聖書が示す「神」Hatena?

「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安(シャーローム)を賜るように。」(民数記6:26)             The LORD lift up his countenance upon thee, and give thee peace.

イエスの「神の王国」ってユートピア?

「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3:15)

 聖歌 キリストの平和 塩田泉 作詞作曲 歌 いけだみつほ ご視聴ありがとうございます - YouTube

 

 奈良小1女児殺害事件で確定死刑囚となり2013年に執行された小林薫さん(犯行当時36)や最近の日本薬科大の女子学生殺人事件の容疑者である無職広瀬晃一さん(35)についても死刑反対の立場から見れば同情の余地があります。特に後者の事件では被害者にもかなり疑問点があると私は思います。もちろん殺人は大罪であり、どんな理由を付けても肯定することはできません。二・二六事件などのように必ずしも自己中心的理由とは言えない権力者殺しでさえそうなのだから、このような個人の欲望による殺人はなおさらです。しかし、だからといってなんでも「自業自得」とか「自己責任」ですませる考え方を私は採りません。死刑制度の殺人行為に対する抑止力が実際にどれくらいあるのかはよくわからないし、冤罪の可能性があるのに死刑制度を維持することは、国家権力により人間が人間の生命を奪うということの深刻さを直視しているとは思えません。

「世の中が悪い」との理由は否定すべしと言う方が恰好は良いでしょうが、現実には世の中の責任も大なのです。まずもって政治家が悪いです。その悪い政治家を選んだ国民がまず悪いと理屈をこねる前に、選ばれたのにちゃんと仕事をせず、自分が選挙で再選させることを第一に考えて政策の優先順位をつけるあり方を問題としたいのです。犯罪防止のシステム作りとしてやるべきことはたくさんあります。まずはカウンセラーと一般に称される人間をもっと活用できるようにすることです。臨床心理士のように異常を生じた人間ばかりを相手にするのでは仕事としてダメでしょう。普通の人間の職場や学校における対人関係などの問題に関する相談相手になってこそ犯罪や病の防止になるのです。庶民からすれば名前ばかり重宝されて日常生活から離れている、そんな資格職ではダメです。もっと庶民生活に根差した実効性のある仕事に換えてゆくべきです。その点はアメリカなどを参考にすべきでしょう。ただしカウンセラーほど玉石混交の集団はないので、精査するシステムをまず設けなければなりません。そして官民の別はともかくとして、庶民生活の中に入れてゆくためには街中にカウンセリングを1時間千円程度で受けられるような場所を作らなければなりません。弁護士のような高額な相談料では犯罪者予備軍は利用しないので無効です。

上記の広瀬さんや小林さんなどには、社会に予防のシステムがあれば十分に防げた殺人なのです。もちろん広瀬さんの事件はまだ解明されたわけではないので断言できないこともありますが、子供の頃から集団生活が苦手な人間というのは少なくないし、自分もそうでした。そういう人間でも社会のシステムがどうなっているかによって運命が分かれるのです。ちょっとしたきっかけで人生が決まってしまいます。現状では、臨床心理士だの公認心理師だのは犯罪防止に役立っているとは言えません。気象予報士なんかと同様、一般庶民にとってはどうでもいいような資格であり、むしろ話題性がある割には実効性を感じられない職種なのです。多くの庶民の生活に役立たない資格職などはブランド品と同じで名目価値は高くても実用価値は低いのです。実用価値の低いものをもてはやすのはマスコミ、特にテレビの商業主義によるものです。バラエティー番組には庶民をバカにしたクズ番組が多く、吉本の謀略かなにかしりませんがお笑い芸人が本業もそこそこに映画・ドラマから歌番組からあちこちに出まくっているという状況は現代のテレビメディアの退廃を象徴しています。ネットよりもテレビから差別の原因が発生し、媒介されて犯罪につながっている例は多々あると確信します。テレビにはいろんなコメンテーターと称する人間が出てきて、専門家気取りの人間もおりますが、犯罪は地震と同じで起きてから分析だの解説だのしたって、それを使って再発防止する知恵がなければ意味がないのです。
加藤諦三氏は、劣等感の原因は所属感の欠如だと言われますが、私は違うと思います。少なくともマズローの欲求階層説で言えば所属(と愛の)欲求ではなく承認欲求に関わる事柄です。加藤氏は、ある大学の不合格が劣等と関係ない理由は、
エリートといわれるような人にも劣等感による自殺があるのは何故か?ということに答えが得られないからだといったようなことを言われますが、エリートであれなんであれ、その人なりの基準というものがあるわけです。私の知人は教育者の家庭に生まれ、最低でも修士にならなければダメだと思わされてきたのです。そういう人は私のように大卒なら人並みでOKだという基準の者とは違うわけ。修士にあらずんば人にあらずという基準で刷り込まれてきた人間は、自分が学士で終わったら修士の人に対して劣等感を持つのです。修士になれても博士号を取得した人に対して劣等感を抱くでしょう。だから人それぞれの基準に応じて劣等を感じる対象が異なるのです。自分と優劣を比較する相手が違うのだから。結局、切実に劣等感を抱えて苦しむ経験を持たない人間が理論で語ると加藤氏のようなわけのわからない話になるのです。自分自身が厳しい対人関係において劣等感を持つ経験をしていなければ、現実的なアドバイスなどできるわけがありません。だから学者と称するような連中には庶民の生活現実に役立つ活きた心理学を語ることはできません。せいぜい外国の心理学者の説を紹介したり受け売りするのが関の山です。我々庶民の生活における対人関係から生じる劣等感を克服するための方法は、その現実を経験している我々自身の手によって構築されるしかないのです。心理学は純正な意味では科学ではないからです。当人の経験が大きなウェイトを占めまる分野です。

加藤氏は、自分にとって重要な他者に認めてもらえるのであれば、不合格だっていいじゃんみたいなことをおっしゃるが、その「自分にとって重要な他者」が人間である限り、そんな考えは非現実的でしかないです。親のことをそう言っておられるようですが、世の中にはいろんな親がおりまして、大学に合格しなければわが子の価値を認めないバカもいるわけです。だから加藤氏の論理を進めてゆくと宗教的になってしまう。その「重要な他者」は人間ではあり得なくなるのです。シリーズ9 加藤諦三さんが語る、著書「劣等感がなくなる方法」 - YouTub

自分の関係者が精神科にかかっていれば、クスリ漬けに顕著なとおり、いかに精神医学など半分は非科学であるか、いかに心理とか精神とか付く学問なんかでは現実の人間の心や精神というものを根本的に救うことなどできないということが痛感されます。それでも犯罪防止のきっかけくらいにはなれないとあまりに税金などの無駄すぎ虚飾すぎます。しかし今の日本社会ではそれさえも難しい状況です。発症しちゃった人間が宗教団体しか行くところがないというのも困ったものです。宗教は発症前の人間に予防的効果を与えることは可能でしょうが、発症しちゃった人間については専門家にまかせるしかなく、へたに関わるとかえっておかしなことになりかねません。それなのにカウンセリングとか称して素人が関わったことにより殺された事件もありました。

宗教的救済は広瀬さんなどのように、人間関係に問題を抱える人に活力を与え得るものでなければなりません。そのような活力が人間から与えられるのではなく人間を超えた絶対人格神から与えられることを告げる宗教でなければ邪教となります。いかに超絶者の神観を持つ宗教であっても、庶民の自尊感情による対人関係での普遍的な問題…たとえば広瀬さんのように命令されるのがイヤで、傷つけられるくらいなら独りがいい、友達はいらない、といった感情をしっかりと受け止めて、そういう個人レベルの日常的な苦難から地球レベルの歴史的な苦難へとつながってくるスケールで対応してゆける大統一理論的救済論を聖書を通して示せなければならないのです。

自分の経験にもとづいて話しますが、母親が自分に対して思っていたことがコピーされて「もうひとりの自分」を構成し、その自分が自分を見ているわけ。そこにある人物が出てきて自分と会話したりするわけですが、「もうひとりの自分」がその「ある人物」に対して、こんな低レベルの人間が自分と対等に会話するとは何事か、ましてや自分より知識があることをひけらかしたり、自分の言うことを否定するなんて許せない、といった感情を持つのです。しかし現実はそうなっていない。母親のコピーである「もうひとりの自分」が軽蔑するような人間が、自分自身に優越することが起きてしまっているのです。そこに深刻な事態を招く劣等感の問題が伏在しているのです。

TVなどで聞きかじった雑知識をひけらかしたがる人間が下層社会には多いので、そういう人と仕事で組まされるとストレスが溜まり、最悪の場合、よくニュースで報じられるような凶行に及んでしまうことにもなりかねません。自分の場合は凶行に及ぶことはありません。むしろ自分の心身に異常をきたします。まともに会話したら、言い過ぎたことにせよ、言いそびれたことにせよ、必ず後悔が残り、それが脳を支配してストレスになるのです。これを自力で防止しようとすれば、時々ガス抜きをしなければならないということで、どうしても言い返したりする攻撃的な行為を要します。それがイヤなら必要最低限の会話しかしないようにするしかありません。実際に職場で夜勤の時に実践したことがあります。気まずい感じはありましたが、やってやれないことはなかったので、後者が非現実的なことだとは思いません。ただし、相手によっては無理な場合もありましょう。なんでもの言わんのか!とキレたりしてね。だから私はこのお通夜状態的方法は程々にしか使えません。明らかに相手に避けているとさとられるようなことは自分の気が重くてできないのです。

最悪なタイプは前述の自分の実例の相手ですが、言い逃げて都合が悪くなると笑って誤魔化すタイプです。相手が言いもしない、わかりきったことをさも相手が知らないかのようにしてさっと言って話をすり替える。そこを突くと笑って誤魔化すというやり方です。どうかしたら、相手が会話の中で言ったことをさも自分が知っていたかのように言うこともある、そんな人間です。こういう相手だと気が短い人ならキレる確率が高いでしょう。でもこういうふうにいくら類型的にどうこう言ったところで解決にはつながりません。対応としては反撃には無理があります。バカにされたと怒りを感じる度に反撃しないといけないなら、心に傷が多ければ多いほどその頻度が多くなり、日常的に興奮することになるので自分の体に悪いからです。自滅行為です。いつものように怒っていないといけないのは不幸です。白坂氏が言うように「許し」ということができれば、それに越したことはないでしょうが(それを白坂氏のようにイエスの「愛敵」の教えに結び付けるのは大いに疑問あり。 劣等感を克服する方法 - YouTube)、現実は自分に劣等感の原因を植え付けた相手の皆が皆、自分をわざと傷つけるつもりで言ったわけがない、などと楽観的に言い切れないのです。それこそ自分側のお人よしな解釈にすぎない。その解釈が実感に根差しているならともかく、白坂氏のように自分を誤魔化すような楽観視はかえって深刻化させるおそれがあると思います。より現実的な楽観主義で言えば、相手は自分が気にするほど気にしているとは限らないと思うことです。相手に自分よりいろいろ考えるべき用事があれば忘れることもあるし、思い出しても一時的かも知れないのであり、少なくとも自分が頻繁に思い出すほどには相手が断続的に思い出してほくそ笑んでいるなんて限らないのです。ある時の会話で自分がバカにされたと感じた場合、その会話の内容が自分の頭の中で自動的にリピートされるわけで、それが睡眠障害につながったりもするわけですが、自分がバカにされた、言い返しそびれた、と気に病んでいるところを相手も逆の感情で嘲笑いながらバカな奴だと思っているか、と言えばそうとは言い切れません。相手の記憶力との関係で逆に相手の方がバカにされたと思っているかも知れないし、自分がミスったと思い込んで気にしている部分を相手は忘れたかもしれません。議論のような明瞭な対話ではない以上、どこの部分をどう感じたか、それを現在もどの程度記憶しているかなどといったことはわからないです。そこは客観的事実と主観的事実とが一致しないことがあるということであり、普通は一致するより不一致の部分の方が多いのではないかと思います。たしかに私の前述の例は相手が自分の失言を笑ったという客観的事実が前提になっています。しかしたとえ、実際に相手が自分を嘲笑った(としか見えない)顔を見たことがあるとしても、いつもいつも相手がそうとは言い切れません。全面的にではないにせよ、一致しない部分もかなりあるでしょう。特に私のように劣等感や被害者意識が強い人ほどそうでしょう。嘲笑ってバカにしているのは自分が想像した相手なのだから自分自身ということも言えます。その自分の無駄な一人芝居を止めるのが一番、実効性が高い処理の仕方です。しかし脳はそうならない厄介なものです。自動的にリピートしちゃいます。その間の行動がおろそかになって妙なミスを犯したりもします。いちばんやりやすいのは何かもっと自分が関心を持つ事柄について考えることによって、気になっている相手との会話のことに上書きする方法です。しかしパソコンの上書き保存とは違って、下書きの内容は消えません。ちょっとでも上書きがおろそかになったらすぐに表面に浮きあがってくるのです。だから上書きより上塗りにたとえた方がいいかも知れません。だから上塗り思考は一定の厚さを持続しないといけないので疲れることは疲れます。気を抜くと脳がリピートを始めてしまいます。すると不整脈になったり胃にストレスがかかります。

宗教はこの脳の自動的な働きを制御できるようにしなければなりません。そういう訓練が必要です。そこまでいかなくても、「許容」することは可能です。但しこれは程度が軽い場合です。その場合は自力でも可能ですが、重くなると他力が不可欠になります。他力による「許容」です。これは聖霊の働きであり、自分が気になる相手の言動を「許容」すること(実際は相手が自分を意図的に侮辱したわけではない可能性もあるが、自分自身はそのような被害的な受けとめをしているのだから単なる「受容」とは違う)は自分の他力信仰に実践的意義を自ら実証してゆくことになるので、その点では自力的意思が働きます。実際、「絶対他力」とは言っても人のはからいである以上、自力的要素が全く無いことはないわけで、要は根本に聖霊の働きがあることです。たとえ自分が想像するとおり、いやそれ以上に相手が自分をバカにし嘲笑っているとしても、それでも「許容」できるのでなければ聖霊の働きによるとは言えません。そもそもそれほどまでに気にするのはなぜかを内観してみるなら、結局、自分が相手をバカにしている、軽蔑しているという事実につき当たるのです。こんな奴にバカにされたくはない…という過剰な自尊心の防衛というか過剰な優劣比較とでも言おうか、そういう負の感情が自分自身を苦しめているのです。相手を尊敬できるなら、尊敬とまではいかずともどこか良いところを見つけて着目したり、自分がお世話になっていることとか探せば気持ちに変化も生じます。少なくとも相手を軽蔑などしていなければ、ちょっとした言動についてそんなに気に病むことはないはずなのです。

「幸いなるかな、貧しき者」の教えに関してはマタイがあえて「トゥー・プニューマティ」(「心の」と訳すより「霊において」)を付け加えた意義も認めるべきだと思うのです。これを否定したのでは「霊の次元」を信じていないということになります。

「霊」を「心」と訳したのは厳密ではないですが、皮肉にもそれがこのイエスの言葉の二重の意味を表現するに役立っています。すなわちこれはよく誤解といわれる、「心」そのものが否定的な意味で貧しいという意味もあり、また、「霊」において、霊的にということですが、その貧しさという肯定的な意味もあるということなのです。原文が「心」(カルディア)となっていたなら直訳して、その「貧しさ」を否定的な意味にだけ解して、これを「幸い」とみなすことは逆説であるということになりますが、「心」と訳されているのは「霊」(プニューマ)ですから、その「貧しさ」は謙虚さとして肯定的な意味に解し得るのです。すなわち「霊」を「心」と訳した日本語訳聖書でこのイエスの言葉を読む限りは、同じ「貧しさ」でも一方では対人関係における意味(「量」)が示され、もう一方では対神関係における意味(「質」)が示されるのです。これは「霊において乞食である者たち」(岩波訳5:3注)と直訳された場合よりも一段と深く理解することができます。なぜならまずもって現実はまさしく「心が貧しい」という問題があって、そこに対人関係におけるストレスの苦悩が生じているからです。その「心」の苦しみを根本的に解決するには、人間業である精神医学や心身医学あるいは臨床心理学などの学問では限界があるということ、むしろカウンセリングなどは商業主義のニセモノが横行しているので過度の期待は危険だということを促されるのです。「天の王国」は現実の日常世界から離れているわけではなく、その戸口はつねに日常の現実と重なり生活世界と近接しています。「肉」と「心」と「霊(魂)」は同じ身体として不可分・不可同であり、上記では右から不可逆。

「神」との関係において貧しくされるとは謙虚にされるということです。自分と優劣を比較し合う対象になる相対的な存在(=人間)との関係では必ずしもそうではなく、むしろ傲慢になり、その場合は心が狭量という意味で貧しいのです。「神」のような、自分など比べものにならない絶対的な存在(=神)との関係では謙虚になるしかないのです。そこから他者への「許容」ということも出てきます。

対人関係で傷つくのは「心」であって「霊」ではありません。「不幸」な状態・・・相手と言い争うような怨憎会苦のような心の状態から解放され、相手を怨んだりせず、むしろシャローム(平和、平安)な関係を築いてゆけることが幸福の入口です。だからそれは「心」の次元の問題を「霊」に次元まで深めて、つまり心理的な問題を宗教的な問題まで徹底して考えてゆくことが幸いへの道であるということです。そうすると、他人との関係における自分の「量」的貧しさへの憤りが、神との関係における自分の「質」的貧しさへの自覚によって解消されてゆくのです。「量」的貧しさというのは他者との優劣比較によって生じてくるものだり、富だったり能力だったりいろいろです。

とにかく、信者の対人関係はシャーロームを心がけねばなりません。人間、できるだけ笑い合える生活がよいに決まっているのですから…。となると、理性力を高めて自分の感情を制御できるようにしないといけません。そのために絶対他力の働きを受けなければならない、そういう宗教に身を置かねばならないのです。どうしても一神教ってことになるのです。でもキリスト教はイヤです。自分にとって「イエスの宗教」は、八木誠一氏が考えるそれに近く、イエス自身を「神(的存在)」とはせず、その「父」のみを絶対者という意味での「神」とするものです。だからいちばんよいのは、キリスト教を含む既存の宗教で生きることではなく自分で創ることです。いずれにせよ、信仰心は共同体の中にあってこそ励まされ、困難を乗り越えて持続できるのであり、単独では無理です。

でも、そんな人間関係なんか、心理学とか自己啓発の類で対応できるのであり、宗教の救いの話とは次元が違うだろう?と思う人もいるかも知れません。しかしそうではないのです。人間の力だけで自分の精神状態をコントロールできるくらいなら宗教は要りません。それが限界があるからこそうつ病患者も増え続けているのではありませんか?宗教の実践は、来世救済を現世救済と遊離させて説くのではなく、現世救済からの延長線上に来世救済を説くことにあるのです。精神病に関しては、発症しちゃった人間が来ても専門家ではないから対応できない牧師や司祭に罪は無いですが、発症前の予備軍的連中に対しては、これを救う使命があるのです。但し、キリスト教の教義にはそんなことに活用できる実用的要素は皆無です。

エスが告知した「神の王国=神の統治・支配」というのは人間を楽観視する考え方には立っていません。単なる性善説ではなく、神に対して的ハズレな生き方をする者と捉え、その傾向性を「(原)罪」と呼び、信仰においてそれが赦されるという福音が前提となっています。福音とは喜びの音信ですが、現世の日々の営みから離れてはあり得ないものであり、日々の対人関係が良ければ対神関係への感謝が深まり、創造主から与えられた人生を喜べるようになり、またその喜びが他者にも良い影響を与えるのです。そこから「神の国=天国」が体験されてゆきます。「神の国=天国」の戸口は隣人との愛ある平和な関係に開かれているのです。そして家庭・家族関係が平和であるなら、肉体的には苦しくても霊的には穏やかに死を迎えることができます。「家庭」に「平和」とくれば、あの悪しき統一協会の偽善名称を想起する人もいるかも知れませんが全く関係がありません。っていうか対極の話をしています。

とにかく究極の宗教思想はいきなり「霊」をテーマにせず「心」の現実から入るのです。対人関係から対神関係へと深めてゆくのです。最初の段階、表層レベルの事柄をテーマにしている時には心理学などを参考にしてもよいですが、臨床と付いたって問題の本質からは遠いのです。本質に迫るためには「霊」まで掘り下げて考察されなければならないからです。これは対人関係の次元ではダメで、対神関係の次元に入らなければなりません。唯一絶対神信仰が大前提となりますので、この前提に立てない学問や療法などは限界があって然りです。

但し、その前提に立つなら、なんでもよいというわけではありません。社会的現実における「心」の問題を軽視して、「霊」のことばかり言うような宗教や俗流スピリチュアリズムなどの思想はダメです。日常生活から遊離した「霊」観は信仰とは関係ない幻想・幻覚の場合が多いし、それが邪教やオカルトの類につながるので、くれぐれもご注意!

実践的宗教は、女性脳の枝葉末節的実際的要素と男性脳の根本的観念的要素との両方がバランスよく構成されていて然りです。どちらかに偏るとその分、思想としては劣ることになります。イエスの「神の王国の福音」というのは、その両方が絶妙に合成された究極の宗教思想なのであり、思想を超えた導きなのです!「民衆の宗教」はまずもって個人倫理の実践であり、いきなり社会倫理に行きたがるのがインテリの宗教ですが、灯台もと暮らしになりがちです。永遠の平安を求めるなら、まずは日常の隣人関係で平和を保持できるよう聖霊によって他力的に努力せよということです。

日常の事柄を閑却して天下国家のことや来世の永遠の命のことばかり考えるのは観念論であり無用なる思弁です。宗教哲学的には、ミクロレベルのテーマからマクロレベルのテーマまで大統一理論的にカバーし得ている思想家は八木誠一氏の他には知りません。倫理的・実践的な話から形而上学的・観念的な話までスケールが凄いのです。

それはともかく、自分自身を愛するように隣人を愛する…なんてことは口で言うほど簡単ではないでしょう。それを日々実行している人間は滅多にいないかも知れません。少なくとも自分などは日々どころか年中やれていません。だから自分なりに実際的に解釈する、敷衍してみるのです。「愛する」なんて大げさな言葉を使うからイエスの教えは実際的倫理にならないんだと呟きながら、要するに、自分を大切に思うように他人をも大切に思えってことだ、さらにこれを条件文にして、自分を大切に思うのであれば他人を大切に思うべしとして、まず思うことから始めるのです。

私は聖書ないしはイエスの教えを教条主義的には観ていません。所謂「誤りなき神の言葉」としての聖書観はキリスト教の中でも幅がありますが、私は正典主義にも立っていません。あくまで特別な参考文献という程度であって、霊感のはたらきは認めますが、所詮は人間の言葉であり、いかに福音書で描かれているイエスも絶対者という意味での「神」であるとは認めませんので、その点では人間であると思っているので、福音書に記されている言葉も絶対化はしません。実存論的というかどうかはともかく、私は自分の経験知のようなものも宗教生活の基準に置きます。そこにも聖霊の導きを信じられるからです。

エスの隣人愛の教えについては、竹内久美子さんなどのように愛すべき「隣人」の範囲を旧約的文脈に戻して限定することでハードルを下げ実行しやすくする方法もあるのでしょうが、私はそもそもイエスの言う「愛(する)」という言葉(アガペー、アガパオー)に引っかかるのです。これをどうにかしないと現実的にはならないのです。

そうやって自分の頭の中で処理しておかないと、常に人は無用なプライドなり自尊感情を抱えて生きていますので、職場などの人間関係において、ちょっとしたことで他人に対する怒りが生じて、憎しみなど悪感情が心を満たしてしまいます。そうなると理性の制御が効かず、悪くするとニュースで報じられるような暴力事件にまで発展するわけです。たとえば目が合ったくらいで、その時の表情にもよりますが、自分をバカにしたと思いこむ被害妄想的というか劣等感の塊というか、そういう人もいます。また、多くの人は苛立つ気持ちを一時的に酒などで紛らわせていますが、無理に抑圧しようとすれば却って程度の差こそあれ反動的行為に及びます。近親者への八つ当たりは最悪ですね。自分は物に当たって投げたり蹴ったりすることがあります。そういう無駄なことにならない為には、自分の場合、「捨小就大」とか「捨名取実」といった熟語を思い出して、また、自尊のためには他尊が先だとか、本体に深い傷を負わないためには浅い傷でいちいち報復などしないでおこうとか、自分に言い聞かせるのです。いや、それ以前に小事にいちいち激昂するようでは心が狭すぎるぞと、感情をコントロールできていない自分を情けなく思い、その解決は宗教によるしかないんだと、あらためて信仰生活の実践的意義を自覚するのです。所謂「怨憎会苦」の処理システムとしての宗教の意義ということです。すると悪感情が雨雲のようにたちこめていた心の中に光が射してきます。少しずつ晴れた気分になってくるのです。これが宗教をやる上での基本的実用性であって、この基本に立たない宗教、この日常的実用性の地面に足が着いていない宗教は、いかに高尚な教義を掲げていても現実の救いにはならないのです。そして現世の現実の救いを媒介し得ない宗教は、来世の永遠の救いをも示せないのです。宗教である以上、来世のことを語ること自体は問題ないが、その来世がユートピアだと言うなら、現世の人間関係の現実を抜きにして言うことは幻想にすぎないということなのです。現世の大衆的日常の心身問題とは無関係に、来世の無階級的永遠の霊魂問題などというものはあり得ない。心身と霊魂とは一体だからです。現世での救いが来世の救いへと連続してゆくのです。それがイエスの言う「神の王国=神の支配,統治」の福音が単なる来世利益を告げるものではなく、終末になって初めて実現するというものでもなく、またキリスト教徒が言うようにその「終末」がキリストとともに到来したなどということでもなく(…そんなバカげたことを言うから「終末の遅延」問題が生じたりカルト宗教を招来することになるのであって、「終末」とは関係なしに)、信心を得ている者にとってはすでに現実として始まっている、開き始めている、と理解すべきです。

一般的に言って来世の天国とは要するに誰も傷つくことのない、誰をも傷つけることのないユートピアのことですが、そういうユートピアについて語るなら、現実社会の対人関係を踏まえて言わなければ詰まらないのです。その中にこそ「神の王国=神の支配,統治」の門戸が開かれると観るべきです。そうでなければ宗教は大衆の生活現実から離れて説得力が感じられない。地に足の着いていない思想は宗教であれ哲学であれ無用の思弁となります。だからと言って人権問題に特化することには反対です。生活保守主義に迎合すべしというわけではないが、その傾向は実際的に理解した上でなければ宗教的とは言えません。教会がその地域にある原発や基地での仕事で食ってゆくしかない人たちのことを一顧だにせず、宣教とは名ばかりの主義主張を掲げて反対運動に参加するようなものです。

たとえば「解放の神学」関連のように、イエスの福音をマルクス主義的に解釈する立場には疑問を抱かざるを得ません。これはたとえ大衆運動的な面を偽装していても、インテリの発想から抜け出せないものであって、いかに高尾利数氏が批判するような伝統的教義の不解放という保守性はあっても、それだけで「民衆の宗教」の視点を重視しているとは言えないし、中南米などの貧困問題が激しい地域ではともかく、少なくとも日本の社会においては「民衆の宗教」という視点を欠落することになっていると思うからです。なぜなら、そこでは大衆ではなく一部の被洗脳市民を担い手の対象としているからであり、解同などの利権人権団体に利用されている面があるからです。そんなイデオロギーがイエスの福音であるわけがありません。究極の平和・平安はけっして暴力的な方法では実現されません。それが聖書の真理なのです。

そういうイデオロギー福音主義の教会が内部に紛争を抱えているとしたら、灯台もと暗しと言いましょうか、本末転倒でしょう。まずは日常の人間関係における争いから平和・平安にしてゆかなければなりません。倫理的個人主義です。それが宗教的使命です。言い争うことが暴力沙汰にまで発展するのです。日常の実際的な問題と言うとインテリなどはすぐに差別問題を持ち出しますが、それを外的・法的に解決することは宗教本来のやり方ではないです。まず一人一人が差別の元になっている度過ぎた自尊感情などを内的・心霊的に解決することが重要です。表層的レベルの問題は心理学でも社会学でもなんでも参考にすればよいでしょう。しかしそれらの学問では人間の「心」の問題は根本的な解決をみません。必ず「霊」まで掘り下げないといけないからです。それは少なくとも科学といわれる学問の領域ではなく宗教実践の領域になります。心理学的解決など対処療法の暫定的なものにすぎません。精神科にしたって然り。患者を薬漬けにして短い会話をカウンセリングなどと言って誤魔化しています。こういったものは信用できません。根本的な解決にはなりません。実質的解決のためには自力ではなく他力であり、それも絶対他力。人への信頼より神への信頼の方が優先されます。

他人からバカにされたようなことを言われた時には反撃して言い返すことがあってもよいでしょう。しかしそれによって得るものは一時的な自己満足であって(それでも神の恵みと受け取れないことはない)、またバカにされたような気持ちになるのでキリがありません。反撃しなければならない事態になるたびに繰り返していると、全面的な争いへと発展してゆきます。軽い言い方ならともかく、相手の言動を気にしていればいるほど、マジに思っていればいるほどそれが態度に表われ、語気も荒くなって相手への刺激も強まるからです。もちろんお互いの気性などにもよりますが、大抵の人はジャブだけではすまなくなり、よりダメージの大きなパンチを出そうとするのです。ならば、ジャブだけならよかろうという甘い考えは捨てるべきです。

じゃあ、イエスが言うように打たれた頬と反対の頬まで向けてみれば済むのか、と言えば、自分は経験的に考えても必ずしもそうとは思いません。小~中と同じ男からいじめを受けていましたが、最終的にはこちらが切れて殴った(が不発でメガネだけ落とした)行為によって相手のいじめは終息したのです(もっともそのメガネはこちらが修理してやりましたが…)。また、私は田川式解釈も採りません。田川建三という人物自体が私は大嫌いだからです。それに反抗だかなんだか知りませんが、わざわざ相手に頬を向けること自体、現実的ではないと判断します。気持ちの面ではともかく、身体的には打たれても、それがちょっとした言葉のレベルであるなら、あまり反応を示さない方がよいと思います。適当に聞き流しておればよいのです。それでその相手の人と争わずに済むなら、その職場でやってゆけるのですから、あえて争いのタネを撒くべきではないのです。日常の対人関係での問題については、責任上、主張すべきことは別にして、そうでない些細なこと、自尊感情レベルのことなんかは、相手に向かって、外界に対して処理するより、自分の内面に取り込んで処理してゆく方が宗教の実践的意義に適うことだと私は確信します。自分が信仰を持つということは、人間関係でのストレスの処理装置を持つということを意味します。すると、そういう信仰によって成立している宗教はどのような団体であり、具体的にどのような処理技術を教えているのか?そしてそういったものが従来のキリスト教の中にはまったく見られないのか?見られるとしたらどういったところか?という問題が浮上します。

もちろん貧困問題も労働との関係では日本社会でも極めて大衆的な現実問題であり、「民衆の宗教」は第一に倫理的個人主義であるとは言っても個人レベルの人間関係の問題に終始してよいとは思いません。まずは個人主義的なところから入って精神的安定性を高めながら、社会的な問題へと関心を向けてゆかなければ、「神の王国」としての共同体的な面に適合しなくなります。

聖書では、このことは「富める青年」の話(マルコ福音書10章17節~22節/マタイ19:16~22、ルカ18:18~23 )においてイエスが厳しく戒めていることです。足下の現実に意識を向けるという点で、禅語では「看却下」です。この話の重点は貧民への寄付行為とか財産放棄にあるわけではありません。全財産を施せば天国に行けるよ♡って言うような新興宗教的な善行主義の話なんかではありません!もっと深い意味がある!すなわち富める青年は言わば個人救済主義者です。自分さえ救われたらいいといった感じ。そこで貧乏人の存在は視野に入ってきません。「ラザロと金持ち」(ルカ16:19~)の話については、下のリンク先のように「金持ち」を好意的に解釈する立場もありますが、もっと単純に読んでもよいと思います。

http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message110123mf.htm

それはともかく、路上生活者など貧者の存在は、私たち大多数の市民が日常、目をそらしている現実であることに変わりはありません。その現実を直視しながら生きるとなると何らかのサポートをしなければならず、いかに少額であっても面倒くさいとか勿体ないとか思うからです。でも本来は宮沢賢治が言うとおり、世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえないのです。これは八木誠一氏の言う「統合への規定」やマルクス主義の考えにも通じる真理です。だって、自分が不幸な貧乏人の側であると想像した場合に、イエスの言う「富める青年」や「金持ち」のように、身近にいる自分の存在を無視して綺麗ごとを並べる宗教家や政治家や学者などにどうして尊敬を感じることができるでしょうか?

その点、いわゆる「社会派」と称されて自己満足に浸っている牧師の中には、いざとなると路上生活者などに対して冷たい人間がいることを私は見てきました。偽善者ですよね。私は経験に基づいて書いています。もちろん、一部を全体に拡げることはできませんが、いろんな情報も併せて一般的に言えば、社会派牧師にも口ほどにもない人はいるということです。もちろん全体ではなく部分ですが役職への上昇志向ないしは権力欲で活動している者も少なからずいるのです。私は研修先で、障害を持つ牧師の体を足蹴にしていた社会派気取りの牧師を見ました。特に友人関係とかいう間柄ではありません。親しい関係ならいいというものでもありませんが、朝の起床が遅いからといって暴力的なやり方をしたのです。そういう人は、言葉の暴力は日常茶飯事です。そんなこともあって、私がいちばん信用できないのが「社会派」と称されるような牧師連中です。そんな人たちが幅をきかす集団なんて偽善の空気に息が詰まるので身を置くものではありません。私の教団離脱の理由の一つでもあります。以前、私の家族の者が教団のその手の委員会に献金したので、現実を知らないなと思って当人をたしなめたこともあります。貴重なお金をドブに棄てるようなものですよ、とね。一方、他教派の福音派もアリバイ的にNGOとかNPOとかやっている例があるので、あまり信用できませんが敢えて言えば、社会奉仕活動をしているキリスト教団体で私がいちばん信用できるのは救世軍であることを、私は経験から言えます。例外もあるでしょうが…。

エスの精神に反するキリスト教団体として私がすぐに思うのは、所謂ミッションスクールとかキリスト教主義学校といわれる中でも特に「……女学院」と称するブランド学校であり、また、聖路加国際大学病院のように、あつかましくも「ルカ」という福音書記者の名を用いながら、ルカ福音書の貧者志向に逆行するとしか思えない全室個室の富者志向的医療機関です。

ちなみに上記の話の中でイエスは、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神おひとりのほかに善い者などいない」(18)と言っているので、素直に読めば「イエス 神」ということになるのは明らかです。そして私の実践的な座右の銘は「捨小就大」です。囲碁用語だそうですが、自分なりにパラフレーズすれば、現時点での大目標を常に意識して、それを実現するためには日々の些細な痛みは小事と諦めて前進せよ!ということです。現世から来世へと、対人関係と対神関係とが平安な状態で過ごせることこそ救済の実質だと思います。傲慢な言い方だとは思いますが敢えて言わせてもらえれば、死後の家族や友人たちとの再会といった話は副次的な事柄であると思うのです。死後の行方を心配していると現世のことが疎かになります。聖書はけっして現世の命を来世の命より軽んじてはいません。永遠の命とは現世から来世へと貫いてゆくものです。

繰り返しますが、人間は自分自身を制御しきれません。自力は限界があります。へたな心理学やカウンセリングなどを受けるより、コヘレト書にあるとおり、なるべく人生の早いうちに自身の造り主をおぼえておくことが何よりも平安になる道なのです。肉の父は亡くなったらあの世の人であって、守護する存在ではありません。肉の父よりも魂の父こそが自分の本当の守護者であり救い主なのです。究極の救済者はキリストではありません。その「父」です。聖書における神の啓示はキリストの特別啓示だけに集約されないことは、改革派神学の方が明確に語っております。それはバルト神学に対する批判としても十分、通用しているのです。

日常の現実性なくして、いきなり来世的救済を説いても現実逃避になるだけで意味がありません。聖書にも影響がみられるペルシャ系の光(の子)と闇(の子)の二元論やグノーシス主義的な幻想に耽ったところでカルト宗教に陥る危険が増すだけであり、全的・究極的な意味での救済にはならないのです。

こういう飛躍というのは、インテリが個人倫理を軽視していきなり社会倫理を語りたがるのと似ています。実話ですが、自分が連れて歩く犬の後始末もできない人間がデモだのストライキだの笑わせるな!というのと同様です。我々庶民は、まずもって日々の人間関係における身心への暴力とこれに伴う怨憎会苦から救われていなければ霊魂の救済も何もないのです。所謂「いじめ問題」の抜本的解決の方向性にも関連してきます。但しここでは身心の「心」すなわち身体に対する暴力において「精神的」側面を「肉体的」側面とは区別して考えなければなりません。一方がダメージを受ければもう一方もそれ相応のダメージを受けるわけで心身を分離的に扱うことはできませんが、思考の上では区別が必要です。ここで対象としている「暴力」の問題は「心的・精神的」側面に重点が置かれます。これは普通、相手の問題であるより以上に自分自身の問題です。なぜなら傷つきやすい状態になっているからです。いじめは、いじめた側よりいじめられた側の方がよく憶えていると云いますが、それは傷がなかなか癒えないからでしょう。しかし軽い心の傷は身の傷と同様、時間の経過とともに少しずつ癒えてゆきます。心は不快な記憶が消えてゆくことによって回復するのです。心を強化して傷つきにくくする、あるいは傷ついても回復しやすくするといった心の改良は宗教だからこそ出来る仕事だと思いますが、信仰なり信心は脳の働きが衰えるに伴って失われてゆくのではなく、さらに深まってゆく部分もあるのではないかと思います。もちろん生活には補助者が必要な場合もありますが、その補助の仕事も他力による自力でなければうまくいきません。すなわち心の問題の根本的な解決は超絶人格神との関係(=対神関係)を抜きにしてあり得ません。臨床心理学や精神医学などの処置はしょせん対人関係の中だけの話です。これでは人力の限界にぶつかるだけであり、根本的な解決にはなりません。単なる自力ではなく他力による自力、絶対他者の他力にもとづく自助努力こそが真の人間改革につながるのです。そしてここに「民衆の宗教」としての根本があります。キリスト教が「民衆の宗教」として機能するためには、仏教ではないが庶民個々人の日常の生活現実にこそ「苦(難)」を直視し(特に「怨憎会苦」)、その解決から入ってゆくべきです。いきなり遺伝的イメージで原罪を説いたり迫害のような特殊な話から入っても庶民には実生活につながらないので意味が伝わりにくいです。そして、いきなり隣人愛の実践から入るのは無理です。絶対他力による救済といってもいきなり何か圧倒的なパワーを得てイエスの如く倫理でも癒しでも超人的行為をなせる、ということではありません。そんな観念的で抽象的なものではなく、絶対他力は小さなところから簡易かつ具体的な方法でやれるよう実用的に働くわけです。そういう宗教は対人関係において劣等感などで自尊心が傷つきやすい人間がいかなる対処をすれば回避できるかといった方法を実践的に教示できなければなりません。いきなり隣人愛だの何だのと言い出したらダメなのです。自他を愛せない人間だからこそ救いを求めているのです。方法としては意識の持ちようで交わしてゆくとか観念操作を用いるとかいろいろあり得ます。それが心理学的手法と異なるのは、その元に絶対他力を認める点です。その前提を認めるか否かが宗教と心理学との分かれ目です。最初の段階では心理学的な気休め的方法のように思えてもそれは入口であって、信仰心にもとづいているかぎり、やがて「神の王国=神の支配、統治」という宗教的・霊的意識へと移ってゆけるのです。信仰対象はイエスでもキリストでもなく「唯一絶対の父なる神」として「YHWH」の名において自らを対象化なさったお方です。その啓示の媒介者がキリストです。

福音書に描かれているようなキリスト・イエスが歴史上に実在したとするなら、そのイエスは「真に人」とは言え煩悩具足の凡夫ではなく聖人とか超人とかいわれるような人物だったから愛敵を実践し得たわけで、だからこそ「神の子」ないしは「神」とも言われるようになったのでしょう。われわれ生身の人間は愛敵どころか、これも聖書に書かれている、友のために命を捨てるということもなかなか実行できるものではありません。実際、身内ならともかく他人のために自分の生命を危険にさらす行為は本人の信心如何に関わらず自力だけの所業とは思えません。他人を助けようとして亡くなる人がニュースで報じられることがありますが、それは稀なことです。できるとしたらあくまで特殊な状況において、しかも宗教的、すくなくとも一神教的宗教の見方においては、絶対他力の働きを受けてのみ奇跡的に可能になる事柄です。あの「塩狩峠」の出来事も、自ら轢死したというのが事実なら、そういうことも言えるでしょう(この件については下のリンク先参照)。

「塩狩峠」三浦綾子この作品の最初のページに書いてある文を訳してほし... - Yahoo!知恵袋

とにかく隣人愛を日常的に実行すべく命令する資格者は普通の人間ではあり得ないし、またその命令を実行できる者も普通の人間ではあり得ません。そして普通の、すなわち凡人を救済対象としない宗教は「民衆の宗教」とは言えず、超人を志向するような宗教も同じです。凡人が凡人のままに救われると説いてこそ「民衆の宗教」であり、真に実践的な宗教であると言えます。凡人は凡人なりに努力が求められる、この自助努力の倫理的要請は当然です。そこには甘えは許されません。しかし凡人に対して超人になることを要求する宗教はまともな宗教ではありません。所謂、カルト宗教的傾向があります。そういう志向性は結局、相対の絶対化、人間の神格化につながるのです。真の宗教は人間をあくまで相対化するものでなければならず、そのためには信仰対象が唯一絶対の人格的存在でなければならないのです。一神教神秘主義が入ると、その秩序が壊れてしまいます。イエスの宗教には神秘主義的要素が見られるので、その面で人間の相対化が弱くなっていると感じるところもあります。神秘主義を排する方向で解釈する必要があり、そうなると隣人愛は日常的実践課題と受け取るのではなく、あくまで絶対他力の働きによる特別な恩寵と受け取るべきです。

自分を愛するように隣人を愛するというなら、その自分を愛するということが自明とはなっていない現実、広瀬さんのように自殺願望を抱えるような現実から救いあげてゆかなければなりません。まずは聴き手の存在が必要なのです。イエス・キリストの活動は当時のユダヤ人社会と今の日本社会との差異もあって必ずしも我々にとって最底辺レベルからの救済とは思いません。階級的視点があっても自尊心を捉えないとダメで、原罪存在という人間観がネックになるのかどうかわかりませんが、もっともっと個人の対人関係の問題に入ってゆくべきでしたね。そうでないから今の日本社会に生きている犯罪予備軍的劣者たちの犯罪防止に役立つ通時的な文句が少ないのです。その点でもイエスは絶対者などではあり得なかったのです。ただし「神の王国の福音」自体は普遍性があり、その価値が唯一絶対人格神観と共に聖書を第一教典とする最たる根拠になっています。

日常生活での対人関係がうまくゆけば、そこから「神の王国=神の支配,統治」の現実の扉が開かれてゆくのです。真のユートピアとはそういうものです。日常生活の対人関係の問題を軽視したり閑却して、いきなり来世の魂救済に関心を持つことは自殺願望につながり、それは「民衆の宗教」でもなければ「聖書の宗教」でもありません。聖書的宗教倫理は将来の希望に向かって然りです。方向は終末に向かうのですが、それは遅延しているという、とうぶんは来ませんよ、ということであり、いきなり終末論を説いて現実の問題を矮小化するのがカルトです。これは庶民を却って異常心理に追い込んでしまう危険があります。そうではなく我々の人生は理性を働かせて近い将来の明るい展望を持ち得なければなりません。そのための活力を与えるものが創造神でありその聖霊であると説き、広瀬容疑者のように対人関係に恵まれない人間の精神を救済し得る宗教でなければ「民衆の宗教としての聖書宗教」とはならないのです。そしてそういう宗教にならないキリスト教などは無意味であり、ブランド学校の運営などブルジョア向きの偽善的宗教として批判され、教会組織も当然、解体されて然りです。

私はこのブログで「神」について思弁的に縷々書き連ねてまいりましたが、結局、キリスト教であれ何教であれ、また宗教でなくても人生というのは、なるようにしかならないわけです。キリスト教的に言えば、すでに創造主の聖定により、世界の行く末も人間個々人の運命も決まっています。だからジタバタしたって始まらないのです。もちろん、最後の審判があるので教会通いと善行奉仕はしておかないと天国入りは望めません。そしてそこまでして天国入りしようとは思わない、思うけど意欲が出てこない、といった私のような者は、自分は救いに選ばれていないのだなと諦めるしかありません。せいぜい万人救済を信じるのがせきの山です。いずれにしても、いくら「神」について思弁を尽くしたところで真実は未知なのだから自己満足にすぎず、実際には無意味なことなのでしょう。

「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(コリント人への手紙第一13:12  新改訳2017)

逆に言えば、「一部分」は知り得ているのです。その範囲では神について、思弁的にではあれ聖書に基づいて論じるならば意義があるのです。だから神秘主義者などのように「神」について不可知だと言うのは誤りです。それは聖書を通して神が啓示を与えておられるからです。問題はその「啓示」をバルト神学などプロテスタント主流派のようにキリストに集中させる狭い理解の仕方ではなく一般啓示・自然啓示も重視すべきであり、そこに形而上学的思弁の余地も生じます。

バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは、行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神は、ヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトをはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。」
http://minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html(※赤色は管理人)

それはともかく、私は「神」だけではなくその「国」との一体性において聖書から学ぶことに関心があるのです。言わば聖書的「神国」論です。

ところで佐藤優氏は、失礼ですが、いかにも穏健な神学者を気取っているかのようにこのように述べています。

「よい行いをすることと救済の間には、何の関連もありません。救済は、人間の行為とはまったく関係なく、ただ神からの恩恵によってのみ実現するのです。それだから、人間は虚心坦懐にこの恩恵を受け入れ、ひたすら神の栄光のために生きることが求められているのです。一人ひとりの人間が、神によって、召されています。人生とは、神による呼びかけへの応答によって構成されているのです。イエス・キリストを救い主と考えるキリスト教徒にとって、キリストの再臨とともに行われる最後の審判は、決して恐ろしい出来事ではありません。むしろキリスト教徒が『永遠の命』を得て、『神の国』に入る救済に向けた重要な出来事なのです。『神の国』とは、未来においてのみ出現するものではありません。教会という形で、この世に『神の国』が先取りされています。しかし、地上における『神の国』と最後の審判の後に現れる『神の国』が、同じ形態を取るわけではありません。最後の審判の後の『神の国』がどのようなものであるか、制約の中に生きる私たちにはわからないのです。それと同様に、復活後の人間がどのような姿を取るかについても、私たちにはわからないのです。逆説的ですが、わからない事柄なので、信仰の対象になるのです。復活を信じるキリスト教徒は、復活後の人間について観念的に考えるのではなく、自らが生きているこの世界の現実の中で、他者に奉仕するという形で復活信仰を実践することが求められています。教会の頭は、ベツレヘムの家畜小屋で生まれ、粗末な十字架上で本当に死んだイエス・キリストであるという現実を、隣人との関係でどのように実践するかが問われています。」(~『神学の技法』〔平凡社〕p276~277)

恐縮ながら佐藤氏にはこういうキャラは似合いません。あの不気味な形相はまさに日本の怪僧ならぬ怪神学者がお似合いなのです。ちゃっかり母校に取り入って神学部で講義などしてる場合ではなく、むしろ従来の神学教育に抗議してほしいものです。神学者を気取るなら異色の神学者を気取ってほしい。それが佐藤氏に期待されることでしょう。なぜなら彼は外交官としても言論者としても「異端」的なキャラなのですから、神学を飯のタネにするにしても、一般の教団御用神学者が言うようなことを言ったって面白くもなんともありません。キリスト教の異端になれという意味ではなく、教団御用神学者とは別の角度から神学を語ってほしいものです。そこにこそ彼の本領も発揮されるのではないでしょうか?佐藤優さんにこの思いを伝えたい!

そういうこともあって、私は、上に引用した佐藤氏の文言の全体にリアリティーを感じないのですが、特に最後のところはまったくダメです。私にはイエス・キリスト自身が「神」であるとはどうしても思えないので、こうしたセンチメンタリズムというかロマンチシズムというか、なんか感動させるようなイエス物語にはうんざりなのです。繰り返しになりますが、私の関心事はイエスその人ではなく、彼が「父よ(アッバ)」と呼びかけたお方です。そして福音書のイエス自身が、自分よりもこのお方を人々に示そうとしておられることがよくわかるのです。そこのところを佐藤氏など、キリスト中心主義者はまったく見えていないようです。

ところで、かつての大日本帝国の人々にとって最大の関心事は日本神話にもとづく「神国」としての「体」、すなわち「国体」であり、国体明徴運動なるものもありましたが、その「国」とはあくまでも「皇国」でした。

それで、昭和を経て平成に入り、その元号も今年の5月で改められるという時期を迎え、今、私が原点に立ち帰って思うことは我々、聖書宗教の信徒にとっての「国」とは、当然のことながら祖国である日本という国家を超えた「神の国」であるということです。この日本国もおろそかにはできませんが、究極的には世界のあらゆる国を超越したところに自分たちの真の祖国・本国を仰ぎ見なければならないのです。そこでは、イエスの「神の王国=神の支配」の告知は、終末論的なものとみなされています。以下、関連記事を引用します。

さて神の国は人類史の発展の頂点、進歩の最終段階、というようなものではない。イエスの時代には歴史の進歩とか発展とかいう考えはなかったのである。さらに神の国はこの世に対立するもの、此岸に対する彼岸、という性格をもっている。すなわち神の国は人間が歴史をつくってゆく、その目標、といったものではなく、従っていわゆる理想社会でもない。すなわち、イエス理想社会の姿を描き出してこれを実現するための具体的方法を提唱し、理想社会建設のためにひとびとに呼びかけ運動を組織する、というようなことはしなかった。 

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

ここで「神の国」ははっきりと「理想社会」すなわちユートピアではないと言われています。さりとて、使徒パウロが「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)と言うその「国」とエスが告知した「神の王国=神の支配・統治」( βασιλεία τοῦ Θεοῦ)とは、私には必ずしも同一現実とは思えません。なぜなら、その「本国」はイエスが再臨する出所としてイメージされていますが、「天にある」と言われているとおり私たちが人生を送る現実世界ではなく、イエス自身はそういう意味で語ったとも思えないからです(所謂「史的イエス」と「ケリュグマのキリスト」乃至は「教義のキリスト」との区別は、キリスト教において明瞭につけられるとは思えません)。

そして私は21節にある「からだの変容」、いわゆる「栄化」といわれるようなことはギリシャ神秘主義的要素と見て、そのまま受け取ることはできないのです。聖書の部分的な記事や、その解釈の細かい屁理屈にとらわれない限りは、神秘主義は聖書的宗教の頽落態であるか異教的混入物にすぎません。コリント二3:18にも「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(新改訳2017)と、「主と同じかたちに姿を変えられて」ゆくという表現が、正直、どうかなとは思います。ちなみにここで「鏡のように主の栄光を映しつつ」と訳されているところを口語訳は「主の栄光を鏡に映すように見つつ」と訳して、「見る」という動詞を入れたために「神を見る」ことと誤解した愚かな解釈の例も見られます。それに「主の栄光を……見る」と仮定しても、「主」そのものを見ることと、「主の栄光」を見ることとは別です。下のリンク先にはその二重の誤りがあります。神を見る — コリント第一13:8-13

さらに私見を言えば、この「主」は「主イエス」の「主」であり、「ヤハウェ」の訳語としての「主」、すなわち聖書が示す唯一の父なる神を意味する「主」とは区別されます。

とにかく今の日本で、パウロ書簡の最も信用できる翻訳は岩波版の青野太潮訳です。そこではこの部分は「主の栄光を鏡に映し出〔すように〕しながら」と訳されています。

ちなみに私にとって聖書が示す「神」は、イエスと「父 ― 子」の人格的関係において啓示されたお方であり(この関係はいかに親密とは言え、人格的に不可同・不可逆の関係性が明示されているので、神秘主義的なものとは言えない)、旧約聖書に描かれている「ヤハウェ」であって、それ以上のことは「子細に及ばず」です。

特にスコラ学者が引き合いに出したがる出エジプト記3:14の「エフイェ アシェル エフイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)への拘りは、有賀鐵太郎氏の如く「ハヤトロギア」などと言って昔のヘブライ語を神秘化し思弁する愚に陥ることにもつながり、聖書の記事であるという点ではどうでもいいとまでは思いませんが、聖書が示す「神」および「神の王国」を知る上では本質的なことではないと思っています。啓示の核心はあくまでも上記のイエスとの人格的関係にあります。

このお方が「唯一の神」なので、イエスは我々信者にとって対神関係の模範であり仲介者ではあっても「神」ではないということ、それを「神化」し、信者をも「神化」するものがギリシャ神秘主義的な考え方であり、この考え方がキリスト教の中でも特に「正教」に現出しているのであり、こういう神秘主義キリスト教は私が断然、拒むべきところです。聖書を全体的にみれば、世界観の基本は「創造主=神」と「被造物=自然」との質的断絶だからです。

ここで佐藤優氏が解説しているモルトマン神学における「収縮」についてふれておきます。

伝統的キリスト教創造論ではアウグスティヌス以来、神の創造の業を「外へと向けられた神の働き」として三位一体論的な「内へと向けられた神の働き」と区別しましたが、神が人間と自然とを外部から創造したという考え方では「神の遍在」の教理と矛盾するということで、今度は「神の収縮・自己撤退(自己限定)」という明け渡しの創造論が出て来たわけです。しかしこれにも形而上学的矛盾があります。

「ドイツのプロテスタント神学者ユルゲン・モルトマン(1926~)は、『創造における神』(1985年、邦訳1991年)で、ユダヤ教カバラ思想を援用して、こう考えました。『神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた。』」

モルトマンは、プロセス神学の創造論については「伝統的な『無から創造』ではなく、『混沌から秩序への創造』であると解」したとのこと(~芦名定道氏の論文「ホワイトヘッドキリスト教思想 ──プロセス神学の評価を中心に──」) 。
モルトマンの主張については、その「世界」自体、「神の収縮」によって生じたのではないのか?という疑問が生じます。「満ち満ちていた」といっても物理的には際限があるわけで、言わば枠が決まっているので、神殿の外壁のように原初から「神」と共に存在していたというわけでもないでしょう。つまり「神」という存在が人格的当体と、その容れ物である非人格的物体との複合体として存在しているのでなければ、あるいはハートショーンのように「創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考える」(→「聖書神体論と汎在神論」の喜田川信著『神・キリスト・悪』からの引用を参照)でもしなければ、比喩的・思弁的には、「神」が収縮したところで「空いた隙間」などというものは出てこないのです。仮にそのハートショーンの考え方をとるとしても、喜田川氏の「もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。」という疑問というか批判が生じます。だから、神の収縮にともなって世界ないしは宇宙が創造(というか生成)されたなどというのは思弁中の思弁で意味をなさないのです。なぜなら、その世界ないしは宇宙の成り立つ「場」がそもそも「無い」からです。それは「無からの創造」ではなく「創造が無い」ということです。「神」が自発的に「収縮」することによってそこに「空間」が出来るとするなら、前述のように「神の体」が、人格的(=非物質的)な内部と非人格的(=物質的)な外部との二重構造になっているとでも考えない限り、存在論(というか形而上学的思弁)ではアポリアを乗り越えられないということになります。つまり、聖書の啓示はそもそも存在論的にだけ考えても行き詰まるということです。

佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1)

  

それではイエスが伝えた「国」は、選ばれし者たちにとっては理想社会みたいなものでしょうか?

それについては聖書のことばに基づいて考察する必要があります。いずれにせよ、その「国」の「主(あるじ)」はイエス・キリストではなく「神」であるということ、そしてその「神」への信仰を抜きにして、その「国」に入ろうとすることは罪であるということを申したうえで、ここでは、その入口乃至は一端は、信者が日常生活を送っている現実世界のうちに見出されているものである、それは現実世界が物質(=肉)的次元と非物質(=霊)的次元との二重性においてあり、スピリチュアリズム的聖書解釈においては、後者がイエスが伝えた「神の国=神の支配」の内実である、というにとどめておきます。

私見では、「神」とその「国」とは不可分・不可同・不可逆であり、「神の国」も「神」に含まれると言えなくもないです。それはプロセス神学のハートショーンの「創る神と包括的宇宙は一つの神」という説に触発され参考にしてのことです。以下、引用。

ハートショーンにおいては喜田川信氏が『神・キリスト・悪』(新教出版社)の中で次のように指摘しています。
「ともかく神と世界とは同時的なのである。神に先立って世界はなく、逆に世界に先立って神は存在しない。そこで宇宙(世界)は神であるか、それとも神と宇宙という二つの卓越した存在があるか、どちらかである。このジレンマは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考えることにより解けるとハートショーンはいっている。原因(創造者)と結果(宇宙)とは神の二つの側面だというのである(中略)これはまさに汎神論ではないだろうか。ガントンはそのようにハートショーンを批判している。これに対しハートショーンは、自分の立場は汎神論(pantheism)ではなく万有在神論(panentheism)だというのである。」(p13)
喜田川氏の結論は次のとおりです。
「かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)
もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか
 

付論:聖書神体論と汎在神論 聖書の御神体/ウェブリブログ

神の支配そのものと、その支配が及ぶ領域また支配に服するひとびとというニュアンスの差はやはりおのずからあるのであって、後者のニュアンスが強いときには「神の国」と訳したほうがよいと思われる

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

たとえば、植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三位一体論に合わせて、「父=神」の人格のうちに「子=キリスト」という「身」と「聖霊」という「靈」があると理解するなら、コロサイ書2:16の〔新改訳、口語訳〕「本体はキリストにある」(=〔岩波版 保坂訳〕「実体はキリストに〔ある〕のだ」)という言葉を「神の国の本体は、キリストご自身」であると解釈する立場(例:神の国は )においては「父なる神」の身体がキリストということになり、その「キリスト」も「父なる神」と本質を同じくするという意味では「神の子」にとどまらず「(子なる)神」だといえるので、結局、「『神の国』本体=キリスト=神の身体」という図式が成り立ちます。

要するにイエスが伝えた「神の王国」の「神」と「王国」とは一体・不可分なのです。つまり、「神」の得体はその「国」に現されるのです。但しその「神の国」とは、領域的意味も残されるものの、「神の支配」としては八木誠一氏が言われる「神のはたらき」であって、「はたらく神」なのです。その八木氏の思想に感化されたであろう遠藤周作氏などがそのエッセイで「神」は対象ではないとか、存在ではなくはたらきとして感じるものだといったことを述べたところで、一般的な庶民の感覚に照らせば、結局、「神」は、いるかいないか、あるかないかということになり、それが物体的存在として対象的にあるわけではないにせよ、その「はたらき」を受ける経験によって確かに「神」はおられると感じるなら、その「はたらき」に「神」の得体が示されていると言えるのです。八木説に依拠すれば、神が「神の国=神の支配」をも含むという考え方は聖書的根拠を得られるのです。なぜなら、八木説においては「神のはたらき」と「はたらく神」との区別は必ずしも明確ではなく、むしろ両者は重なっていると言えるからです。そして何より、イエスが伝えた「神の国=神の支配」は原始キリスト教における「(復活の)キリスト」と同じリアリティであると言われているからであり、その点が上記のコロサイ2:17の「神の国」の本体としてのキリストという解釈に符合するからです。聖書が示す「神の体」は、物体とか、空間というか領土のような対象的・客観的なものではなく(それを「体」と呼ぶに相応しいか否かは趣味のレベルの問題だから横に置くとして)「はたらき」といった非対象的・感覚的なものであると言えます。ただし八木氏の思想においては上記引用のとおり、ニュアンス的に「神の支配」ではなく「神の国」と表現されるべき領域的意味もあるようです。但し、「神の体」としての「神の国」は、「神」の「支配が及ぶ領域」ではあっても、「支配に服するひとびと」を含まないことは当然のことです。

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

ローマ人への手紙11:36の(すべてのものは…)「彼へと〔向かっている〕」(エイス アウトン)ということも、コリント人への第一の手紙8:6bの(われらは)「その方へと〔向かう〕」(エイス アウトン)ということも、「彼」とか「その方」と訳されている「神」が被造物の帰するところといった、西田哲学などとはまったく関係ないながらも、まさしく文字通り「場所(論)」的神観であって、それは聖書が示す「神」が単なる人格的存在というにとどまらず、国的、領土的なイメージをも含んでいることを表していると言えなくもないです。

結局、究極の神観は人格主義的神観と非人格主義的(=場所論的)神観の双方を包含し、絶対有と絶対無の区別なども超えた、万有内在神論(=全ての被造物は創造主なる神の内に在るという説)ならぬ万有包在神論(=全ての被造物は創造主なる神に包まれて在るという説)こそ究極の聖書的神論であり神観だと思います。

以上のことは、論理的には成り立たないことであり、専門家でなくても自分の如き素人でも一読して屁理屈としか思えないことですが、イメージの表現としてはそのようなことであり、私自身としては感覚的に納得しています。

そして、その場合の聖書解釈においてイエス・キリストは「神」ではありません。神性は認め得ても、新約聖書のコリント人への第一の手紙15章28節にあるとおり、「すべてのものをキリストに従わせた方」が真の「神」だからであり、花岡(旧姓:川村)永子博士のようにこの箇所から「仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいない」との結論に至るかどうかはともかく(私見では仲保者としてのイエスの位置が絶対的であってこそキリスト教と言えるのではないかと思いますが…)、歴史の終末において創造主なる「神」は被造物の「すべてのもの」を帰一させるのであり、創造主なる「神」は人格,非人格の区別を超え、非物質,物質の区別をも超えるのです(もちろん「人格」は比喩であり「神格」とでもいうべきもの)。

それで、聖書から導き出される「ユートピア」も「神」と不可分であり、同時に不可同・不可逆ではありますが、「神」に含まれるといえば含まれます。

ユートピア」というのは元々、ギリシア語の ou (否定詞) と topos (場所) を組み合わせた造語であり、どこにも存在しない場所を意味するわけなので、現実世界のどこか特定の場所ではありません。しかし理想社会に近いと実感される場所はあるものです。

その一例として私が経験したことをご紹介したいと思います。現場は私が神学校の伝道実習先として受け入れてもらった静岡県にある「かなの家」というカトリック系のホームです。そこにはいわゆる「精神障がい」のハンディを持つ方々が共同生活しておられ、アシスタントの方々もおられました。

労働は石鹸づくりや農作業や廃品回収などがありましたが、これがけっこうハードで、真夏の炎天下での農作業ではバテたこともありました。しかし1か月間の実習期間は、私自身のこれまでの人生において最もユートピア的経験となりました。

特に印象に残っているのは、私と同様に大柄なひとりの青年との出会いで、彼は家からの通いでしたが他の仲間と同じペースでの作業は困難でした。その分、私は彼と会話をする時間を与えられました。そして最初は私を訝って警戒していたような彼が、ある時から心を開いてくれて兄さんのように言ってくれた時、自分もこのコミュニティーに受け入れられていることを実感できたのです。

期間の途中でメンバーたちとお祭りに行くと、そこにべーやん(堀内孝雄氏)が来ていて懐かしく歌を聴きました。歌と言えば私もギター伴奏して皆と「ふるさと」や「贈る言葉」を歌ったことがありました。

その他、どういう理由だったかは忘れましたが石鹸づくり作業の途中でホームに帰され、仕方なく部屋でギターを弾いていたらアシスタントの人が来て注意されたことや、野外のパーティーで焼きそばに焼酎をかけておこられた痛い思い出もあります。

実習の帰りに電車の窓から眺めた富士山の雄大な姿が1か月間の恵みを私の心に焼き付けました。私が帰った後に、後輩の男女ペアが「かなの家」に実習に行って喜んで帰ってきたことも、私にとっては神の恵みでした。

しかしその実習期間にお世話になったメンバーのひとりが最近、亡くなられたことをブログで知り、彼の顔が思い出されて感慨深いことでした。そのブログに掲載されている手紙の一部をここに引用させて頂きます。

「イエスが初期に貧しい人は幸いと言われた。この幸は天の国でそうなると言われる。別のところでも、天の国に書き記されることを喜びなさいと言われる。ところが、現代の人には天の国とは何か分からなくなっている。もう空も、宇宙も、神秘性を失いよく知られた空間になっている。すると、死後の世界と取る人が多いかもしれない。これは大きな間違いです。ここで言われる天の国とは、実にこの深みのことなのです。貧しい人は幸いとは、貧しさ、さみしさ、虚しさがなければ、神に、出会うことができない。神に触れることができない。逆に言えば、貧しさ、さみしさ、虚しさにおいて神に触れる。貧しい現在が実に幸いなのだということで、死後と取れば、イエスの教えは崩れてしまう。ですから、この国は実に深みにあるのです。深みにおいて人々は結びつくのです。」

(~「Sからの手紙: Sからの手紙」)

この文章の中で特に注意すべきは、イエスが告知した「天国=神の国」とは死後の世界のことではない、ということです。私見では、これは生死を超えた霊的次元のことであり、貧しき者たちが幸いであるといった世俗的価値観の逆転・逆説は、現実社会において、客観的にではなくても間主観(=共同主観)的には実現されるのであり、そこに聖書的ユートピアへの入口があるのです。

ところで、差出人の「S」とは佐藤仁彦さんのことであり、私は佐藤さんが「かなの家」の創立者だと思ってきました。創立当初は管理的にならないよう、社会福祉法人の施設にはしなかった旨を聞いたと思います。HPを見ると現在は社福法人施設になっています。

実習の時のことで佐藤さんに関して特に思い出されるのは、着いた初日にクルマで周囲を案内してもらったのはよかったのですが、お茶畑のところを通った時に、そこの人が散布していた農薬の白煙が車内に入ってきたので、私は慌てて窓を閉めました。私が座っていた助手席側に畑があったのです。閉めるタイミングが遅くて若干吸い込んだ可能性もあったのですが、佐藤さんはかなり平然としておられたので、この土地の暮らしに慣れているんだなあと驚いたものです。佐藤さんのお連れ合いさんにもお世話になりました。

ところで、上に引用した「Sからの手紙」のNo.473に「その頃、私は、ひとりの人をどうしても赦せなかったのです。」という言葉がありますが、それを読んだ時、「ひとりの人」が自分ではなかろうかと私は心配になりました。そうでなければよいと思っています。なぜ自分のことでないかと思ったのかというと、実習期間の私の生活態度はおよそ神学生らしくないものだったからです。自分としては体裁など気にせず本性丸出しでメンバーの人たちと接していたので自己解放になりましたが、飲むわ食うわで、訪問者としては、ましてや神学校からの実習生としては、現場責任者から(口には出さないまでも)怒りをかっていたとしてもおかしくはないからです。

但し、佐藤さんが神学校の校長だっけかに対するコメントとして書いて下さった内容は好意的であったような記憶があるし、最終日にはバイト料として身に余る金額を下さったので、おそらく「ひとりの人」は私ではないだろうと自分に言い聞かせています。

日本人はなぜ、聖書の絶対者たる創造神を理解できないのか?

東大教授を退官後、放大教授に就任され、哲学の生涯学習に大きな貢献をなさった渡邊二郎氏は、『現代人のための哲学』(放送大学教育振興会)という、私が学生時代に読んだテキストの中で、「日本に西洋哲学が受け容れられ、またキリスト教が広まってゆくに従って、次第に、絶対者としての神の存在という観念が、人々の間に浸透し、人々に信仰心を呼び起こ」したと述べておられますが(p240  ※濃色は管理人)、あらためて読んでみると素人ながら、この点だけは疑問に感じてしまいます。

「西洋哲学が受け容れられ」たことに関してはともかく、すくなくとも「キリスト教が広まって」いったとしても実際に「絶対者としての神の存在という観念」を受容し得たその「人々」というのは、あくまでも一部の知識人に限られていたのではないかと私には思われます。

いずれにしても冒頭に掲げた渡邊教授のテキストは、終わりの方で「私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司どる絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。」と語り(p257)、最後は、「私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」と結んでいます(p258 ※濃色は管理人)。

ところで、旧約聖書学者の深津容伸氏は「キリスト教と日本人」という論文で次のように述べておられます。

「・・日本の教育がキリスト教信仰を天皇信仰に置き換えて取り入れられていることを内村鑑三は批判しているのである。これは何も教育に限ったことではなく、明治憲法キリスト教の神を天皇に置き換えて制定されたため、以後天皇絶対神(古来から日本の神々に絶対神は存在しなかったのであるが)として信仰されるようになったのである。キリスト教信仰を省いてキリスト教文化を受け入れることを内村は欺瞞として批判しているわけであるが、これが今日に至るまで、日本人がキリスト教に接する傾向であるといえる。」(※濃色は管理人)

思えば、あの太平洋戦争で猛威をふるったいわゆる絶対主義的天皇制とか天皇ファシズムとかいった現象は、大日本帝国憲法での天皇の「神聖不可侵」がキリスト教の「絶対者としての神」を参考にしたことに起因するのであり、伊藤博文氏などの西洋文明を学んだエリートたちが天皇に付与したイメージは「教育勅語」による道徳教育などを通して国民大衆に浸透したのであって(「教育勅語は意味が分からずに天皇を崇める感性を幼少の頃から植え付ける大きな役割を果たした」〔~開發孝次郎氏の論文「昭和天皇教育勅語」〕)、素地として大衆の中に「絶対者としての神」という観念が浸透していたとすれば、そしてそれがキリスト教(の特にカトリック)の宣教によるものだったとしても、それは一般庶民に直接的なかたちではなく、まずは国学者などの知識人に入り、そこで絶対神格化された天照大御神および天皇のイメージが庶民に刷り込まれていったのだと思われます。以下、参考までに引用します。

「国民の中に天照大御神のみを崇拝する一神教的傾向が生まれてきていることに注意を向ける必要がある。(中略)絶対唯一神化された天照大御神を本尊として説教をしなければならないとする意見が、茨城県の川崎巌によって建白(明治五年十月)され、(中略)キリスト教と同様に、我が国においても『国初大主宰ノ天神』のみを信仰する一神教にしなければならないとするような建白書も提出されている。天照大御神絶対神化された時、その国民への影響力は天之御中主神論の比ではない。このような天照大御神論にはキリスト教に対抗していこうとする排耶論の意図が含まれているが、キリスト教一神教に触発されていることは明らかである。」(~佐々木聖使氏の論文「明治初期における天之御中主神論」)※赤色は管理人。

欧米社会で宗教の果たしている意義を思い知らされた伊藤氏などは、日本を近代化してゆく上で天皇および皇室を国家の精神的支柱とする必要を痛感し、そのためにはおのずと一神教的な発想が出てくるのも頷けます。福沢諭吉矢野龍渓が着目したユニテリアン・ユニバーサリズムは、一時期、国教化の案が出たことはあまり知られていないようですが、キリスト教系なので土台無理な話でしょう。

結果的には所謂、国家神道が形成されるわけで、まず天皇の祖先とされているアマテラスにキリスト教の「唯一神」的イメージを与えることになり(その点で皮肉なことではありますが、このことにふれるたび、「唯一神」の原初的イメージは太陽であっただろうという思いを強められます。太陽神崇拝が唯一神教の起源ではないでしょうか?)、明治の初期から、反キリスト教の知識人が皮肉にも敵対するキリスト教の神観を参考にして、徐々にその活動を進めていったというわけでしょう。そのピークは昭和に入って所謂「天皇機関説」に対する攻撃および国体明徴運動から太平洋戦争に至る時期であり、昭和天皇は唯一絶対神的存在である天照大御神の子孫であるという再神話化がなされて庶民が洗脳されたのです。しかし所詮は八百万の多神教世界なので相対性は免れ得ず、天皇は言わば絶対的相対神としての現人神でした。相対性があった分、洗脳も解けやすかったのでしょう。

1937(昭和12)年に文部省が第一刷を発行した「国体の本義」では、天皇を「現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」云々とわざわざ断っているので、逆に言えばこの時点で日本社会の中の、すくなくとも知識人の中には「絶対者としての神という観念」が広がっており、天皇のイメージがそういうものとして浸透していたことが窺われます。その状況に役人たちは弁解しているわけです。そして当の天皇御自身は迷惑と思っておられたことが、「又現神(=現人神)の問題であるが、本庄だったか、宇佐美(興屋)だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云った事がある。」(~『昭和天皇独白録』)とのお言葉からわかります。

いずれにせよ、戦後にキリスト教が発展したにしても、天皇の所謂「人間宣言」などがあって、戦時中まで天皇が纏わされていた虚飾のヴェールも剥がれ落ち、日本の大多数の庶民にとって「神」といえばまずもって神社に祀られている、自然物との区別も曖昧な相対的な存在ということに戻ったわけで、それが本来の日本人の神感覚でしょう。そしてすくなくとも大衆レベルでは平成の時代に至るまで、キリスト教の「絶対者としての神の存在という観念」など浸透し得なかったと思います。

 

昨今のマスコミにおいても(「神わざ」というのは昔からある言葉ですがそれに加えて)「神対応」など、いかに優れた技能や行為であるにせよ、「神」という言葉を人間に対して使う傾向が顕著であることは、その傍証と言えるでしょう。

三島由紀夫氏の言う「概念の混乱」という事態はたしかにあったのだろうと思います。

「われわれが漢訳の外国語によって得たものは、概念の厳密さよりも、その概念を自由に使いこなす日本的な柔軟性をわれわれのものにしたというにすぎません。ここから概念の混乱が起り、日本人の思考の独特な観念的混乱が生じたのであります。」(~『文章読本』)

ところで本多峰子氏は、遠藤周作の小説『沈黙』に関する論文の中で、次のように述べておられます。

「この小説の最も大きなテーマは、神の沈黙の問題、すなわち、迫害に会い、百姓たちが惨めに殉教して行くとき、なぜ神は沈黙を守っているのか、という問題と、日本でのキリスト教の受容の問題、すなわち、日本人は、絶対的な唯一神を信じる正統的なキリスト教を受け入れることができるか、という、遠藤周作が生涯考え続けたテーマである。フェレイラは、自分が転んだ理由を、日本人には結局、キリスト教の神を受け入れる概念的な素地がなく、キリスト教は日本にはけっして根付かないであろうと悟ったからだと、言っている。一時的に、キリスト教が日本に広がったように見えたときもあったが、日本人の中で神のイメージはいつの間にか西洋人が考える<神>ではなくなっていってしまったと、彼は見たのである。『日本人は人間とはまったく隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない・・・・・・日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間とは同じ存在を持つものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない・・・・・・私にはだから、布教の意味はなくなっていった。』」(※濃色は管理人)

http://www8.plala.or.jp/mihonda/Yudahasukuwareruka.htm

ここで「正統的なキリスト教」(~本多氏)とか「教会の神」(~遠藤氏)といった言葉があります。「絶対的な唯一神」とか「人間とはまったく隔絶した神」というのは聖書的神観ですが、それがキリスト教本来の神観であるか?と言えば、必ずしもそうとは言えません。キリスト教は「神が人になった」ことを告げるからです。「真に人」である者を「真に神」であるなどと言う宗教はキリスト教だけです。歴史的には「人が神にされた」のでありますから、ギリシャ正教が人間神化という非聖書的教理を持ったのは当然と言えば当然です。

日本人の庶民的な神感覚ないしは日本的神観が聖書的神観と決定的に異質であるのは、結局、矢内原忠雄氏が本居宣長批判において、日本人の「神」は人間との区別が曖昧な存在である旨を指摘しているとおりであり、そんな日本人が昭和の一時的なブームに乗って洗礼を受けて形だけのクリスチャンになったからといって、「絶対者としての神の存在という観念」を身につけ得るわけがなかったのです。キリスト教が古くから、神人両性一人格キリスト論を中心とする宣教をしてきたのなら、西洋の有神論における実体的「絶対者」神観が定着することもなかったでしょう。「真に人」としてのイエスを含み込んだ「神」が「絶対的な唯一神」とか「人間とはまったく隔絶した神」とイメージされるようになるのは不自然だからです。ちなみに私見では、西洋の有神論における神観には非聖書的な部分も多くありますが、理神論にも部分的には棄てがたいものがあるし、狭義の有神論の神観の大半は聖書的神観と重なります。ところがその有神論を否定する流れが現代は高まっており、聖書もその都合に合わせた解釈がなされるようになり、それによって「神」が非人格的で得体の知れないものにされているのです。

中世ではスコラ学において神学と哲学との区別は曖昧だったので、いかに形而上学的要素が入っていても、それも込みでキリスト教の神観だったのです。ですから現代の「十字架の(組織)神学」者が、このことを取り上げて、キリスト教の神学が国家神道に利用されたとしてもそれはカトリックの自然神学ないしは形而上学的神学であって、プロテスタントの啓示神学ないしは聖書主義的神学は全く関係ない、などとは言えません。この点は先に釘を刺しておきます。

私は、キリスト教の神観が大日本帝国憲法の「神聖不可侵」という天皇観、そして太平洋戦争の時の絶対主義的天皇制における天皇のイメージ作りに利用されたという仮説とともに、その絶対的神イメージは西洋の有神論ないしはトマス神学に由来するものだと思います。しかし宗教改革後も、特にカルヴィニズムにおいては「超越」かつ「絶対」的神観が強調されたので、その影響が全くなかったとも言い切れません(カルヴァン自身の神学思想と、デオドール・ド・ベザ以降の「カルヴァン主義=カルヴィニズム」とは異なる。「予定」の強調は後者。しかしカルヴァン自身も「三位一体」の教義に固執するがあまり、ミカエル・セルヴェトスを処刑している)。正統的キリスト教において、比較的ではありますが聖書的神観の要素を最も謳っている系統はカルヴィニズムではないかと思います。それも穏健派ではなく保守的な方です。その関係で私は、「ウェストミンスター信仰基準」の「聖定」の教理を最も重視しています。「神」の絶対性を明確にしているからです。だから、仮にカルヴィニズムの神観も天皇の絶対者イメージに利用された部分があるとしたら、極めて皮肉なことであり、非常に残念なことです。しかし私はその可能性は低いと見ています。少なくとも大日本帝国憲法での天皇観に利用されたキリスト教カトリックだったからです。参考までにカルヴィニズムに関してある一文を引用しておきます。「予定 < 聖定」の教理を積極的に伝えているのはカルヴァン自身ではなく、後継のカルヴィニストのようです。後者の神学には合理性があります。特に「許容的聖定」の教理はこの世に起こる災難をすべて人間の罪に起因するものとして、無用な神義論的問いを排するのです。俗っぽく言えば、なるようしかならねえっていうのが、神さまの「予定」であり「聖定」なのです。

「神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。」(~岡田稔著『改革派教理学教本』〔新教出版社〕)

「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。(中略)
聖定とは創造された世界の中にすべて起こってくることに関する神の計画をいう。予定とは、天使と人間の永遠の運命に関する神の計画を指す。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解 上』〔聖恵授産所〕)

当然のことながらカルヴィニズムの神論は「三位一体」である以上(カルヴァン自身の三一神論の方が、カール・バルトの「神の存在様式(Seinsweise Gottes)」に近いのではないかと思われる)、全面的な支持はできませんが、「キリスト中心」と言うより「神中心」と言われる点がよいのです。特に「ウェストミンスター信仰基準」は知性や合理性を犠牲にすることなく問答が進行しますが限界線がきちっと引かれており、人知を超える神秘については聖霊の働きにより判断停止するといった頌栄ベースのスケールの大きさが魅力です。

ちなみに私は、このような「正統」と呼ばれる立場に対しても、逆に「異端」と呼ばれる立場に対しても、等しく是々非々で臨んでいます。

カルヴァン主義者たちは、神についてもいかなる他の現象についてと同様に客観的に語ることができると信じていた。彼らは他のプロテスタントカトリックと同様に、論理と形而上学の重要性を強調する新しいアリストテレス主義を発展させつつあったのである。これは聖トマス・アクィナスアリストテレス主義とは違っていた。なぜなら、新しい神学者たちはアリストテレスの思想の内容よりも、その合理的方法に関心を持っていたからである。彼らは既知の公理に基づく三段論法的演繹から引き出せる一貫した合理的体系としてのキリスト教を提示したいと思っていたのである。これはもちろん深く皮肉なことであった。なぜなら宗教改革者たちはみな、神についてのこの種の合理主義的議論を拒否していたからである。」(~カレン・アームストロング著、高尾利数訳『神の歴史』〔柏書房〕p380)

ここでトマスの名が出てきたので忘れないうちにひとこと。ざっくり言えば、ルターの「十字架の神学」に対する「栄光の神学」とはトマス神学に代表される哲学的神学であり、その哲学とはアリストテレス哲学であり、従来のアウグスティヌスの神学の場合はプラトン哲学であって、この転換点には十字軍遠征によるイスラム世界からの文明流入という出来事がありました。とにかく、哲学におけるスコラ学の父がアンセルムスなら、神学におけるスコラ学の父はトマスでした。バプティスト派におけるバルト神学者の寺園基喜氏は、パスカルの「哲学者や学者達の神ではない」という言葉を「哲学者アリストテレス神学者トマス・アクィナスのいう神ではない」と敷衍しておられますが、現代の神学者がよく引用するパスカルの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの神」とは、そういう意味が込められているわけで、要するに現代の「十字架の神学」者たちは、彼らが何より関心ある神義論というものを、スコラ学的方法で論じるよりもキリスト論的にかこつけて論じる方がより現実的であり、説得力があると思っているようなことなのです。私にしてみれば、そもそも彼らの知的関心の前提となっている神義論自体がスコラ(暇)な、無用な議論なのであり、ヨブ記を読んで解決、否、解消されて然りなのです。だから私は、現代の「十字架の神学」者の三位一体論というものは、よく「実践(的)」という言葉が使われることからも察せられるとおり、それを裏返せば、彼ら知識人の観念性、思弁性のカムフラージュ神学、自己正当化の神学にほかなりません。彼らのホンネは倫理にかこつけた教理への関心です。そこを見破らなければ、結局、庶民信徒は騙されます。

たとえば、北森嘉蔵氏の場合の一例として、「十字架の神学としての神の痛みの実践的意義」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p37 ※「実践的意義」に傍点あり)などと、「実践的」という言葉を一見「倫理」の行為に直結するかのようなことをほのめかしながらも実は、「外を内に化してゆく」(同書、p38)というロジックについて用いています。この「実践」の主体は、表面的には「十字架の神学」ないしは「神の痛みの神学」という神学的立場にある人のようでいて、じつは神学者でも信徒でもなく、「福音」とか「神の痛み」といった観念になっており、言わんとしている実践の主体は聖霊かキリストかはわかりませんが、これも論理の中での抽象的な事柄であり、信仰生活の事柄ではありません。これもまた思弁神学者による日本語の誤用と言えるでしょう。

また、他の神学者の場合も「十字架の神学」を持ち出して「社会福祉」だのなんだの社会倫理的事柄につなげてみたところで、その重点はあくまで「神学」の「論」の方に置かれていて「福祉」の「実践」の方に置かれているわけではありません。そしてそれは神学としては当然であり、最初から倫理・道徳の行為という意味での「実践(的)」という用語を持ち出さなければいいのに、コンプレックスからか、あえて「実践隠し」で逆にそのように言うのが偽善的だというのです。最初から自分たちの軸足があくまでも「論」の方に置かれていることを自覚し、それを誤魔化す必要など無いのです。それを知識人というのは体裁にこだわるからでしょうか、神学の論者としても実践的でありたいとの思いから、「十字架の神学」(および、それと接合した三一神論)と福祉問題などを結びつけ、実際に現場で福祉活動などしなくても、神学議論の場にいるだけでも「実践(的)」と言えるようなあり方が可能であるかのように振る舞うわけです。そんなことなので、福祉現場の信徒のみならず、本当に生活の中で諸々の問題を抱えて苦しんでいる庶民信徒にとっては、その「神学」の何が「実践(的)」なのかさっぱりわからないのです。だって彼ら神学者たちは、けっして自分たちが経験している苦しみを共有してはいないからです。むしろ大学教授など社会的に高い地位で、自分たち時給800円前後で働きながら暮らしている庶民とは懸け離れた生活空間にいる人々です。そんな人たちが、たとえ日曜日だけ牧師と称して教会で「十字架の神学」に基づく説教をして、自分たちが共有できない信徒の苦悩を、神さまが、イエスさまが共に苦しんで下さっているのだ!と語ったところで、身に染みて慰めや励ましを感じられるのか?と言えば大いに疑問なのです。むしろ、神学は神学として、へたに「実践(的)」であろうなどとせず「論」に徹底すればよい、知識人はへんに一般庶民に寄り添うようなふりをせず、ただ質疑に応じればよいのであって、現場での「実践」はその道の専門の従事者がすることなのです。神学者自身もむしろそのサービス利用者にすぎないのです。神学で実践的サービスを一般信徒に提供しようなんてムシがよすぎるのです。弱者贔屓もやりすぎると弱者にとっては却って嫌味になります。

当面の問題は日本の国学者などキリスト教に反対する側の人々がキリスト教のどのような文献を読んだかです。戦争との関連で言えば、聖書的には旧約の「万軍の主」としての権力者的神イメージに目をつけられてもおかしくはなかったでしょうが、反対者たちがそこまで聖書を読んでいたかは疑問です。

旧約の神と新約の神とを区別すること自体が遠藤周作氏や井上洋治司祭に影響された人々の陥りやすい過誤ではないかと思いますが、敢えて便宜的に言えば、新約聖書の神イメージはイエスのたとえ話にもみられるように「超越」とか「絶対」とかいった権力者的な感じは後退していますから(但し、イエスは「神の王国」「神の支配」を伝えたとされるとおり、王的神理解と無縁ではない)従来、日本の知識人が西洋のGodは云々と言うような場合、そのイメージは神学的にはネオ・プラトニズムやアリストテレスなどの形而上学的神観を含んだ普遍主義の中世カトリック・トマス神学であり、プロテスタントではカルヴァン神学によるもの、そして聖書的にはどちらかと言えば旧約的であった、と言えるでしょう。これにより「超越性」「絶対性」「実体性」といったことが強調されることになったのではないかと思われるのです。これが戦争に悪用されずに、宗教的真理として日本に入ってゆけばよかったのですが、残念ながらそうはならなかったのです。受容したというか利用したのは知識人層、それも戦争推進派の人々であり、庶民層の中に平安を与える創造神のイメージとして入ることはありませんでした。結局、「絶対(他)者」という聖書的神観を日本人は受け付けなかった・・・それが『沈黙』の中でフェレイラ教父が問題としていることでしょう。それだけ神道的神観の根が深いということでしょう。

ちなみに佐藤優氏は次のように述べています。

「フロマートカは、よく言われる、旧約聖書の神は『裁きの神』で恐ろしいけれども新約聖書は『愛の神』で優しいというような見方を退けます。イエスは、律法を廃止するためではなく完成させるために、われわれの世界に現れた神です。新約聖書も『裁きの神』なのです。それですから、イエス・キリストの前に立つとき、キリスト教徒は恐れの感覚も持つのです。このことを多くの神学者は見逃していますが、フロマートカは、シモン(後のペトロ)が、イエスと出会ったときの物語から読みといています。」(~『神学の技法』〔平凡社〕p58)

ところで、日本人の文学者などがキリスト教のGodについて語る場合、信仰の有無に関わらず、そのイメージは必ずしもキリスト論的ではなく、ましてや三位一体論的でもありません。同じ一神教ユダヤ教イスラム教の神観にも共通するような「超越性」とか「絶対性」が強調されることが多いのです。もちろん、信条としてはキリストの両性一人格や三位一体を認めている人でさえそうなる傾向があります。

この点に関して私は、キリスト教徒の中にも従属論的な傾向があるからではないか、という仮説を立てています。改革派の神学においても、「職務的」とはいえキリストの父なる神に対する「従属」が認知されています。

また、量義治氏が宗教学者波多野精一氏をユニテリアン呼ばわりしていますが、これも「従属」と関係があることだと思います。

新約聖書でも、パウロ書簡など読めば「神」と「キリスト」とは従属的な関係として語られているし(この点はパウロ書簡の専門家である青野太潮氏も、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」と述べておられます)、それは聖書の中でキリストの神格を最も語っていると思われているヨハネによる福音書、さらにはルカ文書(の「神のキリスト」という表現)にも見られます。

「三位一体」神論についても、日本神話の「造化三神」に関連して国家神道ないしは所謂「天皇教」に利用された可能性はあります。しかし、以上のことはあくまでも私個人の仮説であることをお断りしておきます。

いずれにせよ、天皇絶対神格化に西洋の有神論的神観なりキリスト教の神観が使われたことは歴史的事実と言えるでしょう。それで、実体性とか絶対性が強調されることになったのではないかと思われるのです。日本の教養人のGodのイメージは西洋の有神論の神観に一致します。そしてそれは従属論的キリスト論を前提としています。従来、クリスチャンの多くは、キリストを「神の子」として、「神」との関係を従属的にイメージしていたのではないかと察せられます。いかに知識人レベルではあっても神学者ではない以上、一般的にはGodは決して三位一体論的にイメージされてこなかったのです。というか、三一神をイメージすること自体、いくら卑近な喩えがあっても困難なのですから。日本プロテスタントの初期の指導的立場の人々も、植村であれ高倉であれ儒教の影響もあって従属論的キリスト観がみられます。無論、信条的には三一論を前提としてはいますが、実際のイメージとしては「神」と「キリスト」とは「同質」ではあっても「同等」より「従属」的な感じが強いのです。頭では「三」とか「二」であってもハートでは「一」という現実はあったはずです。神観はまずは聖書から感じられる素朴なイメージによって形成されるので、最初から教義に合致するわけではありません。多くのクリスチャンにとって三一神観は言わば後付けなのです。そこで神観が三一論的に改められても、その理解は様態論的になるか三神論的になるかで、教理に合致するようなことは稀有と言っても過言ではないでしょう。

それでは聖書的神観の特徴をあらためて確認したいと思います。

関根清三氏によると、イザヤ書57章15節は、前半で神の「偉大さと超越」、後半で神の「低さと内在」を述べており、両者相俟って「聖書的な神観の一つの到達点」を示しているとのことです(~岩波版「イザヤ書」57:15の注 ※濃色は管理人)。

私が聖書から示される第一のことは創造主と被造物との質的断絶、隔絶です(エゼキエル書2章1節の「人の子」についての岩波版の注を参照)。上記の関根氏の説明で足りないのは、「偉大さと超越」と「低さと内在」との「不可逆」的な関係です。すなわち聖書的神観においては、「神」の超越性は内在性に対して、「神」の在天は遍在に対して、それぞれ先行しているのです(内在性に対する超越性の先行に関する参照聖句の一例としては列王記上19:11~13)。従って「神」が内在しておられるとか臨在しておられるとか言う場合も、矛盾的ではありますが、同時に超越し、隔絶しておられるということを意識していなければなりません。「内なる神」・「近き神」は同時に、そしてそれ以上に「外なる神」であり「遠き神」なのです。創造主は決して被造界に同化されません。そこには「不可同・不可分」ではあっても「不可逆」の厳然たる秩序があるのです。だから自分の身心内部に「神」を感じるとしたら、それは聖書的な神信仰からズレている・・・神秘主義的錯誤に陥っていると思って修正したほうがよいです。

エスご自身、ヨハネ福音書などを読めば、ある意味、神秘主義的ともとれる言葉もありますが、歴史的批判的に読めば違った面が見えてきます。イエスはおもにご自分を「人の子」と言っておられ、その意味は上記のエゼキエル書における預言者への呼びかけの意味(=神と人との隔絶の強調)だと解すことも可能です。それがイエスの自覚にあったか否かは別にしても、イエスという人にはご自分を「神」として絶対化するような考えなどまったくなかったと確信します。むしろ「父なる神」の前に一人の人間としての謙虚さを徹底なさったのであり、だからこそ彼を十字架につけたローマ側の軍人から「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」と言われたのです(マルコ15:39  岩波版  佐藤研訳)。そのイエスを神格化したキリスト教の方にこそ自己絶対化の意図があったのです。

ところでその佐藤研氏ですが、「禅・キリスト教」なるものを提唱され、これまた伝統的神観を根底から覆すような方向に進んでおられます(以下、引用。濃色は管理人)。

西洋キリスト教は『神と人間』、『絶対と相対』を質的に峻別する宗教です。それを無視する考えを『異端』として排除・弾圧してきました。しかし、この二元論でやる限り、『神』は人間に結局は抑圧的に関わってきますし、人間も神への基本的な反逆を常時潜ませています。」と指摘したうえで、「坐禅の世界に参入すると、キリスト教徒であっても、ものの見方が大きく変貌して行きます。単にこれまでの欠けたところを補う、というのでは終わらなくなります。(だからこそ伝統的な人々からは極度に警戒されるのでしょう。)その際の最大の変化は、『神』観の変化です。先ほども言いました、本質的に自己に二元論的に相対する、いわば超越者・審判者としての『神』という面が脱落するか、弱体化するのです。『神』とは自分の本質の別名、という理解に接近し、さらに体験的に一線を越えると、その生々しい事実をまじまじと体験することになります。そうすることによって、理解を超えた、ある根源的な平安にたどり着くのです。」と説いておられます。

http://hyakunincho-church.com/6column/syoshi/hncc-199sato.html

これではまさに「人間の神化」の逆で、「神の人間化」とでもいったことになります。宗教的に見れば日本的といえば日本的ですが、西洋から得た良い部分までも捨ててしまうことは、まさに盥の水といっしょに赤子を流すようなものです。同じく禅とキリスト教との関係で思索しておられる八木誠一氏の場合は、その思索の深さが佐藤氏や上村氏とは違って、伝統的・人格主義的神観も聖書的神観のひとつの側面として認めておられます。

教会が教義の中でイエスに纏わせた神話のヴェールを、神学とは違って科学的な面を持つ聖書学によって剥ぎ取ってゆくことは、現代のキリスト教改革においてとても有意義なことですが、そういった仕事をしてくれる優れた人物が得てして「神」について非人格化や相対・有限化の傾向があることは残念なことです。キリスト論は過激なくらいがよいですが、神論は「人格、超越、絶対」といった伝統的な一線は守ってほしいのです。つまり創造主にして「超絶者」という神観こそ聖書的なのです。

日本における「実存論的神学」の先駆者を自認しておられたらしい野呂芳男氏の場合は、「神」について「絶対」を言うのは哲学であって神学ではないと論じておられ、その結果、聖書に示された「神」をプロセス神学と同様に有限なる存在にしてしまっています。しかもその動機が、「史上,絶対的な全知・全能の神がしばしば専制政治に利用され,民衆を弾圧する道具に使われてきたことを考えますと,多元が多元のままで,そこに愛による-時代によってその形が独創的に変化して造られる-調和形成を目指す多元論のほうが,キリスト教という愛の宗教には相応しいと思うのです。アウシュヴィッツなどの強制収容所におけるユダヤ人虐殺,中国などにおける日本軍による虐殺事件,広鳥や長埼への原爆投下,東京下町の大空襲などを体験した私たちにとっては,もしも神が全知であり全能であるならば,何故にそれらの出来事を阻止できなかったのか,分からないのです。」などといった神義論的思弁的な事柄であることを見ると、呆れて思わず首を傾げたくなります。

(~「神学研究四十五年 ――最終講義 1991年1月17日 於 立教大学チャぺル――」の「4  多元論へ」)

http://www.geocities.jp/yoshionoro/1991-shingaku40.html

これでは本末転倒であり、「神」を有限化するような神学よりは、「神」を絶対化する哲学の方がよほど聖書的であると思います。

 

そもそも日本人で司祭や牧師になる者にしてからが、必ずしも「絶対者としての神の存在という観念」を持っているとは言えず、これではキリスト教会が、大衆に聖書的な神観を正しく伝えてこれたはずもありません。

調査したわけではありませんが、自分がいろんな地域の教会で信徒に接触した経験から言えば、現在の日本のキリスト教徒も、「絶対者」としての神観を自覚的に身につけている人はそう多くはないでしょう。なぜなら、聖書的神観の教育に関しては最も高いレベルの改革派教会も含め、あまりに「慈しみ深きイエスさま」中心すぎる傾向があるからです。

すなわち、人々の「神の愛」への異常なる執着は「神の絶対性」と(聖書的には整合するのですが情緒的には)矛盾するのです。日本のクリスチャンの多くはやさしいイエスさまに救われたくて教会に通うのであって、牧師の説教もイエスさまの愛をテーマにしゃべれば毎週でもOKなのです。逆に厳しい神様の言葉などが出てくる説教はクレームものなのです。そんなことで、どうして「絶対者」としての威厳ある「神」のイメージが浸透するでしょうか?

とにかく教会の「キリスト中心主義」は過剰であり、それもイエスの一面だけを都合よく切り取っているにすぎません。これに伴って「父なる神」の旧約的イメージも新約のイエスの「父よ」(アッバ)イメージに吸収されてしまったことが最大の問題です。その背景として遠藤周作氏や井上洋治司祭などの文学的信仰論があります。日本的キリスト教信仰は、北森嘉蔵氏の「神の痛みの神学」に代表される文学的・情緒的な傾向が強く(北森氏自身は哲学科出身とは言え哲学者より文芸評論家の方に近いようで)、哲学的・理性的な傾向を上回るように思えます。神学的には、両者は相補的であって然りでしょう。聖書の文書にはその両面があるからです。

とにかく、自然物・・・特に人間との区別が曖昧な存在を「神」とする環境に生きてきた日本人にとっては自然神学が合うのであり、カトリックが皇室や上流階層に入った理由も神道などと共鳴し得るところがあったのでしょう。すくなくとも啓示神学一本のプロテスタントよりかは受容されやすかったのではないでしょうか?啓示神学の立場から強調される「受肉」の教理、すなわち「神が人になった」という教えは日本社会では誤解のもとになります。イエスという人間を神として中心に据える贖罪福音主義の宣教においてまさに犠牲に供されたのは「子」なる神ではなく皮肉にも「父」なる神だったのです。西洋キリスト教の神(God)が本当に「絶対者」とか人間と「隔絶した超越者」といった存在としてイメージされてきたのであるなら、それは「三位一体」とは言え、「キリスト中心」ではなく「父神中心」であったということではないでしょうか?キリスト中心だったなら、そんなに超絶した存在としてイメージされなかっただろうから・・・。

唐突のようだが、ここで量義治氏の文言を引用します。

「従来、西洋においては神は絶対有であると考えられてきた。無神論はこのような絶対有としての神を否定してきた。神を絶対有として主張するのが有神論であるとすれば、有神論対無神論という構図も成り立ちえよう。しかしいまや、絶対者は単なる絶対有ではなくて、同時に絶対無であることが明らかになった。絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。神が絶対有にして絶対無であるということは、絶対有なる神が絶対無において在るということである。絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもあるのである。言い換えれば、単なる超越神でも単なる内在神でもない、ということである。神が絶対有にして同時に絶対無であるということは、単に神学上の問題に尽きない。同時に信仰上の問題でもあるのである。すなわち、神が絶対有にして絶対無であるということは、旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神とが同一の神であることを意味する。そして、この同一の神においては、義の審きと愛の赦しとが一つなのである。絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。我-汝の関係という人格的は契約と律法を介して成り立つ。契約と律法なしには我-汝の関係という人格的関係は成り立たない。そして、人格的関係のないところには責任ということも成り立たない。」(~『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293  濃色は管理人。)「絶対有」である「神」を「絶対無」にしてまで「三位一体論」を成立させなくてもよさそうなものだがなあ~と思います。そしてこの量という人物、その本の中で瀧澤克己氏の思想に触れてはいるものの、「不可分・不可同・不可逆」ということ、特に「不可逆」ということを学んではいないようなので、「神は超越神であると同時に内在神でもある」と言う場合に、「超越」が「内在」に先行するということを言えないので、プラスマイナスゼロで、結局、聖書的な超絶的神観を言えないのです。

 

以下、引用文中の赤色は管理人。

「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)

また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、エスを不用意に重視する立場キリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christ-centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256)

ここで「神」と言われているのはいわゆる「三位一体」のそれではなく、「イエス・キリストの父」としての、ユダヤ教と共通する信仰対象の「神=ヤハウェ」です。

 

次に、日本のプロテスタント教会の神学思想史において唯一人、聖書主義福音信仰の立場からキリストを「神」と告白することに反論した信徒伝道者の小田切信男氏の言葉を引用します(※赤色は管理人)。

「私は日本においては一人の平信徒・伝道者として折々伝道上の証詞を致しますが、、たまたまYMCA目的条文の中に、あたかも、キリスト教というのは、イエス・キリストを神とする宗教であるといったような意味の条文を発見し、非常に問題を感じたのであります。日本の古い習慣から致しますと、優れた天皇とか英雄、将軍、あるいは聖人らは、死んだ後には、しばしば『神』として尊敬され、神社に祭られるものであります。それゆえ、もし歴史の人イエス・キリストを、あるいは甦ったのちのイエス・キリストを、『神』であると申しますと、日本的習慣からは、『活き神様』の思想にも近いものと考えられたり、(中略)このようなことは日本の宣教上からは大変問題であると存じます。(中略)聖書には、歴史の『人』を神とよぶ思想(活き神様)のないように、神が肉体をとって『歴史の人』となるという思想もまたないのであります。なぜなら『肉体を持つ神』というような神観は、ユダヤ的、キリスト教的神観にはないからであります。もし、そのような『神』があれば、その神は当然死に終る運命を持つわけであり、かかる『死ぬ神』といった『神』は異教の神ではあっても、決してキリスト教の『神』ではないのであります。」 (~『キリスト論・ドイツの旅』〔紀伊國屋書店〕p143~144/「神、人となれり」ということの否定については同書の31~32、124、134~135、161、344、358頁なども参照。)
 小田切氏は、昭和28年に上梓第三書となる『福音から見た神と人』を著し、「YMCA目的一部改正についての意見を同盟に提出するまでは、「神、人となれり」ということを聖書の教えとして認めていました。しかしその誤りに気づいて意見を訂正したのです(『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト) ― 北森嘉蔵教授との討論を兼ねて ―』〔待辰堂書店〕p4~5参照)。

 「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)

関連して島田裕巳著『キリスト教入門』(扶桑社新書)より引用します。 内容的には宗教学者とはいえ門外感がありますが、日本の一般知識人のキリスト教に対する見方として参考になります。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」( p103~105)

 

 

 

「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

以下、三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』(講談社)より引用します。

(以下、引用)

あなたは、すべては相対的だと教えました。それは絶対的な法則はないという意味ですか?

「そう、絶対的なものはない。法則と状況は相対的な関係にあり、変化するものだ」

— では、神も変化するとでも?

すばやくアインシュタインは切り返した。

「君の言う神とはどういう意味なんだね?」

— やはり自然法則の創造者と考えていいと思うんですが。

「そう思うのはかまわんが、ことわっておくが、私の神は人格的な神ではないよ」

— あなたはいつか、人はそれぞれのイメージに合わせて自分の神をつくりあげていると言いました。では、あなたは、どんな神をつくり上げているんですか?」

「自分にとって」とアインシュタインは言った。

「神は謎だ。しかし、解けない謎ではない。自然法則を観察すれば、ただただ畏敬の念を抱くばかりだよ。法則にはその制定者がいるはずだが、どんな姿をしているのだろうか? 人間を大きくしたようなものでないことは確かだ」(中略)

「真に宗教的な天才は、こうした宇宙的宗教の感覚を身につけており、教義も聖職者も人格化した神も必要ない。だから異端とみなされてきたんだ。いいかね、民族と宗教の垣根を取り払えるのは、これまでそれにしくじってきた宗教指導者たちではない。現代の科学者ならできるかもしれないんだ」

(中略)

「牧師さん、宇宙的宗教では、宇宙が自然法則に従って合理的であり、人はその法則を使ってともに創造すること以外に教義はない。私にとって神とは、ほかのすべての原因の根底にある、第一原因なんだ。(後略)」

アインシュタインは、間違いなく神を信じていました。その神とは人間の姿をして教えを垂れるものではなく、自然法則を創り、それに沿って世界と人間を導くものでした。幼い頃に聖書と教会に絶望した彼はそれに代わる神を見いだし、その忠実な信奉者になったのです。

(中略)

天動説から地動説へ、地動説からニュートン力学へ、この世界がどのようにできているのかを考える科学のパラダイムシフトは、この世界で「絶対なるもの」は何かを追求することで起きてきました。それはとりもなおさず、「宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者」(『広辞苑』における定義)である神の領域を、次々に自然法則で説明し、相対化していくことでもありました。そしてニュートン力学から相対性理論へという転換により、ついに空間や時間までが相対化され、光速だけがこの世界で絶対のものであることが解き明かされたわけです。

(以上、引用)p169~174

聖書の宗教は救済宗教であり、宇宙宗教でもなければ道徳宗教でもなければ世界観宗教でもありません。人生の生活の中で経験される貧・病・争といった苦しみからの解放を切実に求めるというのが、聖書の宗教を含めて救済宗教の常道的な入り方だと思います。神学的には救済論に重きを置くタイプがそれです。その場合は関心が哲学よりも社会学や心理学に向く傾向があるでしょう。これに対して創造論に重きを置くタイプが世界観志向です。宗教に哲学的・世界観的関心から入るのは邪道とは言わないが観念的であり思弁に過ぎるので、かなりズレてくるでしょう。だから上記引用の物理学者の「神」などは救済者ではなく宇宙創成の説明のために要請される存在でしかなく、それなら人格神である必要はありません。「絶対なるもの」を科学的・世界観的に追求しても聖書が示す「神」と出会えないのは当然です。そもそも動機がズレているのです。もっともニュートンの場合はアインシュタインと「神」の観方が違うようですが(前掲書p124~128参照)、とにかく「絶対なるもの」は救済論的に、そして実存的に求められて然りです。但し、私はキリスト論を重んじません。歴史において、自然啓示は認め得ても特別啓示は認め得ないからです。

救済宗教という点では、ルメートルという人物はさすがに物理学者でありながら、「第一次世界大戦に従軍して戦場の悲惨さを目の当たりにした経験から神学校に入ってキリスト教を学び、カトリックの司祭となっ」っただけあります(p160)。

(以下、引用)

彼の発見が大きく取り沙汰されるほど、その背景にキリスト教的世界観を見いだす人たちによって、「科学と宗教」という対立構図が強調されました。そこで繰り広げられる議論は不毛なものだとルメートルは考えていたのでしょう。彼はこのようなことを述べています。

<聖書の執筆者はみな、「人間の救済」という問題についてなんらかの答えを得ていた。しかし、それ以外の問題については、彼らの同時代人たちと同程度に賢明、あるいは無知だった。だから、聖書に歴史的・科学的な誤りがあるとしても、それは何の意味もない。不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれに与えられたのかを正しく理解していない人が陥る誤解である>

これが物理学者と聖職者という二つの顔をもつルメートルの、根底にある考え方でした。

(以上、引用)p167

この人物については、「ハップルの法則」に関する対応もあっぱれとしか言えません。三田さん同様、尊敬すべき人物です(p165~166参照)。

いずれにせよ、進化論に立つ限り、アメリカのファンダメンタリストにおける反対運動とまではいかないにせよ、自然科学とキリスト教信仰は相容れないはずです。上掲書からもう一箇所、引用します。

(以下、引用)

■「創世記」2章7節 ■

<主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった>

つまり「人間は神が土から創造した」とあるのですが、アルバート科学雑誌を読んでいて、これがチャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論と矛盾することに気づいたのです。

(以上、引用)p142 

ちなみに私自身は、コヘレト的「神」信仰が救済論的アプローチとして、対神関係の距離感から言っても最適だと思っています。そしてコヘレト書の理解に関しては、旧約聖書学者の関根清三氏のように批判ばかりするのは間違いであって、「コヘレトにとって神は『太陽の下』をすべて支配される方ではありますが、しかし『神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない』(3:11)と書かれているように、神は『太陽の下』を超えた存在なのです。コヘレトは『太陽の下におけるすべては空しいのだ』と言います。しかし『太陽の下』を超えた、神との関わりにおけること、あるいは神との関りにおいて『神様からのプレゼント』を受け取ることを『空しい』とは言いません。コヘレトにとってそれは『トーブ』なのです。コヘレトは『トーブ』を導き出すために、『空しさ』の徹底追及を行っているのです。(中略)確かに、神とつながっていなければこの世界は『とてつもなく空しい』のかもしれません。しかしコヘレトは、空しさを追求しつつも、その空しさの外側をきちんと見ています。神との関わりにおいて得ることのできる『神様からのプレゼント』を見ているのです。ではそれは一体何なのでしょうか。」(コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か― 臼田宣弘)

コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か― 臼田宣弘 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

「コヘレトは、『無限』がすべてだとする世界観に、限界を感じていたのではないかと私は考えています。それで、『もの憂い』『ヘベル(空しい)』と言っているように思えます。しかしコヘレトは、神は『無限』の外側におられる方であることを知っていて、その神とつながっていること、あるいは『神様からのプレゼント』を受け取ることを大事にしていた人なのです。」(~コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環― 臼田宣弘)

コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環― 臼田宣弘 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

といった理解に共感します。なお、「神様からのプレゼント」とは何かについては、私のプロフィールを見てもらう方が早いでしょう。abemaさんのプロフィール - はてな

私見では、コヘレトの信仰対象である「神」は、彼自身がその「神」との関係を実存的に生きている日々の暮らしの中でその都度、自覚されている存在であり、客観的に「絶対者」か否か、「人格的存在」か否か、などと論じることなど無用とされており、来世についても想像を逞しくするような思弁は排されています。その姿勢は、まさに「知足知止」を思わせるものであり、形而上学的事柄を観念的に定義したりせず、つねに「空」(ヘベル)という現実経験に立って、そこから人生の意味を真摯に探求しています。私も厭世的ともとれる現実感覚の中で、そこからの救済を形而上学的にではなく現実的かつ切実に希求しつつ「捨小就大」を心がけて生きる中で、「神」の実体は誰に説明する必要もなく、自ずと己の中に明らかにされるのです。それで魂の平安を得てこそ、聖書の宗教は救済宗教だと確信できます。但し、救済宗教といってもあまりに信仰対象と近いのも息が詰まります。だからコヘレトの信仰的立場がよいのです。美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感です。あまりに近すぎる神秘主義的信仰は私が最も嫌悪する立場です。

本田哲郎神父がおっしゃっているとおり、イエスは自分を大切にするように隣人のことを大切にするということを神の御心の第一として教えておられます。しかし問題は、自分が隣人を求める人の隣人になるということよりも、自分自身が隣人を求めているという事実なのです。だからキリスト教徒が上から目線になるお話のすべてに対してリアリティーを感じられないのです。救われるべき貧しき罪人は、自分自身が隣人を求めているのです。だから自分を愛するように、ではなく、自分が隣人を求めているからこそ隣人を愛するということになってこないとウソですね。

★本田哲郎神父講演:「平和を脅かされている今の状況において、信仰者としてどう生きるべきか?――教皇フランシスコ『福音の喜び』をうけて」 - YouTube

ところで、無教会の指導者にして東大総長も務められた矢内原忠雄氏は、「神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません。絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。」と述べておられます(『矢内原忠雄全集』第19巻所収の講演録「日本精神への反省」の「本居宣長批判」〔岩波書店〕p25  ※濃色は管理人) 。

私にとっても聖書から示される「神」はまずもって創造主であるがゆえに「絶対(他)者」です。そして「絶対」ということは「最高」かつ「唯一」ということなので、「絶対最高唯一」が聖書が示す「神」の本質ということになります。被造物である人間とは質的に隔絶しているおかたです。但し字面からすれば、聖書的には「絶対」と言うより「全能」でしょう(「全知」も含まれる)。

 

エレミヤ書 32章17節 「あなたには何一つできないことはありません」 
ルカの福音書 1章37節 「神にとって不可能なことは一つもありません」 
同、 18章27節 「人にはできないことが、神にはできるのです」 

 

でもその全能が「義」によって正しく行使されないといけないわけで、その意味で「完全無欠」という意味で「絶対」でなければならないのです。

また、「神」が「唯一絶対」であることについては、そういう実存的な、つまり主観側の理由だけではなく、聖書的な、つまり客観側の理由もあります。

すなわち、聖書に示されたる「神」があくまで「唯一神」であり「多神」ではあり得ないのは、「遍在」の教理があるからです。所謂、アナザーワールドとかパラレルワールドなどを認めない限り、現実世界は「一」であり真実は「一」であるから「神」も「一」です。「神」の唯一性は現実世界の唯一性に対応しています。聖書では被造世界はあくまで「一」なのですから・・・。但し、終末には新天新地が到来します。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(ヨハネの黙示録 21章1 節)

それにしても何故、超越かつ絶対なる「神」を信仰しないといけないのか?と疑問に思われる方々もおられることでしょう。その答えは仏教的に言えば「縁」だと思って下さい。そういう「縁」というか「業」かもしれませんが、そういう宿命をもって生まれてくる人間もいるわけです。超絶神に頼らなければ生きてゆけない、私のような人間もいるということです。理由を探せば、まずもって日常の人間関係でのことです。職場の同僚や家庭での伴侶に対する自分の精神状態が、より安定した、余裕をもった穏やかなものになるには、どうしても宗教が必要なのです。

その実践性が伴うのであれば必ずしも聖書の宗教でなくてもいいか?と言えば、そんなことはなく、自分を愛しかつ律する人格的存在としての創造主との関係が絶対的に要請されるのです。これは個人レベルでの実践理性的信仰です。この創造主信仰さえあれば、「神」が「三位一体」だろうが「四位一体」だろうが、「二位一体」だろが「無位無体」だろうが・・・どうでもええ!神論なんかどうでもええ!ってことになりそうですが、要はこの創造主信仰がなければ、私のような劣等感に凝り固まった人間は常に自尊感情の過多とか承認欲求の不満状態であり、被害者意識(ないしは妄想)も強いので、そんなリスクをおかしてまで人間関係を結ぼうとは思わないのです。それでは社会生活は送れません。だから対人関係での苦悩を対神関係によって相対化することによって処理するためにも絶対他者なる唯一神が要請されるのです。

 

ところで、「神の全能」という聖書的教理に関して次のような文言があります。

「一つ明らかなことは、神はその全能をば人間に対しては抑制したもうたということであります。この『抑制』によってこそ、人間は自然物と区別される自由な人格的存在として造られ得たのであります。神がその全能を自然物に対するごとく人間に対しても貫徹しようとしたもうたなら、人間も自然必然性のうちに取り入れられて、『神の像』としての人格性はもち得なかったでありましょう。しかし、神は人間だけを他のいっさいの被造物と区別して、人格的存在――自由な愛の主体として造りたもうたのであります。」(北森嘉蔵著『日本基督教団 信仰告白解説 増補改訂版』同書p59)

この神の全能の「抑制」というのは、神の「自己限定」と言い換えることも可能でしょう。これは神が自主的になされることなので、あくまで全能とは矛盾しません。この冊子における問題点は、神の全能と矛盾することを北森氏が以下のとおり、人間の堕罪との関係で述べていることです。

「かくして人間の堕罪は二つの破綻をもたらしました。第一に、神の全能が貫かれ得なくなったこと、第二に、もし神の全能を貫こうとすれば、人間は死なねばならず、これは人間を生かそうとする神の愛と矛盾して来ること。『全能なる父なる神』がそれだけでは完結しえない真理であるというのは、このことをいうのであります。『全能の父なる神』の真理は、御子イエス・キリストの真理によってのみ完結され貫徹されうるのであります。すでに述べましたように、父なる神(創造秩序)の真理がキリスト論(和解秩序)のうちに包まれて成り立つというのは、このことを意味したのであります。」云々(同書p61~62)

このようなことなら、そもそも神は「全能」とは言えません。北森氏の神観が「有限の神」に近づいたという野呂芳男氏の指摘が思い出されます。すなわち北森氏は、「人間の堕罪が起こったということは、実質的な意味において、神の全能が否定に直面したことを意味します。神の意志は人間においてだけは貫徹され得なかったからです。人間は神の意志を否定したのであります。罪は、神の全能を否定するものであるからこそ、まさに罪なのです。」云々と言いますが(p60~61)、「人間に自由を与えるために神の全能が抑制された」から「全能の父なる神」だけではダメで子なる神のキリストが必要になるというのは「形式的」なことで「実質的」ではなく「実質的」なことは堕罪問題である…といった北森氏独特のロジックは、そもそも父なる神が全能と愛という相矛盾するものを抱えておられることを説いているかのような印象を与えるのです。

しかし聖書が示す創造主なる「神」は同時に「聖定」の主でもあられ、アダムとエバの堕罪のこともお見通しなのです。それによって全能が制限されるようなことではなく、堕罪の出来事は、所謂「許容聖定」という「神」の自己限定において起こったものであり、これも全能の内なのです。そのことを顧みない北森説は二元論的アポリアに陥るのであり、論理的には始めから破綻しているわけです。つまりどうしても「神」の有限性や相対性を認める方向にゆかざるを得ないという構造的欠陥が生じるからです。これは聖書の神学としては致命的です。

キリストの贖罪というのは、北森氏が言うような、父なる神の限界の先にある出来事とか、父なる神のはたらきより優越する御子のはたらきを意味するものではないのです。そこがひねくれているから、北森氏自身が奇異だとかいう、「子」(=キリスト)がご自分を含む「父、子、聖霊」の三位一体を啓示したなどという無理な聖書解釈を立てて、これを説明づけるために独特の哲学的屁理屈をこねてこねて、最後に解決しました…などと自画自賛するような机上の空論的遊戯を神学と称して語り続けることになるわけです。該当する箇所を下に引用しておきます。

「『イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていまし給ふ』。ここでは『父・子・聖霊なる三位一体の神』が『主イエス・キリストによりて啓示せられ』ると表現されております。これは一見奇異な表現といわれるかもしれません。なぜなら、『父・子・聖霊』の『子』は『主イエス・キリスト』と同一でありますから、この文章は『子』が『父・子・聖霊』を啓示するということとなるからであります。(中略)ここに残された解決の方法はただ一つしかありません。神の言全体を『キリストのみ』の内に包み入れること、すなわち、父・子・聖霊の『三』を子の『一』の内に包み入れること、であります。教団の信仰告白はそのとおりになっております。(中略)かくして初めて、ヤコブの手紙をも含めた神の言全体としての正典たる聖書への信仰告白が、『キリストのみ』『信仰のみ』というルター的信仰告白を貫いたままで、成り立つに至るのであります。」(北森氏前掲書p24~26)

・・・なにが「残された解決の方法」だ!なにが「成り立つに至るのであります」だ!北森思弁たれのアホ!と僕は声を大にして言いたいです。このじいさんの本にはこういった自画自賛的内容がよく見受けられます。自分で勝手におかしな仮定で論じておきながら、これまた勝手な屁理屈でフタをして、さも筋が通っているかのように大げさに書き立てる・・・こんなくだらない思考遊戯を神学と称して金を得ているのだから、まったくクソ食らえとしか思えません。日本で最小規模のプロテスタント神学だけの単科大学である東神大なんかに、クリスチャンが人口の1%にも満たない日本社会においてなんの公益性がありましょうや!こんなもん、大学である必要なんかない!私学助成を停止したらいいのです。いまだにこんな北森流のくだらない「神学」で飯を食っている人間がいるとしたらなおさらです。

(参照)「教団の信仰告白は『主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は父・子・聖霊なる、三位(み)一体の神にていましたまふ。』と告白されています。神を啓示したのは、主イエスキリストであると語っています。ここで言う教団の三位一体の信仰の告白は、主イエスキリストが前面に出ており、『キリスト論的三位一体論』という風に説明されます。救いの中心は御子イエスの十字架のあがないを中心に語られるのです。」(~日本基督教団赤羽教会 深谷春男牧師の説教)

http://home.att.ne.jp/moon/h-fukaya/haruohome/haruo-09-sekkyou/sekkyou08.htm

 

私の脳には、ダニエル・デネットという哲学者が言ったという「神中枢」なる部位があるらしく、聖書を通して啓示された創造主なる「神」を思うと血が騒ぐのですが(『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』〔文藝春秋〕p130、174参照)、それはともかく私にとって「神」の現存が要請され、それも申命記6章4節にあるとおり「唯一」であり「絶対(他)者」でなければならない理由は、倫理的には特に科学技術の進歩に伴う危険性の抑止として、すなわち人間が侵してはならない創造主なる「神の聖域」が確保されるためです。

個人的には精神を蝕むニヒリズムからの救済であり、元々は祝福された被造世界でありながら原罪ゆえ悪に支配されて空虚で無常で不安定で相対的なるこの世の現実に耐えて生き抜いてゆくためです。すなわち自我の制御であり、対人関係に心の余裕をもって臨めるようにすること。そうでないと劣等感の強い人間は常に自尊感情を抑圧されて狂気・凶行に走ってしまいかねません。いずれにせよ自暴自棄的になります。そうならないためには(詩篇的に言えば)人間によるへたなカウンセリングなどより、自分の内面における「巌」の如き確固たる根拠とか安定した立場とかいったものが必要であり、それが私にとっては前生からの「対神関係」(詩篇139篇13~18節他参照)です。この原関係において、創造主なる「神」の現存を覚知し、不可視であろうとも得体の知れない存在でないことは先験的に了解できますが、それが他者と共同されていることを聖書から確信させられます。

聖書が示す救いは共同体レベルですが、感じ方には個別的な多様性があります。私にとって救いの現実性は第一に精神面で実感されます。なによりも「神」は癒し主として、また活力の主として超越者です。そして「神」こそが贖罪の主なのです。キリストの十字架はその「神」の愛と裁きとを象徴的に表すものであり、キリストの贖罪死は復活の出来事と同じく歴史上の客観的な事実ではないのですから、それをいかにも歴史的事実であるかのように語る北森神学などの教会教義には根本的な問題があるのです。肉の次元である歴史的事実と霊の次元である信仰の真実とはちゃんと分けて語られなければ信徒が混同してしまいます。何よりも聖書で語られているイエス・キリストという人物は歴史上の人物ではないということを明言しなければ始まりません。

ところで、自分が宗教者として生きるにせよ、どの共同体・団体に属するかを決める決め手は「神観」です。枝葉末節が違っても可ですが、この根幹が違ったら不可です。その点で私自身が既存の宗教団体の中から選択するなら伝統的キリスト教(のプロテスタント教会)よりもユニテリアンとかユダヤ教改革派とかの唯一論で非三一派ということになりますが、自分が実際に加入可能な範囲で選ぶとなると、どうしてもJWということになってしまいます。そんなことなら自分自身で共同体・団体を作ってしまった方がマシではないか、と思ったことは何度もありますが、経済的なことなどを含めて熟慮してゆけば非現実的だということになり、JWに入る方がより現実的な選択ということになるのです。

しかし根幹部分はそれでよいとしても、納骨の問題などは宙に浮いてしまいます。終末論的な点では理解に開きが大きいからです。所謂、終活は伴侶がある以上、自分個人だけの問題ではありません。じつに頭の痛いところです。この解決も聖霊のお働きに委ねるしかありません。

・・・ということで、たしかに当ブログの管理人である私の関心は、実践的であるよりも理論的・思弁的であるとは思います。しかし実践的関心ばかりが強くて理論的・思弁的関心が弱いタイプは不安なので、自分としてはそれよりはよいと思っています。思弁的関心が強いからこそ、同じく思弁的傾向が強い神学的思想を批判できるということも言えます。特に以下の如き自画自賛の現代的「十字架の神学」者に対してです。

「栄光の神学は、十字架と苦難の外に神のリアリティを見ようとする。しかし十字架の神学は、苦難と十字架の中にのみ真実の神にある信仰的実存があると判断した。それは信仰により苦難のただなかにこそ神にある実存があるという認識である。苦難の除去にではなく苦難を素材として苦難を内から克服し、神を讃美するそんな信仰的実存を真理として主張するのが十字架の神学なのである。『栄光の神学』が思弁的であって形而上学的世界観を試み、それをもって主知主義的に現実を克服しようとするのに対し、十字架の神学は『実践的』であり、実存的である。実存の苦難、そして人間の罪ふかさの謎、神の測りがたい知恵、それについてあえて思弁を試みようとしない。そこに人間の理姓、直感、感覚その他の認識能力についての相対性の認識、そして付随する謙遜、それが十字架の神学のプロフィールなのである。それゆえにいわゆる『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない。 十字架の神学は、現実に打ち勝つ信仰(WIRKLICHKEITSFAHIG)であると言われる。実践的なのである。理性が、不条理の現実を前にして途方にくれざるをえない状況の中で、十字架の神学はその不条理をとうめではなく、その不条理をあたえつつもそれを克服する道を備えてくださる神に信頼することを主張する神学なのである。」(~元・神戸ルーテル神学校校長 橋本昭夫氏の「ルター神学:秋の特別講座①」)

「…あえて思弁を試みようとしない」って、その語り自体が思弁です、って話なんですが、これは自身の「思弁」隠しの意図から「思弁」を否定的に言ってるのでしょう。また、上記引用文においては「『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない」と言われていますが、本来は神義論なき「十字架の神学」を「『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(北森嘉蔵著『今日の神学』p222)というのが、現代における「十字架の神学」神論であり、人類の世界大戦の歴史的経験を踏まえての、ヴェイユボンヘッファーなどに例をとった「神不在」感覚を普遍化するような時代認識が語られることから明らかなように、根っこには「『神義論』的関心」があるのですから、自身の「『神義論』的関心」を隠すために逆のことを強調してカモフラージュしているものと思われます。

「矛盾が真に矛盾として受け取られるならば、具体的にその矛盾を除去しようという念願に駆られねばならぬ。一言でいえば、実践に出なければならぬ。矛盾を具体的に除去する神が、聖霊にほかならぬ。十字架のキリストは聖霊によってつづかれるのである。」(『神と人間』〔現代文芸社〕p14 ※「除去しよう」と「実践」に傍点あり)(以上、引用は北森嘉蔵著『神と人間』より〔~現代文芸社〕)

たしかにルター神学には「『神義論』的関心」はなく、その意味においては思弁ではないのですが、そのルターの「十字架の神学」を利用している現代の神学的立場は真逆なのです。上記引用文には、敵に自分が味方であると思わせるために味方を悪く言うような「思弁」隠しや「『神義論』的関心」隠しが見てとれるのです。

そもそも上記引用文にあるように「実践(的)」という言葉に囚われるのもどうかなと思います。そこには思弁的神学者たちのある種のコンプレックスが見え隠れします。但し、倫理・道徳的行為に結びつく思想が「実践的」であって、そうでない思想は意味が無いかと言えばそんなことはないと思います。これは開き直りではなく、たとえ思弁的関心の方が実践的関心より強くても、それを隠す必要はないのです。「神」に関して考え語ることは、自分の人生において意義があると確信するからです。無論、批判し合うことはあっても、自分の解釈を絶対化するようなことは許されません。

 

※〝 神 〟という訳語は人名にもあるから不適語!でも既に普及しているので、このブログでも便宜上、カッコ付で使っています。

このブログで私が「神」と、〝 神 〟の字をカッコ付きで表記する理由は、「絶対(他)者」を人名にもある語で表わすこと自体、不謹慎で不信仰な行為だと思うからです。明治時代にGod の訳語については議論があり、「神」以外にも「上帝」とか「天主」などありますが、私としては聖書的に「創造主」がいちばんだと思います。

聖書が示す「神」の超絶性にふさわしい人間の態度は、「神」について必要以上に思弁的に語らない、自分勝手に定義しない、ということだとは思います。「神」の超越的不可知性(イザヤ書55章8~9節他参照)にもとづく積極的判断停止すなわち「知止の知恵」は、いわゆる「神秘主義」とか「否定神学」といわれる立場を肯定することにはなりません。なぜなら「神」は自己啓示者だからです。ものごとはなんでも程々でないとダメで、「神」についても語り過ぎても語らなさ過ぎても、どちらもダメなのです。

「神」を「(絶対)無」などと言い表わすことは、一見すると「神」の無制約性・超絶性に適ったことのように思われますが、次のような指摘もあります(但し、後述のとおり、この著者の思想には疑問点もあります)。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p293)

宗教哲学の「絶対無」は神論の徹底ではなく徹底し過ぎであり、かえって認識が浅くなっていると思います。なぜなら「神」はご自身を人間に示すために旧約の神YHWHとして、また、新約ではイエス・キリストの父として啓示なさいましたが、それはあくまでも人間の認識の範囲内にご自身を限定なさることだったと信じているからです。キリストが十字架に磔になったように、「父なる神」御自身も被造物に対してある意味、磔になられたのです。だから我々も実存論的規定として、この「神」の前に「子」なるキリストと共に磔にされているのです。
 
「神」はその自己限定の中で「妬む神」(エール・カンナー)として我々の対象となられました(出エジプト記20:5他)。だから我々が「妬む人」と同様に、否定的なイメージで受けとったのでは的はずれになります。
聖書では、人間に対しては「愛」とはみなされない、むしろ自分本位の否定的・消極的な意味を持つ「妬み」という表現を「神」に対して敢えて用いているわけで、この場合は肯定的・積極的な意味で受けとめる必要があります。訳の表現としては甘い食べ物に塩をちょっと加える、一種の対比効果とでもいいましょうか・・・。
そうしてみると、それは「神の愛」が単なる甘ったるい情を超えた、厳しさなども含むような、他者を生かす真実の愛として理解できるようになってきます。と言うか、「神の存在」それ自体が我々にとって「愛」であると思えるようになります。創造主なる
「神」、「絶対有」としての「神」がおられなければこの世は虚無だからです。

もちろん聖書には「神」の自由自在なありさまも示されています。被造界への「内在」であり「遍在」です。しかしそれも自存者である「神」が、創造主として被造世界と不可分に関わり続ける在り方であり、「神」の自己制約なのです。

出エジプト記3:14の「エフイェ」が「わたしはある」と共に「わたしはなる」とも訳される、その「なる」ということは(この箇所を上村氏などのように、単に「神」の非実体性や無制約性を示すものとして解する立場とは異なり)、「神」が被造物に「成る」いう意味にもとることができます。

「万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(第一コリント15:28)

ここで「すべてにおいてすべてとなられる」とはどういう意味か議論が分かれるところで、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが実現することだと解釈する人もいます。その祈りを弟子たちに教えられた御子キリストは、ここで「ご自分に万物を従わせた方=神」に従属する存在であることが示されています。御父と御子が同等などという「三位一体」の考え方は聖書的にみて誤りなのです。「神」は御子をはじめ全てを服従せしめる絶対主権のもとで、創造主なる天父にしてイスラエルの神ヤハウェとしての自己対象化・自己限定を解消なさり、本来の自由自在になられるのです。被造世界は「神」へ全帰入するのです。無論、それは被造物の神化でも神の被造物化でもありません。むしろそのような神秘主義的・汎神論的な見方を粉砕するのです。

関根正雄氏の指摘にもあるとおり(但し関根氏の説にも疑問点はあります)、「神」は被造物に「内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている」のです(『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p87)。

私見では聖書的な「汎在神教」は一般の「汎在神論」(=「万有在神論」)や「汎神論」とはちがって、つねに「超越」が「内在」に先行するのであり、「神」が何に成ろうとも、ご自身の人格的本質を失うほどに成りきることはなく、つねに創造主としての超越性を維持してのことであるという意味で、同じ「内在」でも「超越的内在」と言えます。また「遍在」も単に被造世界の全体にご自身を内在させているということではなく、これも超越性が先行してのことであり、聖書は「神」の在処として「天」に象徴させているのですから、「在天の遍在」とでも言えるでしょう。

本来は無限定・無制約である「神」が、啓示に伴って「神格」を「人格」に比喩させ、被造物との活きた関係を結ぶために、敢えて御自身を限定し制約なさったのです。繰り返しになりますが、この恩寵に応答するべく我々も「神」の前に、キリストと共に磔になって生きるのです。自分の十字架を負うてイエスに従って生きるとは、信仰的な自己限定あるいは自己規定ということです。それは能動的行為であると同時に、それ以前に根本的かつ聖なる「定め」という受動的な事柄です。

我々の存在根拠はその「神」との生得的な関係にほかなりません。カールバルトは自己の存在根拠について、デカルトの「われ思う故にわれあり」に対して「われ信ず故にわれあり」と言ったそうで(同上p243~244)、さらに「《父なる神よ!》という呼びかけの中に、キリスト者生活の不動の岩盤があり、不壊の根拠がある」と言ったとのこと(~山本和氏の論文「神概念の変転」~『現代における神の問題』〔創文社〕p265~266)。

「われ信ず故にわれあり」は、それと同じようなことを語るクリスチャンが少なくないですが、私の場合は「信ずる」以前に、対神関係に置かれて「神」に知られていたという原事実において自己の存在根拠を与えられていると自覚しています。存在根拠は受動的にしかあり得ません。

なお、量義治氏の思想についての疑問点は、「我―汝」関係の理解です。量氏の著書である『無信仰の信仰』(文春ネスコ)も併読してみるとどうやら量氏は、「神」も「人間」との関係なしには存在し得ないかのように考えておられたようです。

聖書が示す「唯一の神」は自存者であり、被造物との「関係」なしには創造主とはなりませんが「神」であることに変わりはありません。これに対して被造物は創造主なる「神」との関係なしには被造物足り得ず、人間は人間足り得ません。ゆえに「不可逆」の秩序があり、量氏は「我―汝の関係において、『関係』に対して『我と汝』の優位性を主張する立場を実体論的立場、それに対して『我と汝』に対して『関係』の優位性を主張する立場を関係論的立場と称するならば、」云々と言われますが(量氏前掲書p167)、神対人関係は、実体論か関係論かに分けて論じ得る事柄ではありません。
「神」は関係なしに自存し得る実体存在ですが、人間は関係(内)存在です。そして「神」も創造主としては関係(内)存在ですが、創造主は全被造物との関係を維持しなくても存在できるから、つまり被造物に対しては「選び」ということが生じるので、その意味で神人関係には不可逆性があります。

 ところで八木誠一氏によると、神論は「人格主義的」と「場所論的」とに分かれますが、人格神観は八木氏が、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と指摘しておられるとおり「神義論」が付きものです。その不毛な議論を回避するためには理神論的な観方を部分的に用いることは有効だと思います。私としては、人生経験における良いことは「神」の「恵み」に、悪いことは自分自身を含む「人間」の「罪」に帰して然りと心がけています。信仰生活の実践は、歴史的な旧約的神義論を克服した知恵の書であるコヘレト書から学ぶことが多いです。関根清三氏などはコヘレト書を酷評しますが、いっさいが霧や蒸気の如き捉えどころがないという「空(ハヴェール)」の価値観・世界観・人生観において、コヘレトが関係している「神」だけは捉えどころのある得体の知れた存在として示されています。その「神」は人格性が薄いといったような批判もありますが、だからこそコヘレトでは神義論が乗り越えられており、この書の最大の魅力とも言える日常生活に足が着いた実際的信仰が語られるのです。あまりに擬人的神観では却って生活現実から離れた無用な言葉が多くなってきます。神観の人格性も程々であってこそ聖書的だと言えます。旧約聖書を読んで「神」に対して怒ったりする人がいますが、これは「神」を擬人化しすぎていることによるのです。確かにJ資料がそのような表現をしていることに問題があるわけですが、読み手の側も古代の神話としての面を考慮して解釈して然りです。

 

 

聖書が示す「神」に「体」はあるか?

「神」の得体(・・・所謂「霊的実体」)は、旧,新約聖書全体を通して人格的存在として明らかです。
 創造主なる「神」は、旧約では「ヤハウェ」という固有の名を持つ「イスラエル民族の神」と成り、新約では「イエスの父(なる神)」と成って啓示なさいました。

「神」はモーセに顕現なさった時、問われた「名」(「ヤハウェ」と決まっている!)を答える代わりに「エフイェ」(私は在る/私は成る)を2度繰り返して強調なさいました。それは 「名は体を現す」との諺どおり、「神」は「成る」ことによって「在る」べき「体」を得られるということをお示しになったのです。この場面では「神」は「出エジプトの神」に成ろうとされ、実際にそう成られました。生成は自己限定です。無制約の「神」は本来、「もの自体」ではないですが人間の認識を超えたお方であり、そのお方が創造主という人格的存在と成って御自身を対象化なさったところから啓示が始まりました。さらに「神の存在は生成においてある」(~ユンゲル)わけですが、何に「成る」にせよ、人格的主体性や超絶性を失わないのが創造主なる「神」なのです。そして人格神と成られた以上は、何らかの「体」をお持ちなのです。

すでに創世記18章でヤハウェは、「三人の男」の内の一人としてアブラハムの前に顕れたと言われています(これを「三位一体」の根拠に出来ないことは22節以下で明らか)。これは全能の「神」が可視的身体性を取ろうと思えば取れるということを物語っており、人間と等身大といった意味に直解することはできません。霊的な意味であれ「神」はお体を持っておられることを間接的、象徴的に伝えています。それは偶像崇拝とは無関係です。

ただ、その可視的身体というのも、聖書の歴史的批判的解釈においては、J資料の異教性というか原始性といった特殊な面が指摘されるのであり、カレン・アームストロング著、高尾利数訳『神の歴史』では次のように述べられています(引用での赤色は管理人)。 

『創世記』第十八章では、Jはエルがヘブロンの近くのマムレの樫の木のそばでアブラハムに現われたと述べている。アブラハムが見上げると、三人の見知らぬ人々が、真昼の一番暑い時に彼の天幕に近づいて来るのが見えた。典型的な中東の礼儀に従って、彼は急いで食事の支度をさせる間、彼らが座り、休息を取るように懇請する。会話を続けるうちに、きわめて自然に、三人の内の一人が、Jが常に「ヤハウェ」と呼ぶ彼の神自身にほかならないことが分かったのである。他の二人は天使であることが分かった。誰もこの啓示によって特に驚いた様子もない。しかし、Jが著述をしていた紀元前八世紀までには、神をこのような仕方で「見る」などと期待するイスラエル人はいなくなってしまった。当時のたいていのイスラエル人は、それをショッキングな考えだと思ったであろう。Jの同時代人であったEは、族長たちが神と親しかったという古い物語を不適切だと思った。つまり、Eが、アブラハムあるいはヤコブと神とのやり取りについての物語を告げるときには、彼は出来事を遠ざけ、古い伝説を、より擬人的ではない仕方で描くのを好んだのである。そういうわけで彼は、神がアブラハムに天使を通して語ると言う。しかしながらJはこのような潔癖さを共有せず、彼の物語のなかに、これらの原始的な顕現の古代的風味を保存しているのである。

旧約聖書の初期神観の異教性 全一者/ウェブリブログ

 

さて、キリスト教の関係において「神の体」などと言うと、人によっては悪名高き所謂「統一教会統一協会」(現・「世界平和統一家庭連合」)の教義や、斉藤由貴さんが所属していることで有名な所謂「モルモン教」の教義を思い出すかも知れません。

しかしそのいずれもが、ふつうのキリスト教が正典としている聖書の啓示に基づいていないために「神の体」と「人の体」とを混同してしまっているのです。従って私が「神の体」を論じる場合は、このような異説(→ 私は正統主義者ではないので「異端」という言葉を他者に向けて言うことはしません)とはまったく関係が無いということをどうぞご承知置き下さい。私が、無制約なる霊の「神」に「体」を問う理由は汎神論的関心によるものではなく、あくまで、「神」の「得体」を明確にしたいという一念です。

つまり「体(からだ)」と言っても当然のことながら、人間のような「肉体」という意味ではなく、その「はたらき」の「主体」です。「主体」は物質的な「体」とは限りません。それはある種の身体性であるとは言えますが、旧約聖書の神人同形的表現はあくまでも比喩であって文字通りの意味ではありませんから、このアプローチで汎神論に陥る危険はありません。

問題はその「主体(性)」を明らかにすることです。これが重要だと私は思うのです。なぜなら、世間で有名な、影響力ある知識人・文化人の中に、聖書が示す「神」の存在がわけのわからないものであるかの如き印象を与える無責任な発言が見られるからです。こういうことで一般の人々に誤解を招いているとしたら、私は少しでもその誤解を解きたいと思うのです。

たとえば、作家の故・三浦綾子さんは「神は自分のかたちに人を創造された」ということの意味として、次のように述べています。

「神は、体をお持ちにならない方(キリストは「神は霊である」と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。だから人間の肉体から逆に考えて、神も人間のような顔形であると思うのは誤りである。わたしたち人間は、神に似た霊性を与えられたのである。つまり神は人間の霊性の原型なのである。」(~『旧約聖書入門 光と愛を求めて』〔光文社〕p15)。

「神も人間のような顔形であると思うのは誤り」との見解には賛成ですが、神はいかなる意味・仕方においても「体をお持ちにならない」とは言えません。霊的には「体をお持ちになることができる」ということが(これを「霊体」などと呼び得るかどうかはともかく)「顔」などのメタファーによって示されています。
「霊」(ルーアッハ/プニューマ)は「風」とか「息」とも訳されますが、物質で言えば気体のような流体に喩えられているともとれます。たしかに「神」は目に見えないので形はありません。これではいかにもつかみどころのない、得体が知れないかの如くですが、人格という比喩に対応するのは流体よりも固体的なイメージです。
比喩ではあれ、「神」を人格的存在として観る以上、物体ではなくても、(「霊体」と呼ぶかどうかはともかく)霊的な意味での実体性ないしは「姿・かたち」を認めて然りでしょう。但し
それは三浦さんが指摘しておられるような、人間が「神の似像、神の似姿」(イマゴ・デイ)として創造されたという創世記1章の記事の転倒・曲解によるものではありません。

「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』/神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:26~27 新改訳2017)

同じく創世記の5:1 や 9:6なども参照。また、これはコロサイ1:15「この方は見えざる神の形姿。あらゆる創造の〔内で〕最初の誕生者。」(岩波版訳)にも関連してきます。

目に見えない方であられる神が、私たち人間のもとにそのお姿を表して下さったのが御子イエス・キリストであると解するのが普通のキリスト教です。しかし私の場合はこの聖句から、実体論的なキリスト神形説は採らないし、キリストは被造物か否かはともかく、神に従属する存在の中での第一者であると解します。

古代オリエント世界において、神にかたどって創造された者、すなわち『神の像』を有する者は王だけであった。王のみが、地上における神の代理表象、『神の似姿』であり得た。古代オリエント世界にあった王の政治神学を素材として受容しつつ、それを換骨奪胎して、聖書は、王ではなく、すべての人間の始祖であるアダムとエバに『神の似姿』を帰している。これは、当時の社会通念に対する大きな挑戦であり、王の政治神学に対する痛烈な批判である。王といった特定の人間類型にではなく、人間一般に『神の似姿』を付与しようとする聖書の意図に、近代以降形成されてきた『人権』や『尊厳』につながる理念を認めることができる。また、一人ひとりの人間に、神に由来する等しい価値があるという考え方は、一神教に共通する人間観である。もちろん、こうした考えが、実際の社会の中で実現しているかどうかは別問題である。」(小原克博著『一神教とは何か キリスト教ユダヤ教イスラームを知るために』〔平凡社〕p47~48)

上記の創世記1章の記事を誤解している例としては、統一教会(=統一協会)の教義を指摘することができます。それは27節だけを見て26節を見ていない、あるいは見ていても「かたち」(ツェレム)だけ見て「似姿」(デムート)を無視しているのです。それが意図的なのか無知によるものかはわかりませんが、とにかくこれにより文鮮明は次のようなバカげた発言をするのです。

「人間は神の見えるかたちであり、神は人間の見えないかたちであります。主体と対象とは本質において、一つなのであります。神と人間とは、一つなのであります。人間は実体化した神なのであります。」人間に対する神の希望

これも悪しき人間神化説の一種であると言えるでしょう。人は「神の姿に似せて」造られたのであって、人の像(かたち)がそのまま「神の像、姿」というわけではないことは、そもそも「王のみが、地上における神の代理表象、『神の似姿』」であったと小原氏が述べているとおりで、歴史的にわかりきったことです。

なお、この件で参考になるのは「『神の似姿』の解釈史」という表題で6つの説が紹介されている、関根清三著『旧約聖書の思想』(講談社学術文庫)の72頁以下に述べられいる内容であり、74頁以下の「解釈史の吟味」の結論としては、第5のカール・バルトの説と、第6のJ・ヘーンらの説の折衷です。

すなわち、文鮮明の如く直解的に「人間は神の見えるかたちであり、神は人間の見えないかたち」などと解することは誤りであって、「交わりの愛」としての人格的関係性と、「神の代理」としての自然環境の尊重という志向性が重視されなければなりません。

ちなみに北森嘉蔵氏は、「神が人間を『神の像』にしたがって造りたもうたとしるされる場合(創世記1・26、27)、その『神の像』は人格性を意味すると解してよいと思います。それでは人格性とはどのような内容をもつものでしょうか。聖書によれば、神は『愛』であります(第一ヨハネ四・一六)。ここよりして、神の像としての人格性を、愛の主体として解することができると思います。」云々と述べているので(~『日本基督教団 信仰告白解説 増補改訂版』〔日基教団出版局〕p58)、バルトの説を参照しているものと思われます。いずれにせよ、文鮮明の解釈よりはマシです。

また、「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳」では、「カルヴァンは 、創世記5章1節と同9章6節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する釈義的根拠は薄弱であるといったことは論じているが、御子が人間創造における範型としての『神のかたち』であるという理解は改革者にあっても忘れられたかのようである。」との批判がなされています。しかしその批判も実体論的なキリスト神形説であるなら、誤りとみなすことになります。

☆「神のかたち」であるキリスト - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

ところで、 「神」について「実体」という語を用いる場合の意味は、キリストが「神」と同じ「実体」である、すなわち「三位一体」の「体」いう場合の意味とは異なると思います。その場合は「本質」と同義です。ただし、コロサイ書2:17の「神の国」の「本体(=実体)はキリストにある」ということを植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三一論に合わせて解せば、「神の国(の本体)=キリスト=神(の身)」という図式が成り立つので、「神の国=神の体」と解し得ることになります。その場合、私は「キリスト」を「真に人」だとは言っても堕罪前の「イマゴ・デイ」としての本来的人間と解し、「真に神」であるとされる以上、史的イエスとは無関係の、あくまで聖書の超歴史物語の主人公として解することになります。従って贖罪福音の理解も登場人物である弟子たちの非歴史的・実存的解釈とみなします。そしてその弟子たち、使徒たちをはじめとする「神の国」の成員である信徒は、「キリスト」に霊的に近づくにしても「神の体」には含まれないとしなければ、神秘主義的人間神化の邪教に陥ることになります。

なみに、哲学では「実体的形相」(実体的本質)という用語もあります。井筒俊彦氏は「主語Xによって指示されているもの(術語的に『本質』と呼ばれるものの具現した形としての『実体』)」と述べておられます(「指示されているもの」の「もの」に傍点が付されています)。

それはともかく、私見では「実体」という概念は、無形的・非対象的な「性質」といったニュアンスと、有形的・対象的な「身体」とか「物体」といったニュアンスと、この2種類があり、当ブログで「『神』の実体」という場合は後者の意味です。

また、「得体」というのも語源的には「衣体」とか「為体」とかだそうで、「本質」とか「本性」といった意味もあるようですが、当ブログではそういうのとは関係なく「当体」とか「本体」といった意味で使います。

キリスト教では「受肉」という教理があり、「神(の御子)が肉体をとられた」などと言いますが、イエスを「真に神」とする以上は、もう一方で「真に人」とも云われるのですから、キリストは肉体を持った神ということになります。「神」の得体を「受肉」に求めることは聖書的に可能でしょうか?結論から言えば無理です。

キリスト教において、イエス・キリストの「聖体」が「神」を現したと実体論的に言われることは聖書の誤読です。これは関係論的、作用論的に解されなければなりません。肉体は物体であり目に見えるので、その点では得体は明らかに知られますが、どちらにしてもイエスの時代に生きていた人しか見えない有限なものです。それでは「神」の「体」とは言えません。ペトロの第一の手紙1:8~9によれば、イエスを見たことがないのに愛しているのが魂を救われた信仰者ですが、結局、「受肉」は「神」の得体を知らしめる手段とは言えません。そもそも物体は相対性を免れ得ず、「神」の絶対性や超越性が蔑ろにされてしまいます。それなら、イエスの復活体はどうでしょうか?イエスは「子」として「父(なる「神」)」の身体性を、自らの復活体をとおして我々に示しているとは言えないでしょうか?これも肉体の場合と同様にノーです。「子は親を映す鏡」と云われるとおり、イエスは「神」との「父 ― 子」関係において、ご自身の人格によって「神」の「人格(→ 神格)」を映現したのです。

ヨハネによる福音書20章においてトマスは、その「鏡=子」に映った「父なる神(の栄光)」を見て「わが主よ、わが神よ」と賛美したのであり、これをもって「イエス=神」という教義の根拠にはできません。

讃美歌121番「まぶねのなかに」における「この人を見よ」は、ヨハネ福音書19:5のピラトの言葉の意味とは違って、私見では「この人=イエス」の身体を見よということではなく、その身体の振る舞い(言葉と業)を見よということであり、その振る舞いによって示される霊的な「父―子」関係を通しての「神啓示」へと注目させるのです。

しかしヨハネ福音書は特に、イエスの体が「実体」的に「父=神」を現したかのように誤解されやすい表現の記事が見られます。これは前述のように、イエスが「父」との親密なる人格的「関係」を言葉と業で身をもって示すことにより「神」を現したと解するべきです。特に14章のイエスとピリポとの対話についてそう言えます。10:30などの言葉も、八木誠一氏の表現を借りて言えば、「実体的一」ではなく「作用的一」です。

「子」なるキリストの「体(からだ)」が「父」なる「神」の「得体」を示したと言えるとしたら、上記のように、「実体」ではなく「関係」の意味においてです。即ち、「体(からだ)」なき者は人格関係を結ぶことはできませんから、キリストがその言葉と業という身体の働きを通して「父=神」との人格的関係を示し、それによって人格的存在としての「神」を啓示したということにおいては、キリストの「体(からだ)」が間接的にではあれ、「神」の「得体」を現したと言えるでしょう。でも何故、よりによってキリストの「体」でなければならないのか?それは「父」との人格的関係において、言葉と業によって「神」の栄光を現すことができるほどの「子」の「体」というのは、聖霊に満ちた聖なる「体」でなければならないからです。

しかしこれはあくまでも「神の物語」としてのHis Storyでの出来事であって、実証的歴史としてのHistoryでの出来事ではありません。

ちなみに、イエスの復活体の観方は、使徒パウロ福音書記者とではかなり違います。これは復活観の違いとも言えるが、以下のとおり。

「信仰に生きるならば、その体が死ぬことによって、『新しい体』が与えられるとパウロは信じたのである。これは、福音書に見られる復活観とは大きく異なっている。福音書では、『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。』(ルカ二四・三九)と促したり、手の釘跡や脇腹の傷跡を弟子たちに見せ、トマスには触って見よと迫ったり(ヨハネ二〇・一九-二九)、エマオ途上やガリラヤ湖畔では弟子たちと一緒に食事をしたりして(ルカ二四・三〇、ヨハネ二一・一二)、復活のイエスは生前の身体との同一性、少なくとも連続性を示そうとしている。福音書著者たちは、当時のユダヤ人の民間信仰に近い、イメージでもって復活のイエスを描こうとしている。ところがパウロは、死よりの復活には新しい体、霊の体が与えられると考えていた。新約聖書には、一貫した復活観が存在しなかったのであろうか。」(大林浩『死と永遠の生命 そのキリスト教的理解と歴史的背景ヨルダン社〕p92~93)

まさにそうであり、それは「当時のユダヤ教ラビ思想における復活観」において、「復活の様態とか、終末の出来事の詳細については、固定した考え方を誰にも押しつけていなかった」からです。使徒パウロ福音書記者との違いは「その信仰を表現するイメージだけ」であったということで、エスの復活体のイメージはパウロ書簡と福音書とでは違うが、福音書の方がわかりやすいです。それは肉体とかなり近いからです。しかしどちらの復活体も「神の体」のイメージには合いません。イエスはあくまでも「子」の立場で「父(なる「神」)」の得体を示しただけなので、当方は参考にするにしても指標程度にしか見ていません。

ちなみに、ルカやヨハネの身体観は、イエス・キリストの身体性を否定する「仮現説」(ドケティズム)への反対を前提としていると考えられています。

ということで、「神」の「体」はあくまで無限で、人間の感覚対象にはならない「霊」的な「体」であって然りです。聖書が示す「神」について言われる「霊的実体」とは「霊的本質」ではなく「霊的身体」です。 

※「霊的実体」については、以下、参照。

「実体」の実際的定義 遠くの神/全一者/聖書の御神体/ウェブリブログ

 

ちなみに、「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(~『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p1291)とも言われています(濃色は管理人)。

 

私が学んだ神学校のある先生が『神様の正体』と題する本を出しておられます。私自身は読んではいません。でもその先生にメールで訊いたところによれば、やはり私が思っていたとおり、「神様の正体」は「愛なり」というのがその先生の答えでした。

しかし私は必ずしもそうは思わないです。教会の看板に「神は愛なり」と書かれているのを見た人は少なくないでしょう。私が在任していた教会の看板にもそう書かれていました。これは日本のキリスト教会の特徴とも言える現象なのかも知れませんが、聖書の本文から「神は愛なり」だけを切り取って、これが「神様の本質だ!正体だ!」と言わんばかりに掲げるのです。しかし「神=愛」であるわけがないです。

八木誠一氏によって指摘された聖書の二大神観、すなわち「場所論的」神観と「人格主義的」神観ですが、前者の後者に対する補完的役割しか認めない私にとって、聖書では「神」とはあくまで人格、「人格神」です。「愛」は働きであって、人格的主体の存在を前提として成り立ち得るものです。だから「神の愛」ということはあり得ても、「神は愛」ということは文字通りには成り立ちません。だからこれは一種のレトリックであることが明らかです。それを文字通りに「神=愛」と受けとるのは愚かなことだと思います。そしてそのように説教などで語ってきた牧師や司祭には、日本人の神観を軟弱にしてきた責任の一端があるのです。

聖書の本文では「神は愛なり」(ヨハネ一4:8)の前に「愛は神より出づ」と書かれてあります(同、4:7)。「愛」の出所、すなわち愛する働きの主体は「神」であるということです。だから「神様の正体」が「愛」なのではなくて、被造物・・・特に人間を活かす「愛」を根源的な働きとする主体が聖書に示される「神」なのです。人間同士が真に相手のことを思い合っているなら、そのような関係は創造主なる「神」の働きによるものだ・・・と聖書は語っているのです。

このように、人間同士が愛し合うという時のその「愛」が相手を活かすものであるなら、それは「神」から来ているわけで、「神」は「愛」の源と言えます。しかし世間で言われる「愛」は大概、「神」から来る「愛」(アガペー)ではないですね。それを商業主義的な映画やテレビドラマでは、いかにも純愛であるかのように美化して描かれていることがあります。笑ってしまいますね。

「神」から来る「愛」は甘ったるい愛情なんかではありません。相手に対しては厳しく突き放せる愛・・・つまり自分が嫌われてでも相手を活かすために心を鬼にできる愛であり、場合によっては死の自己犠牲も辞さない愛なのです。ところがどうでしょう!信者の多くが思っている「神の愛」の、いかに甘ったるいものであることか!そういうことだから、旧約の神は怒りの神だから悪くて、新約の神は愛の神だから良い・・・といったおかしな見方や、いわゆる神義論的問いというものが信者の中に沸き起こってくるわけです。こういうことは日本の牧師や司祭の聖書的神観に対する未熟さとセンスの無さに根本原因があると言えるでしょう。

ところでネット上に以下の文言があります。
「三位についてはそれぞれ父、子、聖霊の位格であるという点では正統派諸教派と差異はない。 特徴的といえるのが一体についての理解である。一体の部分のそれが何であるかを明確にしない限り礼拝の対象が定まらず正しい神観が得られないとし、即ちイエス・キリストがそれであると明確に示す。言葉を変えて言うなら唯一の神の中に父、子、聖霊の三つの位格が存在すると説く三位一体論と比較して、唯一のイエス・キリストの中にこそ父、子、聖霊の三つの位格が存在していると説く点に教理的違いがある。(ワンネス信仰)」(~wikipediaの「イエス之御霊教会」の「教理的特徴」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E6%95%99%E4%BC%9A
赤字箇所は、信者の信仰対象への思いという点で共感できますが、前後の文言には問題があります(赤色は管理人)。

聖書では「神」と言えばまずもって御父です。この「父なる神=ヤハウェ」こそが「唯一の神」であり、キリストは聖書の神話においても「神」ではなく、「子は親を映す鏡」という意味での映現者として「御子」であり、人間との仲介者なのです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ一2:5)

いずれにしても、新約聖書においては歴史上の人物である「ナザレ人イエス」と、神話における「神の子・子なる神・ロゴス」としての「イエス・キリスト」とが混同されているので、現代においてはこれを区別して理解しなければなりません。キリストに関しては、歴史的には以下のとおり。

< ブルトマンは天使的存在としての「人の子」と言う、此のイエスについてパレスチナの信仰者集団が使った――ブルトマンは以上の如く考えているのだが――呼称とともに、パレスチナの信仰者集団の使用した呼称として「メシヤ」、「ダビデの子」、「神の子」、「神の僕」をあげ、それらが終末を持ち来らす王者的存在を意味すると主張している。之等に対応するものとして、ブルトマンは、ヘレニズム的なキリスト教集団の人々によって使われたイエス――イエスはそこでも新しき時代を此の世に持ち来らしたと考えられた――への呼称として「主」、「神の子」等の呼称をあげ、それらが神的領域に属し、礼拝され、又或る意味では神とも考えられたのであるが実は絶対者としての神よりも一段と低い存在を意味したと言う。此のようなイエスへの原始キリスト教会の呼称の研究より、ブルトマンは原始教会のイエス理解がカルケドン的な神・人二性の一人格としてのキリスト論からは、遥かに遠いものであったと言う。>(~元・日本基督教団牧師、元・立教大学キリスト教学科教授 故・野呂芳男氏の論文「実存論的なキリスト論への一試み」)

※青、赤色、濃色は管理人。

http://www.geocities.jp/yoshionoro/1959kirisutoron.html


 以下の3つは部分的にも共感する文言。


1.「私たちは『霊』というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には『姿』あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。(中略)神が霊であることはまた、神が生命であり、人格的存在であることを意味する(「人格」ではなく、本当は"神格"と言ったほうが良いのだろうが)。」(~「Remnant キリスト教読み物サイト」の「わかる組織神学 神論」の「二 神に関する基本知識」の「(7) 霊であって人格的存在」)

2.「神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています」(~キリスト教アデルフィアン派の「聖書基本知識」)

3.「神​は​体​を​持っ​て​おら​れ​ます。わたしたち​の​よう​な​物質​の​体​で​は​なく,霊的​な​体​です。『物質​の​体​が​ある​なら,霊的​な​体​も​あり​ます』と​聖書​は​述べ​て​い​ます。(コリント​第​一 15:44)」(~ ものみの塔 オンライン・ライブラリー 「神とはだれですか」)
※挙げられている聖書箇所は、いかに救われる信者の復活について言われているにせよ所詮は人間の体のことであって神の体のことではありません。また、コリント二3:17の「キュリオス」(「主」=キリスト)を「エホバ」と訳し(~新世界訳)、創造主である神と被造物である天使とを「霊者」という言葉で一括りにし(~「聖書の見方 神​は​どんな​方​か」)、「人間​と​は​異なる​生命​形態​です。人間​の​目​に​は​見え​ませ​ん​が,体​が​あり​ます。それ​は『霊的​な​体』です。」と言いながら、そこでも人間の復活体について語るコリント一15:44を挙げて述べているのは、あまりに無理があります(~「あなた​は​神​を​喜ばせる​こと​が​でき​ます」)。

聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?

よく、ユダヤ教キリスト教イスラム教の、いわゆる「(唯)一神教」である3つの宗教は「神」が同じ、といわれることがありますが、キリスト教の「神」は純然たる「唯一神」ではありません。ユダヤ教についてはキリスト教の母体といわれるにしても、キリスト教が生まれた当時は必ずしも明確な一神教ではなく、たしかにヤハウェのみの排他的宗教ではありましたが、神の現われについての考え方には多様性があり、「ロゴス」「知恵」「律法」において民を導くと解されており、それが箴言8章などで人格化されています。こうした観念がヨハネ福音書などにおけるイエスの神格化の背景になっているというわけです(以上は、橋本滋男氏の論文「ユダヤ教キリスト教:初期の関係史スケッチ」参照)。

CiNii 論文 -  ユダヤ教とキリスト教 : 初期の関係史スケッチ

そんな初期ユダヤ教から生まれたキリスト教は、ローマ帝国の宗教となる4世紀以降に「三一神」を信仰の対象とする詭弁の一神教へと変質してゆきました。詭弁だと言う理由は「三位一体論」(略して「三一論」。「三位一体論」は「神論」と区別されることがあるが、私は「三位一体神論」略して「三一神論」として扱う)が教役者の多くも明快には説明できないほど論理的整合性を欠如しているからであり、キリスト教は、まともな「神論」が「無い」という意味においては「無神論」と言うことも可能でしょう。神学者自身、三位一体論は人間の論理を超える神秘だ、みたいなことを言って疑義を呈する信徒を煙に巻こうとしますが、論理を超えるだの神秘だのと言いながら理屈をこねて説明しようとする者が少なくないことは矛盾の極みです。啓示は人知である程度は認識できるから啓示たり得るのです。「三位一体」は啓示ではなく人間の解釈にすぎません。人知を超える神秘なら解説などできないはずで、それを無理押ししなければよいのです。ただ、聖書が示す神は「三位一体」であると主張して、あとは無用な説明などしなければよいのです。それを北森嘉蔵氏のように合理的に説明しようとすることが護教的思弁であり、誤解の元なのです。

ここで重要なことは、キリスト教の「神」とその正典である聖書が示す「神」とは必ずしも同じだとは言えないということです。この点はいくら強調してもし過ぎることはありません。イスラム教ではキリスト教の「三位一体」を「神、キリスト、マリア」などとバカげた理解をしている点で、私にとっては論外の宗教になります。

ちなみに私自身が「三位一体」の教義を受け容れ難い理由は単純明快、信条にて「真(まこと)に人」といわれているイエス・キリストを、いかにその一方で「真(まこと)に神」といわれていようと「われらの造り主なる神」とは認められないからであり、「真に人」である者を「真に神」であると言うことは相対の絶対化であり、これはドイツ由来の所謂「歴史主義」の軽視ではなく「歴史的現実」の軽視だと思うからです。たとえば、キリスト教(の特に福音主義神学)では「神が人になった」と簡単に言いますが、もし「神」が「イエス・キリスト」に成ったのなら、そのイエスが「真に神」だといわれることは筋が通りません。「人になった」とは言い切れないからです。イエス受肉後、神になったり人になったりと切り替わったのですか?また、十字架刑死までが「真に人」であり、それ以後は「真に人」ではないのですか?現在は「真に神」だけのキリストでしょうか?もしそうだと言うなら、それはキリスト教が「異端」というレッテルを貼り付けて排除した側の教義に近くなり、もはや手の施しようのない論理的破綻です。イエス・キリストは三一の神の第2位格として「遍在」する時もあればしない時もあるのですか?もしそうなら、それはますます聖書から離れた形而上学的思弁となるでしょう。

いくら「真に」という副詞を付けて修飾したところで「人になりきれていない」のです。本当にイエスがいつも変わることなく「真に人」であるなら、肉体(=物質)の面で時空間制約されることになります。そうなると、「三位一体」のような非聖書的教理とは違って聖書に明示されている「神の遍在」の教理に反します。このようにキリスト教教義学の詭弁は穴だらけであり、いくらでも崩せるし、また崩し去らなければならないのです。

「『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(使徒1:11)

聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』」(使徒7:55~56)

すくなくともイエスは昇天後は地上にいないわけであり(父なる神はそうではなく在天しつつ在地しておられる・・・局在的遍在)、再臨の時はあらゆる場所に来られるわけではなく特定の場所に来られるのでありますから、イエスは遍在していないのです。

Everywhere Everytime. 遍在は空間だけではありません。存在していない場所もなければ、存在していない時もないのです。創造主なる「神」は常に超越的内在という仕方で被造界を包み、その栄光で満たしておられるのです。

復活の体とは言え、体に変わりはありません。霊という言葉を使えば自由自在にできるというなら、それは聖書とは相容れぬドケティズムやグノーシス主義などのような肉体軽視の考え方に近くなります。たしかにイエスは家の壁を通り抜けられたのかも知れないし(ヨハネによる福音書20:19,26)、そのことだけ見ればイエスの復活後の身体が肉体とは異質であったと言えるのかも知れません。しかしイエスの身体性そのものを全否定する根拠になるのでしょうか?霊的な身体とは言え、肉体との連続性を否定し去ることはできるのでしょうか?すくなくともイエスが弟子たちの隠れ家に入られたということは、イエスが特定の場所に身を置かれ、存在なさったということであって、この出来事を遍在の根拠に挙げることはできません。人の肉眼で見える体は遍在していません。同じくヨハネによる福音書では、「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』」(20:27)とあるとおり、肉体と大差ないのです。実際にトマスがイエスの言われるとおりのことをしたら、その人物が十字架にかけられた体であることを確認できたからです。すなわち復活の体にも肉体と同様の物質性が認められるのです。しかしそのような体が「遍在」などできないことは言うまでもありません。時空間の制約を受けないことが「遍在」であって、その制約を受けるのが物質だからです。従って、聖書に明示されている「神の遍在」の教理を認めるならば、イエス・キリストが「神」であることは否定されなければ筋が通りません。復活の体は霊の体であって、イエスの生前の肉体とは連続性が無いとの見方もあろうかと思いますが、それはパウロ的復活観ではあっても福音書記者的復活観では必ずしもないです。この点については、大林浩著『死と永遠の生命』(ヨルダン社)の92~93頁あたりを参照下さい。一部引用しておきます。
「復活のイエスは生前の身体との同一性、少なくとも連続性を示そうとしている。福音書著者たちは、当時のユダヤ人の民間信仰に近い、イメージでもって復活のイエスを描こうとしている。ところがパウロは、死よりの復活には新しい体、霊の体が与えられると考えていた。」(93頁)

このようにイエスは再臨に至るまで生前の肉体との連続性を有する身体性を持っているのであり、その「真に人」なるイエスを第2位格の「子」として含む三位一体の神は、被造世界に「遍在」することはできません。だから、ユダヤ教唯一神は「遍在」できても、キリスト教の三一神は「遍在」できない、ということになります。

そこで改革派の元・牧師である佐々木稔氏の以下の解説が問題となります(※「偏在」は「遍在」の誤記or誤植)。

プロテスタントの2大源流は、ルター派と改革派ですが、ルター派は、イエス・キリストは、神性と人性をもつが、キリストの人性は、神性と交流して、神としての性質を帯びるようになったと主張します。具体的には、キリストの人性、人間性は、全能、全知、偏在になったと考えます。しかし、これは誤りです。キリストの人性、人間性は、全能でもないし、全知でもないし、偏在でもないのです。キリストの人性、人間性は、決して、神の性質をもつものに変わらないのです。あくまでも、わたしたち人間と同じ人間性なのです。ですから、キリストの全能、全知、偏在は、キリストの神性、神としての性質に属するものです。しかし、キリストの人性、人間性は、神性とともにキリストのひとつの人格に結合しているので、キリストは、全能、全知、偏在と言ったり、記したりすることはいくらでもできます。また、逆に、キリストが飲んだり、食べたり、眠ったり、苦しんだり、死んだりということは、キリストの人間性に属することです。神性に属することではありません、神は飲んだり、食べたり、眠ったり、苦しんだり、死んだりはしません。しかし、キリストの人間性は、神性とひとつの人格において結合しているので、キリストは飲んだり食べたり、眠ったり、苦しんだり、死んだりといくらでも言うことができます。聖書はそのように記しています。」(~サイト「佐々木稔  キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第8章 仲保者キリストについて」の「第7節 ルター派の誤りの排除」)

 たしかにルター派の「属性の交流」よりは改革派の理解の方が聖書的であるかのようにも見えますが、「結合」と言いながら神性が人性に優位とされている点では変わりはないのです。これでは結合ではなく併合とか統合と言う方が近いでしょう。だって、「キリストの人性、人間性は、神性とともにキリストのひとつの人格に結合しているので、キリストは、全能、全知、偏在と言ったり、記したりすることはいくらでもできます」と言うのですから、主権は神性の側にあることは明らかです。これでは「真に人」とは言えません。「真に」と言う以上、それは100%の生物学的条件を満たしていなければなりません。すなわち時空間の制約を受けないなどということはあり得ないのです。人性は遍在し得ないのに、神性と結合することによって遍在できるようになるというのでは普通の日本語の表現として「真に人」とは言えないし、「真に神」と対等に言われていることにはなりません。「真に」とは言え、イエス・キリストは我々と同じ人間ではないということになります。たしかに原罪は無いという点での質的な違いは認めねばならないでしょう。しかしだから自由自在などとは言えないのです。そういうこと言っているとキリスト教の教義は「神秘」だの「秘義」だのといった言葉で誤魔化す段階から更に開き直りの暴論の段階に堕ちて、もはや「学」などという文字を付けることさえ恥ずべきことになります。キリスト教の神学が、いかにヨーロッパで医学や法学と並ぶ伝統があろうとも、現代はそんなものは化けの皮が剥がされる時代であり、いかに長い伝統があろうとも虚飾の権威は打ち砕かれる時代なのです。かつて「異端」とされた思想が再考され復権される時代でもあります。そもそもキリスト教の「正統」的価値基準に、聖書に合わない欠陥があるからです。

キリストの両性の関係については宗教改革者およびその派の理解よりネストリウス乃至はその派の理解の方が良いかも知れません。無論、ネストリウスとネストリウス派との考え方の違いは必ずしも小さくはないのでしょう。しかしいずれにせよ、本当は神性にはあっても人性にはないという事柄は教理に含めるべきではないのです。イエス・キリストが本当の意味で「真に人」であるなら、同時に「真に神」と言われようとも物体性を有するのであって遍在などし得ないことは当然なのです。そのイエス・キリストを三一の神の第二位格として論じるならば、神性だけではなく人性をも等しく重視しなければなりません。イエスは生前、「真に神」ではなく「真に人」のみであった、死後は「真に人」ではなく「真に神」のみになった、と教理を訂正するのであれば、それはまた別に議論ができるかもしれませんが、受肉以後再臨に至るまで「真に神」であると同時に「真に人」であるとキリスト論を規定するのであれば、そこは教会組織にとって都合のよいようないい加減な理屈で妥協せず、たとえ思弁に過ぎるとも徹底究明しなければなりません。教義潰し、神学潰しです。

さらに、その「三位一体」の考え方からすれば、「神が人になった」とは、代入すれば「父・子・聖霊の三一なる神が人になった」ということになり、イエス人間性には第二位格の「子」のみならず「父」も「聖霊」も関わっていることになりますが、聖書をどう読んでもそんな理屈には合いません。むしろイエスは「父」のみを「神」として服従し、その「父なる神」のみが「聖霊」を発出して、イエスに充満せしめておられるのです。

なお、聖書(特に、ヨハネ福音書1章やフィリピ書2章の賛歌)では「神が人となった」のではなく「神の子が人となった」のです。

また、コロサイ書1章15~17節などを引いて、御子・キリストを造り主だと解することはできません。カトリック神父にして物理学者の三田一郎氏は『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』(講談社)の中で、「…三者はそれぞれ異なった役割を受け持っています。まず父が、この宇宙を創造することを発案しました。子は、父の案に沿ってすべてを創りました。そして聖霊は、それらすべてを、父の案に沿って発展させました」と述べていますが(19頁)、御父が発案者にすぎず、創造したのが御子であるというのは創世記の天地創造の記事をどう解釈したら出てくることなのか、これでは創造主は父なる神ではなく子なるキリストということになってしまいます。

また、同じ頁に掲載されているアンドレイ・ルブルフ「至聖三者」という題の絵ですが、三人の人がテーブルを囲んで座っている様子が描かれています。もしこの絵を子どもたちに見せて「三位一体の神」の比喩として説明したら、子どもたちは三者の神がいると誤解するでしょう。こんな絵は使えないのです。「相互内在」(ペリコレーシス)の教理もこれでは表現できません。この絵にこじつけた三田氏の「山田さん一家」の比喩も同様です。「三位一体」ではなく「三者一組」の神ということになり、事実上の三神論になります。神学者などがどんな屁理屈をこねても「三位一体」は「三神一組」か「一神三様」になるのです。

聖書は部分ではなく全体的に把握しなければなりません。神学でも創造の業は「父なる神」に帰せられ、キリストは「救済」の担当です。キリストは「ことば」なので、ヨハネ福音書の冒頭で「神」であると言われてはいても存在は「父なる神」と別なのですから(そもそも「三位一体」の「三位格(父、子、聖霊)」の「存在」が別々であると言われる時点で、「三位一体」は事実上「三神一組」なのです)、キリストは創造業の媒体であると解し、「創造主」(神)と「創造者」(キリスト)という区別が有効です。ただし、同じコロサイ書2章17節の「神の国」の「本体(=実体)はキリストにある」ということを植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三位一体論に合わせて解せば、「神の国(の本体)=キリスト=神(の身)」という図式が成り立つので、「神の国=神の体」と解し得ます。そのような意味では私も三位一体論を頭から否定する立場とは異なりますが、肝要であるのはその場合、私は「キリスト」を史的イエスとは無関係の、あくまで聖書の超歴史物語の主人公として解することが大前提になるということです。山根明会長の名言にある「歴史に生まれた歴史の男」は、ゴータマ・シッタルタであろうがナザレ村出身のイエスであろうが、神格(=絶対)化は許されないのです。「三位一体」の教理の中核はイエス・キリストの神格化です。その聖書的根拠としてよく出される聖句がヨハネによる福音書の10:30や14:9ですが、文脈的にはこれらは八木誠一氏が「実体的一」ではなく「作用的一」であると言われているとおり、存在の同一性として解してはダメで関係の親密性として解されて然りです。すなわち、14:10の後半で「私があなたがたに話している言葉は、私自身から語っているのではなく、父が私のうちに留まっていて、その業を行なっているのである」とあるとおり、イエスの言動(「言葉」と「業」)の本来的主体が「父」なる「神=ヤハウェ」であるという、その親密なる「父-子」の関係が表わされていると解されて然りです。私見では「私が父のうちにおり、父が私のうちにいる」云々といった言い方はイエス自身の言葉ではなく、神秘主義的思想傾向がみられるヨハネの言葉であろうとは思いますが、史的イエスについてもよくわからないので聖句解釈においては、どちらにせよ大差はありません。

それで、「・・・キリストは人間なのか神なのか、神とキリストと聖霊の関係はどうなのか、一神教なのに三神いるのか、とか。こういう神学議論は暇な神学者の暇つぶしにはなっても、一般信者には意味不明だし、非キリスト教徒にはただの『不毛な議論』でしかない。」という上村静氏の指摘(~『旧約聖書新約聖書 「聖書」とは何か』〔新教出版社p347)には一理ありますが、このような神学的な事柄はキリスト教徒が少ない日本の社会に限ってみても「一般信者」と一括りにするには多様であり、現代では非キリスト教徒の中にも三一神論などに関する批判や問いを投げかける人が少なくないことは、たとえば「yahoo!知恵袋」の宗教カテなどのサイトを見れば明らかです。聖書が示す「神」はそのようなわけのわからないお方ではありません。簡潔に言って「三位一体」などではないのです!だからこそ私は、日本社会に聖書的な超絶人格神観を浸透させてゆきたいと思い、このようなブログで発信しています。

ここで、佐藤優さんの著書『神学の思考』(平凡社)60頁から引用します。

「三一は、聖書に明確な起源を持つものではありません。ただし、神学的操作を加えることによって聖書から三一を導き出すことは可能です。裏返して言うならば、別の神学的操作を加えれば、聖書から三一とは異なる結論を導き出すこともできます。このことを冷静に受け止めれば、三一を承認しない者でも、イエス・キリストが救い主であると信じる者はキリスト教徒なのです。三一を正統と異端の『踏み絵』にする発想は間違っています。」
つまり、正統と異端とを分かつものは「三位一体」の教義ではなく「イエス・キリストが救い主であると信じる」か否かです。そしてこの「救い主」は私見では「神」ではありません。言わば、神と人との中間者です。それは「神」でもあり「人」でもある、というのではなしに、まことの「神」でもなければ単なる「人」でもない、のです。私の基本的な見方は、聖書が示す唯一の真の「神」はイエス自身ではなく、彼が「アッバ」と呼びかけたお方、弟子たちに「主の祈り」などを通して「われらの父」として示されたお方である、ということです。すなわち「キリスト教」とは、イエスをキリストであると信じる宗教というにとどまらず、そのキリストとしての言動の主旨は、彼が弟子たちに信仰の対象が「(天の)父」であることを示すことであったので、何よりもその「教え」こそキリスト教の核心であると思います。ですからキリスト教の信仰対象はキリストではなく、彼が「(天の)父」と示した「神」、旧約聖書で「ヤハウェ」とか「エロヒーム/エル」とか言われているお方なのです。
エスはご自分を「神」だと言ってはおられないのであり、「わが神」も「あなたがたの神」も、すなわち「われらの神」は御自分が「父」と呼んで皆に示したお方であると言われていることです。そのことを多くの人は無視して、「イエス・キリスト」という信仰告白にのみに関心を向けようとするのですが、佐藤氏も同様です。

いずれにせよ、佐藤優氏の上記の言葉を踏まえれば、「三位一体」の教義を認めない団体に「異端」のレッテルを貼ることによって自らを「正統」とすること自体、どうかなとは思います。
現代は教義よりも、反社会的集団であるかどうか、所謂カルトかどうかが問題です。現代は聖書学などが発達して信仰的立場の多様性、宗教の多様性が尊重される時代ですから、カルトでないなら、「三位一体」を認めないからといって非難するべきではないと思います。

そして佐藤氏が神学者ではあっても宣教者ではあり得ないことは、たとえば、「牧師や神学者で、『キリスト教の信仰を持っていないと、キリスト教の本質はわからない』というようなことを言う人がいますが、私はそういう考え方に強い違和感を覚えます。」(~『神学の技法』〔平凡社〕p132~133)と述べてキリスト教の「普遍性」ということを強調しているところにも表わされていると思います。宗教は科学ではないのだから、普遍性など無くて当たり前なのです。信仰とは共同主観であり、ある意味、共同幻想としての面もあります。

佐藤氏はロッホマンという人物の「永遠の命」についての考えを説明している箇所では、「信仰を持たない人には『永遠の命』が何であるか、さっぱりわからないのです。」(p217)と、上記の内容と矛盾するようなことも述べています。
それはともかく、「三位一体なる唯一の神」という教義は教会公認の聖書解釈とは言え、決して聖書的神観ではなく、これを絶対化することは許されないし、この教義を基準に異端を排除してきたキリスト教の正統主義的教会の歴史は厳しく問い直されなければなりません。

「神は神に留まっていることを望まずに、人すなわちイエス・キリストになりました。」(佐藤氏前掲書p134)とか「神がイエス・キリストとして、人間の世界に受肉する」(同書p137)云々とか「キリスト教徒が信じる神は、唯一神絶対神に留まることを望まずに、人間になりました。」(同書p192)などという受肉理解は、福音書のキリストの言動とは合いません。ここで言われる「神」とは旧約聖書で語られている「ヤハウェ」のことなのか、もしそうなら、イエスが「父よ(アッバ)」と呼びかけられたお方と同じなのか否か、違うならどのような「神」なのか・・・イエス・キリストになったということは、その「なった」主体としての「神」はイエスを含まないのだから、キリスト教の教義の「三位一体の神」とは異なるはずです。

そしてもし、イエス・キリストに聖書の「神」の存在が集約され具現されているのなら、彼自身、「われこそ天地の創造主にして全能なる神である」と言えばよかったはずで、いちいち「天にいます父」を立て、自らをその「子」として演じる必要はなかったはずです。

エスユダヤ教徒の一人であり、彼にとっての「神」はあくまでも旧約聖書で「唯一の(主なる)神」といわれているお方、すなわち「ヤハウェ」であったことは言うまでもありません。そして彼ご自身がそのヤハウェの化身である、ヤハウェが人間になった存在である、といった類の発言が新約聖書に皆無であるということは、上記引用のキリストを「神」の化身とするかのような受肉理解は誤りであることを証明しています。

佐藤氏は、「神人論」とは「神が人となられたのは、人が神になるためである」というものであると述べ、西方教会カトリック教会、プロテスタント教会)が前段の「神が人となられた」ことを重視するのに対して、東方正教会は後段の「人が神になるためである」ことを重視すると述べていますが(p171)、小田切信男氏は、最初は「神が人となられた」ということは受け入れておられ、「人が神になる」は否定しておられましたが、やがて「神が人になられた」も否定するに至りました(聖書的にも「人となった」のは三位一体の「神」ではなく「神の子」です)。私も同様です。そもそもイエス・キリストが歴史上に生きて実在していた人物であると教会は語るのですから、そんな歴史上の人物が「神が人になられた」化身の如きおかたであるということは認めることはできません。これは歴史現実の軽視であり、知性というか理性の犠牲になります。あまりにばかばかしいということになります。だから聖書が証しするイエス・キリストは非歴史的存在であるという前提に立ってはじめて認め得るのです。

ヨハネ福音書では10章30節や14章9節などに、イエスの神宣言ととれる箇所がありますが、それはそう解することも可能であるというだけのことであって、けっして明言とは言えません。むしろこれらはイエスが父なる神と親密なる関係を自覚していることを表現していると解する方が全体の文脈に沿うのです。この点を正統的立場は誤魔化してきました。これを私は詭弁の重複と呼んでいます。

エスの所謂「エゴー・エイミ」発言にしても、イエスが神宣言をしたならそんな回りくどい言い方をせずとも、ズバリ、「私はあなたがたの神である」と言えばよいはずです。ところがイエスはそんなことは言わずに、一貫して御父こそ「神」であると言われ、ご自分の従属的立場を示されたのです。これはイエス自身が「神」なのではなく、御父こそが「神」であることの証言であることは明らかです。この点は護教神学者が都合が悪くなるとすぐに「神秘」とか言って煙に巻こうとする、そんな詭弁で誤魔化せるような曖昧なことではありません。護教(ごきょう)は卑怯(ひきょう)な手を使います。すぐに屁理屈を言って逃げようとします。しかし私はこういう輩を逃がしません。とことん追い詰めてゆきたいと思います。


高尾利数氏は、「三位一体の神・・・この神観は、確かにキリスト教に独特のものであるが、イエスは夢にだにこういう『展開』を考えたことはなかった。こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」と指摘しておられます(~『キリスト教を知る事典』〔東京堂出版〕212頁 ※濃色は管理人)。
また野呂芳男氏は、「私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」と述べておられます(~講義「ユダヤキリスト教史」 第38回――アウグスティヌスの生涯と思想〔1998.3.17〕 ※濃色は管理人)。

http://www.geocities.jp/yoshionoro/jud-christ-3-17.html

日本のキリスト教徒、それも牧師からして「三位一体」を理解できない人が多い理由のひとつは、その訳語から与えられるイメージにあると思われます。
たとえば、日本基督教団信仰告白では、「主イエス・キリストによりて啓示せられ,聖書において証せらるる唯一の神は,父・子・聖霊なる,三位一体の神にていましたまふ。」となっており、ここで「唯一の神」の「一」と「三位一体」の「一」とがよく混同されます。聖書が明記しているのは前者(ヘブライ語「エハード」)であって後者ではありません。前者の「一」は「存在」が同一であるという意味で、後者の「一」は「本質」が同一であるという意味です。ところが「一体」の「体」という訳語が「胴体」の「体」のようにとられやすいので区別が必要です。「三位一体」・・・「三位格一実体」という意味の「実体」は身体的・物体的な意味ではなく「本質」と同義だからです。同義と言うと語弊があるかもしれません。井筒俊彦氏によれば、「実体」とは「主語Xによって指示されているもの」であり、「術語的に『本質』と呼ばれるものの具現した形」だそうです(「指示されているもの」の「もの」に傍点が付されています)。

「唯一の神」の「一」を「存在」が同一であるという意味ではなく、三位格の本質・本性が同一であるという意味に解説する人もいますが、それなら上記の信仰告白の文言では「唯一の」という修飾は不要になります。そもそも旧約聖書では「三位一体」など前提とはせずに「唯一の神」ということが書かれてあるわけで、その「唯一」が「存在」ではなく「本質・本性」を意味するはずもありません。なお、旧約聖書には「多」を包含する「一」という意味の言葉があるなどといった話も専門家に訊くと根拠が無いそうなので、三一論をこじつけるためのまやかしだと思われます。所謂「福音派」にはそういう詭弁があると私は思っています。一方、正統的神学に批判的な立場の知識人などは、キリスト教批判者のフォイエルバッハの三一論理解を高く評価してこれを活用することがあります。

フォイエルバッハの言わんとするところは、三位一体という神自身の内部における関係構造の源泉は、実は社会的・共同体的な人間の実在的生にあるのであって、三位一体という関係構造はそのような人間の実在的生の外的投射にほかならず、まったくの虚構である、ということである。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p149)
もう一つ日本のキリスト教徒が「三位一体」の教義を理解できないおもな理由は、「父、子、聖霊」の三位格を並列的にイメージすることにあります。私がよく言うのは、「三位格」は「並べ」るのではなく「重ね」るようにしなさい、ということです。これは「相互浸透、相互内在、相互相入」(ペリコレーシス)という教理です(ヨハネによる福音書などに典拠がありますが、存在論的に解釈されたからこんなおかしな教理になったのであり、作用論的に、つまり意思の一致として解釈すれば問題なかったのですがそれはともかく)。イメージとしては、なかなかうまい比喩が見つからないのですが、光の三原色で言えば、R・G・Bを「父」・「子」・「聖霊」とします。いつもWってことですが、そこに「父」をイメージして見ている時は「子」も「聖霊」も重ねて見ていることになり、「子」についても「聖霊」についても同様に他の2者を重ねて見ていることになります。しかし光がそれぞれ別の色であるように「存在」は別々なのです。それなのに「唯一」と矛盾しないのか?それがしないのです。よく誤解されるのは、「唯一の神」という存在がまずあって、それが「父」と「子」と「聖霊」という三つの役割を演じるというものです。これは様態論であり異端とされました。そうではなく、「唯一の神」は今、認識されている対象です。そこに「神」のすべてがある。「三位一体」はもともとキリスト論から生じており、キリスト中心なので、つねに信仰の認識対象は「神」の特別啓示である「主イエス・キリスト」です。啓示者にして仲介者である「キリスト」はガラス窓であると思って下さい。透明なガラスを通る光は、G(子)だけではなくR(父)でもありB(聖霊)でもあるのです。それぞれの位格に「神」のすべてがあるのであって、その背後になにかしら真の神なる存在があるわけではありません。常に啓示者「キリスト」という窓に「唯一」の「一」があります。…と言うとまた早合点して、御子のみが唯一の神なのだと言い出す人が出そうですが、それは「スウェーデンボルグ派 新教会」や「イエスの御霊教会教団」などのような所謂「ワンネス」の立場であって、ここで言わんとしているのは、キリストという窓を通して見える位格という光が唯一の神を意味するということです。逆に言えば、キリストという窓を通さず、その啓示という枠組みの制約を受けずに通る光、見える位格は、何色であろうと、どの位格であろうと、唯一の神とは言えません。御父であれ御子であれ御霊であれ、です。御子キリストには「啓示する者」としての面と「啓示された位格のひとつ」としても面とがあります。
しかしこのような「三位一体」なる神論自体が非・聖書的なのです。私にとって啓示者イエスは、ガラス窓ではなく鏡です。彼は「子は親を映す鏡」という諺通り、「父なる神」を映す鏡なのです。イエスの振る舞いを見れば、彼と「父ー子」の人格(神格?)的関係にある「神」の得体を知れるのです。鏡が対象を映し出すには光が必要です。その光が聖霊です。聖霊の光は「神」御自身から発せられる。その光を見て聖書では「神は光なり」と言っているのです。

ところでよく、「三位一体」は聖書に明示されてはいないが「萌芽」はあるなどと言われます。これも詭弁の類であり、植物だって養分などの環境条件が整っていなければ成長しないわけで、新約聖書の記事の中に後代から見た場合に「三位一体」と教理化されて然りと思えるような表現があったからと言っても、それが本来、教理に合うような意味で書かれたかどうかは断定できないわけで、教理化の過程も聖書の記事がそのまま時間の経過に伴って必然的に「三位一体」へと解釈されていったわけではなく、激しい論争を繰り返し、政治権力の介入を受けて会議を開いたりして、人間たちによっていろいろと条件が整えられてそうなったわけですから、そこの歴史的経緯を問題とせずに、聖書と教義とがまるで直線的に連続するかのような情況捨象的な言い方は断じて認められません。その点では「啓示の漸進性」などという理屈も同じであり、ドグマにドグマを重ね塗りするようにして聖書の内容を捻じ曲げてゆく誤魔化しの「神学」に対しては厳しく批判し、教会主義的圧力に反抗しなければなりません。
特に現代では、三一神論が「十字架の神学」というものと関連づけられて、伝統的神観である「神の不受苦、不死」を否定する方向に展開されている点が問題です。その背景には、ある種のインテリに共通する以下の如き時代認識・時代感覚があります。

神学においては、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)というのがクセモノなのです。その背景にはインテリが好む「神義論」というものがあります。

「現代が神無き時代であることは否定することはできないであろう。神が無いということは無信仰ということである。信仰とは、人が神を対象的に信ずるということではなくて、神が人と共にいますということを知っていることである。現代を一つの時代として見るとき、現代は神無き、信仰無き時代である。そのことはアウシュヴィッツや広島・長崎を想起するだけで十分である。それらの所には神はいたか。われわれ自身がそこにいあわせたとするならば、そのとき、われわれは神を信じえたであろうか。われわれは思わなかったであろうか。『もうこの世は終わりだ、神も仏もない』と。われわれは神無き所で神を信ずることができるであろうか。無信仰のただ中で信仰を持つことができるであろうか。現代は神無き、無信仰の時代である。このような時代のただ中で神と共にあることができるであろうか。なおも神を信ずることができるであろうか。ボンヘッファーは獄中書簡で『われわれは、神無くして、神の前に、神と共に生きる』と綴った。これは言い換えれば、無信仰の信仰に生きる、ということである。しかし、このようなことがいかにして可能であろうか。(中略)われわれはそのような信仰の成立を、イエスの十字架上におけるあの絶叫において見るのである。イエスはその十字架で『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と絶叫して死んだ。イエスは神無くして神と共にあったのである。無信仰の信仰に生きかつ死んだのである。無信仰の信仰が成立した場所は十字架である。瀧澤は神と人との第一義の接触を『インマヌエルの原事実』と呼んだ。しかし、無信仰の信仰の場所としての十字架こそが救済の原事実である。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p293~295/p33~34参照)

世界大戦の経験、特に「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマナガサキ」は現代の思想家がよく持ち出すキーワードですが、特に「十字架の神学」との関係で問題になるのは、これが所謂「神義論」的問いを動機とし、イエスの十字架上での「絶叫」の死にこじつけて、「神の不受苦、不死」という伝統的神観を形而上学的神観と決めつけ、聖書的神観はその逆に「神の受苦、死」であると強弁するところにあります。その点で北森嘉蔵氏などは日本人の代表的存在です。さらに上記引用の量氏の場合は、「イエスは神無くして神と共にあった」などという、自身の「無信仰の信仰」なる思弁に結び付けるがために「十字架」理解が極めて断定的になっています(量氏前掲書p255~256も併せて参照されたし)。

これはまったく短絡的なやり方であり、果たして量氏が言うように、イエスが十字架上で「神」に対して神義論的問いを絶叫して死んだと言い切れるのか?ということが厳しく問われます。これはひとつの聖書解釈を史実であるかの如く絶対化しているという過誤だからです。マタイとマルコの両福音書に記されているイエスの「わが神、わが神、なぜ私をお見棄てになったのですか」は詩篇22篇の冒頭句と同じ言葉であり、これまでの聖書学の論議を踏まえるなら、到底、量氏などのように思弁的に解釈することはできません。イエスの口から神義論的問いを語らしめたがるインテリ説教家らの思弁的企てが、北森氏の言う「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということなのです。

「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提とする神学に利用すべく三一神論につなげるというのは邪道も邪道です。そのような神学は神義論的動機にもとづく人情に合わせた非聖書的神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。とにかく「神」が全能だからといって、御意なくしてお苦しみになることはなく、ましてや死なれることなどありません。神学者らが「神」を人間のために苦しませ、死なせようとしても無駄なことです。

「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)

前述のとおり、「十字架の神学」といえば宗教改革者のルターであり、彼は神義論を否定しました。さらに遡れば使徒パウロですが、彼の神学でも神義論は克服されています。そもそもイエス・キリストの教えに神義論はありません。現代人がよく言う、全能なる神の愛や正義と人間の災難との矛盾に関する疑問など問題ではない、それが生得的な対神関係の現実なのです。逆に言えば、この神関係にない者がいつまでも創造主にして全能なる神に対して神義論的問いを発するのです!
※現代神学における「十字架の神学」に関して詳しくは下記参照。

「十字架の神学」の詭弁 遠くの神/ウェブリブログ

「十字架の神学」の詭弁 �U 遠くの神/ウェブリブログ

そういうことで、三位一体の教義について理解がなくても信徒の救いには何ら問題はありません。この教義が確立する転機になったニカイア公会議(325年)はアリウス排除の欠席裁判であり、その決議内容に関わらずアリウス派は勢力を強めてゆくわけで、ニカイア信条は事実上、でっちあげ同様であり、かの正統主義的教義学者と見られていた北森嘉蔵氏でさえ、『福音主義教会連合』なる団体の機関紙の昔の記事で、正統主義者の第一人者とも言えるアタナシウスが中間派に対して「きわどい」と言われるような根まわし工作をして「ホモウシオス」派の勝利に至った旨を書いていました。ずると言えばずるですね。すくなくとも聖職者と呼ばれる者に相応しい行動ではない。むしろ祭服の中身は俗物です。ニカイア公会議過半数は中間派であり、皇帝権力がアタナシウス側かアリウス側か、いずれに味方するかで勝負が決まったと云われています。そのような政治的で不純な会議が教会会議だったのです。従ってそのような会議で、しかも正典としての新約聖書が確定(393年、於.北アフリカのヒッポ)するよりも前(コンスタンティノポリス信条が381年)に制定された信条など、聖書的教理とは認められないので、現代の信徒は聖書に次ぐ第二の信仰基準であるかのように尊重する必要などありません。現代の教会は、ニカイア公会議およびコンスタンティノポリス公会議によって決められたニカイア・コンスタンティノポリス信条をエキュメニカルな信仰告白としていますが、そういうこととは関係なく、この所謂「ニカ・コン信条」の歴史的教会的普遍性を無効として採用しない独自のキリスト教会を形成することは理論的にも十分可能だと思います。
ところで、一説によるとアタナシウスには、御父を「源泉」、御子を「川」、御霊を「飲む」と言っているように、ネオ・プラトニズム的というかオリゲネス的というか従属的三位理解の残滓とでもいったものがあり(もちろん従属説ではないが)アタナシオスの段階で後の正統教義である「三位一体」論が成立したわけではなく三位の区別について、また「ホモウーシオス」に関しても御父と御子との関係だけではなく、その二者と御霊との関係など説明が不十分な点は他の神学者によって弁証されてニカ・コン信条に至ったと云われております。
私はアリウス派でもなければアタナシウス派でもありませんが、単立で行くなら教会独自の聖書的信条を立て、教会の伝統などにはとらわれずに進んで行きたいと思います。
聖書的神観の基本である、創造主としての「神」の「人格、超越、絶対」といったことは信仰の要素になるので、脳に特に異状が無い人の場合は、啓示認識として自覚していなければなりません。異状ある人の救いについては、「ウェストミンスター信仰告白」10-3などを参考にして下さい。私はこういう正統主義的な信条については是々非々で臨んでおります。批判すべき面は多々ありますが、大いに学ぶべき面もあるのです。

しかし根本的なところが異なります。キリスト教では、「神が人になった」といわれますが、実際には「人が神になった」のです。すなわち歴史的には、イエスという一人のユダヤ人男性の神格化なのです。その場合の「神」とは、もちろん「ヤハウェ」(他に「ヤㇵウェ」、「ヤーウェ」、「ヤーヴェ」など)という意味ではありません。旧約時代は啓示が十分ではなかった旨の所謂「漸進的啓示説」では「ヤハウェ=三一神」とされますが、この解釈は誤解であると見做します。歴史的にはイエスが「アッバ」と呼びかけた「父なる神」こそ「ヤハウェ」です。イエス自身が(革新的というか異端的ではあれ)ユダヤ教徒だったからです。
あるいはまた、「イエス・キリスト」が「ヤハウェ」と同一の存在である、などと言う人がいますが、これも誤解であり、キリスト教会が「イエス・キリストは神である」と主張するのは、「ヤハウェ」と同じ「神」の本質を「イエス・キリスト」が有しているという意味です。確かに聖書からはそのような解釈も成り立ちます。私には哲学的な理屈はよくわかりませんが、「本質/実体」と「存在」とを区別するなら、「イエス・キリスト」は「神」と「本質/実体」は同じだが「存在」は別ということになります。
三一論というのは信徒の信仰生活と乖離した、実に不毛で、学習するだけ時間の無駄になるような、前述の上村氏の指摘のとおり暇な神学者の暇つぶし・・・もっと言えば観念の遊戯であり、およそ教会現場では語るだけ虚しい空疎な言葉の集積であり、批判するのもばからしくなるようなしろものなのですが、ここでは概要だけ引用して入口のところだけふれておきます。
<4世紀初め(313年)に信仰の自由を保証されたキリスト教においては、この頃から神とキリストとの関係が問題化し、神とキリストとを一つとする正統派の見解に対し、神よりもキリストは従属的であるとするアレクサンドリアの司祭アリウスの主張が現れた。このためにコンスタンティヌス帝は最初の万国司教会議であるニケア公会議(325年)を開いた結果、そこでは神とキリストとの「本質的統一」が正統的見解と定められ、アリウスは弾劾された。しかし、「統一」のためには「差異」が前提されるのではないかとのオリゲネス派の主張のゆえに、アリウスの復権も成るかに見えたが、アタナシウスは、ニケア公会議で採択された見解を擁護し、アリウス派を異端として断然排斥した結果、この派は以後異端とされた。アタナシウスはさらにその後(362年)、神とキリストとの「本質的統一」ではない「本質的同等」を主張するに至った。その結果、コンスタンティノープル公会議(381年)で、父なる神と、子なるキリストと、聖霊との、「本質的同等」すなわち「三位一体」説が確立された。そして4世紀末(392年)にはキリスト教ローマ帝国の国教とされ、異教はすべて排撃された。>(~渡邊二郎『哲学入門』〔放送大学教育振興会〕p149~150) 
ニカイア公会議を「アタナシウスVSアリウス」という図式で語る人がいますが、アタナシウスは、ニカイア公会議では従者として参加したにすぎず、アリウスは参加させてもらっていません。それはともかく、上記は概要にも及ばない簡略なメモ程度の解説ではありますが、あえて引用した理由は、神とキリスト(実際は「唯一の神であり創造主なる御父」と「唯一の主であり御子なるイエス・キリスト」)との「本質的統一」ではない「本質的同等」ということを明記しているからです。つまり両者の関係は「同質」であるだけではなく「同等」でもあるということ、この点は重要なところであり、私見ではニカイア信条を理解する上でのアキレス腱だと思います。と言うのは、この「同等」が抜ければ従属説が認められることになり、その方が聖書の証言に合っているのですが、この「同等」の主張によって「三位一体」は神秘化されることになったからです。まさに、いつ誰が言ったか、実際に言われたかどかもわからないが伝えられている「不合理なるがゆえに我信ず」という思考停止の言葉が象徴している、正統主義教会のドグマティズムにおける不合理主義の歴史の始まりです。但し、この「同等」の意味も学者の解釈によって違ってきます。ちなみに日本の正教会の或る神学者は、「同等なのは、『神性』であって『関係』においてではありません。しかし、西のキリスト教では『関係』までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。」(私信)と述べておられます。
「三位一体」の「一体」の「体」はギリシャ語で「ウーシア οὐσία」であり、ニカイア信条で「同じ本質」とか「同じ実体」と訳される「ホモウーシオス όμοούσιος」の「ウーシオス ούσιος」はその形容詞形になります。
高尾利数氏が訳されたカレン・アームストロング著『神の歴史( A HISTORY OF GOD ) 』(柏書房)によると(以下、引用にあたっては頁数の表記は省略させていただきます)、「ホモウーシオン」は「文字通りには、『同じ素材から成る』の意」だそうで、「同じ材質」とも言えたようです。だからこの語は「物質主義的な連想をさせた」ので「大いに論争の的となった」とのこと。イオタを入れて「ホモイウーシオン」とすると「~のような、あるいは似たような性質の」という意味になる。
※ ニカイア信条の原文では、「ホモウーシオス」ではなく「ホモウーシオン」とある。「ウーシオン」は「ウーシオス」の対格。
「ニカイア信条は、そのままでは、父、子、霊という三つの神が存在するという三神論の非難を受ける可能性があった。論争の的となった『ホモウーシオン』の代わりに、マルケルスは妥協的な言葉「ホモイウーシオン」(「~のような、あるいは似たような性質の」の意)を提案した。(中略)アタナシウスは、マルケルスと彼の弟子たちが大勢に従うように説得することに成功した。なぜなら彼らはアリウスよりもアタナシウスと共通する面が多かったからである。ロゴスが父と同じ性質だと信じた人々と、ロゴスが父と同じような性質だと信じた人々は『兄弟であり、われわれが言おうとしていることを言っている人々であり、用語について論争しているだけなのである』。優先されるべきことはアリウスに反対することでなければならない。彼は御子が御父と完全に違うものであり、根本的に違う性質のものであると宣言したのだ。」云々(アームストロング著前掲書p158~159)
ここでは、アタナシウスの「ホモウーシオス」派が中間派であるマルケルスの「ホモイウーシオス」派と大同団結して、共通の敵であるアリウスの「ヘテロウーシオス」派との戦い臨んだ旨が述べられていますが、この事実はニカイア信条の虚妄性を暴露しております。何故なら、いかにアタナシウス派から見て中間派の方がアリウス派よりは近い立場であったにせよ、「イオタ」という記号文字一つ入るか入らないかで「同じ」であるのか「似ている」のかという、キリスト論においては天と地ほどの決定的な違いが生じるわけですから、いかに公会議で勝利するための方便とは言え、神学的には極めていい加減なやり方だからです。当時のギリシャ語圏は日本と同じく多神教世界だったので、公会議においてもこうした無節操がまかり通ったということなのでしょう。
「ウーシア」は三一論では「本質」とか「実体」とは訳されますが「存在」と訳されることはあまりありません。 但し「ウーシア」は 「エイミー ειμι」という「~である」とか「存在する」という、英語のbe動詞に相当する意味の動詞の不定法「エイナイ」の女性分詞形「ウーサ」に由来すると云われ、アリストテレス以来「存在」と「本質」の両方の意味を含むとの説もあります。「ウーシア」は新約聖書で「財産、資産」という意味で用いられています〔ルカ15:12〕)。
※「三位一体」のラテン語訳については省略。また、「三位」の「位(格)」と訳されている「ヒュポスタシス υπόστασις 」についても煩雑になるので省略しますが、前掲『神の歴史』で「ウーシア」と「ヒュポスタシス」の違いが書いてあるので、部分的に引用します。
前者が「内部からそうであらしめるもの」すなわち「普通、あるものがそれ自身の内部においてそうであるものに適用された」語であるのに対し、後者は「外側から見られた事物を示すために用いられた」語であるとのことで、後者の類義語には「プロソポン」があり、本来は「力」を意味したが転じて「ある人の表情」をも意味し、「ヒュポスタシス」と同じく、「誰かの内的な性質についての、あるいは彼を眺める者に提示されたその個人についての外的表現を意味した」とのこと。
それでカパドキア人にとって「神は三つのヒュポスタセースにおける一つのウーシアであると言ったとき、彼らが言おうとしていたこと」(p164)はどういうことだったのか?私は、わかりやすいように、あえて半分ずつ分けて引用します。「神は三つのヒュポスタセース」と言えば、「神が被造物に自分自身の何かを垣間見させようとするときには、神は三つのプロソポンである」(同上)ということで、「・・・における一つのウーシア」(同上)であると言えば、「神自身においてあるがままの神は一つである」(同上)すなわち「唯一の神的自意識があるのみである、ということ」(同上)であった。以上。

そして、「われわれのギリシャ人の友人らは、一つの本質〔エッセンス〕と三つの実体〔サブスタンス〕について語ったが、ラテン人たちは一つの本質あるいは実体と三つのペルソナについて語ったのだ」(p167)という一文から、ギリシャ定式の方が「本質」と「実体」とをきちっと区別している点で、ラテン定式の「本質あるいは実体」という考えよりはわかる気がします。
それでラテン定式で言えば要するに、「イエス・キリスト」と「神」とは、「本質/実体」は「一」でも「存在」は「一」とは言えないのです (「存在」とは何か?などという哲学的問いはここでは控え、世間の常識の範囲内で考えたいと思います )。「一体」が「一つの存在」を意味するなら、それは異端とされた様態論的モナルキアニズムになります。しかし、イエスが「神」と「存在」を異にするのであれば、いかに「本質/実体」が同じであっても「唯一神」との整合上、せいぜい「神的存在」とか「第二の神」とかいうことになり、キリスト教の「神」は決して「唯一神」の「神」とは言えないでしょう。だからキリスト教では「唯一神」と矛盾しないように、イエスは元々「神」であり、「神、イエス聖霊」という三一ではなく、「神」の中に「父、子、聖霊」の三者が位格として存在を別にするということになります。この場合、「神」は「父」だけを指して言う場合と、「父、子、聖霊」の三者を総じて言う場合とがある、ということになります。
しかし、繰り返しますがこのようなことは聖書解釈のひとつであって、これが啓示だとか真理だなどと言って絶対化することは許されない事柄なのです。教会側はよく「神秘」とか「秘義」とかいう言葉を用いて思考停止に誘導して、言わば「不合理」なる教義を「合理」化しようとするのですが、到底、許されるものではありません。
前述の高尾利数氏などの批判学者は「知性の犠牲」に甘んじることなく、三位一体論の詭弁性を暴露してこられたわけです。現代のキリスト教徒は神学的諸疑問を司祭や牧師にぶつけるくらいなら、このような批判学者の声に耳を傾けてみるのもよいでしょう。
ちなみに、前掲『神の歴史』では、「三位一体」について「究極的には、三位一体は神秘的あるいは霊的経験としてのみ意味を成すことができるだけであった。それは考えられるべきことではなく、生きられる(体験される)べきことであった。なぜなら神は人間的な諸概念をはるかに超出するものだからであった。」云々と書かれてあり、また、「ギリシア人にとってそれは、ただ直観的にのみそして宗教的経験の結果としてのみ把握されうるドグマ的真理なのである」とか、「三位一体は・・・難解で深遠な『理論』などではなく、テオーリア、つまり瞑想・観想の結果なのである」とか書かれてあります。このような東方の神秘主義神学に欠如しているのは、民衆の中に生きたイエスとの「父 ー 子」関係に御自身を具体的に啓示なさり、その意味で、言わば自己限定なさった「神」についての視点です。端的に言えば神秘主義神学はエリート知識人の神学であって、現代の非人格的神観を説く一群の学者たちの思想のように抽象的で庶民の現実生活からかけ離れたものなのです。そのような学者たちの中に、所謂「京都学派」の禅仏教系神秘主義哲学に関心を抱く者が多いのも頷けます。これぞエリート知識人の哲学であり、民衆の視点が欠落しているからです。

その点では同じく「絶対無」を言う人ではあるものの量義治氏の次の所見では、アウグスティヌスカール・バルトらに代表される西方教会の三一論を「絶対有の立場」とし、これを批判し得ていることは注目に値します。多くの論者は「絶対有」と「絶対無」の区別など関係なしに、古代・中世の教父や現代の神学者の説に依拠して、三位一体の教義が聖書の啓示に合致した神理解であるかの如く主張してきましたが、それと比べれば量氏の場合、「絶対有の立場に立つかぎり」という条件付きではありますが、とにかく三一神論に論理的難点があることや支持の困難さなどを率直に指摘し、正統自任派がやるように「神秘」だの「秘義」だのといった詭弁を用いて批判停止に追いやるようなことはしていないからです。但し、そうかと言って「絶対無」を持ち出してみたところで、私見では三一神論は論として成り立たないことに変わりなく、むしろ益々歴史現実を無視した空理空論になるだけだと思われます。

「三位一体論における三位格は絶対有である。しかし三位一体論には論理的難点がある。それは絶対が三つもあって、しかも一である、ということである。いったいこれはなんとしたことか。絶対はつねに一ではないか。それなのに、絶対が三つもあって、しかもその三が一であるというのは、どういうことか。これに対しては、古来、さまざまの命題表現をもって答えられてきた。たとえば、アウグスティヌスは、神は『一つの実体、三つの位格』(una substantia,tres personae)であると、また、カール・バルトは、『一つの存在、三つの存在様式』(ein Sein,drei Seinsweisen)と答えた。前者は『実体』概念と『位格』という概念を用い、後者は『存在』概念と『存在様式』の概念を用いて、なんとか合理的に表現しようと努めている。しかし、いずれにしても、一なる有が三なる有である、または、三なる有が一なる有である、と言うのである。そのようなことは理解できるであろうか。絶対有の立場に立つかぎり、三位一体論は支持しがたいのではなかろうか。あるいは三位一体論を保持しようとするかぎり、絶対者観を変えなければならないのではなかろうか。」(量氏前掲書p229~230)

「神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。」(同、p292)

その線で行くなら、量氏は北森嘉蔵氏の「神の痛みの神学」における三一神論も否定せざるを得ないのではないだろうか?北森氏は京大哲学科出身とは言え日本基督教団神学者である以上、西田哲学を神学に積極的に採用するわけにはいかなかったわけで、量氏からみれば北森氏もまた「絶対有の立場」に立つということになるのだろうからです。

ところで、前掲『神の歴史』における「考えられるべきことではなく、生きられる(体験される)べきこと」と同じような文言がその「京都学派」の西谷啓治氏の本にも書かれてあります。それは、「・・・絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」というもので、いちおう日本基督教団の教師で、「みずき教会」なる教団無所属の家庭集会を主宰しておられた哲学的神学者の小田垣雅也氏が好んで引用しておられます。詳しくは下記を参照されたし。

小田垣雅也|復活について

このような神観は、「他者」とは言われていますが実は、宗教学者波多野精一氏が言われた「自我の内に吸収され解消される」観念であると言えます。当然、反論が予想されますが、「自我」という表現を用いるかどうかはともかく、要は「神」と「人」との不可同・不可逆の厳然たる区別がついていない思想は聖書の啓示とは無関係です。すなわちこうした神人関係が曖昧な「体験」主義的ないしは神秘主義的な思想は、聖書に示された「神」の具体的な人格性や対象性を軽んじ、日本人の神観を弱体化させ、それこそ得体の知れない汎神的偶像を造りあげるのです。たとい、汎在神論・万有在神論などと表現を変えてみたところで、創造主の超絶性が明確化されない限り庶民信徒を惑わす詭弁に等しいのです。
なお、前掲『神の歴史』の「三位一体」に関する解説の中に「三位一体は、文字通りの事実と見られるべきではなく、神の隠された生命のなかの本当の事実に呼応するパラダイム(理論的枠組)と見られるべきである」(p164)という文言があるように、すくなくとも「三」や「一」といった数字で「神」を言い表すことは比喩であることを八木誠一氏が教えてくれています。私見では「位」や「体」も本来は被造物に用いられる概念であって、これを創造主に用いることは類比に当たるのではないかと思われます。だからいくら神学者が唱えたところで、「三位一体の神」なるものが実在するわけではないのです。前掲『神の歴史』ではアウグスティヌスの「心理学的三位一体論」において「われわれの内部に出会う三位一体は、神自身ではなく、われわれを創造した神の痕跡にすぎない。」(p172)と書かれてあり、神秘主義も徹底してくるとディオニシウスのように「『神』という言葉を用いるのを好まな」(p177)いのはともかくとして、「事実、神を『無』と呼ぶほうがもっと正確である」(同上)というのもともかくとして、「われわれは神を三位一体とも呼ぶべきではない。なぜなら、神は『われわれが知っているような意味においては同一でもないし、三位一体でもない』からである。」(同上)とは当然の帰結でしょう。しかし「啓示」については、「神はその名前の幾つかを聖書において啓示した」(同上)と言われている程度で、自然啓示にせよ特別啓示にせよ、踏まえられてはいません。それどころか「神化」(テオーシス)について多く語られています。

この『神の歴史』の中で聖書の誤解ではないかと思われる箇所は以下のとおり。

「三位一体においては、父は自分がそうであるもののすべてを子に委譲し、すべてを放棄する――自分自身を別な『言葉』において表現するという可能性さえも。ひとたびその『言葉』が語られるや、いわば神は沈黙したままになるのだ。われわれが彼について語りうることは何もない。なぜなら、われわれが知っている唯一の神は、ロゴスあるいは『子』だけだからである。それゆえ『父』はアイデンティティを持っていない。通常の意味での『わたし』はないのであり、それは、われわれの人格という考えを困惑させる。」(p182)云々。悪しき神秘主義思想の典型。
ところで三位一体の教義は異端審問の踏み絵のような役割を果たしてきたようにも思われますが、現代のキリスト教系の「異端」については、現代では神観の多様性を表わすものとして積極的な捉え直しが可能です。神学の正統主義的立場を批判するにあたっては部分的にではあれ参考になることがあるのです。
しかし「異端」を反・社会的集団、いわゆる「カルト宗教」と混同する人が多いのが現状です。たとえば、日本のキリスト教会の多くは「エホバの証人」と「モルモン教」と「統一協会」を一括りにして「異端」だと言って警戒を促してきました。しかし前二者と後一者とは上記のような違いがあります。
前述のとおり「三位一体」の教義では、神とイエスとは「同質」であるだけではなく「同等」なのですが、「従属」説はルカによる福音書パウロ書簡にも聖書学者によって認められていることであり、私見では、新約聖書は全体的に見て、「イエス・キリスト」を「神的な存在」とは認めているものの、「神」そのものとは認めていないと思います。
ヨハネによる福音書には「ひとり子なる神」(1:18)という表現などがあって微妙なところですが、その執筆目的は読者が「イエスが神の子キリストであることを信じる[ようになる]ため」(20:31 岩波版 小林稔訳)であって、「イエスが神でありキリストであることを信じる[ようになる]ため」ではありません。


以下、参考までに引用。
「われわれはいったい何をそんなに恐れているのだろうか。いったい何にそんなにおびえているのだろうか。使徒信条の内容は決して新約聖書の使信を正確に伝えているわけではないと言うことが、それほどに恐ろしいことなのか。三位一体の神というとらえ方の萌芽は新約聖書の中にあるにはあるが、その後の教会史において確立されたような理解は新約聖書の中にはまだないと言うことが、それほど忌避すべきことなのか。とくにパウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』〔新教出版社〕p5 ※濃色は管理人)
「われわれはただただ正統主義的な『キリスト論的集中』といったような捉え方の中に止どまり続けていてよいのだろうか。三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(青野氏前掲書 p61 ※パウロの「神中心主義」を青野氏が岩波版訳の注で指摘している聖句はⅠコリ3:23や15:28。濃色は管理人)

ちなみに「ユニテリアン」と言えば、日本の怪僧ラスプーチンといわれた佐藤優氏は、竹内久美子という理学者との対談で以下のことを述べています。

ダーウィンケンブリッジで神学を学んだという話が出ましたけど、ダーウィン自身も両親も、ユニテリアンなんですよ。ユニテリアンは、イエスは宗教指導者ではあるが、神だとは認めない。だから『最初の一撃』みたいなところに行きやすいんです。『最初の一撃』とは、この地球をつくったところに神の意志が働いている、つまり最初の一撃は神様が起こしたのだと考えるわけです。そしてそのあとは、ニュートン慣性の法則なり進化論なり、自然の法則によって宇宙は自己発展するんだと。(中略)ユニテリアンはイギリスにはあまり多くなくて、アメリカに多いんですけどね。CIAの職員やアメリカの従軍牧師はほとんどユニテリアンです。だから、ある意味でユニテリアンはアメリカの国教といってもいい。アメリカの大統領は『神に懸けて』とは言うけど、『キリストに懸けて』とは絶対に言わないでしょ。あれもユニテリアンを意識しているからですよ。(中略)ユニテリアンは教派の一つではなく、あらゆる教派に横断的にいるんです。ユニテリアンが持っている教会もあるけれども、長老派にも会衆派にもメソジストにも、あるいは英国国教会にもユニテリアンはいる。ダーウィンの家は国教会のユニテリアンでした。(中略)ユニテリアンが理神論と違うのは、神が宇宙を創造する段階では人格的中身を持っているような感覚がある点ですね。それに対して理神論は、自然の法則以外の何らかの力が働いたという感覚だから、人格はまったく持たないんです。理神論は哲学で言うところの始原論とおなじものなんです。」(~『~佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』〔文藝春秋〕p47~49)

イエス・キリストを、真の神で真の人と考えることは、キリスト教の教理の基本ですが、イエス・キリストは偉大な人間であり、模範的な人生を示したわれわれの先生であるという認識に至るようになったのです。このようなキリスト論を持つのが、アメリカに多いユニテリアンです。

ユニテリアンについて、『世界大百科事典』(平凡社)の記述を引用しておきます。

キリスト教の正統教義である三位一体論に反対して、神ひとりだけの神性を主張し、イエスの神性を否定する教派。神学思想としては、古代教会のアリウスや宗教改革時代のセルベトゥス、ソッツィーニなどによって主張されていたが、教派としては18世紀から19世紀にかけてイギリスとアメリカで別々に成立した。とくにアメリカでは会衆派教会のなかで、ハーバード大学神学部を中心として一教派になるまで発展した。(中略)ユニテリアンはアメリカ思想界における合理主義と人道主義の代表的系譜を形成してきた。

ここで指摘されているように、ユニテリアンは合理主義的なキリスト教です。そうなると、十字架におけるイエスの死が超越的な出来事ではなくなり、イエスという一人の人間が死んだという以上の意味を持たなくなります。合理主義において、十字架の意味は、偉大な教師であるイエスが、命を賭けて理想を追求したということになるのです。言い換えると、十字架におけるイエスの死を、他の人間も模範にすべきであるということです。『イエスという偉大な教師は、自らの死によって、他の人間への愛を示した。こういう愛を、われわれもできるだけ実践すべきである』というように、福音が道徳に還元されてしまうのです。

こういう合理主義的なキリスト論は、一九世紀のヨーロッパで、またアメリカでもハーバード大学神学部を中心に無視できない力を持ちました。ユニテリアンを名乗る教会もでき、会衆派、長老派、メソジスト派などの教会にも、教派横断的にユニテリアンの影響が及びました。」(佐藤優著『神学の技法 キリスト教は役に立つ』〔平凡社〕p42~43)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

必要は信仰の母?

「必要は発明の母」と云われますが、聖書的神信仰においても人間の「必要」は活用されます。「神」が人間の欲求を用いて啓示をなさるという点で、人間が必要としたつもりが、実は聖霊の導きであったという「転回」が宗教的特徴です。これがなければ人間が都合に合わせて「神」と名付けた偶像を作るにすぎません。宗教とミステリーにはどんでん返しが不可欠なのです。

ところで一時、日本の怪僧ラスプーチンとの異名を与えられた佐藤優氏は、竹内久美子という理学者との『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』(文藝春秋)という対談本で以下のことを述べています。

「組織神学というのは、森羅万象は説明できるんだけども、限定は当然ある。あくまで人間の知恵の範囲の中で、ということなんですよ。中世スコラ学においては、人間の限られた知恵で能力的に限界のないものを説明することはできないのです。だけど、そこであきらめてはいけなくて、さらに不可能の可能性に挑んでいく。まず文献学とか歴史学とか、論理で説明できることは説明し、次はそこから推定できることを推定し、さらに難しいところは作業仮説を立てるのです。作業仮説も立てられないとなると、これは立場設定になってしまう。立場設定とは、ヘーゲル的に言うなら差異の問題、趣味の問題になってくるので、これは強要できない。そうなると説明不能となって、直感とか、外部性とか、超越性という言葉が出てくる。だいたいこういう仕分けになるわけです。」(p98~99)、「やっぱり立場設定の問題になってくると思う。宗教が必要だ、神が必要だと考える人と、そうした幻想抜きに世の中を見ろという人とに分かれるのでしょう。」(p135)

以下、三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか』(講談社)から引用します。

(以下、引用)

もしもホーキングが本気で「神を必要としない宇宙」を考えていたのなら、私は彼にこう聞いてみたかったと思います。

「あなたが考えた無境界宇宙は、たしかに特異点で神に仕事をしてもらう必要はない宇宙です。しかし、その無境界宇宙を創った科学法則は誰が創ったのですか?」

その科学法則を創った者が神ではないとしたら、別の何かでしょう。では、その「別の何か」は誰が創ったのでしょうか。このように、「はじまり」を求めていくと結局は、きりがなくなってしまうのではないかと私は思います。そこに「何か」がある以上、きりがなくなって当然なのです。にもかかわらず、「ついに人間は宇宙のはじまりを、神を持ち出さずにすべて理解した。もはや神は必要ない」と考えることは、それこそ思考停止なのではないでしょうか。どこまでいっても、宇宙をすべて理解した、と言いきることは決してできないはずだからです。(中略)「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。

(以上、引用)p262~263 

ちなみに三田さんは、「科学法則の創造者を『神』と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在するということだ、と考える」のだそうです(p259)。

以上の、竹内さんや三田さんのような考え方は、キリスト教に対して世界観的関心からアプローチするタイプの人々にはうけるだろう。世界観的関心は、聖書に対しては創世記の創造物語を宇宙誕生の仮説のように取り扱うが、そもそも聖書の諸文書は神話についてもそういう意図で書かれてはいないらしい。いちいち一般的に説明する必要などない実存的(とは言っても個人主義的というより共同体主義的)な意図で書かれているようだ。特にイスラエル史においてはバビロン捕囚という亡国の出来事がその必要性を民に与えている。民は自分たち民族というか共同体のアイデンティティーを取り戻すために創造物語を語り継いだのである。

したがって聖書の基本は自分たち共同体の中での客観性でよいのであり(つまり律法という同じ基準にもとづいてヤハウェという神を拝するという拝一神教)、他の民族ないしは一般世界に対して自分たちの宗教を説明し、理解させる必要はなかった。それが必要になってくるのは、世界宗教へと発展してゆくキリスト教イスラム教の時代であろう。その場合でも実存的に宣教がなされたわけで、世界観的説明ではなかった。実存的信仰に立たずに、ただ人集め、洗脳のために特に若者を惹きつける世界観的布教をやり出すのが新興宗教であり、現代で言えば宗教の皮を着た反社会的集団の「統一協会」に代表される。

ところで私が愛読する「コーヘレト書」の著者は、有賀鐵太郎氏が「一種の実存主義者と呼ぶべきであろう」と述べているように、読者をしてニヒリストというより実存主義者を思わしめる。

「コーヘレト哲学」(~有賀鐵太郎)抜粋 ① | コーヘレト的生活

実存主義キリスト教の先駆者ともいえるキルケゴールの場合、制度的組織としての教会からは自由であり、すなわちカトリックプロテスタント保守の教会主義を批判して、単独者として対神関係を生きるという信仰的立場を表明したことは画期的であり共感する人が多い。

「彼はルター派の教え(それは教会の神父が語っている事であるが)に盲従するのではなく、自分自身が一人の個別的存在として神に向き合い、神の指示に直接従うことが眼目だとするのである。信仰とは教会の問題ではなく、個人の問題である。個人が直接神と向き合い、そこから己の生き方についての指針を受け取る。これが真の信仰者の生き方である。」

キルケゴールをどう読むか:とくに日本人として

しかし教会組織を批判してもキリスト教そのものは批判しきれていない。伝統的教義を基本的に受け入れている。キリスト論などはカルケドン信条の神人両性一人格そのままだ。つまりコーヘレト的信仰とは全く異なるのは、その個人主義的対神関係が、神人キリストを媒介するのでキリストの行き方に倣うという倫理的神秘主義に近づく点だ。

「要するに、キルケゴールにとっては、絶対他者はあくまで自己に対して超越的であったが、西田にとっては、それは自己の内なる根底であった。絶対他者は同時に絶対自者であり、それゆえ自己は絶対他者の創造的契機であるのである。」(~小坂国継氏のレポート「逆対応とパラドックス   ― 西田幾多郎キルケゴールにおける信仰の論理 ―」)

この点では、禅的神秘主義者の西田よりはキルケゴールの方がよいが、『キリスト教の修練』の神人論については、西田から共感されてしまっている。

「西田は、人間は自己自身に対する関係であると同時に自己を措定した者に対する関係であるというキルケゴールの規定のうちに、上述したような、人間と神との関係におけるパラドックスを見た。人間の働くところ、そこに神の働きがあり、人間の作用のあるところ、そこに神からの逆作用がある。それは、人間の働きが個物的になればなるほどそうなのであって、人間は自己の行為の個物化の先端において神の逆作用に出合うのである。ところで、この『逆作用』という概念は、従来西田が用いていた『逆限定』という概念に相当すると思われるが、それはやがてさらに『逆対応』という概念に発展していく。しかし逆限定といい、逆作用といい、また逆対応というも、その根本の趣旨は同一である。自己の働くところ、そこに逆方向からの世界の働きがあり、この自己の働きと世界の働きは表裏一体、同体不二である。かような考えは、神を絶対無とし、そして自己と世界は絶対無の場所の等根源的で異方向的な二つの契機であるとみなすことによってはじめて成立する。(中略)神人には同時性の局面が属している。これほどパラドックスなことはない。人はこの信仰に躓く。『神人は矛盾の符号である』(中略)『神人は絶対的に背理である』(中略)結局、真の躓きとは、キリストに対する、あるいは自分自身がキリスト者として生きることに対する人格的態度の問題であるとし、『この地上におけるキリストの生涯が範例である。すべてのキリスト者と同様、私も自分の生活がキリストの生き方に似るよう努めなければならない。(中略)かくしてキリストは実に同時性という状況における範例なのだ』(中略)西田はこのようなキルケゴールの神人論に心から同意する。そしてこの神人のパラドックスが我々の行為の根本原理であるといっている。」(~同上)

このように、キルケゴールは教会組織の信条のキリスト論を批判することなく、それを背理であると言いながら受け入れてゆく。私はそのような実存主義なら拒否したいと思う。実存という以上、伝統にとらわれてはならない。教会組織がでっちあげたものだからこそ背理になったという可能性もあるのだから、そのような無用な既成事実をそのまま承認するのではなく、自分が聖書に合わないと思う教義などは否定して然り。背理でも伝統だから躓きとかなんだとか言いながらも受け入れてゆくというような実存主義なら意味は無い。コヘレト的実存主義的信仰の立場はそのようなものではない。

「コーヘレトの神は自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である。その神の意志や計画を人間はその知性を以てしても又その道徳的規範に照らしてみても測り知ることはできない。しかしながら、その知られざる神、交通不可能な神が実在するということは、これほど確実なことはかれにとって無いのである。コーヘレトは神をただ天上高きところに祭り上げているのではない。むしろ、かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない。」

「コーヘレト哲学」(~有賀鐵太郎)抜粋 ④ | コーヘレト的生活

超短編小説会

そしてコーヘレトに「不可知論」はあるにしても(それは神の業、神の摂理に関してであって、「神」それ自体は聖書を介する啓示により限定的に知らされている。それは本来、被造物には不可知なる超越・絶対・無限者としての「神」の自己限定である。あとは「特別啓示」だの「自然啓示」だのについての「解釈」とか「理解」の違いにすぎない。)、だからと言っていわゆる「聖定論」と矛盾する意味での「非決定論」者であるかどうかは疑問です。この点、小友聡氏の見解とは異なります。そもそも小友氏が「決定論」を「物事がすべて神によって決定づけられ、終わりの時も決定しているということ」(『「コヘレトの言葉」を学ぶ』〔鳥居坂教会文庫11〕p18)だと定義していること自体に問題があり、「予定」および「聖定」の教理をどう理解しているかにも関係してきますが、それはともかく、コーヘレトが将来のことを「わからない」と、つまり不可知であると述べているのは神の決定を否定しているわけではなく、むしろ「『時』は神様が決定し、神様が支配するものだということ」(上掲書p14)なのだから、神は万事を定めておられるが、人間の認識は不可知なことが多いという意味だと思います。すくなくともそのように解釈する方が全体的に見て適当だと思います。その「不可知」というところに神の秘義が認められています。これは教会組織が教義を神秘だの秘義だのと言って正当化してきた用法とは違います。そもそも私は東神大で教授をしているような人の注解など参考にしたくはないのだが、コーヘレト書に関しては小友氏も日本では専門家の一人のようであるから、いちおう小冊子だけでも目を通してみたのだが、このザマである。

 

ところで、私が昔から嫌悪する新約聖書学者の田川建三氏は、「神なんぞ存在しないと言い切る方がクリスチャンらしいじゃないですか。」云々と述べていますが(田川建三ほか著『はじめて読む聖書』〔新潮新書〕p107)、そのロジックを私なりに要約すると、大体、次の三段論法で表わされると思います。

(1)「旧約聖書では神の像を刻んで礼拝してはならないと言われている。」→ (2)「神を考えることは自分で神の像を刻むことだ。」→ (3)「聖書の教えを信じるなら神を考える必要はない。」……私見では(1)から(2)があまりに飛躍し過ぎているし、(2)から(3)はあまりに短絡的過ぎます。なぜなら、我々一般信者は自分勝手に「神」を想像しているわけではなく、「聖書(のみ)」という(宗教改革の形式原理と言われるが自分にとっては)規制原理に基づいているからです。

すなわち、聖書を通して「神の啓示」というものを聖霊によって認識し、その認識の範囲内で「神」について思考しているのであり、啓示を超えた事柄については「聖なる無知を告白」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解 上巻』)するのです。

ですから一般信者が聖書から示された「神」について考えたり語ったりすることを偶像崇拝に直結させるのは浅慮としか思えないので、「神とはそれぞれの人間が勝手にでっちあげるイメージです。それだったらむしろ、神なんぞ存在しないと言い切る方がクリスチャンらしいじゃないですか。」(田川氏前掲書p107)などという屁理屈には全く同意できません。

この人も自慢げに子どもの時から姉に連れられて教会に通った旨を述べていますが、教会通いと信仰の有無も直結しません。問題はその人が対神関係を生得的に与えられているか否かであり、否の人はいくら教会に通ったところで信仰は与えられていないのです。

但し、客観的には凶悪犯罪者であれ誰であれ、対神関係を得ていないとは断定できないわけで、田川氏の場合は表面的には誰が見ても不信仰的ではあるが、一部、神に対する感謝のような表現があるにはあります。

一方では「神は存在しない」などと公言していながら、一方ではそういうものも出してくる・・・だからこそ無責任で不誠実な人、いくら博士かなんかの学位を自慢したところで人格的には決して尊敬に値しない人物であるとの感が私の中でますます深まりました。

そもそも自分の著書に先輩である荒井献氏や八木誠一氏への悪口を書いているのを見るだけで、田川氏の人間性について一定の印象を持ったのであり、それは多くの読者が共感することでしょう。逆に田川氏から盗用しているかのようなことまで言われても冷静な対応をなさってこられた荒井氏の人格の方が尊敬に値します。八木氏も荒井氏と同様、一介の読者の問いにも誠実に返答して下さり、私は深く尊敬してきました。

とにかく普通、対神関係にある人々は口が裂けても「神は存在しない」などと公言することは恐れ多くてできません。「神」の存在を否定することは「神」を冒涜することを意味するからです。実際には、「神は存在しないと考えているキリスト教徒」など成り立たないでしょう。世間の未だ信仰の恵みに与っていない人々にも、そういう「キリスト教徒」なんて意味不明で認知されず通用しません。このような人が新約聖書を全訳したからって、一体どんな人が何のために読むのでしょうか?いっそのこと『「神は存在しないと考えているキリスト教徒」のための聖書』とでも題して売り出したらどうでしょう(笑)

・・・ということで、田川氏については読者は推して知るべしです。但し、下記の「おまけ」に限っては共感する部分はあります。

「おまけにかつて地上に生きていたイエスと結びつけなきゃならない。それは無理です。しかし彼らはそこをつなげて、イエス・キリストは神である。神の子であるなら、キリストも神だ。しかしそうすると神様が二人になってしまって困るから、屁理屈を弄して、三位一体ということにしよう・・・。そうなると出発点の、なぜ自分たちが神を考える必要があったのか、というところが消しとんでしまう。」(前掲書p109)

前述のとおり「屁理屈」は田川氏自身にも言えることですが、それに輪をかけるくらいひどいのがキリスト教会の「三位一体」に象徴されるドグマだというわけです。

さてここでは「必要」という言葉が出ています。神学的営みは、自分たちの存在根拠への問いから始まっているということです。その存在根拠、我々を世界内存在として生かしている本源者を言い表す必要から「神」観念が生まれたということでしょう。しかし「神」を語るのは神話を世界観としていた昔のことであって現代ではその必要はない・・・人類が、自分たちを取り囲んでいる自然こそ自分たちを生かしているものだと気づいた以上は、「ここからまた神に行くかどうかは、もはやどうでもいい。行く必要なぞありません。」(同上)というわけです。「神」との関係を「必要」なしとした時点で、その人が存在根拠とするものは偶像化するのです。十戒が禁じている偶像崇拝というのは、対神関係の必要性の否定なのです。人間は弱いものであり、何かに依拠せずして生きることはできません。ですから創造主なる「神」の実在を否定したら、富や名誉(…田川氏の場合は学位?)など「神」以外に何らかの絶対的権威を必要とするのです。それが偶像です。「必要は信仰の母」とは斯様な意味で言えると思うのです。

そしてここで私が問題に感じることは、「神」観念を軽視することによってキリスト教がますます「イエス・キリスト」中心主義的傾向を強めるということです。

ついでにこの田川氏の「マカリオイ・ホイ・プトーコイ」(幸いなるかな、貧しき者)の解釈ですが、並行箇所であるマタイの「心の」を付けた「貧しい者」は頭から否定的に処理されているのはどうかと思うのです。マルコ偏重と言われてもおかしくない。もっと言えば「霊の次元」の無視です。我々の生の現実は「肉」と「霊」との(二元論ではなく)二重性においてある、というのが聖書的現実認識だと思うので、これでは田川氏は新約聖書学者を名乗るのはどうかなと思います。そのイエス観は「逆説的反抗者」というわけですが、「逆説(的)」というのも便利な論理で、時には悪用されることもあるわけで、田川氏の場合すべてがそうだとは思いません、後述の「愛敵の教え」などは誰が考えたって現実には逆説的にしか解し得ないことであり、田川氏はそれを正直に発言しているからです。わかっていても正直に言えない人の方が聖書学者と称する人々には多いでしょう。ただ、聖書学者であるなら、この「幸いなるかな、貧しき者」の教えに関してはマタイがあえて「トゥー・プニューマティ」(「心の」と訳すより「霊において」)を付け加えた意義も認めるべきだと思うのです。これを否定したのでは「霊の次元」を信じていないということになります。ここで「心の」と付いた貧しさは、「君は心が貧しい人だね」と悪く言う場合の意味で言われているわけではないのに、それを教会の説教でも同様に解説されているのは「霊において」と訳さないことによる誤解でしょう。マタイの言い方なら逆説ではなく、そのまま受け取ることができます。「貧しい」ということは対人関係では否定的な意味でも、対神関係では肯定的な意味になるからです。すなわち貧しくされるとは謙虚にされるということです。自分と優劣を比較し合う対象になる相対的な存在(=人間)との関係では謙虚にはなれない場合でも、自分など比べものにならない絶対的な存在(=神)との関係では謙虚になるしかないのです。そこから他者への「許容」ということも出てくるのです。但し、あくまで「霊」的にです。「霊において」貧しいとはどういう意味か?それは読み手・聴き手自らが「霊」という在り方でこそわかることです。「肉」という在り方ではなかなか気づけないことなのです。それは自分が「神」との関係なしにはこの世界に存在し得ないという原事実であり、対神関係の先行的恩寵の幸いです。イエスの言葉は、聴き手自身が霊において在るのでなければ理解できません。肉において在る人々にとっては躓きの言葉でしかないのです。

それはともかく、神学では「歴史」という概念をいい加減に都合よく使う傾向がありますが、公教育で学ぶ実証的な「歴史」においては、聖書は「非神話化」により解釈されて然りです。その結果、聖書が証しする「イエス・キリスト」は「神」でもなければ「神的存在」でもなく「ただの人」ということになります。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:5)

「キリスト(=メシア)」という称号で呼ばれたイエスという人物は、本質的には我々と何ら変わるところがない人間ですが、ユダヤ教改革者として偉大な人物でした。では彼が信仰した「神」とはHatena?

その「神」は、第三イザヤで普遍的な存在になりますが、そもそもはモーセがミディアンの地で出会った現地の部族の「神」であり、ひいてはイスラエルの民族神です。すなわち特殊な存在なのです。だから、真の「神」は、その特殊な固有名を持つ「ヤハウェ」にご自身を対象化し、さらには「イエス・キリストの父」として啓示なさった、それは絶対者なる「神」の「自己限定」です。この点については当ブログの「聖書が示す「神」に体はあるか? 」の始めの方を御覧ください。

 ※ヤハウェの「ミディアン人起源説」(=「ミディアン人仮説」)

先に聖書は、我々が「神」について考えたり語ったりする・・・つまり神学的営みをする上での規制原理だと言いました。それはそうなのですが、これを所謂「紙の教皇」のようにすることは誤りだと思います。聖書は「神」の存在や意志を知るための究極ではあるが相対的な参考資料にすぎず、これを教典として絶対的に権威付け、そこに書かれていることを文字通り歴史的事実と主張することは聖書の主旨に反します。自分は聖書をそこまで(いっさい批判できない書としての)「聖なる書」とは認めておりません。

さて、そこで我々にとって「神」とは何ぞや?ということですが、現代においては上からの啓示というだけでは済みません。むしろ人間にとって「必要とされる神」のみが「生ける神」として信仰対象になるのでしょう。

そこで旧約聖書学者の並木浩一氏の言葉を引用します。

(以下、引用)

人の顔を上げて下さる神
このように、神のみ顔がわたしたち人間に向けられるということは、神自らがわたしたちの重荷を担われることであります。この理解に立って、詩篇四二篇をもう一度読み直してみましょう。詩人は苦しみの中で、自分の魂に呼びかけました。「汝神を待ち望め、我にみ顔の助けありて」と、神を賛美しています。神のみ顔がわたしに向けられることは、わたしが助け出されることです。神の真実がわたしたちに注がれることです。
神の顔がわたしたちに向けられるときに、わたしたちはうつむいていてよいのでしょうか。この詩人のように、わたしたちも自分の顔を神に向けなければなりません。わたしたち人間は、神様によってわたしたちの顔が上げられなければ、神に自分の顔を向けることができません。わたしたちは信仰が揺さぶられるとき、うなだれてしまいます。しかし神がわたしたちの顔を上げて下さいます。そして神がわたしたちに応えて下さるのです。(p86~99)


(以下、引用)※赤色と濃色は管理人。
わたしは自分は実存的だと思っていますが、実存的であるかないかは実は決定的なことではないのです。自分は神を信ずるとか、祈るとか言っても、自分を信じていたり、自分に祈ったりしていることがあるのです。その人にとっていかなる神であるかが問題なのです。わたしにとっては、神が人格神であるかどうかが問題です。人格神は、応答する神、ということで、具体的に言ってしまえば、裁きと赦しを与えることのできる神です。(中略) 次にわたしがなぜ人格神を信ずるのか、その実存的な理由を四点述べてみたいと思います。
第一は、死の恐れの克服の問題です。死んだら宇宙の大生命に帰るのだとか、死んで自分の仕事を後世に残すんだとか、魂は不滅だとかいうのでは、わたしは死の恐れを克服できません。わたしは自分が死ぬということを、死んでから後のこと、たとえば残していく人たちのことを委ねることのできる方を必要とします
第二は、赦しと愛の完成の問題です。わたしは、他者を傷つけてしまったことへの赦しを乞うことのできる方の存在を欲します。(中略)わたしには、この罪を赦して下さる方が必要なのです。罪を赦す神、愛の神をわたしは待ち望みます。この神なしにはわたしは世を去れないと思いますし、また終末への望みもありません。
第三は、礼拝の喜びです。(中略)そのような神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。人間的関わりや重荷や罪から解放されることを共に喜ぶこと。これがわたしにとっての礼拝の意味です。慰め主であり、賛美をゆるされる方をわたしは必要とします
第四に、わたしたちが破れを繕う者となるという望みを懐きます。慰められた者は、慰める者として傷を受けている人々に向かうことができます。人は慰められた者としてしか、慰めることはできません。まず慰める者が慰めを必要とするのです。慰めを受けて力づけられるのです。そして傷を負っている人々に向かうことができます。このようなことをなされる神をわたしたちは必要とします。(p159~161)

以上のように、並木氏にとっての「人格神」とは、私見では要するに「必要とされる神=要請される神」なのです。ただしその「必要」の内容はかならずしも一般大衆向けとは言えません。「必要」とする具体的な内容については各人が実存的に問い求め、多様性の中に霊的一致があればよいのです。

並木氏の神論では上記の引用の「第二」で「・・・欲します」との表現もあるとおり、この「神」は「人々の欲求」と無縁ではありえず、その意味では「擬人神」とか「偶像」としての側面がありますが、そこで上記の「転回」が体験されてこそ宗教としてのリアリティーを認め得るのです。それは信徒の生活において(実践的とは言えないとしても)実際的、実存的な神観です。クリスチャンの「偶像」神観批判には、イスラム原理主義者ほどではないにせよ厳格すぎる面があると思います。
「実践的」というのが倫理・道徳的行為に直結することであるとすれば、私はそれより現代人の多くにとって、死後の恐れや自尊心負傷や社会福祉不公正感などの解消・・・すなわち、精神的ひいては霊魂的な平安に直結するという意味での・・・「実用的」と言うか「実際的」で「実存的」な神観が要請されると思うのです。その点では並木氏の考えからは少し離れてしまうかも知れませんが、現世の肉体的次元の事柄だけなら、現代人の、少なくとも大衆の多くは、(天地創造主としての)「神」の存在などは必要としない・・・要請しないでしょう。
「民衆の宗教」(=「大乗教」)であってこそ真の宗教なり!との確信にもとづいて言えば、聖書の宗教にあっては人生問題への対応、特に現実社会では対人関係での諸々の不満が解消される方向性が示されなければ、その宗教は空理空論にすぎず、心理学にも劣ることになり、実生活に関わり得る宗教とは言えません。ストレスで傷ついた心を癒し励まし活力を与える力の源は各人の対神関係であり、その場に帰るための導きが聖書宗教に求められます。

こうして見てきますと、現代において聖書が示す「創造主としての神」というのは、同じく「いる」か否かを問うにしても、存在するという意味の「居(い)る」か否かを論じるべき対象ではなく、必要とするかの「要(い)る」か否かを論じるべき対象なのです。「神」は、「居(い)るか」ではなく「要(い)るか」が問われるべき存在です!
人間が「神」について「要(い)る」を選択することにより、論理のコペルニクス的転回が起こって、「神」が「居(い)る」から人間がそれを望み得るのだ・・・ということになり、「居(い)る」が「要(い)る」に先行するのです(私語としての「『神』の逆転先行の論理」)。

ここで参考までに量義治氏の言葉も引用しておきます。

「神は実在するかしないか。有神論か無神論か。この二律背反は哲学的には解決できない。すなわち、思弁的にも実践的にも解決できない。いかにもカントは、有神論の正しさは思弁的には論証できないが、実践的には論証できることを示したかのように思われるが、けっしてそうではない。『 神います』というのは、人間カントの哲学以前の信仰であり、その哲学はこの信仰をロゴス化しているにすぎないのである。フォイエルバッハ無神論もその哲学的探究の結果ではなくて、前提なのである。いずれにせよ、己自身で決断しなければならない。いずれかに賭けなければならない。」(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p172)

フォイエルバッハと言えば「投影論」によるキリスト教批判ですが、カレン・アームストロング著『神の歴史( A HISTORY OF GOD ) 』(柏書房では、「…投影は神をわれわれ自身のイメージに従って、われわれに似せて神を創造することにつながるであろう。」(268頁)と否定的に言われている一方で、「すべての宗教は、何らかの擬人法をもって始められるに違いない。人間から完全に離れている神――例えばアリストテレスの『動かされざる動かし手』――は、霊的な探求に霊感を与えることはできない。この投影が自己目的とならないかぎり、それは有益であり健全でありうる。ここで言及しておくべきことであるが、神をこのように人間的な言葉で想像して描くことが、ヒンドゥー教のなかには見られない社会的関心を呼び起こしたということである。三つの『神の宗教』すべてが、アモスやイザヤの平等主義的な社会的倫理を共有しているのである。ユダヤ教徒たちは古代世界において福祉制度を打ち立てた最初の者になったのであるが、これらは彼らの異教の隣人たちの賞賛するところとなったのである。」(75頁)と、要は「擬人法」であれ「投影」であれ、人格神観は聖書においては必ずしも否定されるべきこととはみなされず、むしろユダヤキリスト教ないしは一神教においては社会倫理につながる実践的意義を持っていることが示されています。ちなみに前掲の佐藤優氏と竹内久美子氏の対談本では、佐藤氏が「人間が自分の力を超えるものに対して想定する神は、人間や願望や畏れの気持ちが投影された、いわば偶像ですよね。そういう神は、キリスト教神学でいう『神』ではないんですよ。にもかかわらず、いつの時代もそんな神が登場してくるために、そうした神という名の偶像をいかに排除するかが神学的な課題なんです。世の中の人が考える神と、神学的な訓練を受けた人が考える神は全然違う。だから、竹内さんやドーキンスさんのように『そういう神は妄想でしょ』と言われれば、『はい、その通りです』というしかないわけです。」と述べています(p87)。ここで特に注意すべき点は、「世の中の人が考える神と、神学的な訓練を受けた人が考える神は全然違う」ということ。私の場合は基本的に伝統的な人格神観でありますが、しいて言えば「世の中の人」と「神学的な訓練を受けた人」との中間に位置すると思うので、たとえばyahoo!知恵袋の宗教カテに投稿する一般人の質問によく見られるような、余りにも擬人化してイメージされた神の観方とは異なりますが、さりとて佐藤氏が言う「外部」だの「縁」だのといった抽象化にとどまる神の観方とも異なります。但し、聖書が示す「神」に関しては「信仰心」が与えられていなければいくら論じたところで納得することはできず、その意味では「縁なき衆生は度し難し」といったことがキリスト教にも言えるのではないか、そういう意味の「縁」ならわかる気はします。なにせ「選民」の宗教ですからね。イエス自身、聞く耳がある者に向かって語ったわけで…。

それはともかく、そもそもフォイエルバッハは以下のとおり「人格神」を認めています。但し、そこにとどまらなかったのです。

「神は人格である、しかし神は人格より多くのもの、人格よりも無限に多くのものでもある。神は純粋な愛 die lautere Liebe である人格である。(略)ここでいわれる、『神は人格よりも多くのものである』という論旨を支えているのは、スピノザ的な『ヘン・カイ・パーン』である。この『パーン(全)』が、❝alles❞を、神自体は❝das All❞を指すと考えられる。精神の活動としての『人格』をフォイエルバッハは否定してはいない。むしろ、肯定している。ただし、背景として『ひとつの場』がなくてはならないと述べている点に、ヘーゲルとは異なる見方が示唆されている。(中略)汎神論のまなざしで世界を見るフォイエルバッハにしてみれば、神の『人格』というのはペルソナ(仮面)にすぎず、その仮面の背後にある『愛の遍在』のほうがより本質的なのである。『神は愛する』よりも『神は愛である』のほうが適切とされるのも、前者が『人格』に縛られた見方であるのに対し、後者は『神の人格性を超出している』(中略)、つまり人格にとらわれずに愛そのものをとらえている、と考えられるからである。」(~川本隆氏の論文「超越から内在へ 若きフォイエルバッハは神をどのように解読したか?」)

佐藤優氏は前掲書の終わりの方で、「フォイエルバッハが言うように、神学の秘密は人間学なんです。神が人間をつくったんじゃなくて、人間が神をつくった。だから人間の側からしか神について語れない以上、裏返して、人間学を高めて神学にしていくしかない。」などと豪語しています(p253)。「人間が神をつくった」などとマジで言うようなことでは、いかに神学を修めたとは言え宣教に結び付く神学は語り得ないだろうと思います。創造信仰は宣教の根本ですからね。

ちなみに、そんな佐藤氏だからこそでしょうか、この佐藤氏と竹内氏との対談本では、佐藤氏が面白いエピソードを紹介してくれています。たとえば現代の有名な神学者であるパウルティリッヒについてですが、ティリッヒがドイツからアメリカに亡命して来た裏事情として、奥さんの不倫による妊娠や、ティリッヒ自身の実妹への性欲が挙げられ、ティリッヒの趣味がポルノ本の蒐集だの女子学生に卑猥な働きかけをしただのと言われています。また、古代の、これまた有名も有名な神学者であるオリゲネスが異端宣告された裏事情として、性欲を抑えきれずに自分の睾丸を抜いたということが語られています。カトリック教会は睾丸を持ちながら性欲を克服すべきと批難したようですが、さもありなんと感じます。

一方、対談相手の竹内氏も欲求不満かと思われるほど、オルガスムスがどうの、ペニスがどうのと、かなり語っておられ、睾丸については特にくわしく人種別のサイズ比較など述べていますが、上記の点に関しては「去勢してても欲望はあるんですよね。カストラート(去勢された男性オペラ歌手)もそうで、タマタマを取ってもモノは役に立つ」とのこと(p236)。オリゲネスはせっかくタマタマを取ったのに性欲から解放されることはなかったのでしょうかね。それにしても、「…神は本当に存在するのですか?」と問うているタイトルの本の内容が、あまりに下半身というか局部というか、性的な生々しい話になっているというのは興味深いことではあります。

話は救済論へと変わりますが、宗教でも救われない人間がいるとすれば、それはいわゆる暴力団に代表される反・社会的組織の人間です。所謂チンピラを含みます。

前述の対神関係の話と若干矛盾するようですが、こういう連中はたとい罪を悔いても改めることはないだろうから救われ難し。それくらい厳しく見たほうがよいと思います。たとえば、電話や訪問などで、汚い言葉を口にして他人を威嚇したり脅す行為は赦されざる罪です。この罪は性犯罪などと同じく、キリストによっても贖われるなどと甘いことは望み得ません。

一般人でもやくざの言い方を真似て公共機関などにクレームをつける者がおりますが、そういうことを反省もなしに繰り返す者は地獄行きだと確信しています。そのくらい厳しく扱うべきだという意味です。そう、イエス・キリストは一般に思われているほど、甘い存在ではないです。

ちなみに、イエスの愛敵の教え、すなわち「汝の敵を愛せ」という言葉については前掲の佐藤、竹内両先生の対談本でも「隣人」関係の範囲に関してなど論じられており参考になりますが、一般の解釈ではこれが弟子たちひいては我々信者への命令であるとは必ずしも言えないといった事情があるようです。

この点は田川氏の「逆説」にも一理ありそうです。 

「民衆の宗教」という観点からは、現代の「肉的次元」においても神話的表現がなされることは仕方がないとは思います。すなわち、イエスが神的存在のようにイメージされることは必ずしも否定すべきこととは思いません。しかし、それも(なんでもそうですが・・・)程度問題です!その点で聖書の読み方については、私は「社会派」はもちろんのこと「福音派」とも立場を異にします。

 

(参考資料)赤色は管理人。

 以下は、山我哲雄著『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩書房)の第3章「ヤハウェという神」の「ヤハウェという神名」(p100~)より引用。
アラビア語などの他のセム系言語でもそうであるが、ヘブライ語では元来は子音字しか書かなかった。なぜそれで読んだり理解したりするのに問題が生じないかというと、日本語の漢字の多い文章も振り仮名なしで読めるのと同様に、読み慣れさえすればさして支障は生じないのである。ただし、固有名詞の場合には、漢字文でもしばしばそうはいかない(「吉川」は「よしかわ」なのか「きっかわ」なのか)。ヘブライ語の場合も同様である。イスラエルの神の名前(固有名詞)は、YHWHに当たるヘブライ文字四字で表された(一〇三ページの表の④)。この神名は、古い時代には、祭儀などの際に高らかに唱えられたらしい(出三15、三四5-7等)のだが、十戒(本書二七八ー九ページ参照)の第三戒(出二〇7)に神の名を「みだりに」唱えてはならないとされていることなどから、時代が進むとユダヤ人の間で次第に神の名の発音が敬遠されるようになり、聖書の朗読などに際してはこの「神聖四字」を「わが主」を意味する「アドナイ」の語や「御名(シェム)」の語で読み替えるようになった。そのような習慣が二〇〇〇年以上も続いたため、この神名の元来の発音がユダヤ人自身にも分からなくなってしまったのである。現代の研究では、母音字を伴うギリシア語文書などの表記により、元来の発音がほぼ「Yahweh」、カタカナで書けば「ヤハウェ」ないし「ヤーウェ」であったと復元されている。なお、文語訳などで用いられた「エホバ」の語は、元来の発音が不明であったころ、YHWHの子音字にその読み替えである「アドナイ」の母音(a,o,a)を無理やり当てはめた「イェホヴァ」に由来し(ヘブライ語の音韻規則上、最初の母音「ア」は「Y」音の後ろでは短い「ェ」に変わる)、現在では一般的には用いられていない(キリスト教の一派にはこの表記に固執するところもあるが)。神の固有名詞を発音しないこのユダヤ教の伝統は、後にキリスト教にも取り入れられ、聖書を翻訳する際にも、神聖四字は「主」に当たる語(ギリシア語では「キュリオス」、ラテン語では「ドミヌス」、英語では「ロード(Lord)」)で訳されるようになった。日本で現在、よく用いられている「新共同訳」でも、神聖四字が地名の一部をなしている一箇所(創二二14の「ヤーウェ・イルェ」)を除外として、神聖四字は「主」の語で訳してある。名詞には通常、何らかの意味がある。例えば「アマテラス」という神名は、「天を照らす」という、この女神の太陽神としての特性を表している。ところが、「ヤハウェ」という神名の意味や語源については数多くの仮説があるが、定説はないというのが最も適切であろう。そもそも「ヤハウェ」という語はヘブライ語からはうまく説明できず、おそらくはヘブライ語起源ではない。一部の研究者はそれを古いアラビア語の「吹く」という動詞と関連させ、この神がもともと嵐の神であったことの名残であると論じ、別の学者はそれを古代シリア語の「落とす」という動詞と結び付け、この神はもともと「雷神」であったと主張するが、学識ある思いつき以上のものとはいえない。ただし、旧約聖書にはただ一箇所、この「ヤハウェ」という神名をヘブライ語から説明しているように読める箇所がある。それは、モーセが初めてヤハウェに出会い、イスラエルをエジプトから救い出すように命じられる、いわゆる「モーセの召命」の場面(出三章)に含まれる。(中略)新共同訳が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と訳した原文は「エヒイェ・アシェル・エヒイェ(略)」で、「ある」の一人称の形「エヒイェ」が二つ、関係代名詞「アシェル」で結ばれている。英語に訳せば、そのまま「I am who I am.」となる。未完了という動詞の形は一般に、過去の一回的な行為や出来事ではなく、現在起こりつつある出来事や未来の行為を表すので、「I will be who I will be.」と訳す場合もある。最初の動詞を本質規定、二番目の動詞を存在規定と解して直訳すれば、「わたしは、『わたしは存在する』という者である」ないし「わたしは、『わたしは存在するだろう』ところの者であるだろう」となろう。いずれにせよ、謎めいていて神秘的な表現であることは確かである。それでは、この「ヤハウェ」という神は、いつ頃からイスラエルで崇拝されるようになったのであろうか。この問題を考える際の一つの手がかりとなるのが、人名である。古代のセム系の人々は、子供に名づけをする際に自分の崇拝する神の名を織り込むことが多かった。(中略)イスラエル人やユダヤ人の名前には、「ヤ」や「ヨ」で始まったり、「ヤ」で終わるものが多いが、そのほとんどは「ヤハウエ」の名の要素を含んだものなのである。(中略)ところで、興味深い現象がある。実は、創世記でイスラエルの祖先とされるアブラハム、イサク、ヤコブはもちろんのこと、イスラエル一二部族の祖先とされるヤコブの息子たちの中にも、ヤハウェの名の要素を含んだ人名(以下では「ヤハウェ系人名」とする)を持った者は一人もいないのである。それどころか、そもそも創世記にはヤハウェ系人名は一つも出てこない。(中略)何よりもまず、イスラエルの前史の早い段階では、ヤハウェという神がまだ知られていなかったということを示唆する。(中略)それでは、旧約聖書に登場する人物で、はっきりしたヤハウェ系の人名を持つ最初の人物は誰であろうか。実はそれが、モーセの後継者でありカナン制服の指揮官でもあったヨシュアなのである(名前の意味は前述のように、「ヤハウェは救い」)。この「符号」は、極めて意味深長である。(中略)ある伝承によれば、彼のもとの名前はヨシュアではなく、ホシェアであった(民一三16)。ことによるとヨシュアは、ヤハウェ崇拝への最初の「改宗者」の一人であったのだろうか。(中略)もし、一方では王国時代のヤハウェ崇拝が圧倒的に優勢で、他方でそれ以前の最初期のイスラエルヤハウェという神が知られていなかったとすれば、ヤハウェ信仰以前にこのイスラエルはどんな神を崇拝していたのであろうか。それを考える際のヒントも、「イスラエル」という名自体にある。(中略)ヤハウェ信仰以前にイスラエルでエルという神が崇拝されていたことは、ここでもまた人名研究によって裏付けられる。(中略)王国時代以前にはヤハウエ系の人名が少なく、王国時代になるとヤハウェの名が圧倒的に多くなる。(中略)王国成立時代まで見てみると、ヤハウェ系よりもエル系の方が三倍近くも多いことが分かった(中略)少なくともイスラエルの初期の時代には、エルの崇拝が優勢であった。(中略)いずれにせよ、このシケムの「エル・エロヘ・イスラエル」が、やがてヤハウェと同一視されてヤハウェ・エロヘ・イスラエル」(イスラエルの神、ヤハウェ)となったのである。(中略)このヤハウェとエルの同一視ないし習合に関連して、とりわけ興味深い場面が創世記一四章に見られる。「エル・エルヨーンの祭司」であったメルキゼデクは、明らかに自分自身の神によってアブラハムを祝福したのであるが、文脈上アブラハムは、その神を自分の神ヤハウェと同一視したことになる。ここには、おそらくダビデ時代以降、ヤハウェとエル・エルヨーンが同一視されていった経過が反映されている。「エル・エルヨーン」はイスラエル以前のエルサレムで祀られていた神であったと推測できる。その際に、エルとエルヨーンがもともと別の神格であった可能性もある(イザ一四14等参照)。その場合には、「エル・エルヨーン」はすでに「エル」と「エルヨーン」が習合したものだったということになろう(中略)ヤハウェはもともとパレスチナ南方の嵐の神であり、特定の集団に結び付いてこれを守り導く神であったが、それがやがてイスラエルの民族神、国家神となったと考えられる。これに対し、創世記一四章では「エル・エルヨーン」が「天地の造り主」と呼ばれている。(中略)ウガリトの神話でもエルは世界の創造神であった。「エル(・エルヨーン)」と習合し、同一視されることによって、ヤハウェはやがて創造神としての属性を身に受け、より普遍的な意味と性格を持った神として観念されていくことになったのであろう。>

 

山我氏は「ミディアン人の神? カイン人の神?」(p138~)で以下のとおり述べておられる。 ※赤色は管理人。

モーセの義父エトロは「ミディアン人の祭司」であったというが、どんな神に仕える祭司だったのであろうか。モーセ出エジプトに成功したことを聞いて、エトロは、モーセたちが滞在していた「神の山」に訪ねてくる。そこで犠牲をささげて祝宴が行われるが、その際に祭儀を司るのはモーセでもなく、イスラエルの祭司の祖先とされるその兄アロンでもなく、「ミディアン人の祭司」であるエトロなのである(出一八1-12)。この箇所では「神(エロヒーム)」の語が用いられているが(同12節)、犠性がヤハウェに捧げられたことは文脈上明白である。それゆえ、エトロはもともとヤハウェに仕える祭司だったのであり、ミディアン人の崇拝していた神ヤハウェが(モーセを介してかどうかは別として)イスラエルに伝えられた、という可能性を考えることができる。これは、ヤハウェのミディアン人起源説ないし単純化して「ミディアン人仮説」と呼ばれる。モーセの義父については、異伝も存在する。別の箇所では、この義父はミディアン人ではあるが、「レウエル」という名前になっている(出ニ18、民一〇29)。ただし、士師記一章16節、四章11節によれば、モーセの義父はケニ人ないしカイン人で、「ホバブ」という名であった。ケニ人ないしカイン人も、パレスチナから見て南方を活動地とする遊牧的な集団で、後のイスラエルとの関係は友好的な場合(サム上一五6)と敵対的な場合(民二四21-22)があり、複雑であった。前述の「デボラの戦い」でイスラエルに敗北したハツォルの将軍シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げ込んで、彼女に殺された(士四17-22)。彼女の英雄的な行為は、「デボラの歌」の中で最大級に絶賛されている(士五24-27)。アダムとエバの息子の一人として有名なカインは、おそらくこのカイン人の名祖(一族の名のもととなった祖先)である。周知のように、現在ある物語では、カインは弟アベルを殺した人類史上最初の殺人者として極めて否定的な人物として描かれているが(創四1-16)、他方で彼はヤハウェの加護を受け、そのために特別な「しるし」を与えられていたともされる(同15節)。そこで、一部の研究者は、カインないしカイン人こそ最初のヤハウェ崇拝者だったのであり、後にそのヤハウェ信仰をお株をイスラエル人に奪われたのではないか、と推測する。これが「カイン人仮説」ないし「ケニ人仮説」と呼ばれるものである。ミディアン人もカイン人も、パレスチナ南部から北西アラビアまでを活動領域とする未定着の遊牧民ないし牧畜民であり、似たような生活環境にあった。ことによると、彼らの間に何らかの直接的な関係(一方が他方の一氏族であったというような)があったのかもしれない。ヤハウェは、もともと、この地方のさまざまな遊牧集団が共通して崇める神だった可能性もあり、その中の一部が後に北上して「イスラエル」に加わり、ヤハウェという神の崇拝を伝えたということも考えられる。ヤハウェ出エジプトの神であったということと、ヤハウェパレスチナから見て南方の遊牧民、牧畜民に崇められていた地方的な神であったということは、相互に他を排除する仮定ではない。ここで考えておくべきは、実際にエジプトから脱出した集団は、おそらくは特定の閉鎖的な民族集団ではなく、エジプトで同じように奴隷的な生活を強いられていた、混成的な集団であったろうということである(出一二38)。多くは外国出身で、エジプト人としての正式の身分を持たず、建築活動などに従事していた下層階級の人々は、エジプトで「アピル」と呼ばれた。この語は音声学的には、青銅器時代の末期のカナンで不穏な動きをしていた「ハビル」(七五ページ)にほぼ対応し、「ヘブライ」という概念とも関連すると見られている。いずれにせよそれは、特定の民族集団に属さず、社会の下層にあって、通常の社会秩序の外で活動を行う――――あるいはそのような活動を強いられる――――人々を指す社会的な概念であった。出エジプト集団のうちに、もともとパレスチナ南部の牧畜民出身でエジプトに下り、そこで「アピル」になった人たちがおり、それが「出エジプト」に加わってエジプトを脱出した後、それを自分たちの伝来の神ヤハウェの救いの業と信じたという可能性が考えられてよい。たとえそうでなかったにせよ、出エジプト集団がエジプト脱出後、放浪を続けるうちにパレスチナ南部の荒野にいたヤハウェ崇拝者の牧羊民の集団と出会い、何らかの形でそれと合流し、統合したということがあったのかもしれない(民一〇29-32)。さまざまな可能性が考えられるが、それらを実証的に検証することはできない。前章の最初に記したように、牧羊民や遊牧民は碑文も考古学的痕跡も残さないからである。いずれにせよ、「イスラエル」では当初、ヤハウェという神が知られていなかったことは確かである。それが王国成立時代の前後に知られるようになると、それまでの「イスラエル」の中心的な神格であったエルと習合し、ヤハウェ系の人名の圧倒的な増加にも示されているように、この神の崇拝がイスラエルの中ですさまじい勢いで広がっていったのであろう。>(※「アピル」の「ピ」はPIで、「ハビル」は「ビ」はBI)

ちなみに、並木浩一氏は講義録の『創世記を読む』(ナザレン新書/2008年)の中で次のように述べておられる。※赤色は管理人。

「カナンでは、植物の枯死と復活を司る男神バアルが有力でした。神々の支配者は老いたエル神で、天上で神々を集めて会議を主催する。バアルはエルよりは身分は下ですが、神々の中では実力者でした。この神がイスラエル農民に親しまれていたのです。豊饒儀礼を伴うバアル神がヤハウェ信仰、宗教の中に入り込んだのです。イスラエルの人たちは基本的に農民でしたから。」(p78)

(参照)https://yahwist.jimdo.com/29/

聖書は万人救済説や転生説を認めているの?

結論から言えば、聖書に万人救済を読み込み得る箇所はあっても、輪廻転生を読み込み得る箇所はありません。それでも無理に無理して読み込んでいる神学者のひとりが野呂芳男氏です。

神学的には以前としてバルトやモルトマンなど、民衆の視点が極めて弱い、その意味で面白みに欠ける神学がメインの日本基督教団の中でも、とてもユニークというか異端的でさえあると思って私が関心を持っていた牧師兼神学者が野呂氏ですが、かつて私は書簡を通して個人的に学びを得たことがあります。そのことが野呂氏のエッセイ論文の中で紹介されているので、以下、引用します。改行箇所は詰めて、特に注意すべき部分を赤くしました。

(以下、引用)

最近のことであるが(1992年2月)、ある神学校の学生から私の神学、特に拙著『神と希望』に関連して質問の手紙を受け取った。その質問は、私の神学が、イエスを神からわれわれに語りかけられた言葉としており、その神の言葉に対してわれわれが主体的な応答をしなければならないことを中心としているものである事情と関係していた。何らかの身体的障害を持っているために応答も出来ない、否、自分が自分であることさえも意識できない人々は、私のような実存論的神学、主体性を強調する神学ではどうなるのだろうか、というような質問であった。この手紙による質問者は、障害者の方々への奉仕の中に自分の生きる意味を見いだしておられるようであった。手紙の文面には書かれていなかったが、恐らくこの質問の背景にほ熊沢義宣氏の好論文「身体性と神学――とくに障害者神学の視点から」(日本組織神学会編『身体性の神学』新教出版社、1990年刊、209頁以下)を質問者が読んだという事実があったのであろう。熊沢氏は上述の論文の中で、北ドイツのべ-テルという町の社会福祉施設を訪れた時の体験を語っている。そこの重症患者の部屋で、氏は焦げ茶色で長さ50センチくらいの丸太のようになってしまった人物に出会った。この人物は生まれた時からこのような状態で、既に50年以上を過ごして来たのであった。ナチの時代にヒトラーは、障害者を安楽死させて施設を閉鎖するように命令したが、施設で働いていた人々は捨て身で障害者を守り通したので、ヒトラーも遂に自分の方針を貫けなかったとのことである。つまり、その時に、この丸太状の人が施設に働く人々にとって、ヒトラーに抗するシンボルとなったのであった。熊沢氏はこの感動的な物語の後で、人間の価値は、ヒトラーが考えていたように、その人間の能力によるものではなく、人間が神の像を宿す存在であることにある、と主張されているが、もっともな主張である。恐らく私に手紙をくれた学生の質問は、人間が神の像を宿す存在であるということにも関わっていたのではないかと思う。例え主体性を失う程の、丸太状の障害者も救われるというなら、私の実存論的神学の中心をなしている主体性は、神学としてそのように重んじられてはならないものなのではないか。これが質問者の心の中にあった疑問なのであろう。私は返事として、神の像を宿す人間の存在が尊いとする時に、その存在と、その存在が持つ障害とを同一視することの危険を、先ず指摘した。障害そのものが尊いのではなく、障害のない人々(実は、心の中に罪という障害を持っているのではあるが)も、障害のある人々も、変わらずに救って下さる神の愛を、われわれは賞賛すべきなのである。ナチに抗して、1人の丸太状の人物を守り抜いた人々は、そのような障害者であっても、神が愛しておられるが故に、人々が勝手に処置することの出来ない神聖な存在であることを証したのである。決してその丸太状の障害そのものを賛美したのではない。もしもその障害そのものを賛美したとすれば、そこにあるものは不幸そのものの美化であり、不幸への病的な耽溺である。意識さえない人々のことであるから、これは比喩的にしか言えないが、自分の障害に気づけば、誰だって自分の障害をできれば取り除いて貰いたい筈である。障害を持つ人々がわれわれ神学者に提起する問題は、不条理との関連で、神義論との関連で、取り上げられねばならないものなのである。神が欲したが故にその人々は障害を持っているのではなく、神の意志に反して、無の持つ不条理の故にその人々は障害者なのである。この点については、他のところで既に多くを論じて来たので、ここでこれ以上に述べる必要はないであろう。健常者のようには言葉を話せず、通常の意味では主体性のない人々も、輪廻転生の結果いつの日にか神の摂理の下に建常者となり、自覚的に言葉のなかに生きる主体的存在となって、沢山の生の体験に基づいた決断によって、神を信ずるようになると私は確信しているのである

(以上、引用終わり)

野呂芳男「民衆宗教としてのキリスト教」1994年

 このように、野呂氏の「実存論的神学」もまた、多くの神学者と同様に「神義論」というものへの関心に基づいています。そこがこの神学のユニークさを生み出す要因であると同時に思弁を逞しくしている要因でもあります。