救済先行 信仰後続

シャローム! キリストの平和がわたしたちの心の隅々にまでゆきわたりますように。※記事の日付は事実と異なる場合があります。ご了承ください!ハレルヤ!

コロナ禍と聖定信仰

世界がパンデミックの苦難にある時にこそ、キリスト者は「聖定」の信仰をあらたにすべきです。…って言うか、パンデミックだろうが大地震であろうが隕石落下であろうが何であろうが……それがどんなに悲惨で大規模な災害であっても、この世に起きることはすべて創造主なる神の聖なる定めの内であり、支配下なのであって、サタンのはたらきさえも神の許可なしには起こり得ない……というのが旧新約聖書66巻から示されることです(神義論無用!)。但し、キリスト教を聖定の教理に集約して済ませられないこともまた事実であり、親鸞阿弥陀信仰における「自然法爾」と比較するとかならよいが、何事もすべて創造主の「聖定」に還元して考えることは無理。キリスト教である以上、やはり福音的でなければならない。そして福音は昔から聖潔派系では「新生、聖化、神癒、再臨」と言われており、コロナ禍との関係では特に「再臨」が重要な意味を持ってくる。それは「神の国の福音」ということでもあるが、「神の国」は単なるユートピアではなく、あくまでも人格的存在である「(御父なる)神」と「(御子なる)キリスト」との関係において主客を超えて実現されるものだから、まずはその存在と働きに意識を向けていなければならない。すなわち、いつ御子が来られてもよいように、緊張感を持った生活をしてこそ福音的信仰生活と言える。

※私の再臨信仰の内容については、<私の「キリストの再発見」と再臨信仰 >を参照。

ところで、かつて内村鑑三氏は関東大震災を顧みて、「今回の震災は未曽有の天災であると同時に、天譴である。」と述べています(~「万朝報」)。他の文章を散見すると、内村氏は震災それ自体を天譴すなわち天罰(…内村氏はキリスト教徒なので、彼にとって「天罰」は「神罰」と同意)だと言っているわけではありません。そうではなく、そのような災難に不信心の人間が遭うと、これが天罰の意味を持つというわけです。死ぬこともあるわけですが、生者においては滅ぼされるということではなく、悔い改めてキリスト信仰による救いの機会になるというわけです。内村氏が天国から阪神淡路大震災および東日本大震災を見て、今のコロナ禍を見るなら、コロナ禍は世界規模ではありますが日本にとっては、戦後に経済大国となり物質的豊かさによって堕落した日本に対する天罰だと言っているかも知れません。

コロナ禍の時期にNHK大河ドラマ「青天を衝け」で日本資本主義の父と云われる渋沢栄一の生涯が描かれていることは皮肉というか、不思議なめぐり合わせのような感じがします。震災と疫病との違いとは言え同じく広義の自然災害…すくなくとも人間が自然の脅威を実感させられる出来事だからであり、渋沢氏は、< 報知新聞の1923年9月10日付夕刊で「思ふに今回の大しん害は天譴だと思はれる…この文化は果して道理にかなひ天道にかなつた文化であつただらうか、近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか…この天譴を肝に銘じて大東京の再造に着手せなければならぬ」と、述べました。>と言われているからです。この言葉の注意点は、資本主義側の張本人が自らそれまでの経済発展を点検しているということです。東日本大震災によせて~渋沢栄一の『天譴論』と『因果倶時』 – 無用の用~高井伸夫の交友万華鏡 (law-pro.jp)

これは私に、三島由紀夫預言者的名文句である、< このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう >という「果たし得ていない約束」と題された新聞投稿文を彷彿とさせます。

コロナ禍という災難を通して現在の日本国の指導者たちも、経済のみならず、教育行政も含めた経済大国としての歩み全体を自己批判すべきではないかと思います。それが多くの犠牲を生かすことでもあるからです。

前述の内村鑑三氏も、被災者や感染者が、信者ではないからといって天罰を受けたのだ、とか、信者でありながら被害を受けたのは信心が中途半端だからだ、とか、そういうことを言いたいわけではないと思います。そういう個人レベルのことで言うなら、それは行き過ぎとなり、非難を受けてもしかたがないと思います。ましてや死者に鞭打つようなことは国民性からしても許されることではありませんから、いかに預言者的使命とか言っても、信仰倫理的にも配慮が必要であることは言うまでもありません。それならば、預言者的使命で震災やパンデミックが創造主の御意思によるもので、そこには審きの面もある…と言う場合、被災者や感染者の個々人はどのような意味で被害を受けたのか?と言えば、それは犠牲者として選ばれたとしか言えません。神の懲罰はこの場合、個々人に対してではなく、全民族、全人類に対してなされるのであり、被災者や感染者の個々人、特に重傷者や死者は、そのための犠牲とされた人々なのです。広い意味ではそれも試練と言えるのかも知れませんが、試すという意味とは違って、死者も出るわけですから、やはり創造主による懲らしめとしての面は否めません。その対象は個ではなく種および類を単位とします。そこで個は選ばれし犠牲者、スケープゴート(贖罪の山羊)です。

キリスト教徒が聖霊のはたらきを感じて預言者エレミヤの如く世間からの批判など恐れずに語る時は、必ずしも希望の福音であるとは限りません。逆に絶望的終末の裁きかも知れません。要は創造主なる神の御意思を語るのです。その場合、聖書の言葉は前後の文脈などに制約されず、箴言のように前後から独立した聖句として機能する場合があります。それを文脈云々を言って大胆な説教を避ける人が牧師を自称している世の中です。そのような保身的人物が牧師然として、あたりさわりのない説教をしながら子どもを大学に入れるためとか家族を養うために組織や世間に気を配りながら安全第一で働いているような時代なのです。昔の預言者的伝道者のように危険なことでも聖霊に感じたことは全実存をかけて語るなどということはありません。守るべきものがいろいろあるからです。その点では仏教の僧侶にも同様のことがあるし、同じキリスト教の中では福音派もリベラル派も大差ありません。

ところで、キリスト教徒の間で、日本の神学者の中では世界的に著名であると云われる北森嘉蔵氏は、正真正銘の世界的な有名人である湯川秀樹氏の言葉を引用した後で、<「人間」であること――具体的な人間であることは、偶然性があることに驚くということである。この驚きを失って、いっさいが必然性のもとに考えられると主張することは、具体的な人間を抽象解体してしまうことである。そのような無理なことをしないで、もっと素直に、あるがままの人間のすがたを見つめようではないか。それが、ものごとを具体的に考えるということである。>と述べています(~『対話の神学』〔教文館〕p104 ※最初と3番めの「具体的」と、「抽象解体」の各文字に傍点あり)。

これは北森氏の文章によく見られる独断的なもの言いであり、いかにも自分の「神学」が具体的な考えによるものであり、「素直に、あるがままの人間のすがたを見つめ」ることによって現実の信仰生活に役立つ、実践的なものであるかのような口ぶりですが、果たしてそうであるかは大いに疑問です。私から見れば北森氏は、言葉の魔術師というより観念の魔術師です。北森氏の著述こそ抽象的な表現が目立って感じられます。特に、「外を内に包む」などといった理屈が現実的で具体的だと言えるでしょうか?北森氏の言うことには、自分の「痛み」を媒介するロジックに引き寄せる自画自賛的傾向があり、極めて観念的であることは、著書を読めば一目瞭然です。「神の痛みの神学」などというものは、「神の怒り」の固有性を重視しているという一点を除けば、神学と名づけてはいるものの、その実態は「痛み」という情緒に昇華される文学的神学すなわちキリスト教義の神話的再解釈にすぎません。だから北森氏は「許容的聖定」の「許容」の意味も理解できないようで、次のように述べています。

<…罪の赦しの根本性格が、罪の赦しをば罪の許容から区別するのである。remission of sins は permission of sins ではない。「赦し」と「許し」とは区別せねばならない。許容は現状肯定である。(※「現状肯定」の各文字に傍点あり。) 許容は、あの「憤激」と「つまずき」とを媒介としていない。赦しは、憤激に価し・つまずきにみちている限りにおいて、どうしても現状肯定に坐り込むことを許さないのである。赦しの中には現状変革への念願が含められている。それが罪の潔めである。(※「現状変革」と「潔め」の各文字に傍点あり。)>(~前掲書p156)

このようなもの言いにも、北森氏特有の自我自賛的で独断的な傾向が垣間見られます。そもそも前の引用文に見られるとおり、具体的だから良くて抽象的だから悪い…みたいな考え自体がおかしいと私は思うのです。神学的思考の要点はそこにあるのでなく、思考内容が聖霊の導きによる聖書的かつ頌栄的であるか否かです。その意味で私は、カルヴィニズム神学における「予定」および「聖定」という概念が重要であると思うのです。逆に言えば私にとって、この概念を欠く言説は、「神の言葉の神学」だろうが「神の死の神学」だろうが「神の痛みの神学」だろうが、その他の何だろうが、たとえどんなに権威付けられ人口に膾炙する部分があるとしても、せいぜい反面教師としての価値しか認め得ません。予定説は「堕落前」と「堕落後」とに分かれます。「堕落」は時間・歴史の中の出来事ですが、聖定が「永遠の」であるなら予定も「永遠の」でしょう。従って、時系列的順序である「前」も「後」もないのです。

「善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。」(~岡田稔著『(改革派)教理学教本』※新教出版社からいのちのことば社へ。太字は自分による。)

岡田氏は同書の中で、「聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾」しないとも述べています。

この世の出来事を偶然と見るか必然性と見るか…といったことで言えば、聖書的・頌栄的には当然のことながら単なる偶然でも単なる必然でもなく、言わば偶然を用いた必然とでもいったこととして見るのです。ウェストミンスター信仰基準に明記されているとおり、聖定は偶然を活かし包み込んでいるのです。人生はすべて創造主の定めによって必然的に起こります。しかしそれゆえに人間がロボットのような客体として生存しているわけではありません。聖定信仰は、人間が現実に経験する「不条理」や「不思議」などの感覚と何ら矛盾しません。

神の決定・決意は、神の永遠の御計画、或いは目的とほぼ同じ意味であります。聖定と言う語は聖書の中に出てきません。そして、世界の歴史と人々の人の人生に対する全包括的な、神の絶対主権を最も明瞭に表現しており、世界の存在を神にしっかりと基礎づける事によって理神論と汎神論を退け、有神論にしっかりと立っているのであります。神はこの世界を完全に支配されておられるので、「起こり来る事は何事であれ」責任を持たれています。人間に関して神は、「罪の作者」ではありません。「被造物の意志に暴力が加えられる事無く」は、人は神様のロボットあるいは自動機械の歯車でなく、自分の行為に関して自由意志と責任を負っており、神の強制力で動くものではありません。「第二原因の自由や偶然性」としての自由は、神の主権的支配によって消し去られるものではなく、人間は意志の自由を保持し、悪を意志する自由さえ持っているのであります。この様に人間の意志は、常に悪に傾いており自分の思い通りの方向を選んでいます。神は、ご自分の民をその罪ゆえに罰する為に、多くの侵略者を起こされて計画を実行されました。例えば、アッシリアの王は自分がその計画の為に用いられて居ることは知りません。ただイスラエルを攻撃し財宝を手に入れれば、目的達成です。しかし、最後に神はその傲慢なアッシリアの王を、罰すると言われています。イザヤ10:12 アッシリア王の罪を通して神はイスラエルの民の悔い改めを求めておられたのです。>

ウェストミンスター信仰告白 講解 - ひたちなか教会 (hitachinaka-church.org)

創造主なる神の聖定は「許容的聖定」

< 罪があらかじめ定められているという事実は、聖定についてわたしたちの心に問題を生じさせる。厳密に言えば、定義により聖定は神の永遠の目的ゆえに、罪と邪悪に関してさえも、神の聖定は積極的である。しかしながら、聖定の遂行は、許容的である(permissive)。このことは罪に関してもそうである。神は人間の罪において積極的ではない。罪を犯し、また、こうして、自分の邪悪に対して言い開きをするのは人間である(使徒言行録2:23)。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」(ヤコブ1:13)。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(ヨハネ一1:5)。>minoru.la.coocan.jp/morton11.html

< 神様の聖定には「御自身の栄光のために」という目的があります。「神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです」。この「すべての出来事」の中には、偶然や人間の自由意志、さらには人間の罪さえ含まれます(ウェストミンスター信仰告白3章1節参照)。神様は罪の作者ではありませんが、人間の罪を許容され、それを用いて御自身の栄光を現すことをよしとされました。その代表的な例が、イエス・キリストの十字架です。神様は、イエス様を十字架につけるという人間の罪を許容され、その罪を用いて御自身の栄光を現されたのです。>

神の聖定とは、何ですか。 埼玉県羽生市のプロテスタント教会 (rcj.gr.jp)

<罪のそのものの起源は聖書の中に書かれていない。天より堕落した被造物である天使が、蛇(サタン:黙示録12:9)の姿をとり始祖アダムを誘惑し神との契約を破った事により、罪が入り込んだのである。こうして人は原罪を持つ者となり、神との交わりが絶たれたのである。① 神の聖定以外に、何事も何人によっても発生しない。② 聖定の目的は、すべて神の栄光の為であって、人の利益や神の恥の為では無い。③ 罪に関する聖定は、とくに許容であって強制や黙認ではない。事後承認でもない。許容は、神の意志が基でありながら倫理的には、人間側の責任が問われるのである。>

ウェストミンスター信仰告白 講解 - ひたちなか教会 (hitachinaka-church.org)

カルヴァン主義の一部では、いわゆる「堕落以前説」を取る。これは、次の順序になる。①ある者を救い、残りのものを捨てるという聖定、②救われるべき人々と、見捨てられるはずの人々とを創造する聖定。③両方のグループの堕罪を許容する聖定。④選ばれている者にのみ救いを備えるという聖定。~カルヴァンは、この見解にある程度の根拠を与えたといわれる。しかし、シーセンによれば、彼は晩年には無制限の贖罪説を受け入れていた。(中略)神は独断的に全てのことを定められたのであるから、全てのことを予知しておられるというのは、神の有効的聖定と、許容的聖定との区別を無視したものである。たしかに、「無条件の選び」の見解を取る人々の中でも、神が罪の有効的な原因であると教える人はごく僅かである。殆ど全てのものが、神は罪がこの世にはいるのを、ただ許容されたに過ぎないという点では一致し、また、神はまだ何も創造しない先に、罪の入ってくるのを予知されたということは誰もが認めるであろう。そうすると、もし神は、罪が世にはいるのを有効的に聖定されたわけでなかったが、それを予知することができたなら、同じように、神は人間がどのように行動するかを有効的に定められなくても、それを予知することができることになる。人間を創造する以前に、すでに神は人がどの程度神の聖さから離れ、また離れる者は誰であるかも知っておられた。そして、その知識に照らして神は人を創造し、かつ彼らが正しい道から離れていくことを、許容されたのである。神は起こるべきことを予知し、そして、それが起こるに任せられないと言う意味において 、罪に関する神のご計画は、完全に実現される。そこには、聖定、予知、選びと言った用語の間に、何の矛盾もない。>

信徒学校テキストⅡ「救済論(救いとは) – 泉南聖書教会 (holy.jp)

 人間は有限存在であり、原罪を許されながらも抱えつつ生きているので、交互に点滅する信号のように、神の御意志による必然を信じられる時と疑ってしまう時と両方あるからです。人間の主体性および自由意志は、有限性・原罪性を否定的媒介として許容されているのです。

逆に言えば、人間が最も自立的に思考する時は無神論的な場合であり、それはD・ボンヘッファーの有名な「神の前で、神とと共に、神なしに」という言葉にも反映されています。「神なしに」と言わずにおれないところに否定的媒介の現実が直視されるのであり、信者にとっては皮肉と言えば皮肉ですが、それが人類の科学の発展につながっています。すなわち近代ではまだ「神の前で、神と共に」であった科学が、現代に至って「神なし」になって、聖域を侵すのではないかと恐れられるほどになったというわけです。行き過ぎはありますが、基本的には神前意識から離れて進化論的、機械論的思考になったからそ発展し得た面もあったと思われます。神と人間との関係は、個人のレベルにおいても人類全体のレベルにおいても、やはり近すぎてもダメだし遠すぎてもダメということのようです。成人した人間は、信仰的には幼児のような素直な心は持っても、神に対してもはや甘えるようであってはいけないのです。それはいつまでも神話の世界に浸ることになります。

とにかく聖定信仰はダイナミックで現実経験を閑却するような機械的なものではありません。唯物論者・無神論者の存在とその活動の歴史的意義もまた、神の聖定の内にあることを忘れてはならないでしょう。すなわち現状肯定で、変革的なことはいっさい出てこない…ということではありません。歴史を見ればわかるとおり、神の聖定のもとで諸々の改革や、過激な叛乱や革命さえも行われてきたのです。なぜならその過激分子がそのような考えと力とを持つに至ったのも、神の聖定の内だからです。

パウロは、ロマ書13章の冒頭で、「すべての人間は上位にある権威に服従しなさい。神によらない権威はないからであり、存在している権威は神によって定められてしまっているからである。/したがって、その権威に逆らう者は、神の定めに反抗することになり、それら反抗する者たちは、自分自身にさばきを招くであろう。」(1~2節)と述べ、この世にあらゆる権威が神の定めによるものであるかの如く教えているのですが、それは当然、誤解です。パウロの本意はそんなことだったはずはないからです。なぜなら権威というものはカルト宗教の教祖の如き悪しき者にも、否、悪しき者にこそ重視され、強調される傾向があるからです。イエスの教えはその逆であり、クリスチャンの生き方は決して権威主義的ではあり得ないのです。パウロはむしろ、この世の中のあらゆる権威の中で、神・キリストに由来する権威を信徒が聖霊の助けによって見分け、これに服従すべきことを語ろうとしたのではないでしょうか?本質的には、神の御意と関係ない権威には従う必要など無いのです。但し、国家という枠組みの中で、さらには何らかの組織の中でしか、現実の生活はあり得ない以上、その制約の範囲内で、直接的には神・キリストに由来しないと思われる権威に従わざるを得ない我々であるが故に、便宜的には自分が好ましく思えない権威でも、それが神・キリストに由来するものと信ずる必要はあります。

所謂「主の祈り」では、「あなたの御意が天になるごとく、地においても」(thy will be done on earth as it is in heaven.)と祈りますが、その「なる」とおり、聖定の内に生かされている被造物にとって万事は「なるようにしかならない」のです。

私は、ユダヤ教徒に会うとしたらすくなくとも「シャーローム」と「ハレルーヤー」は言い、イスラム教徒に会うとしたら「アッサラーム アライクム」と「インシャー アッラー」(インシャラー)は言います。後者は「神のみこころのままに」という意味だそうで、興味深いのは「なるようになるさ」といった意味での気軽な使い方もされるようです。この2つの意味を掛ければ私の聖定信仰と合います。ちなみに、原理主義者の自爆テロを連想させる「アッラー(フ) アクバル」は言わないでしょう。

まあ、そういうことでここでは、この世は創造主のみこころのままになるようにしかならないのだと私は言いたいのです。そう言うと投げやりな感じがして、自由意志なんて意味ないだろう!努力したって無駄じゃないか!…みたいな極端な話になるので、そうではなく、所謂「人事を尽して天命を待つ」ということとも少し違って(…「人事を尽くす」が単なる自力の意味で言われるがそうではなくて…)、自由意志にしろ努力にしろ、その生滅もまた聖定の、予定の、然らしめるところであるということなのです。神ご自身がいったんは人の創造を後悔なさったこともまた、神ご自身のお定めの内であったことと同様です。人生は「なるようにしかならない」のではありますが、その「なる」ことの内には人間が自力ではなし得ない諸々の出来事があり成果があります。

八木誠一氏は、< 救済は、「天が然らしめるゆえに人為によらず自ずから然る」出来事である。>と述べています(~『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p85)。八木氏の場所論的宗教は「自覚」の立場なので、その救済は「倒錯から解放され、歪みが正される」(同掲書、p84)という認識論的な事柄ではあるのでしょうが、人為によらない自然の出来事という点が重要です。
また、「超越」の表現としての「場」について、「人間なら人間がそのはたらきの中にある」という面と、「そのはたらきが人間の中ではたらいて自我を動かす」という面の両面があると述べておられます(~「省察と瞑想の会」オンライン講座 第3回 2020/12/12)。私見では、前者は「天命」乃至は「自然法爾」であり、後者が「(絶対)他力」です。「場」にあたる「超越」は「共生」を可能にするものであり、別の比喩では「人格神」です。そして人間は「場所」と言われます。そして「はたらき」は人格的なので「共生」を強制はしない、促すのだ…と言われます。伝統的キリスト教においては必ずしも強制的であることと人格的であることとは矛盾しないと思います。アウグスティヌス由来でしょうか、「不可抗的恩恵」・
「強いられた恩恵」という言葉があります(「恩恵」は「恩寵」とも訳される)。「強いられた」…すなわち神の恵みは強制的に感得されるはたらきということですが、そこに人格的関係性が成立していなければ恵みということ自体あり得ません。この「強いられた恩恵」は「強いたまふ恩恵」と現在形でも言われています。私はある婦人信徒からこの言葉を初めて聞き、由来を調べて高倉徳太郎牧師にぶつかりました。以下、その箇所を引用します。※旧字体新字体に変え、ルビは〔 〕に入れました。

< アウグスチンは神の先行的恩恵〔プレヴィニエント〕、常勝的恩恵〔プレヴェーリンク〕、進んで不可抗的恩恵〔イレジスチブル〕といふことを申します。神が人に恩恵を下さるのに、いつも先手をうたれる、如何なる障害をも突破して下される、神の与える恩恵は不可抗的で、何人も之れを妨げることは出来ないといふ事です。神は恩恵をしばしば人に強ひられる、神は同情の押売をせられる。だからいかに暗く、つらく見える運命でも、之れが神の自分に強ひたまふ恩恵でないと誰が断言出来ませう。私共は自分の過去を顧みて、あの時、この時、神が自分に強ひて恩恵を与へたまはなかったら、今頃自分はどんなであつたらうと考へさせられることもあります。」(~『恩寵の王国』の「神を嗣ぐ者」一〇

恩寵の王国 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

ちなみに、川島隆一牧師は葬儀説教で以下のように語っておられます。

< 教会の歴史の中でその名を記憶される優れた指導者トマス・アクィナスの言葉に、「神はそれが偶然に起こることを欲した」というのがあります。偶然とは、起こるべからざることが起こるということです。キレネ人シモンに、「キリストの十字架を負う」という、まさに起こるべからざることが起こったのです。そして聖書は、このキレネ人シモンの中に、「自分の十字架を負うてキリストに従う」という、キリスト者の理想を見てきたのです。キリスト者はこれを、「強いられた恩寵」と表現してきました。ここには、自分はすべてを捨てて神に従ったという、自己栄光化が入り込む隙はないのです。それは「強いられた」ものであり、しかも「恩寵」なのです。恩寵である以上、その務めを果す力は神によって備えられるのです。>

ホスティア 「強いられた恩寵」 (fc2.com)

私も聖定信仰においては、神の「定め」を人間が選択する余地など与えられていないと思うので、強制と言うのが適切かどうかはともかく、神の主権の絶対性を反映することを思えば、促しという表現は弱いと思います。八木氏は「統合への規定」という「定め」に関して次のように述べています。

<実際イエスは、人間存在を統合へと定める定めのことを、単にロゴスとか宿命とかいうようには言わず、「神の」支配と言った。これはいわば音と声の関係に類比的である。ただ音というときは、背後に人格はみられていない。しかしまず人格同志のかかわりがあるとき、その中で「音」は人格間の交通の媒介として、「声」となる。このように「人のあり方の定め」は、イエスの場合、単なる宿命や真理や理法〔ロゴス〕ではなく、人格的な「神の」支配なのである。要するにこういうことである。先ず神との関係があるとき、その中で統合への規定は、「神の」支配となるのだ。>(~『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p196)※〔 〕はルビ。

「統合への規定」とは「ロゴス=キリスト」であり「神の支配」であり「神の意志」です。八木氏はこのようにも述べています。

< イエスの思想においては、人間を統合存在へと定めるその定めが、「神の支配」すなわち神の意志だということにほかならない(中略)。神の意志といっても、それは何か神秘的なものではない。それは人間を、精神と肉体の統合としての人格へ、また人格同志を統合された共同体形成へと定める定めにほかならないのだ。>(~前掲書、p151~152)

それで結局、ルカ福音書10章の所謂「善きサマリア人のたとえ話」においては、< 隣人愛を行なったサマリア人は「神の支配」に服したのだった。そして「神の支配」の内容は「統合への規定」なのである。>(~前掲書p174)ということです。そこで八木氏はさらに次のような問いかけをしています。

< ここで問題が生ずる。イエスは何故、人のあり方の定めというひとつの現実〔リアリティ〕のことを、「神の」支配と称したのか、ということである。(※「ひとつの」の各文字に傍点あり) 何故イエスは、統合への規定のいわば奥に、人格神を見たのだろうか。>(~前掲書p174)

この問いに対する答えは、前に引用した文章から察せられると思います。それよりも私が重要だと思ったことは救済に関することです。

< 人格存在は統合へと定められている。人間は恵みによって「天然自然」に健康(人格としての正しいあり方)へと定められている。(※「健康」と「へと定められている」の各文字に傍点あり) それは人間の能力や生まれつきや業績や過去によらない。この恵みを根拠として救済が成り立ち、人は救われたときに正しいあり方の何たるかを知るのだ。ゆえに救済は他面では古いあり方への審きである。といっても人は直ちに完全な正しいあり方に到るのではない。だから人は恵みに接したときに、恵みの何たるかを知るといった方が正しいのである。救済は、「天が然らしめるゆえに人為によらず自ずから然る」出来事である。それが成り立ったときに、人はまた自覚的に恵みに即することができる(「みずから然らしめる」の主体性が成立する)。救われたという「直説法」の上に、それにふさわしく生きよという「命令法」が成り立つ。ゆえにまた、人の正しいあり方の認識も、人格の統合(救い)が成就したその点から出発しなくてはならない。>(~前掲書p85) 

「定め」は八木氏の思想においても「恵み」と関連しているようです。

高倉徳太郎牧師は「予定」について次のように述べています。

「予定の信仰は教の確かさの要請からくる必然な魂の論理である。予定の信仰は救の確かさの要請からくる必然な魂の論理である。予定の信仰は、恩寵の強き体験に根ざす。そしてカルヴィニズムにおいては恩寵の経験としての予定の信仰は神の栄のためという使命(ヴォケーション)の観念によって強い倫理化を受けている。ここに恩寵と道徳との困難な問題が徹底的に(よし極端な形においてであろうとも)解決されておるのを見る。カルヴィニズムに独特なる召命の信仰が、キリスト教と文明との関係を解決するにたる一大暗示を有することをも疑うことの出来ない。」(『高倉徳太郎全集 6』p20)
「要請」という表現はカント哲学の影響かと思われます。カルヴィニズムに関しては次のことも述べています。
「カルヴィニズムの中心思想は主権者(サヴァレーン)としての神の観念にある。神は我らの魂の父であるばかりでなく、天地の創造者、統治者、主権者である。・・・絶対的な意味で宇宙万物の所有権は神にのみ帰すべきものである。ここにカルヴィニズムの徹底したる客観主義がある。」(同書、同頁)
以上の文章は、1925(大正14)年に東京で綴られたとのことで、その年は植村が召天した年であり、植村の後継者として東京神学社神学校の校長に就任し、戸山教会の建設に着手した年にあたります。その前年に高倉はスコットランドを中心とするヨーロッパ留学から帰国したのでした。

「予定」説にもとづく人生観としては、当人にとっては成功もあれば失敗もあり、栄光もあれば挫折もあり、勝利もあれば敗北もありますが、その全体が神の御意志によると思えば感謝をもって受け容れることができるということです。そうするしかないというネガティブな面と同時に、そうすることができるというポジティブな面もあり、その二重性において人生ですが、信仰者である以上、ポジティブな面が前、ネガティブな面は後ろ…という不可逆性があって然りです。「信仰(のみ)によって義」とされる神は、ご自分もその業としてのはたらきで力まかせに、人を、そして被造物を治めておられるのではなく、何よりも信頼によって治めておられるのであり、「定め」ということも信頼と矛盾することではないからこそ、我々は不条理のように思える苦難をも、感謝することはできないまでも忍耐することはできるのです。ですから「強いられた」と言っても単なる機械的強制とは意味が異なります。神の主権は絶対ですが、それが人間において、例えばカルト宗教に見られる民主制と矛盾する形での絶対君主制のようにはならない点が神の支配なのです。

北森嘉蔵氏によると、西田幾多郎氏は「弁証法神学」の神観を誤解してか、『哲学論文集』第七の中で、「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫〔き〕く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。……単に文化を否定するものは、真の宗教ではない。それは単に人間否定的に、単に超越的に、無内容なる宗教といわざるをえない。君主的神の宗教は、往々かかる傾向に陥りやすいのである。」(~北森嘉蔵著『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p139~140)云々と批判して「神の絶対否定的性格」ということにこだわり、「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。極悪にまでも下り得る神でなければならない。……悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである」とも述べたそうですが(~北森前掲書p190)、私にとっては少なくとも西田哲学とか場所論的神学といったものの「神」観よりは「君主的神」といった神観の方が聖書的であり、自分の信仰的感性にも合うと思います。「否定を含まない」から、自己相対化しえないから、「真の絶対者・絶対的救済の神」ではない…というのはまさしく理屈であって、実際に聖書から示される神観は「君主的神」だけではないですが、仮にそういったイメージが前面に出ているとしても、そのことと救済とは矛盾しません。なぜなら「救済」とは創造主なる神との関係そのものであって、「はじめに対神関係ありき」ということであり、死後にどういう場所に行くとかいったことは第一義的なことではないからです。実に対神関係を与えられていない人もいるわけで、それを「滅び」というのです。万事は「はじめに神の定めありき」で、現実は聖定あるのみ‼ 神の意志によって成るようにしか成らないのです。

同掲書で北森氏は次のようにも述べています。< 「京都学派」という呼称は、哲学の学派についていわれているのであり、必ずしも宗教哲学のそれではない。現に、西田「哲学」であり、田辺「哲学」なのである。(波多野宗教哲学については、他の執筆者が担当しておられ、また波多野博士は一般には「京都学派」という呼称の中にはふくまれないようである)。しかし、それにもかかわらず、この哲学の学派は始めから終わりまで宗教哲学的であったと言える。西田哲学も田辺哲学もそれぞれの仕方で終始一貫して宗教哲学的であった。したがって、京都学派の哲学について語ることは、そのまま宗教哲学について語ることともなるのである。しかしここでは、「日本の神学」の中で京都学派について語るのであるから、この宗教哲学をあくまで神学との対話の角度から取りあげようと思う。(中略)さてそれでは、西田哲学はキリスト教神学に対してまずどのような問いを発するであろうか。それは、従来の歴史的キリスト教が絶対者たる神を「有」として考えてきたことに対して、絶対者は「無」として考えられねばならないのではないかという問いである。神が有であるかぎり、この有によって限定される人間は、ついに独立性と自由とを失い、したがって人間の人間たるゆえんは基礎づけられなくなるであろう。たしかに、歴史的キリスト教の一つの形態たる極端なカルヴィン主義においては、このような批判がそのまま妥当するかのようである。さらには、キリスト教的背景をもって形成されたヘーゲル哲学が観念論に堕したのも、絶対観念としての神に対して人間個体が固有の独立性を確保しえなくなったことに基づく。西田哲学はここにいわゆる「西洋的」な思惟に対する根本的な問いを提出することとなるのである。そして、東洋的思惟による解決を与えようとするのである。それが絶対無の立場である。絶対者が無であることによってのみ、この絶対無による限定が人間個体の固有性と独立性とを生かすことができると言われる。歴史的キリスト教はおそらく始めてこのような根本的な問いに直面したと言われるであろう。そしてこの問いに出会うことによって、「歴史的」キリスト教は自己反省を迫られて、キリスト教「そのもの」としての福音を再自覚すべく促されることになるであろう。西田博士はその最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』の中で、次のように述べている。―― 「今日の時代精神は万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。(略)」ここに「万軍の主の宗教」といわれているものがどのような立場を指示しているかは、次の文章において明白となる。―― 「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。(略)」(北森嘉蔵著『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p135~139)

鈴木大拙先生と西田先生との相違は、キリスト教との関係が西田先生の場合には、対決的というよりもむしろ親和的だということだろうと思います。ところが、その西田先生が絶筆になりました「場所的論理と宗教的世界観」では、かなりちがうのですね。そこでいよいよ、この「西田哲学とキリスト教」というテーマに正面から触れることになります。この論文で西田先生は、始めに鈴木大拙先生の言葉を引用されます。「西洋文化の根柢には悲願というものがなかった」。この大拙先生の言葉をうけて、次のような西田先生の言葉が続きます。「そこに東洋文化西洋文化との根柢的相違があると思う」(『哲学論文集』第七、一五七頁)。この言葉の前に、次のような挑戦的な言葉が出てきます。「今日の時代精神は、万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか」。そして次のような極めて神学的な発言になります。「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。……単に文化を否定するものは、真の宗教ではない。それは単に人間否定的に、単に超越的に、無内容なる宗教といわざるをえない。君主的神の宗教は、往々かかる傾向に陥りやすいのである。私は今日この種の神学が従来の単に内在的なる合理的宗教観に反して、宗教の超越性を主張するには何処までも同意を表わする者であるが、しかれどもその一面反動性を認めざるを得ないのである」(『哲学論文集』第七、一七〇  ー 一七一頁)。ここで西田哲学は極めて神学的な発言をしております。ほとんど神学の領域に突入しているといってもよろしいでしょう。ここあたりが、西田先生の一種の場所、つかみ方の一つの典型であって、非常に直截に事態をつかむことを先生はするわけです。それが「君主的神の宗教」「万軍の主の宗教」というふうに総括されて、それと「絶対悲願」の宗教が対置されているのです。そこでこの弁証法的神学、すなわちバルト神学の把握の仕方が、誤解であるのか、それとも事態の端的な把握というに値するかという正念場にさしかかります。これに対して、決着をつけてくれる人が一人いるのです。西田先生のバルト批判が誤解なのか正解なのかという正念場に決着がつくのです。それは誰れでしょうか。意外も意外、カール・バルト自身です。私は一冊の文献をぜひ皆さんに紹介したいのです。お読みになった方もいらっしゃると思いますが、私は今とり上げますバルトの書物を非常に重大視していまして、『ローマ書』とこの本が二つのマイルストーンだと思っているのです。それは、バルトが一九五六年に書きました『神の人間性』(Die Menschlichkeit Gottes)という小さな書物です。バルトは、シュライエルマッハーやリッチルなどの近代主義神学に対して、Wendung を迫ったと言うのです。このヴェンドゥングという言葉のとり方ですが、私はこれは「転向」と訳すべきだと思います。これが自分の使命だったというのです。こうして、危機神学ないしは弁証法神学、正確にはバルト神学というべきものが成立しました。ところが、四十年後の今日、「私は」とバルトが言うのです。「私は、この四十年間の私の神学に対して、転向を迫らなければならなくなった」と言うのです。驚くべきことには、ヴェンドゥングという同じドイツ語を使っているのです。シュライエルマッハーやリッチルに対してつきつけたヴェンドゥングという同じ言葉を使って、自分の四十年間の神学にヴェンドゥングを迫ると言うのです。それは次のような内容です。――自分は四十年前、やむにやまれず、あることをした。それは神が神であるということを明らかにすることであった。それをバルトは、神の神たること、die Gottlichkeit Gottes (神の神性)という言葉で書いています。〔※Gottlichkeit の o の上にウムラウトの2点あり。「オ」を発音する口の形で「エ」を発音する。〕 神の神たることを四十年間語り続けてきた。そしてそれは、シュライエルマッハー以後の二百年間のプロテスタント神学に対して、方向転換を要求することだったと言います。そして言外には、その使命は及ばずながら果されたという確信がほの見えます。ところが、それにつづけて、バルトは次のようなことを言うのです。――四十年後の今日自分は、四十年間の自分の神学に対して、ヴェンドゥングを要求しなければならない。それは、Menschlichkeit Gottes (神の人間性)を明らかにすることだ。これまで四十年間の自分の神学は、「神の神性」を一方的に強調してきたことによって、「異端的」で「ゆがんでいた」と、バルトは言うのです。(中略)今自分が自分の四十年間の神学的営みに「転向」を要求しているようなことを、ジャン・カルヴァンもやってくれていたならば、ジュネーヴの街はあんな暗い街にはならなくて済んだだろうと言うのです。(中略)西田先生が「君主的神」と表現しておられることこそ、バルトが「神の神性」を一方的に強調してきたと自己批判していることと一致するのではないでしょうか。>(p202~205)

しかし、< 第一戒を神学的公理とする神学が、いかに「人間とのかかわりにおける神」を語るように「転向」したといわれようとも、また「否」よりも「然り」を言うようになったといわれようとも、その基本的方法論としての「序説」(プロレゴーメナ)が変革されないかぎり、究極的には依然として律法的排他性によって「人間的現実」を否定・排除してゆくのである。その具体的な表われは、この神学が実存性や土着性に対して究極的には否定・排除の態度をとることである。これでは依然として「自己否定を含まない神」といわれねばならないであろう。>と言われています(p140)。

それにしても、40年間の神学を自己批判して「神の人間性」などというタイトルの本を書いて転向したカール・バルトという人間は、しょせん大した神学者ではなかったことが明らかです。ましてやカルヴァンに起源を有つ改革派を自認する資格はなかったということでしょう。北森氏が、バルトが<今自分が自分の四十年間の神学的営みに「転向」を要求しているようなことを、ジャン・カルヴァンもやってくれていたならば、ジュネーヴの街はあんな暗い街にはならなくて済んだだろうと言>ったことについて、「これも驚きですね。カルヴァンとバルトというと、それこそ一卵性双生児みたいに私たちは考えるでしょう。けれども、カルヴァンジュネーヴはだめだとバルトは言うのです。」などと言っていますが(p205)カルヴァンとバルトでは、予定説をめぐって反対の立場にあり、そのような相違を有つ両者の神学的関係は、決して「一卵性双生児」などという比喩で表わし得るようなものではないのであり、この点、いかに北森氏が「予定」についての見解の相違を軽視していたかがわかります。

西田氏に自分の神観が「君主的」だと批判されたからではないにせよ、それまでの自分の神観を否定するとは情けないことです(北森前掲書p140、203~205参照)。もっともバルト神学はキリスト論が神論に先行するタイプなので、西田氏のバルトの神観に対する「君主的」というのは一面的であった、すくなくとも本質的とは言えない、と思われます。それはバルト自身が抗議すべきことだったはずです。

そんなことはともかく、私は、改革派神学でも「ハイパー・カルヴィニズム」といわれる立場のヘルマン・フクセマあたりの考えに近いのではないかと推察します。「ハイパー」ということはカルヴァン自身の考えから大きく逸脱し、もはやカルヴィニズムと言えるかどうかもわからないものなのでしょうが、私自身、カルヴァンという人物には何のこだわりもないので、フクセミズムとでもいった新しい神学思想だと思えばよいのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

それはともかく使徒パウロは、死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずだし、キリストが復活しなかったのなら自分たちの宣教は無駄だし、信者たちの信仰も無駄である…といったことを述べています(コリント一15:13~14、16~17他)。私は、「復活」よりももっと大きな事柄を思うのです。それが、「聖定」です。キリストが復活しなくたってこの世に創造主なる神の存在があれば霊魂救済の希望があります。復活なしでも永遠の生命を与えることは全能者には可能です。しかし聖定がなかったなら、この世はすべてむなしい限りです。聖定は復活も含む万事についての創造主の御意志であり、その実現だからです。この世に起こること、自分自身を襲うことがどんなに苦しいことや悲しいことであっても、それがこの世の創造主の御意志によると思えばこそ耐えられるからです。しかしその御意志が元に無ければ、この世は何一つ実のあるものが無い、仏教的世界観か無神論的世界観かは知りませんが、言わば砂上の楼閣ということになります。

私見では、この世は聖定下にないなら、厭世で然りであり、実に混沌にして無意味…コヘレトの言う空しさ以上の虚無的現実ということになると思われます。その意味では、華厳の滝での投身自殺で知られている旧制一高生・藤村操さんの遺書にあった「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、『不可解』。」という言葉も自分なりの解釈ではわかる気もします。聖定下であっても、人類の歴史は…社会は…原始から進歩して今日の民主主義に至っていると言っても、本質的には進化していないのではないかと思います。むしろ優勝劣敗は少なくとも資本主義の経済大国になった日本社会では、ますます激化して心身を蝕んでいるように思われます。競争は動物の生存に必然的だとか言っても、人間の他の動物に優る特徴として理性による人間の尊厳が謳われてきたわけで、それも誇大に言うほどではないことが暴露されています。

組織教会に所属するキリスト者は「ドルト信仰基準」(参考推奨記事:「ドルト信条」400周年記念 予定論の根幹に「根源的な慰め」 改革派・牧田氏とイムマヌエル・藤本氏が〝対話〟 2019年12月25日 | キリスト新聞社ホームページ (kirishin.com))および「ウェストミンスター信仰基準」(「ウ・信・基」)に立脚するに如くはなく、あくまでも神への頌栄の心から、苦難の中にあっても、この「聖定」(decree)の信仰を維持すべく聖霊の働きを祈り求めるのです。なぜならこの「聖定」信仰こそが、どんな時でも自分の揺るがぬ支えとなるからです。言わば「聖定論的人生観」です。ちなみに私が聖定聖句の中心に置くのが、ローマ人への手紙9章14~18節です。

<それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」 ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。>(新改訳2017年版)

自分が聖定信仰を心の支えにしているとは言っても、私は所謂「カルヴィニスト」ではありません。むしろアンチ・カルヴィニズムのウェスレアン・アルミニアン神学の「先行的恩寵」(Prevenient grace)という表現を重視します。但しその内容は、改革派神学における「一般恩寵」(General grace)と「特別恩寵・救済的恩寵」(Salvation grace)とでは後者であり、アンチの「可抗的恩寵」ではなく「不可抗的恩寵」(Irresistible grace)なので、「救済先行」ということになります。これなしには「はじめに関係ありき」の対神関係が生じてこないので当然のことながら「信仰」は成り立ちません。

ちなみに日本キリスト教会の牧師であった平田正夫氏は北森嘉蔵氏を批判して次のように述べておられます。

「もし、カルヴァンの二重予定ということが正しいとするなら、敵対するものをすべて包む北森嘉蔵氏の『神の痛みの神学』は崩れるのではなかろうか。『神は如何にしても包むべからざるものを包み給ふが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給ふのである。』(同箸、昭和二二年版七頁)。『神の痛みは、絶対に受け容るべからざる者を敢えて受け容れるが故にこそ、神の痛みなのである。』(一一一頁)。『神の真実の怒を神の愛が負ひこれを克服するといふ事実こそ、神の痛みにほかならぬ。』(一三九頁)。『神の痛みは神の本質である』(四六頁)。北森氏が聖書の学びを通して、神理解について世界に大きな貢献をしていることを、積極的に認めるものであるが、同時にこの神学がもつ抽象性を見逃すわけにもいかないであろう。すなわち、神の痛みが神の本質とされ、包むべからざるものを包む神として規定され、これが神学の原理とされているのである。だが、実はここに大きな落し穴があるのではなかろうか。一つの神学的思考が原理とされるとき、それは抽象概念に転落するのである。創造主なる神を、相対的な人間の概念によって規定することはできない。聖書に示された神は、聖なる神として示され、その聖は汚れを焼きつくさなければおかない聖さである。(中略)聖なるものが汚れを包むということは聖書においては考えられない。(中略)異ったものを包む『神の痛み』の原理が人間の倫理に応用された場合、非常な混乱を生むのである。(中略)カルヴァンが聖書によって理解した神は、無から有を造り、罪悪と死に勝ちたもう絶対の主権者である。(中略)たとえ、人間の目に不条理に見えても、神は正しく、愛でありたもう。その神の前でただ讃美と感謝を捧げるのである。」(~『現代における神の問題』〔創文社〕所収、「聖定の神」p95~96)

平田氏は同論文の中で人格神信仰についても述べておられます。予定乃至聖定の神は一見すると非人格的に思えるかも知れません。なぜなら聖定は人間に対して選択の余地なき宿命的なものに見えるからです。たしかに人格的関係が互いの自由意志を尊重するものであるなら、はじめから救われる者と滅びる者とを決定しておられる神は人間的とは言えても人格的とは言えないでしょう。しかし予定乃至聖定は神と人との人格的関係と矛盾しません。大枠は神の絶対主権による決定ですが、中味は神が人間の自由意志を尊重して歴史を導いておられるからです。

私見では、最後の「たとえ、人間の目に不条理に見えても」以下の文言が特に重要だと思います。北森氏の「神の痛みの神学」は、この「不条理」を「神の痛み」を通して思弁的に処理せんとする神義論であり、その背景には聖定信仰の欠落ということがあると思われます。その理由はルター派の伝統を引いているということだけではなく、北森氏が批判したバルト神学と同様、キリスト論的救済論にとらわれ過ぎて、聖書的な有神論世界観的視野が後退していることによるものでしょう。不条理は「聖なる無知を告白」する(~ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕)頌栄的信仰態度においてこそ対処されて然りであって、思弁の対象とすべきではないのです。

改革派教理における神の絶対的力(Potentia abosoluta)への信仰は先行的恩寵の現実認識を伴います。実際に神の恵みが先行しているからこそ、自分のような愚かな罪人にも信仰が与えられたのです。そういうことで、「ウ・信・基」を金科玉条とするわけではなく、時代に合わない表現など修正を必要とみなす部分もありますが、主旨が神中心なので、本質的には改変不要であり、原文の文言も大半は時代が変わってもそのままで通用する完成度の高い信仰基準であると思います。

内村鑑三氏も、一方ではカルヴァン的「二重予定」を肯定しつつも、もう一方では正反対の「万人救済」を肯定しています(→渡部和隆氏の論文「内村鑑三における予定説理解と万人救済説について」参照)。

<ここで注目すべきことは、内村が予定説について一見「二重予定説」のような記述をしていることである。恩恵による救いの予定の裏面には滅びの予定がある。「救はるる者は救はるるべし、救はれざる者は救はれざるべし」であり、「霊魂救済のことは、是れは天然以上、人力以上の事業であります、即ち神の特別な事業であります(中略)我等人間は此事の前に立て只口を噤いで驚くのみであります」と内村は言う。あたかも、神が主意主義的に2つの予定を設けて人間を分け、人間はその不公平にただ耐えるしかないかのようである。内村には確かに予定説について「二重予定説」的な見方が、一方には存在していると言えよう。(中略)しかし他方、内村は万人救済説論者でもある。「余が今日信ずる所は是れである、即ち神は既にキリストを以て人類全体を救ひ給ふたと云ふことである、即ち世には救はれない人とては一人もないと云ふことである」と内村は主張する。>

このように、人間界の真理が大体、極端な2説の中道に存するのに対して、神の真理は折衷とか調停とか止揚とか、言い方は色々あるのでしょうが、やはり二重性と言うのが適切でしょう。聖書の福音主義的救済理解は、「二重予定」と「万人救済」の二重性なのです。

自分が理解する「聖定」は、先行する神の恵みと矛盾せず不可分であり、神が万事に先立って定めておられるという事実こそが恵みの元なのです。あらゆる恵みはその上に生起するのであって、自我にとっては不幸に思われる出来事も受け入れることができるのは、私の聖定信仰においては、「不可抗的恩寵」と「先行的恩寵」が一致しているからです。神学の「先行的恩寵」は、真宗教学の「絶対他力」と同じようなリアリティーであると思います。

人類の「全的堕落」(Total depravity)は、カルヴァン系と非カルヴァン系とに関わらず福音主義教会が一致する聖書の真実です。

神の選びは無条件であって(Unconditional election)、人間の救いに条件的な要素など毫も認めることはできません。聖書が示す信仰的善行は他力による主体的行為ですが、その行為を「自力」とは言えないのです。他力内自力のような言い方もできません。強いて言えば、小田垣氏のように「二重性」を用いて「自力と他力の二重性」(~説教「自力と他力」)とでも言うしかありませんが、滝沢克己氏のインマヌエル思想における神と人との「不可分・不可同・不可逆」の関係のように、神の他力と人の自力は完全な二重とは言えず、「他力>自力」の「不可逆」的秩序があると思います。

浄土真宗と同じく絶対他力の宗教であるキリスト教では、どんな人間の善行や功績をも美化することは許されません。そしてその真宗を高く評価したカール・バルトは、万人救済的なことを言いながら自らをカルヴァン派(=改革派)であると言っており、実におこがましいと思います。

…ということで、私はJ・カルヴァンという個人に関心があるのではなく(…もちろんM・ルターやJ・ウェスレーに対しても同様であり、要は史的イエスを含めて個人には関心がない!)、その神学的系統を介して明徴された聖書の福音主義信仰を自分も生きるのです。

不信仰において運命とか宿命とかいわれることが創造主の摂理の内にあることを思えば、風のように空しい偶然の人生などは無く、希望はあっても絶望は無いのです。キリスト者は人知を超える神秘の前に聖なる無知を告白して神への頌栄を貫く力を備えられています。啓示されたことは大胆に語り、そうでないことについては沈黙する必要があります。

「聖定」の主は、当然のことながら創造主の「父・子・聖霊」なる神ですが、実際的信仰においては「神」についての言説よりも、その御業である「聖定」の内容に関心を向けることが肝要です。「神」への形而上学的な関心がある人が、しばしば「なぜ神は愛であるというのに、その愛なる神が造りし世に、かような惨事が起きるのであろうか?」などといった無用な問いを発するのです。

だから北森嘉蔵氏が、キリスト教について指摘しておられる「実体(Substanz)としてではなく主体(Subjekt)として把握される時のみ、キリスト教は福音となる。」という言葉は、神観にも応用されて然りです。すなわち聖書が示す神は「実体としてではなく主体として把握される時のみ、聖書が示す神は生ける神となる」のです。キリスト教は神の実体性ではなく神の主体性を積極的に語るべきなのです。それが神の支配の現実性を伝えることになります。神の主体性を語るということは神のはたらきを語るということです。神のダイナミズムです。有賀鐵太郎氏の「エフイェ」(出3:14)についての説明にあるとおり、神の主体はそのはたらきに伴って現れるのであり、神のはたらきを語らずして神に主体性を伝えることはできません。聖書(…特に旧約)においては、神の主体とはたらきとは一体として語られ、表わされるのです。

ところで八木誠一氏の思想においても、「予定」とか「聖定」とは意味は違いますが、人間実存を規定する「定め」という考え方があります。「統合への規定」と呼ばれますが、これについては野呂芳男氏の書評から引用します。

人間の根源的な定めはロゴス(第二位格)に当たり、人間はその定めに自分の力で目覚められないが故に、聖霊(第三位格)の働きが当然予想されるし、しかも、ロゴスの深みにある力、人間を存在させる力たる父なる神(創造者―第一位格)を言わざるを得ない。そして、神を説明するのに場の論理が使用される。(中略)著者は人間の実存とその根源的な定めとの距離を、実存とロゴスとの距離をどう考えているのであろうか。実存と定めとが現実的には離れているという罪について著者は語ることができるが、それは個的実存の選択の自由の責任だけなのか、それともそれ以上のものをそこに見るのか。もし前者であった場合、著者は自由をどう考えているのか。定めに従順である自由だけしか考えていないようであるが、人間には悪魔をえらぶ自由もある。そうすると、人間とロゴスとの関係は、著者の考えるような仕方で結合しているのか。著者が人間を定めから考えて自由から考えようとしないところに、著者の実存主義からの隔離が見られる。もし後者であれば、著者は不条理なものを自分の思索に導入せざるを得なくなり、こういう形での実存とロゴスとの根源的結合は語れないであろう。>

野呂芳男 NORO, Yoshio, bibliography (eucharistia.tokyo)

ところで、コロナ禍の礼拝では説教内容がどうしても「神の愛、慈しみ、恵み」の方に偏りがちで、共に聖書に示されている「神の義、怒り、懲罰」といったことは語られないでしょうが、その背景には、キリスト教の神は新約(聖書)の神であって、旧約(聖書)の神はユダヤ教の神である…といったマルキオン的と言うか井上洋治&遠藤周作組的な極端な観方が影響している場合もあります。しかし小田垣雅也氏のように「二重性」ということで考えるなら、このコロナ禍における創造主の被造世界への関わり方は、慈しみか怒りか…ではなく、双方が二重になっているのです。聖書が示す神の救いは、人間の理屈では割り切れない仕方で現わされるのです。

現代においては神を有神論的に語る必要はなく、ましてやその「神」を、教義になっているからといって「三位一体」と呼ぶことに固執する必要さえありません。教会も組織である以上、時と場合によっては(礼拝での信仰告白など)そう呼ぶべきですが、個人の家庭生活ではそのような定式・形式にとらわれるべき理由はないと思います(これについては、当ブログの< 聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?>における北森嘉蔵著『神学入門』から引用した形而上学批判の一連の文章を参照)。

「神」について聖書的に言えるのは「三一」までであって、「位」とか「体」と訳されている言葉は元のギリシャ語では非聖書的な形而上学的概念になります。これは実存論的神学者の野呂芳男氏が、「私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書に元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。(中略)『三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない』」(講義「ユダヤキリスト教史」第38回)と述べていることにも関係します。

いずれにせよ私見では、聖書的に正しい神理解ないしは神観は、「聖定」という御業に思いを致すことにおいて付随的に与えられてきます。ヘブライ的信仰は神のはたらきに意識を向けることにおいて、そのはたらきの中で神ご自身の主体性が感得されるのであり、それがモーセに示された神の原名「エフイェ」という言葉にも表されています(その文法的解釈は、当ブログの「救いは観念ではなくはたらき」における有賀鐵太郎氏の文言を参照して下さい)。

ところで「聖定」(decree)という用語は、プロテスタントにおいても、大多数のクリスチャンにとってはあまり使う概念ではないでしょう。これは「ウ・信・基」を採用している教派……特にカルヴァン系教派で使われますが、その教派教会に所属している信徒、さらには牧師までもが、「予定」は言っても「聖定」はなかなか言わないのではないかと思います。しかしそれは聖書の福音を信じる者としては未熟でしょう。「聖定」は聖書教理の根幹にかかわるものだからです。実際には、いわゆるドルト信仰基準の「TURIP」(全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恩恵、聖徒の堅忍)のカルヴィニズムが歴史的にカルヴァン自身に遡るとは言えず、むしろカルヴァン自身は変更もしくは否定した教理が含まれる可能性があります。従って私などにとっては、カルヴァン個人に帰するか否かは関係なく、そんな個人的権威によって信仰基準が歴史的意義を持つのではなく、カルヴァンはあくまでもその信仰基準の前提であるにすぎません。問題は創造主なる神の御心にかなうか否かです。敢えて極端な言い方をすれば、反・カルヴァンの思想であっても、それが神の御心ならば正しいのです。そしてその正否は共同体のうえに働く聖霊の照明によってしか判断できません。

キリスト教福音主義信仰の目的は「罪と死からの解放」すなわち「救済」です。「聖定」信仰においては「救済」より大きなこと、すなわち、「救われるも聖定、滅ぼされるも聖定」といった覚悟あるのみです。救われないとしても、滅ぼされるとしても、それが創造主なる神の定めであるなら受け入れるという境地は平安です。ルターは、キリストが地獄にいるなら自分も地獄に堕ちてもかまわないみたいなことを言ったそうですが、自分は神の聖定なら、滅ぼされてもしゃあないって感じです。それは結局、救済という信仰の目的を忘れるということでしょう。

前述では聖定の内容に関心を向けるといったことを書きましたが、それは神に対する形而上学的関心を捨てるうえでの言い方であって、実は「聖定」という観念にとらわれてもいけないのです。それだと「神」に代えて「聖定」を究極的対象にしただけのことで、神のはたらきに意識を向けると言いながら実態は観念的信仰を一歩も出ず、むしろ生ける人格ではなく観念によりたのむ偶像崇拝的なあり方ということになるからです。

小田垣雅也氏は、エックハルトの「信仰を得るためにもっとも邪魔なものは、信仰を求める自分の心そのものだ」といった主旨の言葉を好んでよく引用していますが、エックハルトのような神秘主義者は大嫌いな私も、この言葉は悪くないなと思います。ここでの「信仰」を「救い」に換えると、福音主義的信仰というものがよりはっきりしてきます。それは御利益宗教の信心とは真逆で、自己目的ではないということです。確かにイエスには「益」を重視する現実的な面もあります。神信仰には何らかの「益」を求めるところがあっても聖書的にはおかしくないのです。ただ、私が言う「聖定信仰」というのは、心境的には親鸞の「自然法爾」にも通じて、とにかく絶対他者のはたらきに身をまかせきること、なるようにしかならないという諦念を積極的な意味において持ち、悔やまれた過去を観念的相対化によって受け入れ、知足の意識をもって前向きに生きることなので、救われるという益や目的への執着も絶たれるのです。すなわち自分が滅ぼされるにせよ、その主体が自分を造った神であるなら虚無にはならない…というところに信仰的根拠があるわけです。私の「自然法爾」の理解は要するに「自力」ではなく「他力」の信心を…と相対的に選ばれる観念的「他力」をもう一段上(か横)に超えた「他力」です。それはもはや観念としてでは無い「他力」です(→参考:小田垣雅也氏の、みずき教会説教「自力と他力」…<親鸞が繰り返し他力信心を言うとき、その他力は通りいっぺんの他力ではない。それは弥陀の誓願を当てにしての浄土への転入といったことではない。われわれの場合で言えば、キリストの贖いを当てにしての、天国への転入ということではない。つまり「本願ぼこり」ではない。他力はむしろ、自力―他力(主観―客観)を超えたところで問題になりうるような他力である。>)。

以下、『ウェストミンスター信仰規準』(日本基督改革派教会大会出版委員会編/新教出版社)参照。聖句引用は日本聖書協会口語訳聖書より。

<神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたがそれによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。>(3-1)

〔根拠聖句〕エペソ1:11、ロマ9:15、11:33、ヘブル6:17 / ヤコブ1:13、1:17、ヨハネ第一1:5 / 行伝2:23、4:27,28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴言16:33

<神は、想像されるすべての条件に基づいて起こってくるかも知れず、また起こってくることのできることは何事でも、知っておられるが、しかし何事であっても、それを未来のこと、あるいはそのような条件に基づけば起こってくるであろう事柄として予知したから、聖定されたのではない>(3-2)

〔根拠聖句〕行伝15:18、サムエル上23:11,12,マタイ11:21,23 / ロマ9:11,13,16,18

<神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たちが永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている>(3-3)

〔根拠聖句〕テモテ第一5:21、マタイ25:41 / ロマ9:22,23、エペソ1:5,6、箴言16:4、

<このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない>(3-4)

〔根拠聖句〕テモテ第二2:19、ヨハネ13:18

<人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである>(3-5)

〔根拠聖句〕エペソ1:4,9,11、ロマ8:30、テモテ第二1:9、テサロニケ第一5:9 / ロマ9:11,13,16、エペソ1:4,9 / エペソ1:6,12

<神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ、時至って働くそのみたまによってキリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる。他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである>(3-6)

〔根拠聖句〕ペトロ第一1:2、エペソ1:4,5、2:10、テサロニケ第二2:13 / テサロニケ第二5:9,10、テトス2:14 / ロマ8:30、エペソ1:5、テサロニケ第二2:13 / ペトロ第一1:5 / ヨハネ6:64~65、8:47、10:26、17:9、ロマ8:28~39、ヨハネ第一2:19

<人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた>(3-7)

〔根拠聖句〕マタイ11:25,26、ロマ9:17,18,21,22、テモテ第二2:19,20、ユダ4、ペトロ第一2:8

<予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう。そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の>(3-8)

〔根拠聖句〕ペトロ第二1:10、ロマ9:20、11:33、申命記29:29 / ペトロ1:6、ロマ8:33,11:5,6,20,33、ペトロ第二1:10、ルカ10:20

 

「予定」ないしは「聖定」の教理の根拠聖句は、大体、ロマ9章とエペソ1章で、この2カ所は全体的に頭に入れておく必要がありますが、あとはロマ8章と11章に1つずつ、ⅠテサとⅠペテに1つずつ、旧約から箴言16章に2つ、暗記しておけばよいと思います。

上段は新改訳(2017)、下段は協会口語訳(1955~)です。いずれはこれに文語訳(大正改訳)と岩波版訳を加えたいと思います。

エペソ1:3~5「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。/ すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。/ 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、/ みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、/ わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

エペソ1:11~12「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。/ それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。/ それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」

ロマ8:30「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」 

ロマ11:33「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」

Ⅰテサロニケ5:9「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」

「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。」

Ⅰペテロ2:8「 それは『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。」
「また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
箴言16:4「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。」
「主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。」

箴言16:33「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」

「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」

 

以下、ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)、岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社)、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』(新教出版社)参照。聖句引用は日本聖書協会口語訳聖書より。

<神の聖定は人間の有罪行為をも包含するもの。神の計画と目的は不変。神の聖定は一般に偶発的とか偶然事とかいわれる出来事をも包含している。神の聖定は人間の有罪行為をも包含するものである。>

〔根拠聖句〕創世記45:5,8、50:20 / 詩篇33:11 / 箴言16:33、ヨナ1:7、使徒1:24,26、列王上22:28,34、マルコ14:30 / サムエル上2:25、使徒2:23 / 使徒4:28、ロマ9:14~15,18,22~23、11:33 / コリント第一2:7、エペソ1:4 / エペソ1:9,11 / エペソ3:11

 

日本の改革派神学者の代表とも言える岡田稔氏は『(改革派)教理学教本』(新教出版社いのちのことば社)の中で、「聖定」に関して次のように述べておられます。※太字は自分。

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。」

最後に、佐々木稔氏のサイトから引用します。

<ベルクーワが、伝統的な二重予定を語らないで、恵みの選びと語るのには、聖書の根拠があると、ベルクーワは言う。それが、ローマ9章から11章である。この個所は、改革派では、伝統的に、二重予定の証拠個所としてきた。特に、エサウが捨てられ、ヤコブが選ばれたことが、二重予定とされてきた。確かに、予定論の個所は、エフェソ1章もあるが、4節の「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」があるが、この個所は、滅びや遺棄のことは語っていないので、二重予定を、直接語っているわけではない。救いがどのようなものであるかを語っている。ベルクーワは、「神の選び」の第5章「キリストにおける選び」で、次のような趣旨を語っている。エフェソ1章は、永遠や時間のことを言っているのでなく、救いの源泉(source)、基礎(foundation)、救いの不変の確実性(immutable certainty)を語っている。キリストによる救いは、不変で、基礎があり、確かのものであることを言っていると。したがって、ベルクーワは、エフェソ1章を、永遠の聖定とは言わない。では、どこが、神の永遠による滅びと救いへの定めを語っている最も有力な個所と考えられてきたのが、ローマ9章から11章であった。そして、特に、9章である。>http://minoru.la.coocan.jp/berkouwehanseiki4.html

キリスト教の中でも特に聖定信仰を重視する私にとっては、聖書の中で特にローマ9章に注目することになります。

コロナ禍も人間の原罪の然らしめる出来事だとすれば、これも神によって許容されたのでしょう。人間は神の愛の面だけではなく怒りの面をも見なければなりません。コロナ禍を通して神の怒りを体験し、悔い改めなければなりません。

 

以下、ロマ書9章を岩波版(青野太潮訳・注)で要点整理します。大見出しは記載されているものですが、小見出し(アルファベット)は自分が読んで思ったことです。各単元ごとに代表聖句も1つ選んで書きます。箇所によっては※で注も青野氏からの引用または他によって付けます。

 

9章

〇救済の歴史としてのイスラエルの選び

A.パウロの同胞への思い・悲願(1~5)

「肉によればキリストも彼らを出自とする。すべてのものの上におられる神は、永遠に誉むべきである。アーメン。」(5)※大正改訳や新改訳や新共同訳はキリストを神として訳す。

(新改訳2017)「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。」

B.肉の子孫より約束の子孫(6~9) 

「肉の子供たちそのものが神の子供たちなのだというのではなく、むしろ約束の子供たちが子孫と認められるのだ」(8)

C.選びによる神の計画(10~13)

「また〔双子の子供たちが〕生まれてもおらず、善いことも悪いことも何もしてはいない時に、選びによる神の計画が存続するために、〔しかも〕業によってではなく、むしろ召した方によって〔そのようになされるために〕(中略)私はヤコブを愛した。しかしエサウを憎んだ。」(11~13)※濃い字はマラキ一2~3(70人訳)

D.神には不義はない(14~18)

「私は私が憐れもうとする者を憐れむであろうし、私が慈しもうとする者を慈しむであろう。それゆえに、〔これは〕意志する者や努力をする者によるのではなく、むしろ憐れむ神によるのである。(中略)神は、自ら欲する者を憐れみ、自ら欲する者を頑なにされるのである」(15~18)

 

〇神の主権

A.造り主には逆らえない(19~21)

「粘土を用いる陶器師は、同じ〔粘土の〕かたまりから、一つを栄誉のための器に、他の一つを卑俗のための〔器に〕造る権限をもたないであろうか。」(21)

B.神の「怒りの器」と「憐れみの器」(22~23)

「大いなる寛容をもって、滅びへと造られた怒りの器を耐え忍ばれたとするなら、しかも、栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器の上に自らの栄光の富を知らしめるために〔そうされたとするなら、どうであろうか〕。」(22~23)※ここの文章は完結しないまま中断。

C.異邦人からも召し出す神(24~26)

「私は私の民ではない者を、私の民と呼び、愛されることのなかった者を、愛された者と呼ぶであろう。」(25)※ホセア2:23 

D.残された者の救い(27~29)

「たとえイスラエルの子らの数が海の真砂のようであったとしても、残されたもの〔のみ〕が救われるであろう。」(27)※イザヤ10:22、ホセア2:1(70人訳)

E.業ではなく信仰による義(30~33)

「義を追い求めてはいなかった異邦人が、義を、〔すなわち〕信仰による義を捕らえた。しかし他方イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、〔その〕律法に到達はしなかった。」(30~31)

 

10章

〇信じる者の救い 

A.神義に無知な同胞の救いへの祈り(1~4)

「事実、彼らは神の義を知らず、〔逆に〕自らのを立てることを追い求めて、神の義に従わなかったのである。なぜならば、〔神の義によれば〕キリストは信ずる者すべてに義が〔行き渡る〕ために、律法の終りと〔なられた〕からである。」(3~4)

B.律法による義と信仰による義(5~7)C.信仰の言葉(8~10)

「もしもあなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たち〔の中〕から起こした、と信じるなら、あなたは救われるであろうから。」(9)

D.同じ「主」(11~13)

ユダヤ人とギリシア人の差別はない。同じ主がすべての者の〔主〕だからであり、彼に呼びかけるすべての者を豊かにされるからである。実際、主の名を呼びかけるであろう者はすべて救われるであろう。」(12~13)

E.宣べ伝えの必要性(14~15)

「いかにして人々は、宣べ伝える者もなしに、聞こうとするであろうか。また、もしも遣わされないなら、いかにして人々は宣べ伝えようとするであろうか。」(14c ~ 15a)

F.信仰は聞くことから(16~18)

「信仰は聞くことから〔生ずるのであり〕、その聞くことは、キリストの言葉をとおして〔起こるのである〕。」(17)

G.反抗する民・イスラエル (19~21)

「私はひねもす、自分の手を差し延べた〔私に〕従わず、そして反抗する民に対して。」(21)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の「キリストの再発見」と再臨信仰

高倉徳太郎牧師は『福音的基督教』において、聖書無謬説に関して「…時として誤りがあるとしても、その故に聖書は『神の言葉』としての権威を失うものではない。」と批判しておられますが、私見では、聖書には正しいか誤りかを論じ得るような客観的な面だけではなく、それより以上に個々人の解釈に委ねられるべき主観的な面があって、それでも信仰の共同体として成立するためには個々バラバラの多様なだけではダメなので、共感ということが必要になってくるわけです。

高倉徳太郎牧師は前掲書にて教義のキリスト教ではなく聖書のキリスト教を説き、聖書の主人公であり聖書が示す真の神は、主イエス・キリストではなく、その聖なる父であると明言しておられます。

< 新旧約合わせて六十六巻よりなる聖書は第一に、その中心として何を与えようとするか。聖書において我らは何を一番期待すべきであるか。曰く、神。天地の創造主にして、全能なる活ける真の神、主イエス・キリストの聖なる父。これこそ聖書の中心題目であり、これを無視して聖書はまったく意味をなさぬ。かかる神は他の宗教の経典にも自然界にも、自我のうちにも、文学にも哲学にも倫理学にも、どこにもこれを見出すことはできないのである。(中略)聖書の主人公は神であるといったが、その意味は、聖書が、神に関する観念を与えるということでない、聖書が我らに霊的道徳的理想として、神を知らしめるということでもない。聖書は神に関して我らに教える書でなく、活ける神そのものに直面せしめ、その実在にまのあたりふれしめる書である。(中略)聖書において我らに迫り来る神は、絶対他者としての活ける神、我らの罪をさばくことによって、これを赦したもう聖なる父である。聖書は神に関する真理を観照せしめるよりも、むしろ活ける贖いの神そのものを罪ある我らに経験せしめるものである。聖書において真に神を知るとは、罪赦されて、神との交わりにはいることにほかならない。かかる意味で聖書は神の言葉である。聖書においてのみ我ら罪人は無比なる神の活ける言葉をきき得るのである。聖書が我らプロテスタントの信仰にとって、究極の権威であり得るのは、聖書をほかにして、活ける真の神を与えるものはないからである。>

ここでは、キリスト教の教義の神ではなく、聖書が示す真の神ということで、「主イエス・キリストの聖なる父」が明示されています。この箇所の主旨を表わしている聖句としてヨハネ福音書17:3「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」を挙げることができます。「唯一のまことの神」である御父と、御父から遣わされたイエス・キリストとがきちっと区別されています。

次に高倉徳太郎牧師は、贖罪信仰と終末信仰を挙げておられます。

主の十字架によれる赦罪なくしては、罪人は永遠に聖なる神と交わることはできない。要するに、現代のプロテスタンティズムの信仰の最も欠けたるものの一つは、罪悪の正しき認識と、罪よりの救いのよろこびとである。また現代のプロテスタントの敬虔が、神の内在性を高調し、従って自己の宗教的体験を重んじ、自己の生来の宗教性に沈潜することを好むようになるのは当然である。かくして現代のプロテスタントは、自己を中心とし、人間を中心として宗教を体験し、これを考えるようになる。人間が万物の尺度となるのである。神を我らの宗教的要求を満足せしめ、これを実現してくれる(中略)対象として、また手段として見るようになる。(中略)現代のいわゆる文化的キリスト教、哲学的キリスト教などにはいかに多くの享楽的、功利的な動機がそのうちにひそみおることよ。また人間を中心として宗教を考えると、功利的になる。我らの実生活に力を与える宗教でなければ駄目である。国家社会の進歩に貢献しないような宗教は無用の長物である。かくてキリスト教は個人および社会の生活能率をあげる手段と考えられてくる。米国輸入のいわゆる社会的福音をとくキリスト教がいかに浅薄な功利的なものであるかは申すまでもあるまい。

<人間中心であり、享楽的功利的に傾きやすい現代のプロテスタントが現世的なるは当然である。彼らに最も遠いものは、他界的な、終末的な敬虔である。彼らの希望の全部は現世にかかっている。「この世」と「肉」とに囚われて俗化して生きるところに、現代プロテスタントの特色があるのである。しかし聖書の宗教にはいかに他界的な終末的な精神が濃厚なることよ。キリスト教は我らを罪より救う宗教であるとともに、この世を中心とする心より救うのが、その使命の一つである。イエスは「我が国はこの世のものならず」とピラトに言われた。現在のプロテスタントの信仰には、もっと他界的な方面がなければならぬと思う。これは仏教的な回避的なセンチメンタルな他界心でなく、神中心の、宗教的良心の覚醒より来る健全なる他界心をいうのである。かかる他界心は常に召命意識と結びついているものである。とにかく現代のプロテスタンティズムが現世的になっていることが、聖書の宗教としてキリスト教を十分に認めざらしめているゆえんである。他界的精神がその信仰に生きている点よりのみ見るならば、我らは現世的な現代のプロテスタントよりもむしろカトリックに与せんとするものである。>

こちらの箇所の主旨を表わしている聖句としては、とりあえず私の独断と偏見から下の2句を挙げておきます。

ガラテヤ1:4「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。」

ヨハネ11:27「彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。』」

このように、高倉徳太郎牧師から学ぶキリスト教信仰3大要素は、父なる神を聖書が示す真の神とする非内在的(=超越的)人格神観と信仰であり、主キリストの十字架によれる贖罪への信仰であり、キリストの再臨および終末への信仰である。

私にとって宗教は、人生を豊かにするために選択された神話です。但し単なるフィクションということでもありません。それが現実の生活に役立つためには、それなりのリアリティーが必要です。リアリティーと言っても一般社会で基準とされている客観性だの普遍性だのといった科学的意味のそれではなく、自分自身の内面にカチッとくるという意味です。自分の場合、それは聖書的限定ということによって得られます。つまり聖書の内容ないしはキリスト教と伝統的解釈(信条・教義)を否定的媒介として、私にとっての意義ある神話が成り立つのです。否定的ということは歴史的批判的な解釈を含んでいることを意味します。しかしいわゆる非神話化によって信仰する立場ではなく、非神話化は程々にして、有意義な神話を物語ってゆく積極的な方向性を志すものです。

その第一は神観です。神をどのようにイメージするかが有意義な神話を有つための最大の要件です。私の場合、それはエホバの証人やアデルフィアン派のような非三位一体派のキリスト教と共通して(…自分は単に「正統か異端か」ではなく、是々非々の立場)、神が人格的存在であるということは、霊として不可見ではあれ、霊的意味の「体」や「形」を有っておられ、人間だけではなく、モーセが体験した燃える柴のように、自然物の形象をとることもおできになると思われます。

神は霊なので目には見えず、定義することはできませんが、まったく得体が知れないということはなく、聖書からして、基本は小よりも大(ソロモンの祈り…「それにしても、 神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、 あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、 なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)のイメージは、大か小で言えば明らかに、小より大です、)内在よりは超越、遍在よりは在天局在、そして非人格的よりは人格的…といった傾向を有っておられると思います。ソロモンは「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。」とも言っており、神が比類なきお方であるということですが、単に比べものがないというのではとらえどころがなく信仰対象にならないので、神学には類比というものがあるのです。要するに人は比喩という方法によって霊であり不可見でとらえきれない神をとらえるのです。

唐突ですが、ここでツイートの引用。

「宗教生活とは、どの経典、どの教義を信じるかゆうことよりも、どんな神話に共感して自分の人生観に採用するか、やな。 仏様により頼んで生きるとか神様と共に生きるゆうことは、或る宗教から得て無意識にもアレンジした神話を自らの言動によって物語ること。 他人に迷惑かけなきゃ異端も何も関係ない!」

神話は、観念的には精神安定のために必要だが、実践的には生活上の労苦(…特に人間関係での心理的労苦)に耐えて生きるために必要である。しかし後者においては、イエスの教えを中心としたキリスト教的愛の倫理に矛盾する。八木誠一氏のように、イエスの愛の教えを倫理と解さない道があるとしても、その道は私にとって違和感のある宗教性であり、何より人格的神観が後退するので、前者の面が疎かにされてしまう。やはり対人関係でのストレスを信仰によって軽減するためには、自分が福音的キリスト教の信徒であるという誇りを持つことが肝要だろう。霊的生命を得ているからこそ、肉的生命における傷つく心身の現実を相対化できるからだ。

さて、自分が経験する労苦も含めて神による定め…自己限定として受けとめる聖定信仰には積極性があるが、その考えは人格的超越者への信仰を希薄化するといううらみもある。たしかにそれによって偶像化の過ちは避けられるが、聖定の主なる神および媒介者たるキリストへの信仰が後退するという意味では信仰と言うより一つの思想にとどまる。

私は、イエス・キリストへの信仰の欠如という問題を、2020年秋の「キリストの再発見」と名付けた福音的体験によって克服した。これは、宗教改革記念日に至る信仰体験であり、ガラテヤ人への手紙1:4「そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちの父なる神の意志〔おもい〕に従って、私たちを現在の悪の世から解放するためである。」(岩波版、青野太潮訳)によるものであった。これは「キリストの贖罪」と「父なる神の御意」と「悪の世からの解放」という3点によって構成されている。

ちなみに、新改訳最新版では、「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。」

現実的には、自分が残り少ない余生をどう生きるかという基本テーマにおいて、とにかくプロテスタントキリスト教徒として…ということがあるので、福音的信仰を体得していなければならない…、観念的な面で創造主(=御父なる神)を信仰するだけではなく、実践的な面でイエス・キリストを主と信じ告白できるあり方にならねばならない…ということで、この問題を「キリストの再発見」では、人間関係における或る危機的な出来事を契機とした人類的原罪意識およびサタン支配世界の厭世的体験を通してクリアーしたのである。福音的信仰は否定媒介である。苦難を通して救いに至る。

観念的実践ということが言えるとすれば、それは福音信仰的思考が人間関係での苦悩をなんらかのかたちで軽減できる場合である。そのようなことは、神学的には個人倫理的な些細なことのように軽視されやすいが、信者の日常生活の現場の問題から離れた神学などは、それこそ屁のつっぱりにもならないのである。

「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3~5)

苦難には忍耐を生み、その忍耐から品性が、その品性から希望が生まれるというポジティブな意味がある。しかしそういうことより、そもそも父なる神は人間を鍛えるお方であり、御自分の聖さにあずからしめるため…と理由付けはされているが、何にせよ神からは苦難が与えられるのだと了解したい。

唐突ですが、ここでツイッターから引用。

< NHK「プロフェッショナル」でカリスマ販売員の橋本和恵さんが言われた中で、特にわてが印象に残った言葉…「苦手だからこそ神様からの課題だと思って取り組もうと思います」。 これって辻典子さんの母上の言葉に似て、「神」という存在を神社のそれのような現世利益の与え主にはしていない。(続く)>

<(続き)もちろん橋本さんが言われた「神」って、辻典子さんの母上が言われた「神」と同様、必ずしもキリスト教的な「神」とは言えない、そうとは限りまへんが…、自分にとって試練となるようなことを与えるお方とは、まさに聖書が示している人格的な超越的存在と一致するんだす。>

これはよく世間で使われる(…最近では競泳選手の池江さんが使われたようですが…)、所謂「神は乗り越えられない試練は与えない」 といった言葉(…いちおう、新約聖書のコリント一10:13の引用とみなされる)と関連させて受けとめることは、私にはできない。実際、辻典子さんの母上や橋本和恵さんがどういう意味・イメージで「神」という言葉を使われたかわからないし、ツイートにもあるとおり、その「神」は聖書が示す「神」と必ずしも同じとは限らない。彼女たちにとっては神社の神だったかも知れない。ただ一般的には、現世利益ばかり求める相手としての「神」と比べて、試練としての苦難を与える神という点で極めて人格的であるという意味では、はるかにキリスト教的な「神(観)」に近いと感じられるわけだ。

「さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。」(ヘブル12:9~10)

自分は苦難を美化しないし、否定的媒介と言っても苦難の経験なしに福音的救済もあり得ない…と決めつける必要は感じない。ただ苦難という否定的なことを通ってこそ、救いにリアリティーが感じられるということだ。しかし何より、苦難の果てに死ぬ人がいるので、どこまでが試練でどこからがただの苦しみかは区別しきれない。ただ、聖書ではキリストの十字架の苦難と死が書かれてあるので、そのキリストの苦難にあずかるという神秘主義的発想は自分には無いが、まあ、そんなことのようである。端的に言えば、この世に望みを持てば持つほど福音的救済からは遠のき、この世に失望すればするほど終末信仰を持ちやすく、その意味で福音的救済に入りやすい。仮にそういうことが極端にでも言えるとするなら、死にたいほどに絶望している人の心境が最も神の国とか永遠の生命に近いとさえ言えるのだろう。但し、そこで軽視されてならないことは、聖書における救いには信仰心という絶対要件があるということだ。どんなにどん底にある人でも信仰なしには救われない。その信仰とは…信心とは…神から与えられる賜物なのである。その種は本人が気づかぬうちに本人の心に備えられていたと言える。この種が宿っていなかった者は例外なく救いにあずかることはない。それが聖定である。救われないということはキリスト教の立場からみれば滅ぼされるという否定的でしかない事柄だが、非信者にとっては否定も肯定もなく、自分に縁なきところに行かないというだけの話であり、そもそも縁が無いものは関心も無いのだから、キリスト教的救いにあずかれないからといって不満を感じることなどあり得ない。なんら不公平でも不条理でもないのだ。

私の信仰的開眼は、聖書の非神話化だけではなく、そこからさらに再神話化してゆくという積極的創作的信仰の立場である。つまり、キリスト教徒であるためには、古代教会時代に教父がギリシャ哲学の形而上学的思弁を用いて作ったニカコン信条などの基本信条を認めなければならないのである。なぜ、自分はキリスト教徒として生涯を終えなければならないのかは客観的には不明だ。むしろ自分はキリスト教徒にはなじまない人間であるかのような感じもある。でも人生の成り行きが、福音的キリスト教になってしまっているのだ。諸々の悩みの最終的解決を…つまり救いを願い求める以上、福音的キリスト教が自分にとって縁ある宗門だと受けとめ、これによって生きるはわが定めと引き受けるしかないみたいだ。

とにかく基本信条の承認はキリスト教徒であるための形式的手続きとして、信仰告白定式として受け入れれば済むことではあるが、論理的には、神話の選択ということがあり、ニカコン信条で物語られている神論なりキリスト論なり聖霊論などは神話であり、これを存在(実体)論的に解する必要は必ずしもなく、実存的に…すなわち自分が感得している現実世界のコヘレト的虚空性、人類の原罪の悪魔性などを踏まえて解釈するなら、非神話化ではなく再神話化として活かすことができる。無論、ベースは非神話化による歴史性だから、わてのキリスト信仰は受肉神話から始まるのではなく、あくまでも大貫隆氏による古代人としての史的イエス像から始まる。その古代ユダヤ人の一人にすぎない、ガリラヤのナザレという田舎出身のイエスという平凡な名前のおっちゃんが、後の時代に子なる神キリストへと飛躍する理由は、人類の原罪への意識である。これによって神の聖性と人間の俗性との隔絶を実感し、イエス・キリストの存在がこの隔絶を超える唯一の架け橋・仲介者であるという意味で要請されている超越性(=神性)の認識を強めることが出来、自分のキリスト信仰が成立したのである。なぜ「キリストのみ」が神と人類との仲介者なのか…この唯一絶対性の根拠は「聖書のみ」という理屈抜きの信頼以外にはあり得ない。神の唯一絶対性の根拠も客観的には「聖書のみ」にしかあり得ない。

それにしても自分にとってのキリストは十字架贖罪死の主である以上に再臨の主である。再臨して世をさばき、定められた聖徒を救い、新天新地を創造する神に仕える存在である。キリストの復活については、あくまで再臨の前提として受け入れ得るにすぎない。十字架との関係だけでは、復活を積極的に信じることはできない。再臨待望の前提としてのみ復活の積極的な意義を認め得る。

コロナ禍と聖定信仰

世界がパンデミックの苦難にある時にこそ、キリスト者は「聖定」の信仰をあらたにすべきです。…って言うか、パンデミックだろうが大地震であろうが隕石落下であろうが何であろうが……それがどんなに悲惨で大規模な災害であっても、この世に起きることはすべて創造主なる神の聖なる定めの内であり、支配下なのであって、サタンのはたらきさえも神の許可なしには起こり得ない……というのが旧新約聖書66巻から示されることです(神義論無用!)。但し、キリスト教を聖定の教理に集約して済ませられないこともまた事実であり、親鸞阿弥陀信仰における「自然法爾」と比較するとかならよいが、何事もすべて創造主の「聖定」に還元して考えることは無理。キリスト教である以上、やはり福音的でなければならない。そして福音は昔から聖潔派系では「新生、聖化、神癒、再臨」と言われており、コロナ禍との関係では特に「再臨」が重要な意味を持ってくる。それは「神の国の福音」ということでもあるが、「神の国」は単なるユートピアではなく、あくまでも人格的存在である「(御父なる)神」と「(御子なる)キリスト」との関係において主客を超えて実現されるものだから、まずはその存在と働きに意識を向けていなければならない。すなわち、いつ御子が来られてもよいように、緊張感を持った生活をしてこそ福音的信仰生活と言える。

※私の再臨信仰の内容については、<私の「キリストの再発見」と再臨信仰 >を参照。

ところで、かつて内村鑑三氏は関東大震災を顧みて、「今回の震災は未曽有の天災であると同時に、天譴である。」と述べています(~「万朝報」)。他の文章を散見すると、内村氏は震災それ自体を天譴すなわち天罰(…内村氏はキリスト教徒なので、彼にとって「天罰」は「神罰」と同意)だと言っているわけではありません。そうではなく、そのような災難に不信心の人間が遭うと、これが天罰の意味を持つというわけです。死ぬこともあるわけですが、生者においては滅ぼされるということではなく、悔い改めてキリスト信仰による救いの機会になるというわけです。内村氏が天国から阪神淡路大震災および東日本大震災を見て、今のコロナ禍を見るなら、コロナ禍は世界規模ではありますが日本にとっては、戦後に経済大国となり物質的豊かさによって堕落した日本に対する天罰だと言っているかも知れません。

コロナ禍の時期にNHK大河ドラマ「青天を衝け」で日本資本主義の父と云われる渋沢栄一の生涯が描かれていることは皮肉というか、不思議なめぐり合わせのような感じがします。震災と疫病との違いとは言え同じく広義の自然災害…すくなくとも人間が自然の脅威を実感させられる出来事だからであり、渋沢氏は、< 報知新聞の1923年9月10日付夕刊で「思ふに今回の大しん害は天譴だと思はれる…この文化は果して道理にかなひ天道にかなつた文化であつただらうか、近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか…この天譴を肝に銘じて大東京の再造に着手せなければならぬ」と、述べました。>と言われているからです。この言葉の注意点は、資本主義側の張本人が自らそれまでの経済発展を点検しているということです。東日本大震災によせて~渋沢栄一の『天譴論』と『因果倶時』 – 無用の用~高井伸夫の交友万華鏡 (law-pro.jp)

これは私に、三島由紀夫預言者的名文句である、< このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう >という「果たし得ていない約束」と題された新聞投稿文を彷彿とさせます。

コロナ禍という災難を通して現在の日本国の指導者たちも、経済のみならず、教育行政も含めた経済大国としての歩み全体を自己批判すべきではないかと思います。それが多くの犠牲を生かすことでもあるからです。

前述の内村鑑三氏も、被災者や感染者が、信者ではないからといって天罰を受けたのだ、とか、信者でありながら被害を受けたのは信心が中途半端だからだ、とか、そういうことを言いたいわけではないと思います。そういう個人レベルのことで言うなら、それは行き過ぎとなり、非難を受けてもしかたがないと思います。ましてや死者に鞭打つようなことは国民性からしても許されることではありませんから、いかに預言者的使命とか言っても、信仰倫理的にも配慮が必要であることは言うまでもありません。それならば、預言者的使命で震災やパンデミックが創造主の御意思によるもので、そこには審きの面もある…と言う場合、被災者や感染者の個々人はどのような意味で被害を受けたのか?と言えば、それは犠牲者として選ばれたとしか言えません。神の懲罰はこの場合、個々人に対してではなく、全民族、全人類に対してなされるのであり、被災者や感染者の個々人、特に重傷者や死者は、そのための犠牲とされた人々なのです。広い意味ではそれも試練と言えるのかも知れませんが、試すという意味とは違って、死者も出るわけですから、やはり創造主による懲らしめとしての面は否めません。その対象は個ではなく種および類を単位とします。そこで個は選ばれし犠牲者、スケープゴート(贖罪の山羊)です。

キリスト教徒が聖霊のはたらきを感じて預言者エレミヤの如く世間からの批判など恐れずに語る時は、必ずしも希望の福音であるとは限りません。逆に絶望的終末の裁きかも知れません。要は創造主なる神の御意思を語るのです。その場合、聖書の言葉は前後の文脈などに制約されず、箴言のように前後から独立した聖句として機能する場合があります。それを文脈云々を言って大胆な説教を避ける人が牧師を自称している世の中です。そのような保身的人物が牧師然として、あたりさわりのない説教をしながら子どもを大学に入れるためとか家族を養うために組織や世間に気を配りながら安全第一で働いているような時代なのです。昔の預言者的伝道者のように危険なことでも聖霊に感じたことは全実存をかけて語るなどということはありません。守るべきものがいろいろあるからです。その点では仏教の僧侶にも同様のことがあるし、同じキリスト教の中では福音派もリベラル派も大差ありません。

ところで、キリスト教徒の間で、日本の神学者の中では世界的に著名であると云われる北森嘉蔵氏は、正真正銘の世界的な有名人である湯川秀樹氏の言葉を引用した後で、<「人間」であること――具体的な人間であることは、偶然性があることに驚くということである。この驚きを失って、いっさいが必然性のもとに考えられると主張することは、具体的な人間を抽象解体してしまうことである。そのような無理なことをしないで、もっと素直に、あるがままの人間のすがたを見つめようではないか。それが、ものごとを具体的に考えるということである。>と述べています(~『対話の神学』〔教文館〕p104 ※最初と3番めの「具体的」と、「抽象解体」の各文字に傍点あり)。

これは北森氏の文章によく見られる独断的なもの言いであり、いかにも自分の「神学」が具体的な考えによるものであり、「素直に、あるがままの人間のすがたを見つめ」ることによって現実の信仰生活に役立つ、実践的なものであるかのような口ぶりですが、果たしてそうであるかは大いに疑問です。私から見れば北森氏は、言葉の魔術師というより観念の魔術師です。北森氏の著述こそ抽象的な表現が目立って感じられます。特に、「外を内に包む」などといった理屈が現実的で具体的だと言えるでしょうか?北森氏の言うことには、自分の「痛み」を媒介するロジックに引き寄せる自画自賛的傾向があり、極めて観念的であることは、著書を読めば一目瞭然です。「神の痛みの神学」などというものは、「神の怒り」の固有性を重視しているという一点を除けば、神学と名づけてはいるものの、その実態は「痛み」という情緒に昇華される文学的神学すなわちキリスト教義の神話的再解釈にすぎません。だから北森氏は「許容的聖定」の「許容」の意味も理解できないようで、次のように述べています。

<…罪の赦しの根本性格が、罪の赦しをば罪の許容から区別するのである。remission of sins は permission of sins ではない。「赦し」と「許し」とは区別せねばならない。許容は現状肯定である。(※「現状肯定」の各文字に傍点あり。) 許容は、あの「憤激」と「つまずき」とを媒介としていない。赦しは、憤激に価し・つまずきにみちている限りにおいて、どうしても現状肯定に坐り込むことを許さないのである。赦しの中には現状変革への念願が含められている。それが罪の潔めである。(※「現状変革」と「潔め」の各文字に傍点あり。)>(~前掲書p156)

このようなもの言いにも、北森氏特有の自我自賛的で独断的な傾向が垣間見られます。そもそも前の引用文に見られるとおり、具体的だから良くて抽象的だから悪い…みたいな考え自体がおかしいと私は思うのです。神学的思考の要点はそこにあるのでなく、思考内容が聖霊の導きによる聖書的かつ頌栄的であるか否かです。その意味で私は、カルヴィニズム神学における「予定」および「聖定」という概念が重要であると思うのです。逆に言えば私にとって、この概念を欠く言説は、「神の言葉の神学」だろうが「神の死の神学」だろうが「神の痛みの神学」だろうが、その他の何だろうが、たとえどんなに権威付けられ人口に膾炙する部分があるとしても、せいぜい反面教師としての価値しか認め得ません。予定説は「堕落前」と「堕落後」とに分かれます。「堕落」は時間・歴史の中の出来事ですが、聖定が「永遠の」であるなら予定も「永遠の」でしょう。従って、時系列的順序である「前」も「後」もないのです。

「善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。」(~岡田稔著『(改革派)教理学教本』※新教出版社からいのちのことば社へ。太字は自分による。)

岡田氏は同書の中で、「聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾」しないとも述べています。

この世の出来事を偶然と見るか必然性と見るか…といったことで言えば、聖書的・頌栄的には当然のことながら単なる偶然でも単なる必然でもなく、言わば偶然を用いた必然とでもいったこととして見るのです。ウェストミンスター信仰基準に明記されているとおり、聖定は偶然を活かし包み込んでいるのです。人生はすべて創造主の定めによって必然的に起こります。しかしそれゆえに人間がロボットのような客体として生存しているわけではありません。聖定信仰は、人間が現実に経験する「不条理」や「不思議」などの感覚と何ら矛盾しません。

神の決定・決意は、神の永遠の御計画、或いは目的とほぼ同じ意味であります。聖定と言う語は聖書の中に出てきません。そして、世界の歴史と人々の人の人生に対する全包括的な、神の絶対主権を最も明瞭に表現しており、世界の存在を神にしっかりと基礎づける事によって理神論と汎神論を退け、有神論にしっかりと立っているのであります。神はこの世界を完全に支配されておられるので、「起こり来る事は何事であれ」責任を持たれています。人間に関して神は、「罪の作者」ではありません。「被造物の意志に暴力が加えられる事無く」は、人は神様のロボットあるいは自動機械の歯車でなく、自分の行為に関して自由意志と責任を負っており、神の強制力で動くものではありません。「第二原因の自由や偶然性」としての自由は、神の主権的支配によって消し去られるものではなく、人間は意志の自由を保持し、悪を意志する自由さえ持っているのであります。この様に人間の意志は、常に悪に傾いており自分の思い通りの方向を選んでいます。神は、ご自分の民をその罪ゆえに罰する為に、多くの侵略者を起こされて計画を実行されました。例えば、アッシリアの王は自分がその計画の為に用いられて居ることは知りません。ただイスラエルを攻撃し財宝を手に入れれば、目的達成です。しかし、最後に神はその傲慢なアッシリアの王を、罰すると言われています。イザヤ10:12 アッシリア王の罪を通して神はイスラエルの民の悔い改めを求めておられたのです。>

ウェストミンスター信仰告白 講解 - ひたちなか教会 (hitachinaka-church.org)

創造主なる神の聖定は「許容的聖定」

< 罪があらかじめ定められているという事実は、聖定についてわたしたちの心に問題を生じさせる。厳密に言えば、定義により聖定は神の永遠の目的ゆえに、罪と邪悪に関してさえも、神の聖定は積極的である。しかしながら、聖定の遂行は、許容的である(permissive)。このことは罪に関してもそうである。神は人間の罪において積極的ではない。罪を犯し、また、こうして、自分の邪悪に対して言い開きをするのは人間である(使徒言行録2:23)。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」(ヤコブ1:13)。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(ヨハネ一1:5)。>minoru.la.coocan.jp/morton11.html

< 神様の聖定には「御自身の栄光のために」という目的があります。「神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです」。この「すべての出来事」の中には、偶然や人間の自由意志、さらには人間の罪さえ含まれます(ウェストミンスター信仰告白3章1節参照)。神様は罪の作者ではありませんが、人間の罪を許容され、それを用いて御自身の栄光を現すことをよしとされました。その代表的な例が、イエス・キリストの十字架です。神様は、イエス様を十字架につけるという人間の罪を許容され、その罪を用いて御自身の栄光を現されたのです。>

神の聖定とは、何ですか。 埼玉県羽生市のプロテスタント教会 (rcj.gr.jp)

<罪のそのものの起源は聖書の中に書かれていない。天より堕落した被造物である天使が、蛇(サタン:黙示録12:9)の姿をとり始祖アダムを誘惑し神との契約を破った事により、罪が入り込んだのである。こうして人は原罪を持つ者となり、神との交わりが絶たれたのである。① 神の聖定以外に、何事も何人によっても発生しない。② 聖定の目的は、すべて神の栄光の為であって、人の利益や神の恥の為では無い。③ 罪に関する聖定は、とくに許容であって強制や黙認ではない。事後承認でもない。許容は、神の意志が基でありながら倫理的には、人間側の責任が問われるのである。>

ウェストミンスター信仰告白 講解 - ひたちなか教会 (hitachinaka-church.org)

カルヴァン主義の一部では、いわゆる「堕落以前説」を取る。これは、次の順序になる。①ある者を救い、残りのものを捨てるという聖定、②救われるべき人々と、見捨てられるはずの人々とを創造する聖定。③両方のグループの堕罪を許容する聖定。④選ばれている者にのみ救いを備えるという聖定。~カルヴァンは、この見解にある程度の根拠を与えたといわれる。しかし、シーセンによれば、彼は晩年には無制限の贖罪説を受け入れていた。(中略)神は独断的に全てのことを定められたのであるから、全てのことを予知しておられるというのは、神の有効的聖定と、許容的聖定との区別を無視したものである。たしかに、「無条件の選び」の見解を取る人々の中でも、神が罪の有効的な原因であると教える人はごく僅かである。殆ど全てのものが、神は罪がこの世にはいるのを、ただ許容されたに過ぎないという点では一致し、また、神はまだ何も創造しない先に、罪の入ってくるのを予知されたということは誰もが認めるであろう。そうすると、もし神は、罪が世にはいるのを有効的に聖定されたわけでなかったが、それを予知することができたなら、同じように、神は人間がどのように行動するかを有効的に定められなくても、それを予知することができることになる。人間を創造する以前に、すでに神は人がどの程度神の聖さから離れ、また離れる者は誰であるかも知っておられた。そして、その知識に照らして神は人を創造し、かつ彼らが正しい道から離れていくことを、許容されたのである。神は起こるべきことを予知し、そして、それが起こるに任せられないと言う意味において 、罪に関する神のご計画は、完全に実現される。そこには、聖定、予知、選びと言った用語の間に、何の矛盾もない。>

信徒学校テキストⅡ「救済論(救いとは) – 泉南聖書教会 (holy.jp)

 人間は有限存在であり、原罪を許されながらも抱えつつ生きているので、交互に点滅する信号のように、神の御意志による必然を信じられる時と疑ってしまう時と両方あるからです。人間の主体性および自由意志は、有限性・原罪性を否定的媒介として許容されているのです。

逆に言えば、人間が最も自立的に思考する時は無神論的な場合であり、それはD・ボンヘッファーの有名な「神の前で、神とと共に、神なしに」という言葉にも反映されています。「神なしに」と言わずにおれないところに否定的媒介の現実が直視されるのであり、信者にとっては皮肉と言えば皮肉ですが、それが人類の科学の発展につながっています。すなわち近代ではまだ「神の前で、神と共に」であった科学が、現代に至って「神なし」になって、聖域を侵すのではないかと恐れられるほどになったというわけです。行き過ぎはありますが、基本的には神前意識から離れて進化論的、機械論的思考になったからそ発展し得た面もあったと思われます。神と人間との関係は、個人のレベルにおいても人類全体のレベルにおいても、やはり近すぎてもダメだし遠すぎてもダメということのようです。成人した人間は、信仰的には幼児のような素直な心は持っても、神に対してもはや甘えるようであってはいけないのです。それはいつまでも神話の世界に浸ることになります。

とにかく聖定信仰はダイナミックで現実経験を閑却するような機械的なものではありません。唯物論者・無神論者の存在とその活動の歴史的意義もまた、神の聖定の内にあることを忘れてはならないでしょう。すなわち現状肯定で、変革的なことはいっさい出てこない…ということではありません。歴史を見ればわかるとおり、神の聖定のもとで諸々の改革や、過激な叛乱や革命さえも行われてきたのです。なぜならその過激分子がそのような考えと力とを持つに至ったのも、神の聖定の内だからです。

パウロは、ロマ書13章の冒頭で、「すべての人間は上位にある権威に服従しなさい。神によらない権威はないからであり、存在している権威は神によって定められてしまっているからである。/したがって、その権威に逆らう者は、神の定めに反抗することになり、それら反抗する者たちは、自分自身にさばきを招くであろう。」(1~2節)と述べ、この世にあらゆる権威が神の定めによるものであるかの如く教えているのですが、それは当然、誤解です。パウロの本意はそんなことだったはずはないからです。なぜなら権威というものはカルト宗教の教祖の如き悪しき者にも、否、悪しき者にこそ重視され、強調される傾向があるからです。イエスの教えはその逆であり、クリスチャンの生き方は決して権威主義的ではあり得ないのです。パウロはむしろ、この世の中のあらゆる権威の中で、神・キリストに由来する権威を信徒が聖霊の助けによって見分け、これに服従すべきことを語ろうとしたのではないでしょうか?本質的には、神の御意と関係ない権威には従う必要など無いのです。但し、国家という枠組みの中で、さらには何らかの組織の中でしか、現実の生活はあり得ない以上、その制約の範囲内で、直接的には神・キリストに由来しないと思われる権威に従わざるを得ない我々であるが故に、便宜的には自分が好ましく思えない権威でも、それが神・キリストに由来するものと信ずる必要はあります。

所謂「主の祈り」では、「あなたの御意が天になるごとく、地においても」(thy will be done on earth as it is in heaven.)と祈りますが、その「なる」とおり、聖定の内に生かされている被造物にとって万事は「なるようにしかならない」のです。

私は、ユダヤ教徒に会うとしたらすくなくとも「シャーローム」と「ハレルーヤー」は言い、イスラム教徒に会うとしたら「アッサラーム アライクム」と「インシャー アッラー」(インシャラー)は言います。後者は「神のみこころのままに」という意味だそうで、興味深いのは「なるようになるさ」といった意味での気軽な使い方もされるようです。この2つの意味を掛ければ私の聖定信仰と合います。ちなみに、原理主義者の自爆テロを連想させる「アッラー(フ) アクバル」は言わないでしょう。

まあ、そういうことでここでは、この世は創造主のみこころのままになるようにしかならないのだと私は言いたいのです。そう言うと投げやりな感じがして、自由意志なんて意味ないだろう!努力したって無駄じゃないか!…みたいな極端な話になるので、そうではなく、所謂「人事を尽して天命を待つ」ということとも少し違って(…「人事を尽くす」が単なる自力の意味で言われるがそうではなくて…)、自由意志にしろ努力にしろ、その生滅もまた聖定の、予定の、然らしめるところであるということなのです。神ご自身がいったんは人の創造を後悔なさったこともまた、神ご自身のお定めの内であったことと同様です。人生は「なるようにしかならない」のではありますが、その「なる」ことの内には人間が自力ではなし得ない諸々の出来事があり成果があります。

八木誠一氏は、< 救済は、「天が然らしめるゆえに人為によらず自ずから然る」出来事である。>と述べています(~『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p85)。八木氏の場所論的宗教は「自覚」の立場なので、その救済は「倒錯から解放され、歪みが正される」(同掲書、p84)という認識論的な事柄ではあるのでしょうが、人為によらない自然の出来事という点が重要です。
また、「超越」の表現としての「場」について、「人間なら人間がそのはたらきの中にある」という面と、「そのはたらきが人間の中ではたらいて自我を動かす」という面の両面があると述べておられます(~「省察と瞑想の会」オンライン講座 第3回 2020/12/12)。私見では、前者は「天命」乃至は「自然法爾」であり、後者が「(絶対)他力」です。「場」にあたる「超越」は「共生」を可能にするものであり、別の比喩では「人格神」です。そして人間は「場所」と言われます。そして「はたらき」は人格的なので「共生」を強制はしない、促すのだ…と言われます。伝統的キリスト教においては必ずしも強制的であることと人格的であることとは矛盾しないと思います。アウグスティヌス由来でしょうか、「不可抗的恩恵」・
「強いられた恩恵」という言葉があります(「恩恵」は「恩寵」とも訳される)。「強いられた」…すなわち神の恵みは強制的に感得されるはたらきということですが、そこに人格的関係性が成立していなければ恵みということ自体あり得ません。この「強いられた恩恵」は「強いたまふ恩恵」と現在形でも言われています。私はある婦人信徒からこの言葉を初めて聞き、由来を調べて高倉徳太郎牧師にぶつかりました。以下、その箇所を引用します。※旧字体新字体に変え、ルビは〔 〕に入れました。

< アウグスチンは神の先行的恩恵〔プレヴィニエント〕、常勝的恩恵〔プレヴェーリンク〕、進んで不可抗的恩恵〔イレジスチブル〕といふことを申します。神が人に恩恵を下さるのに、いつも先手をうたれる、如何なる障害をも突破して下される、神の与える恩恵は不可抗的で、何人も之れを妨げることは出来ないといふ事です。神は恩恵をしばしば人に強ひられる、神は同情の押売をせられる。だからいかに暗く、つらく見える運命でも、之れが神の自分に強ひたまふ恩恵でないと誰が断言出来ませう。私共は自分の過去を顧みて、あの時、この時、神が自分に強ひて恩恵を与へたまはなかったら、今頃自分はどんなであつたらうと考へさせられることもあります。」(~『恩寵の王国』の「神を嗣ぐ者」一〇

恩寵の王国 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

ちなみに、川島隆一牧師は葬儀説教で以下のように語っておられます。

< 教会の歴史の中でその名を記憶される優れた指導者トマス・アクィナスの言葉に、「神はそれが偶然に起こることを欲した」というのがあります。偶然とは、起こるべからざることが起こるということです。キレネ人シモンに、「キリストの十字架を負う」という、まさに起こるべからざることが起こったのです。そして聖書は、このキレネ人シモンの中に、「自分の十字架を負うてキリストに従う」という、キリスト者の理想を見てきたのです。キリスト者はこれを、「強いられた恩寵」と表現してきました。ここには、自分はすべてを捨てて神に従ったという、自己栄光化が入り込む隙はないのです。それは「強いられた」ものであり、しかも「恩寵」なのです。恩寵である以上、その務めを果す力は神によって備えられるのです。>

ホスティア 「強いられた恩寵」 (fc2.com)

私も聖定信仰においては、神の「定め」を人間が選択する余地など与えられていないと思うので、強制と言うのが適切かどうかはともかく、神の主権の絶対性を反映することを思えば、促しという表現は弱いと思います。八木氏は「統合への規定」という「定め」に関して次のように述べています。

<実際イエスは、人間存在を統合へと定める定めのことを、単にロゴスとか宿命とかいうようには言わず、「神の」支配と言った。これはいわば音と声の関係に類比的である。ただ音というときは、背後に人格はみられていない。しかしまず人格同志のかかわりがあるとき、その中で「音」は人格間の交通の媒介として、「声」となる。このように「人のあり方の定め」は、イエスの場合、単なる宿命や真理や理法〔ロゴス〕ではなく、人格的な「神の」支配なのである。要するにこういうことである。先ず神との関係があるとき、その中で統合への規定は、「神の」支配となるのだ。>(~『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p196)※〔 〕はルビ。

「統合への規定」とは「ロゴス=キリスト」であり「神の支配」であり「神の意志」です。八木氏はこのようにも述べています。

< イエスの思想においては、人間を統合存在へと定めるその定めが、「神の支配」すなわち神の意志だということにほかならない(中略)。神の意志といっても、それは何か神秘的なものではない。それは人間を、精神と肉体の統合としての人格へ、また人格同志を統合された共同体形成へと定める定めにほかならないのだ。>(~前掲書、p151~152)

それで結局、ルカ福音書10章の所謂「善きサマリア人のたとえ話」においては、< 隣人愛を行なったサマリア人は「神の支配」に服したのだった。そして「神の支配」の内容は「統合への規定」なのである。>(~前掲書p174)ということです。そこで八木氏はさらに次のような問いかけをしています。

< ここで問題が生ずる。イエスは何故、人のあり方の定めというひとつの現実〔リアリティ〕のことを、「神の」支配と称したのか、ということである。(※「ひとつの」の各文字に傍点あり) 何故イエスは、統合への規定のいわば奥に、人格神を見たのだろうか。>(~前掲書p174)

この問いに対する答えは、前に引用した文章から察せられると思います。それよりも私が重要だと思ったことは救済に関することです。

< 人格存在は統合へと定められている。人間は恵みによって「天然自然」に健康(人格としての正しいあり方)へと定められている。(※「健康」と「へと定められている」の各文字に傍点あり) それは人間の能力や生まれつきや業績や過去によらない。この恵みを根拠として救済が成り立ち、人は救われたときに正しいあり方の何たるかを知るのだ。ゆえに救済は他面では古いあり方への審きである。といっても人は直ちに完全な正しいあり方に到るのではない。だから人は恵みに接したときに、恵みの何たるかを知るといった方が正しいのである。救済は、「天が然らしめるゆえに人為によらず自ずから然る」出来事である。それが成り立ったときに、人はまた自覚的に恵みに即することができる(「みずから然らしめる」の主体性が成立する)。救われたという「直説法」の上に、それにふさわしく生きよという「命令法」が成り立つ。ゆえにまた、人の正しいあり方の認識も、人格の統合(救い)が成就したその点から出発しなくてはならない。>(~前掲書p85) 

「定め」は八木氏の思想においても「恵み」と関連しているようです。

高倉徳太郎牧師は「予定」について次のように述べています。

「予定の信仰は教の確かさの要請からくる必然な魂の論理である。予定の信仰は救の確かさの要請からくる必然な魂の論理である。予定の信仰は、恩寵の強き体験に根ざす。そしてカルヴィニズムにおいては恩寵の経験としての予定の信仰は神の栄のためという使命(ヴォケーション)の観念によって強い倫理化を受けている。ここに恩寵と道徳との困難な問題が徹底的に(よし極端な形においてであろうとも)解決されておるのを見る。カルヴィニズムに独特なる召命の信仰が、キリスト教と文明との関係を解決するにたる一大暗示を有することをも疑うことの出来ない。」(『高倉徳太郎全集 6』p20)
「要請」という表現はカント哲学の影響かと思われます。カルヴィニズムに関しては次のことも述べています。
「カルヴィニズムの中心思想は主権者(サヴァレーン)としての神の観念にある。神は我らの魂の父であるばかりでなく、天地の創造者、統治者、主権者である。・・・絶対的な意味で宇宙万物の所有権は神にのみ帰すべきものである。ここにカルヴィニズムの徹底したる客観主義がある。」(同書、同頁)
以上の文章は、1925(大正14)年に東京で綴られたとのことで、その年は植村が召天した年であり、植村の後継者として東京神学社神学校の校長に就任し、戸山教会の建設に着手した年にあたります。その前年に高倉はスコットランドを中心とするヨーロッパ留学から帰国したのでした。

「予定」説にもとづく人生観としては、当人にとっては成功もあれば失敗もあり、栄光もあれば挫折もあり、勝利もあれば敗北もありますが、その全体が神の御意志によると思えば感謝をもって受け容れることができるということです。そうするしかないというネガティブな面と同時に、そうすることができるというポジティブな面もあり、その二重性において人生ですが、信仰者である以上、ポジティブな面が前、ネガティブな面は後ろ…という不可逆性があって然りです。「信仰(のみ)によって義」とされる神は、ご自分もその業としてのはたらきで力まかせに、人を、そして被造物を治めておられるのではなく、何よりも信頼によって治めておられるのであり、「定め」ということも信頼と矛盾することではないからこそ、我々は不条理のように思える苦難をも、感謝することはできないまでも忍耐することはできるのです。ですから「強いられた」と言っても単なる機械的強制とは意味が異なります。神の主権は絶対ですが、それが人間において、例えばカルト宗教に見られる民主制と矛盾する形での絶対君主制のようにはならない点が神の支配なのです。

北森嘉蔵氏によると、西田幾多郎氏は「弁証法神学」の神観を誤解してか、『哲学論文集』第七の中で、「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫〔き〕く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。……単に文化を否定するものは、真の宗教ではない。それは単に人間否定的に、単に超越的に、無内容なる宗教といわざるをえない。君主的神の宗教は、往々かかる傾向に陥りやすいのである。」(~北森嘉蔵著『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p139~140)云々と批判して「神の絶対否定的性格」ということにこだわり、「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。極悪にまでも下り得る神でなければならない。……悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである」とも述べたそうですが(~北森前掲書p190)、私にとっては少なくとも西田哲学とか場所論的神学といったものの「神」観よりは「君主的神」といった神観の方が聖書的であり、自分の信仰的感性にも合うと思います。「否定を含まない」から、自己相対化しえないから、「真の絶対者・絶対的救済の神」ではない…というのはまさしく理屈であって、実際に聖書から示される神観は「君主的神」だけではないですが、仮にそういったイメージが前面に出ているとしても、そのことと救済とは矛盾しません。なぜなら「救済」とは創造主なる神との関係そのものであって、「はじめに対神関係ありき」ということであり、死後にどういう場所に行くとかいったことは第一義的なことではないからです。実に対神関係を与えられていない人もいるわけで、それを「滅び」というのです。万事は「はじめに神の定めありき」で、現実は聖定あるのみ‼ 神の意志によって成るようにしか成らないのです。

同掲書で北森氏は次のようにも述べています。< 「京都学派」という呼称は、哲学の学派についていわれているのであり、必ずしも宗教哲学のそれではない。現に、西田「哲学」であり、田辺「哲学」なのである。(波多野宗教哲学については、他の執筆者が担当しておられ、また波多野博士は一般には「京都学派」という呼称の中にはふくまれないようである)。しかし、それにもかかわらず、この哲学の学派は始めから終わりまで宗教哲学的であったと言える。西田哲学も田辺哲学もそれぞれの仕方で終始一貫して宗教哲学的であった。したがって、京都学派の哲学について語ることは、そのまま宗教哲学について語ることともなるのである。しかしここでは、「日本の神学」の中で京都学派について語るのであるから、この宗教哲学をあくまで神学との対話の角度から取りあげようと思う。(中略)さてそれでは、西田哲学はキリスト教神学に対してまずどのような問いを発するであろうか。それは、従来の歴史的キリスト教が絶対者たる神を「有」として考えてきたことに対して、絶対者は「無」として考えられねばならないのではないかという問いである。神が有であるかぎり、この有によって限定される人間は、ついに独立性と自由とを失い、したがって人間の人間たるゆえんは基礎づけられなくなるであろう。たしかに、歴史的キリスト教の一つの形態たる極端なカルヴィン主義においては、このような批判がそのまま妥当するかのようである。さらには、キリスト教的背景をもって形成されたヘーゲル哲学が観念論に堕したのも、絶対観念としての神に対して人間個体が固有の独立性を確保しえなくなったことに基づく。西田哲学はここにいわゆる「西洋的」な思惟に対する根本的な問いを提出することとなるのである。そして、東洋的思惟による解決を与えようとするのである。それが絶対無の立場である。絶対者が無であることによってのみ、この絶対無による限定が人間個体の固有性と独立性とを生かすことができると言われる。歴史的キリスト教はおそらく始めてこのような根本的な問いに直面したと言われるであろう。そしてこの問いに出会うことによって、「歴史的」キリスト教は自己反省を迫られて、キリスト教「そのもの」としての福音を再自覚すべく促されることになるであろう。西田博士はその最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』の中で、次のように述べている。―― 「今日の時代精神は万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。(略)」ここに「万軍の主の宗教」といわれているものがどのような立場を指示しているかは、次の文章において明白となる。―― 「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。(略)」(北森嘉蔵著『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p135~139)

鈴木大拙先生と西田先生との相違は、キリスト教との関係が西田先生の場合には、対決的というよりもむしろ親和的だということだろうと思います。ところが、その西田先生が絶筆になりました「場所的論理と宗教的世界観」では、かなりちがうのですね。そこでいよいよ、この「西田哲学とキリスト教」というテーマに正面から触れることになります。この論文で西田先生は、始めに鈴木大拙先生の言葉を引用されます。「西洋文化の根柢には悲願というものがなかった」。この大拙先生の言葉をうけて、次のような西田先生の言葉が続きます。「そこに東洋文化西洋文化との根柢的相違があると思う」(『哲学論文集』第七、一五七頁)。この言葉の前に、次のような挑戦的な言葉が出てきます。「今日の時代精神は、万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか」。そして次のような極めて神学的な発言になります。「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。……単に文化を否定するものは、真の宗教ではない。それは単に人間否定的に、単に超越的に、無内容なる宗教といわざるをえない。君主的神の宗教は、往々かかる傾向に陥りやすいのである。私は今日この種の神学が従来の単に内在的なる合理的宗教観に反して、宗教の超越性を主張するには何処までも同意を表わする者であるが、しかれどもその一面反動性を認めざるを得ないのである」(『哲学論文集』第七、一七〇  ー 一七一頁)。ここで西田哲学は極めて神学的な発言をしております。ほとんど神学の領域に突入しているといってもよろしいでしょう。ここあたりが、西田先生の一種の場所、つかみ方の一つの典型であって、非常に直截に事態をつかむことを先生はするわけです。それが「君主的神の宗教」「万軍の主の宗教」というふうに総括されて、それと「絶対悲願」の宗教が対置されているのです。そこでこの弁証法的神学、すなわちバルト神学の把握の仕方が、誤解であるのか、それとも事態の端的な把握というに値するかという正念場にさしかかります。これに対して、決着をつけてくれる人が一人いるのです。西田先生のバルト批判が誤解なのか正解なのかという正念場に決着がつくのです。それは誰れでしょうか。意外も意外、カール・バルト自身です。私は一冊の文献をぜひ皆さんに紹介したいのです。お読みになった方もいらっしゃると思いますが、私は今とり上げますバルトの書物を非常に重大視していまして、『ローマ書』とこの本が二つのマイルストーンだと思っているのです。それは、バルトが一九五六年に書きました『神の人間性』(Die Menschlichkeit Gottes)という小さな書物です。バルトは、シュライエルマッハーやリッチルなどの近代主義神学に対して、Wendung を迫ったと言うのです。このヴェンドゥングという言葉のとり方ですが、私はこれは「転向」と訳すべきだと思います。これが自分の使命だったというのです。こうして、危機神学ないしは弁証法神学、正確にはバルト神学というべきものが成立しました。ところが、四十年後の今日、「私は」とバルトが言うのです。「私は、この四十年間の私の神学に対して、転向を迫らなければならなくなった」と言うのです。驚くべきことには、ヴェンドゥングという同じドイツ語を使っているのです。シュライエルマッハーやリッチルに対してつきつけたヴェンドゥングという同じ言葉を使って、自分の四十年間の神学にヴェンドゥングを迫ると言うのです。それは次のような内容です。――自分は四十年前、やむにやまれず、あることをした。それは神が神であるということを明らかにすることであった。それをバルトは、神の神たること、die Gottlichkeit Gottes (神の神性)という言葉で書いています。〔※Gottlichkeit の o の上にウムラウトの2点あり。「オ」を発音する口の形で「エ」を発音する。〕 神の神たることを四十年間語り続けてきた。そしてそれは、シュライエルマッハー以後の二百年間のプロテスタント神学に対して、方向転換を要求することだったと言います。そして言外には、その使命は及ばずながら果されたという確信がほの見えます。ところが、それにつづけて、バルトは次のようなことを言うのです。――四十年後の今日自分は、四十年間の自分の神学に対して、ヴェンドゥングを要求しなければならない。それは、Menschlichkeit Gottes (神の人間性)を明らかにすることだ。これまで四十年間の自分の神学は、「神の神性」を一方的に強調してきたことによって、「異端的」で「ゆがんでいた」と、バルトは言うのです。(中略)今自分が自分の四十年間の神学的営みに「転向」を要求しているようなことを、ジャン・カルヴァンもやってくれていたならば、ジュネーヴの街はあんな暗い街にはならなくて済んだだろうと言うのです。(中略)西田先生が「君主的神」と表現しておられることこそ、バルトが「神の神性」を一方的に強調してきたと自己批判していることと一致するのではないでしょうか。>(p202~205)

しかし、< 第一戒を神学的公理とする神学が、いかに「人間とのかかわりにおける神」を語るように「転向」したといわれようとも、また「否」よりも「然り」を言うようになったといわれようとも、その基本的方法論としての「序説」(プロレゴーメナ)が変革されないかぎり、究極的には依然として律法的排他性によって「人間的現実」を否定・排除してゆくのである。その具体的な表われは、この神学が実存性や土着性に対して究極的には否定・排除の態度をとることである。これでは依然として「自己否定を含まない神」といわれねばならないであろう。>と言われています(p140)。

それにしても、40年間の神学を自己批判して「神の人間性」などというタイトルの本を書いて転向したカール・バルトという人間は、しょせん大した神学者ではなかったことが明らかです。ましてやカルヴァンに起源を有つ改革派を自認する資格はなかったということでしょう。北森氏が、バルトが<今自分が自分の四十年間の神学的営みに「転向」を要求しているようなことを、ジャン・カルヴァンもやってくれていたならば、ジュネーヴの街はあんな暗い街にはならなくて済んだだろうと言>ったことについて、「これも驚きですね。カルヴァンとバルトというと、それこそ一卵性双生児みたいに私たちは考えるでしょう。けれども、カルヴァンジュネーヴはだめだとバルトは言うのです。」などと言っていますが(p205)カルヴァンとバルトでは、予定説をめぐって反対の立場にあり、そのような相違を有つ両者の神学的関係は、決して「一卵性双生児」などという比喩で表わし得るようなものではないのであり、この点、いかに北森氏が「予定」についての見解の相違を軽視していたかがわかります。

西田氏に自分の神観が「君主的」だと批判されたからではないにせよ、それまでの自分の神観を否定するとは情けないことです(北森前掲書p140、203~205参照)。もっともバルト神学はキリスト論が神論に先行するタイプなので、西田氏のバルトの神観に対する「君主的」というのは一面的であった、すくなくとも本質的とは言えない、と思われます。それはバルト自身が抗議すべきことだったはずです。

そんなことはともかく、私は、改革派神学でも「ハイパー・カルヴィニズム」といわれる立場のヘルマン・フクセマあたりの考えに近いのではないかと推察します。「ハイパー」ということはカルヴァン自身の考えから大きく逸脱し、もはやカルヴィニズムと言えるかどうかもわからないものなのでしょうが、私自身、カルヴァンという人物には何のこだわりもないので、フクセミズムとでもいった新しい神学思想だと思えばよいのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

それはともかく使徒パウロは、死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずだし、キリストが復活しなかったのなら自分たちの宣教は無駄だし、信者たちの信仰も無駄である…といったことを述べています(コリント一15:13~14、16~17他)。私は、「復活」よりももっと大きな事柄を思うのです。それが、「聖定」です。キリストが復活しなくたってこの世に創造主なる神の存在があれば霊魂救済の希望があります。復活なしでも永遠の生命を与えることは全能者には可能です。しかし聖定がなかったなら、この世はすべてむなしい限りです。聖定は復活も含む万事についての創造主の御意志であり、その実現だからです。この世に起こること、自分自身を襲うことがどんなに苦しいことや悲しいことであっても、それがこの世の創造主の御意志によると思えばこそ耐えられるからです。しかしその御意志が元に無ければ、この世は何一つ実のあるものが無い、仏教的世界観か無神論的世界観かは知りませんが、言わば砂上の楼閣ということになります。

私見では、この世は聖定下にないなら、厭世で然りであり、実に混沌にして無意味…コヘレトの言う空しさ以上の虚無的現実ということになると思われます。その意味では、華厳の滝での投身自殺で知られている旧制一高生・藤村操さんの遺書にあった「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、『不可解』。」という言葉も自分なりの解釈ではわかる気もします。聖定下であっても、人類の歴史は…社会は…原始から進歩して今日の民主主義に至っていると言っても、本質的には進化していないのではないかと思います。むしろ優勝劣敗は少なくとも資本主義の経済大国になった日本社会では、ますます激化して心身を蝕んでいるように思われます。競争は動物の生存に必然的だとか言っても、人間の他の動物に優る特徴として理性による人間の尊厳が謳われてきたわけで、それも誇大に言うほどではないことが暴露されています。

組織教会に所属するキリスト者は「ドルト信仰基準」(参考推奨記事:「ドルト信条」400周年記念 予定論の根幹に「根源的な慰め」 改革派・牧田氏とイムマヌエル・藤本氏が〝対話〟 2019年12月25日 | キリスト新聞社ホームページ (kirishin.com))および「ウェストミンスター信仰基準」(「ウ・信・基」)に立脚するに如くはなく、あくまでも神への頌栄の心から、苦難の中にあっても、この「聖定」(decree)の信仰を維持すべく聖霊の働きを祈り求めるのです。なぜならこの「聖定」信仰こそが、どんな時でも自分の揺るがぬ支えとなるからです。言わば「聖定論的人生観」です。ちなみに私が聖定聖句の中心に置くのが、ローマ人への手紙9章14~18節です。

<それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」 ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。>(新改訳2017年版)

自分が聖定信仰を心の支えにしているとは言っても、私は所謂「カルヴィニスト」ではありません。むしろアンチ・カルヴィニズムのウェスレアン・アルミニアン神学の「先行的恩寵」(Prevenient grace)という表現を重視します。但しその内容は、改革派神学における「一般恩寵」(General grace)と「特別恩寵・救済的恩寵」(Salvation grace)とでは後者であり、アンチの「可抗的恩寵」ではなく「不可抗的恩寵」(Irresistible grace)なので、「救済先行」ということになります。これなしには「はじめに関係ありき」の対神関係が生じてこないので当然のことながら「信仰」は成り立ちません。

ちなみに日本キリスト教会の牧師であった平田正夫氏は北森嘉蔵氏を批判して次のように述べておられます。

「もし、カルヴァンの二重予定ということが正しいとするなら、敵対するものをすべて包む北森嘉蔵氏の『神の痛みの神学』は崩れるのではなかろうか。『神は如何にしても包むべからざるものを包み給ふが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給ふのである。』(同箸、昭和二二年版七頁)。『神の痛みは、絶対に受け容るべからざる者を敢えて受け容れるが故にこそ、神の痛みなのである。』(一一一頁)。『神の真実の怒を神の愛が負ひこれを克服するといふ事実こそ、神の痛みにほかならぬ。』(一三九頁)。『神の痛みは神の本質である』(四六頁)。北森氏が聖書の学びを通して、神理解について世界に大きな貢献をしていることを、積極的に認めるものであるが、同時にこの神学がもつ抽象性を見逃すわけにもいかないであろう。すなわち、神の痛みが神の本質とされ、包むべからざるものを包む神として規定され、これが神学の原理とされているのである。だが、実はここに大きな落し穴があるのではなかろうか。一つの神学的思考が原理とされるとき、それは抽象概念に転落するのである。創造主なる神を、相対的な人間の概念によって規定することはできない。聖書に示された神は、聖なる神として示され、その聖は汚れを焼きつくさなければおかない聖さである。(中略)聖なるものが汚れを包むということは聖書においては考えられない。(中略)異ったものを包む『神の痛み』の原理が人間の倫理に応用された場合、非常な混乱を生むのである。(中略)カルヴァンが聖書によって理解した神は、無から有を造り、罪悪と死に勝ちたもう絶対の主権者である。(中略)たとえ、人間の目に不条理に見えても、神は正しく、愛でありたもう。その神の前でただ讃美と感謝を捧げるのである。」(~『現代における神の問題』〔創文社〕所収、「聖定の神」p95~96)

平田氏は同論文の中で人格神信仰についても述べておられます。予定乃至聖定の神は一見すると非人格的に思えるかも知れません。なぜなら聖定は人間に対して選択の余地なき宿命的なものに見えるからです。たしかに人格的関係が互いの自由意志を尊重するものであるなら、はじめから救われる者と滅びる者とを決定しておられる神は人間的とは言えても人格的とは言えないでしょう。しかし予定乃至聖定は神と人との人格的関係と矛盾しません。大枠は神の絶対主権による決定ですが、中味は神が人間の自由意志を尊重して歴史を導いておられるからです。

私見では、最後の「たとえ、人間の目に不条理に見えても」以下の文言が特に重要だと思います。北森氏の「神の痛みの神学」は、この「不条理」を「神の痛み」を通して思弁的に処理せんとする神義論であり、その背景には聖定信仰の欠落ということがあると思われます。その理由はルター派の伝統を引いているということだけではなく、北森氏が批判したバルト神学と同様、キリスト論的救済論にとらわれ過ぎて、聖書的な有神論世界観的視野が後退していることによるものでしょう。不条理は「聖なる無知を告白」する(~ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕)頌栄的信仰態度においてこそ対処されて然りであって、思弁の対象とすべきではないのです。

改革派教理における神の絶対的力(Potentia abosoluta)への信仰は先行的恩寵の現実認識を伴います。実際に神の恵みが先行しているからこそ、自分のような愚かな罪人にも信仰が与えられたのです。そういうことで、「ウ・信・基」を金科玉条とするわけではなく、時代に合わない表現など修正を必要とみなす部分もありますが、主旨が神中心なので、本質的には改変不要であり、原文の文言も大半は時代が変わってもそのままで通用する完成度の高い信仰基準であると思います。

内村鑑三氏も、一方ではカルヴァン的「二重予定」を肯定しつつも、もう一方では正反対の「万人救済」を肯定しています(→渡部和隆氏の論文「内村鑑三における予定説理解と万人救済説について」参照)。

<ここで注目すべきことは、内村が予定説について一見「二重予定説」のような記述をしていることである。恩恵による救いの予定の裏面には滅びの予定がある。「救はるる者は救はるるべし、救はれざる者は救はれざるべし」であり、「霊魂救済のことは、是れは天然以上、人力以上の事業であります、即ち神の特別な事業であります(中略)我等人間は此事の前に立て只口を噤いで驚くのみであります」と内村は言う。あたかも、神が主意主義的に2つの予定を設けて人間を分け、人間はその不公平にただ耐えるしかないかのようである。内村には確かに予定説について「二重予定説」的な見方が、一方には存在していると言えよう。(中略)しかし他方、内村は万人救済説論者でもある。「余が今日信ずる所は是れである、即ち神は既にキリストを以て人類全体を救ひ給ふたと云ふことである、即ち世には救はれない人とては一人もないと云ふことである」と内村は主張する。>

このように、人間界の真理が大体、極端な2説の中道に存するのに対して、神の真理は折衷とか調停とか止揚とか、言い方は色々あるのでしょうが、やはり二重性と言うのが適切でしょう。聖書の福音主義的救済理解は、「二重予定」と「万人救済」の二重性なのです。

自分が理解する「聖定」は、先行する神の恵みと矛盾せず不可分であり、神が万事に先立って定めておられるという事実こそが恵みの元なのです。あらゆる恵みはその上に生起するのであって、自我にとっては不幸に思われる出来事も受け入れることができるのは、私の聖定信仰においては、「不可抗的恩寵」と「先行的恩寵」が一致しているからです。神学の「先行的恩寵」は、真宗教学の「絶対他力」と同じようなリアリティーであると思います。

人類の「全的堕落」(Total depravity)は、カルヴァン系と非カルヴァン系とに関わらず福音主義教会が一致する聖書の真実です。

神の選びは無条件であって(Unconditional election)、人間の救いに条件的な要素など毫も認めることはできません。聖書が示す信仰的善行は他力による主体的行為ですが、その行為を「自力」とは言えないのです。他力内自力のような言い方もできません。強いて言えば、小田垣氏のように「二重性」を用いて「自力と他力の二重性」(~説教「自力と他力」)とでも言うしかありませんが、滝沢克己氏のインマヌエル思想における神と人との「不可分・不可同・不可逆」の関係のように、神の他力と人の自力は完全な二重とは言えず、「他力>自力」の「不可逆」的秩序があると思います。

浄土真宗と同じく絶対他力の宗教であるキリスト教では、どんな人間の善行や功績をも美化することは許されません。そしてその真宗を高く評価したカール・バルトは、万人救済的なことを言いながら自らをカルヴァン派(=改革派)であると言っており、実におこがましいと思います。

…ということで、私はJ・カルヴァンという個人に関心があるのではなく(…もちろんM・ルターやJ・ウェスレーに対しても同様であり、要は史的イエスを含めて個人には関心がない!)、その神学的系統を介して明徴された聖書の福音主義信仰を自分も生きるのです。

不信仰において運命とか宿命とかいわれることが創造主の摂理の内にあることを思えば、風のように空しい偶然の人生などは無く、希望はあっても絶望は無いのです。キリスト者は人知を超える神秘の前に聖なる無知を告白して神への頌栄を貫く力を備えられています。啓示されたことは大胆に語り、そうでないことについては沈黙する必要があります。

「聖定」の主は、当然のことながら創造主の「父・子・聖霊」なる神ですが、実際的信仰においては「神」についての言説よりも、その御業である「聖定」の内容に関心を向けることが肝要です。「神」への形而上学的な関心がある人が、しばしば「なぜ神は愛であるというのに、その愛なる神が造りし世に、かような惨事が起きるのであろうか?」などといった無用な問いを発するのです。

だから北森嘉蔵氏が、キリスト教について指摘しておられる「実体(Substanz)としてではなく主体(Subjekt)として把握される時のみ、キリスト教は福音となる。」という言葉は、神観にも応用されて然りです。すなわち聖書が示す神は「実体としてではなく主体として把握される時のみ、聖書が示す神は生ける神となる」のです。キリスト教は神の実体性ではなく神の主体性を積極的に語るべきなのです。それが神の支配の現実性を伝えることになります。神の主体性を語るということは神のはたらきを語るということです。神のダイナミズムです。有賀鐵太郎氏の「エフイェ」(出3:14)についての説明にあるとおり、神の主体はそのはたらきに伴って現れるのであり、神のはたらきを語らずして神に主体性を伝えることはできません。聖書(…特に旧約)においては、神の主体とはたらきとは一体として語られ、表わされるのです。

ところで八木誠一氏の思想においても、「予定」とか「聖定」とは意味は違いますが、人間実存を規定する「定め」という考え方があります。「統合への規定」と呼ばれますが、これについては野呂芳男氏の書評から引用します。

人間の根源的な定めはロゴス(第二位格)に当たり、人間はその定めに自分の力で目覚められないが故に、聖霊(第三位格)の働きが当然予想されるし、しかも、ロゴスの深みにある力、人間を存在させる力たる父なる神(創造者―第一位格)を言わざるを得ない。そして、神を説明するのに場の論理が使用される。(中略)著者は人間の実存とその根源的な定めとの距離を、実存とロゴスとの距離をどう考えているのであろうか。実存と定めとが現実的には離れているという罪について著者は語ることができるが、それは個的実存の選択の自由の責任だけなのか、それともそれ以上のものをそこに見るのか。もし前者であった場合、著者は自由をどう考えているのか。定めに従順である自由だけしか考えていないようであるが、人間には悪魔をえらぶ自由もある。そうすると、人間とロゴスとの関係は、著者の考えるような仕方で結合しているのか。著者が人間を定めから考えて自由から考えようとしないところに、著者の実存主義からの隔離が見られる。もし後者であれば、著者は不条理なものを自分の思索に導入せざるを得なくなり、こういう形での実存とロゴスとの根源的結合は語れないであろう。>

野呂芳男 NORO, Yoshio, bibliography (eucharistia.tokyo)

ところで、コロナ禍の礼拝では説教内容がどうしても「神の愛、慈しみ、恵み」の方に偏りがちで、共に聖書に示されている「神の義、怒り、懲罰」といったことは語られないでしょうが、その背景には、キリスト教の神は新約(聖書)の神であって、旧約(聖書)の神はユダヤ教の神である…といったマルキオン的と言うか井上洋治&遠藤周作組的な極端な観方が影響している場合もあります。しかし小田垣雅也氏のように「二重性」ということで考えるなら、このコロナ禍における創造主の被造世界への関わり方は、慈しみか怒りか…ではなく、双方が二重になっているのです。聖書が示す神の救いは、人間の理屈では割り切れない仕方で現わされるのです。

現代においては神を有神論的に語る必要はなく、ましてやその「神」を、教義になっているからといって「三位一体」と呼ぶことに固執する必要さえありません。教会も組織である以上、時と場合によっては(礼拝での信仰告白など)そう呼ぶべきですが、個人の家庭生活ではそのような定式・形式にとらわれるべき理由はないと思います(これについては、当ブログの< 聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?>における北森嘉蔵著『神学入門』から引用した形而上学批判の一連の文章を参照)。

「神」について聖書的に言えるのは「三一」までであって、「位」とか「体」と訳されている言葉は元のギリシャ語では非聖書的な形而上学的概念になります。これは実存論的神学者の野呂芳男氏が、「私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書に元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。(中略)『三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない』」(講義「ユダヤキリスト教史」第38回)と述べていることにも関係します。

いずれにせよ私見では、聖書的に正しい神理解ないしは神観は、「聖定」という御業に思いを致すことにおいて付随的に与えられてきます。ヘブライ的信仰は神のはたらきに意識を向けることにおいて、そのはたらきの中で神ご自身の主体性が感得されるのであり、それがモーセに示された神の原名「エフイェ」という言葉にも表されています(その文法的解釈は、当ブログの「救いは観念ではなくはたらき」における有賀鐵太郎氏の文言を参照して下さい)。

ところで「聖定」(decree)という用語は、プロテスタントにおいても、大多数のクリスチャンにとってはあまり使う概念ではないでしょう。これは「ウ・信・基」を採用している教派……特にカルヴァン系教派で使われますが、その教派教会に所属している信徒、さらには牧師までもが、「予定」は言っても「聖定」はなかなか言わないのではないかと思います。しかしそれは聖書の福音を信じる者としては未熟でしょう。「聖定」は聖書教理の根幹にかかわるものだからです。実際には、いわゆるドルト信仰基準の「TURIP」(全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恩恵、聖徒の堅忍)のカルヴィニズムが歴史的にカルヴァン自身に遡るとは言えず、むしろカルヴァン自身は変更もしくは否定した教理が含まれる可能性があります。従って私などにとっては、カルヴァン個人に帰するか否かは関係なく、そんな個人的権威によって信仰基準が歴史的意義を持つのではなく、カルヴァンはあくまでもその信仰基準の前提であるにすぎません。問題は創造主なる神の御心にかなうか否かです。敢えて極端な言い方をすれば、反・カルヴァンの思想であっても、それが神の御心ならば正しいのです。そしてその正否は共同体のうえに働く聖霊の照明によってしか判断できません。

キリスト教福音主義信仰の目的は「罪と死からの解放」すなわち「救済」です。「聖定」信仰においては「救済」より大きなこと、すなわち、「救われるも聖定、滅ぼされるも聖定」といった覚悟あるのみです。救われないとしても、滅ぼされるとしても、それが創造主なる神の定めであるなら受け入れるという境地は平安です。ルターは、キリストが地獄にいるなら自分も地獄に堕ちてもかまわないみたいなことを言ったそうですが、自分は神の聖定なら、滅ぼされてもしゃあないって感じです。それは結局、救済という信仰の目的を忘れるということでしょう。

前述では聖定の内容に関心を向けるといったことを書きましたが、それは神に対する形而上学的関心を捨てるうえでの言い方であって、実は「聖定」という観念にとらわれてもいけないのです。それだと「神」に代えて「聖定」を究極的対象にしただけのことで、神のはたらきに意識を向けると言いながら実態は観念的信仰を一歩も出ず、むしろ生ける人格ではなく観念によりたのむ偶像崇拝的なあり方ということになるからです。

小田垣雅也氏は、エックハルトの「信仰を得るためにもっとも邪魔なものは、信仰を求める自分の心そのものだ」といった主旨の言葉を好んでよく引用していますが、エックハルトのような神秘主義者は大嫌いな私も、この言葉は悪くないなと思います。ここでの「信仰」を「救い」に換えると、福音主義的信仰というものがよりはっきりしてきます。それは御利益宗教の信心とは真逆で、自己目的ではないということです。確かにイエスには「益」を重視する現実的な面もあります。神信仰には何らかの「益」を求めるところがあっても聖書的にはおかしくないのです。ただ、私が言う「聖定信仰」というのは、心境的には親鸞の「自然法爾」にも通じて、とにかく絶対他者のはたらきに身をまかせきること、なるようにしかならないという諦念を積極的な意味において持ち、悔やまれた過去を観念的相対化によって受け入れ、知足の意識をもって前向きに生きることなので、救われるという益や目的への執着も絶たれるのです。すなわち自分が滅ぼされるにせよ、その主体が自分を造った神であるなら虚無にはならない…というところに信仰的根拠があるわけです。私の「自然法爾」の理解は要するに「自力」ではなく「他力」の信心を…と相対的に選ばれる観念的「他力」をもう一段上(か横)に超えた「他力」です。それはもはや観念としてでは無い「他力」です(→参考:小田垣雅也氏の、みずき教会説教「自力と他力」…<親鸞が繰り返し他力信心を言うとき、その他力は通りいっぺんの他力ではない。それは弥陀の誓願を当てにしての浄土への転入といったことではない。われわれの場合で言えば、キリストの贖いを当てにしての、天国への転入ということではない。つまり「本願ぼこり」ではない。他力はむしろ、自力―他力(主観―客観)を超えたところで問題になりうるような他力である。>)。

以下、『ウェストミンスター信仰規準』(日本基督改革派教会大会出版委員会編/新教出版社)参照。聖句引用は日本聖書協会口語訳聖書より。

<神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたがそれによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。>(3-1)

〔根拠聖句〕エペソ1:11、ロマ9:15、11:33、ヘブル6:17 / ヤコブ1:13、1:17、ヨハネ第一1:5 / 行伝2:23、4:27,28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴言16:33

<神は、想像されるすべての条件に基づいて起こってくるかも知れず、また起こってくることのできることは何事でも、知っておられるが、しかし何事であっても、それを未来のこと、あるいはそのような条件に基づけば起こってくるであろう事柄として予知したから、聖定されたのではない>(3-2)

〔根拠聖句〕行伝15:18、サムエル上23:11,12,マタイ11:21,23 / ロマ9:11,13,16,18

<神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たちが永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている>(3-3)

〔根拠聖句〕テモテ第一5:21、マタイ25:41 / ロマ9:22,23、エペソ1:5,6、箴言16:4、

<このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない>(3-4)

〔根拠聖句〕テモテ第二2:19、ヨハネ13:18

<人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである>(3-5)

〔根拠聖句〕エペソ1:4,9,11、ロマ8:30、テモテ第二1:9、テサロニケ第一5:9 / ロマ9:11,13,16、エペソ1:4,9 / エペソ1:6,12

<神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ、時至って働くそのみたまによってキリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる。他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである>(3-6)

〔根拠聖句〕ペトロ第一1:2、エペソ1:4,5、2:10、テサロニケ第二2:13 / テサロニケ第二5:9,10、テトス2:14 / ロマ8:30、エペソ1:5、テサロニケ第二2:13 / ペトロ第一1:5 / ヨハネ6:64~65、8:47、10:26、17:9、ロマ8:28~39、ヨハネ第一2:19

<人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた>(3-7)

〔根拠聖句〕マタイ11:25,26、ロマ9:17,18,21,22、テモテ第二2:19,20、ユダ4、ペトロ第一2:8

<予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう。そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の>(3-8)

〔根拠聖句〕ペトロ第二1:10、ロマ9:20、11:33、申命記29:29 / ペトロ1:6、ロマ8:33,11:5,6,20,33、ペトロ第二1:10、ルカ10:20

 

「予定」ないしは「聖定」の教理の根拠聖句は、大体、ロマ9章とエペソ1章で、この2カ所は全体的に頭に入れておく必要がありますが、あとはロマ8章と11章に1つずつ、ⅠテサとⅠペテに1つずつ、旧約から箴言16章に2つ、暗記しておけばよいと思います。

上段は新改訳(2017)、下段は協会口語訳(1955~)です。いずれはこれに文語訳(大正改訳)と岩波版訳を加えたいと思います。

エペソ1:3~5「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。/ すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。/ 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、/ みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、/ わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

エペソ1:11~12「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。/ それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。/ それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」

ロマ8:30「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」 

ロマ11:33「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」

Ⅰテサロニケ5:9「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」

「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。」

Ⅰペテロ2:8「 それは『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。」
「また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
箴言16:4「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。」
「主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。」

箴言16:33「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」

「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」

 

以下、ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)、岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社)、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』(新教出版社)参照。聖句引用は日本聖書協会口語訳聖書より。

<神の聖定は人間の有罪行為をも包含するもの。神の計画と目的は不変。神の聖定は一般に偶発的とか偶然事とかいわれる出来事をも包含している。神の聖定は人間の有罪行為をも包含するものである。>

〔根拠聖句〕創世記45:5,8、50:20 / 詩篇33:11 / 箴言16:33、ヨナ1:7、使徒1:24,26、列王上22:28,34、マルコ14:30 / サムエル上2:25、使徒2:23 / 使徒4:28、ロマ9:14~15,18,22~23、11:33 / コリント第一2:7、エペソ1:4 / エペソ1:9,11 / エペソ3:11

 

日本の改革派神学者の代表とも言える岡田稔氏は『(改革派)教理学教本』(新教出版社いのちのことば社)の中で、「聖定」に関して次のように述べておられます。※太字は自分。

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。」

最後に、佐々木稔氏のサイトから引用します。

<ベルクーワが、伝統的な二重予定を語らないで、恵みの選びと語るのには、聖書の根拠があると、ベルクーワは言う。それが、ローマ9章から11章である。この個所は、改革派では、伝統的に、二重予定の証拠個所としてきた。特に、エサウが捨てられ、ヤコブが選ばれたことが、二重予定とされてきた。確かに、予定論の個所は、エフェソ1章もあるが、4節の「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」があるが、この個所は、滅びや遺棄のことは語っていないので、二重予定を、直接語っているわけではない。救いがどのようなものであるかを語っている。ベルクーワは、「神の選び」の第5章「キリストにおける選び」で、次のような趣旨を語っている。エフェソ1章は、永遠や時間のことを言っているのでなく、救いの源泉(source)、基礎(foundation)、救いの不変の確実性(immutable certainty)を語っている。キリストによる救いは、不変で、基礎があり、確かのものであることを言っていると。したがって、ベルクーワは、エフェソ1章を、永遠の聖定とは言わない。では、どこが、神の永遠による滅びと救いへの定めを語っている最も有力な個所と考えられてきたのが、ローマ9章から11章であった。そして、特に、9章である。>http://minoru.la.coocan.jp/berkouwehanseiki4.html

キリスト教の中でも特に聖定信仰を重視する私にとっては、聖書の中で特にローマ9章に注目することになります。

コロナ禍も人間の原罪の然らしめる出来事だとすれば、これも神によって許容されたのでしょう。人間は神の愛の面だけではなく怒りの面をも見なければなりません。コロナ禍を通して神の怒りを体験し、悔い改めなければなりません。

 

以下、ロマ書9章を岩波版(青野太潮訳・注)で要点整理します。大見出しは記載されているものですが、小見出し(アルファベット)は自分が読んで思ったことです。各単元ごとに代表聖句も1つ選んで書きます。箇所によっては※で注も青野氏からの引用または他によって付けます。

 

9章

〇救済の歴史としてのイスラエルの選び

A.パウロの同胞への思い・悲願(1~5)

「肉によればキリストも彼らを出自とする。すべてのものの上におられる神は、永遠に誉むべきである。アーメン。」(5)※大正改訳や新改訳や新共同訳はキリストを神として訳す。

(新改訳2017)「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。」

B.肉の子孫より約束の子孫(6~9) 

「肉の子供たちそのものが神の子供たちなのだというのではなく、むしろ約束の子供たちが子孫と認められるのだ」(8)

C.選びによる神の計画(10~13)

「また〔双子の子供たちが〕生まれてもおらず、善いことも悪いことも何もしてはいない時に、選びによる神の計画が存続するために、〔しかも〕業によってではなく、むしろ召した方によって〔そのようになされるために〕(中略)私はヤコブを愛した。しかしエサウを憎んだ。」(11~13)※濃い字はマラキ一2~3(70人訳)

D.神には不義はない(14~18)

「私は私が憐れもうとする者を憐れむであろうし、私が慈しもうとする者を慈しむであろう。それゆえに、〔これは〕意志する者や努力をする者によるのではなく、むしろ憐れむ神によるのである。(中略)神は、自ら欲する者を憐れみ、自ら欲する者を頑なにされるのである」(15~18)

 

〇神の主権

A.造り主には逆らえない(19~21)

「粘土を用いる陶器師は、同じ〔粘土の〕かたまりから、一つを栄誉のための器に、他の一つを卑俗のための〔器に〕造る権限をもたないであろうか。」(21)

B.神の「怒りの器」と「憐れみの器」(22~23)

「大いなる寛容をもって、滅びへと造られた怒りの器を耐え忍ばれたとするなら、しかも、栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器の上に自らの栄光の富を知らしめるために〔そうされたとするなら、どうであろうか〕。」(22~23)※ここの文章は完結しないまま中断。

C.異邦人からも召し出す神(24~26)

「私は私の民ではない者を、私の民と呼び、愛されることのなかった者を、愛された者と呼ぶであろう。」(25)※ホセア2:23 

D.残された者の救い(27~29)

「たとえイスラエルの子らの数が海の真砂のようであったとしても、残されたもの〔のみ〕が救われるであろう。」(27)※イザヤ10:22、ホセア2:1(70人訳)

E.業ではなく信仰による義(30~33)

「義を追い求めてはいなかった異邦人が、義を、〔すなわち〕信仰による義を捕らえた。しかし他方イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、〔その〕律法に到達はしなかった。」(30~31)

 

10章

〇信じる者の救い 

A.神義に無知な同胞の救いへの祈り(1~4)

「事実、彼らは神の義を知らず、〔逆に〕自らのを立てることを追い求めて、神の義に従わなかったのである。なぜならば、〔神の義によれば〕キリストは信ずる者すべてに義が〔行き渡る〕ために、律法の終りと〔なられた〕からである。」(3~4)

B.律法による義と信仰による義(5~7)C.信仰の言葉(8~10)

「もしもあなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たち〔の中〕から起こした、と信じるなら、あなたは救われるであろうから。」(9)

D.同じ「主」(11~13)

ユダヤ人とギリシア人の差別はない。同じ主がすべての者の〔主〕だからであり、彼に呼びかけるすべての者を豊かにされるからである。実際、主の名を呼びかけるであろう者はすべて救われるであろう。」(12~13)

E.宣べ伝えの必要性(14~15)

「いかにして人々は、宣べ伝える者もなしに、聞こうとするであろうか。また、もしも遣わされないなら、いかにして人々は宣べ伝えようとするであろうか。」(14c ~ 15a)

F.信仰は聞くことから(16~18)

「信仰は聞くことから〔生ずるのであり〕、その聞くことは、キリストの言葉をとおして〔起こるのである〕。」(17)

G.反抗する民・イスラエル (19~21)

「私はひねもす、自分の手を差し延べた〔私に〕従わず、そして反抗する民に対して。」(21)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

救いは観念ではなくはたらき

Ⅰ.ことばを超える力、観念を超える救済。

 

A.私の「キリストの再発見」をめぐって

 

神の国は、ことばではなく力にあるのです。」(新改訳 コリント一4:20)

直訳すれば、「神の国はことばのうちにではなく、むしろ力のうちに」であり、「ある」という意味の語は省略されています(~川端由喜男訳の『日本語対訳ギリシア新約聖書 6 ローマ人への手紙・コリント人への手紙』〔教文館〕)。

旧約聖書には、「神の(王)国」(バシレイア トゥー セウー/キングダム オブ ゴッド)に当たる言葉はなく、「神はあなたの王となられた」という宣言がイザヤ書などにあります。イエスの「神の王国の福音」は「神の王権支配の福音」です。

聖書学者はふつう「神の国=神の支配」と言います。私見では、これは「神のはたらき」であって、「聖定」も「予定」もそこに含まれます。聖書における「救い」は「神」によると言うよりも「神のはたらき」によると言う方が適切だと思います。特にヘブライ的には「神」の名が動詞に由来するという意味でもそう言えます。問題は、その「神のはたらき」が観念ではなく現実として体験されるか否かです。その体験内容が「救い」の実質です。この場合の「救い」とは人間による身体に対する相対的な意味とは違って霊魂に対する絶対的な意味を持ちます。但し「神のはたらき」による救いは人間の相対的な救助を用いることがあります。

神の国」が「ことばのうち」ではなく「力のうち」にあるという意味は、神のはたらきは言葉・観念にとどまるのではなく現実に活力として体感・体験されてこそ意味があるということです。信仰的救いとはそういうものなのです。しかしそういう現実体験も観念のカタチにおいてしか思惟の対象たり得ません。人間は考える葦であり、生きているということは考えていることです。考えなしに生きていると言えるのは病気・障害など特殊な場合であって、通常は生きている限り考えています。そして考える…思惟するということは何かを対象化しているということです。八木誠一氏が言われた、西洋哲学における「存在=思考」ということや、小田垣雅也氏が批判した対象論理にも関係があるでしょう。対象となるものは観念です。カタチがあるのです。このカタチある対象としての観念を忘れることにおいてその観念が消えてその内実が現実として体験されるのですが、それが「無いことにおいて有る」という二重性なのかもしれません。例えばいくら「神のはたらき」という観念ではなく、<「神のはたらき」の現実>を体験するんだ…と言ったところで、思惟する以上、「神のはたらき」という観念のカタチなしには、<「神のはたらき」の現実>を体験したところでそれを認識し省察することはできません。そこには思惟するかぎり、観念を否定することにおいてその現実を体験するといっても、言わば観念の無限後退になるというジレンマが生じます。思惟において対象となる観念を頭の中で消去すべく努めたところで、そうやって執着することが逆に霊魂救済という「神のはたらき」を実体験するうえで邪魔なのです。

※【注意】

上記のとおり、観念としての「神のはたらき」と、<「神のはたらき」の現実>とは区別していますが、< 「神」の「はたらき」>と「神のはたらき」とは意味が異なるのに、この記事ではその区別が曖昧になっている箇所があるかもしれません。くれぐれも両者を混同しないようにしてください。当然のことながら「神」とその「はたらき」は不可分であり、「神」を捨ててその「はたらき」を取る…などという考えはあり得ません。

なお、< 場所論は神を人格や存在というよりは、まずは「はたらき」の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、「はたらき」の面が優越するのである。>とか、ピリピ2:13の「神は君たちのなかではたらいて意志をも、はたらきをも、成り立たせる」というのは、< 信徒のなかで「はたらく」神が、信徒の「はたらき」、つまり信徒の生の全体を成り立たせることである。>と言われ、このピリピ2:13の言葉は、<「はたらき」が実際に場所論の基礎的カテゴリー(もっとも基本的な用語)であることを示すもの>だと言われています(~『イエスの宗教』〔岩波書店〕p4 ※太字は自分による)。

ところで八木氏は、「はたらき」には<「主」(ぬし)のような「もの」>があると言われ、また、<「ぬし」がないような「場」もある>として「物理的空間・宇宙空間」について述べておられます(~『イエスの宗教』p17)。自分としては宗教においては、「はたらき」だけ経験されても成立せず、省察においてその「主」(ぬし)が(「神」と言われるか否かはともかく)「はたらき」の主体としてセットで言われなければならないと思います。すなわちそれは、人格主義的な面が救済宗教には不可欠であるということです。八木氏の「イエスの宗教=場所論的宗教」が果して伝統的な意味での「救済宗教」に含まれるか否かはわかりませんし(…いちおう人格主義的な面も認めておられるので…)、そもそも「経験と自覚」の宗教なので浄土真宗キリスト教のような「信の宗教」とは性格を異にするのかもしれませんが、自分にとって宗教的な意味の「救い」は霊魂救済であり、生きる活力と死の恐怖を乗り越える力を与えられることなので、そのような力は人間に内在するものではあり得ないとの思いから、絶対かつ超越的人格存在としての「主」(ぬし)なき「はたらき」などは考えられません。

 

〇はたらき給う神(以下、引用は新改訳2017)

の右の手は高く上げられ の右の手は力ある働きをする。(詩篇118:16)

の右の手は高く上げられ の右の手は力ある働きをする。(箴言8:22)

 実に、は起き上がられる。ペラツィムの山での時のように。主は奮い立たれる。ギブオンの谷での時のように。みわざを行われるが、そのみわざは不可思議。働きをされるが、その働きは意外。(イザヤ28:21)

弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕(マルコ16:20)

エスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、(ルカ3:23)

エスは彼らに言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。(ルカ13:32)

・イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(ヨハネ福音書5:17)

・神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(コリント一12:6)

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント二3:18)

 ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。(ガラテヤ2:8)

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:19)

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。(エペソ3:7)

どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。(エペソ3:16)

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、(エペソ)3:20)

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ2:13)

 彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。(ピリピ2:30)

このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1:29)

こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。(テサロニケ一2:13)

 

八木氏は、「新約聖書的場所論の基本」として、ピリピ2:13とコリント一12:6の二つの言葉を挙げておられます(~上掲書p4)。そして「はたらき」が「新約聖書的場所論」の最も基本的な用語であることを示す箇所としてヨハネ一4:7~16が挙げられています(上掲書p4~5)。

その他、「場所論的述語」を含む箇所としてガラテヤ2:20とコリント一1:2 , 4が挙げられています(~上掲書p2)。

 

神ご自身は働かれるが、人の働きを、救いの条件にはなさいません。

「しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」(新改訳2017 ローマ4:5)

「…あなたがたのうちにあって〔あなたがたに〕働きかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方は、まさに神だからである。」(岩波版〔青野太潮〕訳 フィリピ2:13)

神が「働きかけ」るという他力によって人は「働きをなさしめ」られるのであり、信仰も含まれます。そこに自由意志ないしは自力的わざが用いられているのです。ここに「他力即自力」・「受動即能動」といった「はたらきの二重性」があります。「神のはたらき」は人をただ受身の状態で体験させる恵みというにとどまらず、その恩寵体験を通して自ら実行する力を起こさせるのです。私の「キリストの再発見」の信仰体験は教会行きという行動につながりました。しかし病床にあるような個別的限界状況に置かれた人が、神の働きかけによっていかなる行為をなし得るのか?という疑問が生じてくるでしょう。その場合の「実行」は当然、各々の限定された可能性の中で…ということになります。たとえ病床にある人でも笑むという行為は可能な場合があります。否、それも不可能である人でさえ、生きて存在していること自体が広義の「実行」なのです。人は自死が可能ですが、それをせずに苦難に耐えて生き抜くということ自体で、人は人としての尊厳を持つことができるのです。No pain, no gain! (痛みなくして得るものなし!)です。

ところで、いくら現実体験と言ったところで、体験というのは常時、得られるものではありません。だから経験化されるのです。この世に常に神の救いを実感できるなんて幸せな人間は、カルト宗教の教祖か誇大妄想の異常者でもない限り、存在してはいないのです。では、いかにしたら常人が「神のはたらき」を継続的に実体験できるようになるのでしょうか?

それは言い換えれば、いかにして他力を継続的に起こせるか?という自力的な問題です。絶対他力をよびこむ自力とはいかなるものでしょうか?おまじないでもすればいいのでしょうか?福音信仰ではとりあえず悔い改めが求められます。祈りは言うまでもありませんが、この祈りが日本人などは誤解しており、新興宗教の御利益信仰みたいなことになっています。キリスト教の福音信仰における祈りは、良いことばかりを求める人中心的なものではなく、むしろ神の聖定の中で、自然災害などのような人間にとって都合の悪いことも起きることを受けとめ、「主の祈り」にあるとおり、要は神のみこころが実現することを願う神中心的なものです。祈って待ち望むしかありません。重病や障害によって意識レベルが低下してゆくと、信仰ということ自体、成り立たなくなります。それでも神との関係の中に在り続けられるという客観的保証は何によって保持されるのでしょうか?そもそもそんな保証など必要でしょうか?個人主義的宗教ならいざ知らず、聖書の宗教は共同体的宗教です。救いは個別であってもその前提は教会という信仰共同体に所属していることです。だから神との関係にあることは個人の主観だけではなく、兄弟姉妹との関係における客観性を伴わなければ(…客観と言ってもせいぜい共同体の中での客観性であり、より正確には共同主観ですが…)現実性を保てません。従って、自分の救いのために祈ってくれる神の家族を有っておくことが重要になります。それが信仰共同体というものでしょう。八木誠一氏の場所論的神学では、神のはたらきは共同体形成に向かわしめると言われます。聖霊のはたらきは個人を教会形成に赴かしめるのです。自分のプライドなどより教会の徳を優先するのです。個人が信徒として教会に所属しているのは、祈りもできない程に自力が絶えた時に、他者から祈ってもらうためでもあるということです。他人の祈りなしには救われない…などということはありません。前述のとおり、聖書的救いには個別性があります。しかしその個人が救われるためには、共同体としての場が不可欠なのです。兄弟姉妹による祈りなどの行為は人間による他力ですが、正確には人間を介した神の力です。

ちなみにどんな教会でもよいというわけではなく、ルター派アウグスブルク信仰告白にあるとおり、福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行されなければなりません。そのために長老なり役員が働き、場合によっては牧師に進言しなければなりません。そのようになっていない教会は福音主義教会とは言えないので、自分は所属したくないのです。

ところでルター派のある牧師が、ネットの上ですが「主イエス様と共に歩むことの喜びを生活の時々に感じられるような日々が神様によって導かれますように…」との祈りをしました。私自身は、対神関係はつかず離れずがよく、「主イエス様」であろうが父なる神様であろうが、インマヌエルのような「共に」どうこうといった近い関係は御免です。美しい異性の守護天使なら張り付いてもらってもよいのですが(笑)…。キリスト教では、神さま又はイエスさまと「共に」云々はよく言うし、それが「喜び」として「生活の時々に感じられる」ことは信仰体験として実際にあります。だからこれは、私が上記で述べている「神のはたらき」の現実体験を表わす一例だと言えます。個人的・主観的ではありますが、それも「救い」です。聖書的信仰は神秘主義に陥ってはいけませんが、「共に」云々なら D・ボンヘッファーも言っており、信仰生活における「救い」の表現語です。そして共同体的「救い」が歴史の終末に成就する「神の国・神の支配」です。

ところで、私の「キリストの再発見」と名づけた宗教改革記念日に至る信仰体験は、ガラテヤ人への手紙1:4「そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちの父なる神の意志〔おもい〕に従って、私たちを現在の悪の世から解放するためである。」(岩波版新約聖書、青野太潮訳)によるものでした。これは「キリストの贖罪」と「父なる神の御意」と「悪の世からの解放」という3点によって構成されています。

「私たちの罪のために」:「ヒュペル トーン ハマルティオン ヒュモーン」

「ご自身を与えられた」:「トゥー ドントス ハウトン」/「ドントス」⇒「ディドーミ」(与える)の二過分単属。

「私たちの父なる神の意志に従って」:「カタ ト セレーマ トゥー セウー カイ パトロス ヒュモーン」/「カタ」⇒「~に従って」。「セレーマ」⇒「意志」。「パトロス」⇒「パテール」(父)の単属。

「現在の悪の世から」:「エク  トゥー  アイオーノス  トゥー  エネストートス  ポネールー」/「ポネールー」⇒「ポネーロス」(悪い)の単属。

「解放する」:「エケレータイ」⇒「エクアイロー」(救い出す、解放する、救う)の〔間〕二過接3単。

私の「キリストの再発見」は、ルターの「福音の再発見」(=神の義の再発見=塔の体験)と云われる体験がおもにローマ人への手紙1:17によると云われているのに対比されます。ルターの体験はもともと詩篇講義における71編2節の「神の義」の解釈によるのであり、体験とはいっても一時的なものではなく過程的なものであったのと同じく、私の「キリストの再発見」も、人類の原罪性を痛感する端緒的機会となった包丁出し事件によるショックは一時的でしたが(後でわかったことですが、その人は心臓がカテーテル手術を受けるほど悪かったのです。ナイフ出し事件はその手術の前のことですが、心臓は心筋梗塞などやっていてその前から悪かったらしいので、おそらく取っ組み合いのケンカになったら発作がくる恐れもあり、とにかく不利になると思ってナイフで勝負をつけようとしたのでしょう。ただし本気で刺そうと思ったのか脅しだったのかは不明)、その省察によって前後の経緯があっての継続的な体験であることがわかりました。このブログの読者には、私のこの「キリストの再発見」と名付けた体験が単なる個人的な体験にすぎないと思ってもらっては困るのです。たしかに体験としては私個人のものですが、それは人類全体の原罪を実感する契機となったからです。その省察の末端に奇しくも、自分では気づかずに「宗教改革記念礼拝」への出席という出来事が生じたわけです。但し、その教会は牧師が福音派ではなく、リベラル派でもなく、ただ実務的・形式的に牧師職をこなしているだけで、福音宣教への熱意など感じさせない人であり、長老と称する人たちもそんな牧師に進言もできないという深刻な問題がありましたが、これも自分の信仰生活においては否定媒介であると受けとめて、月3回の礼拝出席を目標にして遠路をバスや列車で通うことになったのです。

この「キリストの再発見」と名付けた自分の信仰体験を省察した時に、それまでの自分が主知的には断じて認め得ないイエスの超越性(=神性)を主意的に認め得るようになったのであり、それはイエスを実体的・実在的な意味ではなく実存的な意味で「まことに神」であると承認し得たということですが、その消息の一端を観念的に表現すれば以下の北森氏の文章に重なる部分が出てきます。※太字は自分による。

<ここで私は、最近の神学的緊急問題に触れることとなる。信仰の実存性と救い主の実在性との関係である。〔※「実存性」と「実在性」の各文字に傍点あり。〕 聖書の実存論的解釈には必然性があった。そこに、この立場が発言権を要求し得るゆえんがあった。そして、ティーフは抽象的な実在主義――すなわち信仰主体の実存性から切り離して信仰対象の実在性を強調する立場にプロテストするところから得られたとも考えられる。しかし、このようなもっともなモティーフにもかかわらず、この立場にはなお一つの決定的な問題点が残されているのではなかろうか。それは、あの抽象的な実在主義とはちょうど逆の抽象的な実存主義に傾くということである。そのとき致命的な問題となるのは、信仰対象たる救い主の実在的他者性が不明確になるということである。〔※「実在的他者性」の各文字に傍点あり。〕 そうなると神学の主題は、神が罪を赦したもうという神の事柄から、人間の主体が変革されるという人間の事柄へと、変移するであろう。これでは、近代神学の主観主義に近づくと言われても致しかたないであろう。しかしこのような傾向を批判するときのモティーフが、「神のみを神とせよ」という第一戒であっては、真実の解決とはならない。たとえその「神」の位置を「キリスト論」が占めようとも、モティーフが第一戒の律法である限り、解決とはならない。律法は単に人間的実存を否定・排除するだけだからである。解決はあくまで福音によって与えられるほかはない。福音は、単に神学の内容たるにとどまらず、神学における実存の位置づけという方法論的「形式」でもある。〔※2つの「福音」の各文字に傍点あり。〕(中略)結論的に言えば、「罪の徹底的認識が赦し主の実在的他者性を必然化する」ということである。「罪」は、あくまでも実存的な事柄である。しかし、この実存に徹することは、かえって実存主義的な地盤に安住することを許さず、実存を越えた実在を仰がしめるのである。〔※「越えた」の各文字に傍点あり。〕 実存に位置を与えつつ、しかもキリスト論を貫徹するとは、そのことである。(中略)このように罪を認識するということは、自己の問題が自己の力によっては処置され得ないことを認めることである。言わば、自己の底が落ちるのである。底の落ちる実存を底から支え救うものは、実存の内にあるものではあり得ない。実存を越えた他者のみが、この実存を救い得るのである。〔※「他者」の各文字に傍点あり。〕 しかも、その他者は実在的他者である。〔※「実在的」の各文字に傍点あり。〕 この実在的他者を告白し得ないということは、実存に徹していないことを暴露する。神学は実存的でなければならないが、実存主義的であることはできない。〔※「主義的」の各文字に傍点あり。〕主義は、体系的完結性を意味するからである。罪の実存的認識に徹することは、かえって実存主義の破綻と未完結性とを告白せしめるのである。このことをさらに徹底して表現すれば、このような罪の認識を可能ならしめるのは、その実在的他者としての救い主であるということになる。この背後の思惟に支えられて、実存的罪認識は初めて神学的であり得るのである。〔※「背後の思惟」と「神学的」の各文字に傍点あり。〕>(~『対話の神学』p158~160)

この引用文の前半では、弁証法神学におけるブルトマンとバルトとの区別と、両者に対する批判を語っていると思います。私もブルトマンよりバルトやボンヘッファーの方に惹かれるのは、ブルトマンの非神話化なり実存論的解釈は聖書学の業績として測り知れないし、ブルトマン自身、聖書の批判を徹底しながらも福音宣教(ケリュグマ)に踏みとどまり、近代神学とか自由主義神学に帰ることがなかった点は評価できますが、信徒にとってはその立場がわかりにくく、歴史と神話、史実と信仰との境界線が見えてこないからです。結局、神により信仰心を与えられた自己は、原罪認識ゆえに底が落ちて謙虚にされ、歴史主義とか合理主義にはしらず、福音主義にとどまるのです。

北森氏は、「実存的な態度とは、対象を客体的に眺めるというような態度と対立し、対象をあくまで自己にとっての対象と考える立場である。」と述べ(~同書p30)、 < 超越的他者の実在性を言うことは、「客体的」他者を言うことではないかと疑われるかも知れない。しかしすでに述べたように、超越的他者を言うことは自己の真実のすがたに即することであり、その限りにおいては「実存的」であるということができるのではなかろうか。親鸞は典型的に実存的であったと言える。「親鸞一人がためなりけり」という態度こそ、典型的に実存的である。>と述べています(p30)。

私個人に関しては特に、「罪の徹底的認識が赦し主の実在的他者性を必然化する」とか「罪を認識するということは、自己の問題が自己の力によっては処置され得ないことを認めることである。言わば、自己の底が落ちるのである。」といった文言に、自分の「キリストの再発見」という体験の省察が重なるのです。自分も包丁出しの経験を通して人類の原罪というものを実感させられ、それによって自分の底が抜けて、つまり絶対他力信心の必要が再認されて、救い主の実在が必然であることを自覚するに至ったからです。

すなわち自分は、包丁で刺されそうになってみて、そのような状況から相手と自分を含めた全人類の原罪というものを実感し、そこはまさに自分にとっては実存の底のような意識であり、そこの底から理屈抜きに人間を超えた人間の救い主を認めねばならない心境に達したわけです。ですから、この体験で自分が実感した「罪」はあくまでも全人類的なものであって、自分個人のレベルにとどまるものではありません。しかしこの体験はさらに世界観的なスケールにまで拡がって、終末信仰およびキリスト再臨信仰につながってこそ意味を得ることになったのです。なぜなら私にとって聖書の神話において、イエス・キリストが超越性(=神性)を持つ必然性を認め得るのが「再臨」のみだからです。それ以外は、父なる神が存在して働いておられるなら済む話で、わざわざ子なる神の存在を要請する必要はないと感じられました。父・子・聖霊の三一神観を受け入れるにしても、そこで子なるキリストが役割的に神性を有つ必要性があるのは、終末における再臨の役割以外には認め得ないのです。贖罪者は必ずしも神である必要性はないし、むしろ神は不死であってこそ神だと思われます。私にとってキリストが神性を持つ固有の意味が認め得るのは、最後の審判を担う再臨の主としてのみなのです。それも当然ながら、あくまで神話的意味においてのことであり、私が聖書の神話自体に信仰的意義を認め得なければ、そういったことさえ無意味です。そこはまさに聖書の実存論的解釈ないしは非神話化といったことをどう受けとめるのかという神学的な問題になります。

 

※内容的に連続性ある通読を志向なさる読者に対しては、ここで一旦、Ⅱ.「キリストは真に神」を認める必要性について。」に飛んで読み進めることをお勧めします。ず~っと、下へスクロールして、Ⅱのタイトル表記のところまで行って下さい。よろしくお願いします!

 

神学者受肉の出来事にこそ御子の神性の実体論的根拠を説きたがりますが、フィリピ人への手紙2章のキリスト神話にあるとおり、神の御子は神との等しさを「奪い取るべきもの」とはみなさなかったわけで(6節)、見方によっては、それは御子が神性を有っていなかったことを示唆するので、先在の受肉神話がイエス・キリストの神性を根拠づけるとは思えません。そういうことで、人類の原罪というものを現実社会の中で、敵対する人間関係において実感する経験を通して、救い主の実在の必要性を理屈抜きで認め得るようになったわけです。

いずれにせよ私にとって、「神の国=神の支配」とは「ことば」であるより以上に「はたらき」です。「ことば」を軽んじるわけではありません。いわゆる宗教体験の強調は神秘主義に堕すおそれがあるのでよくないので「体験」は「ことば」による反省・省察により経験化されないといけません。その点は小田垣雅也氏が、「勿論、宗教体験といえども論理化概念化は必要である。むしろ言葉になって一般化されることによって、体験そのものが理解されるようになることはありうる。」(~『哲学的神学』〔創文社〕p5)と述べておられるとおり。

また、八木誠一氏も『キリスト教は信じうるか』講談社現代新書で、御自身の所謂「カッセルでの体験」における「事と言の区別」(p56)すなわち<「言」に解消されない「事」に直面>(p52)するという出来事を通して「人格理解への反省」すなわち「観念が現実に優先して先ずあり、それが現実を規定していた」と言い(p51)、「自分が従来まだまだ観念論に陥っていたことを自覚するとともに、そうした観念論を放棄した」とか(p53)、「救済という出来事の中心を、観念論からの自由という事態にみるようになった」と述べ(p62)、さらに「意味づけ=観念化」と言って(p71)、そのうえで「観念性が無用だというのではない。また観念と存在の相互規定の事実を無視するのでもない。しかし基本的な順序としては事(存在)が言(観念)に先行し、言を基礎づける。」と述べています(p74)。※太字は自分による。

また、北森氏は、<「観念化」とは、自己が他者を完全に自己の支配圏内に入れることである。したがって、観念論は絶望のない哲学となる。>(~『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p22)

結局、言葉なり観念というものも程度問題であって、極端に考えてはいけないということです。哲学的思弁は「言」の過剰によって信仰を観念化させてしまうのです。小田垣氏の言われる「論理化概念化」によって未経験のことでもわかったような気になってしまうのはおそろしいことでもあります。

同様の消息を小田垣氏は次のようにも述べておられます。

<神も、たとえばキリスト教という宗教上の神にならないかぎり、人から人へ、歴史的に伝えることはできません。主義やその主義を支える観念はその意味で必要です。しかしその主義や観念には、それが観念であり主義であるというまさにその理由で、かならず嘘が含まれています。>(~みずき教会説教〔以下、略して「説教」〕「コミュニケーションとは」)

従ってそのような観念ではなく、神の「力」・神の「はたらき」こそが「神の国・神の支配」の実質であり、神による霊的救いの現実にほかなりません。生活から遊離した形而上学的思弁に陥らないためには、主知的より主意的になって、「論理化概念化」が過剰になりやすい神論への関心を放棄することが無難です。

「力」と言えば、パウロは「福音」すなわち「十字架の言」を「神の力」(デュナミス・セウー)だと言いました。「我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。/神の義はその福音のうちに顯れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。」(ロマ1:16~17)※「顯」は「あらは」、「録」は「しる」。

口語体の訳では、協会口語訳と新改訳と岩波版(青野)訳の3つを比較した場合、原文との関係では協会口語訳はいちばんダメだと思いました。
〇新改訳「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。/なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」

〇口語訳「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。/神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」

〇岩波版(青野)訳「事実、私は福音を恥じはしない。なぜならば、それはすべての信じる者たちにとって、ユダヤ人をはじめとしてギリシア人にとっても、救いへと至る神の力だからである。/神からの義はその福音において啓示されるのであり、それは信仰から出て信仰へと至るのである。次のように書かれている。信仰によって義〔とされた〕者は生きるであろう。」

ここでは、私見では2つのポイントがあり、1つめは原文にある16節の二つの「ガル」の訳出。もう2つめは17節の「ガル」の訳出。

1つめは、新改訳は訳出なしで、口語訳は「それは」と訳し、青野訳は「なぜならば、」と訳し、「私は福音を恥じはしない」理由を「なぜならば、」以下「神の力だからである」と訳しています。ここでは青野訳がいちばん良いですが、2つめは、新改訳がいちばん良く、16節で言われている「福音=神の力」ということの理由を「なぜなら、」以下で説明しています。口語訳と青野訳は訳出なしです。 

 

「神の國は言にあらず、能力にあればなり。」(コリント前4:20)

「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。」(コリント前1:18)

※上記の箇所以外でも文語訳では、口語訳などで「力」と訳されているところを「能力」と訳していることがある。

「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。」(コロサイ1:29 口語訳)

コリント一の1:24で、「力」はキリスト自身についても言われ、神がキリストを復活せしめた「力」とも言われています(コリ一6:14、コリ二13:4)。あるいは、その復活によって「神の御子」と定めた「力」でもあり(ロマ1:4)、「キリストの力」(コリ二12:9)とも言われます。自然啓示との関連では、我々が神を知らないとは言わせないものです(ロマ1:20)。信仰は神の力によるものであり(コリ一2:5)、「神の国」も口語訳では「力」(岩波版の青野訳では「力のうちにある」)と言われています(コリ一4:20)。

ちなみにマルコ福音書では、「…神の王国が力をもって到来したことを見るまでは、決して死を味わうことのない者が幾人かいる」(岩波版 佐藤研訳 9:1 ※注に「直訳すれば、『力のうちに』。」とある)と述べています。

 

神の国・神の支配」については、「力」以外にも「はたらき」を意味する表現はあります。ロマ14:17より……

「神の王国は食べることや飲むことではなく、むしろ義、そして平和、そして聖霊における喜びだからである。」

神の義において、聖霊のはたらきによって成立する、喜びある平和な状態…とでも言えるでしょう。神の国と飲食との関係は、聖餐としては肯定的に解し得ますが、ここでは文脈的に、ただの飲み食いとしてではなく、要は律法規定との関係で言われており、信徒同志の争いのタネを象徴しています。結局、いつの時代のどこの国でも人は何かで自分を他人と区別して自尊欲求を満たそうとするのです。
参考引用< 14章の始めから語られてきたことは、教会における信仰者の交わりの中に、互いに人を軽蔑したり裁いたりする思いがあり、それによって人をつまずかせることが起こっており、そのために神の恵みのご支配を告げるキリストの福音が「そしりの種」となってしまっている、ということです。ここでの具体的な問題は、食べ物についてのことでした。ユダヤ人の伝統的な律法に基づいて、キリスト信者もある種の食べ物を汚れたものとして避けるべきだと思っている人と、主イエス・キリストが実現して下さった救いによってそれらの律法はもう意味を失っており、だから食べてはいけない物などはないと思っている人がいたのです。そしてそのような人は、あるものを食べない人のことを、あの人はまだ信仰による自由が分かっていない、主イエスによる救いへの信頼が足りない、と言って軽蔑しており、逆にあるものを食べないでいる人は何でも食べる人のことを、信仰者のくせに不信仰な者たちと同じ生き方をしている、と裁いていたのです。そういう対立、裁き合う現実の中でパウロは、「神の国は、飲み食いではなく」と言ったのです。>

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新改訳では、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」というふうに、聖霊のはたらきとその果実としています。聖霊のよる義は神の義と言い換えることはできます。

ちなみに新共同訳も義と平和と喜びを聖霊によって与えられるものとして訳し、協会口語訳は岩波版青野訳と同じく、義と平和は聖霊における喜びと分けて訳しています。参考に引用している説教は、その新共同訳にもとづいて講解されています。

< 何を食べてもよい、という自由に生きている人が、それによって自己主張をするなら、その人たちも、「信仰者は肉を食べるべきではない」と言っている人たちと同じように、神の国を「飲み食い」の事柄にしてしまっているのです。ですから、「神の国は飲み食いではない」によってパウロが本当に言おうとしているのは、飲み食いなど些末なことだということではなくて、神の国は私たちの自己主張、自分の意見を通すことによっては実現しない、ということなのです。神の国とは神のご支配です。神のご支配が確立し、私たちがそれに従うところにこそ神の国があるのであって、自分の主張に固執し、それをあくまでも通そうとすることは神の国とは相容れないのです。 

神が与えて下さる義  

神の国は飲み食いではない、それでは何なのか。それは「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と語られています。義と平和と喜び、この三つが神の国の印である。その三つの印について聖書から聞いていきたいと思います。先ず「義」についてです。これは「正しさ」という言葉ですが、私たちの正しさ、良い行い、ということではありません。パウロはこの手紙の最初の方、1章18節から3章20節までにおいて、人間は自分の正しさによって救いを獲得することはできない、ということを徹底的に語りました。そのしめくくりである3章20節にこうあります。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。私たちは、律法を行うという自分の義、自分の正しさによって神の前で義とされることはないのです。それを受けて3章21節にはこう語られていました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。この「神の義」こそが、神の国の第一の印とされている「聖霊によって与えられる義」です。>(※太字は自分による。)

 参考にさせてもらって言うのは何ですが、確かに個人の牧師による説教は、部分的・断片的にではあれ自分の信仰思想をドグマティックに語りがちです。この説教では、現実社会にある組織としての教会と神の国とが読み手からすれば、かなり関係深く感じられてしまうという点が誤解を招く短所だと言えます。それはこの説教者および担任教会のバックグラウンドとしての教団内でも特に教会主義的な集団の傾向を反映しているのでしょう。その集団というのは、植村正久の簡易信条主義の流れを汲み、万人救済主義的なバルト神学の影響を受けた、私の表現で言えば、中途半端な改革派…、すなわち「ウ・信・基」に立つ保守的カルヴィニズムとは異なる改革・長老派…なのです。中途半端と言う理由は、「予定」ないし「聖定」という肝心な信仰教理を軽視していることです。アメリカにおいてはカルヴィニズム修正主義の所謂ニュースクールに対応します。

とにかく、パウロが信じ語っていた「神の王国」は、今、世の中に存在する制度・組織的「教会」とは直接の関係はありません。中世カトリックの「教会の外に救いなし」ではあるまいし、どこからの教派・教会に所属しておれば救われるというわけではないのです。救いは対神関係であり、それは本人の意識とは関係なくすでに始まっているのです(…「はじめに(対神)関係ありき」)。「神の王国」は、そちらの方から接近・到来しています。同じ「教会」でも組織性が薄い「無教会主義的な教会」の方が「神の国・神の支配」に近いと言えるでしょう。

 

キリスト者である以上、神学的営みは無駄ではありませんが、聖書解釈のための必要最低限しか関心を向けず、「神」よりも「神のはたらき」の現実体験にこそ関心を向けたいです。子供のように神さまのお姿はどんなやろうと想像をめぐらすようなことは大人ではあり得ません。旧約以来の聖書的伝統において神を見た者は死ぬと云われてきたように、神の不可視性とか偶像崇拝の禁止などは、信仰において「神」の姿形ではなく業・はたらきに関心を向けるべきことを示唆しているのかもしれません。「神」(の姿かたち、身体性)に関心を向ける信仰は(差別的表現かもしれませんが)端的に言って幼稚であり女々しいです。そこに偶像崇拝に陥る人間の弱さがあるのでしょう。いわゆる心が折れそうな場合というのは、どんな人にもあるわけで、婦女子はもちろん男でも弱い感じの者から強い感じの者、小男から中男、大男といろんな人が経験することです。人は誰でも有限存在なので、個別的限界状況のような窮地に立たされると何者かに依存したくなるわけです。しかし大の男がいくら窮地に立たされたからって自分以外の人格的存在にすがるというのは恥ずかしいことです。そのような宗教は男を腐らせるのです。宗教に男女の違いなど関係ないし、ましてや男らしさとか女々しさなんて関係ないだろう…と思われるかもしれませんが、私の場合は関係あるのです。男尊女卑的な環境に生育し、その気風が心に刻まれている私はフェミニズムが理屈抜きに嫌いです。男である以上、イエスさまとか父なる神さまにすがるように祈ることなどできません。イエスは自分に対して「主よ、主よ」と言う者が天国に入るわけではなく、天の父の御心を行なう者だけが天国に入るのだと述べ、終末の時に自分に「主よ、主よ」云々と言ってくる者たちに対しては、自分は「知らない…不法をはたらく者たち、離れされ」と言うだろう旨のことを述べています(マタイ7章)。

私は男としてイエスや父なる神にすがるような信仰は恥ずかしくて持てないということで、当然ながら「神」への関心はありますが、人格的対象に対する関心は捨てて、その力、その業、はたらきに関心を向けることにしたのです。

< イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」>(ヨハネ福音書5:17)

私たちを救うのは「神」というより「神のはたらき」なのです。さりとて、それは創造主なる神が被造物に対して力まかせの支配・統治をなさっているということではありません。信仰義認の恵みを与えたまう神は、ご自分も行為主義的ではなく、あくまでも信頼に基づく業・はたらきによって関係を結んでおられるものと信じます。それは「予定」乃至は「聖定」としての「定め」です。これは運命とか宿命のような不条理性を有するものではなく、あくまでも神の聖なる意志によって成立していることです。

無論、自分は「神のはたらき」という現実(体験)ではなく観念で満足してしまうおそれがあります。言葉・観念では精神を支え続けることはできません。思考が制約されるような限界状況においてはどんな観念を頭に浮かべたところで心身を支えることは出来ません。だから、ただ、ただ、ロゴスよりもパトス…、現実に自分の心身を支え励まし強めてくれる「神のはたらき」の体験の実質あるのみなのです。しかしそのような体験は常時、得られるわけではないこともまた事実です。そうなるとその体験に入るための鍵となる言葉・観念…まさしく鍵語が必要になります。それが「聖定」です。但しこれは体験に入るための鍵でありきっかけに過ぎないので、「聖定」とか「神のはたらき」という言葉・観念にとらわれていてはダメで、現実に体験される信仰の活力のみが限界状況に在っても己の霊肉心身を支えるのです。

 

冒頭の聖句に関しても同教会のサイトより参考引用させてもらいます。

<「神の国は言葉ではなく力にある」という時の力は、人間の力ではなくて神の力です。その神の力はどこに示されているのでしょうか。それについては、この手紙の1章18節を思い出してみる必要があります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。神の力は「十字架の言葉」にこそあるのです。十字架の言葉は、人間の知恵による言葉ではありません。イエス・キリストの十字架の死を告げるこの言葉は、人間の知恵においては、愚かなもの、何の役にも立たないと思われるようなものです。しかしそこにこそ神の力がある、神様が私たちの罪を赦して下さり、新しく生かして下さる力がそこにこそあり、神の国、神様の恵みのご支配はそこにおいてこそもたらされているのです。神の国は言葉ではなく力にある」とは、神の国は人間の言葉やそれに伴う行動によってではなく、イエス・キリストの十字架において示されている神の力によってこそもたらされるのだ、ということなのです。 

私たちの本当の力  

そうするとそこにもう一つの問いが生まれます。この20節と、先ほどの19節の「あなたがたの言葉ではなく力を見せてもらおう」とのつながりはどうなっているのか、という問いです。あなたがたの言葉の持つ本当の力を見せてもらおうではないか、ということと、神の国は人間の言葉や力にはない、神の力にこそあるのだ、ということはどう結びつくのかということです。結論から言えば、キリストの十字架における神の力によってこそ、私たちは本当に力を発揮することができる、本当に新しい現実を生み出すことができる、ということでしょう。人間の知恵による言葉は、高ぶりを生み、争いを生むものでしかないのです。しかし神の国、神様のご支配は、その力は、人間の知恵の言葉にではなく、十字架の言葉にこそあります。その神の力こそが、私たちに本当の意味での力を与えるのです。それは、私たちが賢い者、強い者、豊かな者、尊敬される者となり、自分に自信を持つことができる力ではなくて、パウロのように、弱い者、貧しい者、愚かな者が、ひたすらキリストに依り頼んで生きる、そこに与えられる力です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ネヘミヤ記8章の10節に、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」とありました。力の源は自分の中にはないのです。イエス・キリストの十字架による救いを喜び祝うことにこそ、私たちの本当の力の源があるのです。この源から、豊かな力が湧きあがって、私たちの生活の具体的な現実を潤し、新しくしていくのです。>(※太字は自分。)

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この説教では「神の力」が「十字架の言葉」と直結されているので「復活」が後退しています。たしかにパウロは1:18で「十字架の言葉」を「神の力」だと言っています。しかし問題は「言葉」(word)という訳です。これをローマ10:8で言われているような宣教の言葉・説教の言葉として解釈しやすいのですが、果たしてそうでしょうか?そのような解釈も可能ですが、「ロゴス」には「真理」とか「真実」という意味もありますので、宣教の言葉もその由来は十字架の出来事であり、ここでの「ロゴス」はイエスの十字架刑死による贖罪という出来事から示される真実を意味していると思われます。それは神が御子イエスに人類の原罪を贖わしめたということです。そこに「神の力」を見るのです。単に説教の話し言葉に迫力があるなどという意味ではありません。そのような誤解を受けないためには、「言葉」という訳語に重きを置かない方がよいでしょう。

この文書においてパウロが、2:2に示されているように特に「十字架」に意識を向けていますが、その理由は相手側のコリントの教会の信徒が「十字架を軽視した」(~岩波版〔青野〕訳の1:17の注)からです。そのような現場の事情があるわけです。

だからと言って、4:20で言われている「力」の意味を、1:18だけで解釈するのはどうかと思うのです。文脈を無視するのはいけませんが、とらわれすぎるのもよくありません。パウロ「福音」を「神の力」とも言っています(ロマ1:16)。パウロにおいて「十字架」の出来事は「福音」の一要素であり一面です。「福音」は十字架と復活の出来事による救いの告知です。その「福音」をパウロは、すべて信じる者にとって救いに至らせる「神の力」であると言っているのです。そこでは「神の力」は「救い」と一体として言われています。救いに至らせるのですからそれからして救いでしょう。「神の力」は「救い」のはたらきです。コリント第一1章24節では、キリストが「神の力、神の知恵」と言われています。

とにかく「十字架の言葉」は、人間がスピーチするような言葉ではありません。そういう訳もあるようですがズレています。「言葉」より「言」と書く方がまだいいでしょう。「十字架の言」は、パウロにとっては説得力ある「知恵の言葉」ではないのです(Ⅰコリ2:4)。もちろん「知恵の言葉」も「知識の言葉」も霊的な賜物ですが(Ⅰコリ12:8)、ここではそれを「神の力」と言っているわけではありません。また、「文字」としての「言葉」でもありません(Ⅱコリ3:6)。いずれも「霊」のはたらきを媒介するものにすぎません。それを説教で強調したのでは本質を見誤らせることになります。

とは言え、このように言葉を用いているし、聖書も言葉なのですが、人間の言葉はあくまでも否定的であれ媒体です。1:21で言われているとおり、福音はその愚かな人間の「言葉」という否定的媒介でもって宣教されるようになっています。神がそのように定められたからです。神の救いの仕方が否定媒介なのです。「福音」は人間が語る「言葉」を媒介して実現しますが、あくまでも否定的媒介であり、「神の力」はそのようにして発揮されますが、媒体自体が「神の力」ではないので、そこを混同しないようにしなければなりません。「十字架の言(葉)」とは説教の言葉という意味ではないのです。いくら十字架を強調する説教をしても、その言葉はあくまでも牧師とか司祭という人間の言葉なのですから、それ自体が「神の力」ではありません。せいぜい媒体、それも否定的な媒体にすぎません。本質は語られる「言葉」の方ではなく、その内容であるイエス・キリストの「十字架」の出来事にこそあります。そしてそれは「復活」の出来事と不可分です。むしろここで言われる「神の力」とは「十字架」よりも、イエスを死者の中から「復活」させた「神の力」なのです。パウロの言う滅んでゆく者が愚かだと思うのはギリシャの知識人に見られたように、この「復活」だからです。「復活」の真実こそが人を救う神の力なのです。だから本来なら、「十字架の言(葉)」ではなく「十字架と復活の真実」と言う方がわかりやすかったと思います。但し、この場合の「復活」の出来事は必ずしも史実ということではありません。よく、「復活」は「蘇生」ではないと言われて両者を区別しますが、それは「復活」が「蘇生」のような現象ではないということなので、「よみがえった」という言い方は誤解の元です。しかし「復活」を史実と認めずにどうしてそこに「神の力」を、観念としてではなく現実のはたらきとして体験できるのか?と疑問に思う人もいて然りです。それは科学的思考が身について、客観的な事実しか事実ではない、リアルではないという頭になってしまっているからです。復活および復活顕現は共同主観としての信仰の事実です。

・・・ということで、「神の国・神の支配」の働きは「神の力」のうちにあるのです。

聖書では、パウロ書簡は口述筆記であることは考慮されなければなりません。「神の力」とは神の救いのはたらきであり、そのはたらきは「キリストの十字架と復活」の喜ばしき意味を告知する「福音」を通して実現されるのです。重い障害など特別の事情がない限り、「福音」を聞いて受け入れる者でなければ、神の救いは成就されません。

人間の言葉はいろんな争いのもとになり、観念化にもつながるし、説教に関しても優劣が比較される虚しいものです。その点でパウロはコリントの教会員から自尊心を傷つけられたのでした。「言(葉)」と訳されているギリシャ語は「ロゴス」ですが、ヨハネ福音書の冒頭と同様に「言(葉)」よりも「真理」とか「真実」と意訳した方がよいかも知れません。

「十字架」の苦難は「復活」の勝利と歓喜が成就するための否定的媒介です。福音が「神の力」と言うのは「復活」の方に重きが置かれます。贖罪とは言え十字架の「死」ばかりが先行するメッセージは復活の「希望」や「再生」を語りきれず、会衆の精神面では、過去の問題からは解放されますが、将来へ向かって生きる活力が出てきません。

ネヘミヤ8:10を引用して「力の源」について語られていますが、ここでも「十字架」しか語られていません。「復活」こそが語られて然りなのに…です。その点ではこの説教はやはり「十字架の言(葉)」の「言(葉)」を牧師が説教で語る「言葉」と混同されてか、どうしても言葉に重きが置かれて、はたらきが伝えられていません。「力」と言われているのに、それを感じ取ることができないのは言葉に重きが置かれて説教全体が観念的になっているからでしょう。モーセは言葉の人ではありませんでした。パウロもそうです。植村正久も訥弁だったようです。流暢に言葉を語れる説教者がそうでない者よりも神の力を受けているとは言い切れません。むしろ神の力は人の弱さの中ではたらくのです。福音は否定的媒介なのです。良い説教とは、自分の言葉の巧みさに頼るのではなく、神のはたらきに頼って自身を十字架につけ得るものでしょう。私がデビュー当時、ある女性牧師が私にくれた言葉で印象的だったのが、説教は恥だということでした。もちろん、それはカミングアウトすることを意味しません。

ちなみに、同種・同系統ではありますが、富山鹿島町教会の小堀牧師の説教ではいみじくも、「神の国は、言葉で説明されていくのではなく、イエス様を死人の中から復活させられた神の力が、イエス様を礼拝する人々、その群れに働いて、この世の交わりとは違う、そういうものに形作られていく、変容させられていく、そこに現れていくものなのです。神の国は、キリストの教会の中に、一人一人のキリスト者の中に始まっている。そのことを証しするために、キリストの教会はある。そこに私共キリスト者は招かれ、生かされているのです。」と言われています。説教において「十字架」だけ「復活」だけというのは福音になりません。いかにテキストが十字架の場面であっても3日目の後の「復活」も語られなければならないし、「復活」の場面でも「十字架」に思いを返さないといけないのです。そのように福音説教において「十字架」と「復活」の2つの出来事は不可分であり、対として自覚されていなければなりません。その意味で、同系統であってもこちらの方がよいです。

日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|メッセージ|礼拝説教「神の国は力です」[2019-06-23]

なお、福音について論理的な解説として私が良いと思うのは、意外にも立場は異なる相手・北森嘉蔵氏の解説になります。その理由は神の「愛」に偏向しやすい信徒たちに対して明確に「怒り」とか「審き」を対置し得るからです。もちろん最終的にはその両者の矛盾を「包む」という形での止揚が果されます。以下、2冊から引用。太字は自分。

「十字架」というのは単なる寛容ではないのです。厳しさというものが位置を持っているわけです。例えば、旧約聖書では、「神の怒り」とか「審き」というのが大変に強調されているのです。私がいつも例にあげる、預言書エゼキエルの書いた、非常に長い書物『エゼキエル書』には始めから終わりまで「神の怒り」とか「審き」とかが書いてあるのです。気の弱い女性なんかは、貧血を起こしそうなくらい厳しい内容です。そういう面が聖書にはあるのです。新約聖書にも、「神の審き」ということは決してなくなってはいないのです。キリスト教は「愛の宗教」だというふうに言われて、甘いことずくめととられるならば、大変な誤解です。そうして、「審き」というのは頑固なものであって、いわゆる融通の出来るものではないのです。日本的特質の中で「融通無碍」ということもいわれます。(中略)「融通無碍」というのは仏教の非常に深い教理なのです。「天衣無縫」などとつながるようなものです。縫い目がないということは、「無碍」という言葉ともつながります。「融通」されて妨げがないということです。しかし、融通不可能な頑固さというものも考えられるのです。>(『日本人と聖書』〔教文館〕p50~51)

<さて福音とは、神が徹底的なる他者のために徹底的に責任を負うたという出来事である。神にとって徹底的なる他者とは、「神なき者」(エペソ書二・一二)として神に敵対する人間である。この敵としての在り方が他者の徹底性である。神はこの他者としての人間に対してあくまで超越し対立している。神は愛である(ヨハネ第一書四・一六)がゆえに、敵としての人間は神の愛の外に脱落している。神の愛は人間の反逆敵対によって破れている。この神の愛にとって人間はいかにしても包むべからざる者である。〔※「包むべからざる者」に傍点あり。〕 神が人間と対立しているという事は、神の愛にとって人間がいかにしても包むべからざる者であることを意味する。人間が神の愛の外に脱落し、いかにしても神の愛によって包まれ得ない者であるという事こそ、人間が神にとって徹底的なる他者であるという事である。このような人間に対して神の愛は、神の怒りとなる。神の怒りは、人間の反逆敵対によって破られた神の愛である。イエス・キリストの福音は、このような徹底的なる他者としての人間を徹底的に包む神の愛である。包むべからざる者を包むことが福音の本質である。〔※「包むべからざる者を包む」の各文字に傍点あり。〕 人間から超越し人間と対立する神が、その超越対立を維持せるままでこの人間を愛の中に包むのである。しかし包むべからざる者を包む愛は、その愛の行為そのものにおいて破れ傷つき痛むのである。福音における神の愛は、神の痛みである。〔※「神の痛み」の各文字に傍点あり。〕 イエス・キリストの十字架こそ神の痛みである。神の痛みとは、神の怒りの固有性を徹底的に認めて、しかもこれを貫き突破せる神の愛である。神の痛みとしてのキリストの十字架は神にとっては矛盾そのものである。しかし我々にとって最も注目を要求する点は、その「矛盾」のもつ質の問題である。〔※「質の問題」の各文字に傍点あり。〕 我々は「矛盾」という論理的な形の問題を決して究極的と考えることは出来ない。その形式の中にいかなる質(内実)が存するかを考えねばならないのである。キリストの十字架はあくまで痛みという質をもてる矛盾である。痛みとは、怒りと愛との自己同一性である。いかにしても罪人に怒りをくだすべき神が、しかもこの罪人を愛する時、その怒りと愛との矛盾的自己同一が神の痛みである。痛みをして痛みたらしめるのは、怒りの固有性である。怒りが固有性をもたなくなれば、愛の一元主義があるのみで、痛みは消失する。キリストの十字架においては、神の愛が神の怒りを負ったのである。神の愛が神の怒りを負ってこれに撃たれたという事が、神の痛みである。福音を定義して、神が他者たる人間のために徹底的に責任を負うことである、となしたのも、その責任を負うという言葉の背後には、神の愛が神の怒りを負うという事が意味されていたのである。神の怒りとは、人間の罪に対して人間の責任を問う神の意志にほかならないからである。さて福音の中心としてのキリストの十字架が神の痛みであるかぎり、それは矛盾そのものである。矛盾をして質的に矛盾たらしめるのは痛みである。ところで矛盾が真に痛みとして受け取られる場合には、その矛盾は決して現状肯定を容認しない。〔※「現状肯定を容認しない」の各文字に傍点あり。〕 矛盾が痛みである場合には、その矛盾が矛盾のまま放任されることは許されず、必ずやその矛盾を解決しその痛みを除去するようにとの実践に出なければならない。〔※「実践」の各文字に傍点あり。〕 矛盾を突破せしめ克服せしめる原動力は、その矛盾の質としての痛みから汲み取られる。矛盾が痛みであるならば、その矛盾は現状肯定的に放任されることを許さず、現実的に具体的に克服解決されるようにと突き動かすのである。福音においてキリストの十字架の死がキリストの復活によって突破克服されるゆえんである。〔※「復活」の各文字に傍点あり。〕(中略)神の痛みに基礎づけられた「愛」による罪人の聖化は、罪を現実的具体的に克服してゆく神の行為である。この神の聖化が人間の倫理的精進に対応する。「我これがために我が内に力をもて働き給う者の活動〔はたらき〕にしたがい、力を尽して労するなり」(コロサイ書一・二九)。福音は、神が人間のために責任を負うたという出来事であった。この福音の中に入れられた者は、またこのような神の愛に対して徹底的に責任を負う者とならしめられるはずである。(中略)神の痛みの力が神の「愛」となって、人間の自発的な責任行為を生み出して来る構造が、ここに明らかとなる。この責任行為によって、赦された罪人の聖化が進展せしめられてゆくのである。>(~『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p148~150)

私自身はイエスの「復活」を史実とは思わず、別次元の物語であると思っていますが、だからといって歴史的事実より軽視するわけではなく、救済史といわれる聖書に示された独自の現実認識における霊的意義を認めるのです。

「復活」についてはパウロが、 「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。/ そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(コリント一15:13~14)と述べているとおり、キリスト教会がそれによって立ちもし倒れもする最大の信仰事実ということが言えます。

ちなみにパウロは、「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。」(ローマ14:4)とも述べており、ここの読解を必要以上に文脈重視しなければ、信徒がそれによって立ちもし倒れもする対象は、復活という出来事というより、復活の主イエス・キリストであると言えます。

 

「言葉」ではない…と言っても、もちろん人間の「言葉」による説教を通して、パウロの言い方だと宣教の愚かさを通して……前述のとおり、否定的媒介で「福音」は伝えられるのです。それは「福音」そのものが、人間の「原罪」を贖うためのイエスの「十字架の死」という否定から「復活の命」という肯定へのベクトルを内包しているからです。

「はたらき」が肝心だと言っても一部の福音派牧師のメッセージのように、ただ勢いがよければいいというものでもありません。礼拝説教は特に内容がなければなりません。その意味ではやはり高倉徳太郎氏の説教のような「教理的説教」がよいのです。知的な信者は別にして一般的には、信者は説教の時くらいしか教理的思考に親しむ機会を得ないからです。わざわざカテキズムの会を別に設けても参加する信者は限られるものです。礼拝説教は伝道説教とは違って、福音派牧師の「メッセージ」のように、ただ言葉が流暢で元気が良くユーモアもあって耳ざわりが良ければいいというものではないのです。語られる内容が神学的にも良くなければ、神の「はたらき」は伝わりません。その内容は聖霊の働きが説教者に与えるものです。とは言え、しかし植村正久の「簡易信条主義」路線ではこの教理的説教も恣意的になります。その点では高倉徳太郎の説教にも危うさが伴うのです。従って「教理的説教」とは聖書を体系的に教理化した信仰基準によって制約される説教を意味します。具体的にはその信仰基準は「ウェストミンスター信仰基準」に如くはなし…ということになります。従ってこのような信仰基準を採用していない教派(わが国においては、日本キリスト教会も含む大多数のプロテスタント諸教派)は、教理的説教が出来ていないということになります。また、ウェストミンスター信仰基準を採用しているからと言ってもこれを実際に活用し得ていない教派・教会(例えばバプテスト教会)も存在するわけで、これもまた教理的説教ではなく恣意的・感話的説教に堕するのです。それはもはや説教とは言えません。社会派牧師の時事評論の如きはなおさらです。

ところで、「観念」的信仰は「教理的」説教に親和性があるのです。教理的と言ってもバルト神学の解説のようなものではお話になりません。その点で、バルト主義の牧師の説教には大いなる問題がありますが、高倉徳太郎の時代はまだバルト全盛ではなかったので、カルヴァンフォーサイスからの影響が強く、しかも自分の中で消化されている点は良かったのでしょう。日本の福音主義的説教には、教理的とは違ったタイプの、キルケゴールなどの実存哲学的な色調も見出されます。これは教理に批判的な面もありますが、それはまたそれで日本の説教史に一つの特徴を残しています。ちなみに日本において、教理的説教の型にはなっていないが内容的には教理的である牧師の代表として北森嘉蔵氏が挙げられます。北森氏には観念的信仰が顕著であり、これに関しては後述します。

ちなみに、私の説教がオベーションを受けた場合は聖霊が豊かに、しかも感情だけではなく知性を介して強く働きかけて下さった時でした。スタンスは当然、超教派的福音主義です。観念的・教理的要素と言えば、キリストの十字架の贖罪と復活による希望…みたいな典型的福音主義を中心とする立場の教会(旧・チャーチ・オブ・ゴッド)です。そんな教会でも昨今では社会的な話も昔とは違ってかなり受容されるようになっています。それでもあまり体制批判的なことは控えるようにして、それよりも「霊的」な話題に徹する方が無難なのです。そのへんのツボは説教者として当然、心得ていなければなりません。受けるためではなく、その現場にとって適した福音を語るためなのです。適した福音は異なる福音と誤解されやすいので難しいのですが、要はその「場」に神の「はたらき」を起こせる力を秘めた「言葉」を語るということで、神の救いにおいては「神の国・福音」は「力」であり、「言葉」は「はたらき」を喚起させる媒体にすぎません。言葉・観念偏重の理屈っぽいキリスト教は批判されて然り。但し、その反対に福音派教会(実際、彼らの信仰的立場は必ずしも「福音(主義)」的ではなく、むしろ聖句を掲げて恫喝するような律法主義的聖書絶対主義のような場合があるので、私は彼らに対する呼称に「福音」という言葉を使いたくはないが、彼ら自身が「福音派」を自称してきたためか下手に定着してしまっているので、ここではあくまでも便宜的に使用)のように必要以上に賛美歌に時間をかけるような感情的礼拝もダメです!神の霊的救いは「言葉」を媒介し「力」を本質とする体験です。説教者の言葉は会衆に「神のはたらき」を体験せしめる引き金にすぎません。体験される「はたらき」、そしてそこに秘められた活力こそが、会衆各人の魂を慰め強めるのです。

パウロは同じ「力」でも、「キリスト」だの「福音」だの「神の国」だのと多様な表現で語っているとは言え、牧師の説教が聖書のある箇所とある箇所とを辻褄合わせするようなことでは霊的活力を感じるメッセージにはなりません。教理的説教というのは本来そのようなものではないはずです。キリストの福音は過去からの解放だけではなく将来・未来への再生と進展を望ましめる救いのはたらきであり、いのちです。説教は少々飛躍と思われてもよいから、どんなテキストでやっても最後は「十字架と復活の福音」の告知と、それによる励ましで終わらなければなりません。

ところで、ドン底に堕ちたら、あとは上がるだけだ…とか、ドン底に堕ちたらさらに掘ればいい…とか、比喩にしても具体的な意味が無い言葉があります。まったくの観念にすぎません。実際に人が絶望的状況に堕ちたら、上がるにせよ掘るにせよ、その活力を自我の外から与えられなければ無理なのです。いわゆる「他力」です。それも人間の力を超えた「絶対他力」です。それが救いの現実というものであり、人の精神は限界状況においては言葉とか観念では支えきれません。言葉・観念は意識が正常でないと機能しないからです。脳のはたらきが低下している状態で、聖書の言葉とて人の支えになるわけではないのです。人を最後まで支えてくれるものは、「ことばではなく力」、「観念ではなくはたらき」なのです。「ことばではなく他力」なのです。「神の国・神の支配」の現実こそが究極の救いです。

しかしこれも観念にとどまることではないかと疑ってみなければなりません。実際、人が限界状況に置かれた時に神の救いのはたらきを体験し得るのでしょうか?あきらかに神から選ばれているとしか思えない人も、本当に臨死の時には必ず救いのはたらきを受けると言えるのでしょうか?

私はお会いしたことはありませんがその御著書を拝見して信仰の模範的キリスト者として尊敬する原崎百子さんの言葉をここで引用します。

(以下、赤字は管理人による)

<死ぬとは、直ちに御国に入るということではなくて、あるいはただ深く深く眠ることなのかも知れないなと、ふと思う。しかしそれでも、その眠りもまた主の御手のうちにあることを信じている私である。その眠りからラッパの音とともに瞬時にして目覚ましめられる時があり、その時こそ、すべての主にある聖徒らと共に私も顔と顔とを合わせて主にまみえるであろう。だから私の意識の側からすれば、眠っている期間がたといどんなに長くとも、息をひきとって次に気づいたらやっぱり御国なのだ。一方、み国はすなわち神のご支配だと考えれば、その深いねむりもまた神の直接のご支配のもとにあるのだから、死すなわち御国と言っていいのかもしれない。しかし要するにこういう思弁はどうでもいいことであって、今私にはっきり分かっていることは、私の死をも含めて私は神の恵みのご支配のもとにあるということだ。いずれにせよ、その時、私が目覚めて主の前に立つ時、私はブルンナーさんや鈴木先生やすみれちゃんや、そして之雄先生とも清ともいっしょにいることだろう。死ぬ瞬間、私の意識が混濁していなければ、私はともかくさしのべられた御手に自分も手をのべ、この私を魂ごと、体ごと、まるごと、抱きとっていただくのを知るだろう。その手が「死」という冷たい幽霊のような恐ろしい手ではなく、また「運命」という黒々としたうそ寒いえたいの知れない手でもないこと。そうではなく、左右に釘のあとのある、私のために血を流し、苦しみ給うた、暖かな見覚えのあるあのみ手であること。ああ、それで十分ではないか。深くねむろうと、それもまたみふところの中での眠り。輝かしく目覚めるなら、それもみ国 >(『わが涙よわが歌となれ』新教出版社 p86~87)
肺ガンで亡くなった原崎さんの最期は、約2時間ものあいだ、ご主人が見守る中で呼吸困難に苦しみながら死へ移ってゆくという、読み聞くだけでも胸が締め付けられるようなものでした。病床において、神は原崎さんに、どのようにはたらきかけたというのでしょうか?死後に天国に入れるなら死ぬまで苦しみ抜いたってかまわない…なんてことはないです。そんなことは通りません!原崎さんの約2時間の苦しみの中にも救いのはたらきはあったはずですが、文面からは私のような不信仰な者にはまったく見えてきません。神の救いのはたらきは客観的には全くわからないものなのでしょうか?原崎さんは「御国」について思い巡らされながらも、それを「思弁」としておられますが、神の国は、ことばではなく力にあるのです。」(新改訳 コリント一4:20)とあるとおり、その限界状況において原崎さんの精神を支え得るものはまさに神の力であり、天国に行くことが約束されていたにしても、あの2時間の苦しみの中で支えとなったのは、神の救いのはたらき以外にはあり得なかったと思います。

引用を続けます。

< 突然、「神様!助けて下さい、この苦しみから救って下さい、まだ苦しみが足りませんか!」と叫ぶ。幸い、この危機は一時的にではあれ脱し、再び平静さが戻る。(中略)私が「思い残すこと、やり残したことはないか」と尋ねると、「全くない、すべてやりたいことは全部やったから」と答える。が、夜になって、今度こそ正真正銘の臨終の苦しみが始まった。医師もかけつけ、看護婦さんたちもしげく部屋を出入りする。夜半、主治医の原先生もかけつけて下さる。ああ妻もどんなにか原先生を待っていたことか。以下記すことは、私自身、もう時間のあとさきを正確には覚えていないのだが・・・・多分、死の二、三時間も前だったろうか、妻はすでに声も出ず、指先でベッドの上に「イトウセンセイノシュジュツノウエニイノル」と書き、さらに桑名教会の病気の方々のことを心配して、やはり酸素テントの中から右腕を出し、指で「ハセガワミヨコサンガキオチシナイヨウタノム」と書いた。そして声にはならなかったが、ルターの讃美歌「神はわがやぐら」を歌い、突然「キリスト!」と叫んで、あとは指で「ニヨルカイホウ〔解放〕」と書いた。最後の最後になった意思表示は、これまた指先でだったが、私と妻との間だけに通用する昔からの暗号で「イルド」(Ich liebe dich. あなたを愛しています)と告げた。私も彼女の掌に「イルド」と書き返した。その瞬間だった、彼女は激しく痙攣し、以後約二時間、のたうつような苦しみのうちに彼女は人生の最後の部分を闘い通したのである。すでに何日間か、日に一度、八〇〇-九〇〇ccの胸水を抜きとっていたのだが、死の瞬間も主治医によって再度胸水を抜いていただきながら、力尽きた存在は遂に神の御手にゆだねられた。十日、午前一時四十分であった。死後、妻の遺体を前に、私は律子と二郎に、はじめて事の真相を告げた。彼らはやはり知らなかった。気丈にも最後まで母を励ましつづけてくれた二人に、私は心から感謝する。遺言により、遺体は解剖に付され、私もそれを見せていただいたのだが、肺の他、壁側肋膜、腰椎、胃と腸の漿膜面、腹膜、心外膜、気管の分岐部と肺門と後腹膜と腸間膜それぞれのリンパ節にも転移しており、その闘いの激しさを念わせた。明け方、一旦帰宅した私は、忠雄と周平、お手伝いさん、それに津村さんが起床するのを待って、一同に、母の死と、彼女が肺ガンであったこと、かつそれを自らも知っていたことを話した。子供たちは泣いた。>(p130~131)

 

B.私の「神」の「エフイェ把握」をめぐって

 

 原崎さんのような敬虔な信仰者とは違って、私のような信者は、困難に遭うと神を信仰することに何らかのメリットが無いならやめた方がいいと思いがちです。イエスもマタイ福音書5章の姦淫の話の中で「益」とか「得」ということを言っておられます(…並行箇所のマルコ9:43以下では「良いこと」であり、言葉が違う)。しかしその場合の「益」というのは現世御利益ではありません。個人の極限的な状況においては、何か支えになることが生じなければ信仰心なんて意味が無いと思ってしまうのです。その時点で信仰心がおかしくなっているわけですが、原崎さんのようにいろんな意味で優れた人物が、こんなに苦しんで死んでゆかなければならないというのは全くわけがわかりません。このような呼吸困難の苦しみは、新型コロナウイルス(COVID-19)に関して、感染症対策すなわち公衆衛生学で博士号を取得したと御自慢の自民党の国光あやの衆議院議員が2021年2月17日頃に国会での質問の中で述べた、肺胞がやられて首を絞められるように死んでゆく苦しみに通じるものかもしれません。慢性気管支拡張症のため呼吸困難を少しは経験している自分にとって、こうしたことは読むだけでも聞くだけでも身に沁みるように切実に感じられます。その点では国光議員はよく言ってくれたと思います。自分が喫煙を止めた主たる理由は呼吸困難で苦しんで死ぬことが自分にとっての最悪の死に方だからです。呼吸困難以外では、自分が中三の時に直腸ガンで亡くなった母親の最期とも重なる部分があるのです。世俗的価値としてのメリットは求めませんが、死に臨んだ時は少しでも苦痛が癒されてこそ信仰の意味があろうというものです。

「神」を擬人化してイメージし、神の本体・身体性に関心を向けて思弁を弄していると、上記のような不条理に腹が立ってきて、それこそ不毛なる神学論争の定番とも言える「神義論」が生じてくるのです。そもそも「神は霊」(ヨハネ福音書4:24)という意味は、神には「体」といえるものは無いか、あっても人間には見えないわけで、信仰的健全さから言えば、「神」そのものより「神」の「はたらき」の方に関心を向け、その実現を待ち望みつつ生きる方が良いと思うようになりました。すなわち、S+VのSのように独立した人称代名詞として関心を向けるということではなく、S+Vを一体として、しかもSをVに入れて接辞としての人称代名詞として把握するということです。

これを出エジプト記3章14節に出てくる「エフイェ」(「…『わたしはあらんとする者』と訳したのを、三人称に置き換えると『ヤハウェ』となる。」〔~関根正雄著『古代イスラエルの思想』p89〕)というヘブライ語の語形になぞらえて「神」についての「エフイェ把握」と命名しました。なお、この場合の接辞は接頭辞になりますが、主旨は接尾辞と同様であり、要は主体が独立人称代名詞では表されないということです。

なお、このような文法的解釈自体を相対化する考え方として、「イスラエルの思考の段階は empirico-logical(経験的・論理的で、まだ fomal logic (形式論理)というギリシア人の段階には達していなかった、という」(関根氏前掲書p89)…そういう説もあります。私は本来的には、ヘブライ語という言語を特別視することを適切とは思わないので、文法的解釈はいかがかなと思うし、それは新約ギリシャ語についても青野太潮氏のような文法主義的解釈への批判にもなっていますが、ここでは自分が神観へのこだわりから解放されるという効果から妥協してしまっています。とにかく、自分も少し前までは「神」それ自体に対して形而上学的・観念的関心を向けて思索を楽しんできました。しかしそれが聖書に基づいていることは絶対的前提である以上、「神」それ自体に対する形而上学的・観念的関心は極めて制限されます。すなわち以下のような事情があるからです。

旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。(中略)召命の時のみならず、「出エジプト記」第四章の終わりでヤハウェがデーモンの姿でモーセを殺そうとした、と書いてある。また、「創世記」三二章二三節から三三節のいわゆる「ヤコブ角力」のところでも、「わたしは神を見て、なお生きている」というのがヤコブの最後の告白である。旧約・新約を通じて、神の方から姿を現わされ、その神にふれて一度死んでふたたび生かされたということが、聖書の中心であり、「神から人へ」か「人から神へ」かが旧約思想の理解の上で根本的に重要な区別である。>(関根正雄著『古代イスラエルの思想』p87、91 ※「神の方から」の各文字に傍点あり。

これは本多峰子さんの「ヤハウィストの神-旧約聖書のはじめの神観-」で扱われている問題でもあり、ヤコブと格闘した者やアブラハムを訪れた三人の客の内の一人が神か御使いかは、どっちの解釈もありのようです。

アブラハムに現れた3人の天使は「神意のメッセンジャー」としての「神の使い」で、旧約の表象世界では、被造者的な「み使い」と「神」との間が曖昧です。「流動的」と言うのがよいでしょう。そこで、変幻自在に、「み使い」として現れたり、「神」として意味づけられたりするアブラハム物語はまさにその揺らぎを示しています。神の権威で対話する「使い」は神としか言いようがないので、アブラハムとの対話を終えて、ソドムに赴くときには、「み使い」は2人に減る。19:15では「み使いたち」がロトに呼びかける。しかし、ロトはこのみ使いたちに語りかけるときには、「あなた」と、単数扱いに変化する。21では、この2人の使いは「わたしは」と、1人称で語り出し、ツォアルを「滅ぼさない」という。まさに処罰を下す、1人なる神として行動する。聖書の読み手がファンダメンタルな人ほど、神と被造者(み使い)のどちらかをはっきりさせたいという、合理主義的な欲望を働かせます。神の自由と書き手の想像力を重んじましょう。>(~並木浩一氏からの返信 ※太字は自分)

聖書において「神=ヤハウェ」は「天から降りる」お方でもある(創11:5、18:21、出3:8、19:11,18,20、34:5、民11:17,25、12:5参照)。岩波版の出エジプト記3:8「わたしは降りて来た」の注には、「サマリヤ五書では『わたしは降りよう』と、これからの行為。『ヤハウェが降りてくる』はヤハウィストがよく使う(中略)。この表現は、神と人間の間の隔たりを前提にしながら、それを神が埋めることを意味する。それに対し、神が語り終えた後で『上って行く』(創17:22、35:13どちらも祭司文書)という表現は、両者間の隔たりの大きさを強調する。」とある。また、「いずれも非祭司文書的で、古典的四資料仮説でヤハウィストとされる部分に多い。」とも言われている(民数記11:17「わたしは降りて行って」の注)。本多峰子さんによると、「ヤハウィストの描く世界は、かなり、異教的な要素がのこっており、それが必ずしも罪とみなされていない」とのこと(「ヤハウィストの神:旧約聖書のはじめの神観」参照 ※太字は自分)。

「従来、神の使いをヤハウェの顕現形態だとか神の受肉の天使という見方で片づける。(中略)私は神の使いを、すぐあとで出てくる神の顔と並べて考え、神のやさしさを表わす文学的、思想的な表現だと思うのである。神の使いとは神の顕現形態をいうのだとヴォルフ以来多くの人が見るが、」云々(関根正雄前掲書p127)、一般的にも神が人と等身大の存在として描かれていると解されており、ましてやデーモンの姿にまでなるということは、いかに「エフイェ」が「私はなる」とは言え、何にでも成るというのは、すくなくとも、超越、人格、実体、絶対を要素とする神観には相容れません。これは資料批判的に優先順位を付けるかたちでクリアーするしかない問題ですが、聖書的神観ということになれば排除はできません。だから、そもそも「神」それ自体について論じることは、いかに聖書に基づくと言っても空しいわけで、やはり神観は「三一」を上記の4概念に加えた5概念くらいにとどめ、あとはそれ以上の思弁を信仰的判断停止でもってカットし、「神のはたらき」に関心を集中させてゆく方が有意義だということになります(否!信仰的判断停止まではいいが、そうしたら「神のはたらき」の方に関心を逃がすのではなく、あくまで神観に関心を向け続けることもあり得るということは当ブログの <「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?>を参照されたい。)。

ですから、あまりに「神(観)」にとらわれすぎていた自分のあり方は、八木誠一氏などの進歩的神学者の著書を読む中で自己改革を迫られたのです。自分にとっては精神の安定が第一であり、その安定が失われると生きてゆけません。神信仰なり神学的思索は、趣味とか仕事とかいうことではなく、自分にとっては精神安定に必要なことであり、生活の要素なのです。「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づるすべてのことばによる」(マタイ4:4)と言われているとおりです。この「ことば」は「ロゴス」ですが、これは八木氏の場所論的三一論においては第二位格のキリストであり「定め」(統合への規定)なのであり、自分にとっては「言葉」とか「観念」にとどまらず、それをトリガーとして得られる「神のはたらき」です。その対神関係の全体験によって生きるのです。決して聖書や説教の文言によって生きるというような単純な意味ではありません!

そういうことも含めて、「神」を実体論的・存在論的に対象としてゆくだけではダメだと悟ったのです。なぜなら「神」を実体として対象化せず、その「はたらき」の方にもっぱら関心を集める八木神学のような立場にこそリアリティーや説得力を感じるがゆえに、そっちの方向へと自分の脳のあり方を変えてゆかないと精神の安定は維持できなかったからです。だから自分に現実を合わせようとするのではなく、自分が現実に合わせるべく、思考の転換をはかったわけです。そして現時点ではとりあえず成功したと思います(※これについては、そのような逃げではなく、聖霊他力による信仰的判断停止でもって、前述のように、あくまで神観にこだわり続ける道もあることは、当ブログの<「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?>を参照されたい)。

ところで、八木誠一氏は、いわゆる古典的三位一体論が「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏した」と指摘しておられます(『<はたらく神>の神学』p4 ※太字は自分による)。そして八木氏は、「場所論は存在論ではないし人格主義でもない」旨を述べておられます(~「省察と瞑想の会」オンライン講座 第3回 2020/12/12)。

これを上記以外の著書の内容も踏まえて解釈すれば、キリスト教の流れは人格主義&存在論と場所論の2系統があるが、主流は前者で、後者は傍流になったということのようです。古代教会のギリシャ教父は、感覚的には場所論的であったのに、その表現が存在論乃至は人格主義になってしまって、それが三位一体論を事実上は三神論にしているということのようです。場所論的三一神論が正しい聖書的神論だというのが八木氏の考えでしょう。

但し、八木氏はイエスによって示された神が聖書において人格的側面があることを認め、キリスト教における人格主義の必然性を肯定しておられます。しかし八木氏はあくまでも場所論的神学をメインとするわけで、自分の場合は、やはり人格主義の伝統に立ちつつも「神」の実体性とか人格的対象性にはとらわれず、その「はたらき」の方に意識を向けるようにしたのです。言わば、「人格主義的神学」および「(理性主義的)存在論」と「場所論的神学」との調和と言うか調停と言うか…ぶっちゃけて言えばええとこ取りであって、単なる折衷でもなければ、抽象的な止揚などでもありません。あくまでも実際的な転換なのです。

< 場所論は神を人格や存在というよりは、まずは「はたらき」の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、「はたらき」の面が優越するのである。むしろこう言った方がよい。神を、経験と自覚に現れる「はたらき」として把握して語ると場所論になるのである。しかしそれは、人間の人格性が無視されるということではない。人格とはもともと人間の事柄である。>(~『イエスの宗教』p1~2 ※太字は自分による。)

八木氏は、「エスの宗教は場所論的である(正確にいうと後述のように人格主義的要素を併せもつ場所論)。」(~上掲書p1)と述べ、エスの立場は「人格主義的場所論(あるいは場所論的人格主義)ともいうべき立場」であり、御自身も「従来、そして今でも、この立場に立っている」と述べておられます(~上掲書p18)。八木氏は「場所論」の方がメインで「人格主義」はサブだと思うので、「人格主義」が「場所論」を修飾するかたちで「人格主義的場所論」と言うべきで、反対にイエスの神観はユダヤ教の伝統に基づき「人格主義」がメインだと思うので「場所論的人格主義」と言うべきでしょう。自分の場合も八木氏の立場とは逆なので「場所論的人格主義」の方が適していると思います。神観の基本的な立場はあくまで従来のユダヤキリスト教の「人格主義」ですが、そこに八木氏の影響を受けて「場所論」的要素を採り入れたわけです。

その他の立場は、純粋な「人格主義的宗教」と、「非人格主義的宗教」(=「無神論的場所論と言ってもよい」とのこと)であり、この「三つの立場のそれぞれに正当性が認められなければならないと思う」が、「われわれは人格主義的場所論の立場に立って論を進める」と言われています(~上掲書p18~19)。

それはともかく、そうは言ってもしょせんは思考上のことであり、観念的な話です。人間は臨死状況では論理的思考など極めて制限されることは言うまでもありません。原崎さんはホスピスに入ってはおられず、尊厳死もましてや安楽死も考えておられなかったようですが、それはあくまでも信仰的理由によるものでしょう。とにかく最期の2時間は苦痛の中で思考など無理で、意識レベルも低下したのでしょう。苦痛緩和という点では、いっそのこと意識が失われた方がよかったのかもしれません。そういうことを思うと、「神」ではなくその「はたらき」の方に意識を転換するということも、その「はたらき」が観念で止まっては意味は無く、自分が個別的限界状況に置かれた時にも精神を安定とまではいかないまでも混乱をきたしたりしないように、正気を維持できるように、その(神の)「はたらき」は現実のこととして自分が体験されるしかないのです。実体験できない、観念にすぎない(神の)「はたらき」などは無意味です。そのことを上記の原崎さんの日記の言葉を想起することによって肝に銘じなければなりません。

 ところで、「神のはたらき」について八木誠一氏は次のように述べておられます。※赤字は自分による。

「神のはたらき」は、客観的観察に対してはそもそも存在しない。神は、感覚やこころと同様、自然科学の圏内には存在しない。存在するけれども現在の科学ではまだ見えないのではなくて、端的に存在しない。だから多くの人は、「神のはたらき」など存在しないと考えている。(中略)「神のはたらき」の現実性は客観的認識ではなく、「自覚」のなかにより深く正確に現れるものであって、だからイエスの宗教に接近しようと思う人は、イエスの言葉を自覚の表現として理解する方向に向かわなくてはならないのだ。エスの宗教は、客観的な世界観や歴史観を与えない。イエスは、客観的認識に対して現れるような現実について語ってはいないのである。(中略)イエスの言葉は、自分がまさに自分であるとき、自分は自分を超えたはたらきによって成り立っている、という自覚の表現である。>(『イエスの宗教』〔岩波書店〕p211~212)

ここでは「神のはたらき」という表現を用いておられますが、八木氏が主張なさる場所論的立場では従来のキリスト教的な伝統的人格主義的神観を現代人の観点から批判なさるので、「神のはたらき」と言うより「はたらく神」と言うか「はたらきとしての神」として受けとめる方がよいでしょう但し、八木氏は人格主義的神観を否定はしておられません。しかし、人格神観については極めてネガティブな評価なので、八木氏の神観(というか神理解)は人格性が希薄すぎるのです。自分の場合は、あくまでも人格神観を継承しています。従って八木氏の場所論に影響を受けたと言っても、その中心である「相互内在」のような所謂神秘主義的な思想はいっさい受け容れません。観念的には、神は唯一絶対の実体であるという確信に違いはないのですが、八木氏の著書を通して、その実体論的神観にとらわれることは無駄であることに気づいたのです。そして、神そのものよりも神のはたらきの方に関心をシフトすることが肝要であると思うに至ったのです。

ついでにここで、八木氏が場所論的テキストとして挙げておられる聖書箇所を写しておきます(~『<はたらく神>の神学』4頁)。〔代表的聖句〕フィリピ2:13「…あなたがたのうちにあって〔あなたがたに〕働きかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方は、まさに神だからである。」(岩波版〔青野太潮〕訳)

その他の箇所(聖句割愛)、ローマ12:4~8、15:18、コリント一3:16~17、12:4~31、コリント二4:6、5:17、13:3、ガラテヤ2:19~20、フィリピ1:21、ヨハネ一4:7~21

代表聖句にあるとおり、聖書は「はたらく神」を示してはいても、「はたらきとしての神」は示していません。なので、前述のように、八木誠一氏(や上村静氏)の「はたらき=神」という観方を私は否定します。八木氏の場合、「はたらき=神」というよりも、<「神が働く」のではない、働く神が神であり、人はその働きを映す>云々とあるとおり(~『場所論としての宗教哲学』〔法蔵館〕iv)、まず「神」という実体が存在し、然るのちにそれが「はたらく」ということを否定しているのでしょう。

「神」とはあくまでも「はたらく神」であり、「はたらく」以前の実体として存在していないということでしょうが、私は必ずしもそうは思いません。たしかにハヤトロギア的には「神」とその「働き」とを同時に把握する方がよいのでしょうけど、原理的には「働かない神」もあり得るとしなければ、人間が神を制約することになり、絶対と相対との本末転倒の愚を犯すことになります。「はじめに神との関係ありき」です。

聖書においては神はあくまでも人格神です。ただし私は八木神学を活かすうえで、その人格神自体への関心より、その人格神の「はたらき」への関心を強化するというわけです。そうなるともはや「神」の存在とか実体についての論説などはどうでもよくなります。実際に自分が「神のはたらき」を体験することにおいて、その主体である「神」の存在を確信できるからです。要するに私の場合は、あくまでも伝統的な人格主義的立場に軸足を置きながらも、神義論が生じないように関心を「人格神」の顔なり本体には向けずに、その行為、その「はたらき」に向けるのです。文で言えば主語(S)だけではなく主語と動詞(S+V)を一緒に捉えて、しかも聖書ヘブライ語の「エフイェ」のように主語(S)を動詞(V)の中に…接尾辞の人称のようにして…付随的に捉えるということです。メインはS本体ではなくその行為であるVの方なのです。但し重要なことは、SであれVであれ相手は「神」に違いはないので、こちらの目線を相手の顔から身体行為に向け変えるにしても、常に「畏敬の念」とか「頌栄の思い」がなければなりません。それが対神関係であり、自分の信仰なのです。

ちなみに、遠藤周作氏が八木氏の場所論的神観に感化されていることは、遠藤氏のエッセイ『私にとって神とは』〔光文社文庫〕などに如実に表れていると思われます。

<――あなたにとって、神は働きだと言っておられますが、その働きを具体的にどう感じるんですか。

私が神の存在を感じるのは、今日まで背中を何かが押してくれてきたという感じがまずするからです。自分の過去をずうっと振り返ってみると、私を愛してくれたり、支えてくれたりしたいろんな人がいますが、その人たちがアトランダムにあったのではなくて、目に見えないある一つの糸に結ばれ、一つの働きの上で私を支えてくれたのだという気持があるからです。生まれてから現在につながる糸があるとすれば、その糸にずうっとある力が働いていたのだなという感じを持つのです。そうすると、私の個性とかいったものよりも私をつくってくれたそれらのもののほうが大事になり、この大きな場で私は生きてきたという気がするのです。それを私は神の場とよびます。たとえばもしあなたが、私がいままで話してきたことを聞いて、キリスト教に興味を持ち、やがて洗礼を受けたとすると、神は直接目に見えるわけではないけれども、私という者を通してあなたに働きかけたことになる。神はいつも、だれか人を通して何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。(中略)日本の読者には、後ろから押されているということ、神の働きということはわかりにくいかもしれません。それにもう一つ、悪の中にも罪の中にも神の働きがあるということを言っておかねばなりません。どんなものにも神の働きがあるということです。病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも神の働きがあるということを、小説を書いているうちに私はだんだん感じるようになりました。神は存在じゃなく、働きなんです。>

このような遠藤氏の神観は、従来のマルキオン的な、聖書の曲解にもとづく下記のような「愛の神」観よりもさらにひどいなと感じました。聖書に示された神は、小田垣氏的に言うなら「愛と怒りの二重性の神」なのに…。

八木氏は以下のように述べています。

<「神のはたらき」という場合、そこには「尊いもの、生を成り立たせるゆえに、生の諸営為よりも大切なもの、聖なるもの」という含みがある。換言すれば、人格は神のはたらきの場所であり、そこに神のはたらきが実現するとき、人格は創造的自由の主体となる。この事実には人格の尊厳性が表現されている。人格は、たとえそれが神のはたらきを現実に表現していなくても、すでにその「場所」として、尊厳である。その行為が――たとえば悪行が――尊厳なのではなく、もともと神のはたらきの場所として尊厳なのであり、この尊厳性は当人の実際の行為とは別のもののとして認められなくてはならない。むろんこれは、人種や性や文化等、個人の肩書きとは関係がない。そして、この尊厳性の法的表現が「人権」である。法的な人権は宗教的に基礎づけられる。人格の尊厳性とは、単にヒューマニスティックな観点から語られるものではなく、身体/人格の根本にある、神のはたらきの場所としての尊厳性であり、それは同時にすべての人格において認められるところである。もしこれを単なる主観というなら、前述の善きサマリア人の痛みも救助行動も、一文の得にもならない愚行になってしまう。>(~『創造的空への道 統合・信・瞑想』〔ぷねうま舎〕p152 ※太字は自分による。)

再び、遠藤氏の文章を引用します。

マルコによる福音書の一番初めを読むと、らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食っていた洗礼者ヨハネが荒野にあらわれて、みんなに言うには、罪の許しを得させるために、悔い改めよ、と言うわけです。神は怒る、神は罰する、神は裁くのです。そこへその弟子としてエスが、ナザレの大工の家から飛び出してきて洗礼をヨハネから受けるのですが、彼はそこで、神とは、怒りの神でもない、裁きの神でもない、愛の神だ、ということを見つけて、洗者ヨハネ教団から離脱して、自分の教団を少しずつこしらえ始めたのです。エスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のほうです。エスは人間に信頼感を持っていました。聖書の中で裁きのことをイエスが言っているのは、それはイエスが死んだ後、原始キリスト教団の意識を反映した部分だと思います。何度も言うように、エスが説いたのは、そういう神ではなく愛する神、許す神であったのです。神は、何を過去にしていても、最後に、本当におれは悪かったと後悔する者は救われるのだ、と言ったのです。>

太字の部分は遠藤周作氏の誤った聖書の読み方および偏った神観を露呈しています。人間(…特に社会的弱者)に都合の良い神観など思い描いてみたって意味がないのです。その点で私は、遠藤氏の宗教小説や井上洋治神父の書物は信仰書としてはお勧めしません。

ところで、宗教哲学的立場では、主体(S)と動作(V)を分けたがらないのです。しかし、次章(Ⅱ)で引用する有賀鐵太郎氏の言葉にあるとおり(…「その働きのうちにこそ神の「われ」は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している。」)、ヘブライ語の文法にこだわるなら、主体の人称は必ずしも独立した代名詞の形ではないにせよ、接頭辞や接尾辞でちゃんと示されているとおり、やはりSとVの区別はあるし、あるのが当然なのです。それを純粋経験とか言って未分とするような神秘哲学は、聖書解釈には使えません。

とにかく、「救済先行 信仰後続」ということは、「救済先行 神観後続」ということでもあります。神観は神イメージであり、これが先行することは「偶像崇拝」との批判を受ける面があります。神を愛するというその愛(アガペー)は、相手の容姿ばかりに関心を寄せるエロースとは異なり、「神を見た者は死ぬ」と云われていたように御姿を思い描くような偶像的神観などではなく、そのはたらきにこそ関心を寄せる……人の場合なら相手の容姿より振る舞いに関心を寄せる理性的な愛であって然りです。自分も精神安定のために年がら年中、「神」を形而上学的思弁的に想い描いていることが、いかに時間とお金と労力を浪費することになるかということを思い知る経験をしてきました。これ以上、人生を無駄にしたくはないので、神観病から脱却すべく場所論的神学に学びたいと思っています。その決め手になったのが「キリストの再発見」という個人的体験であり、これによってキリストの超越性(=神性)すなわち被造物を超えた性質の承認および三一神信仰の受容ということによって、自分にとっての「神」が(モナルキア的な)「父」のみであるという信仰から、「父、子、聖霊」(の、私見では「三重神」)に変わりました。そして神観なり神論による精神安定の有効性が失われるに伴い、「神(関係)」への関心は劇的に薄れたわけです。でもそれは観念的変節ではなく、現実生活経験による変化なので、知的だけではなく情緒的にも意志的にも…全身体的に受容されるのです。ここが重要な点であり、同じく伝統的教理を受容する場合でも、小田垣雅也氏のようにキリストの復活ひいては三一神信仰を観念的に受容してゆくプロセスだけでは自分の場合、持続性に欠けるのです。やはりそこに実際的に必要に迫られたものがなければなりません。それを端的に言えば、人類の被造物としての限界…堕罪…悪魔性…厭世の実感・震撼なのです。その個人的な経験が、聖書において救い主と宣明されているイエス・キリストが被造物を超えた存在でなければならないという思いを抱かせるのです。歴史上の人物であるひとりのユダヤ人としてのナザレのイエスはそれとして認めながらも、歴史とは違った次元での救い主…被造物を超えたキリストの実在が人間の霊的な救済として要請されるのです。すなわち人生の現実世界は歴史的・社会的現実であり科学的事実でありながらもそれだけでは尽くせないということ、その尽くせないところに信仰の世界があり(それが現代においても聖書の古代人の三層世界観などに沿って神話的に表現されるにしても…)、救い主が実在する場所がある…なければならない…ということを痛感させられるわけです。私の場合はそこから「真に人」だけでなく「真に神」でもあるというキリスト論的承認も成立し得るわけです。これはけっして観念的ではなく現実経験的なのです。観念的であるということは思考が抽象的、すなわち具体性に欠けるのです。その点で小田垣氏も反省しています。

わたしはこれまで「具体性」というものを軽んじてきた。そしてその次元でのデカルト的二元論の止揚ということばかり言ってきた。それがネオ・ロマンティシズムだ、と言ってきたのである。信即不信である。しかし、それは少し違うのではなかろうかと思う。それもまた、オシャレに裏打ちされないと観念になるのではないか。人間にありうるのは「具体性のみ、個別性のみ」ではなかろうか。それが「人間が相対的だ」ということの意味かもしれぬ。>(~説教「海軍と陸軍」)

ところで、これまた観念的な御仁である量義治氏は、「信仰は認識論的事態(=意識の事柄)ではなく存在論的事態(=存在の事柄)」であるなどと思弁的なことを述べています(『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』〔ネスコ/文藝春秋〕参照、『関根正雄記念 キリスト教講演集Ⅰ,Ⅱ』〔関根正雄記念キリスト教講演会準備会〕参照)。

私見では、量義治氏は「信仰」と「(対)神関係」とを混同していると思われます。人が神を信ずるということは意識を介します。だから当人の自覚なしに信仰の成立はありませんが、救いというのは当人の意識の問題ではなく、その自覚なしに神から一方的な働きかけとして与えられる恩寵ですから(…実質的には霊魂の活性化)、たしかに「救い・救済」という観念は体験の省察によって、すなわち意識なしにはあり得ません。現実には神が救っても、本人が救われたことを自覚も認識もしていない場合、その人には救いはまだ訪れておらず、神の救いの業は成就していない…などということはありません。もしそんなことが言えるなら、重度の意識障害の人などは救われないことになってしまいます。しかし神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのであり、たとえ外見的には岩石や丸太のようになった人からも神の民の成員が選ばれているのです。

キリストによる救いを信じることができるということが、すでに救われているということなのです!そこには論理的な矛盾があります。しかしこのようなロゴスの次元を抜けるパトスの次元にこそ道が開かれるのです。たしかに宗教体験を省察するための概念や論理すなわちロゴスは必要ですが、意識がその表層レベルにとどまったのでは宗教ではなく(宗教)哲学にすぎません。小田垣氏が、「人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。」と述べているとおりです(~説教「花吹雪と復活」)。

なお、量氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で、「科学とはちがって、哲学という学問には特定の研究対象というものがないから、あらゆるものがその研究対象になりうる。」(p19)と述べておられます。この説を受け入れるなら、「科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的」とする「日本学術会議」の会員に、「科学」ではない「哲学」の、しかも「キリスト教学」を専門とする者が選ばれて特別国会公務員という身分を与えられ、税金を研究活動の費用に使えるようになるということは実に問題であると言えます。定義を論じ始めたら自分に都合のよい言い分を押しつけ合うだけで、ここは共通感覚を尊重すべきです。世間一般の感覚としては、哲学や個別宗教の神学・教学などは「科学」ではありません!そもそも京都大学という国立大学に「キリスト教学専修」とか「仏教学専修」などというものがあること自体、おかしいのです。同じ個別宗教でも仏教なら日本文化と密接な関係になるので、その歴史・文化の客観的な面では科学的に扱うことはできるかも知れませんが、キリスト教学を日本の国立大学で、一般教養のレベルを超えて専門的に教育する理由はありません。HPには、「特定の信仰や教義に基づくことなく,キリスト教を学問的・批判的に,自由で真摯な精神のもとに研究することを目的」とすると書かれてありますが……

キリスト教学研究室 « 京都大学大学院文学研究科・文学部 、

これはまさに机上の空論であり、実際には個別の宗教を「特定の信仰や教義に基づくことなく」云々といった中立的かつ純粋な立場で専門的に研究することなどできないし、仮にやったところでそんな研究は本質的なレベルに達することはあり得ず、およそ研究などと言えるような活動にはなり得ないと思われます。

何故なら宗教は本来、実存的な営みであって、科学的・実証的方法によっては扱いきれないものだからです。キリスト教という宗教には、研究者自身が信仰なしには理解できない神学的な事柄があるのです。

ところで、八木誠一氏は「信仰」について次のように述べておられます。赤字は自分。

< エスの祈りというのは,むしろ『旧約聖書』にある「信仰」,ヘエミーン。旧約聖書」にいう「信仰」は信じられないことを信じろというのではないんです。現にここではたらいている神の意志,神のはたらき,それを認めてその実現を願いつつ,それに自覚的に参与する。それが信仰なんですよ。イエスの信仰というのは古代に発展したキリスト教的信仰ではなくて,むしろそういう意味のヘブル的信仰なんで。そういう意味での信仰の表れがイエスの祈りですよね。だから,「ああしてください。こうしてください。」というのではなくて,へエミーンというそういう形だったから,やっぱりそれは僕はもとに戻した方がいいというふうに思います。>

http://re-meditation.jugem.jp/?month=202003

ここで言われている「現にここではたらいている神の意志,神のはたらき」には客観性があるのか…他人にもわかることなのか…それとも当人ひとり以外はわからない主観的なことなのか…?それが私にとっては救済論における問題です。前に『イエスの宗教』から引用した通り八木氏は、<「神のはたらき」の現実性は客観的認識ではなく、「自覚」のなかにより深く正確に現れるもの >だと言われていますが、その「自覚」すべき当人の意識が混濁するような状況においては、<「神のはたらき」の現実性 >が現れると言えるのかが問われます。

たとえば前に引用した原崎百子さんの病床記を拝見する限りにおいては、すくなくともあの苦しみにみちた最期の2時間に私は「神の意志」とか「神のはたらき」を認めることはできません。いかに自然法則を用いた自動摂理であろうとも、人の生死にかかわる極限的状況では客観性があろうとなかろうと、その苦痛を出来得る限り緩和する作用が働かずして信仰の意義を認めることはできません。いかに来世利益が約束されると言っても私には受け入れられません。

但し、「信仰」についても「救い」についても極端に考えてはなりません。つまり神学的営みは観念だらけですが、それは聖書が言葉であり概念を用いた神話や思想であり観念である以上、当然です。さりとて限界状況においては言葉・観念のすべてが無用というわけではなく、神のはたらきにおいて有用なのです。当人が意識を持っている限り、思考できる限り、思弁的ではない程度では当人にとって意味を持ち得るのです。それは上記のとおり、原崎百子さんの病床記を読めばわかることです。

八木氏が言われる「はたらき」は「場」に起きるのであり、「場」は存在論的概念ではないのです。人間の自我に「共生」を促す「超越」の比喩であり、別の比喩が「人格神」になります。八木氏は「場所論」を「存在論」や「人格主義」と区別しておられます。「場」があるとは言いますが、客観的にどこにあるとは言えません。でも八木氏によれば日常生活の中で、「場の空気」という言葉があるように、よくあるとのことです。「場」とは人間がそこに置かれるとある方向性をとる空間です(八木氏が「省察と瞑想の会」で比喩に用いておられる重力場と天体と引力の話を参考にして下さい)。隣人愛はその「場」において生起するのでしょう。そこに聖霊がはたらくからです。

 聖書が示す「神」の「存在」は、単なる有神論の神ではなく、永遠に父から生まれる子なる神であり、その子なる神と父なる神から発せられる聖霊なる神であり、その意味で生ける神は、父と子と聖霊の三一神であって、イメージとしては固定的・静止的にではなく動的であり、とにかく無形で無制約なので、精神の安定としては実体性を必要とするし、対象化しなければ信仰は成り立ちませんが、あまり意識しないほうがよいです。

教理的タテマエとしては三一神の自己対象化がイエス・キリストです。三一論の第二位格です。私はそれを存在論的には信じておりません。存在論的なパラダイムは二次的であると思っています。キリスト教の教理はその二次的パラダイムの所産です。そこでは「父、子、聖霊」の三一神こそキリスト教信仰の対象であり、その対象性は「真に人」としてのイエス・キリストの身体性において認められるのだと思いますが、私はその前提となるパラダイムを自分の信仰の内実とはしていません。聖書が示す「神」が実体性・対象性を有していることは信仰の内ですが、それが聖書的範囲での「父、子、聖霊」(の御名)としての「三一神信仰」ではなくて、ギリシャ哲学を用いた三位一体論とされることには反発があるわけです。宗教的実存における信仰心の「生」(ゾーエー)が形而上学的思弁によって枯渇されてしまうからです。ただ、キリスト教という宗教の成立は、そのような個々人の反発などとは関係なく人類の霊魂救済のために(否定的媒体として)必要であると思うので、教理的には受け入れるわけです。心情的には反発し否定しつつも理性では妥協的に受け入れるのです。現実とはそういうものだからです。

人間は宗教者も非宗教者もなく、牧師や司祭も「非僧非俗」ならぬ「非聖非俗」がその現実態なのであって、ホンネとタテマエの使い分けだと悪く言うこともできますが、そのように使い分けないと成り立たない現実もあるわけです。そこに教会が現実社会に対応して宣教の使命を果たすべく制度的組織化されるに伴って本来の信仰共同体としての霊的性質を失ってゆく危うさがあります。

唐突ですが、ここでツイッターの引用です。

< 関根正雄氏いわく「旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか(中略)いろいろな見解が出てくる」(~『古代イスラエルの思想』)。でも創世記で、神は人になり飲食接待を受けたり取っ組み合いもしてる。(続く)>

<(続き)それが神か天使かの議論はさておき、旧約の神は超越的で天にいるよりもむしろ地上と往来するが如くや。新約では神の御子が受肉してる。「聖書の神は日本人に合わない」と言うより聖書をよく読まんのがあかんし、明治時代にGodを「神」と訳したんが一番あかんかった。今さら言うても遅いけど。>

< 関根氏の言う「俗説」は「旧約聖書の神」やのうて「キリスト教の神」乃至は「カルヴィニストの神」のことやろ。旧約聖書の神は擬人的とも言えるヤハウィストの神観など多様で、遍在者なので、単純な超越神観では収まらん。「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。」(ソロモンの祈り)>

そう、「神観」へのこだわりは、「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。」というソロモンの言葉、さらに、創造主なる神は人の手による神殿にお住みにはならない旨のパウロ言葉のとおり、程々にして、「神のはたらき」へと関心をシフトし、感覚を研ぎ澄ませてゆきたいのです。

 繰返しになりますが、「神」そのものより、その「はたらき」の方に意識を向ける方がよいのです。単なる「はたらき」ではなく、あくまでも「神のはたらき」です。伝統的な人格主義的キリスト教においては普通、三一論的区別として、よく「聖霊のはたらき」と言われてきました。それは現在の自分の「妬み」や「憎しみ」などのマイナス感情に支配された心の中の暗雲を一時的にではあれ取り除いて愛を回復させる力です。愛の回復によって癒されるのは相手だけではなく自分自身なのです。他人にやさしい言葉をかけることは、相手を気持ちよくさせるだけではなく自分をも気持ちよくさせます。それが脳内物質の、特にドーパミンのはたらきでしょう

このように「神」そのものに関心を持って思弁を弄するのではなく「神のはたらき」を待ち望むあり方は、先の引用において、< 神は「何であるか」よりむしろ、「何をなし、また何をなそうとしているか」が問題>であると言われていた通りです。人格主義に変わりはありませんが、その「人格神」としての人格性は、「神の顔」をイメージするといった擬人的・偶像化的なことにあるのではなく、実にその「神のはたらき」の「神の」というところにこそ感じ取れるのです。それは要するに、「神のはたらき」には人称があるということであり、愛とか怒りといった感情があるということなのです。

但し重要なことは、これも繰り返しになりますが、言わば「神」の本体ではなく行動に目を向けると言っても、それもまた「神」であることに変わりはないので、ただ単に目のつけどころ、関心の向きを変えるだけではダメで、あくまでも「神への畏敬・頌栄」を込めてのことでなければならないのです。いかなる神学的立場も神観も頌栄が基盤でなければ無意味です。

相手が人間を超えた「神」ということになると、人間の五感で把握することなどそもそも無理がありますが、しいて言えば、「存在」よりも「はたらき」の方が感覚できそうです。その「はたらき」とは結局、「(霊魂の)救い」です。聖書が示す「神」の主体性はその行動に伴って感得されるのです。聖書ヘブライ語においては、「神の名」が存在動詞「ハーヤー」(hayah〔※ a の上に伸ばす発音記号あり〕)に起源を持つことと関連づけて理解することも可能でしょう。これは有賀鐵太郎氏の「ハヤトロギア」が参考になります。後に引用する有賀氏の主著『キリスト教思想における存在論の問題』や、web上で閲覧できる有賀氏の論文「有とハーヤー ― ハヤトロギアについて ―」などが挙げられます。

また、八木誠一氏の「場所論的神学」を参考にする場合は、人格主義的信仰に場所論的信仰を取って換わらせるわけではなく、あくまでも従来の主流である人格主義的信仰に立ちながらも、「実体」とか「対象」よりも「はたらき」に重きを置く場所論的信仰を活かす道が開けたということです。それは端的に言えば、自分の信仰意識の向きを「神の国・神の支配」の「神」ではなく「の国・の支配」という「はたらき」に転換するということです。そうすることにおいて無意識的に「神」を信仰することになるということです。それが、次に引用する文言に関連します。すなわち、聖書が示す「神」についての問いは、「何であるのか?」である前に「何をするのか?」であって然りであるということです。※赤字は自分による。

へブライ的思考において、神の本質は存在論的ではなく救済論的である。神は「何であるか」よりむしろ、「何をなし、また何をなそうとしているか」が問題となる。その結果人間に対しては、「何をなすべきか」が要求されることになり、ここにおいてイスラエルの宗教は本質的に倫理的宗教とならざるを得ない。>(~『人文学と神学』第4号所収、北博氏の論文「主体性と言語 ―失われし《情況》を求めて―」)

信仰の意識は「神」の「存在」よりも「救いのはたらき」にこそ向けて然りです。「神」を意識しないで「神のはたらき」を意識する、そうすればおのずと(逆理的に)「神」の得体も知れてきます。有賀鐵太郎氏の「ハヤトロギア」では…

< 神はハーヤーするものとして「いる」のである。しかも、そのハーヤーすることの中に神の「われ」は隠れている。神の「われ」が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の「われ」は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している。>(~『キリスト教思想における存在論の問題』〔創文社p172)ということになります。神そのものではなく神のはたらきに関心を向けるのです。はたらきに神の主体性を認識する信仰とは、ボンヘッファーの「ぼくたちは神なくして、神の前に、神と共に生きている」という言葉とも通じるものがあるかも知れません。

有賀氏の言うことは、こじつけのようにも聞こえますが、未完了形の「エフイェ」(=ehyeh 〔※ e の左上にユッド( y )を示す記号あり〕「私はある、私はなる」)という語において「私」という人称は未完了動詞の接頭辞(‘e )に示されているとおり、神の主体性は独立した人称代名詞としてよりも、このように動きに伴って示されるのです。だから独立(自立)した人称代名詞は無くても、「エフイェ アシェル エフイェ」(出エジプト記3:14「我は有りて在る者なり」)の英訳を、逐語訳だとか言って、" AM WHO AM " とか、 " AM THAT AM " などと書くのは誤りであり、あくまでも主語の "I" を書かないといけません。

但しマルティン・ブーバーは、" I am who I am " も誤訳であり、" I will be there as I will be there "とでも訳すべきだと言ったそうです。どちらにしてもちゃんと主体を表わす "I"があります。

ところで、上記のとおり私は八木誠一氏の「人格主義的場所論」といわれる立場から学んで、自分の人格主義的神観を改変したわけです。しかし繰り返しになりますが、八木氏の神学的立場からどうしても学び取れないもの、影響されてはならないと思うものはあります。それは端的に言えば神秘主義的な考えです。神と人との相互内在とか作用的一とかいったことで、もはや神の実体性はもちろん、人格性までも失われてしまう言説世界です。神のはたらきには、人の内からのはたらきと人の外からのはたらきがあり、前者が場所論的神観、後者が人格主義的神観になります。以下引用。※太字は自分による。

<神は「はたらく神」であるという。それはどういうことか。まず神があって、それがたまたまはたらくのではなく、神ははじめから(はたらく神)である。さらに神は、「われわれのなかで」はたらく神である。「われわれのなかではたらく神」は、アリストテレスの神のように自らは動かずに外から他者を動かす神ではなく、「人格神」のように、外から命令し、外から操作して世界と人間を動かす神でもなく、人間のなかではたらいて、人間のなかに「意欲・はたらき・遂行」を成り立たせ、人間を通じて行為する神である(ロマ一五18参照。パウロがいなければ、キリストだけでは宣教はできない)。>(『<はたらく神>の神学』〔岩波書店〕p109)

ここで、「まず神があって、それがたまたまはたらくのではなく」と言われていますが、これは「S+V」ではなく、言わば「S in V」ということでしょう。これはヘブライ的神観に合うと思います。動詞が神の名になるようなヘブライ的神観は、主体である神とそのはたらきとが不可分なのです。しかし同時に不可同・不可逆の構造があるはずです。もっともそこまで言うと思弁になってしまうので、ヘブライ的神観は意外にも人格主義的であるより場所論的である…と言うにとどめたいと思います。結局、人格主義的神観というのは、ユダヤ教以来ということではないと思われます。それは紀元3世紀頃に起源があるとされるユダヤ・カバラにおける「収縮」説(乃至はその起源である「撤退」説や「古いユダヤ的内在(Schechina)論」から感得されます。「遍在」は聖書的教理とは言え、人格主義的神観とは親和性が低いので、特に超絶的神観が主流になるのはキリスト教が成立して、アウグスティヌスカルヴァン系統が確立して以降ではないでしょうか?その起点はおそらくアウグスティヌスの「無からの創造」論における「外へと向けられた神のはたらき」でしょう。これは結論的に創造主なる神を限定することになりますが、「遍在」を否定することによって人格神観が前面に出てきます。神学も形而上学的な面があり思弁が過ぎると信者にとっては一利どころか百害に当たることにもなりかねません。だから霊性における信仰的判断停止が必要になります。「遍在」はたしかに聖書的教理ですが、その解釈は形而上学的である必要はなく、せいぜい神観が多くの人の心にある…みたいな感じでもよいと思うのです。

とにかく、自分の信仰生活における実存的神観は、「人格(性)」、「絶対(性)」、「超越(性)」の3要素(できればこれに「実体(性)」を加えて4要素としたいが…)を理屈ぬきに守ることによって成り立ちます。生活の基礎となる精神安定のためには、日本的神観のような捉えどころのない融通無碍な感じではダメなのです。また、創造論を理詰めで行くと「収縮」説になり得るのかも知れませんが、実生活の実信仰にはどうでもよい形而上学的思弁になります。

参照:佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

以上はあくまでも私の勝手な引用による想像にすぎず、学問的根拠などまったくありません。しかし人格主義的神観の源流をユダヤ教に置くことには無理を感じます。前述のとおりヘブライ的神観は場所論的だからです。あえてユダヤ教起源と想定するなら、ヘレニズム化が進んだ時代に入り、イエスの時代を経て、AD66年に始まったユダヤ戦争で第二神殿が破壊される(AD70年)までの期間ということになるのでしょう。

<私は「神が人格である」とは、あまり言いたくないのです。しかし「神については人格主義的に語ることができるし、語らなくてはならない」と思います。場所についても同じで、そのように考えております。神が自分の中から働きかけているという面を場所論的と言いましたが、それに対して神の私に対する語りかけは、ほかの人格を通して語る場合、歴史を通して語る場合、あるいは聖書といった文献を通して語りかける場合があります。つまり、そういう「媒介」があるわけです。この場合、その媒介者は自分自身ではなくて、自分の外の「人格」とか、場合によっては「自然」でありうるわけです。そういう外にある媒介を通して、私に語りかけてくる神は、やはり人格主義的にしか語れないのです。そういう面を見ますと、つまり自分の中から、あるいは外から神が働きかけるという両面を正確に言おうとすると、場所論的な神についての語りと、人格主義的な神についての語りがある。人格主義的なという場合には、神が歴史上の出来事を通して語るということもありますから、これは人間の理解を超えた、ある意味では奇跡と言われるような出来事もあるかもしれません。そういう事柄を通して、語りかけることもあるわけです。ですから、そういう面をちゃんと言おうとすると、人格主義的な語り方にならざるをえないし、そこでは「祈り」ということも意味を持ってくるわけです。ただ、その祈りを一方的に人格と人格との間の対話と考えるのは、ちょっと問題を感じています。なぜなら同時に、祈りが成り立つというのは、私の中における神の働きの結果だとも言えるわけです。ですから、その両方を言わないと、人と神との関係は正確には語れない。つまり、神が「人格」で「ある」、「場所」で「ある」とは、実はあまり言いたくないのです。神について語ると、どうしても一面では人格主義的になるし、そこでは祈りも成り立ってくる。他方では場所論的な語り方が必要になってくるし、そこでは「目覚め」とか「自覚」とか「悟り」という言葉が意味を持ってくる。そのように考えています。>(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東京大学出版会〕p164)

「神」御自身は「一切を包む究極の『はたらきの場』(比喩)」であり、宗教哲学的「認識の対象」ではな」いにせよ、「キリスト教の伝統で語られる『信仰の対象』」としての実体性・得体はあるわけです。しかしその「神」の「はたらき」には外からの超越的なベクトルと中からの内在的なベクトルがあって、それは現実に自分でも感じられることです。自分の外から働きかける他力の感覚だけではなく、自分の内から湧きおこるようなエナジーの感覚は確かにあるのです。前者が人格主義的に、後者が場所論的に表現されます。両者は「不可分・不可同・不可逆」であり、「前者」が「後者」に対して「不可逆」的に優位であることから、私の神信仰は従来通り、人格主義がメインであり、場所論がサブになるのです。

従って私にとって神と人のとの関係は、従来の人格主義的な神学で言われているとおり、あくまで隔絶しています。質的に断絶しているのです。それは創造主なる神の聖性と人間の原罪の現実を直視すれば否め得ぬ現実です。共同体的には「インマヌエル」であっても、個別的には「遠くの神」でないと困るのです。八木氏の神学では、人格神観を観念的には認めてはいるものの実際には否定しており、神論が文字通り空論に解消されている観があります。被造世界は空でも創造主なる神だけは実体です。しかしその実体性にとらわれて形而上学的であれ何であれ思弁に陥ることがダメなのであって、自分自身については仏教徒のように無我だの非我だの、あるいは虚体だのと言っても、創造主なる神のみは哲学的思弁から(絶対)無などと言わず…というか言えず、実存的信仰告白として(絶対)有と言って賛美することは、聖書から導き出される当然の態度です。信仰主体の精神においては、知よりも情意が優先される場合が多々あるのではないでしょうか?

さて、自分の信仰的考えを聖書のテクストに照らした場合のわかりやすい例として第一に挙げられるのは、出エジプト記33章の20~23節です。こじつけめいた解釈になるとは思いますが、ここでは文脈にはあまりこだわらないこととして読みます。

< また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。 / そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。 / わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 / そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。> 

ここで主なる神は、モーセが御自身の顔を見ることはできない理由として、御自身の顔を見てなお生きている人はないということを述べておられます。これを自分なりに解釈すると、聖書の宗教であるユダヤ教キリスト教(さらにはイスラム教も…?)は、八木誠一氏が言われるところの人格主義的神観を聖書的神観としてきたし、それは必然的なことであって、そのこと自体は問題ないのですが、ギリシャ教父に対する八木氏の批判から察せられるように、人格主義にギリシャ思想の存在論が加わることにより、「神」を視覚的対象として実体的に見ようとする形而上学的思弁的な傾向がキリスト教においては強くなりました。ヨハネ福音書の1章18節で「神をいまだかつて誰も見たことがない。父の胸中にいる、ひとり子なる神、この方こそが解きあかした。」(岩波版〔青野太潮〕訳)と言われているのも、「解きあかした」と言うのだから、けっして実体論的な意味で言われているわけではないだろうし、仮にそうだとしてもそのように解釈することはヘブライズムとは相容れないと思われます。

なにかの本で、ヘブライ人は聴く民、ギリシャ人は見る民といった言葉を見たことがありますが、大雑把に両文化の違いを示したものでしょう。「神」を視覚的対象としてイメージするのは、ヘレニズム文化の特質だと言えるのかも知れません。
いずれにせよ、人格主義的伝統は継承すべきですが、ヨハネ福音書において、イエスに対して「主よ、父(なる神)を我らに示し給へ、さらば足れり。」(14:8)と言ったピリポのように、「神」を視覚的対象の実体的存在としてイメージするギリシャ・ローマ的神観の傾向が現代において行き詰まっているのです。

ピリポに対するイエスの答えも、従来のキリスト教での解釈は、まるでイエスの身体が父なる神を現わしているかのようなものでしたが、そのような実体論的解釈ではあまりに神話的すぎて、小田切信男氏が批判したように聖書の宗教からすれば異教的でもあり、そのようなキリスト教的神観の傾向は、旧約的には「神の顔を見たら死ぬ」という伝承に暗示されていたとも解されます。ピリポに対するイエスの答えは、ヘブライズム的に解釈されるなら、イエス御自身の「はたらき」と父なる神の「はたらき」との一致を示すということになります。イエスは父なる神の御意志によらなければ何もなされないお方として遣わされた旨は、ヨハネ福音書に明記されているところです。

余談ですが、織田昭師はローマ書1章20節を以下のようにわかりやすく訳しています。

< そもそも、神が何者であるかは「目に見えない」などと言いますが、それも天地創造以来、被造物という形の中に、見る目さえあれば明瞭に「見えていた」ので、神の永遠の力と言い、神の神たるゆえんと言い、すべて明らかで、彼らには言い逃れは許されません。>(~サイト「織田 昭 聖書講解ノート えりにか」)。

自然啓示としては被造物の中に、「神が何者であるか」…すなわち神の得体が、見る目がある者には見えているというわけですが、これはヘブライ人のパウロならではの言い方であって、ギリシャ人が果してこのように考え得たかは大いに疑問です。いずれにせよ、自然啓示は救いに直結するものではなく、キリストの特別啓示が必要となるわけです。

この出エジプト記33章の場面についての私の解釈では……、神の「顔」を見ようとする神の観方はヘブライ人本来のものではなく、後にヘレニズム化する時代のあり方を先取りして示しているかのようです。そのような神観では、3章でモーセに現れた「エフイェ」及び「ヤハウェ」なる神の本質にふれることはできない、むしろ信仰心が滅びてしまうので、主なる神がヘブライ的な神観へと修正すべく、モーセに対して岩の裂け目に足場を与えて彼を手で覆われたように、我々に対して神を実体的対象として捉えようとする関心を封じられたのでした。

21節でモーセが立つように言われている、神のかたわらにある「岩」というのは、これをキリストと解釈する人がありますが、私の場合は敢えて文脈と関係なく見ているのでそうはならず、従来の実体に関心を向ける神観とは別の、はたらきに関心を向ける神観の立場であると解釈するのです。22節で神がモーセを入れると言われている「岩の裂け目」とは、私解ではそのようなヘブライ的神観の視座です。神は御自身を伝統的な視覚的対象の神観とは違う、本来のヘブライズムに合うように修正された神観の対象として顕現されたのです。

こうしてモーセが、神の「顔」は見れなくてもかろうじて神の「後ろ姿」を見ることはできたように、我々信者も、モーセに示された神の名「エフイェ」(我は成〔有〕ろう)の人称が、独立した代名詞としてではなく未完了の接頭辞(‘e )としてかろうじて示されていることに注目して、その分だけで神の得体を感じ取らなければなければなりません。それ以上に神の顔とか本体に関心を向けることは、かえってモーセの神については「的外れ」(ハマルティア)ということになります。すなわち自分自身の中で、この1つ前の章である32章に出てくる金の子牛のような偶像を刻む大罪を犯すことにもなるのです。

…といったことが、先に引用した有賀鐵太郎氏の、< 神の「われ」が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の「われ」は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している。>とか、< 神は「何であるか」よりむしろ、「何をなし、また何をなそうとしているか」が問題となる。>といった言葉の解釈の例として成り立ち得ると思います。神は霊であり物ではないので、いかなる意味においても得体が知れないというわけではありませんが、「顔」に当たるものは無いというか隠れていても、「後ろ姿」を見せ給うことにおいて御自身を啓示しておられるのです。この「後ろ姿」は、エフイェの文法的解釈では接頭辞に表された人称としての神ということになります。

わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき」というのを新約の光に照らせば、この通り過ぎる神の栄光とは御子キリストを象徴しているとみなすこともできます。キリストこそ神の栄光の第一の受領者であり具現者だからであり、主なる神の栄光が通り過ぎるというのは、上記の場面がモーセに先導された出エジプトの旅の途中であり、その出エジプトを記念する過ぎ越し祭りとキリストとの関係が、キリストはまさに過ぎ越しの犠牲の小羊となり給うたということだからです(コリント一5:7)。モーセにとって神の栄光が通り過ぎたことの意味は、主御自身がモーセの前を(通り)過ぎたという意味とは異なり(出エジプト記34:6)、過ぎ越しを象徴しているのです。そしてすべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して父なる神に栄光を帰するのであり(フィリピ2:11)、キリストは御力によって、私たちの卑しいからだを、御自身の(神の)栄光に輝くからだと同じ姿に変えて下さるからです(同、3:21)。実にキリストにおける神の啓示とは、神の栄光の御業・はたらきの現れなのです。

伝統的な、「神」を実体として視覚的対象であるかのように想い描く信仰的立場から、「神のはたらき」を体験する信仰的立場への修正は、私の場合、八木氏の「場所論」的宗教論を参考にしてこそ可能になったのでした。しかし自分の信仰的立場は、八木氏の、人格主義よりも場所論に重きを置く立場とは異なり、人格主義的神観を従来通り踏襲し、信仰の基幹とする点においては、伝統的キリスト教の信仰と変わりはないのですが、そこに場所論的「はたらき」重視の神観を参考にすることによって、ピリポのように父なる神を視覚的にイメージすることによって満足する信仰ではなく、状況を変える神のはたらきを祈りをもって待ち望む実践的な信仰へと変わることができました。そして、旧約を新約の光に照らして読むという原則に合わせて、モーセが神の後ろ姿を見たということの意味をキリスト論的に受けとめることができたのです。

いずれにしても、「神」ではなく「神のはたらき」に関心を向き変えると言っても神観、それも「実体的神観」は信仰生活の基礎として必要不可欠であることは言うまでもありません。要は「実体論的神論」の思弁に陥らないように程度にとどめるということです。これについては当ブログの、<「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?>を参照して下さい。

以上の自分の考えは、八木誠一氏の「場所論的神学」だけではなく、有賀鐵太郎氏の「ハヤトロギア」も大いに参考にさせてもらっていますが、北森嘉蔵氏が「ハヤトロギア」の要点を簡潔にまとめておられるので、ここで参考までに引用します。※赤字は自分による。

< ハヤトロギアという著者の中心概念は、出エジプト記三・一四を典拠としている。文語邦訳では、「我は有りて在る者なり」となっており、口語邦訳では、「わたしは、有って有る者」となっている。しかし著者によれば、これらの訳は「少しも原典の意味に近づいておらず、依然としてギリシァ訳に準じたと思われる翻訳にとどまっている」(一七〇以下)。問題は、「有る」と訳されている「ハーヤー」というヘブライ語の原意を探ることにある。ハーヤーという語は「生起する」「生成する」「存在する」のいずれとも取ることができる。これを「存在する」に一義化することは、根拠なくヘレニズム的存在論に近づけることであり、その事への批判が著者をハヤトロギアの挙揚へと衝き動かしたといえよう。「神が有るということは生成することでもあり生起することでもある」(一七一)。言いかえれば、ヘブライズムにおいては、神が存在するということは、神が働くということである。「神の『われ』が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の『われ』は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している」(一七二)。ヘブライ語における動詞の動的性格からして、「なる」と「ある」とが一如に考えられていることが注目されねばならない(一八五以下)。「成る」とか「生起する」を離れた「有る」は考えられていない(一八八)。「このような性格を帯びた言語による思考においては抽象の最後に残るものは純粋の『あること』よりも、むしろ純粋の『はたらき』としての『われはハーヤーする』である。ギリシャ的思考法をト・オンの論理、すなわちオントロギアと呼ぶことをうるなら、ヘブライ的思考法は、これに対して、むしろハーヤーの論理、すなわちハヤトロギアと呼ぶべきであろう」(二〇六)。

ヘブライ的思考法においては、神を否定するということも、神の存在や有を否定するというよりもむしろ、「神との実存的関わりを無視することである」(一九一)。存在の否定ではなく、関係の否定である。「神を肯定することは創造的・啓示的『はたらき』の肯定であり、神を否定することは、その事〔はたらき〕の否定である」(同)。要するに、ヘレニズム的オントロギアが存在概念であるのに対して、ヘブライズム的ハヤトロギアは関係概念である。この提説はきわめて重大である。

もちろん、著者は歴史研究者としてオントロギアとハヤトロギアとの結合という歴史的事実を重視する。ヘブライ的・キリスト教的思想のうちにオントロギアが入ってきて、ハヤ・オントロギアとも呼ばれるべきものが生じたと言われる(一九二)。オントロギアとハヤトロギアとは必ずしも相互排除的なものではなく、「歴史的にも両者は結びついて来たものであり、また結びつきうるものであり、両者が正しく結びつくことがいずれの側にとっても願わしいことである。けれども従来の結びつき方が、それでよかったかどうか、ということには問題を感じさせるものがあるので、その経過を逆に辿ることによって先ず両者の相違を充分に明らかにしたい……」(一九〇)。(中略)キリスト教神学史をふり返っても、例えば「かのニカイア信条の中に採用されたホモウーシオスにしても、本来オントロギアに属する概念である。けれども、それらによって明証されるところの内容はハヤトロギア的なものである」(一九七)。この点を見誤って、「キリスト教神学においてオントロギアをどこまでも貫徹しようとすることは、神学を非キリスト教化する危険を冒すものであることに気付かれなければならない」(一九八)。この命題は、決定的に重要な神学史的卓見である。>(~「ハヤトロギアをめぐって ― 有賀鉄太郎博士著『キリスト教思想における存在論の問題』― )

遠藤周作氏はエッセイ『私にとって神とは』(光文社文庫)の中で、「神の存在は対象として見るのではなくて、その働きによってそれを感じるんです。」と述べていますが、この点は私もまったく同感です。私は以前は神を対象として見ること、形而上学的思弁の真似事をすることが楽しみでしたが、それは現実生活においてはあまり意味がなく、存在や実体よりも働きの方に関心のベクトルを変えることが自分の信仰のあり方として聖書的にも実践的にもより良いことだと悟ったのです。ただ、このエッセイは内容的に八木誠一氏の影響が感じられますが、人格主義的思惟が場所論的思惟に解消しているかのようであり、遠藤氏は神のはたらきが罪や悪にもあると述べており、この点は人格を軽視することによる倫理の欠如であるとみました。八木氏は人格主義より場所論の方に重きを置いて論じておられると思われますが、さりとて八木氏の思想が倫理を欠如しているどころか倫理を重視しているのは、神のはたらきが単なるはたらきではなく、基本的に人を他者との共生に向かわしめて統合体形成へと促すものだからです。

ところで、キリスト教の歴史ではおもに神秘家と呼ばれるような修道士などに「見神」体験があったようですが、私はそういう体験は妄想だとみなします。神秘主義的宗教はひじょうに病的な感じがして嫌悪感をもよおします。シモーヌ・ヴェイユにもキリスト神秘主義的な体験があったようです。私は工場労働を体験した点で人間としてはヴェイユを尊敬しますが、その宗教的な面にはあまり関心ありません。

聖書における「見神」に関して、関根正雄氏は次のように述べています。

< 「民数記」第一二章(中略)彼はまたヤハウェの形を見るのである」という。ここにモーセの見神ということがはっきりと書いてある。「見る」というヘブライ語はここで通常の「見る」より強度の「見つめる」という動詞が用いられている。この「見つめる」は預言者の見神にも使われることはない。これはいったい何なのだというのが私の問題なのである。この問題について私の解決の手がかりになったのは、並木浩一氏が今年(一九八二年)公表された「旧約における視覚の問題」についての論文である。並木氏は旧約における視覚の問題をギリシアとの対比で述べているが、「イスラエルギリシア両民族とも神の不可視性を前提としていた。また視覚を精神化するという点においても両民族は共通である」といわれ、「しかし、ギリシア人が神もしくは神的なものを見ることによって神を見ることができた、あるいは神に知られることによって神を知ったのだ」という、きわめて興味深いことを結論的に述べておられる。(中略)神に知られたモーセが、ここにおいては「神の形を見る」と、はっきり神の側からいわれているわけである。このことも後になると、あまりに直接的な言い方なので、いくぶん緩和したところに落ち着く。生けるものは神を見ることはできないということで「民数記」一二章八節以外には、モーセも神を見るということはしていない。その点で「出エジプト記」三三章一七節以下は興味深い。(中略)「民数記」一二章八節にははっきりとモーセの見神が記されている。だとすれば、モーセの思想を問題にする場合に、モーセ個人の思想家としてのいちばん深い核は、私は、神を見ることを許されたというこの箇所にあると思うのである。この「神を見る」ということはどういう意味かということになると、ブーバーは『モーセ』で、霊、スピリット、ドイツ語訳ではガイストという言葉でこの問題を叙述している。並木氏のスピリチュアリゼーションということより狭い意味で、霊的にモーセこそ神との交わりを最も深く知った人だと解したい。(中略)「民数記」一二章で、モーセがアロンとミルヤムに責められ、その連関で神(ヤハウェ)の形を見るという言葉が八節に出てくる。神を見るということは、旧約ではまれなことで、そういうことがはっきりと書かれ、伝わっているのは、かなり古い伝承であると私は思う。それが後になると神の形を見るというふうにはならないで、モーセといえども、神の栄光を見させてくださいと求めたのに対して、直接的にはそれがゆるされなかったことが「出エジプト記」三三章一七節以下に書いてあるのだ、と思う。そのようなことから、私は「民数記」一二章八節の「ヤハウェの形を見る」というところをひじょうに重視したわけである。(中略)一般的な夢、幻を見、超越者をも見ることは宗教史上類例が多いが、神を見た者は死ななければならないという旧約の背景で「神を見る」ということがモーセその他ごく少数の場合にいわれていることは注目しなければならない。>(関根正雄著前掲書p130~134 ※「精神化」には「スピリチュアライズ」とのルビあり。)

並木氏が言う「人格的な神に知られることによって神を知る、見られることによって見る」(p133)という言い方はあまりに観念的でよくわからないし共感できません。そのような言い方で「神を見るという最後の問題が、ヨブについて述べられているのと同じくモーセについて述べられている」とか「これはきわめて注目すべきことである。ヘブライ思想の神とのかかわりには、そういうところに最後の秘密があり、ギリシア的なものとの違いがあると考える」などと言っていますが(p133)、なにが「きわめて注目すべきこと」なのか、まったくわけがわかりません。いったい、人間がいかにして神から知られているとか見られているなどということがわかるでしょう?それに「ヨブ記」と「出エジプト記」や「民数記」とはまったく性格を異にする文書であり、「ヨブ記」の方がはるかに非歴史的で神話性が高いのですから、ヨブに見神など、あまり詮索しても意味のないことでしょう。

次に、小宮山牧師の説教から一部を引用させてもらいます。

< では聖書に出てくる人で、実際に神を見た人は誰でしょうか?‥‥すぐに思いつくのはモーセではないでしょうか。モーセ旧約聖書最大の預言者と言われる人です。たしかに次のように旧約聖書に書かれています。
出エジプト記 33:11)"主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。"
 たしかにモーセは、神を見たようです。しかし一方では、聖書に次のように書かれています。
(Ⅰヨハネ 4:12)"いまだかつて神を見た者はいません。"
 誰も神を見た人はいない。そうすると、モーセは何を見たのか? そのヒントとなることが、同じ出エジプト記の24章10節~11節に書かれています。それは、モーセやアロンの他に、イスラエルの長老たちが主なる神さまから招かれて、ホレブの山に登っていった時のことです。こう書かれています。
出エジプト記 24:10-11)"彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされたので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。"
 そこには、神さまがどんな姿をしていたかとか、どんな顔をしておられたかということは何も書かれていません。ただ、神さまの足の下の所の描写だけです。サファイアの敷石のようなものがあり、大空のように澄んでいた、と。すなわち、神さまを直接見ることはできなかったけれども、そこにたしかに神がおられるということがはっきり分かった。感動的な体験だった。そのことをもって、「神を見た」と書かれているようです。>説教 (holy.jp)

ここで注目したいのは、「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされたので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」という聖書の言葉と、これに関して説教では「神さまを直接見ることはできなかったけれども、そこにたしかに神がおられるということがはっきり分かった。」と言われていることです。私は小宮山牧師とは解釈を異にする部分があると思いますが、いわゆるモーセの見神という出来事が「神さまを直接見ること」を必ずしも意味していなかった…という点では同じです。そのようなギリシャ的な視覚中心の観方ではなく、神が民の代表者たちに向かって手を伸ばされたという行動、振る舞い、はたらきを体験して、そこに比喩的に「見る」と言うような対神関係における感覚があるわけです。言わば、ヘブライ的見神感覚とでもいったことです。これがギリシャ的であれば「見る」対象が顔を中心とした上半身になるでしょう。しかしここでは「神さまがどんな姿をしていたかとか、どんな顔をしておられたかということは何も書かれていません。ただ、神さまの足の下の所の描写だけです。」ということで、「神」を見る信仰ではなく「神のはたらき」を感得し、感謝をもって共にはたらく信仰…ということになるわけです。

一方、まじで神の顔を見た男と言えばヤコブです。彼は畏れ多くも神と格闘して勝ったといわれています。この物語は相手を神の使いとみる場合もありますが、藤掛牧師は神ご自身という理解で以下のように説教しておられます。

 32章でヤコブは、エサウとの再会への深い恐れを抱きつつ、ヤボクの渡しを渡りました。32章23節以下には、その夜、ヤコブが何者かと一晩中格闘したことが語られていました。その何者かは神様ご自身だったのです。ヤコブは神様と格闘しつつ、27節にあるように、「祝福してくださるまでは離しません」と言って祝福を求めたのです。つまりこの格闘は、神様の祝福を求めての格闘でした。そして夜明けに彼はついに、その祝福を与えられたのです。この話は、ヤボク川を渡り、いよいよ兄エサウと対面しようとしているヤコブの不安と恐れとを背景としていると言えるでしょう。前回も申しましたが、人生には、不安や恐れ、あるいは悲しみを抱きつつ、しかしどうしても渡らなければならない川があります。そこを渡っていく時、私たちは不安や恐れや悲しみと格闘しなければなりません。しかし神様を信じる者においては、その格闘は、ただ不安や恐れや悲しみを克服するための格闘ではないのです。むしろそこで私たちは、神様の祝福を求めて、神様ご自身と格闘することになるのです。ヤコブも、最初は、自分を川にひきずり込もうとする得体の知れない魔物と戦っているように感じていたのでしょう。しかしその格闘の中で彼は、今自分が格闘している相手は神様ご自身なのだ、ということに気付かされたのです。そして神様の祝福を必死に求めていったのです。自分が格闘している相手が、得体の知れない魔物ではなくて、神様ご自身であり、この格闘は神様の祝福を求めての格闘なのだ、という気付きを与えられること。それこそ、神様を信じる者にのみ与えられる恵みです。その気付きの中で私たちは、不安や恐れや悲しみの中でも、希望を与えられるのです。そしてこの格闘を通して神様は必ず祝福を与えて下さるのです。ヤコブは神様と格闘して勝った、とここに語られていますけれども、人間が神様と喧嘩して勝てるはずはありません。これは、神様の方が、わざと負けて下さったのです。必死に祝福を求めるヤコブにわざと負けて、祝福を与えて下さったのです。ヤコブもそのことを知っていました。だから彼は21節で、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったのです。神様を、顔と顔とを合わせて見ることなど、罪ある人間にはできません、そんなことをしたら死ぬしかないのです。それなのにこうして生きている、それはただ神様の憐れみによることです。神様が自分を赦し、祝福を与えて下さったのです。つまりヤコブは、このヤボクの渡しにおいて、自分を祝福して下さる神様のみ顔を見ることができたのです。この場所は、ペヌエル(神の顔)と名付けられました。それは、ヤコブが神様の祝福のみ顔を見た場所、という意味なのです。 神の祝福による和解  最初に申しましたように、本日の33章はこの32章とつながっています。32章で神様の祝福のみ顔を見ることを赦されたたヤコブが、そのみ顔に押し出されるようにして、エサウと対面したのです。そこには、恐れていた怒りや憎しみによる戦いではなく、和解が、兄弟としての交わりの回復が与えられました。ヤコブはそれを、何よりも神様の祝福によることと受け止めたでしょう。何故エサウヤコブを歓迎したのか、その理由はエサウの心の中に求められるべきなのではなくて、むしろ神様の祝福にこそあるのです。ヤコブが、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言ったのはそのためです。彼は、ヤボクの渡しにおいて示された神様の祝福のみ顔を、兄エサウの顔の中にも見ることができたのです。ですからこれは決して、歯の浮くようなお世辞ではありません。兄の機嫌を取るために神様のみ名をみだりに用いているのでもありません。彼は兄との再会を恐れていました。兄の心には自分に対する怒りと憎しみがなお渦巻いていると思っていました。それゆえに兄の顔を見ることは恐怖だったのです。その思いが32章21節に現されています。エサウへの贈り物を三組に分けて送った時のヤコブの思いです。「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、おそらく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」。ここの原文には、実は「顔」という言葉が四度出てきます。それを生かして訳すとこうなります。「ヤコブは、自分の顔の前に贈り物を行かせることによって兄の顔をなだめ、それから彼の顔を見れば、おそらく自分の顔を受け入れてくれるだろうと思ったのである」。このように、どのようにして兄と顔を合わせるか、兄の顔をどうやって見るか、がヤコブの不安、恐れだったのです。その不安と恐れの中で彼はヤボクの渡しを渡り、そこで神様ご自身と格闘し、神様の祝福のみ顔を見ることができました。その神様の祝福のみ顔を、兄と顔を合わせた時にも、兄の顔の中にも見ることができたのです。それは勿論偶然ではありません。神様が祝福のみ顔を向けて下さることによって、私たちは、自分と敵対関係にある、憎しみと怒りが渦巻いている相手の顔の中にも、神様の祝福のみ顔を見出していくことができるのです。人間どうしの関係における和解はそのようにして与えられていくのです。ヤコブはそのことをここで体験したのです。私たちはしばしば、人間関係における破れに苦しみます。和解を得たいと願っても、それがなかなか得られないことを嘆きます。そのような苦しみの中で私たちが本当にしなければならないことは、神様の祝福をこそ必死に求めていくことなのです。神様が祝福のみ顔を自分に向けて下さることを願い求めて、「祝福してくださるまでは離しません」という気迫を持って、神様ご自身と格闘していくことなのです。神様を信じる者にはそのことが許されているのです。神様はそのような私たちの願いに応えて、祝福のみ顔を向けて下さいます。勿論それはそんなに簡単に右から左へというわけにはいきません。神様の祝福のみ顔を見ることは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」という驚くべき体験なのです。またヤコブはこの神様との格闘において腿の関節を打たれて足を引きずるようになりました。神様の祝福のみ顔を見るというのは、決して楽な、簡単なことではありません。しかし神様が祝福のみ顔を向けて下さるならば、人間の思いにおいては到底得られないと思っていた和解が得られるのです。どのような贈り物をしても相手の心を変えることはできないと思われる状態の中で、しかし神様が人の心を変えて下さり、和解が、敵対関係の解消が与えられるということがあるのです。 わたしを見た者は、父を見たのだ  神様の祝福のみ顔は、主イエス・キリストにおいて今私たちに向けられています。本日読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第14章の9節で主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われました。7節にも、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」とあります。神様の独り子イエス・キリストは、私たちに父なる神様を知らせるために、父なる神様の祝福のみ顔を見せて下さるために、この世に来て下さったのです。ヤコブは、神様の祝福のみ顔を見るために、腿の関節を痛め、足をひきずるようになりました。しかし私たちにはそんな必要はありません。主イエス・キリストご自身が、私たちに神様の祝福のみ顔を見せて下さるために、十字架にかかり、苦しみと死とを、私たちの代わりに引き受けて下さったのです。この主イエスの十字架の死と復活とにおいて、神様は今、私たちに祝福のみ顔を向けて下さっています。主イエス・キリストこそ、私たちが神様の祝福のみ顔に出会うための道であり、その祝福の真理であり、そこで与えられる命なのです。神様は私たちが祝福のみ顔を見るために、主イエスという道を与えて下さいました。この道を通らなければだれも父のもとに行くことはできない、つまり神様の祝福のみ顔と出会うことはできないのです。私たちは、主イエス・キリストという道を通って、即ち主イエスを信じ礼拝する者となることによって、主なる神様の祝福のみ顔を仰ぐ者となることを、切に求めていきたいのです。>(~説教「神の顔を見る」)横浜指路教会  www.yokohamashiloh.or.jp

 ヨハネ14:9……やっぱりここにくるか・・・って感じです。どうしても彼らはこの聖句を実体的に解したがるのですが、それは信徒に化身的誤解を与えかねません。イエス・キリストは神の化身ではないのです。ヨハネ1:18と矛盾するので、ヤコブが格闘したり顔を見た相手は神ではあり得ないのです。もし矛盾をおしてでも神だと言うなら、そしてそんな物語も誤りなき神の言葉たる聖書に書かれている以上、非神話化せずにまじに受けとるなら、新約において父・子・聖霊の三一神として啓示される神は、アブラハムを訪ねた三人の客人のように、旧約では等身大の人間の身に化するような、御使いと区別がつかない存在として信仰されることになるでしょう。これは実におかしなことです。本多峰子さんの論文を読めば、それがおかしなことでもなくなってきます。

<神は、E資料では、J資料よりも権威的で、たとえば、人間に語る時も、「幻の中で」(15:1)、あるいは「天から」(創世記20:3、20:17)、などとあるように、一段上から啓示的に語りかける。人間は神に問うこともあるが(15:8)そこでもやはり、神はJ資料でよりも権威的なのである。そして、P資料になれば、そうした権威的な神の姿は決定的となり、神は人間に語る時も、一方的宣託によって人間に語る(割礼の聖定など 17:10-14)。神は全能であり、無からの創造を行う天地創造の神(創世記1:2-4)であることが強調される。(中略)

実際、ヤハウィストの描く神は、おおらかで、神人同形的とさえ言える。P資料による「創世記」冒頭の天地創造が、もっぱら神の言葉により、全能の神の力を強く印象付けるのに対し、ヤハウィストが描くアダムとエバの創造は、(中略)見えるようである。エバの創造も、そのように、目に見えるように描かれている。(中略)ヤハウィストの神は、人間に問いかけ、人間と会話を交わし、時には(老いたアブラハムとサラのところに、子供が生まれることを告げに来た3人の人のように(18:2-15)、人間の姿に身をやつして現れる。(中略)アブラハムは100歳、サラは90歳で、子供が生まれるという。その知らせを聞いて、「サラはひそかに笑った」。その後の会話は、超越的絶対神と人間の対話というには、あまりにも人間的である。(中略)ヤハウィストの描く世界は、かなり、異教的な要素がのこっており、それが必ずしも罪と見なされていない。(中略)とりわけ、ヤコブは祝福を願ってやまなかった。(中略)欠点に満ちた人間であってもその生涯の重要な点で彼が体験した神との出会いにおいて彼が取った態度の正しさゆえに、彼は、イスラエルの祖となるのである(中略)ヤコブは、「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」(32ー31)と言っており、自分が会ったものが神であることを知っている。だから、この、名前を聞く、という行為は、名前を知ることがすなわち相手に対する影響力を持つことであるという民間信仰に基づいた行為であろう。相手が神、あるいは少なくとも神的な力を持ったものであることを察知していた者の行為として、これは、非常に大胆に思える。しかし、相手が祝福を与える力を持つ聖なる力を持つ者であることを直感的に感じ取り、そう感じたからには絶対に相手から離れず、名前まで尋ねて祝福を勝ち得ようとする態度が、ここで肯定されていることは間違いないであろう。>(~「ヤハウィストの神 ―― 旧約聖書のはじめの神観 ――」)
 ちなみに、アムステルダム国立美術館に、バルトロメウス・ブレーンベルフという画家の1639年の作品で「天使と格闘するヤコブ」と題された絵があるそうです。以下、知恵袋の回答で並木浩一氏の言葉を引用しているdolさんの投稿から孫引き的に引用します。ちなみにここでB・Aになっている人の回答は、私はまったく興味ないし信用していません。

< さて問題です。「目に見えない神」を「見る」とは、どういう意味でしょうか。目に見えないのだから、モーセやエリヤのように、岩陰に隠れたり顔を覆ったりする必要はないはずです。「見たら死ぬ」って、どうせ見えないのですから。 にも関わらず、彼らの言動や、旧約編者の筆致は明らかに「神が見える」ことを前提としています。見えるからこそ、見ないように顔を覆わねばならないのですよね。 見えないのに、見える神。元 ICU 教授の並木さんは「可視と不可視の間の次元」という面白い言い方をします。神は人の認識を超えた所におり、それゆえ人には見えない。むしろ、認識を超えたものを見ようした人は死ぬ(このように神の超越性を強調するのは祭司神学の特徴とされますが、今は踏み込みません)。 一方で、神は自由に自分を顕現させる。風として、炎として、地震として、雲として。しかしそういう自然物の媒介なしに、神が自分を人に見せようとする場合、人が認識できるよう何らかの「かたち」を伴わせる。民数記 12:6-8 を丁寧に読み直してみて下さい。 ――もしお前たちにヤハウェ預言者がいるなら、私は表象(別訳:幻)で彼に知らしめ、夢で彼と語る。だが我が僕モーセは違う。我が家の全てにおいて彼は信頼される。口から口へ私は彼に語る。表象を謎によってではなく、【神のかたち】を彼は見つめる。 「口から口へ」、神との直接のコミュニケーションが許されたモーセ。その彼をして「見つめる」ことが許されたのは「神のかたち」です。 これは神が人のために用意したもの。神が人のためにへりくだったがゆえに、同じように神と人の前に最も謙虚であったモーセは、神を認識する。「神のかたち」は可視の次元ではなく、不可視の次元でもない。その狭間にある心の次元とでも言うべき、神と人とが交わる所にある。 これが死海文書および新約では「心の清い者は神を見る」という表現になります。>聖書について。ヨハネ1:18「神を見た者はいない」、出エジプト33:20... - Yahoo!知恵袋

 

もう1つ、神を見ることに関して、ちなみに…引用しますが、これは独自の聖書解釈からキリスト論および三位一体論に関して発言した一人の信徒医師、小田切信男氏の著書からです。

< ブルトマンは明らかにヨハネ伝の「受肉」の思想を対ドケティズムと主張しております。なお、私自身質問致したいことは、このような肉体を持つ人間存在が聖書テキスト上「神」と呼び得るかということであります。聖書の神観からは肉体を持った神――「人である神」といった思想は見出せません。また、聖書の思想、そしてイエスの思想によれば「神は見えない」存在であります。このことは当然肉体を持つ神という思想を打ち砕き、また、同時に神が受肉するという思想を否定しているものといえましょう。これらのことから結論としていえますことは、イエス・キリストは先在した「神の子」の受肉者であって、受肉という言葉の示すように肉体を持っており、それ故、当然目に見える存在であります。それ故、「神の子」とはいえても「神」とはいえないということも当然なことと存じます。しかし、「神」でないが「神と等しい神の子」であるということが聖書証言であり、福音形成の中心点であると存じます。>(~『キリスト論・ドイツの旅』〔紀伊國屋書店〕p163)

このような問題意識は私も思弁的には共感しますが、信仰生活からは離れた思考なので、程々に参考にしたいと思います。小田切氏は神学的には素人なので、内容的には専門家から論外とも言われるようなことかも知れません。但し、交流した八木誠一氏や野呂芳男氏などの著名な神学者から一定の評価を受けてはいるし、論争の相手になった正統主義的立場の神学者である北森嘉蔵氏は小田切氏によると、三位一体論というのは、「アリウス主義に当面して教会が止むなく展開せしめた」ものであるそうで(~『キリストは神か』〔待辰堂出版〕第6章「北森教授のキリスト論」)、三位一体論はアリウス主義の出現により主流派教会が「止むなく」、つまり消極的な動機から展開した旨の発言をしたそうであり、その点は北森氏が『日本基督教団福音主義教会連合』誌に(いつだったか忘れましたが…)掲載された記事において、ニカイア信条成立におけるアリウスの中間派に対する根回しを「きわどい」と表現したことを想起させますが、北森氏は著書において、<エスの神性をも形而上学に属する実体概念たる「本質」と結びつけるよりも、関係概念として考えなければなりません。関係概念は具体的に言えば「愛」であります。「イエスは神である」という信仰告白は、神の愛という見地から今日考え直されなければなりません。イエスが神であるという信仰告白は、イエスの愛が、とうてい人間の領域に見出され得ないものであるという告白から生まれてきます。(中略)関係概念においてイエスの神性を考えるということは、古代から中世の神学ではきわめて困難であり、それが自覚的に明確化されたのは、プロテスタントの神学においてであります。>と述べているので(~『神学入門』〔新教出版社〕p63~64)、すくなくとも古典的三位一体論というものは現代の神学において積極的意義を持ち得なくなっていると察せられます。それならばキリスト教界が、実体論的解釈以外の三一論を展開する立場を認め得る余地はあると思われます。倫理的・実践的にも、古代教会の信条および教義に合致しない考えはすべて「異端」の烙印を押して排除するというような時代ではもはやないとするのがキリスト教徒として妥当な現状認識でしょう。

 話はガラっと変わりますが、小田垣雅也氏が共感したとみえる、ヘブライ的父権主義を痛烈に批判するフェミニスト神学にも、ヘブライ的神観と通じる部分があるとするなら、それは、非対象性とか動詞性といったことでしょう。

<メアリー・デイリーは、この「全体なるもの」は認識の対象としては存在しないから、フェミニスト神学は「無の神学に直面する実存的勇気を必要とする」とまで言っている(Daly, op. cit., p.23)。そしてまた、この無としての神は、名詞ではなくて動詞であると言う。神を名詞とすることは、神を対象化するということだからだ。対象化された神とは、フォイエルバッハが言った通り、人間の自己の反映である。しかもデイリーによれば、この動詞は自動詞であって、自分の動詞としてのあり方を限定するものとしての目的語をとらない。とにかくデイリーの理解によると、近代思想の特徴は「二元化―具象化―客観化症候群であり、それは父権制的意識の特徴であって、『他者』を、失われた自己の内容物の貯蔵庫としたのであった」。>(~説教「母の日」 ※太字は自分による。)

 

 

Ⅱ.「キリストは真に神」を認める必要性について。

 

A. 人類の原罪認識によるキリストの神性の必要と、聖書的厭世観による再臨キリスト信仰

 

私がキリストに超越性(という意味での神性)を認め得るのは終末信仰における「再臨待望」においてです。それは自分の終末信仰が厭世観によって否定媒介されるからです。日常生活においては厭世など感じている暇もなく、とにかく生計を立てることにあくせくしながら過ごしているわけで、そんな意識においては特にキリストが「真に神」である必要を感じません。いずれにしても「キリストは神である」という信仰告白は自分にとって賛美表現であって実体的な意味は皆無ですが、終末信仰が浮上してこない平生はなおさらそうなのです。父なる神さえ存在しておられれば、その聖定さえ信じられれば、それで救われるからです。

…という意味は、私にとっての霊魂の救いは贖罪により死後に永遠の生を得るということより、創造主の存在とその定めにおいて自分の人生がどんなに悲惨であろうとも人格的意志にもとづく意味があると信じ得ることだからです。創造主によって責任を担われる人生であるなら、その内容がヨブではないが如何に理不尽なものであっても死ぬ前に、創造主が天地の創造時に言われたように「よし」と肯定することができると思うのです。

一方、歴史的現実においては、イエス・キリストは「真に人」以外の何者でもありません。超人でもなければ宇宙人でもなく、天使でもなければ悪魔でもなく、ましてや神の子とか神ではあり得ません。但し、それは実体的、存在論的な意味においてです。聖書の福音を信じることによって救われる道においては、歴史的現実においてはあり得ないこともあり得ることになります。それもまた広い意味では、生きるための必要に迫られてのことです。

そこでまず、故・小田垣雅也氏の回心に関する文章を引用させて頂きます。

< わたしはイエスが神の子であり、十字架上での死から復活して天に昇り、自分が神の子であることを証明した、などということが信じられませんでした。これはいまでも信じられません。史実として信ずるなどは、論外です。キリスト教信仰が言うように、それを信じて救われたいと思っているのですが。しかし、この「信じられない」ということが、人間(の分別知)にとって当然のこと、少なくとも現代を生きている、このわたしという人間にとって、それ以外に仕方がないこと、であるならば、たとえキリスト復活の信仰を持てなくとも仕方がないと思いました。そしてそれは仕方がない、当然だという意味でそれは許されるはずだという、大きな肯定を、十字架につけられた神の子の「死」ということがまぎれもなく象徴しているということに、あるとき、突然気がついたのです。これが絶対他者である神の子の否定でなかったら、そのような効果はありません。相対的なものの否定は、もともと相対というあり方の中に否定は含まれているので、相対の否定からは何も出てきません。そしてこのことが、神の子の復活ということではないか、と思いました。このことは復活を信ずることを諦めたとき、逆説的に信仰に目覚めたと言えるかもしれません。だから後年、すでに引用したエックハルトの「信仰にとって最も邪魔なものは、信仰を求めている人間のその心だ」ということも理解できました。またそのことは、理性とか分別知の問題ではなく、信とか悟り、ないし無分別知の問題であることも分かりました。これがわたしの復活体験です。>(~説教「復活について」)

小田垣氏が頭では史実と認め得ないイエスの「復活」という出来事を、観念的であれ自分の中で信仰とつなげようと苦闘したおもな理由は、やはりパウロがコリント一15:12以下で、コリント人の主張を誤解している可能性はありながらも(…この点は岩波版〔青野太潮〕訳の注四を参照)、復活信仰の必要性を説いているからでしょう。イエスの「復活」は、非神話化するにしても史実と同等の意義付けが出来ないと、キリスト教徒としてのアイデンティティーが成り立たないからです。すなわち「救済史」を一般の「歴史」と同等以上に尊重する立場が求められるのです。小田垣氏の特異の言い方で言えば、「歴史」と「救済史」あるいは、「ヒストリエ」と「ゲシヒテ」との「二重性」ということです。その二重性には、滝沢克己氏の「インマヌエル」思想のように、「不可分・不可同」のみならず「不可逆」の関係性が認められるのです。

私にとっても、イエスの「十字架」は史実であってもキリストの「復活」は史実ではないので、信仰心に迷いを感じることがありました。それで参考になるかと思って上記の小田垣氏の回心体験の省察を読みましたが、「分別知」とか対象論理を相対化するという極めて観念的であって、歴史的社会的現実状況が捨象されているので、参考にはなりませんでした。人は実際問題、「分別知」なしには生きてゆけない(……鈴木大拙氏などが言う「無分別の分別」なんか一般庶民の生活には非現実!)と思うからです。

無論、イエスの生涯における受肉も復活も昇天も史実とは認め得ないのは私も同じであり、神話的世界観で生きてはいない現代人なら当然のことです。それでもなお、イエスという人物の超越性すなわち神性を信認し得るのは必要に迫られるからです。どんな必要かと言えば、人類の悪魔性からの救済の必要です。そしてそこでは、人間が原罪ゆえに造り主である神の前にへりくだるべき有限存在であることをあらためて自覚させられ、それがひいては、聖書に対して歴史的事実をどこまで求め、非神話化をどこまでなし得るのか…という問題にぶつかります。バルトやボンヘッファーなどのインテリが、聖書解釈における非神話化を伝統的キリスト教信仰に支障をきたさない程度にとどめ、科学的合理性にとらわれず自由主義神学に行かず、伝統的な福音理解を維持した理由もそこにあるのではないかと思われます。ただし、キリスト教信仰は自ら主体的に十字架を負うてキリストに従うという行為に重きを置く面だけではなく、つねに目を覚まして終わりの日が来てキリストが再臨なさるのを待ち望むという面もあります。そして私見では、キリスト教信仰の本質的態度はむしろ、この待ち望むという受動的姿勢にこそあると思われます。

自分自身が人間らしく生き得るためには、人間の悪魔意識のおぞましさを実感する経験…所謂「地獄を見る」ことにより原罪の深刻さと魂の救いを切実に求める必要があります。わざわざその経験をするという意味ではなく、人生にはそのような地獄や悪魔を感じる状況があり、そこから切実に霊的救済の必要に迫られるという意味です。罪を裁き解放する主(なる神のはたらき)を待ち望むのです。小田垣氏はイエスの復活についてロマンティシストの立場から次のようにも述べています。赤字は自分。

< 新約学者のブルトマンはイエスの復活は神話であり、それは神話の形式で、イエスの十字架上での死という史実の意味を表現しているのだ、と言った。イエスが十字架上で刑死したのは、人々を後期ユダヤ教の非人間化から救い出そうとし、そのことが多くの虐げられた人々を周囲に集める結果になり、一種の社会勢力になって、それが当時のユダヤ教指導者たちにとって危険思想になり、遂に政治犯として刑死したのだという。そのことに対する弟子たちの感動が、復活神話になったのだと。現今、合理主義者であるか否かは別として、イエスの復活を文字通り信じている人は少ないだろう。しかしブルトマンに代表されるようなこの人々の復活理解は少し違うのではないか。ロマンティシズムの見解によれば、たとえば無言館の青年たちの絵が、それとしての欠如と中断をもちながら、ある種の完成に直結しているように、エスという一人の人間の刑死、すなわち欠如と中断の中に、人々がある種の永遠性を見たということ、それが復活ということの現実ではなかろうかと思う。人間イエスの実際の行動の中に、普通の人間の欠如や中断があることは明らかだ。それがなければイエスは単に架空の神の子になる。しかしそれにもかかわらず、イエスは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ、二の七)のである。その普通の人間の中に臨在している神の子性を、イエスの復活という神話で聖書は表現したのではないかと思われる。昔、シュライエルマッハーというドイツの神学者 (1768-1834) は、イエスは単に人間の模範(Vorbild)ではなくて原型(Urbild)であると言った。シュライエルマッハーはロマンティシズムの代表的神学者だが、模範、つまり人間としてのイエスの中に、原型としての、つまり永遠の人間性を見たこと、そのことが、復活節の真意ではあるまいかと思われる。>(~説教「無言館」)※無言館とは、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館。小田垣氏はこの説教の前半でそこに見学に行った感想を述べ、遺作について「未完成即完成」と言っています。

エスの復活を文字通り信じている人は、現代では少ないだろう。ルードルフ・ブルトマンという現代の神学者新約聖書の非神話化論を唱えたことで有名だが、イエスの復活は神話であると言う。新約聖書にはイエスの復活をはじめ、その他にもいろいろな神話がある。神話の中にある不思議な話は、当時の世界観にもとづいたことであり、その当時には不思議な話とは思われなかった。当時の宇宙観によれば、宇宙は天・地・陰府の三階層からなっており、天から天使が、陰府の国からは悪魔がこの地上に出てきて、不思議な業を行っても、それは不思議なこととは思われなかった。だから古代とは別の現代的世界観をもっているわたしたちが、神話を文字通り信じる必要はなく、むしろそれは有害で、問題はそれぞれの神話がその不思議な話で表現しているその「意味」を、わが身のこととして、受け取ることが大事であると言う。それが神話の「実存的」解釈である。そしてその手続きが非神話化論である。イエスの復活に関して言えば、イエスの人々に対する、とくに虐げられている人々に対する根源的な同情のゆえに、多くの人々がその身辺に集まる結果になった。それが新しい宗教勢力になって、当時のユダヤ教の特権階級に自分たちの保身の危険を感じさせ、自分たちの特権を守るためにイエスを捉え、十字架に架けて死刑にした。それが史実だとブルトマンはいう。そしてその史実の「意味」が復活だというのである。十字架刑にいたるほどに神に忠実であったイエスに感動した弟子たちが、当時の世界観では珍しくなかった復活をイエスに適用し、イエスが復活したと唱えはじめ、それが原始教団のはじまりになった、という。イエスの復活を信じた弟子たちがあつまっていると、使徒言行録二章一~四節にあるような聖霊臨降の出来事があり、それによって、それまで神の国を宣教していたイエスが、宣教される者となって、それによってキリスト教会が始まった、とされるのである。そこには次のように書いてある。「五旬節の日が来て一同が一つになって集まっていると、突然、烈しい風が吹いてくるような音が天から聞え、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」これも神話的表現だが、これがいわゆる原始教団の復活節信仰の始まりである。ブルトマンに代わって言えば、この復活節信仰の発生までは史実であった神の国を宣教していたイエスの刑死が、この聖霊臨降によって、その「意味」が分かり、宣教される者となって、キリスト教会が成立した、というのである。このブルトマンの復活の非神話化論は説得的だが、根本的な難点があるとわたしには思える。それはこの聖霊臨降、つまり復活節信仰の発生が、弟子たちの上に一斉に起こった史実として理解されている点である。実際、わたしが学生のころも、「この時点で教会が始まった」と講義された記憶がある。しかしイエスの復活はもちろんだが、それを信じた弟子たちへの聖霊臨降とは、そのような、時間や場所が特定されるような、対象的史実だろうか。>(~説教「イエスの復活」)

私もブルトマンのように復活が史実ではなく弟子たちが宗教体験を通して語った神話であると考えますが、さりとて復活が史実である十字架の意味を表わしているといった抽象的解釈には違和感を抱きます。さりとて、小田垣氏のロマンチックな解釈も抽象的でいただけません。復活はブルトマンが指摘するとおり、あくまでも史実ではなく神話ですが、その意味は十字架刑死という最低の出来事を、父なる神の力によって贖罪という最高の出来事へと変えるための媒体なのでしょう。復活がなければイエスはただの極悪政治犯でした。復活顕現という共同主観が成立してこそ、イエスの十字架刑死が積極的意義を得たのです。たとえ実証的歴史の次元とは別の救済史の次元に於いてであっても、要は、イエスの十字架と復活に対する積極的・肯定的解釈を可能とする以上、福音主義信仰に反するものではありません。むしろ復活を史実として説教することは、実証的歴史と救済史との区別がつかないことを露呈しています。

ところで量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。

<……エス復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち、知的欲求よりも救済願望の方が優るというわけです。それにしたって何故、聖書なのか?キリストなのか…?という疑問が生じます。これについては自己限定と言うしかないです。実存的事実として、自分はキリストと共に十字架につけられて聖書の枠内で生きるようになっているというわけです。救いの必要に迫られたら、客観的な理由など無用です。他人に説明して納得してもらう必要などありません。ただ自分自身で納得できればそれでいいのです。その点で救いには個別的な面があるのです。

聖書における救済史の順序としては新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。従って、この箇所を私なりに敷衍すれば、イエスの神性は切実なる終末救済の要請において認められるということです。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。自分も職場での人間関係における出来事をきっかけとして「社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験」したのです。但しそれは人類が被害者としてというより加害者としてであり、原罪を有つゆえの悪魔性と、それによって生じる闘争関係の地獄的現実の苦しみです。そこから救われるためには、真に人にして真に神であるような超越かつ内在的な救い主を必要とするのです。その救い主であるキリストの再臨が待望されるのです。再臨によって神の支配が普遍的に実現されるからです。これが神の救済の究極です。このように自分が個として体験した人類の原罪性と虚無、そしてそこから救われることへの渇望に伴うイエス・キリストの神性の承認と再臨待望における終末の神の国信仰が、要するに自我が反発してきたオーソドックスな福音主義信仰の特殊性に徹することを通して、宗教の一般的真理を超えて宗教的実存の普遍性に及ぶ…という、これもまた否定的媒介の弁証法が成り立つのです。

 

ところで、自分はこうしている今・現在も心の中に憎悪を向ける敵のような人間がいくらかいて、それらを攻撃する方法を思うことがあるし、その人たちも自分に危害を加えようとしているのではないかという恐れがあります。直接の原因は過剰な自尊心であり、世の中の対人関係トラブルの多くがこれによるものです。私はいろんなところで、その現実を思い知らされてきました。そのたびに人類の悪魔性を感じてはいたのですが、回心の契機になるほどではありませんでした。それが晩年になって「キリストの再発見」という体験につながろうとは思いもよりませんでした。直接、関係ないことかも知れませんが、人間には集団になじむタイプとなじまないタイプがあって、芝居で言えば前者は主役とか脇役など、とにかく集団の中心に近い立場です。後者はいつも舞台の袖に近い周縁的立場です。しかも目立たないで済まされるならよいのに、目立たなければならないことが多々あります。それにより恥を晒されることが最大の苦しみになります。そういう人が不満を抱えて、場合によっては何かのきっかけで爆発しちゃいます。犯罪者や予備軍にはそういう人が少なくないと思います。人は悪魔ではなく、根っからの悪人はヤクザくらいです。

人類の原罪による悪魔性の経験といった否定的媒介によってこそ、史的イエスが宣教のキリストとして立ち現れてくるのであり、神(の子)として信仰することになります。私の福音信仰は現実的救済の要請に基づくのであり、小田垣氏の場合のように頭の中の観念操作によって成立した抽象的なものではありません。

< わたしは自分に回心の体験があったかと問われれば、あったと答えるほかはないのだが、それはこういうことであった。イエスが神の子であるということを信じようとして、わたしは若いころ日夜苦しんでいた時代があった。それに対して、わたしが当時通っていた教会のA牧師が、「それは、真面目な努力であるには違いないが、何と傲慢であることか」と言った。キルケゴールは人生行路を美的段階、倫理的段階、宗教的段階の三段階に分け、宗教的段階を更に宗教Aと宗教Bの二つに分けた。そしてキリスト教の信仰は宗教Bであるとした。しかし宗教Bは、美的段階から宗教Aの段階まで上昇してきた過程をさらに上に昇るのではなくて、むしろすべての下に降りること、ごく当たり前の現実に降りることなのだ、とA牧師は言った。このキルケゴール解釈が適当であるか否かはいま別として、わたしがその時悟ったことは、信仰がすべてのものの下というのならば、わたしがイエスが神の子であるということを信じられないということも含まれているということであった。言い換えれば、わたしがイエス・キリストを信じられないのは当たり前だということである。むしろそれだからこそ、イエスは十字架の上で死んだのだということであった。イエスが神の子であるならば、わたしがそれを信じられない以上、イエスは少なくともわたしに関しては、死んで自分が神の子であることを否定するほかはない。そのイエスの自己否定によって、わたしの不信は認められているということである。しかしその時逆に、わたしはイエスの死の意味、それはわたしの不信のためであったということを知ったのであった。そしてそれが可能であるのは、イエスが神の子であるからだ。(中略)すなわち、わたしの回心が、自分がイエス・キリストを信じようとし、信じようとする決意を繰り返していた間は、常に疑いが湧き起こって信じられなかったということ、その疑いが当然であるといわば諦めた時、信仰についてある種の理解が得られたということである。疑いは依然としてある。その意味では昔と同じである。しかし現実は変わっている。この変化はたしかに決意というような自主的行為によって得られたものではなかった。道元も『正法眼蔵』の「現成公按」の中で「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす」と言っている。逆に「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と言う。このような言葉は、わたしの上記のような体験から読むと良く分かる。万法の方がわたしのところに来て、わたしが何たるかを修証してくれたのである。>(小田垣雅也著『神学散歩』〔虹企画〕p29~30)

この引用文中に「イエスの自己否定」という言葉があり、小田垣氏は「ケノーシス」との関連では「自己無化」という言葉も使っておられますが(~みずき教会説教「ケノーシス説――盛夏所感」)、私はイエス自身がそうしたというより、父なる神によってそうされたのだと受け取ります。イエスをはじめとして人は神との関係においては主体的客体なのです。

※この引用文中に出てくるA牧師とは、当時、代々木上原教会の牧師であった赤岩栄氏です。その赤岩牧師の「宗教B」の解釈と小田垣氏の回心については、以下のとおり『哲学的神学』の中でもふれられています。

<一九五五年一二月一一日に、当時の上原教会の赤岩栄牧師は「基盤から始めよう」という説教をした。その趣旨は、キルケゴールの宗教Aから宗教Bへの飛躍は、美的段階から宗教Aの段階へと辿ってきた経過を更に上へ飛躍するのではなくて下へ飛躍すること、美的段階その他一切を含めた地盤への飛躍であるというものであった。その説教のあと赤岩先生は私をつかまえて「今日の説教は君のためにしたのだ」と言った。そして私はそのことが良く分かっていた。その後、その説教の意味を考えつづけていた数日後、私が当時学生であった青山学院の図書館の窓から外を見ていた時、ふと出会ったひらめきを私は忘れることができない。冬の太陽の光が一瞬にして増したような気がして、私はその時思わず失笑(?)した。回心の体験というものは言葉には盛れないが、敢えて筋道を言えば、それはイエスがキリストであるということをどうしても信じられない自分の状況に対して、「信じられないままで良いのだ」という根源的な肯定であった。だからイエスは十字架の上で死んだのだ、と。私は生まれて始めて安堵した。そして「善人なおもて往生を遂ぐ。まして悪人をや」とか「罪人にして同時に義人」という、その頃すでに知っていた言葉の意味を理解したと思った。この体験は強烈であったし、本性上(つまり論理的、段階的な認識ではないから)それがあったかなかったか、つまりすべてが零かの体験であるから、私は回心の体験が二回あったというような人々 ―― たとえばジョン・ウェスレー ―― の言う回心を信用できない所がある。この体験によって、私は倫理的には主体性とか実存とかいうものを知った。(中略)信じられないという事実のままでそれが肯定されていたということに更に描写を加えれば、次のような言い方になる。イエスが神の子キリストであるということを私が最後まで信じないならば、イエスは十字架の上で神の子たる事実を否定される他はない。しかし否定されたことによってイエスは復活し、神の子たることを示したと。イエスの復活はその死と切り離せない。私がその時生まれて始めて安堵した理由は、その時イエスがキリストであることや、またその証明としてのイエスの復活を信じようとしていた自己から解放されたからである。信ずるという状態が自覚的にあるためには、信じられないという状態がなければならない。それがなければ信ずるということは自覚的な認識にならない。だから信ずるからには、信じられないということも復権させようではないかと言ったのは、当時同じ教会に来ていた椎名麟三氏であった。それにもかかわらず信じられないということを切りすてようとする場合、それは信じられるという事態があるためには本来切りすてることができない「信じられない」という事態を切りすてようとする底のない無限反省になる。それは「真面目ではあるが、何という傲慢な態度であるか」と赤岩牧師は私に対して言った。真相は、復活は死つまり復活の否定と、信は不信と相即的なのであった。>(p90~92)

説教に戻ります。

< わたしの回心の経験を話してみよう(何回も話したが)。わたしは一九五八年の一二月の一0日に、イエスが神のひとり児だ、そして死んで復活したのだ、などということが信じられなくて困っていた。そのときフトと考えた。わたしが最後までそれを信じられないのならば、イエスは死んで、自分の神の子性を否定するほかはない。その承認がイエスの復活の意味だ、と。復活にはイエスの自己否定が予見として含まれている。そのとき、わたしが通っていた図書館の窓から見ていた冬の日が、一瞬、光度を増したように思われた。わたしは、何か「心の奥の奥」が分かったように思われたのである。>(~説教「A  精神科医師」)

何回か書いたことがあるが、わたしは回心の体験があるか、と問われれば、「ある」と答えざるを得ない。しかしそれは不信を切り捨てて信の生活だけになったというものではないのである。わたしも人並みに、キリスト教の信仰をえて(キリスト教には限らなかったのだが)、イエスが神の子キリストであると信じ、生の安心をえたいと思っていた。わたしがその頃通っていたのは、家の近くのM教会で、そこの牧師は、説教家として海外にも有名な、K牧師であった。だからそこで信じられなければ、他のどこでも信じることはできないと当時わたしは思っていた。たしかにK牧師の説教は迫力があり、わたしも、もう少しで信じられるように思ったが、その最後の一歩が、どうしても踏み出せないでいたのである。今にして思うと、K牧師の聖書解釈は、自由主義的聖書解釈であったと思う。たとえばイエスの山上での変容(マタイ伝一七章一~一三節、およびその平行記事)は、イエスが、その地方にしばしば出る環状虹と重なったのだとか、イエスが湖の上を歩いたのは(マタイ伝一四章二二~三二節、およびその平行記事)、ガリラヤ湖は遠浅で、それに葦も生えており、そう見えただけだ、というようなものであった。しかしそのことと、キリスト教信仰は別であろうとわたしは感じていた。それにしても、そういうK牧師の話を聞いたときの感動は忘れ難い。その後わたしはM教会を退いてU教会に移り、そこのA牧師の話を聞いているうちに、あるとき(日時も示せるが)ふと、回心を体験した、というのが真相である。しかしその回心とは、イエスが神の子キリストであり、奇跡も信じられるようになったというのではない。わたしはイエスが神の子キリストであり、数々の奇跡を行ったというようなことは今でも信じられない。だからM教会でのような、自由主義的聖書解釈も、それで万事解決するためには、最後の一歩が踏み出せないでいたのである。わたしの回心というのは、「それでもいいのだ。その信じられないという事実を持っていることが、人間にとって自然なことなのだ。そしてわたしが信じられないことが、イエスの十字架上での死の必然であり、わたしが人間の自然さ――「当たり前」という意味で、この「しぜんさ」を「じねんさ」と言う場合があるが――に立ち返ることが、復活ということの意味なのだ」という大きな肯定に気がついたのである。このようなイエスの死と復活がある限り、無理に信じようとする最後の一歩を、自力で踏み出すことなど、もともと必要なかったのだということに気がついたのである。そのような、不信を本性、内に含んだ信、信即不信の両義的な信が、わたしの回心の体験と言えば体験である。それはふとした、しかしそれだけに決定的なことである。決定的なことは、いつもふとした風情を持っている。だから信仰とか回心というものは、信対不信の両極勢力の、一方である不信を切り捨てることではないのではないか、と思うようになった。>(~説教「信と不信」)※A牧師が赤岩栄氏。

私個人の「回心」は、このような高度に観念的な体験ではなく、主観に違いはなくても共同主観としての福音主義信仰につながる個人的な体験でした。それは、現実社会の出来事の経験を通して人類の悪魔性からの解放および個々人の霊魂救済の必要性を切実に自覚することにより、キリストの超越性(=神性)への信仰が、止揚されて回復した出来事です。これが私の「キリストの再発見」と名付けた弁証法的信仰体験であり、その生活実践が私の課題です。

キリストの「復活」「昇天」「再臨」がなければ、人類に「希望」は無いのです。従って自分自身の人生にもありません。すなわち私は、人類の悪魔性の経験を通して、罪無しとは言え真に人であるイエスが、同時に人を超えた存在(=「神」)でなければならない理由を知るのですが、それは要するに、原罪ある人間が同じ人間を救うことはできないということを思い知ったということです。それが私にとってのセカンドコンバージョン…二度目の回心だったわけですが(一度目の回心の記憶は創造信仰だったとは思うがキリスト論的には定かならず)、小田垣氏の場合は「信即不信」の二重性です。以下、引用します。太字は自分。

わたしは二重性ということをずっと主張しつづけ、そのことを、力を込めて主張してきた。過去三〇年間主張し続けたのはそのことのみであった。それがわたしの信仰である。「われ信ず。信なきわれを救いたまえ」(マルコ伝九の二四)である。これはもともと、その中気の子供の父親の信仰心を前提として、解説が必要ないほど人口に膾炙している聖書の句だが、注意して読むと、原文の「われ信ず」は「信なきわれ」では言えないはずであり、「信なきわれ」だったら「われ信ず」とはいえないはずである。原文でもわざわざ対義語であるピステゥオウとアピステゥオウを使ってあるぐらいである。これはその父親の信が、信と不信の二重性であるということであろう。そして丁度一年位前ごろ、三月の説教で「信即不信を考えるためには、心の芯が必要だが、その心の芯がなくなったようだ」と語ったことがある。しかしそれは、「終始」、「表裏」の存在者の、本質的な関係存在性に悖っているし、何よりも、信即不信は、わたしの回心そのものでもあった。わたしはいわゆる回心をして、その後、神を信じられるようになったのではない。信と不信の両方が、「二重性」として許されているということを、一瞬に悟っただけだ。そのわたしの生きている不信が、イエスを十字架で死なせたのである。それこそが、イエスの十字架の、意味である。またそれは、イエスの復活の原因でもある。その事実に気がついた以上、それがイエスの復活であろう。そのこと以外に、イエスは何処に行くことができたか。これを遠藤周作によると、「転化」というらしいが、「転化」というよりも「二重性」であろう。転化というと、それをキッカケとして物事のリアリティーが変るという意味があるが、二重性の場合、わたしの不信も生きている。>(~説教「恰好わるし」)

上記のとおり、小田垣氏の「回心」や十字架と復活の福音についての理解は極度に主観的かつ観念的であり、御自分の主たる思想が主-客構図脱却の「二重性」云々のワンパターンであることを自覚しておられました。

わたしは二重性ということを繰り返し言っているが、イエスの復活は二重性的な、ある種の「さりげなさ」のものであるように思われる。たとえば復活とは、論理的には「さりげない」ものではあるまいか。ナザレのイエスが、神の子キリストであったという逆説を信ずることが、あえて言えば信仰である。しかし本来論理にはなりえない逆説が信仰の「対象」であるかぎり、信仰の「主体」である人間は、その「対象」から分離され続けている。だから対象は対象としてありうるのである。そしてイエス・キリストという逆説的矛盾は、人間のロゴスの中に取り込まれて、その逆説的対象を信ずるか、信じないかということが、信仰の分かれ道ということになろう。しかし人間のロゴスの中に取り込まれた以上、その折角の逆説も、逆説としての本来の意味を失っているのである。わたしが少年時代、信仰ということに躓いたように、である。つまり、エスが十字架の上で死に、復活してキリストになったという逆説が、信仰の「対象」であるかぎり、それは人間のロゴスの中での復活であり(またはその否定であり)、それは人間の分限をこえた、本当の意味での復活ではないということだ。その場合、復活信仰は虚しい神話になる。だから復活は、復活についての人間の対象論理的信仰が無用とされるときにのみ、復活なのであるエックハルトについてはこれまでに何回も言及したことがあるが、エックハルトの言い方によれば、エスがキリストになったという逆説を信ずるという自分の信仰心の高ぶりを捨てて、その意味で心が貧しくなり(そういう題とテーマの説教がエックハルトにある)、イエス・キリストの復活という逆説を、信仰の「対象」として求めなくなったときに、人間は復活という絶対的逆説の意味を悟るのだと、エックハルトはいう。これは人間のロゴスの終焉である。そして人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。実際、パウロがアレオパゴスで「知られざる神」について話をし、復活について言及したときも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と言ったのであった(使徒言行録一七章三二節)。>(~説教「花吹雪と復活」)

エスの人間を超えた性質…神性についての両性論とか単性論とか合性論といった教理的な事柄は、客観的な説明であり形而上学的思弁にすぎません。自分の場合はこれらを、歴史的現実を踏まえての救済願望に基づく象徴として受けとめます。

それにしても、まずは本人自身の「救済の出来事」が先行していなければなりません。人類の悪魔性の体験は、救済されねばならないと実感した出来事ですが、まずはこれがなければ、自分が歴史上に実在したナザレのイエスではなく宣教されたキリスト……福音書に書かれた「神の子キリスト」にこだわらなければならない実存的理由を得ないのです。赤岩栄氏のようにキリスト教を「脱出」したっていいはずですがそうならないのは、人類の悪魔性の実感とその元凶である「(原)罪」の認識という否定的な経験を媒介してこそ自分は、キリスト教徒であり続ける積極的な意味を得られるからです。…と言うかそれ以前に、自己というものを実感するには「我思うゆえに我あり」では不足であって、「我痛むゆえに我あり」と否定的媒介によってこそなのです。

< 「前提」は一言にしていえば問いであった。〔※「問い」の各文字に傍点あり。〕 これに対して「現実」は答えであった。〔※「答え」の各文字に傍点あり。〕 そこで問題は、問いと答えとの関係になる。問いと答えとの間には一般的にいえば、問いより答えへという方向が成り立つ。問いが先に来たり、答えが後に来る。救済の論理においてもこの一般的な方向が一応は成り立つであろう。それなればこそ、「現実」の前に「前提」が語られたのである。しかし救済の論理においてはこの順序はあくまで一応のことにとどまる。〔※「救済」の各文字に傍点あり。〕 本来的にいえば救済の論理においては、救済の現実が先であって、これによって始めて救済の前提がその真相に徹して明らかとせられるのである。〔※「現実」の各文字に傍点あり。〕 すなわち、救済の論理においては、答えが先であって、問いはこの答えの光によって始めてその真相に徹するのである。>(~『救済の論理』p58)

よく、夢を見ているのではないかと思えるほどに幸福感に満たされると、人は自分の頬をつねるなどして痛みの感覚によって現実であることを確認しますが、それは自分が自分の実体を苦痛という否定性によってこそ感得し得るという事情があるからなのでしょう。

 

B. 自分探しはキリスト探しの発見なしには終わらない

 

自分探しなんかする人は苦しんでいないからそんなうつつを抜かせるわけで、苦しみの中にある者はイヤでも自己を感じざるを得ません。むしろ自己から逃れたいくらいなのに…です。

哲学者や社会学者の影響で自己はラッキョウやタマネギのように芯が無い者だとか、仏教の無我説などの影響で実体が無い者だとか、そういう関係主義に偏向した言説に囚われてわけがわからなくなっている人は、簡単に自己の存在を確認できる方法があるよ…自分を身体的に痛めつければいいんだよ…ってことです。そうすれば生命の尊さもわかるし、その生命を与えている他力のはたらきにも意識が及ぶでしょう。

ところが自分が何者かわからない…なんて呟いている人は、自分を自分で擁護し、甘やかしてばかりいるからわからないのです。特に、若い時は苦労は買ってでもしろと云うのは、自分をちゃんと何者であるか自覚して、個人として社会の中に位置づけるために必要だからでしょう。現代人の精神問題の多くはテレビ番組に起因していると思われます。

ところで小田垣雅也氏は、みずき教会での説教「自然と個人」で(…このように「説教」と言っても題からして講演的であり、内容も哲学的評論めいたものが多く、小田垣個人の方言といった色彩が強いので普通のキリスト教の「説教」ではないことは明らかだし、礼典なしのみずき教会が通常の意味での「教会」ではなく、また聖書をちゃんと講解するわけでもないので無教会的集会でもないことは、実際に行ったことがある自分にはわかっています)、「自然と自我の、どちらも必要なのだと思う。そしてわたしは思うのだが、わたしはこれまで、そのことを、強調してきたと思う。自然と自我との止揚、その関係性が大事であると言ってきた。」と述べています。そして、「佛教の悟りとか、キリスト教の信とは、非常に個人主義的なもの、むしろ個人主義または主体性が、信や悟りの本質であるようなところがある。集団的回心とか悟りというものはない。むしろ集団的論理、つまりイデオロギーになることを拒否するところが、信や悟りにはある。しかし関係の中に生きるということは、自我の消滅ではないのである。その自我を離れることである。自我を離れても、自我はなくなりはしない。自我はかえって、そこに生き返る。」と言い、「自我を離れる」ことによって「自我に生き返る」というのは弁証法的な言い方に感じられます。「関係性」と「個人」との関係については「わたしは論理的には、関係性の中に個人を位置づけているが、しかし関係性そのものは、個の存在を前提しているものだ」と言い、すなわち「自然」と「自我」との関係については、「同格」だと言っています。

小田垣氏は「近代的自我」は「駄目」と否定しながら、宗教的な自我を語っておられるようです。その自我は実体として静的に安定するようなものではなく、むしろ関係の中で個人の主体性となる動的なものだと思われます。かつて上田閑照氏の『私とは何か』(岩波新書)を読んだことがありますが、誰かが書いた本でこの上田氏の「私・自我」論が関係性の網の中に解消されているといった趣旨の批判がなされていたことも記憶しています。それはともかく、この上田氏の自我論は小田垣氏にとっては共感するところが多かったのではないかと推察されます。私は読んだけど表現などは憶えていないので、案内サイトから引用します。

<『私とは何か』で上田は、私という事態を「私は、私ならずして、私です」という運動と捉えることを基盤に、自我と自己、自覚と自意識、無我、コギト、私と汝といった、哲学が問い続けてきた問題を思索していく。観念的な思索に留まらず、ルターや山頭火など実在した人物の生き方を通して、私という事体を徹底的に考察していく。自分探しがもてはやされているが、上田はどこを探しても「私」などというものが見つかるはずもなく、自分探しでいうところの「私」というものは、たとえば長年田畑を耕してきた農民が、田圃の中に立っている、その姿に自然と現れてくるものだ、と言っている。「私」とは見つけるものではなく、生きるものなのだ、と。>

「私」とは何か - 新書マップ (shinshomap.info)

 この最後の、<「私」とは見つけるものではなく、生きるもの>という言い方は、小田垣氏が「人格神・絶対他者・絶対無なる神」について、西谷啓治氏の、<「無という『もの』(つまり、主観―客観構図における、有の対象概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉 >(~説教「復活について」)によって、「そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえ」、「絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者」であるということが分かったというエピソードを思い起こさせます。「神・絶対他者・絶対無」が対象ではなく、自ら主体的に「生きられうる」ものであるように、その主体であるところの「私」・「自分」というものも「見つける」とか「探す」対象・実体などではなく「生きるもの」だからです。これはイエスが「隣人」について語ったことにも通じます。イエスに「隣人とは誰か」を問うた人は「隣人」というものを対象としてとらえたのですが、イエスは「隣人」とはどこかに見つけられるべく在るものではなく、自ら「隣人となる」べきものだったのです。これも「隣人」を生きるということで、実体ではなく主体ということです。そこで北森嘉蔵氏の観念的名言「要するに実体(Substanz)としてではなく主体(Subjekt)として把握される時のみ、キリスト教は福音となる。」が想起されるのです。

小田垣氏の説教「自然と個人」に戻りますが、小田垣氏は自我論からユーモアの話に進んでゆきます。このあたりがまさに観念的思索者の自由気ままな散歩的展開なわけですが、私は小田垣氏にはほとんどユーモアらしきものはいっさい感じられませんでした。むしろ気難しそうな、でも面白い考えをする哲学的紳士といった感じでした。ところが以外にも小田垣氏本人はかく言われます…< わたしは哲学が嫌いだ。それは「そう考える自分はどこにいるのか」という意味での「具体性」の次元とは別のところ、つまり思念の世界で思考されているからである。>(~説教「海軍と陸軍」)

ところで 岸田秀氏によれば自我とは実体ではないのに実体だと思い込む幻想ということになります。自我は自我よりも広大なるエスという領域に脅かされているので本質的に不安定なのだそうです。それで自我を安定させるものとして宗教も営まれてきたようです。しかし自我が安定することはないし、ましてや「神」を人格的存在として実体化している限りは無理です。「絶対者」とか「超越者」とか言っても逆に相対化され内在化されるだけです。さりとて仏教的に無化し、非対象化すればすむ話ではありません。「神」自体は非対象化して有神論から無神論にしても必ずしもニヒリズムに支配されることはないでしょうが、神の「はたらき」は、体験を経験化して省察しなければ認識になりませんので、方法として対象化し観念化する必要はあります。そうすることによって、ある種の宗教性を維持することはできるでしょう。その意味は観念ではなく実質として人間を超えた「絶対」性とか「超越」性というものを認め、これに人間が謙虚に生きるように出来るということです。従来のように「絶対者」であり「超越者」である人格神の存在を強調することによっては、その実質を維持することはできなくなっています。その理由は科学との関係です。科学の発展は宗教に対してある変容を要請しています。一神教においては、関心の対象を実体としての「神」から関係としての「はたらき」へシフトすることです。八木神学ではその場合、「神=はたらき」と解される面がありますが、私は「神≠はたらき」という不可同・不可逆の区別を維持したいと思います。それはたしかに従来の実体的・人格神への信仰を前提としますが、その神観には囚われないという意味で、実質的にはそのような有的信仰を無化します。しかし「神の死」を主張したり「神=はたらき」とすることは、有神論的信仰に慣れてきた者にとっては一挙に虚無に陥るような恐怖を与えることになります。だから「神」そのものへの関心は減退させても、その「はたらき」が宗教的特性を有することは観念的に持続される必要を感じるのです。それはまさに観念としてであり、現実には「はたらき」に「神の」も「人の」もなく、他力的に体験され経験化される現実がすべてです。しかしそれは経験化される場合、「人の」ではなく「人を超えた」ものとされなければなりません。そうであってこそ人の救いになるからです。人のはたらきが人を救うとしても、それは決して究極的な救いではありません。そこに原罪の問題があります。この点を抜きにしては宗教性の維持などはあり得ません。そして宗教性(というか霊性)の維持なき「はたらき」などは魂の救済とは関係ないので(災害救助も否定的媒介としての肉の救済)、これでは人間の苦しみは永遠に解消されず、イエスが告知した「神の国・神の支配」の実現を待望することにはならないのです。

とにかく、小田垣氏のように頭の中の観念操作だけで人生問題に処してゆくことは無理があります。ひとつ間違うと病気になるでしょう。…というかすでに病気になっている人が頭の中だけでやろうとするのかも知れません。小田垣氏は「富士山」をめぐって「観念的」と「観念論的」との使い分けも示してくれています(~説教「マッターホルンと富士」)。

内村鑑三は聖書的信仰を「実験」の比喩で語りましたが、これは聖書に記されている…特にイエスの奇跡的行為を合理化するための思考実験…というような観念的な意味ではなく、聖書に書かれているイエスの命令などを、自分の生活の中で実践してみるということだと思います。

私の場合は、聖書に書いてあることを事実確認することにはあまり関心はなく(…奇跡物語などは現実に起きたことだとは信じていないし、救われるためにはその必要もないと確信しているので…)、戦争であれ事件であれ何であれ人間の心に潜む悪魔性を思い知らされて震撼し恐懼する実体験を通して聖書の福音…特にイエス・キリストの出来事を受けとめるということが肝要だったのです。そうでなければ、私においてはイエスを神であると信じ告白するなどということは成り立ってこなかった…ということです。しかもその体験は、歴史の終末的救済につながるからには、個人的な体験にとどまらず、人類に普遍的な問題として感じられる体験でなければなりません。すなわちそれが「(原)罪の贖い」という、キリスト教の福音信仰の核心です。人類がこの「(原)罪」から救われなければ自分個人も救われないのです。そこからキリストによる「贖罪」の必要性が実感されます。

私も「キリストの再発見」と名づけた信仰体験によってイエスを神であると告白できるようになったのですが、無論、その場合の「神」は実体的意味で言うのではなく、すなわち歴史上の人物であるナザレのイエスの個体が他の人間を超えた神格としての絶対性を有していたなどということではなく、あくまでも実存的な意味での超越者なのであり、人類全体にとっては「救い主」であり「真に神」なのです。イエスを実体的な意味で「神」と信じることは聖書的と言えないことについては、北森嘉蔵氏でさえ述べています。すなわち、古代~中世教会の神学における形而上学的傾向を批判し、イエスの神性は形而上学の実体概念たる「本質」と結びつけるのではなく関係概念たる「愛」と結びつけて考えるべきことを指摘していることから察せられるのです(~『神学入門』〔新教新書〕p62~66頁参照)。

それにしても何故、よりによって救い主はイエス・キリストでなければならないのか…?と問うと、またもとに戻ってしまうのでやめましょう。救い主は人間を超えた無原罪者であればよいわけで、キリスト以外にもあり得ると言えばあり得るのですが、それはあくまでも理屈です。実存的には、前述のとおり自己は限定・規定されているので、聖書全体から示される救い主は、自分にとって誰か?ということになるわけです。すると、自ら人として生きたイエス・キリストということになります。そしてキリストを発見した者は、そのキリストを通して父なる神に生かされている自分自身を発見するのです。こうして自分探しの長い旅は終わります。

 

C. 「二重性」の現実認識

 

 冒頭から批判した小田垣雅也氏については、それ以上に敬服する深い思索があることも知っています。私自身、その影響を受けている部分があり、以下、一例となる文章を引用します。

赤字は自分。

<わたしはこれまでの「二重性」の立場を超えて、言い換えれば、原事実の「絶対無」性を超えて、本当の信仰(哲学ではなくて)、覚とは何かということを考えたいのである。やはり信ないし覚の根底は、インマヌエルの現実と、それをキリストにおけるその歴史内での顕現の、つまり滝沢がいう第一義の接触と第二義の接触の現実の承認ではあるまいかと思う。つまり二重性の承認である。これがキリストの特殊性ということの承認ではあるまいか。キリスト中心主義か否かという事態を超えた原事実にそうものではあるまいか。つまりバルトは、滝沢の批判にも拘わらず、正しいのではないか、と思う。そしてバルトのキリスト中心主義の立場を、宗教哲学の問題としてではなく、信仰の立場に立って擁護したいと思う。この立場は説教『お守り札』『人格神』以来わたしが追及してきたことでもあるが、そのことを考える前に、普遍は唯一、の中にあるということを考えたい。滝沢の「原事実」であるが、それが決して対象論理的認識にならない以上、認識としては、それは唯一性の理解になる他はない。超普遍者という、個に対向した観念性ですらない。概念化される以前の「普遍なるもの」は、それは概念化され一般化される以前のものなのだから、その理解は唯一なものである。もう少し説明すると、本当に「普遍なるもの」は、説明としてそれは決して「特化」され、対象になることはない。つまり対象論理化されることはない。対象になったら、それと並ぶ対象がある。それは同列に並ぶものがないという意味で、唯一である。その意味で、本当に普遍なる者は、唯一である。そのことは歴史的・時間的表現と切り離せないが、それらがその唯一を観念になることから救っている。汎在神論の教えるところによれば、対象とはもともと汎神論的である。汎神論は、あらゆるものの中に神を見る。その神々は同一水準に並んだものである。山の神も、木の神も、水の神もいる。世の中に神々は、対象として沢山いる。対象的思考とは、もともとそういうものだ。一方、汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。それは超・対象論理的な神で、対象論理的に、つまり汎神論的に考えた一つの神を、絶対視するのではない。具体的歴史内での啓示を神とするのであり、それは汎神論的意味での神ではない。そしてその水準でのキリスト教の唯一にして特殊な啓示が、キリストの歴史内での啓示で、それが唯一だ、とバルトは言っているのではない。バルトはそういう意味での、つまり、汎神論の中のキリストの啓示が唯一だという意味で、キリスト中心主義であったとは思えない。このような意味で、インマヌエルの原事実は、それが「原事実」である以上、唯一なのである。キリストを信ずるという唯一性・歴史性に徹することによって、それは普遍的、歴史を超えた真理を明かしているとも言えるキリスト教、というよりあらゆる宗教がもっている自己の立場の絶対性の主張も、そういう水準にその根を持っているのであろうと思われる。それは「無きがごとくに有る」(武藤)のである。バルトがキリスト中心主義に捉われるのも、そのことが問題なのではなかったか。また滝沢が、晩年、バルトの立場を受け入れて洗礼を受けたといわれるのも、そのことが了解されていたからではないのか。つまり、普遍なる神は、歴史化されることなしに、観念的に普遍性を維持することはできないということだ。普遍の対象化は、その時間化・歴史化ということでもある。不可分・不可同・不可逆の立場には(もともとの滝沢の立場)、啓示の歴史性・時間性の問題はない。このように考えることで、わたしのキリスト教の唯一絶対性に対する不可解さ、またバルト神学に対する誤解も、解けたように思う。わたしはこれまで、ヨーロッパにおけるキリスト教文化の圧倒性に戸惑っていたふしがあるが、普遍は唯一の中にあると考えることによって、つまり唯一を普遍だと考えることによって、それは「信仰」としてのイエス・キリスト信仰が(宗教哲学的にではなく)わかったように思うのだ。それは神の啓示には、その時間化・歴史化・対象化の次元も必要だということだ。そのことを、信仰の観念化が救うのである。バルトのキリスト中心主義も、普遍は唯一の中にあるという、信仰の論理によって理解されるべきではないか。>(~説教「インマヌエル」)

終りの方の「信仰の観念化が救う」は「信仰の観念化から救う」と言うべきでしょう。私自身、「神のはたらき」とか「神の力」とか「神の国・神の支配」などを「観念」として対象化し、それを「神」に換えて精神安定の支柱にしようとする危険があります。今までは「神」にばかり意識を向けてきたけど、それは思弁的で無意味だから、これからはその「はたらき」に意識を向けるのだ…それこそヘブライ的信仰なのだ…などと思っていても、結局、何らかの「観念」によって自我を支えているという頭の中だけの自慰的生き方に何の変わりもない…という自己批判があるのです。

小田垣氏は考え過ぎてエックハルト神秘主義に接近してしまうのです。対象論理については『神はどこで見出されるか』(三一書房)で滝沢氏も問題としておられることですが、「普遍」は本来、対象論理を超えているので対象化できないという小田垣氏の指摘はよくわかります。しかしそこまで言うのは現実のキリスト教の信者からすれば考え過ぎなのです。聖書を超えて神学をも逸脱して宗教哲学に入ってしまっています。何事も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」です。実際問題として、人は対象化せずして思考できませんので、「普遍」は対象化される…歴史化される…ということは当然です。

私はそういうことよりも、「キリストを信ずるという唯一性・歴史性に徹することによって、それは普遍的、歴史を超えた真理を明かしている」と言われている点に注目します。ここも表現がおかしく、「それは普遍的真理すなわち歴史を超えた真理」と言う方がわかりやすいです。さらに私なりの言い方に替えれば、キリスト信仰という特殊性に徹することによって永遠の生命という普遍的真理に通じるということです。ここで「徹する」とは実存をかけて「信じ込む」ということだと思われます。ある種の「賭け」ですね。でも勝負ごとの賭けとは違って、ハズレは無いのです。なぜなら生きている限り結果がわかることはないですから。

それはともかく小田垣氏がもっぱら問題としているのは「主観ー客観構図」からの脱却すなわち「二重性」の真理認識です。それは「対象論理」とか「対象的思考」からの脱却でもあり、だから「絶対他者」としての人格神は「絶対無」であり「ただそれを生きられるもの」である……などという考え過ぎに陥ってしまっています(~説教「復活について」)。このようにも総括的に言っておられます。

< 実際、わたしはいろいろな本を書いてきたが、その根本的なテーマは、そのような近代自我に対する反省である。それが主観―客観構図に対する反対ということだ。絶対無だとか、「光と影」だとか、二重性、関係存在、汎在神論、ポスト・モダーン、ノンセイズム云々ということを、それらの本の中で言ったが、これらの表現によってわたしが追求してきたことは、それらから近代自我の孤独さを描きだすことであるといっていい。しかしこのことをはっきり言っておきたいが、そのことも、一つの明確な主張、一口で言えば「絶対無」の「主張」でもあったのである。>(~同、「お守り札」)

ところで、「真理」についての小田垣氏の解説も見ておきましょう。

ヨハネ伝の終わりにはこうある。「そこでピラトが(イエスにむかって)『それではやはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』ピラトは言った。『真理とは何か』」(ヨハネ伝一八章三六~八節)。ここでいう「真理」には、ギリシア語原本では、アレテイアという言葉が使ってあるが、字引によるとアレテイアとは「表現の基礎に横たわっている現実」とか、「開示された事象の客観的に検証可能な精髄」と書いてある。つまり真理とは、いわゆる客観的事実として実体的に、そこに存在するものではないことが読み取れるのである。>(~説教「リアリズム」)

私の脳では、「開示された事象の客観的に検証可能な精髄」ということと「いわゆる客観的事実として実体的に、そこに存在するものではないこと」とは「つまり」という接続詞で結びつかないわけですが、それはともかく、信仰はプロセスであって、解答は得られません。意識がなくなるのだから、死後にわかるとかわからないなんて言えません。あるいは、ハズレがわかる場合として想像されるのは死後に神の国に入れなかった場合ですが、キリスト教的には救われず滅ぼされる場合です。でも滅ぼされるのだから意識は無いはずで、だとすれば自分が滅ぼされて神の民に選ばれていなかったことがわかるということはないでしょう。意識があるなら、滅ぼされていないということでしょう。否、滅ぼされる者にも意識がなければ懲罰にならないとも言えるかもしれませんが、救われていないのに意識がある…生前と同様に意識し続けられるということは、そもそもキリスト教というものが幻想だったということになり、それがわかった場合もそれはそれで解答を得たことになり、逆にキリスト教が真実だった場合、その場合は滅ぼされて意識は無いと思われますので、ハズレたことはわからないので解答なしということになります。…となると解答は賭けが当たった場合のみということになります。パスカルの「賭け」の話とちょっと似ているでしょうか?聖書の真理ないしはキリスト教の真実といった事柄には主客の別など考えられません。

いずれにせよこれは、不信仰者の戯言にすぎません。ついでにもう少しその「賭け」にふれておきます。まず、webサイトから2箇所を引用します。赤字は自分。

<「よく吟味して、〈 神は存在する、あるいは存在しない 〉そのどちらかを言明してみよう。我々はどちらに傾くだろうか。理性はこの場合何の役にもたたない。そこには我々を隔てる無限のカオスがあるからだ。」(中略)人は何故神の存在を自分に受け入れ、神に帰依するために賭けをしなければならぬのか。その理由がこの一節に凝縮して述べられている。信仰は理性の範囲を超えた問題なのだ。我々は理性によって神を受け入れるのではなく、自分の存在を神にかけることによって始めて神と向き合うことができるのだ。この賭けはだが、人間にとって始めから勝つように仕掛けられた賭けである。人は無論賭けをしないですますことも出来る。その場合には何事も起こらず、したがって我々は神とは無縁に生き続けるだろう。そこには神による恩寵はないだろう。人間は獣のように死ぬであろう。(中略)「もし勝てば、君はすべてを得る。もし負けても君は何も失うものがない。ならばためらわずに、〈 神は存在する 〉と断言せよ。>(中略)

人間が<神は存在する>に賭けざるを得ないのは、もしそうでなければ、神の恩寵が永遠に遠ざかるからだ。神の恩寵とは何か。それはパスカルにとっては、人間の生きるという行為に対して、その証となるものだったのだ。言い換えれば、神の恩寵なくして、人間は人間らしい生を生きることができないのである。人間は自分の力だけでは人間としての生き方をできない。神の恩寵がなければ、人間は人間としての尊厳を身に体することができない。だからこそ人間は、もしかしたら存在しないかもしれない神について、<神は存在する>と断言する賭けに出ざるをえないのだ。このように、パスカルにとって、神とは理性では近づき得ない不合理な存在だった。その存在は所与なものとしてそこにあるものではなく、自分の意思によって、自分に信じ込ませるよりほか、確信されるものではない。だが上述したように、人間には神の存在を確信しないではいられぬ、必然的な理由があるのだ。>パスカルの賭:人は如何にして神と向き合うか

< パスカルの賭けは、人間の性質の腐敗、堕落の説明をまったく誤っています。生まれつきの人間―聖霊によって新生していない人(ヨハネ3:3)―はパスカルの賭けのように代価と利益の分析によって、救いのためにイエス.キリストに信仰を置くことを納得させられることはできません。信仰は新生した結果であって、それは神の聖霊のわざなのです。これは人は福音の事実に同意できない、又は外面的に神の律法に従順にさえなることができないと言っているのではありません。イエスの土地のたとえ話(マタイ13章)からのポイントの一つに、キリストの再臨までは、偽物の信者がいることは生活の事実であるということがあります。しかしながら、本当の救いの信仰のしるしは、それが生み出す実です。(マタイ7:16-20) パウロは生まれつきのままの人は神のことについて理解できないと議論しています。(1コリント2:14) なぜでしょう?神の事柄は霊的に識別されるからです。 パスカルの賭けは救いの信仰の知識に至るには、その前に聖霊の働きが必要であることは何も言っていません。(中略)結論として、パスカルの賭けは、興味深い思想的考えではありますが、その一方、クリスチャンの伝道的、弁証的な方法には加えるべきではないのです。クリスチャンは、イエス,キリストの福音―それだけが、信じるすべての人に救いを得させる神の力(ローマ1:16)―を分かち、宣言すべきなのです。>

パスカルの賭けとは何?

私は、この2箇所の引用文の内容に共感するのですが(以下ずっと引用文は、濃い字は自分による)、特に後の方は福音主義信仰の立場から要点が明示されているので賛成です。信仰は新生した結果であって、それは神の聖霊のわざなのです。」とあるとおり、福音主義信仰は神のはたらきによって与えられるものであり、神の賜物です。だから救済が先行すると言うのです。「神の聖霊のわざ」とは「神の救いのはたらき」と言い替えることもできます。

この「パスカルの賭け」については、前提があまりに狭く固定化されているために、キリスト教徒の内部でしか通用しない、事実上の「賭け」ではなく信仰論にすぎないと批判することは容易です。すなわち、世界万民がキリスト教徒ではない以上、人間が<神は存在する>に賭けざるを得ない必然的理由を一般論で語ることなど出来るわけがないのです。仮に百歩譲ってその前提を受け容れるとしても、死後に、賭けた本人がその結果を確認し得る意識が保持されいるという保証はなく、むしろその可能性は低いのです。だから「賭け」という表現自体が問われます。負けなし・損なしの賭けなど「賭け」とは言えないからです。

ところで、小田垣氏は職人(マエストロ)が好きで、特に法隆寺の宮大工の西岡常一という棟梁を尊敬しているよし(~説教「ケノーシス説――盛夏所感」)。その職人について、「特殊に徹することで、普遍に通じている」と評しています(~『一緒なのにひとり』〔リトン〕)。すなわち「芸の蘊奥を究めることで、その職人は芸の普遍性に通暁している」という意味であり、職人が普遍性に通じると言ってもそれは「自分の芸を通じて世の中のすべてを知るようになったなどということでは」なく、職人はあくまでも芸の…その道での普遍性に通じるということなので、ある分野の中での限定された…と言うと矛盾する言い方ですが…特殊な普遍性に通じるということのようです。まさにカトリックという場合の普遍性とはそのようなものではないのでしょうか。信者の人口では世界一の宗教組織とは言え、「普遍」を掲げてもお山の大将といった感じでしょう。そもそも弁証法的には「普遍」の対概念は「個」であって、「特殊」は「一般」の対概念なので、「特殊に徹することで、普遍に通じている」というのは、「個に徹することで、普遍に通じている」とか「特殊に徹することで、一般に通じている」と言わないとおかしいでしょう。

しかし小田垣氏は、「キリスト教信仰に限らず、およそ絶対なるものは相対の中にのみあるということ、同様に、真に普遍的な真理は特殊性の中にのみあるということを論証しようと思う。(中略)神学は、キリスト教信仰が一つの相対的な現象であること、一つの特殊な場合であることを認めるべきなのである。そしてそのことの中に、キリスト教の真の絶対性、普遍性の所以がある。」、「各宗教は自己の特殊性を維持しながら、或る種の哲学的普遍性をも持ち得る。このことは宗教が哲学であり、哲学が宗教であるということでもある。」、「武藤の立場が宗教哲学(の新しい可能性)であり、久松のそれが『宗教・哲学』であるとされるのに対して、私は自分の立場を哲学的神学と呼びたいと思う。その理由は、宗教性A(?)や『宗教・哲学』は本来、それ自体としてはどこにも存在しない立場だからである。それは具体的な宗教を媒介としてのみありうる立場であって、そのことを離れ、言いかえれば各宗教の特殊性を捨象するような形でそれが求められる時、それは全く架空の思い込みか、せいぜい宗教Aの立場に転落する。哲学的神学とは、あくまでもキリスト教にコミットした立場である。そのことの表明として神学という表現が必要であるのみならず、本来、普遍性は特殊性の中に、言わば潜勢態としてのみありうるのであり、特殊性を離れた何処か別の所にあるものではないからである。特殊性から遊離した普遍性は、それ自体特殊性、普遍性という名を僭称した特殊性になっている。その意味では、宗教哲学が宗教の特殊性を捨象した意味での普遍的理解を求めるものであるとされる限り、宗教哲学はあってはならぬもの、根本的な矛盾を内包した学問であると言わなければならないだろう。(中略)言わば本書の論題として提出しておきたいことは、絶対が相対を離れて、普遍が特殊を離れて、唯一が多を離れて主張される時、それらは絶対でも普遍でも唯一でもなくなるということである。そして若しそうならば、哲学的神学という、キリスト教の特殊性の中に居ることが ―― キリスト教徒の場合 ―― 宗教の普遍性に至るための唯一の道なのである。(中略)キリスト教徒は、イエス・キリストの福音によってのみ、救いに至れるのであると。現代この国で或る流行を見ているような、仏教とキリスト教との比較というような第三者的立場で神を理解し、絶対に至ることはできない。その第三の立場もまた一つの特殊性に ―― ただし架空の特殊性に ―― 転落する他はないからである。そして又特殊性に徹することによって、キリスト教の絶対性も、架空にして独善的な絶対性ではなく、絶対的な絶対性として、即ち自らの相対性の中で、ありうるだろう。」などと、「特殊」と「普遍」とを対概念としておられます(~『哲学的神学』〔創文社〕「はじめに」の冒頭、p19~21。濃い字は自分。傍点省略)。その一方で、「永遠や普遍は具体性・個別性の中にしか存在しない」とか「永遠や普遍は、人間がそれを主張する以上、それは必ず相対的人間によって主張された永遠や普遍になり、それは観念の中だけでの永遠や普遍になって、イデオロギーになる」とか「普遍性は具体性のなかにある」とも述べています(~説教「一匹の羊」)。また、意外にも「わたしは哲学が嫌いだ」などと言い、その理由として「『そう考える自分はどこにいるのか』という意味での『具体性』の次元とは別のところ、つまり思念の世界で思考されているからである」と述べ、「わたしはこれまで『具体性』というものを軽んじてきた。そしてその次元でのデカルト的二元論の止揚ということばかり言ってきた。それがネオ・ロマンティシズムだ、と言ってきたのである。信即不信である。しかし、それは少し違うのではなかろうかと思う。それもまた、オシャレに裏打ちされないと観念になるのではないか。人間にありうるのは『具体性のみ、個別性のみ』ではなかろうか。それが『人間が相対的だ』ということの意味かもしれぬ」云々と反省しておられます(~説教「海軍と陸軍」)。※小田垣氏の、「ロマンティシズム」と「ネオ・ロマンティシズム」との区別は、説教「美的宗教」の末部その他参照。

「オシャレ」どうのこうのは、いかにも小田垣氏だと思われるところであり、私が小田垣氏の思想にいまいちなじめない部分を象徴する表現でもありますが、とにかく、個別性や具体性を尊重するから思想が健全だというのも短絡的です。確かに救済は個別であって然りですが、「神の国・神の支配」の福音の信仰は、キリスト教ユダヤ教から継承している共同性こそ尊重されて然りです。

そうかと言えば小田垣氏は、「あまり具体的であるということには嘘があるのである。具体性だけでは、かえって具体性は見失われるのである。(中略)具体性に意味をあたえるものは、全体である。全体の中での自分の位置である。全体との関係のなかにあって、人間は安心する。人間は関係存在だ。しかしその全体は、人間にとって観念ではないのだろうか。人間は本質的に関係存在である。それは個的だ。だから全体性は、個的な一時的な人間にとっては、本質的に了解不能である。それが人間にとって、全体が観念的にのみ在るということだ。このことは、宗教も個的であって、したがって相対的でもある、ということを意味する。それもまた、宗教が、それぞれ絶対的な主張をもっているということでもある。それが個的ということの意味だ。宗教は絶対でありながら相対なのである。(中略)真の絶対は、絶対 ― 相対の観念的絶対を超えているのである」云々と述べておられます(~説教「居場所」)。

ここで個人にとっての「全体」と言われているのを「社会」に置き換えれば、個々人は社会の中での自分の位置を確認することでアイデンティティーを得ているわけですが、その「社会」は観念だということです。実際は、当人が思っているほどに自分に関心を持ち、自分を本質的に評価してくれる「社会」などというものは無いのです。幻想なのです。他人がいつも自分に注目して、そのやることなすことを正当に評価するわけではないのであって、むしろ現実は逆に理不尽な評価になっているのです。だから承認欲求などは空回りするのは当然でしょう。当人の思い込みに現実がついていかないのです。それと個別宗教の相対性ということと何の関係があるのでしょうか?

ところで、滝沢克己氏の「インマヌエルの原事実」は小田垣氏が、「滝沢神学の問題は『原事実』の不可逆的優先性を主張するばあい、それもまた、滝沢という一個の人間の主張だという反省が不足していることである。その場合、その原事実は認識の対象として一個の存在者となる。」(~『日本神学史』〔ヨルダン社〕p172)といった言をまつまでもなく、滝沢氏の言う「インマヌエルの原事実」などそもそも普遍志向であって独断ですが、これを観念にとどまらせないために滝沢自身、クリスチャンになってキリスト信仰の特殊性を生きる道に入ったのかも知れません(しかしインマヌエルの第一義と第二義との区別をしている限りイエスキリスト教的な意味での「神(の子)」ではないのだから〔上掲書p170~171参照〕、入信したと言っても解釈の余地ある入信ということになります)。

そのように、特殊を経ずしていきなり普遍的真理を求めることは人間として身の程知らずということになるのでしょう。卑近な例として私は、神学校にいた時に、キリスト教では物足りないのか或る新宗教に転じた男がいたことを思い出します。その新宗教というのは仏教とキリスト教と日本の新興宗教の教義を寄せ集めたようなものであり、死後の世界を階級的に図像化した滑稽なものでしたが、そんな漫画のような宗教(?)にハマるのも本人の中に普遍志向があったからだと思います。個別の宗教で特殊な信仰を地道に実践してゆく道より、もっと手っ取り早く、より高次の境地に到達できると思わわれるような方向に誘惑されたのです。だから普遍志向というより上昇志向の方が強かったのかも知れません。それにしても教義的な部分では、やはり普遍志向があったのだと思われます。私見では同じカルト宗教でも、「統一協会」と「オウム真理教」との違いは、前者にひっかかった学生は「普遍志向」が強かったのに対して後者のそれは「上昇志向」が強かったということです。その志向の相違は、その宗教の相違に対応しています。すなわち「統一協会」はキリスト教がベースにあって、直接的には教祖の聖書解釈である「原理講論」というドグマを洗脳されたのであり、そもそも宗教的関心の強い者が、個別の宗教を超える普遍的な教えに惹かれた部分が大きいと思われます。これに対して「オウム真理教」は修行によって超能力を得ることが目的になっています。わかりやすく言えば、神仏を信じるタイプと自分が神仏になるタイプとの違いです。

前者は本来なら、はじめっから普遍志向でいくのではなく、まずは特殊から入ってこれに徹してゆくべきだし、その行き方はキリスト教にあてはまると思います。それを「狭き門から入る」というのかもしれないとも思いますが、いずれにしても身体的現実状況を抜かした観念的思弁から脱してより実際的に考えることが、私にとって(前に引用した小田垣氏の表現を借りれば)、「宗教哲学の問題としてではなく、信仰の立場に立つ」ということであり、その結果、腹が決まるとしたら、それが「『信仰』としてのイエス・キリスト信仰が(宗教哲学的にではなく)わかった」ということです。私の「キリストの再発見」がそこまでいっているかどうかは、これからの成り行きをみなければわかりません。

確かに、小田垣氏のように「信仰」の事柄と「宗教哲学」の事柄とを分けて考えることは有意義ですが、この両者を分離することは、小田垣氏のような学者はもちろん、私のような無学者とて不可能であるということは自覚しなければなりません。

キリスト教の場合は、すなわち、これまでは聖書の中で非神話化すべき非歴史的な事柄について詭弁を弄して信仰心との調節をしてきたわけで、それは宗教哲学的思考とでも言えますが、その結果、たとえば実存主義的にケリュグマを選び取る決断の境地に達したからと言って、それが直ちに自由主義的信仰ないしは宗哲的思考から福音主義信仰へとコペルニクス的大転換を果たし得たということにはならないからです。ルターの「福音の再発見」(塔の体験)は、修道士としての経験に根差す「信仰」の事柄ですが、上記引用文にあるような小田垣氏のキリストの復活などについての気づきや解釈、あるいは私が自分で「キリストの再発見」と名付けた体験などは、純粋に「信仰」の事柄であるとは言えません。あくまでも「宗教哲学」的思考の中で「信仰」的な思考をやったという、言わば二重思考の結果だと思われます(…こういう考えがすでに哲学的です)。

私が「キリストの再発見」に至ったきっかけは、このような「否定的媒介の逆説」とか「特殊性の徹底により普遍性に通じる」みたいな観念の先行によるものではなく、現実社会での出来事から人類の原罪の問題をあらためて実感させられ自分自身の事として自覚させられたのですが、その省察においては、神学的と言うよりも宗哲的な解釈になったからです。その点では、新約学者の青野太潮氏がやたらと「逆説」を強調する「十字架の神学」も、純粋に福音的信仰の営みとは言えません。キリスト教は古代教会の教父時代からギリシャ哲学など、福音の外なる思想の影響を受けてきました。現代のプロテスタントにおいては、哲学と神学とを相関関係として論じたティリッヒをはじめ、キルケゴールの影響を受けて「聖書の主題であると同時に哲学の要旨である」といわれる「神と人間との無限の質的差異」の一貫性を獲得したといわれるバルト、そしてハイデッガー(前期)の影響を受けて「実存論的解釈・非神話化」を唱えたブルトマンなどに見られます。日本では、正統的神学者の権化のように見られている北森嘉蔵氏でさえ哲学科出身ということもあってか、著作には哲学的表現が見られます。そのようにキリスト教神学には、哲学との境界が曖昧になっているところがあるのだから、小田垣氏の言う「宗教哲学」と「信仰」との区別による思考は必然的であるとさえ言えます。哲学的表現がいっさい排除された純然たる福音信仰などというものは、見られるとすれば所謂「福音派」の人たちにおいてのみでしょう。しかし哲学的思考なしの純粋信仰が良いかと言えば必ずしもそうとも言えないのは、いわゆるファンダメンタリズムのカルト性を見れば明らかです。上記の量義治氏の言葉を参考までに引用しておきます。

<神学には啓示神学と自然神学とがあるのである。啓示神学は哲学的神学ではない。これに対して、自然としての人間理性に基づく自然神学は哲学的神学である。伝統的形而上学存在論としての一般形而上学と特殊形而上学とから成るが、後者には自然神学としての哲学的神学が含まれている。>(p7)

然るにそのように自然神学的ないしは(広義の啓示神学の中でも)自由主義神学的および宗教哲学的…な思考を続けていた者が、ある時に福音主義神学的思考に戻る契機になったことが、主知的である以上に主意的であり実存的であるという点を重視しなければならないのです。なぜならそこには明らかに自我の外からのはたらきかけが……聖霊のはたらきがあると実感されるからです。これはいくら他人に言っても伝わる人にしか伝わらない心霊上の事実です。このことは、私が「キリストの再発見」体験の最初の実践として出席した日曜礼拝が、自分ではすっかり忘れていた宗教改革記念であったことにより裏打ちされました。

この「キリストの再発見」の体験から私が再認識すべきことは、福音理解として「逆説」だの「否定的媒介」だの「キリスト啓示の特殊性に徹して普遍的真理に通じる」などといった観念にこだわることではなく、パウロがロマ1:16で「福音」を「救いへと至る神の力」と言っているように、本来、カギカッコを付けて対象化し得ない「神のはたらき」の現実に意識を向けることです。

 「逆説」とか「否定的媒介」はともかく、「特殊に徹して普遍に通じる」など、空疎なる観念にすぎません。具体的にどういうことか言ってみろ!と問われたら何も言えないのです。キリストの福音に徹するとはキリストの福音を信じ込み信じ抜いてゆく主意的意味でしょう。でもそれって具体的にどういうことなのか?その結果、通じる「普遍」って何なのか…?実際には何もわかりません。わかったようで何もわかってはいないのです。そんな哲学的な観念なんかで信仰心を支えきることはできません。小田垣氏は、現実は「二重性」であるということを言われ、特殊と普遍との相互媒介ということを考えると、普遍は特殊の中にしかあり得ないということになります。

ここで関田寛雄牧師の言葉を引用します。関田氏は青学関係で小田垣氏とは友人とのことで、私が小田垣氏の本を読んだり会いに行っているのを知って珍しがられ、小田垣氏の立場と御自身の立場との違いを端的に語られました。引用箇所の前の文言にその時の主旨が重なりますが、関田氏のキリストに対するパッションは、まさに「相手変われど主変わらず」の感があります。※赤字は自分による。

「それぞれの文化・民族においてさまざまな宗教があるわけですが、一番の問題は自分の宗教をドグマティックに絶対化している。これが宗教の破綻であろうと思います。人類が新しい統合のシンボルを求めていくとすれば、まず原理主義から脱却しなければならない。キリスト教原理主義も、イスラム原理主義も悪魔化しています。およそ宗教というものが成熟していくならば、自分自身の特殊な信仰対象に真実に従うということを一貫しながら同時に他の宗教形態に対する寛容性をもつはずです。それは決して他の宗教に対する妥協ではありません。むしろ自分自身が信じている宗教の普遍性に目覚めればこそ、他の宗教に対して開かれていくという、そこにヤハウエという神の持つ非常に大きな意味があるのだと思います。わたしたちはエスキリストに対する信仰を毫もゆるがせにすることはできません。しかし同時に本当にまじめに人権と、平和と、共に生きる社会を求めている諸宗教に対して、心を開き協力の手をさし伸ばすこと、そして自分自身の信じる信仰の一貫性を貫くと同時に他の宗教に寛容であること、それが自分自身の信仰の徹底のゆえにうまれてくる普遍性だと思います。そういうものを持たせてくれるのが、実は『ヤハウエ』というシンボルで言われていることではないか。」

聖書研究 – 全国キリスト教学校人権教育研究協議会

これは宗教多元主義に対するリベラル福音主義(…具体的にはバルト神学主義)の立場からの見解として興味深いわけですが、やはり抽象性は免れ得ないのであり、実際に何がどうなるのかよくわかりません。ただ、バルト的キリスト中心の福音主義信仰を真面目に生きておれば、おのずと永遠・不変の真理とか宗教の普遍性とかいったことに通じることができる…といった感じを受けます。所詮、神学者は哲学の専門家ではないので間違った使い方や不適当な使い方もあることでしょう。むしろ知られていない言い方もたくさんあるので、キリがないです。救いの体験の省察は哲学的概念でやるとキリがないのです。だから程々にして、言葉よりも力・はたらきの方に心を向けなければなりません。

小田垣氏の宗教多元主義への厳しい批判は、『コミュニケーションと宗教』(創文社)などに書かれています。特に「架空の高みに立って」云々などは我が意を得たりといった感じがします。(参考書評)_pdf (jst.go.jp)

繰り返しになりますが、聖書における私の最大の関心は、従来は「神」の何たるか…でしたが、八木氏や小田垣氏その他いろんな思想にふれることにより、もはや「神」の形而上学的思弁の観念的遊戯でもなければ「神の義」や「神の愛」についての論考などでもなく、「信ずる者に救を得さする神の力」としての「福音」です。無論それは観念としてではなく、神のはたらきの現実経験としてです。

私が晩年近くにもなって、ルターの「福音の再発見」ならぬ自身の「キリストの再発見」をしてキリストの道に戻れたのも、その喜ばしきおとずれである神のはたらきを体験し得たからです。何故、否定的媒介によらなければ神の力を体験し得ないのか?…これもまた思弁的な問いですが、理屈を言えば、そこに人間の原罪とキリストの十字架の死という二つの否定性があるからです。

さらに理屈をこねるなら、この二重の否定性によって福音主義キリスト教は信仰が成立するのです。マイナスにマイナスをかけてプラスになるから福音なのです。パウロにとって主イエス・キリストは弱さのゆえに十字架につけられたのであり、神ご自身、「全能」は賛美の表現であって実際は、青野太潮氏の解釈でもありますが、弱さのゆえに歴史に介入して災難を排するという行為をなさらず、人間の厳しい神義論を受けることになっていますが、その神・キリストの弱さゆえにこそ人間も律法主義的に裁かれることなく、パウロは自分もキリストの力が宿るように自分の弱さを誇るのだと言っています。自分は弱い時にこそ力あるという否定的媒介の逆説性とキリスト信仰という特殊を徹底することによって永遠の生命という不変にして普遍なる真理に実存をかけることが、行為義認ではなく信仰義認に立つ福音主義信仰の特徴だと言えます。但し、自分などが信仰の特殊を徹底するなんて言っても絵空事であり、徹底どころか不徹底にほかなりません。だから観念にとどまります。

自分を否み、自分の十字架を担ってイエスに従う(マルコ8:34他)ということも同じことで、生活における労苦というマイナスの経験を通してこそ鍛えられ心貧しく謙虚にされて、救いを切実に求めつつ信仰の道を歩んで行くなどということは自分にはできません。そしてこれは、仏教的「無我」の境地との関係もありません。同じ苦労でも、修行の苦労は一般社会生活の苦労とは質的に違います。

十字架がイエスを死なしめた忌むべき刑具であるにもかかわらず教会に掲げられてきた象徴的意味として自分なりに解し得ることは、1つめに福音信仰の否定媒介性・逆説性を示す。2つめに信仰生活はキリストと共に磔にされて人生が限定されるという、「否定性」と「限定性」の2点に要約できます。聖書が示す生ける神の救いのはたらきは、歴史的かつ社会的な具体的現実に即しているが故に直接無媒介ではなく、闇を変えて光となすという間接否定媒介による真理なのです。

ルターの「罪人にして、同時に義人」にしても、カルヴァンの聖書論にしても、カトリックに較べると実存的・男性的である。そしてルター・カルヴァンの実存的信仰論は、わたしの信仰論でもある。わたしの「二重性のものの考え方」によれば、人間は「罪にして同時に義」ということはあり得ないから、そこの在り方には論理的矛盾が含まれている。一個の人間が、「罪にして同時に義」であることができないのは、それが対立概念であるからだ。それらは互いに矛盾している。だからこの信仰論は、ありえないという意味での「絶対無」ということに基づくものでもあろうと思い、その事実に関して全面的な信頼を寄せてきた。その緊張の中に信仰の本義はあると考えてきた。だからわたしの宗教哲学は「絶対無」にもとづいた宗教哲学であり、そのことに感動をもってきた。>(~説教「この頃」※同題の説教が2つ、2010年と2011年とがあり、こちらは2011年の方)

実にいい御身分です。小田垣氏の宗教哲学などは何事でも二重性で説明できるお気楽な学問といった感じです。私のこのような言い方は、ストレプトマイシンの副作用で苦労され、偉大なる努力によって学者の地位に立たれた小田垣氏に対してはあまりに失礼であると重々承知しつつも、ある種の嫉妬心から申し上げています。実際、彼の宗教哲学が私のような人種にとっては有意義だったかどうかはともかく、影響は与えているのです。それにしても小田垣氏は、カネが無かったと言いながら、博士号取得後すぐに帰らず、ヨーロッパ旅行してから帰国するという贅沢が可能なカネはあったのですから、やはり恵まれていたようです。そして小田垣氏は帰国後、ドルーで取った学位を誇りとライセンスとするかのように、教団牧師などにはならず私大の講師になり、教団内では補教師のままで聖礼典なしの家庭集会を主宰し、説教と言うよりは哲学的エッセイの如き放言を続けてこられたのです(それは題からしてわかります。たとえば「グラミー賞」なんて題の「説教」はあり得ません。みずき教会も「教会」などとは言えないことは、説教と礼典がきちんと行われていないという一事をもって言えるのであり、実際に行ったことのある私にはそういう理屈だけではなく実態として明らかだったのです。国立音大のOGかなにかが讃美歌を唱和なさったのはよかったですが、小田垣氏は聖書の講解もきちんと行わないので、補教師とは言えどこまで教団の教職者としての自覚がおありだったのかは大いに疑問です。おそらくそういう意識で会を主宰していたのではなかったのでしょう。自由気ままな小田垣氏には、型にはまったような福音宣教とか伝道とかいった言葉は似合いません。みずき教会は宣教的には無教会的集会にも及ばないし、せいぜい親睦を中心とした家庭集会と言えるかどうかくらいのものだったでしょう)。そのみずき教会での説教「理と事」の中で、「わたしは毎回、根本的には同じことを話している」と述べておられますが、これは謙遜でもなんでもなく、まさにそうです。小田垣氏には「主観―客観構図への毛嫌い」があり(~説教「読書について(ルカ伝一七の三三)」)、それゆえ小田垣氏が言わんとしていることは「二重性」の認識です。<死と生の二重性、信と不信の二重性こそが信なのである。罪即義(ルター)信即不信(道元悪人正機説親鸞)である。そのことを知っていることは、やはり大事なことではあるまいかと思う。>(~説教「家族に乾杯」) 但し、講演も著作もしなくなって日々、妻くらいしか話し相手がいなくなった孤独な晩年には、以下のような境地にもなっておられた…< 祈りや「お守り札」を無視するというある種の恰好良さを捨てて、信仰における「祈り」や「お守り札」の効用を認め、お守り札を身につけ、祈りをすることも、現代の宗教にとって必要なことではある。いわば二重性を超過した、情緒の境地にでることが大事なのである。>(~同、「只管人生」) そしてこの「情緒の境地」に関しては次のように言われている…< 紙の表と裏の「間」は、そこにありながら、指定され、対象とされる意味ではどこにもない。その「間」は、紙の表にも裏にも属している。紙をどんなに薄くしても同じである。それがなければ、一枚の紙はない。しかしその「間」を表現するためには表と裏との間の「無いことにおいて有る」二重性しかない。「間」という独立した概念はない。これは「不立文字」(禅)「無義の義」(浄土真宗)といわれる消息であろう。浄土系の信仰も、そのことを言っているのだと思う。そしてわたしはつくづく、この期におよんで、情緒ということの必然性を考える。いつか言った「お守り札」も、お札というものそのものが、情緒の問題であるからではないのか。情緒は、この論理をこえた「間」を示唆しているものではないか、と思う。南無阿弥陀仏という念仏も同じである。キリスト教の祈りも同じだ。宗教とこの超論理性、つまり情緒が近いのは、このせいではあるまいかと思う。>(~同、「自力と他力」) このように小田垣氏には自由気ままな所謂、高等遊民的な面があって、インテリぶるところも人間としては普通だなとは思いますが、逆に卑下とは違うのでしょうが謙遜もあり、それはたとえば「友の悲しみに慰められる」といった「卑小な心理」を吐露するようなところです(~説教「仲間とは誰か」)。もっともそれは裏を返せば、インテリ意識を出しながらも時には庶民のフリをしようとする…最近流行っている言い方ではあざとさなのかも知れませんが、誰でも程度の差こそあれ天使と悪魔の両性が具有されているわけで、他人は美化も醜化もできません。小田垣氏は家の掃除はあまりなさらなかったようで(~説教「閉鎖環境」)、そういったダメな感じをさりげなく書いている点は親近感を持てるのですが、観念的であることを自認なさる点が最も親近感をおぼえる私としては、小田垣氏にとってはいかに御自身のお友達サークルような集会であれ、「教会」として礼拝をなさってきたと言えるのだと思えます。

失礼ながら小田垣氏の場合は、そういう人でもないようです。境遇が結核療養のためにスポーツで身体を鍛える機会に恵まれず頭でっかちになり理屈っぽくなったということはあるのでしょう。離人症とか鬱病など精神面の症状のことなどは同情させられますが、その客観現実を観念によってどのように解釈なさったのかは知りません。それでも小田垣氏の場合は父親が弁護士とは言え結核で、裕福ではなかったようです。父親ゆずり(?)の結核の療養のため普通よりも7年ほどの遅れにはなりますが進学し、留学先で哲学博士の学位を得たそうですが、所詮ドルーはメソジスト派神学校から発展したリベラルアーツカレッジであって、同じく神学校から発展したとは言えハーバードやイェールやプリンストンなどのような総合大学とは違うので、日本ではドルーなんて一般には知られていないし、学部も神学部だろうし、そういうところで得た「哲学博士」など、小田垣氏は「哲学博士(神学)」などと表記しておられますが、純然たる哲学の専門家に値する称号とは思えません。哲学についての小田垣氏の知識の多くは独学によるものでしょう。とにかくいろんな分野の本を読み漁りなさったようです。特に西田哲学については全くの独学でしょう。そんな人が国立(くにたち)音大では宗教と哲学を教えていたというのだから、私立ということもありますが、けっこういい加減なものだと思いました。私見では、小田垣氏は正規に宗教学や哲学を専攻し修了したとは言えないからです。小田垣氏が修めたのはあくまでも神学の一環としての宗教や哲学でしかないでしょう。一般教養程度です。小田垣氏はあくまでも神学専攻ですが、「中でも組織神学とか宗教哲学が専門ということになっています」(~説教「考えてみると」)というのは少しおかしいと思います。組織神学が専門というのはわかりますが、宗教哲学は神学に属する学問ではないからです。神学部で学ぶ宗教哲学は、あくまでもキリスト教の神学に関係する範囲の分野として学ぶのであって、宗教はキリスト教だけではないし、宗教哲学は個別の宗教より哲学の方に重きが置かれているのだから、宗教哲学を専門とするのであれば神学部ではなく、文学部哲学科などに入るのが常道でしょう。

 

狭義には「実践」というのは「社会実践」のことを言うのだとすれば、観念的な人にとってその「社会」とは小田垣氏にとっての「みずき教会」のような仲間内の集団ということになり、異分子に対して門戸を常に開放するような既成教会の在り方はなじまなかっただろうとお察しします。特に小田垣氏のように自ら人間嫌い…少なくとも初対面の人にはなじめない旨のことを吐露しておられるような人は、そういうことは無理であり心身の大きな負担になります。

しかし逆に、そういう内向きの人の「説教」だからこそ私にとっては魅了されるところがあり、普通の牧師の伝道説教などとは違って会衆にうけようとする動機などなく、また教会組織を形成しようとする教派意識なども関係なく、誰のためでもない自分のためになされてきたお話なので(< これまで書き、語りしてきたことのテーマは、基本的には自分自身である。「わたしは学者ではない。あえて言えば詩人だよ」とこれまで時々言っていたのは、自分の学問的能力を謙遜したわけではなく、わたしが追究しているテーマが、ある特定の対象ではなくて、自分自身だからである。>〔~説教「老いの意味」〕とか、< わたしが神学を考える場合、学問の対象は、あえて言えば自分です。新約学者の専門が新約聖書であり、旧約学者の専門が旧約聖書であるような研究の対象を、わたしはもっていません。いつもわたしは自分の感情や思考を、いろいろなテーマで分析してみようと思っているだけなのです。これはどの学問でも、最終的には同じかもしれませんが。だからわたしは自分のことを、デンカー(思想家)ではなくてディヒター(詩人)と呼んでもらいたいと――大げさな言い方ですが――、むかし学生たちに言ったことがあります。>〔~説教「考えてみると」〕などと述べておられるからです)、そのような個に徹した説教が却って一般人の心に届いて、おもに著書を通して伝道らしからぬ伝道になっていったわけです。私も観念的信仰の徒であり、小田垣氏の著作にふれることによって、当時の自分が身を置いていた、言わば被差別者解放主義イエス教の閉塞的な環境の中で、差別者意識も被差別者意識も持たなかった自分自身にとってまさに解放される新鮮な感覚を与えられたわけで、小田垣氏のその特殊な生い立ちから日本の神学界では独特の、小田垣氏ならではの思想的持ち味も生まれたわけでしょう。下手に教団の教職を意識して社会のことに口を出すより、抽象的で観念的な思弁を弄している方が、小田垣氏の場合は読者への貢献度が高くなったのではないでしょうか?以下のフェミニスト神学批判にも共感できます。

<女性解放は、文化人類学的に見た女性の優位性の復権とか(いまも、海女にそれが残っている)、最近の新約学の成果の一つと喧伝されている、「イエスは実はフェミニストであった」というフェミニスト・イエスの主張の類の議論でも、本当はないのである。もともと近代的学問は「区別の論理」によるもの、つまり男性的論理によるものであり、その男性的論理による区別の論理によって、新約聖書を分析し、それによって、「イエスは実はフェミニストであった」と主張するようなフェミニスト神学は、学問論的に言っても矛盾している。母、とくに女性の問題は、現代の、深く存在論的退屈感に裏打ちされているのである。>(~説教「母の日」)

この説教ではアウグスティヌスはもとより、現代神学者のバルトやボンヘッファー、ゴーガルテンやブルトマンまでもが男性主義であるかのように書かれています。

<女が肉的本性のものであるということは、女が罪の象徴的存在であるということになると、アウグスティヌスは言う。ここにあるものが、女に対する男の一方的な独断と、偏見であることは明瞭であろう。バルト、ボンヘッファーにとっても同様で、両者とも女はそのかしらである男に従属すべきこと、それが「創造の秩序であること」、を説いている。ブルトマン、ゴーガルテンなどの神学すら、「自然」に対して「歴史」の優位を主張するかぎり、それは男性的論理の中にある、と言ってよい。>(~同上)

小田垣氏は自分が人間嫌いであることも告白しています。私が初めて面会した時はそのような印象は受けませんでした。むしろ「滝沢」とかいう高級なカフェで筆談してまで、当方とコミュニケーションをはかってくれたことは幸栄でした。当時の私は史的イエス主義に馴染めず、小田垣氏の著書を読むことで解放された気分になれたので感謝し、その旨を伝えたことがありました。ただ、極めて個性的というかこだわりがありそうというか、クセのある人であるとは思いました。その背景が以下の文章から察せられます。

わたしは自分が人間嫌いではないかと、確信のようなものを持っています。電車の中の人は大概嫌いだし、最も親しい人々に対してすら、その人を軽蔑する気持ちが交じっています。このことについて少し自己弁明させていただくと、わたしは少年の頃から耳が遠くて(結核ストレプトマイシンの副作用で)、人が一度言ったことを聞き返したり、疑う癖があるのです。聞き間違っていたときの恥ずかしさが恐ろしい。それは耳が遠いわたしにとって、何回も繰り返された屈辱でした。いまだにそうです。そして周囲はいらいらします。その屈辱が、本性疑り深いわたしの性格に、ますます拍車をかけたところがあります。それだけに、一度友人を信頼できたときの嬉しさは、非常なものです。だからわたしは、「初対面の人は大概嫌いだ。しかしその後しばらくすると、大概その人が好きになる」と時々口にしていたことがあります。>(~説教「少し投げやり」)

私も人間嫌いのようなところはあるので、こういう文章には違和感よりも親近感を持ちます。クリスチャンの中にも私のように小田垣氏から影響を受ける者もいるわけですが、私の場合はその理由が小田垣氏から頭の中での観念操作を学べるからであり、その効用は自分にとって否定的な現実をいかに肯定的に解釈して自分を慰め得るか…?ということにあるのですが、そのような動機から小田垣氏の著書を読む人は例外でしょう。

小田垣氏は、みずき教会のHPで記載した自分の肩書を「哲学博士(神学)」としていますが、前にも触れたとおり、こんな学位はおかしいでしょう。これだけ見ても、小田垣氏がアメリカで取得したPh.D.なる学位の実態が露呈されているのです。かつて私の同僚がアメリカの大学を見学した時、外見は平凡な娘らが Ph.D. の学位を持っていると言っていたと不快なことのように話したことがあります。彼はその時、訳せば「哲学博士」となるその学位が、アメリカではいかに非哲学的なものであるかを実感したわけです。つまり哲学のことなんてよくわかってもいない人でも、一定の単位さえ取得すれば授与される安価なものだっていうことです。ヨーロッパ中世の哲学が神学と不可分だったとは言え、上智大学のようなカトリックの哲学科でもあるまいし、現代において普通の大学では哲学を神学の婢などとは教えないでしょう。プロテスタントにおいては神学は神学、哲学は哲学なのであって、神学を専攻した人が「哲学博士」を取得するなんてことはあり得ないはずです。だから、Ph.D.を「哲学博士」と訳すことは実態とズレるのです。

仮に小田垣氏を哲学博士と呼び得るとしても、彼はあくまでも認識論の人であって存在論の人ではありません。そこが師にあたる野呂芳男氏との大きな違いでもあるのしょう。両者とも留学経験のあるインテリを気取っているという点では伝道者らしからぬ神学者という点で共通しておりますが、小田垣氏は、わたしたちは信仰を、神との縦の関係をもったなどと、思わないほうがよいのです。有限なる人間が、無限なる神と、縦の関係をもつなどということが、どうしてできるでしょうか。信仰は人との縁なのです。縁起です。つまりわたしたちが知りうるのは、横の関係、友情だけだ、ということになるでしょう。」などということを言っています(~説教「友あり」)。こんなことを言えるのは、実際に小田垣氏自身には「はじめに(対神)関係ありき」が成立していないからにほかなりません。その点では必ずしも神に選ばれた、召された人とは言えないのです。

上記のHPに記載された小田垣氏の肩書は「哲学博士(神学)」の前にもうひとつあります。それは「日本基督教団補教師」です。補教師は牧師とは呼ばれません。まあ、二種教職制に反対する人で補教師でも牧師扱いする人はいますが例外的であって、小田垣氏は牧師にはなっておらず、すなわち日本基督教団の教職でありながら歴史的教会を担任せずに私大の講師などで生計を立て、教区から伝道所と認められない家庭集会を主宰してきたわけです。それも個人の生き方だし、小田垣氏にはその道が合っていたのでしょうが、小田垣氏の友人といわれる関田寛雄氏などとはそこが違うわけです。関田氏などにとって牧師の使命は世の中にあって預言者的な福音宣教の働きを担うことでしょう。そして補教師であれ教団の教職でありながら教会現場に赴任せず、仲間内で集会を開いているだけでは、使命を捨て十字架の道を避けてラクな道を選んだと批判されるようなことだと思います。しかし小田垣氏には牧師としての召しがなかったのかもしれません。あったらおのずと教会に赴任していたことでしょう。それが神の予定というものです。しかし小田垣氏にはその独特なスタイルによって、観念的ではありますが、それなりの福音宣教のはたらきがなさしめられたとも言えます。

「信仰は人との縁」だと小田垣氏は言われますが、私はそうではなく「信仰は神との縁」だと思います。ここがわかっていなければ福音の本質もわかりません。原罪の現実に対する認識が甘くなります。

私は小田垣氏は、私と同様に観念的な信仰者であると思いますが(故人は天国で、お前なんかと一緒にするな!と叫んでいるかもしれませんが、天国におられるなら煩悩もなくなっているだろうから怒ることもないでしょう)、観念的な人であるか否かに関係なく、デリカシーを欠く発言をしてしまうおそれは誰にでもあります。小田垣氏の説教の中にもその点では気になる発言があります。それは、「UさんはR大学のキリスト教学科の助教授だが、わたしに似て神経症的なところがあり、いつも離人症になやんでいる。」(~説教「はじまり」)という一文です。R大学と書けば誰だって、小田垣氏の職場でもある立教大学だとわかるし、ご丁寧に「キリスト教学科の助教授」だと所属部署と職位まで書いてしまって、さらにその人物が女性であることが、この後に続く文章でわかってしまうのです。内容が精神の症状のことだけに個人が特定されるような表現は、厳に慎重になるべきだったと思います。仮に、その女性が小田垣氏の友人ということで、このような書き方で公表されてもよいと承諾したとしても、通常の倫理感がある人なら推測されやすい書き方をしたり、わざわざ書く必要もないことまで書くということは控えると私は思います。それならなぜ、お前は小田垣氏をそこまで批判するのか…?と言われるかも知れませんね。私はインテリでなおかつ偉そうにする人にはどうしても批判的な態度になるのです。小田垣氏の場合、無名の読者に対して寛容な対応をして下さいましたが、そのこととは別に、文章の書き方などにはどこか傲りを感じられます。

ところで小田垣氏の、「 西田幾多郎は絶対矛盾的自己同一に対する一つの説明として、主語的論理と述語的論理の矛盾の上に成り立つのが絶対矛盾的自己同一の立場だと言っています。」(~説教「仲間とは誰か」)以下の説明を解するに、「主語的論理」は個人の主体や特殊性に重きを置く立場で、「述語的論理」は個を規定する種・類や普遍性に重きを置く立場だと言えるでしょう。それに対して鈴木亨氏の「繋辞の世界」についての説明はよくわかりません。英文で言えば「桜は植物である」はSVCであり、VにおいてS(個物)とC(一般者)とが矛盾的自己同一してるということ?何が言いたいのでしょうか?やはり思考過剰でしょう。生活に無用な考えは時間の無駄です。

そもそも日本語において「繋辞」(copula)とは何でしょうか?

< 時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。>(~中井久夫著『記憶の肖像』所収「一つの日本語観」)

< ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によれば「繋辞語」とは『コプラ,コピュラともいう。論理学で,主語 (主辞) と述語 (賓辞) とを連結する役割をになう語をさし,のちにこれが文法用語としても用いられるようになった。英語を例にとると,beが代表的なもので,beと同じ統辞的機能をもつ become,get,remain,seem,turnなど,いわゆる不完全自動詞がすべて含まれる』。「be」には「在る」というイメージの他に「繋辞語」という役割もあると整理してみると少し分かり易いかも知れません。著者が多少の知識のあるスペイン語では「在る」と「繋辞語」では異なる語を使います。日本語の「繋辞語」は「である」と解説しているものが多いですが、著者は寧ろ「は」の方が近いニュアンスだと思っています。「I am Kenji.」は「私は健二です」より「私は健二」のほうがニュアンスは近いと思います。>

「社会人のための英語回路構築トレーニング自習帖」著者のブログ : 英文法の見える化(34)-繋辞語「be」 (eigo-akahige.com)

それにしても、キリスト教徒は、誰であれ信仰を究めるなんてことはできないと思いますが、まあ、やるだけやるとしても、その個性とか特殊性に徹することがどんな普遍性・一般性に通じ得るのか?と言えば、やはり経験した範囲の、つまりキリスト教信仰の中でのことでしょう。上記で引用した中に、「哲学的神学という、キリスト教の特殊性の中に居ることが ―― キリスト教徒の場合 ―― 宗教の普遍性に至るための唯一の道なのである。」という言葉がありましたが、「哲学的神学」がキリスト教にコミットした立場であろうとも、要は「神学」をやる者しか「宗教の普遍性に至る」ことはできないということなのか、一般信徒は日常の信仰生活を通して「宗教の普遍性に至る」ということはないのか…、そういうことがまったくわかりません。キリスト教徒の中でも神学をやる者だけが、キリスト教の特殊性を通して宗教の普遍性に至れるということなら、それが信仰的ないしは救済的にどんな意味があると言うのでしょうか?小田垣氏の考えはエリート志向なのでしょうか?キリスト教徒と言えば、イエスの生涯からすれば、まずもって神学とは距離のある……場合によっては教会からも離れている一般信徒であるということがわかっていないのでしょうか?

そもそも具体的に言って「キリスト教の特殊性の中に居る」とはどういう意味なのか?さらに「宗教の普遍性に至る」とはどういう意味なのか?よくわかりません。小田垣氏の哲学的神学は、「わたしは二重性ということを繰り返し言っている」(~説教「花吹雪と復活」と述べておられるとおり、結局、「ことがらの本質は、対象論理的には二重性である」(~説教「はじまり」)といった弁証法的な真理認識をいろんな言い方で伝えておられる感じでしたが、やはり抽象的すぎます。

だから普遍性とか言っても、プロテスタントの信者はせいぜいプロテスタント諸教派全般に通用し得る所謂エキュメニカルな理念には及び得るのかもしれませんが、同じキリスト教の中でもカトリックや正教の方までは及び得ないでしょう。ましてや他の宗教までも包含する意味でも普遍性になど及び得るわけがありません。でも宗教哲学で諸宗教に通じる普遍性を探究する人は、自分自身が何らかの宗教を信じていなければ無理だろうと思われます。どの宗教にもコミットせずに宗教全体を知ることは人間には不可能だからです。それは自分が地球上にいるのに、地球の外から…宇宙空間から地球を俯瞰するようなことを言う独断者の観念的な立場ということになります。その点で、あくまでもキリスト教にコミットするということはわかるし、それはイエス・キリストの福音のみによって救われるということもわかります。

ちなみに小田垣氏は宗教多元主義に関して次のように述べておられます。※赤字は自分。

<たとえばキリスト教、仏教、イスラム教はそれぞれの宗教的伝統を持っており、宗教的伝統は複数である。しかし宗教そのものは一つなのだと言う。山の頂上へ至るためには幾つもの道があるというのと同じ議論である。これが宗教論として安易であるのは、この議論が宗教というものがもともと人間の認識を超えたものにかかわっており、だから本性排他的な性格のものだということを見落としているからである。実際、ある人間がキリスト教と仏教とイスラム教が同じ神的実在に対するそれぞれの応答なのだと言う場合、その人間はキリスト、釈迦、マホメットの上に立ち、彼ら以上に彼らの意図を知っているということになる。それぞれに絶対性を主張する多くの宗教を超えた立場があるとしたら、それは絶対性を超えたもの、言い換えれば「神秘」である他はない。パウロはそれを「神である方」(セイオス)と言ったのではなかろうか。>(~『神学散歩』所収「八月 ギリシアの海で」)※赤字の部分は、小田垣氏の滝沢克己氏に対する批判にも通じると思います。滝沢氏が「原事実」を言う場合、その滝沢氏の立場はどこにあるか…という問題になるからです。前掲の『神学散歩』所収「ギリシアの海で」によると、<「宗教」という言葉は明治時代に作られた「レリジョン」の訳語だが、もともと「宗」と「教」は矛盾した要素を持っている。「宗」とは元来「おおもと、根源」の意味である。だからそれは認識されたり、言語によって表現されたりすることはできない。>とのことです(p105 / 奈須さんの「レリジョン」説は、みずき教会説教「結ばれていたもの」参照。また「レリジョン」は同説教「懐かしさ」でもふれられている)。

それはともかく、小田垣氏の場合、それは八木誠一氏の場合とも通底するのかも知れませんが、いわゆる神秘主義への共感が生じてきます。宗教哲学的立場には少なからず神秘主義的傾向があるようです。その点が私にとってはネックになります。その小田垣氏は、「滝沢は神秘主義に関して否定的である」と述べていますが(~『哲学的神学』p103)、神学生の時に滝沢の思想を神秘主義だと言った教師のことを思い出します。その教師の名誉のために名は出しませんが、著名なバルティアン牧師で、ドイツ教会闘争その他、キリスト教の歴史に関する本を出しておられた方です。

ちなみに小田垣氏の前掲書によると、バルトは「『否定の道』、神秘主義の方法を否定し、弁証法の道、即ち神を積極的に語ることによって神は語れないということを、同時に神は語れないということによって神を語るという、稜線上の歩みを神学の方法とした」とのこと(p62)で、ティリッヒは「神秘主義的信仰に反対するが、それは神秘主義の『同一化』に対して、即ち神秘的合一(unio mystica)という事情に対してである。ティリッヒによれば、信仰には『同一化』と同時に離隔(separation)の要素も必要なのであって、さもなければ信仰は人間が所有するものになり、それは人間の確信(certainty)ではあっても、信仰ではなくなると」言ったとのことです(p102)。まともな信仰はそのように、神秘主義的立場には否定的であって然りでしょう。

ところで、小田垣氏が得意とする「二重性」の理屈からすれば、普遍は特殊の内に、特殊も普遍の内に…ということで相互内在的な関係にあるとするなら、キリスト教のそれもプロテスタントの中のひとつの教派の信仰的立場を徹底することを通して、どんな普遍性をどこまで知り得るかはともかく、その教派的信仰の立場という特殊性において何らかの普遍性があるということになるのでしょうか?例えば、バルト神学的福音主義信仰の路線で来ている日本のリベラル系改革長老教会においては、その信仰的立場に徹したからといってどんな普遍性が見えてくるというのでしょうか?いわゆるエキュメニカルといった普遍性なのでしょうか?私見では宗教的な普遍性ではなく、社会派にみられるような一般社会における倫理的普遍性か何かであるように感じられます。キリスト信仰には倫理的な面があることは私も了解はしていますが、その普遍性が倫理にとどまるなら、共産党にでも入って活動しておればよいのであって、わざわざ教会に通ってまで求めるようなものではないと思います。結局、宗教的実存とは何かという問題です。それは小田垣氏が前掲の文章の中で言っておられる「宗教は哲学とちがって、生きるか死ぬかの問題にかかわる事柄」であるという点につながります。無論、社会問題こそが人間の生死にかかわるし、哲学だってそうだ…との反論があると思いますが、宗教における「生」と「死」は、単に肉体のレベルで言われているわけではありません。まさに太宰治が『トカトントン』の終わりで引用しているマタイ伝10:28の言葉につながります。人間は体を殺すことができても魂を殺すことはできませんが、創造主なる神は身も心も体も魂も滅ぼすことができるのです。

結局、小田垣氏の思想というのは深みはあるけどしょせんは抽象的で観念的であって、多くのクリスチャンの信仰生活には使えない思弁であるということを小田垣氏自身が感じていたのでしょうちなみに、小田垣氏が観念的であるということは御当人も自覚しておられたようです。⇒< 現実的ではなくて観念的だ、ということがあると思います。わたしの学問(?)の対象は自分だと言いましたが、そのもっとも現実的であるべき自分を、観念的に扱っているのです。つまり自分を「手で考えて」いないのです。わたしは自分が観念的で見栄っ張りだと思っています。しかしこれは、世間に対して見栄っぱりだ、ということではありません。世間に対しては、わたしはむしろ見栄っぱりではない方でしょう。わたしの見栄は、世間に対する見栄ではなくて、自分に対する見栄であると言えるかもしれません。理想像を求め、観念的でありすぎ、自分に見栄を張りすぎて焦っているのです。>〔~説教「考えてみると」〕)。その一種のコンプレックスから自己批判の意味で観念化を否定するような表現…例えば、「信仰の観念化が救う」(~説教「インマヌエル」)ということも(「信仰の観念化から救う」か「信仰を観念化から救う」の間違いではないかと思うのですが…)言われたのでしょう。また、<ルターやニーチェを、利用したのがヒットラーであった。むしろ、そうなった哲学をイデオロギーと呼ぶのである。この構図は「哲学」と深い次元で繋がっている。どちらも対象と自己という、主観―客観構図になっていて、「自分は何処にいるのか」と自分自身に問う姿勢がない。「自分は何処にいるのか」という問題を離れ、自分も「そう考える一部」だと考えないと、「哲学」は必ず観念的になる。言い換えれば、イデオロギー的になる。>(~説教「海軍と陸軍」)とも言っています(ちなみにこの説教では、<「そう考える自分はどこにいるのか。そう考えるのは自分の精神の一部ではないのか」という、思考の具体性>ということが重視されていますが、その「自分はどこにいるのか」という考えは、創世記3:9に記された神のアダムに対する第一の問いかけである「あなたはどこにいるのか」〔「アイェーカー」(אַיֶּכָּה)。「あなたは」は語尾「カー」(כָּה)…

2人称男性単数の接尾人称代名詞。

「どこにいるのか」は「アイェー」(אַיֵּה)…「アイ」(疑問詞「どこ」)+母音「ェー」。

「いる」に相当する語は原文にはないので、英訳は、Where(are)you? 〕を自身に向けたものであるとも言えます)。

 

D. 観念的な「実践」

 

ちなみに神学者で観念的な人と言えば、私は第一に北森嘉蔵氏を思い出します。北森氏は小田垣氏とは違って京大哲学科で本格的に哲学を学んだようなので、それが北森氏の独創的な「包む」思想ないしは「神の痛みの神学」として結実し、その自画自賛的思弁が著書の中で随所に現れています。たとえば次のような文章です。※太字は自分。

最後に語られるべきことは、十字架の神学としての神の痛みの神学の実践的意義である。十字架が神の痛みであるという事は、十字架が決して現状肯定を許さないことを意味する。福音における罪の赦しは、罪を現状肯定的に放任することを意味しない。赦しが十字架において成り立ち、十字架が痛みの真理であることは、赦しが罪の具体的実際的な克服を必然的に伴っていることを示す。ここにキリストの復活と聖霊のわざが成立する。神の痛みが痛みを克服突破せる勝利の「愛」へ出るゆえんである(イザヤ書六三・一五参照)。痛みは自己自身の内に勝利の愛(復活と聖霊の真理)をもっている。十字架が勝利凱旋である(コロサイ書二・一五)。今我々にとって最も重要な点は、この勝利の愛が十字架の愛の外から付け加わるごときものでなく、十字架そのものから生み出されて来るという事である。倫理が福音そのものから生まれて来、律法が福音そのものによって成就されるゆえんである。しかし、倫理や律法は福音から生み出されながら、あくまで福音とは区別される固有性をもつ。さればこそ、この他者を自己の責任として自己の内に包む福音は、直接的一元的な「神の愛」ではなく、外を外として内に包む「神の痛み」なのである。外を徹底的に外として認識しつつ、しかもその外を内に化してゆくことこそ、実践にほかならない。外が固有の意味において外でなく、始めから内に入っているなら、外を内に化してゆく実践は出て来ない。また外が単に外として立てられるのみで、この外を内に化してゆくという念願がないなら、ここでもまた外を内に化してゆく実践は出て来ない。二つとも痛みなき立場たる点で共通している。痛みなき立場から実践が出て来ないゆえんである。>(北森嘉蔵著『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p37~38)

観念的な人は理屈ばかりで実践が無いと批判されるので、言わば「実践」コンプレックスを抱えている傾向があります。上記引用の北森氏の文章はまさにそのことを如実に現わしています。しかし思うに、しょせん観念の操作に過ぎない神学的思弁において、いかなる意味の「実践」があり得ると言うのでしょうか?少なくとも上記引用文で北森氏が言わんとしている「実践」などは、世間ではおよそ「実践」と呼ぶには相応しくないとみなされるでしょう。一般的には「実践」と言えば「社会実践」です。だから北森氏も後述のとおり、「社会(解放の)実践」を言うわけです。しかし御本人が具体的にどのような「社会(解放的)実践」をなさったのかは定かではありません。だから所謂社会派キリスト者と同じ土俵にのれば、どうしても観念的であるとの誹りを免れ得ないのです。

キリストの福音から真の社会解放の実践が生まれるべきことは必然的である。しかしながら注意すべきは、キリストの死は決して単に社会解放的実践のための死につきるものではなかったことである。抑圧と貧窮とから救わるべき人間は、まず根源的には罪より救わるべきであった。〔※「罪より」の各文字に傍点あり。〕(マタイ伝九・二―七参照)。キリストの苦難と死とはここにその固有の意味をもっていた。この「深さ」への認識ある者にして始めて、社会解放的実践という「広さ」へ出ることができるのである。しかも「深さ」に覚めた実存が「広さ」へ出てゆくことは、福音より見て必然的となる。ここに単独者としての実存が福音によって社会性へ転換せしめられるのである。(中略)福音的実存は自己の深淵をば神の痛みによって支えられつつ、この痛みを自己の実存によって受け取り、社会隣人の無底の深淵を支えつつ、具体的な社会実践に打ち出るのである。>(~『哲学の神』p84~85)

北森氏は、福音信仰における「実践」を語る以上、社会的風潮にとらわれず、クリスチャン独自の霊的意味の「実践」を大胆に語るべきだったのです。それはほかでもなく、隣人愛の実践です。自分の十字架を背負いキリストに従うという信仰の実践です。それはまずもって個人的な実践であり、社会(解放的)実践とは言えないとしても、また、そのような展開にならないとしても、対神関係にもとづく対人関係においては不可欠とされる信仰の実践なのです。自分の承認欲求などは抑えたうえで、あくまでも信仰共同体の形成に仕えるための実践です。俗世間の通常の人間関係でならなすべき言動をなさないという判断が必要になる場合があります。すくなくとも怒りは禁物です。さりとて、ただ強い意見に妥協したり、なんでも肯定することが教会の徳を高めることにならないことは言うまでもありません。できるだけ波風を立てずになあなあでやるのは世間の常道です。信仰共同体では、時には愛ある批判も必要になるでしょう。しかし基本は互いに相手を裁かないということです。強者が弱者をゆるさないと成り立たない面もあります。いずれにせよ、自力だけでは不可能であり、聖霊による他力としての「神のはたらき」を待ち望むことが肝要です。但しその「待ち望む」という行為は消極的な受け身ではなく積極的な態度であって、祈りと共に信仰における行為の基礎とも言えます。

< 信仰は、たとえ生活の中にいかに手ごわい「敵対的」な現実が現れようとも、それにろうばいさせられず、その「外」をも「内」に包むことによって、絶対の平安を保証する。しかし、そのときにも、「外」の「外」たる固有性は融通・解消されてはいないから、その「外」を現実的に「内」へまで化して行こうとする戦いの実践がつづく。〔※「現実的に」の各文字に傍点あり。〕 しかし、その実践は、ただ人間の力のみを頼りとする実践ではなく、自己の背後を超越的な力に支えられているという信仰によってなされる実践であるキリスト者は、背後において神の力に支えられながら、前面において戦いへと出で立たしめられるのである。>(~『対話の神学』p87~88)

ですから、表面的には観念的な「実践」ではあっても、現実的には正しいのです。キリスト者の「実践」は隣人愛であれ何であれ、人間の自力作善であってはおかしいのです。つねに聖霊の働きという他力作善として生じてこないと福音主義の「信仰のみ」ではなく、カトリックの「信仰と行為」になります。

<もしイエスの真理を単に超越的・奇跡的に説くだけであるなら、あるいはそれは人間の頭の上を素通りしてしまうかもしれません。〔※「単に」の各文字に傍点あり〕 これが、「人生とからみ合わない」・「人生に密着しない」キリスト教となるのです。人生というものの皮を切らせ、肉を切らせ、骨を切らせて、福音を徹底させるということにならないのです。頭でだけ理解される「観念的」なキリスト教、「卒業信者」を生み出してゆくキリスト教です。>(同上、p145)

観念的な教義学者の代表と言える北森氏の口から「観念的」なキリスト教などという言葉が発せられるというのは、私から見ると皮肉のような感じがします。もっとも、思索が観念的であることは必ずしも人格的欠陥とは言えません。私のようなある種の人々にとっては、それは先天的なもの、宿命的なものだとも言えます。物事は何でもマイナスだけではなくプラスもあるもので、その比率は一定ではなく、たいていはマイナスの方が多いのでしょうが、観念的傾向というのもプラス面はあります。それは精神の安定のため、ぶっちゃけて言えば現実逃避の手段としてという意味です。これがなかったなら自殺するか狂気に陥るか…いずれかだったということもあり得るのです。当人にとって客観的現実が苦しく、生きづらいものである場合、内面が深ければそこにもうひとつの現実世界を創造することができます。それはアニメ的ファンタジーという意味ではなく、具体的な現実を抽象的な観念の操作によって自分に都合よく解釈して形成される世界ということです。それは「人生とからみ合わない」ということはないのですが、「人生に密着しない」というのは言えるでしょう。人生に関係し過ぎると福音が社会派イデオロギーに侵されてゆきます。そして教会内の対人関係も世俗の団体のそれと同じようなことになってしまうのです。すなわち十字架にならない関係…対神関係という垂直線と交わらない水平線としての対人関係…ということになります。いろんな人々の人生、特にキリスト教ではイエスが当時のユダヤ社会で抑圧されていた下層民に接触したということのゆえに、現代社会における被抑圧者の人生を問題としますから、おのずとルサンチマンぽくなるわけです。それは私のような者には息苦しさを感じさせる場合があります。だからここは他人の人生ではなく、一般化できない本人独自の人生観でなければダメです。その内面の深みが無いと逃げ場をつくれないので人は絶望に陥るのです。最悪の事態を迎えることにもなります。不幸中の幸いと言うべきか、客観的現実における幸福を得がたい人間は、その分、主観的現実における慰めを求めるのです。 

 

三島由紀夫氏の50回目の「憂国忌」で登壇された執行草舟氏は、青少年にして三島氏の小説『美しい星』に出てくる「人間の肉体でそこに到達できなくともどうしてそこへ到達できないはずがあろうか」という言葉を通して、魂のために肉体を投げうつ生き方こそ人類の生き方であるということが三島文学を貫いている思想の中枢であることに気づいたそうです。そしてそのような所感を三島氏本人にぶつけてみたところ、三島氏から「魂のために命を投げ捨てることができる生き物こそが人間なんだ。私はそのことだけを自分の文学に書き残したいと思って生きて来た」と言われたそうです。そこでさらに、魂のために肉体を捨てるということはどうやったらできるのかといったことを問うたら、三島氏からはそれも『美しい星』の中に書かれてあると言われ、その言葉は「愚かしさの中で、敗北の中で、苦痛の中で、惨めさの中で、聖性を夢見ることによってそれは成立する」ということで、これは自分の肉体を投げ捨ててでも到達したい憧れにゆくことができるということだそうです。私なりに要約すれば、聖なる心は愚かしさや敗北や苦痛や惨めさといった否定的媒介によって成立するということでしょう。その逆説性は聖書の福音と共通します。

しかし問題は三島氏が言われた「魂」の意味です。それが聖書で言われている「魂」とは異質なものであることは、そのために肉体を捨てるという考えになっていることでわかります。創造信仰を前提としない人間観は、私には共感し得ないことです。聖書は体も魂も、すなわち肉的命も霊的命も両方を尊重しています。だから魂のために肉体を疎かにするとか犠牲にするとか自殺するとかいう思想にはなりません。

たしかに、新約聖書にもヨハネ15:13の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というような言葉がありますが、それは友か自分か、隣人か自分か、どちらか一方しか助からないような極限状況での心がけであって、武士道的倫理とは関係ありません。通常から心の中にとどめておかないといざという時に実行できないから書いてあると思えばよいのであり、けっして犠牲の死を奨励しているわけではないと受けとめています。人は創造信仰により自分の生命の尊さを身に染みて感じてこそ、他人の生命の尊さもわかるわけです。だから「生命よりたいせつなものはない」のであり、それがイエスの「安息日論争」の記事に示されているのであり、クリスチャンにとっては聖書でさえも律法的な扱いをするのであれば、それは生命の尊さに並び得るものではないのです。すなわちクリスチャンが隣人愛において自死することがあるとするなら、それは聖書にそう書いてあるから…という理由によってではなく、その時に聖霊のはたらきを受けた結果としてなのです。

 

 

幸福志向と救済志向

ただボーっと生きているだけでは意味が無い、何かのために生きなければ……などと思うのが人間です。

ところで「ウェストミンスター大教理問答」の最初の問いは、「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」であり、その答えは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶこと」だと言われています。その根拠とされている聖句を4つ引用します(~聖書協会口語訳)

(1)ローマ11:36 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」

(2)コリント一10:31「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」

(3)詩篇73:24~28 「あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身をわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。」

(4)ヨハネ17:21~23「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。」

同じく「小教理問答」では、「人のおもな目的は何であるか」という問いに対して、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」と言われています。根拠聖句は上記のコリント一10:31とローマ11:36と詩篇73:24~28の3箇所です。

一方、「ハイデルベルク信仰問答」の最初の問いは、「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」であり、その答えは「わたしのからだも魂も、両方とも、生きる時も、死ぬ時も 、わたしのものではなく 、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです 。」とのことです(根拠聖句は、イザヤ書43:1〔「恐れるな、わたしはあなたを贖う」他割愛〕、ヨハネ福音書10:27~28〔「わたしは彼らに永遠の命を与える」他割愛〕、ローマ14:7~9〔「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」他割愛〕)。さらに、日本キリスト教会の2017年の「大信仰問答」では、第一問が「人間は真に生きるために、何を求めるべきでしょうか」であり、答えは「まことの神を知り、神を崇めて、生きること」であるとされています。根拠聖句は、旧約が申命記30:20をはじめとし、新約はマタイ4:4をはじめとして、それぞれ全部で約10箇所(句ではない!)も挙げられているので、ここでの引用は2つだけにとどめます。

申命記30:20「すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」

マタイ4:4「イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」

なお、「ジュネーブ教会信仰問答」の第一問は「人生のおもな目的は何ですか」であり、その答えが「神を知ることです」というのは有名です。神認識は、自分がすでに与えられいた対神関係を自覚することを意味します。この関係こそが信仰を与えられている者にとっての存在根拠にほかなりません。究極の居場所というわけです。イエスが言う「神の国・神の支配」とは結局、対神関係であると私は思います。

自分の肉欲を満たすことばかり考えて生きるのはヤクザであり人間のクズと蔑まれる人たちです。常人はそこまで堕ちたくはないと普通は思います。マズローの欲求階層説のように多くの人は生理的欲求だけではなく承認欲求を持っています。それは肉欲ではなく理性的に…すなわち人格的に満たすべき欲求ですが、無用なプライドが人間関係のトラブルの原因となります。

たしかに生存しているだけで人生に何の目標も楽しみも生き甲斐もなく、特に高齢になって趣味さえなければ、何のために生きてるんだろう……という疑問を感じてもおかしなことではないでしょう。八木誠一氏によれば、「人間は大体において究極的関心を持っているもの」だそうですが(~『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p70)、それってある程度の教養とか思想性がある人の場合でしょう。差別的な言い方かも知れませんが、いわゆる下層労働者の頭の中には「究極的関心」などという概念自体ないでしょう。八木氏自身がインテリだからわからないのです。そこで言われている「何であっても、それが失われたら自分の生きている意味がないようなものを持っている」というのは、キルケゴールかぶれの学生かなんかの青くさいセリフのようですが、その「自分」などは実社会で他人との関係の中で傷つけられ傷つけることにおいて変わってゆきます。一般的に、「それが失われたら自分の生きている意味がないようなもの」の典型は家族でしょう。結婚して子供が生まれた人には、その家庭を守ってゆくという大きな目標があり、その団欒の楽しみがあります。でも世の中には人生の目標を失って無気力に陥っている人もいます。

しかし八木氏は、< あるいは持っていないかもしれない。その場合でもしばしば、「ほんとうはそういうものがなくてはならないのだが、いろいろな事情で持つことができない」という諦め、なにがしかのニヒルがみられ、そこにやはり究極的関心事への志向があらわれている。>と述べています(…以上の引用は、前掲書p70~71)。無きに等しい人々の中からクリスチャンとして選ばれた自分の究極的関心事はズバリ「救い」ということになります。それも人為的なことではなく、つまり人間による救いではなく、あくまでも神の救いです。そのような人間は「宗教的実存」と言われますが、いい年をして定職にも付けず、フリーターのようなことをして生活しているままでは非本来的な生き方ということで社会的人格が成り立ちませんが、政治団体とかキリスト教会などに入って活動するようになれば、社会的地位としては何ら進展しなくても、その団体とか教会の共同主観においては、つまり仲間内では、とりあえず路傍の石の如き空しい人生は回避した実存的な生き方ということになるわけです。でも社会一般においては所詮、「負け組」であり(古い表現では)「落伍者」であるわけで、客観的にはどう見ても幸せな人とは言えません。敬われたり羨ましがられることはないが、いかに下流に生きていてもその人たちなりの信念や誇りをもって、借金はなく罪を犯さずに家内安全で生きているなら、蔑まれることはなく憐れまれることもなく、その点では救われている人だとは言われ得るでしょう。

「幸福」はこの世のことで「救い」はこの世だけではなくあの世のことでもあります。そして「幸福」はいつ「不幸」に転じるかわかりません。バブル経済などに見られます。しかし「救い」はいつ「滅び」に転じるかわからないなどということは、すくなくともユダヤキリスト教においてはないです。

人生の究極の目的は「救われること」であって「幸せになること」ではないのです。「幸福」は相対的で有限な価値観であり、宗教的意味の「救済」は絶対的で無限な価値観であると言えます。ところで八木誠一氏は旧約聖書の『ヨブ記』に関して以下のように述べています。

<この世のありのままの現実とは、病があり死があり、地震津波も噴火も暴風も病も飢饉もある世界である。戦争も奴隷化も差別も格差も、罪悪も嘘も悲惨も苦悩も不条理もある世界である。人は、義なる神のもとで「なぜ」不義が栄えるのかという「神義論」を問うてきた。しかしその「なぜ」に答えはない。例えば、旧約聖書の『ヨブ記』は、ヨブが見神によって「我」を捨てたという観点から一般には理解されているが、実はさまざまな粉飾が施されているから、一見しては読み取りがたいけれども、ヨブは「義・不義と幸・不幸は別問題だ」と語るのである。>(~『回心』p194 濃い字は自分。)

このように、言い方を変えれば、この現実世界の価値観における「幸・不幸」と、霊的世界の価値観における「救い・滅び」とは別問題なのです。

 

「お前たち、主を捨て、わたしの聖なる山を忘れ/禍福の神に食卓を調え/運命の神に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。」(新共同訳 イザヤ書65:11)

「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、」(口語訳 同上)

※新改訳は、上記で「禍福の神」と訳されているところを「ガド」、「運命の神」を「メニ」と訳している。明治(文語)訳は、「ガド(禍福の神)」と「メニ(運命の神)」というふうに両方で訳している。

 

「禍福は糾える縄の如し」と云いますが、現実世界は相対世界でいろんな二項対立があるとは言え、人は「不幸」の無い「幸福」だけの人生を望みます。苦難の経験にも成長的意義があるなどと言える者は余裕があるのです。ちなみに矢内原忠雄氏は、敗戦のような国難級の苦難について次のように述べておられます。

<この苦難に処する第一の必要な態度は、エレミヤが説いたように、我々がこの苦難をば神の手より受けるということであります。この苦難は神の与え給うところであるという信仰であります。今日の苦難のきたった根本的原因は、神に対する我々の不真実であり不義であったということを認めることが、第一の必要な条件であります。従ってこの苦難は神の懲しめである、神の審きである。これが必要な、また正当な認識であるのであります。神より受くる当然の懲しめであり、審きである。かく信ずる時に、かく知る時に、私どもは本当に謙遜な心になって、無条件に、理屈なしに、この苦難を受け取ることが出来るのです。これをその信仰に立たないで、人間から受ける苦難であると考えるならば、例えばアメリカから蒙るところの苦難であると考えるならば、誰でも一種の憤りを有つ。〔※「有」に「も」とルビあり。〕抗議を有つ余地がありましょう。しかしそのような反抗心、あるいは復讐心、あるいは怨みに思う心をもってこの苦難を受取る間は、苦難の解決はきたらないのであります。昔、エレミヤの時に神はバビロンを用いてイスラエルを審き給うたように、今日神はアメリカを用いて日本を審き給うたのであります。苦しいけれども、苦難の中にあって私どもは眼を閉じ心を澄まし、じっと我慢をしてこの苦しみを神から受ける。苦しみに対ってあらがわない。〔※「対」に「むか」とルビあり。〕この信仰的態度が、病気の治療のためにまず大切な態度であるのです。苦難によって従順を学ぶ。我らは罪を犯し、エホバこの苦しみを与え給うのであるから、我らは黙してこれを受ける。その心、その態度によって、私どもの心に平安が臨むのであります。しかして心に平安を得ることは、肉体の病気でも同じでありますけれども、病状好転の第一歩であるのです。審きは神に委ねよ、苦しみは神より受けよ、であります。>(説教「日本の傷を医す者」~『日本の説教11 矢内原忠雄』〔日キ教団出版局〕p195~196)

上記の「信仰的態度」は個人レベルでも応用されるべきことだと思われます。

高倉徳太郎牧師はヘブル12:10の「霊魂の父」の懲らしめの聖句を引用した後、次のように述べておられます。「苦難によりて神は強者を挫きて、自己の弱さを識らしめ、傲慢なるものをくだきて謙らしめたもう。」ここでパウロの「肉体の刺」にふれ、「自己の力に信頼し、自己の性向を押し通さんとするとき、神は苦難によって我らを謙らしめ、神への信頼と従順とを新たに学ばしめたもう。」と述べておられます。 以上、高倉徳太郎牧師の言葉の引用は、『日本の説教8 高倉徳太郎』(日キ教団出版)より。

コロナ禍の状況になってあらためて自覚させられたことは、宗教的な救いということも身体性を抜きにしてはあり得ないということです。霊魂だけの救いでは救いにはならないのです。なぜって人間は心身霊肉全体でヒトだからです。肉体だけでもヒトではないし、霊魂だけでもヒトではありません。ヒトが真に救済されるためにはその心身霊肉全体が救済されなければならないのです。

それはどうすれば可能になるかと言えば、まずひとつ言えることは、聖餐に与りキリストの血と肉を頂くことです。これが身心霊肉の全体的救いを象徴しています。実際は、身心の救済はこの現実社会の中に自分の「居場所」を与えられることです。経済的に「衣・食・住」の生活手段を確保することです。そして健康が支えられること。これが身心の救済です。これなしには霊魂の救済などあり得ません。だってヒトは現世において肉体を抱えて生きるからです。霊魂救済だけを求めるグノーシス主義的な人は、下手をすると薬物中毒になり、さらには安楽死を望むことになるでしょう。ところが、八木氏の思想においては「居場所」は「神の支配」ということになります。

<居場所がないのは、ホームレス、苛められっ子、部外者、異分子、よそ者、のけ者、邪魔者、アウトサイダー、落ちこぼれ、窓際族、ガイコクジン、差別される人、要するに本拠のない、あるいは本拠から外に連れ出された人間、身寄りもなく、取り仕切っている人たちからはトゲトゲしい眼で見られる人間、周辺化されて相手にもされず、定住することもできず、孤独で無力な人間である。会社でも学校でも、自分の勤め先のことを「ウチ」という人がいる。「ウチではこうこうで……」。こう言えるのは、自分の居場所を築いた幸いな人である。居場所がない人は不幸である。生活の安定も、こころの安定もない。居場所を失えば、錯乱状態にすらなる。イエス自身はどうだったのであろうか。(中略)『狐には穴があり、鳥にはねぐらがある。しかし、人の子には枕するところもない』(中略)実際、イエスは公生涯のあいだ定住せずに巡回伝道をしていたようである。そして居場所のない人々のもとに行って、神の国を宣べ伝えた。(中略)イエスにとっては、神の国に入ることが何よりも大切だったのだ。(中略)こうしてイエスは「居場所のない人々」に神の国を宣教した。神の国を求めなさい、君たちは神の国に居場所をもつことができる、というのである。(中略)若くして殺されたイエスは、「ここ」を神の国のはたらきの場所に転換するすべを具体的に(たとえば行の方法として)示さなかったし、神の国を表出する教団を組織することもしなかった。まして、圏(生活圏、経済圏など)を全体として神のはたらきの場所に転換する方法を説くことはなかった。しかしイエスの言葉から、われわれは以下のメッセージを読み取ることができる。それは、「君たちはこの世界に居場所を求めるけれども、不動の居場所はありえない、そのつど仮の居場所を見つけるだけだ。ほんとうの居場所は神の国にあり、そこに居場所をもつ者は、仮の居場所が神のはたらきが現実化する場所に転換されるのを見るだろう」というものである。さらに言えば、イエスはこの世界に「居場所」のない人々こそ、神の国に居場所を求め、見出だすだろうと期待したように見える。その期待は正しかっただろうか。民衆は、イエスがこの世で彼らに居場所を与えることを期待したのではないだろうか。イエスエルサレムに入城したときには歓呼をもって迎えた人々は、イエスが十字架につけられると祭司長、律法学者と一緒になって、イエスを処刑せよという(略)。イエスはこの世界に居場所をもつどころか、十字架につけられて、この世界から排除されてしまったのである。神の国を居場所とする者には同様の覚悟がいる。換言すればそれでも神の国を求める者が神の国に入るのである。>(~『イエスの宗教』p189~193)

但し、身心の救済が行き過ぎると俗に穢れて霊魂は救われません。何ごとも程々が重要なのです。すなわち社会の中に居場所を得るということが、他人との比較において、より優越しようと欲することです。マズローの5段階欲求階層では特に「承認欲求」が霊魂救済への妨げになります。だから「居場所」は身の程をわきまえたものであること、知足知止が賢明なのです。

極端な話、宗教者は霊魂救済を旨とするのだから社会生活などどうでもよく、身分がホームレスに堕しても宗教的価値観によって生きることができる……などということは現実には無いのです。それをあり得るかのように思うのが観念癖なのです。現実の社会生活をおろそかにして宗教生活などあり得ません。だから私は、仏教は小乗よりも大乗の方が救済宗教として相応しいと思うし、キリスト教でも世間から閉鎖的な観想修道院的なあり方にはなじめません。小田垣氏の「二重性」の真理観で言えば、「聖」は「俗」においてあるわけで、「俗」から離れた「聖」などは観念にすぎないのです。

さりとて、社会生活に欲が出過ぎると宗教生活は崩壊します。ヒトは宗教哲学的な観念のみによっては生きることはできない、救われることはできませんが、他者との優劣比較にはまってしまってはなおさら救われることができないのです。むしろ現実世界が他者との優劣を競わされる構造になっているからこそ宗教的な救いが求められるのですが、現実世界から逃避して内向きになることが宗教的な救いではないのです。観念操作は一時的な慰めの効果を発揮することはあります。いわゆる自己啓発なんかがそうで、意識を変えるために観念操作をするのです。ある種のマインド・コントロールです。でもそういった観念操作だけでは救われないから、実践を必要とします。それもカルト宗教的実践ではダメで、地に足をつけた生活実践です。まずもって生命手段としての労働……暮らしのために働くという家庭生活実践。その次の段階が教会生活実践。前者が基本にあってこそ後者が成り立つのです。家庭生活が破綻していては、教会生活をやろうとしても実際にはなかなか困難をきわめるでしょう。

聖定信仰においては、キリストのためなら苦難を経験する(パスコー)ことも恵み(カリス)なりです(~フィリピ1:29)。そこでは「カリゾーマイ」(施す、賜う)の受動一過「エカリスセー」で「恵みとして与えられた」を意味し、また、「単に彼を信じるということだけではなく、また…」(ピストゥーエイン アッラ カイ…)と(「アッラ」は通常は反意接続詞だが、ここでは繋合接続詞)、いかにも信仰だけでは不足であるかのような言い方がなされていますが、こういう表現が「信仰のみ」に矛盾する誤解を与えるのです。苦を受け入れることもまたキリスト信仰の内なのです。だからここの「信じる」は「信頼、信仰」とまでは言えないレベルとして解するしかありません。


以下、私が最も尊敬するキリスト教指導者の矢内原忠雄氏の言葉を引用します。〔 〕のルビは自分。

「世間の人は神などあるものかと、神を無視して我まま勝手に行動していました。しかし『神は目を開けていらっしゃる!』その事をエレミヤ一人が見抜いたのです。散歩から帰って彼は台所で鍋の煮え立っている様子を見まして、ハッと気が付きました。『災禍〔わざわい〕が北から来る!』そこで彼は叫んで同胞国民を警〔いまし〕めました。『諸君あぶないぜ。諸君の生活諸君の行動を反省して神の前に正しい行いをしなければいけない!』と。国民が皆虚偽の宣伝によりいい気になって、自分の国の正義と繁栄とを過信していた時、エレミヤ一人事の真実を見分け、彼一人真実を語りました。しかし真実の人の運命がいつもそうであるように、彼も国民に受け容れられませんでした。彼は殴られ唾せられました。彼は悲哀の人でありました。内村先生がまた悲哀の人でありました。(中略)大正十二年(一九二三年)関東震災の時、内村先生は国民の罪をその中に認め震災はこれに対する天譴なりと唱えて国民の悔改を促した。しかし先生の得たるものは嘲弄のみであって、何らの国民的悔改は起らず、後の状態は前よりもひどくなった。最近三陸地方の地震と海嘯〔かいしょう〕は我々を驚かし、政府も新聞もこれが救済に奔走した。しかし神を怖れ国民の罪の悔改を促がす声はどこよりも聞かれなかったのである。このたび被害地方は満州事変の従軍兵の出身地である。さらでだに飢饉状態に悩める三陸地方の無辜〔むこ〕の住民がかかる地震の惨害を受けたことには、我が国のどこかに恐るべき罪があって、その天譴をここに下し給うたのではあるまいか。天譴はそれに値する責任者の上に直接に課せられる時よりも、国民中直接責任なき最も弱小なる部分に負わせらるる時において特に深刻である。我が国民は果して悔改むべき罪なしと言い得るか。虚偽は我が国になかったか。約束の蹂躙はなかったか。隣家の牡羊を掠めはしなかったか。神は日本国民に向って悔改を促し給う。国民的罪の悔改か否か日本の興るも亡ぶも全くこれにかかっていると私は信ずる。」(~『日本の説教 11 矢内原忠雄』〔日キ教団出版局〕p17、22~23 ※太字は自分による)

天譴とは天罰と同義であり、キリスト教徒である内村氏において天罰は神罰にほかなりません。現在の「コロナ禍」にあっても、エレミヤや内村が持っていた預言者精神が発揮され、天譴ならぬ神譴として語られて然りです。実に日本資本主義の父とも言われる渋沢栄一氏も関東大震災の時に天譴を論じたとのこと。

東日本大震災によせて~渋沢栄一の『天譴論』と『因果倶時』 – 無用の用~高井伸夫の交友万華鏡

私見では、その渋沢などによって始まった日本資本主義こそが、三島由紀夫が空っぽでニュートラルな経済大国になると預言した堕落せし日本の元凶なのであり、天譴はまさに経済大国という無用なプライドによって慎ましい日本人としての道徳心を失い、同志社香里高校ダンス部のミニスカ姿のキレキレダンスなどに見られるキリスト教主義を看板とした学校の恥さらしにも反映されているように(個々の人々は不信仰なのだからしょうがないので)、そのような堕落した教育現場をよしとしているキリスト教団体ないしは教会組織にこそ向けられていると私は思うのです。その点では教会主義よりは無教会主義の方が、宣教に付随した社会事業を行う場合にも、より福音的形態をとりやすいということはあるのかも知れません。

東日本大震災にせよコロナ禍にせよ、死者を出すような歴史的大惨事に関して迂闊に天譴などを語ることは、いかに預言者精神云々と言っても配慮を欠くと非難されるは必至です。しかし福音伝道者なら聖霊に感じたことは、語るべきであると確信するなら、預言者エレミヤなどのように世間からの非難などを恐れず大胆に、与えられた聖言によって(聖句の文脈的制約など関係なく)覚悟の上で語ればよいでしょう。私は日本だけの災害ではなく、世界全体の災禍であるコロナ禍の方にこそ天譴ならぬ神譴を感じるのです。ただ、コロナ禍からの救いという安全な説教ばかりしている者は偽預言者です。すくなくともコロナ禍も創造主の許容なしには生起し得ていません。であるならそれが直接的な終末予兆などと断言することはできないにしても、「コロナウイルスの危機とその結果は、主の再臨に先立って起こる出来事のリハーサルとなる」くらいのことは言えるでしょう。

コロナウイルスは終末のしるし? 現在の危機から教訓を引き出す – セブンスデー・アドベンチスト教会 (adventist.jp)

コロナ禍の摂理的意味は、終末・再臨への心備えに緊張感を取り戻す機会であると読み取れるのです。預言者的福音宣教者は、パンデミックのような苦難の時にこそ神の審きを語って然りなのです。そしてふだんは終末のことすら思い及ばない多くの信者に対して、コヘレトの「空」(ヘベル)的厭世観を否定媒介とする再臨待望を惹起せしめるのです。そう、聖書信仰的厭世観はコヘレトの空観に関係する厭世観であって、有神論的厭世観無神論厭世観すなわち単なるペシミズムではありません。

ところで、いかに聖書の宗教はいわゆる御利益宗教といわれる日本の新興宗教の如き低俗なものではないなどと言っても、たしかに「福」を信心の目的とはしないとは言え「禍」が続くと神への不信感が生じることはあります。現在の「コロナ禍」の状況の中で、教会は一堂に会する礼拝をできていないところもあるし、そんな中で信者の中には神義論的問いや不信感が醸成される傾向もあるでしょう。

そんな中、牧師が礼拝説教で、「私から言うとね、『そんな神様ならいらねー』『そんな神様ならいらない。』私の知っている神様はねえ、そんなに冷たくない。」と言ってはダメなんです。その前後の文脈は自助の問題ですが、その主旨は聖書的に正しいとしても…です。どんなにもっともらしい理由があっても、牧師が説教において「そんな神様ならいらない。」などと言ってはならないと私は思います。あらためてテレビというものの恐ろしさを痛感させられますが、私も個人的に電話でお世話になったことがある奥田先生ほどの人であっても、NHKの番組に出演されて一躍有名になると、そういうことも口にされるのかなあ、それとも元々、そのような説教をされていたのかなあ、などと失礼ながら生意気にも思ってしまいました。

https://www.youtube.com/watch?v=hDNmdh76EJU 

(19:00あたりから)

社会活動では誰からも尊敬されるとは思いますが、だからといって思ったことをなんでも言っていいということにはならないと思います。特に牧師として講壇に立つ場合にはなおさらでしょう。何故なら、それを聞いた信者たちはどう思うか?といえば、聖書が示す神は人間の都合で要る,要らないを決めることのできる相手だということになります。これは聖書の主旨に反します。確かに、聖書が示す普遍なる神はキリストという個における自己限定によって対象化され、人間に対して必要とされる存在となられました。すなわち罪人は救い主を得て、その信仰において存在を肯定されることになりました。万人個々の必要はすべて御存知のお方として、しかし根源的に罪人にとって必要であるのは救いであり、その主である御自身を啓示されたのです。この特殊な福音を信じる者としては、かくかくしかじかの神を必要としますと言うことは許されますが、あくまでも賛美に反しない限りであり、当然、肯定的な言い方になります。神に対して、あなたは私たちの人生にとって必要なお方です…という肯定的な言い方は許されても、あなたがかくかくしかじかであるなら、私たちには必要ではありません…などという否定的な言い方は許されません。ハレルヤに反するからです。

ところで、ローマ9章では、「栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器」と「滅びへと造られた怒りの器」とがあることが示されています。前者がイスラエル民で後者が異邦人を指すのかどうかはわかりませんが、神の聖定には「滅びへと造られた」者が存在するということ自体、厳粛かつ慄然たる思いがします。

私自身は、信仰が観念的だとか何だとか非難されようとも、「コロナ禍」パンデミックに「霊の父」(ヘブル書12章)たる神の懲らしめを仰ぎます。大震災にしても同様です。多くの死者の霊に対して頭を垂れつつも、これは自分の信仰的所感として憚らず書かねばなりません。特にいきすぎた資本主義経済への警鐘としての意味を感じます。それは政策だけのことではなく、所得で人間の価値や人生の意義を測るような世の中の風潮に対する鉄槌であり、偏差値教育も糺されることだと思います。

聖書が示す神の対世関係は、直接的摂理ではなく、自然法則を用いた間接摂理であり、理神論的観方にも一理あるとするにせよ、また、希望という事はそもそも絶望的状況あってのことだから、個人的にも終末(論)的信仰は構造的に否定的媒介であるにせよ、やはり自分が聖人などではない以上は、不運としか思えない出来事が続くとさすがに信仰心の萎えを感じるものです。問題はそこで幸福志向が挫折し救済志向へと転換するか否かでしょう。

ところで量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。

<……イエスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209 ※太字は自分による)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請されるというわけです。しかし新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。従って、この箇所を私なりに敷衍すれば、イエスの神性は切実なる終末救済の要請において認められるということです。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。信仰要件について、頭の中の観念では受け入れがたいこと、特に史実とは言えない復活などは、救いの実際的必要性から捉え直してゆく時に、受け入れられるようになる…ということです。幾何の問題であるとばかり思っていたものを関数の問題ではないかと見直してみることによって謎が解けるという例えのように、視点のベクトルを変えてみるのです。これは私のような観念的な人間にとって、信仰の秘訣でもあります。すなわち、コヘレト的「空」観による聖書的厭世観から終末信仰の意義をつかみ、再臨待望において神の子キリストの意義をつかめるのです。その場合の「神の子」はダニエル書7章で預言されている「力ある者の右に座し、天の雲と共にやって来る」ところの「人の子」にほかなりません。それをイエスは、十字架刑に処せられる前の裁判で、大祭司から「お前は讃むべき者の子キリストか」と問われた時、これを肯んじて引用し、これが直接の死刑理由とされたのです(マルコ14:61~64、マタイ26:63~68、ルカ22:67~71 ※ルカでは再臨とまでは言えない。ヨハネの裁判の場面は共観福音書と全く違う。)。再臨のキリストへの信仰は十字架と復活のキリストへの信仰と密接に結びついているのです。十字架<復活<再臨という関係です。苦難は終末の新天新地の到来なしには解決されないのです。

自分も職場での人間関係における出来事をきっかけとして「社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験」したのです。但しそれは人類が被害者としてというより加害者としてであり、原罪を有つゆえの悪魔性と、それによって生じる闘争関係の地獄的現実の苦しみです。そこから救われるためには、真に人にして真に神であるような超越かつ内在的な救い主を必要とするのです。さらに同書より引用します。

<たしかに、老・病・死は苦である。このような苦を内にかかえこんでいる生自体が苦である。(中略)現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。(中略)このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶対絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。>(p215~216 ※太字は自分による)

コヘレト的「空」虚感に包まれるような厭世観を持たずにはおらないような世界の現実があるのに、それをいろんな娯楽などで誤魔化しているのが俗世間に生きる罪人の有様です。でも現実を直視するなら、この世界を脱構築でも刷新でもなんでもして、新天新地を到来せしめる神の力を求めるしかないのです。その終末の始まりを告げるキリストの再臨こそ待ち望まれるのです。だから再臨せるキリストは人間ではあり得ないわけです。超越者すなわち神性を持つことになるのです。だから我々は創造主である「絶対他者」を信仰するというだけでは不十分なのです。それは宗教哲学ではあっても宗教ではありません。救済の必要から言えば、どうしてもキリストが仲介者として出てくるのです。「絶対」とか「普遍」だけでは済まないのが宗教の現実であり、救済の特殊性がキリストという媒介者を招来せしめます。そこから自己相対化された神、普遍から個として自己対象化された神、そのような特殊な信仰に徹底するキリスト教…ということになるわけです。自分自身、キリスト教以外の一神教であるユダヤ教イスラム教の信者には現実問題、なれないのだから、救いを求めるならキリスト教において救済主を信じる以外にはないのです。つまり信仰においては、知的欲求よりも霊的救済願望の方が優るということです。前者はどうでもよくなるのです。

そうなると、聖書に基づいて「絶対他者」に該当するのは「父・子・聖霊なる神」ということになり、救い主という点では就中、「子なる神・キリスト」ということになり、「新天新地の到来」以前に「キリストの再臨待望」(マラナ・タ)が信仰の中心になるのです。ただし、「はじめに三位一体ありき」というのは間違いです。それは聖書に教義を先立てること、すなわち神の前に教会組織を先立てることを意味します。イエスが超越者(神〔の子〕)である理由は、はじめっから存在論的に三位格のひとつが子なる神キリスト・イエスとして決定しているからではありません。そうではなく、イエスに超越性を認めねばならない切迫した要請を、自分のこの世界現実感覚を通して、否定的媒介によって痛感させられるからです。それは存在論的信仰ではなく実存的信仰です。自分にとってイエスが神であるのは存在論的理由によるのではなく実存(論)的理由によるのであって、事柄の次元を異にしているのです。だから私は、イエスを神と信じ告白はしても、三位一体の神を自明であるが如くに認めることはできません。

奥田知志牧師の言葉に、「きずな」を結ぶには「きず」を引き受ける覚悟がいる…というものがあります。これは東日本大震災の後に「絆(きずな)」という言葉が流行り、それが美化された感じで言われていることに疑問を持たれたことから生まれたそうです。私も同様の感じを受けていましたので、これには共感しています。今は「寄り添う」という言葉が流行っていますが、これも「よりそう」の中に「りそう」が入っていることを自覚した方がよいです。

キリスト教の信者か未信者かの違いに関係なく、現在の日本人の多くは、聖書が示す神は天地の創造主であり「全能」といわれていることを知っています(キリスト教の基本信条の中の基本信条とも言うべき使徒信条の原型である初期の「古ローマ信条」では、神は天地創造主とはされていないが「父」として全能とはされている)。イエスも、人にはできなくても神はなんでもおできになる旨を述べておられます(※旧約聖書における「全能」に関しては、当サイトの「聖書が示す『神』に『体』はあるか?」の最初のほうをお読み下さい)。

そしてヤフーのサイト「知恵袋」などを見ると、次のような問いが投げられます。

「神が全能であり愛であるなら、なぜ人間にとって良いことだけが起きて、悪いことは起きないようにできないのか?」

世界には人間にとって善いこと(福)も悪いこと(禍)もあるという現実を認めるところからしか信仰は始まりません。それは自分自身が苦難に遭っていない人間にして言えることだと言われるのなら、無理に神を信じ続ける必要はないでしょう…と言いたい。そんなに神の義を疑うのであれば、いっそ信じるのをやめればよいのです。それを無理に信じ続けようとするから、くだらない神義論的問いが繰り返されるのです。自分が苦難に見舞われて信仰と矛盾すると言うのなら、信者をやめればよいだけのこと。それが出来ないのは滅びを恐れるからでしょうか?御子イエスでさえ、十字架刑の苦しみの中で父なる神に何故?と問いました(単に詩篇22篇冒頭句を暗誦しただけではないでしょう)。それは神の救いのはたらきを否定するようなことです。それでもイエスは神によって起こされたのです。人間もそれほどまでに神を信じられないのなら潔く神を疑い抜いて絶叫して果てればよいのです。それで滅びるか復活するかは神のみぞ知るです。信仰は最終的にはそういった賭けになります。ただ、普通の賭けと異なるのは勝ち負けの結果を当人が知ることは無いということです。

「善悪」に関する説教としては、たとえばアダムとエバが善悪の木の実を食べて開かれた目は、神のご意思を理解できない「的はずれ」(ハマルティア)の視界になってしまったという解釈が可能です。世界と人間に関する表層的な事柄ついては自分たちが裸であることを恥ずかしく思ったように目覚めたわけですが、逆に、深層にある神のご意思については見えなくなったのです。

そこで、イエスファリサイ派の人々に対して「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ9:41)と言われたことを想起します。

すなわち善悪の木というのは、人間にとっての善悪であって、神にとっての善悪とは必ずしも一致しないのです。人間にとって善いことが神にとって善いことだとは限らないし、悪いことも同様です。となれば、人間が神に対して、なぜ人間にとって善いことずくめの世界にしてくれないのか?と問うこと自体、神をないがしろにする不信仰的態度であり罪によることだと言えます。

あるいはまた、創造主なる神が「全能」だと言うなら、何故、御子キリストを十字架刑で死なしめるようなことをせずして、直接的な罪の赦しを成し得なかったのか?と問うことも、その罪による迷いであると自己批判せねばなりません。信徒が実存をかけるべきキリスト教の特殊性は、この十字架の贖罪福音としての特殊性なのであり、父なる神をより普遍的に捉えようとする志向性は排されて然りです。

以下、小田垣雅也氏が創世記の創造神話に関して述べていることを引用します。※濃い字は自分による。

<アダムとエバの物語を知らない人はいないだろうが、そこにはこうある。神がアダムのあばら骨からエバを作られたとき、二人とも「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(二章二五節)。その後、蛇の誘惑によってエバが神によって禁じられた木の実を食べ、アダムもそれを食べると、彼らは「善悪を知るもの」となり(因みにいえば、当時のユダヤ教の語法では、善悪とは「すべて」という意味である)、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(三章六~七節)、というのである。つまり、そこでアダムとエバ、すなわち人間は(アダムとはもともと固有名詞ではなくて、人間という意味)、すべてを知る者となり、自立した自意識が生まれたのである。羞恥は、自意識があって初めて生まれる。自立した自意識のないところでは羞恥もない。今日の聖句はそれに続くものである。すなわち「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞えてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」。この物語によると、神とは、人間が「もともと」結び合わされていたもの、少なくともその前で裸であっても恥ずかしくないようなものだということである。そこでは人間の自意識は生まれていない。それが、その神の前で自分たちが裸でいても、恥ずかしいと思わなかった理由である。しかしそのような神とは、人間に自意識が発生する以前のもの、その意味で、人間の意識にとっては、「意識外」にあるものであるということであろう。言い換えれば、この神は、少なくとも人間の意識にとっては、意識の届かないという意味で、無なる神であるということになる。したがって人間の意識にとっては、有とも無とも言えない絶対無ということになろう。つまり、人間が自分が自立した意識を獲得することに対して払わなければならなかった代価は、「もともと」結び合わされていた神と、切り離された自己ということである。それが、人間が自立した自己意識をもつということだ。人間の自立した自己意識は、禁断の木の実を食べることで、神の前で自分たちが裸であることが恥ずかしいと思うことと引き換えに生まれたのである。しかしこのような、「人間がもともと結び合わされていた神」とは、少なくとも人間の意識の及ばないところにいます神、つまり人間の意識にとっては絶対無なる神ということになるだろう。人間の自己意識の発生と、人間が神を対象として意識し、その前で自分が裸であることが恥ずかしいと思うようになる神とは、同じことの表裏なのであろう。そのような、神の前で裸でいることが恥ずかしいという自己意識の発生そのものが、人間の罪、原罪ということなのではあるまいか。動物は裸だが、それを恥ずかしいとは思わない。したがって、動物には自意識もない。原罪意識もないだろう。人間が神からと切り離されるされるとは、人間が自立した意識をもつということではないか。その人間に向かって神は「どこにいるのか」と問うている。神と「再び結び合わせる」、つまりレリジョンということの含意は、このような、一度切り離されてしまった人間と神との関係を「再び結びなおす」ということであるが、そのことは、人間の意識の対象外にある、その意味で、絶対無なる神を暗示しているのではあるまいかと思われる。>(~みずき教会説教「結ばれていたもの」)※太字は自分による。「レリジョン」に関しては、みずき教会説教「懐かしさ」も参照。

「善悪を知る」に関しては、< たびたび書いたことがありますが、「善悪を知る」とは、神のように「すべてを知る」ということです。つまり、神から独立した人間の成立です。もともとアダム(創世記二の五)とは、土からできた人間ということです(エヴァは「命」の意。同、三の二〇)。>(~みずき教会説教「手で考える」)

細かい釈義はともかく、小田垣氏も私も、堕罪の出来事の本質とは結局、小田垣氏は自己意識の発生、私は表層しか見えない目覚めと言い表しましたが、要するに「的はずれ」と言われているとおり、神の意志とずれた意志のために神の御心がわからなくなるということです。

ところで、この「幸福志向と救済志向」と名付けた記事の要点は、プラスはマイナスを媒介してこそ得られる……肯定は否定を媒介してこそ成り立つ…ということです。No pain, no gain! (痛みなくして得るものなし!)です。

以下の、吉本隆明氏によるヴェイユの神論も、否定媒介的だと言えるのでしょうか。

< つまり、ヴェイユの神の考え方は、たいへん、ぼくらに、ある意味では、わかりやすい考え方に近づいていますし、また、ある意味で、非常に徹底していて、神学的にいうと、あらゆるキリスト教的な信仰に対して、ぜんぶアンチテーゼだと、ぜんぶ違うんだと、苦痛と、不幸と、死しか、人間は神に到達する道はないっていうふうな言い方になっています。>(~「シモーヌ・ヴェイユの神」)

吉本隆明の183講演 - ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)

「否定媒介」という言い方は、当サイトの「神話と歴史」で引用している八木誠一氏の書評「聖書神学の基本問題 熊沢義宣著『ブルトマン』増補をめぐって 」を参考にしたのですが、一般的には「否定的媒介」というふうに「的」が入ります。私個人がこの表現を初めて見出したのは北森嘉蔵氏の著述の中でしたが、おそらく『対話の神学』(教文館)あたりだったと思います。例は下に挙げていますが、ここでは、「ヘーゲルの根本思想が否定媒介的であり他者媒介的であることについては、疑いの余地はない。」(~『哲学と神』〔日本の薔薇出版社〕p21)だけ引用しておきます。

聖書における否定媒介的使信として一つ挙げておくと、使徒パウロイスラエルユダヤ人と異邦人との関係について述べている箇所です。

「そこで私は言う。ユダヤ人たちは倒れるために躓いたのであろうか。断じてそんなことはあってはならない。むしろ彼らの罪過によって、救いが異邦人たちへと〔至り〕、それが彼らに妬みを起こさせる結果となるのである。」(岩波版〔青野太潮〕訳 ローマ人への手紙11:11) パウロの伝道からして、「いかにかして私の同胞に妬みを起こさせて、彼らのうちの何人かを私は救いたい」(14)とあるように、「異邦人たちの〔ための〕使徒」(13)と自覚しながらも間接的・否定媒介的に同胞ユダヤ人をも救いに導こうとするものでした。しかしパウロの救済の論理が本当に「否定媒介的」と言えるのかは、イスラエルの民が「福音」に従えば「神の敵」ではあっても「選び」に従えば「神に愛されている者たち」である(28)という対神関係の二重性現実を示す言葉や、その根本をなす「神の恵みの賜物と召しとは、破棄されることがない」(29)という対神関係における原理を示されるとわからなくなります。何故なら、選民イスラエルは一見、異邦人ないしは全人救済(32)のための媒体であるかのようで、実は選民であるがゆえに媒介される対象でもあるわけです。言わば、自分も含めた神の救済対象を自ら否定的に媒介していると言えましょう。この矛盾かつ複雑な感覚は、パウロが示す「神」についても言えることです。パウロの「神」は、「すべての者を憐れむため」に「すべての者を不従順へと閉じ込め」る(32)という、人間から見れば手間のかかることをあえてなさる救済者です。そのはたらきも、出エジプトの時のように、一方では民を導き、一方では民の敵をして民を苦難に陥らせ進行を妨げさせるという矛盾した行動として現れます。創造主が矛盾に満ちている以上、被造世界の現実もその矛盾を反映しており、イエスの福音は逆説となり、神学は矛盾を観念的に解決する弁証法が哲学から神学への橋渡しになっています。

パウロは神の「愛」とか「憐れみ」の面だけではなく「峻厳」の面をも示しています(22)。ところが、多くの信徒は前者の方ばかりを偏り見て、後者の方をまったく見ようとはしません。最終的には前者が前面に出るとしても、今のコロナ禍のような時には、後者の面から示されるメッセージを聞きとらなければならないし、また、宣教者は世間の誤解や批判を恐れずに預言者のように大胆に後者の面をも語るべきなのです。試練の中に逃げ道が備えられているのは、あくまで信仰者であって、不信仰者にはそもそも試練はなく逃げ道もないのです。対神関係なしに生きるべく定められているからです。それが「滅び」です。

ガラテヤ人への手紙3:22「しかし聖書は、イエス・キリストへの信仰によって、信じる者たちに約束が与えられるために、すべてのものを罪のもとに閉じ込めたのである。」も、注には「イエスによる『解き放ち』(五1)の逆説的前提。」とあるので、これも「罪のもとに閉じ込めた」という否定的な事柄を媒介して「イエスによる解き放ち」という肯定的な出来事が起こるということです。ただし、注意しておくべきことは、パウロが、特にロマ書3章で述べていることです。親鸞的に言えば「本願ぼこり」という誤解です。
<もしも私たちの不義が神の義を明らかに示すのだとしたら、私たちは何と言う〔べき〕か。怒りを下す神は不義なのではないだろうか」。私は人間的に〔理屈を〕語っている。〔しかし〕断じてそんなことはあってはならない。もしそうだとしたら、神はこの世界をどのようにさばかれるであろうか。(中略)つまりある人たちが、「善なることがらがやって来るために、悪なることがらを為そうではないか」と私たちは言っている、と語っているように。〔そんなことを言う者たちが〕断罪されるのは当然である。>(5~8節/岩波版 青野太潮訳)

このブログで言うところの「否定(的)媒介」というのは、神の善が現わされるために人間の悪が必要だ…などという意味ではないのです。また、パウロにおいては「律法」が「キリストへと至る私たちの養育係」と言われており(ガラテヤ3:24)、「律法は怒りを生じさせるのであり、律法のないところには違反もない」(ローマ4:15)とか「律法がなければ、罪は〔人に〕帰せられない」(ローマ5:13)とか「律法は、罪過が増し加わるようにと、〔この世に〕入り込んできた」(ローマ5:20)とか「律法をとおしての罪の欲情が私たちの肢体のうちにあって働いていた」(ローマ7:5)とか「私は、律法をとおしてでなければ、罪を知ることはなかった」(ローマ7:7)とか「律法がなければ罪は死んでいる」(ローマ7:8)と言われているのを見ると、パウロにおいて「律法」はあくまでも否定的・消極的な概念かなあと思いきや、「律法〔そのもの〕は聖いものであり(中略)善いもの」(ローマ7:12)と言っています。次の13節「善いものをとおして私に死を生じさせつつ、罪が露わにされるため」というくだりを見ると、これはむしろ「肯定的媒介」だと言える気がします。そしてまた、「律法は霊的なものである」(ローマ7:14)と言うのですから、律法のはたらきを悪魔の仕業のように解して福音信仰に至るための否定的媒介とすることはもちろん無理です。以上の点は誤解なきよう、お願いしておきます。

 

例文①:「神学的宗教哲学の立場として武藤がとりあげるのはキルケゴールである。これは、神学と哲学が否定的に媒介され宗教哲学は神学と哲学の言わば境界線、『間』にある。そのことをキルケゴールに即して言えば、宗教性Aと宗教性Bとの関係ということである。」(~小田垣雅也著『哲学的神学』〔創文社〕p13)

例文②:「『宗教哲学』(一九五五)の中で、武藤は宗教性AとBとの間の否定的媒介の関係を説明するのに、しばしば西田幾多郎の『逆対応』という語を用いている。このことは、武藤の言う神学的宗教哲学の立場が、単に宗教性AとBとの否定的媒介という、言わば一所不住的状況だけには留まっていないことを暗示している。即ち宗教性AとBとの否定的媒介という循環の場はどこかということが問われなければならない。」(同上、p16)

例文③:「特殊的なものは科学を進歩させる力となっている。特殊的なものと一般的なものとの対立によって科学は発達する、或いは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。かように科学が弁証法的構造をもっているということは、現実の世界が弁証法的なものであるということに相応している。」(~三木清著『哲学入門』)

例文④:「哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。哲学的探究の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。」(~同上)

例文➄:「もしこの世界に異なる福音というものが一切現れないのなら、以上のような意味での神学の必然性は生じようがないのです。神学が暗黒という否定によって媒介されるという性格が、おわかりになるでしょう。神学は究極的に言えば、自己が存在しなくなることを念願しながら存在しているのです。」(~北森嘉蔵著『神学入門』p8)

例文⑥:「キリスト論とはどういう真理でありましょうか。それは、直接的には神と接触しえず、神の言に従順でありえない私たちを神が赦し、征服して、神の言に従順な者にまで成らせて下さるという真理であります。この場合には、神に従順でありえないという否定が介在しています。〔※「介在」の各文字に傍点あり。〕 神の側から言えば、神にそむく反逆者が他者として神の前に実在しているのであります。しかも、その他者は真実の他者として固有性をもっております。実在的他者としての固有性であります。キリスト論は、否定媒介的・他者媒介的ということを、その中心的内容といたします。」(~同上、p28)

例文➆:「ルターのキリスト神秘主義の特質は、否定媒介的というところにある。〔※「否定媒介的」の各文字に傍点あり。〕 人間主体の否定的固有性を媒介しているということである。『媒介』とは、他者の固有性のままでその他者を自己の内に包むことである。(中略)ルターがキリストについて語るとき、それは十字架のキリストのことである。キリストによる媒介は、キリストの十字架による媒介である。したがって、さきに述べられたキリスト神秘主義は、十字架神秘主義にまで具体化する。十字架は神の否定媒介的な愛を示すから、十字架神秘主義はあの直接的な神秘主義から厳密に区別されることが明白となる。しかも、その否定媒介的な神の愛と神秘主義的に合一するのである。(中略)十字架における否定媒介的な神の愛は、人間主体の否定的固有性を征服して、彼を神と合一せしめるに至る。これが十字架神秘主義の成立である。(中略)しかし、そこにおいて信仰主体が合一する対象は、直接的な『神』ではなくして、否定媒介的な十字架のキリストなのである。」(~北森嘉蔵著『哲学の神』p33~35)

例文➇:「ヘーゲルの根本思想が否定媒介的であり他者媒介的であることについては、疑いの余地はない。それがキリスト教に最も近い哲学といわれ、宗教改革と結びつけられることも、いちおう首肯されよう。しかし、問題は、このような否定媒介的・他者媒介的な思想が内実的にどのようなものであったかということである。(中略)否定媒介的・他者媒介的思惟は、自己が自己の外に出ることである。この『外』が他者であり否定である。しかし、ヘーゲルにおいて特徴的なことは、この『外に出る』ことがあくまで自己の『内』でなされるということである。(中略)否定的他者が実在的である場合、自己は絶望に陥る。しかし、ヘーゲルにおいては、『外』は『内』にあり、否定的他者は実在的でなく観念的であるから、そのような他者によって自己は絶望させられることはない。『観念化』とは、自己が他者を完全に自己の支配圏内に入れることである。したがって、観念論は絶望のない哲学となる。」(~同上、p21~22 ※「内実的」、「実在的」、「観念的」の各文字に傍点あり。)

例文⑨:「今やヘーゲルにおいてその否定的媒介の論理がこの困難を解くことが出来るとすれば、その特殊における二重性転換性が徹底的に顕現せしめられなければならぬ(中略)しかるにヘーゲルは(中略)単に特殊を分割から全体へ復帰せしめることによって達せられる。これは論理的にいえば明白なる同一性の立場であって否定的媒介の立場ではない」(~「田辺元全集」第七巻 二四四頁。~北森嘉蔵著『哲学と神』p17~18)

例文➉:「著者によれば、『神学と歴史との両者の関係は否定を媒介とする弁証法的関係である』」(~北森嘉蔵氏の書評「ハヤトロギアをめぐって ― 有賀鉄太郎博士著『キリスト教思想における存在論の問題』― 」)

例文⑪:「『個』はみずからの根源たる『種』を否定して自存しようとする。これが『分有』(種の論理)に対する『分立』(個の論理)である。しかるに、この『分立』は利己主義的個人を成立させる一方で、『種』を『類』へと媒介的に高める契機ともなりうる。翻って言うなら、『類』は(『個』によって否定的に媒介される)『種』によって媒介されてのみ成立するのであって、『現象形態より言えば』、『種』と異なるものではなく、『種』の普遍的側面を言い表したものなのだ。『個』によって否定的に媒介されるとはいえ、しかし、『種』が先在することに変わりはない。」(~合田正人氏の論文「『種の論理』論争をめぐって ―高橋里美、務台理作再考― 」)※こちらは明らかに玄人の文章です。「否定的媒介」といった表現は、西田哲学よりもこちらの田辺哲学(「種の論理」)の方により関係があるのではないかなと思いました。なぜならこの論文内で引用されている高橋里美氏の言葉に、「この絶対媒介の哲学は媒介の概念を基礎とするものであるであることはいうまでもない。」云々とあるからです。しかし西田には次の例もあります。

例文⑫:「私と汝との間には、同一の一般者に於てあるものとして、色が色に干渉し、音が音に干渉する意味がなければならない。私と汝とは共に弁証法的限定によつて限定せられたものとして、私と汝とは絶対の否定によって媒介せられてあると考へられねばならぬ。斯く絶対否定の媒介といふことが私と汝との間に物質界といふものを考へることとなるのであるが、かかる絶対の否定面といふものは私と汝とを切断するものではなくして、私と汝とを媒介すべく置かれたものでなければならぬ。」(~西田幾多郎氏の論文「私と汝」)

例文⑬:「この二つの破綻を避けるためには、罪の固有性という否定的現実を媒介として、それを仲保媒介するキリスト論を明確化せねばならない。一言にしていえば、否定媒介的なキリスト論である。これによって、罪の固有性を位置づけると同時に、キリスト論を確保することができるのである。」(~北森嘉蔵著『対話の神学』p184 ※「否定媒介的なキリスト論」の各文字に傍点あり。他の箇所で「媒介性」の英訳語は mediate とされている。)

 

疲れました( ;∀;)。上の引用でわかるとおり、北森氏が「否定媒介的」という言葉を多用しています。「十字架」と言えば、キリスト教宗教哲学的理解において「十字架」は、下に引用する小田垣氏の文章のように、神の子キリストの「自己否定」・「自己無化」(ケノーシス)と解されるようですが、それはどうでしょうか?イエスの存在を否定し無化したのは父なる神であり、イエスはただの主体ではなく客体的主体であるとも言えます。

<何の宗教でもそうだが、キリスト教(この場合)の場合、キリスト教を否定し、それを超え出る要素があってこそキリスト教でありうる。「文字は殺し、霊は生かす」(コリントⅡ、三の六)であり、不立文字・教外別伝である。そしてそれこそが、イエスの十字架上での自己否定の意味でもあるだろう。十字架は、それ自体としては透明になることによって、十字架としての意味をもちうる、とティリッヒも言っている。宗教には、宗教自体の自己否定が必要なのである。>(~みずき教会説教「母の日」)
ところで、聖書における独特な論理としては、逆説性・逆理性ということがよく言われ、キリスト教を「逆説の宗教」などと呼ぶ者もあるようですが、それはともかく、弁証法についてちょっと調べました。おもな初歩的入門用参考書として、(A)中埜肇著『弁証法 
自由な思考のために』(中公新書)と、(B)松村一人著『弁証法とはどういうものか』(岩波新書)と、(C)岩崎武雄著『辯證法 ―その批判と展開― 』(東大學術叢書)と、(D)茅野良男著『弁証法入門 正しい認識を求めて』(講談社現代新書)の、計4冊を選びました。まず(A)から引用します。

目次は、「はじめに」、「序説」、「第一章 弁証法の本質(理想型)」、「Ⅰ ことばの問題」、「Ⅱ 対話と弁証法の構造」、「Ⅲ 弁証法の精神」、「第二章 弁証法の歴史(現実型)」、「1 ソクラテスまで」、「2 プラトン」、「3 アリストテレスから中世まで」、「4 カント・フィヒテ」、「5 ヘーゲル」、「6 マルクス・エンゲルス」、「7 キェルケゴール弁証法神学・反弁証法」、「おわりに」、「参考文献」・・・となっています(最小単元の見出しは省略)。

「はじめに」から順に、ポイントと思われる箇所を引用し、特に重要と思われる箇所を濃くし、必要に応じて感想も書きます。ルビは〔 〕に記入。文字に傍点が付いている場合は、その旨、〔※ 〕で表記。省略する場合、比較的短めの省略は(略)、長めの場合は(中略)と表記。

<「弁証法」は現代では一見はなはだ知性的に見えるが、実は健全な知性にとってすこぶる有害なものになりさがってしまっているとも言えよう。内容が不明確でただひとの心をそそるだけの煽動語に甘えることは知性の堕落でしかないからである。ある哲学事典の「弁証法」の項には、賢明にもこんな断り書が記してある。「このことばは実にさまざまな意味を受け入れてきたので、これがそもそもどういう意味に解されているかということを厳密に示しておかなければ、それを有効に用いることはできない。しかしこういう制限をつけておいても、まだ不当な連想を喚び起こす惧れがあるから、警戒する必要がある。」(A. Lalande〔ed.〕:略)言うまでもなく「弁証法」はもともと哲学の土壌に芽生え、そこで育ったことばであって、ギリシアの昔から現代に至るまで、きわめて重要な哲学的意義を持っている。しかし不幸にも、その長い歴史のなかで、野放しと言ってもよいほどに、その意味内容や使用法を多様化してしまったために、思想の歴史に登場するさまざまな「弁証法」に対して一貫してあてはまるような定義を与えることはもはや不可能になってしまったと言えるほどである。たとえば現代の多くのひとびとは「弁証法」と聞けば、すぐさま反射的に「正・反・合」とか「止揚」〔アウフヘーベン〕を連想するかもしれない。しかしそういう観念と結びつくような「弁証法」は、それの長い歴史のなかでもごく限られたもの(簡単に言えばヘーゲルのそれ)でしかないのである。そしてその背景には哲学そのものの歴史とほぼ等しい長さを持つ弁証法の歴史があり、そこでは実に多種多様な形態の弁証法が出現していることを私たちはまず知らなければならない。かつて、ともに日本を代表する二人の世界的な哲学者である西田幾多郎博士と田辺元博士との間に激烈な学問的論争が交された時、田辺博士は恩師である西田博士に面と向って、「だから先生は弁証法がおわかりにならないのです」と厳しく叱咤されたという伝説がある。>(ii~iii)

<…私は二つのテーゼを基礎に置く。第一に、弁証法は論理でもなければ法則でもなく、ひとつの思考方法(中略)であるということであり、第二に、ヘーゲル以降のいわゆる近代弁証法だけがけっして弁証法そのものではなく、それのひとつのタイプにすぎないということである。>(p5)

<さて、ディアレクティケーという語は、もっと溯れば、動詞ディアレゲスタイ(略)から由来することが知られるが、(中略)ディアレゲスタイはディアロゴス(略)と同じく「対話(する)」を意味するが、接頭辞ディアの持つ意味を充分に考慮すれば、「参加者が話題を分割し、相互に相手の立場を理解しあいながらテーマを共同して追求し、これを深めてゆくような語り合い」を意味するという。(中略)以上に述べたところから明らかなように、要するにディアレクティケーの語源は「対話」(ただし上に記したように深い意味での)であるから、ディアレクティケー・テクネーはもともと「対話の技術」である。弁証法がしばしば「問答法」と呼ばれる理由もここにある。(中略)ところで私は弁証法というものを単なる「技術」から一歩進めて「方法」として、しかも「思考の方法」としてとらえるべきであると考える。すなわち弁証法は論理でもなければ、法則でもなくて、ひとつの「思考方法」なのである。〔※「ひとつ」の各文字に傍点あり。〕しかも弁証法の語源は「対話」であった。さらにこの場合に、語源とはただ弁証法の言語的・歴史的な起源を示すだけではなくて、実はむしろそれの本質的な始元、言い換えればその意味内容の原点を示すものであると私は考えた。したがって弁証法は「対話をモデルにした思考」、すなわち本質的・根源的に「対話的思考」だということになる。これが弁証法を考察する場合の私の出発点である。>(p16~17)

<Ta「次の台風は北西に進んでいる」に対して、〔※「に対して」と各文字に傍点あり。〕Tb がたとえば「しかし上空の偏西風のためにそれは進路を北に振るだろう」〔※「しかし」の各文字に傍点あり。〕というものである時、初めて対話が成立つのであり、「しかし」のなかに対話の必要条件としての両者の内容的な連関が含まれているのである。今まで述べてきたかぎりでの対話の条件を弁証法との関係を予想しながら整理してみると、次のようになる。①二人の語り手の間に共通の話題があること。②先行する発言Taは部分的なものであるから、自分自身のなかに否定性(欠陥)を含むこと。つまり肯定的なものは必ず否定的なものを含んでいること。(このことはきわめて重要である。)③したがってTaは必然的に自分を否定しながら補うようなTbを産みだすこと。④TaとTbとは相互に相手をはっきりと志向する対立の関係にあること。(中略)「イエス」よりも「ノー」のほうが、肯定よりも否定のほうが生産的だということに注意する必要がある。〔※「生産的」の各文字に傍点あり。〕(このことは弁証法にとっても重要なことである。)(中略)いかなるものにせよ、およそ二つのものが相互に関係し合っていることは、両者が対立しながら依存し合っていることを意味する。AとBとが対立している時、〔※「対立」の各文字に傍点あり。〕Aは一方ではもちろんBを否定しようとする。そうでなければ対立という関係は成立たないであろう。しかしAがBを完全に否定し、Bがまったくなくなってしまえば、対立関係もなくなり、したがってその関係のなかにあるAの存在意義もなくなる。だからAはBを否定するだけではなくて、同時に他方ではBを肯定してもいるわけである。同じことがTaとTbについても言える。要するにTaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立のなかで共存している。こういう、言ってみれば対立的共存の関係を相互媒介という。そして相互媒介の関係にあるものは、当然ながらそのことにおいて相互に補い合ってもいる。こうして対話するTaとTbとは相互媒介と相互補完においてあるということになる。もちろん媒介には強弱深浅という程度の違いもあるし、(中略)相互媒介がなければ、闘争ということさえも不可能であろう。そして、闘争するものは、そのかぎりで、実はたがいに補い合っているとさえ言うことができる。このように考えれば、対話する二個の発言TaとTbとは、論理的にも人間的にも相互に媒介されていることが知られるのである。(中略)さて対話が成立つためには、相手の発言に対する無条件の肯定ではなくて、ある程度の否定〔※「ある程度の」の各文字に傍点あり。〕(それが「しかし」で表わされる)が必要であり、肯定よりも否定のほうが生産的であると前に述べたが、相手の発言を完全に打消すことに終始する無条件の否定、〔※「完全に」の各文字に傍点あり。〕否定のための否定は、そこから積極的なものが何も産み出されないことにおいて、無条件の肯定と同じように非生産的であり、もちろんそこには対話も成立たないであろう。対話というものはやはり真理の発見というもともと生産的な目的のために行われるべきものだからである。(中略)少なくとも現実の対話においては、たがいに「しかし」と言い合うこういう振子運動が限りなく続くものではなく、発言内容(情報)が相互に働きかけ合うことによって、語り手の間の対立度も次第に収斂されて行って、遅かれ早かれどこかで一致するはずである。そのような一致点(一致した場合の発言)をTmとし、議論を簡単にするために、かりにTaとTbがすぐ次の段階で和解点Tmに達したとする。たとえばTmは「次の台風は偏西風の影響を受けて北北西に進路を変えるだろう」となる。(中略)TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって内容的な働きかけを受け、要するに両者は相互媒介によって総合されてTmとなったわけであるから、〔※「総合」の各文字に傍点あり。「綜合」ではない。〕TmはTaおよびTbよりも内容的にはいちだんと高められ、豊かになったことになる。(いわゆる弁証法のことばをここで使ってしまえば、〔※「いわゆる」の各文字に傍点あり。〕Taが定立〔テーゼ〕で、Tbが反定立〔アンチテーゼ〕で、TmはTaとTbとの総合〔ジュンテーゼ〕であり、TaとTbとの対立はTmへと止揚アウフヘーベン〕されたことになる。)(中略)TaとTbとのどちらが多くTmに含まれるかということは、実はそれほどたいした問題ではないのであって、むしろ大切なのはTaとTbとがたがいに媒介しあいながら何らかの意味で両方ともTmに含まれていること、〔※「たがいに媒介しあいながら」と「両方とも」の各文字に傍点あり。〕さらにこれをTaを基準にして否定的な面に注目するならば、TaはTbによって(ある程度)否定されるが、それがさらにもう一度否定されてTmに止揚されるということ。つまりこのプロセスは「否定の否定」から成立っているということである。〔※「否定の否定」の各文字に傍点あり。〕弁証法においてこのことが重要な意味を持つのは言うまでもない。

*このような「両方とも」ではなくて、あくまでも両者の一方を完全に捨ててしまう「あれかこれか」でなければならないと主張する「弁証法もある。これについては第二章-7「キェルケゴール」の項を参照されたい。>(p26~33)

<さてキェルケゴールの哲学的な関心はけっして超越的な実在や抽象的な理念に向けられるのではなく、ただひたすら、今ここで、このなまなましい現実のなかで、必死に生きている生身の人間の存在とその生き方とに、簡単に言えば「実存」の問題に集中される。実存とは人間のもっとも具体的な、その意味でもっとも根源的なあり方、言い換えれば現実的な人間の主体的な現存在〔ダーザイン〕である。彼にとってはこれこそが哲学のアルファでありオメガであって、それ以外に人間の真剣な思索に値する対象はない。そしてこの自明のことを無視し忘却したというので、キェルケゴールが徹頭徹尾攻撃するのはヘーゲルである。彼の著作はヘーゲルに対する非難と弾劾のことばで満ちていると言ってよい。キェルケゴールに言わせれば、ヘーゲル哲学の核心にあるものは存在と思惟の同一性であるが、それは結局のところ存在を思惟化し観念化すること、要するに「存在」を「本質」へと転化することにほかならない。つまりヘーゲルの哲学は「存在の思考」ではなくて、「本質の思考」のうえに成立っている。そして本質とはもともと客観的なものでなければならず、こういう本質的・客観的な思考(思弁)はいわば傍観的な精神の所産であるから、そこでは当然のことながら人間にとってもっとも切実で重大な「この私はいかに生きるか」という問題が欠落してしまう。こういう点でヘーゲル哲学は人間存在とその生存に対して不誠実であり、本質的に無責任な思想である。その不誠実と無責任は、いっさいのものを精神や理性の自己展開のなかにくるみこんでしまう「体系」、とくに「世界史の哲学」に集約的に表現されている。そこでは人類の歴史の全体が世界理性の発展過程という壮大な体系のなかに収められるが、そのかわりに生きた人間は黙殺されるか、せいぜいのところ「理性の狡智」に踊らされる人形にすぎなくなってしまう。要するにヘーゲル哲学を培う体系的思考は、私たちの眼をもっとも根本的なものからそらす欺瞞的なものである。キェルケゴールにとって哲学的思索の対象となる根本問題は、この「私」が実存として現実的・主体的に生きるということである。そして現実的・主体的に生きるとは、今ここにいるこのかけがえのない「単独者」としての私が、一瞬一瞬に自分の前に示された生き方について「あれかこれか」と「決断」し、そのいずれかを「選択」しながら行為することにほかならない。こういういわばぎりぎり〔※「ぎりぎり」の各文字に傍点あり。〕の真剣な生存はもはやけっして概念や論理によって処理され得るものではなくて、すぐれて「倫理」の問題である。そして「論理には体系があるが、倫理に体系はない。」(『哲学的断片への結びの学問外れな後書』大谷長訳による。以下では『後書』という。)実存として生きる時、私は他者ととり代えのきかない独自の存在であり、しかも現在の「瞬間」における「決断」と「選択」にすべてを賭けるから、どの瞬間も私にとって絶対的な意味を持つ。そこでは量的な連続ではなくて、「質的」で非連続な「飛躍」が問題である。このように生きる私にとって何よりも大切なのは「主体」となること、「主体的」であることである。「主体的になるということが各人に与えられた課題、しかも最高の課題である。」(『後書』)。ヘーゲル的な「客観的反省の道は主体を偶然的なものとしてしまい、それによって実存をどうでもよいものにしてしまう。……主体と主体性とがどうでもよいものになるにつれて、真理もまたどうでもよいものとなる。」(『後書き』)つまりキェルケゴールにとって、真理は絶対的に主体性と深く結びつけられている。だから重要なのは、多くの哲学者たちが考えたように、客観的な真理があるかないかということではない。それは実存とは何の関わりをも持たない。実存にとっての真理はただ主体的な生き方のうちにそれとの関わりにおいてのみ考えられ求められなければならない。したがって真理は主体的なものであり、「主体性が真理である。」(『後書』)しかも主体性とはすぐれて「内面性」であり、この内面性を支えるものは「無限の情熱」である。「無限性の情熱は真理そのものである。」(『後書』)では実存が真剣に生きるなかで、無限の情熱を傾けて必死に求める主体的な真理の内容は何か。端的に言えば、それは「この私の魂が救われるのか否か」ということ、つまり神と人間との関わりであるところの信仰の問題である。「内面性の情熱は信仰である。」(『後書』)この信仰もヘーゲルキェルケゴールとではその本質をまったく異にする。ヘーゲルで信仰とは「(有限)精神による(無限)精神の認識」であって、神と人間とは精神である点では同じであり、また信仰は行為ではなくて認識であった。ところがキェルケゴールは神の絶対的な超越性、すなわち神と人間との質的に無限な距たりと人間の罪の深さとを徹底的に自覚していた(この自覚は彼の多くの著作のなかで、強烈な迫力をもって読むひとの心にせまってくる)と同時に、信仰は彼にとって何よりも内面的な行為であった。(中略)信仰はけっして安らかな境地ではない。「危険なくして信仰はない。」(『後書』)キェルケゴールにとって最高の生き方は真実のキリスト教徒となることである。彼は『人生行路の諸段階』という書物のなかで、人間の生き方を四段階に区別した。その第一(つまりもっとも低い)段階は美的・享楽的な生き方であり、第二は倫理的な生き方である。第三が宗教性の段階であるが、これがAとBに分けられる。そしてこの最後の宗教性Bという段階が真のキリスト者として生きることである。しかもこの生き方は深い内面の努力(「実存は努力であり、努力は無限なものに向けられている」(『後書』)を伴う。何となればこの信仰には理性を超えた重大な逆説と背理とが含まれているからである。キリスト教のうちにある逆説もしくは背理とは、永遠な真理が有限な実存に関わりを持つということである。信仰というものはもともとこういう背理を前提とするから、深い情熱と激しい努力によって果されるべき厳しい内面の営みである。しかも信仰の対象である永遠の真理そのものが大きな逆説を含んでいる。というのはキリスト教の根本教理は「絶対者である神が人間(イエス)の姿をとって生れ(受肉)、汚辱のうちに刑死した」ということだからである。このことこそ「もっとも厳格な意味での逆説、絶対的逆説である。」(『後書』)したがって真実のキリスト教信仰はこういう絶対的逆説としての永遠な真理が有限な実存に関わるという二重の背理である。このような逆説的信仰に基礎を置くキェルケゴール弁証法は「逆説弁証法」と呼ばれる。しかも逆説はもともと人間の量的・連続的な思考を越えたものである(そうでなければ逆説とは言われない)から、信仰はひとつの「飛躍」であり、そこでは「信ずるか信じないか」「救われるか滅びるか」という厳しい二者択一しかない。この点を強調するキェルケゴールは、ヘー