が無い時代に神と共に在りうるのであろうか。アウシュヴィッツを見よ。広島・長崎を見よ。そこに神はいたか。世界全体がますます混迷を深めつつある今日、神はわれわれと共にいるのか。」(同書p33)といった考え自体が、まさに形而上学的思弁的なのである。宗教者というのは、理屈のレベルでは山ほどの疑問を抱きながらも、生得的に与えられている「縁(えにし)」によって何故なしに、理屈ぬきに、「神」を信仰し得る、信仰せざるを得ぬ、そんな存在者なのであり、それは新約聖書における、罪人がキリストと共に十字架に磔にされて古き自我に死ぬという物語に象徴的に示されることである。信仰を賜った者は「神」の前に磔にされているのであり、古き自我が生きている限り、いかに神義論的な深い疑念を抱こうとも、それでも「神」との関係から出ては生き得ないことを自覚しているのである。量氏の場合はとにかく、屁理屈が多すぎる。そのわりのは学習不足で、同書p60で、ルカ福音書9:20を「神からのメシア」と訳しているが、荒井献氏が「神のキリスト」と訳して「この呼称には、ルカのイエス理解が適確に言い表されている。(中略)ルカのイエスは神に従属する『神の子』なのである。」(『イエス・キリスト 上』〔講談社学術文庫〕p183.下巻p349参照)と指摘しているとおり、ここの属格は「から」を入れずに訳す方がより適切なのだ。

自由主義キリスト教は、聖書およびキリスト教の相対的かつ有限なる(父・子・聖霊の)三位一体の神を礼拝することを通して、その背後に啓示元であり元来の絶対神を信じ仰ぐ宗教です。信条・教義の「神」としては、相対的には「ウェストミンスター信仰基準」に示された絶対的主権者としての「神」観をキリスト教神観の中では第一とはするものの、それもあくまで聖書解釈の産物であるので絶対視するものではないし、特に「三位一体」神論については、御子イエス・キリストを御父と全く同一の意味で「神」と呼ぶことは拒否する。

『無意味に耐える強さ』『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。」( 八木誠一著『創造的空  統合・信・瞑想』ぷねうま舎 p97)

直感か霊感か知れんけど、そういうのでわかる人にはわかる、わからん人にはまったくわからん…といった世界…宗教ってそもそもそんなもんでせうが、自分の最終的境地である創造的空こそそんな感じです。人はなにかにつけ意味の有無を言うけど、それも執着であり迷いなんでせう。そこを突き抜けて無限の開けに出ちゃうといいんですね。ちなみに劣者にとっての救いはそういう世界にこそあると思います。イエスのケノーシスみたく卑下を徹底してゆくと自我執着の底を突き抜けて無限の開けに出ます。それが創造的空の世界です。偽善や作善のはからいも思い煩いもありません。悪人は悪人であるがままに、無能は無能であるがままに…生死を超えて完全自由です。

ところで、五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。

まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。親鸞の「自然法爾」に通じる境地。

「運命と宿命とは別のものであるという主張が述べられている。高橋穣博士は、< 宿命 >とは、われわれの自由意志のはたらく余地がないほど、未来にわたってすべてが決定されていると考えることである、と言う。【運命の支配をもっと深刻なものであると考える人もある。即ち運命の支配は我々の生前より定まり居り、我々の生れる境遇や性格が運命的であるのみならず、生後の一切の出来事も運命によって定められているとする。これは我々の意志の努力そのものを運命によって定められていると考えるからである。そのような運命の支配を私は運命と言わずして宿命と呼ぼうと思う】これに対して、運命は偶然性を許容するものである。【運命とは偶然にして不可知な起生原因の一種である。】(中略)宿命と運命との区別は、西洋でははっきりしていないが、理論的に高橋穣博士が立てたものである。日本人のあいだにおいても、この区別は、はっきり自覚されてはいなかったであろう。」(中村元著『自己の探求』青土社 p276~277)

 以下、五木寛之著『人生の目的』より。

中村さんは、<宿命>とちがって、<運命>には偶然性が働く余地がある、といった意味のことを書かれている。私はそのあたりはまだよくわからない。<宿命>と<運命>のちがいも、はっきりとはつかめていない。あるとき、こう考えてみたことがある。<運命>はすべてのものが背負う共通の大きなものだ。人間として生まれたという運命。(中略)人類の運命とか、一国の運命とか、とにもかくにも私たち個人の枠を超えた共通の大きな流れ、それを運命とみるのはどうだろうか。反対に<宿命>とは、個人のものである。全宇宙にただひとりの自分、『唯我独尊』の『唯我』にかかわってくるのが<宿命>と考えれば、<運命>と<宿命>のちがいが、かなりはっきり見えてくるだろう。『歎異抄』のなかに親鸞の言葉として、<業縁>という表現が出てくる。私はこの言葉が、なぜか重苦しい感じがして嫌だった。私流に考えてみると、この<業縁>という言葉は、<宿業>の<業>と、<因縁>の<縁>との組合わせのように思われる。<宿業>も、<因縁>も、私の苦手な言葉である。見ると本能的に何か暗いものを感じてしまうのだ。しかしいまでは、この親鸞の<業縁>という表現は、じつに深い意味をもったすばらしい言葉だと思うようになってきた。そして自分勝手に、これを<業と縁>と読み、<宿命と運命>と読みかえて理解している。」(p5253)※「中村さん」は中村元氏。ここではその著書『自己の探究』の中の《運命と宿命》という章を踏まえて書かれている。

その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。

日本の、神学者を兼務した牧師には、ドイツ語ができても日本語があまりできない人が珍しくないのです。

< 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。>説教要旨 (church.ne.jp)

 

2000年に放送されたNHKスペシャル「選『雨の神宮外苑 ~学徒出陣・56年目の証言~』」で 出陣当時、東京帝国大学法学部2年生だった志垣民郎氏の言葉が実に印象的でした。学生の間で「運命」(独語「シックザール」 Schicksal)という言葉が流行っていたということでした。当時の若者の多くは、よりによって戦争の時代に青春期を過ごす運命を背負った世代であることを自覚し、そのことについていろんな思いを語り合っていたのでしょう。
ところで、私は「ウェストミンスター信仰基準」を通して「聖定」(Decree / Dekret)という教理を知り、それまで読み聞き知っていた「予定」より以上の大いなる意味を知るに及んで、一般世間的にみれば無きに等しいと言われるであろう自分のような者の人生が、死に臨んで無条件に肯定して笑って死ねるような恩寵に支えられていることに気づかされました。もし「聖定」とか「予定」といった教理に出会っていなければ、過去についていろいろ後悔して思い煩いながら空しき晩年の日々を過ごすことになったでしょう。端的に言えば、「聖定」は世界全体に対する「永遠」の「神」の決断であり、「予定」は人間に対する…すなわち人生の「時間」的な「神」の決断です。だから「聖定」とか「予定」といった「神」のはたらきだけに注目していてもダメで、まずもってその主体である「神」ご自身に注目しなければなりません。

私は戦争中の若者たちのことをドラマや本などを通して見聞きする時、彼らの中にはクリスチャンがいただろうし、その中には「運命」とか「宿命」といった言葉の代わりに「予定」とか「聖定」といった言葉を用いて、自分が直面している現実と向き合った人もいるのではないだろうか?いればよいな~と思うようになりました。信仰にもとづいて自分の運命を神の定めと受けとめることができれば、ただ偶然に流されるような運命による死の虚しさからは救われたのではないだろうか…と思うからです。学徒出陣を見守るスタンド側の、当時、東京女子医専の学生だった中尾聰子氏は、「全然、抗い難い歴史の大きな流れに巻き込まれてるっていう感じ」と言われ、当時、慶應義塾大学3年生の西川千孝氏は「諦念=あきらめ」…「時間と空間の接点に来ちゃった…観念しちゃう…自分を納得させる」と言っておられました。

池田浩平著『運命と摂理—戦没キリスト者学徒の手記—』(新教出版社)を読んだのですが、その中に、「運命の愛」という言葉が出てくる次のような文章があります。「ヤスパースは、『われと事態とが一つになっている。この歴史的限定性の中にあって余はあるがままのわが現存在を肯定する。この沈潜にあって余は運命を単に外的のものとしてではなく『運命の愛』においてわがものとして運命をつかまえることである』と言っている。……私はむしろ運命と摂理との二種の概念を截然と区別しうるということ、否、区別しうると言わざるをえないことを主張するのである。結論を言うと、ここに学問の世界と信仰の世界との相違が錯綜しているのであり、ひろく『運命の愛』を考えるのは学問的であり、その意味で少なからず客観的であるが、事態を摂理という一点に集中せんとするのは信仰的であって、少なからず主観的、いや非合理的主意主義的であると言わねばならない。この事実は、左の波多野先生の文章が明らかに物語っている。  啓示は彼ら――偉大なる宗教家たち――にとっては無限の光栄と歓喜とを宿す運命――とにかく運命であった。 先生が一度運命と言いながら、その含む客観性のゆえに躊躇し、よほど信仰をもって摂理と表明したかったところであろうが、学者としての責任より先生はここにダッシュをひき、『とにかく運命であった』と言わざるをえなかったのではないだろうか。」云々(p146~147 ※「歓喜とを宿す運命」の「運命」と、次の「とにかく運命であった」の「運命」に傍点あり。)

「聖定」は運命や宿命といった一般的観念に対応して、人生論のような誰もが関心をもって考えるテーマに通用し得る教理なので興味深い。「運命」を相対化し得るから…。しかし何よりもまず、「聖定」の主である「神」について観想されなければならない。それなしには聖定信仰もあり得ない。

現在の世界中の出来事が…特に一般大衆が首をかしげるような理不尽な出来事であれ、あらゆることが、その(直接的原因ではないが)由来に創造主の聖定を仰ぐという世界観を構築する。しかし前述のことを繰り返すが、聖定だけ信じたところで意味はない。重要であるのは聖定の主であり、あくまでも創造主という存在への関心が、聖定への関心より優先されて然り。信仰者である以上、救いの主体はあくまで「神」であり「キリスト」であって人ではないので、「神論」や「キリスト論」抜きで「聖定」ないしはその観点から人生を論じることもできません。また、論じることなしに体験だけを得ようとするのは神秘主義であり非社会的・非現実的です。《目的地》は「神」でそこへ至る《道》が「キリスト」であるように、救いの体験が目的であるが、そこへ至るには言葉による思索や議論を通らねばなりません。

北海道家庭学校の第5代校長・谷昌恒先生の「運命愛」に関するエピソードが印象に残りました。人が自分の人生を…特にネガティブにしか思えないような人生を肯定するうえで運命を愛するということに意義があるということですね。 クリスチャンではない人々、ましてや少年少女の皆さんに対しては、いわゆる対機説法的な意味で「運命」という言葉を使わざるを得ないことはわかります。当面は、運命を愛するという気持ちで、とにかく人生を肯定的に受けとめて希望をもって社会に出てゆければよいと思いますが、いつまでもそうではなく、将来的には「運命」を愛するのではなく、願わくは「汝の少き日に汝の造主を記えよ 」(傳道之書12:1)ということで造り主なる神の「摂理」を、もっと言えば創造と摂理を神が定められた「聖定」ということを学び知って、これを愛し受け入れる境地へと成長してほしいと感じました。復讐せず、悪に勝つ道 - YouTube

聖書が示す「神」については、第一に、もはや「神」という訳語は人名にもあるので、便宜的、限定的にしか使用できないということ。自分としてはなるべく「創造主」とか「絶対者」などの言い方を心がけたい。第二に、「神」については擬人化に陥らぬように、人格神信仰とはきちっと区別して継続してゆくこと。

以下、引用文中の黒太字は原文にはなく、ブログ管理者の私によるものです。これはこのブログ全体において毎度のことで、このようにいちいちことわりの表記をしていないページもありますので御留意ください。

以下、太字は自分が記す。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p108~109)

存在論的証明とは、神の『概念』だけから、その『存在』を証明しようとするもののことを指している。たとえば、神とは、それよりもより大いなるものが考えられないような存在者である。ところが、もしも、そうしたものが実在せず、思考のなかだけにあるのだとすれば、そのときには、そうしたものを考えている思考のほうが、より大いなるものになってしまう。しかし、これは矛盾である。、神は、思考や観念よりもより以上のもの、すなわち実在ゆえにするものである、というわけである。(中略)カントは、こうした推論が誤りであることを、あばいてみせたわけである。すなわち、それらは、『概念』から直ちに『存在』を導出しようとする、論理的矛盾を犯した、誤った推論だというわけである。(中略)こうしたカントの考え方を、その暫くあとに出たヘーゲルという大哲学者が、厳しく批判している(中略)たしかに、この世の中の『有限』な諸事物についてならば、その『概念』と『存在』とは別物である。しかし、神というような『無限』な存在者に対して、そうした区別を当てはめて考えるということ自体が、そもそも誤りである。なぜなら、神とはまさに、その『概念』と『存在』とが不可分であるようなもの、つまり、絶対的に『存在』するということが、そのまま直ちに神ということの『概念』にほかならないからである。したがって、神という無限者は、絶対的に存在すると考えねばならない、というわけである。神という無限者の存在は、この世の有限者の存在とは、まったく別個の、それとは比較を絶したものなのであり、そうした存在観念ないし実在観念なしに神のことを考えようとすること自体が、誤りであり、無理解の極致だ、というわけである。実際、西洋では、昔から、神こそは、『在りて在るもの』であり、その『本質』がまさに『存在』そのものであるようなもの、すなわち最高の完全な実在的な存在者であると考えられてきた。ヘーゲルにとっては、そうした別格の無限者の存在を、この世の儚い有限者にのみ当てはまる思考法によって想像し、それの存在を証明不可能なものだと決めつけることは、到底許しがたい、無理解の極みと見えたのである(ただし、それなら、ヘーゲルという人が、まったく伝統的な神中心の哲学と同じ思想を説いた哲学者であったと言えるかどうかは、ここでは問題外とする)。(中略)ヘーゲルは、カントの批判哲学の真意を理解せず、再び、神中心的な伝統的な形而上学の立場に逆戻りして、そのテーゼを繰り返しているだけであるようにも見える。それどころか、両者の見解は、まったくその出発点において真っ向から対立しており、そこには、なんらの調停も不可能であるように見える。実際、一方は、有限者の立場に立ち、ものの『概念』と『存在』との区別を根拠にして、神の存在を証明不可能なものとしているのに対して、他方は、無限者の立場に立って、神とはそもそも『概念』と『存在』との一致しているもの、つまり、不可疑の最高の実在者だと、初めから前提しているからである。けれども、よく考えてみると、この対立から私たちが学べるのは、神に関しては、その『存在』を語る場合には、神に関するどのような『経験』にもとづいて、神のことを考えているかが、きわめて重大だ、ということではないであろうか。実際、ヘーゲルが言ったように、神という無限者に関しては、この世の有限者について妥当する考え方の枠組みでもって思考してはならず、それとは別の思考法によって考えるべきであり、それこそが神の問題の核心をなすという思想は、世界中のあらゆる宗教的体験に本質的に認められる事柄だと言ってよい。したがって、たとえば、神については、それは、この世のどんな言葉でも言い表しえず、この世の事象を絶した、否定的な仕方でしか、神については言い述べることができないと説く、いわゆる『否定神学』の思想が、西洋では、さまざまな形で、いろいろな人々によって説かれてきた。ある意味では、それは、神に関する最も根本的な経験を言い表した思想だと言ってよいのである。したがって、神については、それ固有の神秘的体験にもとづいてのみ、語られるべきだということになる。実際、だからこそ、神については、『いかなる像』をも造ってはならないと、神はモーセに告げたのである(出エジプト記二〇、四)。なぜなら、神は、この世のものでは測られず、比類を絶した、超越的な絶対者だからである。(中略)神は、『御自分を隠される神』(イザヤ書四五、一五)なのである。だからこそ、この絶対の他者である神が、人の世に神の子として顕われたという逆説を信じ、その愛の教えに従って、悔い改めて生きることを決断するところに、神を信ずる実存的生き方の核心があると、キルケゴールは述べたのである。(中略)したがって、神の存在については、それに対応する経験のなかのみでこの問題を考えねばならないということになる。西田幾多郎が言ったように、神の問題は、宗教的要求や宗教的体験との関連において考えられねばならないのである。西田幾多郎は、宗教的経験を『心霊上の事実』と見た。ただし、それは、この問題を、非合理の圏域に押しやることではない。あくまでも、冷静に、宗教的経験の現象学的考察と、それにもとづく決断の問題として、神の問題は考えられねばならないのである。(中略)私たちは、どうしても、善を目指して努力する道徳的人間に、『幸福』を授ける『神』というものの存在を『要請』せざるをえない、とカントは考えたのである。ただし、この『自由』と『霊魂の不死』と『神の存在』という三つのものは、理論的には、証明できない『理念』なのである。けれども、実践的立場に立つとき、そうした理念を人間は『要請』せざるをえず、それらを『理性的に信ずる』ことが不可避であるとカントは考えた。カントは、こうして、『理性信仰』の立場において、『神の存在』を信じねばならないと言ったのである。(中略)カントは、この世の中で道徳的に努力して生きる人間の労苦と艱難という、人生経験の場のなかに立って、神の存在を要請したと言える。神の問題は、理論的科学的な知識の場面においてではなく、人生における生き甲斐や苦悩、挫折や労苦、死や不幸といった、人間の有限性と限界性、この世に生み落とされた、限りある『いのち』の享受とその使命の達成という問題意識のなかでのみ、論ぜられるべき事柄だったのである。このカントの指摘は正しいように思われる。神の問題は、科学的知識の問題ではなく、この世における、死すべき人間の、魂と心の救い、その真正の浄福と至福の問題に関わっていたのである。(中略)私たちは、そうした、故知らぬ存在の場のなかにあって、やがて死ぬべき自己の存在を思うとき、あらゆる出来事の背後にあって、私たちには隠れている永遠的な絶対者に思いを馳せ、その絶対者によって嘉せられ、救われ、安らぎを得、こうして、絶対者の懐に抱かれて、自己の存在の真実の意義に蘇ることを冀⦅こいねが⦆う精神が、目覚めてくることも否定できない。永遠の浄福と至福は、そのときにこそ、私たちに授けられるであろうと期待する心は、私たちの胸の奥深くに燃え盛っている。(中略)このように、私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司る絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。人間のうちに潜むこの葛藤と矛盾、懐疑と欣求、理性知と救済知との格闘が、絶対者の存在への問いの誕生の場であり、また、それへの答え、すなわち、信仰と懐疑の成立の母胎である。人はそれぞれ、英知を傾けて、自分の人生の最後を賭けて、この問いに答え、決断して生きねばならない。(中略)シェリングによれば、神は、最初から、絶対的な神として存在するのではない。むしろ、底知れぬ深淵のなかから、万物は生まれ、そのなかの葛藤にみちた出来事の果てに、しかも善を目指す人間の努力の果てに、やがて、いつの日にか、愛の神が出現し、新しい大地が開けることを、シェリングは期待した。(中略)私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」(渡邊二郎著『現代人のための哲学』p246~258)

ここで問題となることは、3点。

(1)アンセルムスの神の存在証明では「神とは、それよりもより大いなるものが考えられないような存在者である」という命題が前提とされているが、それ自体、不確かだから、その前提の推論も不確か。

(2)「ヘーゲルが言ったように、神という無限者に関しては、この世の有限者について妥当する考え方の枠組みでもって思考してはならず、それとは別の思考法によって考えるべき」ということと、「神については、それは、この世のどんな言葉でも言い表しえず、この世の事象を絶した、否定的な仕方でしか、神については言い述べることができないと説く、いわゆる『否定神学』」云々で「神については、それ固有の神秘的体験にもとづいてのみ、語られるべきだということ」については、一般的な批判として「啓示」の範囲では語り得るし語るべきであって、いたずらに神秘主義に陥ることなく、啓示の範囲を超えるような事柄については思弁をひかえて「聖なる無知を告白」する(ヨハネス・G・ヴォス)といった態度を求められるが、その「啓示」については議論があり、自然(一般)啓示を過小評価するキリスト啓示主義が大勢をしめる観があるが、自分としてはとにかく聖書の解釈において「神」(…人名にもある「神」は使わず、その代わりに「絶対者」を用いたい。本当は御父を「絶対者」と呼び、これに対して御子は「超越者」とでも呼びたい。御子は肉体を有し見える存在なので「絶対」とは言い難いからだ。でも三一論的には、そんな使い分けは実際、無理だろう。「聖霊」は「者」は付けず、そのまま「聖霊」と言えばよい。)を語り得ると見る。それは聖書において御自分を救済史としての歴史に関わる「父」として対象化させ、その自己限定において人間の神論を可能にせしめたと見るから、神学的とは言えあまりに庶民の現実生活から乖離するような特殊な思考法は無用とする。人格神観を徹底したら「(創造的)空」に行き着くだろう。(以下、引用。太字は私記。)

< 八木 (中略)パウロがそういう言い方(神は「すべてのもの」の内にある「すべて」となる)をしているということが大事なので、こういう言い方が成り立ってくるというのは、伝統的なユダヤ教とはずいぶん違うんだと思います(ヘレニズム的ユダヤ教は別です)。

秋月 八木さんは、「神」は形なきもので、それを形に現わしたものが「キリスト」であると言われるんですね。そうすると、「神」は「無相」すなわち「空」ということになりますか。(中略)そうすると、キリスト教の中でも「無相」体験。大乗に言う「空」、いわゆる人格神を突き抜けた「無相」体験があると言ってよい。

八木 その可能性があるということでしょう。つまり、パウロはこの世の終末論的完成として、そういう世界を考えていた。万物の根源で絶対の超越である神がそのまま万物と一であるという矛盾的自己同一の世界です。ただ、その状態は現出してはいない。(中略)パウロ神学はプロチノスとは違って、流出説ではないけれど、当時の宗教哲学でよく用いられたのと共通の前置詞を使っている。だから、その場合には、「人格神が世界を創造した」とそう考えているには違いないけれど、しかし「エック」と「ディア」をわざわざ使い分けている。それで「すべてのものが神から出た」と言い、それから「すべてはキリストを通して成った」と言うのです。

秋月 「ディア」は “ through ” ですね。“ by ” ではなくて。 

八木 ええ。「通して」です。それで、神が「すべてにおけるすべてだ」と言うのです。そうすると、これは少なくともユダヤ教的な人格神とは違ってくる。あまりよい言葉ではありませんが、存在論的な面が出てきている。(中略)現にパウロは働きの面では神と人の一を言う。人の働きは神の働きに基づくけれど、それと一である(『ピリピ人への手紙』第二章十三節)。ただ、パウロはそこをつきつめて展開してはいない。「一切に内在する一切としての神」をつきつめるとどうなるかということは、パウロは展開して語ってはいない。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p168~179

八木誠一氏の言われる「創造的空」に関しては、以下、『創造的空への道  統合・信・瞑想』(ぷねうま舎)より引用。

「実際、等価性は交換また応報の原則であり、正義と公正の基本である。しかし人格関係においては無償の贈与や無条件の赦しがあるものだ。(中略)等価性は交換と応報の基本であるとはいえ、『創造的空』にもとづく『自由』においては、等価性は失効しうるのである。ここにも一般の自我の知性と宗教的な『自己・自我』との違いが現れている。」(p35)「神とは『場のはたらき、その実現・伝達者』と区別される『場そのもの』を指す。それは世界と人間、存在者の一切が、そのなかにある、無限で究極の場だということになる。それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は『空』であり、しかし虚無ではない『創造的空』である。その創造力が場のなかにさまざまなレベルの統合体を形成し、人格に宿っては統合作用(自己)として自覚され現実化される。ただし、それがすべてではない。『神』とは、生と死、存在と非存在、生成と衰滅を超えて包む根源である。」(p94~95)「『無意味に耐える強さ』は『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。(中略)統合心の自覚の進化が、『創造的空』に導くのである。この場合の創造的空は、まずは場としての『こころの空』であって、上記の『神、場そのもの』ではないが、『場そのもの』の類比であり、比喩だといってもよい。(中略)こころが創造的空であることを知る人は、こころの創造的空が、世界を超えた究極の創造的空を映すことを、『仄かに直覚し、見通す』という仕方で『神を知る』。(中略)客観的に見られた『創造的空』と、自覚の底に見られる『創造的空』とは同じではないであろう。それは、客観的に見られれば脳細胞の活動であるものが、主体的に自覚されれば『こころ』であるというような、同一と差異があるということだろう。本書はもちろん、後者の道を行くものである。」(p97~98)「本書はもとより科学書ではない。自覚の深まりの方向に究極者、『神』を探るものである。それはやはり『創造的空』である」(p162)「こころの内容には、さらに奥がある。それは統合心を容れる『場』としての『こころ自体』である。それはこころの内容が『無』となったとき、『創造的空』として露わとなる。(中略)こころに現れる統合作用と、世界内に認められる統合作用とは、同じ超越的な『統合作用の場そのもの』、つまり『創造的空』に根差す、その表現の『場所』だということである。」(p182~183)「『神』を、場所論的観点から究極の場(創造的空)とし、『ロゴス・キリスト』を統合作用とすれば、その作用をそれぞれの『場所』において実現するはたらきのことを新約聖書は『聖霊』と呼んだ。」(p221)「『無意味に耐える強さ』があるが、これは『統合心』を超えるところがあり、『創造的空』に触れたとき、意味・無意味の価値づけが超えられることによって生起する」(p222)『こころ』という『場』そのものは、ただの『容れもの』ではない。それは統合作用を生み出す『創造的空』だということだ。『創造的』空というのは、こころの諸活動は、この『空の場』のなかでなされているからである。(中略)『神』とは両者を含む場そのものということになる。それは、全現実を包みつつ超える場そのもの、つまり『創造的空』である。(中略)『場』としての、こころと世界という二つの創造的空には類比的な関係がある。(中略)『創造的空』としてのこころは、『時間、空間、物質界、生命界、人間界、つまり存在と非存在のすべてを容れ、そのなかで統合体が形成される。究極の場としての創造的空(神)』を暗示している。我々は神そのものを見ること、経験することはできない。ただ『場』としてのこころが創造的空であるとき、一切の存在と非存在とを容れる究極の超越的な場としての創造的空が『神』と呼ばれたことが『見えて』くる。それは究極的な場そのもの(神)である創造的空と、こころという創造的空とが類比的だからだ。物質としてのからだは客観的統合作用のもとにあり、こころには統合心が現れる。両者は同じ場のはたらきが現実化する『場所』である。『神』(創造的空)の実在に客観的な証明はないが、ある種の『直覚』があるとはいえる。それは、創造的空としてのこころの(こころは実体ではなく、身体の一機能である)『創造性』は、究極の創造的空としての神の『創造性』と、存在論的には無限の違いがあるが、作用的には一だという直覚である。それを支えるのが、『身・心』が統合作用のもとにあるという、自覚される事実である。換言すれば、統合作用とカオスとの両者を容れる究極的超越と、統合作用と散乱(死)とに関与する『人間のこころ』との類比からして、『神』が創造的空であることが、いや、実は新約聖書はそれを神と呼んだことが納得されるのである。問題は神の存在証明ではない。むしろ、新約聖書パウロヨハネ、特にイエス)が何を『神』と名づけたか、現代の状況では、まずはそれを理解することが肝要なのである。『統合作用』に客観面と主観面とがあることはすでに述べた。超越的な創造的空のなかに統合作用があり、創造的空としての人間のこころにも統合心が成り立つ。後者が前者を宿すことが見えてくるとき、我々はロゴスまたキリストと呼ばれた『世界と人間とにおける統合作用』が超越的な『神』のはたらきとされたことも了解されるのである。(中略)なお、創造的空が意味・無意味を超えることについては、こころの平和と関係するところが大きい」(p229~230)「『創造的空』(「場としての自分のこころそのもの」と超越的な『神』という、二重の意味でのそれ)へという道が辿られたときに成り立つことである。(中略)二重の意味での『創造的空』は同時に意味と無意味、生と死の葛藤が超えられる場である。自分の存在と生涯に果たして意味があったかどうかということは、青年期に自分の将来がおぼろげに姿を現すときに始まり、中年から老年になって自分の全体が見えてくるにしたがって、誰をも悩ます問題である。(中略)自分の生は『創造的空』(神)のはたらきにもとづいて成り立つ、ということが納得できたときに、自分の生は元来それ以外ではありえないことが解り、自分の生が最深の次元では、価値・無価値を超えていることが解る。そのときに価値・無価値、意味・無意味が超えられるのである。終わりのない苦悩も耐えやすくなる。存在と非存在、生と死についても同様である。存在者も生者も、創造的空の創造性のなかで成り立ち、滅びるものだからだ。」(p234~235)

ここでみておきたいことは、仏教における「空」と「創造的空」との違いです。これについては西谷啓治氏の「空」に関する論文と、花岡永子氏の西田哲学における「絶対無」に関する論文が参考になります。その共通項は「無限の開け」です。

※(ちなみに八木誠一氏によると、龍樹の大乗仏教的縁起論における「空」とは「縁起するものの『非実体性』のことである」とのことで〔~『創造的空への道』p258〕、「『神』と呼ばれる究極の『はたらきの場』が単なる空ではなく、『創造的空』なのである。」〔同上 p259〕と言われている。その「創造性」については、「意味と無意味を超えて人を生かし、耐えさせ、死なせ、生と死の受容にいたらしめる。それは創造とは、古いものを去らせ(死)、新しいものを来らせることだからだ。最深の次元で創造性は、生と死、意味と無意味の対立を超えさせる。他方、そのいわば上の層にある統合の次元、さらにその上層にある自我(言語による区別の次元)では、生の意味と無意味、業績の質と量が量られる。しかし、それは相対的な事柄である。」云々とある〔同上 p234~235〕。そして、ここで「創造的空」と区別されている「単なる空」というのが大乗仏教的縁起論における「空」か。)

まずは前者から引用(~長谷正當氏の論文「『空と即』における西谷の空の思想 ―― 空のイマージュ化と有の透明化をめぐって」)

< 中期において、空が超絶的天空ともいうべきところに捉えられたのは、空がニヒリズムの克服という観点から追究されたからである。ニヒリズムとは宗教以前ではなく、宗教以後に、これまでの一切の宗教の立場を否定するものとして歴史に登場してきたものである。ニヒリズムの虚無は、西谷によれば、二乗化された虚無である。それは、これまでの歴史において人間が直面した虚無を克服しようとして生み出された諸々の思想的営為(その最高の表現が宗教である)を無効にするものとして、宗教のただ中に、宗教と同じ高さをもって生じてきた虚無である。それは、新たな耐性をもって出現してきたヴィールスのごときものであって、それを治療する宗教はもはやない。それは、人間に内在的な要求に基礎を置く一切の宗教を跳ね返すような絶対否定性を秘めていて、外から手出しすることができない閉鎖性をもった虚無である。そのようなニヒリズムを克服する可能性をもった唯一のものとして西谷が空の思想に着目するのは、空の思想ニヒリズムをさらに徹底し、人間に内在的なものをすべて打ち破る絶対否定性をその根幹に有するものだからである。人間が手足をつける処、枕する処なき場に立つという徹底した非情性、無私性を、如来の境涯として示すところに空の立場がある。それは、業や輪廻において究極の表現をもつような絶対的閉鎖性を打ち破るものとして仏教において登場してきた。そのような空の絶対否定性だけがニヒリズムの否定性、閉鎖性を内から破ることができるとされる。こうして、空は、ニヒリズムを内から破る思想としての力を仏教の伝続から得てきているのである。そこで、ニヒリズムが人間的世界を象徴する雲海を突き破って聳える山脈に賛えられるならば、空はさらにその上方に広がる天空、無限の開けとして捉えられる。それは行人の絶えた荒野、飛ぶ鳥無き極北の地であり、およそ人間の情意は取り付く州をもたない。しかし、そのような非情で無私な世界が却ってさばさばした自由で解放された世界を示している。そのような空を自己の心の底にもつことによって、人はニヒリズムの閉鎖性を破ってその外に出たところに立つ。ニヒリズムの否定性を「百尺竿頭なお一歩」を超え出た空の絶対否定性によって、ニヒリズムはいわば出し抜かれ、空無化される。ニヒリズムの虚無の閉鎖性ないし閉合性は、空によっていわば内から透過されるのである。ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」と西谷が言うのはこのような意味である。>

次は後者(花岡永子氏の論文「西田哲学における『絶対無の場所』の論理をめぐって」)

「もしも作曲家が自らの作曲した曲を私物化するならば、その曲は、絶対の無限の開けとしての絶対無における作品であるということはできない。何故ならば、絶対無の開けに生きていない限り、そのような場で作られた作品は、閉じられた作品であり、万人に開かれた作品であることはできないからである。」

そこで、書いておかなければならないことは、西田の「絶対無」と西谷の「空」との区別についての、氣多雅子氏の次の言葉です。

 西谷の「空」は西田幾多郎の「絶対無」の思想を受け継ぐものであるが、ヨーロッパのニヒリズムの「虚無」と対決するなかで導出されてきたことにおいて、「絶対無」とは違う独自の思想となっている。その「虚無」との対決はヨーロッパの科学・哲学・宗教のすべての伝統を受け取り直すことを要求し、その受け取り直しは絶えず反復されて西谷の思索の歩みを促し続けた。その思索の歩みは、最晩年の論文「空と即」において「情意のうちの空」という思想に結実している。この「情意のうちの空」とは何であるか、空の思想はどのような展開を示してそこに至ったか、そして、西谷の空の思想はどのような現代的意義をもっているか、それらを考察するのがここでの研究の趣旨である。>(「第19 回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR Tokyo 2005)パネル企画」 )rel-annual2005-no.1.pdf (kyoto-u.ac.jp)

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*

加藤諦三氏が、逆境に強い人と弱い人との違いに関して話しておられる中で、弱い人の特徴の1つに価値の相対化が出来ないということを挙げておられた。多くの価値の中の1つを唯一絶対の価値とみなしてしまうということ。弱い人も価値の相対化ができると新たな人生を始められるということ。2めとして時間的枠組みの違いについても言われた。逆境に強い人は長い枠組みの中で考えるので、過去のマイナス的体験が将来において活かされるといった考え方。3つめに人間関係のことも言われたが、自分にとっては1つめの価値の相対化が最も共感され、重要に思えた。シリーズ4 加藤諦三さんが語る、著書「逆境に弱い人―ここに気づけば強くなれる―」 - YouTube

それにしても、価値を相対化するには何かを絶対と認めている必要があるのではないかと思えた。加藤氏はそこまでは言っておられなかったし、その必要はないということだとは思うが、そこが学問と宗教との違いだろう。自分にとっては創造主という絶対者の実在を信じてこそ、この世のあらゆる価値を自分にとっては相対的なものとみなすことができるのであって、その創造主との人格的関係がなければ、やはりお金とか地位といったことを絶対的なものとみなす偶像崇拝に陥っていると思う。

人生を振り返って自分の過去は気づきが遅かったがゆえにつまらないことになってしまったと思うと何かのせいにして自分を正当化しようとするが、自業自得だと考えるのがイヤなら他人のせいにすることもダメなわけだから、そうなると神様のせいにさせてもらうしかない。しかし神様のせいにしても、直接のダメな原因は神のせいではありえないので、結局、成るようにしか成らないということで諦めるしかないことになる。それが自分の聖定信仰である。

自分は謙虚に自分のつまみ食い学習者としての無知・無能・無教養さを自覚して、特定教派教会が信仰基準とするものを誠実に信奉して、日々の生活における信仰実践に努めるというのが良いことはわかっているが、たとえ終末論的意識を高めて救済論的関心に集中して、具体的には聖書と改革派諸信条・教理を実生活の信仰基準としようとしても、どうしてもそこからはみ出してしまうのが聖書の従属論的三一神信仰なのです。つまりそれは単に観念的関心事ということでは済まない自分の信念に関わる事柄だということです。

旧約聖書を通して神の超越性と絶対性より国家の相対的、被創造性を説き、国家神道を否定する。」

「基督教的な立場からするならば、世界を創造しこれを支配する唯一絶対なる聖なる神の御意、即ち正義と愛とを実現することが、民族や国家の使命であり、且つ責任である」(~金田隆一氏の論文「戦時下における日本キリスト教会の一動向」※上段引用は金田氏の言、下段引用は金田氏が引用している『信仰と生活』44号の中の浅野順一牧師の「国家と道徳」の一節。kiyou14-25.pdf (tomakomai-ct.ac.jp)

また、自分は、とにかく擬人的人格神観(…並木氏の言うには人格神観は擬人神観を避け得ないとのこと。それは旧約聖書をちょっと読めば解る)は受け付けず、さりとて人格性が稀薄すぎる形而上学的実体的神観や逆に非形而上学(=存在論)的場所論的(「はたらき」の)神観もそのままでは受け入れられず、修正された(後者の場合なら)人格主義的場所論(八木誠一氏など)でもどうかなと思うところもあるほどで、擬人神観ではないにせよ一定程度の人格的存在性は不可決なのであり、その点で問題となることが三一論における従属性です。あくまで御父が自分にとっての「神」であり、「神からの神」である御子は自分にとって「真の唯一の神」とは言えません。やはり第一コリンと8:6のとおり御子は「唯一の主」として「唯一の神」である御父と区別します。その場合の「神」と「主」との違いも、教会で主張されるような同一的意味ではなく、イエスを「主」という「主」は(被造物とはせずとも)ヨハネ福音書17:3で「唯一の真の神であるあなた」(小林稔訳)の「真の神」とは区別される存在であるとみなします。この人格神へのこだわりがなくなれば、もはや神論への関心は相対化されて、神のはたらきへの関心に集中することができ、福音主義的神学としてはカルヴィニズムの「聖定」教理(およびそれによる人生観⇒「聖定論的人生神学」)への関心に集中できます。そうなれば改革派信仰における矛盾・葛藤は、無関心…消極的受容ないしは告白…ということでクリアーできるのか?と言えば、そう単純にはいきません。やはり御父と御子との関係については聖書を中立的に解する限り、同等説よりも従属説の方が正であるという信念に変わりはないからです!もちろん大病でもして、そういった思考をすること自体が面倒になった場合には話は別であり、それこそ「心(魂)、体、霊」の全一的救いに集中すべく改革派終末論の個人的救済に関心を持つことになるでしょう。しかしそのような限界状況に至るまではどうしても観念的欲求が抑え難くはたらくのです。そして神論への関心があるうちは、改革派教会に入会する場合、その矛盾・葛藤を合理化することはできません。神論より救済論の方に重きを置いて集中してゆくにしても、その救済は下記引用文において量氏が述べているとおり、あくまでも絶対者による救済だから、救済論は実存的にも、絶対神論とセットで考えられなければならないのです。そうなるとどうしても自分はキリスト論より神論に優位性を置き、御子の神性は認め得ますが、御父と御子との関係を主従とせざるを得ないのです。

(以下、引用。太字は私記。)

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からし絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(~『宗教哲学入門』p236)

量氏は同書で「絶対者による救済」という項目のもとで、「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調している。

それにしても、三位一体論は量氏のように「絶対有即絶対無」と解するだけでクリアーされるわけでもなし(前掲書p231~235参照)、元・エホバの証人のS牧師のように聖霊論的にクリアーできるわけでもありません。聖霊のはたらきは現実の体験であり、(S牧師は体験し得たのかも知れませんが…)そのような体験を得ない以上、観念的クリアーでは意味が無いのです。あくまでも御子従位・従属説を聖書的解釈として維持するしかありません。

人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)

自分はユニテリアンのような御子「被造」説は克服して、正統派の御子「同質」説は受け入れられますが「同等」は受け入れられません。そして所謂「ニカイア信条」においては、用語として前者はあっても後者はないのです。原ニカイア(325年)の「父と同質」(ομοούσιον τωι πατρί / being of one substance with the Father)は、コンスタンティノポリス(381年)では「父と一体」(ὁμοούσιον τῷ Πατρί / of one Being with the Father)に変わっています。基本信条において御父と御子との「同等」を明記しているのはアタナシオス信条。

自分の場合、あまりにキリスト教がかった神学…いわゆる福音主義神学とかいったものには興味はなく、どちらかというと形而上学的体系に基づいた哲学的神学などと云われるような思想の方に興味があるだろうとは思います。ただし、神論については汎神論的なプロセス神学だのユダヤ教神秘主義カバラ思想の収縮論などのような過剰思弁には関心ありません。

佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

せいぜい、下記のネオプラの影響を受けたイスラム教徒の思想に関する井筒氏のお話くらいはついてゆけるかな…?といった感じです。

「存在モデルとしての三角形の頂点を(中略)イブン・アラビーは、三角形の頂点に、(中略)「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(ahad)と呼びます。(中略)三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしろゼロであります。(中略)ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。(中略)このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤ(ahdiyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。(中略)この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。」(『イスラム哲学の原像』p122~)

それはともかく、最悪に過剰思弁の非神論的神論は、西谷啓治氏に影響を受けた小田垣雅也氏の『復活について』と題された説教にみられる、人間に内在化した人格神論だと思っています。特に下記の部分は、日本基督教団の補教師という立場(教団所属の教会ではない家庭集会⦅みずき教会⦆主宰)での「説教」とは言え、当人の神信仰が問われるところです。

「絶対他者なる神は、人間の立てた仮構である人間中心的主観―客観的認識構図の対象である神、人間の主観による認識の対象としての神ではなくて、つまり一つの存在者として人間に認識された神、さらに言えば、信仰の「対象」としての神ではなくて、その認識をも超えた、その意味で、人間の認識にとっては絶対無としての神になるほかはありません。それが絶対他者としての神でしょう。(中略)そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。また西谷博士こうも言っています。(絶対無理解に関して)『徹底した生成の世界がそのままで、一種の完結性を持ってくること、生成が生成そのものとして、一種の存在という意味を持ってくるというべき世界であると』(西谷啓治「虚無と頽廃」上田閑照編『宗教と非宗教の間』、岩波現代文庫、二〇〇一年、一一八頁)。ほぼ同じことを鈴木大拙禅師も、『存在は生成であり、生成は存在である』と言っています(T. Merton, Zen and the Birds of Appetite, A New Directions Book, 1968, p.111)。このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える『対象』ではなくて『それを生きるもの』であり、その意味で人格的であるほかはないのです。

小田垣雅也|復活について (fc2.com)

後半は西谷氏が言われていることを鸚鵡返ししたようなことであり、いずれにしても哲学的神学の立場であり、「信仰の『対象』としての神」を否定している時点でキリスト教の伝統的神理解とは異なります。さらに小田垣氏は、以下のようなことまで述べています。

「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)

再び引用します。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109 ※波多野精一氏の言葉を引用したものかと思い込んでいたが、読み返したら量氏の言葉でした。)という神理解とは相反する内容です。まさに小田垣氏は「考え過ぎ」であり、観念的知的欲求に歯止めが効かない過剰思弁と言えます。

その点では、野呂芳男氏による下記の小田垣氏に対する批判は的を射ていると言えるでしょう。

「小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。神が文字通りに一人格者(a person)であるとは思わないが、キリスト教の言うアガペーの神は人格的なもの(The person)であり、人格的象徴(symbols――ティリッヒの使う意味でのそれ)(10)によってでも表現しない限り、表現できないリアリティーキリスト者の神体験にはあるのではないか。やがて小田垣さんも神学の各論を、即ち、贖罪論や義認や聖化やキリスト者の生活を、あるいは、三位一体論を何らかの仕方で語らない訳には行かないであろうが、その折には、たとえ神を無、あるいは、絶対無で表現しようとも、その無あるいは絶対無の人間に対する愛・恵み・慰め・命令等について語らざるを得なくなろう。そういう信仰体験の事情を、我々は神が人格的であるという主張で意味しているに過ぎないのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)※(10) 「実存論的神学」167頁

野呂氏はこうして小田垣氏の思想を批判することを通して人格主義的神学者としての面目を躍如されているかのようですが、野呂氏の方は神の「絶対」性を否定して神を相対化する愚を犯してしまっているので、結論的にはどっちもどっちということです。職業神学者の言うことは、先行研究者のいろんな学説をあたっている分には参考になる発言がある反面、自身ではそういうひどすぎる愚説を平気で公言する場合もあるわけです。野呂芳男氏などはその典型的な例であり、日本のプロテスタント神学者で転生輪廻まで言い出すことなど前代未聞でした。私自身、電話取材で、自分が牧師をしている教会の信徒も信じている旨のことを言っておられ、呆れたことを憶えています。

「つまり神学と哲学との神に対するかかわりは、実存的であるか客観的であるかという相違である。その際、哲学が確認する絶対者は、それはそれとして認められており、ただそれが『究極的なかかわり』とは区別されているだけである。しかし、われわれは、客観的に論議されうる『絶対者』、『無条件者』なる『最高のもの』(“a highest thing” とティリッヒ不定冠詞をつけている)が、本当に絶対的でありうるかどうかを、更につきつめて考えてみる必要があろう。(中略)つまりティリッヒの言う哲学の神は、絶対者についての人間の想念にすぎないのではないかということを、考える必要がある。言いかえれば、本当の絶他者は、ティリッヒの文脈で言えば『究極的なかかわり』としてのみあるのであって、哲学者の神なるものは抽象的な神にすぎないのではないか、ということである。」(小田垣雅也著『哲学的神学』p11)※「のみ」に傍点あり。「くり返すようだが、哲学が把握する絶対は、哲学が人間の思弁による作業である限り、絶対ではありえないというのが哲学的神学の基本的な認識である。ティリッヒのように、哲学は神を理論的に理解するというような考えは、神に対する幻想ないし、観念であるにすぎない。このことは、神の絶対性を論証することが不可能だと言っているのではない。哲学が神を指向として持っているということも、その論証が中途で論理的に挫折するという意味ではない。論証はできるであろうし、それはなされてきた。そうではなくて、論証ということそのことが、神の絶対性とは往き違った所作であり、したがって神の絶対性そのものには至れないということである。」(小田垣雅也氏前掲書p20~21)

弁証法的神学は近代の人間中心的神学に否を言った。神は絶対他者である。神は人間の認識の外にある。しかしそのことの意味は、右に述べたような近代の無神論の超克ということ、言いかえれば、有神論―無神論という対立構図の人為性そのものの中に潜んでいる無神論の超克ということであるべきである。そこで求められているのは認識にとって有―無をこえた神であるべきである。しかし弁証法的神学は、そのことに充分徹底していない。神の絶対他者性は、それをいか程、徹底的に、くり返し、主張しても、むしろその主張そのものによって、その神は人間のその主張の中に捉えられている。『理』としては正しいその主張――人間の――そのものの故に、『事』としてはその主張即ち神の絶対他者性が裏切られている。むしろ神の絶対他者性の主張が熄む時に、絶対他者なる神は現成する。現代における神の問題は無神論に対抗した有神論を主張することではない。(中略)現代における神理解の課題は、絶対他者なる神をどのように『事』そのものとして、『理』としてではなく、理解するかという点にある。(中略)絶対他者なる神を理解するためには、絶対他者を求めている自己を放棄すること、自己を空ずることが必須である。(中略)絶対他者が事実として絶対他者でありうるためには、それは自己の絶対他者へのかかわりの外にある他はなく、絶対他者にかかわる自己を空じた時に、絶対他者として――理解され得べくんば――理解されるであろう。しかしこのことを自己の側から言えば、その時は絶対他者もまた、少なくとも自己の視界からは、消えることになる。」(小田垣雅也氏前掲書p60~61)

神を「絶対」と言う場合、それも比喩的表現であるとすれば(…しょせん「神」は啓示された範囲外は不可知なのだから…)「絶対的」という用語で言わなければそれこそウソになる。神そのものが絶対であるというのは唯一ということから敷衍されることではあろうけど、その「唯一」の意味も歴史的な意味は他の「神」と称されているもの(偶像)との関係が前提とされているとは限らない。「ヤハウェ」という名の神が地方の諸聖所ごとに礼拝されていたのを中央に統一したということなら、「唯一」と訳すより適切な訳語があるのかも知れない。それはともかく、自分は神について「絶対」とは言わず「絶対的」と言いたい。「絶対」を言う場合は「神」そのものではなく、その主権について言えばよい。

形而上学は確かに神ないし絶対者をとり扱う学であり、その点で神を対象とする神学と似てはおりますが、はっきりした区別があります。 形而上学においては、その絶対者ないしは神を人間主体との関係から切り離して、客体的に眺めるという態度をとるのに対して、神学は神をどこまでも人間主体、すなわち『私自身』との関係において考えていくという点であります。 形而上学は実体概念的でありますが、神学は人格概念的であります。(中略)聖書において示される神は、どこまでも人間にかかわりをもつ神でありまして、したがって神を考える場合には、『私自身』というものを中に引き入れて神を考えなければなりません。つまり、関係において神を考えなければなりません。神の啓示と言い、神の愛と言い、ことごとく関係概念であります。そこでイエスの神性をも形而上学に属する実体概念たる『本質』と結びつけるよりも、関係概念として考えなければなりません。関係概念は具体的に言えば『愛』であります。『イエスは神である』という信仰告白は、神の愛という見地から今日考え直されなければなりません。イエスが神であるという信仰告白は、イエスの愛が、とうてい人間の領域に見出され得ないものであるという告白から生まれてきます。(中略) 関係概念においてイエスの神性を考えるということは、古代から中世の神学ではきわめて困難であり、それが自覚的に明確化されたのは、プロテスタントの神学においてであります。(中略) ルターが神を考え、キリストを考える時はいつでも、『私にとっての神』、『私にとってのキリスト』というかたちをとりました。言いかえれば、キリスト論が救済論と結びついたわけであります。キリストを客体的に思索するのではなく、自己の救いと結びつけてキリストを考えるということです。 (中略)リッチルの神学の方法論は価値判断(Werturteil)と呼ばれます。価値判断とはどういうことかと言いますと、『キリストを神として告白する信仰は、キリストが私のためになしたもうたことの価値を判断して生まれる』という考え方です。キリストを客体的に、『形而上学的に』考えるのではなく、キリストが私のためになしたもうた業が、神でなければとうていできないことであった、ということから、キリストを神と告白するのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社 p62~65)

「神」について関心を持つ場合、それが「形而上学」的であるより「神学(特に救済論)」的である方が現実的意義がある…ということは自分も認め得ることです。しかしそもそも、対神関係について哲学と神学とを区別しきれるかどうかは疑問です。表現の面においてであれ、野呂氏のように「絶対」は哲学用語であって神学用語ではないなどということは言えないでしょう。キリスト教は非聖書的な「三位一体」論においてギリシャ哲学の論理や用語を用いています。これは構造的な事柄です。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。」

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量氏前掲書p293)

「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」(関根清三著『倫理の探索』p133)というように、何かしら「有的」だけではダメで「無的」な神観がよりリアルで現代的であるかのように思い込んでいる人がいるわけですが、清三氏の御父上の関根正雄氏は次のように述べておられます。

< 我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134) 

ところで、所謂「知、情、意」の比率は人によって違うので、自分の場合はすくなくとも、「情(緒)」中心(例えば、所謂、イエスさま信仰…女性に多い)でも「意(志)」中心(例えば、所謂、社会的福音信仰…男性に多い)でもないので、どれかと言えば「知(識)」中心(…といっても関心分野は偏っているので飯さんみたいに専門以外は非常識タイプで、「神」については、形而上学的関心と神学的(救済論的)関心とは半々くらい?)なので、そうなると、キリスト論よりも神論、御子より御父の方に優位性を置く信仰形態になっていることに筋が通る。しかし、特にメンタルヘルス的には、自分も救いを求めて神を信仰しているので、その意味でも形而上学的関心だけで済まないし間に合わないということは自覚しているし、身体的には終活という実際問題に即して考える以上、日本における既成のプロテスタント教派教会のどこかに所属する必要があり、そのようにしている(61歳から改革派信徒)。それは形而上学的関心より神学的(救済論的)関心の方を先行させる必要に迫られてのことではあるが、やはり形而上学的関心もある程度はあるわけだから、当然、ウェストミンスター信仰基準の如き体系的信条では相容れぬ部分も出てくる。これが日本基督教団の如き簡易信条であれば解釈次第でクリアーできないこともないが、体系的信条となるとそうはいかない。しかしその分、「神」については相容れぬ部分が生じてくる半面、極めて共感し強調すべき部分も生じてくる。それが主権の絶対性の強調である。特に「聖定」の教理とその強調は、改革派系諸教派の最大の特徴であり、日本ではその代表がRCJ(Reformed Church in Japan)なのである。

形而上学的神観と神学(救済論)的神観との違いを比べてみよう。まず、前者のメリットだが、これは特定宗教としてのキリスト教に囚われることなく、普遍性ある神観を学ぶことができる。動機に救済的要素があるいくらかはある以上、神観もある程度は人格的にならざるを得ないが、神学のような擬人化は最小限度に抑えられるので介入されることへの圧迫感も少なく、神義論の如き愚問に縛られることはない。デメリットは、形而上学的救済としてはあくまで観念的、精神安定に益するレベルにとどまる。一方、後者のメリットとしては共同体への所属による社会生活への実現ということで、それは終活(…特に墓地・埋葬問題の解決)も含まれ、教会というキリストの体における現実的な手応えを得られるということ(但し美化することはできない!聖徒の交わりというのはあくまであの世の理想であり観念であって、この世においては世俗社会の対人関係と大差ないのでストレスも生じる)。デメリットは神観が擬人的になるので、野呂芳男氏のようにプライバシーを尊重して介入しない神といった都合の良い神観でも持たない限りは圧迫を感じて、場合によっては神の監視という強迫観念が植え付けられ神経症的状態に陥る。対神関係も対人関係と同様に、あまり近すぎるとストレスにつながるので、つかず離れず…美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感がちょうど良い。

神学(救済論)的関心を優先させる以上、救いに無用な形而上学的疑問は思弁しても意味はないということで、そういうどうでもよい無用な問いは聖霊のはたらきによって停止し、教義…特に「三位一体」とか「予定」および「聖定」など、通常の論理を超えていると思われるものについては、聖霊他力の働きによって聖なる無知を告白するという謙虚な態度にされて、これをクリアーするしかない。しかし、形而上学的関心も一定程度はある自分の場合は、いかに聖霊のはたらきが与えられても、信条における三位一体神への疑問や反論思弁も捨てきれない。すなわち御父と御子とが「同等」などということは、聖書を素直に読む限り、平気で告白することなど出来ない。せめて元・改革派教会の牧師である佐々木稔氏が自サイトで用いた「職務的従属」という概念でもよいから、三位格における御子従位・従属を述べて「同等」は言わないことを心がける。

パウロが「神」と「キリスト」とを言い分ける理由は、「キリスト」も「神(の子として、神の性質を持つ者)」ではあるが、あくまで「神からの神」であり、聖書で「神」と言われているのはその神ではなく、「神の神」としての御父であるということ。「神からの神」は「神(の神)」と同等ではあり得ない。「から」(エク)と言った時点で同等ではなく従位なのである。

「(父なる)神⦅神の神⦆、神の子(キリスト)⦅神からの神⦆、聖霊⦅神の霊⦆」

「愛」も「愛の愛」(=無償の愛である理性的な愛である「アガペー」)、「愛からの愛」(=「アガペー」の比喩的派生形態としての親愛「ストルゲー」)、「愛への愛」(「フィリア」)という区別が端的には可能だが、これを「神」に対応させることには無理がある。ただ、三位一体批判としては、第一コリント13章の所謂「愛の賛歌」の最終13節、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」の「信仰」に御子、「希望」に聖霊、「愛」に御父を代入するというやり方もある。「愛」に御子を入れたがるのが世のクリスチャンという者であるが、自分は「神は愛なり」の「神」(は、三一神の非ず御父なり!)とする。これに対応するのが、ヨハネ14:28 , 17:3、第一コリント11:3など。

ちなみに、第一コリント13:13(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」の「最も大いなる(もの)」と、ヨハネ14:28(口語訳)「父がわたしより大きいかたであるからである」の「~より大きい(かた)」と、原語は同じ「メイゾーン」(「メガス」〔大きい、偉大な〕の比較級)という形容詞である。第一コリントの方は、比較級なのに最上級の意味に訳している。形容詞という意味では、川端由喜男訳の「愛はこれらのうちで最も偉大(である)」というふうに訳すほうが、口語訳や青野訳のように「最も大いなるもの」と訳すより良い感じではあるが、川端氏の対訳では「訳語については、ギリシア語本文を読む助けを提供することが主眼であり、釈義的に正確な訳を試みたものではない。」とことわった上で「訳語選択にあたっては」、口語訳、新共同訳、青野太潮訳などを参照したと書かれているので、その点では不安だ。

織田昭著『新約聖書ギリシア語小辞典』では、「メイゾーン」の第二義として「②(最上級の意味で)最も大きい , いちばん偉い , マタ23:11 , Ⅰコリ13:13. 」と書かれている。また、岩波版 青野太潮訳の注には、「これは形の上では比較級(meizon)。一二31bの「さらに卓越した道」からして最上級が予期されるが、ヘレニズム的ギリシア語では最上級 megistosはあまり用いられなかった。」とある。「愛」については、「『信・望・愛』の三幅対は、パウロではⅠテサ一3、五8、ロマ五2-5に出る」とある。

第一ヨハネ5:7~8「なぜなら、証しする者が三人いるからである。霊と水と血である。そしてこの三者は一つのものを指し示している。」(岩波版 大貫隆訳)の注に、写本において7節と8節の間に置かれた「ヨハネの文節」(コンマ・ヨハンネウム)にふれられている。これについては、田川建三著『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中で次のように書かれている。「この場合のコンマというのは読点の意味ではなく、『句』という意味である。第一ヨハネ書簡五・七ー八の文を、もしくはそのヴルガータのラテン語訳を指す。ギリシャ語の原文は『証言するものは三つある。霊と水と血である。そしてこの三つは一つになる(逐語的に英単語に置き換えると、these three are into the one)』という文である。しかしこれがヴルガータでは Quia tres sunt qui testimonium dant, in terra, spiritus et aqua et sanguis. et tres sunt, qui testimonium dicunt in caelo, pater, verbum et spiritus, et hi tres unum sunt となっている(ヴルガータも写本によって少しずつは異なる)。「証言を与えるものは次の三つである。地上では霊と水と血である。そして天にて証言を述べるものが三つ、父と言葉と霊である。この三つは一つである(最後の文を逐語的に英語の単語にすると、these three are one)。」つまり、三位一体のドグマを宣言する句がつけ加えられたのである(ここの「言葉(verbum)」はロゴスなるキリストを指す)。新約聖書の中に三位一体のドグマを明言する文は存在しない。これは今日ではよく知られていることである。まあ、無理にそちらの方向につなげようと思えばつなげられる考え方が出て来ていないわけではないが、はっきり明言している文はない。それでカトリック教会は困ったのであろうか。ラテン語訳の写本のどこかの段階でここにこの句がつけ加えられた。(中略)何年もたってからやっと一つ写本が提示された(小文字写本の61番)。その結果エラスムスはこれを第三版から挿入したのだが、この写本はどうやら彼をおとしいれるために後からあわてて作られたらしい、という疑念を註に記している。今日の研究では、この61番の写本は一五二〇年にオックスフォードで書かれたということがわかっている。つまり、エラスムスのテクストが発行された後にあわてて捏造されたものである。」(p417~418)

ローマ・カトリック教会ぐるみで聖書を捏造したということらしい。「父と子と聖霊」を、ここの「霊と水と血」にあてはめるなら(上記のヴガータ訳の関係でしょう、カトリック教会の公教要理では「霊と水と血」が「聖父と御言と聖霊」になっているという)、第一コリント13:13の「信と望と愛」にあてはめたってよいでしょう。第一ヨハネでも八木氏が場所論の基本文の一つだという(『イエスの宗教』p23)「愛は神から出る」(4:7)とか「神は愛」(4:8 , 16)といわれています。もちろん、聖書を捏造する必要などはありません。本質的意味として通じ合うのはこちらの方です。信も望も、愛から生まれてくる、愛が源です。神はどうしても人格的に比喩表現されるので、愛も八木氏が言われるとおり3つに分節すると愛の源が御父で愛の内容が御子、愛の伝達が聖霊といったことになろうか。ちなみに「唯一」というのは御父についても御子についても言われている(第一コリント8:6)。従って「唯一」の歴史的意味における原段階では中央集権体制に関して同じく「ヤハウェ」の中での「唯一」であり、拝一神教的意味は次の段階であり、「唯一絶対」という意味は本来的でないが、パウロ的には「神」と「主」とを区別する意味での「唯一」であり、それとキリスト教の実質「三神論」である「三位一体」とは矛盾しない。

この第一ヨハネは、仮現論的キリスト論という異端説を論駁することを主たる目的として執筆された由であるが、それは「神の子キリスト」が洗礼において「人間イエス」と合体し、十字架刑に際して離れたというもの。大貫氏の指摘でより重要なことは、「後一世紀末から同二世紀にかけて原始キリスト教会の内外に登場して、やがて正統主義を自認する教父たちから『異端説』のレッテルを貼られてゆく立場は大小多種多様で、一概に論じることはできない。その中で、ヨハネの第一の手紙が対峙している『異端説』の右のような仮現論的キリスト論と救済論にもっとも近いものを探せば、(中略)ケリントスの立場が挙げられる。(中略)これら二つの類例とヨハネの第一の手紙が対峙する『異端説』の間には軽重を問わず多くの相違も同時に存在するので、お互いを直接的に同一視するわけにはゆかず、思想史的な類似に止まる。」ということ。

(第一コリント13:13)

νυνὶ δὲ μένει πίστις ἐλπίς ἀγάπη 

τὰ τρία ταῦτα μείζων δὲ τούτων  ἀγάπη.

川端訳:(②今 ①そこで ⑧存続する ③信仰 ④望 ➄愛 ➆三つのものが ⑥これら ⑫最も偉大⦅である⦆➈しかし ⑪これらのうちで ➉愛は)

青野訳:「そこで今や、信仰、希望、愛、これら三つが存続する。しかし、それらのうちで最も大いなるものは、愛である。」

②ヌニ ①デ ⑧メネイ ③ピスティス , ④エルピス , ➄アガペー , ➆タ トリア⑥タウタ. ⑫メイゾーン ➈デ ⑪トゥートーン ➉ヘー アガペー

ヨハネ14:28)

 ἠκούσατε ὅτι ἐγὼ εἶπον ὑμῖν ὑπάγω 

καὶ ἔρχομαι πρὸς ὑμᾶς εἰ ἠγαπᾶτέ 

με ἐχάρητε ἄν ὅτι πορεύομαι πρὸς 

τὸν πατέρα ὅτι  πατὴρ μείζων μού ἐστιν.

川端訳:(➉あなた方は聞いた ⑨ことを ➅私が ⑧言った ➆あなた方に ①私は行く ②また ➄私は帰って来ると ④ところに ③あなた方の ⑬なら ⑫あなた方が愛している ⑪私を ⑱あなた方は喜ぶはずである ⑰のを ⑯私が行く ⑮ところに ⑭父の ⑲なぜなら ⑳父は (22)もっと偉大で (21)私より (23)ある⦅から⦆)

小林稔訳:「あなたがたは私が自分たちに『私は往くが、あなたがたのもとに来る』と言ったのを、聞いた。仮りに私を愛しているのなら、あなたがたは私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は私よりも大いなる方なのだから。」

➉エークーサテ ⑨ホティ ➅エゴー ⑧エイポン ➆ヒュミーン ①グパゴー ②カイ ➄エルコマイ ④プロス ③ヒュマース ⑬エイ ⑫エーガパーテ ⑪メ ⑱エカレーテ  ⑰アン ホティ ⑯ポレウオマイ ⑮プロス ⑭トン パテラ ⑲ホティ ⑳ホ パテール (22)メイゾーン (21)ムー (23)エスティン.

(※N&A原典でも、また『日本語対訳 ギリシア新約聖書』(川端由喜訳)の原文(The Greek New Testament )でも、コンマやピリオドが付いているが、Blue Letter Bible にはそれは無し。)

聖書的には、コーヘレト的神観すなわちコーヘレト的対神関係は実存主義的信仰であると云われるように好感を持てる。すなわち、形而上学的(存在論的)に過ぎず神学的(救済論的)に過ぎず、非擬人的人格的(哲学的)に過ぎず擬人的人格的(神学的)に過ぎず、つかず離れずでちょうどバランスが良いと思う。

私は、バルト神学の(キリスト特別)啓示偏重は自分の中で否定しています。改革派の中にも、「バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは、行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない」との批判があるくらい(~webサイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ベルクーワの著作の紹介」の第5章 キリストの啓示は排他的か)、バルト神学の「神認識・啓示」の教説は極端なのです。 そのバルトにおける「愛」に関する論文では、バルトのマルコ12:29-31の釈義として「『主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』(29節)。ただ愛することだけが、神の唯一無比性に対応することである。この愛することは、神の唯一性のゆえに『選ぶこと』を意味する。」云々と書かれている(~佐々木勝彦氏の論文「K. バルトにおける『愛』(1)」)。

そして私は、「神は愛なり」の「愛」も「神と隣人を愛せよ」の「愛」も「アガペー」というのは人間の愛情と違って、あえて人間の感情に喩えるなら「尊重する気持ち」だとみます。「愛」という訳語が誤解のもとだと思います。「尊重する」ことなら「敵」に対しても上杉謙信の「塩をおくる」というか、「敵ながらあっぱれ」ということなら非現実的とまでは思わないし、戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長が「最高の敬意を払い、礼砲を5発、乗組員全員が敬礼をして、若き日本兵を海へ送り出し」た行為などは、それ自体、尊敬すべきことです。偉大な司令官 ウィリアム・キャラハン艦長 | 株式会社 海星 (kai-sei.com) そのような意味での「愛敵」なら受け入れます。しかし、そうではなく単なる愛情ということなら「非現実的」としか思いません。そこには「好き」という感情があるからであって、「敵」に対してそんな感情を持つ人は異常であるか実際は「敵」ではないということになるからです。そんな非現実的な言葉は、いかにイエスの言葉であるといっても、信仰と生活の誤りなき規範とか規準と謳っているところの聖書である以上、意味をなさないということで受け入れることはできません。 

ところで多くのクリスチャンは、信仰対象である神なりキリストについては、自分によくして下さることを期待しての愛であるがゆえに信仰するのであるが、そういう人は苦難に陥ると当然、信仰がおかしくなる。神・キリストは人を…特に自分を愛してくれるからこそ信仰するに値するのであって、愛してくれないなら、苦難に遭わせるなら、そんなもの信仰などする意味はない…ということである。苦難がまったくないということは現実的ではないから、災難が何度かあってもそれで信仰をやめない人もいるにはいるが、人生を総合的にみれるなら、最終的にプラスの方がマイナスより多い勘定にならなければ信仰生活の意味は無いということになる。そこに擬人的人格神観の限界がある。自分は人格神観とは言え、聖書で描かれているような擬人的、情緒的な神観ではない。むしろ「絶対」神観が哲学的で神学的ではないと言われるとしても、それなら自分は開き直って神学より哲学の方に近い神観であると思う。人の親の如く愛情を注いでくれる神などではなく、要は現実世界に唯一の絶対実在として、あらゆる偶像を相対化し得る権力者であることなのだ。

「現実世界(全体論の社会)は,神と直接的な関係の下では低 い価値を持つに過ぎないのである。つまり,ここには神との関係による個人と現世秩序のヒエラルキー化が見られ,世俗秩序は絶対的な価値に従属するものとして相対化され,ここに序列化された二分法が成立するのである。」 (~新矢昌昭氏の論文「個人主義 の『淋しさ』」佛教大学大学院紀要 第28号〔2000年3月〕)

佛教大學大學院紀要 28号(20000301) L165新矢昌昭「個人主義の「淋しさ」」.pdf (ddo.jp)

< 価値相対主義に立つ限り、どんな天才も偉人も英雄も自分の価値判断を「絶対のもの」として他人に押し付ける特権を許されない。これに対し哲学上の絶対主義は、ある特別な人間に対して絶対的な「真理」と「正義」の独占を認める。そうなると、この絶対的な「真理」と「正義」に反対する人々の実力行動はもとより、言論の自由も認められないことになる。そういう事態が民主主義・自由主義とは相容れないことは明らかだ。ケルゼンの言うように、民主主義論には、その根底に価値相対主義を内在していると考えるべきなのだろう。とりわけ議会制民主主義を考えた場合、多数決制原理の陥穽を明らかにする。「多数ゆえに正しいとは限らない」とか「少数意見にも耳を傾けよ」という主張は、価値相対主義に立ってこそ説得力を有するではないか。万人は自説と異なる価値判断に対しても寛容でなければならないという謙虚な態度は、学生時代の私にとっては、とても魅力的なものに見えたのである。私は、価値相対主義によって「寛容と忍耐」という態度を学んだといえよう。>法律学に学んだこと~大学時代の講義の思い出~(法苑175号) | 記事 | 新日本法規WEBサイト (sn-hoki.co.jp)

神学においては「類比」が用いられます。カール・バルトトマス・アクィナスないしはローマ・カトリックの「存在の類比」を否定して「関係の類比」を肯定しました。

「神学は『神についてのことば』である。しかし、一体どのようにして神は人間の言語を用いて記述され、論じられ得るのであろうか。ヴィットゲンシュタインはこの点を強力にこう語っている。人間の言葉がコーヒーの特色ある香りを表現出来ないなら、どうして神のような微妙なものに、人間の言葉は取り組めるだろうか、と。

こうした問いに対する神学の答えの基礎となっているおそらく最も基本的な思想は、普通『類比の原理』と呼ばれているものであろう。神が世界を創造したという事実は、神と世界との間の基本的な『存在の類比(analogia entis)』を指し示している。世界の存在における神の存在の表現ということに基づく神と世界との連続性がある。こういうわけで、被造秩序の中にある実体を神の類比として用いることは正しい。このようにすることで神学は、神を造られた客体や存在に引き下ろすのではない。神とその存在との間に類似性や対応があるということを肯定しているに過ぎない。これによって後者は神を指し示すものとして働けるようになる。造られた実体は神に似ているが、神と同一であることなしに、そうなのである。『神は我々の父である』という言葉を考えてみよう。アクィナスの主張によれば、これは神が人間の父親に似ているという意味だと理解されるべきである。言い換えれば、神は父に類比的である。ある面では神は人間の父のようであり、他の面においてはそうではない。本当に類似しているところはある。神は人間の父親が子供に配慮するように我々に配慮する(マタ七・九-一一を参照)。神は我々の存在の究極的な源であり、それはちょうど我々の父親が我々を存在させるのと同様である。神は人間の父親がするのと同じように我々に対して権力を行使する。また、全く似ていないところもある。例えば、神は人間ではない。また、人間には母親が必要であっても、神の母親が必要である、つまり、ふたりの神が必要であるということにはならない。アクィナスの言いたいことははっきりとしている。神の自己啓示が日常的な存在である我々の世界と結び付いている像や観念を用いるというのである。とはいえ、そうした像や観念は神を日常世界に引き下ろしはしない。『神は我々の父である』と言うことは、神はただ、もう一人の人間の父親に過ぎないと言うことではない。また、後で見るように、神は男性であるべきだと考えられているのでもない(三六三―六頁参照)。そうではなくて、人間の父親について考えることが神について考える助けになると言っているのである。これは類比である。あらゆる類比がそうであるように、成り立たなくなるところがある。しかしながら、類比はなおも神について考える上で非常に役立つ、また生き生きとした仕方なのである。これによって我々は、我々の世界の語彙と像を用いて、究極的にはそれらを超えているものを記述出来るようにされることになる。『神は愛である』と言うとき、我々は我々自身の愛する能力のことを言っているのであり、この愛が神において完全である場合を試し、想像するのである。『神の愛』を人間の愛の水準にまで引き下ろすのではない。そうではなくて、ここに示されているのは、人間の愛が神の愛の表示となるということであり、この表示はある限界の中で神の愛を写し出すのだということである。」(アリスター・E.マクグラス著、神代真砂実訳『キリスト教神学入門』〔教文館〕p347~349) 

自分にとって信仰の目的は精神の安定であり、メンタルヘルスにおける救いであり平和であるので、とにかく「絶対」なるものがこの世に実在していなくては困るのだ。そしてその「絶対」なるものは必ずしも倫理的に最高でなくてもよいので、つまり人間に対して公平平等に扱う存在である必要はない。創造主の主権の絶対性を考慮せず自分たちの人権(イデオロギー)を主張し、そのための根拠として神を利用する偶像崇拝的な人々に対しては躓きを与える神であって然りだ。要はこの世の相対的な価値観を変える力を発揮してくれないと困る。たとえば、世の中で絶対化されている容姿とか学歴とか…幸福の要件として固定的に言われるようなものである。その絶対性こそが自分にとって精神を安定させる支柱となる。それが確固としていなければ、愛だの何だのといった擬人的神観はかえってうざったく感じる。いくら聖書には無いとか哲学的だとか言われても、自分にとっての神は矢内原氏が言うとおり絶対でないと困る。絶対ということは対象化できないということだが、そこは神ご自身の自己限定という恵みを信じるしかない。啓示というものもその一環なのだから…。すなわち旧約では「神の顔」が、絶対者なる神の自己限定すなわち自己対象化の象徴である。「君はわが顔を見ることは出来ない。人がわが顔を見て、なお生きていることは出来ないのだから」(同、出エジプト記33:20)と言われていながら、その一方では、モーセは神の「後ろ」(アーホール)を見ることが許されたのであり、絶対なる非対象の「神」が関係性の構築として創造主となられ、一民族の神であるヤハウェとなるという自己限定において、認識対象となり給うたのです(出エジプト記33:11他参照)。従って人間の側の「神」認識としては、「神の顔」を見ることは出来ない(「霊」は非対象である)ということと、だからいかなる対象性もあり得ないということとは違うということ(…「神」御自身による自己対象化=啓示という恵みがあること)。霊なる「神」に「実体」と言える何かを認め得るとすれば、あくまで「神」の側からの一方的な「関係」による以外にあり得ない…ということが言える迄。それ以上のことは人間の思いを超えている(イザヤ書55:9)。

なお、神聖法典の用語法の「私の顔を与える」は神の怒りと処罰の意志を表すとのこと(岩波版レビ記17:10の注参照)。

イスラムでも「神の顔」が重要なメタファーのようです。

クルアーン28:88「アッラーとならべて他の神を拝んではならぬ。もともと、ほかに神はない。すべてのものは滅び去り、ただ(滅びぬは)その御顔のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されて行く。」(井筒俊彦書『コーランを読む』〔岩波セミナーブック1〕p85)

この「お側に連れ戻されて行く」という訳は重要。コヘレト書12:7の「そして、塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る」と、「神に戻る」あるいは「神に帰る」と言っても、「神」本体への帰入とか言うのではなく、あくまでも「神」の「お側に」であり、神秘主義の「神人合一」とは根本的に異なる。

<現世は儚い仮の宿であるが、この現世在住の間、霊魂は物資の桎梏に纏綿されて不純不浄な状態に堕している。この不幸な霊魂を、真の認識と敬虔な行為との二つの手段によって浄化し、地上生活の牢獄から一刻も早く解放してその神聖な太源に「還行」(maad)させることが存在の最高目的なのである。>(井筒俊彦著『イスラーム思想史』〔中公文庫〕p257)※「還行」に「マアード」とフリガナあり。発音記号は省略。

「神聖な太源」が「神」であるなら、この「神」に万物は帰一する。御子自身も従わせられる。(コリント一15:28参照)

以下、前掲の『イスラーム思想史』より「神(観)」に関する記述を抜粋引用。

<アラビア人は極めて視覚的、聴覚的な民族であった。そしてムハンマドは恐らく本能的に、無意識的に、このアラビア人の根本的特質を完全に把握していたのであった。

当時のアラビア人は何でも自分の眼で視てからでなくては信用しなかった。彼らに向って抽象的に神の存在や、神の偉大さを説いて見たところで一向利き目はなかったのである。だから、コーランにおいてはアッラーはまず何にもまして「生ける」神であることが強調され、アッラーはあたかも人々の目前にありありと見えるかの如く描かれている。そこで神は人間と同じように手もあり足もあり、顔もあり、顔には勿論目も耳も口も、更に口には舌もあって人々に話かける。彼は人間が善い事をすれば喜んでこれを愛し、悪い事をすれば烈火の如く怒る。一口にいえば極めて人間的な神である。そして、この人間的な神は空一杯にひろがる大きな玉座にどっかりと腰を下ろしているのである。但し、このような神の観方はアラビア人に対して異常な効果を収めた一方、人々を駆って極端な擬人神観(Anthropomorphismus)に走らせる危険も多分に含んでいた。この神の擬人観をアラビア語ではタジュシーム(tajsim 肉体付けること)と呼び、非常に沢山の回教徒がこれに陥った。西洋で歴史上アルモラヴィド(Almoravids)と称されるアフリカ・スペインの回教徒団体 al-Murabitun などは、後述する通りこの種の思想を抱いた代表的なものである。いずれにしても、コーランでは、神が全く眼に見えるように書いてある。また、それのみならず、神自らも視力すぐれ(basir)聴力秀でた(sami)ものであることが到る処で強調されている。事実、当時のアラビア人の間では、「耳も聞えず眼も見えず」といえば生命のない木偶坊というのと同じだったのである。(中略)「アッラーはあらゆる事に対し能力をもち給う」とだけ言っても、アラビア人は少しもアッラーの偉大な力を感じはしなかった。(中略)何でも眼に見える物が神の力の具体的な現れとして説かれた。通常、英語でsign(しるし)と訳されているアラビア語 ayah(複数 ayat)は、こういう神の力の眼に見える現れをいうのである。こうしてアラビア人達は宇宙万象に神の偉力の現れを見る、新しい自然の観方をイスラームによって教えられ、自分の身の廻りに神の力をしみじみと感じて深い喜びに包まれたのであった。(中略)今まで説明して来たように視覚的・聴覚的であるアラビア人が、結局、本質において感覚的であり物質主義者であったことは当然である。仮に彼らを哲学者に見たてるならば、彼らは個物主義者であり、ノミナリストであった。感覚的な現実の彼方に、それを超越するイデア的なものの実在を信じるレアリストではあり得なかった。(中略)彼らが観るものは常にこの時、この場所という時空に制限された個々の物である。個物を超えた一般者には彼らは全然用がない。(中略)眼の前にある大小様々の円は視ても、そこに個々の円形を超えた円というものを視ようとはしない。つまり物をいわゆる「永遠の相の下に」(sub specle aeternitatis)視るなどということは彼らの思いもかけない所であった。彼らには事物の非合理的側面しか見ることができなかった。現実的な彼らはイデアの世界はかつて顧みたことがなかったのである。激烈な、妥協を許さぬ現実主義、徹底的な感覚主義と個物主義がそこにあった。>(p20~24  ※改行は本文の通りではない。発音記号は省略。)

< 更に、もう一つムアタズィラの思想で重要な点は、神を人間化して表象すること(前出、tajsim 別に tashbih ともいう)に徹頭徹尾反対したことである。コーランにあれ程ありありと生きた神として描かれたアッラーの姿は、ここに全く粉砕されるに至った。ムアタズィラは第一章に述べたアラビア固有の精神とは正反対の方向に向って極端にその合理的理論を推し進めて行ったのである。(中略)果して大きな反動が起った。それが次章に述べるアシュアリーの運動である。それはともかくとして、ムアタズィラは、神に関してコーランに見出されるあらゆる人間的な表現はアレゴリーに過ぎないと考えた。例えばアッラーの手といえば、その惜しみなく与えることを、アッラーの顔といえば、その知識を表わすものと解釈された。こういう比喩的解釈法を術語ではターウィール(ta`wil)と呼ぶ。

神は始めなく終りなく、全てを含み、何者にも含まれることなく、時間、空間、概念を超越した無限者であり絶対者である。コーランでは神は大空に拡がる玉座に腰かけていることになっているが、勿論比喩に過ぎぬ。神は無限者である故に、何処にいると場所を定める訳には行かない。神は宇宙を充たし、しかも同時に宇宙を超越し、これを包含している。この考えをムアタズィラはその分派により色々に表現している。(中略)このように神は具象的形態では全く想像もつかぬ無限者であり、従ってまたどのような状態においても人間の眼には絶対に見えぬ、と彼らは説いた。神が人間の眼に見えるか見えないかというような議論は、一神教的神学においては一つの重大な問題である。そのことはキリスト教における「至福直観」(visio beatifica)の問題の重大さと思い合せて見れば容易に納得されるであろう。>(p58~60)

< 彼はコーランの章句は全く文字通りに解釈しなければならぬ、神があたかも人間の如く描かれてあっても、それがコーランの章句である以上、アレゴリカルな解釈(ta`wil)を加えてはいけないということを盛んに力説している。人はコーランにおける神の人間的描写を象徴的に解釈して、それで擬人神観(Anthropomorphismus―tajsim,tashbih)に陥ることを避けようとするが、その代りに ta'til に陥ってしまう。アッラーから人間的要素を排除(tanzih)しようとするあまり、ta'til を犯してはならない。この種の誤りを犯した極端な者はジャフム派(Jahmiyah)の人々である。彼らは、アッラー自らがコーランの中ではっきりと自分には顔があるとしているにも拘らず、これを無視して、アッラーには顔は無いという。(中略)彼らは単に神の唯一性のみを認めて、その種々の属性を否定する。(中略)彼らの指導者の一人のごときは、アッラーの知識はアッラーそのものであって、つまり「アッラーは知識である」との説を吐いているが、かくして彼は表面上アッラーの知識を認めるかのように見せながら、実はそれを否定しているのである。もし本当に彼の主張する如くアッラーの知識がアッラー自身なら、神に呼びかけるかわりに、「おお知識よ、何卒わが罪を赦し給え」とでも言ったらいいではないか、とアシュアリーは皮肉っている。こうして、世の合理主義的思潮に対抗するため、極端な伝統主義者、イブン・ハンバルに徹頭徹尾従おうとしたアシュアリー(中略)彼自身の信条は次の通りである。(中略)(5)アッラーは、コーラン二〇章四節に「限りない慈悲の主(神)は玉座に腰を下ろし給う」とあるに従い、玉座の上にあることを信じる。(6)神はコーランの多くの章句により、顔をもち、手をもち、眼をもつ。但し、これ以上に詳しくそれは如何にあるかということは問わずに、そのまま(bila kaifa)受け容れねばならぬ。神を上の如く解さぬ者は、全て迷いの路にある人々に属する。(中略)(23)神は日々天の最下層に降り立って、「何か願っている人は無いか。誰か我が赦しを請うている者は無いか」と尋ね給うというハディースの真実性を信じる。(中略)果して彼は単に従来の慣習通りに信仰して行きさえすればよいとする無反省的伝統墨守(taqlid)を排し、思索によって神を認識する努力を始めたのであった。世にいう所の「アシュアリーは中間を行った」(salakatariqah baina-huma)という彼の立場は、この頃の彼の態度を表わすものであろう。(中略)アシュアリー派がこの点でムアタズィラと違っていたのは、ムアタズィラが飽くまで論理的な推理を進めて、コーランの教えと正反対の結論に達しても何等意に介さなかったのに反し、常に理性の自由をコーランに反さぬ程度にのみ限っていた所に在るが、要するに程度の差であって本質的な差ではない。故にアシュアリーのイスラーム改新運動はいわゆる正統派(orthodox)の教義に至るには未だ路遠く、後述するガザーリーをまって初めて決定的な形となるのである。>(p71~82)

ムアタズィラ派はイスラームにおいて最初に「理性」を真理の標準として認め確立したそうだが(p56)、彼らの「比喩的解釈法(=ターウィール)」は聖書の解釈にも通じる当然のことだと思う。その点で私はアシュアリーの保守性をこそ批判したい。「神」の身体的表現など比喩に決まっている。類比という方が適切だろう。

イマーム・ル・ハラマインは正統派の神学者として、神は、語の本来の意味において(すなわち比喩としてでなく)視たり聴いたりする者であることを主張する。これに対してカアビーおよびバグダードにおけるカアビーの弟子達の説では、人が「神が聴く」とか「視る」とか言うのは、そのまま解されるべきではなく、神は認識の対象を、あるがままに正確に認識することを意味するとした。そしてこの説にはナッジャールの一派も一致していた。また、ムアタズィラ派では内部に意見が分裂し、例えばバスラの人々は、神は、本来の意味において聴き、視る者であると説いたのに反し、ジュッバーイー父子は神が聴き、視るとは神が生きており欠点がないことであるとした。>(p115~116)

「神」が「聴く」も「視る」も比喩は比喩、類比は類比だが、だからといって「神」にいかなる意味でも「体が無い」というわけではなく、その「名」において「体」があるのだ。しかしそれは所謂「実体」ではない。少なくとも普通の意味では「神」は「実体」ではない。「実体は通常、神学では延長をもつものとされているが、神が延長をもたぬことは先に証明した通りであり、また実体とは偶有を受け入れるものと定義する人もあるが、神が偶有を受け入れるということはあり得ない」(p112)からだ。

絶対的、実体的存在(自性⦅じしょう⦆が無いことを「空」というそうだ。コーヘレト思想はそのような龍樹の縁起的世界観(中観)と似てはいるが根本的に違って、唯一、創造主なる「神」だけは絶対的、実体的存在(自性)なのだ。空 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)

人間関係の悩みも、本来、優でも劣でもないものを、優とか劣とか判断する人の心の分別作用から生ずるのだろうか?それはともかく、「神」は「霊」であり「絶対」であるから、「神」の側から云々ということ自体、「神」を相対的に考えていることになる。「神」が本来「非対象」というか「空」だということなら、「神」の自己対象化において人間との関係が成立した後でも、対神関係において人間の状態は意識と無意識とが混合している。信仰は常に意識的である(というか、対神関係における意識的状態を「信仰」と呼ぶのだ)が、無意識的状態での関係がメインだとも言える。

「この私は、臥して眠り、目が覚めた、ヤハウェが私を支えているからだ。」(詩篇3:6)

「平安に、臥すとすぐ私は眠る、まことに、あなたヤハウェだけが安らかに私を住ませて下さる。」(詩篇4:9)

信仰はアンコンシャス、告白はコンシャスって感じ…?

特に死に臨む限界状況における信仰は脳のはたらきが鈍って昏睡状態にもなるわけで、対神関係が意識的ならそうなった場合には失われていることになるが、そんなことはあり得ないということが上記の聖句が示している。ヤハウェはこちらが信仰を働かせていない無視状態においてもしっかり支えておられる。

  • 「すべてのものは彼から〔出で〕、彼によって〔おり〕、そして彼へと〔向かっている〕」(ローマ11:36)

エク(から) アウトゥー(彼) カイ(また) ディア(より) アウトゥー(彼に) カイ(また)エイス(に向かって) アウトン(彼) タ パンタ(すべてのものは)

※前置詞「ディア」はこの場合、属格支配で手段・媒介・原因を意味する。「~を通して、~によって」。

 

  • 「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(コリント一8:6)

エク(から) ウー(彼) タ パンタ(すべてのものは) カイ(そして) ヒュメイス (私たちは)エイス(へと) アウトン(彼)

※前置詞「エク」は属格支配で「ウー」は関係代名詞「ホス」の属格。前置詞「エイス」は対格支配で「アウトン」は「アウトス」の対格。「ヒュメイス」は「エゴー」の複数主格。

  • 「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(コリント一15:28)

トー ヒュポタクサンティ(従わせた方に) アウトー(彼に)タ パンタ(すべてのものを)ヒナ(ためである)エー(なる)ホ セオス(神が)[タ]パンタ(すべてと)エン(おいて)パーシン(すべてに)

 

「タ パンタ」は「パース」(〔名〕全て〔形〕全ての)の中性複数主・対格で、主格は「万物」と訳される。「冠詞+パンタ」も「パンタ+冠詞」も「全~」の意あり。新改訳の「すべてのこと」よりも、口語訳、岩波版(青野)訳の「万物」、あるいは新共同訳、新世界訳、川端由喜男訳の「すべてのもの」の方が妥当。なお「パーシン」は「パース」の男・中性複数与格。

 

キリスト教の絶対者の人格性について 

キリスト教では、絶対者としての神は、一般的には、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354–430 ︶以来、 彼の『三位一体』De Trinitate, 419 )に見られるように父、子、聖霊という三つの位格(persona)と一つの 実体(力、智慧)から成り立っていると理解されている。しかも三つの位格ペルソナという時の「位格 ペルソナ」とは、ラテン語personaの語源が演劇用の仮面であることからも分かるように、社会で一定の役割を持ち、かつ責任を負い得る「人格性」を意味する。事実、エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったアダム(adam =  man )に「お前は何処にいるのか」と呼び掛けている神は、人間と二人称的な関係を結んでいる人格的な神である。更に、S・キェルケゴール以来、一般的には、キリスト教で人間における神の像(imago Dei )は、神と人 間との間で二人称で語り合える人格的関係を結び得ることであると理解されている。その上、神の一人子が神の人類に対する愛の故に受肉してキリスト(救世主)として生まれ、人類の贖罪の為の死を十字架上で遂げ、死後三日目に復活する。聖書でのこのような記事は、キリスト教の神が、絶対的な人格としての神であることを物語っている。事実、旧約聖書の創世記で、天地の創造主として働き、十戒をモーゼに与えたのも、人格的な神である。

しかしながら、一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖書を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。>

(花岡永子「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』 Vol 5 2006 http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ )

 

アリストテレスは「全体は部分の総和にまさる」と言ったとのこと。

ところで聖書において「神」を「父」と比喩することは次のような意味をもつらしい。

 

< 父なる神は恩寵と自由を象徴し、円熟と信仰、生の源が神にあることを親しく知り、存在が窮極において善であることを確信し、成長と創造が可能であること・・・・・を象徴している。したがって、正しく解するならば聖書の「父」という象徴は・・・・・束縛ではなく解放を、依存ではなく責任を、幼児性ではなく成人性を意味しているのである。>(~R・H・ケリー『父なる神 イエスの教えにおける神学と父権制』)

「神は霊」なので、「神」のイメージは間接的にイメージされて然りです。聖書には「神」の姿形を直接にイメージさせるような描写はほとんどなく、イエスの譬え話などは間接イメージです。また、私は「ソロモンの祈り」(列王記上8章27節)の「神は本当に地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることができません。私が建てたこの神殿などなおさらです。」(その他、新約聖書使徒行伝7:48~49、17:24~28参照)から、間接的に「神」を「(無限)大」なる存在としてイメージします。

 

以下、量良治氏による波多野精一氏に対する批判と、その愚かさ。

<波多野は宗教を定義して次のように述べている。

他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる――これが宗教であり、これが又生の真の相である。(上掲書二一六ページ)

宗教は自我において、自我よりして、自我の力によって生きるのではない。そうではなくて「他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる」のであると言う。この他者は、観念的ではなくて実在的であり、相対的ではなくて絶対的である。宗教において自我が関わる他者は絶対的実在としての絶対的他者なのである。このような他者はふつう神と呼ばれる。宗教とは自我としての人間の絶対的実在としての絶対的他者、すなわち神との関係である。

神聖性

神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。

それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは「神聖性」である、と。(以下、略)>

(量氏前掲書p108~109)※「上掲書」とは、『宗教哲学』(『波多野精一全集 第四巻』〔岩波書店〕)。

<仲保者論の欠落

総じて波多野宗教哲学の著しい特徴は仲保者論、キリスト教神学的に言えば、キリスト論が欠落していることである。波多野は次のように述べている。若し現実に存在する諸宗教のうちに、絶対的他者と人間的主体との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は実は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は実は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであろう。

(上掲書四三三 ― 四三四ページ)

波多野はこの文章に注をつけて、「それ故、例へばキリスト教神学の説くキリストの神性は、神の神聖性の必然的帰結とさへいひ得るであろう」と述べている(上掲書四三四ページ)。しかし、キリスト教神学では、キリストは単性論的にではなくて、すなわち、単に神でも単に人でもなくて、両性論的に、すなわち神性と人性との矛盾的自己同一としてとらえられているのである。波多野においては、キリスト論だけではなしに、聖霊論も欠落している。言い換えれば、波多野宗教哲学は三位一体論的にではなくて、ユニテリアン的に論じられているのである。このことは、波多野宗教哲学が宗教一般の哲学であると言うならば、看過することができるが、キリスト教的宗教の哲学としてはやはり問題であると言わざるをえないであろう。>(量氏前掲書p122~123)

三位一体論的に論じたら宗教哲学ではなくキリスト教神学になるだろう。量氏の方が、宗教哲学キリスト教神学になっているのである。「ユニテリアン的に論じられている」のは大いに結構!同じく「一神教」のユダヤ教イスラム教にも通底し得るには「仲保者論の欠落」はむしろ当然であろう。第三者を立てれば、それは神そのものか、無神論になるということなら、第三者は立てる必要はない。新約聖書の物語においては仲保者キリストには「神」の性質があり、それは現実世界のこと、つまり歴史上の事実の「History」ではなくて、あくまで「His Story」たる物語の中での話なのだから別に認めても良い。 

 

以下、関根清三氏の言葉。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書p7780)

なんだかんだ言っても宗教である以上、そして救済を切実に真剣に求める相手だからこそ、神の「絶対」性は必然的に要請されるってことでしょう。小田垣氏の言うような他者性の無い非対象的な神など信仰できますか?また、野呂氏のように絶対的ではなく究極的な存在なんて信じられますか?自分は小田垣氏は考え過ぎで、人格神が絶対無であり「ただそれを生きられるもの」とする理屈は受け入れません。また、野呂氏についても自分は究極的存在より絶対的存在の方を信仰します。野呂氏が選んだ「究極」の方こそ日常生活では一般大衆にとって使い慣れない抽象性の高い言葉ではないでしょうか?「絶対」ではなく「絶対的」と言えば、哲学的な意味で「対」なしだから無だ…とかいった話にはならず、最近の言い方では「超越」と似たようなことで、「ヤバイ」って感じの形容になります。「超絶」と言うこともありでしょう。

量氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で次のように述べています。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(p236)

以下は、岡田稔著『(改革派)教理学教本』より「聖定」に関する文言の引用です。

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。>

 「運命(fate)でなく、また聖定(decree)と表現するより、神の計画(plan)を信じる < 人間の理解を越えた、万事を益をされる神の計画 >」Microsoft Word - 配布用B5小教理問答③.doc (murraylawn.org)  否‼ 否‼「神の計画(plan)」などとするより「聖定(decree)」と表現する方がいいです❕

「アウグスチンは神の先行的恩恵〔プレヴィニエント〕、常勝的恩恵〔プレヴェーリンク〕、進んで不可抗的恩恵〔イレジスチブル〕といふことを申します。神が人に恩恵を下さるのに、いつも先手をうたれる、如何なる障害をも突破して下される、神の与える恩恵は不可抗的で、何人も之れを妨げることは出来ないといふ事です。神は恩恵をしばしば人に強ひられる、神は同情の押売をせられる。だからいかに暗く、つらく見える運命でも、之れが神の自分に強ひたまふ恩恵でないと誰が断言出来ませう。私共は自分の過去を顧みて、あの時、この時、神が自分に強ひて恩恵を与へたまはなかったら、今頃自分はどんなであつたらうと考へさせられることもあります。」(~『恩寵の王国』の「神を嗣ぐ者」一〇)

恩寵の王国 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

ちなみに、川島隆一牧師は葬儀説教で以下のように語っておられます。

< 教会の歴史の中でその名を記憶される優れた指導者トマス・アクィナスの言葉に、「神はそれが偶然に起こることを欲した」というのがあります。偶然とは、起こるべからざることが起こるということです。キレネ人シモンに、「キリストの十字架を負う」という、まさに起こるべからざることが起こったのです。そして聖書は、このキレネ人シモンの中に、「自分の十字架を負うてキリストに従う」という、キリスト者の理想を見てきたのです。キリスト者はこれを、「強いられた恩寵」と表現してきました。ここには、自分はすべてを捨てて神に従ったという、自己栄光化が入り込む隙はないのです。それは「強いられた」ものであり、しかも「恩寵」なのです。恩寵である以上、その務めを果す力は神によって備えられるのです。>

ホスティア 「強いられた恩寵」 (fc2.com)

聖書において証しされているところの、予定および聖定の主としての神の絶対的主権によって相対化されるべきことは、メンタルヘルスにおいては、世間的価値観としてのいわゆる富や名誉や生産性などだけではなく、「運」というものが、きわめて普遍的で絶対的な意味を得ている。「運命」にせよ「運勢」にせよ、まさに古今東西、人格神に対抗する最強の偶像だ。これの良し悪しで人生が決まるかの如く信じ込んでいる人のなんと多いことか…?自分自身、その信じ込みから解放されねばならぬうちの一人である。

ところで、野呂芳男氏については親交があったといわれる八木誠一氏が、野呂氏は人格主義神学で「内在」とかには関心なかったと証言しているとおりで、野呂氏のホンネは八木氏も親交があり本人も葬儀を司式したほど親交があった信徒神学者・伝道者の小田切信男医師へのエールに如実に露呈されていると思われます。以下、引用。

< 神は、三でなくて一つなので、三が同時にイコール一だなどという数学方程式は成り立たないではないか。だから一は一で、三は三であり、唯一の神はやっぱり唯一なのだから、三位一体論は成り立たないというような、先生のお話をどこかで承ったことがあるように思うのですけれど、私はこれが神学的に非常に重要なモチーフを中に含んだ三一論の否定だと思っております。それは何かというと、神の人格性を最後迄守ろうという意図がその中にあるからだと思うのであります。即ち神が唯一であるということ、それは人間と本当の意味で我と汝の形において対決する神である。(中略)そういった激しい人格的な邂逅があるんだからその邂逅をくずすような三一神論などというものはまっぴらご免だと、こういうような動機が私はあるように思うのであります。実は私はそれに心から共鳴するわけであります。キリスト教というものが、こういう意味での唯一神論というものを捨てたならば、私はたかだか一つの哲学に転換するだろうと思うのです。やはり組織神学を勉強する一人の人間といたしまして、この点を無上に尊いものとして評価したいと思うのであります。>(野呂芳男氏の論文~小田切信男著『神学と医療との間』〔創文社〕p271~272)ふだん口では、伝統的キリスト教の中で神学者としての立場を得る以上は、モルトマンの社会的三一神論なるものにまで言及して、古典的三一神論ではないにせよ、いちおうニカイア信条由来の三一神論を信奉して正統的系統に立つかのようなことを言いながら、一方では明らかに御子従属説を唱えて三一神信仰を否定する「異端」(というものを認めるか否かは別問題として…)に位置する小田切氏に対して、これだけの賛辞とエールを贈っているということは、野呂氏の二枚舌ぶりを露呈しているとも言える。しかし野呂氏は所によっては次のような大胆なことも述べています。一方ではモルトマンないしはカパドキア3教父の「社会的三一論」がいいとか言う人なので、その内容がどこまで信用できるかはともかく…。

< 私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書に元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。(中略)『三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない』」(野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)

いわゆる「人格神」でも「擬人神」に近いような神話的神観なら信仰生活には使えません。スピノザの神観のような「非人格」では聖書が示す神観にはならないが、さりとて「人格」が「擬人」に近づくことは、「インマヌエル」を救いのメッセージたらしめない。人格神観の野呂芳男氏が「霊なる神は、人間がプライヴァシーのほしい時には、人間から遠くに離れていることのできる存在であり、近くにいてほしい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近くいてくれる存在なのである。超越の神が死んだり、あるいは、死んで内在化したりするような神の幼椎な観念、旧約聖書でさえも本質的には所有していないような観念を、我々は捨てなければならない。」とか「神は人間が全く神からも離れて孤独になりたい時には、遠くにいて下さる」と述べておられるとおり、対神関係は対人関係と同じく距離を置いてもらわないと鬱陶しくていけませんから…。(参照:野呂芳男 NORO, Yoshio, bibliography (eucharistia.tokyo)

コヘレト的神観は「人格神」と「非人格神」との中間的でよろしいかと思います。そういう神なら共におられてもストレッサーにはならないでせう。

並木浩一氏は私からの質問メールへの御返答として次のように書いて下さいました。(※一部の太字化は私による)

ヤハウェ擬人神観の起源はイスラエル本来の伝統と、おそらくペルシア中期以降の周辺世界の神話的な表現の採用と、二つの主要源泉があるでしょう。本来の伝統とは、出エジプト以来の「連合戦争神ヤハウェ」の受容です。イスラエルの指導者たちは神を見ながら飲み食いしています(出24:7-9)。この記事は新しいものですが、古来のヤハウェ契約の特色を残しているでしょう。そもそも、「主」(アドナイ)という理解が擬人神観を前提にしています。神を超越神として、この擬人神観をできるだけ排除しようとしたのが、祭司文書、エロヒストでした。エロヒストはヤハウィストの擬人神観をできる限り払拭しようと努めましたアブラハムに対してエロヒームが夜に、おそらく幻の中で、呼びかける存在として描かれています。また祭司文書は神を創造神にまで超越化しましたが、それでも創造神は、「われわれは、われわれの形にかたどって」人を創ろうと言っています。一般的には、一人称複数形は「尊厳の複数」などとして理解されていますが、おそらく、ここでは神の自己内対話(対話は複数として観念される)が考えられているでしょう。「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ません神学者はこのような擬人神観をポジティヴに受け止めて、神と人間との質的な差異を認めつつ、人間との「類比」(アナロギア)において神を語る手法であると見なします。「人となった神」という受肉の理解は、まさにアナロギア的に考えない限り、躓きます。しかし、人格神に抵抗を示す神学者もいます。ティリッヒのような宗教哲学者(本人は神学者と自認する)は神から人格性剥ぎ取り、神を「存在の構造の根底」(the ground of the structure of being)と定義します。「徹底的唯一神論」を主張するリチャード・ニーバーもティリッヒ存在論を肯定しているでしょう。しかし、宗教哲学者による神の定義を聖書的に根拠づけることは難しいでしょう。>

並木氏はまた、『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』(日本キリスト教団出版局)では「人格神」に関して以下のことを述べておられます。

「神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに『あなたは私たちの神です』と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。(中略)神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。『人称』はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに『神称』とは言いませんし、言っても意味がありません。」(p208)

以下、有賀鐵太郎博士の論文「第二世紀の希臘教父に於ける擬人の問題」より「一、ヘブル的観とギリシア観」から引用します(※以下、漢字は一部を除き常用漢字に改める。濃い字はブログ主の私による)。

< ヘブル的一神教は始から存したわけではなく、又その完成は一夜の中になされたのでもない。それは長い間の発展を経た後アモスからエレミヤに至る偉大なる預言者たちの信仰に於て完成した處のものであった。けれども今我々はその過程を論じようとしているのではない。我々はたゞ基督教徒がイスラエルの遺産として受継いだところの神観は如何なるものであったかを想起したいのである。自分はそれに就ても只次の諸点を指摘するに止めよう。

一、イスラエルの神はあく迄も人格神である。勿論その初期に於ては極めて擬人的に表象せられた神であった。それが発達するに従って外形的擬人観は減じたが、人格神の信仰から擬人的要素を完全に抜き去ることは不可能である。人間との隔りは如何に遠くあるとも、やはり神は人格的な存在として考へられたのである。イスラエルも又他の国々もその御前に責任を感じなければならないところの、世界の創造者、支配者、審判者として表象せられたのである。固よりイスラエルに対しては、神は特別の恩寵を以て之を選び、之に特別の使命を与へ、之を護り且救ひ給ふ慈悲と恩寵の神で在すのである。かくの如き神として、神は歴史の神であり、摂理の神である。

二、神は唯一である。而してこの神の唯一を高調することは、当然他の神々を拝することを禁ずることとなる。十誡の第一誡は言ふ迄もなく「汝わが面の前に我の外如何なる神をも拝すべからず」である(出埃二〇・三)。此の神は嫉む神で在す故に、他の神々を許容し給はない。イスラエル一神教絶対に多神を排除する意味に於ける人格的一神教である。

三、又此の事に関係して、偶像崇拝の禁止がある。第二誡の命ずる如く「汝自己のために何の偶像をも彫むべからず」である(出埃二〇・四)。而して偶像と神々とは事実上同一視されているので、一の禁止は又他の排撃をも含むのである。

四、既に第一の点に於ても触れた様に、ヘブル思想自体に於て、擬人的要素を能ふ限り少くして、神を超越的存在として説く傾向が虜囚期以後特に著しくなったことを記憶する必要がある。

このような人格的一神教を受継いだ基督教徒が、多神を信じ、偶像を拝する異教の信仰を許容出来なかったのは当然である。>170201.pdf

(※後は本文を直接読まれたし。)

ここでは特に、「擬人的要素を能ふ限り少くして、神を超越的存在として説く傾向」という点が自分にとっての「絶対神信仰治療」に通じており、自分も人格神の非擬人化というテーマで自分の神観を考えます。できるだけ擬人神的要素を排して、擬人化傾向を避けるようにしなければ、神が自分と共にいると言われてもあまりありがたくはない。擬人的要素が強い神が遍在するとなると、自慰の時には神は不在でいてもらわなければ困ります。でも擬人的要素が低いのであれば、そんな気遣いは無用になり、共におられても問題ありません。

以下、山我哲雄著『一神教の起源  旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩書房)より引用。

申命記は形式的にも内容的にも 、条約文書としての性格を備えていることになる。ただし、それはもはやアッシリアの大王を宗主として忠誠を誓う文書ではなく、自分たちの神、ヤハウェのみに仕えることを誓約する神との「契約」の文書なのである。申命記の著者たちは、明らかに自覚的・意識的に、アッシリアの条約文書の形式と用語を用い、それを自分たちのヤハウェとの関係を規定するために転用している。前八世紀の預言者たちが「世界神」という普遍的なアッシリアの神観念をヤハウェに転用したように、前七世紀の申命記の著者たちは、アッシリアの条約文書の様式と用語や観念を逆転させ、ヤハウェイスラエルの関係を描くために用いたのである。(中略)本書の主題である一神教の問題との関連で申命記を見てみよう。ヤハウェ以外の神々の崇拝を厳しく禁じるという点で申命記一神教的であったとすれば、(中略)結論を先取りして言えば、申命記の神観は、前八世紀の文書預言者たちの多くの場合と同様、拝一神教的であったと見るべきである。ただし、前八世紀の文書預言者の場合には、ヤハウェが世界を支配する神であるという普遍的な神観を示し、イスラエルを圧迫する異民族をイスラエル・ユダを罰そうとするヤハウェの道具と見て、それらの民族の神々の存在を事実上黙殺することを通じて、民族的な拝一神教の枠を超えていく傾向が見られたが(中略)、申命記の場合には、そのような傾向はあまり見られない。(中略)申命記では、(中略)明らかに後代の付加である少数の例外的な箇所(申四35・39、三二39)を除き、他の神々の存在そのものを否定したり、ヤハウェイスラエルを超えた世界全体の神と見なすような記述はほとんど存在しない申命記においてヤハウェは、あくまで「あなたの神」(申六2・5・10等参照)、すなわちイスラエルの神であり、イスラエルヤハウェの選んだ「宝の民」(申七6、一四2、二六18)なのである。(中略)先住民(すなわちカナン人)の神々を礼拝しないように警告する場合でも、それらの神々の存在自体が否定されたり、それらが例えば「偽りの神々」だと喝破されることはないのである。(中略)

さて、「シェマの祈り」の場合、一人称複数形で書かれた前半は、二人称単数形で書かれた後半よりも古いと考えられる。逆に言えば、「聞け、イスラエルよ。われらの神、ヤハウェは唯一のヤハウェである」という独立した宣言文に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、ヤハウェを愛しなさい」という奨励文が後から加筆されたのである。ここで問題になるのは、より古いと考えられるその前半部で、ヤハウェが「唯一(エハド)」であるということがどのような意味で言われているのか、ということである。(中略)実はこの部分の原文は、簡潔すぎて非常に意味の取りにくい難文なのである。原文はわずか六つの言葉からなり、冒頭の「シェマ(聞け)」という動詞の命令形以外、動詞はない。左に、原文の音写とその直訳を示そう。

「シェマ・イスラエルヤハウェ・エロヘヌー・ヤハウェ・エハド」

「聞け・イスラエルヤハウェ・我々の神・ヤハウェ・一」

最後の「エハド」は、ある物の数が「ひとつ」であることを示す数詞である。それゆえ、最初の「シェマ・イスラエル」を除けば、残りの四語は「ヤハウェ」を主語とする二つの並行句が並んでいるもの(「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」)とも解せるし、最初のヤハウェと「エロヘヌー」を同格ととって、「我々の神ヤハウェ」を主語とする一つの文とも解せる。新共同訳は後者の読み方を採用しているわけである。これに対し、英語圏で広く用いられている新改訂標準訳(略号NRSV)はむしろ前者の読み方を採り、しかも数詞「エハド」を副詞的に意訳して、次のように訳す。The Lord is our God, the Lord alone. 直訳すれば、「主は我々の神、主のみが」ということになろう。ただし、NRSVではこの箇所に脚注が付いていて、他の三つの訳の可能性が注記されている。

The Lord our God is one Lord.(新共同訳はこれに近い)The Lord our God, the Lord is one. The Lord is our God, the Lord is one.

(中略)筆者自身は、右の四つの訳の中では、第四のものが最も単純であると考える。すなわち、ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」である。NRSVの本文のように数詞「エハド」が「~のみ」、「~だけ」という副詞的意味で用いられる例は、ないわけではないがむしろ例外的である。(中略)「エハド」を数詞と解し、「ヤハウェ・エハド」という表現を極めて単純素朴にとれば、ヤハウェはひとりしかいない、ということを意味する。神一般がひとりしかいないということではなく、あくまで「ヤハウェという神」がただひとりだ、ということである。(中略)このことが初期の申命記運動で強調された背景として、二つのことが考えられる。一つは、それが祭儀集中と関連する可能性である。すでに述べたように、申命記運動の柱の一つは、各地の地方聖所を廃止して、エルサレム神殿ヤハウェ祭儀を限定するという祭儀集中であった(中略)初期申命記運動は、「ヤハウェがただひとり」であることを強調することにより、それに対応して聖所も唯一であるべきだ、と主張したものと思われる。すなわち、「我々の神ヤハウェ」は「エルサレムヤハウェ」ただひとりだ、ということなのである。一部の研究者は、このような主張を「単一ヤハウェ主義(モノ・ヤハウィスム)」と呼ぶ。

もう一つの可能性は、前八世紀の末にイスラエル北王国がアッシリアによって滅ぼされたこととの関連性である。(中略)今やユダ王国自体が唯一の「イスラエル」にならなければならなかった。その際に、ヤハウェという神の共通性が重要な役割を果たしたと考えられる。(中略)この二つのいずれの場合においても、「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教だからである >(p271~276)

十戒の第一戒も申命記の「シェマ」における「唯一」も、共に単なる唯一神教ではなく、「拝一神教的」であるということが極めて重要。なお、私見ではこの「拝一神教」的信仰形態を、異教国である日本社会の中でヤハウェ信仰を維持するために応用できるし実際に自分はそうしてきていると思うが、それは言わば積極的な意味での宗教的相対主義であり、「唯一」(エハド)の元々の意味は「ヤハウェが唯一」であっても、それを現代日本社会の現実状況に即して再解釈して、自分(たち)にとってはヤハウェのみが(「神」と言うより「主」であり)「絶対(主権)者」である、ということが信仰告白の表現として有効であり必要だと思います。その際、私見ではある種の「エポケー」(判断停止)が必要になると思います。他人には他人にとっての「神」や「仏」といった信仰(礼拝)対象があるので、その(実在ではなく)観念としての存在は認めたうえで理論的に黙殺するとか言論として否定するといった態度ではなく、実在か観念かの区別なしに要は他の宗教的対象が存在することは認めつつも、それに対しては肯定も否定も言わず思考や判断を停止して、行動面ではいっさい関わらないということ(実際は和のために関わらざるを得ない面もあり、そこは程々にして、あくまで形式的なレベルに止める)。

また、信仰告白における「絶対」という用語は、客観的事実を表わす記述言語ではなく、主観的事実を表わす表現言語なので、「絶対」なんて哲学用語だから不適切だ…などと言われる筋合いのことではありません。そもそも神学(用語)と哲学(用語)との厳密な区別などはキリスト教の歴史を通して見るならば、そう簡単ではないはず。この点は苫小牧福音教会の水草牧師も、2023/03/16の電話で言っておられたことでもあります。

「相対は絶対がなければ相対では有り得ない。逆も真である。相対は可能態として絶対を含んでおり、絶対は現実態として相対を前提している。このことは、相対なる人間が手にし得るものは相対だけだということである。」(~小田垣雅也)宗教多元主義の諸相 (sophia.ac.jp)

勝村弘也著『旧約聖書に学ぶ 求めよ、そして生きよ』(日キ教団出版)では、次のように述べられています。

< 神は、わたしたち人間の眼には見えない御方であるとよく言われます。これは単に、神が物質的な存在なのではないという意味なのではなく、神がわたしたちの想像を絶する御方であること、つまり、超越的存在であることを述べようとしたものでしょう。たしかにわたしたちの信じている神は、人間の感覚で直接とらえることはできませんし、その存在を論理的に証明することもできません。しかし、聖書は、神が眼や耳や手や足を実際に持っておられるかのように述べています。眼がないのに「神はその光を見て、良しとされた」(創世記1・4)というのは変です。神に耳がなくては「彼らの叫ぶのを聞いた」(出エジプト記3・7)とは言えず、「主よ、わたしのことばに耳を傾けて下さい」(詩篇5・1)との祈りは意味をもちません。神が食べてはいけないと命じられた木の実を取って食べたアダムとその妻は、神が園の中を「歩まれる音」を聞き、「神の顔」を避けて身を隠した(創世記3・8)と聖署は語っています。また出エジプトの出来事に関して、「主は強い手と、伸べた腕と」をもってイスラエルの民をエジプトから導き出された(申命記26・8等)と繰り返し述べています。神に関するこのようなものの言い方を、もちろん比喩的表現と呼んでもかまわないでしょう。神は実際には人間のように眼や耳のような器官を持ってはおられないのだと、一応考えられるからです。しかし、それにしても聖書にはこのような表現の何と多いことでしょう。単なる比喩とするには、あまりにも用例が多すぎます。それに、人間の創造に関して「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1・27)とも言われています。この箇所については、別に綿密な考察が必要なのかもしれませんが、素朴に考えれば、人間のからだにいろいろな器官があるのだから、神にも同じ器官があって当然ということになります。そして、このように考えて聖書を読んでいって特に矛盾するところは、多くはなさそうです。もっとも、「神さまって、どうやってわたしたちの祈りを聞かれるのかしら、いったいどんな耳をしてるのかしら」とか、「神さまって、男なのかしら女なのかしら」等と考えはじめると変なことになるのですが。いわゆるヘレニズム時代になって、旧約聖書が哲学者たちの眼に触れるようになって以来、神の眼、耳、顔、手、足といった表現は、当然真剣な問題になりました。神学者たちは、これをアンスロポモルフィズム(Anthropomorphism)と呼ぶことにしました。日本語には、<神人同形法>(『キリスト教大事典』参照)とか<擬人神観>(『旧約新約 聖書大事典』参照)と訳されています。たしかにこのような表現によって、聖書の神が、自然の諸力を神格化したものでも人間の論理的思考の結果として要請される存在でもなく、人間と出会う生きておられる御方であることが知られるのです。聖書の神は、人間を限りなく愛されるがゆえに、また悩まれるような御方なのです。ホセア書には、神のことばとして「わたしは神であって、人ではない」とありますが、これは神の「心」が人間の予想をはるかに超えて慈愛に富むものであることを述べる文脈に出てくるのです(11・8-9)。神は人間のように家には住まないと、その超越性について語る同じ箇所で、神の「足台」や「手」が問題になっています(イザヤ書66・1-2)。聖書の世界では、神人同形法によらずに神について語ることはおよそ不可能だとさえ言えるでしょう。(中略)旧約には精神と肉体とか、観念の世界と物質の世界の対立のような二元論はないとよく言われますが、このことと、世界で起こるさまざまな事象を具象的に表現しようとする態度との間には明らかに関係があります。人間が<からだ>であるよりも前に、精神的な存在であるとか、肉体よりも精神の方がすぐれているというような考え方は、旧約にはありません。したがって、人間と神とは別であるのは当然ですが、神を<からだ>として表現することには、単に比喩としてそのように語ること以上の意味があるのではないでしょうか。>(p32~35)

次は一転して、コヘレトに関する引用です。

「神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(~有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)。「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(→五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し( 3:117:142912:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13175:1719他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:3134、ルカ12:2931参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派教理で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのです。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。

誰からも特定の「神(観)」を押しつけられることはない。それがコーヘレトの場合も、あえて固有名ではなく普通名で「神」を語った意味であろう。人格神には変わりないが、ヨブのように神義論に陥るような神観と比べれば、はるかに擬人性が薄い点が良い。

< 神名としての「エロヒム」のみの使用は、コヘレトが人間の普遍的な状況について語ろうとする試みとして理解され得る。愚かさと虚栄に他ならぬ人間の多くの営みを対比的に語りつつ、『コヘレトの言葉』は、私たちの生の目的は神との関係のうちに生きることである、と示唆する。>(「IP-J-63」所収.ダグラス・K・フレッチャー/竹内裕訳「コヘレトの言葉五章一― 七節」p120

五木氏の『人間の覚悟』では、< じつのところ、私は「教え」としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。>(p123)とか、<「中道」という考え方は「いつも真ん中にいればいいというわけではない。両方を大事にせよということです。」云々と講じたりしていますが)、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」>(p129)という言葉が印象に残った。

私にとって宗教とくれば民衆救済宗教であり、(超)人格主義的宗教ということになり、対神関係は「対(超)人格神関係」ということになります。仏教には「絶対者」としての人格的存在としての「神」が実体として無いわけですが、人間はこれがないと苦悩そのものを相対化することができないのではないかと思います。これも迷いなのかもしれませんが、神観は迷妄だとしても、その迷妄ゆえに対人関係による心労などから解放されるとしたら、その事実は認めざるを得ません。ゆえにその効果においてそれは迷妄と言って否定し去ることは出来ないのです。確かに遠藤周作氏のエッセイで言われるような「はたらき」としての神観は現実的・経験的で説得力がありますが、救済の観点からみるといずれにしても人格性が必要だし、それは確かな存在であり対象であってこそ、その救いのはたらきを期待できるのであって、信仰対象としての主体なき働きだけに意識を向けることはできません。もちろん、遠藤氏が感化を受けたと思われる八木誠一氏も、外からのはたらきかけを言う場合には人格的存在として神を語らざるを得ない旨のことを述べておられます。但しそれは実体では無いということです。実にギリシャ教父の古典的三一論の問題点は、八木氏によると人格主義と実体論(存在論)との組み合わせでした。その反対側に場所論がありますが、対局ではないのは、場所論も人格主義を否定しないからです。八木氏によるとイエスは人格主義的場所論であり、八木氏自身も同じ立場だということです。

「イエスの宗教は場所論的である(正確にいうと後述のように人格主義的要素を併せもつ場所論)。(中略)私がいう意味での『場所論』は、新約聖書学および『仏教とキリスト教の対話』を経て構想されたものなので、西田哲学と同じではない。(中略)

まず場所論は神を人格や存在というよりは、まずは『はたらき』の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、『はたらき』の面が優越するのである。むしろこう言った方がよい。神を、経験と自覚に現れる『はたらき』として把握して語ると場所論になるのである。」(八木誠一著『イエスの宗教』〔岩波書店〕p1~2)

「ここで読者は、神(キリスト、聖霊)が場所論では『霊』として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、『霊』は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。『霊』は人格や存在というよりは、『はたらき』である。」(同、p3)

やはり比喩的には、神さまもどっしりと構えたお方でないと頼りがいが感じにくいので、どうしてもイメージ的には存在の確かさを求めるような感じで絶対とか人格とか実体といった言葉づかいにはなる。しかし目に見えない「霊」であるという点では、あまり擬人化した神話的イメージはリアリティーを薄めてしまう。だから宗哲的に、絶対の人格的実体といった表現にとどめるのだ。

「認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。」(同、p8)

「宗教には、第一に人格主義的宗教がある。(中略)第二に非人格主義的宗教がある。(中略)第三のものとして、以上二つの間に、人格主義的場所論(あるいは場所論的人格主義)ともいうべき立場がある。イエスの立場はこれである。私も従来、そして今でも、この立場に立っている。」(同、p18)

八木氏の宗哲思想に対しては、「霊」と「愛」の2つの観点で批判を試みなければならない。

まず「霊」に関しては、ヨハネ福音書4:24で「神は霊」だと言われているが、その意味は必ずしも非対象・存在的であるとは言い切れない。さらに『旧約新約聖書事典』では、「神は霊」であるとは旧約では言われていないと明記されている。むしろ旧約聖書における神話の比喩的表現…特に所謂「ヤハウィストの神」などは人間的とさえ言える。次に「神は愛」だということに関連してか「愛する者は神を知る」とヨハネは言うし八木氏もこれに呼応するわけだが、救済宗教は愛なき者が必要とするものであって、愛ある者ならすでに救われているのだ。従ってヨハネの愛の神学は救われた者の神学なのであって、最初からこれが出されるとどうにもならない。愛なき者が神との関係に入って救いを体験して愛する主体になるまではそう簡単ではないのだ。愛なき者にとって相対化すべき事柄は多い。だからこそ神の絶対性もますます強く要請されよう。すると神はまずもって愛し得ぬ者をも愛す神ということになる。自分を愛せない者を愛し得るからこそ超越者であり神なのであって、自分を愛する者だけを愛するなら人間と変わりあるまい。

 

youtubeなどで精神科医やカウンセラーのような人たちがメンタルで苦しんでいる人々へ向けて自己啓発的・心理学的な話を発信していますが、一時的にはうまい発想で自分の脳を誤魔化せたつもりが、すぐに懐疑が生じて誤魔化しきれなくなるようなおそれがあるのです。仏教的知恵はキリスト教などよりも現実的諸問題の解決に於いて参考にできると思いますが、絶対他者が唯一の実体として存在しない世界では積極的相対主義の立場も無いでしょう。聖書において積極的相対主義とは拝一神教の立場です。矢内原忠雄氏が本居宣長批判で述べているとおり神の絶対性ということが民衆の救済宗教では不可欠だと思います。ただしその「神」はコヘレトの場合のように「遠くの神」でなければなりません。その存在を忘れるくらいの距離が逆対応的に「近くの神」となるのです。エレミヤの「わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか」(エレミヤ23:23)に関しては並木浩一氏が『人が孤独になるとき 説教・講演・奨励集』(新教出版社)の中の「2 遠くの神ではないのか」で詳しく解説しておられます。特に重要な箇所を以下、引用します。

「神はヨブに対して神の神たることを貫かれましたが、エレミヤの場合もそうでした。エレミヤの激しい抗議と嘆きにもかかわらず、神は彼と妥協することはありませんでした。神はエレミヤにとって遠い神としてのご自身のありかたを貫き通したのです。神は彼の抗議を適当に聞き入れるようなことをしません。そこで彼は傷つき破れます。神は神であり、彼は人であるという事実があいまいにされることはありませんでした。彼は人間として破れましたが、しかし彼が破れても神は神でいたまいます。神は神でいたもうことによってエレミヤに対する真実を貫いたのです。神がエレミヤと妥協しない神であればこそ、彼は再びこの神に立ち返ることができました。彼は破れましたが、この神を唯一の頼みとすることができたのです。そのとき遠い神が同時に近い神となりました。神が人に対して遠い神であることを貫かないとしたら、エレミヤのように破れ傷ついた人は、神に本当の信頼を寄せることができるでしょうか。」(p32)

私にとってはストレスフリーの精神的自由こそ最高の目標であり、その自由を得るために「神」を必要とするのです。これは矛盾ではなく、「神」なき自由は虚無です。まず、自分の中の権威を相対化する必要があります。権威主義的志向が人を苦しめるからです。他人と優勝劣敗の比較をするから敵が現れてしまうのです。誰でも世間体の良い場所で生きたいと願うのが人情です。しかし現実はそうはならない時、自分が価値を認める権威自体を相対化することによって、その場所に入れない自分自身を否定することなく、他の場所で生きてゆけるのです。いつまでも幻の絶対的権威に縛られて、特定の場所でしか自分は生きてゆけないんだと思い込んでいる限り、人生は前に進んでゆきません。その空白期間が無駄になります。人はつねに前へ前へと進んでゆかなければならないのです。そのために自己暗示といった程度のことかもしれませんが、自分で自分に思い込ませるのです……他の場所だっていいんだと思い込ませるのです。それが私にとってのセルフ・マインド・コントロールであり、「絶対神信仰治療」と名付けたロゴセアピー的信仰治療なのです。

人格的神観が擬人的神観にとどまっているなら、そういう「対(人格)神関係」は常に「遠くの神」でなければダメです。いちいち神の目を気にしていては大衆現場での優劣比較に満ちた殺伐とした対人関係に対処してはいけません。いつも神の臨在を意識して社会生活を過ごせる人たちというのは恵まれた環境に生まれ育ったぼっちゃんじょうちゃんの類です。…って言うか、そもそも人格神は擬人神でなく、いわゆる神義論的問いにみられるような不条理現実がある以上、人間が神に対して抱く「善」とか「公正、正義」とかいった道徳的・倫理的概念も、神のそれは次元を超えた意味があるだろうし、あまりに擬人化された旧約物語などを読むことで形成される神イメージでは遠く及ばない人格(というか神格)である可能性の方が高いと思うから、べつに敢えて「遠くの神」を求めずとも最初から「遠い」と思えばよい。教会的には「臨在」している、近くにおられるお方だと言うし、「遍在」という言葉の意味からして遠くもあり近くもあるわけだが、いわゆる人格的「我-汝」関係としては、神秘主義者でもないかぎり、汝である神は近い存在であるより遥か遠い存在として感じられて然り。イエスとて十字架の死に臨んで御父をいかに遠くに感じておられたことか…。ちなみに並木浩一氏は「遍在」についてうまい説き方をしている。以下、前掲書から引用。

< 二四節をご覧下さい。「わたしは天と地に満ちているではないか」と神はいわれます。もちろん神は神秘的な仕方で天と地に満ちているのではありません。この言葉は神が創造主として、歴史の支配者として、契約の主宰者として世界に臨みたもうご自身の自由を語っています。神は人が何か神々しいと感じることのできるような場所に閉じ込められる方ではありません。日常世界のすみずみにまで神は臨みたまいます。社会の一隅で貧者がしいたげられることをも、神は見のがしません。それどころか、神は個々人の心の偽りさえ追及されます。人が神の眼から逃れられるような領域は天と地のどこにもないのです。人と共にいましたもう神は徹底して近い神なのです。>(p28~29)

 

経済学にマクロとミクロとがあるように、人生論にもマクロとミクロとがあって、自分の場合はマクロが聖定論、ミクロがメンタルヘルス論である。このブログはその両方によって構成されている。はじめの方はマクロ、後はミクロだ。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

 

< 神の絶対的な予定と人間の自由意志とは後世の神学をまつまでもなく、既にコーランにおいて衝突していたことは、前章に述べた通りである。世に起るありとあらゆる事柄はあらかじめ神が定めて置いたものが実現するに過ぎないという、この神の予定、宿命のことをアラビア語では「カダル」qadar と呼ぶのであるが、そのカダルの絶対性を主張し、人間にいささかも自由意志を認めない一団の人々が、神学上にいわゆる、ジャブル派(Jabriyah)である。ジャブル(Jabr)とは字義通りには「強制」、誰かを嫌でも応でも強制し、暴力を用いてでも何かをやらせることを意味する。コーランでは、アッラーは「全てをあらかじめ定め給える」もの(alladhi qaddara)(八七章三節)と呼ばれ、反対に人間の側から見ては、「あらかじめ神の書き定め給うた事の外、我らに起ることはない」(九章五一節)と言われているのを見ても分る通り、人間はその一挙手一投足、いや、一瞬のまばたきすら自分の自由にできるものではないという考えは、コーランの多数の章句から生ずる当然の帰結である。(中略)

さて、ジャブル派に対して全く対蹠的な態度をとる学派が前章の最後にその名を挙げたカダル派(Qadariyah 一名、Ahi al-qadar「カダルの人々」)である。彼らは神の予定、宿命を正面から否定し、人間の自由意志を認めた。元来、カダル qadar という言葉は、(神の)定めたもの、即ち宿命を意味するのであるから、カダル派といえば寧ろ宿命論者に適した名称であって、宿命を否定し、カダルを認めない人々をカダル派と呼ぶのは、いささか妙な名付けかたである。>(p35~41)

ここにはキリスト教神学における所謂「自由意志論争」と同様の構図がある。すなわちイスラム教における「ジャブル派 VS カダル派」は、キリスト教における言わば「恩寵派(アウグスティヌス、ルター、カルヴァン )」VS 「自由意志派(ペラギウス、エラスムスアルミニウス)」に対応する。

 

次は、イスラーム神観へのネオ・プラトニズムの影響と差異に関する記事の中から抜粋引用する。

 <ファーラービーは獲得知性の現成を神秘主義的「合一」(unio mystica,〔略〕)と混同してはならないと言う。地上に生きているかぎり人間の神化は絶対に不可能である、と彼は確信していた。この点でファーラービーはプロティノスやポルフュリオスとは立場を異にする。人はスーフィーの主張するように絶対者の中に融入しきりこれと合一しきることはできない。ただ神に近付くことができるだけである。正しい認識によって、人間能力の限界内において神に接近することがファーラービーにとって哲学の究極の目的であった。(中略)原因を順々に辿って行くと、一番端に、それ自身は最早何者をも原因としてもつことなく、絶対に必然的に存在し、最高度の完全さと無比の実在性とをもち、自立、不変、純粋善であって且つ純粋思惟である存在者があると考えねばならぬ。原因の系列はこの根本原因に突きあたってその遡行は停止するのである。もはや他の何者をも原因としてもたず、しかも自らはありとあらゆる存在者の原因である必然的存在者、「第一存在」(al-wujud al-awwal )はその存在を我々は論証することはできない。なぜならば彼自身が全てのものの証明であり、第一の原因であるから。また、これを我々は定義することもできないのである。この定義できず、証明できない完全無欠の存在、第一原因を神(アッラー)と言う。この意味に解されたアッラーは全く質量性のかげりをもたない故に絶対的叡智体である。そしてこの根源的な叡智体から全存在界が幾つかの層をなしつつ「流出する」。

ここで我々はファーラービーと、流出論の始祖プロティノスとの差異に注意する必要がある。プロティノスにあっては全存在界の太源である「一者」は完全な超越者であり、言亡絶慮の幽邃な「無」であるのに反して、ファーラービーの「第一存在」は既にそれ自身が知性的である。すなわち「第一存在」としての神は自ら知性そのものであり、同時に知性自身の対象であり、また知的認識活動の主体でもある。かくて神は自分自身を超時間的に認知する。そして神のこの知的活動によって一つの超時間的存在者が超時間的に流出する。これが最初の被造物であり最高の存在界であるところの「第一知性」である。これがプロティノスの「ヌース」に当る。第一知性はその本質上、可能的存在者であるけれども、神との関聯において必然的である。可能的でありながら必然的なもの、これを範疇化して相対的必然性(自分自身では本来可能的でありながら他によって必然的であること)を考え出して哲学上の一つの根本概念としたところにファーラービーの特色がある。(中略)神は言葉によって、その(神の)本質を成立させている数々の要素に分解することはできない。という訳は、言葉によって神の概念を規定しようとすれば、どうしてもその言葉は神の本質を成すものの一部か、或はせいぜいその内の幾つかの部分を指し示すに過ぎないからである。一体、或る一つのものの定義の諸部分が指し示す意味は、その定義されたものの存在に対して原因(illah―ここで「原因」とはあるものの本質構成要素を意味する。原因―結果という意味の因果律的「原因」ではない)をあらわす訳であるから、もし上のようなことを可能であるとするならば、神の本質を形成している諸部分が神の存在に対して原因となることになってしまう。(中略)神がこのように部分に分解できないとすれば、まして量やその他の方面から見た部分に分解され得ないことは当然である。従って、必然的に我々は神には大きさもなく、体軀も絶対にないと言わなければならぬ。そして、この点からして神は一であることが知れるのである。なぜなら、神は一であるという意味の一つは、神が分解されないことであるから、そして、全て或る方面から見て分解されないものは、その方面において一であらねばならぬ。(中略)この神の「一であること」こそ神の根元的な本質をなす。(中略)こう考えて来ると、「第一存在」(神)は、その存在において完全である点から推して、我々の心におけるその表象もまた完全の極限に在らねばならぬはずである。ところが事実は決してそうではない。一体、これはどうしたことであろうか。まず我々は、神の側からすれば決して表象困難ではないことを認めなくてはならぬ。なぜなら、神は極度の完全さに在るからである。従って我々の心の裡に映る神の姿が完全でないのは、勿論、神の方に欠陥があるためではなくて、我々の知性の力が弱いためであり、我々の知性が質料と非有とに包まれているためであるとしなければならない。こうして我々は、我々の側に欠陥があるために、神を完全に心に映すことができず、神を真にあるがままに把握することができないのである。神は余りにも完全である故に、我々は眼がくらみ、完全に心に映し得ないのである。それは丁度、光線の場合とよく似ている。光は第一の、完全な、しかも最も明らかな「見えるもの」であり、これによって始めて、ありとあらゆる他の見えるものは見えるものとなるのである。>(p245~252)

以下は小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)より。

<『教会教義学』Ⅰ/1にいおいて、歴史の中で、人間に対してなされる神の行為の三一論的構造が、内在的三一論に対する経綸的三一論の優位において成り立つことを、伝統的教義学における相互関入論と固有分与論の相関によって論じた。ここに示された三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>

 

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 

ウェストミンスターの「小教理問答」の「問7 神の聖定とは何であるか」で「答 神の聖定とは、神の御旨の深慮による永遠の計画であって、これにより、神は御自身の栄光のために、何事によらず起こってくるすべてのことを予定しておられる。」の参照聖句、エペソ1:4,11、ローマ9:22,23 この4つの聖句をまず記憶にとどめておきたい。但し、1:4で聖定に関係する言葉としては、「選んだ」を意味するエクセレクサト(ἐξελέξατο < ἐκλέγομαι)であり、これを聖定とみなすことには疑問。むしろ予定を意味する言葉、プルーリサス(προορίσας < προορίζω)が5節にある。RSVではdestined、KJVではHaving predestinated。

(岩波版 エフェソ1:4~5

「私たちが御前に聖なる者、咎めるべき点なき者となるようにと、愛をもって世界の開闢以前に、キリストにおいて私たちを選んで下さった〔ことに呼応する〕ように。/私たちを、イエス・キリストを通し、イエス・キリストに向かって、御心の気に召すところに従って子たる身分に前もって定めた〔神〕。」

(口語訳 エペソ1:4~5)

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、/わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

4節最後の ἐν ἀγάπῃ を口語訳では5節で訳している。その点で新改訳2017版でも、「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と、口語訳と同じように訳している(ただし新改訳2017の方は11節の訳を参照すると、分詞形であることを考慮して⦅敬語と意味が重なるので実際はどうだったのかは不明だが⦆「定め」たではなく「定めて」いたということで、「定めておられ」たと訳している)。こちらの方が、岩波版保坂訳よりも意味はわかりやすいだろう。聖定は神の愛(アガペー)においてなされたということ。

(岩波版 エフェソ1:11)

「このキリストにおいて私たちはまた、〔自らの〕意志の意向のままにすべてのことを成し遂げる方の意思に従って前もって定められた通りに、相続分を与えられたのである、」

(口語訳 エペソ1:11)

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」

(新改訳2017 エペソ1:11)

「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」

こちらは原文では「プルーリスセンテス」(προορισθέντες < προορίζω)が「聖定」に該当すると思われる。これは「プルーリゾー」(予定する)に由来するという点では、5節の「プルーリサス」と共通するが、「プルーリサス」は第一アオリスト分詞(男・単・主)で「予定され(てい)た」という過去を表わすのに対して、「プルーリスセンテス」は受動態の第一アオリスト分詞(男・複・主)なので、「定められ(てい)た」と受け身に訳される。

(岩波版 ローマ9:22~23)

「しかし、もしも神が、怒りを示すことを、そして自らの力を〔人に〕知らしめることを欲しつつも、大いなる寛容をもって、滅びへと造られた怒りの器を耐え忍ばれたとするなら、/ しかも、栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器の上に自らの栄光の富を知らしめるために〔そうされたとするなら、どうであろうか〕。」

(口語訳 ローマ9:22~23)

「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、/ かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」

(新改訳2017 ローマ9:22~23)

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。/ しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。」

ここで、「聖定」に該当する言葉は無い。これは「選び」の参照聖句ではあっても、「聖定」の参照聖句ではない!しいてあげれば23節の「プロエートイマセン」(προητοίμασεν < προετοιμάζω)だが、これは「予め」は「予め」でも「定め」るのではなく「準備する、用意する」を意味する「プロエトイマゾー」の3単過であり、「予め用意した」という意味なので、「予定」はともかく「聖定」には該当しない。

・・・ということで、「聖定」の参照聖句を、ウェストミンスター「小教理問答」から取ることは無理!ということがわかった。それなら「信仰告白」からということで、最低でも3-1だけは憶えておこう。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが」の参照聖句は、エペソ1:11、ロマ11:33、ヘブル6:17、ロマ9:15、9:18である。以下、すべて順番に岩波版で引用。

「このキリストにおいて私たちはまた、〔自らの〕意志の意向のままにすべてのことを成し遂げる方の意思に従って前もって定められた通りに、相続分を与えられたのである、」(エフェソ1:11)

直接、「聖定」に該当する聖句はコレだけである。岡田稔著作集2『教理学教本』(いのちのことば社)では、「特にエペソ一・九 ― 一一は重要である。」と書かれて、「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。

……わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」と、新改訳2017の訳が引用されているのだが(p79)、聖定聖句の代表は、特にこのエペソ1:11ということにしておこう。ちなみに文語訳は、「我らは、凡ての事を御意の思慮のままに行ひたまふ者の御旨によりて預じめ定められ、キリストに在りて神の産業とせられたり。」(御意:「テーン ブーレーン < ブーレー」⦅意図、企て、計画、決議、決意、決定⦆、思慮:「トゥー セレーマトス < セレーマ」⦅御旨、みこころ、意図(された内容)、意志、意欲、意向、願望、欲求⦆、御旨:「プロセシン < プロセシス」⦅前に置くこと、企て、計画、意図、意志、決心、決意、目的⦆、預じめ定められ:「プルーリスセンテス < プルーリゾー」⦅予定されていた⦆、産業とせられたり:「エクレーローセーメン < クレーロー」⦅くじで選ぶ、くじで定められる、くじで割り当てる⦆

次、「ああ、神の豊かさと知恵と知識の深さよ。神のさばきのなんと測りがたく、神の道のなんと探りがたきことか。」(ローマ11:33)「神は約束を受け継ぐ人々に自分の意志の変らないことをさらに充分に示したいと思った時、誓いによって保証したのだった。」(ヘブル6:17)

「なぜならば、神はモーセに対して〔次のように〕言われているからである。私は私が憐れもうとする者を憐れむであろうし、私が慈しもうとする者を慈しむであろう。」(ローマ9:15)「それゆえに神は、自ら欲する者を憐れみ、自ら欲する者を頑なにされるのである。」(同、9:18)

次の、「それによって、神が罪の作者とならず」の参照聖句は、ヤコブ1:13、1:17、Ⅰヨハネ1:5である。

(岩波版 小林訳 ヤコブ1:13、17)

「試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受けえない方であるし、自身誰をも試みたりはなさらないからである。」

「あらゆる善き贈りもの、すべての全き賜物が上から、光の父から降って来るのである。その〔光である〕父のもとには、移り変りも運行によって生じる影も存在しない。」注に、「同じ光でも、天体には季節による移り変りや、夜と昼、日食・月食のようなものがあるが、父なる神にはそのような変化がない。」とある。

(岩波版 Ⅰヨハネ1:5)

「私たちが彼から聞いており、あなたがたに告げる知らせとは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇も存在しないということである。」

これらが、「聖定」の教理における「神が罪の作者とならず」の参照聖句なのか…?と疑問に感じるほど説得力は感じられず違和感だけが残る。

結局、「聖定」の参照聖句としては、最低、エフェソ1:5と11の2か所だけを憶えておけばよいと思う(「ウェストミンスター大教理問答書講解」⦅ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮編訳⦆では、「聖定」の参照聖句はエペソ1:11が筆頭であり、後の方でエペソ1:4も書かれてはいるが、その括弧内には「人間の永遠の運命についての聖定は天地のつくられる先より永遠に定められている」とあるとおり(p56)、これは直接的には原文で1:5の冒頭に書かれている προορίσας ⦅予定していた⦆を指すのだから、1:4とすることはおかしい(英訳では、RSVの destinedは「運命的な、運命づけられた」ということで「運命」という概念が入るので良くない。その点、KJVの having predestinatedは、原形の predestinationが神学用語として「予定(説)」を意味するようになっているようだから、まだマシではないだろうか…?

1:4は、「キリストにおける選び」の参照聖句となっている⦅矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』p58⦆)。

その次の「また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである」の参照聖句は、行伝2:23、4:27、4:28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴16:33である。

ここは最後の箴言16:33「くじは、衣の膨らみの中に投げられる。だが、その事の決定は皆、ヤハウェから〔来る〕。」(岩波版 勝村訳)だけ憶えておけばよいと思う。注に「神意を伺うためにくじをひくことは旧約でよく見られる(レビ一六8以下、サム上一四41以下、ヨナ一7等)。」とある。文語訳「人は籤をひく されど事をさだむるは全くヱホバにあり」

(以上、ウェストミンスター信仰規準』⦅日本基督改革派教会大会出版委員会編、新教出版社⦆ より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖書的精神療法・・・対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」を媒介して、対人関係だけではなく対神関係を第一の前提とする「聖霊感知・行動療法」へ

< そもそも、精神療法・心理療法とは、治療者と「対話」「交流」を通じ、「自己」を「深く知る」ことにほかなりません。その際、治療者の「姿勢」「人柄」さらに「人間性」が問われると言っても過言ではないでしょう。世界には数百の精神療法・心理療法があると言われています。スキーマ療法は難治性である境界性パーソナリティ症に効果的であるとされていますが、その背景には冒頭に触れたよう、それ相当の時間・費用・労力に裏打ちされた、治療者の献身的な姿勢があってのことでしょう。>「スキーマ療法」とは | 銀座泰明クリニック (ginzataimei.com)

世の中で心理療法とか精神療法とか云われるものは参考にはしても基本、信用しないし(特にyoutubeやHowto本の類を通して、精神科医や自称カウンセラーの類が語っている認知行動療法またはその類)、聖霊の内住を信じるクリスチャンにとって基本的には必要とはならないもの、無縁でしょう。せいぜいフロイト精神分析くらいは一般教養の一つとして知っておいてもいいかなと思う程度で、非科学的だとして批判される、フランクルの「ロゴセラピー」などは知らなくても全く問題ないでしょう。

認知療法については、有効な方法であることは間違いありません。その技法は現在すでに現場の精神科医の精神療法の中に広く取り込まれており、その意味では一般的な治療法と言えます。また認知療法は数ある精神療法の一つであり、他にも多くの有効な精神療法があり、これらも広く行われています。強調せねばならないことは、認知療法も含めた精神療法は薬物療法と同時並行的に行われる精神科治療の基本であり、薬物療法に代わる治療法という見方は明らかに間違っていることです。その効果は薬物療法を上回るとは限りません。認知療法薬物療法の効果を比較検討した研究データもありますが、薬物療法の方が勝っているという結果も出ています。ただ、どちらが優れている、という比較をするような性質のものではなく、精神療法には薬物療法と同様に意義と限界もあることを知りながら、うつ病の治療技術を高める努力こそ必要であると思います。」 うつ病Q&A | 日本うつ病学会 Japanese Society of Mood Disorders (secretariat.ne.jp)

「認知・行動療法」ならぬ「聖霊感知・行動療法」について書きます。「霊感・行動療法」と命名したかったのですが、マスコミがカルト教団の旧・統一教会の活動に「霊感商法」と言う不適切な名称をつけてくれたおかげで、「霊感」という言葉のイメージが「霊能」などと同様、とても怪しげで悪くなってしまいました。それで私は「聖霊感知」という表現を選んだのです。

アメリカ人のハリー・スタッフ・サリヴァンは「精神医学は対人関係の学問である」と述べたそうですが(~和田秀樹著『比べてわかる!フロイトアドラーの心理学』青春出版社 p68)、対人関係だけを前提とする精神医学や臨床心理学…特に「認知・行動療法」によっては、人間の精神的な問題は根本的な解決を得られないし、患者の究極的救済は望み得ないと私は思います。精神分析を除く「精神療法」の多くは要するに気休めであり誤魔化しであり、自分で自分の脳を錯覚に陥らせるような、あるいはあまり意識しないように思考ポイントをずらすような、そんな小手先のやり方にすぎません。実際は傷ついた記憶を前意識まで抑圧しているだけであり、何かのはずみで意識の表面に浮上して来るのです。認知療法的なことをしたところで受傷記憶の場面が少し変容しこそすれ不快であることに変わりなく、時々、夢に現れるのです。スキーマがどうの自動思考がどうのこうのと言ったところで、ものの観方は少しは変えることが出来ても心の中をすっかり変えてしまうことは出来ないわけだから、例えば部屋の掃除を怠って、ほこりの上に布か何かをかけてほこりが無いかの如く思っているけど現実には布の下にはほこりがあるということと同様、触れたくない受傷した記憶を意識の下の方に押し込めているだけで現実には心の中に刻まれている不快な記憶は消えないのであって、評価の高い認知・行動療法が保険適用になったといったところで、せいぜい局所的救済にとどまるということです。とは言え、無論、精神療法を全否定するものではなく、むしろ受傷体験の省察…それこそ認知の点では大いに参考になり、宗教的観点から研究し霊的療法を現実的・実践的に確立するうえではその媒体として有益だと思います。しかし重要なことは、対神関係を前提としていない以上、人間における「魂」(ネフェシュ / プシュケー)は救われるとしても「霊」(ルアハ / プネウマ)は救われないので、そのような根無し草的「精神・心」理解に基づく「療法」に対しては、過度の期待はいましめなければならないということです。対神関係を前提としていない人間の営みは例外なく限界があるからです。下記の引用文のように、いろんな用語によっていろんな作業なり行動をやったところで、結局、本人自身の「(原)罪」に由来する「古き我」…過度の自尊心(自己愛)と承認欲求が変えられない限り、改善とか言ったところで受傷者によっては報復感情が残り、小手先の精神療法などでは深部に届かず、結局、気休めの治療による表面的な変化に留まるわけです。人間の(原)罪の深刻さを軽く見てはいけません。そこに私などが、「認知・行動療法」を参考にし媒介しつつ、聖書的精神療法として「聖霊感知・行動療法」を探求すべき所以があるのです。受傷と言っても、あるいは心的外傷後ストレス障害Post Traumatic Stress Disorder)と言うように「外傷」(トラウマ)などと言ったところで、実際には自分の身体の外から受けた傷ではありません。これは人体がウイルスの侵入に対する免疫反応において白血球などの免疫細胞が活動して発熱したり、インフルエンザに感染した場合にインターフェロンの作用によって倦怠感や食欲低下が起きるのと同じことで、精神の方も自己防衛の構造によって生じるものであり、言わばメンタルの免疫反応です。傷つくのは自分を守ろうとする自尊感情が強いからであって、自尊感情が抑制されれば傷も軽いのです。だからと言ってガードを下げてもろに相手のパンチを食らったらノックアウトしてしまうので、自己防衛のためにある程度の自尊感情は必要になります。これをいかにバランスよく維持できるかが重要です。ガードを強くしてもダメだし、弱くしてもダメです。上げ過ぎても下げ過ぎてもダメなのです。程々のところで自尊心を持ちながら、外圧に対してはレジリエンス(resilience)で対応できるように、すなわち柳の木の枝とかグラスロッドの釣竿に喩えられるようなしなやかさを身につけなければ立ち行きません。

ところで「認知行動療法」というふうに、「認知」と「行動」とをつなげて書くのが一般的であるようですが、私は「認知」と「行動」との間に中点を入れて「認知・行動療法」と表記する方が適切だと思います。なぜなら元来「認知療法」と「行動療法」とは別の療法であり、それが合成されたからです。

「行動療法における説原理のキーワードは『学習』というところにある。行動の形成や変容、消去は学習によるものであって、神経症でさえ、それは何らかの理由で不適応的に学習された習慣であるにすぎず(Eysenck,1960)、他の行動の学習とは何ら区別されるべきものではないと考えられている。したがって、行動療法における治療の手続きも、学習理論に裏づけられた具体的なものであり、それゆえ行動療法は、他の精神療法に比べて比較的短期間で大きな治療効果が期待できる治療法であるという評価を受けてきた。さて、行動療法は長きにわたって、その理論的基盤を学習理論(あるいは行動理論)の中心であった条件づけ理論に依拠することで大きな発展を遂げてきた。それ故、行動療法はその発祥以来、『条件づけ療法』と呼ばれることもしばしばであった。ところが、一九七〇年代に入って、行動療法は大きな転機を迎えることになる。認知行動療法と呼ばれる新しい治療体系が誕生し、大きな発展を遂げたのである。(中略)客観的な測定と観察が可能であり、同時にそれが行動変容にどのような機能を果たしているかという点を実証的に検証することのできる認知的変数を取り上げ、その研究成果を行動変容の基礎理論として体系化したという点で、バンデューラが行動療法と認知行動療法の発展に貢献した点は大きい。そして、こうした学習理論の変化に応じて、行動療法は認知を治療に影響を及ぼす変数として重要視する方向へと変化の道を辿るようになった。一方、ベック(Beck)が、うつ病患者と非うつ病患者の思考プロセスを比較することによって、うつ病患者には彼ら特有の非論理的・非現実的な思考パターン(認知の歪み)があることを指摘し、認知の歪みの原因となっている個人のスキーマ(個人の中にある、かなり一貫した知覚・認知の構え)を変容させることによってうつ病の治療を行なうという認知療法を提唱したことは周知の事実である(Beck,1963,1964)。認知療法では、行動異常あるいは病理的症状は、個人の生育史の中で学習された固定的なスキーマにしたがって判断された歪んだ思考様式によって引き起こされ、維持されていると考えられ、そのために自己の行動を客観的に評価し、スキーマを修正し、歪んだ認知を修正することが介入の主眼とされる。

ベックは精神分析の訓練を受け、それを実践していた臨床家である。しかし、ベック自身が『一九五〇年代初頭に言われていた精神分析学の将来性が一九五〇年代の半ばには崩れさり、精神分析を志す臨床家は患者に何の変化ももたらさないまま何年もそれを続けた』と述べている(Beck et al., 1979)ように、ベックは精神分析の理論と技法を否定し、彼ら独自の治療理論を構築するようになった。また、ベックは、認知を単に説明概念として用いるのではなく、操作可能なものとして捉えるという行動療法の発想を引き継いでいると言える。ここに、行動療法と認知療法の接点が生まれることになる。(中略)

行動療法と認知療法は、その発展の経緯は異なるものの、臨床の現場においては一九七〇年代から急速に接近を初め、一九八〇年代に至って、両者の関係はもはや切り離すことのできないものとなり、認知行動療法として一つの治療体系を形成するようになった。(中略)

『患者は不適応的な反応パターンを獲得してしまったのであり、それは「学習解除」できるものである』というベックの指摘にあるように、行動療法と認知療法の両者には、『学習』あるいは『獲得』というキーワードのあることがわかる。すなわち、認知療法における『再学習』によって認知を変容するという発想は、治療は新しい適応行動を学習することによって達成されるとする行動療法の基本的発想に通じるものでもある。認知療法がしばしば『教授法』、あるいは、”teaching therapy" であると言われるのも、患者の適応行動の学習を強調しているところにその所以があると言える。また、行動療法と認知療法には、①行動を単に刺激と反応の接近・連合だけで説明するのではなく、予期や判断、思考や信念体系といった認知的活動が行動の変容に及ぼす意味を重視し、それらが行動に影響を及ぼすと考える、②人間の行動に関して、それが結果によってコントロールされているという『受動性』よりも、人間が自分の行動を自分自身で如何にコントロールしているかという『能動性』を強調し、コントロールする個人の変数として認知を考える、③認知的活動が行動に影響を及ぼすと考える、④認知的活動はモニター可能であり、変容可能であると考える、⑤望ましい行動の変容は、認知的変容によって影響を受けると考える、という発想の共通点が認められる(坂野、一九九二)。したがって、両治療法には、①治療の標的はあくまでも行動のみの変化であると考えるのではなく、信念や思考様式といった個人の認知の変容そのものが治療の標的となったり、認知の変容をきっかけとして行動変容をねらう、②治療の方略として行動的な技法のみならず、認知的な技法を用いる、③行動と認知の両者を治療効果の評価の対象とする、ただし、認知を重視するといっても、最低限行動や症状の変容を厳密に査定する、という点が共通して認められる(Kendall & Hollon,1979)。(中略)

患者が日常生活を送るなかで対処の方法を学ぶことができるよう援助を行なうという基本的発想が両治療法には認められる。つまり、患者が問題への対処の方法やセルフコントロールの方法を習得するということが両治療法の目的の一つとしてあげられる。具体的な治療のストラテジーとしては、日常生活における対処行動とセルフコントロールの獲得は通常、適切な問題解決スキルや対処スキルを教授するということが行なわれる。そのために、適応行動を習得するために必要な下位目標の設定、モデリングを通した適切な行動の具体的師範と行動リハーサル、段階的なホームワークの割当といった対処行動とセルフコントロールの獲得をねらった学習プログラムが展開されることになる。(中略)

認知療法では、活動スケジュール表の作成、習得度・満足度スケジュールの作成、行動リハーサル、社会的スキル訓練、主張訓練、リラクセーション、呼吸訓練、in vivo exposure, 段階的な課題の割当といった行動的技法と、否定的思考の変容、原因帰属の型の変容(再帰属法)、言語化、自己教示、思考中断法といった認知的技法が治療技法として活用される(Beck et al.,1979)。行動療法はこれまでの長い歴史の中で実に多くの技法を開発し、その効果を確認してきたが(赤木、一九八九;内山、一九八八)、認知療法で取り上げられている各技法の多くは、いずれも伝統的な行動療法の中で多用されてきた技法である。(中略)認知療法では『今、ここで』の問題に焦点が当てられる。そして、現在観察できる事柄を明らかにするため以外には、子どもの頃を想起するということに注意を払う必要はないと考えられ、治療セッション中、あるいはセッション間の患者の思考と感情を明らかにすることが中心となる。行動療法においても、問題となる症状や行動がどのように形成され、維持されているかという行動分析の観点を除き、過去の出来事を解釈するようなことはいっさい行なわれない。むしろ、今何が問題となっているかを明らかにし、どうすれば問題解決がはかられるかということを重視する。(中略)治療者と患者の関係に関する見解についても、認知療法と行動療法には共通するところが認められる。精神分析に代表される従来の心理療法では、治療者と患者という二者関係が固定されて捉えられるのに対し、行動療法と認知療法では、制御行動理論の発想(春木、一九七八)や認知療法の『協力的経験主義』の発想(Beck,1976)に代表されるように、行動変容プロセスにおける治療者と患者の相互影響過程を重視し、治療者と患者はまず協力して問題の解決にあたろうとする。そして、その中で患者が適切な対処行動とセルフコントロールの方法を学習できるように援助し、最終的には、患者が自分の問題を自分で処理できるように仕向けていく。また、治療者と患者の転移や逆転移といった関係は、治療を妨害こそすれ、何ら治療にとって有益なものではなく、むしろそうした関係が生じることなく客観的に治療が行なえるよう配慮を行なう。(中略)

行動療法の新しい発展形である認知行動療法認知療法のキーワードとなる『認知』という概念をどのように理解するかという点を見のがすことはできない。そもそも行動療法は、直観や思弁によって得られた知識体系を排除し、客観性と普遍性を備えた事実によって体系づけられた科学的心理療法をめざして構築されてきたものである(園田・高山、一九七八)。したがって、行動療法の中で認知の問題を取り上げるときには、実証的な検討を伴わない単なる説明概念として認知的変数を用いるのではなく、認知を明確に定義し、客観的な観察と測定が可能であり、しかも認知を操作することでどのような治療効果が得られるかという認知の機能を検証することが重要である。ベックは、認知療法を発展させる際、認知を『説明、自己命令、あるいは自己批判といった特定の思考』であると定義した(Beck,1963)。そして、こうした認知を査定するために『非機能的思考記録票』や『ベック抑うつ性尺度(略)』といったさまざまな評価用具を開発し、それによって認知をいわば目に見えるものへ操作的に置き換えようとした。認知行動療法認知療法は、認知的変数を行動変容の媒介変数としてではなく、独立変数として捉えようとする。そのためには、認知を操作的に定義、査定し、そして認知の操作を客観的に記述することによってその機能を明らかにしなければならない。そうすることによって認知的変数は行動変容を予測することのできるものとなる。また、このとき認知行動療法認知療法は、治療の目標を不適応行動の消去と適応行動の積極的学習に置くという基本的発想を共有することができるようになるのだろう。したがって、行動療法と認知療法において認知を論じる時には、次のような点が問題となる。1.認知を如何に操作的に定義するか 認知的変数はそもそも、古くはマウラーやオスグッドの学習の媒介過程説にあるように、行動変容を説明する中で、刺激と反応の間の関連性をよりよく説明するための媒介変数として取り上げられてきた。ところが、認知行動療法認知療法には、認知を単なる説明のための媒介変数として考えるのではなく、それを操作可能な独立変数と位置づけるところに、その基本的な発想があると考えられる。このことは、認知行動療法認知療法における『認知』は、『操作可能な』という但し書きとともに理解しなければならないということを意味している。言い替えるならば、認知は常に何らかの査定を行なうことによって操作的に定義されるものであると考えられる。不合理な信念、論理的誤謬、期待、対処可能性、自動的思考、自己効力感、原因帰属といった、これまでさまざまな形で取り上げられてきた認知的変数は、いずれも何らかの査定によって操作的に定義することのできる認知的変数であると言える(坂野、一九九二)。2.認知を構造として捉えることはできるか これまでに、認知をある種の『構造』として捉えようとする試みも行われてきた。『認知構造』、『スキーマ』、『自己概念』、『自己イメージ』といった認知的変数がこれにあたる。いずれも、基本的には過去の経験を体制化した、かなり持続的で、しかも将来の経験や行為に影響を及ぼすものであると理解されており、『認知構造』、『認知的構え』、あるいは『認知的表象』とでも呼ぶことのできるものである。」(大野 裕、小谷津孝明 編『認知療法ハンドブック 上巻』星和書店 p99~109 「第5章 認知療法と行動療法」※執筆者の坂野雄二氏については、早稲田大学人間科学部とだけ書いてある。)

その「スキーマ」ですが、次の説明がいちばん納得できました。「スキーマは『自分の人生に対する認知』であり、短いセンテンスで言語化が可能なものである。例えば『自分は他人より能力があり、成功する運命である』のようにポジティブな場合もあれば、『一生懸命やっても人は絶対認めてくれない』のようにネガティブな場合もある。角度を変えて言えば、一種の『信念体系』とも『生きる上でのルール』とも言うべきもので、長年にわたり形成されたものであるだけに、確信的で簡単に変えることはできないのが特徴である。もちろん個人によってスキーマは唯一つではなく、いろいろの局面でさまざまのスキーマを持っているのが普通である。これが歪んでいるがゆえに、自動的に思考の歪みが出るのであり、病気との関連ではスキーマは『患者の状況ごとの歪んだ自動思考の原点』であり、『病気を引き起こす基底にある認知』と言える。」(『認知療法ハンドブック 下巻』星和書店 p7~8 「第1章 うつ病認知療法」⦅野村総一郎⦆※野村氏は、「国家公務員等共済組合連合会立川病院神経科」⦅当時⦆)

浅井昌弘氏は、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の認知・行動療法的理解についての章」云々と述べておられ、「認知・行動療法」という書き方をされています(大野 裕、小谷津孝明 編『認知療法ハンドブック上巻』⦅星和書店⦆ 序文 v  ※この本の第12章「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の認知・行動療法的理解と治療」⦅西園マーハ文氏⦆参照)。

これに対して認知療法の提唱者であるアーロン・T・ベック博士に師事して日本における認知・行動療法の第一人者と言われる大野 裕氏は、「『認知療法』(「認知行動療法」とも呼ばれます)」と、「認知療法」と「認知行動療法」とがほぼ同義として使われている旨を示されたうえで、やはり「認知」と「行動」との間に中点なしで表記しておられます(大野 裕著『はじめての認知療法講談社現代新書 p3)。まあ、精神科医も医師であり理系なので、文言の表し方などあまり気にならないのかも知れません。以下、引用。太字は私記。

認知療法を理解するためのキーワードは、『自動思考』と『スキーマ』です。『自動思考』というのは、瞬間、瞬間に頭に浮かんでくる考えやイメージのことをいい、私たちが現実をどのように見ているかが、そこに現れます。たとえば、不安になっているときには、『何か危険なことが起こりそうだ』と考え、その『危険に対処するだけの力が自分にはないし、きっとまわりの人からも必要な助けが得られないだろう』という考えに支配されるようになります。こうした考えの流れを『自動思考』と呼びます。(中略)『スキーマ』というのは、『自動思考』を生み出すもとになっている考え方のクセです。『なんでも完璧にしなくてはならない』とか『誰からも嫌われないようにしないといけない』といった、一種の考え方の傾向、性格のようなものです。ストレスにたいして強い心を育てるためには、『自動思考』だけでなくこの『スキーマ』に気づく練習をする必要があります。ですから本書では、まずあなたが自分の『自動思考』に気づき、それに大きく影響を与えている『スキーマ』に働きかけることを最終の目標とします。」(大野 裕著『こころが晴れるノート』p1~2)

認知療法の効果を実証し、健康保険の診療報酬の対象となる基盤を作った厚生労働科学研究『精神療法の実施方法と有効性に関する研究』研究班が使用した認知療法マニュアルの流れを簡単に紹介します。それによれば、まず患者さんの性格や気質、生い立ち、発症のきっかけや症状の継続に影響している問題について詳しく尋ねて、患者さんの考え方の特徴(スキーマ)を明らかにします。そして、どのような考え方が問題になっているか、それに対して認知療法はもちろんのこと、薬物療法や環境調整をどのように治療に取り込むかを判断します。これを『症例の概念化』と呼びますが、その情報は患者さんにも説明して、理解を共有します。認知療法では、こうした全人的な患者理解に基づいて面接の方針を立てることと、患者さんと治療者とが強力して治療を進めていく『協同的経験主義(collaborarive empiricism)』と呼ばれる治療関係が重要な意味を持っています。続いて、治療者は、患者さんの問題を一緒に整理しながら、日常の生活の中で楽しいことややりがいのあることを増やしていく『行動活性化』、具体的な問題を解決するスキルを伸ばしていく『問題解決技法』、自分の気持ちや考えを適切な形で相手に伝える『アサーション(主張訓練)』など、様々な行動的技法を用いて考えのバランスをとり、うつや不安などを和らげていく過程を手助けします。それと並行して、患者さんの気持ちが大きく動揺したりつらくなったりしたときに、どのようなことを考え(自動思考)、それが気分や行動にどのように影響しているかを現実にそいながら検討していきます。これが『認知再構成法(コラム法)』と呼ばれる方法で、そうすることで、自動思考の内容と現実との『ズレ』に気づくことができ、柔軟でバランスの良い考え方ができるようになって、気持ちが楽になります。そのほかに認知療法では、最後に、患者さんのこころのクセ(スキーマ)を理解して患者と共有し、必要であればそのスキーマを修正し、治療が終結することになります。」(『はじめての認知療法』p49~51)

ここで「アサーション」の後に「主張訓練」と書いてありますが誤解を招きかねない表記です。この語には「訓練」に相当する意味は含まれません。実際、現場では「アサーション」という言い方で「訓練」の意味も含めて用いられているのではないかと推察しますが、動詞のassert が「主張する、断言する」で、名詞のassertionが「主張、断言」ですので、「アサーション(主張)訓練」と書いた方がよかったと思います。

メンタル関係の用語に、「アサーション」と似た言葉で「アファメーション」(affirmation)という言葉がありますが、これは「断言」とか「肯定」を意味する英語で、肯定的発言による自己暗示を意味するようです。自己暗示は精神療法的に有効とのことです。自己暗示に効果はあるのか?【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

ちなみに、カウンセリングにおけるアセスメントでの相談の実例を挙げてみます。そこには報復感情が示されています。

「困っていることは職場の対人関係でマウントを取られたり無礼なことをされてムカっとした時など、あとになってその時の場面がフラッシュバックというか脳内に自動的に再生されて、メンタルにものすごい損害を被ったような感じになり、自己防衛できなかった自分に対する腹立たしさ、情けなさがこみあげてきて、あの時、ああ言えばよかった、こうすればよかったなどと後悔し、今度、同じ相手に会ったら言い返さないと気がすまないという強い報復感情が生じます。作業中でもそのような思いが脳内をぐるぐる廻って、注意が散漫になり、心ここにあらずでミスの原因にもなります。また、前述の脳内で自動的に再生される受傷場面によってさらに傷つき、ストレスで動悸など身体反応が生じます。それが夜間に起きれば睡眠にも支障を及ぼします。目標としては、前述の脳内における自動再生の受傷場面に対して防止することはできないとしても、その場面によるストレスを軽減するためのレジリエンスを身につけること。そもそも、相手がリスペクトできる人であるなら、少々無礼な振舞いをされてもそんなに腹立たしくはないが、相手が自分も軽んじている人の場合、その人から自分が軽んじられる、ばかにされるということは耐え難い。この点を改善するには、自分が相手を軽んじるということをなくす以外にはない。しかし、すべての人をリスペクトできるわけがない。それこそ理想論にすぎない。」

イエス・キリストの「ケノーシス」を模範として、すべての人をリスペクトできる心を持つことができれば平安に満たされることでしょう。仏教徒が相手に対して合掌する姿を見ると、ますますその感を強くします。しかし実際に、あらゆる他者に敬意を持つなんて煩悩具足の凡夫にはあり得ないこと。誰もが自他の比較において自尊心を持ち承認欲求を持っている以上、それは無理です。むしろ常人なら自己卑下という自虐行為をしてまで生きたいとは思わないと言うでしょう。ということで、「自動思考」だの「スキーマ」だのといった用語を並べていろんな作業をやってものの見方を少々変えたところで苦しい現実状況は大して変わらないし、そういうことは現実逃避的な気休めの自慰的療法にすぎないのではないか…、やはり相手との直接対決が必要になるのではないか…と思うに至ります。それって「アサーション」ということではありません。キレイゴトは無意味です。一部の宗教者や政治的極左の人のいわゆる絶対平和主義が非現実的ないわゆるお花畑に過ぎないことは(日本共産党でさえ「ただちに」とは言っても事実上半永久的に日本においては自衛隊の存在を否定しない、否定できないのであって)所謂「北東アジア」における日本の中国や北朝鮮との関係における国際情勢を見るまでもなく明らかです。前述の「一部の宗教者」の中には「政治的極左の人」とも重なって国家というものを幻想であるかのように思いこんでいる人もいるようであり、キリスト教徒の場合はヘブル書11:13で「地にては旅人また寓れる者」(文語訳)・「地上では旅人であり寄留者」(口語訳)と言われているように、一見すると来世(天)と現世(地)との二元論的思考により所謂、歴史的社会的現実における生活世界の自己限定的側面を観念的に軽視するかのように曲解される傾向は否めません。その点では特に戦後民主主義の社会を生きている現代日本のクリスチャンには信仰と矛盾しない愛国心とか国防意識といったものは生じにくいのかも知れませんが、聖書が示す神には万軍の主・戦争神としての側面もあり(…批判的解釈により、その戦争は自国・自民族の自衛のための戦いであって侵略であると解することはできませんが)、「仮の宿」とは自分自身の身体であり、それは現世を幻とすることではなく、物質的な体を生きる以上に内なる聖霊によって生かされる者としての自覚です。聖霊のはたらきが現実世界で信仰生活も歩む霊的旅人に生じる以上は、幻想的な愛と平和に限定されるものではないということも考慮して然りです。イエスも、「視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。」(マタイ10:16)、「われ地に平和を投ぜんために來れりと思ふな。平和にあらず、反つて劍を投ぜん爲に來れり。」(マタイ10:34)と言っておられるように、現実には「敵」が存在する以上、厳しい現実に追い込む場合もあり得るのです。もちろん、その中で「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)との律法的福音が与えられていることに対神関係ならではの希望があります。但し、福音書に示されているイエスの隣人愛や愛敵の教えも上記の言葉と同じく通常の心理を前提とする倫理などではなく、ましてや現代からみれば古代といわれる時代のユダヤ人の意識であり、「ただ信ぜよ」的な単純な救済第一の実践主義的信仰においても、現代社会にあってカルト宗教化防止の理性的志向を保持する限り、その終末論的状況倫理としての特殊性を看過してはならないのであって、神の子キリストによる発言とはいえ必ずしも永遠不変の真理を語る格言のように受けとめることはできません。

前述の直接対決の意味は報復するということです。報復感情が少しずつでも満たされなければ受傷者のメンタルに平和は戻ってきません。受傷者が現実的意味において救われるためには、苦しみの期間から脱し得たという開放感が必要なのです。聖書においても受傷者の救いには報復が必要であることが示されています。「復讐するは我にあり」、これは旧約の預言者の言葉ではなく使徒パウロの言葉です。よく、旧約聖書を軽視するクリスチャンが啓示の漸進性という教理を用いてキリストが啓示される以前のことだからどうのこうのといった屁理屈をこねることがありますが、そのような詭弁は通用しないのです。そして現実的には、報復はすべて神にお任せというわけにはいかず、自分自身でもやれるだけやらなければなりません。以下は自分が実践したことなので心してお読み下さい。まずは表情が硬くてはダメです。平常心を目標とし、薄笑いを浮かべられるくらいの余裕で臨めるようにメンタルをトレーニングします。そして、前もって言う効果的なセリフをよく考えて用意して、相手に再会した時にそれを発しても不自然ではない話の流れにもってゆけるように導入のし方・言い出しなど構成を考えます。そうやって戦略、戦術を練り、シミュレーション通りにはいかないにしても自己採点70点以上の小さな成功体験を積み重ねて達成感や自信ないしは自己肯定感を高めるのです。「小さな」と言う理由は、一度に有効なセリフを集中砲火的に使ってしまうと相手にとっては攻撃された感じになるので、全面的な争いに発展するおそれがあるからです。感情が先走りしたら失敗します。万が一、手が出てしまうと職場などでは処分されて大損し、本末転倒になってしまいます。自分はかつて包丁を向けられた経験があるので、報復と言ってもあまり相手を興奮させないよう、自分の感情を理性で抑えながら、ボクシングで言えばストレートやアッパーカットを炸裂させるよりもジャブやフックでねちねちと効果的に刺せるようにセリフの言い方も内容も程々のところで抑えなければなりません。あとは自分にとって都合悪いことはスルーするか忘れるかです。

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(ローマ12:19)

この言葉も文脈を踏まえて解釈次第です。個々人の「古き我」が変えられるためには聖霊のはたらきが不可欠です。復讐は自分でやってはいけない、神にまかせなさい…ということは結局、現実的には復讐心・報復感情を持つなということと同じです。それが通常、感知される聖霊のはたらきであろうとは思いますが、私は、そこまで行く前にやってみてもよいと思っています。認知療法とか言って、自動思考やスキーマがどうのこうのと相手不在の所謂コンフォートゾーンの中…自分の内側だけで自慰的にいろいろやっているくらいなら、現実的な直接対決、一度はやってみる意義はあります。男ならやられっぱなしではダメです、自信が持てないからです。いくらかでもやり返さなければなりません。そしてやる以上は成果をあげなければなりません。他人からすれば自己満足に過ぎないと思われるほど小さな成果でよいのです。最低限の自信を維持できればよいのです。とにかく自尊のための自衛の戦いである復讐はやれるだけやって、あとは神にまかせればよいです。それもまた、聖霊のはたらきに従うことでもあるのです。但し、直接的な行動に出ずに解釈によって相手への報復感情が満たされるなら、キリストの平和という観点においてそれに越したことはありません。聖霊のはたらきによる信仰実践という点では、「復讐は我にあり」ですからまるごと我(神)におまかせして、自分はいっさい報復的行為をせずに済むに越したことはありません。ただ、解釈で済む程度の受傷では済まない深刻なケースもあるということを私は言いたいのです。そこはキリスト教が歴史的に認識不足の点だと思います。説教はキレイゴトの集積です。どうしても心身に余裕ある階層の信者たちの意識を代弁し、それが信仰書などに色濃く反映されてきたのでしょう。罪悪深重の凡夫である信者の現実生活とは大きなズレがあります。受傷の痛みは当人にとっては深刻なものであり、ある程度は報復感情が癒される必要もあります。但しそれは必ずしも私の経験のように言い返しによってなされなければならないわけではなく、以下、引用させていただく説教の内容のように、同じく報復感情を満たすにしても私のように直接的行動によってではなく、自分の心の内の、言わば解釈のレベルで済ませることが出来るなら、それに越したことはないと思います。

「万軍の主に届いている」と題されたメッセージです。 

https://www.youtube.com/watch?v=REQ6NySA4BM

(1:01:20 / 1:10:55 ~)
「今週は、神の正義を心にとめて、平和な子で暮らす一週間というのはいかがでしょうか?まあ皆さん、理不尽なことに遭うかも知れません。でも、怒りは神の義を実現しないんだと…、で、私たちの悔しい思いとか傷ついた思いというのはちゃんと神さまに届いてるんだということですね。でも皆さん、おっしゃるかも知れない…、いや、私、神さまに裁きを委ねたんですけど、あの人になんにも起こってません…とかね…、そういうことを思うかも知れない。そういう時はですね、自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないわけです。あるいは、実は自分の方が悪いかも知れないわけです。私たちはですね、ひとを実際以上に悪く思う傾向があります。ま、どちらにしても、神さまは正しく裁いておられるわけです。皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、それはその人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんでしょ。なんにも起こんなかったら、まあ、それほど悪い人でもなかった…どっちにせよ、正しい裁きは常になされるんだと、だから、私たちの怒りは常に神さまにゆだねて、平和な子で暮らす一週間でありたいと思います。」
・・・「自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないわけです。あるいは、実は自分の方が悪いかも知れないわけです。」というところは認知療法的ですね。そして「皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、それはその人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんでしょ。」というところは(そこに重きが置かれているわけではないにせよ)、キレイゴトの高尚な説教とは少し違う凡夫信徒のホンネに呼応するような斬新さが感じられます。私なりに敷衍させて頂くなら、自分をいびっている人間が急にケガをしたり病気になった場合、ざまあ見ろ、いい気味だ…と思うこと自体は普通ですが、そのように思って少しは傷を癒すことができる(としたら、ですが…)こともまた神のお情けとして感謝するということも聖霊のはたらきによるということです。いや、いや、いくら自分をいびる人だからといって、その人の不幸を喜ぶようなことを神が許すはずはないし、そんな不純な気持ちは聖霊のはたらきによるものであるわけがない…といった優等生的あるいは所謂、敬虔なる信者らしき思弁は聞き飽きた…スルーします…ということ、それが私の信仰的立場です。むしろ敵であると感じる相手の不幸を喜ぶことでとどまれるなら、私のように言い返して直接的報復行為に及ぶよりかは、よほど信仰的・霊的な対応だと思います。もちろん、「自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないわけです。あるいは、実は自分の方が悪いかも知れないわけです。」ということで、相手の不幸を願ったり喜ぶことさえせず、ただすべてを神にまかせて切り換えることができるなら、それもまた聖霊のはたらきであるとは思いますが、そうでない場合と優劣比較して評価することもしません。聖霊のはたらきは各人の状況に応じて多様で豊かだからです。

いずれにせよ、唯一絶対である創造主の聖霊によらずして罪の問題が解決することはなく、罪の問題が解決せずして人間精神の苦しみが解消されることはありません。罪の問題の解決はまずもって贖罪の救い主を信じて悔い改めること、それが聖書の教えるところであり、この一点についてはキリスト教諸派は共通の認識です。聖霊のはたらきを感知できるうちは、その人には救いの希望があります。聖霊のはたらきを感知できなくなってしまったら、対神関係の喪失ということになり、それこそが滅びだからです。罪悪深重の煩悩具足の凡夫の現実においては、擬人的表現では聖霊を悲しませるといわれるようなことも多々あるでしょう。しかしそのような中でも聖霊のはたらきを感知できるのは、やはりその人が教会につながっているからだと思います。教会には内なる聖霊のはたらきによって生活している信仰者がいるわけだから、そのような人と交流することによって自分の内なる聖霊のはたらきが活性化されるわけです。いかに恥さらしになろうとも侮辱を受けようとも日曜礼拝を守るということが生活の軸として立っている限り、聖霊はその人を見放しはしないと思います。タダ~し!教会も対人関係に変わりありません。しかも罪人の集まりなので、職場なんかと大差ない、否それよりももっとエグい面もあろうかと思われるほどです。だから教会では他の信徒への気配りは無用です。牧師だけには敬意を表して説教に傾聴するも、他の信徒にまでいちいち気を遣う必要はありません。それをやると職場などと同様のストレスを抱え込むことになり意味が無いのです。礼拝を守ることによって対神関係の恵みは持続されるのです。牧師の説教さえもひどい教会がありますので、そうなると他の教会へ移る必要があります。あと、暗い顔したおじさんがリードボーカルで何曲もワーシップソングをすまして歌い続けるような教会も御免です。自分の方が、巡る巡るよ、教会をめぐる~♫ と歌ってパスします。

精神科医の大野裕先生は、「こころの力を高めるためには、自分のなかに、『もう一歩引いたところから見ている自分』を育てることが大切だ」と書いておられますが(『こころの自然治癒力講談社 p183)、私見ではそれって対人関係だけを前提とする以上、極めて難しいと思います。やはり対神関係を前提としてこそ、「一歩引いて見ている自分」をしっかりと育てることが出来て、打たれ強い自分を生きることができるのだと思うのです。

聖書的精神療法においては、「神」は(イメージとしてはおのずと人格化されて表現されますが…)余りに擬人化されたり実体的な存在として観ることなく、あくまで「はたらき」として解することが重要です。

聖書において「神は愛」である前に「神は霊」です。聖霊が贖罪主の救いを信じさせ、神の愛を人々の心に注ぐはたらきであり、父神が創造主・存在の本源として贖罪主を立て、聖霊を送るはたらきであり、子神が贖罪主として救いを起こすはたらきです。これを私の「三位一体」理解として、「三働一救」(さんどういっきゅう)と言います。贖罪主(子神)なしでも人間精神の救済はあり得そうですが、「ケノーシス」という理想的目標が掲げられるためには御子キリストの実践が必要でした。そういうことで聖書は創造神と聖霊だけではなく贖罪救済主も書いていますので省略はできません。ただし私は聖書において聖霊の送り手は父神だけと解し、所謂「フィリオクェ」(子からも)は否定する正教説に立ちます。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

(付記)

日本公認心理師協会の会長である信田さよ子さんは、もう1つの公認心理師の別団体である日本公認心理師の会は、認知行動療法(CBT)を標榜する人たちの会であると言っておられ、その認知行動療法についてはDSMⅢ(とは、アメリカ精神医学会の診断マニュアルである、Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders=「精神障害の診断と統計マニュアル」の第3版のことであり、1980年には、「PTSD心的外傷後ストレス障害)」という診断名が採用された⦅~和田秀樹著『比べてわかる!フロイトアドラーの心理学』青春出版社p124⦆。)の賜物であり、認知と行動を変えることによって人間を変えてゆく、うつもこれでやってゆく…アメリカやイギリスの国家公認であり、それは測定可能な結果が出るからで、エビデンスがはっきり出るので、認知行動療法は国にとって非常に都合の良い方法で刑務所の性犯罪者処遇プログラムやカナダのDV加害者更生プログラムは認知行動療法で自分もやっているがそれなりにいいが、やはり因果…文脈性、歴史性、物語性は捨てがたいものがあり、CBTだけでは不十分だと思う…といったことを述べておられます。 ちなみに、DSMというのは精神疾患の診断・統計マニュアルであり、そのⅢというのは、要するに精神分析のように原因を問うということをせず、今の症状を薬物治療によってなくすということで精神科医でなされているということでした。原因を問うと、精神科医にとっては面倒で時間がかかり、クリニックなどはやってゆけなくなるとのことです。今の精神科医の面談が10分以下と短いのはそういう理由によるとのことです。自分なりの聴き方、まとめ方で誤解があるかも知れませんので、気になる方は本編でご確認ください。

Air Revolution』(エアレボ)信田さよ子氏出演!『家族、暴力、国家』(2024年3月24日放送前半無料パート) 

https://www.youtube.com/watch?v=YyeVcOxbeN0 (※25:00~26:12)

 

 

 

聖霊のはたらきと創造的空、心理療法と自虐的信仰、メンタルヘルスにおけるセロトニン活性化、対人関係だけの臨床心理学の限界…対神関係を前提としたスピリチュアル認知行動療法

「かくして、私の愛する者たちよ、あなたがたがいつも従順であったように、私が〔あなたがたのところに〕いる時のみでなく、むしろいない今は、よりいっそう〔従順になり〕、恐れとおののきとをもって、己自身の救いを獲得しなさい。というのも、〔自らの〕意にかなったことがらのために、あなたがたのうちにあって〔あなたがたに〕働ききかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方は、まさに神だからである。」(フィリピ人への手紙2:12~13 岩波書店版〔青野太潮〕訳)

メンタルヘルスの諸問題の解決・解消策としては、心理療法よりも聖霊のはたらきを受けることが有効である…というのが私の結論ですが、それにしたって心理療法の学習が無用だということではなく、それは聖書神学的学習と同様、自分自身の内なる聖霊のはたらきを省察し自覚化するうえで有効な面があります。ただ、学問知識などは聖書的救済の必要・十分条件ではないということは確かです。人は脳を中心に生きているにせよ脳だけで生きているわけではなく、救いは脳だけの救い…理知的充足だけではなく、理知を超えて包むいのちの充足…全人的救いを求めています。そしてそのいのちの充足・全人的救いを受けるためには聖霊のはたらきを受けるということのみが不可欠なことなのです。但し、それは誰にでも起こることではありません。心理療法でさえ誰にでも有効であるとは言えないでしょう。そこにはおのずと限定があり選びがあります。人は自己限定されているからこそ自分を知り、生きることができるのです。

上記の聖句の13節の方八木誠一氏の思想においてはそこで言われてる「はたらき」が「パウロ神学の中心」とも言われて(『創造的空への道』ぷねうま舎 p67)重要視されています(前掲書 p2、『はたらく神の神学』岩波書店 p4参照)。私にとって「働ききかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方」は聖霊なる神であり、キリスト教の三位一体の第3位格という規定を超えて(…そもそも「神は霊である」ヨハネ福音書4:24)、「人格-非人格」とか「対象-非対象」といった二項分別対立をも超えた唯一の「神」です。私自身にとっての救いは、この「神」のはたらきがあればそれで実現するのです。聖霊による救いこそ、わが人生において最優先の課題です。私にとっては御霊の他には御父も御子も不要です。聖霊は神の霊であり、その場合の神とは御父を意味するので御父(エホバ)の存在は暗黙の前提とはなりますが、創造主ということ以外には敢えて御父についてどうこう語る必要はありません。形而上学的思弁に陥るだけで時間の無駄です。ましてや御子であるイエス・キリストに関する考察などは無用です。復活などは、高尾利数氏が「共同幻想」だと述べておられるように(『キリスト教を知る事典』東京堂出版 p39、『聖書を読み直すⅡ』春秋社 p37~38)私も客観的事実(史実)とは異なる次元の、せいぜい共同主観的事実とでも言えることだと思います。

「イエスが死人の中から甦ったというようなことは、時空内の史実的現実としては、生起しえようはずもない。われわれの認識は有限であるとか、われわれが理解できない事象も生起しうるからという一般論を盾に、イエスの復活の時空内的現実性を最初から排除した世界観を持つことは、近代の合理主義的独断である、などということは――たとえその場合、『新しい歴史的理性』とか『死と罪責と虚無を突き破る<新しいもの>の希望の秘義的しるし』とか『神の<充満 プレーローマ >を指示する奥義』とか『史実ではない真実』とか、さまざまな神学的思弁が伴われようと――とどのつまり、護教論的意図に発した一種の循環論法であり、深いところで『不誠実』を宿し、『知性の犠牲』を強いる『無理』ではなかろうか。絶対化された観念としての『イエスの復活』に依拠した伝統的・正統的キリスト教は、そもそもそうした『無理』の上にうち立てられた巨大な観念の神殿なのであった。」(『聖書を読み直すⅡ』p38~39)

「我々が歴史的に確認できるのは、イエスの十字架を境にして、その前に師を見捨てた弟子たちが、その後に彼をキリストと信じ、宣教を開始したという事実だけである。彼らの振舞にこのような転換が起った原因としてあげうるのは、彼らが復活のイエスの顕現体験を持ったということのみであって、イエスの復活と顕現そのものの史実性を問うことは無意味である。当然のことながら、我々が歴史的『事実』と言うとき、それはだれに対しても実証される一つの事態、だれもが追認できる一つの事態のことである。しかし、この意味で復活は、はっきり言って『事実』ではありえない。もし復活が、この世の原因と結果の連鎖の中にはめ込まれる事態であると言うのであれば、それはむしろ復活という事柄の本質に反するであろう。」(荒井献著『イエス・キリスト 上』講談社学術文庫 p33~34)

それにしても荒井氏が引用しておられる佐竹明氏の「復活信仰」解釈もあまりにセンチメンタルで非現実的な観を否めません。とにかくキリスト教では、高尾氏の言う「無理」を自覚せず、教会の説教などではイエスの復活を史実として語ります。実にナンセンスの極みです。

「初代キリスト者は、『神がイエスとして現れた』事実を客観的に観察・認識したのではない。彼らはまずは、『十字架につけられて死に・復活したイエス』に『神のはたらき』を見たのである。(中略)だから最古の福音書である『マルコ福音書』は『悪霊に勝利したイエス』を『神の子』として描いたのである(神の聖者とは神を宿す人間のこと―― 一章24節。さらに五章7節等参照)。」(八木氏前掲書p66~67)

キリスト教徒は、聖霊のはたらきを受けているなら必ず主イエス・キリスト信仰告白へと導かれるのであって、そうなっていないのは君のうちにはたらいているものは聖霊ではなく悪霊だからであろう…などと非難するのがキリスト教というものの実態です。

「現代人はもはや、教会教義を客観的事実の告知として受け取ることはできなくなっている。(中略)教会教義を客観的事実の記述として宣教するのは元来不可能であったのだ。それは新約聖書を正確に読めばすぐわかることである。そうであればこそ、本書は教義の根底にある『経験、むしろ経験を成り立たせるはたらき』に到達する道を探っているのである。(中略)ニーチェは、上記のように、『理性より深い』生の自覚に立って、後期ギリシャ以来、『生を知に還元してきた』自我、要するに近代主義を批判したのだが、彼の『生の自覚』は宗教性には届いていなかったので、力の肯定、強者の礼賛に傾いたのはまことに残念なことであった。(中略)バルト神学は、『イエス・キリストの出来事』を客観的事実として、この出来事の内容と、それが人間にとって意味するところとを述べたもので、伝統的プロテスタント神学を詳しくかつ正確に語ったものだ。しかし、それだけに現代の批判的新約聖書学の成果を汲みきれないものとなっている。またバルト神学には、やはり信仰的生を知(教義学)に解消する傾向が強い。(中略)現代人は、客観的事実だけが真実ではないことを、客観的認識の偏重は、『こころの文化』つまり自覚によって成り立つ人間性を無視し破壊することを、銘記すべきなのである。」(八木氏前掲書p71~80)

それなら、八木氏の思想において「神」とは何か?と言えば、「神とは『場のはたらき、その実現・伝達者』と区別される『場そのもの』を指す。それは世界と人間、存在者の一切が、そのなかにある、無限で究極の場だということになる。それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は『空』であり、しかし虚無ではない『創造的空』である。(中略)『神』とは、生と死、存在と非存在、生成と衰滅を超えて包む根源である。」(八木氏前掲書 p94)ということであり、注目すべきは、「『無意味に耐える強さ』は『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。」(八木氏前掲書  p97)ということ。八木氏によれば、「新約聖書では、統合作用の場そのものは神、統合作用はキリスト、場所において統合を実現させるはたらきは聖霊と呼ばれている(新約聖書には明言されていないが、実質上、三位一体論がある)。」(八木氏前掲書 p150)とのことで、「世界と人間に及ぶ統合作用の場とは、伝統的な神学用語でいえば、『聖霊に満たされた空間』、遍在する聖霊のはたらきの場である。そして聖霊とは、場の統合作用を『場所』において実現するはたらきのことである。これは実は、力を失って潜在していた統合作用が現実化されて主体となることである。」(八木氏前掲書 p150)

一方、上村静氏は『キリスト教自己批判 明日の福音のために』(新教出版社)において次のように述べておられます。

「聖書は神話である。これには2つの面がある。ひとつは、聖書は神が『歴史』に介入する物語となっているということである。聖書各文書の著者たちは古代人であり、神話論的世界観を前提としている。聖書は神が地上の出来事に直接間接にかかわるお話であるから、それは『神話』という言葉がそのまま当てはまる。もうひとつは、それが『聖書』とされているということにかかわる。異なる時代・場所に生きた複数の人間の書いた書物の寄せ集めを『神の言葉』とし、それを共同体の紐帯とするために、『聖なる書物』という『神話』が作られた。これは『安全神話』というのと同じように、根拠なく多くの人がそのように信じさせられている作り話という意味での『神話』である。この二面は表裏一体の関係にある。前者なしに後者はないが、後者なしに前者は伝達されない。(中略)『聖なる書物』であるとは、そこに書かれていることが『神の言葉』であるという主張である。『神の言葉』であるならば、それは唯一絶対の真理であるということにされ、それゆえに規範性・拘束性が与えられる。(中略)『言葉』は必ずしも一義的ではない。つまり、多様な解釈の可能性がある。ここに『聖書』なるものの矛盾がはらまれている。(中略)特定の解釈を絶対化したいという欲求が生じ、『権威』が求められるようになる。ひとたび『権威』が容認されると、今度は『聖書』がその権威を絶対化するようになる。こうして『神』の名のもとに『権威』に逆らう者への暴力が正当化される。(中略)神話は史実の報告ではない。けれど、だからといって荒唐無稽なおとぎ話として切り棄ててしまえばよいというものでもない。(中略)*19世紀のヨーロッパで近代神話学が成立するが、聖書はその対象とはされなかった。(新約)聖書をはじめて『神話』として認識し、その『非神話化』を提唱したのはブルトマンであった(ブルトマン「新約聖書と神話論」1941年)。(中略)現代人は、すべては自然法則のもとにあるとする合理的・科学的世界観をもっている。『神の死』が語られる由縁である。聖書は古代人の世界観のなかから生み出されたものなのだから、聖書を史実の報告とする『神話』はもはや現代人には無意味なだけでなく有害である。(中略)聖書は史実の報告ではないが、神話であるがゆえにこそ人間存在についての洞察を内包している可能性がある。神話論的表象によって表現された古代人の現実理解・洞察を現代人に理解できるものへと抽象化することを『非神話化』、その抽象化された現実理解・使信を現代に向けて語り直すことを『再神話化』と呼ぼう。再神話化は、聖書は神話であるという単純な事実を認め、その神話に内包されている洞察を現代人にも理解可能なものにする試みである。(中略)牧師が礼拝のなかで行っている『説教』とは、聖書テキストを解釈し、それを現代の聴衆に理解できるように語り直しているのだから、それは『再神話化』なのである。語り直しなのだから、『神』や『キリスト』などという『神話』的表現をそのまま使わずに、他の表現に置き換えることは可能だし、その方が『信仰』と呼ばれている事柄の内実を多くの人によりわかりやすく提示できるはずである。(中略)『神』の実在はもはや信じられないが、『神』という表象がかつて担っていたリアリティを再生させることはなお可能であると思われる。」(p10~16)

「聖書と歴史には複合的な関係がある。聖書の多くは『歴史物語』であり(モーセ五書申命記史書福音書使徒行伝)、それは『物語られている歴史』と呼ぶことができる。しかしながら、この『物語られている歴史』には著者・編纂者がいるのであり、彼らは自分の生きている時代という『歴史』の制約を受けている。つまり、『物語られている歴史』はそれを『物語る者の歴史』と不可分の関係にある。さらに、聖書は読まれることを期待しているのだが、読者の側も自分の生きている時代という『歴史』の制約のなかで聖書を解釈する。すなわち、読解という作業には『読者の歴史』がかかわっている。このように、聖書解釈には以上の3つの『歴史』にかかわる視点が交錯している。(中略)『歴史』とは、過去の出来事を羅列する『年代記』(年表)ではなく、出来事と出来事の相互連関を叙述する『物語』である。それには『歴史家』による出来事の取捨選択と関連づけがともなう。すなわち、『歴史』とは歴史家にとっての『意味』の探求の結果なのである(historyの語源であるギリシャ語のhistoreinは『探求する』の意)。(中略)『歴史』は歴史家によって意味づけられた『物語』なのである(historyとstoryはどちらもギリシャ語のhistoriaに由来する)。」(p18~19)

・・・「『神』という表象がかつて担っていたリアリティ」ということですが、私見ではいずれにせよ人格的なイメージは避けられないと思います。仮に八木氏のようにこれを統合体形成へのはたらきだと言うにしても、そのはたらきは物理的作用というだけのことでは、人を生かす力にはならないからです。やはり「神」という表象は人を生かす原動力、活力源として観てこそ現代社会の生活においてもリアリティーなり普遍的意義なりを得られると思うし、人を生かすものは人格的なものなので、それは擬人的になってはいけないので微妙なところではあるが、人格的としか言いようのないものは必然的に生じてきます。「非神話化」から「再神話化」へ…ということに関して思うことは、まずイエスの復活という出来事を未熟な信仰では歴史的事実と混同して受けとめていますが、そのままでは現代人としては高尾利数氏の言う意味での無理を生じることになるので、そこから「非神話化」がなされて、イエスの復活は「キリスト神話」の中心として、歴史的事実と区別される段階へ進まなければなりません。しかしそのままでは「信仰」は成立しません。宗教の信仰は神話と歴史とを区別しつつも、両者を不可分(・不可同・不可逆)として受けとめ直す必要があります。そこでは「復活」とは単に「死人のうちよりよみがえ」ることでは済まなくなります。その神話的世界観における古代人信者による信仰の告白が、科学的世界観における現代人信者にとってはどういうリアリティーたり得るのか?ということです。実存論的には、やはり活力が自分の内に生じるということではないのでしょうか?パウロという人物の場合には、コリント二12:7以下の体験…すなわち主・キリストが「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである」と言われたということ、それでパウロはその「力」…「キリストの力」が自分のうえに宿るために「むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう」と言うわけです。その「もろもろの弱さ」に加えて「侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まり」が挙げられていますが、これは「もろもろの弱さ」とは別のことと言うより、その具体例として受けとめてもよいと思います。ここで特に現代の読者にも通じるのは「迫害」以外の3つであり、まさにメンタルヘルス的な意味の「危機」にもつながる深刻さが感じられます。臨床的には精神療法による治療を要する場合もあることです。しかし聖書ではまずもって「キリストの力」が、社会生活における精神的・人格的危機を回避するために必要だと教えているように思われます。薬物療法をはじめとするいろんな治療法を試すことも必要ですが、それだけではなく霊的治療とでも言いますか、人は心と体だけではなく霊によっても出来ていると聖書は教えているので、その人の霊にはたらきかける内住の聖霊から力を受けなければ、全人的救いにはならないというわけです。ここで重要なことは「私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだ」という逆理的な自覚です。これこそ時代や民族を超えて普遍性あるケリュグマの核であり、キリスト教という宗教のいのちではないでしょうか?キリストの復活という神話がこうして現代人にも通用するリアリティーとして文字通りよみがえるためには、その「力」のはたらきが生きる力・活力として体験されなければならないのです。その体験させる神こそが神の霊・聖霊なのです。だから聖霊は歴史と神話とを貫いています。父と子と聖霊の三位格のうち、聖霊のみがそのはたらきを…キリストの復活の力を体験せしめるものとして現実的なのです。神とキリストは神話の中ですが、聖霊だけは神話から現実へ入っているからです。聖霊だけは冒瀆してはならないということの主旨はそこにあるのかも知れません。聖霊によってキリストの復活の力を自分の中に宿らせて頂き、そうを月ごとに更新させられるのが聖餐の意味だとも言えるわけでせう。とにかく実生活で自分が対人関係その他による苦悩の中で、自分の「弱さ」を痛感させられる時にこそ聖霊によって生きる力が与えられるという「再神話化」が実生活において自分の復活信仰を成り立たせるわけです。

三位一体」論については、八木氏は上記のように伝統的な定義とは違う内容で解釈し、定式は継承しておられますが、高尾氏によれば「こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」(高尾氏前掲書 p212)ということになります。

哀しいかな私は、好むと好まざるとにかかわらず、そんなキリスト教という宗教を否定的にではあれ媒介しないことには、自分にとっての救いを見い出して体験することができません。なぜなら、聖霊なる神の存在自体、聖書を教典としてそこから聖霊について説き起こすキリスト教説なくして聖霊体験を省察し自覚するに至ることはなかったからです。イエスの復活ということも私にとってはどうでもよいことですが聖書に書かれていることに違いはなく、結果的にはその聖書に書かれているイエスの復活という出来事を中心とするキリスト神話がなければキリスト教信仰が成立していないわけで、キリスト教信仰が成立していなければそれを媒介して私自身に及んでいる聖霊体験の救いということもないわけなので、私にとっての聖書的・キリスト教的救済は、批判され否定されることにおいてのみ真実性を現し得る逆理的現実ということになるわけで、私の精神面では自虐的信仰ということになるわけです。私見では八木誠一氏などの神学および宗教哲学の思想もキリスト教を否定的に媒介して成立しているものです。自分はその八木氏の思想の学徒になることでよしとしないのは、やはりそれは宗教ではなく学説だからです。自分にとって最優先課題としての「救い」は、学説を信奉することではなく、やはり神話であれ何であれ聖書というものの権威に身をゆだねて教会という信仰共同体に加わることなくしては無いからです。それは「知性の犠牲」(高尾氏前掲書 p195、『聖書を読み直すⅡ』春秋選書 p39)とはなりません。なぜなら知性とか理性より深い生の自覚に立つことを自覚するからです。仮に「知性の犠牲」というような自己抑圧的な状態であるとしても、そもそも私は高尾氏のような高度な知性など持ち合わせていないから、客観的事実としては「犠牲」と言えるほどの大げさなことではなく、その点ではキリスト教がその初期に無きに等しい愚人の宗教としてスタートしたこともわかる気がします。しかし主観的事実・自覚としては自虐的信仰と言わざるを得ません。でも聖霊のはたらきを体験するという救いを第一とする以上、自虐と言いつつも開き直って信仰生活してゆくのみです。たとい醜態を晒し侮辱を受けても惰性的でもよいから足しげく教会には通うべきです。自分が言う、聖霊のはたらきを体験するという救いとは、なにか神秘的な特殊な体験をすることではなく、ただ理屈ぬきに生きていること、生かされていることの歓びを感じることであり、ちょっとした脱日常的意識になれるということです。それって、自分が散歩の延長で運動のため登っている近くの低山の中で深呼吸するようなことかなと思います。そのためには、とにかく余生の生活の軸として、まともな献金はできないし交わりもしないということで会員にはなれないけど恥を晒してでも教会に関わり続けるということになります。教会から離れると聖霊がはたらきかけてくれなくなるような気がして・・・それも一種の強迫神経症(=強迫性障害)的なことなのかも知れませんが…。どうせクリスチャンとして生きるうえで三位一体神観は回避できないのであれば、様態論的三位一体神観・・・イエス之御霊教会教団の、言わば、御子(キリスト)内包三位一体神観としての様態論(…スウェーデンボルクの三位一体神観と酷似している)とは違って、御父(エホバ)内包三位一体神観としての様態論(サベリウス主義)でもなく、聖霊内包三位一体神観としての様態論がよろしいかなと思います。その場合、外延の聖霊が濃くて、内包の父と子と聖霊が薄くなるイメージです。

ここまでの内容と以下の内容とは部分的に矛盾することもあろうかとは思いますが、そもそも自分が書くことは支離滅裂な観もありますので、読者諸氏は気にせずに読み過ごしてください。要は絶望せず、聖霊のはたらきによって生かされて生き得るだけ生き抜いてゆくのみ!

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

「『統合体』形成は、実は客観的世界にも見られるはたらきであり(原子、太陽系、生体など)、人間には『きよらかな、やさしいこころ、平和への願い、自分の不利になっても真実を求め語る誠実さ』等として現れる。つまり客観面にも、人間の主体面にも、事実として確認可能なはたらきである。とすれば両者の共通の根源があるはずだ。ただし、それを客観的に見る場合と、主体的に自覚する場合とでは、語り方は同じではない。それは客観的には脳細胞のはたらきとして観察されることが、主体的にはこころのはたらきとして自覚されるのと類比的である。一方が他方を生むのではない。両者を同時に見ることはできないが、両者の関係は因果ではなく、変換というべきである。本書では当然ながら、『主体の自覚』の道をゆく。具体的には瞑想のなかで統合心を掘り下げるのである。すると統合心の奥に、『創造的空』があり、これが統合心をつくり出すことがわかってくる。とすれば、そこからいえることがある。すなわち個々の人間のこころの奥底にある『創造的空』は、世界に見られる統合作用と、その奥底にある『創造的空』を映すということである。直接見ることはできないが、これは知に伴われた『信』である。」(『創造的空への道』p3)。

ところで、人は心と体だけではなく霊によってもできています。だから人を全体的に救うものは臨床心理学でも精神医学でもありません。もちろん宗教学や神学でもない!学…ロゴスではないのです。ロゴス・キリストでもないのです!理論、理屈ではない、体験です!聖霊による体験あるのみ!その体験知が、ドン底まで堕ちた人間を救うのです。どうやって?…それは、それは聖霊が苦悩する本人の心に直接はたらきかけて、生きる希望と生き続ける力を与えてくれるのです。神の霊だから…。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ書5:5)「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」(ローマ15:13)

「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」(テモテ第二1:14)

一般的には、心理学者は人の苦悩…精神的地獄状態の原因を指摘することができます。そしてその原因を除去するにはどうすればよいかという課題をも指摘できます。ところが、その課題は凡人には極めて困難な場合が多く、いかにしたらその課題をクリアーできるか?という実際の答えはなかなか示すことができません。それは個人差があるということもあるでしょう。聖書も人の苦悩…霊的な地獄状態の原因を指摘することができます。そしてその原因を除去するにはどうすればよいかという課題をも指摘できます。ところが、その課題は凡人には極めて困難な場合が多く、いかにしたらその課題をクリアーできるか?という実際の答えは示されていません。それもまた個人差があるということもあるでしょう。

すなわち霊的な救いはイエス・キリストの十字架刑死による贖罪を信じることによると言われても、それを信じるためには自分の頭で理解して納得するというやり方ではなかなかうまくゆきません。結局、聖霊の他力による以外にはありません。しかしその場合でも「盲信」のような「知性の犠牲」的なことにつながっては意味はないのです。

「信とは不可解な教義を、それでも疑いを抑えて信奉することではない。まずは客観的にも確認可能であり、主体的にも自覚可能・了解可能な『統合体形成作用』への信である。原始キリスト教的宣教の中心は、『罪に支配されるあり方から、わが内にキリストが生きるあり方』への転換、つまり罪の支配力の克服である」(八木誠一著『創造的空への道』p2)

「創造的空」は「神」、「内なるキリスト」は「聖霊」であるとも言われています(八木氏前掲書p3~4、18)。

キリスト教には「不合理ゆえに我信ず」といった言葉がありますが、たしかにこの世の合理的思考に挫折して不合理の世界に真実を求めて入信する人もいるでしょう。しかしそういう人ほど教団によって洗脳とかマインド・コントロールされやすい傾向があるかもしれません。それでは真実どころか逆に一部の人間たちの悪しき妄想を吹き込まれて人生の貴重な時間や財産を奪われる被害を受けるおそれもあります。だから合理主義を批判することはよいとしても、けっして不合理主義に陥ってはならないのです。つまり理性は常に正常に保っていなければならず、それも聖霊のはたらきによる再生の理性としてであって、聖霊のはたらきと言っても教会組織を介しての神学的自己省察における教理的に制約された聖霊のはたらきでは無効ということです。ところで以下の引用文には、キリスト教神学ならではの詭弁というかこじつけが明るみになっています。

「ヤロスラフ・ペリカンは、イエス・キリストに(新約聖書ヨハネによる福音書において)『ロゴス』という名が与えられたことは、キリスト信仰の逆説性を、信仰の非合理性を讃美するほどに重んずる傾向に歯止めをかけるはたらきを持つものであるとし、これを前提とした上で、テルトゥリアヌスによる本来の文言を紹介。テルトゥリアヌスの文言が直解主義・反知性主義といったかたちで独自に権威主義的に取り上げられることについて批判的に述べている」(~ヤロスラフ・ペリカン著、小田垣雅也訳『イエス像の二千年』⦅講談社学術文庫⦆< wikipedia「テルトゥリアヌス」)・・・ヨハネ福音書においてロゴス・キリスト神話が物語られているからといって、それが「キリスト信仰の逆説性を、信仰の非合理性を讃美するほどに重んずる傾向に歯止めをかけるはたらきを持つものである」だなんて、とんでもないこじつけです。イエス・キリストがなんと呼ばれようとも、聖書の神話…特にキリスト神話は不合理であり非合理です。就中、復活という出来事はまったくもって不合理で非合理で反合理です。パラドックス(paradox)すなわち、逆説とか背理とか逆理と訳されることとは違います。キリスト神話においてパラドックスと言えることは、神の子がケノーシスを徹底して十字架刑死という悲惨の極みまで自己無化することを通してこそ(否定媒介)父なる神の絶対有たること、その偉大さを示し得た…ということであり、復活および主としての栄化・神格化はその逆説性を妨げる不合理性でありこそすれ、けっして理に合うような神話では無く(背理・逆理も理である以上は無理ではない!)、もはや不合理・非合理を無理に正当化することにほかなりません。だから自分はキリストの復活がその信仰如何でキリスト教の立ちもし倒れもするような事柄であるとしたら、キリスト教という宗教自体が不合理・非合理であって信仰は無理な宗教であると思います。すくなくとも私としては、使徒信条の「聖なる公同の教会を信ず」の文言によって教会組織を神聖化したり絶対化するようなことがあってはならないし、その「聖なる公同の教会」を信の対象とすることが教会の信条・教義を金科玉条の如く奉じることにつながってはならないと思います。自分自身の理性に合わない物事は受け入れる必要はありません。この世にあるキリスト教会はしょせん人間集団として相対的なものであり、掲げられている信条・教義の類もけっして万人が無批判に認めるべき普遍的真理などではあり得ません。そもそもその信条・教義の由来である聖書自体、神の言葉とは言え人間を通して語られている以上制約があり、決して無批判に文字通りのまま真実として認めるべきものではないのですから…。聖霊のはたらきということも含めて聖書の言葉は批判的営みにおいてこそ、その真実味が発現するのです。逆に言えば、私の場合、キリスト教徒として生きるということは最高度に自虐的なことでもあります。なんと言っても(同一・同等の)三位一体神論などという余りに非聖書的な教義を信奉する宗教の徒になることなのですから、自虐的な心理にでもならないことには自分がキリスト教徒である意義は皆無です。そして自分が自虐的心理になってでもキリスト教徒たる必要性とか必然性があるとすれば、それは自分にとってキリスト教的救済が何よりも有意義であり必要であるという一事以外にはあり得ません。理性も知性もすべて犠牲にしてまで求めるものが聖書の示す救いないしはキリスト教的救済であるが故に自分は自虐という名の自己無化をイエスのケノーシスに倣ってかどうかはわかりませんが為してゆく過程においてこそキリスト教徒であり得るわけです。そしてそのことが、私の言うところの聖霊他力の信仰…すなわち聖霊という「神」そのもののはたらきが個別の対神関係において完全に自由自在であり無制約であるゆえに、たとえキリスト教会の伝統的信条や教義とは合わないことであってもそれが聖書が示す神の霊によるはたらきとして感じるのであれば、そこに自分のすべてを信頼して救われるべく、再生の理性的境地に至るということと矛盾するとしても、それはそれとして…やるしか生きる道は無いのです。言わば、私にとってキリスト教信仰という最高度に不合理・非合理・反合理という無理な営みをして背理・逆理という有理な営みへと昇格せしめ得る唯一の手段が「自虐的信仰」という一事にほかなりません。これは私が批判してやまない量義治氏の『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)に説かれている思考停止的思考を地で行くことに他なりません。この本では、「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べられています。

<……イエスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち人は個別的限界状況に置かれたなら、知的欲求よりも救済願望の方が優るというわけです。たしかに背に腹はかえられんということで、苦しい時の神頼み、ワラにもすがる思い、イワシの頭も信心から…とかなんとか云われますが、とにかく量氏のこのような考え方は、座右の銘に出る類の四字熟語で言えば「捨小就大」と同じことです。救済という大目的を実現するためなら、イエスの復活神話を史実とみなすような、あるいは学者の中にも聖書的根拠を否定する「三位一体」などというキリスト教教義を受け入れるという、積極的意味での「知性の犠牲」のロジックです。救われたいからといってキリスト教のドグマを盲信することにほかなりません。まさに「恥を知れ!」と自分に対して言いたいほど、最低の人間の考えだと私は思います。いいえ一般論で言っているわけではありません。他人は他人、私は私であり、自分がクリスチャンであることは最高なんだと思う人はそれでけっこう、私の知ったことではありません。私が最低の人間だというのはクリスチャン一般に対して批評的に言っているのではなく、あくまで自分自身に対してそう言っているのです。自分の中では、クリスチャンになるということは教会ドグマの盲信なしにはあり得ないことなので、それが最低の人間に身を落とすことを意味するのです。そんなことを受け容れるということは本当に人として恥ずかしく情けないことであり、自ら宗教教義を盲信するということは人間として最低のことだと思うわけです。でもその最低のことをする最低の人間…非人的境涯にまで身を貶めてさえ必要とする救いがあり、その救いによって生き続けようとするいのちがあるわけです。そのいのちこそ世に無きに等しき者が多かったと云われる(コリント第一2:26~28)原始キリスト者の歴史に立つ人格です。それもこれも私の余生における優先順位の第1が聖書およびキリスト教的救済であることによるものです。ドン底まで身を落として最低の人間になってこそイエスのケノーシスが共感されてくるという逆説的福音の救済信仰、

「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。」(コリント第一1:18)

イエス・キリストの福音…復活の出来事を中心とするキリスト神話は、結果的に救われる者にとってはどうであれ、救いを求める私にとってはそれこそ「愚」の骨頂なのです。そんなキリスト神話を「盲信」して、自ら最低の人間にまで身を落として思考停止してまで得たい救い…それこそが「神の力」…聖霊のはたらきにほかなりません。そのはたらきによって極楽天国に行けることが救いなのではないのです。ただ生きる力・活力が自分の体内に湧き起こることが救いなのです。活力源は脳内物質のセロトニンです。セロトニンの脳内作用を活性化させて精神を安定させてくれるのが聖霊のはたらきなのです。精神が安定し、理性が機能しているうちは人間でいられるからです。それって私がキリスト教的家庭環境に生まれ育ったことと無関係ではあり得ないでせう。救済と言っても単なる気休め的なものではなく、聖書が示す霊と魂(心)と体の全人的聖化ないしは救済です(テサロニケ第一5:23)。

(参考まで)シーズンⅡ, Chapter22. 全人的な救いとはl 癒やしの祈り l カングレイスl 祈りの学校 (youtube.com)

そしてその宗教的実存は観念的な傾向の個人主義的信仰にとどまらず(…それも救いにはなり得るのだが…)、個人を媒介して社会ないしは世界人類へと開かれてゆくこともあり得るのです。(関係ないけど「宗教的実存」と言えばキルケゴールです。彼の観念性、保守性については⇒) キルケゴールは観念論者か キェルケゴールにおける教会批判の射程

 

 

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+:

「私は知った。神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。」(共同訳 コヘレト3:14)

「神の前に言葉を注ぎ出そうと焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。言葉を控えよ。」(同上 5:1)

「見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。」(同上 5:17)

「人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって応えてくれる。」(同上 5:19)

「幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように神は両者を造られたのだ、と。」(同上 7:14 )

「ただし、見よ、これを私は見いだした。神は人間をまっすぐに造ったのに人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。」(同上 7:29)

百度も悪を重ねながら生き長らえる罪人がいる。しかし、私は知っている神を畏れる人々には神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には神を畏れることがないゆえに幸せはない。その人生は影のようで、生き長らえることがない。」(同上 8:12~13)

「愛する妻と共に人生を見つめよ空である人生のすべての日々を。それは、太陽の下、空であるすべての日々に神があなたに与えたものである。それは、太陽の下でなされる労苦によってあなたが人生で受ける分である。」(同上9:9)

youtuber精神科医の樺沢紫苑氏は、しおんという名前からして生い立ちがユダヤキリスト教的環境と関係があるのではないかと推察しますが、聖書を読むという話も聞いたし、イスラエルの歴史にも詳しいようだし、動画のロケ先がマサダだったこともあり、当たりかなあと勝手に思っています。実際は確認していないのでわかりません。

さて、その樺沢氏が「許せない相手を忘れる方法」と題しての質問に対する回答では、なんと相手を「許す」ということを言っておられます。【まとめ】許せない相手を忘れる方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

これはもう心理療法のレベルの話ではなく、言わば宗教的境地の話です。だって「許せない相手を忘れる方法」ですよ!結果的に「許せる」相手なら、「許せない相手」だと思っていた自分が思い違いしていたことになります。しかし実際はなかなかそうはいかないものです。自分が相手を「許せない」と思っているその思いは決定的だからです。だからこそ怒りの感情に身心が支配されて苦しいのです。そこから脱却するために「許す」ということまではできない人が多いと思います。だから、せいぜいできることは、もうこれ以上「憎まない」ということ、それなら何とか可能ではないでしょうか?

怨憎会苦は人生のうちに多くの人が経験することでしょう。職場などいろんな生活の場で会って一定期間を同じ環境で共に過ごす相手を怨んだり憎んだりしないようにすること、それは自分がこれ以上、苦しまないために「憎まない」のですから、自分自身のためなのですから、「許す」ことと比べれば、なんとかやれると思います。だって「許す」ということになると、なんか相手に降参したような、自分を苦しめた相手の方がやったもんがちで得するのを認めるような、そんな自己犠牲的なマイナス感情を伴います。だからさすがにそれは凡人には無理であり、宗教的回心体験でもしないことには心身にかなりのストレスとなります。だけど、もうこれ以上思い出したくもないから相手を「怨まない、憎まない」ということであれば、かなりラクになれるはずです。

結局、心理療法も限界があり、宗教的境地に入ることを促すようなことにもなり得るのでしょう。それが私の言う、対人関係はいくら心理学だ、精神医学だ…などと言ったところで所詮、対人関係の中で解決しようとする限り行き詰まるのであり、対人関係の問題は最終的・究極的には対神関係によってこそ解決される…ということです。だから、心理療法はどんな方法でも神信仰を前提とするかしないかで、その有効性はまったく違ってくると思われるのです。ちなみにキリスト教の「主の祈り」では、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとくわれらの罪をも赦したまへ」と一見さらっと言われていますが、「われらに罪を犯す者」を赦すとか許すということは、煩悩をかかえる衆生にはとても自力ではなし得ません。そこで聖霊による他力のはたらきが必要になるのです。キリストが私の罪を御自分の命を犠牲にして赦して下さったのだから、私も私に罪を犯す者を赦さなければならないのだ…といった理屈によって怨憎の相手を赦す・許すことはできません。そういった理屈も損得勘定も抜きで相手を赦せる・許せる境地へと変えられる体験をするかしないかです。すべては神とかキリストとか言うより聖霊のはたらきにかかっています。三位一体というのはその存在を知るよりも働きを感じるべきことです。私は、聖霊信仰と心理療法」というタイトルで信仰治療的アプローチを追究してみたいと思っています。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*

そもそも煩悩の元凶は大脳のはたらきにあるのだから、そこをどうにかするのが一番です。しかし人間の自力による脳制御の限界はアヘン中毒に明らかです。でも医療用に正しく使うならモルヒネは不可欠。それでも効かない痛みに対して患者さんを助けるものは医療用大麻ということになるのかどうかは知りませんが、人間は脳内の作用によって苦しめられ脳内の作用によって救われもする。セロトニンにもさすがに救いには限界がある。他の脳内物質も同様。なくてならぬものであるが決定力には欠ける。麻薬など使うことは違法であるうえに中毒になるので、これまた人間の自力的脳制御としては限界がある。

ちなみに「アヘン」(opium)という名称はケシ(poppy)の乳液を意味するギリシャ語のオポス(oπos)に由来するとのこと。「アヘンケシ」(opium poppy)。「ケシ(ソムニフェルム種)は医薬品原料として、重要な薬用植物です。インドから小アジアにかけての西アジア原産とされる1年草で、高さ100~150cmになります。全体に帯白緑色を呈し、ほとんど無毛。葉は大きな長楕円形で、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いています。5~6月に直径10cmほどの大きな花を開き、花弁は通常4枚で、白色、赤色、紫色などがあります。また、ヨーロッパで品種改良されたケシの園芸品種には、花の色がより鮮やかなものや、八重咲きなど様々な品種があります。これらのケシと(2)のアツミゲシは、麻薬の原料となるモルヒネを含有しているため、日本ではあへん法により栽培等が禁止されています。

(2)アツミゲシ(セティゲルム種)Papaver setigerm ケシ科ケシ属・・・北アフリカ原産の1年草で、愛知県の渥美半島帰化して大繁殖していたことからアツミゲシの名があります。ケシによく似ていますが、全体に小さく、まばらに小剛毛があります。高さ30~80cmで、枝分かれし、葉は狭心臓形で、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いています。花弁は4枚で、基本性質は紫色花とされますが、まれに紅紫色花もあります。繁殖力が強く、空き地などに野生化していてしばしば取り締まりの対象になっています。」

アグネス・チャンのデヴュー曲で有名な「ヒナゲシ」(虞美人草)は植えてもよいそうです。

「あへん法で規制されるケシ・アツミゲシは、開花期であれば毛の状態や葉の形および葉のつき方で見分けることができます」とのこと。そして、「不正なケシは葉や茎にほとんど剛毛がない」、「不正なケシの葉には葉柄がなく、茎を抱いている」、「不正なケシの葉の切れ込みは比較的浅い」とのこと。また、「全草(特にさく果・根)にテバインを含有し、麻薬の原料植物となるハカマオニゲシは、「麻薬および向精神薬取締法」によって、栽培が禁止されています。草70~100cmになる多年草。葉は羽状に深く切れ込み、全体に白色の剛毛があります。花は大きな深紅色で、花弁は4~6枚。通常花の下部に苞葉を6枚つけ、苞葉は蕾の時からみられ、最後まで残ります」とのこと。東京都健康安全研究センター » 不正なケシの見分け方 (tokyo.lg.jp)

それはともかく、認知行動療法唯物論的立場では困難だろう。これは神信仰の立場の方が親和性があり効果も上がるのではないだろうか?なぜならモノの見方を変えるということのためには、今までの自分の考え方、モノの見方を変えるための絶対的な根拠や基準を得られないと、例えば裁判で再審請求が受理される場合って新証拠が出たりとか、よほど判決が覆る可能性があるような理由が生じる場合であるやうに、個人はそれまでの認知の歪みを糺すためにはそれ相応の理由が必要なのだ。そしてそれって絶対性を扱い得て、今まで自分が刷り込まれてきたものを反転するための言わば逆刷り込み…ある意味、自己洗脳というか、セルフのマインド・コントロールが可能な宗教的理由に如くは無しって感じを受ける。ネガティブな自動思考を断ってポジティブ思考に転換してゆくためには聖霊の力が必要。対人関係で失敗すると、しばらくして脳内で自動的に時々、グサッ、グサッと刺さる記憶が出てきます。恥ずかしい感情がメインで添付される場合もあれば、怒りの報復感情が添付され、実際に翌日とかに報復として言い返して少しすっきりすることもあります。そのグサグサ記憶が出てくるというのは自動思考ではありません。フラッシュバックというと少々大げさんなので、仮に自動再現と名付けておきます。自動思考というのは端的に言うと脳内無言の独り言だということですが、自分はそういうのはあまりなく、すぐに感情ないしは身体反応が生じます。認知にはゼロか百か白か黒かといった極端な二択思考や、小事を人生全体における大事として拡張する過度の一般化や、ネガティブなことだけに焦点をあてる選択的抽出や、他人の意図を悪い方に思い込む読心術など、4つほどのパターンがあるそうですが、自分の場合は運勢の破局視的傾向が子どもの頃からあって強迫神経症気味であるうえに(日常の些細な行為でも普通にやっていたら悪いことになるよう設定されているので、それを乱して悪いことが起きることを回避すべく、傍から見たら奇行に思われるようなこともやり、それがルーティン化することもあるが、さすがに不審者と誤解されるような行為は思いとどまることはできる)被害妄想気味なので、職場などでも何か変わったことがあると自己関連付けのクセが出るようなことで、すくなくとも二極化思考以外の3つは確実に当たっています。対人関係でなめられたことがあると、しばらくして自動再現が出てきて、あの時こう言い返せばよかったとかこれを言わなきゃよかった…といった後悔の念が脳内に広がり、今やっている行為が疎かになってしまって、気づくと日常的な単純作業をミスっていたりします。なので自動再現が生じている時は単純ミスのリスクが高くなるので、それを防止するには目の前のことに集中するということを心がけます。自動再現は、イヤな場面が脳内で出てきますが、それをやり過ごすことは可能です。再現場面が生じても意識を他のことに向ければよいのです。しかしそれはまさに対処療法の一時しのぎであって、すぐにまた再現されてしまいます。意識対象の記憶のフィルムは円環なので、焦点が当てられているコマをスルーして別のコマに廻してもすぐに前のコマに廻ってくるのです。そういう状態から逃れるためには長時間連続で我を忘れるほどに何かに集中(熱中)するか、睡眠等で意識を失うかしないと無理でせう。酒や薬で意識を変えようとするのは安易な方法で、中途半端だと却って怒りなど不快な感情が高まり睡眠に支障をきたし、さらには依存になるのでよくないから、健康的な方法としてはまずもって運動です。毎朝、散歩することから始めます。日光浴を伴うとセロトニンの分泌が促進されメンタルヘルスに良いと云われるので、そう思って自己暗示をかけると少しは精神安定に役立つでしょう。実際は大した変化は感じませんが…笑 日光欲、リズム運動、咀嚼の他、トリプトファンをたくさん含むバナナを食べることもセロトニン活性化に役立つらしい。

セロトニンを出す方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

  朝散歩以外でセロトニンを活性化する方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com) 

ところで、youtubeの樺沢紫苑チャンネルで和田秀樹氏が出た時に和田氏がご自身の娘さんが経験したエピソードを通して、いじめられっ子が自分のパフォーマンスを発揮できる世界を探すということに関して重要な指摘をなさっています(34:15~35:41/1:47:39)。精神科医・和田秀樹/樺沢紫苑対談 【2021.4.28】YouTubeライブ!【樺チャンネル】

「自分のパフォーマンスが発揮できる場所を探さないと、今いる場所がすべてって人間てつい思いがちで、よくいじめ自殺とかっていわれる人たちも、なんで逃げないのとか、なんで学校休まないのと言われるんだけど、そこしか世界知らないと逃げようがない(全世界になってしまいますのでね、そのひとつの世界がね)…だから数多くの世界を知らせた方がいい…」

・・・( )内は樺沢氏の発言ですが、これが重要であり、対人関係におけるストレスの苦しみというのも、その相手との関係が大げさな言い方かも知れないがその時の本人にとっては生活世界全体って感じになっていて、その相手との関係が自分にとって苦痛であっても逃れられないものになってしまっている場合があると思う。だからそうではなく、たかが学校、たかが職場の、全人生においては短い間だけの関係だし、大した意味はないものだと受けとめることが出来ない。だからそれほどまでに、言わば自分の人生において決定的なものであるかのように思い込んでしまっている対人関係の重さを軽減するためには、その対人関係をまずは観念的に相対化しなければならないわけで、そのためには絶対とみなすものが必要であり、それが「神」ということになる。「絶対=神」との関係に立ち返ることの生活上のメリットは、何よりも自分の思い込み…絶対化されている対人関係や世間的価値観(偶像)を相対化して、その束縛から解放されること。それが場合によっては自殺の防止にも役立ち得るというわけだ。

但し、即効性(速攻性)という点では自分の経験から、やっぱり少しでもいいから直接、相手に反撃することによって少しでもいいから成功体験を得て、それを積み重ねて対抗する自信をつけてゆくという方法と方向がいちばん健全であり、メンタル的に良いと確信する。もちろん和田先生の娘さんの例では実際に行動を起こして中学受験塾という具体的な場を得て、実際に自分のパフォーマンスを発揮するという行動につながり成果が出ているのだから、これは単なる観念レベルの気休めとかいうことではないが、認知療法的な方法…すなわちモノの見方を変えるとかいった主観主義的なやり方はどこか誤魔化しが感じられ、結局、相手と関わらない自分サイドだけの内向的な方法なので、どうしても現実逃避の気休め的な感じが残り、解決とか解消まで至り得ないからだ。前述の「絶対=神」信仰も観念的自慰でとどまってはダメで、和田先生の娘さんのように実際的な行動に結びつけられなければならない。それは信仰的には聖霊の力を受けるしかないわけだが、自分は基本、保守的立場なので、男はやはり直接対決で解決を目指すのが本来であるが、それは怖くて出来ないから認知レベルでの気休めのような方法を取らざるを得ないのである。言わば「信仰的認知行動療法」とでもいったことで、「認知」だけではダメで「行動」に結びつかないと実効性は得られない。心理療法的にも認知療法よりも認知行動療法の方がマシってこと。

キリスト教が弱者の宗教であるやうに心理学などは弱者の学問なり。しかし心理療法の如きは、ストレッサーに対して物理的な対応…すなわち暴力的な解決・解消を図るというリスクの高いやり方よりも正しいといった公共的・倫理的な信念によって支えられてはいる。しかし自分個人にとっては最善の方法であるとは限らない。暴力を避けられるのであれば、つまり話し合いで決着できれば、それに越したことは無いのである。しかし話し合いと言ったって感情的になりかねないし興奮すればすぐに手が出る者もいる。直接対決は話し合いだと言ったって、いつ暴力に発展するかわからないリスクがつきまとう。自分自身の場合は小心者で怪我をしたくはないので、やはり暴力につながりかねない直接的方法は用いたくはない。実際、一度、職場で相手からナイフを向けられた経験もあるからなおさら直接的な対応を避けて、心理療法に頼ろうとしているのだ。しかも認知療法的な、いちばん主観主義的で女々しく誤魔化しの気休め的なサイテー弱者のやり方に…である。

いずれにしても相手と腹を割って思っていることを言い合うことが本来の人間…特に武士道的な男子のあり方であるが、そのような正々堂々の直接的解決を志向できないほど弱体化した現代人が選択する内向的で自慰的な方法である認知療法などは、日本男児としては恥じることなしには使えないのだから、その効果もたかが知れているし、本当に女々しく恥ずかしいことだし、自己欺瞞的でさえあるということは重々、自覚しておかなければならない。心理療法それ自体が心身の弱者のためにあるようなものであって、自分は本来、弱者志向は大嫌いなので、心理療法などに世話になりたくはないのだけれど、脳の問題は現実そのものであって、けっして甘いものではない。それにしても聖霊の働きはメンタルヘルスにどのような影響を及ぼすのだろうか?そもそもメンタルヘルスの問題などは宗教で対応するほどのテーマではなく心理学的方法で対応すればよいのであり、宗教はもっと世界・人類レベルでの救済といった壮大なテーマを扱って然りだ…みたいな量義治氏の思想のような考えは私は持ちません。宗教こそ人間生活の足下の問題から対応すべきものだと思うからです。対人関係ストレスをいかに処理するか…といった問題はまさに宗教のテーマだと思います。

信仰は神の賜物であり、聖霊によって信仰心を与えられた信者にとって、メンタルヘルスの問題とはいかなることか?信者とて対神関係だけで生きているわけではなく日常生活は対人関係の中で生きているのであるから、当然ながらストレスによる苦悩もあるだろう。但し、信仰を持たない者とは何か違う。その何かとは対神関係において得られる御霊の実…「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22~23)などと言われている…要するに精神的な余裕です。ストレスに対しては、精神的回復力…レジリエンス(resilience)とでも言えるでしょう。寒い冬の朝でも早起きして日光を浴びながら歩いてセロトニン分泌を促す行動への気力も聖霊から与えられています!(^^)!

父と子と聖霊の三位一体なる神においては、どうせ祈るなら自分は、父なる神や子なる神よりも聖霊なる神に祈ります。…というのは、三つの位格とも「人格」(persona)と言われてはいるが、これはしょせん比喩であって、三つの位格の中では「聖霊」がもっとも非人格的すくなくとも非擬人的だから。祈りと言っても自分はいちいち言葉を口から声に出して言うようなことは致しません!神社の宗教でもあるまいし、聖書の宗教は御利益願いの宗教ではないのだから、いちいち願いごとするような祈りなんて意味が無い。世界の現実は創造主が聖定したままに成るべくして成るのだから…。声に出す言葉の祈りは「主の祈り」だけ。それさえも自分はあまり言わない。祈りはつねに聖霊の働きを感じながらの黙想、黙祷でよい!

ヨハネ福音書 141626節の「パラクレートス」は、「パラ」⦅そばに⦆+「クレートス」(~「カレオー」呼ぶ)=「そばに呼ばれた者」岩波版 小林稔訳では「弁護者」。

聖霊は下記のとおり「弁護者」などと言われてはいるが、はたらきとしては人格的な活動力であるとは言えるにせよ、けっして擬人化され得ない。

「〔将来、〕私が父のもとからあなたがたに派遣することになる弁護者、父のもとから出てくる真理の霊が来る時、その方が私について証しするであろう。」(ヨハネ福音書1526

聖霊の働きとして自分が最も重視しているのが理性の再生ということ(~「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ」の2022.04.23「理性の再生」)。 https://koumichristchurch.hatenablog.jp/entry/2022/04/23/114522

聖霊の働きに対して、人為的に精神(心)を制御する「マインド・コントロール」に関しては、法律との関係など、上祐氏がわかりやすく述べておられます。

【宮台真司×上祐史浩(前編)】なぜ高学歴エリートがカルトにハマるのか?現代日本の問題点と新興宗教について徹底討論 (youtube.com)

 

 

 

 

 

矢内原氏の「キリスト教入門」批判

自分は日本のキリスト教指導者の中でも思弁の巧みさという点では北森嘉蔵氏と並んで矢内原忠雄氏の著述にも関心を持ってきました。従って批判対象としての価値もその分高いと思います。ここでは矢内原氏の『キリスト教入門』を批判することを通して(否定的媒介の思弁法)、自分の信仰内容を披歴してみたいと思います。

矢内原忠雄 キリスト教入門 (aozora.gr.jp)

「新たにキリストを学ぼうとする人々は、導かれるままに教会に行ってもよいが、しかしまた教会で洗礼を受けなくてもキリストを信ずる道のあることを、知っておくことが有益であろう。それによって教会の不当な束縛から解放される人々も少なくないであろう。」という点は「無教会」の良いところだが、自分は基本的にカルヴィニズムの「聖定 >予定」説(のすくなくともアウントライン)を聖書に根拠ある教理として信じているので、その点では信仰を得た者は再生の理性により教会と無関係には信徒としての生涯を送ることはないと確信しています。もちろんそれはどこかの教会組織に所属していなければ救われないといった意味ではまったくありません。さりとて、新約聖書が教会を介しての信仰を示している以上、人生が信仰生活として定められている人は聖霊が教会の礼拝参加へと導くので、どこの教会組織にもまったく関係ないような人が神から信仰の賜物を受けているということは(重い障害とか病気など特殊な事情でもない限り通常は)考えにくいということです。

キリスト教によれば、神は人間ではなく、人間が神になることはできない。いわんや神は自然物とは本質的に異なるものである。神は人間と自然との創造主であり、造った者と造られたものとの間の混同を許さないのである。」という点は日本的宗教…特に神社神道と画然たる主旨であり全く同意ですが、神は全能なので人になることもできるということはあるわけで、キリスト教では「人が神になる」とは言わないが「神が人になった」とは言うのです。

また、「他の民族もしくは他の宗教でいう『神々』と、キリスト教の信ずる『神』との間には本質上の差異があるのである。要するに、神についての観念は、キリスト教において最も純粋化されたと言ってよいのである。」といった宗教進化論的な考えは、矢内原氏の時代はともかく今の時代ではほとんど支持されません。さりとて宗教多元主義の類も無節操といった感じで批判する人もいて、私自身も多元論的思弁は全く支持しません。それは多神教と同様、主体性を曖昧にした無節操な宗教論に堕した観があるからです。ちなみに宗教多元論批判では小田垣雅也氏の思弁が参考になりますが、ここでは引用致しません。

私はあくまで拝一神教的なエホバ信仰者です。ユダヤ教イスラム教ではなく、あくまでキリスト教を媒介した神信仰者ですが、キリスト・イエスは人間が神と関係するための「道、仲介者」すなわち媒体なので(ヨハネ福音書14:6、テモテ第一2:5)、信仰対象では「無」い存在です。自分が所謂ユニテリアンと違う点は、人道主義とか社会主義とかの思想は関係ないし、キリスト神話の意義は批判しつつ賛美告白の表現として認めるところはあるので、史的イエス主義ということでもないということです。「無い」というのはイエスが(絶対者という意味の)「神」では無いということです。「真に人」の意味は文字通り解しつつ「真に神」は文字通りには認めません(両性論は「キリストは一つの位格に二つの本性があると述べるが、本性が「混ざり合うこともなく、変化することもなく、分割されることもなく、引き離されることもない」⦅~カルケドン信条⦆という点を強調する立場)。信仰にもとづく賛美告白の表現として受けとめるということ。すなわち「非神話化」が自分流の「ケノーシス」の意味であり、キリスト・イエスという人物の存在意義が全く「無い」ということではなくて、「道」はどんなに無きに等しき小道であろうと、「道」は「道」であり、俗なる罪人が聖なる神と接触し得るための唯一の媒体なのだ。「父は我よりも大なる」(14:28)とある以上、「我と父とは一つなり」(10:30)とか「我を見し者は父を見しなり」(14:9)を三一説に結びつけて「父=子」と解するはあまりに稚拙なり、愚かなり。これは「父」と「子」との親密な関係を示しているにすぎないし、「子」が「父」と同じく神であるとの意味は全く示されていない。合掌。

「汝等はキリストの有、キリストは神のものなり。」(コリント前3:23)

「凡ての男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり。」(同、11:3)

「萬の物かれに服ふときは、子も亦みづから萬の物を己に服はせ給ひし者に服はん。これ神は萬の物に於て萬の事となり給はん爲なり。」(同、15:28)

聖書においてイエス・キリストは「親を映す鏡」としての「子」のはたらきとして、特にヨハネ福音書において、またはパウロ書簡においても、その従属的身分を示されているのです。

パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)、「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)

「エホバは世界に唯一・最高の神であって、エホバに並ぶべき神は他にない。」とか「エホバは絶対的な実在であり、したがって永遠的な実在である」ということは全く同意ですが、「キリスト教によれば、神があって万物が存在するのであり、神は万物存在の基底をなすところの実在である。したがってかりに現在の宇宙が消滅しても神は依然として実在し、神の実在を基底としてさらに万物は生成させられると信ずるのである。」という点は、「神の存在は生成においてある(Gottes Sein ist im Werden )」(~E・ユンゲル)といった神論も考慮する必要があると思います(これについては詳しくは当ブログの救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神での小川圭治氏の論文「神概念の転換――E・ユンゲルのバルト解釈を手がかりとして――」jcs_6_306.pdf (kyoto-u.ac.jp)の引用を参照)。但しその「神の存在は生成においてある」という場合の「神」は、「真に神」であるだけでなく「真に人」でもあるところの、すなわち生まれて死ぬという有限な身体の持ち主であるイエス・キリストを第二位格の御子とする三位一体の神であることを前提とします。同じ一神教であってもユダヤ教の神(エホバ)やイスラム教の神(アッラーフ)も「存在」するとして「生成」するかどうかはわかりません。すくなくとも本来の「神・霊」は「存在-生成」とか「不変・静止-変化・運動」といった二項対立を超えているからです。キリスト教の場合、テモテ第一6:16では「ただひとり死のない方であ」ると言われており、伝統的には変化しない静止的な神観が主流だったようですが、現代神学ではそれが形而上学的であって聖書が示す「生ける神」ではないとみなされ、生成流転とか生成消滅とか言われるように変化する存在とみなされるようになりました。しかもそれが「三位一体」との関係で言われているわけです。古来、「存在」と「生成」とは形而上学におけるアポリアであり、それを克服するような野心が現代の哲学者さらには現代の神学者にみられるということです。ギリシャ哲学の影響を受けた伝統的キリスト教神学の神観は静的ですが、現代の聖書解釈において啓示された神は、不変であり、かつ、動的ということで、それを表現したのが「存在は生成においてある」いうことなのでしょう。だから私は、聖書が示す神より前の(…「前」と言っても無時間的・永遠的次元でのことなので「前」も「後」もないのですが、比喩的に言えば「後」ではなく「前」であり「本来」であるところの)、つまり、啓示された「神」ではなく、啓示(=自己限定・自己対象化)する主体としての「神・霊」(ヨハネ福音書4:24)にこそ意識を向けなければならないと信ずるのです。それはあらゆる二項対立を超えるので、八木誠一氏の用語である「創造的空」とでも呼ぶのが相応しいと思います。それって所詮、観念にすぎないじゃないか!と批判されてもしかたありません。たしかに「啓示」される「前」なので聖書に明記されているとは限らず、その点では観念と言えなくもないでしょうが、暗示的にではあれ聖書から察し得る部分はあるし(具体的には「遍在」を示す箇所⦅詩篇139:8、エレミヤ23:23,24⦆。啓示される「前」の本来の「神・霊」は、ぎりぎり対象として論理的に言えばスピノザの神観に近い。⇒< スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たち人間は有限です。空間的には身体という限界を持っていますし、時間的には寿命という限界を持っています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。> 

スピノザの考える「神」とは - NHKテキ

 

無論、私の神信仰は「汎神論」ではなく「汎在神論」の方に近いが、外部なしということは聖書の創造説と合わないので、その点では「汎」無しの「有神論」的立場であり、しかもキリスト教に対しては一つの宗教として相対視して批判する立場なので、「拝一神教的有神論」ということになる。すなわち自分たちにとっては聖書の神エホバが天地に唯一絶対であるが、自分たち以外の人々においては関知せず…ということで、論理的には自分たちの信仰的立場の相対性を含意するということ。※太字は私記。)、そもそも信仰の対象範囲は啓示において限定され、科学的・客観的に認識したり証明することはできないのですが、私自身にとっては現実に経験している対神関係における信仰対象であることに違いはないのです。但し、八木氏の神論に欠如しているのは「創造的空」(神=霊)が啓示された「神」は人格神であり、量義治氏の言われる「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」であるということです。逆にその量氏の神論に欠如しているのは擬人化されない「神」の人格性ということであり、聖書の神話に対する批判的視点と、対神関係の「種・類」に対する「個」の優先性です。すなわち量氏は、「現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。もはや文明はあがけばあがくほど虚構を堅くし、空虚の深淵に落ち込んでゆくであろう。このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。」と述べておられますが(『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p215~216)、私見では誤解を招くおそれがある文章だと感じます。人類の普遍的救済のためなら、神話を無批判に事実として信じるべしといった「知性の犠牲」的主張ともとれるからです。すくなくとも個別救済よりも普遍救済を、知より情・意を優先させる量氏の考え方には偏向があるので、「宗教哲学入門」と題された、本来はニュートラルな立場であるべき書物の内容にはなじまないと思います。たしかに聖書の創造神話にはそれなりの意味があり、「単なる神話」だとか「虚構」だということではありませんが、著者の量氏の立場が、いかに救済を第一目的とする救済宗教にあるとは言え、自然科学を学問の中心とする現代にあって宗教を論じる以上、八木誠一氏のようにより普遍性ある表現に努めて然りであって、歴史の終末とか死後の救いを語る前に、生きている今の時代の現実的な救いが語られるべきです。多くの現代人にとって宗教の意義とは、個別的限界状況に耐え得る希望や活力を呈示し得るかどうかにかかっているのではないでしょうか?逆に、寺院や教会などの組織が信者個々人よりも前面で出る宗教、個人主義的宗教観ではなく共同体主義的宗教観は、多くの現代人…特に日本人にとってはどうしてもカルト教団のような洗脳やマインド・コントロールをするような印象に傾くのではないでしょうか?実際、普通のキリスト教会であっても程度の差こそあれ多少は何らかの刷り込みはなされるのです。それは教えるとか伝えるといった上下関係が成立する環境においては避けられないことでしょう。だから私はその点で無教会主義に近く、教会組織はあくまで個々人の信仰生活の媒体であって本体ではないと考えます。無教会の集会も教会のような組織とは異なり、その会員になることが救いの要件ということではないのです。あくまで聖書が示す救いについて学ぶ機会となり得るだけです。

三一神論的には、御子は御父から生まれ、御霊は御父と御子から発出される…というわけで、永遠の相においては三一神の存在はこのような生成運動として認め得るということでしょう。聖書の神は生けるお方であり、けっして静止してはおられないのです。出エジプト記3:14「エフイェ・アシェル・エフイェ」の「エフイェ」は「在る」という意味だけではなく「成る」という意味もあり、言わば「存在」と「生成」の二重性です。しかしこの「生成において存在する神」は、啓示前・本来の「神・霊」ではなく、その啓示として(…自己対象化として)聖書で物語られている神話の「神」です。たとえ経験世界が生成流転とか生成消滅とか云われて、「生成」との関係なき「存在」など観念世界でしかあり得ないと言われても、本来の「神・霊」は人知を超え、その経験世界などは超えているわけで、同じ神話なら、仏教の縁起的世界観…すべてが「空=非実体」の世界においても、創造主エホバのみは実体として自存して「空」を突き抜け出ているといった物語の方が、どうせ神話を物語るのであれば、聖書の神話として相応しく好ましいと、私自身は思う次第です。

また、エホバが「歴史を通じて顕現される神である。すなわちエホバの完全な性格と能力と栄光は、人類の歴史を通じ、その発達段階に応じて啓示され、顕現されていくのであって、人類の歴史の最初からエホバの全貌が現わされているのではない。エホバの全貌は、人類の歴史の完成する時において人間に現わされるのである。永遠的実在であるエホバそのものに変化と進歩があるわけではないが、エホバの顕現には進歩がある。それは人類の歴史の進歩に照応するものであると言える。このようにエホバの顕現が歴史を通じてなされることは、エホバが人類の歴史の中に生きてはたらくからであり、そのことはまた、エホバが人類の歴史の指導者であることを意味する。」ということ、これは矢内原氏の用語ではなく、一般的に「啓示の漸進性」とか「漸進的啓示」などと云われますが、これについては特に注意が必要です。

つまり、本来「神」は「霊」であって、「エホバ」はその非対象的な(…というか「対象-非対象」とか「人格-非人格」とか「存在-生成」とか「実体-作用」とかいった分別・二項対立を超えた)「神」が言わば自己限定して(…というふうに擬人的に表現するしかない)、特定の時間(歴史)と空間(国)の中で神話として物語られるべく自己対象化した(…それが「啓示」された)存在であって、だから「エホバ」とか「エフワー」とか「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」などと発音されるテトラグラマトン(神聖四文字YHWH)で表される名前があるわけで、その「エホバそのもの」も「変化と進歩があるわけではない」けれど、「エホバの顕現には進歩がある」ということです。

だから「三位一体の神」という教会の神観も、信徒個々人レベルでは必ずしも聖書に即した神観として納得はされず多くの人々が疑問を呈してきましたが、教会組織の維持運営に伴う実務上の歴史的な神観としては、その「啓示の漸進性、漸進的啓示」などというロジックを用いないことには、旧約時代には御子(イエス)や聖霊はどこでどうしていたのか…?という問いに答えられないわけです。なにせ旧約聖書にはイエス・キリストなど出てこないのですから…。しかし「啓示の漸進性、漸進的啓示」といったドグマを用いることによって、実在としては創造の時から御子(イエス)も神としておられたが旧約聖書の諸文書が書かれた時代に至っても未だ人間には認識されていなかったから書かれていないだけであって、イエス自身はエホバと共にちゃんと存在はしていたのだ…と言い得るわけです。全然説得力はありませんが、いちおう理屈は通るし、聖書的根拠という点でも、旧約聖書でこう書かれているのはイエスのことを指しているんだよ…といったこじつけの説明がなされるわけです。しかしそれによってイエスは神とみなされるどころか天使ではないのか…?という疑義も生じてしまったように見受けられます。そのようなおかしな…というか行き過ぎたキリスト中心主義的キリスト教を修正すべく、私は新約聖書学者・青野太潮氏の以下の文言を常に掲示しておきたいと思います。(太字は私記。)

「しかし、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」

(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」160824-04.pdf(touhokuhelp.com)

※「認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない」という点は、私の見方とは異なります。私は「神が受肉したことが啓示と考えるので、他に啓示はないことになる。旧約時代には啓示がないことになる」というバルトやブルンナーの「キリスト集中論的啓示観」を真っ向から批判した改革派神学者・ベルクーワの説に立つので、その点では青野氏の御説とは違いますが、コロサイ書1章などのキリスト神話の無批判的読解によって御子キリストを創造主とみなす立場に対抗する点では同じです。

 minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

私見では「三位一体」神論の根本的な欠陥は、第二位格の子なる神(=イエス・キリスト)がカルケドン信条においては「真に神」であるだけではなく「真に人」であるとされているという矛盾です。「われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。」(~カルケドン信条)ということで、「真に人」であるイエス・キリストは「肉体」を有って昇天し在天して神の右に座しておられるわけです。「肉体」(物質)を有つ「神」が三位一体の第二位格であるというわけです。しかるに、「真に人」(相対かつ有限な存在)である以上、それが「真に神」(絶対かつ無限な存在)と一体化されることがないことは、聖書の示す神が、「造った者と造られたものとの間の混同を許さない」という原理原則に反するからです。しかしこのような論理的矛盾も不整合も、信仰および救いの個人主義的見方を排して教会主義的見方をする場合には問題にはなりません。なぜなら聖書において「神の國は言にあらず、能力にあればなり。」(コリント一4:20)と言われているとおり、救われるためには信者各人の個別の理屈などよりも信仰共同体に共通の体験および教会の権威の尊重…といったことになるからです。しかし私は、自分自身が理性で納得できないことを盲信するつもりはさらさらありません。「知性の犠牲」などと大げさに言えるほどの「知性」など持ってはいないにせよ、それが自分の宗教に対する基本的なスタンスであるべきだと自覚しています。キリスト教会もしょせん相対的な宗教組織の一つであり、カルト教団の如く洗脳とかマインド・コントロールを犯すとまでは言わずとも刷り込みによるメンタルヘルスへの影響は十分注意すべきことなので、そのような団体の営みに対しては自分が持つ一分の理性も犠牲にはできません。むしろ批判することを通して検証するしかないと思います。

また、私は神論よりもキリスト論よりも、また創造論や救済論よりも、なんと言っても聖霊論こそが第一に重要だと思っています。聖霊は感じるものです。神やキリストは出会うものであり、それとの関係は人格性が濃厚です。神やキリストは見方が擬人的になりやすいです。

聖霊ヨハネ福音書14:26において弁護者(パラクレートス)として人格的存在化されていますが所詮は比喩であり、「神は霊」(ヨハネ福音書4:24)とあるとおり、結局、父と子(という言い方も比喩)と聖霊の三位一体の神は(「人格ー非人格」とか「対象-非対象」とかいう分別を超えた)「霊」であり、父とか子とかいった人格的存在としての「神」を中心にして三位一体なる神を観ること、イメージすることは一神教同士の対立及び戦争に陥るので、聖霊を中心にして三位一体なる神を理屈で知るのではなく体験的に知る…感じる…ということがよいと思います。理屈はえてして排他的ですが体験は必ずしもそうではありません。聖霊に感じさえすればおのずと教会の教義・信条(ドグマ)を受け入れるようになるとは言い切れませんが(教義・信条それ自体は相対性を免れ得ないから…)聖化された知性や理性において聖書全体の核心部分である「イエス=主・神の子・キリスト」という信仰告白に導かれることにはなるでせう。パラクレートス(助け主)である聖霊 | AMOR (webmagazin-amor.jp)

この「イエス=主・神の子・キリスト」という信仰告白の意味は、イエスを絶対者と信じ告白するという意味ではまったくありません。そうではなくて、イエスという人は神(=絶対)の聖霊に満たされて生きた人である…ということ、その霊満者イエスの対神関係の生き様を福音書を通して参考にするということです。

 

 

 

 

 

 

メンタルヘルスと神観…コヘレトの神…非人格神、「創造的空」の自己限定…自己対象化、聖定信仰の捉え直し、認知行動療法的宗教論

認知療法では、対人関係などでトラウマになるようないやな体験をした時に自分の中に生じる「自動思考」を省察し、これを柔軟な考え方に変えることによってストレスの衝撃を軽減しようとします。「自動思考」に影響を与えるいるものが「スキーマ」であり(schemaで独語読みはシェーマで元々、図や図式を意味する)、そこから生じるものが「認知バイアス」(物事の解釈)です。加藤諦三氏がよく事実と解釈とを区別してお話される後者を指します。「スキーマ」が自分の思考傾向を形成する図式ひいては思考の元になる価値観だとすれば、その価値観から偏見(バイアス)が生じてきます。そして何かあると瞬時に脳内に生じる思いやイメージが「自動思考」であり、それが様々な感情を生み行動へとつながるのです。性善説性悪説も共に本人の価値観であり「スキーマ」です。いずれも一長一短があり優劣左差はありません。要はそれが社会に適応するか否かです。自動思考を修正しても、また新たな自動思考が生まれてしまっては意味がありません。抜本的解決のためには「スキーマ」を変えるべき対象とするしかないのです。すなわち日常生活に支障をきたす社会非適応型スキーマから社会適応型スキーマへと変えてゆく…、それはいかにして可能でしょうか?人それぞれだとは思いますが、自分の場合は宗教なしには考えられません。「神」という絶対的存在との関係を体験してこそ、既存の価値観を相対化することによって自分の心を変えることが可能になります。

私見では、実際は「思考」の流れだけが問題なのではありません。自動的に脳に生じるのは、思考や感情を含むその時の状況・場面(シーン)全体です。自分にとって大きなストレスになるような人間関係の映像的記憶(※「映像記憶」と混同せぬこと‼ 映像記憶は特殊な能力であり、その持ち主は私の場合、高村薫作「レディー・ジョーカー」の主人公である警視庁刑事・合田雄一郎氏以外は知りません!)は、動画撮影に喩えれば1コマずつのショットのような記憶よりも、それが一定の意味で連結されたシーンとして再生する場合が多いと思われます(シークエンスまではいかない)。相手のセリフはもちろん表情や動作などまで一体となって自動的に再現される…、いわゆるフラッシュバックするのです。それによる自身のストレス反応は睡眠障害だけではなく動悸など明らかに心臓にも悪いということは、不整脈心室性期外収縮)を持つ自分はなおさら実感しています。身心全体に負担となるのです。その軽減は心理療法のような小手先と言うか気休めのような方法では期待できません。あくまで科学的な力に期待するのであれば、薬物を使ってでも記憶自体を整理して、身体に悪影響を及ぼすような記憶は排除するような画期的な方法の発明を求めてゆかねばなりません。

いずれにせよ、自分のメンタルヘルスの改善は聖霊のはたらきという他力によらずしては不可能であると自覚しています。臨床心理学が無神論を前提とする限り、科学と言ってみたところで現実化することは困難でしょう。

自分の場合、子供の頃から実学科目には関心が薄く成績も悪かったですが、非実学的な科目には関心が強く、その種の本は好んで読みました。それって結局、実学的には低能であり社会的に不適応である自分が将来メンタルを壊さないための予防を意図せずやっていたようにも思えます。対神関係とその省察・信仰なしに自分の人生はあり得なかったのです。生まれつき低能な人間にとって、よりよく生きてゆくためには将来的にメンタルをより健やかに保つための術が必要です。その点で宗教とか哲学とか文学は人生において大いに意義があると思います。実学的・社会的には低能でもそちらの方面では有能であるとも言えます。そしてそのノウハウが、極めて個人的内面的なところから、同じような問題に直面している人々にも何らかの役に立つ可能性を信じて発信するなら、そこに社会性が生れてきます。人間には共通することがある以上、純然たる個人主義は無いと思います。要は自分の内側だけでとどめず、つまり秘事とせずに外へ表現し発信してゆくことです。誰かがその一端をキャッチすることによって何らかの意味を得ることができるかも知れません。それはいわゆる社会貢献活動のように明確に社会の役に立つ即効性こそありませんが、だからといって単なる私事として、非社会的・観念的な遊戯とか自己満足・自慰行為のようなものとしてその意義を否定されたり貶められるべきことではないと思います。

信仰はメンタルヘルスにおいて自己治療(self healing)になる(一般的な「信仰治療」…特にオカルティックな療法などとは無関係。信仰治療 ― どのような効き目がありますか — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org) )。それが最も現実的な神信仰の実効性である。心理療法でも認知行動療法(CBT)などある程度は自分でやれるようだし、とにかく脳内のセロトニン分泌を増やすことが肝要。日光を浴びての朝散歩励行。

セロトニンの分泌には日光を浴びることが欠かせません。運動に関しては一定のリズムで行う運動がセロトニンの分泌を高めてくれます。リラックスして朝、太陽の光に当たりながら毎日15分程度のウオーキングを楽しむといった方法が良いでしょう。」一般財団法人 脳神経疾患研究所 総合南東北病院【地域がん診療連携拠点病院・地域医療支援病院】 (minamitohoku.or.jp)

【セルフ認知行動療法のや方・ポイント】自分の考えを見つめ直し、心を軽くする | NHK健康チャンネル

認知行動療法を自分でやってみる方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)認知行動療法を日本で一番わかりやすく説明してもらった【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

「深い瞑想の境地では脳内の神経物質であるセロトニンドーパミンが分泌される」そうですが、 お釈迦様の脳 | 会員によるエッセイ&コラム | 仏教クラブ (bukkyoclub.com).      「深い瞑想の境地」とか、ましてや神秘体験といった大げさなことまで言わなくても、普通に信仰生活をしている中で神を賛美したくなる気持ちとかの通常的信仰体験においても、要は脳内物質の働き如何であると思われます。自助努力的には通常的信仰境地につながる脳内物質の分泌を活性化させることが第一。療法だの技法だのと言っても本人の心理なのだから専門家との対面による作業にも限界があって、セルフでしかやれない面もあるでしょう。

ところで、キリスト教の本質は倫理(対人関係)ではなく救い(対神関係)であり、信仰はこの両関係(…滝沢氏の表現を借りれば「不可分・不可同・不可逆」)における生活である。しかし、ヤコブ書のように信と行との不可逆性を考慮せず意地悪な言い方をするような者は使徒の名に値せず、その書が「藁の書簡」(~ルター)と云われていることもわかる気がする。キリスト教に倫理基準を求めるクリスチャンは少なくない。聖書の言葉…特にイエスの言葉が情況から捨象されて永遠不変の真理を語る格言の如く扱われる。倫理的平和は神信仰の結果であって、先ずは自分が対人関係において受けた傷が対神関係において癒されてこそ対人関係に戻って主の平和を実行し得るようになるのだ。倫理先行のキリスト教においては、「神は愛なり」の「愛」の方に重きが置かれて「神は」の方が副次的になる傾向は否めない。現代神学が神の主権よりも人権に偏向していることもその現れである。社会倫理…特に人権関係を重視した上での宗教というものは異常なほど個人主義的思考を嫌うので、宗教体験などの個人主義的要素が稀薄になって、クリスチャンの中には消化不良というか欲求不満的な人々も生じてこよう。つまり倫理先行のキリスト教は川島隆一牧師が指摘なさる社会福音の「同情的イエス」中心になったり、「民主的な神」中心になってしまって、要するに人間社会における幸福が宗教の究極目的となり第一義となるので、神にせよキリストにせよ、そのための媒体として機能し得る範囲で尊重され、賛美・礼拝される…という本末転倒の状態になる。現代は人権尊重が度を過ぎてイデオロギーとなって先鋭化し、それがキリスト教神学にも多大な影響を及ぼしている。主権在民であって神の主権は人間の主権の絶対化のもとで相対化され、「有限の神」だの「神の死」だの十字架刑で「死にうる神」といったことが云われています。

「—— 現今、多くの人々がいわゆる『民主的な神』の存在を信じたいという。この神概念によると神は御自身の栄光のためではなく、その被造物の大多数の便宜と、できるだけ多くのものの最大の便宜のために、働き存在となってしまう。(中略)聖書によれば、被造物(人間を含む)の幸福は主要なことがらではなく、神の栄光をあらわすことの副産物にすぎないのである。」(ヨハネス・G・ヴォス 著、玉木鎮 編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)p81)

このような相対の絶対化は、神やキリストを偶像化して十戒の第一、第二戒に反することにもなる。「十字架のキリストを拒否する者たちは、現代の教会にも見られます。社会福音派です。(中略)彼らの神は、人間の理想的属性を具現化した愛と憐れみという存在です。(中略)贖罪信仰は消え去さり、『同情的イエスカルバリーのキリストに取って代わってしまった』のです。」 kawasima520.blog.fc2.com/blog-entry-233

救済は個人の事柄を越えて共同体ないしは世界・人類の普遍的な事柄であるというのが量氏など知識人によくみられる救済観ですが、それは個々人の苦悩に対する省察や共感が甘いのです。特に現代社会では、心の闇…メンタルな問題によっていかに個々の深刻な苦悩が社会的な問題に発展しているか…。個の救いに徹してこそ類としての救いが見えてくるのであって、いきなり新天新地到来という普遍的救済が第一とされて、そのためなら個人としての疑問などは抑圧して然り…といった考えは現実的でもありません。ところで、自分にとってキリスト教という宗教はあくまでも聖書的宗教が説く救済の媒体であり、教会組織は個々人が聖霊のはたらきによって対神関係を得て救われるための媒体にすぎないのであり、私自身はコヘレトの宗教を参考にしたいと思っています。関根清三氏によれば「実際コーヘレスは終始、他者と出会っていない」と言われ、四章1-4節に関しては「結局は虐げられた他者のために労さずただ拱手傍観している、そういう知者の姿が図らずも露呈されて」いると言われています。二章18-19節については「後世に対しては、自分の子も含めて関心を示しません。親や隣人は視野にすら入ってきません。女性も概して軽蔑の対象でしかありません。その他たとい他者に関心を抱く場合もコーヘレスは結局、己の利益になるか否かというエゴイズムの視点でしか見ることができなかったように思われるのです。例えば『一人より二人の方がよい』(『コーヘレス書』四章9節)と言われますが、その理由は『二人なら、一方が倒れても他方が助け起こしてくれる、二人で一緒に寝れば暖かく』て、得だ(『コーヘレス書』四章10-11節)というわけです。」とのことです。但し、岩波書店版の勝村弘也氏の解説では、「友人はいた方がよいのに決まっている(四7以下)。」と書かれています。いずれにせよ、コヘレトは関根氏が言うほど他者との関係を「己の利益になるか否かというエゴイズムの視点」だけで見ていたとは自分には思えません。

神観についても「コーヘレスが応報の神を否定した先に発見した神は、他者を排除した次元で、己一個のエゴイスティックな快楽において辛うじて感じ取られるような神でしかなかった、と言わざるを得ない(中略)コーヘレスは終始エゴイズムを抜け出せず、他者については、これを排除するか、己の利益の問題に還元するか以外、遇する術を知らない」などと、散々な言われようで(以上、『倫理の探索』中公新書 p24~27)、関根氏自身はそのようなコーヘレス(=コヘレト、コーヘレト)の神観は、応報の神の否定という点では時代的な因果応報の考え方の破れの認識として承認しつつも、それだけでは限界があり倫理にはダメであって、「他者関係をも視野に収めた、新しい神」を旧約聖書(の特に専門とされているイザヤ書)に求めるというわけです。しかし関根氏のこのようなコヘレト批判には、それこそ知識人で学者としての社会的地位を得ている人の健常者中心的な考え方が滲み出ていて、家族に恵まれない人…特に社会的に孤立した境遇にある少数者の心理などがどこまで考慮されているのか疑問です。実際、関根氏は放送大学の講師をされていた時、質問をしたことがありますが、成績が一定水準以上だから答えてやろうといった態度だったし、その後に一読者として質問した時は研究の邪魔になるからもう手紙など書いてよこすなといった趣旨の返事をしてきました。私の経験では多くの神学や聖書関係の学者はまともな返答をしてきています。関根氏だけが門前払いをしたわけです。そういうところに彼の人間性が滲み出ており、とてもとてもコヘレトを倫理的にどうこう言える人物とは言えません。そして彼の思想内容も狭すぎるのであり、今の日本社会ではメンタルヘルスの異常者が犯罪や自殺の危険をも抱えながら苦悩しているのであり、そういう人々が精神医学や臨床心理学なんかでは救えずに宗教に活路を求めているような現実もあるわけなので、現場の実情を知っている者としては個の救いに集中するような、コヘレトの神信仰、神観がむしろ参考になるのではないかと思います。無理して他人との共同性に宗教的救済を限定する必要はないと思います。他人には共感されなくても本人が救いを実感することができて、メンタルヘルスが好転してゆくのであれば、特に他人に迷惑をかけない限り、どのような神観や信仰を持とうと自由ではないかなあと思います。神観が人格主義的だから個人的・閉鎖的信仰では幻想だから現実的には他人との共同性が必要だ…といった話になるのであって、対神関係は人格的であることを全否定することはできませんが、神観は擬人化につながるような人格神観は極力、排除してゆくことは可能です。それは「信」から「覚」へ意識を変えてゆくことによって可能になってきます。コヘレトの神は、最低限度の人格性はあるものの、いわゆる人格神といえるほどではないのです。けっして擬人化にはつながらない程度の対神関係なのです。それなら個のレベルでも幻想とはならない。禅の「空」観に近いからです。集団は媒介にすぎません。教会のように指導的立場の人が教えを垂れるのではなく、そこに集まった個々人が自覚によって真実にふれるのです。人は関係存在だから宗教とて孤独では成り立たないというのであれば、他者との共同性は最大公約数的一致によらなければならず、神観とか信のあり方とかいうことは多様化しているので無理に合わせることは出来ない。

イリアム・ジェームズが、「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である…私たちの解するような意味の宗教から、いろいろな神学や哲学や教会組織が第二次的に育ってくるであろうことは、明らかである」とか、「宗教的生活の旋回している枢軸は……個人が自分の私的で個人的な運命についての関心を持つこと」だと言ったそうで、また、「向こう側」の神的な存在を特定の何か、例えば聖書の神ヤハウェだと信じるようなことを「過剰信念(over-belief)」と呼んだそうで、その「過剰」という意味は、そういった個々の宗教に固有の教義やそれに基づく具体的な表現は、誰もが共有できる範囲を越えているということだそうですが、ジェームズはこれを退けるのではなく、過剰信念こそが「ある人間についてもっとも興味深く価値あるもの」だと言ったそうです。また、ジェームズは、「人は心の持ち方を変えることによって人生を変えることができるということ、これは私の世代の最大の発見である。」(The greatest discovery of  my generation is that a human being can alter his life by altering his attitudes.)といったことを述べたそうですが、これって認知療法では? 

ウィリアム・ジェイムズの宗教思想 ―科学時代の救済論として

結局、絶対なるものとの関係において、この世の絶対化される諸価値(偶像)を相対化する…という方法はセルフ認知療法の一種だと言えるだろう。それが宗教になるのは、その「絶対なるもの」が真に「絶対」であると信じられなければ効果はなく、そのためにはそれ相応の権威が必要だからだ。それが「神」ということになり宗教となる。

ジェイムズは当時流行していた『マインド・キュア』、すなわち精神の持ち方によっ. て病気を克服するという一種の信仰治療運動を、一度生まれの宗教として ...」

宗教的実存を重視する人は宗教を個と共同体とに分立するような理解はしない。個人主義的傾向が強い宗教は幻想的だとか、共同体主義だから現実的だとか、そういった偏見は宗教の本質を見誤ることになる。個人における対神関係が宗教…就中、一神教の信仰的核心であることは実存的事実である。問題はその場合の「神」が単なる人格神ではなく、人格的関係性は保持されながらも「神」観や「神」イメージは擬人化が回避されることを条件として(…人格神観は擬人化を免れ得ないといった主旨の並木浩一氏の指摘を考慮しつつも…)私は宗教的個人主義の立場である。個の求道を徹底することによって種・類の救いへと通じてゆけるからであり、それが宗教的実存の弁証法だと思うからである。そしてそれは、「不可同・不可逆」の面が曖昧な神秘主義的信仰…すくなくとも自覚の表現としては「不可分」に偏りすぎて「神人合一」とか「人間神化」といった言葉も出てくるような立場とは真っ向から異なり、対局的である。社会倫理を強調する者は共同体主義的宗教を志向する傾向があるが、自分にとっては、宗教は共同体主義的であるよりも個人主義的であるほうが自然な感じがする。なぜなら「共同」とは対人関係の事柄であるが、日常生活においては、その対人関係にこそストレスなどの救われるべき問題が生じるからだ。それは聖書的には自分個人の「罪」から救われることにつながってゆくのだが、神の前に「単独者」として立たないことには悔改めはできない。キリスト教的に言えば最後の審判での裁きは個別なのだから救済も個人単位であって然り。エゴイズムに陥らなければ、宗教者は個人主義者でけっこう。 

信念をめぐる倫理とW.ジェイムズの個人主義

 

広く世の為人の為にならない宗教…普遍性が弱い宗教はカルト・邪教であるかの如くみなすような考えは、宗教というものの本質を知らないと言える。聖書の教えの中心に「イエス・キリスト」を置くのがキリスト教であるにしても、「神の国・神の支配」が「神」よりも重要であるはずはない。「神」あっての「神の国・神の支配」なのだから…。しかし「神の霊=聖霊」はそれ自体が「神」なので、「神」について言わずともいきなり主語になり得る。救いの核心が「永遠のいのち」であるとしても、それはヨハネ福音書においてはイエスから見て「唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになること」(17:3)である。この「永遠のいのち」こそ神の救いの目的である(3:16)。従って聖書が教える救いは共同体単位であって個人単位ではない…といった主張には誤解がある。宗教のベクトルは「個」から「種・類」へであって、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といった言葉は美しいが、いきなりそのような考えが絶対化されるとしたら、それは理想主義であり、ファンタジーであり、いわゆるお花畑である。現実世界では、そんなことを思う人は少数派だからである。そもそも宗教は幸福になるための道ではない。

神の国」は「神」あってのことで、「神」についての論考なしに、いきなり「神の国」すなわち「神の支配・神のはたらき」を論じることはおかしなことです。ただし、その「神」を過剰に人格的に…つまり擬人化して観る、イメージするというのもおかしなことです。関係は人格的でなければ非聖書的ですが、「神」自体は人間ではないので神話的なイメージは無用。むしろ「空」といった非実体的・非人的なイメージが必要。

「創造的空」が意味/無意味の対立を超えているように、倫理に規制された宗教は人権活動に益しないような教えを頭から否定し去る。自分にとって宗教は自分自身が生きてゆくうえで、特に対人関係のうえで活力につながるものであって、その結果、社会的広がりや普遍性を持ち得る可能性があるということであって、最初っから社会に役立つ思想でなければ意味が無いとかいったことにはならない。公益性などを宗教の評価基準にしている限り、宗教は衰退の一途をたどることになるだろう。

矢内原忠雄氏は、キリスト教を受容して「正しき神観」を獲得することによってのみ、日本を復興できると考えていたそうです。彼も宗教は公益性があって然りと考えていたのでしょう。ただ、彼の思想的独自性は、キリスト教について共同体性と直結する「神の国」論には走らず、あくまで「神」論に入っているということです。その理由として一つには天皇問題があったことは確かですが、社会主義的傾向の強いインテリのクリスチャンは昔から「神」(それ自体)よりもユートピア的「神の国」の方に関心を持つ傾向がある中で、この点はとても重要だと思います。

「…神と人の区別がなされていない日本人の神観では、人を神として崇める危険性が存在するからである。実際に、天皇が現人神として崇められていた当時においては、その危険性が表れていたのは明らかであった。矢内原は、この危険性を克服するには、絶対者かつ人格者である神、つまりキリスト教の神を受け容れなければならないと主張する。日本人の神観の危険性を克服するには、キリスト教を冷遇していた、これまでの日本の態度を改め、『正しき信仰正しき神観をもつべき』であるというのである。」(菊川美代子さんの論文「天皇観と戦争批判の相関関係――矢内原忠雄を中心にして――」より)。そして矢内原氏は、「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質」であると述べています。

エスの神観については、矢内原氏は次のように述べています。
<「父なる神」、之(これ)が人格神としての神の性格である。而(しか)して神を父と見るこの信仰が、イエスに対し神の本質についての深き洞察と、神との親しき霊交と、論戦を一貫しての自由さ、新鮮さ、智慧(ちえ)と勇気とを賦与したる根本である。イエスの敵は神との活ける交りを欠いたが故に、彼等の神観は形式的であり、概念的であり、化石したる公式主義的把握となった。之に反しイエスは神を父と信じたが故に、自由無礙なる新鮮なる生命力、行動力が、彼の神観より泉み出たのである。>(『全集』第6巻 p220~221)

国木田独歩氏は、「神を忘るゝ時程薄弱なるわれは非ず。」(~『欺かざるの記』明治26年9月8日)と述べていますが、私の場合は「神の実体が不確かな時程薄弱なるわれは非ず。」です。自分は「神」を観想したり思弁的に論じる時が最高度の癒しになるので、メンタルヘルスとしてはこれをセルフ治療…信仰治療と呼んでいます。しかしその場合の「神」は聖書の「神」であると同時に哲学的、形而上学的な「神」、スピリチュアリズムの「神」でもあります。すなわち単なる「人格神」ではなく「理神論」の「神」、「汎神論」の「神」、「汎在神論」の「神」…といった多様な要素を有する「神(観)」の創造性ということです。自分の場合の「神(観)」も、歴史性や人格性は無いわけではないし無いというのはダメですが、最小限度にしないと旧約聖書に描かれているエホバのように擬人化されすぎてよくありません。というのは、メンタル問題の核心は対人関係におけるストレス苦であり、人格神観の誤解である擬人神観は、対神関係が対人関係のようになってしまうことを意味するからです。人間との関係から解放されるための砦として「神(観)」があるのに、それまでも人間化してしまったら逃げ場がありません。自ら精神的な逃げ場を失うようなことをしてはいけない…自殺行為になります。だから擬人神観は厳に拒否しなければならないのです。並木浩一氏によると、「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ないとのこと(~私信)。(以下、引用。太字は私記。)

神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに「あなたは私たちの神です」と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。>(『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』〔日本基督教団出版局〕p208)

今年に入って私はクルマ関係の理不尽な被害の出来事により「神」の人格性…というより、自分の中で擬人化してイメージしていた「神」を希釈していって、最低限「信仰」の対象たり得るだけの人格性を維持した「神」観に修正してきました。そのままの擬人的神観ではいわゆる神義論的問いから自由ではあり得ないからです。「信仰」には「愛する」ということも含まれます。「神を愛する」という場合の「愛」は対人関係におけるそれとは質的に異なる要素があります。「愛」と訳すから福音派信者などに甘ちゃん信仰という誤解を与えるのです。「神への愛」の「愛」は「信頼」であり「尊敬」です。甘え甘やかすような愛情ではありません。そこに「肉の父」と「霊の父」との質的差異があります。「神を愛せ」と言われて愛そうとして現れてくる「神」は幻想であり偶像です。真実の生ける神は、そもそも真実だの生きているだのと人間が規定せず求めずともおのずから現れてくる「空」です。意味の有無をも超えて自他を包むように拡がってくる「創造的空」なのです。

そんな自分が聖書の記事の中で最も重視するものはパウロのコリント人への手紙第一15:28であり、自分が大雑把に知る範囲では、その神観に最も近いのがスピノザの「汎神論」(パンセイスム)における唯一にして無限なる実体としての「神」です。但し、スピノザの思想が「汎神論」にとどまって「汎在神論」まで至っていないのなら、「神即自然」は「神即人」とも解されかねないおそれを感じます。自分は、神道的要素は排除したいし、少しでも本質的に相対的な被造物(…特に人間)と接近し混同するおそれがあるような「神」には興味がなく、「神即自然」が真理だとしてもそれは聖書ではあくまでも終末において実現するとされており、終末では現世の対人関係などなくなっているので、単純な人間神化説に堕する危険性は無いが、現世では何の歯止めもないから、汎神論的な言説には十分、警戒しなければならないし、出来得る範囲で改善し修正しなければなりません。なお、人間神格化に関する八木誠一氏の見解が、佐藤研著『禅キリスト教の誕生』(岩波書店)の論評の中で述べられているので、参考としてここに引用させてもらいます。(以下、太字は私記。なお、前掲論文ではイエスの「復活」について、佐藤研氏の「空虚な墓」論とは異なる八木氏の見方が論じられている。)

キリスト教がローマの国教となってキリスト者が法的に定義されたとき.キリスト者とは信条を受け入れて教会の行事に参加する人間ということになった。つまり「救済の経験」は信徒の必要条件ではなくなった。それ以来「正しい教え」の受容を重視する伝統的基督教には特に西方において「作用的ー」を見失う傾向が生じて現代に至っている。現在回復が求められているのはこの作用的「一」の経験と自覚だ。この「一」を明確にするためには.滝沢克己が提唱したキリスト論的区別(神われらとともにいますという「原事実」と「それに目覚める自我」の区別と関係をイエスの人格にも適用する)が重要である。私はこの区別を「自己」(わがうちに生きるキリスト)と,その活性化を自覚する「自我」との区別と関係として認識している(ガラテア 2, 19 -20にはこの区別と関係がある)。ちなみにこの区別は鈴木大拙ー一秋月竜眠における「超個と個」の区別と関係に相当する。この場合「自己」とは神と人の作用的ーのことである。「まことに神, まことに人」とは元来「自己」(信徒のなかで生きるキリスト,作用的一)についていわれることである。これはイエスの全人格が作用的ーである限りでも言えるのだが,イエス個人には自己(「人の子」)と自我の区別と関係がある。これは「キリスト両意説」と一致する。エス個「人」がそのまま「神」だということではない。自己に目覚めた自我は自己を映すのだから,自己と自我の区別と関係は厳密に認識されなくてはならない。そうでないと折角生まれつつある正当な認識が人間神格化として流産させられる危険がある。古来基督教界では,誰かが神と人との一をいうと,必ずそれは人間神格化だいって葬り去ろうする人が現れる。だから「一」の意味を厳密にしなければならない。「人間神格化」とは伝統派が新しい認識を異端として排撃するための絶好のロ実なのである。マイスター・エックハルトも同じ憂き目にあった。これと関連して「自己の死滅」という表現にも問題がある。作用的ーに目覚めた「自我」は死減するのではなくて正常化されるのである。「大活」とはこのことだ。西欧では仏教は自我の死滅を説くニヒリズムとして恐れられ,嫌悪されてきた (R. p. ドロワ.島田裕巳訳「虚無の信仰J. トランスピュー. 2002年)。現在でも仏教は自我の解消を説く虚無主義だという誤解がある。しかし実は滅ぴるのは我執であって自我ではない。自我が失せたら人間は人間でなくなってしまう。カール・バルトは人と神の一を説く神秘主義および自我の解消を説く仏教を排撃した。その影響はプロテスタントのなかになお強く残っている。>ja (jst.go.jp)

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波版〔青野太潮〕訳)

パウロによって「神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)」と言われたその主語の「神」は、本来は「すべて」(パン、パース)であったが啓示において創造から終末までの歴史(救済史)を通して自己限定(…自己対象化・自己相対化・自己有限化)して、イスラエルの神エホバおよびイエスの父なる神として人間に対向する人格的存在となられ、しかもそれは新約聖書が示すとおり父・子・霊の三一神として生成において在るという仕方であって、御父は御子に主権を委譲して後退しておられたが、終末に至りその主権を御子は御父に返上し服従されるということ。キリスト教の三位一体の神というのは究極の「神」の実相ではなく、あくまでも「啓示された神」であって、元来の「(啓示する)神」が自己限定した様相なのです。だから伝統的なキリスト教の神論では、コリント第一15:28あたりは(12:6「すべてのもののうちにあってすべてのことを働かれる神」も参照)パウロの「復活」論の文脈での事柄として…せいぜい終末論の中でふれられる程度であって、神論として正面から受けとめることは避ける傾向にあります。ウェストミンスター信仰基準では無視されています。特に「すべてにおいてすべてとなる」ということをまともに受けとめると、従来型の有神論では根本から問い直されることになるからでしょう。ある改革派の牧師は以下のような返答をされました。

<「神がすべてにおいてすべてとなられるため」とは「神の王的な御支配が完全に実現するため」と言い換えることができると思います。私たちは、神がイエス・キリストを復活させて、天に上げられ、御自分の右の座に着かせられたと信じています(使徒信条)。古代イスラエルにおいて、王の右の座は、王と共に支配する者(皇太子や大臣)が座(すわ)る座(ざ)でした。ですから、私たちは、神とイエス・キリストが、この世界を共同で統治しておられることを信じているわけです。しかし、第一コリント書のこの箇所において、パウロはそれをさらに勧めて、終わりの日には、キリストが父なる神に王国(王権)を引き渡されて、キリスト御自身も父なる神に服従されて、神の王的な御支配が完全に実現すると語っているのです。パウロがこのように記したのは、神の右に座しておられるキリストが、まことの神でありつつまことの人である二性一人格の御方であるかただと思います。キリストの人性を考慮にいれて、パウロはこのように記したのだと思います。一コリント15:28節と『ウェストミンスター信仰基準』との関係ですが、聖句索引を調べましたが、ありませんでした。しかし、文脈から言えば、終わりの日、キリストの再臨に関係していることは明かであると思います。>・・・ここではカルケドン的キリスト論まで持ち出して三位一体神信仰との調整がなされていますが、御父と御子の従属関係を御子の人性によって説明しようとすることはさすがに無理過ぎる感じです。

八木誠一氏は、『創造的空への道  統合・信・瞑想』(ぷねうま舎)の中で、「信とは具体的にどういうことか。それは『君たちのなかではたらいて、(君たちの)はたらきと意欲とを成り立たせる神』(『ピリピ書』二章13節)への信である。」と述べ(p2)、また、「統合体形成作用はイエスのいう『神の支配』に、『創造的空』はイエスのいう『神』にそれぞれ対応する。これはイエスが、世界を超えて一切を無条件に受容する『神』(『マタイ福音書』五章45節)と呼び、パウロが『すべてのなかにあって、すべてを成就する神』と称した(『Ⅰコリント書』一二章6節)現実である。この創造作用に触れたとき、無意味感・虚無感 —— キリスト者でも陥りがちな —— が消滅する。」と述べておられます(p3~4)。さらに「神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。」と述べておられるが(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p148)、御父が御子に主権をゆだねて被造世界を支配せしめたのだから、終末に至るまでの間は御子(キリスト)中心的であるのは当然であり、全体のスケールで見れば青野太潮氏が「パウロの神中心主義」という論文ないしは『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)の第一部 5章 「序にかえて」(p5) で指摘されているとおり、パウロの思想は「神」中心的なのです。ちなみに御子を創造主と誤解する多くのクリスチャンに対しては、八木氏の次の指摘が参考になります(太字は私記)。

新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』)

ここでは明示されていませんが、御子が創造に参与したとする記事で必ず用いられている前置詞「ディア」は媒介を意味します。御子は創造の主体というより媒体なのです。以下も同様。

「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。(中略)キリストが『統合への規定』であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七)こうして神は、『すべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147~148

御子と御父との違いが、「究極的」と「究極」との区別によって示されています。だから自分は、聖書が三一神の生成における存在とはたらきを物語っていると信じるにおいて、その三一神は基本信条(…明示しているのはアタナシウス信条)における「同等」の三一関係ではなく、御父と御子との「従属」的関係を前提とするものとして信じているわけです(…これは従属的三一神信仰であり、正統的キリスト教からすれば「異端」だと言われるかも知れませんが、私は聖書の使信に反しないと思います。但しキリスト教会組織の教理とは、聖書学的知見も踏まえないと相反することになるかも知れません。すなわちユダヤ教以来の「唯一」神信仰と矛盾する「三」神論的な信仰の立場になるからですが、そもそもシェマーの「唯一」(エハード)は存在論的意味の…すなわち所謂「唯一絶対」という場合の「唯一」ではなく、同じ「ヤハウェ」でもイスラエルの地方聖所ごとに多様であった信仰を中央聖所に一局集中させたことが背景としてあるので矛盾には当たらないし、「三位一体」の「一体」というのは「神」としての本質が同一ということなので、父も子も聖霊の「神」である…という意味では三神論と矛盾しないです)。なお、八木氏は神が「絶対」であるということは「普遍」的である旨のことを述べておられますが、そこでは「無限」であることには言及されていません。また、八木誠一氏と交流があった野呂芳男氏は「神」を「究極的なもの」(the Ultimate)と「絶対的なもの」(the Absolute)とに区別して論じました。前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うなら、その「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ないので、野呂氏は「究極的存在者」としての「神」を求めるのだというのです。従って野呂氏の実存論的神学における「神」は「無限」ではなく、すなわち「遍在」せず、野呂氏自身、北森神学の「神」が「有限なる神」に近づいたと言って自身の相対的・有限的神観を露呈しています。「神」の絶対性を犠牲にしてまで人格性を担保しようとする野呂氏の動機にはあまり共感できません。無論、「神」の人格性が全く無くなったなら、それはもはや聖書とは関係ない神観ということになりますが、擬人的に語られることとは峻別されて然りです。神の人格性は本来、神の主権について言われて然りでしょう。そこから「裁く」といった義の面も「赦す」といった愛の面も生じるのです。多くの人は愛の面だけを見ようとします。それは新約聖書が「神は愛なり」だけを言っているかのように誤解しているからです。そこを強調してきた教会の説教にも原因があります。

ところで、北森嘉蔵氏は次のように述べています。太字は私記。)

「いわゆる近代主義(Modernismus)もしくは自由主義神学liberal theology)(中略)その特質は直接的な神関係の主張にあります。これは『異なる福音』でなくてなんでしょうか。パウロがガラテヤ人への手紙において戦ったのは、キリストの死をむなしくする立場に対してでありました。しかるに近代主義神学では、キリストの死による仲保媒介なくしても神人関係が成り立つ、というのですから、『異なる福音』と言わざるをえません。さてこのような直接性の立場が次第に徹底すると、神が人間の中に内在するという『内在主義』となり、これが主観主義、心理主義等となり、また神が人間歴史の中に内在化するという形では、歴史主義ともなって行くわけです。一言にして言えば『人間の内なる神』の立場であります。さて、バルトは近代神学を訂正すべくあらわれたと言いますが、そのさい彼の訂正が第一義的に向けられた点は、このような『内在主義』に対してでありました。従ってバルトは『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いたのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』〔新教出版社〕p24)※関連記事として、小川圭治氏の『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)の、「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)参照。

北森嘉蔵著『対話の神学』(教文館)によると、鈴木大拙氏の以下の指摘があるとのこと。(太字は私記。)

<「西洋的な」キリスト教が神と人間とを「対立」させることは、「相対立」するかぎり神を「相対的」なものにしてしまい、真の宗教的「絶対性」を逸すると同時に、二元対立の「分別知」へ傾かしめ、ひいては政治的な「分割統治」の植民地主義をさえ生むに至るとまで批判される。(鈴木大拙東洋文化の根底にあるもの』、朝日新聞、昭和三十三年十二月二十二日号)。>

北森氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と言っておられますが(『神学入門』新教新書 p74)、「人間に対立する神」が理論的には「絶対者」ではあり得ないのだから、矛盾したことを言っておられるわけです。バルトが『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いた…ということ自体は、私は共感します。自分は「神」を「内」よりも「外」へ、つまり「内在」より「超越」へ、自分よりも小なるイメージではなく大いなるイメージで観想するからです。しかし、バルト神学はいわゆるキリスト論的集中であり、イエス・キリストにおける「神の人間化」といったことを説いているので、とてもとても「神」を超絶的に語っているとは思えません。(以下、前掲書より引用。)

< 三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>

西田幾多郎はバルトが語る「神」について「君主的神」といった観方もしたようですが、とにかくそのような「(人格)神」は、内外いずれにせよ「絶対」とは言えません。スピノザ神論のように「絶対」は内と外といった境界なき「無限」へと徹底され、全一現実となるからです。そしてそれが徹底されて「(創造的)空」となるのです。それは人格性を排除するのではなく、非人格性と共に包括するのです。あらゆる二項対立をまるごと包み込み生成させる動的「空」であり、意味の有無さえ包括するからこそ「創造的」な「空」なのです。「絶対の無限の開け」と表現されていることと同じリアリティーでしょう。

日本の近代以降の思想史においては屈指と思われる女性の宗教哲学者、花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます。 

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )NIRC (nanzan-u.ac.jp)

ここで言われている「神が自らを空しくして」云々が私の言う「神」の「自己限定」であり、ここでは特に三一論の生成的存在としての面が、西田哲学的というか仏教哲学的に表現されています。これについては、北森嘉蔵氏と量義治氏の以下の指摘が重視されます。まず北森氏の方から引用します(太字は私記)。

< 西田博士はその最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』の中で、次のように述べている。―「今日の時代精神は万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。(略)」(略)ここに「万軍の主の宗教」といわれているものがどのような立場を指示しているかは、次の文章において明白となる。―「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。(中略)」(略) 西田博士が最後に表明したこのような主張の中には、最初から一貫していた根本的な立場が現われている。今やそれが「絶対無」という表現から「自己否定的な神」という表現に変わっただけである。そして、この神に対比されているのは、「君主的神の宗教」の立場である。(中略)第一戒を神学的公理とする神学が、いかに「人間とのかかわりにおける神」を語るように「転向」したといわれようとも、また「否」よりも「然り」を言うようになったといわれようとも、その基本的方法論としての「序説」(プロレゴーメナ)が変革されないかぎり、究極的には依然として律法的排他性によって「人間的現実」を否定・排除してゆくのである。その具体的な表われは、この神学が実存性や土着性に対して究極的には否定・排除の態度をとることである。これでは依然として「自己否定を含まない神」といわれねばならないであろう。(中略)さてしかし、次の問題は、このような「自己否定的な神」が果して「東洋的」な立場や西田哲学において十全に明らかとされているかということである。(中略)ここにある問題点は次のような西田博士の文章の中に示されている。―「自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。しかして自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無となるということでなければならない。……真の絶対とは、かくのごとき意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、かくいうの外はない」(略)この文章の前半については、私はほとんど問うべきものを持たない。かえって、神学が逆に聞くべき問いと考えたい。神と人間との「対立」を主張する神学は、それによってかえって真の絶対性を逸する結果にならないかということを、この西田哲学の主張から問われるであろう。しかし、問題は後半にある。そこでは、自己否定的な神が絶対無としてとらえられている。この事と、さきに西田博士が言おうとした「絶対悲願の宗教」とは、どのように関連するであろうか。おそらく、悲願の宗教は絶対無の宗教にほかならないと言われるであろう。(後述される田辺哲学において、大非即大悲といわれることと通じる)。しかし、私は「悲願」を「絶対無」と等置することの中に、西田哲学の根本的な問題点を見るのである。西田哲学が西洋的思惟への批判を通して打ち出そうとした立場は、個体の固有性と独立性とを認めながら、しかもこれを自己の場所のうちに包む絶対者の立場であった。このことは、「包まれ得ないものを包む」こととして表現されるであろう。西洋的キリスト教の立場では、その「包まれ得ない」という固有性が十分生かされないと考えられたわけである。西田哲学が「絶対矛盾的自己同一」と呼ぶのは、このような絶対者の立場である。しかし問題は、その「絶対矛盾」にある。ここで私は二つの問題点を指摘したいと思う。(1)包む絶対者と包まれる個体との間に、「絶対矛盾」が成り立つということは、どのようなことであろうか。もしその場合、包む絶対者が「無」と考えられるだけであるなら、それに対して個体が絶対矛盾的になるということはなくなるのではあるまいか。絶対者と個体とが絶対矛盾の関係にはいるのは、個体がその絶対者にそむく場合であるが、〔※「そむく」の各文字に傍点あり。〕しかし個体によってそむかれるものが無であるならば、「そむく」ということもなくなるのではあるまいか。「そむく」という事実が成り立つのは、そむかれるものが「有」である場合だけではあるまいか。有なる個体が有なる絶対者にそむく場合にだけ、固有の意味において「そむく」という事態が成り立つのではあるまいか。ここに、従来のキリスト教が説いてきた「有」としての神の意義があるのである。これを端的に否定することは、西田哲学が最後に明らかにしようとする「絶対矛盾的自己同一」をかえって成り立たせなくするのではあるまいか。「絶対矛盾」は、いかにしても包まれ得ないという事態だからである。仏教的絶対者から区別されるキリスト教的神のもつ「律法」や「怒り」の意義は、ここに求められる。これらの事実の中に見いだされる融通不可能な固有性は、仏教的思惟の融通無碍性からキリスト教を区別するのである。「第一戒」の神の意義もここに見いだされる。(2)しかし、真実の絶対者はこの「いかにしても包まれ得ないもの」をあくまで包むところに見いだされることは、西田哲学の言うとおりである。絶対矛盾的「自己同一」はその間の消息を言おうとするのであろう。しかし、西田哲学はこのことを「絶対無」と「絶対悲願」との二つの概念で示そうとする。「無」と「悲」とである。しかし、この二つの概念の間には問題が見いだされるのではあるまいか。(中略)絶対矛盾を背負った自己同一は、無以上の性格をもたねばならないのではあるまいか。これが悲痛の性格である。キリストの十字架はその具体化である。>(~『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p138~143)、<一般者は個体と対立する相対有ではなく、有たる個体を限定する絶対無であるとされる。これが西田哲学がヘーゲル哲学をも越える画期的意義をもつとなされるゆえんでもある。しかしここでもまた極めて重大な問題の伏在することを明らかにするのが神学ではなかろうか。一般者が個体を限定する場合、有としての固有性が個体の側にのみ与えられて一般者の側に与えられないならば、そこにはまた真の意味での「絶対矛盾」は成り立たなくなるのではなかろうか。なんとなればこの時一般者は個体を徹底的に自己の外に撥く一般者の固有性が始めから奪われている。個体を「包むべからざるもの」となす主体としての固有性が一般者にない。したがって無の自己限定は真の絶対矛盾ではなくなる。無が無であって痛みでないゆえんである。福音における神の痛みは、罪人を徹底的に審くべき怒りの神の固有性を前提として、しかもこの怒りの神が罪人を赦して愛の内に包む所に成り立った。罪人を審くべき怒りの神の有としての固有性が始めて神の痛みを成り立たしめるのである。もしこの怒りの神の固有性がないなら、罪人に対する神の愛は単なる「無」としての愛であり得たであろう。しかし単なる無即愛は未だ真の絶対矛盾としての痛みではない。無と痛みとは論理の形としてはいずれも「絶対矛盾」をなしているが、それに入れられている質が全く異なる。人間が神に反逆する時に、その反逆が神にとっていかにしても審くべき怒りの対象となるのは、人間によって反逆される神があくまで有としての固有性をもつ時のみである。神が有としての固有性をもたないならば、反逆せる人間が神にとっていかにしても「包むべからざる者」となることはない。したがってこの人間に対する神の愛も決して痛みではなくして、単なる無即愛にすぎないしかしこれは絶対矛盾の破棄にほかならない。>(同上、p151~)

西田哲学の「神」は「万有在神論」の「神」であると云われます。それは万物を包む神であり、その包むという点で真の「絶対者」は「自己否定」を含まなければならない…と言われています。この「自己否定」は三一神論的にはキリストの十字架刑死に象徴されますが、私の全一神論的には「自己限定」の主旨をキリスト神話を物語ることにおいて生じる事柄なのであって、文字通り「絶対者=神」が「自己否定」しきることは、歴史の中ではあり得るとしても終末に至って以降は、いかに「全能」だと言っても究極的主権者である以上、あり得ないことです。「全能」も「ケノーシス」も賛美告白の表現にすぎず、それを客観的事実とみなすのは混同であり混乱です。

次は、量氏の指摘です。

< 絶対と云へば、云ふまでもなく、対を絶したことである。併し単に対を絶したものは、何物でもない、単なる無に過ぎない。何物も創造せない神は、無力の神である、神ではない。無論、何等かの意味に於て、対象的にあるものに対するとならば、それは相対である、絶対ではない。併し又単に対を絶したものと云ふものも絶対ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾があるのである。如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによって絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対すると云ふことは、自己が自己矛盾的に自己自身に対すると云ふことであり、それは矛盾的自己同一と云ふことでなければならない。単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。……自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むと云ふことは、自己が絶対の無となると云ふことでなければならない。自己が絶対無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとは云はれない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立すると云ふことは、無が無自身に対して立つと云ふことである。真の絶対とは、此の如き意味に於て、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神と云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三九六-三九八ページ)「絶対の無なるが故に絶対の有」晦渋にして難解である。精細に読解しなければならない。「対象的にあるものに対するとならば、それは相対的である、絶対ではない」と言う。ここで、「それ」とは、前後の文脈からして、「絶対」のことである。したがって、ここで言われていることは、絶対が対象的にあるものに対するとするならば、そのような絶対は実は相対であって絶対ではない、ということである。それでは「真の絶対」とはいかなるものなのか。西田は言う、「絶対は、無に対することによって絶対の有であるのである」と。ここは、前半はさして難解ではないが、後半はきわめて晦渋難解である。(中略)西田において、絶対が絶対の無であること、そのことがまさに絶対が絶対の有であることなのである。絶対は「絶対の無なるが故に絶対の有」なのである。絶対者としての「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである」。この「絶対の無なるが故に絶対の有」という表現は、もっと簡潔に、「絶対の無にして有」というようにも言い換えられている。西田の神観は、神は、「絶対の無にして絶対の有」、または「絶対無即絶対有」である、というものである、と言うことができるであろう。 世界としての絶対者  西田によれば、絶対無としての真の絶対有は「無限に自己自身を限定する」ことによって「無限に創造的でなければならない」(上掲書四〇〇ページ)。一なる絶対有は直ちに自己否定によって多としての世界となる。つまり絶対者は絶対者として絶対有なのではなくて、世界として絶対有なのである。西田の絶対無即絶対有とは絶対無即世界ということであり、それは端的に言えば、「空即是色」ということである。西田においては絶対有は絶対有としての意義は認められていないのである。>(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p224~228)

量氏は、「絶対無」に「超越性、他者性、人格性」が欠如し、「無律法性」と「無責任性」を指摘しています。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著前掲書p293)

また「神関係」という用語に加えて「絶対者関係」という表現も使っています。

「無」神論について関根正雄氏は次のように述べています(引用文中の太字は私記)。

<我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134)

以下では、旧約聖書的神論と汎神論との違いが示されています(引用文中の太字は私記)。

旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えているモーセの召命の時の神の顕現、これはやがてイスラエルが神の山でモーセを仲介として神と出会うが、その時のいわば前ぶれである。」(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p87 )※「越えている」は「超えている」と書くべきだったと思います。とにかく、「神」が万物に「内在」しつつも「超越」性を失わないということが「汎神論」と区別される「汎在神論」の特徴でしょう。

(以下、引用。赤字は傍点部分。太字は私記。)

< ではスピノザの思想はいかなるものであったのでしょうか。教科書などではしばしば、『エチカ』に見られるスピノザの思想は「汎神論」と解説されています(ちなみに、哲学ではよくあることですが、これは本人によるネーミングではありません)。「汎神論」とは、森羅万象あらゆるものが神であるという考え方です。日本では『八百万の神』のような、多神教的な自然崇拝のイメージが馴染み深いと思いますが、スピノザの『汎神論』では神はただ一つです。(中略)スピノザの哲学の出発点にあるのは『神は無限である』という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、『ここまでは神だけれど

、ここから先は神ではない』という線が引けないということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たちは有限です。空間的には身体という限界をもっていますし、時間的には寿命という限界をもっています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている、ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』と言います(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。神すなわち自然は外部をもたいないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。超自然的な奇跡などは存在しないということです。『神』という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの『神即自然』の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。このような神の概念は、意志をもって人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。もちろんこれはおかしな話です。神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはずだからです。しかし、そのような理屈が通用するはずがありません。教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力をもっていた時代において、スピノザの考え方は人々には受け入れがたいものでした。別の言い方をすれば、それは非常に先進的であったわけです。(中略)

最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus 」というスピノザの有名な概念です。あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向をもった力」と考えればよいでしょう。コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に非常に近いと言うことができます。(中略)

おのおのの物が自己の有〔引用者注:存在〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。(第三部定理七)

文中の「有」という訳語より、「存在」としたほうがわかりやすいかもしれません。ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物がもつコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質 essentia 」であるとスピノザが考えていることです。(中略)「本質」が「力」であるというスピノザの考え方(中略)

個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である〔……〕、言いかえればそれは〔……〕神は存在し・活動する能力をある一定の仕方で表現する物である。(第三部定理六証明)

(中略)「変状」という概念についてはすでに触れました。物が何らかの形態や性質を帯びることを変状と言います。ここにはそれに加えて、「属性」と「様態」という専門用語が使われています。この一節はスピノザにおける個物の地位、より詳しく言うと、神と個物の関係を説明したものです。

前章で、神は無限であり外部がない。したがって、私たちも含めた万物がその中にいるのだという話をしました。だからこそ神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。このことを説明するためには、神のもう一つの定義を紹介しなければなりません。神は自然であるだけでなく、『実体 substantia』とも呼ばれます。実体というのは哲学で古くから使われてきた言葉ですが、その意味するところは決して難しくはありません。実体とは実際に存在しているもののことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。私たちは神という実体の変状であるというのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えませんスピノザは水を例にしてこんな風に述べています。

水は水としては生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない。(第一部定理一五備考)

水は化学的には分解してしまうこともあるでしょうし、固体や気体にもなります。しかし、水へと変状していた実体が消え去るわけではありません。これは質量保存の法則にも似た科学的な考え方だと思います。(中略)

この個物が『様態』と呼ばれていることです。様態はラテン語で modus であり、英語で言うと mode です。なぜ個物がモードなのか。(中略)モードという言葉は、『仕方』とか『やり方』とか『様式』を意味します(中略)スピノザはつまり、私たち一人ひとりが『仕方』や『やり方』や『様式』だと言っているわけです。どういうことでしょうか。ポイントは変状にあります。私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状してさまざまなものになります。(中略)神は実にさまざまな仕方で存在できる。すると、私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式であると考えられます。そもそも自然は無限に多くの個物からなっているわけですから、神はそれら個物として存在している。個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです。この論点はさらに敷衍することができます。個物が、神が存在するにあたっての様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができます。(中略)個物が神の力を表現しているということは、自然の中で働いている、自然法則という力を表現しているということなのです。(中略)私たち一人ひとりを実体だと考えるならば、一人ひとりが名詞のような存在だということになるでしょう。これはアリストテレスデカルトなどの考え方に対応しています。ところが、スピノザの考えでは実体は神だけです。私たち一人ひとりは、神の存在の仕方を表現する様態でした。ならばこんな風に考えられます。ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人ひとりは神の存在の仕方を説明しているというわけです。(中略)確かにスピノザの言う様態は、神にとって副詞のようなものだと考えることができます。ただし、スピノザは様態を幻想のようなものと考えているわけではないことには注意しなければなりません。確かに様態は、神という実体の変状にすぎません。しかし、本章で見てきた通り、それぞれの様態は個物としての本質をもっています。神の変状であり、神の一部であるけれども、それぞれが神であるわけではないし、それは幻想でもない。それぞれの個物は本質をもつ。この繊細な論理構成にスピノザ哲学の妙味があると言ってもいいでしょう。もう一つ、『属性』という言葉にも説明が必要だと思います。この言葉は一般的には実体がもつ性質を意味します。スピノザの考える属性は、この一般的定義と矛盾するわけではないのですが、そこには独特の意味が込められています。(中略)神という実体が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在する(たとえば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。そして先に見た通り、そのそれぞれが神の力を表現している。「個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態」とはこの事態を意味しています。スピノザは精神が身体を操縦しているという考え方を何としてでも斥けようとしているわけです。(中略)

神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。(第一部定理一一)

神は精神に対応する思惟と物体に対応する延長の二つの属性だけでなく、無限に多くの属性から成っている。しかし、人間はその知性的限界故に、そのうちのたった二つしか知ることができない。>(~國分功一郎著『はじめてのスピノザ』〔講談社現代新書〕p35~87)

上記文中で著者が「神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはず」なのに、スピノザのように、つまり外部がないとか言わず、「神」の創造のわざはアウグスティヌス以来、その「外部」へのわざとされてきたし、裁きを下す神といった人間的・有限かつ相対的な存在として語っているのは「おかしな話」であると批判していますが、なぜ著者がそういうことを「おかしな話」だと感じるかということがまず問われるのであって、それは著者が「神」というものを理屈だけで認識しようとしているからです。「神」は直観的かつ直感的な対象です。その存在・働きについては知るというより感じるものなのです。だから信仰者が口にするのは、理屈としての「絶対(的)」とか「無限」ではなく、賛美としての「絶対(的)」であり「無限」なのです。神が「絶対」であるなら「無限」であり外部がないはずだ…といった形而上学的理屈は、まさに哲学的神学者小田垣雅也氏が好むような話であり、神は認識の対象にはできない存在ということになりますが、信仰の対象は理屈では認識できない、対象とはなし得ないものをなし得るものです。なぜなら信仰心は、その対象とはなし得ないところの対象である「神」から与えられる賜物だからです。だから國分氏のような理屈は、神から信仰心を得てはいない、言わば無神論者ならではの考えにほかなりません。このようなことは理屈としては、「絶対 → 無限 → 外部が無い → すべては神の中」というふうに筋は通るのでしょうが、信仰対象となる「神」というのは理屈で把握しきれるものではないのです。

< 神がもつ諸々の特性のうち主軸となっているのは自己原因である。ゆえに、確かに神には発生ということがありえないとはいえ、原因によって対象を定義する発生的定義の原則は神に対しても変わらず適用されていると言えるのだった。とはいえ、スピノザは神を直接に自己原因によって定義するわけではない。なぜならば、神が神であるのはそうした特性によってではないからである。神が神であるのはその「本質 essentia 」ゆえのことである。では神の本質とは何か。スピノザはそれに対し、「その〔神の〕存在はその本質に他ならない」という答えを与えている(第一部定理一一備考)。また次のようにも言われる。「神の存在とその本質とは同一である」(第一部定理二〇)。(中略)この定理は、神が存在しているという事実そのものが神の本質であると言っている。我々は本質というとその物の奥底にある何かを想像してしまう。しかし、神の本質は、神のうちに想定される<もの>ではなくて、神が存在しているという事実そのもの、無限に多くの属性からなる実体として存在しているという<こと>そのものである。だから、神の本質をその能力と同一視する定理、「神の能力は神の本質そのものである」(第一部定理三四)を読む際にも注意が必要である。ここに言う「能力 potentia 」とは発揮されるべく神の中で待機している潜勢力のようなものではない。神の能力とは、神を貫く法則にしたがって神が作用している<こと>そのものである。『エチカ』においては神の存在と能力と本質が等しい。神が自然と同一視される根拠の一つもここにあるだろう。スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行ったのではなくて、神が自然としてここに存在していることを描写しているのである。(中略)

神は無限である。では無限とはどういうことか。スピノザの言う無限は、どこまで行っても果てがないという意味での無限ではない。「果てがない」という否定的な表現によって説明される無限はしばしば「無際限」と呼ばれる(数学で言う可能無限をイメージするとよい)。それは人間的な視点から無限を捉えようとする時に現れる観念である。追いかけても追いかけても果てには届かない。このような無際限という意味での無限は、完成しない無限である。その結果として、無限の外側に、何か曰く言いがたいものが想定されてしまう。無際限は人間的視点が不可避的に抱え込む、到達できない外部を伴っている。それに対してスピノザの言う無限とは、言わば神の視点で捉えられた、完成している無限である。それは「完成している」という肯定的表現によって説明される(数学で言う実無限をイメージするとよい)。『エチカ』では、有限であるとはその存在の本性の部分的な否定であり、無限であるとはその絶対的肯定であると言われる(第一部定理八備考一)。つまり無限とは肯定であり、有限とは否定である。無際限の場合、有限を否定するものとして無限が捉えられている。つまり有限があり、そこからその否定としての無限が目指される(人間的視点)。それに対し、スピノザはまず無限を肯定した上で、そこからその否定としての有限を考えるのである(神の視点)。だからスピノザの無限には、無際限の場合のような外部が存在しない。(中略)神は無限であるとは、その外部が存在しないということ(中略)

神には外部がないのだから、自分以外のものから影響を受けることがない。時間的にもそのように言えるのであって、神は永遠であって、始まりも終わりもない(第一部定理一九)。外部からの影響が一切考えられないのだから、神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のものに左右されない(第一部定理一七)。(中略)したがって神が存在し、また作用する際の法則は不変である。そして無限なる神に外部がないのだから、この法則には例外がない(例外とは法則の外部である)。すべては神の法則、すなわち、自然の法則にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない。(中略)

すべて在るものが神のうちに在るとは、したがって、あらゆるものが神の一部であることを意味する。神こそは存在する唯一の「実体 substantia 」であり、様々な個物はその実体の「変状」として捉えられることになる。「変状 affectio 」とは何かが性質や形態を帯びることを言う。実体の一部が何らかの刺激を受けて変状し、個物が成立する。だから個物は生まれたり消えていったりするが、実体そのものは生まれることも消えることもない。(中略)実体の変状である個物のことを、スピノザは「様態 modus 」と呼ぶ。(中略)

存在する実体は神ただひとつだけであるが、神は実際には、常に既に変状して存在している。この自然ないし宇宙は、どこを取っても神の変状である。つまり神は無数の仕方、無数の様態で存在している万物はそのそれぞれが神の存在の仕方、つまり様態であって、だからその意味で個物は様態と呼ばれるのである。これは言い換えれば、あらゆる個物は、神がいったいどのような仕方で存在できるのかを、それぞれがそれぞれの仕方で説明しているということだ。(中略)神は草木のような仕方でも、鉱物のような仕方でも、惑星のような仕方でも、そしてもちろん人間のような仕方でも存在する力をもっている。一つひとつの個物は神が存在する仕方そのものである。だからそれぞれが神の力を説明しているわけだが、スピノザはこのことを指して、万物は神の力を「表現している exprimere 」とも述べている。(中略)

一般に、原因と結果は働きかけるものと働きかけられるものの関係として理解できる。そのように理解された時、原因と結果は二つの別の存在である。(中略)神は自分以外の何かに働きかけているわけではない。神という実体以外に何も存在しないのだから、確かに神は原因であるけれども、自分とは何か別の存在に働きかけることはできない。だとすると、万物の原因としての神を理解するにあたっては、一般的な因果性の概念は不適切だということになる。この一般的な因果性の概念をスピノザは「他動原因 causa transiens 」と呼び、神は万物の原因であるとは言っても、それは「他動原因」ではありえず、「内在原因 causa immanens 」として理解されねばならないと述べている(第一部定理一八。なお、causa transiens は畠中訳では「超越原因」となっているが、そこには特に「超越」の意味はなく、原因が結果を自らの外に生ずることを指しているだけであるから、英語で言う「他動詞 transitive verb 」に倣って、「他動原因」と訳すのがよいだろう)。(中略)内在原因はつまり、神というただひとつの実体しか認めないスピノザ存在論によって要請された因果性の概念であり、この概念の基礎となっているのが表現という考え方なのである。>(~國分功一郎著『スピノザ ―― 読む人の肖像』〔岩波新書〕p146~158)

前述のことの繰り返しになり恐縮ですが、スピノザの思想が「汎神論」にとどまって「汎在神論」まで至っていないのなら、「神即自然」は「神即人」とも解されかねないおそれを感じます。自分は、神道的要素は排除したいし、少しでも本質的に相対的な被造物(…特に人間)と接近し混同するおそれがあるような「神」には興味がなく、「神即自然」が真理だとしてもそれは聖書ではあくまでも終末において実現するとされており、終末では現世の対人関係などなくなっているので、単純な人間神化説に堕する危険性は無いが、現世では何の歯止めもないから、汎神論的な言説には十分、警戒しなければならないし、出来得る範囲で改善し修正しなければなりません。

「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。」スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

ここで言われている「絶対(的)」とか「無限」とかいった概念はことごとく信仰告白の賛美表現としての意味で用いられることになります。従って用いられている言葉が哲学用語であるにせよ、それらの概念によって規定されることはありません。例えば以下の、ユルゲン・モルトマン著、沖野政弘訳『創造における神 組織神学論叢2』(新教出版社)に書かれているような疑問に陥ること自体、「神」が信仰の対象から逸脱していることの証左でしょう。(太字は私記。)

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも「外」を持つのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限界となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。〉佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

ここでも「全能」とか「遍在」は、あくまで「神」の現実世界における主権を尊重し賛美する表現として用いられているのであって、客観的事実として「神」がそのような概念で規定される存在であるということでは全く無いのです。私などは、「神」という言葉を使うこと自体は嫌なので創造主とか絶対者とか無限実体とか言いますが、それって、無限大としてはすべての被造物を包み、無限小としてはすべての被造物に宿る…「汎在神論=万有在神論」の「神」であると信じ告白しています。「汎在神観想会」とでもいった会を作りたいとさえ思います(「汎在神信仰会」としない理由は、信仰というとどうしても人格主義的な印象を与えますが、確かに「神」の現世における「主権」とその「公正」な裁きなどのはたらき⦅…人間にとっての「公平」とか「正義」とか「愛」とは必ずしも被らない!⦆としての人格的な面は否定しないまでも擬人神観に陥りやすいところは削除したいので、敢えて人格主義的言語は避けるという主旨です)。だから、「全能と遍在の神が、そもそも『外』を持つのだろうか」?…などというモルトマンの疑問は、神信仰の実存においては、答えられるべき意味のない、どうでもよい問いなのです。肝心なこと、重要なことは、そのような賛美をもって信仰を告白している人間が現実に存在しているという事実であり、それ自体、信仰対象である「神」のはたらき(他力)によるとしか思えない…ということなのです。逆に、このはたらき(他力)がなくなれば、おのずと神信仰自体が失われ、上記の如き疑問さえも生じてこなくなるのです。それは虚無でしかありません。

契約の神…出エジプトの神は選民を試みるお方です。救いは決まっていないからこそ試みるのでしょう。それは救いが決まっている者への鍛錬とはまた意味が違います。自分の場合、救いは未決であると思うので、試みに遭わせられるだけでストレスによるメンタルの苦しみ…地獄的状況となります。自分にとっての救いは現在的なので、死後に神の民に入れてもらうといった共同体的救いに与るために現世で苦しめられることは御免こうむりたいわけです。自分にとって都合の良い神を想い描くことが自分にとっての信仰です。救済宗教は救われることが目的であって、既定路線の教義・信条を知情意で受け入れられないものを無理に盲信してまで受け入れるべきものではありません。フォイエルバッハの如き無信仰者が、「神」が人間を創造したのではなく人間が「神」を創造したのだ…と言うのは誤りとして一蹴しますが、人間は「神」を創造するのではないが「神信仰」は創造的な営みであって然りです。聖書はその創造行為の素材にすぎません。信仰は能動的かつ実存的であって然りです。そうであってこそ「霊、体、心」の全一的救いにつながるのです!救いが目的なのに苦しめられることには耐えられません。もちろん自分だけが現世利益を得たいということではありません。そうではなく信仰者は現世利益ではなく現世不利益・不運からなるべく避けられたいのです。それを利益とは言わないでしょう。べつにお金持ちにしてくれとか不死身にしてくれといったことではないんです。要は、不運に遭う頻度を少なくしてもらいたいのです。でも聖書の神は逆でしょう。選民だからこそ試練を与えます。救いに選ばれたことが決定している人も、その救いが死後に神の民とされることであるなら、いや、そんな救いよりも生きているうちに経験できる救いを優先してほしいと願うでしょう。死後にどんな素晴らしい恵みを受けるとしても、生きている間に苦しめられるのなら、そんな救いはいりません、それより生きているうちに味わう苦しみを軽減して下さい…と願う人の方が多いのではないでしょうか?

…ということで、最初に「聖定」信仰の捉え直しから書きます。聖書の三一神の(主権の)絶対性が最も明示されるのが「聖定」という教理ですが、その「聖定」、精神的に余裕があれば神義論的な私的問いなど突破して、成るように成る…聖書の三一神の定めに従って、いかに「不運」と感じられるような出来事に見舞われても受け入れてゆけると思っておりましたが、実際にはそうもいきません。特に台風です。今回はこれが自分の住む地域を直撃することになり、まあ、毎年のようなことでもあるので慣れてはいるとは言え、やはり確率的になぜこちらが、そしてよりによってなぜ自分が…という疑問というか怒りはつきまといます。何がイヤかと言えば、台風による直接的被害もさることながら、自分が周囲の人よりも台風被害に見舞われることになると、バカにしている人間を喜ばせる材料を与えてしまうということです。ふだんの人間関係におけるメンタルヘルス的事情によるのです。いちばんいけないのは自分の無用なというか過剰な自尊心でしょうが、特にことの年齢になるとほとんどの男性にはあることです。自分などはまだ理性で抑えられているとさえ思ってるくらいです。職場には6、7人もの人間がいて、台風来襲で直接の被害を受けるのは2人…すくなくとも6.5割以上の確率で無被害になれるというのに、いつもよりによって確率の低い反対の有被害の側になってしまう…しかも自分にとって「敵」である人間には大した被害はなく、自分に対してほくそ笑む顔が脳裏に浮かんでしまう…、そんな「不運」に対して感情を抑制し得るだけの精神的余裕はないのです。やはり偏り見る神でないと守護神のはたらきは信用できません。出エジプトの神は選民イスラエルを偏り見るがゆえにこそ妬む神であったのでは…?自分が被害側になればその分、他の人が被害を受けなくて済むから、そういう役とされてのこと…だなんて聖人気取りでもあるまいし、そんな思い上がった受けとめはできない…自分はそこまで強い信仰心は得ていません。「試練」と受けとめるにも限度があります。日常生活に起きるいろんな「不運」をすべて「試み」だと解するには心が貧しすぎるのです。特に台風来襲の時は自分が休日の後になることがよくあります。この休日の間に来て過ぎ去ればよかったのに…と歯がゆい思いになり休日もリラックスできません。休み明けに待ち受けている台風被害…という構図にはほんとに吐き気がします。せっかく2日もある休日がストレスで無駄になります。そんなことが毎年、夏に訪れるようなことでは、自分は「不運」を「試練」として受けとめる「聖定」信仰は維持できません。そういう感情抑制の信仰態度は疲れ果てるのです。自分の人生など死ぬ前に肯定できなくても当然。聖定ということ自体は聖書的真理として否定はできませんが、自分のその肯定できない人生こそが自分の場合の神の「聖定」なんだろうって感じです。それに「聖定」信仰と言っても結局、その主体である「神」についての考察を軽んじてはあり得ないことも歴然たる事実ですから、「聖定」信仰よりも「理神論」(deism)や「汎在神論」(Panentheism)の「神」信仰の方が現実的であり、その現実的という意味は神義論的問いに対応し得る…ということを含みます。

「苦しいときにどれほど神にすがっても救いの手がいっこうに差し伸べられないと、人間は『なぜ神は、自らの力で自分を助けてくれないのか?』『神の直接の関与は果たしてあるものなのか?』と疑問を抱くようになります。理神論は、そうした疑問に対する解答として考え出されたものです。理神論は、『神は法則として人間の前に現れる』『神の直接の関与はない』というスピリチュアリズムの神観に共通する一面を持っています。」従来の神観の整理 (spiritualism.jp)「神を法則として」と言っても、法則自体を「神」とみなすわけではありません。

シルバーバーチが『摂理(法則)』をあまりにも強調したことで、神とは法則そのものであるかのような誤解を生むことになってしまいました。しかし文字どおり『神は摂理(法則)であるああ』と受け止めるのは間違いです。シルバーバーチは、神と摂理を全く同じものと考えているわけではありません。これまでの人類の神観の根本的な間違いを正すために、あえて『神は法則です』と強調したのです。これまでの一方的なご利益信仰・神への願い事信仰を正すために、神と人間は直接的な関係を結ぶことはないこと、摂理を通してしか関係を持てないことを強調したのです。それが『神は法則です』という言葉となって示されたのです。言うまでもなく、摂理は神そのものではなく、神が造られた属性です。摂理は、神が宇宙・万物を支配するために自らの叡智によって造られたものなのです。」

スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

スピリチュアリズム普及会のサイトを見る限り神観は、私の場合、キリスト教などよりも共観できるところが多く感じられます。もちろん異なる点も多くあるので(例えば、「神に祈るかどうかは“救い”とは関係ありません。それどころか、神を信じるか信じないかということも“救い”とは直接関係してはいないのです。たとえ無神論者であっても利他愛を実践する人は『神の摂理(利他性の法則)』に一致し、霊的成長をして“救い”を得ることになります。それとは反対に、口では神を信じていると言いながら自己中心的な生き方をする人は『神の摂理(利他性の法則)』から逸脱し、カルマをつくって“救い”から遠ざかることになります。」ということ。『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「神観」 (spiritualism.jp) ・・・「祈り」(の定義にもよるが…)が「救い」の要件ではないということはわかるが、信じること…信仰(心)をも相対化している、それも倫理的行為のもとで、あってもなくても同じであるかのような言い方になっているのはヤコブ書2章の17~20節あたりを中心とした自力的な行為義認主義との誤解を招きやすい箇所の影響が察せられ、その一方でエペソ書2章の8~10節で示されている賜物としての信仰による行為という他力的なことが重視されていないと思われるところ。)、自分がこれに参加するようなことはあり得ません。そもそもスピリチュアリズムというもの自体、江原某氏のような胡散臭い人物が付きものであり、それを批判している普及会も同類であるとみなしています。自分は聖書以外のものを教典とするような団体は全く信用しないので、普及会についてはあくまでも神論的な部分だけを批判的に参考とするだけです(以下、引用。太字は私記)。印象としては、多神教よりは一神教、日本の神道よりはキリスト教の方に近いのかな…と。(;'∀')

<「一神教(一神論)」は、全世界に存在する神はただ一つであると信じる立場です。ユダヤ教キリスト教イスラム教がその代表です。スピリチュアリズムは、それらの宗教と同じく「唯一の神(大霊)」を崇拝の対象とします。背後霊や霊界でスピリチュアリズムの総指揮を執っているイエスに対してさえも、これを崇拝の対象としない徹底した「唯一神信仰」なのです。この意味で、多神教である神道スピリチュアリズムを安易に折衷しようとすることは明らかに間違っています。>従来の神観の整理 (spiritualism.jp)

<神に対する考え方――それが「神観」です。「神観」とは、神をどのような存在と見なすか、神をどのようにイメージするか、ということです。同じ「神」という言葉を用いていても、神に対する考え方や概念は、人によって、また宗教によって異なります。(中略)「神観」は、宗教(信仰)を形成するうえで最も重要な要素です。神観と宗教(信仰)はきわめて密接な関係にあり、神をどのような存在としてイメージするかによって、信仰の形態や祈りの内容が変わってきます。このように神に対する考え方は宗教の土台となる重要なものですが、現在に至るまで地上には明確な神観(神に対する考え方)は存在しませんでした。その結果、さまざまな宗教が乱立し、それぞれの考え方のもとで神への崇拝・信仰が行われてきました。(中略)エスは地球人類に画期的な神観を示しましたが、それから2千年後の現代に至って地上に登場したスピリチュアリズムによって、イエスの「神観」をさらに深めた、より画期的な「神観」が提示されることになりました。(中略)霊界通信によって地上にもたらされたスピリチュアリズムの「神観」は、まさに画期的なものでした。霊的知識を土台とした神観の形成に最も重要な役割を果たしたのが『シルバーバーチの霊訓』です。シルバーバーチは神を「大霊」と呼んでいます。「大霊」とは、神の超越性を強調した呼称です。スピリチュアリズムによって新たな神観がもたらされるまでの永い間、地上人は物質次元から「神」について解釈してきました。それは常に、人間の立場から神の姿を思い描いたものであったため、神観の中に物質的な要素が濃厚に含まれることになってしまいました。そうした物質次元の要素を取り除いて霊的観点から神の姿を示すために、シルバーバーチは神を「大霊」と呼んだのです。「大霊」という呼称には、それまでの神のイメージをはるかに超えた多くの霊的な意味が含まれています。(中略)この一節には、シルバーバーチが神を「大霊」と呼んでいる深い理由と、神の超越性を強調するシルバーバーチの「神観」がよく示されています。

神とは非人間的存在でありながら、同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性を持つことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性を持つ存在として顕現したことになります。ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰ひとり存在できません。神から切り離されるということがあり得ないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。」『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.108~109(中略)シルバーバーチの「神観」の内容は、次の5つの定義に整理することができます。①創造主としての神 ②大霊としての神 ③愛の始原としての神 ④究極の理想としての神 ⑤摂理(法則)としての神 

①~③の定義は、キリスト教の神観と共通していますが、それぞれの内容の深さはキリスト教とは次元が異なります。一つ一つの定義についてシルバーバーチが示す見解は、これまでのキリスト教の神観とは比べものにならないほど深遠なものになっています。『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした神観は、どの点をとっても画期的で、地球人類がこれまで信じてきた神観に大きな修正を迫るものです。その中でも特に重要なものが⑤の定義――「摂理(法則)としての神」です。(中略)シルバーバーチは「摂理の神」を説明する際に、しばしば「神とは摂理である」と述べています。シルバーバーチのこの言葉を文字通りに受け取ると「神」と「摂理」は同じものになり、神を創造主とする神観と食い違うことになってしまいます。創造主としての神は存在しないことになり、シャカが神の存在を不問に付し、法(真理)のみを真実在として自説を組み立てたのと同じ立場に立つことになります。もし神と摂理が同じであるなら、わざわざ「神(大霊)」という言葉を用いる必要はなく、シャカ仏教(原始仏教)のように「神(大霊)」を抜きにして「法(摂理)」から論を展開してもよいことになってしまいます。シルバーバーチの「神とは摂理である」という言葉は、これまで地球人類が「神の直接関与」を大前提としてきた神観の間違いを正すために、あえて強調したものです。言うまでもなくシルバーバーチは、「神(大霊)=創造神」としての立場に立っています。したがって、シルバーバーチの「神とは摂理である」との言葉を「神=摂理」と解釈することは間違いです。シルバーバーチは別のところで、大霊が摂理を創造したことを明言し、「神」と「摂理」は同じではないことを明らかにしています。>『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「神観」 (spiritualism.jp)

神観はよいのですが、肝心な教典が聖書ではなく、シルバーバーチ(…ネイティブ・アメリカンの男性ではないそうで、元の人物については謎とのこと)の霊訓となっていることが最大の問題です。聖書に加えて、そのようなものが準教典としてあるというならまだしも、聖書はほとんど顧みられていないのです。また、神観の分類に「汎在神論=万有在神論」が入っていない点は、この「普及会」における神論の狭さ…知識的限界を感じさせます。

スピリチュアリズムは明確な『創造神論』の立場であり、神と世界、神と人間との間に明確な一線を画しています。言うまでもなく“汎神論”を否定しています。」

従来の神観の整理 (spiritualism.jp)

スピリチュアリズムの神観のポイントが10個掲げられています。

< 1)神は「創造主」として、霊界と宇宙を造られた。私たち人間をはじめとする万物は神によって造られた 2)神は人間をはじめとする被造物を、自らに似せて創造された。そのため被造物は、神と同じ要素を有している 3)神は無形の存在であり、あらゆる区別・形式・概念を超越し、被造界・被造物に遍在している 4)神は人間にとって「霊的な親」である 5)神は私たち人間を愛してくれている。私たち人間と万物は、神によって愛されている 6)神は摂理(法則)を通して世界を支配している 7)神は人間・万物のすべてを完全に把握し、完全平等・完全公平に扱っている 8)神の完全性は、摂理(法則)の完璧性を通して知ることができる 9)人間は永遠の霊性進化の道をたどるが、それは終わりのない神への接近のプロセスである 10)人間は利他愛の実践を通して神を愛することになり、神により接近することになる >                    さらに次のように書かれています。

「神と私たち人間には、『造ったもの』と『造られたもの』という決定的な違いがあります。神と人間との間には、創造主と被造物という明確な一線が引かれています。先に述べたように、人間・万物を神の一部と見なす“汎神論”は間違いです。」スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

上記のとおり、普及会のサイトでは汎神論は明確に否定されているので、この会に代表されるスピリチュアリズムの立場では汎在神論が採用されていると思われます。実際に「シルバーバーチの霊訓(11)」では、汎在神論に該当するような言葉が記されています。

「ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性であり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在できません。神から切り離されるということはありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在するかぎりはすべてのものに宿っているのです。私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難の業です。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。」スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

また、キリスト教が「愛の宗教」といわれることに関する誤解も指摘されていて、正解と言えるかどうかはともかく、批判の動機としては、それはそれでよいと感じます。

キリスト教が説く『一方的に罪や過ちを許す愛の神』は、イエスの『愛なる神』を歪曲してでっち上げたニセの神観です。それは地上の人間が、自分たちの知性と都合によって勝手につくり上げた神観に他なりません。この『一方的な許しの神』という最悪の神観が、イエスによってもたらされた『愛の神』に取って代わってしまったのです。」時代とともに進化してきた神の概念 (spiritualism.jp)

シルバーバーチは、「愛の神」の概念に反するような見解を述べています。「私は自然法則について語っているだけです。私は父なる神などという言い方も致しません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。私は法則に目を向けます。私は宇宙の目的に目を向けます」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.123)と、まるで正反対の内容を述べています。この言葉は、従来の宗教(特にキリスト教)が、父なる神・愛の親神という概念のもとで、あまりにも神の摂理から懸け離れた自己中心的・人間中心的なご利益信仰に陥っている実情を批判するために語ったものです。間違った愛の神観を是正するために、「神の法則性・法則の神」を強調して厳しい言い方をしたのであり、決して「親なる神・愛の神」を否定したものではありません。>スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

< スピリチュアリズムの神観の最大の特徴は、「摂理(法則)の神」を強調するところにあります。「愛の神」と同時に「摂理の神」、すなわち神の摂理性を徹底して訴えます。時には「愛の神」以上に「摂理の神」を重要視します。それは地球上における従来のすべての宗教の欠点が、そこにあったからなのです。地球人類は「摂理(法則)の神」について理解していなかったために、間違った神信仰を延々と続けてきました。長い間、ずっと的外れな神信仰・無意味な信仰をしてきたのです。地球上における宗教の間違いは、この「摂理の神」に対する無知に起因します。そのため高級霊は神について論じるとき、必ず「神の摂理(法則)」について言及するのです。(中略)地球人類が神に近づくためには「神の摂理(法則)」を正しく理解し、摂理にそった生活を送るように努力していくことです。神に特別な配慮を願うのではなく、自分の方から神の造られた摂理に合わせていくべきなのです。そうした努力こそが、まさに「正しい信仰」なのです。スピリチュアリズムは、神に願い事をするのではなく、自分から神の摂理に一致していく、摂理に自らを従わせる努力をしていくことが正しい神信仰であることを明らかにしました。それこそが、人間が長い間求め続けてきた幸せに至る唯一の道なのです。これまで地球人類は、神を絶対的な権威者として崇拝し、神に願い事をすることが信仰であると錯覚してきました。今、スピリチュアリズムによって地球人類は、初めて本当の神信仰を知りました。神に願い事をしたり、一方的に神にすがるのではなく、神の絶対性を信じて人間の方から神の摂理に合わせていくことが「正しい信仰」であることを理解するようになりました。こうして人類史上、初めて真実の神信仰が始まることになったのです。*シルバーバーチの「摂理の神」についての誤解 シルバーバーチが「摂理(法則)」をあまりにも強調したことで、神とは法則そのものであるかのような誤解を生むことになってしまいました。しかし文字どおり「神は摂理(法則)である」と受け止めるのは間違いです。シルバーバーチは、神と摂理を全く同じものと考えているわけではありません。これまでの人類の神観の根本的な間違いを正すために、あえて「神は法則です」と強調したのです。これまでの一方的なご利益信仰・神への願い事信仰を正すために、神と人間は直接的な関係を結ぶことはないこと、摂理を通してしか関係を持てないことを強調したのです。それが「神は法則です」という言葉となって示されたのです。言うまでもなく、摂理は神そのものではなく、神が造られた属性です。摂理は、神が宇宙・万物を支配するために自らの叡智によって造られたものなのです。>スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

普及会の最大の問題は教典です。

シルバーバーチが一番と言うと“シルバーバーチ教”と批判する人々がいますが、それは誤解です。『シルバーバーチが一番』ということの真意は、シルバーバーチの霊訓の内容が、スピリチュアリズム関連の多くの霊界通信の中で、霊的真理を最も広範かつ正確に示しているということなのです。私たちは、シルバーバーチという一人の高級霊を崇拝しているわけではありません。シルバーバーチを信仰対象とはしていません。私たちにとっての崇拝の対象は『神(大霊)』であり『神の摂理』です。」スピリチュアリズム普及会の紹介 (spiritualism.jp)と言いながらも、「私たちは現時点の地球上には、『シルバーバーチの霊訓』以上の真理は存在しないと考えています。」と言ってるのだから「シルバーバーチ教」との批判は、あなたがち誤解とまでは言えないのではないでしょうか?実際、サイトを見ればシルバーバーチの霊訓至上主義みたいな印象を受けます。シルバーバーチという人物およびその霊は崇拝対象ではないとしても、その霊訓の内容は福音派クリスチャンにとっての誤りなき神のことば的な信仰対象のレベルに達している感じがします。

ところで、キルケゴールの主体性を真理とする思想を神信仰にあてはめると、要は、自分に対する作用・はたらきが良ければ、その主体である「神」の性格も良いに決まっている…というのがより実践的な信仰であり合理的な考えのようでもありますが、自分の場合、その(「神」からの)はたらきが良いとは感じられないわけですから、そこで神信仰を維持しようとすれば、やはり「神」そのものを理神論とか汎在神論的に論じる必要が生じてきます。そうでなくても自分はイエス・キリストを「真に人」としてはもちろんのこと「真に神」としてであれ、人を愛するという意味で愛するということは難しいので(せいぜい親である御父を映す鏡としての尊敬にとどまる)、キリスト教の三一神への信仰を受け入れるためには、御父を中心としなければならない…御子従属説です。三一信仰自体は、ヘーゲル弁証法…生成し自発自展する絶対精神を「神」に応用した(神の)存在は生成においてある(~ユンゲル)といった「生ける神」という神観において必然的なので、その点では認めますが、聖書的という点では御子従属が前提とならなければ受け入れられません。御子従属といっても無論、アリウス系異端説のように被造物(=天使)御子説ではなく、あくまでも創造者側の御子説です(但しその場合、御父のみである創造主とは区別されてコロサイ1:16の「エン」〔~にあって〕と「ディア」〔~を介して〕に示されている媒介者としての役割)。

ウェストミンスター信仰基準および改革派神学は参考にはしますが、絶対化したり執着はしません。教派の如何に関わらず教会というものは、毎月、献金支出で生活費を削られることになるからです。献金が大半が牧師家族を養うための経費になるわけだし、どんな牧師の説教も聴く気にならないので…。自分はキリスト教という宗教自体から脱却する方向になりつつあります。個人的に信仰を持つことはあっても、もはや共同体主義的な信仰はあり得ません。確かに聖書の宗教は必然的に共同体主義的信仰となっています。信仰対象が創造主である「神」であるなら、自分だけが関係を持つわけがありません。対神関係は個人的な面だけではなく普遍的な面があり、主観的な面だけではなく客観的な面があるはずです。その普遍性や客観性が哲学の理屈で示され、その究極がスピノザの「神即自然」(Deus sive Natura)です。創造主は「能産的自然」(Natura naturans)と表現されます。そのような自然(世界、宇宙)を創造した「神」を信仰対象とするのだから、まったくの個人としての宗教ではないことは言うまでもありません。しかしそれは哲学的理屈の同意による客観性および共同性ということではおかしいのです。宗教的には哲学や科学とは独立した客観性・共同性があるわけで、それは神の賜物としての信仰に基づく以外にはないのです。そしてそれは理屈ではなく賛美なのです。絶対だから無限で外部が無い…などという理屈への同意としての客観性ではなく、「神」を「絶対(的)、無限、」さらには「永遠」といった形而上学的用語を賛美告白に使う信仰心での一致であり、それって組織・制度化の志向とは相容れません。

それにしてもキリスト教は本来、教会主義となるべき宗教だったのか?それともエクレシアとは「神」と個人信者との媒介的存在であって、それ自体に権威などを付与するものではなかったのではないか…?それが使徒信条では「聖なる公同の教会」という絶対的な宗教組織として信仰の対象になっています。教会はキリストの体として普遍的神秘体とされています。そういうのは終末以降の話としてはともかく、カトリシズムのようにすでに現世からの事柄としては、自分の信仰にはまったく合いません。教会組織にはいっさいの権威など認め得ません。聖書が教会がキリストの体であるというならそれはそれで認めるしかありませんが、べつにかまいません。そもそも自分は「キリスト」の体などに関心は無いからです。体に関心があるとすれば、それは「神」の体です。その「神」は終末において「すべてにおいてすべてとなる」わけで、それはつまり創造主の自己限定していた状態が解除されて元来の全一者に帰するということです。これは汎神論的な意味ではなく、全被造物が神の体になることを意味します。隔絶しつつ同一化する、超越しつつ内在するのです。

ところで、F・ニーチェは「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と言ったそうで、加藤諦三氏も「事実は直接人には影響を与えません。 事実はその人の解釈を通じて、その人に影響を与えます。」と述べておられます。 テレフォン人生相談 事実はその人の解釈を通じてのみ影響を与えます!加藤諦三&大原敬子! - YouTubeほんとうにそうだろうか?と考えてみると、やはりこれも「程度」を入れて考えないと現実からズレてくると思います。自分の子が反抗期だからか急に無口になってしまったという事実が問題ではなく、それに対する親である自分の感じ方、解釈が問題である…ということですが、両方にそれなりの問題があるのかも知れません。親が受け取り方を変えるだけで事態が改善させるのかどうなのか…?

無口ならよいですが暴言の場合には、身内であっても、解釈の余地なく客観的事実として心を傷つけるということはあると思います。悪意むき出しなんですから当然です。しかしそこまでハッキリしない動機による曖昧な振舞いもあろうかと思います。疑えば悪意であり暴言にもなり得るような言葉…。格言などに見られる上から目線で言い切り型の極端な思考…いわゆるゼロ百思考が認知の歪みにつながっているのでしょう。

対人関係におけるストレス苦は心臓に悪いと痛感します。自分心室性期外収縮なので、不快な言葉やそれを言った人の表情およびそのシチュエーションが脳内で自動的に思い出されるたびにドキっとするので、なおさらそう思います。対象者の不快な発言にその時うまく対応できなかった自分の低弱さへの怒りが自分自身の心を傷つける刃となるのです。自尊心の自分(自我)が、その自分に縛られている現実の自分(自己)を傷つけるのです。すなわち精神的被害は、他人の暴言とか不快発言だけが一方的に外から凶器として自分の心を刺すという場合だけではなく、その他人の言葉が、暴言とか誹謗中傷とはっきりわかるようなものではなく、言い訳次第ではなんとでも言える程度のものである場合の方が健康上、深刻なこともあり、そのような場合は、その言葉を悪意によるものとして解釈することが、直接的な被害をもたらすことになります。たしかに相手に悪意がなければ悪意があると解することはなく、ほとんどの場合、その動機的な面では主客一致です。主客が分かれてくるとしたら、動機としての悪意に加えてさらにいろんな思惑を想像する時でしょう。当たっている部分はかなりあるとは思いますが、被害妄想的な面も否定しきれるわけではありません。ただ、当たっていることの確信を得て、それがさらにショックになることがあるので、程度としては妄想より事実であると思う方が大きいのです。

これに対しては、現実の自分(自己)が、自尊心の偏主としての自分(自我)に従って、ことあるごとにいちいち反撃行動に出て争い続け、小さいながらも成功体験を積み重ねて自信を確立してゆくとか…、そうやっていちいちドキドキしながら言い返しては一喜一憂する心貧しき自分(自我自己=肉自)であり続けるか、または同じく心貧しき自分に変わりはなく、その自分を直視して、貧しきなりに心の中に散らばっているエゴ汚物の悪臭だけでも外に捨てて気分的には空(カラ)に近い状態…すなわち謙虚になって心を軽くしラクになるために、宗教的な意識変容を試み(…その具体的方法を試みるための行動は聖霊派系に行って自分なりに体験してはみたが…)、あるいは精神医学の関係で認知行動療法を自分なりに試したりして、他人の言葉に対する怒りなどのネガティブな感情を相対化する工夫をしてみる自分(…肉自よりは少しましな霊自)として生きるより、やはり自分には信仰的な解決の方向に進んでゆくより仕方がないと思えるのは、いちいち言い返したりしても一時的にはフックとかボディーブローが決まってポイントを少しは挽回できた感じにはなっても、そこで返された小出しのジャブがまた利いてきて再びフックを決めないといけなくなってキリがないし、へたすると妙なことを言ってしまったり不適切反応しちゃってオウンゴールというかカウンターをくらう危険もあるからです。だからある程度まで戻したら、あとはよほど致命的ダメージになるようなパンチを相手が出してこない以上は、あるいは出してきてももろにくらわないようにいなしかわしながら、とにかく打ち合いになるようなことは避けて、相手がなめるならなめてもいいといったゆとりを持った態度で進んで行く方が無難でしょう。最悪な事態は心身に病や障害が生じて生活に支障をきたすことです。経済的には医療保険があるので休職しても(有給も使えるなら)なんとかなるとは思いますが、夫婦の和が壊れるようなことがあってはいけません。たとえ自分が壊れても相手を壊さないように心していなければならないのです。現状から一歩引いて大局的に生活世界を見てゆくことが高齢になった人間には必要なことになります。特に自分たちの場合は実際問題として転居を志望する理由があり、どうせ高い費用をかけて人生最後の転居をするなら医療の面や教会のことも考えて都会の方が良いに決まっているので、それに向けて心を向けるなら収入を確実に得てゆくこと、すなわち職場で失敗を犯したり生活の中で損失を出さないようにすることを第一として集中しなければなりません。年をとって脳の使用力が落ちている以上、少々のストレス苦などより、生活経済の維持管理の方に意識を集中してゆかねばなりません。それは宗教的、信仰的なレベルでは、救いの確証を得るための聖霊信仰による解消(は現状の自分にとっては観念にとどまり行動にする余裕はないので、試みるだけ無駄なこと)を求める信仰より、人生の終末まで考慮したうえでの聖定信仰(によってすでに解決されていること)を生きていって然りだと思う、そんな自分(空自)に至りました。

つまり自分の場合は、メンタルが受けるダメージに対して対処療法的にその時々、聖霊信仰(体験)による自己治療を試みる志向より、長いスパンでこれからの生活の保守・維持管理などに心を向けて、あくまで聖定信仰により人生の終末の迎え方といった観点で考えながら進んでゆく方が、自分の人生全体を、時制を超えて大所高所から総合的に俯瞰するなら、そういうことになるだろう。八木誠一氏のいわれる「創造的空」は「神(のはたらき)」のことのようだけど、自分にとっては意味は違うだろうが、信仰ある自分の心の呼称として相応しい。単に空(カラ)っぽということではなく、創造主による意味を与えられての「空(カラ)」なのです。自分にとって創造主は被造物と隔絶した超絶存在であり、イエスが「アッバ」と呼んだおかたなのである。イエス自身は肉体を持って生きておられた以上、超絶者ではあり得ず、彼も自我無化(ケノーシス)して生きた「創造的空」であり、それが霊の親(=御父)である創造主の、「愛」という名の自己限定を映す鏡だったのです。自我自己である煩悩具足の我らは自我無化なんてできやしないし、御計画にあっては無理にするそんなことする必要はないのですが、自分の負うべき十字架としては、キリストの平和を願って少しでも近づける努力はすべきでしょう。

福音派的な聖書の読み方も、時には個人の問題で有効な場合があるらしい。今回は「万軍の主に届いている」と題されたメッセージがためになりました。https://www.youtube.com/watch?v=REQ6NySA4BM

「今週は、神の正義を心にとめて、平和な子で暮らす一週間というのはいかがでしょうか?皆さん、理不尽なことに遭うかも知れません。でも、怒りは神の義を実現しないんだと…、私たちの悔しい思いとか傷ついた思いというのはちゃんと神さまに届いてるんだということですね。でも皆さん、おっしゃるかも知れない…、私、神さまに裁きを委ねたんですけど、あの人になにも起こってません…とかね…、そういうことを思うかも知れない。そういう時はですね、自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないのです。実は自分の方が悪いのかも知れないんです。私たちはですね、他人(ひと)を実際以上に悪く思う傾向があります。どちらにしても、神さまは正しく裁いておられるわけです。皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、その人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんですよ。何も起こらなかったら、それほど悪くはなかった…どっちにせよ、正しい裁きは常になされるんだと、だから、私たちの怒りは常に神さまにゆだねて、平和な子で暮らす一週間でありたいと思います。」

・・・クリスチャンは怒りをもってはいけない、ましてや復讐心などはもってのほかである…みたいなことを説教でいくら言ったところでキレイゴトになるだけで問題の解決には寄与しません。罪ある人間としてマイナスの感情があることを認めたうえで、それをどう調節してゆけるかという可能性を信仰的観点から探るのが現実的なメッセージになります。

「すべて悩みは対人関係の悩みである」といった言葉、考えがあるようですが(~アドラー)、聖書的には「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(文語訳 ロマ12:19)というみ言葉は慰めの言葉ですね。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」(新改訳 同上)・・・上記引用の長澤牧師のメッセージにおける「私たちの怒りは常に神さまにゆだねて」ということは、直接的にはこの聖句に依拠していると思われますがいかがですか?パウロは言います、「わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。」(口語訳Ⅱコリ12:20)・・・新改訳では「私は心配をしています。そちらに行ってみると、あなたがたは私が期待したような人たちでなく、私もあなたがたが期待したような者でなかった、ということにならないでしょうか。争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、混乱がありはしないでしょうか。」と、口語訳の「怒り」が新改訳2017では「憤り」になっています。まあ、同じことですね。クリスチャンは、人として他人の言動に対して「怒り・憤り」を感じますが、それを自分自身で復讐行動に表わすのではなく、全能なる絶対主権者であられる三一の「神」にゆだねる…ということが、「対人関係の悩み」の最も有効で実際的な解決法であるということなんですね‼

ところで、対人関係のストレス問題は、経験から言って、客観面と主観面との両方を適切な比率によって見なければ実際的判断が出来ないと思います。前述の加藤諦三氏の「事実」と「解釈」のお話のように、客観面だけを見ると世の多くの気短な男たちのように感情をさらけ出し、実力行使によって解決しなければならなくなります。これではクリスチャンとしての「キリストの平和」主義的志向に逆行します。さりとて主観面ばかりに偏向しても相手との関係は続くので現実的な対応とは言えません。加藤諦三氏の言われることは「解釈」すなわち主観面の方に偏っていると思います。それは認知行動療法ではないでしょう。あくまで「行動」せずして認知(ものの見方)だけ変えようたって無理だからです。小さな成功体験を積み重ねるという「行動」による客観的変化があってこそ、精神的な余裕も生まれ自信も出て来て、それによって狭小的だった見方が少しづつ開かれてゆくのです。そのように余裕にもとづく認知の向上が聖書の教えとの接点を得られるようになるのです。逆に言えば、心に余裕なくして聖書のメッセージを落ち着いて読み取ることは困難です。読むということ自体が受け身であると同時に能動的な知的行為なので、それなりの精神的な余裕なしにはできません。ましてや聖書は…です。頭の中に悩みが場面として浮かんでくると、ドキっとして心臓に悪く不整脈の原因にもなりそうです。自分が若い頃に心室性期外収縮になったのは小心者という性格と無関係とは思えません。そして自己愛的な潔癖主義的なところがあり、頭の中がすっきりと片付いていないと安心して眠れないのです。つまり悩みの断片が頭の中・心の中にちらかっている状態では落ち着かないのです。その断片のひとつひとつが走馬灯のように自動的に思い巡らされて、特に不快な場面が来るとドキンとするのです。自分がその断片ごとに相手がこう思ったんだろう…と悔しがるほどに相手がその場面を思い出して悦に浸っているかどうかはわかりません。自分が思う程には気にしていないかも知れないし、自分が推察する内容とは違う意味でほくそ笑んでいるのかも知れないし、あまり気にしていないかも知れません。あるいは、自分がこれは相手はあまり気にしてないだろう…と思っていることを気にしているかもしれないわけで、主客の一致の度合いは測り難いのです。したがってそうした不快な記憶の断片が頭の中にちらばっている状態であっても、ちらかった部屋に住んでいて平気な人のように、慣れて平気でいられる逞しさを持つしかないのです。そのためにも信仰の力が必要です。いわゆる「ドルト信仰基準」の5点の頭文字を集めて「チューリップ」(1.「全的腐敗」〔Total depravity〕、2.「無条件的選び」〔Unconditional election〕、3.「限定的贖罪」〔Limited atonement〕、4.「不可抗的恩恵」〔Irresistible grace〕、5.「聖徒の堅忍」〔Perseverance of the saints〕)と呼ばれる、最後の「聖徒の堅忍」も、「堅忍」できる「聖徒」とは「神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々」ということです。その反対は「み言葉の宣教で召され、みたまの一般的な活動に浴しても、真実にはキリストにこない」人々だと言われています(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』〔新教出版社〕p178~179)。

自分がどっちであるか判断できるならよいのですが、それは無理ってことです。予知にもとづく条件的選びを主張するアルミニアンの場合なら、現時点で自分がどちらに属するか判明してもそれが死ぬまで変わらないと保証はないわけです。どっちの方が人間にとって都合がよいのかはどうでもよいことだというのが改革派の立場でしょう。しかし現実の倫理的な問題の解決のためには、そのような高尚なる教義では無効であり、もっと実践的な知恵が必要になります。凡人であっても信心のみによって「堅忍」する術を身につけられなければなりません。救いに選ばれているか否かが不明である以上、対象は聖徒だけではなく、福音的精神においては、現時点で父・子・聖霊の三一神を信仰するすべての人であって然りなのです。

「カルヴィニストは真の信仰者の堅忍の確実性と無謬性は、父、み子、聖霊なる三位一体の神の首尾一貫した主権的な救いのみわざにその根拠を持っていることを確信し(中略)恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ないことを主張します。」(前掲書p181)

「真の信仰者は、信仰と悔改めの生活に励み、聖化の戦いを戦い続けて遂に勝利する(中略)のは、不確かな人間の意志にではなく、神の主権的恩寵によってです。ドルト信仰規準は聖徒の堅忍という言葉と共に保持という言葉を用いています。(中略)聖徒が信仰と聖潔の道を歩み続けることなしに救いはありません。神が信仰者を力強く恵み深く保持したまわなければ、聖徒の堅忍はありません。ですからベルコフやヘルマン・カイパーなどは聖徒の堅忍というよりは、神の恵みのみわざの主権的な首尾一貫した貫徹という面からむしろ「保持」とした方がよいとさえ言っています。一つの考え方でしょう。わたしとしては、むしろ両者の密接不可分性を強調した方がよいと思います。」(同、p183)

まさに絶対他力の考えなので、上記のようなことになります。「不確かな人間の意志にではなく、神の主権的恩寵によって」とはそういう発想です。だからこそ根拠は常に神の客観性に置かれます。自由主義神学聖霊派が批判されるのは、「絶対依存の感情」というように、あるいは体験主義のように、根拠を人間の主観の側に置く傾向があるからでしょう。改革派的思考では、教理の根拠を信徒の主観に置かず、あくまでも神論的な客観性に置こうとします。バルト神学も客観主義と言われています。もちろん客観性と言ってもそれはあくまでもキリスト教内でのことであって、一般的には通用し得ません。救いの根拠という点では実存論的神学においても神の側の客観性に置かれているとは思うし、自分も従属的理解においてであるなら三一神信仰を告白するのです(神の「自己限定」による「従属→同等」)。たしかにイエスは肉体を持った以上は有限・相対なる人間なので、絶対超越者という意味の「神」とは認め得ませんが、その「御子」という従属的立場として神性を有することは認め得るし、啓示という点ではやはりそのような媒介的存在が必要ではあります。だから真の意味での「神」は御父のみであるが、その御父との関係を結び、その関係を生き得るためには御子と御霊の2者が論理的に要請されてくるのです。御子はあくまで御父を映す鏡であり、昇天後は人性よりも神性に重きが置かれて、イエスではなくキリストとか御子と呼ばれて然りです。

それにしても改革派教理で、救いの予定の如何にかかわらず人生論的に使え得るのは「予定」および「聖定」だけです。自分で救いに定められていると信じ込めばよいのだから…。それにしても救いの確証を得ての精神的余裕で愛をもって生きる…という展開には、神学的客観主義ではなりません。だって信仰論的には、「確証」というその「確かさ」は「確信」と同じことであって自分自身の内に住んでおられる聖霊のはたらきによって実現されるとしか言えないからです。

「ドルト信仰規準では第五の教理『聖徒の堅忍について』の章は、第一条から第八条までは聖徒の堅忍について、第九条以下で、恵みと救いの確信について教えていて、この二つの真理が密接不可分に教えられ、学ばれ、信ぜられなければならないことが分かります。ドルトの教えとウェストミンスター信仰告白の教えとはこの点まったく同一です。(中略)聖化の未完成、罪の残存からくる自分の弱さ、世の誘惑、悪魔の攻撃にさらされているわたしたちは、しかもなお真の信仰を持っているならば決して恵みの状態から落ちることはないばかりか、恵みと救いの確信を与えられるのです。(中略)キリストを信ずる信仰を木にたとえれば、自分が救われているという確信は実です。この順序を取り違えてはなりません。信仰には、人により、また同じ人であっても時により、程度に強弱の相違があります。しかし、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストは、必ずわたしたちに勝利を与え、また、わたしたちの信仰を全き確信に至るまで成長させて下さるのです。神学では、前者を信仰の確信(ヘブル一〇・二二、コロサイ二・二)、後者の自分が救われているという確信の方を希望の確信(ヘブル六・一一、一二)ということがあります(中略)救拯的信仰が、正しく導かれ、育てられ、キリストの恵みによって全き確信にまで成長して行くとき、第一八章で教えられているように、自分の恵みち救いについての無謬の確信がわたしたちの心の中に与えられるのです。(中略)他のさまざまの救いの祝福と無関係にではなく、共に与えられることを強調しています。ですから他の恵みと切り離して、この救いの確信だけを求めても駄目だということが分かりますね。」(前掲書p186~188)

・・・結局、すべて神さまの御意志如何であり、人間の側でいろいろ考えてやってみたところで、出来ないことは出来ないのです。心機一転、教会生活に打ち込もうとか聖なる生活に転じようなどと思い立って威勢よく始めてみたところが、そもそも無理なので早々に失速して挫折した経験があるので、ましてや高齢になって繰り返す愚は避けます。聖定信仰で、成るように成るといった気楽な思いで、すべて神におゆだねして生きる…その中でやる気にさせられたことは自主的にやるのだから、主体性や能動性を捨てることではない…とは言え、教会生活なしには救われない…といった外的要素もあるのでしょうから、結局、形として敬虔なるクリスチャンみたいなイメージの生活態度に現れてこない人は救われないってことです。つまり救われるという確証は客観的に成り立たないが(⇒いくら教会生活に熱心だからといって救われるとは限らない)、救われないという確証は客観的に成り立ち得る(⇒すくなくとも教会生活ができていない者がそのままで救われることはない)ってことです。

ということで自分の現状はおそらく死ぬまで大した改善はないのでしょうから、こんな状態でも救われるという福音を聞きたいわけです。それが改革派では無理…キリスト教では無理…ということなら、浄土真宗ではどうか…?ということになりますが、仮に真宗では可とされるとしても、信仰対象が聖書の三一神ではないということのゆえに、これは見送らなければなりません。なぜなら絶対他力の救いだからこそ、最終的な根拠は「神」の側にあるのだからです。その「神」が聖書以外によって物語られる(「仏」を含む)偶像である以上、相対の絶対化という愚を犯すことになります。法蔵菩薩は元は比丘という人間にすぎません。それが修行によって阿弥陀仏になったとしても、それはけっして絶対かつ超越なる者とは言えないのです。イエスも人間ではありますが、神性を持つということで、いわゆる「神が人間になった」という受肉の教説は「神の子が人間になった」というふうに小田切信男氏のような解し方をしたところで、神性を有つ者が肉体を持ったということに変わりはないので、やはり神性者にはある種の序列をつけて解するしかありません。ヨハネ福音書17:3にあるとおり、「唯一の、まことの神でいますあなた」すなわち御父が最上位の「神(の中の神)」なのです。しかしそれを「同等」としているのが御父の「自己限定」ということで、聖書の神論はこの「神の自己限定」ということなしに論じても表面的理解にとどまります。

結局、自分のような者はキリスト教にとどまりながらも救いを望めない状況に生き続け、そしてそう長くない先に絶望的な死を迎えるわけです。

「肉体の死によって、からだを離れた霊魂は無意識な睡眠状態に陥るのでもなく、また消滅してしまうのでもありません。天国に行った信仰者の魂にしても、地獄に行った不信仰者の魂にしても、この世における以上のはっきりした意識を持ち続けるわけです。しかし信仰告白がはっきり語っているように、その意識の内容がまったく両者で異なるわけですね。『義人の霊魂は……光と栄光のうちに神のみ顔を見る』のに対して、『悪人の霊魂は……そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける』のです。」(前掲書p303)・・・「聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない」(前掲書p303)・・・「苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける」なんておそろしいですね。ただ「苦悩」と言っても生前のそれと根本的に異なるのは、生前はまだ「死」を経験してないので、死の恐怖に伴う苦悩が含まれますが、死後は永遠の恐怖ということになります。無限に苦しみ続けるということです。

「悪人たちは審判の日に、自分たちが不公平にとり扱われると感じるだろうか。—— 決して感じない。彼らが神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていないとしても、彼らは自分の良心をもって、神がその正義にしたがって、自分たちを厳密にとり扱って下さったことを知るのである。審判の日には、神の完全な正義が最終的に、すべての被造物の前に確立される。そして、すべてのものが神が義しいと告白するのである。神は不正だと神を非難しつつ、自分の生涯を送った人々も、自分の心の中で、神は義しいということと、自分たちが悪いということとを認識するにいたるのである。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版局〕p345~346)「神はきわめて善い方であり愛に富む方であるから、悪人を永遠に罰することはされないという考え方はどうか。―― あやまった考え方である。神の善と愛について私たちが知る道は、ただ聖書からだけである。その聖書は『神は愛である』と教えると共に、又、『神は焼きつくす火である』(ヘブル一二29)とも教えている。聖書の多くの教えの中から、あるものだけを選んでとりだすことはまちがっている。(中略)私たちが神の愛について、聖書が教えることを受け入れるのならば、又聖書が神の義と罪に対する神の怒りについて教えていることも、受け入れねばならない(ローマ一18)。」(前掲書p347~348)・・・そもそも「神の愛」の「愛」と訳された「アハバー/アガペー」を、人間の一般的な愛情と混同してはならないし、そもそも日本語としては「愛」と訳すことがベストだったかどうかもわからない。不適切な訳語だったからこそ、「愛に富む方であるから、悪人を永遠に罰することはされない」などという誤解が生じるのではないでしょうか?

改革派信仰において死後には天国か地獄かしかありません。「シェオール/ハデス」(陰府)も「ゲヘナ」(地獄)としてしか存在しないのです。

とにかく、理屈では確率50%とは言え、今の自分のままでは「善人」であるよりはるかに「悪人」の方であって、死後は最後の審判の結果、「天国」ではなく「地獄」に堕ちて永遠に苦しまなければならないであろうことは覚悟しておかなければならない。実際にはその確率の方が高い。但し、自分は悪人の中でも少しはマシな方だろうと思うのは、さすがに「神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていない」(前掲書p345)ということはない、それほどはひどくなくて、「愛」と言えるかどうかはともかく、神を畏れよと言われるように畏敬の念は信仰心において持っているからだ。主イエスに対しても、ヨハネ福音書における御父に対する従属的関係においては、自分たち信徒に対して「信仰の導き手であり、またその完成者である」(ヘブル12:2)と思えます。そして現時点で私にとっての最大の救いは、生前から死後状態を先取りするかたちにはなりますが、宇宙・世界の絶対主権者にして自分の人生の主権者でもある父・子・聖霊の三一神に対しては、「愛」と言えるかどうかは定かではないが、信仰心は得ており、その対象である「神」の聖定によって自分の人生が…これから死を迎え、その先に行く、そこでの状態が決められているということです。聖書が示す三一神…特に霊魂の父(ヘブル12:9~10)によって聖定されたことである以上、死後がいかなる状態になっても受け入れ得るということです。救いに選ばれている者もいない者もすべての人間およびすべての被造物が、この三一神によって永遠に聖定されているのです。

 

 

 

 

 

創造的空(超「意味ー無意味」)と世界の現実(戦争と平和)と「倫理と理論と直観」

八木誠一によると、「神の支配」のもとでは、人間の行為は定められた律法によって決定されるのではなく、「神の支配」によって決定されるのであり、人間の側の意図的な判断を超えていることになるという。「敵を愛しなさい」というイエスの教えは、実際には実行不可能な究極の愛を命じることによって、人間の能力を超えた絶対的な神の計画やその崇高な命令を、逆説的に私たちに教え示しているのであろう。>(~「人類が生き残るために『敵を愛すること』は可能か?」(塩尻和子⦅筑波大学名誉教授⦆)

・・・「人間の能力を超えた絶対的な神の計画やその崇高な命令を、逆説的に私たちに教え示している」のだとして、その教示にどのような意味があるのですか?

世界宗教について、一般的には一神教は好戦的であり多神教は平和的であるかの如く云われますね。私はそこに多くの誤解や誤謬が混じっていると思っているのですが、それはともかく。ところで、チャンネル桜【討論】戦後日本と宗教[桜R5/12/20] (youtube.com)の中で、乙骨正生氏が言われた宗教の多元主義的なあり方というのは、世界史の現実が自分で言っておられるとおり、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のバチカンにおける祈りとか決め事とは違う結果になっているとおりで、「神」の御意は成るべくして成るわけで、人間が自発的に何を言い、何を行おうとも、それが神の定めに一致していない限り実現しないのです。いくらその場で乙骨氏が感動したかしれないけど興奮気味に言ったところで、成るべきことでないから成ってないわけ。きれいごとの観念論なんですよ、そこで乙骨氏が言ったことは…(上記の動画の2:00:00あたりからどうぞ)。

それを受けて富岡幸一郎氏は人権ではなく神権ということを強調したのはかろうじてクリスチャンを自称なさる立場を示しましたが、それでも宗教多元主義が必要だと言われたのはどうかなと思います。私見では、宗教多元主義は宗教の共生の前提とは言えません。それは、八木誠一氏や小田垣雅也氏なども批判しているとおりです。宗教多元主義というのは、必ずしも宗教の主旨に沿うあり方とは言えないからです。

小田垣氏の宗教多元主義への厳しい批判は、『コミュニケーションと宗教』(創文社)などに書かれています。特に「架空の高みに立って」云々などは我が意を得たりといった感じがします。(参考書評)_pdf (jst.go.jp)

また、上祐氏の発言にも誤りがあって、キリスト教善悪二元論の宗教であるかの如く言っておられますが、キリスト教は聖書のとおり創造主一元論です。サタンはヨブ記にあるとおり創造主の配下に位置付けられ、けっして対抗者たり得ないのです。また、「汎神論」的な宗教思想を好評価している点にも疑問を感じました。

私は世界平和に関しては、汎神論とか宗教多元主義の類とは異なる思想的立場に注目します。なぜなら私は、真の意味において「絶対」なる「神」は「創造的空」とでも呼ぶしかしようのない非対象というか超「対象ー非対象」の何かであり、それは自己限定において世界の現実に非戦平和を求める人間を然らしめて、矛盾した言い方ではありますがその理想型として具現していると思うからです。そこで、けっして宗教多元主義的立場ではなく、そんな単純な発想ではない宗教的実存の実例として、いわゆるバルティアンの関田寛雄という牧師の意見を引用しておきたいと思います。

「それぞれの文化・民族においてさまざまな宗教があるわけですが、一番の問題は自分の宗教をドグマティックに絶対化している。これが宗教の破綻であろうと思います。人類が新しい統合のシンボルを求めていくとすれば、まず原理主義から脱却しなければならない。キリスト教原理主義も、イスラム原理主義も悪魔化しています。およそ宗教というものが成熟していくならば、自分自身の特殊な信仰対象に真実に従うということを一貫しながら同時に他の宗教形態に対する寛容性をもつはずです。それは決して他の宗教に対する妥協ではありません。むしろ自分自身が信じている宗教の普遍性に目覚めればこそ、他の宗教に対して開かれていくという、そこにヤハウエという神の持つ非常に大きな意味があるのだと思います。わたしたちはイエスキリストに対する信仰を毫もゆるがせにすることはできません。しかし同時に本当にまじめに人権と、平和と、共に生きる社会を求めている諸宗教に対して、心を開き協力の手をさし伸ばすこと、そして自分自身の信じる信仰の一貫性を貫くと同時に他の宗教に寛容であること、それが自分自身の信仰の徹底のゆえにうまれてくる普遍性だと思います。そういうものを持たせてくれるのが、実は『ヤハウエ』というシンボルで言われていることではないか。」

聖書研究 – 全国キリスト教学校人権教育研究協議会

要するに、特殊に徹底することにおいて普遍的真理に到達する…といった弁証法的思想です。これも観念的思弁と言えば言えなくもないわけで、上記の動画の中で『宗教問題』編集長の小川寛大氏が指摘しておられるとおり、日本基督教団に代表される日本のプロテスタントキリスト教は「どっぷり戦後民主主義」であり、じつに日基教団がいちいち出している「声明」などを見ると、それでも宗教団体かと言いたくなるほど政治的関心が強すぎるわけです。いわゆる社会派と呼ばれる牧師たちがいて、関田氏もその一人でした。教団はその一方で霊魂救済への関心が弱いのではないかと疑いたくもなります。特にバルト神学の影響もあって、イエス・キリスト中心主義が度過ぎていて、青野太潮氏がパウロ神学を取り上げて指摘しておられる神中心主義的思想が後退しています。

「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)

また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christ-centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教から