絶対(神・霊)と無(主・イエス)~聖書とメンタルヘルス

イエスを「無」という意味は「ケノーシス」…聖霊による自我無化。「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)「神」が「絶対」である必要は、個々人の生命がかけがえないものだから。「絶体絶命」の状況において「絶対」である生命を任せ得るものは「絶対」以外には無い。「また、すべての人は食べ、飲みあらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。」(共同訳 コヘレト3:13 )

聖書的精神療法・・・対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」を媒介して、対人関係だけではなく対神関係を第一の前提とする「聖霊感知・行動療法」へ

「認知・行動療法」ならぬ「聖霊感知・行動療法」について書きます。「霊感・行動療法」と命名したかったのですが、マスコミがカルト教団の旧・統一教会の活動に「霊感商法」と言う不適切な名称をつけてくれたおかげで、「霊感」という言葉のイメージが「霊能」などと同様、とても怪しげで悪くなってしまいました。それで私は「聖霊感知」という表現を選んだのです。

結論から言えば、当然のことながら対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」によっては人間の精神的な問題は根本的な解決を得られないし、患者の究極的救済は望み得ないということです。それはいわゆる「精神療法」全体に対して言えることであり、ケースバイケースにおいて、せいぜい局所的救済にとどまるということです。とは言え、無論、「認知・行動療法」というものを全否定するものではなく、むしろ受害体験の省察…それこそ認知の点では大いに参考になり、宗教的観点から研究し霊的療法を現実的・実践的に確立するうえではその媒体として有益だと思います。しかし重要なことは、対神関係を前提としていない以上、人間における「魂」は認め得ても「霊」は認め得ないことになるので、そのような根無し草的「精神・心」理解に基づく「療法」に対しては、過度の期待はいましめなければならないということです。対神関係を前提としていない人間の営みは例外なく限界があるからです。下記の引用文のように、いろんな用語によっていろんな作業なり行動をやったところで、結局、本人自身の「(原)罪」に由来する「古き我」…過度の自尊心(自己愛)と承認欲求が変えられない限り、改善とか言ったところで受傷者によっては報復感情が残り、小手先の精神療法などでは深部に届かず、結局、気休めの治療による表面的な変化に留まるわけです。人間の(原)罪の深刻さを軽く見てはいけません。そこに私などが、「認知・行動療法」を参考にし媒介しつつ、聖書的精神療法として「聖霊感知・行動療法」を探求すべき所以があるのです。受傷と言っても、あるいは心的外傷後ストレス障害Post Traumatic Stress Disorder)と言うように「外傷」(トラウマ)などと言ったところで、実際には自分の身体の外から受けた傷ではありません。これは人体がウイルスの侵入に対する免疫反応において白血球などの免疫細胞が活動して発熱したり、インフルエンザに感染した場合にインターフェロンの作用によって倦怠感や食欲低下が起きるのと同じことで、精神の方も自己防衛の構造によって生じるものであり、言わばメンタルの免疫反応です。傷つくのは自分を守ろうとする自尊感情が強いからであって、自尊感情が抑制されれば傷も軽いのです。だからと言ってガードを下げてもろに相手のパンチを食らったらノックアウトしてしまうので、自己防衛のためにある程度の自尊感情は必要になります。これをいかにバランスよく維持できるかが重要です。ガードを強くしてもダメだし、弱くしてもダメです。上げ過ぎても下げ過ぎてもダメなのです。程々のところで自尊心を持ちながら、外圧に対してはレジリエンス(resilience)で対応できるように、すなわち柳の木の枝とかグラスロッドの釣竿に喩えられるようなしなやかさを身につけなければ立ち行きません。

ところで「認知行動療法」というふうに、「認知」と「行動」とをつなげて書くのが一般的であるようですが、私は「認知」と「行動」との間に中点を入れて「認知・行動療法」と表記する方が適切だと思います。なぜなら元来「認知療法」と「行動療法」とは別の療法であり、それが合成されたからです。浅井昌弘氏は、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の認知・行動療法的理解についての章」云々と述べておられ、「認知・行動療法」という書き方をされています(大野 裕、小谷津孝明 編『認知療法ハンドブック上巻』⦅星和書店⦆ 序文 v)。これに対して認知療法の提唱者であるアーロン・T・ベック博士に師事して日本における認知・行動療法の第一人者と言われる大野 裕氏は、「『認知療法』(「認知行動療法」とも呼ばれます)」と、「認知療法」と「認知行動療法」とがほぼ同義として使われている旨を示されたうえで、やはり「認知」と「行動」との間に中点なしで表記しておられます(大野 裕著『はじめての認知療法講談社現代新書 p3)。まあ、精神科医も医師であり理系なので、文言の表し方などあまり気にならないのかも知れません。以下、引用。太字は私記。

認知療法を理解するためのキーワードは、『自動思考』と『スキーマ』です。『自動思考』というのは、瞬間、瞬間に頭に浮かんでくる考えやイメージのことをいい、私たちが現実をどのように見ているかが、そこに現れます。たとえば、不安になっているときには、『何か危険なことが起こりそうだ』と考え、その『危険に対処するだけの力が自分にはないし、きっとまわりの人からも必要な助けが得られないだろう』という考えに支配されるようになります。こうした考えの流れを『自動思考』と呼びます。(中略)『スキーマ』というのは、『自動思考』を生み出すもとになっている考え方のクセです。『なんでも完璧にしなくてはならない』とか『誰からも嫌われないようにしないといけない』といった、一種の考え方の傾向、性格のようなものです。ストレスにたいして強い心を育てるためには、『自動思考』だけでなくこの『スキーマ』に気づく練習をする必要があります。ですから本書では、まずあなたが自分の『自動思考』に気づき、それに大きく影響を与えている『スキーマ』に働きかけることを最終の目標とします。」(大野 裕著『こころが晴れるノート』p1~2)

認知療法の効果を実証し、健康保険の診療報酬の対象となる基盤を作った厚生労働科学研究『精神療法の実施方法と有効性に関する研究』研究班が使用した認知療法マニュアルの流れを簡単に紹介します。それによれば、まず患者さんの性格や気質、生い立ち、発症のきっかけや症状の継続に影響している問題について詳しく尋ねて、患者さんの考え方の特徴(スキーマ)を明らかにします。そして、どのような考え方が問題になっているか、それに対して認知療法はもちろんのこと、薬物療法や環境調整をどのように治療に取り込むかを判断します。これを『症例の概念化』と呼びますが、その情報は患者さんにも説明して、理解を共有します。認知療法では、こうした全人的な患者理解に基づいて面接の方針を立てることと、患者さんと治療者とが強力して治療を進めていく『協同的経験主義(collaborarive empiricism)』と呼ばれる治療関係が重要な意味を持っています。続いて、治療者は、患者さんの問題を一緒に整理しながら、日常の生活の中で楽しいことややりがいのあることを増やしていく『行動活性化』、具体的な問題を解決するスキルを伸ばしていく『問題解決技法』、自分の気持ちや考えを適切な形で相手に伝える『アサーション(主張訓練)』など、様々な行動的技法を用いて考えのバランスをとり、うつや不安などを和らげていく過程を手助けします。それと並行して、患者さんの気持ちが大きく動揺したりつらくなったりしたときに、どのようなことを考え(自動思考)、それが気分や行動にどのように影響しているかを現実にそいながら検討していきます。これが『認知再構成法(コラム法)』と呼ばれる方法で、そうすることで、自動思考の内容と現実との『ズレ』に気づくことができ、柔軟でバランスの良い考え方ができるようになって、気持ちが楽になります。そのほかに認知療法では、最後に、患者さんのこころのクセ(スキーマ)を理解して患者と共有し、必要であればそのスキーマを修正し、治療が終結することになります。」(『はじめての認知療法』p49~51)

ここで「アサーション」の後に「主張訓練」と書いてありますが誤解を招きかねない表記です。この語には「訓練」に相当する意味は含まれません。実際、現場では「アサーション」という言い方で「訓練」の意味も含めて用いられているのではないかと推察しますが、動詞のassert が「主張する、断言する」で、名詞のassertionが「主張、断言」ですので、「アサーション(主張)訓練」と書いた方がよかったと思います。

ちなみに、カウンセリングにおけるアセスメントの実例を挙げてみます。そこには報復感情が示されています。

「困っていることは職場の対人関係でマウントを取られたり無礼なことをされてムカっとした時など、あとになってその時の場面がフラッシュバックというか脳内に自動的に再生されて、メンタルにものすごい損害を被ったような感じになり、自己防衛できなかった自分に対する腹立たしさ、情けなさがこみあげてきて、あの時、ああ言えばよかった、こうすればよかったなどと後悔し、今度、同じ相手に会ったら言い返さないと気がすまないという強い報復感情が生じます。作業中でもそのような思いが脳内をぐるぐる廻って、注意が散漫になり、心ここにあらずでミスの原因にもなります。また、前述の脳内で自動的に再生される受傷場面によってさらに傷つき、ストレスで動悸など身体反応が生じます。それが夜間に起きれば睡眠にも支障を及ぼします。目標としては、前述の脳内における自動再生の受傷場面に対して防止することはできないとしても、その場面によるストレスを軽減するためのレジリエンスを身につけること。そもそも、相手がリスペクトできる人であるなら、少々無礼な振舞いをされてもそんなに腹立たしくはないが、相手が自分も軽んじている人の場合、その人から自分が軽んじられる、ばかにされるということは耐え難い。この点を改善するには、自分が相手を軽んじるということをなくす以外にはない。しかし、すべての人をリスペクトできるわけがない。それこそ理想論にすぎない。」

イエス・キリストの「ケノーシス」を模範として、すべての人をリスペクトできる心を持つことができれば平安に満たされることでしょう。仏教徒が相手に対して合掌する姿を見ると、ますますその感を強くします。しかし実際に、あらゆる他者に敬意を持つなんて煩悩具足の凡夫にはあり得ないこと。誰もが自他の比較において自尊心を持ち承認欲求を持っている以上、それは無理です。むしろ常人なら自己卑下という自虐行為をしてまで生きたいとは思わないと言うでしょう。ということで、自動思考だのスキーマだのといった用語を並べていろんな作業をやってものの見方を少々変えたところで苦しい現実状況は大して変わらないし、そういうことは現実逃避的な気休めの自慰的療法にすぎないのではないか…、やはり相手との直接対決が必要になるのではないか…と思うに至ります。それって「アサーション」ということではありません。キレイゴトは無意味です。直接対決の意味は報復するということです。報復感情が少しずつでも満たされなければ受傷者のメンタルに平和は戻ってきません。受傷者が現実的意味において救われるためには、苦しみの期間から脱し得たという開放感が必要なのです。聖書においても受傷者の救いには報復が必要であることが示されています。「復讐するは我にあり」、これは旧約の預言者の言葉ではなく使徒パウロの言葉です。よく、旧約聖書を軽視するクリスチャンが啓示の漸進性という教理を用いてキリストが啓示される以前のことだからどうのこうのといった屁理屈をこねることがありますが、そのような詭弁は通用しないのです。そして現実的には、報復はすべて神にお任せというわけにはいかず、自分自身でもやれるだけやらなければなりません。以下は自分が実践したことなので心してお読み下さい。まずは表情が硬くてはダメです。平常心を目標とし、薄笑いを浮かべられるくらいの余裕で臨めるようにメンタルをトレーニングします。そして、前もって言う効果的なセリフをよく考えて用意して、相手に再会した時にそれを発しても不自然ではない話の流れにもってゆけるように導入のし方・言い出しなど構成を考えます。そうやって戦略、戦術を練り、シミュレーション通りにはいかないにしても自己採点70点以上の小さな成功体験を積み重ねて達成感や自信ないしは自己肯定感を高めるのです。「小さな」と言う理由は、一度に有効なセリフを集中砲火的に使ってしまうと相手にとっては攻撃された感じになるので、全面的な争いに発展するおそれがあるからです。感情が先走りしたら失敗します。万が一、手が出てしまうと職場などでは処分されて大損し、本末転倒になってしまいます。自分はかつて包丁を向けられた経験があるので、報復と言ってもあまり相手を興奮させないよう、自分の感情を理性で抑えながら、ボクシングで言えばストレートやアッパーカットを炸裂させるよりもジャブやフックでねちねちと効果的に刺せるようにセリフの言い方も内容も程々のところで抑えなければなりません。あとは自分にとって都合悪いことはスルーするか忘れるかです。

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(ローマ12:19)

罪人の「古き我」が変えられるためには聖霊のはたらきが不可欠です。復讐は自分でやってはいけない、神にまかせなさい…ということは結局、現実的には復讐するなということと同じです。それが聖霊のはたらきによる知恵と言えば知恵なのです。しかし私は、そこまで行く前にやってみてもよいと思っています。認知療法とか言って、自動思考やスキーマがどうのこうのと相手不在の所謂コンフォートゾーンの中…自分の内側だけで自慰的にいろいろやっているくらいなら、直接対決、一度はやってみる意義はあります。男ならやられっぱなしではダメです、自信が持てないからです。いくらかでもやり返さなければなりません。そしてやる以上は成果をあげなければなりません。他人からすれば自己満足に過ぎないと思われるほど小さな成果でよいのです。最低限の自信を維持できればよいのです。とにかく自尊のための自衛の戦いである復讐はやれるだけやってみて、あとは神にまかせればよいのです。私にとって神は自衛の面での万軍の主です。聖霊のはたらきに従うのは戦ってからです。

唯一絶対である創造主の聖霊によらずして罪の問題が解決することはなく、罪の問題が解決せずして人間精神の苦しみが解消されることはありません。罪の問題の解決はまずもって贖罪の救い主を信じて悔い改めること、それが聖書の教えるところであり、この一点についてはキリスト教諸派は共通の認識です。聖書的精神療法においては、「神」を人格的あるいは実体的な存在として観ずに、はたらきとして解することが重要です。聖書において「神は愛」である前に「神は霊」です。聖霊が贖罪主の救いを信じさせ、神の愛を人々の心に注ぐはたらきであり、父神が創造主・存在の本源として贖罪主を立て、聖霊を送るはたらきであり、子神が贖罪主として救いを起こすはたらきです。これを私の「三位一体」理解として、「三働一救」(さんどういっきゅう)と言います。贖罪主(子神)なしでも人間精神の救済はあり得そうですが、「ケノーシス」という理想的目標が掲げられるためには御子キリストの実践が必要でした。そういうことで聖書は創造神と聖霊だけではなく贖罪救済主も書いていますので省略はできません。ただし私は聖書において聖霊の送り手は父神だけと解し、所謂「フィリオクェ」(子からも)は否定する正教説に立ちます。

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(付記)

日本公認心理師協会の会長である信田さよ子さんは、もう1つの公認心理師の別団体である日本公認心理師の会は、認知行動療法(CBT)を標榜する人たちの会であると言っておられ、その認知行動療法についてはDSMⅢの賜物であり、認知と行動を変えることによって人間を変えてゆく、うつもこれでやってゆく…アメリカやイギリスの国家公認であり、それは測定可能な結果が出るからで、エビデンスがはっきり出るので、認知行動療法は国にとって非常に都合の良い方法で刑務所の性犯罪者処遇プログラムやカナダのDV加害者更生プログラムは認知行動療法で自分もやっているがそれなりにいいが、やはり因果…文脈性、歴史性、物語性は捨てがたいものがあり、CBTだけでは不十分だと思う…といったことを述べておられます。 ちなみに、DSMというのは精神疾患の診断・統計マニュアルであり、そのⅢというのは、要するに精神分析のように原因を問うということをせず、今の症状を薬物治療によってなくすということで精神科医でなされているということでした。原因を問うと、精神科医にとっては面倒で時間がかかり、クリニックなどはやってゆけなくなるとのことです。今の精神科医の面談が10分以下と短いのはそういう理由によるとのことです。自分なりの聴き方、まとめ方で誤解があるかも知れませんので、気になる方は本編でご確認ください。

Air Revolution』(エアレボ)信田さよ子氏出演!『家族、暴力、国家』(2024年3月24日放送前半無料パート) 

https://www.youtube.com/watch?v=YyeVcOxbeN0 (※25:00~26:12)

 

 

 

聖霊のはたらきと創造的空、心理療法と自虐的信仰、メンタルヘルスにおけるセロトニン活性化、対人関係だけの臨床心理学の限界…対神関係を前提としたスピリチュアル認知行動療法

「かくして、私の愛する者たちよ、あなたがたがいつも従順であったように、私が〔あなたがたのところに〕いる時のみでなく、むしろいない今は、よりいっそう〔従順になり〕、恐れとおののきとをもって、己自身の救いを獲得しなさい。というのも、〔自らの〕意にかなったことがらのために、あなたがたのうちにあって〔あなたがたに〕働ききかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方は、まさに神だからである。」(フィリピ人への手紙2:12~13 岩波書店版〔青野太潮〕訳)

メンタルヘルスの諸問題の解決・解消策としては、心理療法よりも聖霊のはたらきを受けることが有効である…というのが私の結論ですが、それにしたって心理療法の学習が無用だということではなく、それは聖書神学的学習と同様、自分自身の内なる聖霊のはたらきを省察し自覚化するうえで有効な面があります。ただ、学問知識などは聖書的救済の必要・十分条件ではないということは確かです。人は脳を中心に生きているにせよ脳だけで生きているわけではなく、救いは脳だけの救い…理知的充足だけではなく、理知を超えて包むいのちの充足…全人的救いを求めています。そしてそのいのちの充足・全人的救いを受けるためには聖霊のはたらきを受けるということのみが不可欠なことなのです。但し、それは誰にでも起こることではありません。心理療法でさえ誰にでも有効であるとは言えないでしょう。そこにはおのずと限定があり選びがあります。人は自己限定されているからこそ自分を知り、生きることができるのです。

上記の聖句の13節の方八木誠一氏の思想においてはそこで言われてる「はたらき」が「パウロ神学の中心」とも言われて(『創造的空への道』ぷねうま舎 p67)重要視されています(前掲書 p2、『はたらく神の神学』岩波書店 p4参照)。私にとって「働ききかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方」は聖霊なる神であり、キリスト教の三位一体の第3位格という規定を超えて(…そもそも「神は霊である」ヨハネ福音書4:24)、「人格-非人格」とか「対象-非対象」といった二項分別対立をも超えた唯一の「神」です。私自身にとっての救いは、この「神」のはたらきがあればそれで実現するのです。聖霊による救いこそ、わが人生において最優先の課題です。私にとっては御霊の他には御父も御子も不要です。聖霊は神の霊であり、その場合の神とは御父を意味するので御父(エホバ)の存在は暗黙の前提とはなりますが、創造主ということ以外には敢えて御父についてどうこう語る必要はありません。形而上学的思弁に陥るだけで時間の無駄です。ましてや御子であるイエス・キリストに関する考察などは無用です。復活などは、高尾利数氏が「共同幻想」だと述べておられるように(『キリスト教を知る事典』東京堂出版 p39、『聖書を読み直すⅡ』春秋社 p37~38)私も客観的事実(史実)とは異なる次元の、せいぜい共同主観的事実とでも言えることだと思います。

「イエスが死人の中から甦ったというようなことは、時空内の史実的現実としては、生起しえようはずもない。われわれの認識は有限であるとか、われわれが理解できない事象も生起しうるからという一般論を盾に、イエスの復活の時空内的現実性を最初から排除した世界観を持つことは、近代の合理主義的独断である、などということは――たとえその場合、『新しい歴史的理性』とか『死と罪責と虚無を突き破る<新しいもの>の希望の秘義的しるし』とか『神の<充満 プレーローマ >を指示する奥義』とか『史実ではない真実』とか、さまざまな神学的思弁が伴われようと――とどのつまり、護教論的意図に発した一種の循環論法であり、深いところで『不誠実』を宿し、『知性の犠牲』を強いる『無理』ではなかろうか。絶対化された観念としての『イエスの復活』に依拠した伝統的・正統的キリスト教は、そもそもそうした『無理』の上にうち立てられた巨大な観念の神殿なのであった。」(『聖書を読み直すⅡ』p38~39)

「我々が歴史的に確認できるのは、イエスの十字架を境にして、その前に師を見捨てた弟子たちが、その後に彼をキリストと信じ、宣教を開始したという事実だけである。彼らの振舞にこのような転換が起った原因としてあげうるのは、彼らが復活のイエスの顕現体験を持ったということのみであって、イエスの復活と顕現そのものの史実性を問うことは無意味である。当然のことながら、我々が歴史的『事実』と言うとき、それはだれに対しても実証される一つの事態、だれもが追認できる一つの事態のことである。しかし、この意味で復活は、はっきり言って『事実』ではありえない。もし復活が、この世の原因と結果の連鎖の中にはめ込まれる事態であると言うのであれば、それはむしろ復活という事柄の本質に反するであろう。」(荒井献著『イエス・キリスト 上』講談社学術文庫 p33~34)

それにしても荒井氏が引用しておられる佐竹明氏の「復活信仰」解釈もあまりにセンチメンタルで非現実的な観を否めません。とにかくキリスト教では、高尾氏の言う「無理」を自覚せず、教会の説教などではイエスの復活を史実として語ります。実にナンセンスの極みです。

「初代キリスト者は、『神がイエスとして現れた』事実を客観的に観察・認識したのではない。彼らはまずは、『十字架につけられて死に・復活したイエス』に『神のはたらき』を見たのである。(中略)だから最古の福音書である『マルコ福音書』は『悪霊に勝利したイエス』を『神の子』として描いたのである(神の聖者とは神を宿す人間のこと―― 一章24節。さらに五章7節等参照)。」(八木氏前掲書p66~67)

キリスト教徒は、聖霊のはたらきを受けているなら必ず主イエス・キリスト信仰告白へと導かれるのであって、そうなっていないのは君のうちにはたらいているものは聖霊ではなく悪霊だからであろう…などと非難するのがキリスト教というものの実態です。

「現代人はもはや、教会教義を客観的事実の告知として受け取ることはできなくなっている。(中略)教会教義を客観的事実の記述として宣教するのは元来不可能であったのだ。それは新約聖書を正確に読めばすぐわかることである。そうであればこそ、本書は教義の根底にある『経験、むしろ経験を成り立たせるはたらき』に到達する道を探っているのである。(中略)ニーチェは、上記のように、『理性より深い』生の自覚に立って、後期ギリシャ以来、『生を知に還元してきた』自我、要するに近代主義を批判したのだが、彼の『生の自覚』は宗教性には届いていなかったので、力の肯定、強者の礼賛に傾いたのはまことに残念なことであった。(中略)バルト神学は、『イエス・キリストの出来事』を客観的事実として、この出来事の内容と、それが人間にとって意味するところとを述べたもので、伝統的プロテスタント神学を詳しくかつ正確に語ったものだ。しかし、それだけに現代の批判的新約聖書学の成果を汲みきれないものとなっている。またバルト神学には、やはり信仰的生を知(教義学)に解消する傾向が強い。(中略)現代人は、客観的事実だけが真実ではないことを、客観的認識の偏重は、『こころの文化』つまり自覚によって成り立つ人間性を無視し破壊することを、銘記すべきなのである。」(八木氏前掲書p71~80)

それなら、八木氏の思想において「神」とは何か?と言えば、「神とは『場のはたらき、その実現・伝達者』と区別される『場そのもの』を指す。それは世界と人間、存在者の一切が、そのなかにある、無限で究極の場だということになる。それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は『空』であり、しかし虚無ではない『創造的空』である。(中略)『神』とは、生と死、存在と非存在、生成と衰滅を超えて包む根源である。」(八木氏前掲書 p94)ということであり、注目すべきは、「『無意味に耐える強さ』は『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。」(八木氏前掲書  p97)ということ。八木氏によれば、「新約聖書では、統合作用の場そのものは神、統合作用はキリスト、場所において統合を実現させるはたらきは聖霊と呼ばれている(新約聖書には明言されていないが、実質上、三位一体論がある)。」(八木氏前掲書 p150)とのことで、「世界と人間に及ぶ統合作用の場とは、伝統的な神学用語でいえば、『聖霊に満たされた空間』、遍在する聖霊のはたらきの場である。そして聖霊とは、場の統合作用を『場所』において実現するはたらきのことである。これは実は、力を失って潜在していた統合作用が現実化されて主体となることである。」(八木氏前掲書 p150)

「三位一体」論については、八木氏は上記のように伝統的な定義とは違う内容で解釈し、定式は継承しておられますが、高尾氏によれば「こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」(高尾氏前掲書 p212)ということになります。

哀しいかな私は、好むと好まざるとにかかわらず、そんなキリスト教という宗教を否定的にではあれ媒介しないことには、自分にとっての救いを見い出して体験することができません。なぜなら、聖霊なる神の存在自体、聖書を教典としてそこから聖霊について説き起こすキリスト教説なくして聖霊体験を省察し自覚するに至ることはなかったからです。イエスの復活ということも私にとってはどうでもよいことですが聖書に書かれていることに違いはなく、結果的にはその聖書に書かれているイエスの復活という出来事を中心とするキリスト神話がなければキリスト教信仰が成立していないわけで、キリスト教信仰が成立していなければそれを媒介して私自身に及んでいる聖霊体験の救いということもないわけなので、私にとっての聖書的・キリスト教的救済は、批判され否定されることにおいてのみ真実性を現し得る逆理的現実ということになるわけで、私の精神面では自虐的信仰ということになるわけです。私見では八木誠一氏などの神学および宗教哲学の思想もキリスト教を否定的に媒介して成立しているものです。自分はその八木氏の思想の学徒になることでよしとしないのは、やはりそれは宗教ではなく学説だからです。自分にとって最優先課題としての「救い」は、学説を信奉することではなく、やはり神話であれ何であれ聖書というものの権威に身をゆだねて教会という信仰共同体に加わることなくしては無いからです。それは「知性の犠牲」(高尾氏前掲書 p195、『聖書を読み直すⅡ』春秋選書 p39)とはなりません。なぜなら知性とか理性より深い生の自覚に立つことを自覚するからです。仮に「知性の犠牲」というような自己抑圧的な状態であるとしても、そもそも私は高尾氏のような高度な知性など持ち合わせていないから、客観的事実としては「犠牲」と言えるほどの大げさなことではなく、その点ではキリスト教がその初期に無きに等しい愚人の宗教としてスタートしたこともわかる気がします。しかし主観的事実・自覚としては自虐的信仰と言わざるを得ません。でも聖霊のはたらきを体験するという救いを第一とする以上、自虐と言いつつも開き直って信仰生活してゆくのみです。たとい醜態を晒し侮辱を受けても惰性的でもよいから足しげく教会には通うべきです。自分が言う、聖霊のはたらきを体験するという救いとは、なにか神秘的な特殊な体験をすることではなく、ただ理屈ぬきに生きていること、生かされていることの歓びを感じることであり、ちょっとした脱日常的意識になれるということです。それって、自分が散歩の延長で運動のため登っている近くの低山の中で深呼吸するようなことかなと思います。そのためには、とにかく余生の生活の軸として、まともな献金はできないし交わりもしないということで会員にはなれないけど恥を晒してでも教会に関わり続けるということになります。教会から離れると聖霊がはたらきかけてくれなくなるような気がして・・・それも一種の強迫神経症(=強迫性障害)的なことなのかも知れませんが…。

ここまでの内容と以下の内容とは部分的に矛盾することもあろうかとは思いますが、そもそも自分が書くことは支離滅裂な観もありますので、読者諸氏は気にせずに読み過ごしてください。要は絶望せず、聖霊のはたらきによって生かされて生き得るだけ生き抜いてゆくのみ!

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「『統合体』形成は、実は客観的世界にも見られるはたらきであり(原子、太陽系、生体など)、人間には『きよらかな、やさしいこころ、平和への願い、自分の不利になっても真実を求め語る誠実さ』等として現れる。つまり客観面にも、人間の主体面にも、事実として確認可能なはたらきである。とすれば両者の共通の根源があるはずだ。ただし、それを客観的に見る場合と、主体的に自覚する場合とでは、語り方は同じではない。それは客観的には脳細胞のはたらきとして観察されることが、主体的にはこころのはたらきとして自覚されるのと類比的である。一方が他方を生むのではない。両者を同時に見ることはできないが、両者の関係は因果ではなく、変換というべきである。本書では当然ながら、『主体の自覚』の道をゆく。具体的には瞑想のなかで統合心を掘り下げるのである。すると統合心の奥に、『創造的空』があり、これが統合心をつくり出すことがわかってくる。とすれば、そこからいえることがある。すなわち個々の人間のこころの奥底にある『創造的空』は、世界に見られる統合作用と、その奥底にある『創造的空』を映すということである。直接見ることはできないが、これは知に伴われた『信』である。」(『創造的空への道』p3)。

ところで、人は心と体だけではなく霊によってもできています。だから人を全体的に救うものは臨床心理学でも精神医学でもありません。もちろん宗教学や神学でもない!学…ロゴスではないのです。ロゴス・キリストでもないのです!理論、理屈ではない、体験です!聖霊による体験あるのみ!その体験知が、ドン底まで堕ちた人間を救うのです。どうやって?…それは、それは聖霊が苦悩する本人の心に直接はたらきかけて、生きる希望と生き続ける力を与えてくれるのです。神の霊だから…。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ書5:5)「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」(ローマ15:13)

「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」(テモテ第二1:14)

一般的には、心理学者は人の苦悩…精神的地獄状態の原因を指摘することができます。そしてその原因を除去するにはどうすればよいかという課題をも指摘できます。ところが、その課題は凡人には極めて困難な場合が多く、いかにしたらその課題をクリアーできるか?という実際の答えはなかなか示すことができません。それは個人差があるということもあるでしょう。聖書も人の苦悩…霊的な地獄状態の原因を指摘することができます。そしてその原因を除去するにはどうすればよいかという課題をも指摘できます。ところが、その課題は凡人には極めて困難な場合が多く、いかにしたらその課題をクリアーできるか?という実際の答えは示されていません。それもまた個人差があるということもあるでしょう。

すなわち霊的な救いはイエス・キリストの十字架刑死による贖罪を信じることによると言われても、それを信じるためには自分の頭で理解して納得するというやり方ではなかなかうまくゆきません。結局、聖霊の他力による以外にはありません。しかしその場合でも「盲信」のような「知性の犠牲」的なことにつながっては意味はないのです。

「信とは不可解な教義を、それでも疑いを抑えて信奉することではない。まずは客観的にも確認可能であり、主体的にも自覚可能・了解可能な『統合体形成作用』への信である。原始キリスト教的宣教の中心は、『罪に支配されるあり方から、わが内にキリストが生きるあり方』への転換、つまり罪の支配力の克服である」(八木誠一著『創造的空への道』p2)

「創造的空」は「神」、「内なるキリスト」は「聖霊」であるとも言われています(八木氏前掲書p3~4、18)。

キリスト教には「不合理ゆえに我信ず」といった言葉がありますが、たしかにこの世の合理的思考に挫折して不合理の世界に真実を求めて入信する人もいるでしょう。しかしそういう人ほど教団によって洗脳とかマインド・コントロールされやすい傾向があるかもしれません。それでは真実どころか逆に一部の人間たちの悪しき妄想を吹き込まれて人生の貴重な時間や財産を奪われる被害を受けるおそれもあります。だから合理主義を批判することはよいとしても、けっして不合理主義に陥ってはならないのです。つまり理性は常に正常に保っていなければならず、それも聖霊のはたらきによる再生の理性としてであって、聖霊のはたらきと言っても教会組織を介しての神学的自己省察における教理的に制約された聖霊のはたらきでは無効ということです。ところで以下の引用文には、キリスト教神学ならではの詭弁というかこじつけが明るみになっています。

「ヤロスラフ・ペリカンは、イエス・キリストに(新約聖書ヨハネによる福音書において)『ロゴス』という名が与えられたことは、キリスト信仰の逆説性を、信仰の非合理性を讃美するほどに重んずる傾向に歯止めをかけるはたらきを持つものであるとし、これを前提とした上で、テルトゥリアヌスによる本来の文言を紹介。テルトゥリアヌスの文言が直解主義・反知性主義といったかたちで独自に権威主義的に取り上げられることについて批判的に述べている」(~ヤロスラフ・ペリカン著、小田垣雅也訳『イエス像の二千年』⦅講談社学術文庫⦆< wikipedia「テルトゥリアヌス」)・・・ヨハネ福音書においてロゴス・キリスト神話が物語られているからといって、それが「キリスト信仰の逆説性を、信仰の非合理性を讃美するほどに重んずる傾向に歯止めをかけるはたらきを持つものである」だなんて、とんでもないこじつけです。イエス・キリストがなんと呼ばれようとも、聖書の神話…特にキリスト神話は不合理であり非合理です。就中、復活という出来事はまったくもって不合理で非合理で反合理です。パラドックス(paradox)すなわち、逆説とか背理とか逆理と訳されることとは違います。キリスト神話においてパラドックスと言えることは、神の子がケノーシスを徹底して十字架刑死という悲惨の極みまで自己無化することを通してこそ(否定媒介)父なる神の絶対有たること、その偉大さを示し得た…ということであり、復活および主としての栄化・神格化はその逆説性を妨げる不合理性でありこそすれ、けっして理に合うような神話では無く(背理・逆理も理である以上は無理ではない!)、もはや不合理・非合理を無理に正当化することにほかなりません。だから自分はキリストの復活がその信仰如何でキリスト教の立ちもし倒れもするような事柄であるとしたら、キリスト教という宗教自体が不合理・非合理であって信仰は無理な宗教であると思います。すくなくとも私としては、使徒信条の「聖なる公同の教会を信ず」の文言によって教会組織を神聖化したり絶対化するようなことがあってはならないし、その「聖なる公同の教会」を信の対象とすることが教会の信条・教義を金科玉条の如く奉じることにつながってはならないと思います。自分自身の理性に合わない物事は受け入れる必要はありません。この世にあるキリスト教会はしょせん人間集団として相対的なものであり、掲げられている信条・教義の類もけっして万人が無批判に認めるべき普遍的真理などではあり得ません。そもそもその信条・教義の由来である聖書自体、神の言葉とは言え人間を通して語られている以上制約があり、決して無批判に文字通りのまま真実として認めるべきものではないのですから…。聖霊のはたらきということも含めて聖書の言葉は批判的営みにおいてこそ、その真実味が発現するのです。逆に言えば、私の場合、キリスト教徒として生きるということは最高度に自虐的なことでもあります。なんと言っても(同一・同等の)三位一体神論などという余りに非聖書的な教義を信奉する宗教の徒になることなのですから、自虐的な心理にでもならないことには自分がキリスト教徒である意義は皆無です。そして自分が自虐的心理になってでもキリスト教徒たる必要性とか必然性があるとすれば、それは自分にとってキリスト教的救済が何よりも有意義であり必要であるという一事以外にはあり得ません。理性も知性もすべて犠牲にしてまで求めるものが聖書の示す救いないしはキリスト教的救済であるが故に自分は自虐という名の自己無化をイエスのケノーシスに倣ってかどうかはわかりませんが為してゆく過程においてこそキリスト教徒であり得るわけです。そしてそのことが、私の言うところの聖霊他力の信仰…すなわち聖霊という「神」そのもののはたらきが個別の対神関係において完全に自由自在であり無制約であるゆえに、たとえキリスト教会の伝統的信条や教義とは合わないことであってもそれが聖書が示す神の霊によるはたらきとして感じるのであれば、そこに自分のすべてを信頼して救われるべく、再生の理性的境地に至るということと矛盾するとしても、それはそれとして…やるしか生きる道は無いのです。言わば、私にとってキリスト教信仰という最高度に不合理・非合理・反合理という無理な営みをして背理・逆理という有理な営みへと昇格せしめ得る唯一の手段が「自虐的信仰」という一事にほかなりません。これは私が批判してやまない量義治氏の『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)に説かれている思考停止的思考を地で行くことに他なりません。この本では、「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べられています。

<……イエスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち人は個別的限界状況に置かれたなら、知的欲求よりも救済願望の方が優るというわけです。たしかに背に腹はかえられんということで、苦しい時の神頼み、ワラにもすがる思い、イワシの頭も信心から…とかなんとか云われますが、とにかく量氏のこのような考え方は、座右の銘に出る類の四字熟語で言えば「捨小就大」と同じことです。救済という大目的を実現するためなら、イエスの復活神話を史実とみなすような、あるいは学者の中にも聖書的根拠を否定する「三位一体」などというキリスト教教義を受け入れるという、積極的意味での「知性の犠牲」のロジックです。救われたいからといってキリスト教のドグマを盲信することにほかなりません。まさに「恥を知れ!」と自分に対して言いたいほど、最低の人間の考えだと私は思います。いいえ一般論で言っているわけではありません。他人は他人、私は私であり、自分がクリスチャンであることは最高なんだと思う人はそれでけっこう、私の知ったことではありません。私が最低の人間だというのはクリスチャン一般に対して批評的に言っているのではなく、あくまで自分自身に対してそう言っているのです。自分の中では、クリスチャンになるということは教会ドグマの盲信なしにはあり得ないことなので、それが最低の人間に身を落とすことを意味するのです。そんなことを受け容れるということは本当に人として恥ずかしく情けないことであり、自ら宗教教義を盲信するということは人間として最低のことだと思うわけです。でもその最低のことをする最低の人間…非人的境涯にまで身を貶めてさえ必要とする救いがあり、その救いによって生き続けようとするいのちがあるわけです。そのいのちこそ世に無きに等しき者が多かったと云われる(コリント第一2:26~28)原始キリスト者の歴史に立つ人格です。それもこれも私の余生における優先順位の第1が聖書およびキリスト教的救済であることによるものです。ドン底まで身を落として最低の人間になってこそイエスのケノーシスが共感されてくるという逆説的福音の救済信仰、

「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。」(コリント第一1:18)

イエス・キリストの福音…復活の出来事を中心とするキリスト神話は、結果的に救われる者にとってはどうであれ、救いを求める私にとってはそれこそ「愚」の骨頂なのです。そんなキリスト神話を「盲信」して、自ら最低の人間にまで身を落として思考停止してまで得たい救い…それこそが「神の力」…聖霊のはたらきにほかなりません。そのはたらきによって極楽天国に行けることが救いなのではないのです。ただ生きる力・活力が自分の体内に湧き起こることが救いなのです。活力源は脳内物質のセロトニンです。セロトニンの脳内作用を活性化させて精神を安定させてくれるのが聖霊のはたらきなのです。精神が安定し、理性が機能しているうちは人間でいられるからです。それって私がキリスト教的家庭環境に生まれ育ったことと無関係ではあり得ないでせう。救済と言っても単なる気休め的なものではなく、聖書が示す霊と魂(心)と体の全人的聖化ないしは救済です(テサロニケ第一5:23)。

(参考まで)シーズンⅡ, Chapter22. 全人的な救いとはl 癒やしの祈り l カングレイスl 祈りの学校 (youtube.com)

そしてその宗教的実存は観念的な傾向の個人主義的信仰にとどまらず(…それも救いにはなり得るのだが…)、個人を媒介して社会ないしは世界人類へと開かれてゆくこともあり得るのです。(関係ないけど「宗教的実存」と言えばキルケゴールです。彼の観念性、保守性については⇒) キルケゴールは観念論者か キェルケゴールにおける教会批判の射程

 

 

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「私は知った。神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。」(共同訳 コヘレト3:14)

「神の前に言葉を注ぎ出そうと焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。言葉を控えよ。」(同上 5:1)

「見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。」(同上 5:17)

「人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって応えてくれる。」(同上 5:19)

「幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように神は両者を造られたのだ、と。」(同上 7:14 )

「ただし、見よ、これを私は見いだした。神は人間をまっすぐに造ったのに人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。」(同上 7:29)

百度も悪を重ねながら生き長らえる罪人がいる。しかし、私は知っている神を畏れる人々には神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には神を畏れることがないゆえに幸せはない。その人生は影のようで、生き長らえることがない。」(同上 8:12~13)

「愛する妻と共に人生を見つめよ空である人生のすべての日々を。それは、太陽の下、空であるすべての日々に神があなたに与えたものである。それは、太陽の下でなされる労苦によってあなたが人生で受ける分である。」(同上9:9)

youtuber精神科医の樺沢紫苑氏は、しおんという名前からして生い立ちがユダヤキリスト教的環境と関係があるのではないかと推察しますが、聖書を読むという話も聞いたし、イスラエルの歴史にも詳しいようだし、動画のロケ先がマサダだったこともあり、当たりかなあと勝手に思っています。実際は確認していないのでわかりません。

さて、その樺沢氏が「許せない相手を忘れる方法」と題しての質問に対する回答では、なんと相手を「許す」ということを言っておられます。【まとめ】許せない相手を忘れる方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

これはもう心理療法のレベルの話ではなく、言わば宗教的境地の話です。だって「許せない相手を忘れる方法」ですよ!結果的に「許せる」相手なら、「許せない相手」だと思っていた自分が思い違いしていたことになります。しかし実際はなかなかそうはいかないものです。自分が相手を「許せない」と思っているその思いは決定的だからです。だからこそ怒りの感情に身心が支配されて苦しいのです。そこから脱却するために「許す」ということまではできない人が多いと思います。だから、せいぜいできることは、もうこれ以上「憎まない」ということ、それなら何とか可能ではないでしょうか?

怨憎会苦は人生のうちに多くの人が経験することでしょう。職場などいろんな生活の場で会って一定期間を同じ環境で共に過ごす相手を怨んだり憎んだりしないようにすること、それは自分がこれ以上、苦しまないために「憎まない」のですから、自分自身のためなのですから、「許す」ことと比べれば、なんとかやれると思います。だって「許す」ということになると、なんか相手に降参したような、自分を苦しめた相手の方がやったもんがちで得するのを認めるような、そんな自己犠牲的なマイナス感情を伴います。だからさすがにそれは凡人には無理であり、宗教的回心体験でもしないことには心身にかなりのストレスとなります。だけど、もうこれ以上思い出したくもないから相手を「怨まない、憎まない」ということであれば、かなりラクになれるはずです。

結局、心理療法も限界があり、宗教的境地に入ることを促すようなことにもなり得るのでしょう。それが私の言う、対人関係はいくら心理学だ、精神医学だ…などと言ったところで所詮、対人関係の中で解決しようとする限り行き詰まるのであり、対人関係の問題は最終的・究極的には対神関係によってこそ解決される…ということです。だから、心理療法はどんな方法でも神信仰を前提とするかしないかで、その有効性はまったく違ってくると思われるのです。ちなみにキリスト教の「主の祈り」では、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとくわれらの罪をも赦したまへ」と一見さらっと言われていますが、「われらに罪を犯す者」を赦すとか許すということは、煩悩をかかえる衆生にはとても自力ではなし得ません。そこで聖霊による他力のはたらきが必要になるのです。キリストが私の罪を御自分の命を犠牲にして赦して下さったのだから、私も私に罪を犯す者を赦さなければならないのだ…といった理屈によって怨憎の相手を赦す・許すことはできません。そういった理屈も損得勘定も抜きで相手を赦せる・許せる境地へと変えられる体験をするかしないかです。すべては神とかキリストとか言うより聖霊のはたらきにかかっています。三位一体というのはその存在を知るよりも働きを感じるべきことです。私は、聖霊信仰と心理療法」というタイトルで信仰治療的アプローチを追究してみたいと思っています。

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そもそも煩悩の元凶は大脳のはたらきにあるのだから、そこをどうにかするのが一番です。しかし人間の自力による脳制御の限界はアヘン中毒に明らかです。でも医療用に正しく使うならモルヒネは不可欠。それでも効かない痛みに対して患者さんを助けるものは医療用大麻ということになるのかどうかは知りませんが、人間は脳内の作用によって苦しめられ脳内の作用によって救われもする。セロトニンにもさすがに救いには限界がある。他の脳内物質も同様。なくてならぬものであるが決定力には欠ける。麻薬など使うことは違法であるうえに中毒になるので、これまた人間の自力的脳制御としては限界がある。

ちなみに「アヘン」(opium)という名称はケシ(poppy)の乳液を意味するギリシャ語のオポス(oπos)に由来するとのこと。「アヘンケシ」(opium poppy)。「ケシ(ソムニフェルム種)は医薬品原料として、重要な薬用植物です。インドから小アジアにかけての西アジア原産とされる1年草で、高さ100~150cmになります。全体に帯白緑色を呈し、ほとんど無毛。葉は大きな長楕円形で、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いています。5~6月に直径10cmほどの大きな花を開き、花弁は通常4枚で、白色、赤色、紫色などがあります。また、ヨーロッパで品種改良されたケシの園芸品種には、花の色がより鮮やかなものや、八重咲きなど様々な品種があります。これらのケシと(2)のアツミゲシは、麻薬の原料となるモルヒネを含有しているため、日本ではあへん法により栽培等が禁止されています。

(2)アツミゲシ(セティゲルム種)Papaver setigerm ケシ科ケシ属・・・北アフリカ原産の1年草で、愛知県の渥美半島帰化して大繁殖していたことからアツミゲシの名があります。ケシによく似ていますが、全体に小さく、まばらに小剛毛があります。高さ30~80cmで、枝分かれし、葉は狭心臓形で、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いています。花弁は4枚で、基本性質は紫色花とされますが、まれに紅紫色花もあります。繁殖力が強く、空き地などに野生化していてしばしば取り締まりの対象になっています。」

アグネス・チャンのデヴュー曲で有名な「ヒナゲシ」(虞美人草)は植えてもよいそうです。

「あへん法で規制されるケシ・アツミゲシは、開花期であれば毛の状態や葉の形および葉のつき方で見分けることができます」とのこと。そして、「不正なケシは葉や茎にほとんど剛毛がない」、「不正なケシの葉には葉柄がなく、茎を抱いている」、「不正なケシの葉の切れ込みは比較的浅い」とのこと。また、「全草(特にさく果・根)にテバインを含有し、麻薬の原料植物となるハカマオニゲシは、「麻薬および向精神薬取締法」によって、栽培が禁止されています。草70~100cmになる多年草。葉は羽状に深く切れ込み、全体に白色の剛毛があります。花は大きな深紅色で、花弁は4~6枚。通常花の下部に苞葉を6枚つけ、苞葉は蕾の時からみられ、最後まで残ります」とのこと。東京都健康安全研究センター » 不正なケシの見分け方 (tokyo.lg.jp)

それはともかく、認知行動療法唯物論的立場では困難だろう。これは神信仰の立場の方が親和性があり効果も上がるのではないだろうか?なぜならモノの見方を変えるということのためには、今までの自分の考え方、モノの見方を変えるための絶対的な根拠や基準を得られないと、例えば裁判で再審請求が受理される場合って新証拠が出たりとか、よほど判決が覆る可能性があるような理由が生じる場合であるやうに、個人はそれまでの認知の歪みを糺すためにはそれ相応の理由が必要なのだ。そしてそれって絶対性を扱い得て、今まで自分が刷り込まれてきたものを反転するための言わば逆刷り込み…ある意味、自己洗脳というか、セルフのマインド・コントロールが可能な宗教的理由に如くは無しって感じを受ける。ネガティブな自動思考を断ってポジティブ思考に転換してゆくためには聖霊の力が必要。対人関係で失敗すると、しばらくして脳内で自動的に時々、グサッ、グサッと刺さる記憶が出てきます。恥ずかしい感情がメインで添付される場合もあれば、怒りの報復感情が添付され、実際に翌日とかに報復として言い返して少しすっきりすることもあります。そのグサグサ記憶が出てくるというのは自動思考ではありません。フラッシュバックというと少々大げさんなので、仮に自動再現と名付けておきます。自動思考というのは端的に言うと脳内無言の独り言だということですが、自分はそういうのはあまりなく、すぐに感情ないしは身体反応が生じます。認知にはゼロか百か白か黒かといった極端な二択思考や、小事を人生全体における大事として拡張する過度の一般化や、ネガティブなことだけに焦点をあてる選択的抽出や、他人の意図を悪い方に思い込む読心術など、4つほどのパターンがあるそうですが、自分の場合は運勢の破局視的傾向が子どもの頃からあって強迫神経症気味であるうえに(日常の些細な行為でも普通にやっていたら悪いことになるよう設定されているので、それを乱して悪いことが起きることを回避すべく、傍から見たら奇行に思われるようなこともやり、それがルーティン化することもあるが、さすがに不審者と誤解されるような行為は思いとどまることはできる)被害妄想気味なので、職場などでも何か変わったことがあると自己関連付けのクセが出るようなことで、すくなくとも二極化思考以外の3つは確実に当たっています。対人関係でなめられたことがあると、しばらくして自動再現が出てきて、あの時こう言い返せばよかったとかこれを言わなきゃよかった…といった後悔の念が脳内に広がり、今やっている行為が疎かになってしまって、気づくと日常的な単純作業をミスっていたりします。なので自動再現が生じている時は単純ミスのリスクが高くなるので、それを防止するには目の前のことに集中するということを心がけます。自動再現は、イヤな場面が脳内で出てきますが、それをやり過ごすことは可能です。再現場面が生じても意識を他のことに向ければよいのです。しかしそれはまさに対処療法の一時しのぎであって、すぐにまた再現されてしまいます。意識対象の記憶のフィルムは円環なので、焦点が当てられているコマをスルーして別のコマに廻してもすぐに前のコマに廻ってくるのです。そういう状態から逃れるためには長時間連続で我を忘れるほどに何かに集中(熱中)するか、睡眠等で意識を失うかしないと無理でせう。酒や薬で意識を変えようとするのは安易な方法で、中途半端だと却って怒りなど不快な感情が高まり睡眠に支障をきたし、さらには依存になるのでよくないから、健康的な方法としてはまずもって運動です。毎朝、散歩することから始めます。日光浴を伴うとセロトニンの分泌が促進されメンタルヘルスに良いと云われるので、そう思って自己暗示をかけると少しは精神安定に役立つでしょう。実際は大した変化は感じませんが…笑 日光欲、リズム運動、咀嚼の他、トリプトファンをたくさん含むバナナを食べることもセロトニン活性化に役立つらしい。

セロトニンを出す方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)

  朝散歩以外でセロトニンを活性化する方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com) 

ところで、youtubeの樺沢紫苑チャンネルで和田秀樹氏が出た時に和田氏がご自身の娘さんが経験したエピソードを通して、いじめられっ子が自分のパフォーマンスを発揮できる世界を探すということに関して重要な指摘をなさっています(34:15~35:41/1:47:39)。精神科医・和田秀樹/樺沢紫苑対談 【2021.4.28】YouTubeライブ!【樺チャンネル】

「自分のパフォーマンスが発揮できる場所を探さないと、今いる場所がすべてって人間てつい思いがちで、よくいじめ自殺とかっていわれる人たちも、なんで逃げないのとか、なんで学校休まないのと言われるんだけど、そこしか世界知らないと逃げようがない(全世界になってしまいますのでね、そのひとつの世界がね)…だから数多くの世界を知らせた方がいい…」

・・・( )内は樺沢氏の発言ですが、これが重要であり、対人関係におけるストレスの苦しみというのも、その相手との関係が大げさな言い方かも知れないがその時の本人にとっては生活世界全体って感じになっていて、その相手との関係が自分にとって苦痛であっても逃れられないものになってしまっている場合があると思う。だからそうではなく、たかが学校、たかが職場の、全人生においては短い間だけの関係だし、大した意味はないものだと受けとめることが出来ない。だからそれほどまでに、言わば自分の人生において決定的なものであるかのように思い込んでしまっている対人関係の重さを軽減するためには、その対人関係をまずは観念的に相対化しなければならないわけで、そのためには絶対とみなすものが必要であり、それが「神」ということになる。「絶対=神」との関係に立ち返ることの生活上のメリットは、何よりも自分の思い込み…絶対化されている対人関係や世間的価値観(偶像)を相対化して、その束縛から解放されること。それが場合によっては自殺の防止にも役立ち得るというわけだ。

但し、即効性(速攻性)という点では自分の経験から、やっぱり少しでもいいから直接、相手に反撃することによって少しでもいいから成功体験を得て、それを積み重ねて対抗する自信をつけてゆくという方法と方向がいちばん健全であり、メンタル的に良いと確信する。もちろん和田先生の娘さんの例では実際に行動を起こして中学受験塾という具体的な場を得て、実際に自分のパフォーマンスを発揮するという行動につながり成果が出ているのだから、これは単なる観念レベルの気休めとかいうことではないが、認知療法的な方法…すなわちモノの見方を変えるとかいった主観主義的なやり方はどこか誤魔化しが感じられ、結局、相手と関わらない自分サイドだけの内向的な方法なので、どうしても現実逃避の気休め的な感じが残り、解決とか解消まで至り得ないからだ。前述の「絶対=神」信仰も観念的自慰でとどまってはダメで、和田先生の娘さんのように実際的な行動に結びつけられなければならない。それは信仰的には聖霊の力を受けるしかないわけだが、自分は基本、保守的立場なので、男はやはり直接対決で解決を目指すのが本来であるが、それは怖くて出来ないから認知レベルでの気休めのような方法を取らざるを得ないのである。言わば「信仰的認知行動療法」とでもいったことで、「認知」だけではダメで「行動」に結びつかないと実効性は得られない。心理療法的にも認知療法よりも認知行動療法の方がマシってこと。

キリスト教が弱者の宗教であるやうに心理学などは弱者の学問なり。しかし心理療法の如きは、ストレッサーに対して物理的な対応…すなわち暴力的な解決・解消を図るというリスクの高いやり方よりも正しいといった公共的・倫理的な信念によって支えられてはいる。しかし自分個人にとっては最善の方法であるとは限らない。暴力を避けられるのであれば、つまり話し合いで決着できれば、それに越したことは無いのである。しかし話し合いと言ったって感情的になりかねないし興奮すればすぐに手が出る者もいる。直接対決は話し合いだと言ったって、いつ暴力に発展するかわからないリスクがつきまとう。自分自身の場合は小心者で怪我をしたくはないので、やはり暴力につながりかねない直接的方法は用いたくはない。実際、一度、職場で相手からナイフを向けられた経験もあるからなおさら直接的な対応を避けて、心理療法に頼ろうとしているのだ。しかも認知療法的な、いちばん主観主義的で女々しく誤魔化しの気休め的なサイテー弱者のやり方に…である。

いずれにしても相手と腹を割って思っていることを言い合うことが本来の人間…特に武士道的な男子のあり方であるが、そのような正々堂々の直接的解決を志向できないほど弱体化した現代人が選択する内向的で自慰的な方法である認知療法などは、日本男児としては恥じることなしには使えないのだから、その効果もたかが知れているし、本当に女々しく恥ずかしいことだし、自己欺瞞的でさえあるということは重々、自覚しておかなければならない。心理療法それ自体が心身の弱者のためにあるようなものであって、自分は本来、弱者志向は大嫌いなので、心理療法などに世話になりたくはないのだけれど、脳の問題は現実そのものであって、けっして甘いものではない。それにしても聖霊の働きはメンタルヘルスにどのような影響を及ぼすのだろうか?そもそもメンタルヘルスの問題などは宗教で対応するほどのテーマではなく心理学的方法で対応すればよいのであり、宗教はもっと世界・人類レベルでの救済といった壮大なテーマを扱って然りだ…みたいな量義治氏の思想のような考えは私は持ちません。宗教こそ人間生活の足下の問題から対応すべきものだと思うからです。対人関係ストレスをいかに処理するか…といった問題はまさに宗教のテーマだと思います。

信仰は神の賜物であり、聖霊によって信仰心を与えられた信者にとって、メンタルヘルスの問題とはいかなることか?信者とて対神関係だけで生きているわけではなく日常生活は対人関係の中で生きているのであるから、当然ながらストレスによる苦悩もあるだろう。但し、信仰を持たない者とは何か違う。その何かとは対神関係において得られる御霊の実…「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22~23)などと言われている…要するに精神的な余裕です。ストレスに対しては、精神的回復力…レジリエンス(resilience)とでも言えるでしょう。寒い冬の朝でも早起きして日光を浴びながら歩いてセロトニン分泌を促す行動への気力も聖霊から与えられています!(^^)!

父と子と聖霊の三位一体なる神においては、どうせ祈るなら自分は、父なる神や子なる神よりも聖霊なる神に祈ります。…というのは、三つの位格とも「人格」(persona)と言われてはいるが、これはしょせん比喩であって、三つの位格の中では「聖霊」がもっとも非人格的すくなくとも非擬人的だから。祈りと言っても自分はいちいち言葉を口から声に出して言うようなことは致しません!神社の宗教でもあるまいし、聖書の宗教は御利益願いの宗教ではないのだから、いちいち願いごとするような祈りなんて意味が無い。世界の現実は創造主が聖定したままに成るべくして成るのだから…。声に出す言葉の祈りは「主の祈り」だけ。それさえも自分はあまり言わない。祈りはつねに聖霊の働きを感じながらの黙想、黙祷でよい!

ヨハネ福音書 141626節の「パラクレートス」は、「パラ」⦅そばに⦆+「クレートス」(~「カレオー」呼ぶ)=「そばに呼ばれた者」岩波版 小林稔訳では「弁護者」。

聖霊は下記のとおり「弁護者」などと言われてはいるが、はたらきとしては人格的な活動力であるとは言えるにせよ、けっして擬人化され得ない。

「〔将来、〕私が父のもとからあなたがたに派遣することになる弁護者、父のもとから出てくる真理の霊が来る時、その方が私について証しするであろう。」(ヨハネ福音書1526

聖霊の働きとして自分が最も重視しているのが理性の再生ということ(~「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ」の2022.04.23「理性の再生」)。 https://koumichristchurch.hatenablog.jp/entry/2022/04/23/114522

聖霊の働きに対して、人為的に精神(心)を制御する「マインド・コントロール」に関しては、法律との関係など、上祐氏がわかりやすく述べておられます。

【宮台真司×上祐史浩(前編)】なぜ高学歴エリートがカルトにハマるのか?現代日本の問題点と新興宗教について徹底討論 (youtube.com)

 

 

 

 

 

矢内原氏の「キリスト教入門」批判

自分は日本のキリスト教指導者の中でも思弁の巧みさという点では北森嘉蔵氏と並んで矢内原忠雄氏の著述にも関心を持ってきました。従って批判対象としての価値もその分高いと思います。ここでは矢内原氏の『キリスト教入門』を批判することを通して(否定的媒介の思弁法)、自分の信仰内容を披歴してみたいと思います。

矢内原忠雄 キリスト教入門 (aozora.gr.jp)

「新たにキリストを学ぼうとする人々は、導かれるままに教会に行ってもよいが、しかしまた教会で洗礼を受けなくてもキリストを信ずる道のあることを、知っておくことが有益であろう。それによって教会の不当な束縛から解放される人々も少なくないであろう。」という点は「無教会」の良いところだが、自分は基本的にカルヴィニズムの「聖定 >予定」説(のすくなくともアウントライン)を聖書に根拠ある教理として信じているので、その点では信仰を得た者は再生の理性により教会と無関係には信徒としての生涯を送ることはないと確信しています。もちろんそれはどこかの教会組織に所属していなければ救われないといった意味ではまったくありません。さりとて、新約聖書が教会を介しての信仰を示している以上、人生が信仰生活として定められている人は聖霊が教会の礼拝参加へと導くので、どこの教会組織にもまったく関係ないような人が神から信仰の賜物を受けているということは(重い障害とか病気など特殊な事情でもない限り通常は)考えにくいということです。

キリスト教によれば、神は人間ではなく、人間が神になることはできない。いわんや神は自然物とは本質的に異なるものである。神は人間と自然との創造主であり、造った者と造られたものとの間の混同を許さないのである。」という点は日本的宗教…特に神社神道と画然たる主旨であり全く同意ですが、神は全能なので人になることもできるということはあるわけで、キリスト教では「人が神になる」とは言わないが「神が人になった」とは言うのです。

また、「他の民族もしくは他の宗教でいう『神々』と、キリスト教の信ずる『神』との間には本質上の差異があるのである。要するに、神についての観念は、キリスト教において最も純粋化されたと言ってよいのである。」といった宗教進化論的な考えは、矢内原氏の時代はともかく今の時代ではほとんど支持されません。さりとて宗教多元主義の類も無節操といった感じで批判する人もいて、私自身も多元論的思弁は全く支持しません。それは多神教と同様、主体性を曖昧にした無節操な宗教論に堕した観があるからです。ちなみに宗教多元論批判では小田垣雅也氏の思弁が参考になりますが、ここでは引用致しません。

私はあくまで拝一神教的なエホバ信仰者です。ユダヤ教イスラム教ではなく、あくまでキリスト教を媒介した神信仰者ですが、キリスト・イエスは人間が神と関係するための「道、仲介者」すなわち媒体なので(ヨハネ福音書14:6、テモテ第一2:5)、信仰対象では「無」い存在です。自分が所謂ユニテリアンと違う点は、人道主義とか社会主義とかの思想は関係ないし、キリスト神話の意義は批判しつつ賛美告白の表現として認めるところはあるので、史的イエス主義ということでもないということです。「無い」というのはイエスが(絶対者という意味の)「神」では無いということです。「真に人」の意味は文字通り解しつつ「真に神」は文字通りには認めません(両性論は「キリストは一つの位格に二つの本性があると述べるが、本性が「混ざり合うこともなく、変化することもなく、分割されることもなく、引き離されることもない」⦅~カルケドン信条⦆という点を強調する立場)。信仰にもとづく賛美告白の表現として受けとめるということ。すなわち「非神話化」が自分流の「ケノーシス」の意味であり、キリスト・イエスという人物の存在意義が全く「無い」ということではなくて、「道」はどんなに無きに等しき小道であろうと、「道」は「道」であり、俗なる罪人が聖なる神と接触し得るための唯一の媒体なのだ。「父は我よりも大なる」(14:28)とある以上、「我と父とは一つなり」(10:30)とか「我を見し者は父を見しなり」(14:9)を三一説に結びつけて「父=子」と解するはあまりに稚拙なり、愚かなり。これは「父」と「子」との親密な関係を示しているにすぎないし、「子」が「父」と同じく神であるとの意味は全く示されていない。合掌。

「汝等はキリストの有、キリストは神のものなり。」(コリント前3:23)

「凡ての男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり。」(同、11:3)

「萬の物かれに服ふときは、子も亦みづから萬の物を己に服はせ給ひし者に服はん。これ神は萬の物に於て萬の事となり給はん爲なり。」(同、15:28)

聖書においてイエス・キリストは「親を映す鏡」としての「子」のはたらきとして、特にヨハネ福音書において、またはパウロ書簡においても、その従属的身分を示されているのです。

パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)、「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)

「エホバは世界に唯一・最高の神であって、エホバに並ぶべき神は他にない。」とか「エホバは絶対的な実在であり、したがって永遠的な実在である」ということは全く同意ですが、「キリスト教によれば、神があって万物が存在するのであり、神は万物存在の基底をなすところの実在である。したがってかりに現在の宇宙が消滅しても神は依然として実在し、神の実在を基底としてさらに万物は生成させられると信ずるのである。」という点は、「神の存在は生成においてある(Gottes Sein ist im Werden )」(~E・ユンゲル)といった神論も考慮する必要があると思います(これについては詳しくは当ブログの救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神での小川圭治氏の論文「神概念の転換――E・ユンゲルのバルト解釈を手がかりとして――」jcs_6_306.pdf (kyoto-u.ac.jp)の引用を参照)。但しその「神の存在は生成においてある」という場合の「神」は、「真に神」であるだけでなく「真に人」でもあるところの、すなわち生まれて死ぬという有限な身体の持ち主であるイエス・キリストを第二位格の御子とする三位一体の神であることを前提とします。同じ一神教であってもユダヤ教の神(エホバ)やイスラム教の神(アッラーフ)も「存在」するとして「生成」するかどうかはわかりません。すくなくとも本来の「神・霊」は「存在-生成」とか「不変・静止-変化・運動」といった二項対立を超えているからです。キリスト教の場合、テモテ第一6:16では「ただひとり死のない方であ」ると言われており、伝統的には変化しない静止的な神観が主流だったようですが、現代神学ではそれが形而上学的であって聖書が示す「生ける神」ではないとみなされ、生成流転とか生成消滅とか言われるように変化する存在とみなされるようになりました。しかもそれが「三位一体」との関係で言われているわけです。古来、「存在」と「生成」とは形而上学におけるアポリアであり、それを克服するような野心が現代の哲学者さらには現代の神学者にみられるということです。ギリシャ哲学の影響を受けた伝統的キリスト教神学の神観は静的ですが、現代の聖書解釈において啓示された神は、不変であり、かつ、動的ということで、それを表現したのが「存在は生成においてある」いうことなのでしょう。だから私は、聖書が示す神より前の(…「前」と言っても無時間的・永遠的次元でのことなので「前」も「後」もないのですが、比喩的に言えば「後」ではなく「前」であり「本来」であるところの)、つまり、啓示された「神」ではなく、啓示(=自己限定・自己対象化)する主体としての「神・霊」(ヨハネ福音書4:24)にこそ意識を向けなければならないと信ずるのです。それはあらゆる二項対立を超えるので、八木誠一氏の用語である「創造的空」とでも呼ぶのが相応しいと思います。それって所詮、観念にすぎないじゃないか!と批判されてもしかたありません。たしかに「啓示」される「前」なので聖書に明記されているとは限らず、その点では観念と言えなくもないでしょうが、暗示的にではあれ聖書から察し得る部分はあるし(具体的には「遍在」を示す箇所⦅詩篇139:8、エレミヤ23:23,24⦆。啓示される「前」の本来の「神・霊」は、ぎりぎり対象として論理的に言えばスピノザの神観に近い。⇒< スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たち人間は有限です。空間的には身体という限界を持っていますし、時間的には寿命という限界を持っています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。> 

スピノザの考える「神」とは - NHKテキ

 

無論、私の神信仰は「汎神論」ではなく「汎在神論」の方に近いが、外部なしということは聖書の創造説と合わないので、その点では「汎」無しの「有神論」的立場であり、しかもキリスト教に対しては一つの宗教として相対視して批判する立場なので、「拝一神教的有神論」ということになる。すなわち自分たちにとっては聖書の神エホバが天地に唯一絶対であるが、自分たち以外の人々においては関知せず…ということで、論理的には自分たちの信仰的立場の相対性を含意するということ。※太字は私記。)、そもそも信仰の対象範囲は啓示において限定され、科学的・客観的に認識したり証明することはできないのですが、私自身にとっては現実に経験している対神関係における信仰対象であることに違いはないのです。但し、八木氏の神論に欠如しているのは「創造的空」(神=霊)が啓示された「神」は人格神であり、量義治氏の言われる「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」であるということです。逆にその量氏の神論に欠如しているのは擬人化されない「神」の人格性ということであり、聖書の神話に対する批判的視点と、対神関係の「種・類」に対する「個」の優先性です。すなわち量氏は、「現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。もはや文明はあがけばあがくほど虚構を堅くし、空虚の深淵に落ち込んでゆくであろう。このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。」と述べておられますが(『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p215~216)、私見では誤解を招くおそれがある文章だと感じます。人類の普遍的救済のためなら、神話を無批判に事実として信じるべしといった「知性の犠牲」的主張ともとれるからです。すくなくとも個別救済よりも普遍救済を、知より情・意を優先させる量氏の考え方には偏向があるので、「宗教哲学入門」と題された、本来はニュートラルな立場であるべき書物の内容にはなじまないと思います。たしかに聖書の創造神話にはそれなりの意味があり、「単なる神話」だとか「虚構」だということではありませんが、著者の量氏の立場が、いかに救済を第一目的とする救済宗教にあるとは言え、自然科学を学問の中心とする現代にあって宗教を論じる以上、八木誠一氏のようにより普遍性ある表現に努めて然りであって、歴史の終末とか死後の救いを語る前に、生きている今の時代の現実的な救いが語られるべきです。多くの現代人にとって宗教の意義とは、個別的限界状況に耐え得る希望や活力を呈示し得るかどうかにかかっているのではないでしょうか?逆に、寺院や教会などの組織が信者個々人よりも前面で出る宗教、個人主義的宗教観ではなく共同体主義的宗教観は、多くの現代人…特に日本人にとってはどうしてもカルト教団のような洗脳やマインド・コントロールをするような印象に傾くのではないでしょうか?実際、普通のキリスト教会であっても程度の差こそあれ多少は何らかの刷り込みはなされるのです。それは教えるとか伝えるといった上下関係が成立する環境においては避けられないことでしょう。だから私はその点で無教会主義に近く、教会組織はあくまで個々人の信仰生活の媒体であって本体ではないと考えます。無教会の集会も教会のような組織とは異なり、その会員になることが救いの要件ということではないのです。あくまで聖書が示す救いについて学ぶ機会となり得るだけです。

三一神論的には、御子は御父から生まれ、御霊は御父と御子から発出される…というわけで、永遠の相においては三一神の存在はこのような生成運動として認め得るということでしょう。聖書の神は生けるお方であり、けっして静止してはおられないのです。出エジプト記3:14「エフイェ・アシェル・エフイェ」の「エフイェ」は「在る」という意味だけではなく「成る」という意味もあり、言わば「存在」と「生成」の二重性です。しかしこの「生成において存在する神」は、啓示前・本来の「神・霊」ではなく、その啓示として(…自己対象化として)聖書で物語られている神話の「神」です。たとえ経験世界が生成流転とか生成消滅とか云われて、「生成」との関係なき「存在」など観念世界でしかあり得ないと言われても、本来の「神・霊」は人知を超え、その経験世界などは超えているわけで、同じ神話なら、仏教の縁起的世界観…すべてが「空=非実体」の世界においても、創造主エホバのみは実体として自存して「空」を突き抜け出ているといった物語の方が、どうせ神話を物語るのであれば、聖書の神話として相応しく好ましいと、私自身は思う次第です。

また、エホバが「歴史を通じて顕現される神である。すなわちエホバの完全な性格と能力と栄光は、人類の歴史を通じ、その発達段階に応じて啓示され、顕現されていくのであって、人類の歴史の最初からエホバの全貌が現わされているのではない。エホバの全貌は、人類の歴史の完成する時において人間に現わされるのである。永遠的実在であるエホバそのものに変化と進歩があるわけではないが、エホバの顕現には進歩がある。それは人類の歴史の進歩に照応するものであると言える。このようにエホバの顕現が歴史を通じてなされることは、エホバが人類の歴史の中に生きてはたらくからであり、そのことはまた、エホバが人類の歴史の指導者であることを意味する。」ということ、これは矢内原氏の用語ではなく、一般的に「啓示の漸進性」とか「漸進的啓示」などと云われますが、これについては特に注意が必要です。

つまり、本来「神」は「霊」であって、「エホバ」はその非対象的な(…というか「対象-非対象」とか「人格-非人格」とか「存在-生成」とか「実体-作用」とかいった分別・二項対立を超えた)「神」が言わば自己限定して(…というふうに擬人的に表現するしかない)、特定の時間(歴史)と空間(国)の中で神話として物語られるべく自己対象化した(…それが「啓示」された)存在であって、だから「エホバ」とか「エフワー」とか「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」などと発音されるテトラグラマトン(神聖四文字YHWH)で表される名前があるわけで、その「エホバそのもの」も「変化と進歩があるわけではない」けれど、「エホバの顕現には進歩がある」ということです。

だから「三位一体の神」という教会の神観も、信徒個々人レベルでは必ずしも聖書に即した神観として納得はされず多くの人々が疑問を呈してきましたが、教会組織の維持運営に伴う実務上の歴史的な神観としては、その「啓示の漸進性、漸進的啓示」などというロジックを用いないことには、旧約時代には御子(イエス)や聖霊はどこでどうしていたのか…?という問いに答えられないわけです。なにせ旧約聖書にはイエス・キリストなど出てこないのですから…。しかし「啓示の漸進性、漸進的啓示」といったドグマを用いることによって、実在としては創造の時から御子(イエス)も神としておられたが旧約聖書の諸文書が書かれた時代に至っても未だ人間には認識されていなかったから書かれていないだけであって、イエス自身はエホバと共にちゃんと存在はしていたのだ…と言い得るわけです。全然説得力はありませんが、いちおう理屈は通るし、聖書的根拠という点でも、旧約聖書でこう書かれているのはイエスのことを指しているんだよ…といったこじつけの説明がなされるわけです。しかしそれによってイエスは神とみなされるどころか天使ではないのか…?という疑義も生じてしまったように見受けられます。そのようなおかしな…というか行き過ぎたキリスト中心主義的キリスト教を修正すべく、私は新約聖書学者・青野太潮氏の以下の文言を常に掲示しておきたいと思います。(太字は私記。)

「しかし、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」

(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」160824-04.pdf(touhokuhelp.com)

※「認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない」という点は、私の見方とは異なります。私は「神が受肉したことが啓示と考えるので、他に啓示はないことになる。旧約時代には啓示がないことになる」というバルトやブルンナーの「キリスト集中論的啓示観」を真っ向から批判した改革派神学者・ベルクーワの説に立つので、その点では青野氏の御説とは違いますが、コロサイ書1章などのキリスト神話の無批判的読解によって御子キリストを創造主とみなす立場に対抗する点では同じです。

 minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

私見では「三位一体」神論の根本的な欠陥は、第二位格の子なる神(=イエス・キリスト)がカルケドン信条においては「真に神」であるだけではなく「真に人」であるとされているという矛盾です。「われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。」(~カルケドン信条)ということで、「真に人」であるイエス・キリストは「肉体」を有って昇天し在天して神の右に座しておられるわけです。「肉体」(物質)を有つ「神」が三位一体の第二位格であるというわけです。しかるに、「真に人」(相対かつ有限な存在)である以上、それが「真に神」(絶対かつ無限な存在)と一体化されることがないことは、聖書の示す神が、「造った者と造られたものとの間の混同を許さない」という原理原則に反するからです。しかしこのような論理的矛盾も不整合も、信仰および救いの個人主義的見方を排して教会主義的見方をする場合には問題にはなりません。なぜなら聖書において「神の國は言にあらず、能力にあればなり。」(コリント一4:20)と言われているとおり、救われるためには信者各人の個別の理屈などよりも信仰共同体に共通の体験および教会の権威の尊重…といったことになるからです。しかし私は、自分自身が理性で納得できないことを盲信するつもりはさらさらありません。「知性の犠牲」などと大げさに言えるほどの「知性」など持ってはいないにせよ、それが自分の宗教に対する基本的なスタンスであるべきだと自覚しています。キリスト教会もしょせん相対的な宗教組織の一つであり、カルト教団の如く洗脳とかマインド・コントロールを犯すとまでは言わずとも刷り込みによるメンタルヘルスへの影響は十分注意すべきことなので、そのような団体の営みに対しては自分が持つ一分の理性も犠牲にはできません。むしろ批判することを通して検証するしかないと思います。

また、私は神論よりもキリスト論よりも、また創造論や救済論よりも、なんと言っても聖霊論こそが第一に重要だと思っています。聖霊は感じるものです。神やキリストは出会うものであり、それとの関係は人格性が濃厚です。神やキリストは見方が擬人的になりやすいです。

聖霊ヨハネ福音書14:26において弁護者(パラクレートス)として人格的存在化されていますが所詮は比喩であり、「神は霊」(ヨハネ福音書4:24)とあるとおり、結局、父と子(という言い方も比喩)と聖霊の三位一体の神は(「人格ー非人格」とか「対象-非対象」とかいう分別を超えた)「霊」であり、父とか子とかいった人格的存在としての「神」を中心にして三位一体なる神を観ること、イメージすることは一神教同士の対立及び戦争に陥るので、聖霊を中心にして三位一体なる神を理屈で知るのではなく体験的に知る…感じる…ということがよいと思います。理屈はえてして排他的ですが体験は必ずしもそうではありません。聖霊に感じさえすればおのずと教会の教義・信条(ドグマ)を受け入れるようになるとは言い切れませんが(教義・信条それ自体は相対性を免れ得ないから…)聖化された知性や理性において聖書全体の核心部分である「イエス=主・神の子・キリスト」という信仰告白に導かれることにはなるでせう。パラクレートス(助け主)である聖霊 | AMOR (webmagazin-amor.jp)

この「イエス=主・神の子・キリスト」という信仰告白の意味は、イエスを絶対者と信じ告白するという意味ではまったくありません。そうではなくて、イエスという人は神(=絶対)の聖霊に満たされて生きた人である…ということ、その霊満者イエスの対神関係の生き様を福音書を通して参考にするということです。

 

 

 

 

 

 

キリスト教的人格神観から「(創造的)空」と、諦観と絶対神信仰と価値相対主義 ~「絶対」と「他者」とを分かつ高柳氏と小田垣氏~

宗教に関して、学者はとかく個人主義的傾向をまるで劣等コンプレックスのように嫌って、社会主義的であるべきだ、本来は共同体主義的であるのだ…といった趣旨のことを言いたがります。「こころの時代」の「無宗教からの扉(6)慈悲の実践」(2022年)における阿満氏の解説にもそのような傾向が感じられました。高木顕明師の思想は宗教社会主義というか念仏社会主義といったものであったにせよ、それが真宗ないしは宗教の唯一の見方とか生き方というわけではないはずです。同じ浄土真宗においても、結果的には本願寺派西本願寺)のスローガンでもある「御同朋の社会をめざす運動」の推進ということにはなるにせよ、そこに至る過程が、道が、ベクトルが、はじめっから社会主義的に入るのか、それとも個人主義的に入ってそこから社会主義的に展開してゆくのか、すなわち自己の問題に徹底することを通して他者との共通課題への答え探しに通用し得る…といったアプローチもあろうかと思います。結果となる目的地は一つなれど、そこに至る道は一つでない、とうことはあり得ると思うのです。親鸞の生き方はまさに個の問題に取り組むことを通して種・類の問題に答えを見い出してゆく…という方向性だったと解します。ところが阿満利麿氏の解説はそうではなく、まるで高木師のような生き方こそ真宗徒ないしは宗教者の理想であるかのような言い方でした。悪しき所謂ゼロ百思考、個人主義社会主義かの二者択一の白黒思考です。これでは宗教的実存の自覚として浅いと言わざるを得ません。高木師の置かれていたような時代・社会状況ではそのような狭い考え方に陥ったとしても無理からぬことだとは思いますが、現代日本宗教学者がそれではダメです。慈悲の社会的意味は当然といえば当然で言わずもがなでさえあるわけですが、問題は答えに行き着く方向性です。「明治以降、日本社会、宗教、?日本の社会状況というのはたいへん厳しくてですね、天皇崇拝というものを維持するためにですね、宗教というのは個人のことなんだと、しかも私事なんだと、こういうふうに宗教というものを閉じ込めてきている」などと言っておられます。これではいかにも宗教は本来は社会主義的なものであるのに、日本では天皇制の維持のために都合のいいように宗教を個人主義的なものとして国民・皇民に喧伝したのだと言わんばかりです。これは非常に浅薄な宗教理解であり、歪曲された宗教解説ではないかと思います。そうではなく、宗教は本来、社会か個人かといった分別を超えた次元から始まるものであって、そこで個から種・類へという方向性が生じてくるのだと思います。お釈迦さんが個人として瞑想して悟りを開いたことが社会に救いをもたらしたのです。イエスとて自身の個人的な対神関係から弟子との共同的対神関係となり、それを通して社会的意義を持つようになっています。出発点はあくまでも個であり己事究明であって、いきなり共同体とか社会から始まっているのではありません。八木誠一氏の「創造的空」の思想も、法則的には統合作用であって共同体形成ですが、それは結果であり、始まりはあくまでも個としての自覚であり、単なる自我から自己・自我への他力的変革なのです。それが私の言う「聖霊のはたらき」です。

以下、菅原伸郎氏のレポート「八木宗教哲学 禅と浄土をめぐって」の「討議 Ⅲ」より引用。 八木宗教哲学

「わたしが創造的空というふうに言う、その場合の創造的空というのは、これは創造ですから、働きなんです。ただ、創造的空といった場合に、そこから出てくるものとして、僕は統合作用というものを置くんです。それで、創造的空の中で統合作用が働いて、全部が統合体になるわけじゃもちろんないんだけれども、順調に、条件に恵まれているものが統合体へと変わっていって、現在の我々人間の世界に至るまでの連鎖があると。そうすると、創造的空と、それから統合、それからそれによって成り立つ個々の人という、三つのものが出てくるんですが。わたしはこれが、仏教の所謂三身論ですね。ダルマ・カーヤーとサンポーガ・カーヤーとニルマーナ・カーヤーですか、それと対応するのが、よく三位一体だと言われるんですけど違うんです。三位一体というのは、神の、いわば内部構造のことだから。そうじゃなくて、三身論が対応するのはむしろキリスト論なので。ロゴスとキリストとイエスと、その三つに対応する。だから、ロゴスといった場合、それはまた神自身とは区別されるんですが、仏教のほうではその区別はなくて、事柄上両方含んでいるように思われます。そうすると、そこで、いずれにしても、サンポーガ・カーヤーということがあって、それは方便仏というふうにも言われるわけです。方便仏というと、ちょうど、創造的空がダルマ・カーヤーに対応するとすれば、方便仏とは統合作用(つまりキリスト)に当たるわけなので。そうすると、これが方便に当たるのかな。考えてみますと、やっぱりそういうところがあると僕には思われるんです。」云々。

以下、八木氏と秋月氏の『徹底討論  親鸞パウロ』より引用。

(秋月氏)「私が分からないのは、阿弥陀仏をなぜ『報身』と言わなければならなかったかということです。わざわざ非歴史的な法蔵という名の比丘を持ち出して、その菩薩が、四十八の願をかけて、五劫の思惟という修行の末に大願成就して、その報いとして得た身が阿弥陀仏だ、と言うでしょう。なぜそんな神話が必要だったのか。まあ、いちおうは前に言ったように、『覚』と『法』の宗教のなかから『人格』信仰が起こってきた、というふうに考えているのですけれどね。」(p147~148)

(秋月氏)「『法蔵菩薩の神話』と『イエス・キリストの贖罪神話』との間には、『信の宗教』としてのあまりにも相似た照応があることは否定できません。この『信の宗教』としての共通点にもかかわらず、両者の間には決定的な相違点があるというのです。これもその頃聞いた話なのですが、イエス・キリストの贖罪は厳然たる歴史的な事実なのに、阿弥陀仏の本願は法蔵菩薩の神話にすぎないという説です。それは、イエス・キリスト受肉を歴史上ただ一回きりの神の啓示であるとする正統派神学から当然に出て来る立言なのですが、私は先に思わず『法蔵菩薩の神話』と並べて、『イエス・キリストの贖罪神話』と言いましたが、贖罪の事実も、異教徒にとっては、一種の神話にすぎないと思います。だからと言って、これを事実ではないとしてむげに否定しようというのではなく、いわゆる非神話化する、すなわち、神話の形で伝えられたものにひそむ実存理解を取り出すことが大事なのだと思います。このことは、キリストの贖罪についても、弥陀の本願についても、まったく同じことだと思います。」(八木氏)「歴史的事実という点からすれば、イエスが十字架につけられて刑死したのは歴史的事実ですが、贖罪という意味づけは、歴史的客観的事実の次元の事柄ではありません。だから歴史的事実性とそれが人間の救いに対して持つ意義・意味とは、区別して考えたほうがいいと思います。贖罪は神話といえば神話ですが、解釈といってもいいでしょう。」(p30~31)

「贖罪」は神話と言うより、やはりイエスの十字架の「解釈」と言う方が適切かと思います。神話は単なる作り話ではなく、それなりの意味があることはわかります。しかし現代の科学的世界においては、神話を史実として語り伝えることは悪です。キリスト教をはじめとする宗教にはそのような面があります。ユダヤ的直線的歴史観の相対化によって、歴史の定義が多様化していますが、そういうことは許されません。歴史観は国際的に一致しなければなりません。実際、基本的には共通しているからこそ国際政治も成り立ち得るのではないでせうか?しかし歴史観が共有されていない部分もあって、そこに政治的混迷も生じるのでせう。いずれにしても、「新天新地の到来」といった世界的終末論的救済という至上目的を掲げて、その実現のためならキリスト教の神話の如きを歴史的事実として受容するかの如き宗教哲学者・量義治氏のロジックは「知性の犠牲」以前の「人間性の犠牲」として厳しく批判されなければなりません。それって私的には聖霊による「再生の理性の犠牲」にほかなりません。当方、福音派信者のように純朴ではないので、「ただ信ぜよ」と言われても、特に神話を史実とみなす教会のドグマについては決してそうはいかないわけです。( `ー´)ノ

「ただ信ぜよ」『구주의 십자가 보혈로』일본어 찬송가 한글자막 新聖歌182番/424番 Down At The Cross Where My Savior Died(Japanese Ver.) (youtube.com)

それにしても量氏の思想は比較的わかりやすくとても参考にはなるが(…特に気に入った言葉がコレ ⇒「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」⦅『宗教哲学入門』p108~109⦆…この量氏の神観は、「遠き神」として人格性および擬人性が稀薄であることを前提とするなら、私にとっても諸偶像の相対化による精神的均衡保持のための基軸として有効であり必要。 逆に、受け入れられないというのがコレ⇒「信仰というのは意識の事柄(認識論的事態)ではなく存在の事柄(存在論的事態)である」⦅…『無信仰の信仰』〔ネスコ/文藝春秋〕p53、『関根正雄記念 キリスト教講演集 Ⅰ, Ⅱ 』(関根正雄記念キリスト教講演会準備会)p62⦆…対神関係と、その関係において神から与えられた人の応答行為である信仰とを混同しておられる。人の意識なくして、神から人への関わりは成り立つが、人の神に対する信仰は成り立たない)、キリスト教については三位一体論も「絶対有にして絶対無」(前掲書p231~232参照)という修正くらいであとは穏健というか正統的であり、また、宗教哲学であるわりには、「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(前掲書、p197)といった「個」と「類」とが対立した非弁証法的救済観を示しているので、全体的には「個即類」的救済観の八木誠一氏の「創造的空」の思想の方がなんぼかよかろう…。(;´∀`) 現代社会は精神が病んでいる人が多く、救いといえばいきなり世界・人類などといった大風呂敷を広げて言うのは偽善的に聞こえます。えてして対人関係で苦労と言えるほどの苦労を知らないインテリのエリート層の人々は何かにつけ共同性を美化します。怨憎会苦の経験が不足なのでしょう、世の中の現実がわかっていません。他者との関係(倫理)なしに宗教的救済なんてあり得ないと言うのです。キリスト教神学者も聖書が示す救いは個人的ではなく団体的であるというわけです。たしかに終末論的には「新天新地・神の王国・神の支配」の到来といったことになるのでせう。しかしその実現は「個」の救いなしにはあり得ないとも言えます。宗教の教えを説く前に、その教えを受けることができる社会的環境づくりが必要だということで宗教者の社会実践…しかも世代を越えて継承されてゆく宗教的社会変革などということも言われますが、自分はそのような大きなことは考えません。コヘレト教で十分です。不条理に満ちた現実の中で正気を維持して生きてゆくことに精一杯の個人がいるのですから、自分自身の救いに集中してゆけばよいと思います。そこはコヘレトの知恵に学んで、ささやかな楽しみに神の賜物を感じ取り、人生を肯定的に過ごしてゆけばよいと思います。社会変革などというのは精神的にも物質的にも余裕あるインテリ&ブルジョワの方々におまかせすればよいと思います。自分たちは個の救いに徹することを通して世界・人類の救いへと広がってゆくことを信じるだけです。個人主義的救済論を否定するなら、現代のストレス社会における救いはありません。精神的な重荷を負うて苦しむ個々人がニヒリズムに陥ることなく自殺を思いとどまることができる教えがあるのなら、宮澤賢治が言ったとされる「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのは質屋の長男坊として育ったファンタジー好きの彼にして言えた美辞麗句であって、インテリが好む普遍的救済や世界平和・人類の幸福といった言葉は日本国憲法の前文の如く理想的で聞こえは良いけれど、苦悩を抱える生身の個々人の現実的な救いにはなじまないのではないかなと自分は思います。だからどうせ格言めいたことを言うなら、「個々人が幸福になれないうちは世界全体の幸福はあり得ない」と言う方がまだマシだと思います。個々の救いや幸福の内容は人それぞれ。人生色々です。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』後序より)

ある意味、切実に心身の救いを求める宗教心とは究極のエゴイズムです。他人のことを慮る余裕など無いのが個別的限界状況というものです。

「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著前掲書p93)

無論、自己は実体ではなく関係存在として存在しているわけで、対人関係が不要だ、対神関係だけでよい…などといった神秘主義的な戯言を言うつもりはありません。対人関係なしに個人の人生が成り立たないことも現実です。問題は、個人か社会かの2択ではなく、個から社会へ…なのか、社会の中で個が…なのか、です。

「たしかに私のこの身体は存在していますが、この身体を私の身体であると言うときのというものはそれ自体としては存在していません。私が私であるというのは、他との関係で私なんですから、そういう関係から切り離したら、私というものはなくなってしまうわけです。(中略)属性の集合が自我なわけです。」(岸田秀著前掲書p14 ※下線部の文字には傍店がふられている。)

「自己の個体性といった場合(中略)むしろ、名もなき庶民、平凡な暮らしを営む万人がみな、それぞれ、かけがえのない、ひとごとならぬ、それぞれの尊い人生とその一回限りの人格的生涯を生き抜いているのである。(中略)ヤスパースは、このように自己自身へと態度を採り、それを通じて超越者へと態度を採ることを、人間の実存と呼んだ。自己の自己性は、そうした実存に存すると言ってよい。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p95~99)
「『限界状況』を見つめることによって初めて、私たちは、『私たち自身へと生成』してゆくことができるのであって、『限界状況を経験することと、実存するということとは、同じことなのである』。そこでこそ初めて人間は、『存在を確認することができる』のである。」(同著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p149)

 

以下、引用文中の太字は私記。

新約学者のブルトマンはイエスの復活は神話であり、それは神話の形式で、イエスの十字架上での死という史実の意味を表現しているのだ、と言った。イエスが十字架上で刑死したのは、人々を後期ユダヤ教の非人間化から救い出そうとし、そのことが多くの虐げられた人々を周囲に集める結果になり、一種の社会勢力になって、それが当時のユダヤ教指導者たちにとって危険思想になり、遂に政治犯として刑死したのだという。そのことに対する弟子たちの感動が、復活神話になったのだと。現今、合理主義者であるか否かは別として、イエスの復活を文字通り信じている人は少ないだろう。しかしブルトマンに代表されるようなこの人々の復活理解は少し違うのではないか。ロマンティシズムの見解によれば、たとえば無言館の青年たちの絵が、それとしての欠如と中断をもちながら、ある種の完成に直結しているように、イエスという一人の人間の刑死、すなわち欠如と中断の中に、人々がある種の永遠性を見たということ、それが復活ということの現実ではなかろうかと思う。人間イエスの実際の行動の中に、普通の人間の欠如や中断があることは明らかだ。それがなければイエスは単に架空の神の子になる。しかしそれにもかかわらず、イエスは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ、二の七)のである。その普通の人間の中に臨在している神の子性を、イエスの復活という神話で聖書は表現したのではないかと思われる。昔、シュライエルマッハーというドイツの神学者 (1768-1834) は、イエスは単に人間の模範(Vorbild)ではなくて原型(Urbild)であると言った。シュライエルマッハーはロマンティシズムの代表的神学者だが、模範、つまり人間としてのイエスの中に、原型としての、つまり永遠の人間性を見たこと、そのことが、復活節の真意ではあるまいかと思われる。>(~小田垣雅也氏のみずき教会説教「無言館」)※無言館とは、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館。小田垣氏はこの説教の前半でそこに見学に行った感想を述べ、遺作について「未完成即完成」と言っています。

<イエスの復活を文字通り信じている人は、現代では少ないだろう。ルードルフ・ブルトマンという現代の神学者新約聖書の非神話化論を唱えたことで有名だが、エスの復活は神話であると言う。新約聖書にはイエスの復活をはじめ、その他にもいろいろな神話がある。神話の中にある不思議な話は、当時の世界観にもとづいたことであり、その当時には不思議な話とは思われなかった。当時の宇宙観によれば、宇宙は天・地・陰府の三階層からなっており、天から天使が、陰府の国からは悪魔がこの地上に出てきて、不思議な業を行っても、それは不思議なこととは思われなかった。だから古代とは別の現代的世界観をもっているわたしたちが、神話を文字通り信じる必要はなく、むしろそれは有害で、問題はそれぞれの神話がその不思議な話で表現しているその「意味」を、わが身のこととして、受け取ることが大事であると言う。それが神話の「実存的」解釈である。そしてその手続きが非神話化論である。イエスの復活に関して言えば、イエスの人々に対する、とくに虐げられている人々に対する根源的な同情のゆえに、多くの人々がその身辺に集まる結果になった。それが新しい宗教勢力になって、当時のユダヤ教の特権階級に自分たちの保身の危険を感じさせ、自分たちの特権を守るためにイエスを捉え、十字架に架けて死刑にした。それが史実だとブルトマンはいう。そしてその史実の「意味」が復活だというのである。十字架刑にいたるほどに神に忠実であったイエスに感動した弟子たちが、当時の世界観では珍しくなかった復活をイエスに適用し、イエスが復活したと唱えはじめ、それが原始教団のはじまりになった、という。イエスの復活を信じた弟子たちがあつまっていると、使徒言行録二章一~四節にあるような聖霊臨降の出来事があり、それによって、それまで神の国を宣教していたイエスが、宣教される者となって、それによってキリスト教会が始まった、とされるのである。そこには次のように書いてある。「五旬節の日が来て一同が一つになって集まっていると、突然、烈しい風が吹いてくるような音が天から聞え、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」これも神話的表現だが、これがいわゆる原始教団の復活節信仰の始まりである。ブルトマンに代わって言えば、この復活節信仰の発生までは史実であった神の国を宣教していたイエスの刑死が、この聖霊臨降によって、その「意味」が分かり、宣教される者となって、キリスト教会が成立した、というのである。このブルトマンの復活の非神話化論は説得的だが、根本的な難点があるとわたしには思える。それはこの聖霊臨降、つまり復活節信仰の発生が、弟子たちの上に一斉に起こった史実として理解されている点である。実際、わたしが学生のころも、「この時点で教会が始まった」と講義された記憶がある。しかしイエスの復活はもちろんだが、それを信じた弟子たちへの聖霊臨降とは、そのような、時間や場所が特定されるような、対象的史実だろうか。>(~みずき教会説教「イエスの復活」)

私もブルトマンのように復活が史実ではなく弟子たちが宗教体験を通して語った神話であると考えますが、さりとて復活が史実である十字架の意味を表わしているといった抽象的解釈には違和感を抱きます。さりとて、小田垣氏のロマンチックな解釈も抽象的でいただけません。復活はブルトマンが指摘するとおり、あくまでも史実ではなく神話ですが、その意味は十字架刑死という最低の出来事を、父なる神の力によって贖罪という最高の出来事へと変えるための媒体なのでしょう。復活がなければイエスはただの極悪政治犯でした。復活顕現という共同主観が成立してこそ、イエスの十字架刑死が積極的意義を得たのです。たとえ実証的歴史の次元とは別の救済史の次元に於いてであっても、要は、イエスの十字架と復活に対する積極的・肯定的解釈を可能とする以上、福音主義信仰に反するものではありません。むしろ復活を史実として説教することは、実証的歴史と救済史との区別がつかないことを露呈しています。

そもそも私の聖書的神信仰においてはキリスト中心ではありません。あくまでも神中心です。いや、キリスト教ユダヤ教イスラム教とは違って、イエス・キリストという存在が「神」と「人」との「仲保者・仲介者」として介在する意義はわかります。だって人間(相対)は「(原)罪」があって汚れているので、聖なる神(絶対)と直結できませんから、「神(絶対)」と「人(相対)」との間に、「真に神(絶対)、真に人(相対)」というイエス・キリストという特別な存在が立っている必要性があるわけです。人から見れば、神へ向かうための「道」としてキリストが存在するわけです。しかし、キリスト教はそのイエス・キリストを「三位一体」の神の第二位格とするのです。これは「道」を「目的地」と混同することを意味します。それは「神中心」ではなく「キリスト中心」とすることを意味します。

私は、救済論第一ではなく創造論第一です。おかしな神学者創造論から入ると差別になるかのようなことを言いますが、ユダヤ教を母体とするキリスト教は共通の土台から始めて然りでせう。従って私にとって創造主はイエス・キリストではなく、あくまでもイエス・キリストの父です。キリスト論の意義は私の場合、テモテ第一2:5「事実、神は唯一人〔ただひとり〕、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波版 保坂高殿訳)の「仲介者」としての「人間」であって、カルケドン信条における「真に人」は文字通り受けとめますが、「真に神」は賛美の表現として修辞的にしか受けとれません。文字通りに取るということは、自分の場合「神=絶対」なので、一個人を絶対化する愚を犯すことになります。プロセス哲学ではイエスを「創発的(emergent)進化の被造者」だと言うそうですが(野呂芳男著『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p226)、「被造者」といわれている点が重要です。アリウスにせよ、現代では「エホバの証人」にせよ、イエスは被造物だということだから、プロセス哲学もその観方に沿っているということでせうか。異端とのそしりを気にしないのであれば、自分も当然のことながらイエス・キリストは被造者であると言うことになります。従って仲介者であり、目的地ではなくそこへの道であるイエス・キリストは信仰の対象ではない…すくなくとも究極的対象ではない…ということになります。私は三位一体の「一体」(同一実体・同一本質)は形而上学的意味では断じて認めません。それこそ理性も知性も犠牲にすることであり、正統的キリスト教ドグマを盲信することを意味します。イエス・キリストの贖罪ということが重要になるのは神信仰が人格神観が前提となる場合です。すなわち「神」の前に罪を犯しながら生きていることは信者として葛藤を抱きます。例えば、近親相姦の罪を犯しながら(…自慰行為における妄想の内であっても…)神信仰を生きることは恥ずかしく苦痛です。「神」は聖なる存在であり、その聖なる存在の前で生きるには自分に汚れがあってはならないからです。それは自分の中にはたらく聖霊に反する状態だからです。その矛盾を解消するには、そのような罪を贖ってくれる存在が必要になります。それがキリストです。彼の、過去・現在・未来に及ぶ贖罪の福音を信じることなしには、人格神との関係を生きることはできないのです。逆に言えば、人格神観を放棄して非人格神観に交替することができれば、罪ある状態での対神関係も恥はなくなります。しかしそれは伝統的なキリスト教の環境で育った者にとっては極めて困難です。聖霊によって三位一体信仰を理屈ぬきで受容できるという体験を得られないのは自分がキリスト教的救済に選ばれていないからかも知れませんが、はっきり言ってそんなことは堂々巡りの自問自答になっちゃうのでこの際、それこそどうでもよいことです。

ところで量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。

<……エスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうかエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請される…すなわち人は個別的限界状況に置かれたなら、知的欲求よりも救済願望の方が優るというわけです。たしかに背に腹はかえられんということで、苦しい時の神頼み、ワラにもすがる思い、イワシの頭も信心から…とかなんとか云われますが、とにかく量氏のこのような考え方は、座右の銘に出る類の四字熟語で言えば「捨小就大」と同じことです。救済という大目的を実現するためなら、イエスの復活神話を史実とみなすような、あるいは学者の中にも聖書的根拠を否定する「三位一体」などというキリスト教教義を受け入れるという、積極的意味での「知性の犠牲」のロジックです。聖霊によって再生した理性や知性なら三位一体信仰を受容できる…といった考えもドグマとなり自分にとっては体験が無いからなのかどうかは知りませんが、仮にそんな、キリスト教会にとって都合のよいやうな体験を自分がしたとしてもすぐ醒めるだろうし、聖霊による再生した理性によって省察すればむしろ三位一体信仰なんてドグマ洗脳で無理な道理ってことになるだろう…とさえ思います。その聖霊のはたらきがホンモノである限りは…。いかに「不合理ゆえに我信ず」などというのがキリスト教信仰だとか無茶なことを云われても、こういった問題を「小」とみなせ得るかどうかは人によりけりでせうが、私はとても「小」とはみなさせません。「知性の犠牲」に積極的意味なんて認め得ません。カルト団体のマインド・コントロールほどではないにしても自分にとってはムリムリです。復活と蘇生は違うとか言うけど、確実に死んだ人間が活動するってことに違いはないから、そんなことがイエスという歴史上の人物に起きたなんて認められるわけがありません。自分のような落ちこぼれの愚者でさえ科学の時代に自己限定されているのです。受肉だの復活だのを史実とみなしてまで自分は宗教的な救いなど求めません。二千年余り前の旧パレスティナガリラヤ地方のナザレ村のイエスというユダヤ人男性が「真に神(絶対・無限)、真に人(相対・有限)」の両性一人格という特異な人間であったなどと信じ得るくらい本当の意味でアホでバカで能天気なら自分に苦悩などありません。自分がイエス・キリストという存在を神信仰において必要であると認め得るとすれば、それはあくまで信仰の対象である「神」が三位一体などではなく(…というのは元々一人物であり「真に人」であるイエスが第二位格として第一位格の御父と第二位格の聖霊と相互内在・浸透⦅ペリコレーシス⦆しており同一実体・本質であるということは(各位格ごとの固有性はあるとは言え「一体」なのだから)、この「神」は人格化ないしは擬人化されるのは当然のことなので、すくなくとも第二位格の御子を信仰対象とはできないので、第一と第三だけの二位一体ならまだしも…といったことになり、その「神」は、イエスがアッバと呼んだエホバとその霊であって、その人格神との関係において自分の淫らな罪を不問にふして頂く…無いことにして頂くための贖罪者としてです。然るにその贖罪者には自分の妄想内淫行が晒されるということになるのだろうから、見て見ぬふりということでも恥ずかしいことなので、やはり無理ってことになるのです。だったら他人に見られて恥ずかしいようなことを妄想などしなければよかろう…と言ったって煩悩衆生なのだから自力ではどうにもなりません。結局、自分の神信仰においてイエス・キリストは信仰対象ではあり得ないので、広義の淫らな行為…例えば自慰を友人に覗き見されるような感じになるのでこれもストレスになり、メンタルにとっては邪魔とまでは言いませんが、一種の障壁ということになります。

それはともかく、前に引用しているところの量義治氏の言葉ですが、これまた大いなる疑問を招きます。新天新地の到来という悲願のためなら、冒頭言われているイエスに関する諸々の疑問もどうでもよいこととして解消され得るとでもいうのだろうか?そもそも何故、「新天新地の到来」というようなキリスト教的救済概念に執着するのだろうか?無論、それが大乗仏教の救済概念であっても同様の疑問が生じるのであるが、救済論的には特定の宗教を絶対化しているのではなかろうか?それって量氏が(宗教)哲学者でありながら同時に無教会キリスト教の指導者であったという実存的事実に由来することなのでせうか?量氏も小田垣氏のように、特殊(個別)に徹して一般(普遍)に通ずる…みたいな弁証法的ロジックを説いておられるのでせうか…?

量氏自身は以下のようなことは言っておられないが内容から私なりに敷衍するなら、誰もが確定死刑囚の坂口弘氏のように死の現実と向き合う個別的限界状況に置かれた場合、イエスとの共在による救済の体験においては、聖書神話やキリスト教教義に対する諸々の疑問などは「どうでもよい」と思えて(…『続あさま山荘1972』⦅彩流社⦆の「魂の救済」参照)解消すると言い切れるのだろうか…?それは坂口氏その他のような非凡なる才能等を持っておられる人々の場合には言えても、我々の如き一般大衆の凡人たちには妥当しないのではなかろうか?仮に誰にでも妥当するとしても、それが盲信の類といかにして分別できるのだろうか?あるいは、そんな分別は最早無用とでも言うのだろうか?私がキリスト教の教義・信条の大半を受け容れ難い理由は、教義・信条というものは聖書の神話を史実として伝えているからです。だから相対の絶対化に陥るのです。従って教義・信条をそのまま受け入れ、自分の信仰告白とすることは自己洗脳と言っても過ぎないでせう。現代の教会は昔から受け継いできている教義・信条の定式などは変えなくてもよいから(…例えば「三位一体」とか…)、その意味については史実と区別して、神話を実存論的か共同体論的かといったことはともかく解釈しなければダメです。いくら苦しいから、救われたいからといっても、自分は教義・信条を史実としては認めません!キリスト教義の無批判な受容は、悪魔に魂を売り渡すようなことです。イエスの実体論的意味の神性などはマジで信じることはありません。人になった神などというものは神話であろうと断じて認めません。自分にとって神は人と質的に断絶しているのです。八木誠一氏も、「人格存在の根柢の認識といっても、それはいわゆる神秘主義的な神人同一の静的・没我的直観とは質を全然ことにしている。第一に、神と人との関係は、前述のように、〝 即 〟ということでもなく、〝 統合 〟ということでもない。絶対の質的差別の上に成り立つ上下の相互内在なのである。とすれば神と人とは本質的に同一なのではない。ゆえに第二に、神と人との関係は、人格存在がその根柢を認識すると言っても、それは静的・没我的ではない。それは、統合の実現への自覚的参与として、主体的・行動的なのである。」と述べておられます(『キリスト教は信じうるか』講談社現代新書p192~193)。

神話はあくまでも神話として冷静に受けとめ得る理性がたいせつです。神話を事実の如く信じ込むことは拒否します。それにしたって何故、聖書なのか?キリストなのか…?という基本的な問題についてはクリアーされていないと、自分にとって聖書の宗教ないしはキリスト教との関係は何も始まりません。直観によるしかないのでせうか?盲信は排除しますが、疑問点をすべて合理化して解消することも間違いだと思います。「知性の犠牲」とまで言うほどの知性を自分は持っていないでしょうけど、自分も理性は犠牲にはできません。理性的判断としては、自己限定と言うしかないです。実存的事実として、自分はキリストと共に十字架につけられて聖書の枠内で生きるようになっているというわけです。イエスに関してはケノーシスということくらいしか自分は関心ないし、キリスト教ではなく聖書の宗教(…ユダヤ教という意味ではなく…)を信じるということなら、私は旧約聖書のコヘレト書だけでよいのです。あとの文書は参考までであり、コヘレトのような神信仰と人生観で生きて行ければそれでよいとさえ思います。そこには盲信的要素はほぼありません。しかしイエスにこだわり、キリスト教にこだわり続けるのは、墓地の問題があることもありますが、反抗的にではあれ子どもの頃から環境としてあった宗教なので、縁を切り難いのです。赤岩栄氏のようなカッコ悪い脱出なんかもマネしたくありませんし…。これもまた、盲信の類、洗脳のようなものが自分の中にあるってことでせうか?いずれにせよ、救いの必要に迫られたら、客観的な理由など無用です。あと20年もすれば、自分は孤独のうちに死んで火葬場で業火に焼き尽くされるのかと思うとゾッとします。そんな恐怖から救われたくて独自の神信仰を持ち続けているとしても、それは他人に説明して納得してもらう必要などありません。ただ自分自身で納得できればそれでいいのです。もはや知的レベルでは自分にとってイエス・キリストは救い主ではありません。「知性の犠牲」とまでは言う必要はないかもしれない、そもそも犠牲にするほどの知性が自分にあるとも思えないから。でも、理性は犠牲にできないのです。いかに来世救済を願う場合もです。但し、キリスト教徒として終わるなら、人になった神なんてものは納得できませんが、最低でも死後の救いを求めるならキリストの再臨とか新天新地の到来は受け入れなければなりません。受肉という神話はさすがに史実として認めることはできません。神話の実存論的解釈としても受肉なんて神が人になったという、ただただ異教的なバカげた話で何の意味も無いとしか思えません。しかしその他は、神の全能において認め得なければならないのでせう。その点で救いには個別的葛藤の面があるのです。救済論的先行ということで、「事(存在)が言(観念)に先行し、言を基礎づける」(八木誠一氏前掲書p74)ということなのかどうかはわかりません。だって「事」にキリスト教義…すなわち聖書神話の史実視ということが入るわけがないからです。救済論的に先行すべき「事」は、歴史と区別された神話の実存的意味でなければなりません。いずれにせよキリスト教信仰についての八木氏の重要な指摘は、「歴史的事件を救済の根拠にするということ自体、相対の不当な絶対化なのである」(八木誠一氏前掲書p68)ということです。

救済は個人の事柄を越えて共同体ないしは世界・人類の普遍的な事柄であるというのが量氏など知識人によくみられる救済観ですが、それは個々人の苦悩に対する省察や共感が甘いのです。特に現代社会では、心の闇…メンタルな問題によっていかに個々の深刻な苦悩が社会的な問題に発展しているか…。個の救いに徹してこそ類としての救いが見えてくるのであって、いきなり新天新地到来という普遍的救済が第一とされて、そのためなら個人としての疑問などは抑圧して然り…といった考えは現実的でもありません。

聖書における救済史の順序としては新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。従って、この箇所を私なりに敷衍すれば、イエスの神性は切実なる終末救済の要請において認められるということです。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。自分も職場での人間関係における出来事をきっかけとしてメンタルヘルスへの関心と共に、大仰に言えば「社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験」したのです。但しそれは人類が被害者としてというより加害者としてであり、原罪を有つゆえの悪魔性と、それによって生じる闘争関係の地獄的現実の苦しみです。そこから救われるためには、真に人にして真に神であるような超越かつ内在的な救い主を必要とするのです。その救い主であるキリストの再臨が待望されるのです。再臨によって神の支配が普遍的に実現されるからです。これが神の救済の究極です。このように自分が個として体験した人類の原罪性と虚無、そしてそこから救われることへの渇望に伴うイエス・キリストの神性の承認と再臨待望における終末の神の国信仰が、要するに自我が反発してきたオーソドックスな福音主義信仰の特殊性に徹することを通して、宗教の一般的真理を超えて宗教的実存の普遍性に及ぶ…という、これもまた否定的媒介の弁証法が成り立つのです。

小田垣氏の「回心」や十字架と復活の福音についての理解は極度に主観的かつ観念的であり、御自分の主たる思想が主-客構図脱却の「二重性」云々のワンパターンであることを自覚しておられました。

<わたしは二重性ということを繰り返し言っているが、イエスの復活は二重性的な、ある種の「さりげなさ」のものであるように思われる。たとえば復活とは、論理的には「さりげない」ものではあるまいか。ナザレのイエスが、神の子キリストであったという逆説を信ずることが、あえて言えば信仰である。しかし本来論理にはなりえない逆説が信仰の「対象」であるかぎり、信仰の「主体」である人間は、その「対象」から分離され続けている。だから対象は対象としてありうるのである。そしてイエス・キリストという逆説的矛盾は、人間のロゴスの中に取り込まれて、その逆説的対象を信ずるか、信じないかということが、信仰の分かれ道ということになろう。しかし人間のロゴスの中に取り込まれた以上、その折角の逆説も、逆説としての本来の意味を失っているのである。わたしが少年時代、信仰ということに躓いたように、である。つまり、イエスが十字架の上で死に、復活してキリストになったという逆説が、信仰の「対象」であるかぎり、それは人間のロゴスの中での復活であり(またはその否定であり)、それは人間の分限をこえた、本当の意味での復活ではないということだ。その場合、復活信仰は虚しい神話になる。だから復活は、復活についての人間の対象論理的信仰が無用とされるときにのみ、復活なのである。エックハルトについてはこれまでに何回も言及したことがあるが、エックハルトの言い方によれば、イエスがキリストになったという逆説を信ずるという自分の信仰心の高ぶりを捨てて、その意味で心が貧しくなり(そういう題とテーマの説教がエックハルトにある)、イエス・キリストの復活という逆説を、信仰の「対象」として求めなくなったときに、人間は復活という絶対的逆説の意味を悟るのだと、エックハルトはいう。これは人間のロゴスの終焉である。そして人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。実際、パウロがアレオパゴスで「知られざる神」について話をし、復活について言及したときも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と言ったのであった(使徒言行録一七章三二節)。>(~説教「花吹雪と復活」)

エスの人間を超えた性質…神性についての両性論とか単性論とか合性論といった教理的な事柄は、客観的な説明であり形而上学的思弁にすぎません。自分の場合はこれらを、歴史的現実を踏まえての救済願望に基づく象徴として受けとめます。

それにしても、まずは本人自身の「救済の出来事」が先行していなければなりません。人類の悪魔性の体験は、救済されねばならないと実感した出来事ですが、まずはこれがなければ、自分が歴史上に実在したナザレのイエスではなく宣教されたキリスト……福音書に書かれた「神の子キリスト」にこだわらなければならない実存的理由を得ないのです。赤岩栄氏のようにキリスト教を「脱出」したっていいはずですがそうならないのは、人類の悪魔性の実感とその元凶である「(原)罪」の認識という否定的な経験を媒介してこそ自分は、キリスト教徒であり続ける積極的な意味を得られるとすれば得られるのでせう。実際、神がそのように定めておられるならです。いずれにせよ、自己というものを実感するには「我思うゆえに我あり」では不足であって、心身の「我痛むゆえに我あり」と、否定的媒介によってこそ可能であるということがこの世についてはどうやら言えるやうです。

< 「前提」は一言にしていえば問いであった。〔※「問い」の各文字に傍点あり。〕 これに対して「現実」は答えであった。〔※「答え」の各文字に傍点あり。〕 そこで問題は、問いと答えとの関係になる。問いと答えとの間には一般的にいえば、問いより答えへという方向が成り立つ。問いが先に来たり、答えが後に来る。救済の論理においてもこの一般的な方向が一応は成り立つであろう。それなればこそ、「現実」の前に「前提」が語られたのである。しかし救済の論理においてはこの順序はあくまで一応のことにとどまる。〔※「救済」の各文字に傍点あり。〕 本来的にいえば救済の論理においては、救済の現実が先であって、これによって始めて救済の前提がその真相に徹して明らかとせられるのである。〔※「現実」の各文字に傍点あり。〕 すなわち、救済の論理においては、答えが先であって、問いはこの答えの光によって始めてその真相に徹するのである。>(~北森嘉蔵著『救済の論理』p58)

聖書で物語られている神は、人間が邪悪化したことで創造を悔いて洪水を起こしていたり(創世記6~8章)、万軍の主…いくさの神として怒りに燃えて敵を殲滅したり、計画を思い直したり(ヨナ書)、サタンを用いて人間の信仰を試したり(ヨブ記)、また、妬む神(出エジプト記20:5)とも言われているからです。完全無欠ならそのようなことはないでせう。 従って、聖書で物語られている神、そしてその神を、哲学的神観の影響も受けながら解釈して、使徒信条やニカイア信条などで、三位一体など独特の神観を立ててきたキリスト教の神は、真の意味で「絶対神」とは言えません。相対的な面、有限な面・・・欠点もあり、使徒信条などで告白されている「全能」という言葉も、文字通り完全無欠といった意味ではなく、あくまで賛美の表現なのです。すなわち人格神と云われますが擬人化されて描かれているので、人間的な存在なのです。 しかし!です。聖書に物語られ、ユダヤ教キリスト教で教義とされている「神」は、あくまでも「啓示」によって自分を人間に対して表現したのであって、元々の「神」は真に絶対の存在です。それは人間が対象として認識することのできない「霊」であり、宗教哲学では「空」とか「絶対無」とか「絶対無限の開け」などと云われています。 その「霊」なる非対象の「神」は、自己啓示し自己対象化することによって人間の認識し得る存在として対象化され、聖書に描かれ物語られているのであり、さらにそれが解釈されてユダヤキリスト教の神になっているわけです。その非対象の「霊」なる「神」こそ、完全無欠の絶対神です。なぜ「神」は「絶対」である必要があるのか?それは「神」に託される人間の生涯ないしは生命がかけがえのない「絶対」なるものだからだ。

自由主義キリスト教は、聖書およびキリスト教の相対的かつ有限なる(父・子・聖霊の)三位一体の神を礼拝することを通して、その背後に啓示元であり元来の絶対神を信じ仰ぐ宗教です。信条・教義の「神」としては、相対的には「ウェストミンスター信仰基準」に示された絶対的主権者としての「神」観をキリスト教神観の中では第一とはするものの、それもあくまで聖書解釈の産物であるので絶対視するものではないし、特に「三位一体」神論については、御子イエス・キリストを御父と全く同一の意味で「神」と呼ぶことは拒否する。

『無意味に耐える強さ』『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。」( 八木誠一著『創造的空  統合・信・瞑想』ぷねうま舎 p97)

直感か霊感か知れんけど、そういうのでわかる人にはわかる、わからん人にはまったくわからん…といった世界…宗教ってそもそもそんなもんでせうが、自分の最終的境地である創造的空こそそんな感じです。人はなにかにつけ意味の有無を言うけど、それも執着であり迷いなんでせう。そこを突き抜けて無限の開けに出ちゃうといいんですね。ちなみに劣者にとっての救いはそういう世界にこそあると思います。イエスのケノーシスみたく卑下を徹底してゆくと自我執着の底を突き抜けて無限の開けに出ます。それが創造的空の世界です。偽善や作善のはからいも思い煩いもありません。悪人は悪人であるがままに、無能は無能であるがままに…生死を超えて完全自由です。🙏

ところで、五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。

まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。親鸞の「自然法爾」に通じる境地。

その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。

< 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。>説教要旨 (church.ne.jp)

以下、五木寛之著『人生の目的』より。

「中村さんは、<宿命>とちがって、<運命>には偶然性が働く余地がある、といった意味のことを書かれている。私はそのあたりはまだよくわからない。<宿命>と<運命>のちがいも、はっきりとはつかめていない。あるとき、こう考えてみたことがある。<運命>はすべてのものが背負う共通の大きなものだ。人間として生まれたという運命。(中略)人類の運命とか、一国の運命とか、とにもかくにも私たち個人の枠を超えた共通の大きな流れ、それを運命とみるのはどうだろうか。反対に<宿命>とは、個人のものである。全宇宙にただひとりの自分、『唯我独尊』の『唯我』にかかわってくるのが<宿命>と考えれば、<運命>と<宿命>のちがいが、かなりはっきり見えてくるだろう。『歎異抄』のなかに親鸞の言葉として、<業縁>という表現が出てくる。私はこの言葉が、なぜか重苦しい感じがして嫌だった。私流に考えてみると、この<業縁>という言葉は、<宿業>の<業>と、<因縁>の<縁>との組合わせのように思われる。<宿業>も、<因縁>も、私の苦手な言葉である。見ると本能的に何か暗いものを感じてしまうのだ。しかしいまでは、この親鸞の<業縁>という表現は、じつに深い意味をもったすばらしい言葉だと思うようになってきた。そして自分勝手に、これを<業と縁>と読み、<宿命と運命>と読みかえて理解している。」(p52~53)※「中村さん」は中村元氏。ここではその著書『自己の探究』の中の《運命と宿命》という章を踏まえて書かれている。

2000年に放送されたNHKスペシャル「選『雨の神宮外苑 ~学徒出陣・56年目の証言~』」で 出陣当時、東京帝国大学法学部2年生だった志垣民郎氏の言葉が実に印象的でした。学生の間で「運命」(独語「シックザール」 Schicksal)という言葉が流行っていたということでした。当時の若者の多くは、よりによって戦争の時代に青春期を過ごす運命を背負った世代であることを自覚し、そのことについていろんな思いを語り合っていたのでしょう。
ところで、私は「ウェストミンスター信仰基準」を通して「聖定」(Decree / Dekret)という教理を知り、それまで読み聞き知っていた「予定」より以上の大いなる意味を知るに及んで、一般世間的にみれば無きに等しいと言われるであろう自分のような者の人生が、死に臨んで無条件に肯定して笑って死ねるような恩寵に支えられていることに気づかされました。もし「聖定」とか「予定」といった教理に出会っていなければ、過去についていろいろ後悔して思い煩いながら空しき晩年の日々を過ごすことになったでしょう。端的に言えば、「聖定」は世界全体に対する「永遠」の「神」の決断であり、「予定」は人間に対する…すなわち人生の「時間」的な「神」の決断です。だから「聖定」とか「予定」といった「神」のはたらきだけに注目していてもダメで、まずもってその主体である「神」ご自身に注目しなければなりません。

私は戦争中の若者たちのことをドラマや本などを通して見聞きする時、彼らの中にはクリスチャンがいただろうし、その中には「運命」とか「宿命」といった言葉の代わりに「予定」とか「聖定」といった言葉を用いて、自分が直面している現実と向き合った人もいるのではないだろうか?いればよいな~と思うようになりました。信仰にもとづいて自分の運命を神の定めと受けとめることができれば、ただ偶然に流されるような運命による死の虚しさからは救われたのではないだろうか…と思うからです。学徒出陣を見守るスタンド側の、当時、東京女子医専の学生だった中尾聰子氏は、「全然、抗い難い歴史の大きな流れに巻き込まれてるっていう感じ」と言われ、当時、慶應義塾大学3年生の西川千孝氏は「諦念=あきらめ」…「時間と空間の接点に来ちゃった…観念しちゃう…自分を納得させる」と言っておられました。

池田浩平著『運命と摂理—戦没キリスト者学徒の手記—』(新教出版社)を読んだのですが、その中に、「運命の愛」という言葉が出てくる次のような文章があります。「ヤスパースは、『われと事態とが一つになっている。この歴史的限定性の中にあって余はあるがままのわが現存在を肯定する。この沈潜にあって余は運命を単に外的のものとしてではなく『運命の愛』においてわがものとして運命をつかまえることである』と言っている。……私はむしろ運命と摂理との二種の概念を截然と区別しうるということ、否、区別しうると言わざるをえないことを主張するのである。結論を言うと、ここに学問の世界と信仰の世界との相違が錯綜しているのであり、ひろく『運命の愛』を考えるのは学問的であり、その意味で少なからず客観的であるが、事態を摂理という一点に集中せんとするのは信仰的であって、少なからず主観的、いや非合理的主意主義的であると言わねばならない。この事実は、左の波多野先生の文章が明らかに物語っている。  啓示は彼ら――偉大なる宗教家たち――にとっては無限の光栄と歓喜とを宿す運命――とにかく運命であった。 先生が一度運命と言いながら、その含む客観性のゆえに躊躇し、よほど信仰をもって摂理と表明したかったところであろうが、学者としての責任より先生はここにダッシュをひき、『とにかく運命であった』と言わざるをえなかったのではないだろうか。」云々(p146~147 ※「歓喜とを宿す運命」の「運命」と、次の「とにかく運命であった」の「運命」に傍点あり。)

「聖定」は運命や宿命といった一般的観念に対応して、人生論のような誰もが関心をもって考えるテーマに通用し得る教理なので興味深い。「運命」を相対化し得るから…。しかし何よりもまず、「聖定」の主である「神」について観想されなければならない。それなしには聖定信仰もあり得ない。

現在の世界中の出来事が…特に一般大衆が首をかしげるような理不尽な出来事であれ、あらゆることが、その(直接的原因ではないが)由来に創造主の聖定を仰ぐという世界観を構築する。しかし前述のことを繰り返すが、聖定だけ信じたところで意味はない。重要であるのは聖定の主であり、あくまでも創造主という存在への関心が、聖定への関心より優先されて然り。信仰者である以上、救いの主体はあくまで「神」であり「キリスト」であって人ではないので、「神論」や「キリスト論」抜きで「聖定」ないしはその観点から人生を論じることもできません。また、論じることなしに体験だけを得ようとするのは神秘主義であり非社会的・非現実的です。《目的地》は「神」でそこへ至る《道》が「キリスト」であるように、救いの体験が目的であるが、そこへ至るには言葉による思索や議論を通らねばなりません。

北海道家庭学校の第5代校長・谷昌恒先生の「運命愛」に関するエピソードが印象に残りました。人が自分の人生を…特にネガティブにしか思えないような人生を肯定するうえで運命を愛するということに意義があるということですね。 クリスチャンではない人々、ましてや少年少女の皆さんに対しては、いわゆる対機説法的な意味で「運命」という言葉を使わざるを得ないことはわかります。当面は、運命を愛するという気持ちで、とにかく人生を肯定的に受けとめて希望をもって社会に出てゆければよいと思いますが、いつまでもそうではなく、将来的には「運命」を愛するのではなく、願わくは「汝の少き日に汝の造主を記えよ 」(傳道之書12:1)ということで造り主なる神の「摂理」を、もっと言えば創造と摂理を神が定められた「聖定」ということを学び知って、これを愛し受け入れる境地へと成長してほしいと感じました。復讐せず、悪に勝つ道 - YouTube

聖書が示す「神」については、第一に、もはや「神」という訳語は人名にもあるので、便宜的、限定的にしか使用できないということ。自分としてはなるべく「創造主」とか「絶対者」などの言い方を心がけたい。第二に、「神」については擬人化に陥らぬように、人格神信仰とはきちっと区別して継続してゆくこと。

以下、引用文中の黒太字は原文にはなく、ブログ管理者の私によるものです。これはこのブログ全体において毎度のことで、このようにいちいちことわりの表記をしていないページもありますので御留意ください。

以下、太字は自分が記す。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p108~109)

存在論的証明とは、神の『概念』だけから、その『存在』を証明しようとするもののことを指している。たとえば、神とは、それよりもより大いなるものが考えられないような存在者である。ところが、もしも、そうしたものが実在せず、思考のなかだけにあるのだとすれば、そのときには、そうしたものを考えている思考のほうが、より大いなるものになってしまう。しかし、これは矛盾である。、神は、思考や観念よりもより以上のもの、すなわち実在ゆえにするものである、というわけである。(中略)カントは、こうした推論が誤りであることを、あばいてみせたわけである。すなわち、それらは、『概念』から直ちに『存在』を導出しようとする、論理的矛盾を犯した、誤った推論だというわけである。(中略)こうしたカントの考え方を、その暫くあとに出たヘーゲルという大哲学者が、厳しく批判している(中略)たしかに、この世の中の『有限』な諸事物についてならば、その『概念』と『存在』とは別物である。しかし、神というような『無限』な存在者に対して、そうした区別を当てはめて考えるということ自体が、そもそも誤りである。なぜなら、神とはまさに、その『概念』と『存在』とが不可分であるようなもの、つまり、絶対的に『存在』するということが、そのまま直ちに神ということの『概念』にほかならないからである。したがって、神という無限者は、絶対的に存在すると考えねばならない、というわけである。神という無限者の存在は、この世の有限者の存在とは、まったく別個の、それとは比較を絶したものなのであり、そうした存在観念ないし実在観念なしに神のことを考えようとすること自体が、誤りであり、無理解の極致だ、というわけである。実際、西洋では、昔から、神こそは、『在りて在るもの』であり、その『本質』がまさに『存在』そのものであるようなもの、すなわち最高の完全な実在的な存在者であると考えられてきた。ヘーゲルにとっては、そうした別格の無限者の存在を、この世の儚い有限者にのみ当てはまる思考法によって想像し、それの存在を証明不可能なものだと決めつけることは、到底許しがたい、無理解の極みと見えたのである(ただし、それなら、ヘーゲルという人が、まったく伝統的な神中心の哲学と同じ思想を説いた哲学者であったと言えるかどうかは、ここでは問題外とする)。(中略)ヘーゲルは、カントの批判哲学の真意を理解せず、再び、神中心的な伝統的な形而上学の立場に逆戻りして、そのテーゼを繰り返しているだけであるようにも見える。それどころか、両者の見解は、まったくその出発点において真っ向から対立しており、そこには、なんらの調停も不可能であるように見える。実際、一方は、有限者の立場に立ち、ものの『概念』と『存在』との区別を根拠にして、神の存在を証明不可能なものとしているのに対して、他方は、無限者の立場に立って、神とはそもそも『概念』と『存在』との一致しているもの、つまり、不可疑の最高の実在者だと、初めから前提しているからである。けれども、よく考えてみると、この対立から私たちが学べるのは、神に関しては、その『存在』を語る場合には、神に関するどのような『経験』にもとづいて、神のことを考えているかが、きわめて重大だ、ということではないであろうか。実際、ヘーゲルが言ったように、神という無限者に関しては、この世の有限者について妥当する考え方の枠組みでもって思考してはならず、それとは別の思考法によって考えるべきであり、それこそが神の問題の核心をなすという思想は、世界中のあらゆる宗教的体験に本質的に認められる事柄だと言ってよい。したがって、たとえば、神については、それは、この世のどんな言葉でも言い表しえず、この世の事象を絶した、否定的な仕方でしか、神については言い述べることができないと説く、いわゆる『否定神学』の思想が、西洋では、さまざまな形で、いろいろな人々によって説かれてきた。ある意味では、それは、神に関する最も根本的な経験を言い表した思想だと言ってよいのである。したがって、神については、それ固有の神秘的体験にもとづいてのみ、語られるべきだということになる。実際、だからこそ、神については、『いかなる像』をも造ってはならないと、神はモーセに告げたのである(出エジプト記二〇、四)。なぜなら、神は、この世のものでは測られず、比類を絶した、超越的な絶対者だからである。(中略)神は、『御自分を隠される神』(イザヤ書四五、一五)なのである。だからこそ、この絶対の他者である神が、人の世に神の子として顕われたという逆説を信じ、その愛の教えに従って、悔い改めて生きることを決断するところに、神を信ずる実存的生き方の核心があると、キルケゴールは述べたのである。(中略)したがって、神の存在については、それに対応する経験のなかのみでこの問題を考えねばならないということになる。西田幾多郎が言ったように、神の問題は、宗教的要求や宗教的体験との関連において考えられねばならないのである。西田幾多郎は、宗教的経験を『心霊上の事実』と見た。ただし、それは、この問題を、非合理の圏域に押しやることではない。あくまでも、冷静に、宗教的経験の現象学的考察と、それにもとづく決断の問題として、神の問題は考えられねばならないのである。(中略)私たちは、どうしても、善を目指して努力する道徳的人間に、『幸福』を授ける『神』というものの存在を『要請』せざるをえない、とカントは考えたのである。ただし、この『自由』と『霊魂の不死』と『神の存在』という三つのものは、理論的には、証明できない『理念』なのである。けれども、実践的立場に立つとき、そうした理念を人間は『要請』せざるをえず、それらを『理性的に信ずる』ことが不可避であるとカントは考えた。カントは、こうして、『理性信仰』の立場において、『神の存在』を信じねばならないと言ったのである。(中略)カントは、この世の中で道徳的に努力して生きる人間の労苦と艱難という、人生経験の場のなかに立って、神の存在を要請したと言える。神の問題は、理論的科学的な知識の場面においてではなく、人生における生き甲斐や苦悩、挫折や労苦、死や不幸といった、人間の有限性と限界性、この世に生み落とされた、限りある『いのち』の享受とその使命の達成という問題意識のなかでのみ、論ぜられるべき事柄だったのである。このカントの指摘は正しいように思われる。神の問題は、科学的知識の問題ではなく、この世における、死すべき人間の、魂と心の救い、その真正の浄福と至福の問題に関わっていたのである。(中略)私たちは、そうした、故知らぬ存在の場のなかにあって、やがて死ぬべき自己の存在を思うとき、あらゆる出来事の背後にあって、私たちには隠れている永遠的な絶対者に思いを馳せ、その絶対者によって嘉せられ、救われ、安らぎを得、こうして、絶対者の懐に抱かれて、自己の存在の真実の意義に蘇ることを冀⦅こいねが⦆う精神が、目覚めてくることも否定できない。永遠の浄福と至福は、そのときにこそ、私たちに授けられるであろうと期待する心は、私たちの胸の奥深くに燃え盛っている。(中略)このように、私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司る絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。人間のうちに潜むこの葛藤と矛盾、懐疑と欣求、理性知と救済知との格闘が、絶対者の存在への問いの誕生の場であり、また、それへの答え、すなわち、信仰と懐疑の成立の母胎である。人はそれぞれ、英知を傾けて、自分の人生の最後を賭けて、この問いに答え、決断して生きねばならない。(中略)シェリングによれば、神は、最初から、絶対的な神として存在するのではない。むしろ、底知れぬ深淵のなかから、万物は生まれ、そのなかの葛藤にみちた出来事の果てに、しかも善を目指す人間の努力の果てに、やがて、いつの日にか、愛の神が出現し、新しい大地が開けることを、シェリングは期待した。(中略)私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」(渡邊二郎著『現代人のための哲学』p246~258)

ここで問題となることは、3点。

(1)アンセルムスの神の存在証明では「神とは、それよりもより大いなるものが考えられないような存在者である」という命題が前提とされているが、それ自体、不確かだから、その前提の推論も不確か。

(2)「ヘーゲルが言ったように、神という無限者に関しては、この世の有限者について妥当する考え方の枠組みでもって思考してはならず、それとは別の思考法によって考えるべき」ということと、「神については、それは、この世のどんな言葉でも言い表しえず、この世の事象を絶した、否定的な仕方でしか、神については言い述べることができないと説く、いわゆる『否定神学』」云々で「神については、それ固有の神秘的体験にもとづいてのみ、語られるべきだということ」については、一般的な批判として「啓示」の範囲では語り得るし語るべきであって、いたずらに神秘主義に陥ることなく、啓示の範囲を超えるような事柄については思弁をひかえて「聖なる無知を告白」する(ヨハネス・G・ヴォス)といった態度を求められるが、その「啓示」については議論があり、自然(一般)啓示を過小評価するキリスト啓示主義が大勢をしめる観があるが、自分としてはとにかく聖書の解釈において「神」(…人名にもある「神」は使わず、その代わりに「絶対者」を用いたい。本当は御父を「絶対者」と呼び、これに対して御子は「超越者」とでも呼びたい。御子は肉体を有し見える存在なので「絶対」とは言い難いからだ。でも三一論的には、そんな使い分けは実際、無理だろう。「聖霊」は「者」は付けず、そのまま「聖霊」と言えばよい。)を語り得ると見る。それは聖書において御自分を救済史としての歴史に関わる「父」として対象化させ、その自己限定において人間の神論を可能にせしめたと見るから、神学的とは言えあまりに庶民の現実生活から乖離するような特殊な思考法は無用とする。人格神観を徹底したら「(創造的)空」に行き着くだろう。(以下、引用。太字は私記。)

< 八木 (中略)パウロがそういう言い方(神は「すべてのもの」の内にある「すべて」となる)をしているということが大事なので、こういう言い方が成り立ってくるというのは、伝統的なユダヤ教とはずいぶん違うんだと思います(ヘレニズム的ユダヤ教は別です)。

秋月 八木さんは、「神」は形なきもので、それを形に現わしたものが「キリスト」であると言われるんですね。そうすると、「神」は「無相」すなわち「空」ということになりますか。(中略)そうすると、キリスト教の中でも「無相」体験。大乗に言う「空」、いわゆる人格神を突き抜けた「無相」体験があると言ってよい。

八木 その可能性があるということでしょう。つまり、パウロはこの世の終末論的完成として、そういう世界を考えていた。万物の根源で絶対の超越である神がそのまま万物と一であるという矛盾的自己同一の世界です。ただ、その状態は現出してはいない。(中略)パウロ神学はプロチノスとは違って、流出説ではないけれど、当時の宗教哲学でよく用いられたのと共通の前置詞を使っている。だから、その場合には、「人格神が世界を創造した」とそう考えているには違いないけれど、しかし「エック」と「ディア」をわざわざ使い分けている。それで「すべてのものが神から出た」と言い、それから「すべてはキリストを通して成った」と言うのです。

秋月 「ディア」は “ through ” ですね。“ by ” ではなくて。 

八木 ええ。「通して」です。それで、神が「すべてにおけるすべてだ」と言うのです。そうすると、これは少なくともユダヤ教的な人格神とは違ってくる。あまりよい言葉ではありませんが、存在論的な面が出てきている。(中略)現にパウロは働きの面では神と人の一を言う。人の働きは神の働きに基づくけれど、それと一である(『ピリピ人への手紙』第二章十三節)。ただ、パウロはそこをつきつめて展開してはいない。「一切に内在する一切としての神」をつきつめるとどうなるかということは、パウロは展開して語ってはいない。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p168~179

八木誠一氏の言われる「創造的空」に関しては、以下、『創造的空への道  統合・信・瞑想』(ぷねうま舎)より引用。

「実際、等価性は交換また応報の原則であり、正義と公正の基本である。しかし人格関係においては無償の贈与や無条件の赦しがあるものだ。(中略)等価性は交換と応報の基本であるとはいえ、『創造的空』にもとづく『自由』においては、等価性は失効しうるのである。ここにも一般の自我の知性と宗教的な『自己・自我』との違いが現れている。」(p35)「神とは『場のはたらき、その実現・伝達者』と区別される『場そのもの』を指す。それは世界と人間、存在者の一切が、そのなかにある、無限で究極の場だということになる。それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は『空』であり、しかし虚無ではない『創造的空』である。その創造力が場のなかにさまざまなレベルの統合体を形成し、人格に宿っては統合作用(自己)として自覚され現実化される。ただし、それがすべてではない。『神』とは、生と死、存在と非存在、生成と衰滅を超えて包む根源である。」(p94~95)「『無意味に耐える強さ』は『創造的空』に生かされるという覚のなかで可能となる。(中略)統合心の自覚の進化が、『創造的空』に導くのである。この場合の創造的空は、まずは場としての『こころの空』であって、上記の『神、場そのもの』ではないが、『場そのもの』の類比であり、比喩だといってもよい。(中略)こころが創造的空であることを知る人は、こころの創造的空が、世界を超えた究極の創造的空を映すことを、『仄かに直覚し、見通す』という仕方で『神を知る』。(中略)客観的に見られた『創造的空』と、自覚の底に見られる『創造的空』とは同じではないであろう。それは、客観的に見られれば脳細胞の活動であるものが、主体的に自覚されれば『こころ』であるというような、同一と差異があるということだろう。本書はもちろん、後者の道を行くものである。」(p97~98)「本書はもとより科学書ではない。自覚の深まりの方向に究極者、『神』を探るものである。それはやはり『創造的空』である」(p162)「こころの内容には、さらに奥がある。それは統合心を容れる『場』としての『こころ自体』である。それはこころの内容が『無』となったとき、『創造的空』として露わとなる。(中略)こころに現れる統合作用と、世界内に認められる統合作用とは、同じ超越的な『統合作用の場そのもの』、つまり『創造的空』に根差す、その表現の『場所』だということである。」(p182~183)「『神』を、場所論的観点から究極の場(創造的空)とし、『ロゴス・キリスト』を統合作用とすれば、その作用をそれぞれの『場所』において実現するはたらきのことを新約聖書は『聖霊』と呼んだ。」(p221)「『無意味に耐える強さ』があるが、これは『統合心』を超えるところがあり、『創造的空』に触れたとき、意味・無意味の価値づけが超えられることによって生起する」(p222)『こころ』という『場』そのものは、ただの『容れもの』ではない。それは統合作用を生み出す『創造的空』だということだ。『創造的』空というのは、こころの諸活動は、この『空の場』のなかでなされているからである。(中略)『神』とは両者を含む場そのものということになる。それは、全現実を包みつつ超える場そのもの、つまり『創造的空』である。(中略)『場』としての、こころと世界という二つの創造的空には類比的な関係がある。(中略)『創造的空』としてのこころは、『時間、空間、物質界、生命界、人間界、つまり存在と非存在のすべてを容れ、そのなかで統合体が形成される。究極の場としての創造的空(神)』を暗示している。我々は神そのものを見ること、経験することはできない。ただ『場』としてのこころが創造的空であるとき、一切の存在と非存在とを容れる究極の超越的な場としての創造的空が『神』と呼ばれたことが『見えて』くる。それは究極的な場そのもの(神)である創造的空と、こころという創造的空とが類比的だからだ。物質としてのからだは客観的統合作用のもとにあり、こころには統合心が現れる。両者は同じ場のはたらきが現実化する『場所』である。『神』(創造的空)の実在に客観的な証明はないが、ある種の『直覚』があるとはいえる。それは、創造的空としてのこころの(こころは実体ではなく、身体の一機能である)『創造性』は、究極の創造的空としての神の『創造性』と、存在論的には無限の違いがあるが、作用的には一だという直覚である。それを支えるのが、『身・心』が統合作用のもとにあるという、自覚される事実である。換言すれば、統合作用とカオスとの両者を容れる究極的超越と、統合作用と散乱(死)とに関与する『人間のこころ』との類比からして、『神』が創造的空であることが、いや、実は新約聖書はそれを神と呼んだことが納得されるのである。問題は神の存在証明ではない。むしろ、新約聖書パウロヨハネ、特にイエス)が何を『神』と名づけたか、現代の状況では、まずはそれを理解することが肝要なのである。『統合作用』に客観面と主観面とがあることはすでに述べた。超越的な創造的空のなかに統合作用があり、創造的空としての人間のこころにも統合心が成り立つ。後者が前者を宿すことが見えてくるとき、我々はロゴスまたキリストと呼ばれた『世界と人間とにおける統合作用』が超越的な『神』のはたらきとされたことも了解されるのである。(中略)なお、創造的空が意味・無意味を超えることについては、こころの平和と関係するところが大きい」(p229~230)「『創造的空』(「場としての自分のこころそのもの」と超越的な『神』という、二重の意味でのそれ)へという道が辿られたときに成り立つことである。(中略)二重の意味での『創造的空』は同時に意味と無意味、生と死の葛藤が超えられる場である。自分の存在と生涯に果たして意味があったかどうかということは、青年期に自分の将来がおぼろげに姿を現すときに始まり、中年から老年になって自分の全体が見えてくるにしたがって、誰をも悩ます問題である。(中略)自分の生は『創造的空』(神)のはたらきにもとづいて成り立つ、ということが納得できたときに、自分の生は元来それ以外ではありえないことが解り、自分の生が最深の次元では、価値・無価値を超えていることが解る。そのときに価値・無価値、意味・無意味が超えられるのである。終わりのない苦悩も耐えやすくなる。存在と非存在、生と死についても同様である。存在者も生者も、創造的空の創造性のなかで成り立ち、滅びるものだからだ。」(p234~235)

ここでみておきたいことは、仏教における「空」と「創造的空」との違いです。これについては西谷啓治氏の「空」に関する論文と、花岡永子氏の西田哲学における「絶対無」に関する論文が参考になります。その共通項は「無限の開け」です。

※(ちなみに八木誠一氏によると、龍樹の大乗仏教的縁起論における「空」とは「縁起するものの『非実体性』のことである」とのことで〔~『創造的空への道』p258〕、「『神』と呼ばれる究極の『はたらきの場』が単なる空ではなく、『創造的空』なのである。」〔同上 p259〕と言われている。その「創造性」については、「意味と無意味を超えて人を生かし、耐えさせ、死なせ、生と死の受容にいたらしめる。それは創造とは、古いものを去らせ(死)、新しいものを来らせることだからだ。最深の次元で創造性は、生と死、意味と無意味の対立を超えさせる。他方、そのいわば上の層にある統合の次元、さらにその上層にある自我(言語による区別の次元)では、生の意味と無意味、業績の質と量が量られる。しかし、それは相対的な事柄である。」云々とある〔同上 p234~235〕。そして、ここで「創造的空」と区別されている「単なる空」というのが大乗仏教的縁起論における「空」か。)

まずは前者から引用(~長谷正當氏の論文「『空と即』における西谷の空の思想 ―― 空のイマージュ化と有の透明化をめぐって」)

< 中期において、空が超絶的天空ともいうべきところに捉えられたのは、空がニヒリズムの克服という観点から追究されたからである。ニヒリズムとは宗教以前ではなく、宗教以後に、これまでの一切の宗教の立場を否定するものとして歴史に登場してきたものである。ニヒリズムの虚無は、西谷によれば、二乗化された虚無である。それは、これまでの歴史において人間が直面した虚無を克服しようとして生み出された諸々の思想的営為(その最高の表現が宗教である)を無効にするものとして、宗教のただ中に、宗教と同じ高さをもって生じてきた虚無である。それは、新たな耐性をもって出現してきたヴィールスのごときものであって、それを治療する宗教はもはやない。それは、人間に内在的な要求に基礎を置く一切の宗教を跳ね返すような絶対否定性を秘めていて、外から手出しすることができない閉鎖性をもった虚無である。そのようなニヒリズムを克服する可能性をもった唯一のものとして西谷が空の思想に着目するのは、空の思想ニヒリズムをさらに徹底し、人間に内在的なものをすべて打ち破る絶対否定性をその根幹に有するものだからである。人間が手足をつける処、枕する処なき場に立つという徹底した非情性、無私性を、如来の境涯として示すところに空の立場がある。それは、業や輪廻において究極の表現をもつような絶対的閉鎖性を打ち破るものとして仏教において登場してきた。そのような空の絶対否定性だけがニヒリズムの否定性、閉鎖性を内から破ることができるとされる。こうして、空は、ニヒリズムを内から破る思想としての力を仏教の伝続から得てきているのである。そこで、ニヒリズムが人間的世界を象徴する雲海を突き破って聳える山脈に賛えられるならば、空はさらにその上方に広がる天空、無限の開けとして捉えられる。それは行人の絶えた荒野、飛ぶ鳥無き極北の地であり、およそ人間の情意は取り付く州をもたない。しかし、そのような非情で無私な世界が却ってさばさばした自由で解放された世界を示している。そのような空を自己の心の底にもつことによって、人はニヒリズムの閉鎖性を破ってその外に出たところに立つ。ニヒリズムの否定性を「百尺竿頭なお一歩」を超え出た空の絶対否定性によって、ニヒリズムはいわば出し抜かれ、空無化される。ニヒリズムの虚無の閉鎖性ないし閉合性は、空によっていわば内から透過されるのである。ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」と西谷が言うのはこのような意味である。>

次は後者(花岡永子氏の論文「西田哲学における『絶対無の場所』の論理をめぐって」)

「もしも作曲家が自らの作曲した曲を私物化するならば、その曲は、絶対の無限の開けとしての絶対無における作品であるということはできない。何故ならば、絶対無の開けに生きていない限り、そのような場で作られた作品は、閉じられた作品であり、万人に開かれた作品であることはできないからである。」

そこで、書いておかなければならないことは、西田の「絶対無」と西谷の「空」との区別についての、氣多雅子氏の次の言葉です。

 西谷の「空」は西田幾多郎の「絶対無」の思想を受け継ぐものであるが、ヨーロッパのニヒリズムの「虚無」と対決するなかで導出されてきたことにおいて、「絶対無」とは違う独自の思想となっている。その「虚無」との対決はヨーロッパの科学・哲学・宗教のすべての伝統を受け取り直すことを要求し、その受け取り直しは絶えず反復されて西谷の思索の歩みを促し続けた。その思索の歩みは、最晩年の論文「空と即」において「情意のうちの空」という思想に結実している。この「情意のうちの空」とは何であるか、空の思想はどのような展開を示してそこに至ったか、そして、西谷の空の思想はどのような現代的意義をもっているか、それらを考察するのがここでの研究の趣旨である。>(「第19 回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR Tokyo 2005)パネル企画」 )rel-annual2005-no.1.pdf (kyoto-u.ac.jp)

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加藤諦三氏が、逆境に強い人と弱い人との違いに関して話しておられる中で、弱い人の特徴の1つに価値の相対化が出来ないということを挙げておられた。多くの価値の中の1つを唯一絶対の価値とみなしてしまうということ。弱い人も価値の相対化ができると新たな人生を始められるということ。2めとして時間的枠組みの違いについても言われた。逆境に強い人は長い枠組みの中で考えるので、過去のマイナス的体験が将来において活かされるといった考え方。3つめに人間関係のことも言われたが、自分にとっては1つめの価値の相対化が最も共感され、重要に思えた。シリーズ4 加藤諦三さんが語る、著書「逆境に弱い人―ここに気づけば強くなれる―」 - YouTube

それにしても、価値を相対化するには何かを絶対と認めている必要があるのではないかと思えた。加藤氏はそこまでは言っておられなかったし、その必要はないということだとは思うが、そこが学問と宗教との違いだろう。自分にとっては創造主という絶対者の実在を信じてこそ、この世のあらゆる価値を自分にとっては相対的なものとみなすことができるのであって、その創造主との人格的関係がなければ、やはりお金とか地位といったことを絶対的なものとみなす偶像崇拝に陥っていると思う。

人生を振り返って自分の過去は気づきが遅かったがゆえにつまらないことになってしまったと思うと何かのせいにして自分を正当化しようとするが、自業自得だと考えるのがイヤなら他人のせいにすることもダメなわけだから、そうなると神様のせいにさせてもらうしかない。しかし神様のせいにしても、直接のダメな原因は神のせいではありえないので、結局、成るようにしか成らないということで諦めるしかないことになる。それが自分の聖定信仰である。

自分は謙虚に自分のつまみ食い学習者としての無知・無能・無教養さを自覚して、特定教派教会が信仰基準とするものを誠実に信奉して、日々の生活における信仰実践に努めるというのが良いことはわかっているが、たとえ終末論的意識を高めて救済論的関心に集中して、具体的には聖書と改革派諸信条・教理を実生活の信仰基準としようとしても、どうしてもそこからはみ出してしまうのが聖書の従属論的三一神信仰なのです。つまりそれは単に観念的関心事ということでは済まない自分の信念に関わる事柄だということです。

旧約聖書を通して神の超越性と絶対性より国家の相対的、被創造性を説き、国家神道を否定する。」

「基督教的な立場からするならば、世界を創造しこれを支配する唯一絶対なる聖なる神の御意、即ち正義と愛とを実現することが、民族や国家の使命であり、且つ責任である」(~金田隆一氏の論文「戦時下における日本キリスト教会の一動向」※上段引用は金田氏の言、下段引用は金田氏が引用している『信仰と生活』44号の中の浅野順一牧師の「国家と道徳」の一節。kiyou14-25.pdf (tomakomai-ct.ac.jp)

また、自分は、とにかく擬人的人格神観(…並木氏の言うには人格神観は擬人神観を避け得ないとのこと。それは旧約聖書をちょっと読めば解る)は受け付けず、さりとて人格性が稀薄すぎる形而上学的実体的神観や逆に非形而上学(=存在論)的場所論的(「はたらき」の)神観もそのままでは受け入れられず、修正された(後者の場合なら)人格主義的場所論(八木誠一氏など)でもどうかなと思うところもあるほどで、擬人神観ではないにせよ一定程度の人格的存在性は不可決なのであり、その点で問題となることが三一論における従属性です。あくまで御父が自分にとっての「神」であり、「神からの神」である御子は自分にとって「真の唯一の神」とは言えません。やはり第一コリンと8:6のとおり御子は「唯一の主」として「唯一の神」である御父と区別します。その場合の「神」と「主」との違いも、教会で主張されるような同一的意味ではなく、イエスを「主」という「主」は(被造物とはせずとも)ヨハネ福音書17:3で「唯一の真の神であるあなた」(小林稔訳)の「真の神」とは区別される存在であるとみなします。この人格神へのこだわりがなくなれば、もはや神論への関心は相対化されて、神のはたらきへの関心に集中することができ、福音主義的神学としてはカルヴィニズムの「聖定」教理(およびそれによる人生観⇒「聖定論的人生神学」)への関心に集中できます。そうなれば改革派信仰における矛盾・葛藤は、無関心…消極的受容ないしは告白…ということでクリアーできるのか?と言えば、そう単純にはいきません。やはり御父と御子との関係については聖書を中立的に解する限り、同等説よりも従属説の方が正であるという信念に変わりはないからです!もちろん大病でもして、そういった思考をすること自体が面倒になった場合には話は別であり、それこそ「心(魂)、体、霊」の全一的救いに集中すべく改革派終末論の個人的救済に関心を持つことになるでしょう。しかしそのような限界状況に至るまではどうしても観念的欲求が抑え難くはたらくのです。そして神論への関心があるうちは、改革派教会に入会する場合、その矛盾・葛藤を合理化することはできません。神論より救済論の方に重きを置いて集中してゆくにしても、その救済は下記引用文において量氏が述べているとおり、あくまでも絶対者による救済だから、救済論は実存的にも、絶対神論とセットで考えられなければならないのです。そうなるとどうしても自分はキリスト論より神論に優位性を置き、御子の神性は認め得ますが、御父と御子との関係を主従とせざるを得ないのです。

(以下、引用。太字は私記。)

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からし絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(~『宗教哲学入門』p236)

量氏は同書で「絶対者による救済」という項目のもとで、「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調している。

それにしても、三位一体論は量氏のように「絶対有即絶対無」と解するだけでクリアーされるわけでもなし(前掲書p231~235参照)、元・エホバの証人のS牧師のように聖霊論的にクリアーできるわけでもありません。聖霊のはたらきは現実の体験であり、(S牧師は体験し得たのかも知れませんが…)そのような体験を得ない以上、観念的クリアーでは意味が無いのです。あくまでも御子従位・従属説を聖書的解釈として維持するしかありません。

人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)

自分はユニテリアンのような御子「被造」説は克服して、正統派の御子「同質」説は受け入れられますが「同等」は受け入れられません。そして所謂「ニカイア信条」においては、用語として前者はあっても後者はないのです。原ニカイア(325年)の「父と同質」(ομοούσιον τωι πατρί / being of one substance with the Father)は、コンスタンティノポリス(381年)では「父と一体」(ὁμοούσιον τῷ Πατρί / of one Being with the Father)に変わっています。基本信条において御父と御子との「同等」を明記しているのはアタナシオス信条。

自分の場合、あまりにキリスト教がかった神学…いわゆる福音主義神学とかいったものには興味はなく、どちらかというと形而上学的体系に基づいた哲学的神学などと云われるような思想の方に興味があるだろうとは思います。ただし、神論については汎神論的なプロセス神学だのユダヤ教神秘主義カバラ思想の収縮論などのような過剰思弁には関心ありません。

佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

せいぜい、下記のネオプラの影響を受けたイスラム教徒の思想に関する井筒氏のお話くらいはついてゆけるかな…?といった感じです。

「存在モデルとしての三角形の頂点を(中略)イブン・アラビーは、三角形の頂点に、(中略)「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(ahad)と呼びます。(中略)三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしろゼロであります。(中略)ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。(中略)このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤ(ahdiyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。(中略)この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。」(『イスラム哲学の原像』p122~)

それはともかく、最悪に過剰思弁の非神論的神論は、西谷啓治氏に影響を受けた小田垣雅也氏の『復活について』と題された説教にみられる、人間に内在化した人格神論だと思っています。特に下記の部分は、日本基督教団の補教師という立場(教団所属の教会ではない家庭集会⦅みずき教会⦆主宰)での「説教」とは言え、当人の神信仰が問われるところです。

「絶対他者なる神は、人間の立てた仮構である人間中心的主観―客観的認識構図の対象である神、人間の主観による認識の対象としての神ではなくて、つまり一つの存在者として人間に認識された神、さらに言えば、信仰の「対象」としての神ではなくて、その認識をも超えた、その意味で、人間の認識にとっては絶対無としての神になるほかはありません。それが絶対他者としての神でしょう。(中略)そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。また西谷博士こうも言っています。(絶対無理解に関して)『徹底した生成の世界がそのままで、一種の完結性を持ってくること、生成が生成そのものとして、一種の存在という意味を持ってくるというべき世界であると』(西谷啓治「虚無と頽廃」上田閑照編『宗教と非宗教の間』、岩波現代文庫、二〇〇一年、一一八頁)。ほぼ同じことを鈴木大拙禅師も、『存在は生成であり、生成は存在である』と言っています(T. Merton, Zen and the Birds of Appetite, A New Directions Book, 1968, p.111)。このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える『対象』ではなくて『それを生きるもの』であり、その意味で人格的であるほかはないのです。

小田垣雅也|復活について (fc2.com)

後半は西谷氏が言われていることを鸚鵡返ししたようなことであり、いずれにしても哲学的神学の立場であり、「信仰の『対象』としての神」を否定している時点でキリスト教の伝統的神理解とは異なります。さらに小田垣氏は、以下のようなことまで述べています。

「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)

再び引用します。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109 ※波多野精一氏の言葉を引用したものかと思い込んでいたが、読み返したら量氏の言葉でした。)という神理解とは相反する内容です。まさに小田垣氏は「考え過ぎ」であり、観念的知的欲求に歯止めが効かない過剰思弁と言えます。

その点では、野呂芳男氏による下記の小田垣氏に対する批判は的を射ていると言えるでしょう。

「小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。神が文字通りに一人格者(a person)であるとは思わないが、キリスト教の言うアガペーの神は人格的なもの(The person)であり、人格的象徴(symbols――ティリッヒの使う意味でのそれ)(10)によってでも表現しない限り、表現できないリアリティーキリスト者の神体験にはあるのではないか。やがて小田垣さんも神学の各論を、即ち、贖罪論や義認や聖化やキリスト者の生活を、あるいは、三位一体論を何らかの仕方で語らない訳には行かないであろうが、その折には、たとえ神を無、あるいは、絶対無で表現しようとも、その無あるいは絶対無の人間に対する愛・恵み・慰め・命令等について語らざるを得なくなろう。そういう信仰体験の事情を、我々は神が人格的であるという主張で意味しているに過ぎないのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)※(10) 「実存論的神学」167頁

野呂氏はこうして小田垣氏の思想を批判することを通して人格主義的神学者としての面目を躍如されているかのようですが、野呂氏の方は神の「絶対」性を否定して神を相対化する愚を犯してしまっているので、結論的にはどっちもどっちということです。職業神学者の言うことは、先行研究者のいろんな学説をあたっている分には参考になる発言がある反面、自身ではそういうひどすぎる愚説を平気で公言する場合もあるわけです。野呂芳男氏などはその典型的な例であり、日本のプロテスタント神学者で転生輪廻まで言い出すことなど前代未聞でした。私自身、電話取材で、自分が牧師をしている教会の信徒も信じている旨のことを言っておられ、呆れたことを憶えています。

「つまり神学と哲学との神に対するかかわりは、実存的であるか客観的であるかという相違である。その際、哲学が確認する絶対者は、それはそれとして認められており、ただそれが『究極的なかかわり』とは区別されているだけである。しかし、われわれは、客観的に論議されうる『絶対者』、『無条件者』なる『最高のもの』(“a highest thing” とティリッヒ不定冠詞をつけている)が、本当に絶対的でありうるかどうかを、更につきつめて考えてみる必要があろう。(中略)つまりティリッヒの言う哲学の神は、絶対者についての人間の想念にすぎないのではないかということを、考える必要がある。言いかえれば、本当の絶他者は、ティリッヒの文脈で言えば『究極的なかかわり』としてのみあるのであって、哲学者の神なるものは抽象的な神にすぎないのではないか、ということである。」(小田垣雅也著『哲学的神学』p11)※「のみ」に傍点あり。「くり返すようだが、哲学が把握する絶対は、哲学が人間の思弁による作業である限り、絶対ではありえないというのが哲学的神学の基本的な認識である。ティリッヒのように、哲学は神を理論的に理解するというような考えは、神に対する幻想ないし、観念であるにすぎない。このことは、神の絶対性を論証することが不可能だと言っているのではない。哲学が神を指向として持っているということも、その論証が中途で論理的に挫折するという意味ではない。論証はできるであろうし、それはなされてきた。そうではなくて、論証ということそのことが、神の絶対性とは往き違った所作であり、したがって神の絶対性そのものには至れないということである。」(小田垣雅也氏前掲書p20~21)

弁証法的神学は近代の人間中心的神学に否を言った。神は絶対他者である。神は人間の認識の外にある。しかしそのことの意味は、右に述べたような近代の無神論の超克ということ、言いかえれば、有神論―無神論という対立構図の人為性そのものの中に潜んでいる無神論の超克ということであるべきである。そこで求められているのは認識にとって有―無をこえた神であるべきである。しかし弁証法的神学は、そのことに充分徹底していない。神の絶対他者性は、それをいか程、徹底的に、くり返し、主張しても、むしろその主張そのものによって、その神は人間のその主張の中に捉えられている。『理』としては正しいその主張――人間の――そのものの故に、『事』としてはその主張即ち神の絶対他者性が裏切られている。むしろ神の絶対他者性の主張が熄む時に、絶対他者なる神は現成する。現代における神の問題は無神論に対抗した有神論を主張することではない。(中略)現代における神理解の課題は、絶対他者なる神をどのように『事』そのものとして、『理』としてではなく、理解するかという点にある。(中略)絶対他者なる神を理解するためには、絶対他者を求めている自己を放棄すること、自己を空ずることが必須である。(中略)絶対他者が事実として絶対他者でありうるためには、それは自己の絶対他者へのかかわりの外にある他はなく、絶対他者にかかわる自己を空じた時に、絶対他者として――理解され得べくんば――理解されるであろう。しかしこのことを自己の側から言えば、その時は絶対他者もまた、少なくとも自己の視界からは、消えることになる。」(小田垣雅也氏前掲書p60~61)

神を「絶対」と言う場合、それも比喩的表現であるとすれば(…しょせん「神」は啓示された範囲外は不可知なのだから…)「絶対的」という用語で言わなければそれこそウソになる。神そのものが絶対であるというのは唯一ということから敷衍されることではあろうけど、その「唯一」の意味も歴史的な意味は他の「神」と称されているもの(偶像)との関係が前提とされているとは限らない。「ヤハウェ」という名の神が地方の諸聖所ごとに礼拝されていたのを中央に統一したということなら、「唯一」と訳すより適切な訳語があるのかも知れない。それはともかく、自分は神について「絶対」とは言わず「絶対的」と言いたい。「絶対」を言う場合は「神」そのものではなく、その主権について言えばよい。

形而上学は確かに神ないし絶対者をとり扱う学であり、その点で神を対象とする神学と似てはおりますが、はっきりした区別があります。 形而上学においては、その絶対者ないしは神を人間主体との関係から切り離して、客体的に眺めるという態度をとるのに対して、神学は神をどこまでも人間主体、すなわち『私自身』との関係において考えていくという点であります。 形而上学は実体概念的でありますが、神学は人格概念的であります。(中略)聖書において示される神は、どこまでも人間にかかわりをもつ神でありまして、したがって神を考える場合には、『私自身』というものを中に引き入れて神を考えなければなりません。つまり、関係において神を考えなければなりません。神の啓示と言い、神の愛と言い、ことごとく関係概念であります。そこでイエスの神性をも形而上学に属する実体概念たる『本質』と結びつけるよりも、関係概念として考えなければなりません。関係概念は具体的に言えば『愛』であります。『イエスは神である』という信仰告白は、神の愛という見地から今日考え直されなければなりません。イエスが神であるという信仰告白は、イエスの愛が、とうてい人間の領域に見出され得ないものであるという告白から生まれてきます。(中略) 関係概念においてイエスの神性を考えるということは、古代から中世の神学ではきわめて困難であり、それが自覚的に明確化されたのは、プロテスタントの神学においてであります。(中略) ルターが神を考え、キリストを考える時はいつでも、『私にとっての神』、『私にとってのキリスト』というかたちをとりました。言いかえれば、キリスト論が救済論と結びついたわけであります。キリストを客体的に思索するのではなく、自己の救いと結びつけてキリストを考えるということです。 (中略)リッチルの神学の方法論は価値判断(Werturteil)と呼ばれます。価値判断とはどういうことかと言いますと、『キリストを神として告白する信仰は、キリストが私のためになしたもうたことの価値を判断して生まれる』という考え方です。キリストを客体的に、『形而上学的に』考えるのではなく、キリストが私のためになしたもうた業が、神でなければとうていできないことであった、ということから、キリストを神と告白するのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社 p62~65)

「神」について関心を持つ場合、それが「形而上学」的であるより「神学(特に救済論)」的である方が現実的意義がある…ということは自分も認め得ることです。しかしそもそも、対神関係について哲学と神学とを区別しきれるかどうかは疑問です。表現の面においてであれ、野呂氏のように「絶対」は哲学用語であって神学用語ではないなどということは言えないでしょう。キリスト教は非聖書的な「三位一体」論においてギリシャ哲学の論理や用語を用いています。これは構造的な事柄です。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。」

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量氏前掲書p293)

「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」(関根清三著『倫理の探索』p133)というように、何かしら「有的」だけではダメで「無的」な神観がよりリアルで現代的であるかのように思い込んでいる人がいるわけですが、清三氏の御父上の関根正雄氏は次のように述べておられます。

< 我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134) 

ところで、所謂「知、情、意」の比率は人によって違うので、自分の場合はすくなくとも、「情(緒)」中心(例えば、所謂、イエスさま信仰…女性に多い)でも「意(志)」中心(例えば、所謂、社会的福音信仰…男性に多い)でもないので、どれかと言えば「知(識)」中心(…といっても関心分野は偏っているので飯さんみたいに専門以外は非常識タイプで、「神」については、形而上学的関心と神学的(救済論的)関心とは半々くらい?)なので、そうなると、キリスト論よりも神論、御子より御父の方に優位性を置く信仰形態になっていることに筋が通る。しかし、特にメンタルヘルス的には、自分も救いを求めて神を信仰しているので、その意味でも形而上学的関心だけで済まないし間に合わないということは自覚しているし、身体的には終活という実際問題に即して考える以上、日本における既成のプロテスタント教派教会のどこかに所属する必要があり、そのようにしている(61歳から改革派信徒)。それは形而上学的関心より神学的(救済論的)関心の方を先行させる必要に迫られてのことではあるが、やはり形而上学的関心もある程度はあるわけだから、当然、ウェストミンスター信仰基準の如き体系的信条では相容れぬ部分も出てくる。これが日本基督教団の如き簡易信条であれば解釈次第でクリアーできないこともないが、体系的信条となるとそうはいかない。しかしその分、「神」については相容れぬ部分が生じてくる半面、極めて共感し強調すべき部分も生じてくる。それが主権の絶対性の強調である。特に「聖定」の教理とその強調は、改革派系諸教派の最大の特徴であり、日本ではその代表がRCJ(Reformed Church in Japan)なのである。

形而上学的神観と神学(救済論)的神観との違いを比べてみよう。まず、前者のメリットだが、これは特定宗教としてのキリスト教に囚われることなく、普遍性ある神観を学ぶことができる。動機に救済的要素があるいくらかはある以上、神観もある程度は人格的にならざるを得ないが、神学のような擬人化は最小限度に抑えられるので介入されることへの圧迫感も少なく、神義論の如き愚問に縛られることはない。デメリットは、形而上学的救済としてはあくまで観念的、精神安定に益するレベルにとどまる。一方、後者のメリットとしては共同体への所属による社会生活への実現ということで、それは終活(…特に墓地・埋葬問題の解決)も含まれ、教会というキリストの体における現実的な手応えを得られるということ(但し美化することはできない!聖徒の交わりというのはあくまであの世の理想であり観念であって、この世においては世俗社会の対人関係と大差ないのでストレスも生じる)。デメリットは神観が擬人的になるので、野呂芳男氏のようにプライバシーを尊重して介入しない神といった都合の良い神観でも持たない限りは圧迫を感じて、場合によっては神の監視という強迫観念が植え付けられ神経症的状態に陥る。対神関係も対人関係と同様に、あまり近すぎるとストレスにつながるので、つかず離れず…美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感がちょうど良い。

神学(救済論)的関心を優先させる以上、救いに無用な形而上学的疑問は思弁しても意味はないということで、そういうどうでもよい無用な問いは聖霊のはたらきによって停止し、教義…特に「三位一体」とか「予定」および「聖定」など、通常の論理を超えていると思われるものについては、聖霊他力の働きによって聖なる無知を告白するという謙虚な態度にされて、これをクリアーするしかない。しかし、形而上学的関心も一定程度はある自分の場合は、いかに聖霊のはたらきが与えられても、信条における三位一体神への疑問や反論思弁も捨てきれない。すなわち御父と御子とが「同等」などということは、聖書を素直に読む限り、平気で告白することなど出来ない。せめて元・改革派教会の牧師である佐々木稔氏が自サイトで用いた「職務的従属」という概念でもよいから、三位格における御子従位・従属を述べて「同等」は言わないことを心がける。

パウロが「神」と「キリスト」とを言い分ける理由は、「キリスト」も「神(の子として、神の性質を持つ者)」ではあるが、あくまで「神からの神」であり、聖書で「神」と言われているのはその神ではなく、「神の神」としての御父であるということ。「神からの神」は「神(の神)」と同等ではあり得ない。「から」(エク)と言った時点で同等ではなく従位なのである。

「(父なる)神⦅神の神⦆、神の子(キリスト)⦅神からの神⦆、聖霊⦅神の霊⦆」

「愛」も「愛の愛」(=無償の愛である理性的な愛である「アガペー」)、「愛からの愛」(=「アガペー」の比喩的派生形態としての親愛「ストルゲー」)、「愛への愛」(「フィリア」)という区別が端的には可能だが、これを「神」に対応させることには無理がある。ただ、三位一体批判としては、第一コリント13章の所謂「愛の賛歌」の最終13節、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」の「信仰」に御子、「希望」に聖霊、「愛」に御父を代入するというやり方もある。「愛」に御子を入れたがるのが世のクリスチャンという者であるが、自分は「神は愛なり」の「神」(は、三一神の非ず御父なり!)とする。これに対応するのが、ヨハネ14:28 , 17:3、第一コリント11:3など。

ちなみに、第一コリント13:13(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」の「最も大いなる(もの)」と、ヨハネ14:28(口語訳)「父がわたしより大きいかたであるからである」の「~より大きい(かた)」と、原語は同じ「メイゾーン」(「メガス」〔大きい、偉大な〕の比較級)という形容詞である。第一コリントの方は、比較級なのに最上級の意味に訳している。形容詞という意味では、川端由喜男訳の「愛はこれらのうちで最も偉大(である)」というふうに訳すほうが、口語訳や青野訳のように「最も大いなるもの」と訳すより良い感じではあるが、川端氏の対訳では「訳語については、ギリシア語本文を読む助けを提供することが主眼であり、釈義的に正確な訳を試みたものではない。」とことわった上で「訳語選択にあたっては」、口語訳、新共同訳、青野太潮訳などを参照したと書かれているので、その点では不安だ。

織田昭著『新約聖書ギリシア語小辞典』では、「メイゾーン」の第二義として「②(最上級の意味で)最も大きい , いちばん偉い , マタ23:11 , Ⅰコリ13:13. 」と書かれている。また、岩波版 青野太潮訳の注には、「これは形の上では比較級(meizon)。一二31bの「さらに卓越した道」からして最上級が予期されるが、ヘレニズム的ギリシア語では最上級 megistosはあまり用いられなかった。」とある。「愛」については、「『信・望・愛』の三幅対は、パウロではⅠテサ一3、五8、ロマ五2-5に出る」とある。

第一ヨハネ5:7~8「なぜなら、証しする者が三人いるからである。霊と水と血である。そしてこの三者は一つのものを指し示している。」(岩波版 大貫隆訳)の注に、写本において7節と8節の間に置かれた「ヨハネの文節」(コンマ・ヨハンネウム)にふれられている。これについては、田川建三著『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中で次のように書かれている。「この場合のコンマというのは読点の意味ではなく、『句』という意味である。第一ヨハネ書簡五・七ー八の文を、もしくはそのヴルガータのラテン語訳を指す。ギリシャ語の原文は『証言するものは三つある。霊と水と血である。そしてこの三つは一つになる(逐語的に英単語に置き換えると、these three are into the one)』という文である。しかしこれがヴルガータでは Quia tres sunt qui testimonium dant, in terra, spiritus et aqua et sanguis. et tres sunt, qui testimonium dicunt in caelo, pater, verbum et spiritus, et hi tres unum sunt となっている(ヴルガータも写本によって少しずつは異なる)。「証言を与えるものは次の三つである。地上では霊と水と血である。そして天にて証言を述べるものが三つ、父と言葉と霊である。この三つは一つである(最後の文を逐語的に英語の単語にすると、these three are one)。」つまり、三位一体のドグマを宣言する句がつけ加えられたのである(ここの「言葉(verbum)」はロゴスなるキリストを指す)。新約聖書の中に三位一体のドグマを明言する文は存在しない。これは今日ではよく知られていることである。まあ、無理にそちらの方向につなげようと思えばつなげられる考え方が出て来ていないわけではないが、はっきり明言している文はない。それでカトリック教会は困ったのであろうか。ラテン語訳の写本のどこかの段階でここにこの句がつけ加えられた。(中略)何年もたってからやっと一つ写本が提示された(小文字写本の61番)。その結果エラスムスはこれを第三版から挿入したのだが、この写本はどうやら彼をおとしいれるために後からあわてて作られたらしい、という疑念を註に記している。今日の研究では、この61番の写本は一五二〇年にオックスフォードで書かれたということがわかっている。つまり、エラスムスのテクストが発行された後にあわてて捏造されたものである。」(p417~418)

ローマ・カトリック教会ぐるみで聖書を捏造したということらしい。「父と子と聖霊」を、ここの「霊と水と血」にあてはめるなら(上記のヴガータ訳の関係でしょう、カトリック教会の公教要理では「霊と水と血」が「聖父と御言と聖霊」になっているという)、第一コリント13:13の「信と望と愛」にあてはめたってよいでしょう。第一ヨハネでも八木氏が場所論の基本文の一つだという(『イエスの宗教』p23)「愛は神から出る」(4:7)とか「神は愛」(4:8 , 16)といわれています。もちろん、聖書を捏造する必要などはありません。本質的意味として通じ合うのはこちらの方です。信も望も、愛から生まれてくる、愛が源です。神はどうしても人格的に比喩表現されるので、愛も八木氏が言われるとおり3つに分節すると愛の源が御父で愛の内容が御子、愛の伝達が聖霊といったことになろうか。ちなみに「唯一」というのは御父についても御子についても言われている(第一コリント8:6)。従って「唯一」の歴史的意味における原段階では中央集権体制に関して同じく「ヤハウェ」の中での「唯一」であり、拝一神教的意味は次の段階であり、「唯一絶対」という意味は本来的でないが、パウロ的には「神」と「主」とを区別する意味での「唯一」であり、それとキリスト教の実質「三神論」である「三位一体」とは矛盾しない。

この第一ヨハネは、仮現論的キリスト論という異端説を論駁することを主たる目的として執筆された由であるが、それは「神の子キリスト」が洗礼において「人間イエス」と合体し、十字架刑に際して離れたというもの。大貫氏の指摘でより重要なことは、「後一世紀末から同二世紀にかけて原始キリスト教会の内外に登場して、やがて正統主義を自認する教父たちから『異端説』のレッテルを貼られてゆく立場は大小多種多様で、一概に論じることはできない。その中で、ヨハネの第一の手紙が対峙している『異端説』の右のような仮現論的キリスト論と救済論にもっとも近いものを探せば、(中略)ケリントスの立場が挙げられる。(中略)これら二つの類例とヨハネの第一の手紙が対峙する『異端説』の間には軽重を問わず多くの相違も同時に存在するので、お互いを直接的に同一視するわけにはゆかず、思想史的な類似に止まる。」ということ。

(第一コリント13:13)

νυνὶ δὲ μένει πίστις ἐλπίς ἀγάπη 

τὰ τρία ταῦτα μείζων δὲ τούτων  ἀγάπη.

川端訳:(②今 ①そこで ⑧存続する ③信仰 ④望 ➄愛 ➆三つのものが ⑥これら ⑫最も偉大⦅である⦆➈しかし ⑪これらのうちで ➉愛は)

青野訳:「そこで今や、信仰、希望、愛、これら三つが存続する。しかし、それらのうちで最も大いなるものは、愛である。」

②ヌニ ①デ ⑧メネイ ③ピスティス , ④エルピス , ➄アガペー , ➆タ トリア⑥タウタ. ⑫メイゾーン ➈デ ⑪トゥートーン ➉ヘー アガペー

ヨハネ14:28)

 ἠκούσατε ὅτι ἐγὼ εἶπον ὑμῖν ὑπάγω 

καὶ ἔρχομαι πρὸς ὑμᾶς εἰ ἠγαπᾶτέ 

με ἐχάρητε ἄν ὅτι πορεύομαι πρὸς 

τὸν πατέρα ὅτι  πατὴρ μείζων μού ἐστιν.

川端訳:(➉あなた方は聞いた ⑨ことを ➅私が ⑧言った ➆あなた方に ①私は行く ②また ➄私は帰って来ると ④ところに ③あなた方の ⑬なら ⑫あなた方が愛している ⑪私を ⑱あなた方は喜ぶはずである ⑰のを ⑯私が行く ⑮ところに ⑭父の ⑲なぜなら ⑳父は (22)もっと偉大で (21)私より (23)ある⦅から⦆)

小林稔訳:「あなたがたは私が自分たちに『私は往くが、あなたがたのもとに来る』と言ったのを、聞いた。仮りに私を愛しているのなら、あなたがたは私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は私よりも大いなる方なのだから。」

➉エークーサテ ⑨ホティ ➅エゴー ⑧エイポン ➆ヒュミーン ①グパゴー ②カイ ➄エルコマイ ④プロス ③ヒュマース ⑬エイ ⑫エーガパーテ ⑪メ ⑱エカレーテ  ⑰アン ホティ ⑯ポレウオマイ ⑮プロス ⑭トン パテラ ⑲ホティ ⑳ホ パテール (22)メイゾーン (21)ムー (23)エスティン.

(※N&A原典でも、また『日本語対訳 ギリシア新約聖書』(川端由喜訳)の原文(The Greek New Testament )でも、コンマやピリオドが付いているが、Blue Letter Bible にはそれは無し。)

聖書的には、コーヘレト的神観すなわちコーヘレト的対神関係は実存主義的信仰であると云われるように好感を持てる。すなわち、形而上学的(存在論的)に過ぎず神学的(救済論的)に過ぎず、非擬人的人格的(哲学的)に過ぎず擬人的人格的(神学的)に過ぎず、つかず離れずでちょうどバランスが良いと思う。

私は、バルト神学の(キリスト特別)啓示偏重は自分の中で否定しています。改革派の中にも、「バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは、行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない」との批判があるくらい(~webサイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ベルクーワの著作の紹介」の第5章 キリストの啓示は排他的か)、バルト神学の「神認識・啓示」の教説は極端なのです。 そのバルトにおける「愛」に関する論文では、バルトのマルコ12:29-31の釈義として「『主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』(29節)。ただ愛することだけが、神の唯一無比性に対応することである。この愛することは、神の唯一性のゆえに『選ぶこと』を意味する。」云々と書かれている(~佐々木勝彦氏の論文「K. バルトにおける『愛』(1)」)。

そして私は、「神は愛なり」の「愛」も「神と隣人を愛せよ」の「愛」も「アガペー」というのは人間の愛情と違って、あえて人間の感情に喩えるなら「尊重する気持ち」だとみます。「愛」という訳語が誤解のもとだと思います。「尊重する」ことなら「敵」に対しても上杉謙信の「塩をおくる」というか、「敵ながらあっぱれ」ということなら非現実的とまでは思わないし、戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長が「最高の敬意を払い、礼砲を5発、乗組員全員が敬礼をして、若き日本兵を海へ送り出し」た行為などは、それ自体、尊敬すべきことです。偉大な司令官 ウィリアム・キャラハン艦長 | 株式会社 海星 (kai-sei.com) そのような意味での「愛敵」なら受け入れます。しかし、そうではなく単なる愛情ということなら「非現実的」としか思いません。そこには「好き」という感情があるからであって、「敵」に対してそんな感情を持つ人は異常であるか実際は「敵」ではないということになるからです。そんな非現実的な言葉は、いかにイエスの言葉であるといっても、信仰と生活の誤りなき規範とか規準と謳っているところの聖書である以上、意味をなさないということで受け入れることはできません。 

ところで多くのクリスチャンは、信仰対象である神なりキリストについては、自分によくして下さることを期待しての愛であるがゆえに信仰するのであるが、そういう人は苦難に陥ると当然、信仰がおかしくなる。神・キリストは人を…特に自分を愛してくれるからこそ信仰するに値するのであって、愛してくれないなら、苦難に遭わせるなら、そんなもの信仰などする意味はない…ということである。苦難がまったくないということは現実的ではないから、災難が何度かあってもそれで信仰をやめない人もいるにはいるが、人生を総合的にみれるなら、最終的にプラスの方がマイナスより多い勘定にならなければ信仰生活の意味は無いということになる。そこに擬人的人格神観の限界がある。自分は人格神観とは言え、聖書で描かれているような擬人的、情緒的な神観ではない。むしろ「絶対」神観が哲学的で神学的ではないと言われるとしても、それなら自分は開き直って神学より哲学の方に近い神観であると思う。人の親の如く愛情を注いでくれる神などではなく、要は現実世界に唯一の絶対実在として、あらゆる偶像を相対化し得る権力者であることなのだ。

「現実世界(全体論の社会)は,神と直接的な関係の下では低 い価値を持つに過ぎないのである。つまり,ここには神との関係による個人と現世秩序のヒエラルキー化が見られ,世俗秩序は絶対的な価値に従属するものとして相対化され,ここに序列化された二分法が成立するのである。」 (~新矢昌昭氏の論文「個人主義 の『淋しさ』」佛教大学大学院紀要 第28号〔2000年3月〕)

佛教大學大學院紀要 28号(20000301) L165新矢昌昭「個人主義の「淋しさ」」.pdf (ddo.jp)

< 価値相対主義に立つ限り、どんな天才も偉人も英雄も自分の価値判断を「絶対のもの」として他人に押し付ける特権を許されない。これに対し哲学上の絶対主義は、ある特別な人間に対して絶対的な「真理」と「正義」の独占を認める。そうなると、この絶対的な「真理」と「正義」に反対する人々の実力行動はもとより、言論の自由も認められないことになる。そういう事態が民主主義・自由主義とは相容れないことは明らかだ。ケルゼンの言うように、民主主義論には、その根底に価値相対主義を内在していると考えるべきなのだろう。とりわけ議会制民主主義を考えた場合、多数決制原理の陥穽を明らかにする。「多数ゆえに正しいとは限らない」とか「少数意見にも耳を傾けよ」という主張は、価値相対主義に立ってこそ説得力を有するではないか。万人は自説と異なる価値判断に対しても寛容でなければならないという謙虚な態度は、学生時代の私にとっては、とても魅力的なものに見えたのである。私は、価値相対主義によって「寛容と忍耐」という態度を学んだといえよう。>法律学に学んだこと~大学時代の講義の思い出~(法苑175号) | 記事 | 新日本法規WEBサイト (sn-hoki.co.jp)

神学においては「類比」が用いられます。カール・バルトトマス・アクィナスないしはローマ・カトリックの「存在の類比」を否定して「関係の類比」を肯定しました。

「神学は『神についてのことば』である。しかし、一体どのようにして神は人間の言語を用いて記述され、論じられ得るのであろうか。ヴィットゲンシュタインはこの点を強力にこう語っている。人間の言葉がコーヒーの特色ある香りを表現出来ないなら、どうして神のような微妙なものに、人間の言葉は取り組めるだろうか、と。

こうした問いに対する神学の答えの基礎となっているおそらく最も基本的な思想は、普通『類比の原理』と呼ばれているものであろう。神が世界を創造したという事実は、神と世界との間の基本的な『存在の類比(analogia entis)』を指し示している。世界の存在における神の存在の表現ということに基づく神と世界との連続性がある。こういうわけで、被造秩序の中にある実体を神の類比として用いることは正しい。このようにすることで神学は、神を造られた客体や存在に引き下ろすのではない。神とその存在との間に類似性や対応があるということを肯定しているに過ぎない。これによって後者は神を指し示すものとして働けるようになる。造られた実体は神に似ているが、神と同一であることなしに、そうなのである。『神は我々の父である』という言葉を考えてみよう。アクィナスの主張によれば、これは神が人間の父親に似ているという意味だと理解されるべきである。言い換えれば、神は父に類比的である。ある面では神は人間の父のようであり、他の面においてはそうではない。本当に類似しているところはある。神は人間の父親が子供に配慮するように我々に配慮する(マタ七・九-一一を参照)。神は我々の存在の究極的な源であり、それはちょうど我々の父親が我々を存在させるのと同様である。神は人間の父親がするのと同じように我々に対して権力を行使する。また、全く似ていないところもある。例えば、神は人間ではない。また、人間には母親が必要であっても、神の母親が必要である、つまり、ふたりの神が必要であるということにはならない。アクィナスの言いたいことははっきりとしている。神の自己啓示が日常的な存在である我々の世界と結び付いている像や観念を用いるというのである。とはいえ、そうした像や観念は神を日常世界に引き下ろしはしない。『神は我々の父である』と言うことは、神はただ、もう一人の人間の父親に過ぎないと言うことではない。また、後で見るように、神は男性であるべきだと考えられているのでもない(三六三―六頁参照)。そうではなくて、人間の父親について考えることが神について考える助けになると言っているのである。これは類比である。あらゆる類比がそうであるように、成り立たなくなるところがある。しかしながら、類比はなおも神について考える上で非常に役立つ、また生き生きとした仕方なのである。これによって我々は、我々の世界の語彙と像を用いて、究極的にはそれらを超えているものを記述出来るようにされることになる。『神は愛である』と言うとき、我々は我々自身の愛する能力のことを言っているのであり、この愛が神において完全である場合を試し、想像するのである。『神の愛』を人間の愛の水準にまで引き下ろすのではない。そうではなくて、ここに示されているのは、人間の愛が神の愛の表示となるということであり、この表示はある限界の中で神の愛を写し出すのだということである。」(アリスター・E.マクグラス著、神代真砂実訳『キリスト教神学入門』〔教文館〕p347~349) 

自分にとって信仰の目的は精神の安定であり、メンタルヘルスにおける救いであり平和であるので、とにかく「絶対」なるものがこの世に実在していなくては困るのだ。そしてその「絶対」なるものは必ずしも倫理的に最高でなくてもよいので、つまり人間に対して公平平等に扱う存在である必要はない。創造主の主権の絶対性を考慮せず自分たちの人権(イデオロギー)を主張し、そのための根拠として神を利用する偶像崇拝的な人々に対しては躓きを与える神であって然りだ。要はこの世の相対的な価値観を変える力を発揮してくれないと困る。たとえば、世の中で絶対化されている容姿とか学歴とか…幸福の要件として固定的に言われるようなものである。その絶対性こそが自分にとって精神を安定させる支柱となる。それが確固としていなければ、愛だの何だのといった擬人的神観はかえってうざったく感じる。いくら聖書には無いとか哲学的だとか言われても、自分にとっての神は矢内原氏が言うとおり絶対でないと困る。絶対ということは対象化できないということだが、そこは神ご自身の自己限定という恵みを信じるしかない。啓示というものもその一環なのだから…。すなわち旧約では「神の顔」が、絶対者なる神の自己限定すなわち自己対象化の象徴である。「君はわが顔を見ることは出来ない。人がわが顔を見て、なお生きていることは出来ないのだから」(同、出エジプト記33:20)と言われていながら、その一方では、モーセは神の「後ろ」(アーホール)を見ることが許されたのであり、絶対なる非対象の「神」が関係性の構築として創造主となられ、一民族の神であるヤハウェとなるという自己限定において、認識対象となり給うたのです(出エジプト記33:11他参照)。従って人間の側の「神」認識としては、「神の顔」を見ることは出来ない(「霊」は非対象である)ということと、だからいかなる対象性もあり得ないということとは違うということ(…「神」御自身による自己対象化=啓示という恵みがあること)。霊なる「神」に「実体」と言える何かを認め得るとすれば、あくまで「神」の側からの一方的な「関係」による以外にあり得ない…ということが言える迄。それ以上のことは人間の思いを超えている(イザヤ書55:9)。

なお、神聖法典の用語法の「私の顔を与える」は神の怒りと処罰の意志を表すとのこと(岩波版レビ記17:10の注参照)。

イスラムでも「神の顔」が重要なメタファーのようです。

クルアーン28:88「アッラーとならべて他の神を拝んではならぬ。もともと、ほかに神はない。すべてのものは滅び去り、ただ(滅びぬは)その御顔のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されて行く。」(井筒俊彦書『コーランを読む』〔岩波セミナーブック1〕p85)

この「お側に連れ戻されて行く」という訳は重要。コヘレト書12:7の「そして、塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る」と、「神に戻る」あるいは「神に帰る」と言っても、「神」本体への帰入とか言うのではなく、あくまでも「神」の「お側に」であり、神秘主義の「神人合一」とは根本的に異なる。

<現世は儚い仮の宿であるが、この現世在住の間、霊魂は物資の桎梏に纏綿されて不純不浄な状態に堕している。この不幸な霊魂を、真の認識と敬虔な行為との二つの手段によって浄化し、地上生活の牢獄から一刻も早く解放してその神聖な太源に「還行」(maad)させることが存在の最高目的なのである。>(井筒俊彦著『イスラーム思想史』〔中公文庫〕p257)※「還行」に「マアード」とフリガナあり。発音記号は省略。

「神聖な太源」が「神」であるなら、この「神」に万物は帰一する。御子自身も従わせられる。(コリント一15:28参照)

以下、前掲の『イスラーム思想史』より「神(観)」に関する記述を抜粋引用。

<アラビア人は極めて視覚的、聴覚的な民族であった。そしてムハンマドは恐らく本能的に、無意識的に、このアラビア人の根本的特質を完全に把握していたのであった。

当時のアラビア人は何でも自分の眼で視てからでなくては信用しなかった。彼らに向って抽象的に神の存在や、神の偉大さを説いて見たところで一向利き目はなかったのである。だから、コーランにおいてはアッラーはまず何にもまして「生ける」神であることが強調され、アッラーはあたかも人々の目前にありありと見えるかの如く描かれている。そこで神は人間と同じように手もあり足もあり、顔もあり、顔には勿論目も耳も口も、更に口には舌もあって人々に話かける。彼は人間が善い事をすれば喜んでこれを愛し、悪い事をすれば烈火の如く怒る。一口にいえば極めて人間的な神である。そして、この人間的な神は空一杯にひろがる大きな玉座にどっかりと腰を下ろしているのである。但し、このような神の観方はアラビア人に対して異常な効果を収めた一方、人々を駆って極端な擬人神観(Anthropomorphismus)に走らせる危険も多分に含んでいた。この神の擬人観をアラビア語ではタジュシーム(tajsim 肉体付けること)と呼び、非常に沢山の回教徒がこれに陥った。西洋で歴史上アルモラヴィド(Almoravids)と称されるアフリカ・スペインの回教徒団体 al-Murabitun などは、後述する通りこの種の思想を抱いた代表的なものである。いずれにしても、コーランでは、神が全く眼に見えるように書いてある。また、それのみならず、神自らも視力すぐれ(basir)聴力秀でた(sami)ものであることが到る処で強調されている。事実、当時のアラビア人の間では、「耳も聞えず眼も見えず」といえば生命のない木偶坊というのと同じだったのである。(中略)「アッラーはあらゆる事に対し能力をもち給う」とだけ言っても、アラビア人は少しもアッラーの偉大な力を感じはしなかった。(中略)何でも眼に見える物が神の力の具体的な現れとして説かれた。通常、英語でsign(しるし)と訳されているアラビア語 ayah(複数 ayat)は、こういう神の力の眼に見える現れをいうのである。こうしてアラビア人達は宇宙万象に神の偉力の現れを見る、新しい自然の観方をイスラームによって教えられ、自分の身の廻りに神の力をしみじみと感じて深い喜びに包まれたのであった。(中略)今まで説明して来たように視覚的・聴覚的であるアラビア人が、結局、本質において感覚的であり物質主義者であったことは当然である。仮に彼らを哲学者に見たてるならば、彼らは個物主義者であり、ノミナリストであった。感覚的な現実の彼方に、それを超越するイデア的なものの実在を信じるレアリストではあり得なかった。(中略)彼らが観るものは常にこの時、この場所という時空に制限された個々の物である。個物を超えた一般者には彼らは全然用がない。(中略)眼の前にある大小様々の円は視ても、そこに個々の円形を超えた円というものを視ようとはしない。つまり物をいわゆる「永遠の相の下に」(sub specle aeternitatis)視るなどということは彼らの思いもかけない所であった。彼らには事物の非合理的側面しか見ることができなかった。現実的な彼らはイデアの世界はかつて顧みたことがなかったのである。激烈な、妥協を許さぬ現実主義、徹底的な感覚主義と個物主義がそこにあった。>(p20~24  ※改行は本文の通りではない。発音記号は省略。)

< 更に、もう一つムアタズィラの思想で重要な点は、神を人間化して表象すること(前出、tajsim 別に tashbih ともいう)に徹頭徹尾反対したことである。コーランにあれ程ありありと生きた神として描かれたアッラーの姿は、ここに全く粉砕されるに至った。ムアタズィラは第一章に述べたアラビア固有の精神とは正反対の方向に向って極端にその合理的理論を推し進めて行ったのである。(中略)果して大きな反動が起った。それが次章に述べるアシュアリーの運動である。それはともかくとして、ムアタズィラは、神に関してコーランに見出されるあらゆる人間的な表現はアレゴリーに過ぎないと考えた。例えばアッラーの手といえば、その惜しみなく与えることを、アッラーの顔といえば、その知識を表わすものと解釈された。こういう比喩的解釈法を術語ではターウィール(ta`wil)と呼ぶ。

神は始めなく終りなく、全てを含み、何者にも含まれることなく、時間、空間、概念を超越した無限者であり絶対者である。コーランでは神は大空に拡がる玉座に腰かけていることになっているが、勿論比喩に過ぎぬ。神は無限者である故に、何処にいると場所を定める訳には行かない。神は宇宙を充たし、しかも同時に宇宙を超越し、これを包含している。この考えをムアタズィラはその分派により色々に表現している。(中略)このように神は具象的形態では全く想像もつかぬ無限者であり、従ってまたどのような状態においても人間の眼には絶対に見えぬ、と彼らは説いた。神が人間の眼に見えるか見えないかというような議論は、一神教的神学においては一つの重大な問題である。そのことはキリスト教における「至福直観」(visio beatifica)の問題の重大さと思い合せて見れば容易に納得されるであろう。>(p58~60)

< 彼はコーランの章句は全く文字通りに解釈しなければならぬ、神があたかも人間の如く描かれてあっても、それがコーランの章句である以上、アレゴリカルな解釈(ta`wil)を加えてはいけないということを盛んに力説している。人はコーランにおける神の人間的描写を象徴的に解釈して、それで擬人神観(Anthropomorphismus―tajsim,tashbih)に陥ることを避けようとするが、その代りに ta'til に陥ってしまう。アッラーから人間的要素を排除(tanzih)しようとするあまり、ta'til を犯してはならない。この種の誤りを犯した極端な者はジャフム派(Jahmiyah)の人々である。彼らは、アッラー自らがコーランの中ではっきりと自分には顔があるとしているにも拘らず、これを無視して、アッラーには顔は無いという。(中略)彼らは単に神の唯一性のみを認めて、その種々の属性を否定する。(中略)彼らの指導者の一人のごときは、アッラーの知識はアッラーそのものであって、つまり「アッラーは知識である」との説を吐いているが、かくして彼は表面上アッラーの知識を認めるかのように見せながら、実はそれを否定しているのである。もし本当に彼の主張する如くアッラーの知識がアッラー自身なら、神に呼びかけるかわりに、「おお知識よ、何卒わが罪を赦し給え」とでも言ったらいいではないか、とアシュアリーは皮肉っている。こうして、世の合理主義的思潮に対抗するため、極端な伝統主義者、イブン・ハンバルに徹頭徹尾従おうとしたアシュアリー(中略)彼自身の信条は次の通りである。(中略)(5)アッラーは、コーラン二〇章四節に「限りない慈悲の主(神)は玉座に腰を下ろし給う」とあるに従い、玉座の上にあることを信じる。(6)神はコーランの多くの章句により、顔をもち、手をもち、眼をもつ。但し、これ以上に詳しくそれは如何にあるかということは問わずに、そのまま(bila kaifa)受け容れねばならぬ。神を上の如く解さぬ者は、全て迷いの路にある人々に属する。(中略)(23)神は日々天の最下層に降り立って、「何か願っている人は無いか。誰か我が赦しを請うている者は無いか」と尋ね給うというハディースの真実性を信じる。(中略)果して彼は単に従来の慣習通りに信仰して行きさえすればよいとする無反省的伝統墨守(taqlid)を排し、思索によって神を認識する努力を始めたのであった。世にいう所の「アシュアリーは中間を行った」(salakatariqah baina-huma)という彼の立場は、この頃の彼の態度を表わすものであろう。(中略)アシュアリー派がこの点でムアタズィラと違っていたのは、ムアタズィラが飽くまで論理的な推理を進めて、コーランの教えと正反対の結論に達しても何等意に介さなかったのに反し、常に理性の自由をコーランに反さぬ程度にのみ限っていた所に在るが、要するに程度の差であって本質的な差ではない。故にアシュアリーのイスラーム改新運動はいわゆる正統派(orthodox)の教義に至るには未だ路遠く、後述するガザーリーをまって初めて決定的な形となるのである。>(p71~82)

ムアタズィラ派はイスラームにおいて最初に「理性」を真理の標準として認め確立したそうだが(p56)、彼らの「比喩的解釈法(=ターウィール)」は聖書の解釈にも通じる当然のことだと思う。その点で私はアシュアリーの保守性をこそ批判したい。「神」の身体的表現など比喩に決まっている。類比という方が適切だろう。

イマーム・ル・ハラマインは正統派の神学者として、神は、語の本来の意味において(すなわち比喩としてでなく)視たり聴いたりする者であることを主張する。これに対してカアビーおよびバグダードにおけるカアビーの弟子達の説では、人が「神が聴く」とか「視る」とか言うのは、そのまま解されるべきではなく、神は認識の対象を、あるがままに正確に認識することを意味するとした。そしてこの説にはナッジャールの一派も一致していた。また、ムアタズィラ派では内部に意見が分裂し、例えばバスラの人々は、神は、本来の意味において聴き、視る者であると説いたのに反し、ジュッバーイー父子は神が聴き、視るとは神が生きており欠点がないことであるとした。>(p115~116)

「神」が「聴く」も「視る」も比喩は比喩、類比は類比だが、だからといって「神」にいかなる意味でも「体が無い」というわけではなく、その「名」において「体」があるのだ。しかしそれは所謂「実体」ではない。少なくとも普通の意味では「神」は「実体」ではない。「実体は通常、神学では延長をもつものとされているが、神が延長をもたぬことは先に証明した通りであり、また実体とは偶有を受け入れるものと定義する人もあるが、神が偶有を受け入れるということはあり得ない」(p112)からだ。

絶対的、実体的存在(自性⦅じしょう⦆が無いことを「空」というそうだ。コーヘレト思想はそのような龍樹の縁起的世界観(中観)と似てはいるが根本的に違って、唯一、創造主なる「神」だけは絶対的、実体的存在(自性)なのだ。空 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)

人間関係の悩みも、本来、優でも劣でもないものを、優とか劣とか判断する人の心の分別作用から生ずるのだろうか?それはともかく、「神」は「霊」であり「絶対」であるから、「神」の側から云々ということ自体、「神」を相対的に考えていることになる。「神」が本来「非対象」というか「空」だということなら、「神」の自己対象化において人間との関係が成立した後でも、対神関係において人間の状態は意識と無意識とが混合している。信仰は常に意識的である(というか、対神関係における意識的状態を「信仰」と呼ぶのだ)が、無意識的状態での関係がメインだとも言える。

「この私は、臥して眠り、目が覚めた、ヤハウェが私を支えているからだ。」(詩篇3:6)

「平安に、臥すとすぐ私は眠る、まことに、あなたヤハウェだけが安らかに私を住ませて下さる。」(詩篇4:9)

信仰はアンコンシャス、告白はコンシャスって感じ…?

特に死に臨む限界状況における信仰は脳のはたらきが鈍って昏睡状態にもなるわけで、対神関係が意識的ならそうなった場合には失われていることになるが、そんなことはあり得ないということが上記の聖句が示している。ヤハウェはこちらが信仰を働かせていない無視状態においてもしっかり支えておられる。

  • 「すべてのものは彼から〔出で〕、彼によって〔おり〕、そして彼へと〔向かっている〕」(ローマ11:36)

エク(から) アウトゥー(彼) カイ(また) ディア(より) アウトゥー(彼に) カイ(また)エイス(に向かって) アウトン(彼) タ パンタ(すべてのものは)

※前置詞「ディア」はこの場合、属格支配で手段・媒介・原因を意味する。「~を通して、~によって」。

 

  • 「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(コリント一8:6)

エク(から) ウー(彼) タ パンタ(すべてのものは) カイ(そして) ヒュメイス (私たちは)エイス(へと) アウトン(彼)

※前置詞「エク」は属格支配で「ウー」は関係代名詞「ホス」の属格。前置詞「エイス」は対格支配で「アウトン」は「アウトス」の対格。「ヒュメイス」は「エゴー」の複数主格。

  • 「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(コリント一15:28)

トー ヒュポタクサンティ(従わせた方に) アウトー(彼に)タ パンタ(すべてのものを)ヒナ(ためである)エー(なる)ホ セオス(神が)[タ]パンタ(すべてと)エン(おいて)パーシン(すべてに)

 

「タ パンタ」は「パース」(〔名〕全て〔形〕全ての)の中性複数主・対格で、主格は「万物」と訳される。「冠詞+パンタ」も「パンタ+冠詞」も「全~」の意あり。新改訳の「すべてのこと」よりも、口語訳、岩波版(青野)訳の「万物」、あるいは新共同訳、新世界訳、川端由喜男訳の「すべてのもの」の方が妥当。なお「パーシン」は「パース」の男・中性複数与格。

 

キリスト教の絶対者の人格性について 

キリスト教では、絶対者としての神は、一般的には、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354–430 ︶以来、 彼の『三位一体』De Trinitate, 419 )に見られるように父、子、聖霊という三つの位格(persona)と一つの 実体(力、智慧)から成り立っていると理解されている。しかも三つの位格ペルソナという時の「位格 ペルソナ」とは、ラテン語personaの語源が演劇用の仮面であることからも分かるように、社会で一定の役割を持ち、かつ責任を負い得る「人格性」を意味する。事実、エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったアダム(adam =  man )に「お前は何処にいるのか」と呼び掛けている神は、人間と二人称的な関係を結んでいる人格的な神である。更に、S・キェルケゴール以来、一般的には、キリスト教で人間における神の像(imago Dei )は、神と人 間との間で二人称で語り合える人格的関係を結び得ることであると理解されている。その上、神の一人子が神の人類に対する愛の故に受肉してキリスト(救世主)として生まれ、人類の贖罪の為の死を十字架上で遂げ、死後三日目に復活する。聖書でのこのような記事は、キリスト教の神が、絶対的な人格としての神であることを物語っている。事実、旧約聖書の創世記で、天地の創造主として働き、十戒をモーゼに与えたのも、人格的な神である。

しかしながら、一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖書を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。>

(花岡永子「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』 Vol 5 2006 http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ )

 

アリストテレスは「全体は部分の総和にまさる」と言ったとのこと。

ところで聖書において「神」を「父」と比喩することは次のような意味をもつらしい。

 

< 父なる神は恩寵と自由を象徴し、円熟と信仰、生の源が神にあることを親しく知り、存在が窮極において善であることを確信し、成長と創造が可能であること・・・・・を象徴している。したがって、正しく解するならば聖書の「父」という象徴は・・・・・束縛ではなく解放を、依存ではなく責任を、幼児性ではなく成人性を意味しているのである。>(~R・H・ケリー『父なる神 イエスの教えにおける神学と父権制』)

「神は霊」なので、「神」のイメージは間接的にイメージされて然りです。聖書には「神」の姿形を直接にイメージさせるような描写はほとんどなく、イエスの譬え話などは間接イメージです。また、私は「ソロモンの祈り」(列王記上8章27節)の「神は本当に地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることができません。私が建てたこの神殿などなおさらです。」(その他、新約聖書使徒行伝7:48~49、17:24~28参照)から、間接的に「神」を「(無限)大」なる存在としてイメージします。

 

以下、量良治氏による波多野精一氏に対する批判と、その愚かさ。

<波多野は宗教を定義して次のように述べている。

他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる――これが宗教であり、これが又生の真の相である。(上掲書二一六ページ)

宗教は自我において、自我よりして、自我の力によって生きるのではない。そうではなくて「他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる」のであると言う。この他者は、観念的ではなくて実在的であり、相対的ではなくて絶対的である。宗教において自我が関わる他者は絶対的実在としての絶対的他者なのである。このような他者はふつう神と呼ばれる。宗教とは自我としての人間の絶対的実在としての絶対的他者、すなわち神との関係である。

神聖性

神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。

それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは「神聖性」である、と。(以下、略)>

(量氏前掲書p108~109)※「上掲書」とは、『宗教哲学』(『波多野精一全集 第四巻』〔岩波書店〕)。

<仲保者論の欠落

総じて波多野宗教哲学の著しい特徴は仲保者論、キリスト教神学的に言えば、キリスト論が欠落していることである。波多野は次のように述べている。若し現実に存在する諸宗教のうちに、絶対的他者と人間的主体との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は実は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は実は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであろう。

(上掲書四三三 ― 四三四ページ)

波多野はこの文章に注をつけて、「それ故、例へばキリスト教神学の説くキリストの神性は、神の神聖性の必然的帰結とさへいひ得るであろう」と述べている(上掲書四三四ページ)。しかし、キリスト教神学では、キリストは単性論的にではなくて、すなわち、単に神でも単に人でもなくて、両性論的に、すなわち神性と人性との矛盾的自己同一としてとらえられているのである。波多野においては、キリスト論だけではなしに、聖霊論も欠落している。言い換えれば、波多野宗教哲学は三位一体論的にではなくて、ユニテリアン的に論じられているのである。このことは、波多野宗教哲学が宗教一般の哲学であると言うならば、看過することができるが、キリスト教的宗教の哲学としてはやはり問題であると言わざるをえないであろう。>(量氏前掲書p122~123)

三位一体論的に論じたら宗教哲学ではなくキリスト教神学になるだろう。量氏の方が、宗教哲学キリスト教神学になっているのである。「ユニテリアン的に論じられている」のは大いに結構!同じく「一神教」のユダヤ教イスラム教にも通底し得るには「仲保者論の欠落」はむしろ当然であろう。第三者を立てれば、それは神そのものか、無神論になるということなら、第三者は立てる必要はない。新約聖書の物語においては仲保者キリストには「神」の性質があり、それは現実世界のこと、つまり歴史上の事実の「History」ではなくて、あくまで「His Story」たる物語の中での話なのだから別に認めても良い。 

 

以下、関根清三氏の言葉。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書p7780)

なんだかんだ言っても宗教である以上、そして救済を切実に真剣に求める相手だからこそ、神の「絶対」性は必然的に要請されるってことでしょう。小田垣氏の言うような他者性の無い非対象的な神など信仰できますか?また、野呂氏のように絶対的ではなく究極的な存在なんて信じられますか?自分は小田垣氏は考え過ぎで、人格神が絶対無であり「ただそれを生きられるもの」とする理屈は受け入れません。また、野呂氏についても自分は究極的存在より絶対的存在の方を信仰します。野呂氏が選んだ「究極」の方こそ日常生活では一般大衆にとって使い慣れない抽象性の高い言葉ではないでしょうか?「絶対」ではなく「絶対的」と言えば、哲学的な意味で「対」なしだから無だ…とかいった話にはならず、最近の言い方では「超越」と似たようなことで、「ヤバイ」って感じの形容になります。「超絶」と言うこともありでしょう。

量氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で次のように述べています。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(p236)

以下は、岡田稔著『(改革派)教理学教本』より「聖定」に関する文言の引用です。

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。>

 「運命(fate)でなく、また聖定(decree)と表現するより、神の計画(plan)を信じる < 人間の理解を越えた、万事を益をされる神の計画 >」Microsoft Word - 配布用B5小教理問答③.doc (murraylawn.org)  否‼ 否‼「神の計画(plan)」などとするより「聖定(decree)」と表現する方がいいです❕

「アウグスチンは神の先行的恩恵〔プレヴィニエント〕、常勝的恩恵〔プレヴェーリンク〕、進んで不可抗的恩恵〔イレジスチブル〕といふことを申します。神が人に恩恵を下さるのに、いつも先手をうたれる、如何なる障害をも突破して下される、神の与える恩恵は不可抗的で、何人も之れを妨げることは出来ないといふ事です。神は恩恵をしばしば人に強ひられる、神は同情の押売をせられる。だからいかに暗く、つらく見える運命でも、之れが神の自分に強ひたまふ恩恵でないと誰が断言出来ませう。私共は自分の過去を顧みて、あの時、この時、神が自分に強ひて恩恵を与へたまはなかったら、今頃自分はどんなであつたらうと考へさせられることもあります。」(~『恩寵の王国』の「神を嗣ぐ者」一〇)

恩寵の王国 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

ちなみに、川島隆一牧師は葬儀説教で以下のように語っておられます。

< 教会の歴史の中でその名を記憶される優れた指導者トマス・アクィナスの言葉に、「神はそれが偶然に起こることを欲した」というのがあります。偶然とは、起こるべからざることが起こるということです。キレネ人シモンに、「キリストの十字架を負う」という、まさに起こるべからざることが起こったのです。そして聖書は、このキレネ人シモンの中に、「自分の十字架を負うてキリストに従う」という、キリスト者の理想を見てきたのです。キリスト者はこれを、「強いられた恩寵」と表現してきました。ここには、自分はすべてを捨てて神に従ったという、自己栄光化が入り込む隙はないのです。それは「強いられた」ものであり、しかも「恩寵」なのです。恩寵である以上、その務めを果す力は神によって備えられるのです。>

ホスティア 「強いられた恩寵」 (fc2.com)

聖書において証しされているところの、予定および聖定の主としての神の絶対的主権によって相対化されるべきことは、メンタルヘルスにおいては、世間的価値観としてのいわゆる富や名誉や生産性などだけではなく、「運」というものが、きわめて普遍的で絶対的な意味を得ている。「運命」にせよ「運勢」にせよ、まさに古今東西、人格神に対抗する最強の偶像だ。これの良し悪しで人生が決まるかの如く信じ込んでいる人のなんと多いことか…?自分自身、その信じ込みから解放されねばならぬうちの一人である。

ところで、野呂芳男氏については親交があったといわれる八木誠一氏が、野呂氏は人格主義神学で「内在」とかには関心なかったと証言しているとおりで、野呂氏のホンネは八木氏も親交があり本人も葬儀を司式したほど親交があった信徒神学者・伝道者の小田切信男医師へのエールに如実に露呈されていると思われます。以下、引用。

< 神は、三でなくて一つなので、三が同時にイコール一だなどという数学方程式は成り立たないではないか。だから一は一で、三は三であり、唯一の神はやっぱり唯一なのだから、三位一体論は成り立たないというような、先生のお話をどこかで承ったことがあるように思うのですけれど、私はこれが神学的に非常に重要なモチーフを中に含んだ三一論の否定だと思っております。それは何かというと、神の人格性を最後迄守ろうという意図がその中にあるからだと思うのであります。即ち神が唯一であるということ、それは人間と本当の意味で我と汝の形において対決する神である。(中略)そういった激しい人格的な邂逅があるんだからその邂逅をくずすような三一神論などというものはまっぴらご免だと、こういうような動機が私はあるように思うのであります。実は私はそれに心から共鳴するわけであります。キリスト教というものが、こういう意味での唯一神論というものを捨てたならば、私はたかだか一つの哲学に転換するだろうと思うのです。やはり組織神学を勉強する一人の人間といたしまして、この点を無上に尊いものとして評価したいと思うのであります。>(野呂芳男氏の論文~小田切信男著『神学と医療との間』〔創文社〕p271~272)ふだん口では、伝統的キリスト教の中で神学者としての立場を得る以上は、モルトマンの社会的三一神論なるものにまで言及して、古典的三一神論ではないにせよ、いちおうニカイア信条由来の三一神論を信奉して正統的系統に立つかのようなことを言いながら、一方では明らかに御子従属説を唱えて三一神信仰を否定する「異端」(というものを認めるか否かは別問題として…)に位置する小田切氏に対して、これだけの賛辞とエールを贈っているということは、野呂氏の二枚舌ぶりを露呈しているとも言える。しかし野呂氏は所によっては次のような大胆なことも述べています。一方ではモルトマンないしはカパドキア3教父の「社会的三一論」がいいとか言う人なので、その内容がどこまで信用できるかはともかく…。

< 私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書に元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。(中略)『三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない』」(野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)

いわゆる「人格神」でも「擬人神」に近いような神話的神観なら信仰生活には使えません。スピノザの神観のような「非人格」では聖書が示す神観にはならないが、さりとて「人格」が「擬人」に近づくことは、「インマヌエル」を救いのメッセージたらしめない。人格神観の野呂芳男氏が「霊なる神は、人間がプライヴァシーのほしい時には、人間から遠くに離れていることのできる存在であり、近くにいてほしい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近くいてくれる存在なのである。超越の神が死んだり、あるいは、死んで内在化したりするような神の幼椎な観念、旧約聖書でさえも本質的には所有していないような観念を、我々は捨てなければならない。」とか「神は人間が全く神からも離れて孤独になりたい時には、遠くにいて下さる」と述べておられるとおり、対神関係は対人関係と同じく距離を置いてもらわないと鬱陶しくていけませんから…。(参照:野呂芳男 NORO, Yoshio, bibliography (eucharistia.tokyo)

コヘレト的神観は「人格神」と「非人格神」との中間的でよろしいかと思います。そういう神なら共におられてもストレッサーにはならないでせう。

並木浩一氏は私からの質問メールへの御返答として次のように書いて下さいました。(※一部の太字化は私による)

ヤハウェ擬人神観の起源はイスラエル本来の伝統と、おそらくペルシア中期以降の周辺世界の神話的な表現の採用と、二つの主要源泉があるでしょう。本来の伝統とは、出エジプト以来の「連合戦争神ヤハウェ」の受容です。イスラエルの指導者たちは神を見ながら飲み食いしています(出24:7-9)。この記事は新しいものですが、古来のヤハウェ契約の特色を残しているでしょう。そもそも、「主」(アドナイ)という理解が擬人神観を前提にしています。神を超越神として、この擬人神観をできるだけ排除しようとしたのが、祭司文書、エロヒストでした。エロヒストはヤハウィストの擬人神観をできる限り払拭しようと努めましたアブラハムに対してエロヒームが夜に、おそらく幻の中で、呼びかける存在として描かれています。また祭司文書は神を創造神にまで超越化しましたが、それでも創造神は、「われわれは、われわれの形にかたどって」人を創ろうと言っています。一般的には、一人称複数形は「尊厳の複数」などとして理解されていますが、おそらく、ここでは神の自己内対話(対話は複数として観念される)が考えられているでしょう。「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ません神学者はこのような擬人神観をポジティヴに受け止めて、神と人間との質的な差異を認めつつ、人間との「類比」(アナロギア)において神を語る手法であると見なします。「人となった神」という受肉の理解は、まさにアナロギア的に考えない限り、躓きます。しかし、人格神に抵抗を示す神学者もいます。ティリッヒのような宗教哲学者(本人は神学者と自認する)は神から人格性剥ぎ取り、神を「存在の構造の根底」(the ground of the structure of being)と定義します。「徹底的唯一神論」を主張するリチャード・ニーバーもティリッヒ存在論を肯定しているでしょう。しかし、宗教哲学者による神の定義を聖書的に根拠づけることは難しいでしょう。>

並木氏はまた、『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』(日本キリスト教団出版局)では「人格神」に関して以下のことを述べておられます。

「神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに『あなたは私たちの神です』と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。(中略)神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。『人称』はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに『神称』とは言いませんし、言っても意味がありません。」(p208)

以下、有賀鐵太郎博士の論文「第二世紀の希臘教父に於ける擬人の問題」より「一、ヘブル的観とギリシア観」から引用します(※以下、漢字は一部を除き常用漢字に改める。濃い字はブログ主の私による)。

< ヘブル的一神教は始から存したわけではなく、又その完成は一夜の中になされたのでもない。それは長い間の発展を経た後アモスからエレミヤに至る偉大なる預言者たちの信仰に於て完成した處のものであった。けれども今我々はその過程を論じようとしているのではない。我々はたゞ基督教徒がイスラエルの遺産として受継いだところの神観は如何なるものであったかを想起したいのである。自分はそれに就ても只次の諸点を指摘するに止めよう。

一、イスラエルの神はあく迄も人格神である。勿論その初期に於ては極めて擬人的に表象せられた神であった。それが発達するに従って外形的擬人観は減じたが、人格神の信仰から擬人的要素を完全に抜き去ることは不可能である。人間との隔りは如何に遠くあるとも、やはり神は人格的な存在として考へられたのである。イスラエルも又他の国々もその御前に責任を感じなければならないところの、世界の創造者、支配者、審判者として表象せられたのである。固よりイスラエルに対しては、神は特別の恩寵を以て之を選び、之に特別の使命を与へ、之を護り且救ひ給ふ慈悲と恩寵の神で在すのである。かくの如き神として、神は歴史の神であり、摂理の神である。

二、神は唯一である。而してこの神の唯一を高調することは、当然他の神々を拝することを禁ずることとなる。十誡の第一誡は言ふ迄もなく「汝わが面の前に我の外如何なる神をも拝すべからず」である(出埃二〇・三)。此の神は嫉む神で在す故に、他の神々を許容し給はない。イスラエル一神教絶対に多神を排除する意味に於ける人格的一神教である。

三、又此の事に関係して、偶像崇拝の禁止がある。第二誡の命ずる如く「汝自己のために何の偶像をも彫むべからず」である(出埃二〇・四)。而して偶像と神々とは事実上同一視されているので、一の禁止は又他の排撃をも含むのである。

四、既に第一の点に於ても触れた様に、ヘブル思想自体に於て、擬人的要素を能ふ限り少くして、神を超越的存在として説く傾向が虜囚期以後特に著しくなったことを記憶する必要がある。

このような人格的一神教を受継いだ基督教徒が、多神を信じ、偶像を拝する異教の信仰を許容出来なかったのは当然である。>170201.pdf

(※後は本文を直接読まれたし。)

ここでは特に、「擬人的要素を能ふ限り少くして、神を超越的存在として説く傾向」という点が自分にとっての「絶対神信仰治療」に通じており、自分も人格神の非擬人化というテーマで自分の神観を考えます。できるだけ擬人神的要素を排して、擬人化傾向を避けるようにしなければ、神が自分と共にいると言われてもあまりありがたくはない。擬人的要素が強い神が遍在するとなると、自慰の時には神は不在でいてもらわなければ困ります。でも擬人的要素が低いのであれば、そんな気遣いは無用になり、共におられても問題ありません。

以下、山我哲雄著『一神教の起源  旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩書房)より引用。

申命記は形式的にも内容的にも 、条約文書としての性格を備えていることになる。ただし、それはもはやアッシリアの大王を宗主として忠誠を誓う文書ではなく、自分たちの神、ヤハウェのみに仕えることを誓約する神との「契約」の文書なのである。申命記の著者たちは、明らかに自覚的・意識的に、アッシリアの条約文書の形式と用語を用い、それを自分たちのヤハウェとの関係を規定するために転用している。前八世紀の預言者たちが「世界神」という普遍的なアッシリアの神観念をヤハウェに転用したように、前七世紀の申命記の著者たちは、アッシリアの条約文書の様式と用語や観念を逆転させ、ヤハウェイスラエルの関係を描くために用いたのである。(中略)本書の主題である一神教の問題との関連で申命記を見てみよう。ヤハウェ以外の神々の崇拝を厳しく禁じるという点で申命記一神教的であったとすれば、(中略)結論を先取りして言えば、申命記の神観は、前八世紀の文書預言者たちの多くの場合と同様、拝一神教的であったと見るべきである。ただし、前八世紀の文書預言者の場合には、ヤハウェが世界を支配する神であるという普遍的な神観を示し、イスラエルを圧迫する異民族をイスラエル・ユダを罰そうとするヤハウェの道具と見て、それらの民族の神々の存在を事実上黙殺することを通じて、民族的な拝一神教の枠を超えていく傾向が見られたが(中略)、申命記の場合には、そのような傾向はあまり見られない。(中略)申命記では、(中略)明らかに後代の付加である少数の例外的な箇所(申四35・39、三二39)を除き、他の神々の存在そのものを否定したり、ヤハウェイスラエルを超えた世界全体の神と見なすような記述はほとんど存在しない申命記においてヤハウェは、あくまで「あなたの神」(申六2・5・10等参照)、すなわちイスラエルの神であり、イスラエルヤハウェの選んだ「宝の民」(申七6、一四2、二六18)なのである。(中略)先住民(すなわちカナン人)の神々を礼拝しないように警告する場合でも、それらの神々の存在自体が否定されたり、それらが例えば「偽りの神々」だと喝破されることはないのである。(中略)

さて、「シェマの祈り」の場合、一人称複数形で書かれた前半は、二人称単数形で書かれた後半よりも古いと考えられる。逆に言えば、「聞け、イスラエルよ。われらの神、ヤハウェは唯一のヤハウェである」という独立した宣言文に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、ヤハウェを愛しなさい」という奨励文が後から加筆されたのである。ここで問題になるのは、より古いと考えられるその前半部で、ヤハウェが「唯一(エハド)」であるということがどのような意味で言われているのか、ということである。(中略)実はこの部分の原文は、簡潔すぎて非常に意味の取りにくい難文なのである。原文はわずか六つの言葉からなり、冒頭の「シェマ(聞け)」という動詞の命令形以外、動詞はない。左に、原文の音写とその直訳を示そう。

「シェマ・イスラエルヤハウェ・エロヘヌー・ヤハウェ・エハド」

「聞け・イスラエルヤハウェ・我々の神・ヤハウェ・一」

最後の「エハド」は、ある物の数が「ひとつ」であることを示す数詞である。それゆえ、最初の「シェマ・イスラエル」を除けば、残りの四語は「ヤハウェ」を主語とする二つの並行句が並んでいるもの(「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」)とも解せるし、最初のヤハウェと「エロヘヌー」を同格ととって、「我々の神ヤハウェ」を主語とする一つの文とも解せる。新共同訳は後者の読み方を採用しているわけである。これに対し、英語圏で広く用いられている新改訂標準訳(略号NRSV)はむしろ前者の読み方を採り、しかも数詞「エハド」を副詞的に意訳して、次のように訳す。The Lord is our God, the Lord alone. 直訳すれば、「主は我々の神、主のみが」ということになろう。ただし、NRSVではこの箇所に脚注が付いていて、他の三つの訳の可能性が注記されている。

The Lord our God is one Lord.(新共同訳はこれに近い)The Lord our God, the Lord is one. The Lord is our God, the Lord is one.

(中略)筆者自身は、右の四つの訳の中では、第四のものが最も単純であると考える。すなわち、ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」である。NRSVの本文のように数詞「エハド」が「~のみ」、「~だけ」という副詞的意味で用いられる例は、ないわけではないがむしろ例外的である。(中略)「エハド」を数詞と解し、「ヤハウェ・エハド」という表現を極めて単純素朴にとれば、ヤハウェはひとりしかいない、ということを意味する。神一般がひとりしかいないということではなく、あくまで「ヤハウェという神」がただひとりだ、ということである。(中略)このことが初期の申命記運動で強調された背景として、二つのことが考えられる。一つは、それが祭儀集中と関連する可能性である。すでに述べたように、申命記運動の柱の一つは、各地の地方聖所を廃止して、エルサレム神殿ヤハウェ祭儀を限定するという祭儀集中であった(中略)初期申命記運動は、「ヤハウェがただひとり」であることを強調することにより、それに対応して聖所も唯一であるべきだ、と主張したものと思われる。すなわち、「我々の神ヤハウェ」は「エルサレムヤハウェ」ただひとりだ、ということなのである。一部の研究者は、このような主張を「単一ヤハウェ主義(モノ・ヤハウィスム)」と呼ぶ。

もう一つの可能性は、前八世紀の末にイスラエル北王国がアッシリアによって滅ぼされたこととの関連性である。(中略)今やユダ王国自体が唯一の「イスラエル」にならなければならなかった。その際に、ヤハウェという神の共通性が重要な役割を果たしたと考えられる。(中略)この二つのいずれの場合においても、「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教だからである >(p271~276)

十戒の第一戒も申命記の「シェマ」における「唯一」も、共に単なる唯一神教ではなく、「拝一神教的」であるということが極めて重要。なお、私見ではこの「拝一神教」的信仰形態を、異教国である日本社会の中でヤハウェ信仰を維持するために応用できるし実際に自分はそうしてきていると思うが、それは言わば積極的な意味での宗教的相対主義であり、「唯一」(エハド)の元々の意味は「ヤハウェが唯一」であっても、それを現代日本社会の現実状況に即して再解釈して、自分(たち)にとってはヤハウェのみが(「神」と言うより「主」であり)「絶対(主権)者」である、ということが信仰告白の表現として有効であり必要だと思います。その際、私見ではある種の「エポケー」(判断停止)が必要になると思います。他人には他人にとっての「神」や「仏」といった信仰(礼拝)対象があるので、その(実在ではなく)観念としての存在は認めたうえで理論的に黙殺するとか言論として否定するといった態度ではなく、実在か観念かの区別なしに要は他の宗教的対象が存在することは認めつつも、それに対しては肯定も否定も言わず思考や判断を停止して、行動面ではいっさい関わらないということ(実際は和のために関わらざるを得ない面もあり、そこは程々にして、あくまで形式的なレベルに止める)。

また、信仰告白における「絶対」という用語は、客観的事実を表わす記述言語ではなく、主観的事実を表わす表現言語なので、「絶対」なんて哲学用語だから不適切だ…などと言われる筋合いのことではありません。そもそも神学(用語)と哲学(用語)との厳密な区別などはキリスト教の歴史を通して見るならば、そう簡単ではないはず。この点は苫小牧福音教会の水草牧師も、2023/03/16の電話で言っておられたことでもあります。

「相対は絶対がなければ相対では有り得ない。逆も真である。相対は可能態として絶対を含んでおり、絶対は現実態として相対を前提している。このことは、相対なる人間が手にし得るものは相対だけだということである。」(~小田垣雅也)宗教多元主義の諸相 (sophia.ac.jp)

勝村弘也著『旧約聖書に学ぶ 求めよ、そして生きよ』(日キ教団出版)では、次のように述べられています。

< 神は、わたしたち人間の眼には見えない御方であるとよく言われます。これは単に、神が物質的な存在なのではないという意味なのではなく、神がわたしたちの想像を絶する御方であること、つまり、超越的存在であることを述べようとしたものでしょう。たしかにわたしたちの信じている神は、人間の感覚で直接とらえることはできませんし、その存在を論理的に証明することもできません。しかし、聖書は、神が眼や耳や手や足を実際に持っておられるかのように述べています。眼がないのに「神はその光を見て、良しとされた」(創世記1・4)というのは変です。神に耳がなくては「彼らの叫ぶのを聞いた」(出エジプト記3・7)とは言えず、「主よ、わたしのことばに耳を傾けて下さい」(詩篇5・1)との祈りは意味をもちません。神が食べてはいけないと命じられた木の実を取って食べたアダムとその妻は、神が園の中を「歩まれる音」を聞き、「神の顔」を避けて身を隠した(創世記3・8)と聖署は語っています。また出エジプトの出来事に関して、「主は強い手と、伸べた腕と」をもってイスラエルの民をエジプトから導き出された(申命記26・8等)と繰り返し述べています。神に関するこのようなものの言い方を、もちろん比喩的表現と呼んでもかまわないでしょう。神は実際には人間のように眼や耳のような器官を持ってはおられないのだと、一応考えられるからです。しかし、それにしても聖書にはこのような表現の何と多いことでしょう。単なる比喩とするには、あまりにも用例が多すぎます。それに、人間の創造に関して「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1・27)とも言われています。この箇所については、別に綿密な考察が必要なのかもしれませんが、素朴に考えれば、人間のからだにいろいろな器官があるのだから、神にも同じ器官があって当然ということになります。そして、このように考えて聖書を読んでいって特に矛盾するところは、多くはなさそうです。もっとも、「神さまって、どうやってわたしたちの祈りを聞かれるのかしら、いったいどんな耳をしてるのかしら」とか、「神さまって、男なのかしら女なのかしら」等と考えはじめると変なことになるのですが。いわゆるヘレニズム時代になって、旧約聖書が哲学者たちの眼に触れるようになって以来、神の眼、耳、顔、手、足といった表現は、当然真剣な問題になりました。神学者たちは、これをアンスロポモルフィズム(Anthropomorphism)と呼ぶことにしました。日本語には、<神人同形法>(『キリスト教大事典』参照)とか<擬人神観>(『旧約新約 聖書大事典』参照)と訳されています。たしかにこのような表現によって、聖書の神が、自然の諸力を神格化したものでも人間の論理的思考の結果として要請される存在でもなく、人間と出会う生きておられる御方であることが知られるのです。聖書の神は、人間を限りなく愛されるがゆえに、また悩まれるような御方なのです。ホセア書には、神のことばとして「わたしは神であって、人ではない」とありますが、これは神の「心」が人間の予想をはるかに超えて慈愛に富むものであることを述べる文脈に出てくるのです(11・8-9)。神は人間のように家には住まないと、その超越性について語る同じ箇所で、神の「足台」や「手」が問題になっています(イザヤ書66・1-2)。聖書の世界では、神人同形法によらずに神について語ることはおよそ不可能だとさえ言えるでしょう。(中略)旧約には精神と肉体とか、観念の世界と物質の世界の対立のような二元論はないとよく言われますが、このことと、世界で起こるさまざまな事象を具象的に表現しようとする態度との間には明らかに関係があります。人間が<からだ>であるよりも前に、精神的な存在であるとか、肉体よりも精神の方がすぐれているというような考え方は、旧約にはありません。したがって、人間と神とは別であるのは当然ですが、神を<からだ>として表現することには、単に比喩としてそのように語ること以上の意味があるのではないでしょうか。>(p32~35)

次は一転して、コヘレトに関する引用です。

「神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(~有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)。「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(→五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し( 3:117:142912:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13175:1719他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:3134、ルカ12:2931参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派教理で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのです。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。

誰からも特定の「神(観)」を押しつけられることはない。それがコーヘレトの場合も、あえて固有名ではなく普通名で「神」を語った意味であろう。人格神には変わりないが、ヨブのように神義論に陥るような神観と比べれば、はるかに擬人性が薄い点が良い。

< 神名としての「エロヒム」のみの使用は、コヘレトが人間の普遍的な状況について語ろうとする試みとして理解され得る。愚かさと虚栄に他ならぬ人間の多くの営みを対比的に語りつつ、『コヘレトの言葉』は、私たちの生の目的は神との関係のうちに生きることである、と示唆する。>(「IP-J-63」所収.ダグラス・K・フレッチャー/竹内裕訳「コヘレトの言葉五章一― 七節」p120

五木氏の『人間の覚悟』では、< じつのところ、私は「教え」としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。>(p123)とか、<「中道」という考え方は「いつも真ん中にいればいいというわけではない。両方を大事にせよということです。」云々と講じたりしていますが)、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」>(p129)という言葉が印象に残った。

私にとって宗教とくれば民衆救済宗教であり、(超)人格主義的宗教ということになり、対神関係は「対(超)人格神関係」ということになります。仏教には「絶対者」としての人格的存在としての「神」が実体として無いわけですが、人間はこれがないと苦悩そのものを相対化することができないのではないかと思います。これも迷いなのかもしれませんが、神観は迷妄だとしても、その迷妄ゆえに対人関係による心労などから解放されるとしたら、その事実は認めざるを得ません。ゆえにその効果においてそれは迷妄と言って否定し去ることは出来ないのです。確かに遠藤周作氏のエッセイで言われるような「はたらき」としての神観は現実的・経験的で説得力がありますが、救済の観点からみるといずれにしても人格性が必要だし、それは確かな存在であり対象であってこそ、その救いのはたらきを期待できるのであって、信仰対象としての主体なき働きだけに意識を向けることはできません。もちろん、遠藤氏が感化を受けたと思われる八木誠一氏も、外からのはたらきかけを言う場合には人格的存在として神を語らざるを得ない旨のことを述べておられます。但しそれは実体では無いということです。実にギリシャ教父の古典的三一論の問題点は、八木氏によると人格主義と実体論(存在論)との組み合わせでした。その反対側に場所論がありますが、対局ではないのは、場所論も人格主義を否定しないからです。八木氏によるとイエスは人格主義的場所論であり、八木氏自身も同じ立場だということです。

「イエスの宗教は場所論的である(正確にいうと後述のように人格主義的要素を併せもつ場所論)。(中略)私がいう意味での『場所論』は、新約聖書学および『仏教とキリスト教の対話』を経て構想されたものなので、西田哲学と同じではない。(中略)

まず場所論は神を人格や存在というよりは、まずは『はたらき』の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、『はたらき』の面が優越するのである。むしろこう言った方がよい。神を、経験と自覚に現れる『はたらき』として把握して語ると場所論になるのである。」(八木誠一著『イエスの宗教』〔岩波書店〕p1~2)

「ここで読者は、神(キリスト、聖霊)が場所論では『霊』として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、『霊』は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。『霊』は人格や存在というよりは、『はたらき』である。」(同、p3)

やはり比喩的には、神さまもどっしりと構えたお方でないと頼りがいが感じにくいので、どうしてもイメージ的には存在の確かさを求めるような感じで絶対とか人格とか実体といった言葉づかいにはなる。しかし目に見えない「霊」であるという点では、あまり擬人化した神話的イメージはリアリティーを薄めてしまう。だから宗哲的に、絶対の人格的実体といった表現にとどめるのだ。

「認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。」(同、p8)

「宗教には、第一に人格主義的宗教がある。(中略)第二に非人格主義的宗教がある。(中略)第三のものとして、以上二つの間に、人格主義的場所論(あるいは場所論的人格主義)ともいうべき立場がある。イエスの立場はこれである。私も従来、そして今でも、この立場に立っている。」(同、p18)

八木氏の宗哲思想に対しては、「霊」と「愛」の2つの観点で批判を試みなければならない。

まず「霊」に関しては、ヨハネ福音書4:24で「神は霊」だと言われているが、その意味は必ずしも非対象・存在的であるとは言い切れない。さらに『旧約新約聖書事典』では、「神は霊」であるとは旧約では言われていないと明記されている。むしろ旧約聖書における神話の比喩的表現…特に所謂「ヤハウィストの神」などは人間的とさえ言える。次に「神は愛」だということに関連してか「愛する者は神を知る」とヨハネは言うし八木氏もこれに呼応するわけだが、救済宗教は愛なき者が必要とするものであって、愛ある者ならすでに救われているのだ。従ってヨハネの愛の神学は救われた者の神学なのであって、最初からこれが出されるとどうにもならない。愛なき者が神との関係に入って救いを体験して愛する主体になるまではそう簡単ではないのだ。愛なき者にとって相対化すべき事柄は多い。だからこそ神の絶対性もますます強く要請されよう。すると神はまずもって愛し得ぬ者をも愛す神ということになる。自分を愛せない者を愛し得るからこそ超越者であり神なのであって、自分を愛する者だけを愛するなら人間と変わりあるまい。

 

youtubeなどで精神科医やカウンセラーのような人たちがメンタルで苦しんでいる人々へ向けて自己啓発的・心理学的な話を発信していますが、一時的にはうまい発想で自分の脳を誤魔化せたつもりが、すぐに懐疑が生じて誤魔化しきれなくなるようなおそれがあるのです。仏教的知恵はキリスト教などよりも現実的諸問題の解決に於いて参考にできると思いますが、絶対他者が唯一の実体として存在しない世界では積極的相対主義の立場も無いでしょう。聖書において積極的相対主義とは拝一神教の立場です。矢内原忠雄氏が本居宣長批判で述べているとおり神の絶対性ということが民衆の救済宗教では不可欠だと思います。ただしその「神」はコヘレトの場合のように「遠くの神」でなければなりません。その存在を忘れるくらいの距離が逆対応的に「近くの神」となるのです。エレミヤの「わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか」(エレミヤ23:23)に関しては並木浩一氏が『人が孤独になるとき 説教・講演・奨励集』(新教出版社)の中の「2 遠くの神ではないのか」で詳しく解説しておられます。特に重要な箇所を以下、引用します。

「神はヨブに対して神の神たることを貫かれましたが、エレミヤの場合もそうでした。エレミヤの激しい抗議と嘆きにもかかわらず、神は彼と妥協することはありませんでした。神はエレミヤにとって遠い神としてのご自身のありかたを貫き通したのです。神は彼の抗議を適当に聞き入れるようなことをしません。そこで彼は傷つき破れます。神は神であり、彼は人であるという事実があいまいにされることはありませんでした。彼は人間として破れましたが、しかし彼が破れても神は神でいたまいます。神は神でいたもうことによってエレミヤに対する真実を貫いたのです。神がエレミヤと妥協しない神であればこそ、彼は再びこの神に立ち返ることができました。彼は破れましたが、この神を唯一の頼みとすることができたのです。そのとき遠い神が同時に近い神となりました。神が人に対して遠い神であることを貫かないとしたら、エレミヤのように破れ傷ついた人は、神に本当の信頼を寄せることができるでしょうか。」(p32)

私にとってはストレスフリーの精神的自由こそ最高の目標であり、その自由を得るために「神」を必要とするのです。これは矛盾ではなく、「神」なき自由は虚無です。まず、自分の中の権威を相対化する必要があります。権威主義的志向が人を苦しめるからです。他人と優勝劣敗の比較をするから敵が現れてしまうのです。誰でも世間体の良い場所で生きたいと願うのが人情です。しかし現実はそうはならない時、自分が価値を認める権威自体を相対化することによって、その場所に入れない自分自身を否定することなく、他の場所で生きてゆけるのです。いつまでも幻の絶対的権威に縛られて、特定の場所でしか自分は生きてゆけないんだと思い込んでいる限り、人生は前に進んでゆきません。その空白期間が無駄になります。人はつねに前へ前へと進んでゆかなければならないのです。そのために自己暗示といった程度のことかもしれませんが、自分で自分に思い込ませるのです……他の場所だっていいんだと思い込ませるのです。それが私にとってのセルフ・マインド・コントロールであり、「絶対神信仰治療」と名付けたロゴセアピー的信仰治療なのです。

人格的神観が擬人的神観にとどまっているなら、そういう「対(人格)神関係」は常に「遠くの神」でなければダメです。いちいち神の目を気にしていては大衆現場での優劣比較に満ちた殺伐とした対人関係に対処してはいけません。いつも神の臨在を意識して社会生活を過ごせる人たちというのは恵まれた環境に生まれ育ったぼっちゃんじょうちゃんの類です。…って言うか、そもそも人格神は擬人神でなく、いわゆる神義論的問いにみられるような不条理現実がある以上、人間が神に対して抱く「善」とか「公正、正義」とかいった道徳的・倫理的概念も、神のそれは次元を超えた意味があるだろうし、あまりに擬人化された旧約物語などを読むことで形成される神イメージでは遠く及ばない人格(というか神格)である可能性の方が高いと思うから、べつに敢えて「遠くの神」を求めずとも最初から「遠い」と思えばよい。教会的には「臨在」している、近くにおられるお方だと言うし、「遍在」という言葉の意味からして遠くもあり近くもあるわけだが、いわゆる人格的「我-汝」関係としては、神秘主義者でもないかぎり、汝である神は近い存在であるより遥か遠い存在として感じられて然り。イエスとて十字架の死に臨んで御父をいかに遠くに感じておられたことか…。ちなみに並木浩一氏は「遍在」についてうまい説き方をしている。以下、前掲書から引用。

< 二四節をご覧下さい。「わたしは天と地に満ちているではないか」と神はいわれます。もちろん神は神秘的な仕方で天と地に満ちているのではありません。この言葉は神が創造主として、歴史の支配者として、契約の主宰者として世界に臨みたもうご自身の自由を語っています。神は人が何か神々しいと感じることのできるような場所に閉じ込められる方ではありません。日常世界のすみずみにまで神は臨みたまいます。社会の一隅で貧者がしいたげられることをも、神は見のがしません。それどころか、神は個々人の心の偽りさえ追及されます。人が神の眼から逃れられるような領域は天と地のどこにもないのです。人と共にいましたもう神は徹底して近い神なのです。>(p28~29)

 

経済学にマクロとミクロとがあるように、人生論にもマクロとミクロとがあって、自分の場合はマクロが聖定論、ミクロがメンタルヘルス論である。このブログはその両方によって構成されている。はじめの方はマクロ、後はミクロだ。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

 

< 神の絶対的な予定と人間の自由意志とは後世の神学をまつまでもなく、既にコーランにおいて衝突していたことは、前章に述べた通りである。世に起るありとあらゆる事柄はあらかじめ神が定めて置いたものが実現するに過ぎないという、この神の予定、宿命のことをアラビア語では「カダル」qadar と呼ぶのであるが、そのカダルの絶対性を主張し、人間にいささかも自由意志を認めない一団の人々が、神学上にいわゆる、ジャブル派(Jabriyah)である。ジャブル(Jabr)とは字義通りには「強制」、誰かを嫌でも応でも強制し、暴力を用いてでも何かをやらせることを意味する。コーランでは、アッラーは「全てをあらかじめ定め給える」もの(alladhi qaddara)(八七章三節)と呼ばれ、反対に人間の側から見ては、「あらかじめ神の書き定め給うた事の外、我らに起ることはない」(九章五一節)と言われているのを見ても分る通り、人間はその一挙手一投足、いや、一瞬のまばたきすら自分の自由にできるものではないという考えは、コーランの多数の章句から生ずる当然の帰結である。(中略)

さて、ジャブル派に対して全く対蹠的な態度をとる学派が前章の最後にその名を挙げたカダル派(Qadariyah 一名、Ahi al-qadar「カダルの人々」)である。彼らは神の予定、宿命を正面から否定し、人間の自由意志を認めた。元来、カダル qadar という言葉は、(神の)定めたもの、即ち宿命を意味するのであるから、カダル派といえば寧ろ宿命論者に適した名称であって、宿命を否定し、カダルを認めない人々をカダル派と呼ぶのは、いささか妙な名付けかたである。>(p35~41)

ここにはキリスト教神学における所謂「自由意志論争」と同様の構図がある。すなわちイスラム教における「ジャブル派 VS カダル派」は、キリスト教における言わば「恩寵派(アウグスティヌス、ルター、カルヴァン )」VS 「自由意志派(ペラギウス、エラスムスアルミニウス)」に対応する。

 

次は、イスラーム神観へのネオ・プラトニズムの影響と差異に関する記事の中から抜粋引用する。

 <ファーラービーは獲得知性の現成を神秘主義的「合一」(unio mystica,〔略〕)と混同してはならないと言う。地上に生きているかぎり人間の神化は絶対に不可能である、と彼は確信していた。この点でファーラービーはプロティノスやポルフュリオスとは立場を異にする。人はスーフィーの主張するように絶対者の中に融入しきりこれと合一しきることはできない。ただ神に近付くことができるだけである。正しい認識によって、人間能力の限界内において神に接近することがファーラービーにとって哲学の究極の目的であった。(中略)原因を順々に辿って行くと、一番端に、それ自身は最早何者をも原因としてもつことなく、絶対に必然的に存在し、最高度の完全さと無比の実在性とをもち、自立、不変、純粋善であって且つ純粋思惟である存在者があると考えねばならぬ。原因の系列はこの根本原因に突きあたってその遡行は停止するのである。もはや他の何者をも原因としてもたず、しかも自らはありとあらゆる存在者の原因である必然的存在者、「第一存在」(al-wujud al-awwal )はその存在を我々は論証することはできない。なぜならば彼自身が全てのものの証明であり、第一の原因であるから。また、これを我々は定義することもできないのである。この定義できず、証明できない完全無欠の存在、第一原因を神(アッラー)と言う。この意味に解されたアッラーは全く質量性のかげりをもたない故に絶対的叡智体である。そしてこの根源的な叡智体から全存在界が幾つかの層をなしつつ「流出する」。

ここで我々はファーラービーと、流出論の始祖プロティノスとの差異に注意する必要がある。プロティノスにあっては全存在界の太源である「一者」は完全な超越者であり、言亡絶慮の幽邃な「無」であるのに反して、ファーラービーの「第一存在」は既にそれ自身が知性的である。すなわち「第一存在」としての神は自ら知性そのものであり、同時に知性自身の対象であり、また知的認識活動の主体でもある。かくて神は自分自身を超時間的に認知する。そして神のこの知的活動によって一つの超時間的存在者が超時間的に流出する。これが最初の被造物であり最高の存在界であるところの「第一知性」である。これがプロティノスの「ヌース」に当る。第一知性はその本質上、可能的存在者であるけれども、神との関聯において必然的である。可能的でありながら必然的なもの、これを範疇化して相対的必然性(自分自身では本来可能的でありながら他によって必然的であること)を考え出して哲学上の一つの根本概念としたところにファーラービーの特色がある。(中略)神は言葉によって、その(神の)本質を成立させている数々の要素に分解することはできない。という訳は、言葉によって神の概念を規定しようとすれば、どうしてもその言葉は神の本質を成すものの一部か、或はせいぜいその内の幾つかの部分を指し示すに過ぎないからである。一体、或る一つのものの定義の諸部分が指し示す意味は、その定義されたものの存在に対して原因(illah―ここで「原因」とはあるものの本質構成要素を意味する。原因―結果という意味の因果律的「原因」ではない)をあらわす訳であるから、もし上のようなことを可能であるとするならば、神の本質を形成している諸部分が神の存在に対して原因となることになってしまう。(中略)神がこのように部分に分解できないとすれば、まして量やその他の方面から見た部分に分解され得ないことは当然である。従って、必然的に我々は神には大きさもなく、体軀も絶対にないと言わなければならぬ。そして、この点からして神は一であることが知れるのである。なぜなら、神は一であるという意味の一つは、神が分解されないことであるから、そして、全て或る方面から見て分解されないものは、その方面において一であらねばならぬ。(中略)この神の「一であること」こそ神の根元的な本質をなす。(中略)こう考えて来ると、「第一存在」(神)は、その存在において完全である点から推して、我々の心におけるその表象もまた完全の極限に在らねばならぬはずである。ところが事実は決してそうではない。一体、これはどうしたことであろうか。まず我々は、神の側からすれば決して表象困難ではないことを認めなくてはならぬ。なぜなら、神は極度の完全さに在るからである。従って我々の心の裡に映る神の姿が完全でないのは、勿論、神の方に欠陥があるためではなくて、我々の知性の力が弱いためであり、我々の知性が質料と非有とに包まれているためであるとしなければならない。こうして我々は、我々の側に欠陥があるために、神を完全に心に映すことができず、神を真にあるがままに把握することができないのである。神は余りにも完全である故に、我々は眼がくらみ、完全に心に映し得ないのである。それは丁度、光線の場合とよく似ている。光は第一の、完全な、しかも最も明らかな「見えるもの」であり、これによって始めて、ありとあらゆる他の見えるものは見えるものとなるのである。>(p245~252)

五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。

まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。親鸞の「自然法爾」に通じる境地。

その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。

日本の、神学者を兼務した牧師には、ドイツ語ができても日本語があまりできない人が珍しくないのです。

< 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。>説教要旨 (church.ne.jp)

以下、五木寛之著『人生の目的』より。

中村さんは、<宿命>とちがって、<運命>には偶然性が働く余地がある、といった意味のことを書かれている。私はそのあたりはまだよくわからない。<宿命>と<運命>のちがいも、はっきりとはつかめていない。あるとき、こう考えてみたことがある。<運命>はすべてのものが背負う共通の大きなものだ。人間として生まれたという運命。(中略)人類の運命とか、一国の運命とか、とにもかくにも私たち個人の枠を超えた共通の大きな流れ、それを運命とみるのはどうだろうか。反対に<宿命>とは、個人のものである。全宇宙にただひとりの自分、『唯我独尊』の『唯我』にかかわってくるのが<宿命>と考えれば、<運命>と<宿命>のちがいが、かなりはっきり見えてくるだろう。『歎異抄』のなかに親鸞の言葉として、<業縁>という表現が出てくる。私はこの言葉が、なぜか重苦しい感じがして嫌だった。私流に考えてみると、この<業縁>という言葉は、<宿業>の<業>と、<因縁>の<縁>との組合わせのように思われる。<宿業>も、<因縁>も、私の苦手な言葉である。見ると本能的に何か暗いものを感じてしまうのだ。しかしいまでは、この親鸞の<業縁>という表現は、じつに深い意味をもったすばらしい言葉だと思うようになってきた。そして自分勝手に、これを<業と縁>と読み、<宿命と運命>と読みかえて理解している。」(p5253)※「中村さん」は中村元氏。ここではその著書『自己の探究』の中の《運命と宿命》という章を踏まえて書かれている。

 

以下は小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)より。

<『教会教義学』Ⅰ/1にいおいて、歴史の中で、人間に対してなされる神の行為の三一論的構造が、内在的三一論に対する経綸的三一論の優位において成り立つことを、伝統的教義学における相互関入論と固有分与論の相関によって論じた。ここに示された三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>

世の中で心理療法と云われるものは基本的に信用しないし(特にyoutubeやHowto本の類を通して、精神科医や自称カウンセラーの類が語っている認知行動療法またはその類)、聖霊の内住を信じるクリスチャンにとって基本的には必要とはならないもの、無縁でしょう。せいぜいフロイトのそれくらいは一般教養の一つとして知っておいてもいいかなと思う程度で、非科学的だとして批判される、フランクルの「ロゴセラピー」などは知らなくても全く問題ないでしょう。

認知療法については、有効な方法であることは間違いありません。その技法は現在すでに現場の精神科医の精神療法の中に広く取り込まれており、その意味では一般的な治療法と言えます。また認知療法は数ある精神療法の一つであり、他にも多くの有効な精神療法があり、これらも広く行われています。強調せねばならないことは、認知療法も含めた精神療法は薬物療法と同時並行的に行われる精神科治療の基本であり、薬物療法に代わる治療法という見方は明らかに間違っていることです。その効果は薬物療法を上回るとは限りません。認知療法薬物療法の効果を比較検討した研究データもありますが、薬物療法の方が勝っているという結果も出ています。ただ、どちらが優れている、という比較をするような性質のものではなく、精神療法には薬物療法と同様に意義と限界もあることを知りながら、うつ病の治療技術を高める努力こそ必要であると思います。>うつ病Q&A | 日本うつ病学会 Japanese Society of Mood Disorders (secretariat.ne.jp)

「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して『神の権威』に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。」(荒井献著『イエスとその時代』〔岩波新書〕p185)

「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

ここで引用した言葉は相対化の対象が自己だけになって、肝心の世俗的価値観という偶像の相対化には関心が向いていません。それはこの論者たちがインテリ&ブルジョワだからでしょう。

小川圭治氏のように伝統的キリスト教の「三一神論」の神と「絶対一神論」の神とを対置させることには反対です。以下の小川氏の文章には(実際、バルトもモルトマンもそういう考えの持ち主なのでしょうが…)憤りさえ感じられてきます。自分には小川氏の言う「新しい神」とは無縁です。逆に小川氏が嫌悪する「絶対一神」こそが…「絶対」だからこそ救い得る者もあるのです。また、野呂芳男氏のように「絶対的なもの」(the Absolute)と「究極的なもの」(the Ultimate)とを区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ない などと言うこと(『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p335他参照)にも反対しなければなりません。

「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)

アドラーは『嫌われる勇気』であらゆる悩みの原因は対人関係にある旨言っているが、要は自分が謙虚になれることであり、私が精神的苦痛に対処すべく必要に迫られて考え出した(とは言えこれもフランクルのロゴセラピーと同程度かどうかはともかく非科学的な哲学的自己治療…自分用のセラピーである「絶対神信仰治療」について、以下要約。

神の絶対主権の下に、自分の悩みの原因となるあらゆるものを相対化するということです。イエスの「ケノーシス」を理想として、自己謙卑(卑下ではなく、ただ相手に従属しゴマ擦りするようなことを意味しない。無用なプライドは捨てて虚勢を張ったりせずに合わせるべきとことは合わせるということ)の信仰実践においては当然、優勝劣敗の「劣・敗」感が少なからず生じようが、いかに劣りいかに敗れても、それで自分が失われることは決してないという信仰がこの治療の基軸である。なぜ自分が失われないのかと言えば、自分が関係を与えられている神が絶対実体だからである。この実体という言葉も確固たる実在感を得るうえでのイメージ喚起として治療には有意義である。自分の原関係相手の神が絶対他者であるからこそ、自分は神以外の者によっては失われない…つまり上記の聖句のとおり、自分の心身を殺し得る者はあっても霊魂を殺し得る者は人間には不在でそれは神のみということ。そう思うと勇気が生じる。

私の「絶対神信仰治療」においては、「(三一)神、超越、絶対、人格、実体、霊、遍在、愛、義」…これらはセットです。そして、トインビーの「絶対的な霊的実体」と、波多野精一氏の「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)といった考え方が重要。

私が、神については「実体」(スブスタンチア)という言葉を是非用いたいのは、「本質」(エッセンチア)の同意語にとどまらず、漢字にすると「実」と「体」という…客体的に確固たるイメージを表わせると思うから。

人を救い得るのは聖書が示す「神」であり、それは原罪を持つ人間を「超越」しており不可知な面があるが啓示によって認識し得るのであり、その中心事項は父・子・霊の「三一」であること。そして「人格」的存在であって、はたらき・作用といった機能論に解消されるような神論・神観でなく、目には見えない…感覚器官ではとらえられないけれど、信仰を与えられている者たちにとっては「霊」として自由自在に、そして「遍在」しておられるがゆえに祈る時、詩篇16:8で「われ常にヱホバをわが前におけり ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし」と言われているように自分の心の内にも臨在され「われ動かさるることなかるべし」と言われているとおり確固として存在するという意味で「実体」であり、その本質が「愛」なるお方だからこそ、このように人間が対神関係において苦悩からの癒しを求めることに応じ給い、また「義」ゆえに世の中の苦悩の原因である原罪および原罪に由来する人間の営みを公正に裁き給う。ちなみに、神の絶対性を言う場合、「遍在」は必然的に出てくるわけですが、これと悪魔や悪霊の存在とがどのように折り合うかが問題です。人間社会の「悪」は人間の原罪に由来するものと説明できますが、そうでない実在としての「悪」は、神が遍在する世界でいかに存立し得るのでしょうか?それは神がそれを許容しておられるとするしか説明はつきません。

ウェストミンスター信仰基準に注目すると、かろうじて「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」という言葉もあり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しませんが、とにかく「絶対的」という言葉で翻訳されていることは重視されねばなりません。

日本キリスト教会の信仰問答における「神の唯一性と、その絶対主権」(8)とか「絶対者なる神の主権」(54)という表現(「十戒」についての問答に出てくる)も良いと思います。日本同盟基督教団信仰告白にも「神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。」(1-3)との文言があり、その「絶対」の聖書的根拠が申命記の「唯一」(エハド)とされているらしく、2023/03/16 15:00頃に電話でこの件について質問した同教団苫小牧キリスト教会の水草牧師も「唯一は絶対と同義」だと言っておられました。しかし申命記の「唯一」(エハド)の歴史的意味は、山我哲雄著『一神教の起源』(筑摩書房)によると、「ヤハウェは唯一」ということで、神々の中でホンモノの神はヤハウェだけといった排他的意味ではなく、alone in all でもなく、「あなたという人はこの世界にひとりだけ」といった意味のようだから、神の主権を「絶対」であると信じ告白する聖書的根拠には適さないと思われます。

「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳氏後掲文)

この高柳氏の考えは、八木誠一氏や小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)

前記のように、高柳氏の場合は次の引用文にみられるとおり、「唯一」が存在論的な意味ではなく関係論的意味だとするのと同様、先行する関心が常に民主的価値観であるから、「絶対」が「他者」と結びつかず、人間が絶対化される愚に陥っている。

「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)

これに対して、小田垣氏において「絶対」が「他者」の結びつかないのはあくまで宗教哲学的理屈によるもの。

信仰告白関係で神を「絶対(的)」と言う場合、それは哲学的な意味で「絶対」だということではない(にもかかわらず神学者の中には後述の小田垣雅也氏や野呂芳男氏などのように、神が「絶対」であるといわれることについて、所謂、哲学的な意味でその「絶対」性を論じる人もいる)。ちなみに並木浩一氏は、神の「絶対」性を否定しておられる。

「この人間の尊厳の感覚と神の尊厳、神が神であること、これははっきりと車の両輪として関係づけられている。これが大事なポイントです。ですから神がすべてで、神は絶対なのだ、という言い方は決して聖書的ではないのです。神の主権の主張と人間の尊厳の主張とが常に車の両輪としてはたらいている。神の立場を主張することが、人間を虫けらのごとく扱うことを許すとすれば、これ以上にひどい間違いはありません。(中略)たしかに、神と人間とは違います。一方は創造者、一方は被創造者です。人間を神格化することはできません。それにも拘わらず、神が神でありたもうことを語るということは、神が神でありたもうがゆえに人間、一人の人間が神によって大事にされていることを語ることになるのです。これが聖書の根本のメッセージです。」(~『旧約聖書の基本的感覚』)

jpnaz.holy.jp/jpnazarene/pdf

私への返信メールにも次のとおり書いて下さいました。

<「絶対」という言葉はヘブライズムには馴染まないと思います。私は旧約聖書には神の「絶対」を指示する言葉を見出すことができません。問題となるのは「神の唯一性」(例えば、イザヤ43:11)ですが、それは「人間の業と思いを完全に超えた」という意味であると説明できますね。人間が神に対して取るべき態度は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)です。神を絶対者と見なすなどということはどこにも記されていません新約聖書でも事情は同じでしょう。「絶対」は抽象的な哲学概念だと私は理解しています。「絶対矛盾の自己同一」なんかその典型ですね。これ以上のことは、私には言えません。>

こりゃダメだ~です。著名な旧約学者も神観が相対的存在としての人格神であるなら(…たしかに人間と向き合う人格神は相対的存在にならざるを得ず、擬人神はなおさらではあるが…)、とても人間の自己絶対化を断ち滅ぼし得る神信仰を聖書から説き明かすことなど出来ない。

私見では、キリスト教が甘ちゃん信仰的に誤解されてきた最大の原因は、ヨハネの手紙における「神は愛なり」ばかりが強調され、ヨハネ福音書における「神は霊なり」の省察が不十分だったからではないかと思います。

京大の哲学科および院を出たうえに西独のハンブルグ大学に留学して神学博士の学位も取得されたという稀有の女性宗教哲学者の花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます(ちなみに私は電話では話したことがあります)。 

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ 

 

ところで、西谷啓治氏や小田垣雅也氏の説く理詰めの「絶対他者なる人格神」の問題点は、「他者」とは言われながらも実は波多野氏の言う「自我の内に吸収され解消される」観念であるということ。しかもそれを生ける神というか生き神のように言い放っていることだ。それが「生きられ得るのみの無」ということである。これは量氏においては「無的絶対者」ということで処理できるのだろう。すなわち、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(量義治氏前掲書p190)さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(同書p292、293)と指摘されているからだ。これに対して一神教ユダヤ、キリスト、イスラムの諸教における絶対者は有的絶対者であると言い切るならまだしも、キリスト教イスラム教の絶対者はそうではなく、特にキリスト教の絶対者はまたしても三位一体論を持ち出すことにより「絶対有即絶対無なる神」などと嘯いている(同書p191)。これこそ「人生の神学」と懸け離れた哲学者の神学にほかならない。わけのわからない用語は「人生の神学」では非実践的であり無用として排除される。

人間の主体性において能動的に生きられるようなもの、それも(「絶対」と付くにせよ)「無」と表現されるようなものが、どうして「人間の外に存在する絶対的実在」とか「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」などと言えるであろうか!「絶対的実在」とは「有りて有る」と「有」が強調されるべき「神」なのだ。これは理屈ではなく賛美の信仰告白なり!西谷氏や小田垣氏には「神聖性」の理解が不十分、すなわち人間存在の原罪性の感覚と認識がそれこそ欠落しているのである。だから「神」に対して(いかに理屈があろうとも)「無」などという言葉を当てて平気でいられるのであろう。そして量氏には、キリスト論に吸収・解消し得ない神論の特質が軽視されているようだ。だから彼の「無信仰の信仰」論は、もともと放送大学のテキスト(『宗教の哲学』)であったこの『宗教哲学入門』にまで述べられているが、おこがましいと言わざるを得ないし、その問題設定すなわち、「わたしは無神論ニヒリズムの現代における真の宗教の可能性は『いかにして無信仰の信仰は可能であるか』という問題にかかっていると思っている。(中略)われわれはどうして神が無い時代に神と共に在りうるのであろうか。アウシュヴィッツを見よ。広島・長崎を見よ。そこに神はいたか。世界全体がますます混迷を深めつつある今日、神はわれわれと共にいるのか。」(同書p33)といった考え自体が、まさに形而上学的思弁的なのである。宗教者というのは、理屈のレベルでは山ほどの疑問を抱きながらも、生得的に与えられている「縁(えにし)」によって何故なしに、理屈ぬきに、「神」を信仰し得る、信仰せざるを得ぬ、そんな存在者なのであり、それは新約聖書における、罪人がキリストと共に十字架に磔にされて古き自我に死ぬという物語に象徴的に示されることである。信仰を賜った者は「神」の前に磔にされているのであり、古き自我が生きている限り、いかに神義論的な深い疑念を抱こうとも、それでも「神」との関係から出ては生き得ないことを自覚しているのである。量氏の場合はとにかく、屁理屈が多すぎる。そのわりのは学習不足で、同書p60で、ルカ福音書9:20を「神からのメシア」と訳しているが、荒井献氏が「神のキリスト」と訳して「この呼称には、ルカのイエス理解が適確に言い表されている。(中略)ルカのイエスは神に従属する『神の子』なのである。」(『イエス・キリスト 上』〔講談社学術文庫〕p183.下巻p349参照)と指摘しているとおり、ここの属格は「から」を入れずに訳す方がより適切なのだ。

 

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ウェストミンスターの「小教理問答」の「問7 神の聖定とは何であるか」で「答 神の聖定とは、神の御旨の深慮による永遠の計画であって、これにより、神は御自身の栄光のために、何事によらず起こってくるすべてのことを予定しておられる。」の参照聖句、エペソ1:4,11、ローマ9:22,23 この4つの聖句をまず記憶にとどめておきたい。但し、1:4で聖定に関係する言葉としては、「選んだ」を意味するエクセレクサト(ἐξελέξατο < ἐκλέγομαι)であり、これを聖定とみなすことには疑問。むしろ予定を意味する言葉、プルーリサス(προορίσας < προορίζω)が5節にある。RSVではdestined、KJVではHaving predestinated。

(岩波版 エフェソ1:4~5

「私たちが御前に聖なる者、咎めるべき点なき者となるようにと、愛をもって世界の開闢以前に、キリストにおいて私たちを選んで下さった〔ことに呼応する〕ように。/私たちを、イエス・キリストを通し、イエス・キリストに向かって、御心の気に召すところに従って子たる身分に前もって定めた〔神〕。」

(口語訳 エペソ1:4~5)

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、/わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

4節最後の ἐν ἀγάπῃ を口語訳では5節で訳している。その点で新改訳2017版でも、「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と、口語訳と同じように訳している(ただし新改訳2017の方は11節の訳を参照すると、分詞形であることを考慮して⦅敬語と意味が重なるので実際はどうだったのかは不明だが⦆「定め」たではなく「定めて」いたということで、「定めておられ」たと訳している)。こちらの方が、岩波版保坂訳よりも意味はわかりやすいだろう。聖定は神の愛(アガペー)においてなされたということ。

(岩波版 エフェソ1:11)

「このキリストにおいて私たちはまた、〔自らの〕意志の意向のままにすべてのことを成し遂げる方の意思に従って前もって定められた通りに、相続分を与えられたのである、」

(口語訳 エペソ1:11)

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」

(新改訳2017 エペソ1:11)

「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」

こちらは原文では「プルーリスセンテス」(προορισθέντες < προορίζω)が「聖定」に該当すると思われる。これは「プルーリゾー」(予定する)に由来するという点では、5節の「プルーリサス」と共通するが、「プルーリサス」は第一アオリスト分詞(男・単・主)で「予定され(てい)た」という過去を表わすのに対して、「プルーリスセンテス」は受動態の第一アオリスト分詞(男・複・主)なので、「定められ(てい)た」と受け身に訳される。

(岩波版 ローマ9:22~23)

「しかし、もしも神が、怒りを示すことを、そして自らの力を〔人に〕知らしめることを欲しつつも、大いなる寛容をもって、滅びへと造られた怒りの器を耐え忍ばれたとするなら、/ しかも、栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器の上に自らの栄光の富を知らしめるために〔そうされたとするなら、どうであろうか〕。」

(口語訳 ローマ9:22~23)

「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、/ かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」

(新改訳2017 ローマ9:22~23)

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。/ しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。」

ここで、「聖定」に該当する言葉は無い。これは「選び」の参照聖句ではあっても、「聖定」の参照聖句ではない!しいてあげれば23節の「プロエートイマセン」(προητοίμασεν < προετοιμάζω)だが、これは「予め」は「予め」でも「定め」るのではなく「準備する、用意する」を意味する「プロエトイマゾー」の3単過であり、「予め用意した」という意味なので、「予定」はともかく「聖定」には該当しない。

・・・ということで、「聖定」の参照聖句を、ウェストミンスター「小教理問答」から取ることは無理!ということがわかった。それなら「信仰告白」からということで、最低でも3-1だけは憶えておこう。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが」の参照聖句は、エペソ1:11、ロマ11:33、ヘブル6:17、ロマ9:15、9:18である。以下、すべて順番に岩波版で引用。

「このキリストにおいて私たちはまた、〔自らの〕意志の意向のままにすべてのことを成し遂げる方の意思に従って前もって定められた通りに、相続分を与えられたのである、」(エフェソ1:11)

直接、「聖定」に該当する聖句はコレだけである。岡田稔著作集2『教理学教本』(いのちのことば社)では、「特にエペソ一・九 ― 一一は重要である。」と書かれて、「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。

……わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」と、新改訳2017の訳が引用されているのだが(p79)、聖定聖句の代表は、特にこのエペソ1:11ということにしておこう。ちなみに文語訳は、「我らは、凡ての事を御意の思慮のままに行ひたまふ者の御旨によりて預じめ定められ、キリストに在りて神の産業とせられたり。」(御意:「テーン ブーレーン < ブーレー」⦅意図、企て、計画、決議、決意、決定⦆、思慮:「トゥー セレーマトス < セレーマ」⦅御旨、みこころ、意図(された内容)、意志、意欲、意向、願望、欲求⦆、御旨:「プロセシン < プロセシス」⦅前に置くこと、企て、計画、意図、意志、決心、決意、目的⦆、預じめ定められ:「プルーリスセンテス < プルーリゾー」⦅予定されていた⦆、産業とせられたり:「エクレーローセーメン < クレーロー」⦅くじで選ぶ、くじで定められる、くじで割り当てる⦆

次、「ああ、神の豊かさと知恵と知識の深さよ。神のさばきのなんと測りがたく、神の道のなんと探りがたきことか。」(ローマ11:33)「神は約束を受け継ぐ人々に自分の意志の変らないことをさらに充分に示したいと思った時、誓いによって保証したのだった。」(ヘブル6:17)

「なぜならば、神はモーセに対して〔次のように〕言われているからである。私は私が憐れもうとする者を憐れむであろうし、私が慈しもうとする者を慈しむであろう。」(ローマ9:15)「それゆえに神は、自ら欲する者を憐れみ、自ら欲する者を頑なにされるのである。」(同、9:18)

次の、「それによって、神が罪の作者とならず」の参照聖句は、ヤコブ1:13、1:17、Ⅰヨハネ1:5である。

(岩波版 小林訳 ヤコブ1:13、17)

「試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受けえない方であるし、自身誰をも試みたりはなさらないからである。」

「あらゆる善き贈りもの、すべての全き賜物が上から、光の父から降って来るのである。その〔光である〕父のもとには、移り変りも運行によって生じる影も存在しない。」注に、「同じ光でも、天体には季節による移り変りや、夜と昼、日食・月食のようなものがあるが、父なる神にはそのような変化がない。」とある。

(岩波版 Ⅰヨハネ1:5)

「私たちが彼から聞いており、あなたがたに告げる知らせとは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇も存在しないということである。」

これらが、「聖定」の教理における「神が罪の作者とならず」の参照聖句なのか…?と疑問に感じるほど説得力は感じられず違和感だけが残る。

結局、「聖定」の参照聖句としては、最低、エフェソ1:5と11の2か所だけを憶えておけばよいと思う(「ウェストミンスター大教理問答書講解」⦅ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮編訳⦆では、「聖定」の参照聖句はエペソ1:11が筆頭であり、後の方でエペソ1:4も書かれてはいるが、その括弧内には「人間の永遠の運命についての聖定は天地のつくられる先より永遠に定められている」とあるとおり(p56)、これは直接的には原文で1:5の冒頭に書かれている προορίσας ⦅予定していた⦆を指すのだから、1:4とすることはおかしい(英訳では、RSVの destinedは「運命的な、運命づけられた」ということで「運命」という概念が入るので良くない。その点、KJVの having predestinatedは、原形の predestinationが神学用語として「予定(説)」を意味するようになっているようだから、まだマシではないだろうか…?

1:4は、「キリストにおける選び」の参照聖句となっている⦅矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』p58⦆)。

その次の「また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである」の参照聖句は、行伝2:23、4:27、4:28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴16:33である。

ここは最後の箴言16:33「くじは、衣の膨らみの中に投げられる。だが、その事の決定は皆、ヤハウェから〔来る〕。」(岩波版 勝村訳)だけ憶えておけばよいと思う。注に「神意を伺うためにくじをひくことは旧約でよく見られる(レビ一六8以下、サム上一四41以下、ヨナ一7等)。」とある。文語訳「人は籤をひく されど事をさだむるは全くヱホバにあり」

(以上、ウェストミンスター信仰規準』⦅日本基督改革派教会大会出版委員会編、新教出版社⦆ より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンタルヘルスと神観…コヘレトの神…非人格神、「創造的空」の自己限定…自己対象化、聖定信仰の捉え直し、認知行動療法的宗教論

認知療法では、対人関係などでトラウマになるようないやな体験をした時に自分の中に生じる「自動思考」を省察し、これを柔軟な考え方に変えることによってストレスの衝撃を軽減しようとします。「自動思考」に影響を与えるいるものが「スキーマ」であり(schemaで独語読みはシェーマで元々、図や図式を意味する)、そこから生じるものが「認知バイアス」(物事の解釈)です。加藤諦三氏がよく事実と解釈とを区別してお話される後者を指します。「スキーマ」が自分の思考傾向を形成する図式ひいては思考の元になる価値観だとすれば、その価値観から偏見(バイアス)が生じてきます。そして何かあると瞬時に脳内に生じる思いやイメージが「自動思考」であり、それが様々な感情を生み行動へとつながるのです。性善説性悪説も共に本人の価値観であり「スキーマ」です。いずれも一長一短があり優劣左差はありません。要はそれが社会に適応するか否かです。自動思考を修正しても、また新たな自動思考が生まれてしまっては意味がありません。抜本的解決のためには「スキーマ」を変えるべき対象とするしかないのです。すなわち日常生活に支障をきたす社会非適応型スキーマから社会適応型スキーマへと変えてゆく…、それはいかにして可能でしょうか?人それぞれだとは思いますが、自分の場合は宗教なしには考えられません。「神」という絶対的存在との関係を体験してこそ、既存の価値観を相対化することによって自分の心を変えることが可能になります。

私見では、実際は「思考」の流れだけが問題なのではありません。自動的に脳に生じるのは、思考や感情を含むその時の状況・場面(シーン)全体です。自分にとって大きなストレスになるような人間関係の映像的記憶(※「映像記憶」と混同せぬこと‼ 映像記憶は特殊な能力であり、その持ち主は私の場合、高村薫作「レディー・ジョーカー」の主人公である警視庁刑事・合田雄一郎氏以外は知りません!)は、動画撮影に喩えれば1コマずつのショットのような記憶よりも、それが一定の意味で連結されたシーンとして再生する場合が多いと思われます(シークエンスまではいかない)。相手のセリフはもちろん表情や動作などまで一体となって自動的に再現される…、いわゆるフラッシュバックするのです。それによる自身のストレス反応は睡眠障害だけではなく動悸など明らかに心臓にも悪いということは、不整脈心室性期外収縮)を持つ自分はなおさら実感しています。身心全体に負担となるのです。その軽減は心理療法のような小手先と言うか気休めのような方法では期待できません。あくまで科学的な力に期待するのであれば、薬物を使ってでも記憶自体を整理して、身体に悪影響を及ぼすような記憶は排除するような画期的な方法の発明を求めてゆかねばなりません。

いずれにせよ、自分のメンタルヘルスの改善は聖霊のはたらきという他力によらずしては不可能であると自覚しています。臨床心理学が無神論を前提とする限り、科学と言ってみたところで現実化することは困難でしょう。

自分の場合、子供の頃から実学科目には関心が薄く成績も悪かったですが、非実学的な科目には関心が強く、その種の本は好んで読みました。それって結局、実学的には低能であり社会的に不適応である自分が将来メンタルを壊さないための予防を意図せずやっていたようにも思えます。対神関係とその省察・信仰なしに自分の人生はあり得なかったのです。生まれつき低能な人間にとって、よりよく生きてゆくためには将来的にメンタルをより健やかに保つための術が必要です。その点で宗教とか哲学とか文学は人生において大いに意義があると思います。実学的・社会的には低能でもそちらの方面では有能であるとも言えます。そしてそのノウハウが、極めて個人的内面的なところから、同じような問題に直面している人々にも何らかの役に立つ可能性を信じて発信するなら、そこに社会性が生れてきます。人間には共通することがある以上、純然たる個人主義は無いと思います。要は自分の内側だけでとどめず、つまり秘事とせずに外へ表現し発信してゆくことです。誰かがその一端をキャッチすることによって何らかの意味を得ることができるかも知れません。それはいわゆる社会貢献活動のように明確に社会の役に立つ即効性こそありませんが、だからといって単なる私事として、非社会的・観念的な遊戯とか自己満足・自慰行為のようなものとしてその意義を否定されたり貶められるべきことではないと思います。

信仰はメンタルヘルスにおいて自己治療(self healing)になる(一般的な「信仰治療」…特にオカルティックな療法などとは無関係。信仰治療 ― どのような効き目がありますか — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org) )。それが最も現実的な神信仰の実効性である。心理療法でも認知行動療法(CBT)などある程度は自分でやれるようだし、とにかく脳内のセロトニン分泌を増やすことが肝要。日光を浴びての朝散歩励行。

セロトニンの分泌には日光を浴びることが欠かせません。運動に関しては一定のリズムで行う運動がセロトニンの分泌を高めてくれます。リラックスして朝、太陽の光に当たりながら毎日15分程度のウオーキングを楽しむといった方法が良いでしょう。」一般財団法人 脳神経疾患研究所 総合南東北病院【地域がん診療連携拠点病院・地域医療支援病院】 (minamitohoku.or.jp)

【セルフ認知行動療法のや方・ポイント】自分の考えを見つめ直し、心を軽くする | NHK健康チャンネル

認知行動療法を自分でやってみる方法【精神科医・樺沢紫苑】 (youtube.com)認知行動療法を日本で一番わかりやすく説明してもらった【精神科医・樺沢紫苑】 - YouTube

「深い瞑想の境地では脳内の神経物質であるセロトニンドーパミンが分泌される」そうですが、 お釈迦様の脳 | 会員によるエッセイ&コラム | 仏教クラブ (bukkyoclub.com).      「深い瞑想の境地」とか、ましてや神秘体験といった大げさなことまで言わなくても、普通に信仰生活をしている中で神を賛美したくなる気持ちとかの通常的信仰体験においても、要は脳内物質の働き如何であると思われます。自助努力的には通常的信仰境地につながる脳内物質の分泌を活性化させることが第一。療法だの技法だのと言っても本人の心理なのだから専門家との対面による作業にも限界があって、セルフでしかやれない面もあるでしょう。

ところで、キリスト教の本質は倫理(対人関係)ではなく救い(対神関係)であり、信仰はこの両関係(…滝沢氏の表現を借りれば「不可分・不可同・不可逆」)における生活である。しかし、ヤコブ書のように信と行との不可逆性を考慮せず意地悪な言い方をするような者は使徒の名に値せず、その書が「藁の書簡」(~ルター)と云われていることもわかる気がする。キリスト教に倫理基準を求めるクリスチャンは少なくない。聖書の言葉…特にイエスの言葉が情況から捨象されて永遠不変の真理を語る格言の如く扱われる。倫理的平和は神信仰の結果であって、先ずは自分が対人関係において受けた傷が対神関係において癒されてこそ対人関係に戻って主の平和を実行し得るようになるのだ。倫理先行のキリスト教においては、「神は愛なり」の「愛」の方に重きが置かれて「神は」の方が副次的になる傾向は否めない。現代神学が神の主権よりも人権に偏向していることもその現れである。社会倫理…特に人権関係を重視した上での宗教というものは異常なほど個人主義的思考を嫌うので、宗教体験などの個人主義的要素が稀薄になって、クリスチャンの中には消化不良というか欲求不満的な人々も生じてこよう。つまり倫理先行のキリスト教は川島隆一牧師が指摘なさる社会福音の「同情的イエス」中心になったり、「民主的な神」中心になってしまって、要するに人間社会における幸福が宗教の究極目的となり第一義となるので、神にせよキリストにせよ、そのための媒体として機能し得る範囲で尊重され、賛美・礼拝される…という本末転倒の状態になる。現代は人権尊重が度を過ぎてイデオロギーとなって先鋭化し、それがキリスト教神学にも多大な影響を及ぼしている。主権在民であって神の主権は人間の主権の絶対化のもとで相対化され、「有限の神」だの「神の死」だの十字架刑で「死にうる神」といったことが云われています。

「—— 現今、多くの人々がいわゆる『民主的な神』の存在を信じたいという。この神概念によると神は御自身の栄光のためではなく、その被造物の大多数の便宜と、できるだけ多くのものの最大の便宜のために、働き存在となってしまう。(中略)聖書によれば、被造物(人間を含む)の幸福は主要なことがらではなく、神の栄光をあらわすことの副産物にすぎないのである。」(ヨハネス・G・ヴォス 著、玉木鎮 編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)p81)

このような相対の絶対化は、神やキリストを偶像化して十戒の第一、第二戒に反することにもなる。「十字架のキリストを拒否する者たちは、現代の教会にも見られます。社会福音派です。(中略)彼らの神は、人間の理想的属性を具現化した愛と憐れみという存在です。(中略)贖罪信仰は消え去さり、『同情的イエスカルバリーのキリストに取って代わってしまった』のです。」 kawasima520.blog.fc2.com/blog-entry-233

救済は個人の事柄を越えて共同体ないしは世界・人類の普遍的な事柄であるというのが量氏など知識人によくみられる救済観ですが、それは個々人の苦悩に対する省察や共感が甘いのです。特に現代社会では、心の闇…メンタルな問題によっていかに個々の深刻な苦悩が社会的な問題に発展しているか…。個の救いに徹してこそ類としての救いが見えてくるのであって、いきなり新天新地到来という普遍的救済が第一とされて、そのためなら個人としての疑問などは抑圧して然り…といった考えは現実的でもありません。ところで、自分にとってキリスト教という宗教はあくまでも聖書的宗教が説く救済の媒体であり、教会組織は個々人が聖霊のはたらきによって対神関係を得て救われるための媒体にすぎないのであり、私自身はコヘレトの宗教を参考にしたいと思っています。関根清三氏によれば「実際コーヘレスは終始、他者と出会っていない」と言われ、四章1-4節に関しては「結局は虐げられた他者のために労さずただ拱手傍観している、そういう知者の姿が図らずも露呈されて」いると言われています。二章18-19節については「後世に対しては、自分の子も含めて関心を示しません。親や隣人は視野にすら入ってきません。女性も概して軽蔑の対象でしかありません。その他たとい他者に関心を抱く場合もコーヘレスは結局、己の利益になるか否かというエゴイズムの視点でしか見ることができなかったように思われるのです。例えば『一人より二人の方がよい』(『コーヘレス書』四章9節)と言われますが、その理由は『二人なら、一方が倒れても他方が助け起こしてくれる、二人で一緒に寝れば暖かく』て、得だ(『コーヘレス書』四章10-11節)というわけです。」とのことです。但し、岩波書店版の勝村弘也氏の解説では、「友人はいた方がよいのに決まっている(四7以下)。」と書かれています。いずれにせよ、コヘレトは関根氏が言うほど他者との関係を「己の利益になるか否かというエゴイズムの視点」だけで見ていたとは自分には思えません。

神観についても「コーヘレスが応報の神を否定した先に発見した神は、他者を排除した次元で、己一個のエゴイスティックな快楽において辛うじて感じ取られるような神でしかなかった、と言わざるを得ない(中略)コーヘレスは終始エゴイズムを抜け出せず、他者については、これを排除するか、己の利益の問題に還元するか以外、遇する術を知らない」などと、散々な言われようで(以上、『倫理の探索』中公新書 p24~27)、関根氏自身はそのようなコーヘレス(=コヘレト、コーヘレト)の神観は、応報の神の否定という点では時代的な因果応報の考え方の破れの認識として承認しつつも、それだけでは限界があり倫理にはダメであって、「他者関係をも視野に収めた、新しい神」を旧約聖書(の特に専門とされているイザヤ書)に求めるというわけです。しかし関根氏のこのようなコヘレト批判には、それこそ知識人で学者としての社会的地位を得ている人の健常者中心的な考え方が滲み出ていて、家族に恵まれない人…特に社会的に孤立した境遇にある少数者の心理などがどこまで考慮されているのか疑問です。実際、関根氏は放送大学の講師をされていた時、質問をしたことがありますが、成績が一定水準以上だから答えてやろうといった態度だったし、その後に一読者として質問した時は研究の邪魔になるからもう手紙など書いてよこすなといった趣旨の返事をしてきました。私の経験では多くの神学や聖書関係の学者はまともな返答をしてきています。関根氏だけが門前払いをしたわけです。そういうところに彼の人間性が滲み出ており、とてもとてもコヘレトを倫理的にどうこう言える人物とは言えません。そして彼の思想内容も狭すぎるのであり、今の日本社会ではメンタルヘルスの異常者が犯罪や自殺の危険をも抱えながら苦悩しているのであり、そういう人々が精神医学や臨床心理学なんかでは救えずに宗教に活路を求めているような現実もあるわけなので、現場の実情を知っている者としては個の救いに集中するような、コヘレトの神信仰、神観がむしろ参考になるのではないかと思います。無理して他人との共同性に宗教的救済を限定する必要はないと思います。他人には共感されなくても本人が救いを実感することができて、メンタルヘルスが好転してゆくのであれば、特に他人に迷惑をかけない限り、どのような神観や信仰を持とうと自由ではないかなあと思います。神観が人格主義的だから個人的・閉鎖的信仰では幻想だから現実的には他人との共同性が必要だ…といった話になるのであって、対神関係は人格的であることを全否定することはできませんが、神観は擬人化につながるような人格神観は極力、排除してゆくことは可能です。それは「信」から「覚」へ意識を変えてゆくことによって可能になってきます。コヘレトの神は、最低限度の人格性はあるものの、いわゆる人格神といえるほどではないのです。けっして擬人化にはつながらない程度の対神関係なのです。それなら個のレベルでも幻想とはならない。禅の「空」観に近いからです。集団は媒介にすぎません。教会のように指導的立場の人が教えを垂れるのではなく、そこに集まった個々人が自覚によって真実にふれるのです。人は関係存在だから宗教とて孤独では成り立たないというのであれば、他者との共同性は最大公約数的一致によらなければならず、神観とか信のあり方とかいうことは多様化しているので無理に合わせることは出来ない。

イリアム・ジェームズが、「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である…私たちの解するような意味の宗教から、いろいろな神学や哲学や教会組織が第二次的に育ってくるであろうことは、明らかである」とか、「宗教的生活の旋回している枢軸は……個人が自分の私的で個人的な運命についての関心を持つこと」だと言ったそうで、また、「向こう側」の神的な存在を特定の何か、例えば聖書の神ヤハウェだと信じるようなことを「過剰信念(over-belief)」と呼んだそうで、その「過剰」という意味は、そういった個々の宗教に固有の教義やそれに基づく具体的な表現は、誰もが共有できる範囲を越えているということだそうですが、ジェームズはこれを退けるのではなく、過剰信念こそが「ある人間についてもっとも興味深く価値あるもの」だと言ったそうです。また、ジェームズは、「人は心の持ち方を変えることによって人生を変えることができるということ、これは私の世代の最大の発見である。」(The greatest discovery of  my generation is that a human being can alter his life by altering his attitudes.)といったことを述べたそうですが、これって認知療法では? 

ウィリアム・ジェイムズの宗教思想 ―科学時代の救済論として

結局、絶対なるものとの関係において、この世の絶対化される諸価値(偶像)を相対化する…という方法はセルフ認知療法の一種だと言えるだろう。それが宗教になるのは、その「絶対なるもの」が真に「絶対」であると信じられなければ効果はなく、そのためにはそれ相応の権威が必要だからだ。それが「神」ということになり宗教となる。

ジェイムズは当時流行していた『マインド・キュア』、すなわち精神の持ち方によっ. て病気を克服するという一種の信仰治療運動を、一度生まれの宗教として ...」

宗教的実存を重視する人は宗教を個と共同体とに分立するような理解はしない。個人主義的傾向が強い宗教は幻想的だとか、共同体主義だから現実的だとか、そういった偏見は宗教の本質を見誤ることになる。個人における対神関係が宗教…就中、一神教の信仰的核心であることは実存的事実である。問題はその場合の「神」が単なる人格神ではなく、人格的関係性は保持されながらも「神」観や「神」イメージは擬人化が回避されることを条件として(…人格神観は擬人化を免れ得ないといった主旨の並木浩一氏の指摘を考慮しつつも…)私は宗教的個人主義の立場である。個の求道を徹底することによって種・類の救いへと通じてゆけるからであり、それが宗教的実存の弁証法だと思うからである。そしてそれは、「不可同・不可逆」の面が曖昧な神秘主義的信仰…すくなくとも自覚の表現としては「不可分」に偏りすぎて「神人合一」とか「人間神化」といった言葉も出てくるような立場とは真っ向から異なり、対局的である。社会倫理を強調する者は共同体主義的宗教を志向する傾向があるが、自分にとっては、宗教は共同体主義的であるよりも個人主義的であるほうが自然な感じがする。なぜなら「共同」とは対人関係の事柄であるが、日常生活においては、その対人関係にこそストレスなどの救われるべき問題が生じるからだ。それは聖書的には自分個人の「罪」から救われることにつながってゆくのだが、神の前に「単独者」として立たないことには悔改めはできない。キリスト教的に言えば最後の審判での裁きは個別なのだから救済も個人単位であって然り。エゴイズムに陥らなければ、宗教者は個人主義者でけっこう。 

信念をめぐる倫理とW.ジェイムズの個人主義

 

広く世の為人の為にならない宗教…普遍性が弱い宗教はカルト・邪教であるかの如くみなすような考えは、宗教というものの本質を知らないと言える。聖書の教えの中心に「イエス・キリスト」を置くのがキリスト教であるにしても、「神の国・神の支配」が「神」よりも重要であるはずはない。「神」あっての「神の国・神の支配」なのだから…。しかし「神の霊=聖霊」はそれ自体が「神」なので、「神」について言わずともいきなり主語になり得る。救いの核心が「永遠のいのち」であるとしても、それはヨハネ福音書においてはイエスから見て「唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになること」(17:3)である。この「永遠のいのち」こそ神の救いの目的である(3:16)。従って聖書が教える救いは共同体単位であって個人単位ではない…といった主張には誤解がある。宗教のベクトルは「個」から「種・類」へであって、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といった言葉は美しいが、いきなりそのような考えが絶対化されるとしたら、それは理想主義であり、ファンタジーであり、いわゆるお花畑である。現実世界では、そんなことを思う人は少数派だからである。そもそも宗教は幸福になるための道ではない。

神の国」は「神」あってのことで、「神」についての論考なしに、いきなり「神の国」すなわち「神の支配・神のはたらき」を論じることはおかしなことです。ただし、その「神」を過剰に人格的に…つまり擬人化して観る、イメージするというのもおかしなことです。関係は人格的でなければ非聖書的ですが、「神」自体は人間ではないので神話的なイメージは無用。むしろ「空」といった非実体的・非人的なイメージが必要。

「創造的空」が意味/無意味の対立を超えているように、倫理に規制された宗教は人権活動に益しないような教えを頭から否定し去る。自分にとって宗教は自分自身が生きてゆくうえで、特に対人関係のうえで活力につながるものであって、その結果、社会的広がりや普遍性を持ち得る可能性があるということであって、最初っから社会に役立つ思想でなければ意味が無いとかいったことにはならない。公益性などを宗教の評価基準にしている限り、宗教は衰退の一途をたどることになるだろう。

矢内原忠雄氏は、キリスト教を受容して「正しき神観」を獲得することによってのみ、日本を復興できると考えていたそうです。彼も宗教は公益性があって然りと考えていたのでしょう。ただ、彼の思想的独自性は、キリスト教について共同体性と直結する「神の国」論には走らず、あくまで「神」論に入っているということです。その理由として一つには天皇問題があったことは確かですが、社会主義的傾向の強いインテリのクリスチャンは昔から「神」(それ自体)よりもユートピア的「神の国」の方に関心を持つ傾向がある中で、この点はとても重要だと思います。

「…神と人の区別がなされていない日本人の神観では、人を神として崇める危険性が存在するからである。実際に、天皇が現人神として崇められていた当時においては、その危険性が表れていたのは明らかであった。矢内原は、この危険性を克服するには、絶対者かつ人格者である神、つまりキリスト教の神を受け容れなければならないと主張する。日本人の神観の危険性を克服するには、キリスト教を冷遇していた、これまでの日本の態度を改め、『正しき信仰正しき神観をもつべき』であるというのである。」(菊川美代子さんの論文「天皇観と戦争批判の相関関係――矢内原忠雄を中心にして――」より)。そして矢内原氏は、「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質」であると述べています。

エスの神観については、矢内原氏は次のように述べています。
<「父なる神」、之(これ)が人格神としての神の性格である。而(しか)して神を父と見るこの信仰が、イエスに対し神の本質についての深き洞察と、神との親しき霊交と、論戦を一貫しての自由さ、新鮮さ、智慧(ちえ)と勇気とを賦与したる根本である。イエスの敵は神との活ける交りを欠いたが故に、彼等の神観は形式的であり、概念的であり、化石したる公式主義的把握となった。之に反しイエスは神を父と信じたが故に、自由無礙なる新鮮なる生命力、行動力が、彼の神観より泉み出たのである。>(『全集』第6巻 p220~221)

国木田独歩氏は、「神を忘るゝ時程薄弱なるわれは非ず。」(~『欺かざるの記』明治26年9月8日)と述べていますが、私の場合は「神の実体が不確かな時程薄弱なるわれは非ず。」です。自分は「神」を観想したり思弁的に論じる時が最高度の癒しになるので、メンタルヘルスとしてはこれをセルフ治療…信仰治療と呼んでいます。しかしその場合の「神」は聖書の「神」であると同時に哲学的、形而上学的な「神」、スピリチュアリズムの「神」でもあります。すなわち単なる「人格神」ではなく「理神論」の「神」、「汎神論」の「神」、「汎在神論」の「神」…といった多様な要素を有する「神(観)」の創造性ということです。自分の場合の「神(観)」も、歴史性や人格性は無いわけではないし無いというのはダメですが、最小限度にしないと旧約聖書に描かれているエホバのように擬人化されすぎてよくありません。というのは、メンタル問題の核心は対人関係におけるストレス苦であり、人格神観の誤解である擬人神観は、対神関係が対人関係のようになってしまうことを意味するからです。人間との関係から解放されるための砦として「神(観)」があるのに、それまでも人間化してしまったら逃げ場がありません。自ら精神的な逃げ場を失うようなことをしてはいけない…自殺行為になります。だから擬人神観は厳に拒否しなければならないのです。並木浩一氏によると、「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ないとのこと(~私信)。(以下、引用。太字は私記。)

神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに「あなたは私たちの神です」と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。>(『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』〔日本基督教団出版局〕p208)

今年に入って私はクルマ関係の理不尽な被害の出来事により「神」の人格性…というより、自分の中で擬人化してイメージしていた「神」を希釈していって、最低限「信仰」の対象たり得るだけの人格性を維持した「神」観に修正してきました。そのままの擬人的神観ではいわゆる神義論的問いから自由ではあり得ないからです。「信仰」には「愛する」ということも含まれます。「神を愛する」という場合の「愛」は対人関係におけるそれとは質的に異なる要素があります。「愛」と訳すから福音派信者などに甘ちゃん信仰という誤解を与えるのです。「神への愛」の「愛」は「信頼」であり「尊敬」です。甘え甘やかすような愛情ではありません。そこに「肉の父」と「霊の父」との質的差異があります。「神を愛せ」と言われて愛そうとして現れてくる「神」は幻想であり偶像です。真実の生ける神は、そもそも真実だの生きているだのと人間が規定せず求めずともおのずから現れてくる「空」です。意味の有無をも超えて自他を包むように拡がってくる「創造的空」なのです。

そんな自分が聖書の記事の中で最も重視するものはパウロのコリント人への手紙第一15:28であり、自分が大雑把に知る範囲では、その神観に最も近いのがスピノザの「汎神論」(パンセイスム)における唯一にして無限なる実体としての「神」です。但し、スピノザの思想が「汎神論」にとどまって「汎在神論」まで至っていないのなら、「神即自然」は「神即人」とも解されかねないおそれを感じます。自分は、神道的要素は排除したいし、少しでも本質的に相対的な被造物(…特に人間)と接近し混同するおそれがあるような「神」には興味がなく、「神即自然」が真理だとしてもそれは聖書ではあくまでも終末において実現するとされており、終末では現世の対人関係などなくなっているので、単純な人間神化説に堕する危険性は無いが、現世では何の歯止めもないから、汎神論的な言説には十分、警戒しなければならないし、出来得る範囲で改善し修正しなければなりません。なお、人間神格化に関する八木誠一氏の見解が、佐藤研著『禅キリスト教の誕生』(岩波書店)の論評の中で述べられているので、参考としてここに引用させてもらいます。(以下、太字は私記。なお、前掲論文ではイエスの「復活」について、佐藤研氏の「空虚な墓」論とは異なる八木氏の見方が論じられている。)

キリスト教がローマの国教となってキリスト者が法的に定義されたとき.キリスト者とは信条を受け入れて教会の行事に参加する人間ということになった。つまり「救済の経験」は信徒の必要条件ではなくなった。それ以来「正しい教え」の受容を重視する伝統的基督教には特に西方において「作用的ー」を見失う傾向が生じて現代に至っている。現在回復が求められているのはこの作用的「一」の経験と自覚だ。この「一」を明確にするためには.滝沢克己が提唱したキリスト論的区別(神われらとともにいますという「原事実」と「それに目覚める自我」の区別と関係をイエスの人格にも適用する)が重要である。私はこの区別を「自己」(わがうちに生きるキリスト)と,その活性化を自覚する「自我」との区別と関係として認識している(ガラテア 2, 19 -20にはこの区別と関係がある)。ちなみにこの区別は鈴木大拙ー一秋月竜眠における「超個と個」の区別と関係に相当する。この場合「自己」とは神と人の作用的ーのことである。「まことに神, まことに人」とは元来「自己」(信徒のなかで生きるキリスト,作用的一)についていわれることである。これはイエスの全人格が作用的ーである限りでも言えるのだが,イエス個人には自己(「人の子」)と自我の区別と関係がある。これは「キリスト両意説」と一致する。エス個「人」がそのまま「神」だということではない。自己に目覚めた自我は自己を映すのだから,自己と自我の区別と関係は厳密に認識されなくてはならない。そうでないと折角生まれつつある正当な認識が人間神格化として流産させられる危険がある。古来基督教界では,誰かが神と人との一をいうと,必ずそれは人間神格化だいって葬り去ろうする人が現れる。だから「一」の意味を厳密にしなければならない。「人間神格化」とは伝統派が新しい認識を異端として排撃するための絶好のロ実なのである。マイスター・エックハルトも同じ憂き目にあった。これと関連して「自己の死滅」という表現にも問題がある。作用的ーに目覚めた「自我」は死減するのではなくて正常化されるのである。「大活」とはこのことだ。西欧では仏教は自我の死滅を説くニヒリズムとして恐れられ,嫌悪されてきた (R. p. ドロワ.島田裕巳訳「虚無の信仰J. トランスピュー. 2002年)。現在でも仏教は自我の解消を説く虚無主義だという誤解がある。しかし実は滅ぴるのは我執であって自我ではない。自我が失せたら人間は人間でなくなってしまう。カール・バルトは人と神の一を説く神秘主義および自我の解消を説く仏教を排撃した。その影響はプロテスタントのなかになお強く残っている。>ja (jst.go.jp)

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「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波版〔青野太潮〕訳)

パウロによって「神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)」と言われたその主語の「神」は、本来は「すべて」(パン、パース)であったが啓示において創造から終末までの歴史(救済史)を通して自己限定(…自己対象化・自己相対化・自己有限化)して、イスラエルの神エホバおよびイエスの父なる神として人間に対向する人格的存在となられ、しかもそれは新約聖書が示すとおり父・子・霊の三一神として生成において在るという仕方であって、御父は御子に主権を委譲して後退しておられたが、終末に至りその主権を御子は御父に返上し服従されるということ。キリスト教の三位一体の神というのは究極の「神」の実相ではなく、あくまでも「啓示された神」であって、元来の「(啓示する)神」が自己限定した様相なのです。だから伝統的なキリスト教の神論では、コリント第一15:28あたりは(12:6「すべてのもののうちにあってすべてのことを働かれる神」も参照)パウロの「復活」論の文脈での事柄として…せいぜい終末論の中でふれられる程度であって、神論として正面から受けとめることは避ける傾向にあります。ウェストミンスター信仰基準では無視されています。特に「すべてにおいてすべてとなる」ということをまともに受けとめると、従来型の有神論では根本から問い直されることになるからでしょう。ある改革派の牧師は以下のような返答をされました。

<「神がすべてにおいてすべてとなられるため」とは「神の王的な御支配が完全に実現するため」と言い換えることができると思います。私たちは、神がイエス・キリストを復活させて、天に上げられ、御自分の右の座に着かせられたと信じています(使徒信条)。古代イスラエルにおいて、王の右の座は、王と共に支配する者(皇太子や大臣)が座(すわ)る座(ざ)でした。ですから、私たちは、神とイエス・キリストが、この世界を共同で統治しておられることを信じているわけです。しかし、第一コリント書のこの箇所において、パウロはそれをさらに勧めて、終わりの日には、キリストが父なる神に王国(王権)を引き渡されて、キリスト御自身も父なる神に服従されて、神の王的な御支配が完全に実現すると語っているのです。パウロがこのように記したのは、神の右に座しておられるキリストが、まことの神でありつつまことの人である二性一人格の御方であるかただと思います。キリストの人性を考慮にいれて、パウロはこのように記したのだと思います。一コリント15:28節と『ウェストミンスター信仰基準』との関係ですが、聖句索引を調べましたが、ありませんでした。しかし、文脈から言えば、終わりの日、キリストの再臨に関係していることは明かであると思います。>・・・ここではカルケドン的キリスト論まで持ち出して三位一体神信仰との調整がなされていますが、御父と御子の従属関係を御子の人性によって説明しようとすることはさすがに無理過ぎる感じです。

八木誠一氏は、『創造的空への道  統合・信・瞑想』(ぷねうま舎)の中で、「信とは具体的にどういうことか。それは『君たちのなかではたらいて、(君たちの)はたらきと意欲とを成り立たせる神』(『ピリピ書』二章13節)への信である。」と述べ(p2)、また、「統合体形成作用はイエスのいう『神の支配』に、『創造的空』はイエスのいう『神』にそれぞれ対応する。これはイエスが、世界を超えて一切を無条件に受容する『神』(『マタイ福音書』五章45節)と呼び、パウロが『すべてのなかにあって、すべてを成就する神』と称した(『Ⅰコリント書』一二章6節)現実である。この創造作用に触れたとき、無意味感・虚無感 —— キリスト者でも陥りがちな —— が消滅する。」と述べておられます(p3~4)。さらに「神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。」と述べておられるが(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p148)、御父が御子に主権をゆだねて被造世界を支配せしめたのだから、終末に至るまでの間は御子(キリスト)中心的であるのは当然であり、全体のスケールで見れば青野太潮氏が「パウロの神中心主義」という論文ないしは『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)の第一部 5章 「序にかえて」(p5) で指摘されているとおり、パウロの思想は「神」中心的なのです。ちなみに御子を創造主と誤解する多くのクリスチャンに対しては、八木氏の次の指摘が参考になります(太字は私記)。

新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』)

ここでは明示されていませんが、御子が創造に参与したとする記事で必ず用いられている前置詞「ディア」は媒介を意味します。御子は創造の主体というより媒体なのです。以下も同様。

「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。(中略)キリストが『統合への規定』であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七)こうして神は、『すべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147~148

御子と御父との違いが、「究極的」と「究極」との区別によって示されています。だから自分は、聖書が三一神の生成における存在とはたらきを物語っていると信じるにおいて、その三一神は基本信条(…明示しているのはアタナシウス信条)における「同等」の三一関係ではなく、御父と御子との「従属」的関係を前提とするものとして信じているわけです(…これは従属的三一神信仰であり、正統的キリスト教からすれば「異端」だと言われるかも知れませんが、私は聖書の使信に反しないと思います。但しキリスト教会組織の教理とは、聖書学的知見も踏まえないと相反することになるかも知れません。すなわちユダヤ教以来の「唯一」神信仰と矛盾する「三」神論的な信仰の立場になるからですが、そもそもシェマーの「唯一」(エハード)は存在論的意味の…すなわち所謂「唯一絶対」という場合の「唯一」ではなく、同じ「ヤハウェ」でもイスラエルの地方聖所ごとに多様であった信仰を中央聖所に一局集中させたことが背景としてあるので矛盾には当たらないし、「三位一体」の「一体」というのは「神」としての本質が同一ということなので、父も子も聖霊の「神」である…という意味では三神論と矛盾しないです)。なお、八木氏は神が「絶対」であるということは「普遍」的である旨のことを述べておられますが、そこでは「無限」であることには言及されていません。また、八木誠一氏と交流があった野呂芳男氏は「神」を「究極的なもの」(the Ultimate)と「絶対的なもの」(the Absolute)とに区別して論じました。前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うなら、その「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ないので、野呂氏は「究極的存在者」としての「神」を求めるのだというのです。従って野呂氏の実存論的神学における「神」は「無限」ではなく、すなわち「遍在」せず、野呂氏自身、北森神学の「神」が「有限なる神」に近づいたと言って自身の相対的・有限的神観を露呈しています。「神」の絶対性を犠牲にしてまで人格性を担保しようとする野呂氏の動機にはあまり共感できません。無論、「神」の人格性が全く無くなったなら、それはもはや聖書とは関係ない神観ということになりますが、擬人的に語られることとは峻別されて然りです。神の人格性は本来、神の主権について言われて然りでしょう。そこから「裁く」といった義の面も「赦す」といった愛の面も生じるのです。多くの人は愛の面だけを見ようとします。それは新約聖書が「神は愛なり」だけを言っているかのように誤解しているからです。そこを強調してきた教会の説教にも原因があります。

ところで、北森嘉蔵氏は次のように述べています。太字は私記。)

「いわゆる近代主義(Modernismus)もしくは自由主義神学liberal theology)(中略)その特質は直接的な神関係の主張にあります。これは『異なる福音』でなくてなんでしょうか。パウロがガラテヤ人への手紙において戦ったのは、キリストの死をむなしくする立場に対してでありました。しかるに近代主義神学では、キリストの死による仲保媒介なくしても神人関係が成り立つ、というのですから、『異なる福音』と言わざるをえません。さてこのような直接性の立場が次第に徹底すると、神が人間の中に内在するという『内在主義』となり、これが主観主義、心理主義等となり、また神が人間歴史の中に内在化するという形では、歴史主義ともなって行くわけです。一言にして言えば『人間の内なる神』の立場であります。さて、バルトは近代神学を訂正すべくあらわれたと言いますが、そのさい彼の訂正が第一義的に向けられた点は、このような『内在主義』に対してでありました。従ってバルトは『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いたのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』〔新教出版社〕p24)※関連記事として、小川圭治氏の『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)の、「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)参照。

北森嘉蔵著『対話の神学』(教文館)によると、鈴木大拙氏の以下の指摘があるとのこと。(太字は私記。)

<「西洋的な」キリスト教が神と人間とを「対立」させることは、「相対立」するかぎり神を「相対的」なものにしてしまい、真の宗教的「絶対性」を逸すると同時に、二元対立の「分別知」へ傾かしめ、ひいては政治的な「分割統治」の植民地主義をさえ生むに至るとまで批判される。(鈴木大拙東洋文化の根底にあるもの』、朝日新聞、昭和三十三年十二月二十二日号)。>

北森氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と言っておられますが(『神学入門』新教新書 p74)、「人間に対立する神」が理論的には「絶対者」ではあり得ないのだから、矛盾したことを言っておられるわけです。バルトが『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いた…ということ自体は、私は共感します。自分は「神」を「内」よりも「外」へ、つまり「内在」より「超越」へ、自分よりも小なるイメージではなく大いなるイメージで観想するからです。しかし、バルト神学はいわゆるキリスト論的集中であり、イエス・キリストにおける「神の人間化」といったことを説いているので、とてもとても「神」を超絶的に語っているとは思えません。(以下、前掲書より引用。)

< 三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>

西田幾多郎はバルトが語る「神」について「君主的神」といった観方もしたようですが、とにかくそのような「(人格)神」は、内外いずれにせよ「絶対」とは言えません。スピノザ神論のように「絶対」は内と外といった境界なき「無限」へと徹底され、全一現実となるからです。そしてそれが徹底されて「(創造的)空」となるのです。それは人格性を排除するのではなく、非人格性と共に包括するのです。あらゆる二項対立をまるごと包み込み生成させる動的「空」であり、意味の有無さえ包括するからこそ「創造的」な「空」なのです。「絶対の無限の開け」と表現されていることと同じリアリティーでしょう。

日本の近代以降の思想史においては屈指と思われる女性の宗教哲学者、花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます。 

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )NIRC (nanzan-u.ac.jp)

ここで言われている「神が自らを空しくして」云々が私の言う「神」の「自己限定」であり、ここでは特に三一論の生成的存在としての面が、西田哲学的というか仏教哲学的に表現されています。これについては、北森嘉蔵氏と量義治氏の以下の指摘が重視されます。まず北森氏の方から引用します(太字は私記)。

< 西田博士はその最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』の中で、次のように述べている。―「今日の時代精神は万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。(略)」(略)ここに「万軍の主の宗教」といわれているものがどのような立場を指示しているかは、次の文章において明白となる。―「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。(中略)」(略) 西田博士が最後に表明したこのような主張の中には、最初から一貫していた根本的な立場が現われている。今やそれが「絶対無」という表現から「自己否定的な神」という表現に変わっただけである。そして、この神に対比されているのは、「君主的神の宗教」の立場である。(中略)第一戒を神学的公理とする神学が、いかに「人間とのかかわりにおける神」を語るように「転向」したといわれようとも、また「否」よりも「然り」を言うようになったといわれようとも、その基本的方法論としての「序説」(プロレゴーメナ)が変革されないかぎり、究極的には依然として律法的排他性によって「人間的現実」を否定・排除してゆくのである。その具体的な表われは、この神学が実存性や土着性に対して究極的には否定・排除の態度をとることである。これでは依然として「自己否定を含まない神」といわれねばならないであろう。(中略)さてしかし、次の問題は、このような「自己否定的な神」が果して「東洋的」な立場や西田哲学において十全に明らかとされているかということである。(中略)ここにある問題点は次のような西田博士の文章の中に示されている。―「自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。しかして自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無となるということでなければならない。……真の絶対とは、かくのごとき意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、かくいうの外はない」(略)この文章の前半については、私はほとんど問うべきものを持たない。かえって、神学が逆に聞くべき問いと考えたい。神と人間との「対立」を主張する神学は、それによってかえって真の絶対性を逸する結果にならないかということを、この西田哲学の主張から問われるであろう。しかし、問題は後半にある。そこでは、自己否定的な神が絶対無としてとらえられている。この事と、さきに西田博士が言おうとした「絶対悲願の宗教」とは、どのように関連するであろうか。おそらく、悲願の宗教は絶対無の宗教にほかならないと言われるであろう。(後述される田辺哲学において、大非即大悲といわれることと通じる)。しかし、私は「悲願」を「絶対無」と等置することの中に、西田哲学の根本的な問題点を見るのである。西田哲学が西洋的思惟への批判を通して打ち出そうとした立場は、個体の固有性と独立性とを認めながら、しかもこれを自己の場所のうちに包む絶対者の立場であった。このことは、「包まれ得ないものを包む」こととして表現されるであろう。西洋的キリスト教の立場では、その「包まれ得ない」という固有性が十分生かされないと考えられたわけである。西田哲学が「絶対矛盾的自己同一」と呼ぶのは、このような絶対者の立場である。しかし問題は、その「絶対矛盾」にある。ここで私は二つの問題点を指摘したいと思う。(1)包む絶対者と包まれる個体との間に、「絶対矛盾」が成り立つということは、どのようなことであろうか。もしその場合、包む絶対者が「無」と考えられるだけであるなら、それに対して個体が絶対矛盾的になるということはなくなるのではあるまいか。絶対者と個体とが絶対矛盾の関係にはいるのは、個体がその絶対者にそむく場合であるが、〔※「そむく」の各文字に傍点あり。〕しかし個体によってそむかれるものが無であるならば、「そむく」ということもなくなるのではあるまいか。「そむく」という事実が成り立つのは、そむかれるものが「有」である場合だけではあるまいか。有なる個体が有なる絶対者にそむく場合にだけ、固有の意味において「そむく」という事態が成り立つのではあるまいか。ここに、従来のキリスト教が説いてきた「有」としての神の意義があるのである。これを端的に否定することは、西田哲学が最後に明らかにしようとする「絶対矛盾的自己同一」をかえって成り立たせなくするのではあるまいか。「絶対矛盾」は、いかにしても包まれ得ないという事態だからである。仏教的絶対者から区別されるキリスト教的神のもつ「律法」や「怒り」の意義は、ここに求められる。これらの事実の中に見いだされる融通不可能な固有性は、仏教的思惟の融通無碍性からキリスト教を区別するのである。「第一戒」の神の意義もここに見いだされる。(2)しかし、真実の絶対者はこの「いかにしても包まれ得ないもの」をあくまで包むところに見いだされることは、西田哲学の言うとおりである。絶対矛盾的「自己同一」はその間の消息を言おうとするのであろう。しかし、西田哲学はこのことを「絶対無」と「絶対悲願」との二つの概念で示そうとする。「無」と「悲」とである。しかし、この二つの概念の間には問題が見いだされるのではあるまいか。(中略)絶対矛盾を背負った自己同一は、無以上の性格をもたねばならないのではあるまいか。これが悲痛の性格である。キリストの十字架はその具体化である。>(~『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p138~143)、<一般者は個体と対立する相対有ではなく、有たる個体を限定する絶対無であるとされる。これが西田哲学がヘーゲル哲学をも越える画期的意義をもつとなされるゆえんでもある。しかしここでもまた極めて重大な問題の伏在することを明らかにするのが神学ではなかろうか。一般者が個体を限定する場合、有としての固有性が個体の側にのみ与えられて一般者の側に与えられないならば、そこにはまた真の意味での「絶対矛盾」は成り立たなくなるのではなかろうか。なんとなればこの時一般者は個体を徹底的に自己の外に撥く一般者の固有性が始めから奪われている。個体を「包むべからざるもの」となす主体としての固有性が一般者にない。したがって無の自己限定は真の絶対矛盾ではなくなる。無が無であって痛みでないゆえんである。福音における神の痛みは、罪人を徹底的に審くべき怒りの神の固有性を前提として、しかもこの怒りの神が罪人を赦して愛の内に包む所に成り立った。罪人を審くべき怒りの神の有としての固有性が始めて神の痛みを成り立たしめるのである。もしこの怒りの神の固有性がないなら、罪人に対する神の愛は単なる「無」としての愛であり得たであろう。しかし単なる無即愛は未だ真の絶対矛盾としての痛みではない。無と痛みとは論理の形としてはいずれも「絶対矛盾」をなしているが、それに入れられている質が全く異なる。人間が神に反逆する時に、その反逆が神にとっていかにしても審くべき怒りの対象となるのは、人間によって反逆される神があくまで有としての固有性をもつ時のみである。神が有としての固有性をもたないならば、反逆せる人間が神にとっていかにしても「包むべからざる者」となることはない。したがってこの人間に対する神の愛も決して痛みではなくして、単なる無即愛にすぎないしかしこれは絶対矛盾の破棄にほかならない。>(同上、p151~)

西田哲学の「神」は「万有在神論」の「神」であると云われます。それは万物を包む神であり、その包むという点で真の「絶対者」は「自己否定」を含まなければならない…と言われています。この「自己否定」は三一神論的にはキリストの十字架刑死に象徴されますが、私の全一神論的には「自己限定」の主旨をキリスト神話を物語ることにおいて生じる事柄なのであって、文字通り「絶対者=神」が「自己否定」しきることは、歴史の中ではあり得るとしても終末に至って以降は、いかに「全能」だと言っても究極的主権者である以上、あり得ないことです。「全能」も「ケノーシス」も賛美告白の表現にすぎず、それを客観的事実とみなすのは混同であり混乱です。

次は、量氏の指摘です。

< 絶対と云へば、云ふまでもなく、対を絶したことである。併し単に対を絶したものは、何物でもない、単なる無に過ぎない。何物も創造せない神は、無力の神である、神ではない。無論、何等かの意味に於て、対象的にあるものに対するとならば、それは相対である、絶対ではない。併し又単に対を絶したものと云ふものも絶対ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾があるのである。如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによって絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対すると云ふことは、自己が自己矛盾的に自己自身に対すると云ふことであり、それは矛盾的自己同一と云ふことでなければならない。単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。……自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むと云ふことは、自己が絶対の無となると云ふことでなければならない。自己が絶対無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとは云はれない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立すると云ふことは、無が無自身に対して立つと云ふことである。真の絶対とは、此の如き意味に於て、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神と云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三九六-三九八ページ)「絶対の無なるが故に絶対の有」晦渋にして難解である。精細に読解しなければならない。「対象的にあるものに対するとならば、それは相対的である、絶対ではない」と言う。ここで、「それ」とは、前後の文脈からして、「絶対」のことである。したがって、ここで言われていることは、絶対が対象的にあるものに対するとするならば、そのような絶対は実は相対であって絶対ではない、ということである。それでは「真の絶対」とはいかなるものなのか。西田は言う、「絶対は、無に対することによって絶対の有であるのである」と。ここは、前半はさして難解ではないが、後半はきわめて晦渋難解である。(中略)西田において、絶対が絶対の無であること、そのことがまさに絶対が絶対の有であることなのである。絶対は「絶対の無なるが故に絶対の有」なのである。絶対者としての「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである」。この「絶対の無なるが故に絶対の有」という表現は、もっと簡潔に、「絶対の無にして有」というようにも言い換えられている。西田の神観は、神は、「絶対の無にして絶対の有」、または「絶対無即絶対有」である、というものである、と言うことができるであろう。 世界としての絶対者  西田によれば、絶対無としての真の絶対有は「無限に自己自身を限定する」ことによって「無限に創造的でなければならない」(上掲書四〇〇ページ)。一なる絶対有は直ちに自己否定によって多としての世界となる。つまり絶対者は絶対者として絶対有なのではなくて、世界として絶対有なのである。西田の絶対無即絶対有とは絶対無即世界ということであり、それは端的に言えば、「空即是色」ということである。西田においては絶対有は絶対有としての意義は認められていないのである。>(『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p224~228)

量氏は、「絶対無」に「超越性、他者性、人格性」が欠如し、「無律法性」と「無責任性」を指摘しています。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著前掲書p293)

また「神関係」という用語に加えて「絶対者関係」という表現も使っています。

「無」神論について関根正雄氏は次のように述べています(引用文中の太字は私記)。

<我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134)

以下では、旧約聖書的神論と汎神論との違いが示されています(引用文中の太字は私記)。

旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えているモーセの召命の時の神の顕現、これはやがてイスラエルが神の山でモーセを仲介として神と出会うが、その時のいわば前ぶれである。」(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p87 )※「越えている」は「超えている」と書くべきだったと思います。とにかく、「神」が万物に「内在」しつつも「超越」性を失わないということが「汎神論」と区別される「汎在神論」の特徴でしょう。

(以下、引用。赤字は傍点部分。太字は私記。)

< ではスピノザの思想はいかなるものであったのでしょうか。教科書などではしばしば、『エチカ』に見られるスピノザの思想は「汎神論」と解説されています(ちなみに、哲学ではよくあることですが、これは本人によるネーミングではありません)。「汎神論」とは、森羅万象あらゆるものが神であるという考え方です。日本では『八百万の神』のような、多神教的な自然崇拝のイメージが馴染み深いと思いますが、スピノザの『汎神論』では神はただ一つです。(中略)スピノザの哲学の出発点にあるのは『神は無限である』という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、『ここまでは神だけれど

、ここから先は神ではない』という線が引けないということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たちは有限です。空間的には身体という限界をもっていますし、時間的には寿命という限界をもっています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている、ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』と言います(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。神すなわち自然は外部をもたいないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。超自然的な奇跡などは存在しないということです。『神』という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの『神即自然』の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。このような神の概念は、意志をもって人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。もちろんこれはおかしな話です。神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはずだからです。しかし、そのような理屈が通用するはずがありません。教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力をもっていた時代において、スピノザの考え方は人々には受け入れがたいものでした。別の言い方をすれば、それは非常に先進的であったわけです。(中略)

最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus 」というスピノザの有名な概念です。あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向をもった力」と考えればよいでしょう。コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に非常に近いと言うことができます。(中略)

おのおのの物が自己の有〔引用者注:存在〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。(第三部定理七)

文中の「有」という訳語より、「存在」としたほうがわかりやすいかもしれません。ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物がもつコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質 essentia 」であるとスピノザが考えていることです。(中略)「本質」が「力」であるというスピノザの考え方(中略)

個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である〔……〕、言いかえればそれは〔……〕神は存在し・活動する能力をある一定の仕方で表現する物である。(第三部定理六証明)

(中略)「変状」という概念についてはすでに触れました。物が何らかの形態や性質を帯びることを変状と言います。ここにはそれに加えて、「属性」と「様態」という専門用語が使われています。この一節はスピノザにおける個物の地位、より詳しく言うと、神と個物の関係を説明したものです。

前章で、神は無限であり外部がない。したがって、私たちも含めた万物がその中にいるのだという話をしました。だからこそ神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。このことを説明するためには、神のもう一つの定義を紹介しなければなりません。神は自然であるだけでなく、『実体 substantia』とも呼ばれます。実体というのは哲学で古くから使われてきた言葉ですが、その意味するところは決して難しくはありません。実体とは実際に存在しているもののことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。私たちは神という実体の変状であるというのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えませんスピノザは水を例にしてこんな風に述べています。

水は水としては生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない。(第一部定理一五備考)

水は化学的には分解してしまうこともあるでしょうし、固体や気体にもなります。しかし、水へと変状していた実体が消え去るわけではありません。これは質量保存の法則にも似た科学的な考え方だと思います。(中略)

この個物が『様態』と呼ばれていることです。様態はラテン語で modus であり、英語で言うと mode です。なぜ個物がモードなのか。(中略)モードという言葉は、『仕方』とか『やり方』とか『様式』を意味します(中略)スピノザはつまり、私たち一人ひとりが『仕方』や『やり方』や『様式』だと言っているわけです。どういうことでしょうか。ポイントは変状にあります。私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状してさまざまなものになります。(中略)神は実にさまざまな仕方で存在できる。すると、私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式であると考えられます。そもそも自然は無限に多くの個物からなっているわけですから、神はそれら個物として存在している。個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです。この論点はさらに敷衍することができます。個物が、神が存在するにあたっての様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができます。(中略)個物が神の力を表現しているということは、自然の中で働いている、自然法則という力を表現しているということなのです。(中略)私たち一人ひとりを実体だと考えるならば、一人ひとりが名詞のような存在だということになるでしょう。これはアリストテレスデカルトなどの考え方に対応しています。ところが、スピノザの考えでは実体は神だけです。私たち一人ひとりは、神の存在の仕方を表現する様態でした。ならばこんな風に考えられます。ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人ひとりは神の存在の仕方を説明しているというわけです。(中略)確かにスピノザの言う様態は、神にとって副詞のようなものだと考えることができます。ただし、スピノザは様態を幻想のようなものと考えているわけではないことには注意しなければなりません。確かに様態は、神という実体の変状にすぎません。しかし、本章で見てきた通り、それぞれの様態は個物としての本質をもっています。神の変状であり、神の一部であるけれども、それぞれが神であるわけではないし、それは幻想でもない。それぞれの個物は本質をもつ。この繊細な論理構成にスピノザ哲学の妙味があると言ってもいいでしょう。もう一つ、『属性』という言葉にも説明が必要だと思います。この言葉は一般的には実体がもつ性質を意味します。スピノザの考える属性は、この一般的定義と矛盾するわけではないのですが、そこには独特の意味が込められています。(中略)神という実体が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在する(たとえば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。そして先に見た通り、そのそれぞれが神の力を表現している。「個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態」とはこの事態を意味しています。スピノザは精神が身体を操縦しているという考え方を何としてでも斥けようとしているわけです。(中略)

神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。(第一部定理一一)

神は精神に対応する思惟と物体に対応する延長の二つの属性だけでなく、無限に多くの属性から成っている。しかし、人間はその知性的限界故に、そのうちのたった二つしか知ることができない。>(~國分功一郎著『はじめてのスピノザ』〔講談社現代新書〕p35~87)

上記文中で著者が「神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはず」なのに、スピノザのように、つまり外部がないとか言わず、「神」の創造のわざはアウグスティヌス以来、その「外部」へのわざとされてきたし、裁きを下す神といった人間的・有限かつ相対的な存在として語っているのは「おかしな話」であると批判していますが、なぜ著者がそういうことを「おかしな話」だと感じるかということがまず問われるのであって、それは著者が「神」というものを理屈だけで認識しようとしているからです。「神」は直観的かつ直感的な対象です。その存在・働きについては知るというより感じるものなのです。だから信仰者が口にするのは、理屈としての「絶対(的)」とか「無限」ではなく、賛美としての「絶対(的)」であり「無限」なのです。神が「絶対」であるなら「無限」であり外部がないはずだ…といった形而上学的理屈は、まさに哲学的神学者小田垣雅也氏が好むような話であり、神は認識の対象にはできない存在ということになりますが、信仰の対象は理屈では認識できない、対象とはなし得ないものをなし得るものです。なぜなら信仰心は、その対象とはなし得ないところの対象である「神」から与えられる賜物だからです。だから國分氏のような理屈は、神から信仰心を得てはいない、言わば無神論者ならではの考えにほかなりません。このようなことは理屈としては、「絶対 → 無限 → 外部が無い → すべては神の中」というふうに筋は通るのでしょうが、信仰対象となる「神」というのは理屈で把握しきれるものではないのです。

< 神がもつ諸々の特性のうち主軸となっているのは自己原因である。ゆえに、確かに神には発生ということがありえないとはいえ、原因によって対象を定義する発生的定義の原則は神に対しても変わらず適用されていると言えるのだった。とはいえ、スピノザは神を直接に自己原因によって定義するわけではない。なぜならば、神が神であるのはそうした特性によってではないからである。神が神であるのはその「本質 essentia 」ゆえのことである。では神の本質とは何か。スピノザはそれに対し、「その〔神の〕存在はその本質に他ならない」という答えを与えている(第一部定理一一備考)。また次のようにも言われる。「神の存在とその本質とは同一である」(第一部定理二〇)。(中略)この定理は、神が存在しているという事実そのものが神の本質であると言っている。我々は本質というとその物の奥底にある何かを想像してしまう。しかし、神の本質は、神のうちに想定される<もの>ではなくて、神が存在しているという事実そのもの、無限に多くの属性からなる実体として存在しているという<こと>そのものである。だから、神の本質をその能力と同一視する定理、「神の能力は神の本質そのものである」(第一部定理三四)を読む際にも注意が必要である。ここに言う「能力 potentia 」とは発揮されるべく神の中で待機している潜勢力のようなものではない。神の能力とは、神を貫く法則にしたがって神が作用している<こと>そのものである。『エチカ』においては神の存在と能力と本質が等しい。神が自然と同一視される根拠の一つもここにあるだろう。スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行ったのではなくて、神が自然としてここに存在していることを描写しているのである。(中略)

神は無限である。では無限とはどういうことか。スピノザの言う無限は、どこまで行っても果てがないという意味での無限ではない。「果てがない」という否定的な表現によって説明される無限はしばしば「無際限」と呼ばれる(数学で言う可能無限をイメージするとよい)。それは人間的な視点から無限を捉えようとする時に現れる観念である。追いかけても追いかけても果てには届かない。このような無際限という意味での無限は、完成しない無限である。その結果として、無限の外側に、何か曰く言いがたいものが想定されてしまう。無際限は人間的視点が不可避的に抱え込む、到達できない外部を伴っている。それに対してスピノザの言う無限とは、言わば神の視点で捉えられた、完成している無限である。それは「完成している」という肯定的表現によって説明される(数学で言う実無限をイメージするとよい)。『エチカ』では、有限であるとはその存在の本性の部分的な否定であり、無限であるとはその絶対的肯定であると言われる(第一部定理八備考一)。つまり無限とは肯定であり、有限とは否定である。無際限の場合、有限を否定するものとして無限が捉えられている。つまり有限があり、そこからその否定としての無限が目指される(人間的視点)。それに対し、スピノザはまず無限を肯定した上で、そこからその否定としての有限を考えるのである(神の視点)。だからスピノザの無限には、無際限の場合のような外部が存在しない。(中略)神は無限であるとは、その外部が存在しないということ(中略)

神には外部がないのだから、自分以外のものから影響を受けることがない。時間的にもそのように言えるのであって、神は永遠であって、始まりも終わりもない(第一部定理一九)。外部からの影響が一切考えられないのだから、神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のものに左右されない(第一部定理一七)。(中略)したがって神が存在し、また作用する際の法則は不変である。そして無限なる神に外部がないのだから、この法則には例外がない(例外とは法則の外部である)。すべては神の法則、すなわち、自然の法則にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない。(中略)

すべて在るものが神のうちに在るとは、したがって、あらゆるものが神の一部であることを意味する。神こそは存在する唯一の「実体 substantia 」であり、様々な個物はその実体の「変状」として捉えられることになる。「変状 affectio 」とは何かが性質や形態を帯びることを言う。実体の一部が何らかの刺激を受けて変状し、個物が成立する。だから個物は生まれたり消えていったりするが、実体そのものは生まれることも消えることもない。(中略)実体の変状である個物のことを、スピノザは「様態 modus 」と呼ぶ。(中略)

存在する実体は神ただひとつだけであるが、神は実際には、常に既に変状して存在している。この自然ないし宇宙は、どこを取っても神の変状である。つまり神は無数の仕方、無数の様態で存在している万物はそのそれぞれが神の存在の仕方、つまり様態であって、だからその意味で個物は様態と呼ばれるのである。これは言い換えれば、あらゆる個物は、神がいったいどのような仕方で存在できるのかを、それぞれがそれぞれの仕方で説明しているということだ。(中略)神は草木のような仕方でも、鉱物のような仕方でも、惑星のような仕方でも、そしてもちろん人間のような仕方でも存在する力をもっている。一つひとつの個物は神が存在する仕方そのものである。だからそれぞれが神の力を説明しているわけだが、スピノザはこのことを指して、万物は神の力を「表現している exprimere 」とも述べている。(中略)

一般に、原因と結果は働きかけるものと働きかけられるものの関係として理解できる。そのように理解された時、原因と結果は二つの別の存在である。(中略)神は自分以外の何かに働きかけているわけではない。神という実体以外に何も存在しないのだから、確かに神は原因であるけれども、自分とは何か別の存在に働きかけることはできない。だとすると、万物の原因としての神を理解するにあたっては、一般的な因果性の概念は不適切だということになる。この一般的な因果性の概念をスピノザは「他動原因 causa transiens 」と呼び、神は万物の原因であるとは言っても、それは「他動原因」ではありえず、「内在原因 causa immanens 」として理解されねばならないと述べている(第一部定理一八。なお、causa transiens は畠中訳では「超越原因」となっているが、そこには特に「超越」の意味はなく、原因が結果を自らの外に生ずることを指しているだけであるから、英語で言う「他動詞 transitive verb 」に倣って、「他動原因」と訳すのがよいだろう)。(中略)内在原因はつまり、神というただひとつの実体しか認めないスピノザ存在論によって要請された因果性の概念であり、この概念の基礎となっているのが表現という考え方なのである。>(~國分功一郎著『スピノザ ―― 読む人の肖像』〔岩波新書〕p146~158)

前述のことの繰り返しになり恐縮ですが、スピノザの思想が「汎神論」にとどまって「汎在神論」まで至っていないのなら、「神即自然」は「神即人」とも解されかねないおそれを感じます。自分は、神道的要素は排除したいし、少しでも本質的に相対的な被造物(…特に人間)と接近し混同するおそれがあるような「神」には興味がなく、「神即自然」が真理だとしてもそれは聖書ではあくまでも終末において実現するとされており、終末では現世の対人関係などなくなっているので、単純な人間神化説に堕する危険性は無いが、現世では何の歯止めもないから、汎神論的な言説には十分、警戒しなければならないし、出来得る範囲で改善し修正しなければなりません。

「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。」スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

ここで言われている「絶対(的)」とか「無限」とかいった概念はことごとく信仰告白の賛美表現としての意味で用いられることになります。従って用いられている言葉が哲学用語であるにせよ、それらの概念によって規定されることはありません。例えば以下の、ユルゲン・モルトマン著、沖野政弘訳『創造における神 組織神学論叢2』(新教出版社)に書かれているような疑問に陥ること自体、「神」が信仰の対象から逸脱していることの証左でしょう。(太字は私記。)

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも「外」を持つのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限界となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。〉佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

ここでも「全能」とか「遍在」は、あくまで「神」の現実世界における主権を尊重し賛美する表現として用いられているのであって、客観的事実として「神」がそのような概念で規定される存在であるということでは全く無いのです。私などは、「神」という言葉を使うこと自体は嫌なので創造主とか絶対者とか無限実体とか言いますが、それって、無限大としてはすべての被造物を包み、無限小としてはすべての被造物に宿る…「汎在神論=万有在神論」の「神」であると信じ告白しています。「汎在神観想会」とでもいった会を作りたいとさえ思います(「汎在神信仰会」としない理由は、信仰というとどうしても人格主義的な印象を与えますが、確かに「神」の現世における「主権」とその「公正」な裁きなどのはたらき⦅…人間にとっての「公平」とか「正義」とか「愛」とは必ずしも被らない!⦆としての人格的な面は否定しないまでも擬人神観に陥りやすいところは削除したいので、敢えて人格主義的言語は避けるという主旨です)。だから、「全能と遍在の神が、そもそも『外』を持つのだろうか」?…などというモルトマンの疑問は、神信仰の実存においては、答えられるべき意味のない、どうでもよい問いなのです。肝心なこと、重要なことは、そのような賛美をもって信仰を告白している人間が現実に存在しているという事実であり、それ自体、信仰対象である「神」のはたらき(他力)によるとしか思えない…ということなのです。逆に、このはたらき(他力)がなくなれば、おのずと神信仰自体が失われ、上記の如き疑問さえも生じてこなくなるのです。それは虚無でしかありません。

契約の神…出エジプトの神は選民を試みるお方です。救いは決まっていないからこそ試みるのでしょう。それは救いが決まっている者への鍛錬とはまた意味が違います。自分の場合、救いは未決であると思うので、試みに遭わせられるだけでストレスによるメンタルの苦しみ…地獄的状況となります。自分にとっての救いは現在的なので、死後に神の民に入れてもらうといった共同体的救いに与るために現世で苦しめられることは御免こうむりたいわけです。自分にとって都合の良い神を想い描くことが自分にとっての信仰です。救済宗教は救われることが目的であって、既定路線の教義・信条を知情意で受け入れられないものを無理に盲信してまで受け入れるべきものではありません。フォイエルバッハの如き無信仰者が、「神」が人間を創造したのではなく人間が「神」を創造したのだ…と言うのは誤りとして一蹴しますが、人間は「神」を創造するのではないが「神信仰」は創造的な営みであって然りです。聖書はその創造行為の素材にすぎません。信仰は能動的かつ実存的であって然りです。そうであってこそ「霊、体、心」の全一的救いにつながるのです!救いが目的なのに苦しめられることには耐えられません。もちろん自分だけが現世利益を得たいということではありません。そうではなく信仰者は現世利益ではなく現世不利益・不運からなるべく避けられたいのです。それを利益とは言わないでしょう。べつにお金持ちにしてくれとか不死身にしてくれといったことではないんです。要は、不運に遭う頻度を少なくしてもらいたいのです。でも聖書の神は逆でしょう。選民だからこそ試練を与えます。救いに選ばれたことが決定している人も、その救いが死後に神の民とされることであるなら、いや、そんな救いよりも生きているうちに経験できる救いを優先してほしいと願うでしょう。死後にどんな素晴らしい恵みを受けるとしても、生きている間に苦しめられるのなら、そんな救いはいりません、それより生きているうちに味わう苦しみを軽減して下さい…と願う人の方が多いのではないでしょうか?

…ということで、最初に「聖定」信仰の捉え直しから書きます。聖書の三一神の(主権の)絶対性が最も明示されるのが「聖定」という教理ですが、その「聖定」、精神的に余裕があれば神義論的な私的問いなど突破して、成るように成る…聖書の三一神の定めに従って、いかに「不運」と感じられるような出来事に見舞われても受け入れてゆけると思っておりましたが、実際にはそうもいきません。特に台風です。今回はこれが自分の住む地域を直撃することになり、まあ、毎年のようなことでもあるので慣れてはいるとは言え、やはり確率的になぜこちらが、そしてよりによってなぜ自分が…という疑問というか怒りはつきまといます。何がイヤかと言えば、台風による直接的被害もさることながら、自分が周囲の人よりも台風被害に見舞われることになると、バカにしている人間を喜ばせる材料を与えてしまうということです。ふだんの人間関係におけるメンタルヘルス的事情によるのです。いちばんいけないのは自分の無用なというか過剰な自尊心でしょうが、特にことの年齢になるとほとんどの男性にはあることです。自分などはまだ理性で抑えられているとさえ思ってるくらいです。職場には6、7人もの人間がいて、台風来襲で直接の被害を受けるのは2人…すくなくとも6.5割以上の確率で無被害になれるというのに、いつもよりによって確率の低い反対の有被害の側になってしまう…しかも自分にとって「敵」である人間には大した被害はなく、自分に対してほくそ笑む顔が脳裏に浮かんでしまう…、そんな「不運」に対して感情を抑制し得るだけの精神的余裕はないのです。やはり偏り見る神でないと守護神のはたらきは信用できません。出エジプトの神は選民イスラエルを偏り見るがゆえにこそ妬む神であったのでは…?自分が被害側になればその分、他の人が被害を受けなくて済むから、そういう役とされてのこと…だなんて聖人気取りでもあるまいし、そんな思い上がった受けとめはできない…自分はそこまで強い信仰心は得ていません。「試練」と受けとめるにも限度があります。日常生活に起きるいろんな「不運」をすべて「試み」だと解するには心が貧しすぎるのです。特に台風来襲の時は自分が休日の後になることがよくあります。この休日の間に来て過ぎ去ればよかったのに…と歯がゆい思いになり休日もリラックスできません。休み明けに待ち受けている台風被害…という構図にはほんとに吐き気がします。せっかく2日もある休日がストレスで無駄になります。そんなことが毎年、夏に訪れるようなことでは、自分は「不運」を「試練」として受けとめる「聖定」信仰は維持できません。そういう感情抑制の信仰態度は疲れ果てるのです。自分の人生など死ぬ前に肯定できなくても当然。聖定ということ自体は聖書的真理として否定はできませんが、自分のその肯定できない人生こそが自分の場合の神の「聖定」なんだろうって感じです。それに「聖定」信仰と言っても結局、その主体である「神」についての考察を軽んじてはあり得ないことも歴然たる事実ですから、「聖定」信仰よりも「理神論」(deism)や「汎在神論」(Panentheism)の「神」信仰の方が現実的であり、その現実的という意味は神義論的問いに対応し得る…ということを含みます。

「苦しいときにどれほど神にすがっても救いの手がいっこうに差し伸べられないと、人間は『なぜ神は、自らの力で自分を助けてくれないのか?』『神の直接の関与は果たしてあるものなのか?』と疑問を抱くようになります。理神論は、そうした疑問に対する解答として考え出されたものです。理神論は、『神は法則として人間の前に現れる』『神の直接の関与はない』というスピリチュアリズムの神観に共通する一面を持っています。」従来の神観の整理 (spiritualism.jp)「神を法則として」と言っても、法則自体を「神」とみなすわけではありません。

シルバーバーチが『摂理(法則)』をあまりにも強調したことで、神とは法則そのものであるかのような誤解を生むことになってしまいました。しかし文字どおり『神は摂理(法則)であるああ』と受け止めるのは間違いです。シルバーバーチは、神と摂理を全く同じものと考えているわけではありません。これまでの人類の神観の根本的な間違いを正すために、あえて『神は法則です』と強調したのです。これまでの一方的なご利益信仰・神への願い事信仰を正すために、神と人間は直接的な関係を結ぶことはないこと、摂理を通してしか関係を持てないことを強調したのです。それが『神は法則です』という言葉となって示されたのです。言うまでもなく、摂理は神そのものではなく、神が造られた属性です。摂理は、神が宇宙・万物を支配するために自らの叡智によって造られたものなのです。」

スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

スピリチュアリズム普及会のサイトを見る限り神観は、私の場合、キリスト教などよりも共観できるところが多く感じられます。もちろん異なる点も多くあるので(例えば、「神に祈るかどうかは“救い”とは関係ありません。それどころか、神を信じるか信じないかということも“救い”とは直接関係してはいないのです。たとえ無神論者であっても利他愛を実践する人は『神の摂理(利他性の法則)』に一致し、霊的成長をして“救い”を得ることになります。それとは反対に、口では神を信じていると言いながら自己中心的な生き方をする人は『神の摂理(利他性の法則)』から逸脱し、カルマをつくって“救い”から遠ざかることになります。」ということ。『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「神観」 (spiritualism.jp) ・・・「祈り」(の定義にもよるが…)が「救い」の要件ではないということはわかるが、信じること…信仰(心)をも相対化している、それも倫理的行為のもとで、あってもなくても同じであるかのような言い方になっているのはヤコブ書2章の17~20節あたりを中心とした自力的な行為義認主義との誤解を招きやすい箇所の影響が察せられ、その一方でエペソ書2章の8~10節で示されている賜物としての信仰による行為という他力的なことが重視されていないと思われるところ。)、自分がこれに参加するようなことはあり得ません。そもそもスピリチュアリズムというもの自体、江原某氏のような胡散臭い人物が付きものであり、それを批判している普及会も同類であるとみなしています。自分は聖書以外のものを教典とするような団体は全く信用しないので、普及会についてはあくまでも神論的な部分だけを批判的に参考とするだけです(以下、引用。太字は私記)。印象としては、多神教よりは一神教、日本の神道よりはキリスト教の方に近いのかな…と。(;'∀')

<「一神教(一神論)」は、全世界に存在する神はただ一つであると信じる立場です。ユダヤ教キリスト教イスラム教がその代表です。スピリチュアリズムは、それらの宗教と同じく「唯一の神(大霊)」を崇拝の対象とします。背後霊や霊界でスピリチュアリズムの総指揮を執っているイエスに対してさえも、これを崇拝の対象としない徹底した「唯一神信仰」なのです。この意味で、多神教である神道スピリチュアリズムを安易に折衷しようとすることは明らかに間違っています。>従来の神観の整理 (spiritualism.jp)

<神に対する考え方――それが「神観」です。「神観」とは、神をどのような存在と見なすか、神をどのようにイメージするか、ということです。同じ「神」という言葉を用いていても、神に対する考え方や概念は、人によって、また宗教によって異なります。(中略)「神観」は、宗教(信仰)を形成するうえで最も重要な要素です。神観と宗教(信仰)はきわめて密接な関係にあり、神をどのような存在としてイメージするかによって、信仰の形態や祈りの内容が変わってきます。このように神に対する考え方は宗教の土台となる重要なものですが、現在に至るまで地上には明確な神観(神に対する考え方)は存在しませんでした。その結果、さまざまな宗教が乱立し、それぞれの考え方のもとで神への崇拝・信仰が行われてきました。(中略)エスは地球人類に画期的な神観を示しましたが、それから2千年後の現代に至って地上に登場したスピリチュアリズムによって、イエスの「神観」をさらに深めた、より画期的な「神観」が提示されることになりました。(中略)霊界通信によって地上にもたらされたスピリチュアリズムの「神観」は、まさに画期的なものでした。霊的知識を土台とした神観の形成に最も重要な役割を果たしたのが『シルバーバーチの霊訓』です。シルバーバーチは神を「大霊」と呼んでいます。「大霊」とは、神の超越性を強調した呼称です。スピリチュアリズムによって新たな神観がもたらされるまでの永い間、地上人は物質次元から「神」について解釈してきました。それは常に、人間の立場から神の姿を思い描いたものであったため、神観の中に物質的な要素が濃厚に含まれることになってしまいました。そうした物質次元の要素を取り除いて霊的観点から神の姿を示すために、シルバーバーチは神を「大霊」と呼んだのです。「大霊」という呼称には、それまでの神のイメージをはるかに超えた多くの霊的な意味が含まれています。(中略)この一節には、シルバーバーチが神を「大霊」と呼んでいる深い理由と、神の超越性を強調するシルバーバーチの「神観」がよく示されています。

神とは非人間的存在でありながら、同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性を持つことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性を持つ存在として顕現したことになります。ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰ひとり存在できません。神から切り離されるということがあり得ないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。」『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)p.108~109(中略)シルバーバーチの「神観」の内容は、次の5つの定義に整理することができます。①創造主としての神 ②大霊としての神 ③愛の始原としての神 ④究極の理想としての神 ⑤摂理(法則)としての神 

①~③の定義は、キリスト教の神観と共通していますが、それぞれの内容の深さはキリスト教とは次元が異なります。一つ一つの定義についてシルバーバーチが示す見解は、これまでのキリスト教の神観とは比べものにならないほど深遠なものになっています。『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした神観は、どの点をとっても画期的で、地球人類がこれまで信じてきた神観に大きな修正を迫るものです。その中でも特に重要なものが⑤の定義――「摂理(法則)としての神」です。(中略)シルバーバーチは「摂理の神」を説明する際に、しばしば「神とは摂理である」と述べています。シルバーバーチのこの言葉を文字通りに受け取ると「神」と「摂理」は同じものになり、神を創造主とする神観と食い違うことになってしまいます。創造主としての神は存在しないことになり、シャカが神の存在を不問に付し、法(真理)のみを真実在として自説を組み立てたのと同じ立場に立つことになります。もし神と摂理が同じであるなら、わざわざ「神(大霊)」という言葉を用いる必要はなく、シャカ仏教(原始仏教)のように「神(大霊)」を抜きにして「法(摂理)」から論を展開してもよいことになってしまいます。シルバーバーチの「神とは摂理である」という言葉は、これまで地球人類が「神の直接関与」を大前提としてきた神観の間違いを正すために、あえて強調したものです。言うまでもなくシルバーバーチは、「神(大霊)=創造神」としての立場に立っています。したがって、シルバーバーチの「神とは摂理である」との言葉を「神=摂理」と解釈することは間違いです。シルバーバーチは別のところで、大霊が摂理を創造したことを明言し、「神」と「摂理」は同じではないことを明らかにしています。>『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「神観」 (spiritualism.jp)

神観はよいのですが、肝心な教典が聖書ではなく、シルバーバーチ(…ネイティブ・アメリカンの男性ではないそうで、元の人物については謎とのこと)の霊訓となっていることが最大の問題です。聖書に加えて、そのようなものが準教典としてあるというならまだしも、聖書はほとんど顧みられていないのです。また、神観の分類に「汎在神論=万有在神論」が入っていない点は、この「普及会」における神論の狭さ…知識的限界を感じさせます。

スピリチュアリズムは明確な『創造神論』の立場であり、神と世界、神と人間との間に明確な一線を画しています。言うまでもなく“汎神論”を否定しています。」

従来の神観の整理 (spiritualism.jp)

スピリチュアリズムの神観のポイントが10個掲げられています。

< 1)神は「創造主」として、霊界と宇宙を造られた。私たち人間をはじめとする万物は神によって造られた 2)神は人間をはじめとする被造物を、自らに似せて創造された。そのため被造物は、神と同じ要素を有している 3)神は無形の存在であり、あらゆる区別・形式・概念を超越し、被造界・被造物に遍在している 4)神は人間にとって「霊的な親」である 5)神は私たち人間を愛してくれている。私たち人間と万物は、神によって愛されている 6)神は摂理(法則)を通して世界を支配している 7)神は人間・万物のすべてを完全に把握し、完全平等・完全公平に扱っている 8)神の完全性は、摂理(法則)の完璧性を通して知ることができる 9)人間は永遠の霊性進化の道をたどるが、それは終わりのない神への接近のプロセスである 10)人間は利他愛の実践を通して神を愛することになり、神により接近することになる >                    さらに次のように書かれています。

「神と私たち人間には、『造ったもの』と『造られたもの』という決定的な違いがあります。神と人間との間には、創造主と被造物という明確な一線が引かれています。先に述べたように、人間・万物を神の一部と見なす“汎神論”は間違いです。」スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

上記のとおり、普及会のサイトでは汎神論は明確に否定されているので、この会に代表されるスピリチュアリズムの立場では汎在神論が採用されていると思われます。実際に「シルバーバーチの霊訓(11)」では、汎在神論に該当するような言葉が記されています。

「ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性であり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在できません。神から切り離されるということはありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在するかぎりはすべてのものに宿っているのです。私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難の業です。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。」スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

また、キリスト教が「愛の宗教」といわれることに関する誤解も指摘されていて、正解と言えるかどうかはともかく、批判の動機としては、それはそれでよいと感じます。

キリスト教が説く『一方的に罪や過ちを許す愛の神』は、イエスの『愛なる神』を歪曲してでっち上げたニセの神観です。それは地上の人間が、自分たちの知性と都合によって勝手につくり上げた神観に他なりません。この『一方的な許しの神』という最悪の神観が、イエスによってもたらされた『愛の神』に取って代わってしまったのです。」時代とともに進化してきた神の概念 (spiritualism.jp)

シルバーバーチは、「愛の神」の概念に反するような見解を述べています。「私は自然法則について語っているだけです。私は父なる神などという言い方も致しません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。私は法則に目を向けます。私は宇宙の目的に目を向けます」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.123)と、まるで正反対の内容を述べています。この言葉は、従来の宗教(特にキリスト教)が、父なる神・愛の親神という概念のもとで、あまりにも神の摂理から懸け離れた自己中心的・人間中心的なご利益信仰に陥っている実情を批判するために語ったものです。間違った愛の神観を是正するために、「神の法則性・法則の神」を強調して厳しい言い方をしたのであり、決して「親なる神・愛の神」を否定したものではありません。>スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

< スピリチュアリズムの神観の最大の特徴は、「摂理(法則)の神」を強調するところにあります。「愛の神」と同時に「摂理の神」、すなわち神の摂理性を徹底して訴えます。時には「愛の神」以上に「摂理の神」を重要視します。それは地球上における従来のすべての宗教の欠点が、そこにあったからなのです。地球人類は「摂理(法則)の神」について理解していなかったために、間違った神信仰を延々と続けてきました。長い間、ずっと的外れな神信仰・無意味な信仰をしてきたのです。地球上における宗教の間違いは、この「摂理の神」に対する無知に起因します。そのため高級霊は神について論じるとき、必ず「神の摂理(法則)」について言及するのです。(中略)地球人類が神に近づくためには「神の摂理(法則)」を正しく理解し、摂理にそった生活を送るように努力していくことです。神に特別な配慮を願うのではなく、自分の方から神の造られた摂理に合わせていくべきなのです。そうした努力こそが、まさに「正しい信仰」なのです。スピリチュアリズムは、神に願い事をするのではなく、自分から神の摂理に一致していく、摂理に自らを従わせる努力をしていくことが正しい神信仰であることを明らかにしました。それこそが、人間が長い間求め続けてきた幸せに至る唯一の道なのです。これまで地球人類は、神を絶対的な権威者として崇拝し、神に願い事をすることが信仰であると錯覚してきました。今、スピリチュアリズムによって地球人類は、初めて本当の神信仰を知りました。神に願い事をしたり、一方的に神にすがるのではなく、神の絶対性を信じて人間の方から神の摂理に合わせていくことが「正しい信仰」であることを理解するようになりました。こうして人類史上、初めて真実の神信仰が始まることになったのです。*シルバーバーチの「摂理の神」についての誤解 シルバーバーチが「摂理(法則)」をあまりにも強調したことで、神とは法則そのものであるかのような誤解を生むことになってしまいました。しかし文字どおり「神は摂理(法則)である」と受け止めるのは間違いです。シルバーバーチは、神と摂理を全く同じものと考えているわけではありません。これまでの人類の神観の根本的な間違いを正すために、あえて「神は法則です」と強調したのです。これまでの一方的なご利益信仰・神への願い事信仰を正すために、神と人間は直接的な関係を結ぶことはないこと、摂理を通してしか関係を持てないことを強調したのです。それが「神は法則です」という言葉となって示されたのです。言うまでもなく、摂理は神そのものではなく、神が造られた属性です。摂理は、神が宇宙・万物を支配するために自らの叡智によって造られたものなのです。>スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント (spiritualism.jp)

普及会の最大の問題は教典です。

シルバーバーチが一番と言うと“シルバーバーチ教”と批判する人々がいますが、それは誤解です。『シルバーバーチが一番』ということの真意は、シルバーバーチの霊訓の内容が、スピリチュアリズム関連の多くの霊界通信の中で、霊的真理を最も広範かつ正確に示しているということなのです。私たちは、シルバーバーチという一人の高級霊を崇拝しているわけではありません。シルバーバーチを信仰対象とはしていません。私たちにとっての崇拝の対象は『神(大霊)』であり『神の摂理』です。」スピリチュアリズム普及会の紹介 (spiritualism.jp)と言いながらも、「私たちは現時点の地球上には、『シルバーバーチの霊訓』以上の真理は存在しないと考えています。」と言ってるのだから「シルバーバーチ教」との批判は、あなたがち誤解とまでは言えないのではないでしょうか?実際、サイトを見ればシルバーバーチの霊訓至上主義みたいな印象を受けます。シルバーバーチという人物およびその霊は崇拝対象ではないとしても、その霊訓の内容は福音派クリスチャンにとっての誤りなき神のことば的な信仰対象のレベルに達している感じがします。

ところで、キルケゴールの主体性を真理とする思想を神信仰にあてはめると、要は、自分に対する作用・はたらきが良ければ、その主体である「神」の性格も良いに決まっている…というのがより実践的な信仰であり合理的な考えのようでもありますが、自分の場合、その(「神」からの)はたらきが良いとは感じられないわけですから、そこで神信仰を維持しようとすれば、やはり「神」そのものを理神論とか汎在神論的に論じる必要が生じてきます。そうでなくても自分はイエス・キリストを「真に人」としてはもちろんのこと「真に神」としてであれ、人を愛するという意味で愛するということは難しいので(せいぜい親である御父を映す鏡としての尊敬にとどまる)、キリスト教の三一神への信仰を受け入れるためには、御父を中心としなければならない…御子従属説です。三一信仰自体は、ヘーゲル弁証法…生成し自発自展する絶対精神を「神」に応用した(神の)存在は生成においてある(~ユンゲル)といった「生ける神」という神観において必然的なので、その点では認めますが、聖書的という点では御子従属が前提とならなければ受け入れられません。御子従属といっても無論、アリウス系異端説のように被造物(=天使)御子説ではなく、あくまでも創造者側の御子説です(但しその場合、御父のみである創造主とは区別されてコロサイ1:16の「エン」〔~にあって〕と「ディア」〔~を介して〕に示されている媒介者としての役割)。

ウェストミンスター信仰基準および改革派神学は参考にはしますが、絶対化したり執着はしません。教派の如何に関わらず教会というものは、毎月、献金支出で生活費を削られることになるからです。献金が大半が牧師家族を養うための経費になるわけだし、どんな牧師の説教も聴く気にならないので…。自分はキリスト教という宗教自体から脱却する方向になりつつあります。個人的に信仰を持つことはあっても、もはや共同体主義的な信仰はあり得ません。確かに聖書の宗教は必然的に共同体主義的信仰となっています。信仰対象が創造主である「神」であるなら、自分だけが関係を持つわけがありません。対神関係は個人的な面だけではなく普遍的な面があり、主観的な面だけではなく客観的な面があるはずです。その普遍性や客観性が哲学の理屈で示され、その究極がスピノザの「神即自然」(Deus sive Natura)です。創造主は「能産的自然」(Natura naturans)と表現されます。そのような自然(世界、宇宙)を創造した「神」を信仰対象とするのだから、まったくの個人としての宗教ではないことは言うまでもありません。しかしそれは哲学的理屈の同意による客観性および共同性ということではおかしいのです。宗教的には哲学や科学とは独立した客観性・共同性があるわけで、それは神の賜物としての信仰に基づく以外にはないのです。そしてそれは理屈ではなく賛美なのです。絶対だから無限で外部が無い…などという理屈への同意としての客観性ではなく、「神」を「絶対(的)、無限、」さらには「永遠」といった形而上学的用語を賛美告白に使う信仰心での一致であり、それって組織・制度化の志向とは相容れません。

それにしてもキリスト教は本来、教会主義となるべき宗教だったのか?それともエクレシアとは「神」と個人信者との媒介的存在であって、それ自体に権威などを付与するものではなかったのではないか…?それが使徒信条では「聖なる公同の教会」という絶対的な宗教組織として信仰の対象になっています。教会はキリストの体として普遍的神秘体とされています。そういうのは終末以降の話としてはともかく、カトリシズムのようにすでに現世からの事柄としては、自分の信仰にはまったく合いません。教会組織にはいっさいの権威など認め得ません。聖書が教会がキリストの体であるというならそれはそれで認めるしかありませんが、べつにかまいません。そもそも自分は「キリスト」の体などに関心は無いからです。体に関心があるとすれば、それは「神」の体です。その「神」は終末において「すべてにおいてすべてとなる」わけで、それはつまり創造主の自己限定していた状態が解除されて元来の全一者に帰するということです。これは汎神論的な意味ではなく、全被造物が神の体になることを意味します。隔絶しつつ同一化する、超越しつつ内在するのです。

ところで、F・ニーチェは「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と言ったそうで、加藤諦三氏も「事実は直接人には影響を与えません。 事実はその人の解釈を通じて、その人に影響を与えます。」と述べておられます。 テレフォン人生相談 事実はその人の解釈を通じてのみ影響を与えます!加藤諦三&大原敬子! - YouTubeほんとうにそうだろうか?と考えてみると、やはりこれも「程度」を入れて考えないと現実からズレてくると思います。自分の子が反抗期だからか急に無口になってしまったという事実が問題ではなく、それに対する親である自分の感じ方、解釈が問題である…ということですが、両方にそれなりの問題があるのかも知れません。親が受け取り方を変えるだけで事態が改善させるのかどうなのか…?

無口ならよいですが暴言の場合には、身内であっても、解釈の余地なく客観的事実として心を傷つけるということはあると思います。悪意むき出しなんですから当然です。しかしそこまでハッキリしない動機による曖昧な振舞いもあろうかと思います。疑えば悪意であり暴言にもなり得るような言葉…。格言などに見られる上から目線で言い切り型の極端な思考…いわゆるゼロ百思考が認知の歪みにつながっているのでしょう。

対人関係におけるストレス苦は心臓に悪いと痛感します。自分心室性期外収縮なので、不快な言葉やそれを言った人の表情およびそのシチュエーションが脳内で自動的に思い出されるたびにドキっとするので、なおさらそう思います。対象者の不快な発言にその時うまく対応できなかった自分の低弱さへの怒りが自分自身の心を傷つける刃となるのです。自尊心の自分(自我)が、その自分に縛られている現実の自分(自己)を傷つけるのです。すなわち精神的被害は、他人の暴言とか不快発言だけが一方的に外から凶器として自分の心を刺すという場合だけではなく、その他人の言葉が、暴言とか誹謗中傷とはっきりわかるようなものではなく、言い訳次第ではなんとでも言える程度のものである場合の方が健康上、深刻なこともあり、そのような場合は、その言葉を悪意によるものとして解釈することが、直接的な被害をもたらすことになります。たしかに相手に悪意がなければ悪意があると解することはなく、ほとんどの場合、その動機的な面では主客一致です。主客が分かれてくるとしたら、動機としての悪意に加えてさらにいろんな思惑を想像する時でしょう。当たっている部分はかなりあるとは思いますが、被害妄想的な面も否定しきれるわけではありません。ただ、当たっていることの確信を得て、それがさらにショックになることがあるので、程度としては妄想より事実であると思う方が大きいのです。

これに対しては、現実の自分(自己)が、自尊心の偏主としての自分(自我)に従って、ことあるごとにいちいち反撃行動に出て争い続け、小さいながらも成功体験を積み重ねて自信を確立してゆくとか…、そうやっていちいちドキドキしながら言い返しては一喜一憂する心貧しき自分(自我自己=肉自)であり続けるか、または同じく心貧しき自分に変わりはなく、その自分を直視して、貧しきなりに心の中に散らばっているエゴ汚物の悪臭だけでも外に捨てて気分的には空(カラ)に近い状態…すなわち謙虚になって心を軽くしラクになるために、宗教的な意識変容を試み(…その具体的方法を試みるための行動は聖霊派系に行って自分なりに体験してはみたが…)、あるいは精神医学の関係で認知行動療法を自分なりに試したりして、他人の言葉に対する怒りなどのネガティブな感情を相対化する工夫をしてみる自分(…肉自よりは少しましな霊自)として生きるより、やはり自分には信仰的な解決の方向に進んでゆくより仕方がないと思えるのは、いちいち言い返したりしても一時的にはフックとかボディーブローが決まってポイントを少しは挽回できた感じにはなっても、そこで返された小出しのジャブがまた利いてきて再びフックを決めないといけなくなってキリがないし、へたすると妙なことを言ってしまったり不適切反応しちゃってオウンゴールというかカウンターをくらう危険もあるからです。だからある程度まで戻したら、あとはよほど致命的ダメージになるようなパンチを相手が出してこない以上は、あるいは出してきてももろにくらわないようにいなしかわしながら、とにかく打ち合いになるようなことは避けて、相手がなめるならなめてもいいといったゆとりを持った態度で進んで行く方が無難でしょう。最悪な事態は心身に病や障害が生じて生活に支障をきたすことです。経済的には医療保険があるので休職しても(有給も使えるなら)なんとかなるとは思いますが、夫婦の和が壊れるようなことがあってはいけません。たとえ自分が壊れても相手を壊さないように心していなければならないのです。現状から一歩引いて大局的に生活世界を見てゆくことが高齢になった人間には必要なことになります。特に自分たちの場合は実際問題として転居を志望する理由があり、どうせ高い費用をかけて人生最後の転居をするなら医療の面や教会のことも考えて都会の方が良いに決まっているので、それに向けて心を向けるなら収入を確実に得てゆくこと、すなわち職場で失敗を犯したり生活の中で損失を出さないようにすることを第一として集中しなければなりません。年をとって脳の使用力が落ちている以上、少々のストレス苦などより、生活経済の維持管理の方に意識を集中してゆかねばなりません。それは宗教的、信仰的なレベルでは、救いの確証を得るための聖霊信仰による解消(は現状の自分にとっては観念にとどまり行動にする余裕はないので、試みるだけ無駄なこと)を求める信仰より、人生の終末まで考慮したうえでの聖定信仰(によってすでに解決されていること)を生きていって然りだと思う、そんな自分(空自)に至りました。

つまり自分の場合は、メンタルが受けるダメージに対して対処療法的にその時々、聖霊信仰(体験)による自己治療を試みる志向より、長いスパンでこれからの生活の保守・維持管理などに心を向けて、あくまで聖定信仰により人生の終末の迎え方といった観点で考えながら進んでゆく方が、自分の人生全体を、時制を超えて大所高所から総合的に俯瞰するなら、そういうことになるだろう。八木誠一氏のいわれる「創造的空」は「神(のはたらき)」のことのようだけど、自分にとっては意味は違うだろうが、信仰ある自分の心の呼称として相応しい。単に空(カラ)っぽということではなく、創造主による意味を与えられての「空(カラ)」なのです。自分にとって創造主は被造物と隔絶した超絶存在であり、イエスが「アッバ」と呼んだおかたなのである。イエス自身は肉体を持って生きておられた以上、超絶者ではあり得ず、彼も自我無化(ケノーシス)して生きた「創造的空」であり、それが霊の親(=御父)である創造主の、「愛」という名の自己限定を映す鏡だったのです。自我自己である煩悩具足の我らは自我無化なんてできやしないし、御計画にあっては無理にするそんなことする必要はないのですが、自分の負うべき十字架としては、キリストの平和を願って少しでも近づける努力はすべきでしょう。

福音派的な聖書の読み方も、時には個人の問題で有効な場合があるらしい。今回は「万軍の主に届いている」と題されたメッセージがためになりました。https://www.youtube.com/watch?v=REQ6NySA4BM

「今週は、神の正義を心にとめて、平和な子で暮らす一週間というのはいかがでしょうか?皆さん、理不尽なことに遭うかも知れません。でも、怒りは神の義を実現しないんだと…、私たちの悔しい思いとか傷ついた思いというのはちゃんと神さまに届いてるんだということですね。でも皆さん、おっしゃるかも知れない…、私、神さまに裁きを委ねたんですけど、あの人になにも起こってません…とかね…、そういうことを思うかも知れない。そういう時はですね、自分が思うほど相手は悪くないのかも知れないのです。実は自分の方が悪いのかも知れないんです。私たちはですね、他人(ひと)を実際以上に悪く思う傾向があります。どちらにしても、神さまは正しく裁いておられるわけです。皆さんにひどいことをした人がですね、石につまずいて転んでばーって倒れたらですね、その人が悪かったと、神さまがちゃんとしてくれたんですよ。何も起こらなかったら、それほど悪くはなかった…どっちにせよ、正しい裁きは常になされるんだと、だから、私たちの怒りは常に神さまにゆだねて、平和な子で暮らす一週間でありたいと思います。」

・・・クリスチャンは怒りをもってはいけない、ましてや復讐心などはもってのほかである…みたいなことを説教でいくら言ったところでキレイゴトになるだけで問題の解決には寄与しません。罪ある人間としてマイナスの感情があることを認めたうえで、それをどう調節してゆけるかという可能性を信仰的観点から探るのが現実的なメッセージになります。

「すべて悩みは対人関係の悩みである」といった言葉、考えがあるようですが(~アドラー)、聖書的には「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(文語訳 ロマ12:19)というみ言葉は慰めの言葉ですね。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」(新改訳 同上)・・・上記引用の長澤牧師のメッセージにおける「私たちの怒りは常に神さまにゆだねて」ということは、直接的にはこの聖句に依拠していると思われますがいかがですか?パウロは言います、「わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。」(口語訳Ⅱコリ12:20)・・・新改訳では「私は心配をしています。そちらに行ってみると、あなたがたは私が期待したような人たちでなく、私もあなたがたが期待したような者でなかった、ということにならないでしょうか。争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、混乱がありはしないでしょうか。」と、口語訳の「怒り」が新改訳2017では「憤り」になっています。まあ、同じことですね。クリスチャンは、人として他人の言動に対して「怒り・憤り」を感じますが、それを自分自身で復讐行動に表わすのではなく、全能なる絶対主権者であられる三一の「神」にゆだねる…ということが、「対人関係の悩み」の最も有効で実際的な解決法であるということなんですね‼

ところで、対人関係のストレス問題は、経験から言って、客観面と主観面との両方を適切な比率によって見なければ実際的判断が出来ないと思います。前述の加藤諦三氏の「事実」と「解釈」のお話のように、客観面だけを見ると世の多くの気短な男たちのように感情をさらけ出し、実力行使によって解決しなければならなくなります。これではクリスチャンとしての「キリストの平和」主義的志向に逆行します。さりとて主観面ばかりに偏向しても相手との関係は続くので現実的な対応とは言えません。加藤諦三氏の言われることは「解釈」すなわち主観面の方に偏っていると思います。それは認知行動療法ではないでしょう。あくまで「行動」せずして認知(ものの見方)だけ変えようたって無理だからです。小さな成功体験を積み重ねるという「行動」による客観的変化があってこそ、精神的な余裕も生まれ自信も出て来て、それによって狭小的だった見方が少しづつ開かれてゆくのです。そのように余裕にもとづく認知の向上が聖書の教えとの接点を得られるようになるのです。逆に言えば、心に余裕なくして聖書のメッセージを落ち着いて読み取ることは困難です。読むということ自体が受け身であると同時に能動的な知的行為なので、それなりの精神的な余裕なしにはできません。ましてや聖書は…です。頭の中に悩みが場面として浮かんでくると、ドキっとして心臓に悪く不整脈の原因にもなりそうです。自分が若い頃に心室性期外収縮になったのは小心者という性格と無関係とは思えません。そして自己愛的な潔癖主義的なところがあり、頭の中がすっきりと片付いていないと安心して眠れないのです。つまり悩みの断片が頭の中・心の中にちらかっている状態では落ち着かないのです。その断片のひとつひとつが走馬灯のように自動的に思い巡らされて、特に不快な場面が来るとドキンとするのです。自分がその断片ごとに相手がこう思ったんだろう…と悔しがるほどに相手がその場面を思い出して悦に浸っているかどうかはわかりません。自分が思う程には気にしていないかも知れないし、自分が推察する内容とは違う意味でほくそ笑んでいるのかも知れないし、あまり気にしていないかも知れません。あるいは、自分がこれは相手はあまり気にしてないだろう…と思っていることを気にしているかもしれないわけで、主客の一致の度合いは測り難いのです。したがってそうした不快な記憶の断片が頭の中にちらばっている状態であっても、ちらかった部屋に住んでいて平気な人のように、慣れて平気でいられる逞しさを持つしかないのです。そのためにも信仰の力が必要です。いわゆる「ドルト信仰基準」の5点の頭文字を集めて「チューリップ」(1.「全的腐敗」〔Total depravity〕、2.「無条件的選び」〔Unconditional election〕、3.「限定的贖罪」〔Limited atonement〕、4.「不可抗的恩恵」〔Irresistible grace〕、5.「聖徒の堅忍」〔Perseverance of the saints〕)と呼ばれる、最後の「聖徒の堅忍」も、「堅忍」できる「聖徒」とは「神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々」ということです。その反対は「み言葉の宣教で召され、みたまの一般的な活動に浴しても、真実にはキリストにこない」人々だと言われています(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』〔新教出版社〕p178~179)。

自分がどっちであるか判断できるならよいのですが、それは無理ってことです。予知にもとづく条件的選びを主張するアルミニアンの場合なら、現時点で自分がどちらに属するか判明してもそれが死ぬまで変わらないと保証はないわけです。どっちの方が人間にとって都合がよいのかはどうでもよいことだというのが改革派の立場でしょう。しかし現実の倫理的な問題の解決のためには、そのような高尚なる教義では無効であり、もっと実践的な知恵が必要になります。凡人であっても信心のみによって「堅忍」する術を身につけられなければなりません。救いに選ばれているか否かが不明である以上、対象は聖徒だけではなく、福音的精神においては、現時点で父・子・聖霊の三一神を信仰するすべての人であって然りなのです。

「カルヴィニストは真の信仰者の堅忍の確実性と無謬性は、父、み子、聖霊なる三位一体の神の首尾一貫した主権的な救いのみわざにその根拠を持っていることを確信し(中略)恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ないことを主張します。」(前掲書p181)

「真の信仰者は、信仰と悔改めの生活に励み、聖化の戦いを戦い続けて遂に勝利する(中略)のは、不確かな人間の意志にではなく、神の主権的恩寵によってです。ドルト信仰規準は聖徒の堅忍という言葉と共に保持という言葉を用いています。(中略)聖徒が信仰と聖潔の道を歩み続けることなしに救いはありません。神が信仰者を力強く恵み深く保持したまわなければ、聖徒の堅忍はありません。ですからベルコフやヘルマン・カイパーなどは聖徒の堅忍というよりは、神の恵みのみわざの主権的な首尾一貫した貫徹という面からむしろ「保持」とした方がよいとさえ言っています。一つの考え方でしょう。わたしとしては、むしろ両者の密接不可分性を強調した方がよいと思います。」(同、p183)

まさに絶対他力の考えなので、上記のようなことになります。「不確かな人間の意志にではなく、神の主権的恩寵によって」とはそういう発想です。だからこそ根拠は常に神の客観性に置かれます。自由主義神学聖霊派が批判されるのは、「絶対依存の感情」というように、あるいは体験主義のように、根拠を人間の主観の側に置く傾向があるからでしょう。改革派的思考では、教理の根拠を信徒の主観に置かず、あくまでも神論的な客観性に置こうとします。バルト神学も客観主義と言われています。もちろん客観性と言ってもそれはあくまでもキリスト教内でのことであって、一般的には通用し得ません。救いの根拠という点では実存論的神学においても神の側の客観性に置かれているとは思うし、自分も従属的理解においてであるなら三一神信仰を告白するのです(神の「自己限定」による「従属→同等」)。たしかにイエスは肉体を持った以上は有限・相対なる人間なので、絶対超越者という意味の「神」とは認め得ませんが、その「御子」という従属的立場として神性を有することは認め得るし、啓示という点ではやはりそのような媒介的存在が必要ではあります。だから真の意味での「神」は御父のみであるが、その御父との関係を結び、その関係を生き得るためには御子と御霊の2者が論理的に要請されてくるのです。御子はあくまで御父を映す鏡であり、昇天後は人性よりも神性に重きが置かれて、イエスではなくキリストとか御子と呼ばれて然りです。

それにしても改革派教理で、救いの予定の如何にかかわらず人生論的に使え得るのは「予定」および「聖定」だけです。自分で救いに定められていると信じ込めばよいのだから…。それにしても救いの確証を得ての精神的余裕で愛をもって生きる…という展開には、神学的客観主義ではなりません。だって信仰論的には、「確証」というその「確かさ」は「確信」と同じことであって自分自身の内に住んでおられる聖霊のはたらきによって実現されるとしか言えないからです。

「ドルト信仰規準では第五の教理『聖徒の堅忍について』の章は、第一条から第八条までは聖徒の堅忍について、第九条以下で、恵みと救いの確信について教えていて、この二つの真理が密接不可分に教えられ、学ばれ、信ぜられなければならないことが分かります。ドルトの教えとウェストミンスター信仰告白の教えとはこの点まったく同一です。(中略)聖化の未完成、罪の残存からくる自分の弱さ、世の誘惑、悪魔の攻撃にさらされているわたしたちは、しかもなお真の信仰を持っているならば決して恵みの状態から落ちることはないばかりか、恵みと救いの確信を与えられるのです。(中略)キリストを信ずる信仰を木にたとえれば、自分が救われているという確信は実です。この順序を取り違えてはなりません。信仰には、人により、また同じ人であっても時により、程度に強弱の相違があります。しかし、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストは、必ずわたしたちに勝利を与え、また、わたしたちの信仰を全き確信に至るまで成長させて下さるのです。神学では、前者を信仰の確信(ヘブル一〇・二二、コロサイ二・二)、後者の自分が救われているという確信の方を希望の確信(ヘブル六・一一、一二)ということがあります(中略)救拯的信仰が、正しく導かれ、育てられ、キリストの恵みによって全き確信にまで成長して行くとき、第一八章で教えられているように、自分の恵みち救いについての無謬の確信がわたしたちの心の中に与えられるのです。(中略)他のさまざまの救いの祝福と無関係にではなく、共に与えられることを強調しています。ですから他の恵みと切り離して、この救いの確信だけを求めても駄目だということが分かりますね。」(前掲書p186~188)

・・・結局、すべて神さまの御意志如何であり、人間の側でいろいろ考えてやってみたところで、出来ないことは出来ないのです。心機一転、教会生活に打ち込もうとか聖なる生活に転じようなどと思い立って威勢よく始めてみたところが、そもそも無理なので早々に失速して挫折した経験があるので、ましてや高齢になって繰り返す愚は避けます。聖定信仰で、成るように成るといった気楽な思いで、すべて神におゆだねして生きる…その中でやる気にさせられたことは自主的にやるのだから、主体性や能動性を捨てることではない…とは言え、教会生活なしには救われない…といった外的要素もあるのでしょうから、結局、形として敬虔なるクリスチャンみたいなイメージの生活態度に現れてこない人は救われないってことです。つまり救われるという確証は客観的に成り立たないが(⇒いくら教会生活に熱心だからといって救われるとは限らない)、救われないという確証は客観的に成り立ち得る(⇒すくなくとも教会生活ができていない者がそのままで救われることはない)ってことです。

ということで自分の現状はおそらく死ぬまで大した改善はないのでしょうから、こんな状態でも救われるという福音を聞きたいわけです。それが改革派では無理…キリスト教では無理…ということなら、浄土真宗ではどうか…?ということになりますが、仮に真宗では可とされるとしても、信仰対象が聖書の三一神ではないということのゆえに、これは見送らなければなりません。なぜなら絶対他力の救いだからこそ、最終的な根拠は「神」の側にあるのだからです。その「神」が聖書以外によって物語られる(「仏」を含む)偶像である以上、相対の絶対化という愚を犯すことになります。法蔵菩薩は元は比丘という人間にすぎません。それが修行によって阿弥陀仏になったとしても、それはけっして絶対かつ超越なる者とは言えないのです。イエスも人間ではありますが、神性を持つということで、いわゆる「神が人間になった」という受肉の教説は「神の子が人間になった」というふうに小田切信男氏のような解し方をしたところで、神性を有つ者が肉体を持ったということに変わりはないので、やはり神性者にはある種の序列をつけて解するしかありません。ヨハネ福音書17:3にあるとおり、「唯一の、まことの神でいますあなた」すなわち御父が最上位の「神(の中の神)」なのです。しかしそれを「同等」としているのが御父の「自己限定」ということで、聖書の神論はこの「神の自己限定」ということなしに論じても表面的理解にとどまります。

結局、自分のような者はキリスト教にとどまりながらも救いを望めない状況に生き続け、そしてそう長くない先に絶望的な死を迎えるわけです。

「肉体の死によって、からだを離れた霊魂は無意識な睡眠状態に陥るのでもなく、また消滅してしまうのでもありません。天国に行った信仰者の魂にしても、地獄に行った不信仰者の魂にしても、この世における以上のはっきりした意識を持ち続けるわけです。しかし信仰告白がはっきり語っているように、その意識の内容がまったく両者で異なるわけですね。『義人の霊魂は……光と栄光のうちに神のみ顔を見る』のに対して、『悪人の霊魂は……そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける』のです。」(前掲書p303)・・・「聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない」(前掲書p303)・・・「苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける」なんておそろしいですね。ただ「苦悩」と言っても生前のそれと根本的に異なるのは、生前はまだ「死」を経験してないので、死の恐怖に伴う苦悩が含まれますが、死後は永遠の恐怖ということになります。無限に苦しみ続けるということです。

「悪人たちは審判の日に、自分たちが不公平にとり扱われると感じるだろうか。—— 決して感じない。彼らが神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていないとしても、彼らは自分の良心をもって、神がその正義にしたがって、自分たちを厳密にとり扱って下さったことを知るのである。審判の日には、神の完全な正義が最終的に、すべての被造物の前に確立される。そして、すべてのものが神が義しいと告白するのである。神は不正だと神を非難しつつ、自分の生涯を送った人々も、自分の心の中で、神は義しいということと、自分たちが悪いということとを認識するにいたるのである。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版局〕p345~346)「神はきわめて善い方であり愛に富む方であるから、悪人を永遠に罰することはされないという考え方はどうか。―― あやまった考え方である。神の善と愛について私たちが知る道は、ただ聖書からだけである。その聖書は『神は愛である』と教えると共に、又、『神は焼きつくす火である』(ヘブル一二29)とも教えている。聖書の多くの教えの中から、あるものだけを選んでとりだすことはまちがっている。(中略)私たちが神の愛について、聖書が教えることを受け入れるのならば、又聖書が神の義と罪に対する神の怒りについて教えていることも、受け入れねばならない(ローマ一18)。」(前掲書p347~348)・・・そもそも「神の愛」の「愛」と訳された「アハバー/アガペー」を、人間の一般的な愛情と混同してはならないし、そもそも日本語としては「愛」と訳すことがベストだったかどうかもわからない。不適切な訳語だったからこそ、「愛に富む方であるから、悪人を永遠に罰することはされない」などという誤解が生じるのではないでしょうか?

改革派信仰において死後には天国か地獄かしかありません。「シェオール/ハデス」(陰府)も「ゲヘナ」(地獄)としてしか存在しないのです。

とにかく、理屈では確率50%とは言え、今の自分のままでは「善人」であるよりはるかに「悪人」の方であって、死後は最後の審判の結果、「天国」ではなく「地獄」に堕ちて永遠に苦しまなければならないであろうことは覚悟しておかなければならない。実際にはその確率の方が高い。但し、自分は悪人の中でも少しはマシな方だろうと思うのは、さすがに「神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていない」(前掲書p345)ということはない、それほどはひどくなくて、「愛」と言えるかどうかはともかく、神を畏れよと言われるように畏敬の念は信仰心において持っているからだ。主イエスに対しても、ヨハネ福音書における御父に対する従属的関係においては、自分たち信徒に対して「信仰の導き手であり、またその完成者である」(ヘブル12:2)と思えます。そして現時点で私にとっての最大の救いは、生前から死後状態を先取りするかたちにはなりますが、宇宙・世界の絶対主権者にして自分の人生の主権者でもある父・子・聖霊の三一神に対しては、「愛」と言えるかどうかは定かではないが、信仰心は得ており、その対象である「神」の聖定によって自分の人生が…これから死を迎え、その先に行く、そこでの状態が決められているということです。聖書が示す三一神…特に霊魂の父(ヘブル12:9~10)によって聖定されたことである以上、死後がいかなる状態になっても受け入れ得るということです。救いに選ばれている者もいない者もすべての人間およびすべての被造物が、この三一神によって永遠に聖定されているのです。

 

 

 

 

 

創造的空(超「意味ー無意味」)と世界の現実(戦争と平和)と「倫理と理論と直観」

世界宗教について、一般的には一神教は好戦的であり多神教は平和的であるかの如く云われますね。私はそこに多くの誤解や誤謬が混じっていると思っているのですが、それはともかく。ところで、チャンネル桜【討論】戦後日本と宗教[桜R5/12/20] (youtube.com)の中で、乙骨正生氏が言われた宗教の多元主義的なあり方というのは、世界史の現実が自分で言っておられるとおり、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のバチカンにおける祈りとか決め事とは違う結果になっているとおりで、「神」の御意は成るべくして成るわけで、人間が自発的に何を言い、何を行おうとも、それが神の定めに一致していない限り実現しないのです。いくらその場で乙骨氏が感動したかしれないけど興奮気味に言ったところで、成るべきことでないから成ってないわけ。きれいごとの観念論なんですよ、そこで乙骨氏が言ったことは…(上記の動画の2:00:00あたりからどうぞ)。

それを受けて富岡幸一郎氏は人権ではなく神権ということを強調したのはかろうじてクリスチャンを自称なさる立場を示しましたが、それでも宗教多元主義が必要だと言われたのはどうかなと思います。私見では、宗教多元主義は宗教の共生の前提とは言えません。それは、八木誠一氏や小田垣雅也氏なども批判しているとおりです。宗教多元主義というのは、必ずしも宗教の主旨に沿うあり方とは言えないからです。

小田垣氏の宗教多元主義への厳しい批判は、『コミュニケーションと宗教』(創文社)などに書かれています。特に「架空の高みに立って」云々などは我が意を得たりといった感じがします。(参考書評)_pdf (jst.go.jp)

また、上祐氏の発言にも誤りがあって、キリスト教善悪二元論の宗教であるかの如く言っておられますが、キリスト教は聖書のとおり創造主一元論です。サタンはヨブ記にあるとおり創造主の配下に位置付けられ、けっして対抗者たり得ないのです。また、「汎神論」的な宗教思想を好評価している点にも疑問を感じました。

私は世界平和に関しては、汎神論とか宗教多元主義の類とは異なる思想的立場に注目します。なぜなら私は、真の意味において「絶対」なる「神」は「創造的空」とでも呼ぶしかしようのない非対象というか超「対象ー非対象」の何かであり、それは自己限定において世界の現実に非戦平和を求める人間を然らしめて、矛盾した言い方ではありますがその理想型として具現していると思うからです。そこで、けっして宗教多元主義的立場ではなく、そんな単純な発想ではない宗教的実存の実例として、いわゆるバルティアンの関田寛雄という牧師の意見を引用しておきたいと思います。

「それぞれの文化・民族においてさまざまな宗教があるわけですが、一番の問題は自分の宗教をドグマティックに絶対化している。これが宗教の破綻であろうと思います。人類が新しい統合のシンボルを求めていくとすれば、まず原理主義から脱却しなければならない。キリスト教原理主義も、イスラム原理主義も悪魔化しています。およそ宗教というものが成熟していくならば、自分自身の特殊な信仰対象に真実に従うということを一貫しながら同時に他の宗教形態に対する寛容性をもつはずです。それは決して他の宗教に対する妥協ではありません。むしろ自分自身が信じている宗教の普遍性に目覚めればこそ、他の宗教に対して開かれていくという、そこにヤハウエという神の持つ非常に大きな意味があるのだと思います。わたしたちはイエスキリストに対する信仰を毫もゆるがせにすることはできません。しかし同時に本当にまじめに人権と、平和と、共に生きる社会を求めている諸宗教に対して、心を開き協力の手をさし伸ばすこと、そして自分自身の信じる信仰の一貫性を貫くと同時に他の宗教に寛容であること、それが自分自身の信仰の徹底のゆえにうまれてくる普遍性だと思います。そういうものを持たせてくれるのが、実は『ヤハウエ』というシンボルで言われていることではないか。」

聖書研究 – 全国キリスト教学校人権教育研究協議会

要するに、特殊に徹底することにおいて普遍的真理に到達する…といった弁証法的思想です。これも観念的思弁と言えば言えなくもないわけで、上記の動画の中で『宗教問題』編集長の小川寛大氏が指摘しておられるとおり、日本基督教団に代表される日本のプロテスタントキリスト教は「どっぷり戦後民主主義」であり、じつに日基教団がいちいち出している「声明」などを見ると、それでも宗教団体かと言いたくなるほど政治的関心が強すぎるわけです。いわゆる社会派と呼ばれる牧師たちがいて、関田氏もその一人でした。教団はその一方で霊魂救済への関心が弱いのではないかと疑いたくもなります。特にバルト神学の影響もあって、イエス・キリスト中心主義が度過ぎていて、青野太潮氏がパウロ神学を取り上げて指摘しておられる神中心主義的思想が後退しています。

「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)

また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christ-centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書p255256

「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263

宗教の主旨に沿ってなおかつ共生に開いてゆくあり方は、旧約のイスラエルにおける神信仰である拝一神教です。言わば相対的絶対主義です。下記を参照されたし。

<「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、拝一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教的だからである >(山我哲雄著『一神教の起源』筑摩書房p271~276)

ついでに関連すると思われる議論を引用しておきます。

「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)

この高柳氏の考えは詭弁のようにも思われます。「絶対」と「他者」とは論理的に結びつかないというわけです。しかし、だからと言ってなぜ「神」が「自己」の中のはたらきだということになるのでしょうか?飛躍としか言えません。対を絶するということは比べものが無いということであり、対象化できないということ…「空」とでも言うしかないってことなんです。

量義治氏の『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)では「絶対者」は認めるが三様に分け、「仏教の空は無的絶対者である。それに対して、アッラーは有的絶対者である。キリスト教の三位一体の神は単なる有的絶対者ではないであろう。」(p29)ということで、じゃあなんなの?と言えば、「絶対有にして絶対無」(p232他)とのこと。その根拠として挙げられているのが「ペリコレーシス」(相互相入説)です。これが三一神論では大いにクセモノです。

量氏は、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(p190)と述べ、さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(p292、293)と述べています。理屈としてはいかにもバランスがとれていそうですが、信仰を生きる実際の体験的事実に照らせばやはり観念的であることは否めません。量氏の思想には滝沢氏の言うところの「神と人との不可分・不可同・不可逆」における「不可逆」が弱いので、「絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもある」(p292)と言う場合に、「超越」が「内在」に先行しなければ聖書的ではないのに、その「不可逆」を言えないわけです。但し、直観レベルでは傾聴に値するところは多大です。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(p236)                                        そもそも量氏の神観ってどんなんだろう…と思って見てみますと、引用が前後して恐縮ですが次のように書いてありました。                                        「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(p108~109) 

私見では、「自我の内に吸収され解消される」といった神観は、日本人にありがちだと思われます。遠藤周作氏などもその一人でしょう。

量氏の前掲書の文言の引用に戻ります。

「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調おられます。そしてさらに、「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」と指摘しておられますが( p292~293)、この点、量氏は神論においては西田幾多郎氏はもちろん西谷啓治氏やその影響を受けた小田垣雅也氏など「有」より「無」に偏向した立場を超えていると思います。但し神学的には、三位一体論を「絶対有即絶対無」と解してクリアーできるかどうかは疑問です(p231~235参照)。

ところで、前記の高柳氏の考えは八木誠一氏や小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

前記のように、高柳氏の場合は次の引用文にみられるとおり、「唯一」が存在論的な意味ではなく関係論的意味だとするのと同様、先行する関心が常に民主的価値観であるから、「絶対」が「他者」と結びつかず、人間が絶対化される愚に陥っている。

「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師前掲文)

私見では遠藤周作氏の弱者イエスの宗教ほど不気味で無用な宗教はありません。そのような宗教こそアヘンとでも何とでも言って敬遠されて然りかと存じます。下記の動画で言われている「神の存在を信じていると、自分の行動を律するようになり、結果的に、他者からの評価が高くなる」…「神という見えない存在を意識した場合、まるで、自分が悪い事をしていないか、大きな存在に監視されているかのような錯覚を覚え、悪事を働く可能性が低くなる。」…「聖書などでは、我慢や自制、謙虚さなどを良いものとしている点も重要」…「これらは、他人の評価を上げるために必要なもの」…「そのため聖書の教えなどが長期間にわたって残り続けているのは、その内容が美徳だから語り継がれてきたわけではなく、自らの地位を守るために必要な、実用的な教えだったからと考える科学者もいる。つまり、信仰心を持っている人ほど、自らの行動を律するようになり、悪評が立つリスクが低くなると言える。これにより、結果的に仲間内での地位が高くなり、子孫を残せる確率が高くなった」といった単純極まりなき、信仰効果論もあるわけですが、すくなくとも「神について考えることは、自分が誰かに見られているという意識を高めるから、模範的な行動をとるようになる」なぜ人は神を信じるのか?【ゆっくり解説】 (youtube.com)

などということは頭の中での話であって、現実には必ずしもそうはなりません。「実用的」というなら、聖書から信仰の倫理・道徳的な面だけを抜き抱してきてもダメです。聖書の信仰については全体的にとらえなきゃ…。なぜなら、聖書における信仰主体は生身の人間なのだから、他にも性的なことや内面的なことなどいろんな悩み苦しみを抱えており、それによって信仰的行動が阻害されるということも往々にしてあり得るからです。例えば、職場の人間関係にストレスの苦悩を抱えている者が、神信仰を持っているとしても、その信仰によって本人がとるべき行為は、倫理・道徳的に模範的な行動である前に、その行動のエネルギーを促進するための心の状態を、より軽くして能動的にすることです。自分の場合であれば、自分が囚われている悩みから自分を解放するための神学的な認知行動療法です。それって要するに、絶対神信仰にもとづく苦悩主体である自我の相対化ないしはケノーシス(無化)にほかなりません。

「己を空しうし」(ピリピ2:7)に由来するイエスの生き様です。これは自尊心を棄てるということではなく、人間に先天的に備わっている自尊心は保持しつつも、信仰によって承認欲求を制限して用いてゆくということでせう。日本では稀有の女性宗教哲学者として知られる花岡(別名:川村)永子先生の言葉も引用致します。                                       

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。フィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

だから、個人と社会(共同体)とは区別はできるが対立的に論じることは無意味です。なぜならすくなくとも宗教的には、社会的(共同体的)な平和は、諸個人の内面的な平和(平安)抜きにしてはあり得ないからです。ところが宗教団体が政治に首を突っ込んで論じている時の意識では、個人と社会とが対立的構図に陥っているわけ。愚かなり、愚かなりです。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治氏前掲書 p292~293)

絶対有と絶対無との対立をも超えた「神」は「空」…否、単なる「空」ではなく「創造的空」としか呼びようもない。人格ー非人格を超えているだけではなく、意味ー無意味を超えているがゆえに、キリスト教神論の如く、川島隆一牧師の言われる「同情的イエス」の如き偽善的な左翼センチメンタリストたちの私的イエス像に蹂躙された偽神学によって浸食されるおそれもない。

 

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(諸雑記)

スピノザは『神あるいは自然』と言う。それは人類を世界の外から見守っている創造と審判の神ではない。『エチカ』によれば、われわれのいるこの世界がそっくり『神』であって、銀河も地球も人間も石ころも、みなこの『神あるいは自然』の具現である。どこまでいってもその外がない現実、それをスピノザは神だと言っているのである。自然という名の神には目的も何もない、ただ自分自身の必然性から存在し一切を生み出しているだけだ。こんなミもフタもない考えは、もう異端を通り越して唯物論無神論のように思える。(中略)そんなスピノザが書くのだから、『神学・政治論』は当然、攻撃的な無神論だと思うではないか。(中略)ところが、である。実際に読んでいくと、なんだか様子が変なのである。スピノザは、聖書は真理など教えてはいない。ただ服従を教えているだけだと断言する。(中略)だからこそ聖書は神聖であって、私は聖書の権威を台無しにするあらゆる試みから『神の言葉』を守るつもりだ。そんなことを言う。いや、少なくともそう言っているふうに見える。読んでいくと変なところはいっぱいある。たとえば聖書の預言者はまったく無知だったがそれでも十分信じるに値する、とか、七箇条からなる『普遍的信仰の教義』(?)なるものをわざわざ書き出して、これは真理である必要はないけれど万人が受け入れる義務がある、などと言っている。国家と宗教にしても、その結託を批判するどころか、国家は不敬虔な者を断固処罰する権限を持つ、などと言っている。つまり、どういうわけか無神論』と目される哲学者が聖書の権威を擁護しようとしているように見える。それもなんだか奇妙な仕方で。何だろう、これは?そんなの無神論の計算された戦略さ、と言うのは簡単である。実際、高名な政治学レオ・シュトラウスの偽装説にならってそんなふうに言う研究者は少なくない。考えてもみよ、当時は教会に行かないというだけで白眼視される時代である。無神論は迫害にそなえ偽装しなければならない。用心ゆえのカモフラージュかもしれないし、一般読者への配慮かもしれないが、いずれにせよ本心は別なところ、恐るべき無神論の伝播にある、読者よウラを悟れ、というわけだ。『神学・政治論』という本はあちこちで一見矛盾したことを言っているように見えるので、そう読まれてしまうのも無理はない。あとで見るように、当時の読者もたいていそう受け取った。うわべは敬虔を擁護するようなことを言いながら、こいつは密かに無神論を説こうとしているのだと。しかし、そうだろうか。どうも私は、そんなふうに片づけるとスピノザもとても大事な部分を見落とす気がする。ひょっとすると、スピノザの一見奇妙な議論は、案外ストレートで真剣なものかもしれない。(中略)いずれにせよ『神学・政治論』は無神論の常識を裏切る。だから得体が知れない。しかしそれは、この書物がわれわれの知らない未知の可能性を秘めているということではないか。」(上野修著『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』〔NHK出版〕p8~13)

ここで上野氏が「変」だとか「矛盾」だとか言っておられる原因として、上野氏を含むスピノザ研究者たちがスピノザに対して無神論者的な固定観念をもって臨んでいることがあるのではないでしょうか?スピノザユダヤ教の環境に生まれ育った人であり、宗教的影響は外部の人間の想像を超えるものだったでしょう。いかに異端的な言説を唱えてユダヤ教社会から追放されたとしても、スピノザの中にはユダヤ教の神信仰の核になるようなものは残存していた…むしろ異端として先鋭化されていったのかも知れません。だから「普遍的信仰の教義」といわれる7つの信条も、「真理である必要はないけれど万人が受け入れる義務がある」と言ったのは、すくなくともスピノザ自身、聖書が教えていることを認めた隣人愛による服従の対象となる人格的な神観を意識的か無意識的かによらず心の底に持っていたからではないかと推察します。これは自分も共通の神観を持つので直感的に言えるのであって、研究者たちにはスピノザのような人格神観のかけらも無いので宗教的な側面は理解できないのです。どうしてもスピノザの言葉の表面を表層意識でなぞってるだけなのでスピノザ無神論的神発言者という前提で捉えようとするのです。これが大きな間違いだと思います。スピノザの真意を捉えるためには、彼自身さえ自覚はしていなかったかもしれない心の中の人格神信仰の残影を、その深層意識の領域まで及ぶ霊的アンテナによって探ってゆくしかないのです。

< 人間は第三種認識においてよりすぐれているにしたがって、「それだけよく自己および神を意識する」(第五部定理三一備考)。スピノザによれば、その時に人間が感じるのは「神への知的愛」である。神への知的愛もまた、『エチカ』の中でよく知られたテーマの一つである。だが、結局のところ、それはいったい何なのだろうか。一見したところ神秘主義的にも思えるこの概念を、スピノザは観想の概念を使って次のように説明している。「この愛は精神が原因としての神の観念を伴いながら自己自身を観想する働きである」(第五部定理三六証明。」(~國分功一郎著『スピノザ ―― 読む人の肖像』〔岩波新書〕p332)「神」に対して「知的」であれ何であれ「愛」ということを言えば、大体がその「神」は人格的な面があるものだ。スピノザの場合も人格的神観を全く捨てていたわけではないだろう。たとえ自分は非人格的神観に大きく傾いていたとしても、「神」を(擬人的にではなく)人格的に信仰する宗教は認めていたと思うし、それは倫理がそのような信仰においてこそ現れると思っていたでしょう。だから信仰形態は異なれど、同じ「神」に対するものとして聖書の宗教(ユダヤ教キリスト教)を全否定していたわけではなく、むしろ隣人愛による服従といった倫理的な面ではその意義を認めていたと思われます。だからスピノザの思想については単に「無神論」だとか「汎神論」だとか言って済まされるような表層的というか浅薄な内容ではないってことです。

「実体という概念はデカルトから受け継いだものだ。デカルトは実体というものを、世界の根本的な構成原理と考えた。あるいは世界の根本的な構成原理を実体という言葉で呼んだ。しかして実体には二種類あると言った。精神と物体である。言い換えれば思惟と延長ということになる。それに対して神は、この世界を超越したものとして、実体とは異なるものと考えられた。したがって、この世界から超越した神の存在についての証明をするように迫られた。この世界に内在するものであれば、存在は必然的なこととなるが、この世界から超越しているということになれば、存在は必ずしも必然的とは言えないからだ。しかしデカルトによる神の存在証明は、万人に納得できるほど自明なものとは思われなかった。この世界から超越しているということは、この世界の外側にあるということである。この世界の内側に生きている我々人間が、この世界の外側にあるものを、どうして認識することができるのか。そういう疑問がつねにつきまとうからである。スピノザは、神を実体だとした。しかして、実体とはこの世界の根本的な構成原理だとした。ということは、神は超越的なもの、この世界の外側にあるものではなく、この世界の内側にあって、世界の原因となっているものである、ということになる。実在している世界の原因なのだから、神は無論存在していることが前提となる。存在していないもの、つまり無から、存在すなわち有が生まれることはないからだ。ここがスピノザを、デカルトから決定的に隔てるところである。デカルトには、キリスト教の超越的な神を、疑いえない前提とする素朴な信念があった。だからこそ、その超越神の存在について、やっきになって証明しようとしたわけであろう。(中略)存在する、しかも絶対的に、無限に、永遠に存在するものが実体であるとすれば、それを神という言葉で呼ぶことに不都合はないはずだ。神はだから、超越的な存在として、世界の外部から世界に働きかけるのではなく、世界に内在するものとして、世界の内側から世界に働きかける、というか世界を絶えず生成させているものなのである。そのような神が、果たして神の名に値するのか、という疑問はあると思う。しかしスピノザは、そうした疑問を妄想だとしてしりぞける。彼は神を世界に内在する構成原理だとすることで、キリスト教的な神の概念から大きく逸脱したわけである。スピノザの神は、この世界そのもののことを意味するのだ。」

スピノザの「エチカ」その二:神について (hix05.com)

「神は、この世界を超越したものとして、実体とは異なるものと考えられた」は誤解の可能性がある。デカルトは「厳密な意味での実体は神のみである」としているからだ(ルネ・デカルト著『哲学の原理(原題:プリンキピア・フィロソフィー)』Ⅰ,51.⦅t. VIII-1,p.24⦆~福居純氏の「デカルトにおける『実体の表現』の問題」p312)。 ronso0850300010.pdf (hit-u.ac.jp)

「完全独立存在という実体条件は神以外のものに適用されるには余りに強すぎるのである。そこでデカルトは、52節で、より弱い意味の実体概念を『存在するために神の強力だけしか必要としない』ものと規定する。」(~松田克進氏の論文「『哲学の原理』第1部に於けるデカルトの実体論」p23)236175931.pdf (core.ac.uk)

デカルトにとって「神」は「無限実体」で「物体と精神」は「有限実体」であるとされました。「無限実体」は「無限」なのですから「延長」(=空間的な広がり)はないってことでしょう。

いずれにせよ小田垣雅也氏にかかれば、そもそも「神」は非対象ということになりますが、それは理屈の上であり、認識し信仰する以上は対象性なしにあり得ません。とにかく、汎神教の「スピノザの神」に「超越」性を加えれば汎在神教の「神」になるので、自分にとっての聖書的な「全一神」になるでしょう。要は「神の大きさ」と「神の非人間性」(…「非人間」性は「非人格」性にあらず!)であり、前者は「絶対→無限(…万有包括者なので無限「大」)」であり、後者は対人関係での苦しみからの救いを「神」に求める者が「神」を擬人化することによって「対神関係」を「対人関係」にするようなことをすればオウンゴールになってしまうということ。
スピノザの「必然主義」と擬人神化の否定に学ぶ理由は、むしろ頌栄であり、対神関係を対人関係化してしまって、神をも怒りや憎悪の対象としないため、そのために神義論的問いが生じないように神の擬人化は避けるが、それと人格神観の否定とは直結しない。人格神観が神の擬人化に陥る危険を伴うとしても、擬人神観とか神人同形説などは否定されなければならない。スピノザに欠けがあるとすれば、擬人神と人格神との区別が曖昧なために、汎神論だとされ、汎在神論とは言われないということだろうか?いずれにせよ、聖書的創造信仰…無からの創造が成立し得なければならない。鈴木 泉「必然主義の哲学―スピノザと共にあまりに人間的な偶然性概念を消去しよう―」(2017年度朝日講座〈偶然〉という回路「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」第8回) - YouTube

スピノザは「神」を深く愛した人だったようです。上野修氏は、スピノザは自分に対する「無神論者」との風評を否定し、むしろ神を肯定していた旨を指摘され、それを「過剰な神の肯定」と表現しておられます(22:20あたりから…上野修教授最終講義「大いなる逆説スピノザ」(1/3) - YouTube)。スピノザの「神」への「肯定」すなわち愛は深すぎて逆説的に「神」を形而上学的に高度に抽象化させて「人格」が否定し去られたとか希薄化したと誤解されるほどになってしまったのでしょう。真実はただただ「神」への深い愛の結果であったと感じられます。愛の対象となる「神」は人格的存在であることは聖書解釈として常識です。従ってその「愛」がスピノザにおいては「アーハブ、ヘセド/アガペー」とは異質なものであるかもだし、一般的には「スピノザの神」はユダヤキリスト教的な「人格神」では無いと云われています。(以下、引用)

スピノザの代表的な著作である『エチカ』における「神」概念は特殊です。というのも、スピノザの『エチカ』においての「神」は、あのイエス様的な人格を持った"いかにもな神様"ではなく、現代で言う「自然法則」のような意味だからです。國分さんによると、スピノザは「神は無限である=外部を持たない=すべては神の中にある」という思想です。(中略)スピノザは、「普段は経験できないし知覚できない超自然的な(=自然を超え出た)カミサマ」なんていなくて、あるのは"法則"だけだぜ」と現代からするとマトモなことを言ってたわけですね。つまり「神即自然」とは、要するに「あなたも僕も周りのモノもすべては神(法則)の中=あなたも僕も周りのモノもずっと普遍的な法則に貫かれている」ということです。>『はじめてのスピノザ』(國分功一郎著)の要点やおもろい内容を紹介|うぇい@哲学 (note.com)

それならスピノザは何故、「神即自然」(Deus sive Natura)の「神」(Deus)を言ったのか…?ということになります。法則なら法則、自然なら自然だけを言えばよさそうなものを、「神」にこだわったのは時代背景だけが理由ではないでしょう。神学的には「神の世界内在」の強調ということになるようです。(以下、引用。太字は私記。)

 < この世にも「神の国」があると考えるモルトマンが採用する汎内神論とはいかなるものか。後期において「汎神論(Pantheismus)」を採らず、「汎内神論(Panentheismus)」を展開するモルトマンの主張を吟味してみよう。先ず汎神論とは、万物に神性が宿るという考え方である。スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)は「神即自然(deus sive natura)」を唱えて、神の世界内在を一方的に強調した。他方、汎内神論は、神が世界、もしくは宇宙に内在すると共に超越するという考え方である。モルトマンは「神の世界内在(Weltimmanenz)なしに神の世界超越(Welttranszendenz)を考えることは決してできない。また逆に、神の世界超越なしに進化する神の世界内在を考えることは決してできない」と重なり合った両者について述べる。そして「世界の神的な彼岸について有意義に語られるのは、世界の中の神的な此岸が認められる時だけである。そしてまたその逆でもある」と教会が彼岸のみへと退いて行ったことを非難する。そして特徴的なこととして「単純な汎神論が永遠の神の現在だけを見る所で、汎内神論は将来の超越、進化と志向性を認識することができる」と主張する。モルトマンは終末論において現在的終末論という視点は採らず、将来的終末論を提唱するが、彼の主張する内在と超越は、静的な「永遠の今」ではなく、「進化のプロセス(Evolutionsprozesse)」の中に現れるのである。モルトマンによればその「進化のプロセス」を導くのは内在する聖霊である。人はこの世に内在する聖霊を経験することにより希望を持ち、将来を汎内神論的理解によって捉えるからである。>(~関口佐和子氏の博士論文「モルトマン神学における『神の国』理解)

モルトマンは『創造における神』の中で「神の世界内在(Weltimmanenz)なしに神の世界超越(Welttranszendenz)を考えることは決してできない。また逆に、神の世界超越なしに進化する神の世界内在を考えることは決してできない」と述べる。ここで注意したいのは、「進化する(evolutiv)」という言葉である。モルトマンは創造論において汎神論(Pantheismus)を採らず、汎内神論(Panentheismus)を展開するが、「汎内神論は将来の超越、進化と志向性を認識することができる」と考える。西田幾多郎は「万有在神論(Panentheismus)」という訳語を使い、「自らを、汎神論者ではなくして、むしろ万有在神論者であると称している」。この西田の概念には将来的終末論も現在的終末論も共に含まれていると理解されうる。つまりモルトマンも西田も終末論的将来という視点を採用するのである。しかしモルトマンは現在的終末論という視点は採らない。>(~関口佐和子氏の論文「モルトマンの宇宙的キリスト論 」)

< 汎神論は、こう説明されています。「宇宙と神とを同一視し、それゆえ神の人格性、道徳性、超越性を認めない宗教的信念や哲学説。…正統教会の立場からは、神の超越性を侵害する無神論として指弾された」(『岩波キリスト教辞典』) また、汎在神論という言葉を紹介している井上洋治神父は、この意味を、こう説明しています。パウロの考えによれば、キリスト教は、決して自然と神とを同一視する汎神論ではないけれども、万物が根をキリストにおいて同じくしているという意味では、汎在キリスト論だということがいえましょう。そしてキリストが、三位一体の神の第二のペルソナであるならば、汎在キリスト論はとりもなおさず汎在神論であるといえるはずです」(『風の薫り』あとがき、聖母の騎士社) >汎神論と汎在神論: ケーベル先生とともに (cocolog-nifty.com)

井上洋治神父の「汎在神論」は「汎在キリスト論」ということで、またしてもキリスト中心主義かあ~と感じます。

< もし神の本質が人格なき存在に求められるならば、神はこの世に在るものをその背後で支える根拠ということになるだろう。神は事物に内在(Immanenz)するのである。しかしここに困難が生ずる。なるほどこのような神は概念として比類ない純度を獲得しているが、この純度とひきかえに、神を事物から区別する明確な境界線が失われるのである。スピノザが神と事物を混同する汎神論者であるという非難はここに淵源する。もっともスピノザ自身がこの問題に決して無頓着ではなかったことは、いわゆる「能産的自然」と「所産的自然」の対比を考えてみれば、容易に理解できる。超越(Transzendenz)という完全な断絶を手放してしまった以上、神と事物のあいだの関係を明らかにする事が重要な課題となる。もしここで全面的に理性の声に従うならば、(当時これは理性の逸脱的誤用として厳しくいましめられていたが、神は事物に他ならないということになろう。スピノザ主義者にはこのような大胆な(しかし首尾一貫した)道をとる者が確かにいた。 >(~海老坂高氏の論文「スピノザ主義」)C:\WINDOWS\デスクトップ\15\帝京国際 (teikyo-u.ac.jp)

コリント第一15:28では、神はすべてにおいてすべてになるのだから、神には本来、霊的・精神的な面だけではなく事物的な面もあるとみて然りだ。そうするとまた、プロセス神学のチャールズ・ハートショーン(or ハーツホーン)の神論に戻ります(彼の神理解については、本多峰子氏の論文「プロセス神学の神義論」の中でもふれられている。229745916.pdf (core.ac.uk) )。

すなわち「神」というのは、創造神と被造界の宇宙とをセットで言うのであって、原因(創造)と結果(宇宙)は「神」の両面だというわけです(~喜田川信著『神・キリスト・悪』p13参照)。でもハートショーンは、「ホワイトヘッドの理念をさらに発展させて、生成は本質存在、無限、永遠と共に神の属性の一つであるとし、神もまた有限で時間的なものであるとした。ハートショーンは神はプロセスそのものであると言い切った」(~Wikipedia「プロセス神学」)とのことでなので、自分の絶対的主権者としての創造神観とは合いません。

<破られた神話としてなおも存在意味を失っていないとするのか、あるいは神話機能自体が喪失されもはや存在意味を失ってしまったとするのか、という点で、ティリッヒは前者を選択し、アインシュタインは後者を選択するのである。アインシュタインに関しては、すでに論じたように、後者を選択した上で、近代の精神状況にふさわしい「真の宗教」として、「宇宙的な宗教感情」が語られるのである。この「真の宗教」の神は伝統的な人格神ではなく、スピノザ的な神である―つまり、アインシュタイン無宗教でないばかりでなく、無神論でもない。これに対して前者の破られた神話としての人格神象徴の保持を選択するティリッヒについては、なぜ、そのような選択がなされたのか、が問われねばならない。>、アインシュタインスピノザの間には神理解において相違も見られる。「アインシュタインが、自然を認識する者が神を認識するという点で、スピノザに同意するのは、自然が神であるからではなく、自然研究における科学の探究が神へと導くからである。」(Jammer[1999], pp.148-149) >(~芦名定道氏の論文「ティリッヒアインシュタイン:人格神をめぐって」)ashina_5.pdf (kyoto-u.ac.jp)

たしかにスピノザの「神」はユダヤキリスト教における「伝統的」な意味での「人格神」ではないだろう。しかしそれは表層意識(言語レベル)でのことであって、深層意識においては表層において「人格」と表現されてくる事柄の実質とは異質な「神」ではないと私は直観します。スピノザユダヤ教徒2世であり、その信仰を本人の深層意識において受け継いでいるはずだと思うからです。子ども時代に植え付けられた宗教心というものはとても根深いのです。これはスピノザ研究者とは言え、國分氏その他の無神論者には思い及ばないことでしょう。たしかにスピノザは表層意識においては異端化して共同体から破門されることにはなりましたが、そういうのは宗教にはあり得ることだし、破門とまではいかずとも信仰内容に曲折が生じることは自分なども経験していることです。だからスピノザの思想は、ユダヤ教の信仰…すなわちキリスト教で言う「旧約聖書」をユダヤ教団が解釈したその内容(教義)とは異なる部分もあるのでしょうが、意識の表層においては「人格神」…というか「人格」という言葉で言い表わされ翻訳されている事柄が否定されていたとしても、スピノザ自身でさえ気づかないような意識の深層においても否定することになっていたのかどうか…すなわち無神論者と同様になっていたのかどうかは、スピノザが自覚的に細かい議論を展開していない以上、断定できないと思います。自分が彼に関する言葉を読んだ感じでは、スピノザがその存在を否定したのはあくまでもユダヤキリスト教の「人格神」ないしは宗教学で定義されるような「人格神」一般であって、「神」の人格性それ自体ではなかったのではないか…?と思われるのです。それはあまりに「愛」のことが多く語られているからです。そもそもスピノザ研究において「人格神」を否定してきた人たちというのはその多くが無神論者ないしは無信仰者ではないかと思われます。観念として「人格神」というものを知っているにすぎません。「信仰」なき者にはこの点、限界があると思います。自ら体験してみなければわからない「神」との関係…日本語では「人格(的)」とか「愛」といった言葉を用いなければわからないことがあると思います。その領域は神学に入ってくるのでしょう。自分は、ヤスパース選集23 スピノザ <ヤスパース選集> を読んでみたいと思います。ヤスパースの「包括者」がスピノザの「神即自然」の「神」概念の影響をどのように受け、またそこにスピノザ独自の観方がどのように表わされているかを知りたいからです。カール・ヤスパース『スピノザ』(原書1957, 訳書1967) 理想社 ヤスパース選集23 - 読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ (hatenablog.com)

いずれせよ自分は、人間の自我に解消されるような「神」は断じて信仰対象とは認めません。そもそもスピノザの「神」もヤスパースの「包括者」も対象化できないわけですが…。私見では、すくなくとも日本において従来の通俗的な「スピノザの神=汎神論の神」理解とは違う「スピノザの神」への観方を見い出すためには(…すなわち外形的には「汎神論」ではあっても多神教的な「汎神論」とは区別される一神教的な「汎神論」であり、「汎在神論」との違いを論じ、「人格」性も全否定するのではなく、いくらか残存するといった…)スピノザ研究者の中にクリスチャンなど一神教徒がいないかを調べて、いたらその人のスピノザ哲学に対する関心や着眼点を聞き出してみないことにはどうしようもないのです。「スピノザの神」に関する真相を知るためには、研究者自身に聖書の「神」に対する「信仰」(愛)がなければならないし、さらには神学以外の専門分野として、精神分析というか深層心理学的な観点での研究も必要になると思われます。なぜならスピノザユダヤ教の環境に生育しており、いかに20代前半で共同体から破門されるような事態に至ったとは言え、彼の中には伝統的な神観・信仰心が刷り込まれていて、それが希釈されたとしても根っからの無神論者のようになっていたわけではないからです。だからこそ「神」にこだわり「愛」を語っているのでしょう。スピノザ研究は神学をかじってもいない無信仰者には限界ある作業なのではないでしょうか?

(以下、引用)

スピノザは実体と実体の様態を厳密に区別している。そこが理解の分かれ目となるだろう。神は実体でわれわれ人間は実体の様態である。そこはきちんと分けて考えなければならない。様態に『理性の有』としての全体や部分を見ているだけで、実体には部分も全体もない。ここまでは仮に理解し納得できたと仮定してみることも可能だ。しかし、次の精神についての認識の前には足を止める。スピノザは無機物も有機物も有情も非情もいっさい区別なく精神を持つという。精神の有無では物のあいだに違いは認められない。この認識をベースに語られるのがスピノザの心身合一なのであるが、にわかには受け入れがたい。しかし私はスピノザ好きなので単に受け入れてしまいたいという誘惑にも駆られる。」スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』で境界のない世界像に触れる - 読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ (hatenablog.com)

(以下、引用)

「だがスピノザの神への愛は、どんな宗教家よりも強かったのである。神は我々一人一人にとって外的な信仰の対象ではない。神は我々自身の中にそのままに現れているのであり、したがって我々自身に命を授けてくださっている。有機体の一部が全体あって初めて存在できるように、我々は神が存在の一部なのである。だから我々は神を愛すべき十分な理由がある。精神の最高善とは神についての知識であり、最高の徳とは神を知ることである。こうスピノザはいう。こんなところから、スピノザを称して『神に酔える哲学者』というようになった。だがスピノザの神は、キリストの神を含めてこの地上で信じられているどんな神とも似ていなかった。彼の思想が長い間誰からも評価されなかった所以である。」スピノザの神 (hix05.com)

スピノザの「汎神論」については「過剰な神の肯定」(~上野修氏)と言われています。彼はユダヤ教の共同体から破門されて無神論者とも言われているにせよ、ユダヤ教徒の環境で育ったので、彼は書簡で自分がヘブライ的伝統を自覚的に受け継いでいることを告白しています。「神」の絶対性への賛美・頌栄から形而上学的抽象化に至っているのがスピノザ哲学の特徴と言えるかもしれません。そして私たちも「神」の絶対性への頌栄のゆえにこそ形而上学的抽象化を否定はしないのです。

スピノザは次のように述べている。『私は神と自然について、現代のキリスト教徒たちが擁護する見解とはかなり異なる見解を採りたいと思っています。すなわち、彼らの言い方にしたがえば、神をあらゆる諸事物の他動因ではなく内在因だとみなすということです。あらゆるものが神のうちにあり、神のうちで動かされるということを、私はパウロとともに、そして別の仕方ではあるけれども古代のすべての哲学者たちとともに肯定するのだと言いましょう。また、古代のすべてのヘブライ人たちとともに、そのことを肯定するともあえて言いましょう。古代のヘブライ人たちの伝統は、多くの仕方で破壊されてしまいましたが、その伝統から推測できるかぎりにおいて、私はそう言うのです」(笠松和也氏の論文「〈史料研究〉クリストフ・ヴィティヒ『アンチ・スピノザ』を読む(3)訳と注解」より。 Ep 73; G IV, 307, 3–11.)

007009.pdf (jinbunxshakai.org)

現実に起きていることはすべて神のわざであると考えていた点では、彼の母国オランダで支配的な改革派(カルヴァン派キリスト教の教説にも通じる部分があります。

上野修教授最終講義「大いなる逆説スピノザ」(1/3) - YouTube

スピノザの「神即自然」と訳されている語は「Deus sive Natura 」で すが、「sive」は「即ち」という意味よりも「もしくは」という意味の 方が強いと思います。ちなみに上野修氏は、「神あるいは自然」(Deus seu -Natura)とラテン語訳にしています(『スピノザの世界 神あるいは自然』〔講談社現代新 書〕p75)。私見ではスピノザの一元論は徹底一元論ではなく、言わ ば「不一不二」元論だと思います。「神=実体」と「自然=属性、様 態」との二面を区別するからです。一元論なら「神」を言う必要はないはずです。殊に「神」の人格性が否定され、完全に無しとされるのであれば、「神即自然」の「自然」の方だけ言えば済む話でしょう。ところが「神即自然」というふうに「神」と「自然」と両方が言われているのは、「神」の人格性も擬人化に陥らないための必要最低限度は認められているからであり、「即」の関係で言われなければならないわけで、それは一元論ではなく、さりとて二元論でもなく…すなわち「不一不二」元論だということになります。しかも「神」と「自然」とは「不可分」であるだけでなく、すくなくとも名称が異なるという点では「不可同」であり、さらにスピノザの場合、ユダヤ教的神観・神信仰の素地があるので、神の人格性はユダヤキリスト教に比べれば希薄であるとは言えても無いわけではないので、キリスト教的な創造は認めないにせよ自然界については被造物という見方がある以上、「神即自然」の「神」(創造主)と「自然」(被造物)との「不可逆」の関係が認められるので、「即」は単なる等号(=)ではなく不等号( >)を伴う「不可逆」の「即」ということになります。

「人間も創造されるのではなく、神のうちに産出されるのだとスピノザは考える。」

tanemura.la.coocan.jp/re2_index/S/spinoza.html

スピノザは自然を大きく二種類に、つまり一方で第一原因としての唯一の実体あるいは「神」としての「能産的自然」と、神に依存しかつ神から生じる事物としてのすべての様態からなる「所産的自然」とに区別している(KV 1, 8)。後者は「神から直接に創造された結果」などとも比喩されている(KV 1, 9)。所産的自然(諸様態)は、さらに二種類に分類される。一つは「神に直接依存するすべての様態からなる」「普遍的な所産的自然」、もう一つは「普遍的な様態から生ずるすべての個物からなる」「個別的な所産的自然」である。>(~佐々木晃也氏の論文「スピノザ『エチカ』における共通概念の対象 ― Proportio の概念史的な含意― )6779d6c7524221119372f90b5794064c.pdf (osaka-u.ac.jp)

スピノザの「汎神論」は、日本のアニミズム的・多神教的な「汎神論」とは違って「神」を「唯一の実体」と言っているとおり、唯一神信仰の影響が見られます。無からの創造が独自の解釈で受け継がれているとしても、スピノザの「神」は超越的な人格神ではないので、キリスト教的有神論的な創造神とは異なるのです。

「[11]するとどう言えばいいのだろうか! もし神があらゆる被造物を無から産出したことが不条理であり、かつ知解作用が知解する神から流出するのと同様に、あらゆるものが神から流出するということもまた、われわれが今しがた示したとおり不条理だとすれば、あらゆるものが神に由来するということが誤りだと言わなければならないのではないだろうか。これは私たちの考えからかけ離れている。むしろ神があらゆるものを無から産出したということが本当に不条理であるのかどうかを吟味しようではないか。[12]だが、われわれは、自らの把握力を超えるものをただちに不条理なものとみなしてしまうということに注意しなければならない。それはあたかもわれわれの知性が諸事物の尺度となり、そうしてわれわれが神に成り変わるかのようなものである。むしろ、われわれは、自らが有限である一方、神の力能は無限であり、それゆえわれわれが知解することで追いかけることのできるものよりもはるかに多くのものを神が生じさせうるということを、いっそうしばしば思惟し、自らの魂に向けて喚起することにしよう。ゆえに、たとえ神が何らかのものを無から作ったその作用をわれわれが知解しないとしても、そのことがそうした作用を否定する十分な理由になるのだろうか。」(~笠松氏前掲論文)

彼自身は自分の思想を「汎神論」であるとは認めていなかったようです。『スピノザ往復書簡集』(岩波文庫)によると、彼は、神と自然を同一視する思想に立っている事を否定しています。神と物質を混同していると非難されていることは心外だったようです。「人々が私の立場は神と自然を同一視する思想に立っていると考えているのは、自然というものを一定の質料あるいは物体と理解しての上のことですから、全然間違いです。」(書簡73) 

スピノザも、自説がキリスト教の見解と異なることをはっきり自覚しており、返信には、『私は敢えて、いっさいが神の中に生き神の中に動いていると主張しています』(書簡73)とまで断言している。」書斎の窓 2018年7月号 市場ゲームと福祉ゲーム④ 救済という非合理 稲沢公一 (yuhikaku.co.jp)

以下は、前に引用した記事の筆者である稲沢公一氏の見解です。専門家ではない人の意見なのであまり参考にはできませんが、スピノザの「神」と「自然」との関係を不等式とか等式を用いて表現している点で自分と似ているので引用してみました。

「創造主である超越神という捉え方からすると、前回のスピノザがいかに異端であったかがわかる。彼は、神>『すべて』という不等式を神=『すべて』(「神即自然」)という等式に変換してしまった。それによって神と『すべて』との間にあった落差は解消され、人間は罪の意識をもつ必要もなくなり、裁きの神もいなくなった。」

稲沢氏の見解では、ユダや・キリスト教の「神 > 自然」⇒ スピノザ哲学の「神=自然」ということのようですが、私はそもそも聖書の汎在神論的解釈では「神 ≧ 自然」であり、スピノザの場合も「神」と「自然」とがまったく同一とはされていないようであり、「神」の「自然」に対する不可逆性が認められているなら、そこに超越性が認められるので「神 ≧ 自然」…すなわち「汎神論」というより「汎在神論」の方に近づくと思う。スピノザに欠けがあるとすれば、擬人神と人格神との区別が曖昧なために、汎神論だとされ、汎在神論とは言われないということでしょうか?いずれにせよ、聖書的創造信仰…無からの創造が成立し得なければならなりません。

スピノザの「汎神論」にも教義があったそうな。以下の内容から察するに、スピノザの「神」はユダヤキリスト教のように、擬人的ではないが人格的ではある…そういう部分はあるようです。なにせ「聖書の教義」なんてことを言うんだから…。本当に、スピノザは「汎神論者」だったのでしょうか?

「第十四章でスピノザは次の七箇条を聖書の教義として書き出している(下巻一三八-一三九頁)。

一、神、いいかえれば正義と愛の生き方の真のお手本となるような最高の有が存在する。

二、神は唯一である。

三、神は遍在する。

四、神は万物に対する最高の権利と最高の権力を持つ。

五、神への崇敬と服従は正義と愛すなわち隣人愛のうちにのみ存する。

六、神に服従する者は救われ、服従しない者は捨てられる。

七、神は悔い改める者をゆるす。

いったい『無神論者』みたいに見えるスピノザが、なぜこんなことを……と人は驚き怪しんできた。しかしわれわれはもう、スピノザが次のように言っても驚かない。信仰は真なる教義よりはむしろ敬虔な教義を、いいかえると精神を服従へと動かすような教義を要求する。たとえそうした教義のうちに真理の影さえ持たないものが多くあっても、受け入れる者が虚偽であると知らなければかまわない。さもないとその者は必然的に反逆者になってしまうだろうから。(下巻一三五頁)」(上野修著『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』〔NHK出版〕p52~53)

「1.神の存在 2.神の単一性 3.神の遍在と正義 4.神は至高の権利を以て万物を支配すること。5.神への敬虔や服従とは、正義と隣人愛を指す。6.こうした生き方によって神に従う人は救われる。7.人がもし悔い改めるなら、神はその人の罪を赦す。

第7条にキリストへの言及があるものの、基本的にはユダヤ教徒にもキリスト教徒にも受け入れられうる、公約数のような最低限の教義であり、逆にいえば創造も三位一体も魂の不死もなく、ヘブライズムの根幹をなすともいえる神の人格性と超越性が、限りなく希薄になった教義でもある。7箇条あるが、中心となっていてその後の議論でもずっと効力を及ぼしているのは、第5条つまり敬虔(pietas)、服従、正義、隣人愛である。」(~川添美央子氏の論文「スピノザの寛容論における神学と哲学」)

(以下、引用。太字は私記。)

「限りなく希薄になった」としても「人格性と超越性」がスピノザの思想には見られるということであり、それならスピノザの思想を「汎神論」と言い表わすにせよ、その「汎神論」の意味は、日本の宗教において言われる「汎神論」とはかなり違うということになるでしょう。擬人化された神と人格的な神とは違います。スピノザは前者については否定したけど後者については…つまり人格神それ自体は否定していないのではないでしょうか?そうでなければ、「神」について聖書の教義がどうの、正義とか愛がどうの…と言うこと自体、矛盾します。私が神の擬人化とか神人同形説を否定する理由は、それによって神を相対化してしまうからです。その結果、神義論的な問いが生じてしまい、神を神として信仰することができにくくなるからです。つまり神を擬人的にイメージするから、自分にとって不都合な出来事が起きると神義論的な問いに襲われたり、それは神の試練だの裁きだのといった解釈で納得しようとするのですが、対神関係を対人関係化することになるので、人間関係に生じるストレスの苦しみを神との関係でも抱えることになり、本当なら対人関係での苦悩を緩和して救ってもらいたい対神関係が、対人関係化することによって、別にもうひとつ苦悩を抱えることになるわけです。だから自分は、擬人神観は否定しても人格神観は否定しません。人格神観は擬人神観に直結するおそれがあることは、並木浩一氏の私信からも知らされていますが、さりとて人格神観と擬人神観とを混同してどちらも否定することは、赤子と一緒に盥の水を捨てるようなものです。神に対して怒りや憎悪などマイナスの感情を持ちたくないからこそ、神を擬人化することは避けなければなりません。

自分にとって悩みの元である人間(関係)に神(との関係)を引き下げるようなことはしてはならない、命取りになります。神の超越性とは、万物に内在しても従属はしないということです。また、スピノザが偶然性を否定して必然性を強調し、人間の自由意志をも否定するのは、偽善的な行為義認主義を排するという意味で自分にとっては重要だと思われる。私情にかられての行為は、神であれ人間であれ良いことにはならないと思われます。(以下、引用。太字は私記。)

やはり自分は、「よしんばそのかかわる対象が非真理であったとしえも、主体のかかわり方が真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っているのだ」というキルケゴールの考えを神信仰に適用することは無理だと悟りました。つまり、対象がいかなる存在かを問わずして主体のかかわり方も決まらないのです。つまり「神」のいかなる存在かもわからないのに、誠実な信仰態度を求めるなんてことは実際のところ無理ってことです。

真理は主体性にあり:キルケゴールの真理論 (hix05.com)      

キルケゴールにとって「真理」は、自ら「道、真理、いのち」だと言われた(ヨハネ14:6)イエス・キリストとしての面もあるのでしょうが、自分はこの場合の「真理」をキリストとは思えないし、ましてや(三一の)「神」とは思えません。信仰の対象のイメージがまったく無しには、信者の関わり方、信仰態度、礼拝の態度が「霊とまこと」(ヨハネ4:23)によるものとはならないからです。もちろん信仰対象・礼拝対象である「神」のイメージ(神観)は聖霊によって備えられるものと信じます。その先行なしには霊的で誠実な態度は生じてこないのです。

以下、引用。太字色付けのは私記。

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私が過剰な自尊心と言っていることを専門用語では神経症的自尊心と言うのかな?と思いきや、加藤諦三 | 神経症的自尊心 (katotaizo.com)どうもそうではないらしいことがわかりました。と言うのは私が過剰な自尊心と言うのはまさにそのままの意味であり、必ずしも虚勢を張るといった態度になるとは限りません。問題は自尊心が過ぎてるから傷つきやすいわけです。べつに大言壮語することではないんです。傷つきやすいので、他人と接触することを恐れます。特に職場関係では自分が上司や同僚などから軽んじられている、なめられていることがわかるので、なにか傷つくような言葉を投げかけられたりはせぬかと常にびくびくしているわけです。その傷つく自分は、もうひとりの自分であり、この自分からみれば扱いかねる自分ですが、放置するわけにはいかないので、何らかの方法によって(セルフ・マインドコントロールとか自己洗脳とかいうことが実際に可能なら、強い自分にできるのでしょうが…)、その恐怖や不安に耐えてゆくしかないのです。

いちいち傷つくことには疲れて飽き飽きしている自分がいます。その自分のままでは身がもちません。それで広義の洗脳を自分に対してやらなければならないと思うのです。自分では自己洗脳と言っていますが、洗脳とまでは言えないにせよ、要は自分の脳に暗示をかけるとか錯覚させるとでも言いましょうか…。思い込みですね。自分は救われているんだ、だからこんなことをいちいち気にすることはおかしいし、そんな必要なんかないんだ~と自分に言い聞かせるわけです。そう、人間関係において、気にさわることはあってもそれにいちいち囚われないだけの余裕を心に持つためには、「救われている人間」としての言動はいかにあるべきかを考えることが有効だと思います。まず自信を持つのです。救われていることを確信すべきです。すなわち「救拯的信仰」です。これによって自分は抑圧して意識から追いやった感情を回収してひとつに統合されます。

第14章 救拯的信仰について           1 選ばれた者が、それによって、自分の魂が救われるように信じることができる信仰の恵みは(1)、彼らの心の中で働くキリストのみたまのみわざであって(2)、通常、み言葉の宣教によってうみ出されるものであり(3)、み言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される(4)。 

(1) ヘブル10:39     (2)Ⅱコリ4:14、エペソ1:17-19、2:8 (3)ロマ10:14,17 (4)Ⅰペトロ2:2、行伝20:32、ロマ1:16-17、4:11、ルカ17:5

私は、聖書的信仰において「絶対(的)」という表現を「神」について用いる場合、それは形而上学的な意味ではなく、あくまで賛美告白としてであると自覚します。例えば「ウェストミンスター信仰告白講解」(信仰告白の本文ではないことに注意!)は「第二章 神について、また聖三位一体について」の第一節で、「神は多くの属性を持たれ(知、聖、義、善、愛、憐れみ)、永遠的、不変的、絶対的な生ける唯一の真の霊である。ヨハネ4:24」と述べて「絶対的」という言葉を用いている。ウェストミンスター信仰告白 講解 - ひたちなか教会 (hitachinaka-church.org)

上記は講解であって、信仰告白の本文では、2章の1で「最も絶対的」という表現がなされています。

このように信仰告白関係で神を「絶対(的)」と言う場合、それは哲学的な意味で「絶対」だということではない(にもかかわらず神学者の中には後述の小田垣雅也氏や野呂芳男氏などのように、神が「絶対」であるといわれることについて、所謂、哲学的な意味でその「絶対」性を論じる人もいる)。

その他、例によってヨハネ福音書4:24の「霊」や創世記17:1の「全能」やエレミヤ23:23の「遍在」など、聖書における神の主格補語としては定番的言葉が見られます。神は「霊」であり「遍在」だからこそ信仰を賜っている者においてはどんな環境に置かれていてもその存在を確固として実感できる「人格的」で「絶対的」な「実体」であるとのロジックを構築し得るとしたら、それはこれらの言葉が客観的事実を示す記述言語ではなく、信仰告白の言葉としての表現言語だからでしょう。

ちなみに、神について「絶対(的)」という表現は、この他の箇所には大.小教理問答も含めて皆無です。

「ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、とがある者を決してゆるさないおかたである(24)。」

「かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(~有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)。それはカント的「公準」としての「要請」ではなかろうが、とにかく人間の必要と切り離された客観的「啓示」を前提とする神学的思惟にはリアリティーが無いのは確かだ。バルトのように「聖書に証しされたイエス・キリスト」を客観的な神啓示とみなすことには大いなる独断と無理がある。「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(→五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し( 3:11、7:14,29、12:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13,17、5:17~19他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:31~34、ルカ12:29~31参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派教理で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのです。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。

誰からも特定の「神(観)」を押しつけられることはない。それがコーヘレトの場合も、あえて固有名ではなく普通名で「神」を語った意味であろう。

< 神名としての「エロヒム」のみの使用は、コヘレトが人間の普遍的な状況について語ろうとする試みとして理解され得る。愚かさと虚栄に他ならぬ人間の多くの営みを対比的に語りつつ、『コヘレトの言葉』は、私たちの生の目的は神との関係のうちに生きることである、と示唆する。>(「IP-J-63」所収.ダグラス・K・フレッチャー/竹内裕訳「コヘレトの言葉五章一― 七節」p120)

五木氏の『人間の覚悟』では、< じつのところ、私は「教え」としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。>(p123)とか、<「中道」という考え方は「いつも真ん中にいればいいというわけではない。両方を大事にせよということです。」云々と講じたりしていますが)、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」>(p129)という言葉が印象に残った。

私にとって宗教とくれば民衆救済宗教であり、(超)人格主義的宗教ということになり、対神関係は「対(超)人格神関係」ということになります。仏教には「絶対者」としての人格的存在としての「神」が実体として無いわけですが、人間はこれがないと苦悩そのものを相対化することができないのではないかと思います。これも迷いなのかもしれませんが、神観は迷妄だとしても、その迷妄ゆえに対人関係による心労などから解放されるとしたら、その事実は認めざるを得ません。ゆえにその効果においてそれは迷妄と言って否定し去ることは出来ないのです。確かに遠藤周作氏のエッセイで言われるような「はたらき」としての神観は現実的・経験的で説得力がありますが、救済の観点からみるといずれにしても人格性が必要だし、それは確かな存在であり対象であってこそ、その救いのはたらきを期待できるのであって、信仰対象としての主体なき働きだけに意識を向けることはできません。もちろん、遠藤氏が感化を受けたと思われる八木誠一氏も、外からのはたらきかけを言う場合には人格的存在として神を語らざるを得ない旨のことを述べておられます。但しそれは実体では無いということです。実にギリシャ教父の古典的三一論の問題点は、八木氏によると人格主義と実体論(存在論)との組み合わせでした。その反対側に場所論がありますが、対局ではないのは、場所論も人格主義を否定しないからです。八木氏によるとイエスは人格主義的場所論であり、八木氏自身も同じ立場だということです。

「イエスの宗教は場所論的である(正確にいうと後述のように人格主義的要素を併せもつ場所論)。(中略)私がいう意味での『場所論』は、新約聖書学および『仏教とキリスト教の対話』を経て構想されたものなので、西田哲学と同じではない。(中略)

まず場所論は神を人格や存在というよりは、まずは『はたらき』の面から語る。人格や存在の面もないのではないが、『はたらき』の面が優越するのである。むしろこう言った方がよい。神を、経験と自覚に現れる『はたらき』として把握して語ると場所論になるのである。」(八木誠一著『イエスの宗教』〔岩波書店〕p1~2)

「ここで読者は、神(キリスト、聖霊)が場所論では『霊』として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、『霊』は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。『霊』は人格や存在というよりは、『はたらき』である。」(同、p3)

やはり比喩的には、神さまもどっしりと構えたお方でないと頼りがいが感じにくいので、どうしてもイメージ的には存在の確かさを求めるような感じで絶対とか人格とか実体といった言葉づかいにはなる。しかし目に見えない「霊」であるという点では、あまり擬人化した神話的イメージはリアリティーを薄めてしまう。だから宗哲的に、絶対の人格的実体といった表現にとどめるのだ。

「認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。」(同、p8)

「宗教には、第一に人格主義的宗教がある。(中略)第二に非人格主義的宗教がある。(中略)第三のものとして、以上二つの間に、人格主義的場所論(あるいは場所論的人格主義)ともいうべき立場がある。イエスの立場はこれである。私も従来、そして今でも、この立場に立っている。」(同、p18)

八木氏の宗哲思想に対しては、「霊」と「愛」の2つの観点で批判を試みなければならない。

まず「霊」に関しては、ヨハネ福音書4:24で「神は霊」だと言われているが、その意味は必ずしも非対象・存在的であるとは言い切れない。さらに『旧約新約聖書事典』では、「神は霊」であるとは旧約では言われていないと明記されている。むしろ旧約聖書における神話の比喩的表現…特に所謂「ヤハウィストの神」などは人間的とさえ言える。次に「神は愛」だということに関連してか「愛する者は神を知る」とヨハネは言うし八木氏もこれに呼応するわけだが、救済宗教は愛なき者が必要とするものであって、愛ある者ならすでに救われているのだ。従ってヨハネの愛の神学は救われた者の神学なのであって、最初からこれが出されるとどうにもならない。愛なき者が神との関係に入って救いを体験して愛する主体になるまではそう簡単ではないのだ。愛なき者にとって相対化すべき事柄は多い。だからこそ神の絶対性もますます強く要請されよう。すると神はまずもって愛し得ぬ者をも愛す神ということになる。自分を愛せない者を愛し得るからこそ超越者であり神なのであって、自分を愛する者だけを愛するなら人間と変わりあるまい。

youtubeなどで精神科医やカウンセラーのような人たちがメンタルで苦しんでいる人々へ向けて自己啓発的・心理学的な話を発信していますが、一時的にはうまい発想で自分の脳を誤魔化せたつもりが、すぐに懐疑が生じて誤魔化しきれなくなるようなおそれがあるのです。仏教的知恵はキリスト教などよりも現実的諸問題の解決に於いて参考にできると思いますが、絶対他者が唯一の実体として存在しない世界では積極的相対主義の立場も無いでしょう。聖書において積極的相対主義とは拝一神教の立場です。矢内原忠雄氏が本居宣長批判で述べているとおり神の絶対性ということが民衆の救済宗教では不可欠だと思います。ただしその「神」はコヘレトの場合のように「遠くの神」でなければなりません。その存在を忘れるくらいの距離が逆対応的に「近くの神」となるのです。私にとっては自由こそ最高の目標であり、その自由を得るためには「神」を必要とするのです。これは矛盾ではなく、「神」なき自由は虚無なのです。でも自由は自由であり、神観であれ何であれ変わり得るものであり、「神」も忘れ得てこその自由なのです!滝沢克己氏のいう「インマヌエルの原事実=神人の第一義の接触」は彼の独断に於いて普遍不動の真理なのであって、宗教とは所詮そういうものでしょう。独断である以上、一般化して他人にも適用しようとしてはいけません。人それぞれなのです。私の場合は「インマヌエル」の「共なる神」は自由を侵害するので御免です。キリスト観も大きく変わりました。すなわち神話性を排除した「ただの人・イエス」になったわけです。今となっては、イエスが「まことに人」であるだけではなく「まことに神」であるなどと嘯いて受肉や復活を歴史の出来事だとしゃーしゃーと主張する神学者などには憤りを感じるほどです。およそ30年前の自分とは真逆ですから、信仰心などというものもわからないものです。もともと信仰心などなかったのか、それとも芯の部分は簡単には変わらないけど実や皮は変わり得るのでしょう。赤岩栄などキリスト教徒の中ではかなり変節した人物のようですが、私は赤岩のようにキリスト教を完全に脱出して禅に向かうなどということはしません。籍はあくまでもキリスト教会(非信条派)に置いているし、死んだらその墓地に埋葬してもらうべく毎月の献金は欠かさないようにしています。無縁仏ほど惨めなものはないと思うからです。さて、そのような私ですが、このように信仰心が変わり得たのは、社会現実の自分に信仰内容を合わせるという必要があったからです。それはまず、自分の中の権威を相対化することと関係があります。権威主義的志向が人を苦しめます。自分もブランド的な世間体の良い場所で生きたいと願うのが人情です。しかし現実はそうはならない時、自分が価値を認める権威自体を相対化することによって、その場所に入れない自分自身を否定することなく、他の場所で生きてゆけるのです。いつまでも幻の絶対権威に縛られて、特定の場所でしか自分は生きてゆけないんだと思い込んでいる限り、人生は前に進んでゆきません。その空白期間が無駄になります。人はつねに前へ前へと進んでゆかなければならないのです。そのために自己暗示といった程度のことかもしれませんが、自分で自分に思い込ませるのです……他の場所だっていいんだと思い込ませるのです。それが私にとってのセルフ・マインド・コントロールです。

「対(人格)神関係」は「遠くの神」でなければダメです。いちいち神の目を気にしていては大衆現場での優劣比較に満ちた殺伐とした対人関係に対処してはいけません。いつも神の臨在を意識して社会生活を過ごせる人たちというのは恵まれた環境に生まれ育ったぼっちゃんじょうちゃんの類です。一般庶民は、普段は自分が「対(人格)神関係」に置かれていることを忘れるくらいに意識のうえでは自力でなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神

私にとって聖書的神観は、以下の量義治氏の説をもって最適とする。

神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(『宗教哲学入門』p108~109)

以下、花岡永子博士の論文「神の概念の問題 世界の対話の中で」より引用。太字は私記。

「自然科学・技術との連関において。この連関においては、十九世紀末以来の、相対性理論や量子理論や不確定性原理等々の新しい物理学の発展により、単に人格的な神、あるいは祈りの対象としての人格的神は、妥当しなくなりつつあり人格性と非人格性の根源における神が生き始めていることが語られ、議論され、対話されるべきであろう。」、「神が人間によって対象化されるような人格的な絶対者としての神であるに留まるならば、仏教徒キリスト者となることが殆ど不可能である。しかし、もしキリスト教の神が人格的神と非人格的神のいわば根源としての絶対無にまで開けていると理解され得るならば、仏教徒は同時にキリスト者ともなりうることが分かるのである。また逆に、仏教における究極的実在ないしはその実在のあり方としての縁起や空や絶対無が、人格的な神の根源であって、それは自由自在に人格的な神の形(父、子、聖霊)を取りうることが理解されうるならば、キリスト者は仏教者と対立しなくてもすむことになる。」 

神の概念の問題 : 世界の対話の中で

聖書に示された「神」は啓示された「神」であり、本来は「霊」なので、「人格ー非人格」とか「対象ー非対象」といった分別を超えた無制約の、まさに「絶対無」とか「(創造的)空」とでも言い表すしかない何かですが、それが人格的対象に喩えられて聖書で物語られることによって、人間が認識できる「神」として自己限定されたわけです。神の「啓示」とは神の自己限定なのです。さて、そこで神の「非客観化・非実体化」は正しいが「非対象化」は誤りであるとの考えが生じてくる。以下、八木誠一著『イエスの宗教』より引用。※太字は私記。

「『愛する者は神を知る』とは、著しい言葉である。ここでは『神を信じる』ではなく、『神を知る』と言われている。いったい、どのようにして神を知るのであろうか。ここでの神認識とはいかなる認識であろうか。認識とは対象認識についていうのが一般である。しかし、神は対象ではない。神が対象として認識されることはない。『かつて神を見たものは誰もいない』と言われる通りである。『愛する者』が神を知るのである。だから、この知は『愛する』ことのなかで開けてくる知である。(中略)このような知を自覚という。自分に目覚める知である。現代は対象を認識する『客観的・科学的知』が優越して、『あなた』を理解する『知』も、『自覚』の『知』もまるでおろそかにされている。(中略)デカルトの立場、一般に近世の観念論哲学の中心は理性の自覚であった。それは、『考えることを考える』意味での自覚へと展開するのである。自覚が『心理』に解消されないことは、近世哲学が心理学に解消されないことから明らかである。」(p8~9)

ここで八木氏は、場所論的立場においては、「神が対象として認識されることはない」と述べておられます。神を知るというその「知」は「(対象)認識」ではなく「自覚」によるとのことです。ただ、「自覚」においても「神」に対象性が皆無であると言えるのかどうかは疑問です。一般に私たちが生活の中で何かを自覚する場合、自覚する内容が意識・関心の対象としてあるからです。例えば自分が社会人であることを自覚して行動するという場合、社会人としての自分という対象が意識されています。以下、小田垣雅也氏のみずき教会説教「母の日」より引用。※太字は私記。

< メアリー・デイリーは、この「全体なるもの」は認識の対象としては存在しないから、フェミニスト神学は「無の神学に直面する実存的勇気を必要とする」とまで言っている(Daly, op. cit., p.23)。そしてまた、この無としての神は、名詞ではなくて動詞であると言う。神を名詞とすることは、神を対象化するということだからだ。対象化された神とは、フォイエルバッハが言った通り、人間の自己の反映である。しかもデイリーによれば、この動詞は自動詞であって、自分の動詞としてのあり方を限定するものとしての目的語をとらない。とにかくデイリーの理解によると、近代思想の特徴は「二元化―具象化―客観化症候群であり、それは父権制的意識の特徴であって、『他者』を、失われた自己の内容物の貯蔵庫としたのであった」。>

以下、フッサール現象学に関するwebサイトからの引用。太字は私記。

現象学創始者である20世紀ドイツの哲学者、エドムント・フッサール(1859-1938)によれば、いかなる対象もある意味を伴った見え姿(ノエマ:見られたもの・知られたもの)において意識に現れる。また、それが意識に現れている以上、それを構成している意識の働き(ノエシス:見ること・知ること)をそこに想定することができる。『意識はつねに何ものかについての意識である』というフッサールの有名な言葉が意味するのは、意識の対象側の極(ノエマとそれを構成する意識の働き(ノエシス二つの側面から意識は成立しているのであり、したがって意識を超えてそれ自体として存在しているかに思われる物体も、それが意識に現象するかぎりにおいては、ノエマとして意識の一部にほかならないということである。」現象学 – Center for Design Fundamentals Research, Kyushu University (kyushu-u.ac.jp)

以下、ヘーゲルの『精神現象学』に関するwebサイトより引用。太字は私記。

「G・W・Fヘーゲル(1770―1831)は、主著である『精神現象学』においてわれわれ人間意識の形成過程を最も単純で素朴な意識である感覚的確信(sinnliche Gewißheit)から、対象を捉える理性的な自己意識へと到る意識の経験する過程を展開したのである。こうした意識の展開は、端初的な意識形態である直接的で無媒介な感覚的確信から対象意識を性質の持った物として捉える知覚(Wahrnehmung)する意識へと進展し、さらに対象と自己意識の関係を考察するという悟性(Verstand)へと到る意識の形成過程の展開を指し示したものである。こうした人間の意識は、われわれを取り巻く世界において対象を捉えることによって次第に対象意識と自己意識の関係を、把握してゆくのである。」13-085-096-Kawata.pdf (nihon-u.ac.jp)

西田幾多郎氏の「純粋経験」とか八木誠一氏の「純粋直観」などは一種の宗教体験と言えるにしても、そんなに大層なものではないから、八木氏との対談においては滝沢克己氏もあまり重視しなかったようですが、ここで言われている「端初的な意識形態である直接的で無媒介な感覚的確信」とでもいったことでよろしいのかも知れません。但し、人間は四六時中、意識的に生きているわけではなく、当然ながら無意識といわれるような状態もあるわけですから、その間は対象不在ということで、対人関係はもちろん対神関係さえも中断するのか…?という疑問は生じます。信仰的省察としては(…聖霊による再生の理性による私なりの考えでは)詩篇3:6「この私は、臥して眠り、目が覚めた、ヤハウェが私を支えているからだ。」(岩波版)を引用すれば十分でしょう。

以下、小川圭治氏の論文「神概念の転換——E・ユンゲルのバルト解釈を手がかりとして——」より引用。太字は私記。jcs_6_306.pdf (kyoto-u.ac.jp)

「さらにG・F・W・ヘーゲルの絶対精神としての神においては、『われわれの内なる神』と『キリストにおける神』との、人間精神内における弁証法的統一という一つの極点に達する。ここでは伝統的形而上学における最高存在者、絶対的超越者としての神と理性的人間の精神に内在化された神が合一させられているのである。しかし問題が神と人間である以上、両者が均等の比重をもって弁証法的に統合される場合には、あの神の絶対的超越性と究極性は重大な制約をうけ、内在化への傾斜をすべりはじめるのである。このようにして人間精神に内在化された神は、人間の自己絶対化の完成と保持に奉仕せしめられる。F・ニーチェが『神の死』を宣告したのは、このような形で真の絶対的超越性を制約され、やがてはそれをまったく喪失して行った近代主観主義の神に対してである。その結果、この『神の死』を越えて、真に生ける神、真の絶対的超越神が復活するか、あるいは死んだままでニヒリストの手によって埋葬されるかという可能性がのこされる。さきにユンゲルが、有神論と無神論形而上学ニヒリズムの対立が、『そこに人間の現われる余地のない高み』として実体化され、さらに理念として内在化された神概念という一つの基盤から、それを軸とした反転によって生じるといったのは、まさにこのような事態であったと考えられる。その上で、この有神論と無神論の排他的、非生産的二者択一の彼方に、このディレンマまたは矛盾対立を越えた新しい神概念の発見、または生ける神への神概念の転換が可能かという問いが提起されているのである。それは別の面からいえば、先に述べたように、絶対的超越性のみを一方的に追求し、超越ということそのものの意味も失われるような抽象的超越性に転落するのではなく、神の真の絶対的超越性が具体的、現実的に確保される可能性があるかという問いである。この課題に答えうるためには、この真の絶対的超越性を確保した神が、その自らの優先権において(人間理性の要請によってではなく)、自らを、歴史的現実において(理念の世界においてではなく)、具体的に一人の実在の人間において(たんなる観念や実体としてではなく)示すのでなくてはならない。つまり神の啓示の出来事が、一つの具体的な歴史上の出来事として生起し、一人の実在の人間において示されなければならない。すなわち、真の神性を確保した神が人間性を獲得しなければならないのである。この神の第二の本質的要素を、ここでは神の歴史的現実性とよびたい。ユンゲルは、その最初のバルト神学との対論の書『神の存在は生成においてある——カール・バルトにおける神の存在についての責任的論述——一つのパラフレーズ』において、すでにこのような神概念の転換を、『教会教義学』Ⅰ、Ⅱの三一論的神観の中に見出そうとしている。ユンゲルはここでは、神の存在、とくにその存在の対象性をめぐるH・ブラウンとH・ゴルヴィッツァーとの対論に含まれる問題点から出発する。つまり『教会教義学』Ⅱ/1、12ページ以下の『神の対象性』の解釈をめぐって議論が展開する。ブラウンがブルトマン学派の実存論的解釈の方法に従って、神を『たんに与えられたもの』とする『客観化的思考』(ein objektivierendes Denken)を批判することは理解できる。それは、先に述べたように、有神論であれ無神論であれ、神を実体として措定する態度に対する批判である。しかしゴルヴィッツァーも指摘するように、バルトの『神の対象的存在』の主張は、『対立して・立つもの』(Gegen-Stehendes)としての神の絶対的超越性、神の神性を回復し、一切の内在化、実体化を拒否することを目ざすものである。したがってゴルヴィッツァーは、『非客観化』(Ent-Objektivierung)と『非対象化』(Entgegen-standlichung)とを区別することを提案し、『非客観化』の主張は正しいが、それがただちに神の存在の対象性、その絶対的超越性を否定する『非対象化』にまで拡大されることは誤りであるという。それはさきに述べた本論文の問題との関連においていえば、神概念の本質的要素としての神の絶対的超越性が抽象的超越性へと転落することを回避しつつ、真の絶対的超越性を確保するという課題に対応する論点である。ユンゲルは、ゴルヴィッツァーがこの課題の遂行を、『存る=命題』(Ist-Satz)の必然性と不適格性の弁証法的対置という形で、いわば論理的手続によって進めようとするのを批判する。むしろバルトが『教会教義学』1/1において行ったように神の行為の三一論的構造の解明によって進めるべきだと主張する。つまりユンゲルによれば、バルトにとって、絶対的超越性を本質的要素とする神が歴史的現実性において自らを示すことは、まさに三一論的な神理解の問題であるという。したがって『神の存在は生成においてある』というユンゲルの書物の表題の示すテーゼは、神の存在を客観化、実体化から解放し、歴史において生きて働く神として神を理解することを目ざしている。『神学的に《生成》といわれるものは、存在論的、根源的には三一論的範疇として理解されるべきであり、そこでは神はその現臨を、自らにとって異質な未来に向って進むために過去として自らのあとにするのではなく、むしろ三一論的躍動性(die trinitarische Lebendigkeit)において《不可分に原初と持続と終局であり、その本質において同時にすべてである》(K・バルト『教会教義学』Ⅱ/1)』という。『生成』とは、ユンゲルにおいては、生ける神の歴史的現実性をあらわす範疇なのである。したがって『その存在が生成においてある神は、人間として死ぬことができる』ともいう。ここに『十字架にかけられた者の神学』への歩みが、すでに踏み出されている。このような『神の存在の具体性』は、バルトの神論においては、伝統的な三一論における三つの位格の『相互関入論』(Perichoreselehre)と『固有分与論』(Appropriationslehre)との対論によって展開されているとユンゲルは考える。」

「存在」と「生成」との関係については八木誠一氏が、有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』(創文社)を参照して、旧約宗教からキリスト教の重要な特徴である「歴史性」について述べたあと、「旧約聖書の考え方が上の意味で歴史的であり、存在を生成という観点からとらえていることは、単に民族性によるのではあるまい。(中略)我我が『統合への規定』と呼ぶリアリティにふれていたのである。」と述べています(『キリスト教は信じうるか』講談社現代新書 p188~189)。

自分も、聖書が示す「神」については、対神関係と対人関係との「不可分・不可同・不可逆」という考え方で、対象性なき「神」への信仰はあり得ないと思う者であり、人権尊重の前提に神の主権尊重を置く者なので、その点ではリベラル・左翼的立場のクリスチャンのように、ヒューマニズムに矛盾しない限りでの神信仰ということではなく、戦争にせよ災害にせよ、不条理、理不尽な出来事をも最終的には神の聖定として受容する立場なので、当然のことながら絶対的超越性を肯定し尊重する者であり、「神=霊」の聖書を介しての啓示を歴史的社会的現実に即して解すれば、「神=霊」は本来無制約であり「対象ー非対象」も「人格ー非人格」も「外在ー内在」も「遍在ー局在」も何らの分別も無い…超えているとみるのが(再生の)理性においては最も妥当であるということは直観的に何故なしに、言わば滝沢氏の言われるような意味で独断的に言い得るわけですが(…「独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」)、それでは対神関係が成り立たないので、神の自己限定…神の自己対象化…という物語が必要になるわけで、それが聖書に神話の形で表されています。そこから「神」には、同じく絶対他者でありながらも人間に対して外在する面と内在する面との両面があるということがわかります。三一論的には「御父=創造主」と「御霊=力・はたらき」です。対神関係にはこの両方のアスペクトがあります。問題は「御子=救い主」の意味です。イエスという史的人物との関係は、「神=霊」が歴史的社会的現実に関わるための要件であろうと一応は認め得ます。しかし、この史的人物を「神=霊」の化身の如き存在とみなすことは自分にはできません。それはヘブライズムを源流とする聖書の宗教とはみなせません。せいぜい聖書に入った異教的要素であるとみなすことになります。「御子」に関する物語…キリスト神話の核心は「ケノーシス」です。イエスは自身を神に向けて徹底服従することにおいて救い主たり得たわけで、「非対象の対象」なのです。自分には、神の真の絶対的超越性が具体的、現実的に確保されるということが、神が人間性を獲得するとか、人間として死ぬことができるとかいった話につながるのかはわかりませんが、「神=霊」が啓示すなわち自己限定・自己対象化において、形而上学的次元から歴史的社会的現実の次元に入るうえで必要な手続きであるということなのでしょう。自分は、三一論について従属的三一論としてでなければ受け入れられない理由は、御子(=主イエス・キリスト)について言われる「神(性)」を実体化しないためということです。すなわち、「御父」と「御霊(聖霊)」を「神」と言う場合の意味と、「御子」を「神」と言う場合の意味とは異なって然りであるということです。後者はあくまでも賛美表現としての(キリスト)神話であり、その中での「神」にすぎません。ヨハネ福音書1章にせよフィリピ書2章にせよコロサイ書1章にせよ…そこで物語られているキリスト神話はあくまでイエスの超人的な神への信従を賛美告白したものであって、それがそのまま歴史的事実などということではありません。そもそも先在の御子などという歴史を軽んじた考え方は形而上学的思弁にすぎません。「受肉」の意味はイエスが神の化身的人物だということではなく、イエスという人物を通して「神=霊」が歴史的社会的現実にコミットされたということです。それなしには人間にとって具体的な(心身の全人的)救いというものは無いからです。御子は信仰の対象であるとしてもあくまで自己無化(ケノーシス)による「非対象の対象」であり、せいぜいヘブライ書にあるとおり、大祭司としての働きがメインということで然り。「彼はいつの世までも留まるゆえに、不滅の祭司職を有している。それゆえ、彼はまた、自分を通して神のもとに進み出る人々を、完全に救うことができる。いつまでも生きていて、彼らのために取りなしているからである。」(岩波版 7:24~25)…これはテモテへの第一の手紙の、「神は唯一人、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波版 2:5)とも主旨が一致します。コロサイ人への手紙で、「万物は御子を通して、そして御子に向けて創造されている。」(岩波版 1:16)と言われているところの「~を通して」(ディア)に示されているとおり、御子(キリスト)は信の対象ではなく、対象に至るための「道」であり「媒体」です。神話での御子の位置づけがそのようであるということは、そもそも歴史的社会的現実との接点とされた史的イエスの生涯もまた、我々にとっては対神関係の接点ということになります。すなわち信仰者のあり方としての模範というわけです。いかに神の御霊に生かされ、神に対して従順に生き得るか…ということ…対神関係における外在と内在との両面での模範です。健全なる対神関係ではない宗教…すなわち、神人合一の神秘主義的宗教ないしは人間神化のオカルト的宗教を嫌悪するからこそ、神と人間との隔絶性…すなわち神の絶対的超越性が(抽象的であれなんであれ)強調されなければならないと思うので、バルトの神が人間性を獲得するとか人間として死に得る神とかいった考えには抵抗を感じます。人間イエスを絶対化して「神」と呼ぶくらいなら、内在的神観でもよいので、非人格的存在としての聖霊への信仰の方がよいです。三一論的に考えるかぎり、神の絶対的超越性とか対象性とか言っても、自分はそれは御父についてしか認め得ず、御子イエスには絶対性は認め得ません。

ところで、遠藤周作氏がエッセイ『私にとって神とは』で述べているような「神」は、私見では量義治氏が言うところの「自我の中に吸収され解消される神」です。そのような「神」は哲学史ではいわゆるドイツ観念論における「フィヒテ」の「絶対我」でしょう。カントの「モノ自体」を「自我」に内包されるとしたのですから…。一方、北森嘉蔵氏はブルトマンにとっての「神」が人間の主体性に吸収された旨を述べておられます。以下、『神学入門』新教新書 p6668より引用。太字は私記。

< ブルトマンによれば、新約聖書というものは、「私」という主体の変革をめざしているものであって、主体の変革と切り離されて客体的に起こる出来事を示しているのではないと申します。彼のいわゆる非神話化は、客観化的な思惟としての神話的な表象から、主体的実存的な真理を救い出すという企てであります。(中略)ブルトマンについては一つだけ指摘されなければならない重大な問題があります。さきほど私が、正しい神学は、どこまでも神と人間との関係を問題にすると申しましたが、ブルトマンにおいては、いささかこの関係が解体されて、神の側までをも人間主体の側に吸収する傾向をもつに至っております。救いたもう側としてのキリストの論すなわちキリスト論と、救われる側の人間の論としての実存論的な救済論とが、相即されねばなりません。しかるに、ブルトマンの場合には、いささか救済論がキリスト論を吸収するという傾向をもっています。これは、先ほど申しました正しい神学のあり方からはずれる危険を示しております。バルトの神学が、どちらかというと客観的なキリスト論の優位を強調するあまり、主体的な救済論に妥当な位置を与えないことへの反動のあまり、ブルトマンは逆にキリスト論を救済論に吸収する傾向をもっております。だから、キリストの事実は、あたかも人間実存の変革への象徴にすぎないかのようにさえ取られるのであります。とくに重要なのは、キリストの十字架の理解であります。ブルトマンは、「キリストの十字架を信じるということは、キリストの十字架を自己のものとして引き受けることである」などと申しておりますが、これではもはや「私のための」キリスト、「私の外で」起った十字架の事実は、見失われていると言えましょう。たしかにキリストの十字架は、私たちが模範として共に負うべきものでありますが、しかしその前に、私が十字架を負うに先立って、キリストが私のために私の外で負いたもうた十字架を、第一義的に意味するはずです。キリスト論と救済論とは、本来救い主の論として相即しておらなければなりません。救う側のキリストと、救われる側の主体との両方とを一挙にとりあげるようなものであって初めて、正しい神学であります。私は、それは結局神の愛であると思います。〔「神の愛」の各文字に傍点あり。〕>

関連して小川啓治氏の言葉を引用。太字は私記。

「これは人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道の究極であって、その道をさらに進むと、〈神〉という言葉なしに新約聖書の内容を述べることもできるという点にまで達する。すなわちここでは、神の存在は、その非対象性を通じて人間の実存の中に解消されたのである。もちろんブルトマンは、この点まで同行することはしない。しかしブルトマンの神学の中には、ここまで行ってはならないという明確な歯止めはない。」(小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p120)前半で批判されている対象が何だったかは忘れたが、「人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道」だと言われ、非対象的な神観だということ、そしてブルトマンがそこまでは行ってないと言うことから察すれば、現代神学における史的イエス主義か、近代以降の自由主義神学かなと思います。本が今は手元に無いので確認不可。

いずれにしましても、新約聖書における「キリスト神話」を徹底的に批判すれば、おのずと信仰的立場はユニテリアンになって然りでしょう!

ところで遠藤周作氏にとって「神」は人格でもなければ実体でもなく、存在とも言えないような「はたらき」であるとのことですが八木誠一氏が指摘しておられるように単に「はたらき」と言っても現実にはその「主(ぬし)」があって三分節されるわけです。< 神ご自身とは、「神のはたらき」(作用的一)の主(ぬし)のことである。「はたらき」にはその「主」がある、とわれわれは考える。それはこういうことである。言表は必ず主語と述語とから成っていて、主語だけ、述語だけでは文にならない。だから、われわれは作用を述べるとき、必ずその「ぬし」を主語として設定する。「ぬし」が存在しない場合ですらそうするのである。(中略)「雨だ!」と言えば済むところを、わざわざ「雨が降る」と主語を設定して文を作るのである。西欧語では、このような場合にはいわゆる非人称の主語を使う(It rains;Es regnet.などのように)。(中略)一般に作用にはその主体〔ぬし〕があるという通念は、文には必ず主語があるという言語の事実からきた思考の習慣にすぎない。よく考えればわかることだが、はたらきとは別の不変恒常の実体があって、それが「はたらく」(他者を動かす)のではない。動態においては一般に主体と動態は切り離せない。(中略)神はもともと「はたらく神」である。「神のはたらき」の「ぬし」は経験の対象ではない。うちに経験される「はたらき」(ここでは「ぬし」は語られていない)は、自覚内容の言い表しだが、それと「区別」される「ぬし」が実際にあるのかどうかわからない。にもかかわらず、その「ぬし」を神と言うと、「はたらく神」は「神がはたらく」と言い換えられ、この場合の「神」は「信仰の対象」となる。実は、そもそも「はたらく神」を「神」がはたらくと称したときに、すでにはたらきの「ぬし」が前提されたのである。「神」ご自身という呼称は、それを明確化する。そして、「ぬし」としての「神」は信仰の対象となる。>(八木誠一著『イエスの宗教』p46~48)

その「主」なしに「はたらき」だけがあるということはないと自分は信じます。(以下、引用。太字は私記。)

「『新約聖書』には定式にされた三位一体論はありませんが、それが出てくる根はあると思います。それをいちばん簡単に分かりやすく言ってしまえば、『新約聖書』でも超個とは働きなんです。あるいは本来的に人を人として生かす働きなんです。ところがそれを分析してみると、働きには主体があるわけですね。そして内容があって、さらに働きかけという伝達があります。構造契機は三つあるわけです。すると、主体=神、内容=キリスト、伝達=聖霊、ということになる。救済の働きを、たとえば啓示と言い直すと、カール・バルトが啓示の分析から三位一体論を基礎づけたような具合になります。バルトは、啓示の主体=神、啓示そのもの=キリスト、啓示が露わになること=聖霊というふうに言っているんです。それは当たっているし、これを言い換えれば、いま言ったように、救済の働きは三つに分節される。働きの主体と、働きの内容と、働きの伝達とがある。そうすると、働きの伝達の中には当然働きの内容があるわけだから、聖霊の中にキリストが在すと言えるし、伝達の働きはどこに根拠があるのかをつきつめれば、結局、救済の主体(神)なんですから、それを伝達する聖霊は神から出る、聖霊は神の霊であると言えるわけです。結局、救済の主体と、内容と、伝達は三だけど一だし、どの一つとってもその中には他が含まれてくるから、三位一体論的な構造が出てくるわけです。三位一体論とは区別されるんですが、伝達の働きは救済の主体から出るものでもあり、また救済の内容から発するものである。つまり聖霊は神の霊であり、またキリストの霊である(『ローマ人への手紙』八・9)という関係があって、これは聖霊論の問題ですが、パウロにおけるキリストと聖霊の関係はこうなっていますね。」(八木誠一、秋月龍珉著『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p151~152)

「歴史の中に『神の働き』の現実性がありますね。そうしますと、その『働き』についてですね、『働くもの』、それから『働きの内容』、それから『働きの伝達』とがあります。『三』が『一』になっています。そういう意味で、『神』の歴史の中における働きの現実性というと、やっぱり『三の一』、『一の三』が出てくるんです。要するに、『三位一体』論は『神の働き』を分析しているだけです。」(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p268)

「はたらき」と区別される「ぬし」が実際にあるのだと言えば「人格主義」になりますが、さりとて自分は場所論的思考はできないし、八木氏もイエスと同じく場所論的人格主義的(同書p113他)だといわれるなら、その「区別」は認めてほしいものです。要するに自分も、聖書が示す「神」は「はたらき」と不可分であるという意味では「はたらく神」と言えますが、その「はたらき」だけを語って「はたらきの主」である「神」については論じない…ということはあり得ないと思うのです。すなわち自分の場合、その「主」である「神」の「What」を問わずして、その「はたらき」の「How」を問うことはあり得ないのです。すなわち有賀鐵太郎氏の所謂「ハヤトロギア」の考え方…< 神の「われ」が存在して、それが働くのではなく、その働きのうちにこそ神の「われ」は隠れつつ自らを啓示する。啓示しつつ自らを隠している。>とか、< 神は「何であるか」よりむしろ、「何をなし、また何をなそうとしているか」が問題となる。>といった『キリスト教思想における存在論の問題』で述べられていることには、自分は同意しないということです。

ところで、遠藤氏が言うような無人格・無実体・非存在…というような「神」に対して、けっして人間の自我には吸収・解消するなどあり得ない「神」とは、スピノザの唯一実体神の如く万物をその中に包む「神」…ヤスパース的には「包括者」です。但し、それは汎神論の「神」であって下記のとおり「超越」性を欠くので、スピノザの神観に超越性を加えるべく汎在神論の「神」として再考察されなければなりません。(以下、引用。太字は私記。)

以下、長文でテーマとは直接関係ないことを書き込むことに恐縮しつつ、三木清氏の『人生論ノート』から自分がクリスチャンの立場において特に感銘を受けた「怒について」に関して、三木氏と同じく京大哲学科卒の異色の神学者である北森嘉蔵氏の言葉を御紹介させて頂きます。どうかお許しを…🙏                       三木氏は「怒について」で冒頭からキリスト教の神観について鋭い洞察を語っておられます。              

Ira  Dei(神の怒)、――キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。」

そして結論的には、「愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。」と、実に重要な、特に日本のキリスト教においては本質的な事柄をズバっと指摘しておられます。(;'∀') その三木氏の批判を受けるかのように、「神の怒り」について「眞劍に語らうとする」神学者が現れたのです。それが日本のプロテスタント神学者では稀有の世界的ヒット作『神の痛みの神学』を書いた北森嘉蔵氏です。以下『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p148~150より・・・「神は愛である(ヨハネ第一書四・一六)がゆえに、敵としての人間は神の愛の外に脱落している。神の愛は人間の反逆敵対によって破れている。この神の愛にとって人間はいかにしても包むべからざる者である。(中略)このような人間に対して神の愛は、神の怒りとなる。神の怒りは、人間の反逆敵対によって破られた神の愛である。イエス・キリストの福音は、このような徹底的なる他者としての人間を徹底的に包む神の愛である。(中略)イエス・キリストの十字架こそ神の痛みである。神の痛みとは、神の怒りの固有性を徹底的に認めて、しかもこれを貫き突破せる神の愛である。(中略)キリストの十字架はあくまで痛みという質をもてる矛盾である。痛みとは、怒りと愛との自己同一性である。いかにしても罪人に怒りをくだすべき神が、しかもこの罪人を愛する時、その怒りと愛との矛盾的自己同一が神の痛みである。痛みをして痛みたらしめるのは、怒りの固有性である。怒りが固有性をもたなくなれば、愛の一元主義があるのみで、痛みは消失する。キリストの十字架においては、神の愛が神の怒りを負ったのである。神の愛が神の怒りを負ってこれに撃たれたという事が、神の痛みである。福音を定義して、神が他者たる人間のために徹底的に責任を負うことである、となしたのも、その責任を負うという言葉の背後には、神の愛が神の怒りを負うという事が意味されていたのである。神の怒りとは、人間の罪に対して人間の責任を問う神の意志にほかならないからである。」・・・北森氏は「愛の一元主義」といわれる思想を剔抉し、聖書が明示している「神の怒り」との緊張関係において独自に「神の痛み」を説いたのです。「『十字架』というのは単なる寛容ではないのです。厳しさというものが位置を持っているわけです。例えば、旧約聖書では、『神の怒り』とか『審き』というのが大変に強調されているのです。(中略)新約聖書にも、『神の審き』ということは決してなくなってはいないのです。キリスト教は『愛の宗教』だというふうに言われて、甘いことずくめととられるならば、大変な誤解です。そうして、『審き』というのは頑固なものであって、いわゆる融通の出来るものではないのです。日本的特質の中で『融通無碍』ということもいわれます。(中略)『融通無碍』というのは仏教の非常に深い教理なのです。(中略)しかし、融通不可能な頑固さというものも考えられるのです。」(『日本人と聖書』〔教文館〕p50~51)という指摘からも日本的宗教性に「愛の一元主義」的な傾向が「融通無碍」的にあり、それが遠藤周作氏や井上洋治神父の思想への共感を招いたとも見られます。「イエスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のほうです。イエスは人間に信頼感を持っていました。聖書の中で裁きのことをイエスが言っているのは、それはイエスが死んだ後、原始キリスト教団の意識を反映した部分だと思います。何度も言うように、イエスが説いたのは、そういう神ではなく愛する神、許す神であったのです。神は、何を過去にしていても、最後に、本当におれは悪かったと後悔する者は救われるのだ、と言ったのです。」(遠藤周作著『私にとって神とは』)といった教説こそ、遠藤氏の『沈黙』によって問題とされたキリスト教土着化において日本人の心を根腐れ沼地にする思想であると思われます。聖書が示す神については「愛」だけではなく「怒り」をも語らなければならないのですが、多くの牧師は会衆受けする説教を志向するので「神の怒り」は後退し隠れてしまいます。その意味で北森氏のメッセージは貴重です。「神が神であることは、怒りにおいてこそ示される。怒ることなき神は、真実ではない。怒りなき神は、つねに人間と同意する神である。しかして人間とつねに同意する神こそ、偶像にほかならない。怒りによってこそ神が生ける神であることが示される。」(北森嘉蔵著『救済の論理』p34)私見では聖書の中で最も「神の愛」と「神の怒り」とが融合している言葉は、「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」(ロマ12:19)です。私にとって宗教の中で最も嫌悪すべきものはカルト云々というより二言目にはイエス様イエス様…愛します愛します…といった「愛の一元主義」的な甘ったれたキリスト教です。SNSでもこういうタイプのクリスチャンの発信によく出会うのですが、これこそ日本人の性根を最も腐らせてきた思想だと思います。このようなタイプのキリスト教信仰に対してはまさに「神の死」を告げて然りです。遠藤周作氏や井上神父の著書で強調されてきた「愛の一元主義」的思想における「神(観)」は、死なないかんたい死なな…です(;´∀`)

 

ここで八木誠一氏の、コリント第一15:28に関する見解も見ておきます。(以下、引用。太字は私記。赤字は傍点。)

パウロの場合は、『キリスト』中心的で、パウロ神学の中で『神』がどう語られているかというと、終末のときに、『キリスト』が『神』の敵を亡ぼして、支配権を『神』にゆだねる(『コリント人への第一の手紙』第十五章)、そこで『神』が『すべてのものにあって、すべてになる』と、そういうふうに書いてあります(二十八節)。そう言うと、当時のストア的な言い方とも近くなってくるんですが、そこまで突きつめてくると、これはユダヤ教的な『人格神』と違ってくる。だから、『無相』とまで、はっきり(イエスほど)言えないことは確かですけれども、いま申した箇所には、『神』は『パンタ・エン・パーシン』と書いてある。『すべての内にある、すべてだ』と。(中略)それから、これと関係があるんですが、『コリント人への第一の手紙』の第八章六節ですね。ここにも『神』が出てくるわけですけれども、『父なる神はおひとかたである』と言って、『すべてのものはその神から出る』、『私たちもその神に帰する』とこう書いてあります。(中略)そのあとに『キリスト』のことが出てくる。『主なるイエス・キリストもおひとかたである』と。この場合『すべてはキリストを通して』と書いてある。『キリストを通して』すべてのものが成り立ち、私たちもまた『キリストを通して』成り立っている、ということでしょう。(中略)『神』については、『神から』と言って、万物の根源が神であることを示す。そして『私たちも神に帰する(into Him)』と。『キリスト』のほうは、すべてのものがキリストを『通して』成り立ち、そして私たちもキリストを『通して』成り立っている、ということで、『神』の場合と前置詞が違うわけです。ここに区別があります。(中略)直訳すると “we into Him“ (中略)『神は万物がそこから出てそこ帰する』ということになるんです。そうすると、すべて、『そこ』から出てくるものは形あるものだとすると、神それ自身は形がないと言わざるを得ないし、また形あるものはすべてそこに帰することになる。だからやっぱり『神』は形がないということになるんです。もっとも禅なんかとは違って、禅では『万物は一に帰す、一はどこへ帰するか』というと、『万物に帰す』ということになりますから、パウロのほうはそういう言い方とは違います。『万物は神から出て、神に帰するのだ』と言う。ここには『不可逆』がありますね。そういう言い方だから、禅との違いは非常にデリケートだけど、『神は万物の根源だ』、そして『万物の中にある』ということになると、キリスト教でも神はやはり『形あるもの』ではなくなってくる。『見えざるもの』で、キリストが『見えざる神の形』だ、ということになる(『コリント人への第二の手紙』第四章四節)。もともと神はユダヤ教以来『見えざるもの』、『形に現わすべからざるもの』なのです。ところで、『神はすべてのものの内にあるすべてだ』という言い方はストア哲学の影響だという説があるんです。とにかくヘレニズムの宗教思想には、汎神論ないし万有在神論への傾向が強いのですから。だけど、私たちの問題は宗教史的な背景ではなくて、思想構造上の問題ですから、背景がどうであれ、パウロがそういう言い方(神は「すべてのもの」の内にある「すべて」となる)をしているということが大事なので、こういう言い方が成り立ってくるというのは、伝統的なユダヤ教とはずいぶん違うんだと思います(ヘレニズム的ユダヤ教は別です)。」(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕)p165~168)

そして、< パウロはそこをつきつめて展開してはいない。「一切に内在する一切としての神」をつきつめるとどうなるかということは、パウロは展開して語ってはいない。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞パウロ 徹底討論』〔青土社〕p179)と言われています。

いずれにせよ、このように八木氏は、神が「パンタ・エン・パーシン」を「すべての(ものの)うちにあるすべて」と訳しておられ、「すべてにおいてすべてと」(川端訳)とか「すべてのものにおいてすべてと」(青野訳)という「おいて」を「うちに」と訳しているのでて神の内在の面が強調されています。神が「すべてのもの」の内にある「すべて」となる…というのは汎在神論的というよりも汎神論的です。

「キリストが『統合への規定』であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七)こうして神は、すべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。」(八木誠一書『キリストとイエス講談社現代新書 p148)

 

「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。」スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

ということは、スピノザの「神」は創造神ではないということです。上記の形而上学的神論は、論理的には正しいと思われますが、これでは「超越」性が無い「神」ということになります。「超越」性なき「神」は、一神教における「神」たり得ません。無論、聖書では「神」は「絶対(者)」であるとか「無限(者)」であるとは言われていません。解釈としては「唯一」ということから「絶対」であると推察され、「永遠」ということから「無限」であるとも推察されるだけのことです。しかし、「神」が「絶対」であり「無限」であっても「超越」していなければ、創造主としての被造物との不可逆性が成り立ちません。ということは相対の絶対化…人間神化にもつながるおそれがあります。そうなると神秘主義に陥り、本来のヘブライ的神信仰から離れてしまうことになると思います。この点が宗教と哲学…特に形而上学との大きな違いであり、宗教…特にキリスト教においては、神が「絶対(的)」だと言ってもそれはあくまで信仰告白…賛美の表現としてです。信仰告白は論理的には矛盾しても問題ないのです。例えば、聖書的には「神」は「天」に局在しつつも遍在しておられることになるからです。従って「神」が「絶対(的)」だからといっても、信仰告白ないしは神学においては、そこから論理的に「無限」につながり「外部が無い」といったことには、必ずしもなりません。ここで改革派神学における「神」の属性について、特に「無限」についてみておきます。田吉和著『改革派教義学 2 神論』(一麦出版社)では、「神の属性」の分類として、1.本性的属性と道徳的属性(natural and moral attribute)、2.絶対的属性と相対的属性(absolute and relative attribute)、3.自動的属性と移行的属性(intransitive and transitive attribute)、4.否定的属性と肯定的属性(negative and positive attribute)、5.不流通属性と流通属性(incommunicable and communicable attribute)、6.A. カイパーにおける神の属性の分類、7.H. バーフィンクにおける神の属性の分類、8.「ウェストミンスター小教理問答」と神の属性の分類(第四問の属性論に関する岡田稔の理解)・・・と8分類が挙げられており、この本では従来通り5の「不流通属性と流通属性」が採用されているということ。次は、その「不流通属性」のうち「無限性」に関する記事の引用です。

< 3.神の無限性    神の無限性は、「インフィニタス」(infinitas , infinity)という用語で表現される.これは神の本質と属性においていかなる限定も存在せず、時間・空間の世界のあらゆる限定から自由であることを意味する.しかし、この無限性は汎神論的に理解されてはならない.むしろこの無限性は神によってのみ完全に把握された神における現実性と理解されるべきである.この神の無限性にかんして、歴史的改革派神学は、「神の完全性」「神の永遠性」「神の遍在性」という三つの要素において論じてきたのである.

a.神の完全性  すべての流通属性といわれるものを神の属性たらしめるものは、この完全性(perfectio , absolutus)においてである.たとえば、聖という属性においてすべての限定から、すべての欠陥から完全に自由であることにおいて、すなわち質的な無限性において聖という神の属性はまさしく”神の属性”なのである.この意味において神の無限性は、神の本質の完全性と同じである.

b. 神の永遠性  神の無限性が時間との関係で考えらるとき、神の永遠性(aeternitas Dei)が語られることになる.神の永遠性は、本質的に時間から区別される.神は、世界が存在する前から存在する神であり、この世界がもはや存在しない時でさえ、そこに存在する神なのである.神の永遠性は、単なる時間の前後への無限な延長ではない.時間の限定から超越しているのであり、絶対的超越性である.この意味においては、K.バルトが、『ローマ書』において主張した永遠と時間の無限の質的核絶性は真理契機を保持する.すなわち、われわれは、日、週、月、年によってしるしづけられ、さらに過去、現在、未来とに分かたれる存在である.しかし、神は、日、週、月、年に限定されず、過去、現在、未来に分かたれない.神には、初めもなく、終わりもなく、神にとって過去、現在、未来は一つの今であり、”永遠の現在”とも言えるものである(詩90:2、102:28、イザヤ57:15、Ⅱペトロ3:8、黙示1:8).しかし、神の永遠性は時間に限定されないが、同時に「時間の中で」が語られうる.永遠の神は「時間の中で」人間と交わりをもたれるからである.

c.神の遍在性   神の無限性が空間との関係で考えられる時、神の遍在性(omnipraesentia Dei)が語られることになる.神の遍在性は、否定的に表現すれば、神は空間的なあらゆる限定から完全に自由であるということを意味する.この場合の空間とは被造物の現実性の全体を意味している.「天も、天の天もあなたをお納めすることができません」(列王上8:27).神も遍在性を、肯定的に表現すれば、神はその全存在をもってあらゆる空間的限定を超越して、空間のどの点にも、いかなる部分にも遍在されることを意味する(詩139:5-10).これは神の遍在的力によるすべてのものの支配と統治と密接に関係する(「ハイデルベルク信仰問答」第10聖日).

神の遍在は、神の遍在のしかたが常に一様であることを意味していない.神は、天にあっては地とは異なっている(イザヤ66:1).天においては、すべては神の栄光に満ちた遍在が充満している.神の民における神の遍在と被造物における神の遍在とは同じではない.神に背を向ける者には、神の遍在は恐れるべきものであり、神の民にとっては慰めと平安である.神は高く、聖なるところに住み、へりくだる霊の人と共にある(イザヤ57:15-21).この点は、さらに御子における神の臨在、さらには聖霊による臨在、さらには終末的栄光の御国における神の全き臨在の問題にまで展開されるべきものである.ここに至るとき、神の遍在性の問題は神の民にとって根源的な慰めの問題と結びついてくる.>(p123~125  ※「不流通属性」は「非流通属性」とも言われる。)

汎在神論における「神」の「超越」性とは、被造万物に「内在」はするけどしきらない…すなわち「所有」されない…「従属」はしない…という意味だと心得ます。聖霊も人の内に住み給いますが、その人の所有にはならず、むしろ主導なさるのです。この点、聖書が示す「神」…キリスト教の三一神における信徒への「内在」は「超越的内在」であると言えます。これに対して、スピノザの「神」の万物への「内在」は超越性なき内在だから「即」なのです。「汎神論」の「神」は創造主ではないので、万物に「内在」するだけで「超越」はせず、自然・万物との不可逆的な関係は成り立ちません。これに対して聖書的「汎在神論」の「神」はあくまでも創造主なので、万物に「内在」はするものの不可逆性を保持し「超越」性を維持するのです。

キリスト教的(三一)神観に対してスピノザの汎神論が有意義なことは、ユンゲルの「神の存在は生成においてある」(Gottes Sein ist im Werden)への批判になるということです。

フィヒテスピノザの共通点について、彼は次のように語る。 「(1)存在。生成の絶対的否定という性格。一である存在のうちに一切のものがあり、存 在の中では何も生成しない。ここから自立性(Selbständigkeit) が、また不易性 (Wandellogigkeit)という否定的概念が、同じように出てくる。ここから存在は一である とか、その他の諸命題が生じる。スピノザにおいて然り、我々において然り。」 (GA,II-13, S.51, FW, X, S. 326,フィヒテ全集第 19 巻 226 頁)> (~入江幸男氏の論文「フィヒテによるスピノザ批判」)31 フィヒテのスピノザ批判 (20210918) - 哲学の森|入江幸男のブログ (irieyukio.net)

モルトマンは、『外部から創造がなされた』という発想から、キリスト教神学が解放される(自由になる)必要があると考えます。神が神自身に働きかけるプロセスとして創造を理解すべきであるというユダヤ教カバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築するというのがモルトマンの戦略です。そのためには、アウグスティヌスによって、カトリック神学、プロテスタント神学の双方にとって公理系のごとくなった、創造を神の業の外部に向けた作用という見方を改めなくてはならないと考えます。〈アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいるキリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。」佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

「神」は世界に「内在」するからといって世界から「超越」することが否定されなければならないわけでもありません。むしろ両方が肯定されます(「超越的内在 即 内在的超越」)。それは神は「全能」であるという信仰告白が前提としてあるからです。聖書では「神の存在」自体が証明を要さない公理のような大前提です。それを定理でもあるかの如くカン違いすると聖書の誤った読み方に陥ります。信仰は理屈ではないのです。客観的な事柄ではなく、さりとて単に主観的な事柄でもなく、信仰心を与えられている人々の間に成立する共同主観的な事柄です。ブーバーの表現を借りれば、信仰は「はじめに関係ありき」なので、対神関係においても、「はじめに賛美(頌栄)ありき」というのが宗教であって、「はじめに理屈ありき」というのがスピノザのような哲学者の神論です。従って哲学的には矛盾した言い方であっても宗教においては成立するのです。つまり、半分は理屈を採用する神学においても、「汎神論」は超越を欠くということであれば、これは否定されて「汎在神論」が支持されます。「神」の超越性は、絶対性以上にキリスト教信仰における「公理」であって、証明すべき「定理」ではないからです。

実存哲学者のひとりに挙げられるカール・ヤスパースの「神」は「超越者」であり「包括者」とも言われます。問題はそれが「絶対者」であり得るかどうかです。

ところでパウロ書簡には、「神はすべてにおいてすべてとなる」とあります(コリント第一15:28)。「~となる」ということは、神は今は「すべて」ではないということを意味します。なぜなら、今のこの世では神は自己を限定しておられるからです。
しかしこの世の終末において、その限定を解かれる時が来たなら、神は本来の「すべて」に戻られるのです。
「そこで(デ)すべてのものが(パンタ)彼に(アウトー)従わされた(ヒュポタゲー)とき(ホタン)そのとき(トテ)子(ヒュイオス)自身(アウトス)も([カイ])彼に(アウトー)すべてのものを(タ パンタ)従わせた方に(トー ヒュポタクサンティ)従わせられるであろう(ヒュポタゲーセタイ)神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)ため〔である〕(ヒナ)」(希和対訳)
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波委員会〔青野太潮〕訳)
コリント第一15:23~28に関しては、青野太潮氏の論文『パウロの神中心主義』(1997年4月7日の1997年度西南学院大学神学部開講講演において青野氏は同テーマで話をされ、この論文は問題をⅠコリント15:23-28との関連に絞って細かい釈義とともに展開していると注記されています。まさに文法的な細かい内容が記されており、この段落における主語は24節cにおいてキリストから神に変わっているとのことです。以下、訳出されたものを書き写します。(以下、引用)

23a  さて、各自は自分自身の順番に従うのである。

23b 初穂はキリストであり、

23c 次いで《彼》の来臨におけるキリストのものである者たちであり、

24a 次に終りがあり、

24b その時、<彼>は、王国を神すなわち父に渡し、24c (また)その時、<彼>はすべての君たちとすべての権威と権力とを壊滅させるのである。

25a なぜならば、《彼》は支配することになっているからである、

25b <彼>がすべての敵を《彼》の足下におく時まで。

26 最後の敵として死が壊滅させられる。

27a なぜならば、<彼>はすべてのものを《彼》の足下に従わせたからである。

27b さて、すべてのものが従わせられてしまったと言う時、

27c そのすべてのものを《彼》に従わせた方が(そこに)含まれていないのは明らかである。

28a すべてのものが《彼》に従わせられる時、

28b その時には御子自身もまた、すべてのものを《彼》に従わせた方に従わせられるであろう。

28c それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。

(以上、引用終わり)(以下、引用。太字は私記。)

ちなみに、八木誠一氏は次のように述べておられます。
パウロ神学は神中心主義か、キリスト中心主義かという問題があります。それで『コリント人への第一の手紙』の第十五章を見ていますと、最後の時に「キリストは神の敵をすべて滅ぼして、すべてを神の御手にゆだねる、そこで神がすべてのすべてになる」と書いてあります(20-28)。神とキリストは、はっきり区別されています。(中略)終末論の一番最後にそう書いてあるわけです。ですから、神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。>(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p147~148) 

以下、量義治著『宗教哲学入門』より引用。

「救済信仰の必然性

親天新地が完全なる救済世界であるといっても、われわれはそのような世界を信ずることができるであろうか。それこそ新天新地の到来は大いなる神話ではなかろうか。新天新地は神による新しい創造である、と言う。それはいつのことか。世の終末において神の子が到来する時である。では、その神の子が到来するのはいつか。神の子は言う、『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。』(『マルコによる福音書』一三章三二節および並行記事)

神の子が到来する、と言う。(中略)いったいだれがこのような物語を信ずることができようか。(中略)イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。(中略)このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。(中略)義認は完全救済ではなくて部分救済ではあるが、その信仰は他力的である。(中略)

宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。ところで、新天新地の到来とは第一の古い創造に代わる第二の新しい創造である。再創造である。この救済の終局としての再創造はすでに始まっているのである。すなわち、救済の第一歩はすでに始まっているのである。それではそれはなにか。それは現実の苦を罪に対する審判として受け取ることである。審判が即救済なのである。このような即非の論理、または絶対矛盾的自己同一が成り立ちうるのは、絶対者自身が絶対有にして絶対無であるからである。絶対有としての絶対者はわれわれを絶対的に否定せざるをえない。しかし、この同一の絶他者は同時に絶対無であるがゆえに、われわれをどこまでも肯定せざるをえない。このような絶対者においては、絶対否定即絶対肯定、審判即救済なのである。真の肯定は否定なくしてなく、したがって真の救済は審判なくしてないのである。このような否定―肯定の構造、または審判―救済の構造は、絶対者自身の絶対有―絶対無の構造に基づくのである。(中略)救済は絶対者に基づく。すなわち、救済は絶対者による救済である。信はこのような絶対者との根源的関係である。」(p207~238)

上記で、「救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。」と言われているように、自分個人の内面においても「救済」論への集中は「キリスト論」はもちろん(って言うか自分の場合はそれよりも)「神」論にも無関心ではあり得ない。あくまで「救済」と「絶対他者」とはセットなのだ‼ その点で、新約聖書学者であるのに教義学的論述をされている青野太潮氏の下記の発言は重要であり、それに対している寺園喜基氏の発言も逆の意味において重要だと思う。

※以下、いきなり敬語に変わります。なお、引用元は青野太潮氏の論文「『障害者イエス』と『十字架の神学』」です。160824-04.pdf (touhokuhelp.com)

すなわち、障害者神学の関係で青野氏は、「極限状況にある『重度の障害者』においてまず第一に成立しえないような『神理解』は、キリスト教の『神理解』とは関係がない、と私は考えている」と極めて大胆なことを述べたうえで(…このようなことは神学者は誰でも言いたがる)、注目は次の文言です…「しかし、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」…これは凄いと思います。何が凄いかと言えば、対論者の寺園氏の以下の文言の凄さに対抗し得る説得力を感じさせるからです。

「神を創造主として語り、創造主との関連で障害者を語るのは第二のことなのであり、しかも限界があることなのであって、神をイエス・キリストにおける主なる神として語り、そのようにして神の存在と働き及び神認識を語り、キリスト論からしかも十字架のキリスト論から障害者について語ることこそが、第一の根源的なことなのである。」

私自身も救済の現実に集中する以上、「神を創造主として語り、創造主との関連で障害者を語るのは第二のこと」でり、第一には実践経験およびその志向的思索が来て然りだと思っていました。そして青野氏も、「たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。」ということは言っておられるわけです。しかしそれと、バルト神学的キリスト論的集中とは区別されるわけです。青野氏の独自性はそのキリストを通しての神認識の理由です。キリストにおける神のみを神とするということは福音主義神学者なら誰でも言いそうなことです。キリスト啓示を自然啓示より優先したがるのは自然啓示が自然神学につながるおそれがある以上、当然と言えば当然だからです。しかし青野氏はその後に次のことを言われたわけです。

「『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである

ここで「そのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか」と言われているところの「イエス」とは、青野氏においてはいわゆる「史的イエス」であって、カルケドン信条にあるようなドグマティックな『真に人』としてのイエス」ではないと確信します。従って青野氏は、古代教会時代以来の御子創造主説を否定し、従属論的御父創造主説に一元化するかたちになっています。それは事実上、コロサイ1:16の「御子によって造られ」という「~によって」(ディア/ through)という前置詞の解釈を媒介的意味に限定されたということです。御子は創造の目的(エイス/ for)ではあっても根源ではないということです。これも新約聖書学者としては凄い発言だなと思います。御子創造主説の解釈の可能性を事実上、否定することを意味するからです。

その点で下記の和田幹男司祭の記述とは意味が微妙に異なるかも知れません。

キリスト教にとって、イエスは神であり、人間であり、このイエスが信仰の対象である。エスご自身は一人の人間として何を信じておられたのであろうか。イエスは一ユダヤ教徒として生まれ、成長されたので、当時ユダヤ教が教える神を信じておられた。 ユダヤ教モーセの律法に基づく宗教で、その基本は旧約聖書に書きとめられている。 イエスは律法に現れるこの神の意志を尊重し、それに徹底的に従われた。 またイエスは自分と同じようにその神を信じ、その意志に従うように人々に教えられた。」和田幹男/父なる神の慈愛

ここで和田神父のいわれるイエスは、「キリスト教にとって、イエスは神であり、人間であり、このイエスが信仰の対象である」と言われているとおり、カルケドン信条における「真に人、真に神」であり、ここでは前者の側面に注目してのことだと思います。

上記のように、バルト神学の所謂「キリスト論的集中」という方法論が反映している寺園氏による熊澤(的「障害者神学」)説批判に対する青野氏の創造主とキリストとを峻別する論述にふれて想起されるのは、啓示に関する下記のバルト神学に対する批判的記述です。

「『キリストの啓示は排他的(exclusive)か』という見出しは、もちろん、キリスト以外の啓示はないのかという意味です。カール・バルトをはじめとする弁証法神学者たちは、キリストだけが啓示とである、人間はキリストにおいてだけ神を知るという、いわゆるキリスト集中論的(Christ-concentration)啓示観をとても強く主張した。神の啓示はキリスト以外にない、キリストだけだと強く主張し、キリスト以外の一切の啓示を認めないが、その主張が正しいかどうか、ベルクーワは検証する。そして、結論的に言えば、バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神はヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。とても説得的でよい。(中略)

3.キリスト集中論的啓示観へのベルクーワの対応
(1)バルトとブルンナーのキリスト集中論的啓示観

ベルクーワは、いよいよ、バルトをはじめとするキリスト論集中の啓示理解を取り上げる。ベルクーワはキリスト論集中の啓示理解について、どのように考えるのかを見よう、バルトは、1927年に書いた『神学序論』(プロレゴメナ)において、イエス・キリストは、『神の啓示の現実的出来事であって、イエス・キリストは単に神の啓示でなくて、神御自身であり、それによって、神が歴史化した啓示である』と語って、イエス・キリストだけが啓示であることを強く主張した。また、バルトは1934年の『クリスマス』という随想において、イエス・キリストは、『これのみが啓示である。神の秘儀の強奪(rending)として、真のそして現実の啓示である(real and actual revelation)』と語って、イエス・キリスト以外の他のものは、イエス・キリストの周囲に集まるものであって、それにある仕方で参与するものである。しかし、それらは肉のかたちの神御自身である御言葉の真の意味での啓示ではなく、イエス・キリストだけが啓示と主張した。それゆえに、バルトにとっても自然と歴史における神の啓示活動はないし、また、さらに、旧約時代における神の啓示あり得ないことになる。すなわち、歴史において一回的に受肉した御言葉以外には、他のいかなる真の啓示もあり得ないというのが、キリスト一元的啓示概念(Christmonistic conception of revelation)になるわけである。そこで、同じキリスト一元的啓示観に立つエミール・ブルンナーも、次のように言う。1927年の『仲保者』において、ブルンナーは、『旧約聖書預言者とも区別して、預言者は御言葉をもつ、しかし、御子が御言葉である』と言った。また、ブルンナーは、『預言者たちによる啓示は、最終的であり得ない。それは、真の啓示でなくて、啓示の影にすぎない。』。意味は、旧約聖書には真の啓示はないという意味である。イエス・キリストだけが啓示であるので、イエス・キリストが出現しない旧約時代は預言者がいても、真の啓示がないという考えである。旧約時代は、啓示の影の時代である。すなわち、バルトもブルンナーも、歴史上に一回的に出現したイエス・キリストは、受肉による和解と考えるので、和解はイエス・キリストだけにしかない。旧約預言者には、受肉による和解のわざはできないので、旧約時代には啓示がないことになるし、啓示がイエス・キリスト以外にも多数な仕方で与えられたことを否定する。ベルクー言う。『この概念において、啓示の多様性や歴史に対する余地がない。というのは、受肉においてのみ、神が御自身が肉となってわたしたちの世に来たからである』と解説している。すなわち、バルトやブルンナーにとっては、神が受肉したことが啓示と考えるので、他に啓示はないことになる。旧約時代には啓示がないことになるという意味である。

(2)キリスト集中論的啓示観に対するベルクーワの批判

そこで、ベルクーワは、イエス・キリストだけが啓示と主張する人々に対して、どのように反応するのか。すると、ベルクーワは彼らの考えはおかしいと言う。何故なら、聖書は、イエス・キリスト以外にも啓示があることを自由に語っているからである。聖書はキリスト以外にも多様なかたちで、神の啓示がなされた歴史、すなわち、旧約時代を語っているからである。そこで、ベルクーワは、ヘブライ1:1、2を根拠にして、キリスト以外にも、すなわち、旧約時代に啓示があったことを語る。ベルクーワは聖書の使い方が上手で的確である。ヘブライ1:1、2は、『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。』である。ここは、啓示の歴史的進展、そして、啓示の完結、頂点が語られている。『この叙述の非常に強く驚くべき局面は、手紙のはじめに、イエス・キリストにおける絶対的で、排他的救いが、ひっくり返さない石がないほどにはっきり示しているということである。そして、救いの排他性は、御子において、また、御子を通して、神が語ることがいろいろなし方で、神が以前に語ることとともに述べられていて、少しも矛盾していない。大祭司であるキリストにおける独自な救いの視野は、神が過去において語ったことと啓示したことを過小評価するきっかけにしていない。逆に、神が語ることが、広い多様な視野で知られている。すなわち、いろいろな時に、いろいろな方法で言われている』(104頁-105頁)。『それは、ひとつの長い歴史的期間にわたる多様な形態(multiform)であり、神の歴史的多様な活動であり、それは、御子によって神が語ったことに並べられており、そして、著者の評価にとって、イエス・キリストを少しも過小評価せず、かつ、弱めていないのでる。・・・そして、最後に、地上における神の救いの決定的局面において、神が御子を通して語ったのである。以前と後の神の語りの差は、前者が後者より現実の啓示の性質を少ししか含んでいないということではない。それらすべての推論を完全に除き去っている。』(105頁)。その意味は、ヘブライ1:1、2は、明白に旧約時代から神の啓示があったことを語っている。イエス・キリストにおいて完結し、頂点に達したことを教えている。したがって、イエス・キリストだけが啓示であるという考え方は誤りで、自分勝手な考えになる。バルトの啓示論は、大きな影響を与えたが、しかし、正しいとは言えない。また、ヘブライ1:1、2だけでなく、旧約聖書を見ると、聖霊による啓示があったことがわかる。たとえば、サムエル下23:2で、『主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。』と言っていることからも、旧約時代に啓示があったことが十分わかる。また、ペトロ一1:11では、『預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。』と言われていて、キリストの霊、すなわち、聖霊が旧約時代の預言者たちを通して、啓示していたことがはっきりわかる。すなわち、旧約時代時代には啓示が幾らでもあったのである。したがって、イエス・キリストにだけ啓示があるというのは成立しない。

※以上、サイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ベルクーワ教義学の紹介と解説 Theology of Berkouwer 『教義学研究シリーズ』(全14巻)の「ベルクーワ神学の紹介と解説」の「5.ベルクーワの著作の紹介」の「第5章 キリストの啓示は排他的か」より。minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

私たちは聖書の唯一の内容がキリストであることを徹底的に明らかにしたバルトの偉大な功績は公平に認めますが、しかし、その際に彼が取ったやり方には行き過ぎと不十分さがあったことを見過ごしてはならないと思います。即ち、聖書はキリストについての証言と言う時、彼は聖書から啓示性を奪ってしまっていたのです。私たちもオランダ改革派のH・バービンクに倣って聖書はキリスト証言と考えます(『まじわり』九月号拙論参照)。それ故、バルトも私たち改革派もどちらも聖書はキリスト証言と言います。しかし、同じ言い方をしても両者は意味が大きく違います。私たちが聖書はキリスト証言と言う時に私たちは当然のこととして聖書は霊感の故にそのまま、直接的に神の言葉であり、啓示であると考えています。しかしバルトは違うのです。彼は聖書はそのまま、直接的に、即座に神の言葉、啓示ではなく、受肉した神、イエス・キリストだけが神の言葉であり、啓示であると考え、聖書は神の言葉、啓示であるキリストについての人間的文書とするものです。勿論、私たち改革派も聖書が人によって書かれた文書であることは十分に認めます。しかし、聖霊の霊感によって与えられたので、聖書がそのまま、直接的に、即座に神の言葉であり、啓示であることを確信して今日まで来たのです。いずれにしても、こうしてバルトは聖書と啓示(神の言葉)を区別するのです。バルトが、聖書と啓示(神の言葉)を区別する誤りをしたことについては、改革派神学者のクラース・ルーニアの『カール・バルトの聖書についての教理』(1962年)において詳述されています。わたしは、このルーニアの『カール・バルトの聖書についての教理』を、研修所の講義において、1章づつ丁寧に紹介・解説しました。さて、ではバルトはどうして啓示はイエス・キリストだけであると考えたのでしょうか。実はそれにはドイツの教会闘争と言われる当時のドイツの神学の状況と深い関わりがあったのです。ドイツの教会の中にはヒットラーに率いられるナチスの出現に、ドイツ民族を救済する神の意志、神の啓示を見て、ナチスを翼賛していくドイツ・キリスト者が生じてきました。そこでバルトはこのドイツ・キリスト者の神学と対決するために、神の啓示はキリストだけに現われており、ドイツ民族の法や歴史には在り得ないことを強く主張したのでした。彼はこの根源的確信に立って1934年に6項目から成る『バルメン宣言』を書きました。そしてその第一項目には神の啓示はキリストだけであるとの彼の根本的確信が明白に表わされております。引用してみましょう。『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』(ヨハネ14:6)。『よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からではなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は教われる』(ヨハネ10:1、9)『聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉(啓示)である。教会がその宣教(説教)の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらにほかの出来事や力、現象や、真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければ ならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける』。こうしてバルトは現実の戦いの中で神の啓示はキリストだけであることを声高らかに宣言したのでした。私たちもバルトがキリストの教会のために最大限の努力をしたことは十分に評価したいと思います。しかし、そのような大きな理由があったにせよ、神の言葉(啓示)はキリストだけであるとして、聖書がそのまま啓示であること、文書化された啓示であることを認めなかったことは重大な誤りと言わねばなりません。改革派の神学者たちも、バルトの偉大な神学的貢献は認めつつも、次々とこの点を批判し始めたのでした。

(4) 結論

バルトの聖書論および啓示論については更に多くのことが語られねばならないと思いますが、ここでは彼が聖書を『神の啓示(テキスト)についての証言』という考え方で聖書の唯一の独自な内容・主題がキリストであることを明らかにしたこと、しかし、その際に啓示をキリストだけに限ってしまうという行き過ぎをしてしまったこと、このふたつの点を見ておけばよいと思います。」

※以上、サイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「聖書の権威Ⅲ ―聖書の内容であるキリストとの関連で―」の「3.バルトの場合」の「(3) 聖書観」より。

minoru.la.coocan.jp/ksseishonokenibarth.html

にかく、前述のとおり長年、西南学院大学神学部で組織神学者の寺園喜基氏と同僚であった新約聖書学者の青野太潮氏は、バルト神学のキリスト論優先的な考え方を、「認識論」では肯定しても「存在論」としては否定しているわけです。私のような者からすれば、パウロからルターへ通じる「十字架(につけられてしまったままでいるキリスト)の神学」に重きを置いて自論を展開してこられた青野氏が、これほどまでに創造論存在論を重視することは驚きであり、聖書学者の論述としては画期的なことであると思いました。その青野氏の発言の背景には必ず滝沢克己氏の「インマヌエルの原事実」の思想からの影響があると思います。そもそもいわゆる滝沢神学に新約聖書学者の青野氏が関心を持ったこと自体、九大と西南という、同じ福岡市にある大学同士という関連性はあるにせよ、非常に興味深いのです。その反対に寺園氏も滝沢神学から多少なりとも影響を受けているはずですが、この青野氏との対論ではその反映は見受けられません。なおもう一人、青野氏の対論相手でなおかつ滝沢克己氏の関係者として八木誠一氏がおられます。つまり滝沢つながりで、青野、寺園、八木の三氏がいるわけです。特に八木氏はその関係で九大から文学博士の学位を取得しておられます。それはともかく、救済に関する量義治氏の注目すべき文言をまた引用します。

「仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。これに対して、キリスト教およびイスラム教における絶対者は、さしあたり有的絶対者であると言って差し支えないであろう。ヤハヴェもアッラーも唯一にして、創造者なる、全知全能なる、生ける神である。もっともここで注意しておかなければならないことは、イスラム教は唯一神教であるが、キリスト教は、厳密に言えば、そうではない。キリスト教の神はたしかに唯一ではあるが、父と子と聖霊という三つの位格を有するのである。すなわち、三位一体の神である。(中略)キリスト教の神はさしあたりは有的絶対者であると言って差し支えないが、後に見るように、単にそう言い切るわけにはいかないのである。それは、キリスト教の神が単なる唯一神ではなくて三一神であることと深く関わっている。神が単に有的であるならば、そのような神においては三位一体ということは成り立ちえないであろう。いま結論的なことだけを述べておくならば、キリスト教の神は絶対有即絶対無なる神なのである。(中略)宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。このことは自力・他力を問わない。(中略)人間の絶対者関係には二通りある。一つは人間のほうから絶対者と関係を結ぶ場合である。もう一つは絶対者が人間と関係を結ぶことによって人間が絶対者との関係に入る場合である。この場合には、根本的なのは絶対者の人間関係であって、人間の絶対者関係は絶対者の人間関係に対する応答としての関係である。自発的な関係にせよ、応答的な関係にせよ、およそ人間の絶対者関係は信に基づく関係である、と言うことができるであろう。」(~前掲書 p190~192)

「現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。もはや文明はあがけばあがくほど虚構を堅くし、空虚の深淵に落ち込んでゆくであろう。このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。」(p215~216)

「『不動の動者』において典型的に見られる哲学的絶対有は死せるものである。また、西田哲学的絶対者は結局は絶対無であって、絶対無即絶対有とは言われるけれども、絶対有の絶対有としての意義が十分に認められているとは言えない。(中略)三位一体論における三位格は絶対有である。しかし三位一体論には論理的難点がある。それは絶対が三つもあって、しかも一である、ということである。(中略)一なる有が三なる有である、または、三なる有が一なる有である、と言うのである。そのようなことは理解できるであろうか。絶対有の立場に立つかぎり、三位一体論は支持しがたいのではなかろうか。あるいは三位一体論を保持しようとするかぎり、絶対者観を変えなければならないのではなかろうか。(中略)三位格はそれぞれ絶対有である。しかし、単に絶対有であるならば、三位一体ということはおよそ思惟不可能である。三位一体ということが成立しうるのは、各位格が単に絶対有ではないからなのである。絶対有としての各位格はいかなる場所において存在するのであろうか。もしその場所が有的であるならば、絶対有としての各位格の存立の可能性は保証されても、これら三つの絶対有が一つであるということは、とうていありえないことであろう。問題の場所は無、厳密に言えば、絶対無以外ではありえないであろう。絶対有としての各位格は絶対無の場所において存在するのである。絶対有が絶対無の場所において存在するということは、絶対有の存在性格を規定するであろう。すなわち、絶対無の場所において存在する絶対有はもはや単なる絶対有ではなくて、絶対有にして絶対無であるということになるであろう。三位一体の神は絶対有にして絶対無なる神なのである。それゆえに、三位一体ということが可能となるのである。(中略)もしも三位格が単なる絶対有であったならば、相互に対立するだけで、相互相入などありえない。というのは、絶対者はつねに一であるからである。そもそも三位格の定立自体が不可能となる。三位格が絶対有にして絶対無なるがゆえに、三位格はそれぞれ独立の位格でありつつ、同時に相互相入が可能となるのである。そして、これによって三位一体が成立しうるのである。神は絶対有にして絶対無であると考えることによってはじめて相互相入が理解可能となり、三位一体論が納得がいくように基礎づけられるのである。(中略)絶対矛盾的自己同一が成り立ちうるのは、絶対者自身が絶対有にして絶対無であるからである。絶対有としての絶対者はわれわれを絶対的に否定せざるをえない。しかし、この同一の絶対者は同時に絶対無であるがゆえに、われわれをどこまでも肯定せざるをえない。このような絶対者においては、絶対否定即絶対肯定、審判即救済なのである。真の肯定は否定なくしてなく、したがって真の救済は審判なくしてないのである。(中略) 多くの場合、無神論の絶対者観は絶対者は絶対有である、というものである。たしかに、従来、西洋においては神は絶対有であると考えられてきた。無神論はこのような絶対有としての神を否定してきた。神を絶対有として主張するのが有神論であるとすれば、有神論対無神論という構図も成り立ちえよう。しかしいまや、絶対者は単なる絶対有ではなくて、同時に絶対無であることが明らかになった。絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。神が絶対有にして絶対無であるということは、絶対有なる神が絶対無において在るということである。絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもあるのである。(中略)神が絶対有にして絶対無であるということは、旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神とが同一の神であることを意味する。そして、この同一の神においては、義の審きと愛の赦しとが一つなのである。絶対有は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。我―汝の関係という人格的関係は契約と律法を介して成り立つ。契約と律法なしには我―汝の関係という人格的関係は成り立たない。そして、人格的関係のないところには責任ということも成り立たない。」(~前掲書 p229~293)

「神関係と人間関係の相即

ここで神関係とは人間の神との関係のことであり、人間関係とは人間の人間との関係のことである。前者は絶対的関係であり、後者は相対的関係である。前者が絶対的関係であるのは、この関係が神の人間との関係の応答としての人間の神との関係であるからである。このように、人間の神関係は神の人間関係に対するアナロギア(類比)なのである。いずれにせよ、人間の神関係と人間の人間関係という二つの関係は相即するものである。ブーバーは人間的な我―汝の関係の奥にというか、延長戦上にというか、神的な我―汝の関係を予感している。すなわち、我と人間的な汝(du)との関係の奥に、我と神的な汝(Du)との関係がある、と言うのである。キルケゴールはもっと直截的に、人間関係の中間規定として神関係がある、と言うのである。すなわち、人間と人間との真の関係は、人間と神との関係をその真の関係の中間規定としてもっている、と言うのである。わたしが神関係と人間関係とは相即するものである、と言うとき、一方の関係は他方の関係なしにはありえない、ということである。すなわち、人間関係なしには神関係はなく、また、神関係なしには人間関係はないのである。二つの関係は一つの関係であり、また、一つの関係は二つの関係なのである。言い換えれば、神関係と人間関係とは不一不二なる関係なのである。聖書は次のように述べている。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(中略)

(『ヨハネの手紙Ⅰ』四章一九ー二一節)

関係内存在

人間存在はすでに神関係と人間関係の内にあるのであるこれは現象学的な事実である。(中略)人間存在は関係内存在である、というのは、わたしの哲学の根本的前提である。わたしはあえてこれを論証しようとは思わない。いろいろ説明することはできても、そもそも論証できる性質のものではない。それぞれの哲学にはその哲学固有の直覚的な前提といったものがあるのである。デカルトの『コギト・エルゴ・スム』しかり、(中略)関係内存在ということの内で、神関係に関しても、わたしは人間の神関係よりも、神の人間関係のほうが根源的である、と解している。前者は後者に対する応答なのである。すでにわたしは、自己の宗教的意識ないしは宗教的体験に基づいて語り出していることを自覚している。」(p169~171)

「救済は生の苦からの救済である。苦は現実である。いっさいが虚構に覆われている時代にあっても、苦は現実である。苦の原因がどこにあるにせよ、苦しんでいることは現実である。苦の内容はさまざまであっても、苦そのものは虚構ではなくて現実である。そして、その苦からの救済を求めることも事実である。生は生への意志にほかならないからである。生が生であるかぎり、生を否定する苦からの救済を求めないということはない。(中略)生が苦からの救済を求めることは生の事実である。苦の現実とこの現実からの救済を求める生の事実を前にして、無神論はいかに応えるのであろうか。無神論という思想のゆえに生の事実を否定するのであろうか。それとも無神論の立場から生の事実に応えようとするのか。しかし、無神論にそれを期待することができるであろうか。なぜなら、全人的・全人類的・全宇宙的救済は、この世界においては、または現世においては、不可能なのであり、新天新地の到来または来世の存在が必要不可欠であるからである。現実の苦がなんともならないものであるとき、われわれはその苦からの救済を求めて新天新地の到来を、または来世の存在を信じざるをえないのである。信仰は必然性である。無神論は傍観的な有閑な理論にすぎない。現代に生きることはさまざまの苦の渦中に投げ込まれていることである。われわれは苦の当事者なのである。現実を正視するとき、無神論などをうそぶいている暇はない。もちろん、究極的な救済を信ずることは、他力本願にあぐらをかいて、自らはなにもしないことではない。かえっていっさいがわれわれの努力にかかっているかのように尽力するのである。人事を尽くして天命を待つのである。無神論から出てくるものは絶望と無関心である。しかし、救済を求める者は希望を抱き、努力せざるをえない。」(前掲書p229~292)

「十八世紀的人間の自己絶対化は、神を排除することによってではなく、逆に神を理念としての人間理性の中に内在化させることによって遂行されたのである。したがって理念としての神が死んだとなると、この近代的人間の自己絶対化も崩壊するわけで、そこにヨーロッパの、そしてやがては世界の運命となるはずのニヒリズムが到来する。」

小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)より「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)

「このようにして形成された人間中心主義の考え方、すなわち〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉の姿勢を、ここでは『近代主観主義』と呼びたいと思う。この人間の知性の絶対化による近代主観主義の立場に思想的表現を与えたのがドイツ理想主義の哲学である。(中略)G・W・F・ヘーゲルの『絶対精神』において完結を見るのである。バルトは、このヘーゲルの哲学は『最高の謙虚さであることによる最高の巨人主義(略)である』といった。『人間の自己信頼が、そのままもっとも信実な神信頼になる』立場だという。近代主観主義における、〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉の姿勢は、ここに究極の形をとったと言えるであろう。(中略)〈 神の内在化による人間の自己絶対化 〉という原理に立つ近代主観主義は、ドイツ・ロマン主義にも受けつがれ、さらにC・シュミットの『政治的ロマン主義』(略)となってナチ・ドイツのファシズム形成の背景となった。」(同上)

心理療法と称するものはあまり信じないし聖霊の内住を信じるクリスチャンにとって基本的には必要とはならないもの、無縁でしょう。せいぜいフロイトのそれくらいは一般教養の一つとして知っておいてもいいかなと思う程度です。さらに付け加えればフランクルの「ロゴセラピー」とそれに対する非科学的との批判も、簡略なまとめサイトレベルで誤解せぬ限りにおいては知っておいて損はないと思います。ちなみに「信仰治療」というものはあって、自分もそれと違う意味ですが「絶対神信仰治療」ということを自分用のセラピー(自己治療)として考えています。これと似た発想が以下のことです。

エスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して『神の権威』に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。」(荒井献著『イエスとその時代』〔岩波新書〕p185)

絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

ここで引用した言葉は相対化の対象が自己だけになって、肝心の世俗的価値観という偶像の相対化には関心が向いていません。それはこの論者たちがインテリ&ブルジョワだからでしょう。いずれにしても、「その実在を信じるかどうかはともかくとして」という考えがある以上、私の「絶対信仰治療」とは無関係ということになります。信仰を前提としない行為は神を(…いかに倫理・道徳的にとは言え)利用しているということになり、元々は信仰心が第一であったとしても結果的には、(斉藤仁作氏の論文「三一論の研究」におけるバルトの三一論について「三者はそれ自体において神なのではなく、他者への献身をとおして自己の存在と神性(アイデンティティ)を獲得している」といった言葉への批判の同意を求めた私の手紙に対する)寺園基喜牧師(からの返信)の「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」とか、あるいは量義治氏の言い方を逆用すれば、神が「自我の内に吸収され解消され」てしまうような、あるいは「これは人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道の究極であって、その道をさらに進むと、〈神〉という言葉なしに新約聖書の内容を述べることもできるという点にまで達する。すなわちここでは、神の存在は、その非対象性を通じて人間の実存の中に解消されたのである。もちろんブルトマンは、この点まで同行することはしない。しかしブルトマンの神学の中には、ここまで行ってはならないという明確な歯止めはない。」(小川圭治著『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p120 ※ブルトマン学派に属すとされるブラウンについて言われている。)といったことになります。しかもその「信仰」が真に神の賜物としての…他力的恵みとしての信心でなければ、現実に治療効果を発揮することはないでしょう。いずれにせよ常に何らかの言葉(ロゴス)に意識を向けることが精神の安定を支える…という現実が自分などにはあるわけで、だからその精神支柱である言葉(ロゴス)を何にするかが重要になるのです。

以下、関根清三氏の、「神」を「絶対」とする言葉を引用しておきます。

「士師時代以降の他宗教排斥には、様々なレヴェルで様々な動機が考えられるとしても、基本的には、ギデオン、エリヤに通底しつつ、記述預言者たちによってより明確に指摘された点が、重要であろう。すなわち、バアル宗教がいつの時代にもヤハウェ宗教の指導者たちに拒否され排斥されて来たのは、それが絶対的なヤハウェへの忠実な信仰を脅かすものだったからである、と考えられるのである。」(関根氏前掲書 p146)

我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。信仰者はしばしば、聖書を文字どおり一字一句信じることが信仰だと思って、現代の科学の知見に反する到底信じられないようなことも、信じようと無理をすることがあります。逆に信仰をもたない方は、聖書が現代人には信じられない荒唐無稽な話の寄せ集めだと思って、これを拒否します。しかしどちらも根本的に誤解であって、それは直解主義にすぎないと私は思います。それは、あくまでも時代の限界の中で語られた、相対的な人間の言葉にすぎない聖書の言葉を、絶対化してしまう、言わば偶像崇拝でしょう。偶像崇拝というのは相対的なものを絶対的なものと取り違えて崇拝することで、聖書自身が排撃するところです。その意味で、聖書の直解主義的な信仰は、聖書自身が否定していることだと言うべきでしょう。むしろ、そういった時代の限界は取っ払い、時代の概念装置はあくまで相対化し、それらを用いて作者が指し示したかった無制約的なリアリティの方を、解釈学的に解きほぐしていくこと、そちらの方に眼差しを向けて行くこと、それこそが聖書に対する正しい対し方だと思うのです。」(関根清三著『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書p7780

ここで言われている「その時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けません」という点は非常に重要な指摘であり、ヤハウィストと呼ばれる人々が表現したかったことが、現代人が共感的に想像すれば、「我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティ」であったと仮定し得ても、そのように「全く超えた神」とか「絶対的な根拠」などといった概念が当時の人々には存在していなかった…そういう極めて抽象的な語彙はなかっただろうから、聖書には神について「絶対」と訳されるような言葉が無いのは当然と言えば当然なのです。

関根氏は、「独断的な言い方しかできないことを私は恥じます」と述べておられますが、そもそも宗教的実存的真理というものは客観的真理とは違って、滝沢克己氏が「私の言うことは独断的にみえるでしょう。神は人間の意志とは全く独立だというのだから。しかしその独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」と言ったとおり、そもそも「独断的」にしか言えない面もあるのでしょう。自分自身の対神関係については「証言」は出来ても「証明」することは出来ないといった意味においてです。関根氏は、大事なことは「我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティ」だと言われ、そのような超越的な事柄を聖書は「象徴的な言葉で指し示している」のだと言っておられます(前掲書 p52)。

岸田秀氏は「現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」と指摘しておられます(『希望の原理』〔青土社〕p93)。また、古くはアドラーが『嫌われる勇気』であらゆる悩みの原因は対人関係にある旨言っているそうですが、私の「超絶神観、超絶神信仰」および「絶対神信仰治療」の考え方では、対人関係を平和にするには自分が謙虚になれることが要点であり、それがイエスの「ケノーシス」を理想とする信仰実践になります。そして謙虚になれるために必要なことが自他の相対化であり、絶対である唯一の神のみを絶対とするべく、人間社会で絶対視される偶像を消すことを意味します。

非科学的なロゴセラピー(「ロゴ」はギリシャ語「ロゴス」に由来し「意味」を意味する。)は実存主義ということで哲学的であると同時に隠れ神学的であるようです。何故ならフランクルのロゴセラピー自体、基本対象が欧米人でありキリスト教文化を前提としているので、暗黙の裡に「神」信仰が関わる場合があるからです。しかしフランクルは療法としている以上、宗教色はあまり出せないので、「隠れ」となるのです。「意味」と「神学」とくれば想起するのが、土井真俊著『意味の神学 宣教の神学序説』 (日本基督教団出版部 1963年)ですが、内容的にはロゴセラとは関係ないようです。フランクルのロゴセラと神学的な接点を見いだしたのが滝沢克己氏であり、彼のフランクル論も参考になります。

フランクルは興味深い神の定義――「神とは我々の親密な自己対話の相手である」(一一四頁)という操作的な神の定義を挙げる。この神の定義から、フランクルは話題をさらに無神論者の神信仰へ移していく。そして「根底において、無意識の深みにおいて、本来は我々の誰もが語の最も広い意味において〔神〕信仰的である」(一一五頁)という謂わば「信仰の遍在」(同上)が主張される。フランクルによれば、人間は生きる限り何らかの仕方で(超越的な)意味を信じているのであり、そうである限り、無神論者を含めすべての人が神信仰を持つと見なされるのは、必然的な帰結と言ってよいであろう。さて滝沢であるが、インマヌエルの原事実は、すべての人に、いや極悪人のもとにも「一厘一毛の緩みなく臨在している」のであった。インマヌエルの原事実の絶対平等性である。「信仰の遍在」とは、原事実に対する人間の無意識における感応として理解できるであろう。このようにフランクルの「意味」と滝沢の「原事実」は限りなく共鳴しあうのである。>(~芝田豊彦氏の論文「フランクル滝沢克己――人生の「意味」を巡って)KU-1100-20100308-17.pdf

< PIL概念
以上のことから, PIL,すなわち, 「人生の目的」という概念(言葉)が, 「生きがい」のことであり,この概念が以下のようなものであると分かる。
「生きがい」欲求は,人間存在が生来的にもつ「意味への意志」にその源泉をもち, 「生きがい」の対象となる「価値」の選択は人間存在に生来的に備わった「実存的自由」により可能となる。そして, 「生きがい」欲求の充足,ということは, 「生きがい」感・意識は,神から人間存在に課せられた「責任t使命」である「価値実現」を通して神から付与されるということが分かる(中略)PIL理論においては,前述のように「神」に根拠づけられた(基盤を置く) 「良心」から生まれる「責任・使命」である「価値実現」が「生きがい」 (欲求の充足)(ということは「生きがい」感・意識の獲得)であった。つまり, 「生きがい」は「神」によって付与されるものであり,換言すれば, 「生きがい」調達の源泉は「神」であった。欧米社会,欧米文化,ということは,欧米人の精神構追(心)の根底,根源に存在するのは「神」 (キリスト教)である。欧米人においては,人間個々人の存在そのものが神によって根拠づけられ(許され)ている。したがって,人間個々人の生が価値を有するか,生きるに催するか,つまり, 「生きがい」があるかを決定するのも当然神なのである。これに対して,日本の社会,日本人の心には,神,宗教が不在である。 (見田[14],宮家[15])。したがって, 「生きがい」調達の源泉を「神」に求めることはできない。日本人にとって「生きがい」調達の源泉は「人間関係」なのである。 >(~「PIL 概念についての考察」bnit1997_217.pdf )

ちなみに滝沢克己氏は、あくまで(宗教)哲学者であって正規の意味での神学者ではないので、神信仰とはいっても彼にとっての「神」とキリスト教の伝統的な神観との異同が問題です。いわゆる汎在神論的な形而上学的思弁に及ぶ可能性もあります。少なくとも滝沢氏の神学的思想は客観主義であり、「原事実」は御自身も認めておられるとおり「独断」です。そして対論者の八木誠一氏の「直観」を迷いと一蹴したはずです。バルト神学との関係でか神秘主義はお嫌いのようです。一方の傾倒先である西田幾多郎氏及びその関係者には、神学的立場からみれば神秘主義的な面があるようですが…。「絶対神信仰治療」にしたって独断と偏見から始まります。けっして聖書正典絶対主義が原点などではないのです。その点ではこういう信仰治療は治療ではなく自慰にすぎず罪であると言われそうですが、それを否定することはできない代わりに、本人のメンタルヘルスに必要な遊びとして神がその愛において許容しておられるのだと、自分に与えられている対神関係を省察します。

さてそこで、私の自分用のセラピーである「絶対神信仰治療」について要約します。それは、神の絶対主権の下に、自分の悩みの原因となるあらゆるものを相対化するということです。例えば職場や学校での人間関係における苦悩・心労ですが、職場も学校も日常生活の中で長い時間を費やす場であるという点が問題になります。それは生活の場であり、当人にとっては生活世界の主戦場です。そこで関わる人たちは、自分の勤務年数が長くなればなるほど自分の人生の中で大きな意味を有します。そしてその人たちとの関係が良好であればよいのですが敵対するような場合、それが死後にまで及ぶかのような不安を抱くことにさえなります。ふだんのコミュニケーションさえ、簡単にはスルーできないのでストレスが溜まるというのに、当人にとって生活世界が現実世界全体を吸収する感じになるし、特に職場は自分の生存を左右する正念場なのでそこでの人間関係における自分に対する評価などが絶対化され、それが永遠に続くような錯覚に陥ると恐ろしくなるのです。それが精神に異常をきたす原因になる場合、その人間関係を相対化するための根拠が必要になってきます。これが「絶対神信仰」です。しかもその場合の「絶対神」は聖書から示される人格的な存在としての(御子従属的)三一神でなければなりません。後述の小川圭治氏のように伝統的キリスト教の「三一神論」の神と「絶対一神論」の神とを対置させることには反対です。以下の小川氏の文章には(実際、バルトもモルトマンもそういう考えの持ち主なのでしょうが…)憤りさえ感じられてきます。自分には小川氏の言う「新しい神」とは無縁です。逆に小川氏が嫌悪する「絶対一神」こそが…「絶対」だからこそ救い得る者もあるのです。

< J・モルトマンは、あの抽象的、排他的、非歴史的、非現実的な一神論的絶対主義の神の根本的性格を、「非受苦性原理」(略)、「受苦不能性」(略)などの用語で表した。このモルトマンの論述の背景には、彼は公然とは述べないが、明らかにバルトの『和解論』における「死ぬことができる神」、「受苦可能な神」についての、はるかに周到で精細な論述があることを忘れてはならない。この和解論の神は、派遣されて人間となったからこそ死ぬことができる神であり、苦悩、苦痛を共にする「同伴者」として、人間と共に歩むことができる神なのである。この神こそが、近代主義的内在化の神の一神論的絶対性を根本的に突破する、今日の新しい神なのである。>(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)

また、野呂芳男氏のように「絶対的なもの」(the Absolute)と「究極的なもの」(the Ultimate)とを区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ない などと言うこと(『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎 p335他参照)にも反対しなければなりません。また、野呂氏は「絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。」(『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)とも言っています。但し野呂氏は人格主義神観に徹したし、アルタイザーの「神の死の神学」に関するエッセイでは、「我々は旧・新約聖書が、神を霊として表現している点にもっと注意を払わなければならない。ネルス・フェレーが言うように、キリスト教の神は「愛なる人格としての霊(Personal Spirit as Love)と表現するのが適当であろう。聖書において神が霊であるということは、神の存在が月や太陽のように他の存在するものと同様の仕方で、どこかに存在するということの否定である。また、何かの物ではないということなのである。(中略)霊なる神は、人間がプライヴァシーのほしい時には、人間から遠くに離れていることのできる存在であり、近くにいてほしい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近くいてくれる存在なのである。」と述べておられます。但し「霊なる神」については、『旧約新約聖書大事典』(教文館)では、旧約聖書では「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。なぜなら旧約聖書は、神の本質について、世界ないし人間との関係においてのみ語るからである。ヤハウェは霊を与え、またそれを取り去り(詩104:29-30)、かくして被造物の生と死とに働きかける。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(p1291)と言われています。

また、バルトのように聖書が示す「(三一)神」を、イエス・キリストを通してのみ見ようとすることは誤りだと自分は思うし、実際、ベルカウアーもそういったことを言っています。以下、佐々木稔牧師のサイトから引用。

カール・バルトをはじめとする弁証法神学者たちは、キリストだけが啓示とである、人間はキリストにおいてだけ神を知るという、いわゆるキリスト集中論的(Christ-concentration)啓示観をとても強く主張した。神の啓示はキリスト以外にない、キリストだけだと強く主張し、キリスト以外の一切の啓示を認めないが、その主張が正しいかどうか、ベルクーワは検証する。そして、結論的に言えば、バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神はヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。>minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html

ところで、私が野呂氏の神学ではダメである最大の理由がその「有限なる神」という神観です。野呂芳男氏は北森嘉蔵氏に関する記述で、「少くともある時期に、北森教授は、われわれが通称で有限の神(a finite God)と呼ぶものに接近された」と言っておられます。結局、北森神学も野呂神学も、広義の「神義論」を前提として形成されているのであり(但しルターは「神義論」それ自体を否定したらしい)、「神」を有限化・相対化する人間中心的方向に向かうのです。ちなみに野呂氏は北森氏の「神の痛みの神学」における父神共苦も「父神受苦説」に含まれる旨のことを述べておられます。神義論自体は聖書にもあるテーマだから否定する必要はないが、この議論にこだわりを持つことが無駄。八木誠一氏は、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と述べておられるとおり、人格神観の最大の陥穽が神義論であると言えるでしょう。

宗教哲学においては「絶対(者)」と言ってもいろいろあります。まずもって想起されるのが、教会教父に多大なる影響を与えたとされるネオ・プラトニズムでしょう。

ネオ・プラトニズムの影響を受けたイスラームのイブン・アラビーの思想について井筒俊彦氏は次のように述べておられます。

<存在モデルとしての三角形の頂点を(中略)イブン・アラビーは、三角形の頂点に、(中略)「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(ahad)と呼びます。(中略)三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしろゼロであります。(中略)ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。(中略)このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤ(ahdiyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。(中略)この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。>(『イスラム哲学の原像』p122~)

この「究極の源」としての「絶対的一者」ということがネオ・プラ的であり、ネオ・プラでは「絶対的一者」(ただし人格神ではない)の「顕現(エピファニー)」として「多」なる存在者が流出し生成流転するのです。ネオ・プラとキリスト教の三一神論との関連性については、「御父本源説」が接点となります。これは東方教会の神学的特徴と言えますが、これは山田晶氏が『アウグスティヌス講話』で次のように語っていることと符合するのです。

ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば「根源の根源」と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが「それを通して」御父に到るべき「道」となり、聖霊は、「それにおいて」われわれがその道をすすむことのできるいわば「光」のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。>

上智大神学部教授の岩島忠彦氏も、「ギリシア語圏が父のみが源にこだわり続けた」と述べており(私信)、矢内原忠雄氏は、< アタナシウスはなお、「父は子より大なり」との主張を把持したのであった。三位一体論が完成されたのは、アウグスティヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、この書において、父と子と御霊との全く相等しい神性が論定されたのである。>(~「ヨハネ伝講義」No.56の「訣別遺訓に現れた三位一体論 一 三位一体論とは何か」)と述べている。ニカイア信条はある意味、御父本源(=御子従属)的三一神論と必ずしも矛盾しないともとれます。それなら植村正久が聖書解釈で御子を御父より劣れる者と解したがニカイア信条を信じていたということもおかしなことではないわけです。

「仮りに私を愛しているのなら、あなたがたは私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は私よりも大いなる方なのだから。」(ヨハネ14:28)

関西にある正教会の某司祭(自分の認識では正教会の「手引き」の作成者で現役)は次のように言っておられます。< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」においてではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>(~私信)とのこと。 

こうして見ると三位格の何もかもが「同質」であり「同等」とする西方教会に比べたら、「関係」だけでも「同等」とはせず、御父を「源」とする東方教会の方が聖書的であり、アリウス説のように御子被造物説は否定するにせよ、御子従属説に対しては、西方教会よりは近いと言えます。私見では青野氏は御子従属説に立っておられ、私もそうなのです。

量義治氏は宗教哲学入門』において「絶対者」を三様に分け、「仏教の空は無的絶対者である。それに対して、アッラーは有的絶対者である。キリスト教の三位一体の神は単なる有的絶対者ではないであろう。」(p29)ということで、じゃあなんなの?と言えば、「絶対有にして絶対無」(p232他)とのこと。その根拠として挙げられているのが「ペリコレーシス」(相互相入説)だ。量氏は、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(p190)と述べ、さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(p292、293)と述べています。また、「絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもある」(p292)と述べています。「超越」が「内在」に先行しなければ聖書的ではないのに、量氏の宗教哲学では、滝沢克己氏の宗教哲学では言えるところの「不可逆」を言えないようです。量氏は汎(内)在神論とか万有(内)在神論についてはどのように考えておられたのかは知りませんが、「超越神であると同時に内在神」というのはコレにあたります。スピノザの神は汎神論の神と云われていますが、以下のような内容であれば、汎(内)在神論の神に限りなく近い感じがします。(以下、國分功一郎氏の文言を引用。太字はブログ主の自分による。)

スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たち人間は有限です。空間的には身体という限界を持っていますし、時間的には寿命という限界を持っています。
神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。
すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」といいます(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。
神すなわち自然は外部を持たないのだから、他のいかなるものからも影響を受けることがありません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。絶対的な神が存在しても、超自然的な奇跡などは存在しないということです。
「神」という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの「神即自然」の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。
このような神の概念は、意志を持って人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。もちろんこれはおかしな話です。神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考えるほかないはずだからです。しかし、そのような理屈が通用するはずがありません。教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力を持っていた時代において、スピノザの考え方は人々には受け入れがたいものでした。別の言い方をすれば、非常に先進的であったわけです。>

スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)

スピノザの思想が部分的には汎神論(pantheism)よりも汎在神論(panentheism)…万有内在神論に近いと思われることについて参照⇒結局、スピノザは汎神論なの?汎在神論なの? - 当方、なんとなくスピノザ... - Yahoo!知恵袋

「神が無限ならば、神には外部がない」ということについては、アウグスティヌス以来の創造説の伝統的理解とはズレるようです。(以下引用。佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)

「〈 世界の創造は、神の創造者への自己決定に基づいている。創造しながら自己から出ていく前に、神はご自身に対して決心し、決定し、定めることによって、内側にご自身へと働きかける。「神の自己限定」(Zimzum)というユダヤ・カバラ的教義を使って、このような考え方が深められねばならない。そうすることによって、無からの創造(Creatio ex nihilo)の教義について、より深い解釈が得られねばならない。しかし、われわれは神の自己限定と無についての教義を、十字架にかけられた神の子に対する信仰のメシアニズムの光に照らして、取り上げ用いるであろう。〉(ユルゲン・モルトマン[沖野政弘訳]『創造における神 組織神学論叢2』新教出版社、1991年、135頁)

 モルトマンは、「外部から創造がなされた」という発想から、キリスト教神学が解放される(自由になる)必要があると考えます。神が神自身に働きかけるプロセスとして創造を理解すべきであるというユダヤ教カバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築するというのがモルトマンの戦略です。そのためには、アウグスティヌスによって、カトリック神学、プロテスタント神学の双方にとって公理系のごとくなった、創造を神の業の外部に向けた作用という見方を改めなくてはならないと考えます。

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいるキリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも「外」を持つのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限界となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。〉(前掲書135~136頁)」

このようなリベラル神学者の言説などは、倫理的なもの以外は教会現場と懸け離れています。聖書が示す三一の「神」には「大きさ」など無いということは、無限ということで明らかです。だって「外」を持たないのですから…。しかし宗教はイメージの世界です。理性的に考えれば大きさなど無い「神」に対して、大か小か…と言えば、前者を選ぶ子どもの方が圧倒に多いはず。そしてこのようなイメージは重要だと思っています。

ユダヤ教カバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築する」なんてことは非現実的であることは言うまでもありません。そんなことは何の意味もないのです。なぜならキリスト教の教義は基本信条によってすでに決定しているからです。私は自分の信仰では基本信条を認めることは出来ません。そこにアポリアが生じます。しかし教会から離れた個人的な信仰生活といったものも聖書に基づく限り考えられないでしょう。そこで仏教のように「真実」と「方便」との区別が必要になります。二重真理説ならぬ二重信条主義です。「真実」としては、自分にとっての(「神」という語はできるだけ使いたくない)聖定主はイエスの御父のみであり、御父が唯一絶対者なのです。当然、御子との従属的関係も聖書から示されることです。そして聖定主は超絶の人格的存在ではありますが、被造世界に遍在しておられるので「超越≧内在」という不可逆的関係ということで万有在神論の神ということになります。「神」の内に万物が存在するとも言えるし、逆に万物の内に「神」が宿るとも言えますが、あくまで超越の方が内在よりも優先されるのです。そこに聖定主の全能性や無限性があります。聖定主は時間的には創造と摂理の主です。「方便」としてはそれらが聖定主の啓示すなわち「自己限定」において、改革派教会の信仰基準に一致するのです。真実は「従属」であっても、方便としては「同等」ということを認めざるを得ないのです。コリント第一15:28の「神がすべてのものにおいてすべてとなる」(青野太潮訳)の解釈はいくつかあるでしょうが、自分はこれを万有在神としての「神」が、自己限定して三一神となっていた状態から本来の唯一神ないしは全一神へ戻ることだと解する。そう、御子イエス・キリストを含めて歴史を通して啓示されたイスラエルの神エホバ乃至は父と子と聖霊の三一神は、真の神の自己限定されたかたちにすぎない。真の神は汎在神だから、我々を包む人格的存在であり、その中に自分が生きていることに気づく者と気づかない者とが分かれる。だから小田垣雅也氏が言うように、汎在神だから対象ではないってことはない。気づける人にとっては信仰の人格的対象なのだ。「私は今、あなたたちが知らずに崇拝しているもの、それをあなたたちに告げ知らせましょう。/世界とその中の万物とを造られた神は、天地の主なのですから、手で造られた神殿などには住まわれません。/また、何か不足なところがあるかのように、人間の手によって仕えられることもありません。神自らがすべての人々に、命と息と万物とを与えて下っているのですから。(中略)われわれは神のうちに生き、働き、存在するのですから。また、あなたたちのある詩人たちも、われわれもまた、その子孫であると言っている通りです。/このように、私たちは神の子孫なのでありますから、神的なるものを、人間の技術や思惑の産物である金や銀や石などの像と同じものと思ってはいけないのです。」(使徒17:23~29 荒井献訳)※28節の注は、「汎在神論」という用語で新しい版から書き直されたはず。

「汎神論(pantheism)が、「πᾶν(all)- θεός(God)」、すなわち「万物(世界)=神」だと考えるのに対して、万有内在神論(panentheism)は、神が万物(世界)よりは大きいもの、それを超え出て包み込んでいるもの、すなわち「万物(世界)⊂神」と考える。」(~wikipedia「万有内在神論」)

「万有在神論ともいう。ドイツの哲学者 F.クラウゼが自説に与えた名称。神は世界に内在するが,世界よりも大きく,すぐれている。すなわち万有は神の内にある。」(~「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「世界内在神論」)

万有在神論的「神」は、人格的存在とは言え摂理は自然法則にまかせておられる(その点ではスピリチュアリズム普及会の神観、摂理理解にも共感し得る部分がある。神の摂理(法則)について (spiritualism.jp))。実際は個々人について神の意志が徹底されているのかもしれないが、神義論的問いや悩みが生じないためには、「神」は摂理において自然法則を用いておられると思いたい。

というか、聖書の神への信仰が神義論に陥るのは擬人化されているからであり、キリスト教では異教の神々に対して人間にとって都合の良い偶像である旨言うが結局何にせよ世の出来事はすべて神の意志によって意味あるとされて不可解なことは人知を超えた神秘として思考停止したりするのだから「不条理」を排除するという点では同じく人間に都合のよい神観であることに変わりない。人間の都合を超えた神と言えるのは「不条理」をも包容し得る存在なのである。この世の出来事は有意味だけではなく無意味もあるとする…八木誠一氏の思想における「創造的空」にも近づく聖書的神観ということで、これは汎在神論(=万有在神論)の神以外には無い。

ところで、小田垣雅也氏は『知られざる神に』(創文社)の中で次のように述べている。(以下、引用。太字は自分。)

 <神の完全性とは(中略)両極的なものだとハーツホーンは主張する。つまり絶対的、恒常的な存在者であると共に、自己超越的という意味で相対的で自己創造的存在者でなければならない。言いかえると、神は原初的本性であると同時に結果的本性でなければならない。そしてハーツホーンが言う意味の汎在神論はこのような事情であろうと理解される。それは神を世界の創造者であり世界を超越する者であると考えて、その結果、世界への神の内在を否定する有神論ではないし、世界と神を同一視し、神を世界に遍在すると考える汎神論でもないという意味で汎在神論である。汎在神論の神は、永遠不変であると同時に時間的流転的であり、超越的であると同時に内在的であり、世界に含まれると同時に世界を含んだ至高の人格的存在者であると言う。(中略)それに対して西田幾多郎は汎在神論を別様に理解している。(中略)神は絶対無である。この絶対無が他のもろもろの個物をあらしめ、それ故にまたそれは絶対の有でもある。このような意味で神は万物の創造者であり、被造物としての世界は神に依存する。また逆に、被造物としての世界があるから神がある。そして西田が言う汎在神論(西田の訳では万有在神論)とはこのような事情を指している。神は絶対無として、すべてのものがそれによって在らしめられるという意味で、すべてのものは神の中にあるのである。>(p130~131)

私見では、 小田垣は、ハーツホーンのプロセス哲学の神理解における「両極・二極」性に普遍論争以来の二項対立の思考から脱しきれていない、不徹底さを指摘し、それと比べて西田哲学の方を評価しているようです。単純に見れば、西田哲学では「万有」が「神」に「内在」しているということであって、「神」が「万有」に「内在」しているという論ではありません。そして自分もその方が聖書的だと思います。重要なことは創造主と被造物との「不可逆」の関係性であり、ホワイトヘッドの「世界が神に内在しているということが真であるのは、神が世界に内在していると言うことが真であるのと同じである。」とか「神は世界を超越していると言うことが真であるのは、世界は神を超越していると言うことが真であるのと同じである。」(p142)といった命題は非聖書的ということになるでしょう。ハーツホーンは下記のとおりハートショーンと読まれもするそうですが、彼の思想的欠陥は喜田川信氏の指摘のとおり、汎神論と汎在神論との区別が曖昧であることです。

 <かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)。もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(Pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。(中略)時間にしても、時間と空間が被造物の存在形式であるならば、神は時間を創ったというより神御自身が時間の中にあると言ってよいであろう。>(喜田川信著『神・キリスト・悪』〔新教出版社〕p20)

この喜田川氏の批判にかかわらず、自分は「創る神と包括的な宇宙とは一つの神」だという神観に触発されて参考にし、聖書が示す(…本来の、すなわち三一神として自己限定・自己相対化する前の)「神」は、「人格」的な面と「非人格」的な面、「対象」的な面と「非対象」的な面、「歴史」的な面と「非歴史」的な面、「有意味」(摂理)的な面と「無意味」(法則)的な面など、相対的構図を調和するシステムの構造になっており、神義論的問いに対して答える面と答えない面とがあります。キリスト教では前者の面に偏っている。そういうことを思い巡らしてゆくと、八木誠一氏の「創造的空」という神観にも通じるものが出てきそうな気がします。それは要するに「万有在神論=汎在神論」の「神」観との異同ということです。

救拯学入門 | 記事編集 | note

「ハートショーンは,神をその全体性における世界自体であるとする汎神論(Pantheism)を拒否する.なぜなら神は一方では,超越的自己同一性を持っているからである.しかし神は他方,世界に対する知識と愛によって世界に関係付けられており,それを自己の内に包含し,その創造的出来事を把持する.万物は神の内にある.ハートショーンは,このような万有神論(Panentheism)の立場は現代の哲学者の神概念に対する懐疑ないし否定に有効に答え得ると考える.最高完全存在は,必然的に存在するか,必然的に存在しないかのいずれかでしかないが,自己矛盾したものは必然的に存在しないがゆえに,最高完全存在は必然的に存在することになるからである.」《じっくり解説》プロセス神学とは? | Word of Life ワードオブライフ

私は、聖書にもとづいてPantheismは否定しつつも、Panentheismはどこまでキリスト教の枠内で受容し得るかに関心があります。

汎神論(pantheism)と汎在神論(panentheism)の違いを小田垣雅也氏は以下のように説明しています。

「汎神論は、あらゆるものの中に神を見る。その神々は同一水準に並んだものである。山の神も、木の神も、水の神もいる。世の中に神々は、対象として沢山いる。対象的思考とは、もともとそういうものだ。一方、汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。それは超・対象論理的な神で、対象論理的に、つまり汎神論的に考えた一つの神を、絶対視するのではない。具体的歴史内での啓示を神とするのであり、それは汎神論的意味での神ではない。」(~説教「インマヌエル」)

http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0609.html

聖書では創世記11:5に「ヤハウェは降りて行き」云々とあるとおり、また12:7や17:1や18:1でアブラハムに顕れ、全一者が啓示のために自己限定して一個人のようになっておられます。それこそ全能のなし得る業でしょう。真の絶対者・無限者は自らを相対者・有限者に化すことが出来るのです。ここは本多峰子先生の資料批判としての見方は採らない方が、生活実践的神信仰としてはよいでしょう(⇒二松学舎大学 学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)「ヤハウィストの神 : 旧約聖書のはじめの神観」)。

「神即自然」だから人格神ではないとは言え、擬人化され過ぎる聖書的人格神(観)よりもむしろ人格的というか神格的だと言えるかも知れません。コリント第一15:28の終末における創造主帰一では、もはや霊(無形)と物(有形)との区別も越えて唯一・絶対ないしは全一である神が「一」を徹底されるのです。それって「神=自然」ではなく「神≧自然」といったイメージになります。全一者たる神は万物を包むのです。それは絶対者⇒無限者⇒包括者という必然的帰結です。「聖書の神は霊であって、大きさなんか無いんだ」という人に対しては、必ずしもそうとは言えず、聖書に「遍在」の教理がある以上、上記のような論理が成り立つということを語ってあげなければなりません。聖書の神のイメージとして大きいか小さいかと問えば、少なくとも小さいより大きいとなると言えます。そして宗教においてはそのイメージが重要な意義を持っているのです。八木誠一氏は、絶対は普遍性を含意する旨のことを言われましたが、上記の國分氏の論述では、絶対は無限性を含意するのです。このように唯一・絶対・無限・普遍・超越かつ内在なる存在として聖書の三一神を信仰するなら、論理的必然として汎神論ではないけど汎在神論的な神として信じて然りだということ。そもそも肉体か霊体かはともかく、傷などが肉眼で見えて食事もする物質的な「からだ」を持って昇天し、そしてその同じ姿で再臨なさる(「真に神」であると同時に)「真に人」であるイエス・キリストが第2位格となっている三一神が遍在しておられるということ自体、人知を超えた神秘にほかならないのです。

ところで量氏と同じく無教会系の関根清三氏は、「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」(~『倫理の探索』〔中公新書〕p133)と言っておられます。これが私の言う人格神の非擬人化に通底することなら賛成ですが、そうではなく小田垣雅也氏のような神理解に近づくことを意味するなら、つまり神を人間の主観に吸収し解消するような考えにつながるのであれば反対です。小田垣氏は「汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。」(説教「インマヌエル」)と述べておられますが、「人間の思考の対象にはならない」ような神は、聖書が示す活ける神ではないと思います。およそキリスト教徒であるにもかかわらず宗教哲学的アプローチで仏教的「無」の境地に近づくような人は、御自身が社会的に「有」たる御身分である場合が多いのではないでしょうか?概して言えば、有産市民の信者は、その「有」たる度合いに反比例して「神」をより「無」化したがる傾向があるのではないか…と、嫉妬ではないですが穿った見方をしてしまいます。

 

「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)

 

前述の「絶対神信仰治療」の要約の続きになりますが、イエスの「ケノーシス」を理想として、自己謙卑(卑下ではなく、ただ相手に従属しゴマ擦りするようなことを意味しない。無用なプライドは捨てて虚勢を張ったりせずに合わせるべきとことは合わせるということ)の信仰実践においては当然、優勝劣敗の「劣・敗」感が少なからず生じようが、いかに劣りいかに敗れても、それで自分が失われることは決してないという信仰がこの治療の基軸である。なぜ自分が失われないのかと言えば、自分が関係を与えられている神が絶対実体だからである。この実体という言葉も確固たる実在感を得るうえでのイメージ喚起として治療には有意義である。自分の原関係相手の神が絶対他者であるからこそ、自分は神以外の者によっては失われない…つまり上記の聖句のとおり、自分の心身を殺し得る者はあっても霊魂を殺し得る者は人間には不在でそれは神のみということ。そう思うと勇気が生じる。

私の「絶対神信仰治療」においては、「(三一)神、超越、絶対、人格、実体、霊、遍在、愛、義」…これらはセットです。しかし彼らには天性の素質があるのでしょう。人の霊魂を救い得るのは聖書が示す「神」のみであり、それは原罪を持つ人間を「超越」しており不可知な面があるが啓示によって認識し得るのであり、その中心事項は父・子・霊の「三一」であること。そして「人格」的存在であって、はたらき・作用といった機能論に解消されるような神論・神観でなく、目には見えない…感覚器官ではとらえられないけれど、信仰を与えられている者たちにとっては「霊」として自由自在に、そして「遍在」しておられるがゆえに祈る時、詩篇16:8で「われ常にヱホバをわが前におけり ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし」と言われているように自分の心の内にも臨在され「われ動かさるることなかるべし」と言われているとおり確固として存在するという意味で「実体」であり、その本質が「愛」なるお方だからこそ、このように人間が対神関係において苦悩からの癒しを求めることに応じ給い、また「義」ゆえに世の中の苦悩の原因である原罪および原罪に由来する人間の営みを公正に裁き給う。ちなみに、神の絶対性を言う場合、「遍在」は必然的に出てくるわけですが、これと悪魔や悪霊の存在とがどのように折り合うかが問題です。人間社会の「悪」は人間の原罪に由来するものと説明できますが、そうでない実在としての「悪」は、神が遍在する世界でいかに存立し得るのでしょうか?それは神がそれを許容しておられるとするしか説明はつきません。

聖書から「絶対神」を示されるうえでは、聖書が神の絶対性を教えているのかがまず確認されなければなりません。そこで自分が聖書的教理として尊重しているウェストミンスター信仰基準に注目すると、かろうじて「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」という言葉もあり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。

「神はモーセに言った、『わたしはなる、わたしがなるものに』。彼は言った、『あなたはイスラエルの子らにこう言いなさい、「『わたしはなる』が私をあなたたちに遣わした」と』。」

残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しませんが、とにかく「絶対的」という言葉で翻訳されていることは重視されねばなりません。

< 聖書やクルアーンには「絶対神」という表現は一回も出てこない。だから「唯一絶対神」という表現もない。「一神教」という言葉もない。>という指摘もあります。

「絶対神」は聖書やコーランに出てこない | ユダヤ教とキリスト教とヨーガ好きなイスラーム教徒のブログ (ameblo.jp)

…コメントからの引用…<「絶対」という用語については、「ウェストミンスター信仰告白」の「二、神について、また聖三位一体について」で、「最も絶対的で」あると言われており、その参照聖句として出エジプト記3:14が挙げられています。「絶対」ではなく「絶対的」と言われているわけですが、表現としてはその程度の違いなどは問題にならないわけで、キリスト教で神を「絶対者」と言う場合、その「絶対」というのは、厳密な意味で「絶対」だと言っているのか、それとも「絶対的」という意味で言っているのか、そんなことはアバウトでよいのです。要は、「ひとりの生けるまことの神」の栄光がほめたたえられることなのですから…。

「日本人に多く見られる多神教的,汎神論的思想は『絶対者』の欠如の現れである。」(~永野孝典氏の論文「なぜ日本人はキリストの救いからもれるのか ―― 日本人の価値観とキリスト教の精神 ――」の「要旨」

BS00220L100.pdf (bukkyo-u.ac.jp)

小川圭治氏によると、「絶対的な神」が用語として用いられるのはアンセルムスからでだそうですが(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)、八木誠一氏の「絶対性」は普遍性を含意するという指摘はわかるし(シンポジウムでの発題「仏教とキリスト教の場合」)、_pdf (jst.go.jp)それは、遠藤周作氏の『沈黙』におけるフェレイラが語る人間と隔絶した普遍的な神と通じるものがあります(問題は、遠藤氏がエッセイ『私にとって神とは』で言われている「沈黙」の主人公ロドリゴ神父にとってのイエス・神(=はたらき)と、フェレイラが語る神とのギャップです)。意外に説得力ある言い方は前に引用した國分攻一郎氏の言、「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。」

こういう文言も神学する人には所謂、形而上学的思弁であると批判されるとは思います。つまり客観的過ぎるのです。論理的には、神が「絶対」→「無限=外部が無い」→「すべては神の中にある」というところまでは正しいのでしょうが、神学は信仰心(再生の理性)を前提とするので、神を全能者と信じ告白します。従って「無限=外部が無い」といった決めつけは無用です。さらには神の創造が「収縮」によるものだといったカバラ思想由来とされる考え方などは論理性も欠く戯言であり(西村俊昭著『「コーヘレトの言葉」注解』〔日キ教団出版局〕p32~33)、あまりに考え過ぎで神話化しすぎです。自分にとっての神は「有限」性と矛盾しないような「無限」性…とか、「相対」性と矛盾しないような「絶対」性を実現することができ得るから真実の意味で「絶対」なのです。そこは各人の信仰と、その共同体における最大公約数的信条に関わる問題です。すべてを合理的に説明しようとするところに思弁の陥穽があります。どうせ理詰めで考えるなら、「汎神論」だけでなく「汎在神論」乃至は「汎内在超越神論」とでもいったことまで考えてみるべきですが、教会の信条とは相容れません。教会中心の信仰生活においては現場から遊離した考え過ぎということになるのでしょう。しかし自分のように教会中心ではなく社会生活中心の信仰生活の場合はどうでしょうか?

結局、聖書的標準はコヘレト書における個人的な実存的対神関係と人生観に見ることになります。

但し、ここで私が押さえておきたいことは、もはや聖書だけを誤り無き唯一の信仰生活規範とする正典絶対主義は、この情報化社会にも合わないし、そもそも現代神学のリベラルな立場においては事実上、その正典絶対主義は相対化され、さらには否定されているということです。それは特に社会倫理の面で(…特に近年は、ジェンダー思想・フェミニズム、LGBTQ関係の思想が勢力を有して)、聖俗の境界が成り立たなくなっています。これは世俗の価値観だ、考え方だ…といった理由で聖書の釈義において無視することは出来ない、そんな現場の現実状況になっているということです。大学の研究室や学者さんの書斎ではなく、教会や信徒の生活環境といった信仰現場ですべてが決まるのですから…。この現場でもはや聖書正典絶対主義が通用しなくなっているなら、大胆に改革されなければなりません。すでにリベラル派は正典絶対主義ではなく、昔で言うところの世俗の価値観や考え方、教説を聖書の解釈に採用し、言わば人権問題を聖書の記事に読み込むなどしてきたわけです。それなのに表向きは福音派と同じく聖書正典絶対主義です。信仰告白の上でだけ聖書を信仰生活の誤りなき唯一の規範だと言ってきたのです。口だけです。実際は聖書以外の教典であれ教説であれ思想その他、なんでも聖書解釈の相対的基準として採用してきています。だから多様な史的イエス像も生まれてきたのです。革命戦士イエス、被差別者イエスフェミニストエス、最近のジェンダー主義では同性愛者イエスないしは、LGBTQの神とか語られているのかも知れません。リベラル派にはそのような欺瞞があります。自分もその欺瞞に満ちたリベラル派プロテスタント教会の一隅に身を置いてきました。自分は明らかに聖書正典絶対主義を否定してきています。そして神学よりも宗教哲学に関心が向きましたが、いずれにせよ神論が一番の関心事です。これを軽視しては倫理も救済論も何もありません。形而上学思弁も、自分のような精神不安定者にとっては癒し効果がある場合もあるのです(信仰治療)。これは「遊び」であり、「遊び」はドーパミンノルアドレナリンなどの脳内麻薬と云われる物質を分泌させ、メンタル的には最高の脱鬱効果があります。自分にとって最高の遊びが「信仰治療」なのです。ネットを介してであれ、この手の話題が合う人と会話することは最高に楽しいことです。

ここで遠藤周作氏の「私にとって神とは」と題されたエッセイを真似て、自分も「私にとって神とは」を書いておこうと思います。遠藤氏はこの本の中で、御自分にとっての神は「はたらき」であり「存在」とか「対象」ではない旨のことを言っておられますが、すくなくとも人格性を否定することはできないし、実際にしてはおられないと思います。遠藤氏がその「はたらき」としての神観を形成するうえで感化を受けたと思われる八木誠一氏ご自身も人格性は排除し得ず、人格的場所論というふうに人格を付けずにはあり得なかったからです。それにしても遠藤氏にとっての神は、波多野氏が言っておられるところの「自我の内に吸収され解消される」神だと思います。『沈黙』において主人公のロドリゴの中で生きてその人生を通して雄弁に語っておられた神・イエス(…この御父と御子の二位格の区別が曖昧であることからして自分にはなじめない。自分には同じく転向宣教師のフェレイラが日本人の神観についてけっこうボロクソに言った、「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間とは同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」という、彼にとっての基督教の神…トマス神学の神…人間とは全く隔絶し人間を超えた神観の方が自分には合う)は、小田垣雅也氏が言っておられる「生きられ得るもの」としての絶対他者・絶対無としての人格神にも通じるだろう。そのような神は「人間の外に存在する絶対的実在」ではなく「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」すなわち「自我を超越するもの」ではないということになるだろう(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)。また、荒井献氏の神観は、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきもの」と述べられているとおり宗教学的分類では「機能神」になるでしょう。

< これまで哲学・神学・宗教学等の立場に基づき神観念は研究されてきた。それらの神観 念を抽出・類別すると以下の三種類に分けられる。第一に、 「自然神」(例:天体・気象現象等)。第二に、「人間神」(例:人格的神・機能・祖先神等)。第三に、「超越神」(例:キリスト教等の唯一絶対神)である。>と書かれてある。144255092.pdf (core.ac.uk)

さらに、佐藤研氏の非人格的神観もまた、伝統的キリスト教における人格主義的神信仰を受け継ぐ者としてはとても耐えられません。すなわち佐藤氏は一方では、「少なくとも、イエスを全能の神の『実体』として把握し、そのキリスト論への『信仰』を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)『私を通らずして父のもとに至る者はいない』(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。」(『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)などと伝統的キリスト教に対して異端とも言われかねない、かなりラディカルな批判を述べ、一方では、「とにかくも、坐禅の体験知がキリスト教内部で展開すれば、ある『絶対人格』がどこか特別なところに実体として存在しており、それが人間を支配・制御しているというような観念的発想は、放棄されざるを得ないであろう。その代わり、『神』をわれわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギーとして見るような理解が発生するであろうと思われる。」(同上書p19~20)などと御自分の教説を語られるその内容を見ると何をかいわんやであり、神論が聖霊論に解消されているとかいった次元の話ではなく神性が霧散霧消してるといった感じで、「絶対人格」である「神」を「われわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギー」などと同一視するということはやはり人格神を「自我」の内に吸収・解消させる神秘主義的なカオス宗教に落ち込んでしまっておられるとしか思えません。

なお、井上洋治神父は、『日本とイエスの顔』で小田垣氏と同様の考えを示している。

「無はただ生きて体験する以外に仕方のないものだ・・・神が、無を生き体験する行為の中にしか己れをあらわさない」

「もし私が神の外側に主体として立つことができて、外側から客体としての神について考えるのならば、たしかに神について普通のものと同じように、あるとかないとかを論ずることもできるでしょう。しかし、そのときには、その論じられている神というものは、私に対して存在している単なる相対的な一つのものにすぎず、もはや絶対でも無限でもないことになりましょう。それは絶対なる神を相対の世界に、偶像の世界に引きずりおろして、多くのもののなかの一つのものとしてしまうことであって、まったく大きな誤りだといわなければなりません。主体-客体の分離と対立を超える世界に、私たちは論理や言葉によって入ることはできません。」

私自身にとっての「神」はそのような理屈から自由自在に、あらゆる矛盾を超えつつも歴史的現実に即して、「超越」より「内在」の方へ、あるいは「他者」より「自者」の方へ偏った観方によるものではなく、そのような対立・矛盾を統合した絶対者ではあるが、信仰的自覚および表現の面では逆に「超越」が「内在」よりも、また「他者」が「自者」よりも、優位になるような実在であって然りです。

(1)絶対者 ― 従属的三一神(御父(本源) → 御子 → 御霊)―

神が絶対者であるということは、あらゆる矛盾を統合しているということです。その第一は、従属と相互内在との矛盾の統合です。私はイエスを、正教で言うところの「本源(者)」なる神とは思えないし、ヤハウェ(エホバ)と比べると史的イエスにはその倫理的戒めと共にあまり興味が無いので、これを神話上の御子キリストとしても、再臨してこの悪しき世を裁き刷新する解放者とみて、なんとか媒介者として相対的絶対者としての(父,子,聖霊の)三一入りかな…と思うにとどまる。関心はあくまで絶対的絶対者としての(御父ではなく)唯一神。だからヤハウェ(エホバ)とイエス・キリストとを同一視はできない。同じ「神性」者としては質的に同等だとしても、御子より御父の方が「偉大」であることは御子自身が発言しているのだから、三一関係においては従属説。この点は私の独断とは言えず、新約聖書学者の青野太潮氏も以下の2箇所の引用を並べれば、明らかに従属説的な立場である。

イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf

以下、『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)より

パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(p5)

「こうした箇所にふれるとき、われわれはただただ正統主義的な『キリスト論的集中』といったような捉え方の中に止どまり続けていてよいのだろうか。三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(p61 )(※「こうした箇所」とはその前で挙げられているⅠコリ15章の諸聖句および、ローマ1:25、8:26~27、9:4~5、15:7、Ⅰコリ3:22~23、11:3、Ⅱコリ5:18、ガラテア1:4)。

しかし、伝統的キリスト教の中に位置を得る以上、三一信仰は避けられない。そしてその三位格の関係は「相互内在」(ペリコレーシス)というのがキモであるから、論理的にはこれが従属説と矛盾することになる。だから、絶対と相対、無限と有限、不変と可変などの諸矛盾を統合するように、絶対神の「絶対」は、「絶対無」と言うより「絶対…の絶対」ないしは「超…絶対」と表記せられるから、「従属」と「相互内在」の矛盾も統合されるのだ。

(2)超越者・絶対者・全能者、自存者(実体)、無限者、不変者、唯一者

神にはできないことはない(ルカ1:37/エレミヤ32:27)。人によっては神にもできないことはある。神は悪をなすことはできません、などと言うがそれは誤りです。正解はコレ ↓

「神にできないことは何一つありません。
しかし、神がなさらないことはあります。
神が悪をなすことは決してありませんし、
愛の裏づけのないことはなさらないのです。」

神にできないこと - 京都シャロームチャーチ「今日の聖書」 (goo.ne.jp)

「できない」ということと「しない」ということとは違う。そもそもこんな悪の世の中を予定において、原因ではないにしても結果的には成し得るお方が純善だけであり得ると考えることは論理的にも筋が通らない。ましてやそういう擬人的な考え方は避けるということならなおさら、人間ならどうであれ、神は純善であっても悪の世を予定し得るとは言えるだろう。これも絶対者は矛盾を統合できるという全能性にて解決する。

私はこれまでの人生を振り返ってみて、自身が極めて不安定で頼りない者であるだけでに、その分、確固たる(中性)人格的存在との関係に依拠するしかなく、それは聖書が示す「主、神」以外にがあり得ず、これについては「霊、絶対、人格、超越、自存、実体、唯一、無限、永遠…」といった用語を使うことにこだわる。信仰告白の表現言語としては、下記引用の「絶対的な霊的実体」とはとても良い表現である。

<「この神秘的な宇宙には,人間がそれは確かだと感じ得る事柄が一つある。人間それ自体は宇宙の最大の霊的存在ではない。……宇宙には人間自身よりも霊的にもっと偉大な実在者がいる。……人間の目標は現象界の背後の実在者との霊的な交わりを求め,それも自己をその絶対的な霊的実体に調和させることを目指してそのような交わりを求めることである」―「一歴史家による宗教の研究方法」,アーノルド・トインビー著。>

まことの神とあなたの将来 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org)

< エホバは非常に偉大な方なので,エホバに並ぶ者はなく,その主権は絶対的なものです。>

エホバはとこしえの賛美に値する神 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org)

<  ご指摘の通り、神について「絶対」という言葉は聖書に出てきません。そもそも、哲学的意味での「絶対」という言葉が聖書にはありません。新共同訳聖書には意訳として列王上3:26とダニエル2:5に「絶対」という言葉が出てきますが、神についての「絶対」という意味ではありません。そしてご指摘の通り、「ウェストミンスター信仰告白」で神について「絶対」という言葉が使われているのは2章だけです。もっとも、この2章は神について述べている個所ですから、そこに神について「最も絶対」と述べていることは重要です。神の絶対性について他で述べる機会がないだけで、ウェストミンスター信条が神の絶対性を過小に扱っているわけではありません。同様に2章で神について使われている「immense」(日本語訳では「遍在」と訳されていますが、「計ることができない」という意味です)や「incomprensible」(捉えつくすことができない)という言葉は、にしか出てきませんが、どちらも神の大切な属性です。 先ほど、聖書には「絶対」という言葉がないといいましたが、概念がないわけではありません。「絶対」という言葉は、「相対」という言葉の対義語です。「相対」というのは、常に何かに比べての話です。例えば、人間が「自分は正しい」と言っても、それはその人なりの基準で言っているだけで、絶対的な基準で正しいと言っているわけではありません。絶対的に正しいという場合は、何かに比較して正しいのではなく、その基準そのものが絶対的で、他の基準を許さない場合です。 そういう意味では、「神は唯一である」という信仰は、神の絶対性を表現しているということができると思います。聖書の言葉で言えば、「雲の上で、誰が主に並びえましょう 神々の子らの中で誰が主に比べられましょう。」(詩編89:7)は、稚拙な表現かも知れませんが、神の絶対性を表現している言葉です。あるいは「主のほかに神はない。 神のほかに我らの岩はない。」(詩編18:32)という言葉も、神の絶対性への信仰ということができると思います。 わたしたちの神への信仰は、「相対的に正しい」神を信じているわけではなく、「相対的に清い」神を信じているわけでもありません。それらを裏返せば、絶対的なお方を信じているということになるのだと思います。 そういう意味で、神を絶対者だと呼ぶことは、信仰的に少しもおかしなことではないと考えます。>(~ラジオ牧師山下正雄先生の私信への御返答)

プロテスタント教義学において、カトリック教義学と属性論においては大きな差がないように思います。原因は、プロテスタント教義学においても、こと属性論においては、スコラ神学の決定的影響下にあります。この点ではカトリック神学との共通性があります。例えば、属性の「絶対性」の概念は、トマス的な神存在の証明における「否定の道」の方法論に基づき、「地上的・相対的なのもの」を否定的にひっくり返した属性概念として「絶対性」が語られることになります。この場合、絶対性の単純な主張は一種の自然神学になります。つまり、「絶対性」の概念は哲学的概念規定と結びつきます。私の神論の属性論において「絶対性」という概念への警戒心はここに理由があります。しかし、私の著書における「自存性」も「不変性」も「無限性」も、「唯一性」も、神の絶対的属性として事実上「絶対性」を表現しているはずです。神の唯一性の論議の中では、「排他的・絶対的唯一性」を示すものとして論述しています。十分ではありませんが、哲学的概念の抽象化に入り込むのではなく、聖書的概念の文脈で表現するように努めたつもりです。しかし、神の属性論はプロテスタント神学においてやはり十分には展開できていません。私の教義学においても同様です。>(~改革派神学者兼牧師の牧田吉和氏の私信への御返答)

「絶対性の単純な主張は自然神学につながります」とありますが、この「自然神学」はカトリック神学であって、改革派では認めていないとのこと。以下、佐々木稔師のサイトから引用。

自然神学とは何かと言うと、それは神により創造された被造物を通して、神を知ることができると主張する神学のことである。すなわち、ローマ・カトリックの神学が自然神学を語る。では、プロテスタントはどうかと言うと、改革派神学では、自然啓示が客観的に存在することは認めていますが、しかし、人間の心が罪によって覆われているので、自然を通して神を知ることはできないと考える。でも、特別啓示、御言葉、そして、聖霊によって心が再生すると、自然が神を啓示していることがわかるという考え方である。したがって、改革派は、自然啓示は認めるが自然神学は認めないという立場である。>minoru.la.coocan.jp/berkouwergeneralrevelation2.html

重要なことは、ここからベルク―ワによる、バルトの神認識におけるキリスト一元主義への批判が展開されるということです。

< バルトは、キリスト一元主義とかキリスト論集中とか言われるように、啓示はイエス・キリスト以外にはあり得ないことを主張して、自然啓示を通して、神を知り得るという自然神学は、「根本的な誤り」(radical error)として、「宗教改革者的教理による神認識と神奉仕」(1938年)において、とても強く排除した。そして、これとともに、自然啓示あるいは一般啓示も否定した。(中略)バルトは、人は最初に他の何かによって神を知っていて、それからキリストによって神を知るということがあり得ないことから出発する。人は神を知るためにイエス・キリストを知る。何故なら、イエス・キリスト受肉した神であって、この受肉者以外から人は神を知ることができないからと考える。したがって、イエス・キリストだけが真の厳密な本来的な意味においての啓示と呼ばれ得ると考える。受肉のキリスト以外には、啓示はないという根本確信である。受肉のキリスト以外に神を認識する途はなく、受肉のキリスト以外は闇であると考える。そして、啓示はひとつで(only)、それは受肉した神イエス・キリストということはとても徹底していて、それ以外のものは啓示のしるしと考える。たとえば、イエス・キリストの言葉やイエス・キリストが行った行為、イエス・キリストが処女マリアから生まれたこと(Virgin Birth)、イエス・キリストの復活した空の墓、そして、預言者使徒の証言、そして、聖書も、これらすべてが、キリストというたったひとつの啓示のしるし(signs)と考える。したがって、聖書自身も、バルトにおいては、啓示ではなく、啓示のしるしのひとつにすぎないものと考える。さらに、説教、礼典もキリストというたったひとつの啓示のしるしと考える。また、教会も啓示の第二次的しるし(secondary sign)と考える。これらはすべては、啓示それ自身ではなく、啓示であるイエス・キリストを指し示すもの(ドイツ語でHinweis)で、啓示はあくまでも排他的にイエス・キリストだけとした。そこで、よく知られているように、聖書のうち、旧約聖書はキリストという啓示についての待望(expectaion)、また、新約聖書は既に到来した啓示であるイエス・キリストを想起するもの(recollection)、すなわち、思い出すものとされた。以上のようにして、バルトはキリスト一元主義(Christmonism)と言われるほど徹底して、神が現われている啓示はキリストだけであることを主張した。では、バルトがイエス・キリストだけが啓示という場合の特色は何かというと、イエス・キリストの啓示は和解の啓示であるという点であると、ベルクーワは言う。(中略)ですから、バルトにとって、神を知るということは、ただ単に存在を知っているのでなくて、キリストによって、和解をもたらしてくださる恵みの神を知ることになる。それゆえに和解の恵みをもたらすことのない神の知り方はあり得ないことになる。(中略)人が神を知るときには、いつでも常に和解をもたらす恵み深い神を知るのであって、それ以外の神の知り方はないという意味である。ところが、自然神学は、キリストによる和解の恵みをもたらさない神を自然を通して知ることができると主張するので、これは抽象的にキリスト教な神認識としては成立しない単なる存在として、神を知る知り方、認識の仕方はあり得ない。これはキリストの神認識ではないと考える。そこで、ベルクーワは、バルトの自然神学反対について、次のように言う。「この点において、バルトの自然神学の対する反対はまたもや明白である。自然神学は、恵みと憐れみの認識が含まれない仕方で、神を知ることとの不可能性を認めず、自然神学はイエス・キリストの憐れみ深い父についての認識でない前の段階の認識の可能性を認めるのである」(26頁)とベルクーワは語る。だから、バルトは、自然神学を決して受け入れないとベルクーワは説明している。すなわち、バルトの神認識は、キリストの和解の恵みを知ることを同じことなので、和解の恵みをもたらさない自然啓示による自然神学を決して認めないのである。そこで、バルトは、ローマ・カトリックの自然神学を考えているわけであるが、バルトはローマ・カトリックの自然神学は、神の恵みと憐れみを知らない仕方で、神の存在を知ることができると考えていることが、根本的に誤りと語る。すなわち、神の恵みと神の存在を分離していること(being apart from grace)が大間違いというわけである。創造者なる神と贖い主なる神を分離していることが間違いということになる。では、どうして、ローマ・カトリックは、そのように人は神の恵みを知ることなしに、人は神の存在を知り得ると考えたかというと、それは、よく知られた存在の類比(analogia entis)という考え方に立つからである。すなわち、カトリックでは、存在を一番下等な無機物、すなわち、生命のないものからどんどん上へ上ってきて植物の存在、動物の存在、人間の存在、天使の存在、そして、神の存在と高度な存在へと考えていく。このやり方で人間は神の存在を知ることができると言う。しかし、バルトは、このローマ・カトリックの存在の類比の概念での神認識は、人が「恵みと信仰と関係をもたない」神の存在についての確かで真の認識(being apart from grace)に到達しようと試みることで、この仕方はまったく不可能と主張する。バルトは、カトリックの存在の類比は、「反キリストの発明」(invention of the AntiChrist)と呼んで、激しく批判した。(中略)バルトは、キリストにおいてだけ神は認識され得ると言ったが、では、聖書において、キリスト以外にも啓示があると言われていないかどうかということに関して、バルトは聖書にもないと言う。すなわち、キリスト以外に啓示がないかどうかについて、バルトとどのように考えるのかということになる。すると、バルトは啓示はイエス・キリストだけであるが、しかし、イエス・キリストの啓示がこだま(echo)を産み出す、また、光を投げかける(cast a light)ということはあると言う。すなわち、イエス・キリストの啓示がこだまとして世界に響いいている、また、イエス・キリストの啓示が世界に光を投げかけているということはあると語る。たとえば、旧約聖書詩編19編がそうである。ここは、伝統的には改革派神学においては自然啓示を教えているところとされてきた。神に造られた被造物である世界は、創造主である神の存在、栄光、知恵、力を啓示していると理解されてきた。カルヴァンは世界は神の知恵や栄光や力を表す舞台であると言った。では、この詩編19編をバルトはどのように考えるのか。すると、世界は、神に造られていても、特に神を啓示しない。何故なら、19編3節で、「話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても」言われているからである。しかし、では、「天は神の栄光を物語り」と言われているのは何故かと言うと、バルトは、それは、キリストにおける啓示の光が世界(コスモス)の中に輝いていることを表すと考えた。すなわち、バルトは、神に造られた世界における自然啓示の客観的存在そのものを否定した。したがって、自然啓示を通して人が神を知ることもまったくあり得ないことになる。これは改革派の伝統とは異なる。また、カルヴァンとは異なる。カルヴァンは、神に造られた被造物世界における自然啓示の客観的存在を認めた。しかし、人間は罪人で心が罪に支配されているので、客観的の存在する自然啓示を通して神を認識することは不可能と言った。カルヴァンは、自然啓示の存在と認識を区別した。カルヴァンは、自然啓示があることと自然啓示を通して神を認識することを区別した。しかし、バルトはカルヴァンと違って、被造物世界に自然啓示が客観的にあるということそのものを否定した。したがって、人は自然啓示を通して神を認識できるなどということは、バルトにとってはなおさらあり得ないこととされた。(中略)カルヴァンによれば、被造物現実を通して神についての客観的認識可能性が既にその創造者の跡をもっているということが、バルトによっては拒否されるのである。しかし、カルヴァンは、主観的反応から啓示を決定することを拒否したのである。カルヴァンの問題はバルトの問題とまったく違うのである。カルヴァンは常に鋭く存在論的なものと認識論的なもの、知ることと存在することを区別したのである」(30頁)。その意味は、自然啓示についてカルヴァンとバルトはまったく違うという意味である。バルトは自然啓示そのものが存在しないと主張した。カルヴァンは罪人である人間の心には破れがあるので、自然啓示を通して神を知り得ないが、しかし、だからと言って自然啓示の客観的存在までも否定するということをしなかった。カルヴァンは自然啓示の存在と認識を正しく区別した。しかし、バルトは、自然啓示の存在そのものを否定して、神に造られた世界にはキリストの啓示のこだまと光はあるが、啓示はないと否定して誤ってしまったという意味である。(中略)ベルクーワは、バルトのローマ1章の解釈は、創造による自然啓示に直面した異教徒の問題でなく、福音に直面した異教徒の問題が扱われているという解釈をしていると言う。こうして、バルトは、啓示論は何でもキリスト論的に(Christlogical)解釈してしまう。ベルクーワは、「バルトは、啓示のすべてにおいての疑問をキリスト論的に見る。そして、彼は、カルヴァンが人間は神の前に言い訳ができないと考えた、パラダイスから堕落への歴史において、目に見えるようになった破れを考慮していないのである。バルトにとっては、問題は創造における異教徒と啓示の問題でなく、キリストの十字架によって、異教徒は以前の状態と違ったものになったということなのである。(中略)ベルクーワは、バルトのローマ1章の解釈が自然啓示論でなくて、キリスト論的であることを語る。では、バルトは、どうして、そのようにローマ1章を解釈したかと言うと、自然啓示を認めるとキリストにおける和解の啓示以外の啓示があることになってしまうからと考えたからである。バルトにとっての啓示は、単に和解と同じもの、贖いと同じものである。そうでないと神が恵みの神にならないと考えた。したがって、恵みにならない啓示である自然啓示をバルトは認めることができなかったのである。(中略)以上のようにして、バルトは、自然神学、そして、自然啓示を排除した。バルトにとっては、自然啓示を認めると自然神学が成り立つと同一線上で考えてしまったので、自然神学だけでなく、自然啓示までも否定する行き過ぎをしてしまった。ベルクーワは、「バルトにとって、一般啓示と自然神学は密接不可分に結びついている。バルトの激しい攻撃の根本的理念は、バルトが一般啓示と自然神学を同一線上にあるとみなした事実にある」(33頁)。

結び

バルトが自然神学を教会の敵として激しく攻撃したのは、自然神学は恵みの神でない神を認めることになる。そんな神は神でないという根本的確信からであった。でも、これは、もちろん、行き過ぎであった。> minoru.la.coocan.jp/berkouwergeneralrevelation2.html

「自然神学は、神についての認識(知識と訳してもよい。英語でknowledge)を含む(involve)」(61頁)。「自然神学あるいは神についての認識は、キリストと聖霊によらない、他の手段、すなわち、自然と人間理性の途によって考えられるものである」(61頁)。「自然神学は、一般啓示に基本的に依拠する。そして、その一般啓示というのは、キリストと聖霊による特別啓示でなくて、創造と創造された現実における一般啓示のことである。そして、一般啓示は、自然的神知認識の土台である」(中略)自然神学は、一言で言えばキリストと聖霊によらない、あるいは、聖書によらない神学のこと、聖書がなくても自然とから得られた神についての認識として成り立つ神学のことである。(中略)自然神学は、キリストと聖霊によらない自然世界から得られた神についての認識として成り立つ神学のことで、ローマ・カトリックが中世から主張してきた神学である。(中略)カトリックにおいては、人間理性は罪によって堕落していないので、創造されたままの状態と機能を今ももっているので、自然を通して神を正しく理解できると考えるのである。(中略)ローマは、罪が特別な超自然的な賜物の喪失により、人間性を傷つけたことは認めるが、しかし、人間理性の自然能力は破壊されなかったし、また、妨げられなかった。その結果、理性はまだなお神に達することができる。(中略)わたしたち改革派は、罪による全的堕落で、理性も罪に汚れて、最早創造における神認識は不可能になったと考えるが、カトリックは、理性は傷がついた程度のことと軽く考えるのである。(中略)ローマ・カトリックは、もちろん、人間理性を使って、自然界を通して神を知ることには限界があることを認めている。結論から言えば、万物の創造主としてのひとりの神がいることを知ると言う。しかし、その神が、父、御子、御霊の三位一体であることは、知ることができないと言う。(中略)存在の類比とは低次の存在から高次の存在へと上っていく考えカトリックの独自の考え方で、生命のない無機質なもの、植物的生命、動物的生命、人間的生命、天使的生命、そして、創造主なる神に至るという考え方である。そして、これらすべての存在には原因があるはずで、それは創造主である神であると考える。(中略)「神は第一原因、すべての被造物の根源、起源として知られる。理性の自然的は光は、この認識を超越的啓示から離れて、すなわち、創造された現実の事実性から直接に得る」(70頁)と語る。すなわち、この存在の類比という考え方によって、万物の存在のこれ以上行くことのできない大元としての創造主なる神を知れると主張する。以上のようにして、カトリックはキリストと聖霊なしで、すなわち、聖書なしで、人間理性はこの第一原因としての創造主なる神の存在を正しく知れると主張する。(中略)18世紀のドイツの哲学者カントは、「純粋理性批判」、その他において、人間の理性は万人が経験できるものだけを知れるのであって、自然の光を通して、神の存在まで知ることができないことを強く主張して、批判した。すなわち、人間理性によっては、万物の第一原因としての神は証明できないとした。カントによれば、神の存在は理性の領域の問題でなく、道徳の要請として扱われるべきものであった。(中略)カントは、万人が経験できないことに理性を使うことは、思弁、すなわち、自分勝手であって、客観性をもたない。それゆえに、カントが人間理性で神を知り、存在の類比で神の存在を論じるということはとんでもない飛躍であると批判した。(中略)バルトは、ローマ・カトリックの自然神学は「反キリストの発明」と呼んで激しく批判した。また、バルトは、自然界を通して理性によって得られた神認識は「バアル礼拝」と呼んで、キリスト啓示に対立するもの、また、キリスト啓示と相容れないものとした。(中略)ハイラーは、「その存在を自然神学が証明する神は、憐れみの生きた神ではない。それゆえに人は絶対者の現実(the reality of the Absolute)に対する合理的証明を語ることになる。しかし、神の存在の証明を語っているのではない。すなわち、カトリックが万物の存在の第一原因として、人間理性は神を知ることができると言うが、その場合の神は聖書が教える神でなくて、理性が要求する絶対者にすぎない聖書の教える神は別ものである。」と述べている。(中略)カトリックの人間理性が存在の類比で知る神というのは、中身のない神、内容のない神、形式的な神で、聖書の教えている神、憐れみ深い生ける神とは言えないのである。(中略)マックス・シェーラーは、人間理性の力を強調するのでなくて、自然、すなわち、被造物における神の一般啓示を強調するやり方で、神の存在を知る方がよいとして、伝統的なカトリックの存在の類比を批判し拒否した。したがって、カトリックの中にも存在の類比批判がある。いずれにしても、シェーラーの特色は人間理性の強調でなく、一般啓示の強調である。(中略)カール・アダムは、シェーラーが人間理性の力の強調でなく、一般啓示の強調をしたことは正しいとして、さらに一般啓示を一層強調した。(中略)事物は神の啓示でなくて、神から出てくる直接啓示の条件また機会(occasion)なのである」。すなわち、カール・アダムは、シェーラーよりももっと一般啓示を強調して、神に造られた被造物が神の属性を示すと言うよりも、神御自身が被造物を通して、自己を啓示しているというところまで行ってしまった。被造物は神を反映していると考えた。さらに、カール・アダムは、人は自然を通して、神が存在するということだけでなく、神は人間の暖かい活きた心の源であることまでも知るというところまで行ってしまった。こうして、カール・アダムも、人間理性が存在の類比によって、神を知るというやり方でなく、被造物における客観的な一般啓示を通して、神を知るというやり方にすべきことを主張した。以上のようにして、カトリック内部においても、伝統的自然神学に対して、批判(中略)ローマ・カトリックは、公に人間理性は罪によって傷ついたぐらいで、ほとんど創造時の状態をもっているので、自然を通して、神の存在を知ると言うが、それは、聖書が教える本来の自然における一般啓示による神認識を語っているのでなくて、カトリック独自の存在の類比という考え方で、万物の第一原因としての創造主なる神としてであるので、とても聖書本来の正しい一般啓示を捕らえていない>

minoru.la.coocan.jp/berkuwergemeralrevelation4.html

「御指摘のとおり<「自存性」も「不変性」も「無限性」も「唯一性」も、神の絶対的属性として事実上「絶対性」を表現して」ございました。また、「神の唯一性の論議の中では、『排他的・絶対的唯一性』を示すものとして論述 」れてございました。(中略)125頁「4. 神の唯一性」の「a.『神の単一性』(ウニタス・シングラリターティス:unitas singularitatis)」のところでは、「唯一無比な絶対的存在としての意味をも併せもっている」と書かれてあり、それがイスラエルの置かれていた宗教的環境が背景にあることが示されていました。これは旧約学者がよく「拝一神教」だと指摘する、その「一神」を意味するものと存じます。>(~牧田吉和牧師の御返答に対する2通目)

啓示神学ではもちろんないし、自然神学でもないようだが、八木誠一氏の場所論的神学(宗教哲学)における「はたらき」としての神でさえ「人格」性を排除はできない。すなわち八木氏の言うところの「人格主義的場所論」の立場における神観は擬人神観から自由だし、思弁から離れて経験的事実に沿う感じを受けはするが、そのようなメリットがあるにもかかわらず、やはり神観としては淡泊で魅力を欠き飽きてしまう。だから思弁だとわかっていても上記のような絶対神観ないしは超絶神観に戻ってしまう。他人からは思弁だと唾棄されても、自分にとってはその思弁に耽る時こそ癒しの時でありストレスから解放される効果があるのだ。そのような営みにも福音的な意義がある。不安定な心において「神」は詩篇で比喩されているように心の岩であり砦なのです。

さて、特別啓示と言えば、北森嘉蔵氏は「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」(『神学入門』p74)、「絶対性は相対性をも自己のうちに含むことによって、真に絶対性となる」(『神と人間』〔現代文芸社〕p16)と述べています。関連して…田中裕氏の論文「西田哲学とキリスト教」では、<即非弁証法すなわち西田のいう絶対矛盾的自己同一が、自己と絶対者との関係について述べられるに先だって、絶対者自身の事柄として論じられ、「絶対の神は自己自身の中に絶對の否定を含む神でなければならない」ということ、「悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神である」という独自の神観が提示される。

「絶対」は聖書用語ではないですが、「三位一体」と同様、そのままでは書かれていないが、その概念は明示されていると言えるでしょう。ところで、その三位一体の神観を「三一的一神論」と呼び、「排他的、絶対主義的一神論」と対置させているのが小川圭治氏であり(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)、その点ではバルトもモルトマンも軌を一にしているような言い方になっています。しかし私は、聖書が示す神は「三一」だからこそ真実の意味で「絶対」だと言えるのだと言いたいのです。すなわち御子という人にして神の相対的絶対者を中心位格としているという意味で、北森氏の相対性を含む絶対性ということが言えるし、三一でなければ「過去・現在・未来」の時間および歴史の支配における主権の絶対性を保持し得ないだろうからです。

いちばん私がしっくりくる言い方は量義治氏の言葉です。「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)※最初、これは波多野精一氏の言葉だと読み間違え・カン違いしていましたが、これは量氏の言葉でした。

日本キリスト教会の信仰問答では、「神の唯一性と、その絶対主権」(8)とか「絶対者なる神の主権」(54)という表現がありますが、これらは「十戒」についての問答に出てくるもので、「神」についての問答には「絶対」という用語がありません。そのことにも、キリスト教において神を「絶対」という言葉で言い表すことの非厳密的で慣用的な性向が現れていると思われます 。聖書解釈としては「唯一」(エハド)ということを敷衍することにおいて「絶対」と同様の意味に解し得ると言えなくはないでしょう。

ちなみに矢内原氏は、「絶対最高唯一」と言うふうに「絶対」を「最高」とか「唯一」と区別して、聖書が示す神の特徴を表す用語としています。

神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~矢内原氏の論文「日本精神への反省」)

以下、神についての「唯一」聖句

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(申命記6:4)

「主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」(ゼカリヤ14:9)

「私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」(マラキ2:10)

「イエスは答えられた。『第一の戒めはこれです。< 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(マルコ12:29)

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」(コリント一8:6)「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ一2:5)

「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」(テモテ一6:16)

聖書に神についての用語で「唯一」はあるが「絶対」は無いという一つの理由の歴史的背景として、次のことは考慮されるでしょう。

古代イスラエルでは、一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。」(~深津容伸氏の論文「全能の神」)ja (jst.go.jp)

「拝一神教」ということに関して深津氏は論文<「一神教をめぐって」― 旧約聖書ユダヤ教キリスト教 ー >(『基督教論集』第46号 抜刷 2003年3月20日発行)の中で次のように述べておられる。

パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(コリント信徒への手紙Ⅰ8:4)と述べる。この唯一神教的発言に続く次の言葉は注目に値する。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」(同5節)と語り、異教徒たちが信じているように、神々はいるかもしれないという含みを残している。そしてさらに続く節では、「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。」(同6節)と述べる。唯一の神であるというのは、あくまでも「わたしたちにとっては」なのである。それは旧約からの伝統に沿って言えば、「神との契約の中にあるわたしたちにとっては」である。それは、わたしたちは複数のではなく、単一の神と契約を結んでいるという意味である。また、天地を創造した神は唯一(すなわち、他の神々は創造しなかった)であるということである。これは第二イザヤの神認識に一致していると言える。すなわち、パウロの神観もほぼ、多神教を背景とした拝一神教であったと言える。彼が異教を排撃しているのは偶像崇拝の故であり、十戒の第二戒に基づいてであり、これも第二イザヤと一致している。>(p18)

上記の「神にも不可能が存在している」というのは、仮にイスラエルの民の神観がそのような認識を含むものであったとしても、それは論理的にはある意味では正解だが、ある意味では誤解だとも言える。後者から言えば、相対的絶対者であるとは言え、自分たちにとってはあくまで全能なる絶対者なのだから、自分たちにとっては「神のもとでは、なにごとも不可能なことはない」(ルカ1:37 岩波版佐藤研訳)といえるから。前者の場合は、「神にも不可能が存在している」こともまた神の全能の故であるということ。つまり真の全能は不能を含むという意味です。そこまで深い理解がなされているとは思えませんが、そのような見方なくして私の超絶神観は成り立ち得ないのです。

また、神の属性に「絶対」はなくても、「唯一(性)」や「全能(性)」が事実上の「絶対(性)」を含意もしくは敷衍していると言えるかどうかの問題についても、日本のプロテスタントの中の福音派の某教団の信仰告白における「神の絶対主権」の「絶対」を申命記の所謂「シェマ」の「唯一」(エハド)を敷衍したかたちで根拠づけることは、山我哲雄著『一神教の起源』における「拝一神教」関係の引用から明らかなとおり誤解です。なぜなら、申命記的「唯一」の意味は所謂「唯一絶対」という四文字熟語で使われる「唯一」とは違って、一般的な個物を排除する絶対的な「唯一」ではなく、「神」の場合で言えば、いろんな神々の存在を否定するという意味の「唯一(神)」ではなく、ヤハウェという固有名の神が唯一であるという意味だから。人間で言えば、「あなたはあなた。この世にあなたはあなた一人だけ…」みたいな、わかりきった、個別的意味の「唯一」なのです。だから主観的にも客観的にも「絶対」とは結びつかない「唯一」であり、「唯一絶対」の「唯一」として理解したその某教団の信仰告白解説は申命記における「唯一」(エハド)の意味を誤解しているにもかかわらず、その誤解した「唯一」を、聖書には無い「絶対」が信仰告白の中で「神の絶対主権」というかたちで用いられている根拠としているわけです。

ちなみに「拝一神教」に対置されるのは「唯一神教」ではなく「絶対的一神教」(=唯一絶対神教)のようです。

絶対的一神教 - Wikipedia

ところで私は、パスカルの言葉に反して「哲学者の神」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは必ずしも矛盾・対立しないと思います。何故なら、前に引用した宗教哲学者でキリスト教徒の波多野精一氏の神についての言葉のように、哲学者は聖書に示されている神の本質や属性も要約したり敷衍して、信徒に対してわかりやすく的確に伝えてくれているとも言えるからです。これなしには誤解に陥るおそれさえあります。聖書の言葉も解釈なしには読み取れないのですから…。そもそもキリスト教の歴史において(定義にもよりますが、一般的に見ても)神学と哲学とをくっきりと分けることができるのかが問題でしょう。いくら神学は啓示にもとづくとは言え、特別啓示だけではなく自然啓示(一般啓示)にもとづく部分においては、哲学的概念の使用もありだし、すでにリベラル派においては神学と(宗教)哲学とが相互補完的な関係とでもいえるような状況があるでしょう。

ちなみに「自然啓示」と「自然神学」とは直結しない。

< 非再生者も福音受容の前提になるようなある程度の正しい神認識を持っているというような,自然神学を容認する主張として読むことはできない.聖書の一般啓示・自然啓示の主張は決して自然神学を容認するものではないことを銘記すべきである.非再生者は,正しく神を認識し神の要求に服従するという認識的・倫理的な意味においては神の像(かたち)を喪失している.>《じっくり解説》啓示論とは? | Word of Life ワードオブライフ

「絶対」という用語が哲学的で非聖書的だと言うのなら「唯一」を用いてもよいですが、それでは神信仰によって偶像化された世の諸事物を「相対化」するという、私の「絶対神信仰治療」における肝心な言い方が出てこないので、「唯一(絶対)の神」というふうに、「絶対」をカッコに入れて表記するなどの工夫も必要になります。

新約学者の荒井献氏も御自分の信仰する神について「唯一絶対」という言葉を用いておられます。以下、引用。

「私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、イエスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」

pdf_christ_140705.pdf (keisen.ac.jp)

聖書では神について「絶対」という言葉は書かれてないのに、なにゆえキリスト教では神を絶対だと言うのか…?などとつまらぬ問いを投げてくる輩に対しては、聖☆お兄さんならぬ聖☆おっちゃん,じいちゃんが、「世の中、『唯一』とくりゃあ『絶対』と決まっとるんじゃあ!『唯一』…『絶対』!『唯一』…『絶対』!」とでも言うしかないでしょう。私の宗教的立場は、「絶対神信仰」ではなく「超絶神信仰」です。「超絶」とは「超越かつ絶対」という意味です。ただ、信仰治療名としてはよりわかりやすいように「絶対神信仰治療」としています。

但し、聖書が示す神を「唯一(絶対)」だと信じるだけでは信仰生活にはならないことは、ヤコブが「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ2:19)とシニカルに批判しているとおりです。それはあたかも自分のような観念的で行動が伴わない傾向のある人間に対する戒めのようにも感じられます。従ってその信仰は隣人愛を中心とした生活実践を伴わなければなりません。それはますもって、人間関係における自衛のための戦いです。自分の体と心と霊とを守るための戦いなのです。教会の信仰告白においては、三一神は、その「存在」自体が「絶対」だということより、その「主権」が「絶対」だということのようです。

「唯一」という言葉さえ批判的に捉えられる場合もあります。旧約聖書学者の中には、拝一神教を考慮してか、「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)。これは前に引用した深津氏の「全能の神」と題された論文における古代イスラエルの拝一神教に関する言葉と関連して受けとめることができるでしょう。

たしかに、旧約のヘブライ的な面においては、存在論というようなギリシャ的な思想は入っていないのかもしれません。しかし問題はキリスト教としての現代における信仰です。長い歴史の中でキリスト教信仰は聖書を存在論的にも解釈してきたのであって、その結果、神の唯一性を存在の絶対性のように解することは誤りとは言えないし、実際、すくなくとも日本において世間一般的には、一神教…特にキリスト教の神観を「絶対」という二文字を用いて表記することは常識の如くであり、歴史的には例えば昭和初期の「国体の本義」における「所謂絶対神とか」という表現に現れていると言えましょう。問題は、そのような一神教的神観について、排他性とか暴力性といった負の面だけを見るのではなく、唯一絶対の存在である神を信仰することによって得られる精神の安定など、正の面も公平に評価する必要があるのではないか?ということです。

神の唯一性や自存性や無限性など、絶対性に関する事柄は、「改革派教義学」においては「不流通属性」で扱われています。但し、神の唯一性を存在論的に解するにせよ、歴史的批判的にみれば、ヤハウェが「唯一の神」というのは旧約聖書ではまずもってイスラエルとその周辺世界においてであって、宇宙的スケールで言われているわけではないでしょう。むしろヤハウェには「嫉む神」といわれるほど人間的で相対的な面があります。但し一方においては旧約聖書の思想は、ギリシャ形而上学などを介さずとも本来のヘブライ的枠組みの中で、ヤハウェが唯一絶対的存在として解し得る箇所があることもまた事実であり、真の絶対性は相対性を含む…といった宗教哲学的理屈で思弁するなら、それも矛盾とは言えないでしょう。

なお、「絶対他者」と「神の国」との関係に関して以下のような言葉もあります。「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエス神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳氏前掲文)

まさにこの高柳氏の神の観方は、量義治氏の言うところの「自我の内に吸収され解消される」神ということになるのでしょう。これと似たようなこと小田垣雅也氏も絶対無について「生きられるもの」ということで言っているし( …< このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える「対象」ではなくて「それを生きるもの」であり、その意味で人格的であるほかはないのです。生きられた無ではなくて考えられた無は、無について人間が考える思考の対象です。それは人間によって「考えられた」対象として、対象論理的でして、したがってそれは人間の思考の対象として、絶対他者としての絶対無ではありません。絶対無は、無という対象、有の対極概念として、人間によって有と区別された無、いわゆる分別知による無ではなく、だからそれはただ生きられるものだ、と言われているのです。その意味で、絶対無は「ただ生きられるもの」です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。>〔~みずき教会説教「復活について」〕)、「絶対」を否定するという点では野呂芳男氏が「絶対」と対置させて「究極」を言うこと、すなわち、「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを分けて「神」は前者だと言うことにもつながります(~「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於 立教大学チャぺル)。「絶対」は「相対」と「相対」するといった理屈で「神」の「絶対」性を否定しているわけです。上記の小田垣氏の「ただ生きられるもの」で私が連想するのが、遠藤周作氏の以下の言葉です。

「私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。(中略)

――なるほど神は働きだとおっしゃるんですね。

いまはそう簡単に言えますがね、それがわかるまでには『沈黙』という小説を書くまでかなり長い年月を要しました。だから『沈黙』の最後に、『おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない』と書いたのは、いま言ったXの中で私が神の働きの証明をしているのだということを言いたかったからです。あの一行は私にとってとても大事だったのですが・・・・。」(~『私にとって神とは』光文社)

遠藤氏は同書でこの他にも、「神の存在は対象として見るのではなくて、その働きによってそれを感じるんです。」とか「神が存在するという前に、神でも仏でも、自分の心の中にそういうものが働いているかどうかということが問題です。」とか「神の存在ではなくて、神の働きのほうが大切だということなのです。」と述べておられます。これは上記の、高柳氏の「神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののこと」と同じようなことであり、繰り返しになりますが、「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」という量義治氏の神理解とは反対の、「自我の内に吸収され解消される」ような神ということになるでしょう。おそらく八木誠一氏の場所論的神学からの影響があると推察しますが、無神論前提の科学を絶対的真理とする学校教育を受けてきた人たち…特に成績優秀な人たちは、家庭環境などとの事情から宗教とのアポリア状態に陥る傾向があります。そのような人たちによく見られる抜け道として、神は「存在ではなく働き」であり「知るより感じる」ものだ…といった主観主義的ロジックがあります。八木氏も遠藤氏もその点では共通しています。私の場合も、聖書の三一神に対しては、その存在を論じても自分の現実生活には直接関係なく、苦の現実の中でいかに救いのはたらきを実感できるかが重要なのだ…と思ってきました。そして対人関係におけるメンタルストレスの問題に応じ得る実践的な信仰としては、内住の聖霊のはたらきを体験するのみであるとの結論を得て、牧師が説教で原稿棒読みみたくぼそぼそ言ってるような改革派系の教会ではなく、力強いメッセージと賛美と祈りの、聖霊のはたらきを強調し体験する教会に行きたいと思うようになりました。しかしそんな教会観は一面的であり、若い人たちがカラオケで自己陶酔しながら歌うのと似たような感じでポップな賛美を歌うような光景も見られるなど、反面で何かおかしいのであって、キリスト教会としてはバランスを欠いており、聖霊派などと言ってもまともな教会としてはなかなか存在しません。ということで、私の場合は遠藤氏とは違って、「神の存在ではなくて、神の働きのほうが大切だということ」にはならないのです。上記の青野太潮氏が述べておられる、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」ということも心強い言説となって、自分もあくまで「神の存在も神の働きも両方、大切だ」と言い切ることができます。「聖定」に意識を向ける場合もそうです。(三一)神論や創造論を軽視してはキリスト論や聖霊論はないし、救済論もありません。そしてその上で次の問題に取り組むことになります。

「アンセルムスの神の存在証明の議論で述べられているように、『それよりも大きいものを考えることができないもの』といった『大きさ』において神を定義することは、通常の場合、あまり一般的な議論ではないと考えられることになります。なぜならば、例えば、キリスト教聖典である新約聖書の「ヨハネによる福音書」においても、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(「ヨハネによる福音書」第4章24節)と記されているように、通常の場合、神という存在は、大きさや空間的な広がりといった物質的存在としての属性を持たない霊あるいは精神的存在として捉えられることになると考えられることになるからです。つまり、キリスト教における神は、通常の場合、空間的な広がりを持たない精神的存在であると考えられるのに、そのような霊あるいは精神的存在としての神が、一般的には、物質的存在の属性として捉えられている『大きさ』を持った存在として定義されるということは、一見すると、少し奇妙な矛盾する議論であるようにも思われてしまうということです。したがって、アンセルムスによる神の存在証明において示されている『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義のあり方を、キリスト教における一般的な神の定義に矛盾することのない整合性を持った神の定義として捉えようとするならば、そこで語られている神の『大きさ』とは、一般的な意味におけるように、単に空間を占める体積や量としての大きさのことを意味するわけではなく、ここでは、そうした通常の意味における『大きさ』とは別の意味において『大きさ』という概念が用いられていると考えられることになるのです。それでは、そうした空間的な広がりという一般的な意味とは異なる意味における神の『大きさ』とは、具体的にどのような意味における『大きさ』であるのか?といういうと、それは、一言でいうと、神が有する知性や能力といったあらゆる属性における完全性を意味する概念として『大きさ』であると考えられることになります。」

神が「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される理由とは?アンセルムスによる神の存在証明② | TANTANの雑学と哲学の小部屋 (information-station.xyz)

ということで、「神が有する知性や能力といったあらゆる属性における完全性を意味する概念として『大きさ』」とは結局、「偉大」ということになります。

「神は、そうした知性や能力といったあらゆる属性において最も偉大で限りなく大なる存在であるというという意味において、『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義が示されていると考えられることになるのです。」

アンセルムスの「神」の定義である「それよりも大きいものを考えることができないもの」という、その「大きいもの」は、原文のラテン語maius(マイユス)で、「大きい」を意味するmaior(マイヨル)またはmajorの中性形であり、その意味は「より大きな」です。maiorの本来的意味は英語のlargeでありサイズとしての「大」でしょう。これをgreatの意味でmaiusを「より偉大な」と訳すことは、誤りではないにせよ、非本来的ではないのでしょうか?これはイメージの問題であり、偶像崇拝とは関係ありません。信仰の対象である神は何らかのイメージなしに祈ったり礼拝することができるでしょうか?できると言う人も無自覚的に何らかの神のイメージを有っておられると思うのです。その一つとして自分の場合には「大きさ」ということも、その実在を感じるうえで有用なのです。そもそも、聖書ないしはキリスト教の「神は霊である」ということと調和するためには、「一般的な意味におけるように、単に空間を占める体積や量としての大きさ」ではなく「偉大さ」として解されて然りだ…といった趣旨ですが、果たしてアンセルムスはそのような意味でmaiusという語を使ったのでしょうか?そしてこれは単に「それよりも大きいもの」…「より大きなもの」と訳すのではなく「それよりも偉大なもの」というふうに訳さないと、本当に「神は霊である」という聖書の教えに反することになるのでしょうか?

< アンセルムスの神概念を継承した重要な思想家の一人にニコラウス・クザーヌスがいる。彼は、アンセルムスの議論を、独自の「万有在神論」として、「知ある無知(de docta ignorantia)」のなかで展開する。彼は言う「(神に関しては)無知が最大な知であるということについて研究を始めるに先立ち、私は最大性 maximitas そのものの本性を追求しなければならない。さて、最大なものと私が言うのは、<それよりも大きなものは何も存在し得ないもの hoc, quo nihil maius esse potest> の事である。」>万有在神論覚え書き-クザーヌス (sophia.ac.jp)

 

「アンセルムスの神の存在証明においては、こうした新約聖書における全知全能や完全性といった神の定義に基づいて、空間を占める大きさが大きいというよりは、能力や知性の大きさや偉大さといった意味において、『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義が示されていると考えられることになるのです。(中略)アンセルムスによる神の存在証明の議論においては、まず、全知全能や完全性といったキリスト教における神の定義が念頭に置かれたうえで、神は、そうした知性や能力といったあらゆる属性において最も偉大で限りなく大なる存在であるというという意味において、『神はそれよりも大きいものを考えることができないものである』という定義が示されていると考えられることになるのです。」というこのサイトの結論は本当に正しいのでしょうか?

神が「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される理由とは?アンセルムスによる神の存在証明② | TANTANの雑学と哲学の小部屋 (information-station.xyz)

また、それがこのサイトだけではなくキリスト教思想においても正しいとされているとしても、批判の余地は無い完璧な説と言えるのでしょうか?自分はそうは思えません。「神は霊である」というのは旧約聖書にはない神理解であるといわれているし(⇒『旧約新約聖書大事典教文館p1291参照)、「霊」=「非物質」であるとしても、測定はできににせよ、いかなる意味においても大きさが無いとは言い切れないでしょう。神は唯一であり比較対象が無いから大小を言うことなどできない…という意見もあるようですが、創造主は被造世界との比較において全一者であると言うことはできると思います。「遍在」という教理がある限り、創造主は被造世界(宇宙)を包括していると言えます。ヤスパースも神を包括者と言っているでしょう。万有内在神論ではそういうことになるでしょう。スピノザ的汎神論では神即自然なので、神は少なくとも自然界の大きさ以上の大きさがあると言えます。一者から万物が生じたとする流出説では、論理的帰結として、その一者は万物よりも大きいのです。御父は本源者なのだから御子や聖霊よりも大きいと言えるでしょう。矢内原忠雄氏は、「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~矢内原氏の論文「日本精神への反省」)と述べていますが、「絶対」と「最高」と「唯一」だけでは聖書の三一神を特徴づけることはできないと思います。「超越と内在」そして「遍在」ということも言われなければならないのであり、その「遍在」の必然的帰結として、被造世界を包む存在であるということ…包むということは比喩ですが、それに伴って被造世界より大きいというスケール・イメージも比喩として生じます。そうでなければ、 「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28)といった万有内在神論的言い方にはならないはずです。宗教ないしは聖書はイメージの世界です。類比とかメタファーなしにはあり得ません。自分のイメージでは、御父(神)の中に信者たちがおり、個々の信者の内に聖霊がおられるのです。主イエスは人が肉眼で見える体を持っておられるので、集まった信者たちの間または中心におられます。それにしても「大きな神さま」というタイトルは注意しないと、人名にある「大神」とカン違いされます。だから自分は「大」と「神」とは決して併用しません。タイトルは「おおきな神さま」とするか「大きなかみさま」と書きかえる。この歌の詞は「偉大」としての意味が言われていますが、ダンスはサイズの「大」を表わしています。聖書の神はまずもって天地・宇宙を創造なさった主というイメージは、当然、その無限大のような宇宙の大きさにまさるでしょう。【大きな神さま 】ダンスで賛美 - YouTube

同じく「遍在」ということは言う人であってもそれが聖書的意味ではなく、聖書の創造主への信仰を持っていない人は、「神」をマクロ的視点ではなくミクロ的視点の方に観ようとする傾向があるようです。彼らの信仰対象は絶対他者としての創造主である「神」ではなく、自分自身を含む宇宙(意識)かなんか(…すなわち聖書的には被造物)にほかなりません。自分たちが「神」になるには「神」ができるだけ小さい方が都合がよいのでしょう。

コメント

  • 1.
    >神は全てである、神は遍在するというマクロな視点とは対照的に、これが神ですって一言でいえるものはないのでしょうか。もし神をミクロに表現するとしたら、それはプライムパーティクルというものに例えることができるのではないかと思います。
    ・・・聖書には神の遍在が示されています。遍在する神とは万有在神論の神です。聖書の神は、被造物に内在しつつも解消することなく超越している絶対者…被造世界(宇宙)全体を包むことのできる唯一神です。だとすれば、私はマクロな視点の方が聖書の神にふさわしいと思います。宗教・神話は科学ではないので理屈ではなく、直感的なイメージでありいろんなメタファーで語られます。子どもたちに向かって神さまって大きいと思うか小さいと思うかを訊けば、天地創造主だから、どちらかと言えば大きいという答えの方が多いのでは…?https://www.youtube.com/watch?v=FCqdgtVcod4
    abema

一方、キリスト教に限らず宗教組織は自分たちに都合の良いことばかり言うので根本的に信用できません。聖書のみに信を置いて、教会の言説を批判的に検証してみなければならないのです。存在論的神論において、サイズ的な意味の大きさを排除しなければならないとすれば、三位一体論における他の存在論的概念もすべて排除して然りでしょう。つまり「神は霊である」ということを「神は非物体」であると解することによって、神論ではいっさいの物質的概念を使用すべきではないとするのであれば、三位一体論につきものである「同質」とか「同等」とか「本質」とか「実体」(or 「本体」)とか「位格」とか「相互内在」(or 「相互浸透」)とかいった用語は比喩としてであれ一切使用すべきではないし、神を存在論的対象として考察することはできない…ということになり、「遍在」を含めてキリスト教教理の根本的な捉え直しを要することになるでしょう。それって八木誠一氏の言う「場所論」的神学の復権とか再発見ってことなのでしょうか?ちなみに「神は細部に宿る」とは建築家の言葉らしいから、存在論的意味ではなく、「細部」とは作品の細部であり、「ディティールへのこだわりが作品の本質を決める」といった意味らしいので、この「神は細部に宿る」を神論的・存在論的に解して言う人の方が愚かということになります。

ところで、上記の高柳氏の考えは、八木誠一氏や、前述の通り小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

小田垣氏は「汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。」(説教「インマヌエル」)と述べておられますが、小田垣氏はよっぽど「対象」ということが嫌いなのでしょう。しかし「人間の思考の対象にはならない」ような神は、聖書が示す活ける神ではないと思います。自分の場合は小田垣氏などとは反対に、聖書が示す「神」の要件として「対象」性や「最大」性…「唯一・絶対」性、「無限」性を挙げます。まさに小田垣氏が「すべてを包むものとしての唯一の神」だという聖書の三一神を想い描きます。それが自分にとっては魂の治療にもなるのです。(以下、引用。太字は私記。)

絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)※量氏の「絶対」に関する叙述は、前記の通り『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の29頁,

190頁に記されている、「仏教の空」⇒「無的絶対者」で「アッラー」⇒「有的絶対者」で、「キリスト教の三位一体の神」⇒「絶対有にして絶対無」(232頁)という類型を参照されたし。量氏が「絶対有」と共に「絶対無」に対しても「超越性、他者性、人格性」の欠如を指摘して批判し得ている点はとても貴重な発言で好評価すべきことだが、いかんせん同じ宗教哲学でも滝沢克己氏の言う「不可逆」の独断的意義を認めておられなかったのか、「超越」と「内在」が並立して、お考えが後者に前者が優先されることはなかったようです。でもこの優先なくして私の「超絶神信仰」は成り立ち得ません。滝沢氏の大胆なる「原事実」の独断こそ、理屈抜きの宗教的真実として見習うべきなのです。もちろん、そこには厳しい自己批判が媒介されていなければ、容易にカルト教祖の独裁に接近する危険性がありますが、宗教は本来、釈徹宗師が言われるとおり「非社会」とか「脱社会」といった要素があるわけで、その点ではカルトと紙一重なのです。現実において、天才と狂人、真実と虚偽とは紙一重なのです。

とにかく、日本の宗教哲学およびその影響を受ける神学は、西田哲学に影響され過ぎると神秘主義的になって、創造主なる「神」の実体性が否定され非対象化され相対化されて得体の知れぬ「存在」(?)と化してしまう。その典型が西谷啓治氏の『宗教とは何か』(創文社)における「宗教における人格性と非人格性」の見解であり、その影響を受けた上記の小田垣雅也氏の「絶対無=生きられるもの=人格的存在」といった考えである。小田垣氏は、「本当の信仰とは、イエスまで、ないし釈迦までであって、それを超えて、絶対なる神、ないし絶対無が、男か女かということになると、話は一挙にお伽話めいてくる。それは狭い意味での、対象としての、『人格神』になる。それは神話での復活であろう。人格とは、対象にならないものを人格と呼ぶのである。」と述べて、伝統的「人格神」観を否定し、これに替えて言わば非対象的意味での「人格神」を説いているが(~みずき教会説教「人格神」)、これは思弁に過ぎた感がある。遠藤周作氏にとっての「神」が、『沈黙』の主人公ロドリゴ神父を通して生きて語っていたとされる「神=イエス」のように、「だれか人を通して何かを通して働く」というのは、その「だれか」からすれば「神」を生きているということになる。これは所謂「生(き)神」とか「現人神」とは異なるが、そう誤解されかねない表現もある。まあ、このような神観は波多野精一氏の言う「自我の内に吸収され解消される」(~量義治著『宗教哲学入門』p108~109)神観にすぎないので批判するのは容易だし、自分の神信仰においては大した脅威にもならなければ参考にすべきところも無い。ちなみに八木誠一氏も「絶対他者即絶対自者」および「絶対他者が絶対自者だと言うしかない」などと述べておられる(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東京大学出版会〕p24~25)。

また、佐藤研氏の「禅キリスト教」の立場における神観もまさに「自我の内に吸収され解消される」類のものであろう。以下、引用。

< 西洋キリスト教は「神と人間」、「絶対と相対」を質的に峻別する宗教です。それを無視する考えを「異端」として排除・弾圧してきました。しかし、この二元論でやる限り、「神」は人間に結局は抑圧的に関わってきますし、人間も神への基本的な反逆を常時潜ませています。「和解」などと言ってもそう簡単ではなく、それを「贖罪」だとか「信仰義認」だとか言って神学的に跡づけても、あまり実感としてハッピーにならないのです。つまり、以上の二つの西洋的前提が実はもはや機能しなくなった、ということを多くの人が肌で感じ出しているのです。真の人間の深層現実は理論や言語で接近・獲得できるものではなく、何かこれまでとは異なった「体験」的次元が必須であること、また、神と人間の「二元論」には傲慢な人間を抑え込む効果は若干予測できるとしても、本当の真実はそれを超える「一元」の世界にあるのではないか、と多数の人が予感し始めたのです。そうした感じ方を後押しするものとして、現在の西洋に広く浸透している、一種の「終末論」的事態を挙げておきます。結局、20世紀の二つの世界大戦を経て、ここまで来てしまったのでしょう。「このままではもう先が見えている」という感覚、文化的・宗教的な「いき詰まり」に達してしまったという感覚、それを打破するには、今までの西洋的精神の大前提から何らかの飛躍が必要だ、それなしには生きて行けないという感覚――そうしたものが至る所に潜んでいます。ドイツなどはそれが最も鮮明です。ところが、坐禅の世界に参入すると、キリスト教徒であっても、ものの見方が大きく変貌して行きます。単にこれまでの欠けたところを補う、というのでは終わらなくなります。(だからこそ伝統的な人々からは極度に警戒されるのでしょう。)その際の最大の変化は、「神」観の変化です。先ほども言いました、本質的に自己に二元論的に相対する、いわば超越者・審判者としての「神」という面が脱落するか、弱体化するのです。「神」とは自分の本質の別名、という理解に接近し、さらに体験的に一線を越えると、その生々しい事実をまじまじと体験することになります。そうすることによって、理解を超えた、ある根源的な平安にたどり着くのです。これは、知的論理的な構築を行う「神学」がどのような言語を尽くしても、与えることができないものです。しかし、禅の体験を通せば自明の事実となります。だからこそ、世界の多くのキリスト教徒が、現在坐禅によって、そのような「腑に落ちる」安寧――その深浅の差や強度の差はあれ――を見出だそうとしているのでしょう。これは、底なしの終末論的不安が支配している現代および現代のキリスト教において、やはり刮目すべきことではないでしょうか。>

神観の変化には必要も感じるし、禅的体験の宗教的意義は自分なりにわかるが、やはり広い意味では、神が自我の内に吸収・解消されている感じを否めない。

 

「従属的三一神信仰」の再発見 ―「キリスト中心主義」を乗り越えて―

そもそもキリスト教の中心的教義である「イエス・キリストによる罪の贖い」の意味は、神(御父=エホバ)の聖性を実感する信仰の恵みを与えられていてこそ理解できる。すなわちキリスト信仰に先立って神信仰が成立していなければキリスト教は成り立たない。聖書において神と人とは相互浸透(ペリコレーシス)しない。神が人に成ることは全能において可ではあるが、人が神に成ることはあり得ない。従ってカルケドン信条における「真に神、真に人」というキリスト論は、父と子と聖霊が同一の本質・実体であり同等の位格であるとする三位一体神信仰とは整合しない。イエス・キリストは「真に神」であるだけではなく「真に人」であるからだ。三位一体神論では、この「真に人」ということが考慮されてはいない。聖書において「神」と訳されるものは「絶対」であり「無限」であるから、「相対」かつ「有限」なる人間とは相互浸透しない。するというのはせいぜい悪しき神秘主義思想くらいなものであろう。

あえて三一信仰を聖書から見出し得るとしても自分は同一・同等の三一神信仰ではなく、従属的三一神信仰を受けとめるが、その「従属」というのは経綸的だけではなく本体論的にでもある。御父と御子とが同一でも同等でもないということは、コリント第一15:28その他の箇所に明示されている。

「三位一体は、父・子・聖霊の対等・同等の永遠的な内在的なまじわりと関係を表す観点から考えられる本体論的三位一体(内在的三位一体とも言わる)と、父・子・聖霊が、時間と歴史において、あがないのみわざをされる観点から考えられる経綸的三位一体に区別されます。本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。」(ウェストミンスター信仰告白解説

聖書が示す「神」とは「絶対(者)」を意味する。従って本来は対象化はできないが、「(創造的)空」の自己啓示によって聖書に物語られ、解釈されて、中東一神教の「神」として認識され、信仰されている。人間がこの「絶対」なる「神」といかなる関係を有つのかは、その究極がイエスの自己無化(ケノーシス)によって示されている。人は「神」の前に謙虚であることによって、心を責め苛む世の諸々の偽装絶対を見破り、特にキリスト教イエス・キリストという偽装絶対に翻弄されなくなる。この世に「絶対」なるものがあって、自分の方は日々刻刻と「無」に近づいている。しかしその「絶対」のおかげで、あらゆる諸力に対抗できるし、苦悩をその主体である自我もろとも相対化することができます。

とにかく自分は、一時的であろうと半分であろうと何であろうとも人体を有つ者を「超絶者」という意味での「神」…、すくなくとも聖書に示されている「神」とは信じられないです。聖書が示す神は旧約の出エジプトの神ヤハウェ(エホバ)であり、イエスがアッバと呼んだ神以外の何者でもありません。その点では小田切信男氏の信仰と共通します。自分が死の現実を前に本当に切羽詰まって思考の余裕がまったく無くなった場合にはドグマ盲信的意識になるかも知れませんが、現時点ではそんな悪しき意識状態になることは想像できません。それでもヨハネ福音書などがイエスの父に対する従属的な関係と共にイエスを子なる神として存在論的かどうかは知りませんが同一体とみなしている面もあるのだとすれば、自分も三一神信仰することはやぶさかではありません。しかしその場合も子なる神は父なる神と対等とは認められません。御子従属の三一神信仰であるなら、御子の人体性は認め得ないことは無い。ヨハネ福音書その他にも明らかな父子関係の従属を認めず逆に対等・同等とするのは人間の愚かさゆえでしょうが、「同等」が基本信条・教義になって「従属」は異端とされているのだとすれば、神は自己対象化・自己相対化・自己限定において、敢えて「父子同等」を受け入れておられるとしか思えません。その理由はわかりません。聖書的であろうとなかろうと、「三位一体」も聖書用語ではないのだから、聖書にみられる概念だ…などという詭弁が通るなら「神の自己限定」も通るはずです。このキーワードなしには自分は基本信条を受け入れることはできないので、キリスト教徒を続けることはできません。基本信条の文言は、比喩を含めて方便にすぎないのです。

キリスト教」という名称からして、すでに従属的関係を表しています。「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味です。すなわち、「イエス・キリスト」とは、イエスは油を注がれた者であるということです。「聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。」油を注ぐとはどういう事?油注がれた者とは? (gotquestions.org)
キリスト教」とは、イエスという人物が「キリスト」すなわち「油を注がれた者」であるという信仰を告白する宗教です。そして、イエスに「油を注いだ者」は「父なる神・エホバ」以外の何者でもありません。
ところで、油を注ぐ者が油を注がれた者より上位であることは明らかです。
だから「キリスト教」と言う場合、その「キリスト」にはすでに、油を注ぐ「神」の存在とイエスご自身との人格的かつ従属的関係が前提とされているのです。

私は、プロテスタント教会に属する一信徒であり、聖書にもとづいてイエス・キリストを「主、神」の本質を有つお方として信じ告白しますが、いわゆる「創造主」であるとは信じません。青野太潮先生の論文で、イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)と言われているとおりです。h-n62v1-p37-76-aon.pdf (seinan-gu.ac.jp)

エスユダヤ人だったのに、白人画家はイエスを白人化させて描くことが常でした。偶像イエス同好会の諸君が「大好き」だなどと言っている史的イエスならぬ私的イエス…想像のイエスは美しく想い描かれますが、イザヤ書53章2節で「われらが見るべきうるはしき容なく うつくしき貌はなく われらがしたふべき艶色なし」と言われているとおりで、そちらが実在のイエスに近い。彼が神の子キリストであると信じ告白された主旨は、彼自身が神として拝され讃美されることにあるのではなく、彼は神の形のうちにあったが神と等しくあることを固守すべきもの或いは奪い取るべきものとはみなさず、むしろ彼は己自身を無にして(ケノーシス)十字架の死に至るまでも神に従順であられた…、それゆえに神は彼を高挙して主の御名を与え礼拝すべきものとされたわけなので、イエスを「神」と言い礼拝する意味は逆説的であり、父なる神の場合とは区別されて然りなのです。同じく「神」と言ってもイエスを「神」という場合はイエスが神に従属せし「人」として徹底し、信徒の模範を示したことにより、イエスを礼拝する場合もイエス自身が神を信仰し礼拝する者として徹底なさったことによるのです。イエスを栄光の主として高く挙げるのは神であって人間であってはなりません。イエスの使命は「子は親を映す鏡」とも言われるやうに、彼にとっての唯一にして偉大なる父である神を、彼自身の言葉と業を通してわれらに証しする啓示者にして仲介者たることにありました。繰り返しますが彼が「主」として高く崇められるのは彼が人として徹底的に神に服従して生きたことによるのであり、彼は「無」となることによって、言わば裏方に徹して、オモテ舞台で「神」として礼拝され讃美される対象を父として示しているのです。その彼の従順なる信仰にもとづく福音の教えを正しく受けとめるには、逆説的な対応が求められます。それが十字架の神学に現れています。

無からの天地創造は父と子と聖霊の三位一体なる神のみわざでありますが、「創造主」はあくまでも御父のみです。しかし伝統的には御子も造り主だと信じられています。その根拠とされるヨハネによる福音書1章3節やコリント第一の手紙8章6節やコロサイ人への手紙1章16節における前置詞「διά / ディア」の解釈については後述します。

また、三位一体論で言われる三位格間の「同等」ということについても否定的な見方を持っています。聖書でこの点に関連すると見られているのはヨハネ福音書5章18節の  πατέρα ἴδιον ἔλεγεν τὸν θεόν ἴσον ἑαυτὸν ποιῶν τῷ θεῷ (神を自分の父と呼んで自分を神と等しくした)における「等しい、同等の」(イソス)〔<「同等」(イソテース)〕です。しかし、ヨハネ研究で著名な某聖書学者によると、「5,18 と 10,33 に ユダヤ人たちが出てきて、イエスは『神を自分の父だと言い、自分自身を神と等しいと言 っている』と論難しているのは、正にヨハネとその仲間たちが日頃目の前のユダヤ教徒た ちから浴びせられている批判そのものなのです。たしかに全体が殺される前のイエスの時 代に行われた問答として描かれていますが、実際にはヨハネの現在において日々繰り返さ れているユダヤ教徒との論争が持ち込まれているのです。その二つのレベルを読み分ける ことが重要」とのことで、「ヨハネは 歴史的に生前のイエスが実際に自分を神とするような発言をしたと客観的に報告している わけでは」ない、とのことです。つまり、主イエスが「神を自分の父と呼んで」いたことは事実であっても、その意味が「自分を神と等しくした」というのは、ユダヤ人たちの誤った解釈であり思い込みなのであって、実際は主イエスは神と同質ではあられたが、神と等しいということをご自分の方から人々に言っておられたという意味ではない、そのように読むのは間違いということです。たとえば口語訳は、この「自分を神と等しくした」ということを実際に主イエスご自身がなさったと解して、つまり主イエスが「神を自分の父と呼んで」いたのは「自分を神と等しく」していたことなのだ…と受けとめて、「自分を神と等しいものとされた」…「した」ではなく「された」と敬語を用いて訳しています。新共同訳や新改訳2017ともなると、「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」と、「自分」にも「御・ご」をつけて「等しいものとされた」、「等しくされた」と、敬語で訳しています(新改訳第三版は「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」)。
岩波版の小林稔訳では「自身を神と等しいものにし、神を自らの父とまで言っていた」となっています。
いずれにせよ、ここで主イエスが父なる神と「等しい」と言われていることと、三位一体論で(…基本信条では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にはなく、アタナシオス信条にはある、)御父と御子との関係が「同等」であると言われていることとは、直接的な関係はありません。ましてや、新約聖書において父なる神と主イエスとの関係が主従的であることを示す聖句が多く、同等的関係を示す聖句を圧倒的に上回っていることについては、たとえばアタナシオス信条にある「神性については父と等しく、人性については父に劣る。」ということを都合よく用いて、主従的(ないしは従属的)関係は主イエスの「人性」について言われているのであって「神性」について言われているのではない…などと都合のよい説明がなされることがあるが、信徒は聖書を読む場合、必ずしもこれは「神性」について書かれてあり、これは「人性」について書かれてある・・・などと区別しながら読むわけではないし、記者の方もそのような認識をもって書いたわけではないと思います。
話は変わりますが、キリスト教における聖書にもとづく神信仰…人格神信仰は、神の擬人化に陥りやすいので、人格神と非人格神との中間的な(…半人格神とでも言うような)信仰の在り方でないと実際的ではありません。八木誠一氏の言われる人格主義的場所論の立場とも少し違うようです。また、「創造」といった場合にアウグスティヌス以来の「外へ」(ad extra)の創造では飽き足らず、モルトマンのように「継続的創造」だとか、「撤退」だの「収縮」だとかいったカバラ神秘主義的概念を用いて思弁を弄する説には関心ありません。創造主なる神すなわち主イエス・キリストの御父こそ「唯一の真の神」(岩波版 小林稔ヨハネ17:3)なのです。

アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。」佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1) (webheibon.jp)
しかしそのような信仰的立場では、理論的には神認識が破綻します。すなわち、「無限」とか「絶対」といった言葉は賛美告白の表現としか意味をなさなくなるからです。

「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)
「絶対」ということは「外」は無いということを意味します。相対する他が存在しないのだから無限なのです。それはあくまでも理屈ではありますが、その形而上学的意味でなら上記の「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである」云々は矛盾した内容ということになります。

讃美告白としての「絶対者」である「神」が、私が信仰する聖書の神ということになります。その神は父・子・聖霊の三一者ではありますが基本信条で既定されているような「同等」の関係ではなく、私の聖書解釈においては「従属的三一神」ということになります。これは、正統主義的キリスト教の立場から見れば、古代教会時代に異端とされたアリウスの従属説よりかはオリゲネスのそれの方に近いとみなされるかどうかはわかりませんが、御父と御子との神性同質を認めた上での従属的関係なら、自分としては聖書を素朴に読んでありだと思います。
「正統の観念そのものが時とともに変わらざるをえない。もしキリスト教徒の大多数が処女降誕を否認するようになれば――否認する信者の数は殖えつつある――否認することが『正統』になるだろう。この点は教会史が証明済みだ、と言うこともできよう。ある時代が正統とみなすものを別の時代は異端と定める。その逆も真である。たとえば偉大なキリスト教思想家の一人オリゲネス(一八五 ― 二五〇)の教えは多くの点で驚くべく独創的であり、かれの生前には正統と認められていたが、四、五、六世紀には激烈な論争をひき起こした。かれの教義のいくつかは、アレクサンドリア、キュプロス、エルサレムの教会会議で、また(これは異論のあるところだが)五五三年のコンスタンティノポリス公会議でも異端の宣告を受けた。ここから、知識の進みが今日よりずっとゆっくりしていた、今から一四〇〇年前に正統の根拠が変化したのであるなら、われわれをとりまく宇宙について毎週のように新しい情報が伝えられる今日、正統の根拠が変わってはいけない理由があるのか、という疑問が生じる。」(D. クリスティ=マレイ著 、野村美紀子訳『異端の歴史』⦅A History of Heresy⦆〔教文館〕p15)
「オリゲネスの神学において(中略)主な欠点は次のとおりである。
一 オリゲネスは子が父と同じ本質を持っているということを正しく認めているが、父なる神について言われているすべての属性、たとえば全知などが子にも同じようにあてはまるかどうかに関して、時として疑いを示し、また、父が『神性の泉』である故に持っている優位を過度に強調するのである。 
二 オリゲネスは、父と子について論ずる時に、まだ、『対他性 relatio 』という概念を用いておらず、したがって父と子の一致をも、また子が父の本質から誕生することと被造物が無から創造されることとの相違をも十分に説明することができない。彼はこの相違を説明するためには、次の四点を指摘している。すなわち、(一)子と聖霊のみが永遠であり、すべての被造物は時間的始まりを持っている。(二)子のみが不変的・実体的に善であり、被造物はその善性を失いうるものとして自由に保有しているにすぎない。(三)子のみが父ひとりから生まれるものであり、すべての他のものは子を通して父から出るものである。(四)子のみが父の善性のすべてを持ち、被造物はいずれも部分的にのみその善性にあずかっており、父のみ旨のすべてを果たすことができない。以上の四点は正しいとはいえ、父と子のユニークな関係の問題を十分に解決しているとはいえない。したがって、オリゲネスの後にも父と子の関係に関する神学になお多くの解決すべき問題が残されていた。そこで、神の子キリストに対する信仰の理解について、四世紀の初めに大きな危機が起こった。それは、アレイオス(アリウス)が引き起こした運動であった。」(P. ネメシェギ著『父と子と聖霊 ―三位一体論― 』(南窓社)p125~126)
「子のみが父の善性のすべてを持ち」云々と言われているのは、善性は本来的に御父が所有しておられたことを示します。御子イエスはマルコ福音書10:17以下の箇所で、ご自分を「善い先生」(以下、岩波版 佐藤研訳)と呼びかけた「富める男」に対して、18「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」と言われて、神の属性である善性を「神お一人」(ここでは御父を指す)に帰して栄光を讃えています。その御子のありさまを受けとめる以上、我々も御父にこそ「善い」(ἀγαθός / アガソス)という神としてのご性質を拝し賛美して然りでしょう。ここにも御父と御子の従属的関係が表わされています。
「オリゲネスは、神の独り子の永遠の誕生、先在のキリストの魂を神と肉体の結び目として神人が生まれたことを論じ、いわゆる『本体論・存在論的キリスト論』を展開し、以上でみたキリスト教の諸相[エピノイア]を通して、いわゆる機能論的なキリスト論を展開しているが、その根底にはギリシア哲学からのロゴス概念の借用がある。それは、キリストの多くの機能の総括的な理解を可能にしたが、子なる神を父なる神の下位に置く従属説的傾向に陥る可能性を含んでいた。オリゲネスは神の像の神学並びに父と子の意思の完全な一致をもってそれを超克しようと試みる。(中略)キリストを信じる者、聖なる者、聖書を霊的に理解する者、完成の域に達した者の内には、実際に現実の力としてロゴスである神の子キリストが存在するのであるが、キリストを知らない者、信じない者、文字にとらわれている者、まだ完成の域に達していない者の内には潜在的な力として存在するのである。こうして、人はロゴスの様々な相[エピノイア]によって導かれ、その内にキリストが形造られ、御子の像と同じ形にされていく――ロゴスは神の子らの原型――のである。これを成し遂げるのは人の内に宿る『キリストの霊』である。そして、完成の域に達した者には、その人の心に、聖霊によって神の愛が注がれ、その豊饒な愛によって神の本性にあずかるものとされる。この愛によってのみ、人はもはや罪を犯し得なくなるのである。こうして、人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」
(小高毅著『オリゲネス』〔清水書院/新装版 人と思想 113〕p117~118)
「私はあく迄も『祈禱論』を中心として、之に爾餘の著書からの言葉を参酌することによって、祈禱の問題についてのオリゲネスの立場及び思想を学ぶことにしたいと思ふ。そこで此の書について先づ一言しなければならないが、この書はラテン譯によらずギリシア原文の儘で今日まで保存されて来た一事を感謝を以て特筆しなければならない。何故それがラテン譯にならなかったか、それは恐らく其の中に於ける若干の思想が後世に異端的と映じた故であらうと云はれてゐる。例へば、その第十五章に、祈りは父なる神にのみ捧げらるべきもので、御子に對して捧げらるるべきものでないと教へてゐるが、是は後の完成せる正統主義の三一神論から見れば明かに異端である。(中略)オリゲネスの著者の多くはルフィヌスの、正統主義的に補足せられた飜譯を通じてのみ傳はってゐるので、之によってはオリゲネス思想の眞相を捉へることが困難な場合が多いからである。(中略)
『祈禱』(プロセウケー)に至っては、キリストにさへも献げらるべきものではなく、たゞ『萬象の神また父』にのみ献げらるべきものである。何故なら、キリスト御自身も亦この神に對してプロセウケーを捧げたまうたのである。又彼自ら、『祈ることを我らに教へ給へ』との請に對して弟子たちに教へたまうた祈りは『天に在す我らの父よ』との祈りであって、己に對するプロセウケーではない。何故であるか。それは御子は御父とその本質を異にしてゐる故に(中略)御父にさゝぐべきプロセウケーを同時に御子に捧げることは出来ないからである。かゝる御子従位論が後世異端の烙印を押されて、それがオリゲネスの著書に非常な禍を齎したことは既に述べた通りである。」※「…同時に御子に捧げることは出来ない」理由として注に書かれているのは、「一、それは祈禱の對象を複数にすることであり、その事はそれ自體として不適當である(中略)。二、聖書にかかる類例を見出し得ない。」。(有賀鐵太郎著『オリゲネス研究』⦅全國書房 昭和21年12月20日発行⦆p49~50、70~71、133)
「彼が『父』と『子』との差別、及び御子の従位を強調した事のために、後世の神学者たちはオリゲネスが御子を被造者と呼んだ事を彼の異端を非難する一つの理由としたのである。何故なら之こそは方にアレイオス(アリウス)の所説であったからである。然しオリゲネスのロゴス論の本質的性格はその永遠生誕説に於て見出さるべきものであって、御子被造説をその核心と見做すことは誤である。ケッチャウの原文並びにバッタワスの英譯(三一四頁)を見よ。」(同上 p508)
「オリゲネスの思想の根本にはプラトン主義的二元論(この世界の成り立ちを【可視的・時間的世界】と【不可視的・非時間的(永遠の)世界】と二つに区別して論じる考え方)があり、それを土台にして御子の生誕を考察し、御父による御子の生誕を不可視的・非時間的(永遠の)世界での出来事として論じました。そうすることによって、例えばユスティノスのキリスト論に見られるような、御子がお生まれになる前には御子は存在しなかった、という従属説的な理解の問題の克服を図り(永遠の世界での御子の誕生においては、誕生の前に存在しなかったという時間的な思考は当てはまらないから)、それによって御子の神性を強調しようとしました。ですからこの点を見るならば、オリゲネスは御父と御子の神性の同質性の理解に近づく議論を展開した人だと言えます。 しかし他方でオリゲネスは、二元論的な思考を創造のみわざにおいてもあてはめて、可視的・時間的世界で神に創造された被造物は、それに先立って永遠の世界において肉体を持たない魂として神に創造された、と主張しました(この被造物の永遠性の主張もまた、オリゲネスが異端宣告される理由の一つになっています。ちなみにオリゲネスがそう主張した意図は、被造物を神格化したかったからではありません。神が創造することによって創造者になられたのではなく、神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えたのです)。こうして御子の生誕の永遠性だけではなく、被造物の創造の永遠性を主張したために、後代になって御子と被造物の本性における区別があいまいであることが問題視され、そのために従属説的だと判断されました。」(~某牧師への質問の返答)
私は職業神学者ではないので曲解や誤解もあると思いますが、このまま話を進めさせて頂きます。ニカイア信条の「(主は)独り子である神の子、すべての時に先立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでは なく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」といった信仰の思想的背景には、「パンタ・レイ」(万物流転)のヘラクレイトスにまで遡る生成・変化の思想があったとも云われています。直接的には新・プラトン主義の創始者と云われるプロティノスの思想の影響で、運動の視点から神についても考察されたのであり、御父を本源として御子、聖霊が生成し発出する三位一体論もそのような観点で捉えないと見当違いになるのでしょう。まさしく聖書が示す神の存在は現代神学のE・ユンゲルが言うように生成においてあるのです。但し、唯一の真の神である御父だけは本源なので、その生成・変化の運動に巻き込まれることはありません。そこが御父と御子や聖霊との根本的な違いです。
「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6岩波版 青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、御父は生む者・本源者であり、御子は生まれる者、聖霊は御父から御子を介して発出する者です。これは、御父と御子と聖霊との主従関係を前提とするものであり、その場合の「従」とは、創造主と被造物との関係におけるそれではなく、本源者と生成者との関係におけるそれです。これはアタナシウスも認めるところであったと認識しています。或る正教会の司祭によると、以下のとおりです(私信なので許可を得ないと名前は出せません)。
< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」ではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>・・・「関係」は「神性」と対置せず、御父と御子との「関係」が「同等」か「従属」(的)か…という判断なので、後述のように御父と御子との関係における神としての「同質」すなわち神性の「同等」を認めたうえでの「従属」は「職務的従属」と言われ、「力と栄光」についても御父と御子は「同等」だと言うのですから、実際は「従属」関係とは言えないような関係です。私は「同質」を認めたうえでも「力と栄光」については「従属」的な関係にあるという立場です。しかし東方教会であれ西方教会であれ、正統であることを自認する教会においては「力と栄光」も御父と御子とは完全に「同等」なのです。後に引用する矢内原氏の文言にあるとおり、御父と御子との関係において大小の区別があるとしてもそれは生む者と生まれる者との違いにすぎず、「能力、権威、栄光等の大小」には当たらない…というのが東西の教会に共通した正統的見方であるとは思いますが、私は「大小」を言う以上、「能力、権威、栄光等」についても御父が御子より上であると信じます。これが私の「従属的三一神信仰」の再発見なのです。 後で引用する『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントのコリント第一3:22~23の注解の中で、「キリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」とあるとおり、御父が唯一の真の神として「力と栄光」において御子に優ることは、終末に明らかにされることです。御子の「力と栄光」はあくまで終末に至るまでの間に御父から預けられた、言わば借り物なのです。父と子という親子の比喩を神とイエスの関係に適用しているわけですが、親子関係が上下関係であるわけがないと思われる人は少なくないでしょう。その是非は私にはわかりませんが、youtube加藤諦三氏の最終講義を聴いていたら、親子関係が上下関係であると述べておられました。
とにかく、同じく正統路線であっても、ギリシャ教父のアタナシウスとラテン教父のアウグスティヌスとは違いがあり、それが東方の正教と西方のカトリックプロテスタントとの教理的違いになっているようです。西方教会の三一神論の基本になり図式化すれば三角形になりましたが、東方教会では直線的であり、それがフィリオクェ論争で明らかになりました。以下、引用。
「アタナシウスは尚ほ『父は子よりも大なり』との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。」「『父は我よりも大なり』(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、『父は我よりも大なり』といふ事は、『我は父より出でたり』といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。」(『矢内原忠雄全集 第九巻』〔岩波書店〕~「訣別遺訓に現れたる三位一体論」〔P338~〕、「三 子なる神」の2〔P345~〕)

但し、この矢内原氏のアタナシウス説についての理解は必ずしも信用できません。と言うのは当時は教理研究の資料は限られていただろうし、以下の北森嘉蔵氏のアタナシウス説についての理解と相反する内容だからです。
「アタナシウスによって、受肉者キリストと神の本質との関係は明確化されたのでありますが、しかしアタナシウスの神学は問題がないわけではありません。それはどういうことかと言いますと、アタナシウスは父なる神と子なる神との同質という面を強調するあまり、父なる神と子なる神との区別という面が、いささか弱いという点であります。(中略)アタナシウスは、アリウスを相手としていたので、いささか反動的でありました。アリウスは、『父なる神と神の子イエスとはまったく区別される存在であり、神の子は端的に神の外にあるだけだ』と主張したので、これを防ぐために、アタナシウスの主張はいきおい、『父なる神と神の子キリストとは同一であり、神の子は神の内にあるのだ』という面だけが、一方的に強調されたことはまぬかれないのであります。したがってアリウスを防ぐ反動として、いささかアリウスと逆のあやまりの立場に近づいたと言えます。この逆の立場が、父神受苦説であり、またの名はサベリウス Sabellius主義であります。そこでたとえば、ラインホルト・ゼーベルク(R.Seeberg)のような教理史家は、『アタナシウスの神学を徹底していくと、サベリウス主義になるかもしれない』というようなことを申しております。つまり、ここではサベリウス主義ないし父神受苦説という異端が、正統的神学の代表者たるアタナシウスと紙一重のところで接触しているという大変興味深い現象を見るのであります。しかし、これは興味深いけれども危険ですから、私たちはアタナシウスにしたがいながら、しかもサベリウス主義ないし父神受苦説と断然違う立場を堅持しなければなりません。それは、子なる神が父なる神と本質を同じくして、神の本質の内にありながら、しかも父なる神の外にあり、いわゆる『融通不可能な固有性』をもって父なる神と区別されるペルソナであるということであります。」(『神学入門』新教出版社 p52~55)
ところで、前掲の矢内原氏の論文の最後のところ、「能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない」ということは、改革派の神学でも御父と御子が「神」として「同質」であることの結果として言われているようです。                       「三つの位格の存在様式(the mode of existence)においては秩序があり、それは覆すことができないものであり、交換され得ない固有性であり、関係の秩序なのである。しかしながら、このことは、従属として解釈されてはならない。位格間のこれらの区別は、本質の区別ではなく、位格の区別なのである。三つの位格は、『本質において同一であり、力と栄光において同等』(the same in substance,and equal in power and glory)。」(webサイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「モートン・H・スミス「組織神学‐その紹介と解説‐」(作成中)の「第10章:三位一体の教理」の「Ⅳ.三位一体の区別」)minoru.la.coocan.jp/morton10.html  しかしそれなら、三位格の間にはいかなる意味においても従属関係(…という表現が不適切なら他に何と言えばよいか…とにかく上下的関係)は無いのか…?と言えばそうではなく「職務的」には従属関係が認められています。「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はなお。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(同上)・・・この「職務的従属」といった観念は、聖書を素直に読む限り御父と御子との従属(的)な関係は否定できないが一方では異端とされている「従属」説と混同されてはならないということで、「従属」に「職務的」と「本質的」とを区別した神学的方便です。私は「職務的」であれ何であれ、要は御父に対する御子の「従属」が信仰告白に含まれることに意義あり!と思い、その優先性においてこれを改革派信仰との接点として、代わりに「同等」ドグマを受け入れています(「同質」はキリスト教信仰の前提として、すでに受け入れている)。但し、改革派では一般的にあまり重視しない(…というか軽視以下。意識さえしない牧師もおられる)「職務的従属」を強調して、その重要性をアピールします。 

「職務」と言うのは要するに類比においては「役割」ということですが、人間社会で役割というものは無条件に与えられるわけではなく、1つの役割は、それに相応しい実力を持つ者に対して与えられるわけです。逆に言えば、その役割を担うだけの実力を欠く者には与えられないはずです。ということは、御父は御子から、同じ神でも「大」なる存在だと言われるだけの実力を持っておられるということです。万物を聖定し創造と摂理の主という役割を担っておられるのは、それに相応しい力・権威・栄光を持っておられるということ、御父こそが三一神を絶対的な主権者たらしめる実力者であられるということを意味する…と、私はそのように確信しています。

ヨハネ福音書14:7でイエスは弟子たちに対して、「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」と述べ、続く8節以下でピリポの問いに対して同様のことを述べているが、これはよく実体論的に解され、イエスの身体を見たことが神の存在を見たことであるかのように言われる。しかしそういう解釈こそイエスを偶像化することだろう。
「ピリポ、我かく久しく汝らと偕に居りしに、我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり」(ヨハネ傳14:9)
「子は親を映す鏡」という諺があるが、福音書を読んで御子の言葉と業を見聞する者は、聖霊によって御父(神)を間接的にイメージできる。間接的という意味は、御子イエスの御父(神)に対する従順な姿を感得することによって、これに応じて聖霊を送り力を与える御父が逆照射的にイメージされるという意味。これは偶像に非ず。イエスを見て「神」として拝することこそ偶像崇拝なり‼

その後の、10、11節「我の父に居り、父の我に居給ふ」、「我は父にをり、父は我に居給ふ」ということを存在論というか形而上学的な解釈の絶対化で「ペリコレーシス」(相互内在・相互浸透)などと主張して他を認めない立場の愚かさには呆れるばかりです。これは単に、御父と御子との親密な関係性を表現していると受けとめればよいだけのこと。
ニカイア・コンスタンティノポリス(ニケア・コンスタンチノープル)信条では、主イエスは「すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」(日基教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)とあり、「同質」とは言われても「同等」とは言われておりません。それはそうでしょう、いくら信条というものが論理的には矛盾したものであるにせよ、信仰告白であり信者の生活現場である教会に関わっているので、所詮は神学者の思弁的作文とは言え、あまり無茶はできません。「~より / from」( ἐκ / エク)と言われている以上、御子は御父と「同等」であるわけがなく、なんらかの意味で「下」であり「小」であり、即ちパウロが「ヒュポタッソー」(原形)を用いて明示しているとおり「従属」です。しかも一方で御父は、「唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主」と賛美せられ、御子についての「すべてのものはこの方によって造られました」の意味は、その造った主体は御父であり、御子は「この方によって」(δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο で、「よって」と訳されてる「ディア」という前置詞の意味は要するに媒介)なので、御子は創造主ではなく媒介者ということで、御父こそ創造主にして全能なる神であられることが明らかにされています。その点でオリゲネス的従属説を採る私でさえ、ニカ・コン信条はエキュメニカルな信条であると尊重するわけです。

八木誠一氏曰く、「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、また、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)と述べておられます。このように、御父と御子との間には「究極者」と「究極的なるもの」との区別があるのです。「相関的」とは相対的ということでもあり、その意味では御子は相対性を持つ、この点で創造主なる御父と決定的に区別されるのです。

また、御子が被造物かどうかについては、コロサイ1:15の「プロートトコス」の解釈で分かれる議論であり、いずれかを絶対化することはできません(エホバの証人さんは被造物説… http://biblia.holy.jp/51-col-1-15.html )。
繰り返しになって恐縮ですが、ニカ・コン信条における「父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」という、その「~より」と言われていること自体が、広い意味では従位・下位にあることを示しています。にもかかわらず、この関係は本質的ではなく職務的であるといった詭弁を弄して三位格の「同等」に固執するのが正統主義者なのです。
私はこのようなドグマティズムには屈せず御父絶対の揺るがぬ確信があります。それは聖霊による確信なので微動だにしないのですが、そうなると御子を相対的存在とみなすことにもつながるのではないか?とか三神論になるのではないか?とか…、それ以上の議論を続けるとますます思弁に陥り、さらには詭弁に変わるおそれも出てくるので、私はいちおう、同じ唯一神教といってもユダヤ教イスラム教のような単神論的唯一神教と、キリスト教の三一神論的唯一神教とを区別すべきだと言うのですが、それ以上は思弁に思弁を重ねることになりますので(…それもまた自分のような者の精神安定にとっては、一利にはなるのだが…)、ヨハネス・G・ヴォスが『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版局)で述べているように(編・訳は玉木鎮牧師)、「聖なる無知を告白」するという頌栄的態度へと聖霊によって導かれるのです。
とにかく、矢内原氏はアウグスティヌスで三位一体論が完成との見解ですが、自分はアタナシウスで完成したと見る方がより聖書的であるとの見解です。というか、矢内原氏のアタナシウスやアウグスチヌスに対する理解が、時代的制約による資料不足のため誤解もあると思うので、矢内原氏がどう言われたかに関わらず、とにかく私は聖書と、青野太潮氏その他有力な解釈者の見解を参考にして、従属的三一神信仰・従属説的三一神論の立場を堅持するのです。古典的三一論に固執して従属説的な見方をまったく認めない正統主義的立場の人は、従属説的な立場は「合理的」だから受け入れやすいといった旨のことを言って揶揄しがちだが、「非合理ゆえにわれ信ず」というような考えを絶対化する方がよほどおかしいのであって、合理的であること自体は何ら問題ではない。問題は、その主張が聖書的か否かであり、それは選択肢が1つだとは限らない。解は複数あり得るのだから、正統主義的に1つに固定する理由は無いのです。

ところで、おもな教父たちの父子関係についての考えが要約されている論文があるので引用します(尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)。
「三位一体論に関して、アウグスティヌスの見解では、神性は三位格の共通の源泉であるが、彼以前の他の教父達は、神性は父にのみあり、他の二位格はそこから派生したとする。即ち、後者では父が子の原因であり、三位格は非対称的である。これに対して前者では、三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。それではアウグスティヌスでは、共通の源泉たる神性は三位格と並ぶ第四の位格なのであろうか。いな、そうではない。神性は共通の源泉として共通の基体であるが、三位格に超越したり、それらの根底にあって先行するも のではなく、神性は永遠から三位格に区別されている。つまり、 父と子とは異なるがその本質〈神性〉は異ならない。神性即三 位格、三位格即神性である。一つの本質にして、同時に三つの位格〈神格〉である。三位格を離れて、それらの基体としての神性が存在するわけではない。これに対して、テリトリアヌスやバシレイオス等の見解では基体は父であり、父はそれ自体生ぜず、子を生ましめ、子は生ましめられるだけの因果関係にある。 ここで基体とは三位格の本質、つまり神性を意味するが、この場合、各位格は個体でもなく、種でもなく、個体と種との結合としての個体的種と呼ばれる。それは、各位格は無体的にして現実的な区別された存在であるからである。(そして無体的、非物質 的存在は個体ではなく、種に属する。三位格は個体的種の違いで ある。即ち、単に名前だけではなく、個体的種として現実的存在 である。)アウグスティヌスは三位格を共通に統一する本質たる神性に対しては類と種の概念を使わず、むしろ基体のカテゴリーを適用する。というのは、三神論に陥るのを避けるためである。オリゲネスによれば、神とロゴスとは現実的存在である。各位格は永遠から特定の個体的存在、第一のウーシアである。(この点で、経綸において顕現したとするテルトリアヌスと異なる。) ウーシア、ヒポケイメノン、およびヒポスタシスにおいて、子は父とは異なる。各位格は単なる個体ではなく、個体的種であり、その共通の統一は種的類である。それは種と類の結合を意味し、 第二のウーシアである。つまり、父と子とは異なった個体的種であり、それらの統一は共通のウーシアとしての種的類にある。父と子との同一本質〈ホモウーシオス〉は、ここにおいていわれる。 父と子とは、ヒポスタシスとしては相異なるが、第二のウーシアにおいては同じである。父は源泉として、そこから神性は多様な レベルで下降・派生する。被造物にとっては、父とロゴスとの原関係は永遠であり、ロゴスは時間的初めがなく、永遠に発生している。神の像としてのロゴスが存在しなかった時はなかった。また不可思議の神から見れば、ロゴスは被造物であり、他のすべて被造物の原型として父からの発出の最初の子である。子は不生とともに生でもある。 父は絶対的な神であるが(The God)、 ロゴスは絶対的には神ではない(God)。ロゴスは種的類において父と本質的に同一でありながらも、派生的神、第二の神として、より低いレベルにおり、従属的で、父と被造物との媒介者である。換言すれば、キリストの媒介なくしては、父へ祈ってはならない。 つまり、子を廃止しない立場である。子は父の為すことを為すことにおいて、その意志も同一である。」
ここで御子キリストを「第二の神」とする従属説が述べられていますが、オリゲネスが異端とされたのはその死後のことであり、生前の彼は第一級の神学者でした。ちなみに某牧師によると、「現代では多くの神学者たちが、オリゲネスを異端としたのは間違いだったと認めている」し「オリゲネスの神学から多くのことを学んでいる」そうです。但しそれは、まだ三位一体論が発展していない時代の思想家だから…ということであり、従属説自体を擁護するものではなくその逆です。アリウスとは違って、御父と御子との、神としての同(一本)質性を認めたうえでの従属説というのは(…それが論理的に成り立ち得るかどうかの神学的議論はさておいて…)、異端とするほどに聖書から逸脱した考えであるとは言えないというのが、すくなくとも中立的、穏健的立場を志向する神学者たちに共通した見解ではないのでしょうか?
「アタナシオスは、神性は異なったレベルに存在するというオリゲネスの主張に反対する。神の本質は父と子において同一であり、 低次の存在秩序に伝達されたり拡張されたりするのではない。ただ子は生まれたものとしては父とは異なるが、神としては同一である。究極的根源としての父は時間的に子に先行しているわけで はなく、子は不生の父とともに永遠である。子は父の神性の形相 〈顕現〉であり、子は完全な神である。子によらずしては、父は何事も為さない。また子は父の意志により生じたのではなく、本質によって生じたのである。」(尾崎誠氏前掲論文より)1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org) 
ここで言われている、「子によらずしては、父は何事も為さない」ということよりも本質的であり深層であるのは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19) ということではないのでしょうか?                              ところで、キリスト教の「三位一体」神信仰は、日本基督教団信仰告白にあるように「唯一神」教という前提のもとで「同等」を言うのでしょうが、「唯一」(エハド)については「複合的独一性」とか「一つのうちにおける多様性」であるとかいった説を見聞きしたことがあります。これはまさに、「唯一の神」と「父なる神、子なる神、聖霊なる神」との矛盾をクリアーしようとする、私見では不確かな言語学的試みとでも言えるでしょう(Edmund J. Fortman 『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』、創造からバベルまで・・・Ⅱ 聖三位一体  - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)他参照)。しかし矛盾は矛盾のままでよいのではないでしょうか?「唯一」(エハド)本来の歴史的意味はけっして「三位一体」の「三位」とは関係ありませんが、関係づけるのが神学的解釈であり、それなしにキリスト教の教義は成立しないわけです。しかし、その解釈は教会が「正統」と決めたロジックでないと認めないということが誤りなのであり、そういう正統主義的態度は批判され改革されて然りです。ともかく、三つの位格を人格に喩える以上、論理的に「三位」は「三神」であり、その(父と子と聖霊の)「神」が同一本質を持つという意味で「一体」なのです(…「三神一質」)。それが「唯一」の神であるということを、私の場合は無理にこじつけず、旧約的唯一神教(=単一神教)と新約的唯一神教(=三一神教)とを貫く「唯一」とは、拝一神教的「一」・・・つまり自分(たち)にとって聖書が示す神のみが礼拝されるべき真の神…という意味でよいと思っています。他人はまた違う意味で受けとめればよいでしょう。
水垣渉氏の論文「キリスト論の思想的射程 ― 古代キリスト教を中心にして―」によると、< 厳密にいえば、三一神論と三位一体論とは区別しなければならない。三位一体論は、三一神論の一つの立場である。(中略)本来なら、宗教史的現象として最も広くは「三一論」、キリスト教においてやや限定して「三一神論」、その内容の正統教義的表現として「三位一体論」と使い分けることが望ましいが、実際には難しいであろう。」ということで、歴史的には、「三一論」>「三一神論」>「三位一体論」という関係になるそうです。
日本のプロテスタント教会には、私見では「キリスト止まり」とも言える、カール・バルトの神学的影響によると思われる過剰な「キリスト中心主義」的傾向があります。その傾向は、例えば1989年に出された「日本キリスト者宣言」なるものに顕著です。
「私たちが、あくまでもキリストの主権のもとに、キリストを中心としながら、歴史と世界の中に生き、また他者と共に生きる以外に、私たちの信仰の証しと告白の道はない。そのようなキリスト中心の信仰から、私たちは、天皇代替りによってあらためられた元号なるものを、主権在民に反する天皇中心の独善的、排他的、閉鎖的な国家主義歴史観、世界観の残滓として、受けいれることができない。」
ここには、イエス・キリストの父なる神への信仰がまったく考慮されていません。御父が後退して御子ばかりが前面に出されるキリスト中心主義を「キリスト止まり」と言わずして何と言うのでしょうか?
ペトロ・ネメシェギ神父は『父と子と聖霊―三位一体論』(南窓社)の中で、「現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。」と述べており、また、D・クリスティ=マレイも『異端の歴史』(教文館)の中で、「今日のキリスト教徒も多くは自分でも知らずにモドゥス的モナルキア主義者なのである。」と同様のことを述べていますが、その「唯位」(モナルキア)なる神こそがキリストであり、父と子と聖霊の三一神が「子」なるキリストのみに集約されてしまうという傾向です。「モドゥス的モナルキア主義」とは様態単一神論であり、「父神受苦説」と言われ、サベリウス主義と呼ばれています。それはともかく、旧約聖書も正典とし、新約聖書の前提としている以上、キリスト教も原則的に「父」なる神が中心であり、究極的には第一コリント15:28のとおり、三一神は御父に集約されないと啓示にそぐわないのでは…?というのが私見です。そしてこの「三一」というのは三つの位格が一体であると言われますが、「一体」という訳が誤解のもとであり、いかにも一心同体というような意味にとられやすいですがそうではなく、「同一本質」の「一」ですから、三位格があくまでも神の本質を共有しているという意味です。その三位格は個別的な自存性とか人格的固有性などが言われ、ひいては「三つの別な自己意識」などと言い出すに至っては何をかいわんやであって、これが「三人格」でなくて何?ってことです。
「三位一体の三位とは、3つの位格あるいは人格という意味です。具体的には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神を意味します。位格(人格)とは、他と区別される自己意識を持っていることを意味します。宗教改革カルヴァンは、『キリスト教綱要』(Ⅰ-13-20)において、位格は、神の存在方式(様式)と言いました。すなわち、神は、父・子・聖霊のお互いに区別されながらも、また同時に、お互いに密接な関係とまじわりをもつ仕方で存在されると述べました。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々区別される自己意識をもっておられます。わかりやすく言えば、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々が、人格、すなわち、知性・意志・感情をもっておられます。各々が心をもっておられます。しかし、お互いに、深い豊かな愛の結びつきとまじわりをされているのです。」(~サイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第2章 神について、また聖三位一体について」の「第3節 三位一体の神」)
三神論的傾向を避けるために用語は「位格 Person」を避けて「存在様式 Seinsweise」としたというバルトの神学系統などでは三位格と三人格とを混同しないとは思いますが、ウェストミンスター信仰基準では三位格は三人格(…この場合の「人格」は心理学的意味の person)なのです。
「問九 神には、いくつの人格があるか。 答 神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮編訳)〔聖恵授産所出版部〕)
ここで言われている「力と栄光において同等」ということ、これが次の「ひとりの、まことの、永遠の神」ということを三位格全体に対して言うための言わば、辻褄合わせであって、実際は「ひとりの」ではなく「三者の」であり、「まことの、永遠の神」は御父のみとみなせば、「力と栄光において同等」と言う必要はありません。そして聖書的には、やはり創造主である御父が最も「力と栄光」を賛美されるお方なのであり、その力によって御子は復活し、その栄光をあらわすべく地上で活動されたのです。無論、合理的であることが聖書解釈の妥当性を根拠づけるものではありません。究極的には、論理的整合性などにこだわっていたのでは神学は成り立ちません。テルトゥリアヌスが言ったとは言われているものの疑われてもいる「不合理なるゆえに我信ず」といった言葉もあり、北森神学などのように詭弁に詭弁を重ねるより、説明できないことは「神秘」とか「秘義」とか言って逃げる教義学者の方はまだしも正直だとさえ言えるかもしれません。神学はそもそも人知を超えた神にかかわる言論として初めから啓示に限定され制約された神認識としての営みなのですから、前掲書の中で言われている、「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。」(p59)ということが必要になってきます。「聖なる無知」(Holy ignorance)という用語自体は、聖書的根拠としてはやはりヨブ記の特に42章3節「『一体何者か、無知であるのに、わたしの経綸をぼかすこの者』。そうです、私は認識していなかったことを語ったのです。私を超えた不思議の数々、それを私は理解してはいないのです。」(岩波版 並木浩一訳)という告白、自分の無知(ベリー・ダーアト)、無理解を認める告白が挙げられるでしょう。
「聖定と人間の責任との問題」以外の問題でも存在論的な問題…、たとえば「相互内在」(ペリコレーシス)に関してなど、考えてみても理解しづらい問題は諸分野にあるので、ある種の思考停止も脳内整理のために必要だと思います。
ちなみに岸田秀氏は、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(『希望の原理』〔青土社〕p17~18)とか、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(前掲書p54)と述べています。
八木誠一氏は、以下のとおり指摘しておられますが、いわゆる正統的キリスト教の三位一体論においては、事実上、三者の神です、三神論なのです。この点でも一皮むけば正統と異端とを区別しきれない曖昧さがあります。
「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)とか、「神を人格として表象し、さらに子なる神、聖霊なる神をも人格(ペルソナ)として表象したら、三位一体は三神論となり、両性論的キリスト論は二重人格となってしまう。人格主義的神学の用語で三位一体論とキリスト論を語ることが困難な所以である。」(『<はたらく神>の神学』p119~120)とか、「三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である。」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221)と指摘している。そもそもギリシャ教父なしいは東方教会の三一(至聖三者)論は何がいけなかったのか?「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏したということである。」(『<はたらく神>の神学』p4)
ヘブライ語聖書だけが教典であったユダヤ教時代までは、唯一神教であり、その「一」が「唯一絶対」の「一」の意味になるのは新約時代に入ってからであって、本来は、同じ「ヤハウェ」の名で呼ばれても多様だった状況の中で「ヤハウェはただひとり」を強調した単一的意味、そして申命記では5章で拝一神教的意味の「第一戒」を含む所謂「倫理的十戒」が語られ、その後の6章に置かれた編集段階からは、拝一神教の「一」、すなわち相対的絶対性の「一」になったのでした。いずれにしても歴史的には「唯一」の意味が、自分たち以外の共同体で信仰し礼拝されている神々の存在を客観的に否定し排除する絶対主義的な意味ではなかったことは確かです。マルコ福音書12章29 , 32節で律法学者の弁として書かれている申命記の「シェマーの祈り」における「エハド」です。しかるに私見では、キリスト教は「唯一神教」であると同時に「三一神教」と言われて然りであり、旧約時代以来、「唯一の(真の)神」は、御子を派遣した御父のみであって、派遣された御子は含まれません(ヨハネ17:3)。ですからこの唯一真神を三位一体の神であるとするのはあくまで一つの解釈にすぎません。しかも明らかにバイアスがかかった偏りある解釈です。
現代神学のガンは、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)ではないかなと思います。北森氏の言う、「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということが「キリスト中心主義」で福音主義的聖書理解を捻じ曲げる原因です。「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提として有限的神を立てる民主神学に利用すべく三一神論に展開するというのは邪道も邪道です。そのような思想は当然ながら非聖書的神話や神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。モルトマンその他、北森神学を高評価する思想も同類です。神は全能であり苦しむことも死ぬことも原理的には可能であってもその必要も理由も無いので、不死不受苦で然りです。
「唯一人不死性を保持し、近づくことを許さない光の中に住み、人間のうちの誰も見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配権力が〔あるように〕。アーメン。」(岩波版〔保坂高殿訳〕テモテへの第一の手紙 6:16)
「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)
「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christo-centrisme)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256頁)
とにかく、バルト神学などの影響で広がった「キリスト中心主義」は極端化すると、神さまはイエスだけでもOK!といった所謂「ジーザス・オンリー」の異端やカルトの「再臨のメシア」にもつながる非聖書的な信仰的立場なのです。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」( 島田裕巳著『キリスト教入門』(扶桑社新書)p103~105)
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
「キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを『神』として 物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への 従属的地位を外す事がなかったのであります。」(小田切信男著『福音論争とキリスト論 』p145)
「キリスト中心主義」は、顕著な形は宗教改革マルティン・ルターの「十字架の神学」の成立によってであるといちおうは考えられますが、遡れば古代教会時代にまで至るようです。その一例が3世紀末頃の話だといわれる『マルケッルスの行伝』の次の文言です。
「七月二十一日に、あなた方が皇帝の(誕生の)祝日を祝っていた時に、私はこの軍団の旗の前で、公に、はっきりと、私はキリスト教徒であってこの軍務に服することは不可能であること、私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみであることを、宣言しました。」(土井健司著『キリスト教を問いなおす』p38)
この宣言によりマルケッルスという人物は斬首刑に処せられるという話だそうです。ここで「私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみである」といわれています。新約聖書の主旨からすれば逆に、「私が仕えるのはイエス・キリストの父なる全能の神」と言われて然りです。少なくともパウロ信仰告白定式ではそうでしょう。ところがこの場合は、重点が「全能の父なる神」ではなく「神の子イエス・キリスト」の方に置かれています。前者の方に重きを置くのであれば、「神の子」という称号は無用になるのです。「イエス・キリストの父なる全能の神」とすれば、その「の」は「血縁・婚姻関係の属格」(織田昭著『新約聖書ギリシア語文法 Ⅲ』〔教友社〕p716参照)ですから、「イエス・キリスト」は自ずと「神の子」ということがわかるからです。いずれにしてもキリスト中心主義的キリスト教は今後、大変革されねばなりません。その障碍となるものが、教会・信条主義的教派であり、その諸勢力です。
<少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)「私を通らずして父のもとに至る者はいない」(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)
ところで、土肥昭夫氏が『日本神学史』(ヨルダン社)の中で、日本のプロテスタント教会では海老名弾正との論争により正統派の代表的人物とみなされてきた、日本基督教会創始者である植村正久牧師について、次のような興味深い指摘をしています。
「植村はパウロがキリストを『神に劣れる者』とした、という。彼は、パウロがコリント人への第一の手紙第一一章で女のかしらは男であり、キリストのかしらは神であるといい、男女の道を説いた個所をとりあげ、次のようにいう。『男女とも類を同じうすといえども、相互の関係より、区別を生じて、道相同じからざるものあり。同類にして本来平等なる人類のうちにも本末の別、従属の関係あるを妨げず。基督の神に於けるまた然なり。彼は真の神格を有し、父と一なりといえども、子たるの故を以て父に従属するところなき能わず。神子は神父を奉じ、これに受け、これに事え、これに従いて、能く子たるの道を行う。孝道これなり』(『植村正久と其の時代』5、三七○ー三七一ページ 傍点ー筆者)。植村は、この論述から、キリストが仕えられる主であると共に仕える僕であることを明らかにしようとした。その限りにおいて問題はない。しかし、彼が父なる神とキリストの関係を男女に関するパウロの倫理や儒教の孝道に類比させてしまうと、オリゲネス派の従属説(subordinationism)にみられることになる。この派はニカイア公会議(三二五)で斥けられた。ところが、植村は、使徒たちのキリスト論は大要においてニカイア信条と一致する、というのである(同上書5、三五五ページ)。」(p42~43)
植村にも異端的要素があったというのは面白いですが、世界的・歴史的にみても、テルトゥリアヌスは従属説的傾向を指摘され、アタナシウスからカール・バルトおよび北森嘉蔵牧師に至るまで様態論的傾向を指摘されている人がいます。正統と異端との差など大してないのではありませんか?現代では正統と異端の違いなどは大した問題ではなく、(島田裕巳氏は区別できないと言われる)宗教とカルトの違いが大きな問題になるのでしょう。
八木誠一氏や野呂芳男氏と親交があり北森氏とは論争して有名になった札幌独立キリスト教会所属の、医師で信徒伝道者であった小田切信男氏ですが、「神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」(『福音論争とキリスト論』p82.p106参照)と述べ、神と神の子との「同(本)質」を認めています。神の子は神と同質だからこそ、受肉しても人とは根本のところで異質であるということです。「神(御父)≒ 神の子(御子)」ということですが、たしかに、「神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」との指摘には説得力を感じます。
ちなみに、立教大学の神学教授で日本基督教団の牧師だった野呂芳男氏は次のように述べておられます。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)
私は、聖書が示す「父、子、聖霊」の関係として「三一」は認めますが、「三位一体」は認めません。すなわち「三一」神信仰は聖書が示す神信仰として認めますが、「三位一体」神信仰は非聖書的であると思います。野呂氏が言っておられることに関連して、古典的三一論において用いられた哲学の「本質・実体」(ウーシア/エッセンチア、サブスタンチア)とか「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)とかいった概念・用語は、聖書が示す神・キリスト論においては認め得ないからです。その野呂氏は、下記のようなことも言っておられます。
新約聖書のキリストは、終末の時に現れる大天使と考えた方がよいのだ。他にも天使たちが新約聖書の中には現れるが、それらの天使たちよりも特別の使命をキリストは与えられている。確かに、実存の視角から見れば、この大天使キリストもわれわれの神に向けられた視線に貫かれているのだから、後から――神によってわれわれに――贈られてきた聖霊と並んで、神・キリスト・聖霊の三位が、われわれを救う業を行って下さる点で一体の行動をとっておられるが故に、実存論的神学のキリスト論はニカイア・カルケドン信条を受け継いでいる。だが、今の私は、神・キリスト・聖霊という三位が、実存と結びつく直線だけでは満足できなくなっている。もちろん、私の『実存論的神学』は、増補・改訂されていない姿においても、キリストが神ご自身であるとは言っていない。本質的にキリストは、神の言葉であると理解している。」…一見、エホバの証人に近い印象を受けます。しかし、こんな発言をなさる人でも牧師を続けられる教会そして教団というものがあり(もっと過激で異端的な考えの人も日基教団なら、少なくとも発言の表面的には昔からいる)、こんな発言をなさる人でも教授を続けられる大学のキリスト教学科というものがある…、それが良くも悪くも現代の日本社会におけるキリスト教(のリベラル派)の実態なのです。
ところで、イエス・キリストを創造主だと主張なさるクリスチャンがおられます。信仰内容は人の自由ですが、聖書解釈としては問題があります。すなわち、この人たちは特にヨハネ福音書1章3節やコリント第一8章6節やコロサイ書1章16節のδιά 「ディア / through」を(誤解とは申しませんが)曲解しているのです。この人たちは翻訳された聖書の一言一句を「誤りなき神のことば」であると信じ込んでいるので、翻訳が曖昧だったり不適切な場合(ここでは「よって」とか「より」)は当然、誤解を生じたり偏った解釈になります。イエスは創造主ではないことを大胆に発言しておられる新約聖書学者もおられます。下記引用。
イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」(~青野太潮氏)http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf         また、青野氏は、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」とさえ指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。
もちろん「従属」と言っても、御子の神としての本質を否定して被造物とみなすアリウス的意味での「従属」説(subordination theory)ではありません。これは「異端」です。ここで言う「従属」は、あくまで御子の神としての本質を認めたうえで、御父との関係については、特にヨハネ福音書パウロ書簡によって「従属」を認め、御父と御子との「一」(ヨハネ10:30他)は実体的同一性ではなく、派遣者と非派遣者との関係における「言」と「業」による作用的同一性であることを主張するものです。
以下は、北森嘉蔵氏の三一神論の引用です。
「アタナシウスの神学的主題は受肉者の問題であった。イエスが『人と成れる神の子』であると告白せられる時、この受肉者なる神の子と父なる神との関係が、その主題を形成した。受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。しかしアリウスにおいては、この『神の子』は父なる神と別の存在であると言うだけで、端的に父なる神の外にあるとせられる。この『外』ということが『神の子』の被造物性である。(中略)たしかに『神の子』は『神』とは別の存在である。しかし、この別の存在たるままで、彼は決して端的に『神』の外にあるのではない。『神の子』は受肉者の存在において『神』とは別の存在でありつつ、しかも決して端的に『神』の外にあるのではなく、『神』の内にある。別であってしかも内にあると言うことが、『本質を同じくする』(ホモウーシオス)という事である。『神の子』は受肉者のままで『父なる神』と本質を同じくしている。今日我々が最も重視すべき点は、受肉者のままで本質を同じくするという点である。受肉者たる限り『神の子』はあくまで『神』の外なる別の存在である。しかもこの存在は受肉者のままで神と本質を同じくしている。この点がアリウスをして決定的に躓かしめた点である。」(『今日の神学』〔日本之薔薇出版社 1984年版〕p29~31)・・・「受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。」と言う点が重要。御子が神の本質を有つことを認めるか認めないかの違いであって、「神そのものとしての父なる神」と「受肉者」である御子イエス・キリストとの関係が「御父 > 御子」という、内包と被内包という一種の従属性を示していることを感じるのは私だけではないでしょう。ちなみに北森氏は、「受肉者が神の外なる存在でありつつ神と本質を同じくしたごとく、十字架もまた神の外なる出来事でありつつ、神の本質にかかわっている。この『外』の契機こそ神の痛みの神学をいわゆる『父神受苦説』(Partripassianism)から区別するのである。父神受苦説においては、受肉者ないし受苦者は『父なる神』の外なる存在ではなく、端的に神の内にある」と言っているが(北森著前掲書p32~34)、野呂芳男からみれば、北森氏の「神の痛みの神学」も広い意味では「父神受苦」説(論)になるのだと言う。
「北森教授は『父神受苦説では、十字架上で苦しみ死んだのは、父なる神自身であったとされるが、モルトマンの場合には、十字架上で苦しみ死んだのはみ子であり、み父ではない。そのみ子の死を、生きたもうみ父が痛みとして苦しみたもうのである。モルトマンの表現でいえばそれは父神受苦論 Patripassianismus ではなく、父神共苦論 Patricompassianismus である』と言っておられるが、既に検討してきたところから明らかなように、少くともテルトリアヌスによれば、モルトマンの言う父神共苦論も父神受苦論であったと言わざるを得ないであろう。」(~「今日における神観の一問題」)
野呂芳男氏によれば北森氏の神学的立場は広義の「父神受苦説」であり、また神の「内」とか「外」とか言うので「遍在」の教理にも反するという。「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書17:3 岩波版 小林稔訳)
この箇所では1節からの筋をふまえれば、「あなた=イエス・キリストを遣わされた方」こそが「唯一の真の神である」とされ、その御父と御子とを知るようになることが「永遠の命」と言われていることは明らかであるのに、ワンネスのキリスト中心主義者はこれを無理に解釈して、「唯一の真の神」とはキリストのことだと言います。また、正統主義者は後代に成立する教義を読み込んで、「唯一の真の神」は「三位一体の神」だなどと主張します。しかしどんなにこじつけても無駄であることは、内に聖霊が住む者であるならわかることです。同じヨハネ福音書が、5章24節その他で御子自身が御父との関係を派遣者と被派遣者…「遣わした」者(御父)と「遣わされた」者(御子)として証言しておられます。御子を派遣するのが「三位一体の神」ではなく御父であることはヨハネ福音書において御子が証言しておられることなのです。
「しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」(コリント人への第一の手紙8:6岩波版 青野太潮訳)
創造主は父なる「神」のみであってキリストは創造の「仲介者」なのです。万物はキリストが造ったのではなくキリストを通して造られたのであり、ここでの前置詞「ディア」(~によって)は媒介の意味です。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いても、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴として「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています。
以下、他の関係個所を引用。
「もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネ14:28 聖書協会口語訳)・・・御子は御父に対して尊敬しておられることがこの「わたしより大きい方」という表現から示されます(『日本語対訳ギリシア新約聖書』(教文館)での川端由喜男訳では「父は/私より/もっと偉大で/ある(から)」(①ホ パテール/③ムー/②メイゾーン/④エスティン)※数字は原文の並び順。「メイゾーン」は「メガス」〔形容詞:「大きい」の比較級で、程度が「大きい」、地位・身分等が「偉い」その他〕)。この「大きい」という意味には当然、子として父を敬う自然な感情が表わされているとみることに何ら問題はありません。人間的との批判は当たりません。そもそもが聖書は神を(人格的とは言え事実上、研究者から指摘されるとおり)擬人的に比喩しているのですから…。御子であるイエスが御父であるヤハウェを敬うことは、十戒に「汝の父母を敬へ」とあるとおりです(「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」〔出エジプト記20:12〕※前半部分の岩波版 山我&木幡訳の訳は「あなたはあなたの父と母を重んじなさい。」となっており、「重んじなさい」の注は、「原語カッベードは『敬う、尊敬する』とも訳せるが、もとになっている動詞が『重くある』(カーベード)なので、こう訳した。」云々とある)。我々は御子イエスに倣い御子イエスと共に御父を尊敬するという信仰態度が促されていると言えます。御子イエスに対しては尊敬というより御父の栄光を現すための信仰実践の範としての敬愛ということで、御子イエス御自身も「わが神」と言って賛美なさる相手の御父に対する存在論的な尊敬とは意味が違うと言えます。そこに優劣をつける必要はありませんが、このような尊敬の違いを無視して、単に「同等」だと言うのは事実上、御父を後衛に退かせ御子を前衛に立てようとする御子中心主義にほかなりません。それは結局、御父よりも御子を敬っていることになり、聖書的神信仰としては誤っていると言わざるを得ません。注目すべきは、このヨハネ14:28の「より大きい(かた)」と訳された「メイゾーン」という形容詞(「大きい」とか「偉大な」を意味する「メガス」の比較級)は、第一コリント13:13でも使われており、(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」というところで「最も大いなる(もの)」と訳されているということです。その点で、「神は愛なり」(第一ヨハネ4:8 , 16)とつながります。無論、この場合の「神」は「三位一体の神」ではなく、「父なる神」を意味します。御子より偉大であり、すなわち最も偉大なるものは御父であるということです(主イエスは、「けがれた霊」との対照ではあるが冒瀆という観点で聖霊を最上位としている⦅マルコ3:28~30、並行箇所⦆)。
ちなみに第一ヨハネという文書は仮現論的キリスト論という異端への反駁を目的として書かれたと云われていますが、ローマ・カトリック教会ではこの文書の5:7~8に関して、写本を捏造してまで三位一体の根拠にしようとしたという「コンマ・ヨハンネウム」というものがあります(詳しくは、田川建三著『書物としての新約聖書勁草書房p417~418参照されたし)。こういう正統主義者たちに対しては、恥を知れ!って感じです。
「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 岩波版 青野太潮訳)
『岩隈直聖書講解双書 4 』(キリスト教図書出版社)では、23節「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」について、「正しい位置づけ」云々というちょっと意味不明な解説に続き、「それに更に『キリストは神のもの』という句を追加した(実際はなくてもよいもの)のは、『考えを神に迄遡らせる彼の性向(一一3、ピリ二11、ガラ一4、5等)」(キュンメル)によるもので、特別の意図があったのではあるまい。唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方(ロマ一一36)の現われで、彼によればキリストも子として神に従い給う(一五28。なお八6、ピリ二10、11等参照)。」と記している。ここでも「(実際はなくてもよいもの)」という補足的挿入句の意味が不明であり、当然のことだから言わずもがなという意味なのか、それとも岩隈氏もしょせん御子キリスト中心主義的信仰立場のゆえに、「キリストは神のもの」ということを軽視しているのか、よくはわかりませんが、とにかくパウロが「唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方」は、パウロ個人の特性として自分たち信徒にとっては関係ないといった考えで述べておられるなら、これも偏った内容の記事ということになります。むしろパウロ的神中心主義的唯一神信仰を我々も学び、体得すべきだと言って然りなのです。織田昭氏の『新約聖書講解集 第一コリント書の福音』(教友社)での23節「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」については、「パウロの使う例えは、時々乱暴なくらいです。パウロやアポロをやたら有難がるな。神様が君たちを所有しているのと同じに、君たちの方がパウロを所有し、君たちの方がアポロを所有していることを忘れるな。君たちの輝かしい未来と命は、十字架で死なれたキリストの中にある。死から復活されたキリストの中にある。そのキリストだけが、あなたを所有して自由にお用いになる。本当は聖なる神御自身がキリストを用いて、そのパウロなり、アポロなり、ケファなりを、道具として(「道具として」が不適切なら、「聖なる器として」)君たちに下さっているのだ。“偉い人”としてでなく、また、あてにできる“知恵者”としてでなく、神様の御意図を受け止めて、フルに利用できねば、意味はない!「人の命も、人の死も、神の賜物として大事にせよ(:22)。」云々と記しておられ、私にはこちらも意味がよくわからない面がありますが、「所有」という言葉を用いておられる点は重視されます。すなわち、我々が御子キリストに所有されるのと相似的に、御子キリストもまた御父に所有されておられるということです。
「しかし私は、すべての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(Ⅰコリ11:3)・・・御子キリストが御父の所有において限定されているということを私は「ゲッセマネの祈り」にみるのです。
「アバ父よ、父には能はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど我が意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給へ」(マルコ14:36 文語訳)・・・要するに「我が意」が「御意」によって限定されているわけで、ここに御子の御父に対する服従の態度が明らかに表わされているのです。

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(Ⅰコリ15:28)・・・普通に解釈するなら、終末には神が特別啓示を中心とする自己限定を解いて、御子が御父から任されていたこの世の主権を御父に返上して三位一体関係は本源者である御父に帰一し、すべての被造物は創造主である御父の絶対主権の下に収斂されて刷新し、唯一者および全一者としての神が支配する御国が実現するということになります。「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、我々被造物に対して「唯一神」である三位一体としての絶対性を示されてこられた神が、終末においては「全一神」である御父としての絶対性を示されるという解釈も成り立ちます。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。< 神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。> 
聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
※「従わせられる」(ヒュポタゲー),「従わせられるであろう」(ヒュポタゲーセタイ),「従わせた方に」(ヒュポタクサンティ)の原形の「従う」(ヒュポタッソー)は「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(配置する)で、織田昭氏の小辞典では「(元は《 軍隊用語 》指揮下に従属させる)下位に置く,服従させる,屈服させる,従わせる」とあり、岩隈氏の辞典では「屈服(従属)させる,従わせる」とあるとおり、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられる」ということはまさに本来、御子は御父に従属する関係にあるということです。
「人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」(小高毅著前掲書p118)
ルカ福音書には「神のキリスト」という表現があります(ルカ9:20,23:35)。これも「神の」という所有,所属の意味があります。 荒井献氏は「神に従属する『神の子』」(『イエス・キリスト 上』(講談社学術文庫1467)p182)と言っておられ、「この表現には、キリストとしてのイエスが、あくまで『神の器』として神に従属するというルカ自身のキリスト論が反映している」と書いておられます(『イエス・キリスト 下』同上、p349)※「この表現」とは、ルカ福音書におけるペトロの信仰告白である「神のキリスト」です。
ちなみに、かつては荒井献氏などと肩を並べる最先端の新約聖書学者であり、のちに宗教哲学へと移行した八木誠一氏は次のように述べておられます。「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)
さらに、宗教哲学者の花岡(川村)永子博士は次のように述べておられます。「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。」云々(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )
「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 岩波版 保坂高殿訳)
以上のように思いつくままに父子従属説を支持するような聖句を挙げてみるだけでも、そういう箇所はたくさんあります。特に「同等」の三位一体論を主張する正統ゴリゴリ主義者が、正典中の正典の如く何かにつけて引用するヨハネ福音書も、その父子関係の従属性をイエス自身の言葉として明示しているのです。例えば岩波版(小林稔訳)5章19節と30節「子は父が行なうのを目にする以外、自分からは何もできない。つまり父が行なうことであれば〔なんでも〕、子も同じように行なうのである。」「私は私自身からは何もできない。聞く通りにさばく。そして私のさばきは義しい。私が自分の意志ではなく、私を派遣した方の意志を求めているからである。」・・・この両節の間には、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。」(23節)という言葉があって、言わば父子相愛関係が前提にありますが、イエス自身が再臨する終末の時をイエス自身も知らず御父のみが知っておられる(マルコ13:32/マタイ24:36)という言葉など、あまたある神中心的聖句を踏まえてみれば、その相愛関係にも父子としての一定の秩序…従属的な性格が認め得ると思われます。父子はあくまで比喩ですが啓示であって、選民社会の父子関係が神の父子関係の理解に反映することも神の御計算のうちだとみることは信仰的に可能です(旧約ではアブラハムとイサクの父子関係や、新約では「放蕩息子のたとえ」などにおける父子関係の比喩が参考になります。そこで見られる父子関係には愛情はありますが完全同等などではありません!また、信徒自身の置かれている環境での類比もあり、日本では植村などプロテスタント教会の先駆者には武家の素養としての儒教的父子関係の類比があった)。だから正統主義者が、三位一体における父子関係には従属性など全く無い…完全同等だ…などといくらいろんなこじつけをして主張してみても、私はけっして父子同質かつ従属関係(=父子同等の否定)の確信が揺らぐことはありません。何故、正統主義者が三位一体における「同等」にこだわるのか?言うまでもなくその理由は「唯一」との論理的整合性でしょう。従属では三が「同質」ではあり得ても「一」なる神ではあり得ないということです。しかし「三一」の「一」は「同質」の「一」であって「唯一」の「一」とは区別されます。旧約時代は「唯一」ですが新約時代は「三一」なのです。旧約から新約にかけて一貫している「唯一」とは主なる神の存在が他の神々の存在を排除して「唯一絶対」という意味ではなく、本来、「シェマの祈り」における「唯一」(エハド)は拝一神教を前提とするものであることが歴史的事実だとされているので(従って、神の主権の絶対性も普遍・客観的な意味の「絶対」ではなく、あくまで選民にとっての共同主観的意味での「絶対」性)、それは主なる神とイスラエルの民との実存的関係の「唯一」性なのです。だから「唯一」と「三一」は論理的に矛盾しないし、「三一」ということは三者が「同(一本)質」という意味であって、その「三一」において父子関係が「同等」ではなく「従属」関係にあるということも整合するのです。山田晶氏は『アウグスティヌス講話』で次のように語っています。
ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば『根源の根源』と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが『それを通して』御父に到るべき『道』となり、聖霊は、『それにおいて』われわれがその道をすすむことのできるいわば『光』のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。」
・・・この山田氏の文言でおかしな点は特に次のところです。「プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがあります」・・・たしかに「プロティノス」の直線と、東方教会の「至聖三者」の直線とは、「人格神」か否かという点で内容的な違いがあります。しかし両方とも「下降」的方向性はあります。すなわち御父を「本源」とか「根源の根源」と言われている以上、そこから生まれるとか発出するとかいわれる御子や御霊との関係がまったくフラットであるとして比喩されることはおかしいからです。「従属」と同様に「下降」という表現に違和感があるなら、もっと他に適した表現があるとすれば…ですが(おそらくは無い)、すくなくともある程度の勾配は認め得ると思います。そしてそのような考えがアリウス説と根本的に異なる点は、要するに御子を御父と「同(一本)質」と認めるか否かにかかっているのです。アリウスは御子を被造物としたからです。
御子は被造物ではないという理解は自分も同じです。ただキリスト教会は三位一体の教義をこの第一コリント15:28でも読み込み、教義では三位格は「同質」かつ「同等」であるということになっているので、「御子も御霊も父から出る(た)」ということについてもいっさいの順位的関係は認めません。しかし、第一コリント3:23や11:3、ヨハネ5:18~19(…18節で「自分を神と等しいものとした」というのはユダヤ人たちがイエスに対する誤解であり、これを事実として口語訳のように「自分を神と等しいものとされた」などと訳してはならない。「神を自分の父と呼」ぶことは「自分を神と等しいものと」することにはならないから。「同質」の参照聖句にさえ必ずしもなり得ないのに、ましてや「同等」の参照聖句になんぞなり得ない!)や5:22や5:43や6:27や14:28や17:3なども参照すれば、まったくの「同等」とは必ずしも言えないわけで、むしろ優劣ではないにせよ従属的関係性を認めて然りだから偉大なるオリゲネスもそうでした。 これに対して、御子と御父との一体を示すヨハネ10:30や14:9などを挙げるのが正統的立場の常ですが、これらも必ずしも御父と御子との実体的意味の一体を意味するとは言えず、むしろ後続の14:10に「言」(レーマ)と「業」(エルゴン)があるとおり、ことばとわざの意思とはたらきの一致としての一体を意味すると読めます。ここで再び、野呂芳男氏の言葉を引用します。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。」
御父と御子との関係については、「従属」という用語が適当ではないと言っても(第一コリント15:28の「ヒュポタゲー」〔従わされた〕、「ヒュポタゲーセタイ」〔従わせられるであろう〕、「トー ヒュポタクサンティ」〔従わせた方に〕の「従う」〔ヒュポタッソー〕は「服従させる、従属させる」の意味あり。第一コリント3:23でキリストは神のもの〔クリストス デ セウー〕と言われているのだから)、御子が所有する能力、権威、栄光も御父から委ねられたもので、終末にはお返しすべきレンタルもの。となれば御父の方が「大である」(メイゾーン)という意味は、観念的「同等」を許さない「大である」意味がある。
「み子と聖霊に見られる性質と力も、父なる神のものである。」
https://adventist.jp/この教会について/信仰の大要/父なる神/
御父と御子との関係を上下優劣のようなニュアンスを避けていろいろ言ってみたところで、要は「同等」ではないということです。そこには何らかの身分的地位の秩序があります。役割と言ったって職位的で上下関係は出ます。だから繰り返しで恐縮ですが、「本源」である御父が御子および御霊との直線的関係において全く勾配が無いなどということは比喩として言えませんので、その点では東方教会の「至聖三者」の直線関係の理解も問題となるでしょう。
私は、訪問先の教会で日曜学校教師のおじさんの話しを聞いていましたら、キリストが神からすべてを託されて、とにかくキリストがすべてのすべてであるかのようなことを言われました。おそらくこのCS教師の頭には、キリストの高挙(エペソ1:20~21、ピリピ2:9~11)及び全権授与(マタイ28:18)は入っていたのかも知れないが神帰一(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)は入っていなかったのでしょう。たしかに神はキリストに全権委任されました。
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 」(エペソ1:20~22 聖書協会口語訳)
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 」(ピリピ2:9 同上)
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 」(マタイ28:18 同上)
しかしそれは終末までです。終末はイエス・キリストの再臨によって来るのですが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する「従」たることが明示されています。
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(コリント人への第一の手紙15:24~25 岩波版 青野太潮訳)
キリストは終末において神に御国を渡します(パラディドー)。ピリピ書での「主イエス・キリスト」告白も「父なる神の栄光のため」なのです。従って「きたるべき世」でのキリストの上位も、あくまでも(父なる)神に及ぶものではありません。そこには御父と御子、神と神の子との主従関係の秩序が横たわっているのです。
この点を明らかにしているのが『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントです。コリント第一 3:22~23の注解の中で次のように述べています。
「集会は、万物に対する支配を自分の手に持つのではない。むしろ集会自体がキリストの所有である。ただキリストから、キリストを通してのみ集会はこの世を支配し、死に勝つということが言われうる。(中略)さらにこの自由と拘束の相互関係は、キリストの神に対する関係についても同じく言われる。キリストは集会の主(一二3以下)であり、世界の主(ピリ二9以下、コロ一15以下、二15)であるが、彼がこの力を持ち、かつキリストとしてありたもうことは、ただ神によって神のためにのみである。いまやパウロの思想の力一杯の高揚は、集会のものであって同時にキリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」(p77~78)
「人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云います。考え過ぎはメンタルヘルスにとってよくありません。程々なら精神安定に益する教理的思弁ですが、内在の聖霊によって程々のとことで判断停止(エポケー)して心を落ち着かせることが肝要です。

 

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(補足的追記)
上記のとおり、私は、聖書における御父と御子との関係に「従属」を認める立場ですが、現実問題として既成教派のどこかを選択して所属しないといけないので、そのためには実務的ではあれ、自分は『ウェストミンスター信仰基準』における三位一体に関する教説に同意することが要件となります。そこに矛盾が無いようにするには、御父の自己限定において御子と「同等」になられたという解釈(…自分では「神の『同等』の自己限定」と呼ぶ)に立つのです。本来というか原事実的には、本源者である御父と生成者である御子との関係は、世の終末における御子の服従(コリント第一15:28)に象徴的に示されているとおり「同等」ではないのだけれど、絶対創造主の聖定は自己限定としての啓示を中心としており、御子キリストに世の主権を委ねられるがゆえにアガペーをもって「同等」になられたのだ…といった受け入れ方です。無からの天地創造は三位一体のみわざではありますが、「創造主」は御父のみです。本源・絶対の非対象たる創造主はアガペーにおいて絶対性に固執しようとはなさらず、すなわち御自身を唯一絶対化せず、御子と聖霊との関係における御父として…歴史的にはイスラエルの神ヤハウェとして、ひいてはイエスとその弟子たちの父なる神として自己相対化(=自己対象化)なさり、神学的には人格的存在として擬人化を許容するほどまで自己限定することによって、人間に対して啓示なさったのだと考えます。このように私自身、正典的聖書解釈から「従属的三一神信仰」の徒たるを標榜しながら、あくまでも改革派信仰の徒として基本信条に根差すウェストミンスター信仰基準に則って自己矛盾なしと言い得るためのキーワードが創造主の「自己限定」…「神の『同等』の自己限定」なのです。もちろん「自己限定」という用語は西田哲学からの影響も否めません。

ご参考までに、解説文から引用します。「対象化されないもの、形象化されないものは、『無』という言葉であらわされるが、それは存在しないもの、非存在というわけではない。むしろこのようなものこそ真の意味で存在している、と西田は考える。なぜなら、それは自己を限定することで有としての個物を産み出すわけだから、有の根拠をなすものとして真の実在といえるわけである。」(~「知の快楽 哲学の森に遊ぶ」の「絶対無の自己限定:西田幾多郎の思想」)https://philosophy.hix05.com/Nishida/nishida10.mu.html

ヨハネ福音書では特にイエスは神から派遣された仲保者であることが強調されており、10:30や14:9などはそのことを前提として解せば、一般的に云われるような父と子との実体的同一性を意味せず、「言」と「業」の作用的同一性を意味することは明らかです。御子は御父と同じ神の本質を有しておられますが、御父との関係は主と従に区別される旨を御子自ら証ししておられることをヨハネ福音書記者が特に強調し、もちろんパウロもきっちり伝えていることです。ところがそのような聖書の標準的な箇所を軽視して神秘主義的解釈を施し得るような箇所ばかりを引用したがる立場がキリスト教の中にあるわけです。
パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)
「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)
日本でパウロ研究の第一人者とも云われる新約聖書学者さんも上記のように発言されているほどに、「父子従属」は聖書を素直に読めばわかることです。「簡単にいへば、キリストは神の子と呼ばれることにより、幾分従属的位置にある神的実在として立てられたのである。この従属的位置は例へばパウロの書翰の数箇処に見える(ロマ一五・六、コリント後一・三、なほコリント後一一・三一、コリント前一・三参照)「我らの主イエス・キリストの神また父」(中略)といふ語によっても明かに示される。(中略)従ってギリシア哲学思想の影響の下に立った神学的思索をパウロにおいても発見する。即ちキリストは神に対しては神の像(中略 コリント後四・四、コロサイ一・一五)、その見るべからざる本質をみるべき形に表現したる啓示者である。」(『波多野精一全集 第二巻』〔岩波書店〕p384~385)
要はその「従属」が「質」的従属まで言われているのか?それとも「関係」的従属にとどまっているのか?ということであって、前者はアリウス系の「異端」とされた立場です。つまり神性という本質をも従属とみなして、御子を被造物とすることになるからです。しかし東方正教会の司祭さんも認めておられるとおり後者は「異端」ではありません。御父と御子および御霊の三一神における「関係」については、本源者とそこから生成した者という従属性があります。改革派神学の方では、これを「職務的従属」と呼んでいる人もおられます。
「本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。」minoru.la.coocan.jp/kokuhakukaisetu2.html                アリウスとアタナシウスとの違いは父子従属ではなく、御子を被造物とするか神とするかでした。アタナシウスは御子を神と信じつつも御子が御父をご自分より偉大であると言われたことを重視し、御父を本源者として、質的従属は否定したが、関係的従属は否定しなかったのです。ところがアウグスティヌスになると後者まで否定して、それが西方神学の神論の基本になります。三一神信仰の見方は、東方教会は直線的、西方教会は三角形的です。

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(修正前の旧文)

私は、プロテスタント教会に属する一信徒であり、聖書にもとづいてイエス・キリストを「主、神」の本質を有つお方として信じ告白しますが、いわゆる「創造主」であるとは信じません。無からの天地創造は父と子と聖霊の三位一体なる神のみわざでありますが、「創造主」はあくまでも御父のみです。しかし伝統的には御子も造り主だと信じられています。その根拠とされるヨハネによる福音書1章3節やコリント第一の手紙8章6節やコロサイ人への手紙1章16節における前置詞「διά / ディア」の解釈については後述します。                                  いずれにせよ人格神信仰は神の擬人化に陥りやすいので、人格神と非人格神との中間的な(…半人格神とでも言うような)信仰の在り方でないと実際的ではありません。八木誠一氏の言われる人格主義的場所論の立場とも少し違うようです。また、「創造」といった場合にモルトマンが提起したような「継続的創造」だとか、アウグスティヌス以来の「外」(extra)からの創造では飽き足らず「撤退」だの「収縮」といったカバラ神秘主義的概念を用いて形而上学的思弁を弄するような説には関心ありません。創造主なる神すなわち主イエス・キリストの御父こそ「唯一の真の神」(岩波版 小林稔ヨハネ17:3)なのです。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)
その意味で私の聖書にもとづく神信仰は「従属的三一神信仰」ということになります。これは、正統主義的キリスト教の立場から見れば、古代教会時代に異端とされたオリゲネス的従属説に近いとみなされるでしょうが、自分としては、聖書に基づいて検証するならば特に問題ないと思うし(オリゲネスの万人救済説などは問題あり!)、それどころかむしろ信仰のあり方としては当然であるとさえ思っています。そして後述の通り、現代ではオリゲネスを異端視していない神学者が少なくないのです(自分は従属説以外のことについては、オリゲネスの聖書的異端性を必ずしも否定はしません)。
「正統の観念そのものが時とともに変わらざるをえない。もしキリスト教徒の大多数が処女降誕を否認するようになれば――否認する信者の数は殖えつつある――否認することが『正統』になるだろう。この点は教会史が証明済みだ、と言うこともできよう。ある時代が正統とみなすものを別の時代は異端と定める。その逆も真である。たとえば偉大なキリスト教思想家の一人オリゲネス(一八五 ― 二五〇)の教えは多くの点で驚くべく独創的であり、かれの生前には正統と認められていたが、四、五、六世紀には激烈な論争をひき起こした。かれの教義のいくつかは、アレクサンドリア、キュプロス、エルサレムの教会会議で、また(これは異論のあるところだが)五五三年のコンスタンティノポリス公会議でも異端の宣告を受けた。ここから、知識の進みが今日よりずっとゆっくりしていた、今から一四〇〇年前に正統の根拠が変化したのであるなら、われわれをとりまく宇宙について毎週のように新しい情報が伝えられる今日、正統の根拠が変わってはいけない理由があるのか、という疑問が生じる。」(D. クリスティ=マレイ著 、野村美紀子訳『異端の歴史』⦅A History of Heresy⦆〔教文館〕p15)
「オリゲネスの神学において(中略)主な欠点は次のとおりである。
一 オリゲネスは子が父と同じ本質を持っているということを正しく認めているが、父なる神について言われているすべての属性、たとえば全知などが子にも同じようにあてはまるかどうかに関して、時として疑いを示し、また、父が『神性の泉』である故に持っている優位を過度に強調するのである。 
二 オリゲネスは、父と子について論ずる時に、まだ、『対他性 relatio 』という概念を用いておらず、したがって父と子の一致をも、また子が父の本質から誕生することと被造物が無から創造されることとの相違をも十分に説明することができない。彼はこの相違を説明するためには、次の四点を指摘している。すなわち、(一)子と聖霊のみが永遠であり、すべての被造物は時間的始まりを持っている。(二)子のみが不変的・実体的に善であり、被造物はその善性を失いうるものとして自由に保有しているにすぎない。(三)子のみが父ひとりから生まれるものであり、すべての他のものは子を通して父から出るものである。(四)子のみが父の善性のすべてを持ち、被造物はいずれも部分的にのみその善性にあずかっており、父のみ旨のすべてを果たすことができない。以上の四点は正しいとはいえ、父と子のユニークな関係の問題を十分に解決しているとはいえない。したがって、オリゲネスの後にも父と子の関係に関する神学になお多くの解決すべき問題が残されていた。そこで、神の子キリストに対する信仰の理解について、四世紀の初めに大きな危機が起こった。それは、アレイオス(アリウス)が引き起こした運動であった。」(P. ネメシェギ著『父と子と聖霊 ―三位一体論― 』(南窓社)p125~126)
「子のみが父の善性のすべてを持ち」云々と言われているのは、善性は本来的に御父が所有しておられたことを示します。御子イエスはマルコ福音書10:17以下の箇所で、ご自分を「善い先生」(以下、岩波版 佐藤研訳)と呼びかけた「富める男」に対して、18「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」と言われて、神の属性である善性を「神お一人」(ここでは御父を指す)に帰して栄光を讃えています。その御子のありさまを受けとめる以上、我々も御父にこそ「善い」(ἀγαθός / アガソス)という神としてのご性質を拝し賛美して然りでしょう。ここにも御父と御子の従属的関係が表わされています。
「オリゲネスは、神の独り子の永遠の誕生、先在のキリストの魂を神と肉体の結び目として神人が生まれたことを論じ、いわゆる『本体論・存在論的キリスト論』を展開し、以上でみたキリスト教の諸相[エピノイア]を通して、いわゆる機能論的なキリスト論を展開しているが、その根底にはギリシア哲学からのロゴス概念の借用がある。それは、キリストの多くの機能の総括的な理解を可能にしたが、子なる神を父なる神の下位に置く従属説的傾向に陥る可能性を含んでいた。オリゲネスは神の像の神学並びに父と子の意思の完全な一致をもってそれを超克しようと試みる。(中略)キリストを信じる者、聖なる者、聖書を霊的に理解する者、完成の域に達した者の内には、実際に現実の力としてロゴスである神の子キリストが存在するのであるが、キリストを知らない者、信じない者、文字にとらわれている者、まだ完成の域に達していない者の内には潜在的な力として存在するのである。こうして、人はロゴスの様々な相[エピノイア]によって導かれ、その内にキリストが形造られ、御子の像と同じ形にされていく――ロゴスは神の子らの原型――のである。これを成し遂げるのは人の内に宿る『キリストの霊』である。そして、完成の域に達した者には、その人の心に、聖霊によって神の愛が注がれ、その豊饒な愛によって神の本性にあずかるものとされる。この愛によってのみ、人はもはや罪を犯し得なくなるのである。こうして、人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」
(小高毅著『オリゲネス』〔清水書院/新装版 人と思想 113〕p117~118)
「私はあく迄も『祈禱論』を中心として、之に爾餘の著書からの言葉を参酌することによって、祈禱の問題についてのオリゲネスの立場及び思想を学ぶことにしたいと思ふ。そこで此の書について先づ一言しなければならないが、この書はラテン譯によらずギリシア原文の儘で今日まで保存されて来た一事を感謝を以て特筆しなければならない。何故それがラテン譯にならなかったか、それは恐らく其の中に於ける若干の思想が後世に異端的と映じた故であらうと云はれてゐる。例へば、その第十五章に、祈りは父なる神にのみ捧げらるべきもので、御子に對して捧げらるるべきものでないと教へてゐるが、是は後の完成せる正統主義の三一神論から見れば明かに異端である。(中略)オリゲネスの著者の多くはルフィヌスの、正統主義的に補足せられた飜譯を通じてのみ傳はってゐるので、之によってはオリゲネス思想の眞相を捉へることが困難な場合が多いからである。(中略)
『祈禱』(プロセウケー)に至っては、キリストにさへも献げらるべきものではなく、たゞ『萬象の神また父』にのみ献げらるべきものである。何故なら、キリスト御自身も亦この神に對してプロセウケーを捧げたまうたのである。又彼自ら、『祈ることを我らに教へ給へ』との請に對して弟子たちに教へたまうた祈りは『天に在す我らの父よ』との祈りであって、己に對するプロセウケーではない。何故であるか。それは御子は御父とその本質を異にしてゐる故に(中略)御父にさゝぐべきプロセウケーを同時に御子に捧げることは出来ないからである。かゝる御子従位論が後世異端の烙印を押されて、それがオリゲネスの著書に非常な禍を齎したことは既に述べた通りである。」※「…同時に御子に捧げることは出来ない」理由として注に書かれているのは、「一、それは祈禱の對象を複数にすることであり、その事はそれ自體として不適當である(中略)。二、聖書にかかる類例を見出し得ない。」。(有賀鐵太郎著『オリゲネス研究』⦅全國書房 昭和21年12月20日発行⦆p49~50、70~71、133)
「彼が『父』と『子』との差別、及び御子の従位を強調した事のために、後世の神学者たちはオリゲネスが御子を被造者と呼んだ事を彼の異端を非難する一つの理由としたのである。何故なら之こそは方にアレイオス(アリウス)の所説であったからである。然しオリゲネスのロゴス論の本質的性格はその永遠生誕説に於て見出さるべきものであって、御子被造説をその核心と見做すことは誤である。ケッチャウの原文並びにバッタワスの英譯(三一四頁)を見よ。」(同上 p508)
「オリゲネスの思想の根本にはプラトン主義的二元論(この世界の成り立ちを【可視的・時間的世界】と【不可視的・非時間的(永遠の)世界】と二つに区別して論じる考え方)があり、それを土台にして御子の生誕を考察し、御父による御子の生誕を不可視的・非時間的(永遠の)世界での出来事として論じました。そうすることによって、例えばユスティノスのキリスト論に見られるような、御子がお生まれになる前には御子は存在しなかった、という従属説的な理解の問題の克服を図り(永遠の世界での御子の誕生においては、誕生の前に存在しなかったという時間的な思考は当てはまらないから)、それによって御子の神性を強調しようとしました。ですからこの点を見るならば、オリゲネスは御父と御子の神性の同質性の理解に近づく議論を展開した人だと言えます。 しかし他方でオリゲネスは、二元論的な思考を創造のみわざにおいてもあてはめて、可視的・時間的世界で神に創造された被造物は、それに先立って永遠の世界において肉体を持たない魂として神に創造された、と主張しました(この被造物の永遠性の主張もまた、オリゲネスが異端宣告される理由の一つになっています。ちなみにオリゲネスがそう主張した意図は、被造物を神格化したかったからではありません。神が創造することによって創造者になられたのではなく、神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えたのです)。こうして御子の生誕の永遠性だけではなく、被造物の創造の永遠性を主張したために、後代になって御子と被造物の本性における区別があいまいであることが問題視され、そのために従属説的だと判断されました。」(~某牧師への質問の返答)
私は職業神学者ではないので曲解や誤解もあると思いますが、このまま話を進めさせて頂きます。ニカイア信条の「(主は)独り子である神の子、すべての時に先立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでは なく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」といった信仰の思想的背景には、「パンタ・レイ」(万物流転)のヘラクレイトスにまで遡る生成・変化の思想があったとも云われています。直接的には新・プラトン主義の創始者と云われるプロティノスの思想の影響で、運動の視点から神についても考察されたのであり、御父を本源として御子、聖霊が生成し発出する三位一体論もそのような観点で捉えないと見当違いになるのでしょう。まさしく聖書が示す神の存在は現代神学のE・ユンゲルが言うように生成においてあるのです。但し、唯一の真の神である御父だけは本源なので、その生成・変化の運動に巻き込まれることはありません。そこが御父と御子や聖霊との根本的な違いです。
「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6岩波版 青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、御父は生む者・本源者であり、御子は生まれる者、聖霊は御父から御子を介して発出する者です。これは、御父と御子と聖霊との主従関係を前提とするものであり、その場合の「従」とは、創造主と被造物との関係におけるそれではなく、本源者と生成者との関係におけるそれです。これはアタナシウスも認めるところであったと認識しています。或る正教会の司祭によると、以下のとおりです(私信なので許可を得ないと名前は出せません)。
< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」ではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>・・・「関係」は「神性」と対置せず、御父と御子との「関係」が「同等」か「従属」(的)か…という判断なので、後述のように御父と御子との関係における神としての「同質」すなわち神性の「同等」を認めたうえでの「従属」は「職務的従属」と言われ、「力と栄光」についても御父と御子は「同等」だと言うのですから、実際は「従属」関係とは言えないような関係です。私は「同質」を認めたうえでも「力と栄光」については「従属」的な関係にあるという立場です。しかし東方教会であれ西方教会であれ、正統であることを自認する教会においては「力と栄光」も御父と御子とは完全に「同等」なのです。後に引用する矢内原氏の文言にあるとおり、御父と御子との関係において大小の区別があるとしてもそれは生む者と生まれる者との違いにすぎず、「能力、権威、栄光等の大小」には当たらない…というのが東西の教会に共通した正統的見方であるとは思いますが、私は「大小」を言う以上、「能力、権威、栄光等」についても御父が御子より上であると信じます。これが私の「従属的三一神信仰」の再発見なのです。 後で引用する『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントのコリント第一3:22~23の注解の中で、「キリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」とあるとおり、御父が唯一の真の神として「力と栄光」において御子に優ることは、終末に明らかにされることです。御子の「力と栄光」はあくまで終末に至るまでの間に御父から預けられた、言わば借り物なのです。父と子という親子の比喩を神とイエスの関係に適用しているわけですが、親子関係が上下関係であるわけがないと思われる人は少なくないでしょう。その是非は私にはわかりませんが、youtube加藤諦三氏の最終講義を聴いていたら、親子関係が上下関係であると述べておられました。
とにかく、同じく正統路線であっても、ギリシャ教父のアタナシウスとラテン教父のアウグスティヌスとは違いがあり、それが東方の正教と西方のカトリックプロテスタントとの教理的違いになっているようです。西方教会の三一神論の基本になり図式化すれば三角形になりましたが、東方教会では直線的であり、それがフィリオクェ論争で明らかになりました。以下、引用。
「アタナシウスは尚ほ『父は子よりも大なり』との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。」「『父は我よりも大なり』(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、『父は我よりも大なり』といふ事は、『我は父より出でたり』といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。」(『矢内原忠雄全集 第九巻』〔岩波書店〕~「訣別遺訓に現れたる三位一体論」〔P338~〕、「三 子なる神」の2〔P345~〕) ・・・最後のところ、「能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない」ということは、改革派の神学でも御父と御子が「神」として「同質」であることの結果として言われているようです。「三つの位格の存在様式(the mode of existence)においては秩序があり、それは覆すことができないものであり、交換され得ない固有性であり、関係の秩序なのである。しかしながら、このことは、従属として解釈されてはならない。位格間のこれらの区別は、本質の区別ではなく、位格の区別なのである。三つの位格は、『本質において同一であり、力と栄光において同等』(the same in substance,and equal in power and glory)。」(webサイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「モートン・H・スミス「組織神学‐その紹介と解説‐」(作成中)の「第10章:三位一体の教理」の「Ⅳ.三位一体の区別」)minoru.la.coocan.jp/morton10.html  しかしそれなら、三位格の間にはいかなる意味においても従属関係(…という表現が不適切なら他に何と言えばよいか…とにかく上下的関係)は無いのか…?と言えばそうではなく「職務的」には従属関係が認められています。「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はなお。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(同上)・・・この「職務的従属」といった観念は、聖書を素直に読む限り御父と御子との従属(的)な関係は否定できないが一方では異端とされている「従属」説と混同されてはならないということで、「従属」に「職務的」と「本質的」とを区別した神学的詭弁です。「職務」と言うのは要するに類比においては「役割」ということですが、人間社会で役割というものは無条件に与えられるわけではなく、1つの役割は、それに相応しい実力を持つ者に対して与えられるわけです。逆に言えば、その役割を担うだけの実力を欠く者には与えられないはずです。ということは、御父は御子から、同じ神でも「大」なる存在だと言われるだけの実力を持っておられるということです。万物を聖定し創造と摂理の主という役割を担っておられるのは、それに相応しい力・権威・栄光を持っておられるということ、御父こそが三一神を絶対的な主権者たらしめる実力者であられるということを意味する…と、私はそのように確信しています。
ニカイア・コンスタンティノポリス(ニケア・コンスタンチノープル)信条では、主イエスは「すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」(日基教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)とあり、「同質」とは言われても「同等」とは言われておりません。それはそうでしょう、いくら信条というものが論理的には矛盾したものであるにせよ、信仰告白であり信者の生活現場である教会に関わっているので、所詮は神学者の思弁的作文とは言え、あまり無茶はできません。「~より / from」( ἐκ / エク)と言われている以上、御子は御父と「同等」であるわけがなく、なんらかの意味で「下」であり「小」であり、即ちパウロが「ヒュポタッソー」(原形)を用いて明示しているとおり「従属」です。しかも一方で御父は、「唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主」と賛美せられ、御子についての「すべてのものはこの方によって造られました」の意味は、その造った主体は御父であり、御子は「この方によって」(δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο で、「よって」と訳されてる「ディア」という前置詞の意味は要するに媒介)なので、御子は創造主ではなく媒介者ということで、御父こそ創造主にして全能なる神であられることが明らかにされています。その点でオリゲネス的従属説を採る私でさえ、ニカ・コン信条はエキュメニカルな信条であると尊重するわけです。 また、御子が被造物かどうかについては、コロサイ1:15の「プロートトコス」の解釈で分かれる議論であり、いずれかを絶対化することはできません(エホバの証人さんは被造物説… http://biblia.holy.jp/51-col-1-15.html )。
繰り返しになって恐縮ですが、ニカ・コン信条における「父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」という、その「~より」と言われていること自体が、広い意味では従位・下位にあることを示しています。にもかかわらず、この関係は本質的ではなく職務的であるといった詭弁を弄して三位格の「同等」に固執するのが正統主義者なのです。
私はこのようなドグマティズムには屈せず御父絶対の揺るがぬ確信があります。それは聖霊による確信なので微動だにしないのですが、そうなると御子を相対的存在とみなすことにもつながるのではないか?とか三神論になるのではないか?とか…、それ以上の議論を続けるとますます思弁に陥り、さらには詭弁に変わるおそれも出てくるので、私はいちおう、同じ唯一神教といってもユダヤ教イスラム教のような単神論的唯一神教と、キリスト教の三一神論的唯一神教とを区別すべきだと言うのですが、それ以上は思弁に思弁を重ねることになりますので(…それもまた自分のような者の精神安定にとっては、一利にはなるのだが…)、ヨハネス・G・ヴォスが『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版局)で述べているように(編・訳は玉木鎮牧師)、「聖なる無知を告白」するという頌栄的態度へと聖霊によって導かれるのです。
とにかく、矢内原氏はアウグスティヌスで三位一体論が完成との見解ですが、自分はアタナシウスで完成したと見る方がより聖書的であるとの見解です。というか、矢内原氏のアタナシウスやアウグスチヌスに対する理解が、時代的制約による資料不足のため誤解もあると思うので、矢内原氏がどう言われたかに関わらず、とにかく私は聖書と、青野太潮氏その他有力な解釈者の見解を参考にして、従属的三一神信仰・従属説的三一神論の立場を堅持するのです。
ところで、おもな教父たちの父子関係についての考えが要約されている論文があるので引用します(尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)。
「三位一体論に関して、アウグスティヌスの見解では、神性は三位格の共通の源泉であるが、彼以前の他の教父達は、神性は父にのみあり、他の二位格はそこから派生したとする。即ち、後者では父が子の原因であり、三位格は非対称的である。これに対して前者では、三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。それではアウグスティヌスで は、共通の源泉たる神性は三位格と並ぶ第四の位格なのであろうか。いな、そうではない。神性は共通の源泉として共通の基体であるが、三位格に超越したり、それらの根底にあって先行するも のではなく、神性は永遠から三位格に区別されている。つまり、 父と子とは異なるが。その本質〈神性〉は異ならない。神性即三 位格、三位格即神性である。一つの本質にして、同時に三つの位格〈神格〉である。三位格を離れて、それらの基体としての神性 が存在するわけではない。これに対して、テリトリアヌスやバシレイオス等の見解では基体は父であり、父はそれ自体生ぜず、子 を生ましめ、子は生ましめられるだけの因果関係にある。 ここで基体とは三位格の本質、つまり神性を意味するが、この 場合、各位格は個体でもなく、種でもなく、個体と種との結合と しての個体的種と呼ばれる。それは、各位格は無体的にして現実 的な区別された存在であるからである。(そして無体的、非物質 的存在は個体ではなく、種に属する。三位格は個体的種の違いで ある。即ち、単に名前だけではなく、個体的種として現実的存在 である。)アウグスティヌスは三位格を共通に統一する本質たる神性に対しては類と種の概念を使わず、むしろ基体のカテゴリーを適用する。というのは、三神論に陥るのを避けるためである。オリゲネスによれば、神とロゴスとは現実的存在である。各位格は永遠から特定の個体的存在、第一のウーシアである。(この点で、経綸において顕現したとするテルトリアヌスと異なる。) ウーシア、ヒポケイメノン、およびヒポスタシスにおいて、子は父とは異なる。各位格は単なる個体ではなく、個体的種であり、 その共通の統一は種的類である。それは種と類の結合を意味し、 第二のウーシアである。つまり、父と子とは異なった個体的種で あり、それらの統一は共通のウーシアとしての種的類にある。父と子との同一本質〈ホモウーシオス〉は、ここにおいていわれる。 父と子とは、ヒポスタシスとしては相異なるが、第二のウーシアにおいては同じである。父は源泉として、そこから神性は多様な レベルで下降・派生する。被造物にとっては、父とロゴスとの原関係は永遠であり、ロゴスは時間的初めがなく、永遠に発生している。神の像としてのロゴスが存在しなかった時はなかった。まの た不可思議の神から見れば、ロゴスは被造物であり、他のすべて被造物の原型として父からの発出の最初の子である。子は不生とともに生でもある。 父は絶対的な神であるが(The God)、 ロゴスは絶対的には神ではない(God)。ロゴスは種的類において父と本質的に同一でありながらも、派生的神、第二の神として、より低いレベルにおり、従属的で、父と被造物との媒介者である。換言すれば、キリストの媒介なくしては、父へ祈ってはならない。 つまり、子を廃止しない立場である。子は父の為すことを為すことにおいて、その意志も同一である。」
ここで御子キリストを「第二の神」とする従属説が述べられていますが、オリゲネスが異端とされたのはその死後のことであり、生前の彼は第一級の神学者でした。ちなみに某牧師によると、「現代では多くの神学者たちが、オリゲネスを異端としたのは間違いだったと認めている」し「オリゲネスの神学から多くのことを学んでいる」そうです。但しそれは、まだ三位一体論が発展していない時代の思想家だから…ということであり、従属説自体を擁護するものではなくその逆です。アリウスとは違って、御父と御子との、神としての同(一本)質性を認めたうえでの従属説というのは(…それが論理的に成り立ち得るかどうかの神学的議論はさておいて…)、異端とするほどに聖書から逸脱した考えであるとは言えないというのが、すくなくとも中立的、穏健的立場を志向する神学者たちに共通した見解ではないのでしょうか?
「アタナシオスは、神性は異なったレベルに存在するというオリゲネスの主張に反対する。神の本質は父と子において同一であり、 低次の存在秩序に伝達されたり拡張されたりするのではない。ただ子は生まれたものとしては父とは異なるが、神としては同一である。究極的根源としての父は時間的に子に先行しているわけで はなく、子は不生の父とともに永遠である。子は父の神性の形相 〈顕現〉であり、子は完全な神である。子によらずしては、父は何事も為さない。また子は父の意志により生じたのではなく、本質によって生じたのである。」(尾崎誠氏前掲論文より)1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org) 
ここで言われている、「子によらずしては、父は何事も為さない」ということよりも本質的であり深層であるのは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19) ということではないのでしょうか?                              ところで、キリスト教の「三位一体」神信仰は、日本基督教団信仰告白にあるように「唯一神」教という前提のもとで「同等」を言うのでしょうが、「唯一」(エハド)については「複合的独一性」とか「一つのうちにおける多様性」であるとかいった説を見聞きしたことがあります。これはまさに、「唯一の神」と「父なる神、子なる神、聖霊なる神」との矛盾をクリアーしようとする、私見では不確かな言語学的試みとでも言えるでしょう(Edmund J. Fortman 『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』、創造からバベルまで・・・Ⅱ 聖三位一体  - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)他参照)。しかし矛盾は矛盾のままでよいのではないでしょうか?「唯一」(エハド)本来の歴史的意味はけっして「三位一体」の「三位」とは関係ありませんが、関係づけるのが神学的解釈であり、それなしにキリスト教の教義は成立しないわけです。しかし、その解釈は教会が「正統」と決めたロジックでないと認めないということが誤りなのであり、そういう正統主義的態度は批判され改革されて然りです。ともかく、三つの位格を人格に喩える以上、論理的に「三位」は「三神」であり、その(父と子と聖霊の)「神」が同一本質を持つという意味で「一体」なのです(…「三神一質」)。それが「唯一」の神であるということを、私の場合は無理にこじつけず、旧約的唯一神教(=単一神教)と新約的唯一神教(=三一神教)とを貫く「唯一」とは、拝一神教的「一」・・・つまり自分(たち)にとって聖書が示す神のみが礼拝されるべき真の神…という意味でよいと思っています。他人はまた違う意味で受けとめればよいでしょう。
水垣渉氏の論文「キリスト論の思想的射程 ― 古代キリスト教を中心にして―」によると、< 厳密にいえば、三一神論と三位一体論とは区別しなければならない。三位一体論は、三一神論の一つの立場である。(中略)本来なら、宗教史的現象として最も広くは「三一論」、キリスト教においてやや限定して「三一神論」、その内容の正統教義的表現として「三位一体論」と使い分けることが望ましいが、実際には難しいであろう。」ということで、歴史的には、「三一論」>「三一神論」>「三位一体論」という関係になるそうです。
日本のプロテスタント教会には、私見では「キリスト止まり」とも言える、カール・バルトの神学的影響によると思われる過剰な「キリスト中心主義」的傾向があります。その傾向は、例えば1989年に出された「日本キリスト者宣言」なるものに顕著です。
「私たちが、あくまでもキリストの主権のもとに、キリストを中心としながら、歴史と世界の中に生き、また他者と共に生きる以外に、私たちの信仰の証しと告白の道はない。そのようなキリスト中心の信仰から、私たちは、天皇代替りによってあらためられた元号なるものを、主権在民に反する天皇中心の独善的、排他的、閉鎖的な国家主義歴史観、世界観の残滓として、受けいれることができない。」
ここには、イエス・キリストの父なる神への信仰がまったく考慮されていません。御父が後退して御子ばかりが前面に出されるキリスト中心主義を「キリスト止まり」と言わずして何と言うのでしょうか?
ペトロ・ネメシェギ神父は『父と子と聖霊―三位一体論』(南窓社)の中で、「現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。」と述べており、また、D・クリスティ=マレイも『異端の歴史』(教文館)の中で、「今日のキリスト教徒も多くは自分でも知らずにモドゥス的モナルキア主義者なのである。」と同様のことを述べていますが、その「唯位」(モナルキア)なる神こそがキリストであり、父と子と聖霊の三一神が「子」なるキリストのみに集約されてしまうという傾向です。「モドゥス的モナルキア主義」とは様態単一神論であり、「父神受苦説」と言われ、サベリウス主義と呼ばれています。それはともかく、旧約聖書も正典とし、新約聖書の前提としている以上、キリスト教も原則的に「父」なる神が中心であり、究極的には第一コリント15:28のとおり、三一神は御父に集約されないと啓示にそぐわないのでは…?というのが私見です。そしてこの「三一」というのは三つの位格が一体であると言われますが、「一体」という訳が誤解のもとであり、いかにも一心同体というような意味にとられやすいですがそうではなく、「同一本質」の「一」ですから、三位格があくまでも神の本質を共有しているという意味です。その三位格は個別的な自存性とか人格的固有性などが言われ、ひいては「三つの別な自己意識」などと言い出すに至っては何をかいわんやであって、これが「三人格」でなくて何?ってことです。
「三位一体の三位とは、3つの位格あるいは人格という意味です。具体的には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神を意味します。位格(人格)とは、他と区別される自己意識を持っていることを意味します。宗教改革カルヴァンは、『キリスト教綱要』(Ⅰ-13-20)において、位格は、神の存在方式(様式)と言いました。すなわち、神は、父・子・聖霊のお互いに区別されながらも、また同時に、お互いに密接な関係とまじわりをもつ仕方で存在されると述べました。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々区別される自己意識をもっておられます。わかりやすく言えば、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々が、人格、すなわち、知性・意志・感情をもっておられます。各々が心をもっておられます。しかし、お互いに、深い豊かな愛の結びつきとまじわりをされているのです。」(~サイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第2章 神について、また聖三位一体について」の「第3節 三位一体の神」)
三神論的傾向を避けるために用語は「位格 Person」を避けて「存在様式 Seinsweise」としたというバルトの神学系統などでは三位格と三人格とを混同しないとは思いますが、ウェストミンスター信仰基準では三位格は三人格(…この場合の「人格」は心理学的意味の person)なのです。
「問九 神には、いくつの人格があるか。 答 神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮編訳)〔聖恵授産所出版部〕)
ここで言われている「力と栄光において同等」ということ、これが次の「ひとりの、まことの、永遠の神」ということを三位格全体に対して言うための言わば、辻褄合わせであって、実際は「ひとりの」ではなく「三者の」であり、「まことの、永遠の神」は御父のみとみなせば、「力と栄光において同等」と言う必要はありません。そして聖書的には、やはり創造主である御父が最も「力と栄光」を賛美されるお方なのであり、その力によって御子は復活し、その栄光をあらわすべく地上で活動されたのです。無論、合理的であることが聖書解釈の妥当性を根拠づけるものではありません。究極的には、論理的整合性などにこだわっていたのでは神学は成り立ちません。テルトゥリアヌスが言ったとは言われているものの疑われてもいる「不合理なるゆえに我信ず」といった言葉もあり、北森神学などのように詭弁に詭弁を重ねるより、説明できないことは「神秘」とか「秘義」とか言って逃げる教義学者の方はまだしも正直だとさえ言えるかもしれません。神学はそもそも人知を超えた神にかかわる言論として初めから啓示に限定され制約された神認識としての営みなのですから、前掲書の中で言われている、「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。」(p59)ということが必要になってきます。「聖なる無知」(Holy ignorance)という用語自体は、聖書的根拠としてはやはりヨブ記の特に42章3節「『一体何者か、無知であるのに、わたしの経綸をぼかすこの者』。そうです、私は認識していなかったことを語ったのです。私を超えた不思議の数々、それを私は理解してはいないのです。」(岩波版 並木浩一訳)という告白、自分の無知(ベリー・ダーアト)、無理解を認める告白が挙げられるでしょう。
「聖定と人間の責任との問題」以外の問題でも存在論的な問題…、たとえば「相互内在」(ペリコレーシス)に関してなど、考えてみても理解しづらい問題は諸分野にあるので、ある種の思考停止も脳内整理のために必要だと思います。
ちなみに岸田秀氏は、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(『希望の原理』〔青土社〕p17~18)とか、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(前掲書p54)と述べています。
八木誠一氏は、以下のとおり指摘しておられますが、いわゆる正統的キリスト教の三位一体論においては、事実上、三者の神です、三神論なのです。この点でも一皮むけば正統と異端とを区別しきれない曖昧さがあります。
「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)とか、「神を人格として表象し、さらに子なる神、聖霊なる神をも人格(ペルソナ)として表象したら、三位一体は三神論となり、両性論的キリスト論は二重人格となってしまう。人格主義的神学の用語で三位一体論とキリスト論を語ることが困難な所以である。」(『<はたらく神>の神学』p119~120)とか、「三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である。」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221)と指摘している。そもそもギリシャ教父なしいは東方教会の三一(至聖三者)論は何がいけなかったのか?「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏したということである。」(『<はたらく神>の神学』p4)
ヘブライ語聖書だけが教典であったユダヤ教時代までは、唯一神教であり、その「一」が「唯一絶対」の「一」の意味になるのは新約時代に入ってからであって、本来は、同じ「ヤハウェ」の名で呼ばれても多様だった状況の中で「ヤハウェはただひとり」を強調した単一的意味、そして申命記では5章で拝一神教的意味の「第一戒」を含む所謂「倫理的十戒」が語られ、その後の6章に置かれた編集段階からは、拝一神教の「一」、すなわち相対的絶対性の「一」になったのでした。いずれにしても歴史的には「唯一」の意味が、自分たち以外の共同体で信仰し礼拝されている神々の存在を客観的に否定し排除する絶対主義的な意味ではなかったことは確かです。マルコ福音書12章29 , 32節で律法学者の弁として書かれている申命記の「シェマーの祈り」における「エハド」です。しかるに私見では、キリスト教は「唯一神教」であると同時に「三一神教」と言われて然りであり、旧約時代以来、「唯一の(真の)神」は、御子を派遣した御父のみであって、派遣された御子は含まれません(ヨハネ17:3)。ですからこの唯一真神を三位一体の神であるとするのはあくまで一つの解釈にすぎません。しかも明らかにバイアスがかかった偏りある解釈です。
現代神学のガンは、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)ではないかなと思います。北森氏の言う、「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということが「キリスト中心主義」で福音主義的聖書理解を捻じ曲げる原因です。「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提として有限的神を立てる民主神学に利用すべく三一神論に展開するというのは邪道も邪道です。そのような思想は当然ながら非聖書的神話や神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。モルトマンその他、北森神学を高評価する思想も同類です。神は全能であり苦しむことも死ぬことも原理的には可能であってもその必要も理由も無いので、不死不受苦で然りです。
「唯一人不死性を保持し、近づくことを許さない光の中に住み、人間のうちの誰も見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配権力が〔あるように〕。アーメン。」(岩波版〔保坂高殿訳〕テモテへの第一の手紙 6:16)
「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)
「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christo-centrisme)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256頁)
とにかく、バルト神学などの影響で広がった「キリスト中心主義」は極端化すると、神さまはイエスだけでもOK!といった所謂「ジーザス・オンリー」の異端やカルトの「再臨のメシア」にもつながる非聖書的な信仰的立場なのです。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」( 島田裕巳著『キリスト教入門』(扶桑社新書)p103~105)
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
「キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを『神』として 物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への 従属的地位を外す事がなかったのであります。」(小田切信男著『福音論争とキリスト論 』p145)
「キリスト中心主義」は、顕著な形は宗教改革マルティン・ルターの「十字架の神学」の成立によってであるといちおうは考えられますが、遡れば古代教会時代にまで至るようです。その一例が3世紀末頃の話だといわれる『マルケッルスの行伝』の次の文言です。
「七月二十一日に、あなた方が皇帝の(誕生の)祝日を祝っていた時に、私はこの軍団の旗の前で、公に、はっきりと、私はキリスト教徒であってこの軍務に服することは不可能であること、私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみであることを、宣言しました。」(土井健司著『キリスト教を問いなおす』p38)
この宣言によりマルケッルスという人物は斬首刑に処せられるという話だそうです。ここで「私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみである」といわれています。新約聖書の主旨からすれば逆に、「私が仕えるのはイエス・キリストの父なる全能の神」と言われて然りです。少なくともパウロ信仰告白定式ではそうでしょう。ところがこの場合は、重点が「全能の父なる神」ではなく「神の子イエス・キリスト」の方に置かれています。前者の方に重きを置くのであれば、「神の子」という称号は無用になるのです。「イエス・キリストの父なる全能の神」とすれば、その「の」は「血縁・婚姻関係の属格」(織田昭著『新約聖書ギリシア語文法 Ⅲ』〔教友社〕p716参照)ですから、「イエス・キリスト」は自ずと「神の子」ということがわかるからです。いずれにしてもキリスト中心主義的キリスト教は今後、大変革されねばなりません。その障碍となるものが、教会・信条主義的教派であり、その諸勢力です。
<少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)「私を通らずして父のもとに至る者はいない」(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)
ところで、土肥昭夫氏が『日本神学史』(ヨルダン社)の中で、日本のプロテスタント教会では海老名弾正との論争により正統派の代表的人物とみなされてきた、日本基督教会創始者である植村正久牧師について、次のような興味深い指摘をしています。
「植村はパウロがキリストを『神に劣れる者』とした、という。彼は、パウロがコリント人への第一の手紙第一一章で女のかしらは男であり、キリストのかしらは神であるといい、男女の道を説いた個所をとりあげ、次のようにいう。『男女とも類を同じうすといえども、相互の関係より、区別を生じて、道相同じからざるものあり。同類にして本来平等なる人類のうちにも本末の別、従属の関係あるを妨げず。基督の神に於けるまた然なり。彼は真の神格を有し、父と一なりといえども、子たるの故を以て父に従属するところなき能わず。神子は神父を奉じ、これに受け、これに事え、これに従いて、能く子たるの道を行う。孝道これなり』(『植村正久と其の時代』5、三七○ー三七一ページ 傍点ー筆者)。植村は、この論述から、キリストが仕えられる主であると共に仕える僕であることを明らかにしようとした。その限りにおいて問題はない。しかし、彼が父なる神とキリストの関係を男女に関するパウロの倫理や儒教の孝道に類比させてしまうと、オリゲネス派の従属説(subordinationism)にみられることになる。この派はニカイア公会議(三二五)で斥けられた。ところが、植村は、使徒たちのキリスト論は大要においてニカイア信条と一致する、というのである(同上書5、三五五ページ)。」(p42~43)
植村にも異端的要素があったというのは面白いですが、世界的・歴史的にみても、テルトゥリアヌスは従属説的傾向を指摘され、アタナシウスからカール・バルトおよび北森嘉蔵牧師に至るまで様態論的傾向を指摘されている人がいます。正統と異端との差など大してないのではありませんか?現代では正統と異端の違いなどは大した問題ではなく、(島田裕巳氏は区別できないと言われる)宗教とカルトの違いが大きな問題になるのでしょう。
八木誠一氏や野呂芳男氏と親交があり北森氏とは論争して有名になった札幌独立キリスト教会所属の、医師で信徒伝道者であった小田切信男氏ですが、「神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」(『福音論争とキリスト論』p82.p106参照)と述べ、神と神の子との「同(本)質」を認めています。神の子は神と同質だからこそ、受肉しても人とは根本のところで異質であるということです。「神(御父)≒ 神の子(御子)」ということですが、たしかに、「神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」との指摘には説得力を感じます。
ちなみに、立教大学の神学教授で日本基督教団の牧師だった野呂芳男氏は次のように述べておられます。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)
私は、聖書が示す「父、子、聖霊」の関係として「三一」は認めますが、「三位一体」は認めません。すなわち「三一」神信仰は聖書が示す神信仰として認めますが、「三位一体」神信仰は非聖書的であると思います。野呂氏が言っておられることに関連して、古典的三一論において用いられた哲学の「本質・実体」(ウーシア/エッセンチア、サブスタンチア)とか「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)とかいった概念・用語は、聖書が示す神・キリスト論においては認め得ないからです。その野呂氏は、下記のようなことも言っておられます。
新約聖書のキリストは、終末の時に現れる大天使と考えた方がよいのだ。他にも天使たちが新約聖書の中には現れるが、それらの天使たちよりも特別の使命をキリストは与えられている。確かに、実存の視角から見れば、この大天使キリストもわれわれの神に向けられた視線に貫かれているのだから、後から――神によってわれわれに――贈られてきた聖霊と並んで、神・キリスト・聖霊の三位が、われわれを救う業を行って下さる点で一体の行動をとっておられるが故に、実存論的神学のキリスト論はニカイア・カルケドン信条を受け継いでいる。だが、今の私は、神・キリスト・聖霊という三位が、実存と結びつく直線だけでは満足できなくなっている。もちろん、私の『実存論的神学』は、増補・改訂されていない姿においても、キリストが神ご自身であるとは言っていない。本質的にキリストは、神の言葉であると理解している。」…一見、エホバの証人に近い印象を受けます。しかし、こんな発言をなさる人でも牧師を続けられる教会そして教団というものがあり(もっと過激で異端的な考えの人も日基教団なら、少なくとも発言の表面的には昔からいる)、こんな発言をなさる人でも教授を続けられる大学のキリスト教学科というものがある…、それが良くも悪くも現代の日本社会におけるキリスト教(のリベラル派)の実態なのです。
ところで、イエス・キリストを創造主だと主張なさるクリスチャンがおられます。信仰内容は人の自由ですが、聖書解釈としては問題があります。すなわち、この人たちは特にヨハネ福音書1章3節やコリント第一8章6節やコロサイ書1章16節のδιά 「ディア / through」を(誤解とは申しませんが)曲解しているのです。この人たちは翻訳された聖書の一言一句を「誤りなき神のことば」であると信じ込んでいるので、翻訳が曖昧だったり不適切な場合(ここでは「よって」とか「より」)は当然、誤解を生じたり偏った解釈になります。イエスは創造主ではないことを大胆に発言しておられる新約聖書学者もおられます。下記引用。
イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」(~青野太潮氏)http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf         また、青野氏は、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」とさえ指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。
もちろん「従属」と言っても、御子の神としての本質を否定して被造物とみなすアリウス的意味での「従属」説(subordination theory)ではありません。これは「異端」です。ここで言う「従属」は、あくまで御子の神としての本質を認めたうえで、御父との関係については、特にヨハネ福音書パウロ書簡によって「従属」を認め、御父と御子との「一」(ヨハネ10:30他)は実体的同一性ではなく、派遣者と非派遣者との関係における「言」と「業」による作用的同一性であることを主張するものです。
以下は、北森嘉蔵氏の三一神論の引用です。
「アタナシウスの神学的主題は受肉者の問題であった。イエスが『人と成れる神の子』であると告白せられる時、この受肉者なる神の子と父なる神との関係が、その主題を形成した。受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。しかしアリウスにおいては、この『神の子』は父なる神と別の存在であると言うだけで、端的に父なる神の外にあるとせられる。この『外』ということが『神の子』の被造物性である。(中略)たしかに『神の子』は『神』とは別の存在である。しかし、この別の存在たるままで、彼は決して端的に『神』の外にあるのではない。『神の子』は受肉者の存在において『神』とは別の存在でありつつ、しかも決して端的に『神』の外にあるのではなく、『神』の内にある。別であってしかも内にあると言うことが、『本質を同じくする』(ホモウーシオス)という事である。『神の子』は受肉者のままで『父なる神』と本質を同じくしている。今日我々が最も重視すべき点は、受肉者のままで本質を同じくするという点である。受肉者たる限り『神の子』はあくまで『神』の外なる別の存在である。しかもこの存在は受肉者のままで神と本質を同じくしている。この点がアリウスをして決定的に躓かしめた点である。」(『今日の神学』〔日本之薔薇出版社 1984年版〕p29~31)・・・「受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。」と言う点が重要。御子が神の本質を有つことを認めるか認めないかの違いであって、「神そのものとしての父なる神」と「受肉者」である御子イエス・キリストとの関係が「御父 > 御子」という、内包と被内包という一種の従属性を示していることを感じるのは私だけではないでしょう。ちなみに北森氏は、「受肉者が神の外なる存在でありつつ神と本質を同じくしたごとく、十字架もまた神の外なる出来事でありつつ、神の本質にかかわっている。この『外』の契機こそ神の痛みの神学をいわゆる『父神受苦説』(Partripassianism)から区別するのである。父神受苦説においては、受肉者ないし受苦者は『父なる神』の外なる存在ではなく、端的に神の内にある」と言っているが(北森著前掲書p32~34)、野呂芳男からみれば、北森氏の「神の痛みの神学」も広い意味では「父神受苦」説(論)になるのだと言う。
「北森教授は『父神受苦説では、十字架上で苦しみ死んだのは、父なる神自身であったとされるが、モルトマンの場合には、十字架上で苦しみ死んだのはみ子であり、み父ではない。そのみ子の死を、生きたもうみ父が痛みとして苦しみたもうのである。モルトマンの表現でいえばそれは父神受苦論 Patripassianismus ではなく、父神共苦論 Patricompassianismus である』と言っておられるが、既に検討してきたところから明らかなように、少くともテルトリアヌスによれば、モルトマンの言う父神共苦論も父神受苦論であったと言わざるを得ないであろう。」(~「今日における神観の一問題」)
野呂芳男氏によれば北森氏の神学的立場は広義の「父神受苦説」であり、また神の「内」とか「外」とか言うので「遍在」の教理にも反するという。「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書17:3 岩波版 小林稔訳)
この箇所では1節からの筋をふまえれば、「あなた=イエス・キリストを遣わされた方」こそが「唯一の真の神である」とされ、その御父と御子とを知るようになることが「永遠の命」と言われていることは明らかであるのに、ワンネスのキリスト中心主義者はこれを無理に解釈して、「唯一の真の神」とはキリストのことだと言います。また、正統主義者は後代に成立する教義を読み込んで、「唯一の真の神」は「三位一体の神」だなどと主張します。しかしどんなにこじつけても無駄であることは、内に聖霊が住む者であるならわかることです。同じヨハネ福音書が、5章24節その他で御子自身が御父との関係を派遣者と被派遣者…「遣わした」者(御父)と「遣わされた」者(御子)として証言しておられます。御子を派遣するのが「三位一体の神」ではなく御父であることはヨハネ福音書において御子が証言しておられることなのです。
「しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」(コリント人への第一の手紙8:6岩波版 青野太潮訳)
創造主は父なる「神」のみであってキリストは創造の「仲介者」なのです。万物はキリストが造ったのではなくキリストを通して造られたのであり、ここでの前置詞「ディア」(~によって)は媒介の意味です。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いても、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴として「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています。
以下、他の関係個所を引用。
「もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネ14:28 聖書協会口語訳)・・・御子は御父に対して尊敬しておられることがこの「わたしより大きい方」という表現から示されます(『日本語対訳ギリシア新約聖書』(教文館)での川端由喜男訳では「父は/私より/もっと偉大で/ある(から)」(①ホ パテール/③ムー/②メイゾーン/④エスティン)※数字は原文の並び順。「メイゾーン」は「メガス」〔形容詞:「大きい」の比較級で、程度が「大きい」、地位・身分等が「偉い」その他〕)。この「大きい」という意味には当然、子として父を敬う自然な感情が表わされているとみることに何ら問題はありません。人間的との批判は当たりません。そもそもが聖書は神を(人格的とは言え事実上、研究者から指摘されるとおり)擬人的に比喩しているのですから…。御子であるイエスが御父であるヤハウェを敬うことは、十戒に「汝の父母を敬へ」とあるとおりです(「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」〔出エジプト記20:12〕※前半部分の岩波版 山我&木幡訳の訳は「あなたはあなたの父と母を重んじなさい。」となっており、「重んじなさい」の注は、「原語カッベードは『敬う、尊敬する』とも訳せるが、もとになっている動詞が『重くある』(カーベード)なので、こう訳した。」云々とある)。我々は御子イエスに倣い御子イエスと共に御父を尊敬するという信仰態度が促されていると言えます。御子イエスに対しては尊敬というより御父の栄光を現すための信仰実践の範としての敬愛ということで、御子イエス御自身も「わが神」と言って賛美なさる相手の御父に対する存在論的な尊敬とは意味が違うと言えます。そこに優劣をつける必要はありませんが、このような尊敬の違いを無視して、単に「同等」だと言うのは事実上、御父を後衛に退かせ御子を前衛に立てようとする御子中心主義にほかなりません。それは結局、御父よりも御子を敬っていることになり、聖書的神信仰としては誤っていると言わざるを得ません。注目すべきは、このヨハネ14:28の「より大きい(かた)」と訳された「メイゾーン」という形容詞(「大きい」とか「偉大な」を意味する「メガス」の比較級)は、第一コリント13:13でも使われており、(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」というところで「最も大いなる(もの)」と訳されているということです。その点で、「神は愛なり」(第一ヨハネ4:8 , 16)とつながります。無論、この場合の「神」は「三位一体の神」ではなく、「父なる神」を意味します。御子より偉大であり、すなわち最も偉大なるものは御父であるということです(主イエスは、「けがれた霊」との対照ではあるが冒瀆という観点で聖霊を最上位としている⦅マルコ3:28~30、並行箇所⦆)。
ちなみに第一ヨハネという文書は仮現論的キリスト論という異端への反駁を目的として書かれたと云われていますが、ローマ・カトリック教会ではこの文書の5:7~8に関して、写本を捏造してまで三位一体の根拠にしようとしたという「コンマ・ヨハンネウム」というものがあります(詳しくは、田川建三著『書物としての新約聖書勁草書房p417~418参照されたし)。こういう正統主義者たちに対しては、恥を知れ!って感じです。
「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 岩波版 青野太潮訳)
『岩隈直聖書講解双書 4 』(キリスト教図書出版社)では、23節「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」について、「正しい位置づけ」云々というちょっと意味不明な解説に続き、「それに更に『キリストは神のもの』という句を追加した(実際はなくてもよいもの)のは、『考えを神に迄遡らせる彼の性向(一一3、ピリ二11、ガラ一4、5等)」(キュンメル)によるもので、特別の意図があったのではあるまい。唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方(ロマ一一36)の現われで、彼によればキリストも子として神に従い給う(一五28。なお八6、ピリ二10、11等参照)。」と記している。ここでも「(実際はなくてもよいもの)」という補足的挿入句の意味が不明であり、当然のことだから言わずもがなという意味なのか、それとも岩隈氏もしょせん御子キリスト中心主義的信仰立場のゆえに、「キリストは神のもの」ということを軽視しているのか、よくはわかりませんが、とにかくパウロが「唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方」は、パウロ個人の特性として自分たち信徒にとっては関係ないといった考えで述べておられるなら、これも偏った内容の記事ということになります。むしろパウロ的神中心主義的唯一神信仰を我々も学び、体得すべきだと言って然りなのです。織田昭氏の『新約聖書講解集 第一コリント書の福音』(教友社)での23節「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」については、「パウロの使う例えは、時々乱暴なくらいです。パウロやアポロをやたら有難がるな。神様が君たちを所有しているのと同じに、君たちの方がパウロを所有し、君たちの方がアポロを所有していることを忘れるな。君たちの輝かしい未来と命は、十字架で死なれたキリストの中にある。死から復活されたキリストの中にある。そのキリストだけが、あなたを所有して自由にお用いになる。本当は聖なる神御自身がキリストを用いて、そのパウロなり、アポロなり、ケファなりを、道具として(「道具として」が不適切なら、「聖なる器として」)君たちに下さっているのだ。“偉い人”としてでなく、また、あてにできる“知恵者”としてでなく、神様の御意図を受け止めて、フルに利用できねば、意味はない!「人の命も、人の死も、神の賜物として大事にせよ(:22)。」云々と記しておられ、私にはこちらも意味がよくわからない面がありますが、「所有」という言葉を用いておられる点は重視されます。すなわち、我々が御子キリストに所有されるのと相似的に、御子キリストもまた御父に所有されておられるということです。
「しかし私は、すべての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)・・・普通に解釈するなら、終末には神が特別啓示を中心とする自己限定を解いて、御子が御父から任されていたこの世の主権を御父に返上して三位一体関係は本源者である御父に帰一し、すべての被造物は創造主である御父の絶対主権の下に収斂されて刷新し、唯一者および全一者としての神が支配する御国が実現するということになります。「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、我々被造物に対して「唯一神」である三位一体としての絶対性を示されてこられた神が、終末においては「全一神」である御父としての絶対性を示されるという解釈も成り立ちます。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。< 神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。> 
聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
※「従わせられる」(ヒュポタゲー),「従わせられるであろう」(ヒュポタゲーセタイ),「従わせた方に」(ヒュポタクサンティ)の原形の「従う」(ヒュポタッソー)は「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(配置する)で、織田昭氏の小辞典では「(元は《 軍隊用語 》指揮下に従属させる)下位に置く,服従させる,屈服させる,従わせる」とあり、岩隈氏の辞典では「屈服(従属)させる,従わせる」とあるとおり、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられる」ということはまさに本来、御子は御父に従属する関係にあるということです。
「人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」(小高毅著前掲書p118)
ルカ福音書には「神のキリスト」という表現があります(ルカ9:20,23:35)。これも「神の」という所有,所属の意味があります。 荒井献氏は「神に従属する『神の子』」(『イエス・キリスト 上』(講談社学術文庫1467)p182)と言っておられ、「この表現には、キリストとしてのイエスが、あくまで『神の器』として神に従属するというルカ自身のキリスト論が反映している」と書いておられます(『イエス・キリスト 下』同上、p349)※「この表現」とは、ルカ福音書におけるペトロの信仰告白である「神のキリスト」です。
ちなみに、かつては荒井献氏などと肩を並べる最先端の新約聖書学者であり、のちに宗教哲学へと移行した八木誠一氏は次のように述べておられます。「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)
さらに、宗教哲学者の花岡(川村)永子博士は次のように述べておられます。「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。」云々(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )
「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 岩波版 保坂高殿訳)
以上のように思いつくままに父子従属説を支持するような聖句を挙げてみるだけでも、そういう箇所はたくさんあります。特に「同等」の三位一体論を主張する正統ゴリゴリ主義者が、正典中の正典の如く何かにつけて引用するヨハネ福音書も、その父子関係の従属性をイエス自身の言葉として明示しているのです。例えば岩波版(小林稔訳)5章19節と30節「子は父が行なうのを目にする以外、自分からは何もできない。つまり父が行なうことであれば〔なんでも〕、子も同じように行なうのである。」「私は私自身からは何もできない。聞く通りにさばく。そして私のさばきは義しい。私が自分の意志ではなく、私を派遣した方の意志を求めているからである。」・・・この両節の間には、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。」(23節)という言葉があって、言わば父子相愛関係が前提にありますが、イエス自身が再臨する終末の時をイエス自身も知らず御父のみが知っておられる(マルコ13:32/マタイ24:36)という言葉など、あまたある神中心的聖句を踏まえてみれば、その相愛関係にも父子としての一定の秩序…従属的な性格が認め得ると思われます。父子はあくまで比喩ですが啓示であって、選民社会の父子関係が神の父子関係の理解に反映することも神の御計算のうちだとみることは信仰的に可能です(旧約ではアブラハムとイサクの父子関係や、新約では「放蕩息子のたとえ」などにおける父子関係の比喩が参考になります。そこで見られる父子関係には愛情はありますが完全同等などではありません!また、信徒自身の置かれている環境での類比もあり、日本では植村などプロテスタント教会の先駆者には武家の素養としての儒教的父子関係の類比があった)。だから正統主義者が、三位一体における父子関係には従属性など全く無い…完全同等だ…などといくらいろんなこじつけをして主張してみても、私はけっして父子同質かつ従属関係(=父子同等の否定)の確信が揺らぐことはありません。何故、正統主義者が三位一体における「同等」にこだわるのか?言うまでもなくその理由は「唯一」との論理的整合性でしょう。従属では三が「同質」ではあり得ても「一」なる神ではあり得ないということです。しかし「三一」の「一」は「同質」の「一」であって「唯一」の「一」とは区別されます。旧約時代は「唯一」ですが新約時代は「三一」なのです。旧約から新約にかけて一貫している「唯一」とは主なる神の存在が他の神々の存在を排除して「唯一絶対」という意味ではなく、本来、「シェマの祈り」における「唯一」(エハド)は拝一神教を前提とするものであることが歴史的事実だとされているので(従って、神の主権の絶対性も普遍・客観的な意味の「絶対」ではなく、あくまで選民にとっての共同主観的意味での「絶対」性)、それは主なる神とイスラエルの民との実存的関係の「唯一」性なのです。だから「唯一」と「三一」は論理的に矛盾しないし、「三一」ということは三者が「同(一本)質」という意味であって、その「三一」において父子関係が「同等」ではなく「従属」関係にあるということも整合するのです。山田晶氏は『アウグスティヌス講話』で次のように語っています。
ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば『根源の根源』と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが『それを通して』御父に到るべき『道』となり、聖霊は、『それにおいて』われわれがその道をすすむことのできるいわば『光』のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。」
・・・この山田氏の文言でおかしな点は特に次のところです。「プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがあります」・・・たしかに「プロティノス」の直線と、東方教会の「至聖三者」の直線とは、「人格神」か否かという点で内容的な違いがあります。しかし両方とも「下降」的方向性はあります。すなわち御父を「本源」とか「根源の根源」と言われている以上、そこから生まれるとか発出するとかいわれる御子や御霊との関係がまったくフラットであるとして比喩されることはおかしいからです。「従属」と同様に「下降」という表現に違和感があるなら、もっと他に適した表現があるとすれば…ですが(おそらくは無い)、すくなくともある程度の勾配は認め得ると思います。そしてそのような考えがアリウス説と根本的に異なる点は、要するに御子を御父と「同(一本)質」と認めるか否かにかかっているのです。アリウスは御子を被造物としたからです。
御子は被造物ではないという理解は自分も同じです。ただキリスト教会は三位一体の教義をこの第一コリント15:28でも読み込み、教義では三位格は「同質」かつ「同等」であるということになっているので、「御子も御霊も父から出る(た)」ということについてもいっさいの順位的関係は認めません。しかし、第一コリント3:23や、ヨハネ14:28、17:3なども参照すれば、まったくの「同等」とは必ずしも言えないわけで、むしろ優劣ではないにせよ従属的関係性を認めて然りだから偉大なるオリゲネスもそうでした。 これに対して、御子と御父との一体を示すヨハネ10:30や14:9などを挙げるのが正統的立場の常ですが、これらも必ずしも御父と御子との実体的意味の一体を意味するとは言えず、むしろ後続の14:10に「言」(レーマ)と「業」(エルゴン)があるとおり、ことばとわざの意思とはたらきの一致としての一体を意味すると読めます。ここで再び、野呂芳男氏の言葉を引用します。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。」
御父と御子との関係については、「従属」という用語が適当ではないと言っても(第一コリント15:28の「ヒュポタゲー」〔従わされた〕、「ヒュポタゲーセタイ」〔従わせられるであろう〕、「トー ヒュポタクサンティ」〔従わせた方に〕の「従う」〔ヒュポタッソー〕は「服従させる、従属させる」の意味あり。第一コリント3:23でキリストは神のもの〔クリストス デ セウー〕と言われているのだから)、御子が所有する能力、権威、栄光も御父から委ねられたもので、終末にはお返しすべきレンタルもの。となれば御父の方が「大である」(メイゾーン)という意味は、観念的「同等」を許さない「大である」意味がある。
「み子と聖霊に見られる性質と力も、父なる神のものである。」
https://adventist.jp/この教会について/信仰の大要/父なる神/
御父と御子との関係を上下優劣のようなニュアンスを避けていろいろ言ってみたところで、要は「同等」ではないということです。そこには何らかの身分的地位の秩序があります。役割と言ったって職位的で上下関係は出ます。だから繰り返しで恐縮ですが、「本源」である御父が御子および御霊との直線的関係において全く勾配が無いなどということは比喩として言えませんので、その点では東方教会の「至聖三者」の直線関係の理解も問題となるでしょう。
私は、訪問先の教会で日曜学校教師のおじさんの話しを聞いていましたら、キリストが神からすべてを託されて、とにかくキリストがすべてのすべてであるかのようなことを言われました。おそらくこのCS教師の頭には、キリストの高挙(エペソ1:20~21、ピリピ2:9~11)及び全権授与(マタイ28:18)は入っていたのかも知れないが神帰一(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)は入っていなかったのでしょう。たしかに神はキリストに全権委任されました。
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 」(エペソ1:20~22 聖書協会口語訳)
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 」(ピリピ2:9 同上)
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 」(マタイ28:18 同上)
しかしそれは終末までです。終末はイエス・キリストの再臨によって来るのですが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する「従」たることが明示されています。
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(コリント人への第一の手紙15:24~25 岩波版 青野太潮訳)
キリストは終末において神に御国を渡します(パラディドー)。ピリピ書での「主イエス・キリスト」告白も「父なる神の栄光のため」なのです。従って「きたるべき世」でのキリストの上位も、あくまでも(父なる)神に及ぶものではありません。そこには御父と御子、神と神の子との主従関係の秩序が横たわっているのです。
この点を明らかにしているのが『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントです。コリント第一 3:22~23の注解の中で次のように述べています。
「集会は、万物に対する支配を自分の手に持つのではない。むしろ集会自体がキリストの所有である。ただキリストから、キリストを通してのみ集会はこの世を支配し、死に勝つということが言われうる。(中略)さらにこの自由と拘束の相互関係は、キリストの神に対する関係についても同じく言われる。キリストは集会の主(一二3以下)であり、世界の主(ピリ二9以下、コロ一15以下、二15)であるが、彼がこの力を持ち、かつキリストとしてありたもうことは、ただ神によって神のためにのみである。いまやパウロの思想の力一杯の高揚は、集会のものであって同時にキリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」(p77~78)
「人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云います。考え過ぎはメンタルヘルスにとってよくありません。程々なら精神安定に益する教理的思弁ですが、内在の聖霊によって程々のとことで判断停止(エポケー)して心を落ち着かせることが肝要です。

 

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安井先生、御返答いただきまことにありがとうございます。(以下、数字が青色になってるところがありますが、お気になさらないで下さい)最後の「オリゲネスだけを従属説だと批判した教会の態度は間違っていた」ということは浅学の私にもある程度はわかったつもりです。その「だけを」というところがポイントであって、「従属説」それ自体はあくまでも異端で然りとの御見解であると承りました。 ところで、オリゲネスは後の時代に異端とされたアレイオスのように御子の神性を認めながらも被造物とみなすようなことはせず、御子の神性を創造者側として認めましたね(ヨハネ1:3、Ⅰコリ8:6、コロ1:16)。但し、私見では、後に基本信条でも記されることになる御子創造主説も、前掲箇所における前置詞 διά の解釈如何では異説も立つと思われますがここでは控えます。 オリゲネス自身は御子創造主説に立ち、今からみれば正統的立場の先駆者のようでさえあるにもかかわらず、結果的には死後に異端とされたということが解せないのです。 オリゲネスの思想は体系的だそうで、従属説以外の万人救済説その他の言説が異端とされたことについては私はまったく関心なく、あずかり知らないことですが、御子の非被造性と神性を認めたうえでの、御父と御子との関係を主従的にみること自体は、聖書的に見て必ずしもおかしなことではないのではないでしょうか? もちろん御案内のプラトン主義における「第一の神」と「第二の神」との関係に、御父と御子をあてはめてみることは、聖書において御父と御子との間に愛・敬意といった人格的関係がある以上、不適切であろうかとは思いますが、主従的関係は明示されていると思います。 聖書の中でも特に御子イエスの超越性ないしは神性を示し(1:1~3,14,18、4:25~26,42、8:5819:3621:28他)、御父との(「ことば」と「わざ」における「みこころ」の一致という意味の)一体性(3:364:345:36~38、8:2910:30,37~38,12:44~45、13:20,31~32,14:9~11,24、15:23~25、17:11,21~23他)を語っているヨハネ福音書は、同時に御父と御子との主従的関係を示している文書でもありますよね? 既成の教理的前提に立たず虚心坦懐にヨハネ福音書を読むならば、御父と御子との関係はすくなくとも表面的には「同等」の面よりも「従属」的に感じられるのは、日本人クリスチャンの中にあって私一人ではないでしょう。神と人との関係を父親と子との関係にたとえているわけですが、社会心理学者の中には、親子関係は上下関係であると言い切る人もおられるので、御父と御子との関係も上下関係として受けとめることは、類比としての限界を踏まえる限りにおいては誤りではないと感じます。その点で、根拠なる聖句は重複するでしょうけど散見されます(3:16~17,34,5:19,30,36,43、6:46,57,7:17~18、8:26,28,41~42,49,54~55、10:17~18,25,29,36、12:27~28,49~50,14:6,28、16:27~28、17:3,5,24~26、20:17,21他)。 但しその主従関係は、フィリピ2章のキリスト賛歌で言われているとおり、御父が御子に神としての主権を全面的に委任している(3:355:226:27、13:3、16:15,23、17:2,6~11,18他)期間すなわち十字架および昇天までの地上におられた期間と、救済史的には教会の時(聖霊の時)を経て御子が再臨されて終末に至り、最終的に御子が御父に服従してすべてが御父に帰される…すなわち御父がすべてのものにおいてすべてとなられる(Ⅰコリ15:28)までは、御父と御子との関係は職務的意味の従属関係にとどまり本質的な優劣や上下は無い…という意味で「同等」であるというのが相対的に最も妥当な聖書解釈ではないのかなと思っています。 そして、オリゲネスの従属説的理解が異端とされたのは、その職務的意味での従属関係から逸脱して本質的意味の従属関係として(実際にオリゲネスの思想がどこまで逸脱していたかはわかりませんが…)誤解されるようなことを言ったからではないかな?と想像している次第です。 オリゲネス本人は、後のアレイオスのような考え方とはまったく違っていたのに、似たような言説として一緒くたに扱われてしまった可能性があるのではないでしょうか? そして、それほどまでに正統派が従属説を嫌ったとすれば、それは「唯一の神」というユダヤ教以来の神観の前提に反することになるからではないでしょうか? 父と子と聖霊という三つの位格が「三者の神」でもなく「三様の神」でもなくそれぞれが固有の自存者でありながら「唯一」であるためには、その三つの位格同士の関係は「同等」であることが当然だとされたからではないでしょうか? たしかに比喩的に考えれば、唯一の神が位格の間に従属関係を持つということは、自己同一性を有する者が、自分の内に、主たる自己と従たる自己との関係を持つような話ですから、フロイト説の超自我と自我との関係でも持ち出さないことには比喩としても成り立たないです。 それはともかく、位格間の関係に「従属」を認めた時点で「唯一の神」という前提と矛盾するから、オリゲネスの従属的言説もアレイオスのそれと混同されて異端と処せられたのではないだろうか?・・・と、何の学問的根拠も無い素人門外漢の想像にすぎませんが、いかが思われますか?その可能性はないでしょうか?この点、どう思われますか?

安井先生、御丁寧にお教え下さり感謝申し上げます。ひじょうに勉強になりました。オリゲネスの従属説が異端とされた主たる原因は、唯一神信仰との関係ではなく、オリゲネス自身の二元論的思考との関係であった…、「神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えた」ということがポイントであることがわかり、目からウロコが落ちる思いがしました。 そういえば、つい先日、あるサイトに「継続的創造」という言葉が出ていて、創造は六日間で終わりヨシとされて7日目の休みに入った歴史的・時間的な出来事であるのに、それを「継続」ということで摂理と混乱をきたすような考え方に対して疑問を抱き、これまた恐れ多くも、その「継続的創造」という言葉を用いていた著名な神学者の先生にメールで質問させて頂いたことでした。 オリゲネスが御父を永遠の創造主であると信じたということは、その創造のみわざをも永遠の事柄とみなすことになり、ある意味、現代リベラル神学が説く「継続的創造」と似たようなことになるのかなと思いました。 かつて、三位一体の理解に苦しんでいた時、本源者である御父から御子が生成し御子を通して聖霊が発出するという営みは永遠においてなので、常に起きているダイナミックな、言わば三位格の回転のイメージだといった解説にふれてハッとしたおぼえがありますが、これは神の事柄だから成り立つのであって、創造のみわざによる被造物の発生まで永遠化されれば、文字通り人間神化(Θέωσις / テオーシス)の非聖書的教説に道を開くことになり危険ですね。これは明確に異端と断じられて然りであったでしょう。 オリゲネスはその二元論的、神秘主義的な部分においてはオカルト思想に利用されている面もあろうかと思いますが、私は「御子の神性の主張が曖昧になっている」ということもさることながら、創造主なる神と被造物である人間との区別が曖昧になっていることも極めて問題であり、そのような危険性を帯びた思想であったと受けとめました。 とはいえ、テオーシスはキリスト教…特に東方正教会の「神成」の教理として受け継がれていますが、私見では、ペトロ第二1:4の曲解とか、コリント第二3:18などの所謂「栄化」との混同によるものではないかと思っています。

オリゲネスが信じた善なる神 『アタナシオス神学における神論と救済論』講話3 - YouTube

安井聖牧師からの返答には、「聖書が職務的な意味で御父に御子が従っておられることはその通りで、おっしゃるように御父と御子の神性の同質性(ホモウーシオス)を曖昧にしてしまう意味での従属説が問題だと考えています。」という文言があり、これにより自分は御子を御父と「同質」であるとする考えと、御子が御父に「従属」するという考えとは両立し得ないのかも…と思うようになりましたが、類比的に考えることにより「従属」と「同質」とは矛盾しないことを確信し、自分としては引き続き、御父と御子とは本質的な意味で主従関係にあるのだが、御父の自己限定によって職務的な意味での主従関係にとどまり、本質的には「同等」とされているのだ…という解釈に立ちます。しかし「職務的」な意味での「従属」とは言え、「職務」にはそれなりの権威があるので、自分としては「従属」が本質的であるかどうかより、御父の本来的主権・権威が御子や聖霊に優ることが重要なのです。御子に対してもあくまで本来は御父が持っておられるこの世での主権・権威の委譲なのですから…。あくまで御子が御父に主権を返す終末までの言わば仮相(仮の宿・幕屋/Ⅱペト1:13~14)であって、真相(神の国)は、最終的に御子が御父に服従し御父がすべてのものにあってすべとなられることによって終末に顕現するのだ…という見方です。

職務的従属を認める人は、それは本質的意味の従属とは違って御父と御子との間に優劣は無いということで軽く考えておられますが、私は本質的意味の従属であろうとなかろうと、職務的従属もあくまで従属なので、それ相応の権威の違いは認めざるを得ない…まったく対等ということにはならない…という点を必要以上に強調することにより、実質的には本質的従属と同様の…つまり御父と御子との間に優劣をつけるほどの上下関係として、この職務的従属ということを対外的には主張したいと思います。もちろん、本質的従属を言わないということは、あくまで異端とならない範囲内で…ということです。そしてそのうえで、改革派教会が採用しているウェストミンスター信仰基準に従います。救済論的観点においては、現実の信仰生活ではどこかの教派・教会に属さないといけないからです。それで創造主の絶対的主権を強調している改革派の教会に属す選択をしました。「従属」と「同質」や「同等」や「唯一」との関係の問答は、そのための教理的調整になります。公式に認められている「職務的」意味での御子「従属」を、類比的思考において、「職務」に応じた「権威」を伴う事柄として重視し強調すること…それが、自分の「創造主帰一」の立場における新しい立脚点となりました。

コロサイ1:16、18などから明らかなことは、御子はたしかに被造物より先に存在していたお方ではあるけど(ヨハネ福音書17:5参照)、何にせよあくまで「生まれた」お方であるということ。御子が生まれたお方であるということは、御子を生んだお方が先在しておられたということ。それは造り主なる御父以外にはあり得ません。そしてそこから言えることは、1:16の「御子によって造られ」たという「~によって」(ディア)はこの場合、御子が造り主であることを意味せず、媒介的役割を果たしたことを意味する。そのように解する方が天地創造を造り主の自己目的とすることにはならず、「御子のために」ということと意味が通じる。

キリスト教ユダヤ教から単一神的意味の一神教を引き継いだわけではなく、同じ一神教でも実体的一ではなく関係的一の意味で、すなわち父と子と聖霊の各位格は相互関係においてのみ個別に存し得るという一体性の意味で「唯一の神」と言われるのであると思う。それは解釈においてであり、聖書では「唯一」が単一的意味の唯一で言われている(例:ヨハネ福音書17:3)。それは新約聖書において「神」と書かれている場合、普通は御父のことを指すことと対応している。

そのように「唯一」の意味を説明して、キリスト教ユダヤ教イスラム教と同じ意味での「唯一神教」ではないということを主張するのもよいが、論理展開としてはそれよりも、キリスト教は厳密には「唯一神教」ではないとして、「三一神教」との違いを説明するし方もある。その場合、キリスト教ユダヤ教イスラム教と同じ一神教ではあるが、唯一神教ではない、ということになる。では、三一神教唯一神教との違いは何か?だが、三一神教の「一」は、父と子と聖霊の三つの位格が神の本質として同一である(ホモウシオス)という意味の「一」であり、存在論的・実体論的に同一という意味の「一」ではない。だから、御父と御子とは個別固有の意思を持つ存在でありつつ聖霊も含めて三者が相互内在関係において不可分の「一」であるという意味になる。つまり、三一の「一」は実体的一ではなく関係的一である。だから三一神教は事実上、三神教なのだ。

正統的立場においても、聖書において御父と御子との関係には、特にヨハネ福音書5~6章を読めば明らかに主従的区別があるわけなので(その他、マタイ24:36、マルコ10:18、ヨハネ14:28、17:1~8他参照)関係が自分としては職務的意味での従属関係という意味をさらに重くして(すくなくとも佐々木稔氏がご自分のサイトで書いておられるよりもはるかに重い意味として)、唯一の真の神である創造主としての御父の権威を強調し、御子中心主義を糺す方向へ行くことは、ケノーシスの姿勢を終始一貫しておられる御子の「信仰の導き手・完成者」(ヘブル12:2)としての生き方に従うことでもあり、自分にとって聖霊の導きによる起死回生的な新生面の開けであると言えます。とにかく御父と御子とを単に「同等」とする見方は必ずしも聖書に合うとは言えないことには確かな自信があるのです。

 

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(追記)

上記のとおり、私は、聖書における御父と御子との関係について歴史的・経綸的には、本質的意味としてではなく職務的意味としてであれ「従属」を認める立場ですが、結果的に自分は『ウェストミンスター信仰基準』における三位一体に関する教説に同意するのであり、そこに矛盾が無いとしたらそれは、御父の自己限定における御子との「同等」であると解するからです。これは自分で「神の『同等』の自己限定」と呼ぶことです。「三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。」(~尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)という表現も、感覚的には無関係とは言えないでしょう。

1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org)

私見では、本来というか原事実的には、本源者である御父と生成者である御子との関係は、世の終末における御子の服従(コリント第一15:28)に象徴的に示されているとおり「同等」ではないのだけれど、絶対創造主の聖定は自己限定としての啓示を中心としており、御子キリストに世の主権を委ねられるがゆえにアガペーをもって「同等」になられたのだ…といった受け入れ方です。無からの天地創造は三位一体のみわざではありますが、「創造主」は御父のみです。本源・絶対の非対象たる創造主はアガペーにおいて絶対性に固執しようとはなさらず、すなわち御自身を唯一絶対化せず、御子と聖霊との関係における御父として…歴史的にはイスラエルの神ヤハウェとして、ひいてはイエスとその弟子たちの父なる神として自己相対化(=自己対象化)なさり、神学的には人格的存在として擬人化を許容するほどまで自己限定することによって、人間に対して啓示なさったのだと考えます。このように私自身、正典的聖書解釈から「従属的三一神信仰」の徒たるを標榜しながら、あくまでも改革派信仰の徒として基本信条に根差すウェストミンスター信仰基準に則って自己矛盾なしと言い得るためのキーワードが創造主の「自己限定」です。もちろんこの用語は西田哲学からの影響も否めません。ご参考までに、解説文から引用します。

対象化されないもの、形象化されないものは、『無』という言葉であらわされるが、それは存在しないもの、非存在というわけではない。むしろこのようなものこそ真の意味で存在している、と西田は考える。なぜなら、それは自己を限定することで有としての個物を産み出すわけだから、有の根拠をなすものとして真の実在といえるわけである。」絶対無の自己限定:西田幾多郎の思想 (hix05.com)

エスユダヤ人だったのに、白人画家はイエスを白人化させて描くことが常でした。偶像イエス同好会の諸君が「大好き」だなどと言っている史的イエスならぬ私的イエス…想像のイエスは美しく想い描かれますが、イザヤ書53章2節で「われらが見るべきうるはしき容なく うつくしき貌はなく  われらがしたふべき艶色なし」と言われているとおりで、そちらが実在のイエスに近い。彼が神の子キリストであると信じ告白された主旨は、彼自身が神として拝され讃美されることにあるのではなく、彼は神の形のうちにあったが神と等しくあることを固守すべきもの或いは奪い取るべきものとはみなさず、むしろ彼は己自身を無にして(ケノーシス)十字架の死に至るまでも神に従順であられた…、それゆえに神は彼を高挙して主の御名を与え礼拝すべきものとされたわけなので、イエスを「神」と言い礼拝する意味は逆説的であり、父なる神の場合とは区別されて然りなのです。同じく「神」と言ってもイエスを「神」という場合はイエスが神に従属せし「人」として徹底し、信徒の模範を示したことにより、イエスを礼拝する場合もイエス自身が神を信仰し礼拝する者として徹底なさったことによるのです。イエスを栄光の主として高く挙げるのは神であって人間であってはなりません。  イエスの使命は「子は親を映す鏡」とも言われるやうに、彼にとっての唯一にして偉大なる父である神を、彼自身の言葉と業を通してわれらに証しする啓示者にして仲介者たることにありました。繰り返しますが彼が「主」として高く崇められるのは彼が人として徹底的に神に服従して生きたことによるのであり、彼は「無」となることによって、言わば裏方に徹して、オモテ舞台で「神」として礼拝され讃美される対象を父として示しているのです。その彼の従順なる信仰にもとづく福音の教えを正しく受けとめるには、逆説的な対応が求められます。それが十字架の神学に現れています。🙏😅😸

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(記事へのコメント)
「キリストが『わたしの神』と呼ばれた、唯一まことの神、み父だけが全能の神であり、イエスは神の子また神の代理者として極めて重要な立場に任命されているお方であることを理解し、その明快な聖書の教えを土台にして聖書を読むと、すべての内容がはっきりと理解できるようになります。」云々には同意です。ヨハネ福音書では特にイエスは神から派遣された仲保者であることが強調されており、10:30や14:9などはそのことを前提として解せば、一般的に云われるような父と子との実体的同一性を意味せず、「言」と「業」の作用的同一性を意味することは明らかです。御子は御父と同じ神の本質を有しておられますが、御父との関係は主と従に区別される旨を御子自ら証ししておられることをヨハネ福音書記者が特に強調し、もちろんパウロもきっちり伝えていることです。ところがそのような聖書の標準的な箇所を軽視して神秘主義的解釈を施し得るような箇所ばかりを引用したがる立場がキリスト教の中にあるわけです。「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)、「三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書 p61)日本でパウロ研究の第一人者とも云われる新約聖書学者さんも上記のように発言されているほどに、「父子従属」は聖書を素直に読めばわかることです。「簡単にいへば、キリストは神の子と呼ばれることにより、幾分従属的位置にある神的実在として立てられたのである。この従属的位置は例へばパウロの書翰の数箇処に見える(ロマ一五・六、コリント後一・三、なほコリント後一一・三一、コリント前一・三参照)「我らの主イエス・キリストの神また父」(中略)といふ語によっても明かに示される。(中略)従ってギリシア哲学思想の影響の下に立った神学的思索をパウロにおいても発見する。即ちキリストは神に対しては神の像(中略 コリント後四・四、コロサイ一・一五)、その見るべからざる本質をみるべき形に表現したる啓示者である。」(『波多野精一全集 第二巻』〔岩波書店〕p384~385)
要はその「従属」が「質」的従属まで言われているのか?それとも「関係」的従属にとどまっているのか?ということであって、前者はアリウス系の「異端」とされた立場です。つまり神性という本質をも従属とみなして、御子を被造物とすることになるからです。しかし東方正教会の司祭さんも認めておられるとおり後者は「異端」ではありません。御父と御子および御霊の三一神における「関係」については、本源者とそこから生成した者という従属性があります。アリウスとアタナシウスとの違いは父子従属ではなく、御子を被造物とするか神とするかでした。アタナシウスは御子を神と信じつつも御子が御父をご自分より偉大であると言われたことを重視し、御父を本源者として、質的従属は否定したが、関係的従属は否定しなかったのです。ところがアウグスティヌスになると後者まで否定して、それが西方神学の神論の基本になります。しかしそれはあくまで一つの説であって、もちろん異説もあります。

以下は本文に入れ込みましたが、ここでもふれておきます。北森嘉蔵著『神学入門』(新教新書)では次のように書いてあります。

受肉者は父なる神とは区別される別のペルソナであります。父なる神はいかなる意味においても、受肉せず、また受苦しません。受肉し受苦するのは子なる神であります。しかしながらアタナシウスによれば、その受肉者が、父なる神と区別されながら、しかも父なる神の本質と同じ本質をもっているというのであります。これが、ニカイア信条における父なる神と子なる神との『同質』、すなわちホモウーシオス(homoousios)という表現の示す内容であります。(中略)アタナシウスによって、受肉者キリストと神の本質との関係は明確化されたのでありますが、しかしアタナシウスの神学は問題がないわけではありません。それはどういうことかと言いますと、アタナシウスは父なる神と子なる神との同質という面を強調するあまり、父なる神と子なる神との区別という面が、いささか弱いという点であります。(中略)アタナシウスは、アリウスを相手としていたので、いささか反動的でありました。アリウスは、『父なる神と神の子イエスとはまったく区別される存在であり、神の子は端的に神の外にあるだけだ』と主張したので、これを防ぐために、アタナシウスの主張はいきおい、『父なる神と神の子キリストとは同一であり、神の子は神の内にあるのだ』という面だけが、一方的に強調されたことはまぬかれないのであります。したがってアリウスを防ぐ反動として、いささかアリウスと逆のあやまりの立場に近づいたと言えます。この逆の立場が、父神受苦説であり、またの名はサベリウス Sabellius主義であります。そこでたとえば、ラインホルト・ゼーベルク(R.Seeberg)のような教理史家は、『アタナシウスの神学を徹底していくと、サベリウス主義になるかもしれない』というようなことを申しております。つまり、ここではサベリウス主義ないし父神受苦説という異端が、正統的神学の代表者たるアタナシウスと紙一重のところで接触しているという大変興味深い現象を見るのであります。しかし、これは興味深いけれども危険ですから、私たちはアタナシウスにしたがいながら、しかもサベリウス主義ないし父神受苦説と断然違う立場を堅持しなければなりません。それは、子なる神が父なる神と本質を同じくして、神の本質の内にありながら、しかも父なる神の外にあり、いわゆる『融通不可能な固有性』をもって父なる神と区別されるペルソナであるということであります。」(p52~55)

上記のように、アタナシウスの考えがサベリウス主義への志向性を持っていたということが本当であるなら、矢内原忠雄氏が、誰が書いた本を読んでそう言ったのかは知りませんが、アタナシウスがアリウスと同じくヨハネ福音書14:28の御父が御自分より大きい方であるという主旨の聖句を重視していたと書いている内容とは逆方向ということになります。

いずれにせよ、三一神信仰の見方は、東方教会は直線的、西方教会は三角形的です。

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(追記)

パウロ神学は神中心主義か、キリスト中心主義かという問題があります。それで『コリント人への第一の手紙』の第十五章を見ていますと、最後の時に『キリストは神の敵をすべて滅ぼして、すべてを神の御手にゆだねる、そこで神がすべてのすべてになる』と書いてあります(20-28)。神とキリストは、はっきり区別されています。(中略)終末論の一番最後にそう書いてあるわけです。ですから、神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。」(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p147~148)
このように八木氏がパウロを「キリスト中心主義」とするのに対して、青野太潮氏は「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」と指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』⦅新教出版社⦆p5)。そこではコリント第一15:23~28が扱われています。問題は24節であり、多くの学者が2つある接続詞「 ὅταν / ホタン」のうち、2つめの「ホタン」に導かれる文の主語を「キリスト」とみなすのに対して、青野氏は「神」とみなしています。1つめの「ホタン」に導かれる文の主語は「キリスト」であることは誰もが一致しますが、2つめの「ホタン」に導かれる文の主語は「キリスト」か「神」か明確ではないのです。しかし私はどっちでもよいと思います。ここで肝要なのは28節bの主語が「神」であり、創造主帰一の主旨であることに何ら変わりは無いということです。

ところで、キリスト教である以上、「キリスト中心」であるのは当然だと考える人は少なくないでしょう。しかし「キリスト教」の「キリスト=メシア」はあくまでも「神=創造主=ヤハウェ」の存在を前提として成り立つものです。何故ならその意味は「油注がれた者=受膏者」であって、油を注ぐ上位者なしにあり得ないからです。歴史的にも「キリスト者」という呼称が生まれたのは、まだユダヤ教から完全に分離独立していない段階です。従って、神が第一の信仰対象であることはわかりきった上での「イエスとは誰か?」であり、「そのイエスの弟子は何者か?」ということだったのです。

佐藤研氏の著書『はじまりのキリスト教』〔岩波書店〕によると、「ユダヤ教エス派」から独自性を意識して異邦人信者を前面に出したアイデンティティ言語としての「キリスト教」が、第一次ユダヤ戦争をきっかけに伝播したと説いておられるが、私は、「キリスト教」という名称の起源はユダヤ教の中にあった時であると信じる。「キリスト」は決して「ヤハウェ」に取って代わった「神名」などではない!「キリスト」は元来、人間に対する呼称。「『油をそそがれた者(マーシーアハ)』という呼称は新約ではメシアースと音訳され、キリストを指す(ヨハ一41、四25)が、旧約では終末論的救済者を表すことはない。むしろ現実の王(サム上二10、詩一八51等)、祭司(レビ四3、5、16等)、預言者(詩一〇五15)などの称号である。ここでは、四四28の『牧者(ローエー)』が羊の群れを牧するように民を指導する王を指すから、マーシーアハもその言い換えと取るべきであろう。いずれにせよ、それぞれ『わが』、『その』と人称接尾辞が付せられ、ヤハウェによってたてられた王であることが強調されている。」〔~岩波版旧約聖書イザヤ書45章1節の注〕)。決して「御本尊」を宗教名にしているというわけではありません。でもそう考えがちな人は少なくないのです。しかしユダヤ教イスラム教も、信仰対象を名前にはしていません。ヤハウェー教とかアッラー教とは言わないわけです。仏教はどうかと言えば、「仏」は信仰対象ではなく「覚者」を意味します。「キリスト教」の「キリスト」は神名でもなければ教祖名でもないです。 

カルヴィニズムの特徴として「神中心」と云われるのは、それだけ一般の神学がキリスト中心の度を過ぎていることを物語っています。「キリスト中心」は「神」という究極目的に至る手段に注目する意味では妥当であっても、「主義」がつく程に度過ぎては逸脱となります。何故なら「キリスト」は究極の信仰対象である唯一神を表わすものではないからです。あくまでもその神に至るための「道」(ヨハネ伝14:6)であり「(垂れ)幕」(ヘブル書10:20)であり媒介者であり仲保者なのです。見えない神の啓示者として人から見れば前面に立つ、だからキリストが中心となるのです。視点は少し異なりますが、イエス神格化の強調による問題を踏まえて「キリスト中心主義」(christo-centrisme)を批判する論者がいます(加藤隆『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p256~258)。

自分は、御子従属説的立場の「異端」性を抱えながらも、キリスト教ではカルヴィニズムほどに神の絶対性を強調する教派はないので、自分は論理的な矛盾などは神にゆだねて改革派教会への所属を選択しました。その結果、聖霊の導きだと思いますが、創造主なる御父の「『同等』の自己限定」という(真理ならぬ)信理を得たのです。

それはともかく、そもそもなぜ、従属説は異端なのでしょうか?もちろんアリウスのように御子を被造物とする立場はそれだけで(聖書解釈の問題は別にして)異端の烙印を押されてもローマ帝国宗教となったキリスト教としてはやむを得ないと思いますが、オリゲネスのように御子の被造性を否定し、御父との神性同質を認める場合なら異端とまで言う必要はなかろうに…と思うのですが、そうならなかったのは何故でしょうか?従属説は唯一神教と矛盾するからでしょうか?と言うより三位一体内の問題として、従属説は「同質」(ホモウシオス)と矛盾するからであるようです。御子が御父に「従属」するということは、御子が御父と「同質」ではなく、「類質」(ホモイウシオス)になる…という考え方であるようです。しかし本当に、御子は御父と「同質」でありながらなおかつ御父に「従属」するということは論理的に成り立たないのでしょうか?私は現代人の頭で類比的に考えるなら、つまり人間のこととして考えるなら成り立つと思いますが、なにせ神学者…ましてや古代教会時代の教父の頭の中など思い及びませんので、現代の常人とはかけ離れた論理でものを考えていたのかも知れません。それはまさに形而上学的な議論になりますので、私はあくまで現代人の通常の論理で聖書を解釈するしかありません。その結果として、「従属」と「同質」は両立し得ると思います。

たとえ教義学的には「同質」と「従属」との両立が成立し得ないとしても、私にとってそのような問題をクリアーし得るのが創造主の「全能」というものです。私は御父の「『同等』の自己限定」においてその問題はクリアーされていると思うので、たとえ「父、子、聖霊が、何か、その本質、力、永遠という点で上下優劣があるのではありません。このような従属説をウェストミンスター信仰告白は否定しています。」(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』⦅新教出版 ⦆p51)と言われてはいても、私としては、聖書の神話的解釈だけではなく、大貫隆氏によって再構成された古代人イエスの信仰に焦点を当てた歴史的解釈を考慮するなら、やはり御子イエスは元々は「真に神」としての面は無く「真に人」だけのユダヤ人であり、そのイエスが超越的存在とされた…としか思えない(…そうでなければ存在論的に神人イエスといった超越的人物が2千年余り昔のパレスティナにいたことになってしまうので…)真実においては御父(として御子や聖霊との関係対象として自己限定なさっておられる創造主)は、「質」的にも「位」的にも御子と同じではないにもかかわらず、歴史的には啓示において自己相対化なさり同質とか同等とされておられる…と信じるので、そのような御父(創造絶対主)の自己限定・相対化としての有様が、ウェストミンスター信仰告白にも表わされていると解している。他の信条も同様だが、創造主の主権の絶対性を強調する点で、ウェストミンスター信仰告白は他の信条にすぐるとも劣らない。そうまでして聖書および信仰告白にこだわるのは、人としての限界をわきまえ、自分の無能さを反省し、現代人としての知的傲慢を否定するから。大貫隆氏の古代人イエス論に学び、神話に積極的な意義も認めるのはそれゆえだし、史的な次元だけが現実ではなく、霊的な次元もあると思っているから。それにしたって、イエス・キリスト受肉とか復活などを史実と認めることはさすがに出来ないから。

神の中に優劣上位の関係を認めることは三神論へ傾斜することになるということでしょう。しかし私見では、神論についてキリスト教ユダヤ教に対して多神教に近づいたのではないでしょうか?唯一神教と三一神教との違いは、「聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」(~「日基教団信仰告白」)などと北森神学をもって総合できるほどのことだろうか?八木誠一氏が、三位一体のラテン定式について、「ペルソナとは元来は古代ローマの演劇で用いられた仮面のことで、劇での役割、さらに個性の意味になり、発展して言葉のやり取りのなかで自分の義務を遂行する責任主体という意味を担うようになった。つまり、『関係存在』なのだが、西欧における Person 概念はこの系統を引きつつ、一般に『人格』を意味するようになる。三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である」とか「人格主義的概念だけでは説明が困難なのである。例えば、三位一体論は三神論になってしまう」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221、227)とか、「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)と指摘していることになる。三位一体論の主旨は、八木氏も「『太陽そのもの』と『我々にそう見える太陽』と『太陽光』との関係」の比喩で述べておられるとおり(『回心』 p224)認めてはおられるが、それを説明するための表現が「人格主義的概念」だけでは困難であり、「場所論的概念」を用いれば容易に了解できる(同上書 p227)ということなのだ。八木氏は「実は伝統的キリスト教新約聖書の宗教とは違う」と明言しておられるが(同上書 p231「あとがき」)、私にとってはその問題についての答えが八木氏の(なによりイエスの思想がそうだと八木氏は言われるのだが…)「人格主義的場所論」(『イエスの宗教』p18)だけであるとは思いたくない。というのはいずれにしても神観が聖書的にも自分の主観においても場所論的な観方(=はたらき)とは合わないからだ。たしかに擬人的表現を嫌う点では共感できる部分はあるが、絶対主権者である神というものはまずもって存在論的対象であって然りだし、そうでなければ絶対性のイメージに合わない。場所論的に語られてよいものは、「唯一の真なる神」(ヨハネ17:3)以外のキリストであり聖霊である。私見では「三位一体」は「三位同質」と訳した方がまだ誤解を招かないだろう。「一体」という日本語はどうしても身体的同一性を連想させてしまう。しかし同一なのは神の「本質」であって、これが北森氏の言い換えでは神の「御心」になる(『神学入門』p55)。

モルトマン神学の三一論は東方的伝統を受け継いでいるようなことだったが、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にはない「同等」にこだわるという点ではやはり西方的伝統が強いと言えるだろう。ニッサのグレゴリウスの「社会的三一論にモルトマンは積極的な転換点を見出そうとし、「そこでは父と子と聖霊の間に優越と従属の秩序を認めず、互いの相互内在(Perichorese)が前提とされ、また、その視点から神と世界との関係も相互内在的なものと考えられる」という(~小原克博氏の論文「現代における唯一神論と多神論の相克:身体論的視点の可能性を求めて」)。すなわち、三位一体論で「同質」と共に「同等」が重視されてきたのは、「相互内在」(ペリコレーシス)の教理との関連なのであり、それはよくトリニタリアンが指摘するヨハネ10:30の「父と私は一つである」ということであり、八木氏はこれについて久松真一禅師の「絶対他者即絶対自者」を認めておられ(『イエスの宗教』p240)、「自己神格化」の誤解を指摘しておられる。つまり、「父と私(=イエス)は一つである」ということは「相互内在」の関係ではあるが、それは人格主義&存在論で解すると自己神格化になるのであり、その点でトリニタリアンの立場は否定されることになり、これまた場所論的に解さないといけないということになる。従って、モルトマンが思うような意味の「相互内在」かどうかはわからないし、すくなくとも西方的三一神論における「同等」の考えと八木氏の考えとは違うということ。

聖書の解釈では、同じキリスト教神学においても福音派的な保守的立場とリベラル派的な批判的立場があって、私はあくまで後者ですが、ウェストミンスター信仰基準を部分的にであれ尊重するのは、福音派にせよリベラル派にせよ、御父の絶対的主権を重視し強調するより御子キリストへの関心の方が強いからです。他のアスペクトとして私は、福音派であれリベラル派であれ、神学という狭くて特殊な学問よりも、もっと普遍性のある宗教哲学の方を重んじる。聖書解釈においても神学的解釈より宗哲的解釈の方に惹かれます。聖書も教会も人間の思惑が絡んでいる以上(…特に新約正典結集は当時の主流派ないしは正統派によるから…)、福音派のように聖書をも信仰対象とする絶対的見方は出来ない。絶対的とは言え、あくまでも人間の手による相対的信仰基準であり、ウェストミンスター信仰基準のような信仰基準や信条・信仰告白は、さらに相対的信仰基準。

 

十字架上の「わが神…」の叫びについて。下記のような見解がありました。

 

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」というのは、詩篇22篇の書き出しと同じです。しかし、この場面でイエスさまは、詩篇を暗誦していたのではありません。この言葉は、イエスさまの心の底からの叫びなのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 -- ゴスペルハウスな生活 (fc2.com)

エスが十字架上で心の底から「わが神…」と叫んだことと、ふだん、詩篇22の冒頭句を暗誦していたこととは、必ずしも矛盾しないのではないでしょうか?むしろその方が同じ文言として記録されていることの筋が通ります。そしてイエスはこの場面以外でも「父」と「神」と両方を言っている場面はあるので(ヨハネ20:17)、「父と呼べるような神様との交わりが絶たれた」という解釈は必ずしも当たらないのでしょう。むしろ最期の最期まで父子関係が切れないことの現れとも見れます。たしかに真に人としてのイエスにとっては絶望的な状況ではありますが、それゆえに父なる神との関係が断絶するようなことはあり得ず(そういう見方は神の絶対性・全能性・不死性などを否定して神を有限的存在に仕立てる「十字架の神学」〔教義学〕者にみられるもの)、むしろますます色濃く示されています。最期の最期にイエスが御父をあえて(暗誦してきた詩篇22冒頭句を用いて)「神」と呼んだのは、ユダヤ人たちの無理解(…イエスが自分を神の子ということによって神としたこと)への抗議とも言えます。「わが神」とは自分を「神の子」として強調する呼びかけになり、それと御父を「神」と言う場合の「神」とは区別されます。というか御子については、神学的理論的には本質を同じくする「神」であると言えますが、福音書においてイエスが一度もご自分を「神」と名乗っておられないことは軽視できません。あくまで御父の栄光を現すために生きるのが御子であり、十字架上の最期の言葉は、その神の子としての身分を徹底なさったということの象徴的意味が込められているでしょう。父に捨てられても子は子なのです。すなわち十字架は神の栄光を現すために神の子が受けるべきものであり(ヨハネ17:1)御子が御自身の栄光を現すためではなく、十字架は御父の栄光を現す御子の業であるということ、そのことがローマの百卒長の「まことにこの人は神の子であった」(マルコ15:39)という信仰告白から読み取ることもできます。

INCの下記引用の「唯一の神、父」云々には共感し(…その点に限ってみれば、すくなくとも輸血拒否したり終末予言したりするJWよりはまともな団体であると感じられ)、さらにはアデルフィアン派のキリスト論にはJWのような御子被造物(大天使ミカエル)観といった非聖書的解釈は無いので、カルト臭いINCよりかはアデルフィアン派の方がよい。よく、三位一体との比較において、異端の考えの方が合理的だと、合理的だから人が異端になりやすいといったことが言われるが、合理的であること自体は悪くはない。「不合理ゆえに我信ず」といった言葉がどこまで史実性を有するかは知りませんが、信仰の正しさの根拠を不合理性に置くことなどできません。やはりキリスト教信仰は、非科学的迷信ではないのだから合理的な方がよい。ただし、単なる合理性ではなく、聖書的合理性です。

「イエスが、アダムのように創造されたのでなく、神によって“始められた”と言うのはとても意義があります。これはイエスが神と親密であることを説明しているのです。“神はこの世を彼自身に和解させるために、キリストの内におられた”(コリ后.5:19)。キリストは土から創造されたのでなく、神によって始まったために、彼は彼の父神の道を行うに適当な神の素質を持っていたと説明出来るのです。」 https://carelinks.net/languages/japanese/Japanese_Bible_Basics.pdf

これは自分が聖書を素直に読み取って率直に感じることでもありますが、そのホンネをそのまま信仰告白としても通用しないのがキリスト教社会の現実であり、それはローマ帝国の国教になるうえで政治的権力の介入による信条制定などの歴史的事情の影響もあって、しかしそれもまた創造主・絶対者の「聖定」の内だと諦めて(…あきらかにみて)受けとめるなら、たとえホンネの内容が正しくてもタテマエとしては「三位一体」の教義になるということ…それは唯一の真の「神」である創造主なる御父(John1703他)の広義の「啓示」すなわち「自己限定」であると受けとめ、賛美をもって改革派教会の正統的信条に同意するのです。それは当然、下記とは180度異なる内容になります。しかしホンネはあくまでも下記の内容に同意なのです。だから改革派教会に所属していても、正統的立場の三一論として許容される範囲での御子の対父「従属」性…すなわち所謂「職務的」意味での御子従属…すなわち御父と御子との主従関係は、(下で引用している文の執筆者である佐々木氏の見方を超えて)出来得る限り重視し強調することになります。

「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はない。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(~「第10章:三位一体の教理」の「解説」

※このあと「拙著『ウェストミンスター信仰告白の解説』の第一章第三節『三位一体の神』の解説を参照のこと。」と続くが、これは第二章第三節の間違い!)minoru.la.coocan.jp/morton10.html

「本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。」

minoru.la.coocan.jp/kokuhakukaisetu2.html

以上のような神学的矛盾調整の奥義ってわかりますか?

「唯一の神、父 私たちは、創造主である父が、唯一の真の神だと信じている。そう信じるのは、これが主イエス・キリスト使徒たちの教えだからである(ヨハネ17:3,1、Ⅰコリ8:6)。神は霊であり(ヨハネ4:24)、それゆえ、肉や骨がない(ルカ24:39)。神は三位一体ではない。聖書が、父と子と聖霊のことを話していても、それらが神々であると言っておらず、三位一体であるとも言っていない。むしろ、父だけが真の神だということを示している。御子ご自身が、父だけが真の神であり(ヨハネ17:3,1)、御子ご自身は神から聞いた真理を語る人だと(ヨハネ8:40 NKJV)、宗教が本物であるかを見極めるには、その宗教が掲げる信仰を されている。預言者たちもまた、私たちを創造された唯一の父を持っており(マラキ2:10、イザヤ64:8)、父のほかには神はおられないと言っている(イザヤ46:9)。

One God, the Father

We believe that the one and  only true God is the Father, the Creator. We hold this belief because this is the doctrine taught by our Lord Jesus Christ and His Apostles (John 17:3,1;ⅠCor.8:6).God is a spirit(John 4:24),and,therefore, He has no flesh and bones(Luke 24:39).There is no trinity of persons in God.Though the Bible speaks of the Father,the Son, and the Holy Spirit,never does it refer to all of them as gods nor as three persons in one God; rather,it points to the Father alone as the true God. The Son Himself emphasized that only the Father is the true God(John17:3,1)and that He Christ Himself is a man telling the truth which He received from God(John 8:40).The prophets also taught that we have only one Father who created us (Mal.2:10;Isa64:8).He alone is God, there is no other God and no one is like Him(Isa. 46:9).

One God, the Father – Iglesia Ni Cristo (Church Of Christ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「絶対」と「絶体(絶命)」…拝一神教では神にも不可能が存在している(~深津容伸氏)、絶対性は普遍性を含意する(~八木誠一氏)。メンタル問題から終末、聖書と死後生(来世)――

『死ぬ瞬間』の著者として有名である精神科医の故・エリザベス・キューブラー・ロス博士は、死へのプロセスを、(1)否認、(2)怒り、(3)取引、(4)抑うつ、(5)受容の5段階として示しました。(3)の取引というのは人格神観の信仰を前提としてこそ意味を持つと思います。しかし人間は最悪の場合、希望も持てない。前述の呼吸困難や激痛の例のような極限状態においては、本人が何かを思ったりする余裕などないのです。ただ痛くて苦しくてのたうつだけです。だから日常生活において神の言葉に養われ、信仰的環境の中に置かれていることが肝要です。救いか滅びか、天国か地獄かといったプラスかマイナスかの価値分別を超えて神の御手の中に身をまかせて生きる信心を決定させておくべきなのです。そのためには人格神観から創造的空観へと意識が変革される必要があります。これも脳内物質セロトニンの分泌と作用における他力の成果です。地獄に行くのは恐いからいやだ、救われて天国に行きたいなどといった執着がある限り真の平安は得られません。創造的空に覚するということはそういった価値判断…「意味-無意味」のこだわりからも手を離すということです。心理療法ではすくなくともロゴセラピーではなにごとも救えません。聖書が示す「救い」、私たちが信仰において求めるべき「救い」とは神の御意に服従する絶対的救いであって、人間の損得勘定の延長のような考えにもとづく相対的救いではないのです。だから聖書的信仰は「受容」であって「賭け」ではありません。パスカルの思想は浅薄だ。人間がいくらあがいてみたところで運命は変えられません。運命なるものがあるとしても、それを支配しておられるのは父なる神であり(「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。」〔詩編16:5〕 ※「運命」=「籤」〔岩波版訳〕)、その聖定であり、イザヤ書45章7節(岩波版翻訳)に、「〔わたしは〕光を造り、闇を創造する者、平安を作り、災いを創造する者。わたしはヤハウェ、これら総てを作る者』。」(口語訳:「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、/繁栄をつくり、またわざわいを創造する。/わたしは主である、/すべてこれらの事をなすものである。」)とあります。また、「わたしのほかに、神はいない。わたしは死に至らしめ、また生かす、わたしは撃ち、また癒す、誰も、わたしの手を逃れえない。」(岩波版訳申命記32章39節 )、「『この陶器師のように、わたしがお前たちに対してすることができないだろうか、イスラエルの家よ―ヤハウェの御告げ―。見よ、粘土が陶器師の手の中にあるように、お前たちもわたしの手の中にある、イスラエルの家よ。わたしが、一つの国民、一つの王国について、あるいは引き抜き、あるいは引き裂き、あるいは滅ぼすと語ったその時、もし、わたしが災いを告げたその国民が、悔い改めるならば、わたしはこれに降そうと思っていた災いを思い直す。」(岩波版訳エレミヤ書18章6~8節 )(口語訳:「イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災いを下そうとしたことを思いかえす。」)とあります。宗教改革者のマルティン・ルターは、「神に逆らって神へと逃れる」と言ったそうです(~北森嘉蔵著『聖書百話』)。ヨブは応報の神に逆らったのですが、彼がその試練から逃れる道は、やはり同じ神の、しかし人間の都合のよい考えにすぎない因果応報を超える絶対者としての神に向かう道しかなかったのです。ここで引用させていただきます。キリスト改革派稲毛海岸教会の三川牧師のメッセージです。「聖書は、『すべての命あるものは、御手の内にある』、つまり神さまの手、神さまの守りの中にあると語ります。ヨブ記12章10節です。思いもかけない不幸に出会ったヨブという人が、しかし自分の出会った不幸や災いも、みんな神さまの御手の中にある、神さまのご支配の中にあると語るのです。すべてを支配される神さまが、今日のわたしの問題と悩みをも支配し、導いてくださっている、小さな自分が、その大きな神さまの御手に包まれて、支えられていることを信じて、今日を始めていきましょう。 」(~<ふくいんのなみ>番組「あさのことば」2004年7月12日放送 )ここで、「思いもかけない不幸に出会ったヨブという人が、しかし自分の出会った不幸や災いも、みんな神さまの御手の内にある、神さまのご支配の中にあると語るのです。」といわれています。幸いや恵みだけではないのです。私たちにとっては都合の良いことも悪いこともすべて神さまの御手の中に起こるのです。そこから神の正義を論じる神義論という思弁も生じますが、結局、神の義は人間社会の正義と同じではなく、次元が違うのです。だから最終的には、ヨハネス・G・ヴォスという神学者が『ウェストミンスター大教理問答書講解』の中で述べているとおり、(ソクラテスの「無知の知」とそのパクリであろうクザーヌスの「知ある無知」ならぬ)聖なる「無知」を告白して聖定の神秘を受け入れる謙虚さが求められます。しかし神観が人格神観であるかぎり、これはどうしても無理強いの面が生じます。聖霊によって再生された理性でなら不条理も神義論なしに受け入れられることですが、真宗的には煩悩を抱える現実の衆生キリスト教的には弱き罪人ですから、そう簡単に教団に都合よく思考停止はできません。

「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p17~18)、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(同、p54)

だから自分は人格神観を八木誠一氏の場所論的神学のように働き・作用神観へと変えるしかないと言うのです(その場合、八木氏のように人格神観も排除はしません)。この世が終わるまでは神の主権の全権を御父からゆだねられた御子キリストです。最後の審判の結果はキリストにおまかせするしかありません。天国に入るための善行など、まさに五木氏も言われているとおり偽善にほかなりません。聖書の宗教の信仰は個人的ではなく共同体的であり、救済までもが個人的ではなく団体的などとも云われます。しかしどうでしょうか?たしかに神観が人格的存在ということになると個人的では自分に都合よいことばかりが神観に反映されるので、それこそ偶像的であり、フォイエルバッハの宗教批判が妥当することになるのでしょうが、さりとて共同的ならよいかと言えば、それって結局、個の信仰を抑圧するドグマティズムや律法主義に陥ることになり、組織化されてゆくと罪人の集まりですから内部で争いや比べ合いも生じるので、倫理面では偽善に陥ることにもなります。これまた一長一短というわけです。

「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著前掲書p93)

古代イスラエルでは、拝一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。」(~深津容伸氏の論文「全能の神」)ja (jst.go.jp)

上記の内容には異論がある。拝一神教だから神の全能性や絶対性を否定することにはならないからだ。要は、真に絶対なる神においては全能性は不可能性を包含し、絶対性は相対性を包含するのだ。

聖書には神を「絶対」であると書いた箇所は皆無だが、所謂、シェマーの箇所のように主なる神を「唯一」であると述べたところはあるので、「絶対」はその「唯一」ということから敷衍してのことであろうと解し得る。但し、旧約聖書申命記6章4節の「唯一」(エハード)の歴史的由来については、「唯一絶対」の「唯一」という意味ではない可能性がある(山我哲雄著『一神教の起源』⦅筑摩書房、2013年⦆参照)。一方で神学的には、「絶対」は「哲学的な表現」としてネガティブにみられる傾向もある(一例として、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』⦅新教出版社⦆p47参照)。

ちなみに、北森嘉蔵氏によると、「絶対性は相対性をも自己のうちに含むことによって、真に絶対性となる」(~『神と人間』〔現代文芸社〕p16)とのこと。また、北森氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と述べたうえで、古典的三一論において用いられた「神は母ではなく父であるとか、女性でなく男性であるとか、という相対的なかたちにおいてでなく、男性・女性、父・母という相対性を超越した絶対的なかたちで表現されるべきではなかろうか、という疑問も当然とりあげられるでありましょう。」と述べ、結論的には「以上のように反省してきますと、『父なる神が子なる神を生みたもうた』という古典的三一論の表現形式は、さまざまな矛盾を私たちに感じさせます。ここで、私たちはアウグスティヌスの有名な言葉」…「われわれが、神の父子関係について語るのは、『この表現が適切であるからではなくて、まったくそれを言表せずに置いてはならないからである』と。アウグスティヌスによれば、神に父とか子とかがあるというのは、それが適切だからそういう表現を用いるのではなく、そういう言葉ででも言わなければ沈黙するよりほかしかたがなくなるから止むをえずそういう表現を用いるのだ、と言うのであります。」云々と述べています(『神学入門』新教出版 p74~76)。そもそも北森氏のように「神」が「痛」むなどといったあまりに擬人的な表現を使用すること自体、「神が絶対者である」という「公理」に反することです。

私見では聖書における神の絶対性は客観的ではなく、拝一神教における拝一的絶対性として、あくまで一つの共同体の中での絶対であるから、(共同)主観的絶対である。絶対神観は排他的宗教の特徴として批判されることを考慮するなら、拝一神教的観点からも神の「絶対」性は「相対的絶対」性(という表現が誤解を招くなら)あるいは「主観的絶対」性であるということになる(この場合の「主観」は単なる主観ではなく「共同主観」)。「相対的絶対性」ということは後で引用する八木誠一氏の文言にもある。神の「絶対的絶対」性ないしは「客観的絶対」性は宗教間対立を生む独裁的神観として否定される時代なのだ。聖書において証しされているところの、予定および聖定の主としての神の絶対的主権によって相対化されるべきことは、メンタルヘルスにおいては、世間的価値観としてのいわゆる富や名誉や生産性などだけではなく、「運」というものが、きわめて普遍的で絶対的な意味を得ている。「運命」にせよ「運勢」にせよ、まさに古今東西、人格神に対抗する最強の偶像だ。これの良し悪しで人生が決まるかの如く信じ込んでいる人のなんと多いことか…?自分自身、その信じ込みから解放されねばならぬうちの一人である。その解放が、人間によって作られた絶対的なもの、すなわち「偶像」の相対化であり解体である。聖書の律法主義批判は現代社会において、絶対化されている偏った差別的価値観やイデオロギーの批判と重ねて読み取れる。

悪魔はイエスを最高の山に連れて行き、世の諸々の国と栄華とを示して言った、「汝もし平伏して我を拜せば、此等を皆なんぢに與へん」。これに対してイエスが言ったことは、「サタンよ、退け『主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事へ奉るべし』と録されたるなりということだった(マタイ4:8~10)。新改訳では「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」。「あなたの神を礼拝し」、「主にのみ仕え」るということは、われら信者は聖書が示す神のみをわが絶対主として信仰するということ。神を拝するというのは教会での礼拝だけを意味しない。聖書が示す絶対主(ヤハウェ)のみを崇拝するということ。悪魔が言ったこの世の栄華とは、世俗の魅力的で悪しきものを象徴し、テレビのバラエティー番組などが醸成させる支配的価値観すなわち絶対的な偽神(偶像)を意味するが、これに心を奪われず、これらを相対化し滅ぼし去らせるということ。特にメディアが人間の評価基準として絶対化している偏差値などを相対化するということ。それが宗教的価値観の固有性を示すことにもなる。

「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」こころの時代~自己相対化の大事な鍵~ - こころの時代 (fc2.com)

新約学者の荒井献氏も御自分の信仰する神について「(唯一)絶対」という言葉を用いておられる。以下、引用。

私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、エスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」

pdf_christ_140705.pdf (keisen.ac.jp)

客観的絶対ではなく、私(の立場を共有する共同体)にとって絶対だ…という意味は私の言うところの「共同主観的絶対」ということであって、そのような絶対なる神は、私が「拝一神教的神観」とか「実存的絶対神信仰」という場合の非実体的「神」に一致する。

私があることで寺園氏に質問した、その返答で言われている表現が、「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」ということでした。荒井献氏も『イエスとその時代』(岩波新書)において、「エスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ」云々と言っておられるので、その意味ではやはり神論が機能論に解消されているとか吸収されている感もあると言えるでしょう。

小田垣雅也氏は上記の荒井氏の文言について次のようにコメントしておられるが、ちょっとピントがはずれていると思います。

「荒井献教授によれば、聖書学的に言って、エスにとって神はもろもろの存在者を相対化する視座であったとされる。その視座を喪った時、人間は自分の理念で宗教性を神として立てる。エスにとって、神は人間のすべてを相対化すると共に、人間を根元的に支える存在の根拠であったと言う。そしてこのような神理解は、人格神としての神理解には盛り切れないように思われる。」(「哲学的神学と神」~山本和編『現代における神の問題』〔創文社〕p163~164)

小田垣氏は、荒井氏にとってのイエスの神を「もろもろの存在者を相対化する視座」として受けとめているが、荒井氏は、イエスにとっての「神」が「自己相対化の視座」だったと書いておられます。この違いは小さくないでしょう。但し、小田垣氏の視点・理解も重要であると思います。私にとって神の絶対性の意義は、自分自身を相対化する(…謙虚にする)はたらきと、それによって偶像化されている諸々の世間的価値を相対化するはたらきとは不可分だからです。自己卑下と言われるほどに無用なる自尊心や過度な承認欲求を弱体化させるはたらきこそが、無能者・劣者にとって対人関係のストレスを軽減させる。そのような神の絶対性の効用は自己相対化にとどまるものではなく、自分を束縛する世間の外的価値の偶像化された絶対性を相対化して実像に戻す意義があります。

高学歴でこの世的価値に富んでいる者は、自分を少々相対化したところでプライドを十分に保てるが、社会の底辺で侮辱されながらも地べたにはいつくばるようにして生きている者たちにとっては、自己相対化なんて自殺行為に値する。相対化されるべきは自分たちではなく、自分たちをバカにしているあいつらだ…あいつらの言い分だあ!ということになる。あいつらの言い分、それはまさに能力主義であり学歴主義である。自己相対化などは心に余裕ある上層インテリ階級者の好むところで、下層愚民大衆にとっては自殺行為であるとは言え、宗教的には、その自己相対化の「自己」にはそのような階級的ルサンチマン嫉妬視点を持って世の中を見ている「自己」も含まれ、自分で自分を洗脳やマイコンするかのようにネガティブなことを思い込んでいる「自己」も含まれていると思えば、その「自己」を自分が絶対化することによって自らを苦しめ悩ませているという現実の観方もあるわけで、自己相対化にいっさい意味は無いと言うこともできない。但し、単に自己相対化と言うのではなく、あくまで自分にとって否定的な自己を相対化するのである。すなわち自分の苦悩の原因を相対化するというより、苦悩している自分ごとを相対化するということ。要は絶対化されているものが苦悩の中身なのか?それとも苦悩している自分自身なのか?という話。前者については社会的に絶対視されている…例えば、対人関係における優劣の問題などは、心理学的、精神医学的に、気休めの対処法が言われていても実際には大した有効性を認め得ないように、対人関係における無用なプライドや過剰な承認欲求の然らしめる苦悩の絶対性は、社会において普遍的に共有されているだけに、自分が主観的にそれを相対化したところで自慰にとどまり、現実的な意義はなかなか生じてこない。だからそれよりもそういう問題に囚われてしまっている自分を相対化して、他の問題へ関心を向ける自分へと意識を転換する方がより現実的なのだ。それは問題から目をそむけて放置したまま他のことへの関心を持つという点では消極的だが、大きな興味対象を持つことによって小さな不安対象からのストレスを緩和するという方法とも言える。それは小手先の心理学的な気休め方法よりもよほど有効だと言える。但し心理療法の中でも認知行動療法では、認知(主観)における考え方の変更だけではなく行動(客観)における成功体験の積み重ねということがあるので、この療法は現実的であると言えます。

対人関係で言えば、例えば、とても魅力的な愛人との充実した関係・極楽を持つことによって、職場の同僚のような相手との怨憎会苦的関係・地獄を最小化することが可能だということ。愛人とまではいかずとも、同じ対人関係において、自分にとっての苦の関係に対して楽の関係をぶつけて(…というか囲み込んで…)弱毒化する方法があるということ。対人関係に対人関係をぶつけることが無理であれば、対人関係以外のものでもよいから、要は苦の世界を楽の世界で囲む込んで、少しでも無力化してゆくということ。

「現実世界(全体論の社会)は,神と直接的な関係の下では低 い価値を持つに過ぎないのである。つまり,ここには神との関係による個人と現世秩序のヒエラルキー化が見られ,世俗秩序は絶対的な価値に従属するものとして相対化され,ここに序列化された二分法が成立するのである。」 (~新矢昌昭氏の論文「個人主義 の『淋しさ』」佛教大学大学院紀要 第28号〔2000年3月〕)

佛教大學大學院紀要 28号(20000301) L165新矢昌昭「個人主義の「淋しさ」」.pdf (ddo.jp)

ところで、「絶対」は「普遍」とも不可分の関係にあるとするのが以下の八木誠一氏の論文。

「絶対性」は普遍性を含意する。だから(ある人の)キリスト教が絶対なら、それ以外のキリスト教、いわんや他宗教は誤謬で、すべての人が「絶対的」キリスト教に帰依するのが当然となる。(中略)よくキリスト教は「私にとっては」絶対だといわれる。(中略)普遍性を断念した絶対性の主張はもはや絶対性の主張ではなく、相対的絶対性のうちである。各人が自分の宗教を選ぶ権利を尊重しているまでだから、実質上は宗教的多元論と大差はないが、但し学問的な多元論者とは違って、当人が他宗教の根拠を立ち入って吟味しているとは限らない。>(シンポジウムでの発題「仏教とキリスト教の場合」)_pdf (jst.go.jp)

松本正夫氏は論文「絶対他者と絶対自己の理念的対決」で、「あえてキリスト教とはいわない」と前置きしたうえでではあるが、「キリスト教神学はその内容上プロティノスに始まる新プラトン主義から多くのものを受けついでいる・・・キリスト教神学がキリスト教から逸脱し、いわばグノーシス的汎神論的な観念論的異端にしばしば陥いる傾きが生じてくるのではないか」云々と述べておられる。

なお、「絶対者」は、「自らをことさらに作示する『汝』であるような客観的絶対者」と「おのずから露呈された限りでの『我』であるような主観的絶対者」とに区別される由。「絶対他者」も「絶対自己」も矛盾した言葉である。自他の区別を持つということは相手があるということであり「対」を「絶」っしてはいないからだ。

北森嘉蔵著『対話の神学』(教文館)によると、鈴木大拙氏の以下の指摘があるとのこと。

<「西洋的な」キリスト教が神と人間とを「対立」させることは、「相対立」するかぎり神を「相対的」なものにしてしまい、真の宗教的「絶対性」を逸すると同時に、二元対立の「分別知」へ傾かしめ、ひいては政治的な「分割統治」の植民地主義をさえ生むに至るとまで批判される。(鈴木大拙東洋文化の根底にあるもの』、朝日新聞、昭和三十三年十二月二十二日号)。

そこで関連して2つ、引用する。1つめは、旧約聖書学者の深津容伸氏の「キリスト教と日本人」という論文から。

「…日本の教育がキリスト教信仰を天皇信仰に置き換えて取り入れられていることを内村鑑三は批判しているのである。これは何も教育に限ったことではなく、明治憲法キリスト教の神を天皇に置き換えて制定されたため、以後天皇絶対神(古来から日本の神々に絶対神は存在しなかったのであるが)として信仰されるようになったのである。キリスト教信仰を省いてキリスト教文化を受け入れることを内村は欺瞞として批判しているわけであるが、これが今日に至るまで、日本人がキリスト教に接する傾向であるといえる。」(※濃字は私)

2つめは、東大教授を退官後、放大教授に就任され、哲学の生涯学習に大きな貢献をなさった渡邊二郎氏の『現代人のための哲学』(放送大学教育振興会)から。

「日本に西洋哲学が受け容れられ、またキリスト教が広まってゆくに従って、次第に、絶対者としての神の存在という観念が、人々の間に浸透し、人々に信仰心を呼び起こ」したと述べておられ(p240  ※濃字は私)、「西洋哲学が受け容れられ」たことに関してはともかく、すくなくとも「キリスト教が広まって」いったとしても実際に「絶対者としての神の存在という観念」を受容し得たその「人々」というのは、あくまでも一部の知識人に限られていたのではないかと私には思われる。いずれにしても渡邊教授は終わりの方で、「私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司どる絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。」と語り(p257)、最後は、「私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」と結んでおられる(p258 ※濃字は私)。

なお、どういう人物かはわからないが、宗教社会学者か何かだろうか…?定島尚子さんという人の論文「日本における社会意識としての神観念」では、< これまで哲学・神学・宗教学等の立場に基づき神観念は研究されてきた。それらの神観 念を抽出・類別すると以下の三種類に分けられる。第一に、 「自然神」(例:天体・気象現象等)。第二に、「人間神」(例:人格的神・機能・祖先神等)。第三に、「超越神」(例:キリスト教等の唯一絶対神)である。>と書かれてある。144255092.pdf (core.ac.uk)※「機能神」とありますが、そんな用語があるのか?このサイト主の造語ではないのか?と疑わしいですが、仮にそのような神観があるとすれば、寺園喜基氏の私への個人的な言葉である「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」という批判の対象に該当すると思われます。

神学者カール・バルトは「絶対他者」と訳されることを言ったようだし、宗教学でも神については「絶対(者)」と言われ、宗教哲学では「絶対有」とか「絶対無」といった言い方もなされる。いずれにせよ「絶対」なるものは「相対」なる人間とは隔絶して然りであるが、ここに「絶対他者」と「絶対自者」との区別を曖昧化するロジックもある。以下は、小田垣雅也氏の言葉。

<元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは「絶対他者なる神を信じる」などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。>(~『現代のキリスト教』)

まさに小田垣氏は「考え過ぎ」だと思う。そこまで考えたら却って「絶対他者」である「神」(のはたらき)を見失うことになる。その点で次の野呂芳男氏の人格主義的神学サイドからの批判は的を射ているだろう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。神が文字通りに一人格者(a person)であるとは思わないが、キリスト教の言うアガペーの神は人格的なもの(The person)であり、人格的象徴(symbols――ティリッヒの使う意味でのそれ)(10)によってでも表現しない限り、表現できないリアリティーキリスト者の神体験にはあるのではないか。やがて小田垣さんも神学の各論を、即ち、贖罪論や義認や聖化やキリスト者の生活を、あるいは、三位一体論を何らかの仕方で語らない訳には行かないであろうが、その折には、たとえ神を無、あるいは、絶対無で表現しようとも、その無あるいは絶対無の人間に対する愛・恵み・慰め・命令等について語らざるを得なくなろう。そういう信仰体験の事情を、我々は神が人格的であるという主張で意味しているに過ぎないのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)※(10) 「実存論的神学」167頁

野呂氏はこうして小田垣氏の思想を批判することを通して人格主義的神学者としての面目を躍如されているかのようであるが、野呂氏の方は神の「絶対」性を否定して神を相対化する愚を犯してしまった。

ちなみに「人格神」について、並木浩一氏は次のように説明している。

神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに「あなたは私たちの神です」と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。(中略)神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。「人称」はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに「神称」とは言いませんし、言っても意味がありません。>(『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』〔日本キリスト教団出版局〕p208)

八木誠一氏も言っておられるとおり「人格神」の「人格」とは比喩であり、上記のとおり「神自身の本質が人格であるということでは」ない。しかし聖書が示す「神」について語るには「人格」という比喩が実践的意味でも不可欠と言えるほど重要だという意味では「本質的」である。並木浩一氏によると、「人格神」を考える以上、どのように言い換えても、神と人との対話的な関係を想定する以上は、擬人神観を回避することは出来ないとのこと(~私信)。

「人間が求める神は真・善・美への憧れを十分に満たしてくれる究極的な存在者であって、絶対的なものではないのである。絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。(中略)哲学的に絶対とか無とかいう言葉で表現されているものは神ではなく、そこで神や人間やその他の存在が生きて、真・善・美を求めて苦闘する場であると、私は考えているのであるが、これは教会教父たちの贖罪論に見られる二元論に近い発想である。」(~野呂芳男著『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)

量義治氏の場合は、以上のような問題意識はなく、別の問題意識が示されていることは以下のとおり。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p292~293)

「神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは『神聖性』である、と。」(量義治著『宗教哲学入門』p109)

これは波多野氏の文章を引用している文脈の中にあるので、太字の部分だけ見ていたので、波多野氏の言葉かと思いきや、終わりの方に「波多野は言う」とあるとおり、量氏の言葉であった。

それはともかく、改革派教理における神の絶対的力(Potentia abosoluta)への信仰は先行的恩寵の現実認識を伴う。実際に神の恵みが先行しているからこそ、自分のような愚かな罪人にも信仰が与えられ聖霊が内住されたのだ。

以上のように、矢内原氏が強調するとおり、聖書が示す三一の「神」の特徴を「絶対」だと言うことについては、日本社会においては明治以来、神学的是非の議論は別にして、一般化されていたと言えよう。

 

相対性の中での唯一存在の選択は、小田垣雅也氏が重視した個別・特殊に徹して普遍・一般へ至る道であろう。想起するのは、「わけのほる ふもとの道は おほけれど おなじ高ねの 月をこそみれ」(一休宗純わけのほる(一休宗純): 和歌の世界 (jpn.org) という歌。登ってゆく麓の道は違っても、同じく高い山に登る月が見えるということで、いろんな宗教の中でキリスト教という一つの道を究めてゆけば、他の宗教においても見えてくる普遍的真理が見えてくるのではないかと思われる。しかしそのことを客観的事実として認めることは、荒井氏も採らないといわれる宗教多元主義のようなことになるので、自分の場合、拝一神教的信仰というのは自分にとっての道は対外的(・客観的)には相対的であっても対内的には唯一であるから、その特殊な道を通って見出される神も自分にとっては絶対なのだ。あくまで対内的(・主観的)にだが…。

ちなみに日本語では「絶対」と「絶体」とが間違われやすい。前者の英訳はabsolute.後者の英訳はdesperate. 絶体絶命な状況から救済し得るのは絶対他力である。絶対なるものは必然的に人格的になる。存在でなく働きであっても人心に作用する以上、同じ力であっても物理的力ではなく、希望とか励みとかいった活力…生きる力だから人格的ならざるを得ず。ついでに言えば、自分が「内住の聖霊」や「聖定」といった教理概念を受け容れながらも福音派ではなくリベラル派の側に足を置くのは、その教理的意味に制約されたくないからであり、実際に私的生活現実においては、聖霊のはたらきを感じても教理の定義からは逸脱する部分があるからだ。

私の神信仰における主たる問題は、対人関係における不安や恐れが日常的な苦しみなので、対神関係において心労軽減という救済願望への有効な作用が神の働きとして要請されるということ。ここで「対神関係」と「信仰」と「救済」との関係をまとめてみたい。そこで入り口として扱いたいのが量義治氏の妙な説で、それは、「信仰は認識論的事態(=意識の事柄)ではなく存在論的事態(=存在の事柄)」であるということ(『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』〔ネスコ/文藝春秋〕参照、『関根正雄記念 キリスト教講演集Ⅰ,Ⅱ』〔関根正雄記念キリスト教講演会準備会〕参照)。

量氏は、信仰は主観的には確実だが客観的には不確実な意識であり、知識は主観的にも客観的にも確実な意識であるといわれてもいる(『無信仰の信仰』p54)。

私見では、量義治氏は「信仰」と「(対)神関係」とを混同していると思われます。上記のとおり信仰がある種の意識であることは量氏自身認めておられます。人が神を信ずるということは意識を介するのです。だから当人の自覚なしに信仰の成立はありませんが、救いというのは当人の意識の問題ではなく、その自覚なしに神から霊魂に対して一方的な働きかけとして与えられる恩寵です。そしてその出来事を「救い」として反省し自覚するためには意識のはたらきが不可欠です。但し、現実には神が救っても、本人が救われたことを自覚も認識もしていない場合、その人には救いはまだ訪れておらず、神の救いの業は成就していない…などということは、客観的には言えません。もしそんなことが言えるなら、重度の意識障害の人などは救われないことになってしまいます。しかし神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのであり、たとえ外見的には岩石や丸太のようになった人からも神の民の成員が選ばれているのです。

キリストによる救いを信じることができるということが、すでに救われているということなのです!そこには論理的な矛盾があります。しかしこのようなロゴスの次元を抜けるパトスの次元にこそ道が開かれるのです。たしかに宗教体験を省察するための概念や論理すなわちロゴスは必要ですが、意識がその表層レベルにとどまったのでは宗教ではなく(宗教)哲学にすぎません。小田垣氏が、「人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。」と述べているとおりです(~説教「花吹雪と復活」)。

本題に入るが、対人関係においては少々のことは黙認しないといけないし、いちいち気に障る言葉が耳に入っても流すようにして、でき得るかぎり平穏無事に…、キリストの平和を第一に心がけて歩んでゆくしかない。対立関係の緊張した状況は自分のメンタルにとって自殺行為になると心せよ。そんな自分にとっての「神(との関係)」はおのずと「癒し」とか「励まし」乃至は「慈愛」といった人格的なものになる。それは自分にとって、唯一回限りの人生を実現させているこの生命の絶対性に対応する絶対なるもののはたらきでなければならない。そうなるとそれは生命の源・付与者のわざいうことになり、そこで創造神話が意味をなし、聖書の創世記の物語から示される創造主のみわざいうことになる。それは、そのためなら生命を捨てることができるというような…国家とか悠久の大義とか誇りとか…そのような実体なきものではないのだ。あくまでも聖書が示す父・子・聖霊の三一の主なる神以外にあり得ない。すなわち現実の死を超えて他を生かし自らも生き得る永遠の存在であって然り。そして聖書が示す神は、必ずしも絶対的でもなければ超絶的でもなく、実在性はあっても実体性は薄かったりする。例えば旧約聖書でも従来の文書資料仮説においては代表的とされるヤハウィスト資料での神観は、イエス受肉以前の受肉と言おうか…、アブラハムとサラの前に現れた「3人の客」の話のように、神の人間化といえる記事がある。

「このように、神が歩いてきて問いかけをする、というような光景は、『創世記』3章の失楽園以降は見られないが(中略)それでも、ヤハウィストの神は、人間に問いかけ、人間と会話を交わし、時には(老いたアブラハムとサラのところに、子供が生まれることを告げに来た3人の人のように(18:2-15)、人間の姿に身をやつして現われる。アブラハムは100歳、サラは90歳で、子供が生まれるという。その知らせを聞いて、『サラはひそかに笑った』。その後の会話は、超越的絶対神と人間の対話というには、あまりにも人間的である。(中略)そして、このような対話を交わした後でも、このように、(いわば主を侮辱するように)笑ったサラは特に罰せられもせず、サラは子供を恵まれるのである。(ヤハウィストの描く神は、一度約束したことは、必ず守る。特に、一度与えた祝福は、取り去ることがない。それだから、創世記に出てくる者たちは、神の祝福を得ることに何にも増して大きな意味を見るのである)。」(~本多峰子氏の論文「ヤハウィストの神 ― 旧約聖書のはじめの神観 ―]」)KJ00004509326.pdf

本多峰子さんによると、「ヤハウィストの描く世界は、かなり、異教的な要素がのこっており、それが必ずしも罪とみなされていない」とのこと(~上記論文)。

ところで、「絶対的な神」が用語として用いられるのはアンセルムスからであるというが(~小川圭治著『神をめぐる対話』〔新教出版社〕p62)、野呂芳男氏は「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを分けて「神」は前者だと言う(~「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於 立教大学チャぺル)。「絶対」は「相対」と「相対」するといった屁理屈(…それこそ哲学的思考)で「神」の「絶対」性を否定している。

「史上,絶対的な全知・全能の神がしばしば専制政治に利用され,民衆を弾圧する道具に使われてきたことを考えますと,多元が多元のままで,そこに愛による-時代によってその形が独創的に変化して造られる-調和形成を目指す多元論のほうが,キリスト教という愛の宗教には相応しいと思うのです。アウシュヴィッツなどの強制収容所におけるユダヤ人虐殺,中国などにおける日本軍による虐殺事件,広鳥や長埼への原爆投下,東京下町の大空襲などを体験した私たちにとっては,もしも神が全知であり全能であるならば,何故にそれらの出来事を阻止できなかったのか,分からないのです。」

歴史の表面だけを見たような観念的で神義論的動機によるものであるから、この野呂氏の「神」の「絶対」性の否定には説得力がない。下記の方がまだマシか…。

「絶対的なものという言葉は哲学的概念であって、相対的なものという概念と対になる。もしも神を絶対であると言うならば、その神は一存在(a being)ではあり得ない。なぜなら一存在は、他の諸存在と並んで存在するに過ぎない一つの相対的存在であるからである。したがって神を絶対的なものとすると、どうしてもその神は存在者ではなく、ティリッヒの言うように、諸存在を存在させるような存在の力、あるいは、そこからすべての存在するものが出てきて、またそこへ帰って行くような存在の根底とならざるを得ない。私のようなプラトンキリスト教の延長線上にある実存論的神学の立場から言うと、このような絶対としての神は無であり、不条理であるに過ぎないのである。」(~『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』(ぷねうま舎)p335)

神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~矢内原氏の論文「日本精神への反省」)

このように矢内原氏が本居宣長批判において「神の神たるに必要な本質」とした「絶対最高唯一」なる存在が、私立にとっても信仰に値する主なる存在であり、聖書が示す三一神である。その聖書が示す創造主なる「神」はその存在の「絶対最高唯一」(に加えて「超越」ないしは「包越」)性によって人の魂を平安にし霊を活かし救われるのであり、人間の肉的・物質的生活の都合に合わせて有限化され相対化された非聖書的で脆弱なる神観では、特に多神教で汎神論的な日本社会においては得体の知れない存在へと変容してしまう。実際、野呂氏にとっての「キリスト」は「他の宗教の神仏や――アニミズムを起源とする――天使たちや精霊や妖精たちと手を結んで」いると言われているが何をかいわんやであろう。とにかく、神の絶対性は存在そのものというより、その主権およびはたらきについて言われて然りだ。言わば、個別に絶対性を有する生命の、その本源としての絶対性である。人の実存的唯一絶対性が創造主の唯一絶対性を反映しているのだ。野呂芳男氏は「神」を前述のとおり「究極的なもの」(the Ultimate)と「絶対的なもの」(the Absolute)とに区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ないので、野呂氏は「究極的存在者」としての「神」を求めるのだというのだ。

「人間が求める神は真・善・美への憧れを十分に満たしてくれる究極的な存在者であって、絶対的なものではないのである。絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。(中略)哲学的に絶対とか無とかいう言葉で表現されているものは神ではなく、そこで神や人間やその他の存在が生きて、真・善・美を求めて苦闘する場であると、私は考えているのであるが、これは教会教父たちの贖罪論に見られる二元論に近い発想である。」(~『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)

私にとっては特に精神的な問題の解消としての救いのみわざは、御父から与えられた内なる聖霊のはたらきである。御父エホワとか御子イエスとかは擬人的にイメージされるので、関係の距離感ではあまり近くない方が良い(…美輪明宏氏の「腹六分」は対人関係だけでなく対神関係でも…)。三者の中では擬人的イメージが最も弱い御霊の方がちょうどよく、自分の内に宿るといわれるほどに近くても御霊なら気にならない。インマヌエルはまずもって聖霊なる神が前面に立つ三者との関係であると思いたい。自分の心の内に与えられている御霊のはたらきこそが、世間的価値という偶像の絶対性を相対化して真の絶対性を自覚させる。それは現実の苦悩から癒し励まし力づける人格的業であり、日常において体験される救いの出来事なのだ。

荒井献氏は『イエスの時代』(岩波新書)の中で次のように述べておられる。

エスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して「神の権威」に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。>(p185)※「機能」という点に関しては、私信における寺園喜基氏の次の言葉が思い出されます。「斎藤氏でいくと、神の存在・人格は機能論に解消されてしまうでしょう。しかし、両者は同時的でなくてはならないと思います。」・・・ここでの斎藤氏とは「三一論の研究」の斎藤仁作氏。私は特に、「三者はそれ自体において神なのではなく、他者への献身をとおして自己の存在と神性(アイデンティティ)を獲得しているのである。このように、父と子と聖霊とその統一は、神的な愛の具体化・形態化として理解されるのであり、その意味では三一論とは『神が愛である』ことの具体的で、より正確な言表にほかならない。」との斎藤氏のもの言いに疑問を感じて寺園氏に質問した、その返答で言われている表現が、「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」ということでした。荒井献氏も『イエスとその時代』(岩波新書)において上記のとおり、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ」云々と言っておられるので、その意味ではやはり神論が機能論に解消されているとか吸収されている感もあると言えるでしょう。

 

とにかく一神教的人格主義的実体論的神観は聖書的に通用しないということは、ヘブライ的思考が主体を独立人称代名詞ではなく動詞の人称語尾で示すことが多いことに反映された「はたらき、出来事」主義的思考ということもあるし、また、遍在という聖書的教理があることも…。そしてキリスト教の神といえば日本人の多くはその特徴として「絶対」よりも「愛」を想起するだろう。

「神は(無償の)愛」だけの存在だというような考えは、キリスト教について日本人が最も誤解している点です。

「愛の神はどのような贖い(賠償)をも要求されないで、罪人をゆるされるはずであるとか、そのひとり子を十字架につけなければ罪人をゆるすことをしない神は、苛酷にして復讐的な存在であるとかいう人々に対して、私たちはどのように反論したらよいのであるか。
まず第一に、私たちはそのような人々に、神は愛以外の何者でもないかのように、いわゆる『愛の神』又は『愛なる神』について語る権利はないということを思い起こさせねばならない。聖書の中に啓示されている神は愛の神であると共に義なる神でもある。愛というのは神の御性質の中の一面にすぎないのであってすべてではない。」(ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版部〕p254)

たしかに新約聖書には「神は愛なり」と、第一ヨハネ4章なんかに書いてはあります。神の一面を強調した言葉ですが、実に誤解されやすい言葉です。それって、「神はあなたがたを耐えられないような試練にあわせることはない」(第一コリント10:13)といった言葉と同様、不特定多数の読者に向けて言われているわけではありません。これまで人生の苦難を神の試練と受けとめて耐え抜いてきた信仰者に向けて言われているのです。

改革派神学者のベルクーワは、カール・バルトの神義論を次のように批判したという。

<結論としては、バルトは、神の義を正しく理解していないと言う。何故か。すると、バルトは、この罪の世界は、神の愛において、キリストにおいて、受け入れられているということで、この罪の世界を神の義と直面させないで、神の愛ばかりに直面させているからである。神の愛が神の義を支配、神の恵みが神の怒りを支配しているからである。>http://minoru.la.coocan.jp/berkouwerprovidence8.html

一般信徒がこの世の苦難とこの世の造り主である「神」との関係について疑問を感じた時、それは「神義」論的な問いと言うよりは「神愛」論的な問いではないかと思う。多くの信徒にとっては「神の義」よりも「神の愛」の方に関心があるからだ。聖書が示す「神」は「愛」であると言われ(ヨハネ一4:8他)、だからこそ「義」なる方であるよりも前に「愛」なるお方であるのだ。その愛なる「神」が造られた世界、支配しておられる世界に、なぜ、これほどまでの苦難が起きるのか・・・?それがどんなに切実な問題であっても、そしてそれに対していかなる答えが提示されようとも、人間救済中心主義は偶像崇拝になる。不毛な「神義論」ならぬ「神疑論」に陥らないために、私は理神論的要素を持つ聖定論が有効だと思う。

ちなみに佐藤優氏は次のように述べています。

「フロマートカは、よく言われる、旧約聖書の神は『裁きの神』で恐ろしいけれども新約聖書は『愛の神』で優しいというような見方を退けます。イエスは、律法を廃止するためではなく完成させるために、われわれの世界に現れた神です。新約聖書も『裁きの神』なのです。それですから、イエス・キリストの前に立つとき、キリスト教徒は恐れの感覚も持つのです。このことを多くの神学者は見逃していますが、フロマートカは、シモン(後のペトロ)が、イエスと出会ったときの物語から読みといています。」(~『神学の技法』〔平凡社p58

とにかく私は、「神」そのものよりもその「はたらき」に意識を向けるほうがよいかと一時的に思ったが、それはやはり逆順であり、神観第一の思いに変わりは無い。矢内原氏もどこかで述べておられた通り、神観は重要なのだ‼ 神学的思考の基盤とも言えるだろう。でも主体とその行動とは一体なので、神から与えられた「内在の御霊のはたらき」に意識を向けることによって対人関係におけるストレスに耐えて生きることが可能にはなる。だからといって大局的には「聖定」に重きを置く…という信仰ではやっぱりダメです。「聖霊」の働きに重きを置くのはよいが、創造主である御父への信仰が第一である。無論、聖霊のはたらきへの信仰も重要だ。

< 春名純人氏の論文だっただろうか。カギは「理性の再生」ということである。アダムの堕落にあって、人間の理性は死んでしまっている。人は聖霊によって理性を再生してしていただく必要がある。つまり、世には未再生の理性と再生した理性があるのである。対立しているのは理性と信仰ではなく、未再生の理性と再生した理性なのである。再生した理性はキリスト信仰によって再生したのであり、未再生の理性は自然主義とか無神論とか多神教など「異なる信仰」によって未再生の状態にある。

 この見解の根拠は聖書にある。

「十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。御霊を受けている人はすべてのことを判断します。」(1コリント2:14,15)

 文脈上、ここで「御霊に属すること」とは「十字架のことば」である。御霊によって再生した理性は「十字架のことば」を理解することができるが、再生していない理性は「十字架のことば」を理解することができないと聖書は教えている。>理性の再生 - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)

実践面では、キリスト者にとってこの世が仮の宿であると言っても、日本という国に限定されている意義がある以上、その固有性において「二つのJ」(ジャパンの頭文字のJともう一つの方のJは、自分にとっては内村とは違って、ジーザスの頭文字のJではなくジェホバの頭文字のJ)という現実的立場が生じる。

しかし究極的には、その絶対主権者なる神との関係においてこそ、この世の偶像的価値を相対化し得るのであり、それによって自由になり心労の重荷が軽くなる。ただ、いつもいつも擬人化される絶対神の視線を…対面を…意識するのもメンタルにはそれなりに負担になるから、御父や御子よりかは擬人的イメージではない御霊が前面になる方がよい。いずれにせよイエスさま中心主義的信仰が大の苦手なのだ。そういうキリスト教は御免こうむりたい立場なのだ。自分はそのイエスさま及び父なる神さまによって内に与えられた主の霊…御霊のはたらきに意識を集めたい。但し、例えば対人関係でのストレス苦の軽減作用を期待して「内なる御霊のはたらき」を求めたとしても、はたらかない時ははたらかないのであり、いろいろと方法に工夫や心がけはあろうけど、ダメな時はダメだから、そういう切り替えというか諦めを持つことも前向きに生きるには必要であり、そのためには「聖霊」信仰だけではなく「聖定」信仰も持たなければならない。これは森田療法における「物事本位/ともかく主義」と関係ある。相撲取りがインタヴューを受けてよく言う「目の前の一番一番をいっしょけんめい取る…」ということとも…。以下、ちょっと小田垣雅也氏の話を聞いてみよう。

<…思考依存型というのは、そこから脱したいという思考に捉われて、捉われるからかえってその思考に固着してしまう、という精神の状態である。それが思考依存である。その思考は、どうしてもそれから脱することはできない。思考すればするほど、それは思考として増殖する。それが妄想と言われる理由である。だからその思考を諦めて、行動する。そして「行動優先という点で思い出すのは、何と言っても有名な森田療法である」と蟻田氏はいう。森田正馬博士は思考依存型妄想病から脱することを「物事本位」と呼び、「気分本位ではなく、物事本位」をすすめていると蟻塚氏は言っている(同書、一二三頁)。森田療法ではそれを、「何も考えないで飛び込む」「恐怖突入」と言うそうである。そしてそれを実行するのは「ともかく主義」であると言う。「ともかく主義」とはこういうことである。少し長いが、再度引用してみよう。「心身の病的抑制(たとえば、思考するのはやめようという思考引用者)を打破して目前の行動に踏み切るには、『ともかく主義』が良いという。もしも不登校の子供がいたとする。で、朝起きたら何も考えずに、『ともかく顔を洗う』、『ともかく食事する』、『ともかく服を着る』、『ともかくカバンを背負う』、『ともかく靴をはいて家を出る』、家を出れば大抵、学校にも会社にも行けるもの」のよし。これはわたしにも経験がある。「問題は行動に移す以前の葛藤だから、そこを『ともかく、目前の課題に限定してひとつひとつこなす』ことによって乗り越えようというのが『ともかく主義』だそうだ。森田療法では、行動に移す以前の『もやもやした気分にひたる状態』を『気分本位』、逆に『ともかく』目前の課題をこなすことを『物事本位』と呼び、『気分本位でなく、物事本位をすすめている』」と言っている。わが家では、家内が仕事で遅くなることが時々あるが、そのようなとき、わたしは何かしていた方が、たとえば皿を洗うとか、米をといでおくとか、何もしないで徒らに待っているよりも楽だという精神状態を、発見したことがある。「ともかく」何かしていた方が、何もしないで待っているよりも楽なのである。これは「ともかく主義」の応用編であると言えるかもしれない。いまこの文章を書いているのにしてもそうである。「ともかく」書いてみる。また、わたしは散歩を毎日(雨が降らないかぎり)するが、これも身体のためというよりも(七十八才になって身体のためでもないだろう)、一日家に引き込んでいると、それだけでイライラしてくるからである。「ともかく」散歩に出る。これも「ともかく主義」の変形であろう。「うつの能力」というのは、森田療法の言葉を使えば、物事を「気分本位」に耐えていること、それには「高い精神の能力」が必要だということも含まれているだろうが、それよりも、それを「事物本位」に、「ともかく主義」に転換することを言うのだろうと思われる。イエスは「思い悩むな」(マタイ六章二五節以下)ということを言っているが、これは森田療法の「事物本位」、「ともかく主義」のことを言っているのではないか。とにかく「気分本位」「思考依存型妄想病」とは逆のことである。それが「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」ということの本意ではなかろうか。>(~みずき教会説教「うつになる能力」)※濃い字は私。

自分としては常に「内なる御霊のはたらき」を期待して、人間関係で嫌な思いをしても、敢えて謙虚になって、気にしない…気にしない…と自分に言い聞かせたりして、とにかく感情的にならないように、特に怒りが出ないように…と理性で抑えるようにしているけど、そういう制御がある程度利くうちは御霊のはたらきがあると言えるだろうから、そう思い込むのだけれど、そういう抑圧がある時マックスに至って爆発的に出ちゃわないとも限らないから、やはり「内なる御霊のはたらき」ばかりに意識を集めても、そうなったらなったで、神義論みたいな無用な思弁に陥ることなく神信仰を維持し得るには、やはり「内なる御霊のはたらき」よりもひとまわりもふたまわりも大きな観点で、「聖定」をも意識していないといけない。

「聖定と予定とのちがいは何か。―― 聖定とは創造された世界の中にすべて起こってくることに関する神の計画をいう。予定とは、天使と人間の永遠の運命に関する神の計画を指す。」(~『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』p59)※濃い字は私。

このように「聖定」は人間に関して「運命」を支配する事柄なのだ。

「神の聖定は異教宗教の『さだめ』『運命』『幸運』といった理念のような気まぐれ的決定と同視されるべきであろうか。―― 否、決してそうではない。神の聖定は気まぐれではない。何故ならば、それは神のみむねのよしとするところに従っているからである。神の聖定の背後には、無限の人格にいます神のみこころとみむねがある。したがって、聖定は『運命』『運』などとは断じてちがうのである。」(同上書p57)

もとより「聖定」と「運(命)」などを一緒にすることはあり得ないが、日本人キリスト者における聖書信仰的人生論においては、「聖定」と「運(命)」などとの異質性を踏まえつつも分離させずに考える必要はある。そこに自分の「聖定論的人生観」乃至は「聖定的人生論」が成立する。私の場合は教理主義で「聖定」にこだわっているわけではなく(従ってアルミニウスの所謂「条件予定説」も主観的には正しいと思う。ただ、神中心というタテマエ上、客観的には「二重予定説」を認めて然りで、そこは二重性の真理であって然りとする、神学的というより宗哲的立場)、あくまで人生観なり人生論として、この日本語が気に入っている。ちょうど五木寛之氏が「他力」という言葉を好み、それが必ずしも仏教教義として言うのではないと書いておられる(『人間の覚悟』)のと同様、私も「聖定」という日本語を好み、意味的にはキリスト教を前提としながらも、改革派神学用語(decretum、dcree)の和訳語としての教理的意味に限定せず、文芸創作などに人生観的意味で使用する。

たとえばダニエル書3:18の「たといそうでなくても」〔聖書協会口語訳。関根正雄訳(新訳)では「もしそうでなくても」〕(「ヘーン ラーア」:「ヘーン」は接続詞「もし、~かどうか」。「ラーア」は副詞「~ない」)という言葉も、「ウ・信・基」では聖定聖句に入っていないかも知れないが、自分はこれに入れる。というのは、神の人間に対する予定は人間には未知はあくまで未知であって、しかしそれが神による聖なる定めであるがゆえに、愛と義にもとづくものであると…、必ず肯定的・積極的な意義ある定めであると希望するのが信仰だから(…そこがネガティブな意味での「あきらめ」ではなく、ポジティブに明らかに見究めるという意味の「諦め」なのだ!)である。そうなると、「そうならない」可能性もおさえつつ…つまり必ずそうなると一方の可能性だけに限定せずそうならない場合を仮定して言うところにむしろ神の意志を自分にとって都合よくだけ受けとめる御利益信心的あるいは賭け事的な態度を否定する意味も生じて…「たといそうでなくても、もしそうでなくても」といった仮定的な言い方も(英語ではふつうEven if not)、聖定信仰的であると言い得るだろう。すくなくとも「聖(なる)定(め)」をテーマにした人生小説でのセリフなどには使える。

ちなみに仮定的な訳と言えば、詩篇23:4が、口語訳で「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも」とあるが(関根正雄の新訳も「たとえ」があるが)、それは「ガム キー」で「たとえ~しても」と訳されるからであり(~谷川政美著『旧約聖書ヘブライ語独習』〔キリスト新聞社〕p422)、そのような仮定的表現でなくても「ガム」を「~もまた」、「キー」を「時に」と、両方とも接続詞として訳す訳し方もある(ミルトスの対訳、新共同訳、岩波版松田訳など)。

なお、岩波版松田訳は「暗黒の谷を私が行くときも私は災いを畏れない」となっており、「恐れ」ではなく「畏れ」というのは疑問。

 

以下、参考引用。

キリスト者である医者が言った、『私が医学部に入って最初に教授に言ったことは〈医学は唯物論だ。人間を物質と思え〉であった、』と。人間の精神活動が物質の機能にすぎないとされ、人間の霊魂が否定されたとき、神が霊であることが理解できなくなった。従って、人間の人格性が否定されると同時に神の人格性も否定されてきた。その上、日本においては、汎神論的地盤の上で、人間や自然が神とされ、人間の欲望の反映としての偶像がおびただしく造られ、礼拝されている。この倒錯した精神状態で生が行われているのである。すなわち、神なき生の実験が世界到る所で行われているのである。人類の危機の根源はここにあるのである。このような状況の中で、神の言葉である聖書の言に人類はもう一度耳を傾けるべきである。聖書の言を信じ受けいれ、これを正しく理解しようとして苦闘したカルヴァンの神観を今日もう一度学んでみることも意義なしとはしないであろう。(中略)もし、カルヴァンの二重予定ということが正しいとするなら、敵対するものをすべて包む北森嘉蔵氏の『神の痛みの神学』は崩れるのではなかろうか。『神は如何にしても包むべからざるものを包み給ふが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給ふのである。』(同箸、昭和二二年版七頁)。『神の痛みは、絶対に受け容るべからざる者を敢えて受け容れるが故にこそ、神の痛みなのである。』(一一一頁)。『神の真実の怒を神の愛が負ひこれを克服するといふ事実こそ、神の痛みにほかならぬ。』(一三九頁)。『神の痛みは神の本質である』(四六頁)。北森氏が聖書の学びを通して、神理解について世界に大きな貢献をしていることを、積極的に認めるものであるが、同時にこの神学がもつ抽象性を見逃すわけにもいかないであろう。すなわち、神の痛みが神の本質とされ、包むべからざるものを包む神として規定され、これが神学の原理とされているのである。だが、実はここに大きな落し穴があるのではなかろうか。一つの神学的思考が原理とされるとき、それは抽象概念に転落するのである。創造主なる神を、相対的な人間の概念によって規定することはできない。聖書に示された神は、聖なる神として示され、その聖は汚れを焼きつくさなければおかない聖さである。(中略)聖なるものが汚れを包むということは聖書においては考えられない。(中略)異ったものを包む『神の痛み』の原理が人間の倫理に応用された場合、非常な混乱を生むのである。(中略)カルヴァンが聖書によって理解した神は、無から有を造り、罪悪と死に勝ちたもう絶対の主権者である。(中略)たとえ、人間の目に不条理に見えても、神は正しく、愛でありたもう。その神の前でただ讃美と感謝を捧げるのである。」(~『現代における神の問題』〔創文社〕所収、日本キリスト教会の平田正夫牧師による「聖定の神」。p77~96)

 

現実的に「最もたいせつなこと」(コリント第一15:3)は言い伝えのような外的な事柄ではなく、あくまで自分自身の心的状態(心境、境地)です。いかに福音と言われるものであっても、「キリストは聖書の示すとおりに私たちの罪のために死なれたこと・・・」といった未知未体験の出来事を耳にして、自分の心がどうなっているのかが最大の問題なのです。それが見聞きした時点では心に変化らしきものが生じなくても、時間が経って何かの出来事がきっかけになるなどして急激な変化を生じることはあるでしょう。いわゆるコンバージョンと呼ばれる体験です。そういうことはないうちは、いくらその言い伝えを受けても、それは当人にとって「福音」とはならないのです。パウロは福音が神の力であると言っていますが(ローマ1:16)、当人が生活上のさまざまな困難を乗り越えて生きるだけの力にはならないのです。このような考え方が神学的立場として認知される場合、これを主観主義であると評する声は多いはずです。近代神学がそのように言われ、現代のバルト神学が客観主義と評せられる旨は耳目にふれることもありますが、神学を体系的に学んではいない神学的雑学者にすぎない私の関知し得るところではありません。とにかく、使徒的宣教(ケーリュグマ)を見聞きしただけで聖霊体験で入信および救済といった瞬時的出来事が誰でも起こるわけでないことは言うまでもありません。やはり時間内であれ外(永遠)であれ、その時点でアオリスト的意味(…エペソ1:9「プロエセト」⦅「前もって定めておき」〔岩波版 保坂訳〕「プロティセーミ」〔前に置く、供える、決心する〕の中動態第2アオリスト直説法3人称単数⦆、1:11「プロオリスセンテス」⦅「前もって定められた」〔岩波版 保坂訳〕「プロオリゾー」〔前もって(限界を)定める、予定する〕の受動態第一アオリスト分詞男性複数主格⦆)で予め救いへの選びに定められている人でないと…。時間をかけて漸次的に回心体験してゆく…すなわちじんわりと心境が変化してゆく…というのが普通の考え方でしょう。いずれにしても客観主義神学は否定されなければなりません。すなわち体験的出来事を軽視して、聖書にこう書いてあるからこうなるんだと決めつけるやり方が歴史的背景などの情況を捨象している(抽象している)がゆえに非現実的なのです。例えば「敵を愛せ」とイエスが言った場合(そもそもイエスはそういう「愛」を語っていないとの田川説のような見方もある→「イエスが語った「敵への愛」とは、 普遍妥当的真理・絶対的真理ではなく、 逆説的反抗として語られた時にのみはじめて意味を持つ」〔『イエスという男』p43~44〕)その「敵」については当時のイエスと弟子たちにとっての迫害者のような具体的な存在がいて、そういう相手に対する一つの対処の仕方…方法として言われているわけで、そういう事情を抜きに単に現代社会の人間観で敵とみなされる様々な相手を代入して、どんな人に対しても愛情を持てと命じているかのように解釈したところで、そんなこと無理に決まっています。それでも救われた者なら出来るはず…ということで無茶な実行を自らに課して試みて傷つく者もいるわけで、そういう客観主義は否定されて然りなのです。だからといって主観主義神学が肯定されるべきだとも言えませんが、主客を超えたことを言い出すとこれは神学の域を出て宗教哲学の領域に入り、そうなると自分の場合は八木誠一氏の思想に傾倒してゆきます。

時折、終末期の…言わば個別的限界状況における最終的・究極的な自分自身にとっての支えとは何か?という問いが脳裏をよぎる年齢になりましたが、その場合は末期がんになって抗がん剤治療とかの苦しい日々を送る自分を想像してみるのです。そうすると現在、支えのようにしている思想などは吹っ飛びます。論理的に思索する余裕などは失われてきます。自分の人生神学的に言えば、形而上学的思弁的な事柄…三一神論などは吹っ飛び、救いのはたらきの現実性に関心が集まるのです。端的に言って「神」は感覚的対象ではないので、その点では「(居)無い」のですが、人によっては何らかの感じはあるのです。その感じは感覚器官のそれではないことは言うまでもありません。そしてその霊感とでもいうべき感じによって、ある人々の主観においては神が「有る」からこそ宗教現象もあるわけです。従って神は「無」と「有」との二重性において「相対無」ではないという意味で「絶対無」と云われますが、「無」は「無」なのでどうしても「有」の反対のように思われるので、これは「空」と呼ぶ方がいいでしょう。しかも創造者に比喩されるという意味で「創造的空」という八木誠一氏の命名もわかります。ただしこれは実体ではなくはたらきとしてイメージされなければなりません。しかも創造的、人格的なはたらきです。絶対的なはたらきはおのずと人を生かす人格的な関係としてイメージされます。

さて、そのような救済論的関心においては、「聖霊の内住」などは限界があります。なぜならその内住の聖霊のはたらきによって治療の苦しみや死への恐怖への忍耐とかいった問題は解消されないからです。体力がどんどん弱くなって忍耐するにもできなくなるからです。体力があるうちは一定の忍耐は可能だし、そのために聖霊の力による作用を感じ得るでしょうが、食欲もなくなって体力が激減してくれば、もはや死へ向かう時の流れに身をまかせるしかありません。残る希望はそこに聖意を信じ、できるだけ苦しまずに逝けることを念願することです。スケール的に見ても、「内住の聖霊」を超えるのは「聖定」です。なぜなら自分の心に負担をかけ苦しめるもう一人の自分(自我)というはたらきもまた「聖定」の内ということになるからです。善悪二元論は通用しません。「内住の聖霊」の教理では、その聖霊はあくまでも善霊であって、悪霊のはたらきに相対するものであることはイエスの言葉に明らかです。もっとも悪霊はイエス支配下にはあるのですが…(ルカ10:17~20他参照)。イエスを荒野で誘惑したサタンもまた聖定の内に位置ずけられているわけです。だから、終末期的教理的には「聖定」しか脳裏には浮かべ得ません。すべてを主にゆだねるのみなのですから…。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

聖定をどう信じるか…ということは神学的教理によって制約されるべきことではなく、聖書を踏まえつつ自分の人生経験から実存的に考えるべきことです。なぜなら教理というのは所詮、演繹であり情況捨象だからです。例えばウエストミンスター信仰基準もその時代的制約を免れ得ておらず、その部分は後世の有志が適宜、修正する必要があるのです。そもそも信仰の規準・基準というものも抽象です。個々人の事情がすっぽりと抜け落ちたメルクマールにすぎません。目標それ自体ではないのです。ただしそれが聖書釈義の客観的な指標となって説教に一定の制約をかけ、内容が説教者の主観的ないしは恣意的になることを防ぐのです。それは便利な反面、用い方を間違うと教条主義的になっておかしなことになります。だから予定説も、主観的・実存的には条件付き選びの方が二重予定説より正しいと言えるのです。しかし客観的・教理的には二重予定説の方が立てられなければなりません。なぜなら本来は神中心だから、二重予定説に方が条件予定説よりも論理的には神中心的だと言えるからです。その点で自分の在籍教派は改革派にはなりますが、その信条とすべて一致していないといけないわけではないでしょう。

自分も「聖定」に関しては人間の自由意志の条件を付けるべき面があってこそ現実的だと思うので、アルミニウス主義に関心はある(アルミニウスという人物自身の考えと違いがあるとしてもそこは気にならない。カルヴィニズムもカルヴァン本人の考えと合致するかわからないし…)。

以下、 引用。特に濃い字のところを重視。

アルミニウスの死後,彼を支持する人々が,彼の予定論に対する見解を5条項の抗議書にまとめた(このため彼らはレモンストラント派〔抗議派〕と呼ばれるようになった).(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,神の恵みを離れて善を行う力はない.(2)神は誰が信じるか,誰が信じないかをあらかじめ知っており,その予知によって人を救いに予定している.(3)誰でも悔い改めて信じるなら,救われることができるように,キリストの贖いはすべての人を対象としている.(4)恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない.(5)信仰者であっても,恵みの働きかけにあえて耳を閉すことによって,救われた状態から転落することもあり得る.救いはキリストにあって耐え忍ぶ者に保証される.<復> もちろん,ここで問題になっているのは,単なる予定論に関する解釈の相違ではない.神の主権や恵みが人間の自由意志とどのようにかみ合っているのかという,神学全体に影響する大きなテーマが,論争の根底にある.アルミニウスは,われわれが意志を働かせて努力すれば神のもとに上っていくことができる,とペラギウスのように考えたわけではない.アルミニウスにとって神の恵みは,人間の努力を助ける道具でも薬でもなく,救いの本質である.主権者なる神が愛をもって人間をあわれみ,行動を起さない限り,人間の側に救われる望みはない.人が神の前に義とされ,また義人として歩んでいく時,そこには人的功績のかけらもない.すべてはキリストが獲得して下さった功績によるのであり,同時に,人が自らを施しを受ける者の空の器のごとくに思い,その恩恵を受け取る信仰によるのである.この点において,アルミニウスはカルヴィニストのごとく生き,そして死んだと言えよう.<復> だが,彼は,「神の恵み」の質量を保持するために,人的働きの意義を極限にまで減少させなければならない,とは考えなかった.また,創造者である神の主権が人間との関係において絶対的・不可抗力的な形で行使されなければ主権の意義がないがしろにされるとも考えなかった.確かに,アルミニウスによれば,救いも信仰も人間の功績とは無関係に,キリストの恵みのゆえに与えられる神の賜物である.しかし,その信仰は人が自分で受けて,それを働かせなければ意味はないと言う.先行していく恵みに対して,付いて行くのかそれとも拒むのか,また神の一方的な愛に対して,どのような態度をとり,どのように反応するのかは,人間の責任領域にあると言う.愛や礼拝の世界では,自発的に参加することは,強制的に中に引き込まれるよりはるかにすばらしいという道徳的な原則を,神の主権は否定しない.<復> プロテスタント神学にこうした問題提起がなされたのは,アルミニウスが最初で最後なのではない.ルター派の中でのメランヒトン,英国宗教改革の中でのラティマー,福音リバイバルの中でのウェスリ(ウェスレー),新正統主義の中でのブルンナー,それぞれが,キリストと神の恵みの絶対性を保持しつつも,極端な人力卑下の傾向と格闘してきた.そうした神学の中には,いつもアルミニウスの面影を見ることができる.<復> さて,アルミニアン論争の嵐は,オランダ全土に広がり,政情を揺がすまでに発展していた.そこでドルトに宗教会議が召集され,1618年から翌年にかけての会議に,102名のオランダの保守的カルヴァン主義者と28名の諸外国からの代表が出席したが,いわゆるアルミニウス主義者はわずか13名の出席が許されただけであった.すでにアルミニウス主義者は,教会と国家が信仰表現のある程度の相違を寛容に受け入れるべきであるとの主張のゆえに,反逆罪に定められており,発言も投票も許されないままであった.ドルト会議は,レモンストラント派の5条項をすべて否定する形で,TULIPとして知られる「カルヴィニズムの5特質」を正統的見解として承認し,ドルト信仰規準を定めた.すなわち,(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,自らの意志で神に仕えることを選び取れない(T_otal depravity—全的堕落),(2)神は,無条件に特定の人間を救いに,特定の人間を破滅に選んでいる(U_nconditional election—無条件的選び),(3)キリストの贖いは,救いに選ばれた者だけのためにある(L_imited atonement—制限的贖罪),(4)予定された人間は,神の恵みを拒否することができない(I_rresistible grace—不可抗的恩恵),(5)いったん予定された人間は,最後まで堅く立って耐え忍び,必ず救われる(Perseverance of the saints—聖徒の堅忍).この五つが,ベルギー信条(1561年)やハイデルベルク教理問答(1563年)とともにオランダ改革派の正統主義の標準となった.<復> 会議後,アルミニウス主義は異端であると弾劾され,H・グローティウス(国際法の父として知られる)などは投獄されるに至った.1625年までは,迫害の波は緩和されたものの,アルミニウス主義はオランダで勢力を伸すことはできなかった.しかし,その影響は外に向かって広がり,17世紀英国では,ロード派の反カルヴァン主義運動に神学的な支援を提供した. >《じっくり解説》アルミニウス主義とは? | Word of Life ワードオブライフ

自分にとっては「聖定」そのものが恵みであるから、その先行する恵みに応えて、自分に定められたことがより良いようにと健闘することが実際の「聖定信仰」だと言える。ただし、その健闘においてどうしても「ブラッシュアップライフ」で描かれているような「徳を積む」という自力作善の動機が生じてくることもまた人の現実である。現在の苦痛なる人間関係が死後にまで続くような恐怖感があるから現在の人間関係にとらわれてしまう。それは文脈的状況はまったく違うが、結局「神のことを思わず人のことを思っている」(マルコ8:33 / マタイ16:23 )ということであり…、なぜならつねに神の絶対主権への信頼をもって生活し、対人関係においても神信頼によって意識しておれば、そうした「恐れ」など生じず、むしろ友愛の希望へ志向するはずだから…。しかしそうなっていない者があえて神の絶対主権信仰による人生問題での相対化…などということを自覚的に言わなければならないのだ。

これについては太宰治氏の『トカトントン』の終りに出てくる 「人を恐れず神を(畏れて)恐れよ」(マタイ10:28 / ルカ12:4 ※マタイでは「魂を殺すことのできない者たち」とあるのがルカでは「それ以上なにごともできない者たち」となっている。)を想起することになる。

ところで五木寛之氏は『人間の覚悟』(新潮社)の中で、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると…、そして、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」と述べておられます。

また、「『結局、最後のところは、やはり<他力>ということなんだろう』と(中略)あれこれ考えるのですが、やはりいきつくところはこの、他力、というその一点なのです。」(五木寛之著『他力』より)

まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。真宗の「本願他力」および「自然法爾」に通じる境地か…。

自分は生きるうえで神信仰を要する。なぜなら精神安定のために「絶対」なるものを要するからである。それは矢内原忠雄氏の「贖罪の信仰はキリストの神性を要求し、キリストの神性は三位一体の神観を必要とする。三一神観をして単一神観に対し勝利を得しめたるものは、人の側に於いては贖罪信仰の実際的要請である。併しながら三一神観は人の要請によつて造り出された神観ではなく、神の本質に関する神御自身の啓示に基く神観である。」だとか、有賀鐵太郎氏の(コーヘレトの神は)「自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である(中略)かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」(『キリスト教思想における存在論の問題』の「コーヘレト哲学」)といった文章などを見れば、自分の場合もカント的「要請」の主観的応用と言えるだろう。つまり精神的な問題を主題とする信仰生活の実践においては、重荷となるさまざまな偶像を相対化するための神の主権の絶対性が要請される…といったかたちにおいてである。そこまでまず相対化されねばならないものが自分自身である。自分が謙虚にされること、卑下とまでは言わずとも腰が低くなるというか頭が下がるようになるというか…要するに無用なプライドを捨て、過ぎた承認欲求から自由になれる状態になることが解決の早道である。他人を変える前に自分を変えなければならない。他人は変わらなくても自分は変わらなくてはならない。そのためには主観的にであれ、自分に心労を負わせる諸々の勢力を無力化しなければならない。それが神の絶対主権による相対化の意味である。ある意味、神を自分の問題解決のために利用することになる…との批判もあるだろう。実存的信仰というのは結局のところ神中心に徹することではなく人中心…自己中心になるのだ。これについては判断停止。まさに考えてみたってどうしようもないこと。とにかく救われる方向に歩むしかない。これもまた聖定の中での生き方であり、自分としては救いを求めつつ、やれることをやるだけやって、結果は主にゆだねるしかない。

「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」(~アドラー)と云われるように、自分にとって最もそこから救われたい状態とは対人関係のストレス地獄であり、そのために有効な方法とは自分が他者との優劣比較の基準として絶対的に思い込まされているもの(…それを「偶像」と呼ぶ)を相対化することによって無力化することだからだ。だから私が最も好きな日本語の言葉は「絶対」である。

神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」(北森嘉蔵著『神学入門』p74)

しかし「絶対」は聖書用語ではない。ただし、「三位一体」と同様、そのままでは書かれていないが、その概念は明示されていると言えよう。神論的にも、神の絶対主権ということは実力的・直接的に実現されるわけではなく、まずその絶対性のもとで自分自身が相対かされる…謙虚にされる(…無用なプライド、過剰な承認欲求…の放棄)というイエスのケノーシスにつながる謙卑の心境を経るという…否定媒介的に実現される。それは例えば、職場での人間関係におけるストレス地獄からの救いという主題で言えば、老後の暮らしに向けて厳しい経済環境の中で生計を立ててゆくために現在の職を維持するための忍耐なども含めて、イエスのケノーシスに倣う実践としての自己謙卑の境地になるための「内在の御霊のはたらき」を希求することになる。そこでその「はたらき」の実力が発揮されるかどうかは、「それにしても…」とか「いくらなんでも」といった思いの処理にかかっている。謙虚になるべきことはわかるし、実際、ある程度は考えだけではなく実際に謙虚になれた。しかしそれにしてもあいつに対してなぜそこまでへりくだらなければならないのか…?いくらなんでもあんな無教養で下品な人間に対しては謙虚になる必要はないだろう…。といった例外的な対象が存在するからだ。そのような相手を、愛するとまではいかずとも敵対しないためには、それ相応の対応が必要になってくる。これは自我のプライドやら承認欲求やらの抑圧だけでは済まない問題であって、それこそ、とても自力ではなし得ないと実感させられる。ここが変わってこないと自分は内住の聖霊なる神の大いなるみわざを見ることにはならない。

但しそういう「聖霊・御霊」(「御霊」の方は神道用語でもあるので「神」などと同様、単独では使えない!)とか「聖定」とかいった宗教用語は第二義的なものであって変化し得るものだ。第一義的には「絶対/相対」といった哲学用語で示される。自分の経験に戻るたびに自覚的にはどうしてもそのような表現になる。そこからさらにキリスト教という文脈の中では…ということで「神」とか「聖霊・御霊」とか「聖定」とかの表現になってくる。とにかくその「(聖書が示す三一の)神」とか「(内在・内住の)聖霊・御霊」といった神話的物語や表現によって自覚される体験を日々の暮らしの中で、小さくても積み重ねてゆくことが人生の最終的な救済の確信になるのだが、自分にとってはそのような道場としての機能が教会には求められるものの、そのような教会はなかなか見出し得るものではない。所謂ペンテコステ・カリスマ派の門をたたいても他の問題も生じて進展はない(そもそもフルゴスペル別府教会が賛美礼拝でクラスターやらかしたように、霊的活力と言っても個人レベルであれ霊肉不離だから保健衛生のような生命に関わることに優先されるべきことではない)。そこは「聖霊の内住」信仰以前に「聖定」信仰を理性的に働かせて受けとめる必要もある。「聖定」のおもな効用は所謂「神義論」的問いの無用化である。

 

社会的には確かに…例えば自分がNHKあたりのドキュメンタリー番組で取材されその生活が放送される場合のことを他の放送される人々のことを参考にして想像すればわかるが…まずは職業とか学歴といった外的な面がクローズアップされる。そこが自分の人となりを伝える窓口となるからだ。内面的なことは二の次だ。あくまで第一次の外的なことが前提されてのことになる。そうなると自分の場合、元は牧師のフリーターみたいな感じになる。そうすると立場的にもクリスチャンということであれば、「聖霊内住」であれ「聖定」であれ何の教理信仰を重んじているにせよ、実践面がクローズアップされることに変わりはない。メディア的には、何を信じているという内的なことよりそれによって何をしているのかという外的なことに関心が集まるからだ。それがボランティアのような倫理的なものか創作のような趣味的なものか…といった違いはともかく、何か客観性ある形になっていかないと社会性が出ないので番組としての体をなさないかの如くだ。それで自分の場合、「聖霊内住」の信仰に重きを置いてそれによってなし得る何らかの倫理的実践を確立するか、あるいは「聖定」の信仰に重きを置くなら趣味的実践…というか実践にとらわれず、創作の方を淡々とやってゆくか、ということになる。「聖霊内住」の倫理的実践を志向する以上、当然、教会という場がそうであることを求めることになる。教会が聖霊信仰を重視しないと、そのような環境が自分にとって信仰生活の場になるのかと疑問にとらわれる。「聖定」に重きを置くコースなら、教会については道場的機能は求めず、「聖定」教理の共有という点に重きを置いて日本キリスト改革派教会とする(…定年後の転居先予定地との関係もある)。なにせ「聖定」は聖書用語ではなく、一般的なキリスト教の神学用語でもなく、あくまで改革派神学に特殊な、カルヴィニストの造語なのだから…。改革派神学の神論においては、その主権の絶対性が強調される。そして説教も信仰基準(ウ信基)によって規定され、牧師の恣意的な語りには(原理的には)ならないはずだ。この点はアルミニアン・ウェスレアン系の福音派諸派よりも徹底しているという点で積極的な入会動機になる。そして上記の自己(相対化ではなく)謙卑化して自分をラクにするためにも、自分にとって「神」の絶対性は重要であるが、世間で絶対化されている価値(偶像)の無力化としての相対化の方法は、苦悩・心労の軽減に友好的とは言え、死への恐れの苦悩には限界がある。死も生と同じく絶対だから…。その点ではやはり人生神学の中心テーマのスケールとしては「聖定」に如くはないのだ。そして前述の「絶対(性)」は、必ずしも矢内原忠雄氏が本居宣長批判において「神」の要件とした「絶対」ということにつながるかどうかはわからない。と言うのは、聖書において「神」の属性を表わす用語としては「唯一」はあっても「絶対」は無いし、その「唯一」の意味は「唯一絶対」というように「絶対」と不可分のそれとは限らず、すくなくともギリシャ存在論的意味ではなく、ヘブライ的実存(論)的意味乃至は拝一神教的意味であるとみて然りだからだ。ただし、例えば1937(昭和12)年5月31日に文部省が第一刷を発行した「国体の本義」では、「二、聖徳」で天皇を「現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」云々とわざわざ断っているとおり、日本の世間一般では、キリスト教のGodは「絶対神」であると認知されてきている。

以下は、スピノザ研究の哲学者で東京工業大学教授だという國分功一郎氏の言、

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている。ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』といいます(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。」

ここでは「絶対」が「無限」と密接な関係があることが示されている。ただ、スピノザ的汎神論が神の絶対性を示し得ていると言えるのか?あるいは汎神論ではなく汎(内)在神論までいかないと神の絶対性を示すことにならないのではないか…?といった疑問が残る。バルト後の現代神学においては神の絶対性は否定的に見られているようだ。

小川圭治氏は以下のように述べている。

<バルトが『教会教義学』第Ⅳ巻の『和解論』のキリスト論で提示しようとしたのは、このような絶対主義的一神論の神を突破して、近代主義思考の枠を越えた新しい神概念の神学的叙述なのである。ここに提示されたイエス・キリストの出来事において人間との和解を実現した神は、あの近代絶対主義の神が抽象的、排他的な超越者として人間と世界から超脱するのとは反対に、本来人間と世界を超越した「高み」にある神自身が、その高みの座を棄てて自らを卑下し(Erniedrigen)、人間と世界の直中に到来し(Kommen)、地上に歴史的出来事として現れ(Erscheinen)、人間となる(Werden)神である。E・ユンゲルは、このような新しい神の現実を「神の存在は生成においてある」というテーゼにまとめた。(中略)このような神概念は、バルトが一九五〇年代に「転向」して、それまでの排他的絶対性の神に代わるものとして、新しく構想した人間性あふれる神概念だというのではない。すでに『教会教義学』(Ⅱ/1)の『神論』(一九三九年)において、神の「自存性」(Aseiat)とは、「人間を愛するという、神の自由な一方的決断にある」といったときに、和解の主導権を持つ神が登場していたのである。この一九三〇年代の神論においてはっきり示されているように、この神はインマヌエル(神、われわれと共に)の神なのである(マタイ福音書一・二三)。(中略)「キリスト教は一神論である」という俗流の通念に重大な保留を付けなければならない。むしろキリスト教の神観念は、三一論的一神論であって、排他的、絶対主義的一神論とはまったく対極に位置するものなのである。(中略)J・モルトマンは、あの抽象的、排他的、非歴史的、非現実的な一神論的絶対主義の神の根本的性格を、「非受苦性原理」(略)、「受苦不能性」(略)などの用語で表した。このモルトマンの論述の背景には、彼は公然とは述べないが、明らかにバルトの『和解論』における「死ぬことができる神」、「受苦可能な神」についての、はるかに周到で精細な論述があることを忘れてはならない。この和解論の神は、派遣されて人間となったからこそ死ぬことができる神であり、苦悩、苦痛を共にする「同伴者」として、人間と共に歩むことができる神なのである。この神こそが、近代主義的内在化の神の一神論的絶対性を根本的に突破する、今日の新しい神なのである。>(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』〔新教出版社〕p69~70)

 

経済学にマクロとミクロとがあるように、人生論にもマクロとミクロとがあって、自分の場合はマクロが聖定論、ミクロがメンタルヘルス論である。このブログはその両方によって構成されている。はじめの方はマクロ、後はミクロだ。

聖定教理の積極的運用…聖定論的人生観…聖定を肯定的意味で受けとめる…という作業を展開すべし‼

「ケ・セラ・セラ」が「成るように成るさ」という意味なのかどうかは定かではないが、それはともかく、仏教的にも「因縁に運ばれて在る 成るように成る」(慶泉)という色紙がTwitterに出ている。

https://twitter.com/PgPyQb9700rrBCg/status/1624343789174419456

もちろんそれは聖書的考えとは異なるわけだし、クリスチャンの場合、「成る」となればすぐにルカ福音書22:42「父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御意の成らんことを願ふ」

 λέγων πάτερ εἰ βούλει παρένεγκε τοῦτο 

τὸ ποτήριον ἀπ᾽ ἐμοῦ πλὴν μὴ 

τὸ θέλημά μου ἀλλὰ τὸ σὸν γινέσθω.

(1) 言うのには/(2) 父よ/(4) なら/(3) 御心である/(9) 取り去って下さい/(5) この/(6)杯を/(8) から/(7) 私/(10) しかし/(13) なく/(12) 意志では/(11) 私の/(14) ただ/(15) あなたの(意志が)/(16) なるように

という主イエスの祈りを想起するが(上記のとおり、「御心・御意」はルカ22:42と同じく「セレーマ」、「御旨」はマタイの「主の祈り」にはなく「ブーロマイ」(~しようと思う、意図する、決意する、計画する…)の2単現の「ブーレイ」、「成るように」は「ギノマイ」(生じる、成る、ある、起こる、行われる…)の3単現命の「ギネスソー」である。「主の祈り」の「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」の「なる」( it is )「なさせ」る(be done)という語だが、御意の天のごとく地にも行はれん事を」(マタイ6:10)

 ἐλθέτω  βασιλεία σου γενηθήτω

 τὸ θέλημά σου ὡς ἐν οὐρανῷ 

καὶ ἐπὶ γῆς.

(3) 来ますように/(2) 国が/(1) あなたの/(6) 行われますように/(5) 意志が/(4) あなたの/(9) ように/(8) おける/(7) 天に/(12) も/(11) に/(10) 地

「行われるように」は「ギノマイ」の3単過命受の「ゲネーセートー」。「過」=「第一不定過去=第一アオリスト」。これを完了形の done で訳し、しかも受動態なので、be +過去分詞形の done 。

要は大いなる他力のはたらきの中で自由意志を行使してゆくということ…つねに自力の限界を感じながら自助努力してゆくということだろう。積極的な意味でのおまかせ主義とでも言おうか…、そのおまかせする対象が相対者の人間ではなく絶対者の神であるという点が重要。自分の人生が未決ではなく既決であるということを自覚することによって、無用な思い煩いから解放される。さりとてその聖定の海の中では止まったら溺れることは間違いないのでとにかく泳ぐしかない。その泳ぎもまた既決ではあるが、その時その時、ただ懸命に泳ぐのである。これが決定の中での自由…、既決の中での未決…なのである。自分にとって聖定的人生観とはそういうものだ。決定と未定との緊張関係の中で生きるということ。結局それは大いなる他力信仰であり、「力」に重きがあるのではなくその「はたらき=作用」に重きがある。それを神のみこころとして、自分にとっては意味あることとして信じて主イエスのように「我が意にあらずして御意の成らんことを…」と祈り得ることもまた他力のはたらき。そうすると無用な争いを防げる。無用なプライド、過剰な承認欲求の台頭を抑制できる。ということは、結果的に相手とぶつかることに成っているならそうなるわけで、それがいつかはわからないわけで、とりあえず当面は、わざわざ自分から争いになるリスクをかけてまで余計なことを相手に言って刺激するよりも、言わないで当面は確実に争いを避ける方が賢明だからだ。どうせぶつかることになるなら近いうちにでもそうなるんだから、自由意志の面ではとにかく争いを避けること…「キリストの平和」を第一に心かげて生きる以上、当面はそのように、争いを避ける方向に行くべきだ。その結果、ストレスがたまってガンになって死ぬことになると定められているとしてもそれはそう成った場合の話であって、定められている限り、自分がどうあがいてもガンに成る時は成るわけだから、ここはストレスをためることになるとしても、結果的にガンに成らないかも知れないわけで、とにかく結果に思い煩うより、当面のことに意識を集注すべきであり、争いを確実に回避すべく卑下(とまではいかずとも)して感情を抑える…我慢する方向に自分の心を動かすのみだ。

「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」 rcj-net.org/resources/WCF/

God from all eternity, did, by the most wise and holy counsel of His own will, freely, and unchangeable ordain whatsoever comes to pass; yet so, as thereby neither is God the author of sin, nor is violence offered to the will of the creatures; files1.wts.edu/uploads/pdf/ab

五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「諦め」は「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。

「諦め」を否定的にではなく肯定的に解して人生観に活かすところに宗教的境地の意義がある。まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。親鸞の「自然法爾」に通じる境地。

その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。

日本の、神学者を兼務した牧師には、ドイツ語ができても日本語があまりできない人が珍しくないのです。

< 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。>説教要旨 (church.ne.jp)

パウロは三つの天国があるとか、天国に三つの段階があると言っているのではありません。多くの古代文化では、「天」ということばで、三つの違った「領域」―つまり、空、地球の大気圏外の宇宙、それから霊的な天を表現しました。これらのことばは特に聖書的ではありませんが、一般に地上、 宇宙、天国として知られています。パウロは、天国、つまり神の住家である領域としての天国に、神が連れて行ってくださったと言っているのです。いろいろなレベルの天国という考えはいくぶんダンテの「神の喜劇」からきたのかもしれません。その中で詩人ダンテは天国と地獄にそれぞれ九つの段階があると述べています。しかしながら、「神の喜劇」は作り話でしかありません。違った段階の天国があるという考えは聖書にはない考えです。聖書は、いろんな違った報酬が天国にはあることを述べています。報酬についてイエスは、「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはぞれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えてくる。」(黙示録22章12節)と言われました。イエスは今度戻ってこられるとき、人々がした行いに応じて 彼らに報いるために、褒美を持ってくると言われたのです。それで、信者には報いを受けるときがあることがわかります。第2テモテ4章7-8節で、パウロの宣教の奉仕が終わろうとしているときのパウロのことばを読むことができます。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義に栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。>

天国にはいろいろな段階があるのですか? (gotquestions.org)

 

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岡田稔著『改革派教理学教本』から抜粋

キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。>

カルヴァンは綱要の中で予定論を第3篇の終わりに置き、摂理論を創造論の中で扱い、両者を別個の事柄として把握するが、その把握が徹底せず、また、両者を一つのこととして見ているところも少しある。そのため、カルヴァン以後においてはこの二つを一括して扱う傾向が強くなる。カルヴァンも「聖定」(decretum) という言葉を用いたが、カルヴィニストたちは聖定概念を強化し、これを予定の上位概念とし、この中に予定と摂理を含める考えになる。>14 (imcj.org)   広瀬薫牧師 (imcj.org)

パウロは神を「みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って」(エペソ1:11)と語って,世界と歴史に対して包括的な御計画を持って働かれる方であると言う.聖書の神は御計画を持つ神である.神の永遠の計画を神学用語では聖定と言う.ウェストミンスター小教理問答はこの聖定について古典的な定義を与えている.「神の聖定とは,神の御旨の深慮による永遠の計画であって,これにより,神は御自身の栄光のために,何事によらず起ってくるすべてのことを予定しておられる」(問7の答).(中略)永遠と時間,神の主権と人間の責任との関係は,神の永遠の聖定についての人間の理解を非常に困難にする.幾つか区別をすると理解しやすいであろう.聖定が永遠であると言っても,神が永遠であるというのと全く同じ意味で永遠なのではない.聖定は神の自由な,主権的な意志の働きの結果である.この活動は三位一体の神の内における神の必然的な活動から区別されねばならない.聖定はまた歴史の中における聖定の実現と区別されねばならない.天地を創造するという聖定行為は永遠であるが,聖定に基づく創造行為は,時間とともに,時間の中で行われる神の行為である.イエス・キリストをこの世に遣わされる永遠の聖定は,皇帝アウグストの時代にイエスがマリヤより生れるまで遂行されなかった.神が聖定された出来事のうち,創造,再生,イエス・キリストの第1,第2の到来のような出来事は神の直接的なみわざとして起る.他の出来事は聖定に基づき,神の摂理の下で,人間の働きを媒介として歴史の中に実現する.ある場合には,神の律法に従って生活する人間の服従行為を通して起ってくるが,またある場合は,キリストの十字架の場合のように,人間の,神のみこころに反する罪深い,不服従の行為を通して聖定は実現される.神の主権と人間の責任あるいは無責任が,聖定の実現という場で,複雑に関係している問題点はイエス・キリストの十字架についての聖書の言及を検討する時明らかになる . >《じっくり解説》神の計画とは? | Word of Life ワードオブライフ

 

以下、前掲の『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』より引用(※〔参照聖句〕の箇所は編集した。)

 

<神の聖定(問一二~一四)

問一二  神の聖定とは何であるか。

答  神の聖定とは、神のみ旨の計画の賢く、自由な、きよい決定であり、それによって神は、永遠から、ご自身の栄光のために、なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのこと、特にみ使いと人間に関することを、不変に予定された。

〔参照聖句〕エペソ一4,11、ローマ一一33、九14,15,18、22,23、詩篇三三11

(中略)

10 神の聖定の性質は何か。

―― 神の聖定は不変であり、変転することはありえない。だから、それらは必ず実現される(詩篇三三11参照)。

11 神の聖定は何を包含するか。

―― 神の聖定は一切のものを包含する。すべておこりきたることを包含する。

12 神の聖定は一般に偶発的とか偶然事とかいわれる出来事をも包含していることを聖句によって示せ。

―― 箴言一六33、ヨナ一7、使徒一24,26、列王上二二28,34、マルコ一四30。

(中略)

もし我々が神の聖定と人間の責任のいずれかに対する信仰を放棄するならば、直ちに、大きな誤りの中に陥って、多くの点で聖書の教えと矛盾するものとなるのである。我々は単純な信頼をもって聖書が教えているところを受け入れ、聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については「聖なる無知」を告白するのが賢明であり、よいことなのである。

14 聖定と予定とのちがいは何か。

―― 聖定とは創造された世界の中にすべて起こってくることに関する神の計画をいう。予定とは、天使と人間の永遠の運命に関する神の計画を指す。>

 

聖定聖句(~『ウェストミンスター信仰規準』〔日本基督改革派教会大会出版委員会編〕)〔新教出版社

信仰告白3ー1

  • <神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが>

エペソ1:11

 ἐν  καὶ ἐκληρώθημεν προορισθέντες κατὰ πρόθεσιν τοῦ τὰ πάντα ἐνεργοῦντος κατὰ τὴν βουλὴν τοῦ θελήματος αὐτοῦ. (11)

 εἰς τὸ εἶναι ἡμᾶς εἰς ἔπαινον δόξης αὐτοῦ τοὺς προηλπικότας ἐν τῷ Χριστῷ (12)

 

(11)「このキリストにおいて(エン オー )私たちはまた(カイ)、〔自らの〕意志の(セレーマトス アウトゥー)意向のままに(カタ プロセシン)すべてのことを成し遂げる方(トゥー タ パンタ エネルグウーントス)の意思に従って(カタ テーン ブーレーン)前もって定められた(プルーリスセンテス)通りに、相続分を与えられた(エクレーローセーメン)のである、/私たち、強い希望を抱き続けている者がキリストにおいて神の栄光を称えるべき者となるようにと。」(岩波版 エフェソ1:11~12)

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。/それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」(口語訳 エペソ1:11~12)

「またキリストにあって(エン オー カイ)、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。(エクレローセーメン)すべてをみこころ(トゥー タ パンタ 、トゥー セレーマトス アウトゥー)による計画のまま(カタ プロセシン)に行う方(エネルグーントス)の目的にしたがい(カタ テーン ブレーン)、あらかじめそのように定められていた(プルーリスセンテス)のです。/それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」(新改訳2017 エペソ1:11~12)

「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。/それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 」(新共同訳 エフェソ1:11~12)

 

ᾧ  (him/)関係代名詞「ホス」の男・中性単数与格

ἐκληρώθημεν 動詞「クレーロー」(くじで定める,任命する,割当てる、単に定められる,選ばれる、神の相続人として定められる,選ばれる)の受動態第一アオリスト直説法1人称複数

προορισθέντες  動詞「プルーリゾー」(前もって定める、予定する)の受動態第一アオリスト分詞男性複数主格

πρόθεσιν 動詞「プロセシス」(陳列,提示、企て,計画,意図,意志,決心,決意)の単数対格

ἐνεργοῦντος  動詞「エネルゲオー」(はたらいている、はたらく、活動する)の現在分詞男性中性単数属格

βουλὴν 「ブーレー」(計画、意図、企て)の単数対格

θελήματος  名詞「セレーマ」(意志、意向)の単数属格

αὐτοῦ 人称代名詞「彼の」(3人称男性属格)

 

προορισθέντες 以下の訳文を語順に合わせて書きかえると、「あらかじめそのように定められていたのです。目的にしたがい、すべてを行う方の 計画のままに みこころによる」

 

 τοῦ τὰ πάντα  τὰ 

 

「またキリストにあって」⇒ ἐν ᾧ καὶ

「私たちは御国を受け継ぐ者となりました」⇒ ἐκληρώθημεν

「すべてを」⇒ τοῦ τὰ πάντα 

「みこころによる」⇒ τοῦ θελήματος αὐτοῦ

「計画のままに」⇒ κατὰ τὴν βουλὴν 

「行う方の」⇒ ἐνεργοῦντος

「目的にしたがい」⇒ κατὰ πρόθεσιν

「あらかじめそのように定められていたのです」⇒ προορισθέντες

 

In him, according to the purpose of him who accomplishes all things according to the counsel of his will,

 

 

ロマ11:33

 

 

9:15,18

 

 

ヘブル6:17 

  • <それによって、神が罪の作者とならず>

ヤコブ1:13、1:17、Ⅰヨハネ1:5

  • <また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである>

行伝2:23、4:27、4:28、マタイ17:12、ヨハネ19:11、箴16:33

信仰告白3-2

  • <神は、想像されるすべての条件に基づいて起こってくるかも知れず、また起こってくることのできることは何事でも、知っておられるが>

行伝15:18、サムエル上23:11、23:12、マタイ11:21、11:23

  • <しかし何事であっても、それを未来のこと、あるいはそのような条件に基づけば起こってくるであろう事柄として予知したから、聖定されたのではない>

ロマ9:11、9:13、9:16、9:18

信仰告白3-3

  • <神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たち>

Ⅰテモテ5:21、マタイ25:41、

  • <・・・・が永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている>

ロマ9:22、9:23、エペソ1:5、1:6、箴16:4

信仰告白3-4

  • <このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない>

Ⅱテモテ2:19、ヨハネ13:18

信仰告白3-5

  • <人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって>

エペソ1:4、1:9、1:11、ロマ8:30、Ⅱテモテ1:9、Ⅰテサロニケ5:9、

  • <それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく>

ロマ9:11、9:13、9:16、エペソ1:4、エペソ1:9

  • <すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである>

エペソ1:6、1:12

信仰告白3-6

  • <神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた>

Ⅰペテロ1:2、エペソ1:4、1:5、2:10、Ⅱテサロニケ2:13

  • <だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ>

Ⅰテサロニケ5:9、5:10、テトス2:14

  • <時至って働くそのみたまによってキリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ>

ロマ8:30、エペソ1:5、Ⅱテサロニケ2:13

  • <み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる>

Ⅰペテロ1:5

  • <他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである>

ヨハネ6:64~65、8:47、10:26、17:9、ロマ8:28~39、Ⅰヨハネ2:19、3-7

  • <人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた>

マタイ11:25、11:26、ロマ9:17、9:18、9:21、9:22、Ⅱテモテ2:19、2:20、ユダ4、Ⅰペテロ2:8

信仰告白3-8

  • <予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう>

Ⅱペテロ1:10、ロマ9:20、11:33、申命記29:29

  • <そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の>

エペソ1:6、ロマ11:33、ロマ8:33、11:5、11:6、11:20、Ⅱペテロ1:10、ルカ10:20

 

おもな聖定聖句(~『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)、岡田稔著『改革派教理学教本』〔元々は新教出版社〕、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』〔新教出版社〕)

 

  • <神の聖定は人間の有罪行為をも包含するもの>

創世45:5,8、50:20

  • <神の計画と目的は不変>

詩篇33:11

  • <神の聖定は一般に偶発的とか偶然事とかいわれる出来事をも包含している>

箴言16:33、ヨナ1:7、使徒1:24,26、列王上22:28,34、マルコ14:30

 

 בַּחֵיק יוּטַל אֶת־הַגּוֹרָל וּמֵיְהוָה כָּל־מִשְׁפָּטֽוֹ׃

「バヘック(ひざに)/ユータル(投げられる)/エット(~を)/ハ・ゴーラール(くじ)/ウメ(しかし~から)/ヤハウェ(主)/コール(すべての)/ミシュパート(彼の裁きは)」(くじを、ひざに、、投げられる。しかし、すべての裁きは主から」

חֵיק(ヘック)…「ふところ、胸」に、「バ」(~に)という前置詞が付いている。

(into the lap)Lap=ひざ

טוּל(トゥール)…「投げる」のホフアル(~フフアル)態。未完了。

(is cast)cast=投げる

אֶת־(エット)…前置詞「~を」

גּוֹרָלゴーラール)…「くじ」に、冠詞「ハ」が付いている。

(the Lot)

וּמֵ(ウーメー)…「ウー」は接続詞「しかし」。「メー」は前置詞「~から」。

(from)

יְהֹוָה 

(the LORD)

כָּל(コール)

wholly)すべての

 

מִשְׁפָּט(ミシュパート)…「裁き」

(decision)決断

 

 

The lot is cast into the lap, but the decision is wholly from the LORD.

 

「くじは、衣の膨らみの中に投げられる。だが、その事の決定は皆、ヤハウェから〔来る〕。」(岩波版)

 

 

  • <神の聖定は人間の有罪行為をも包含するものである>

サムエル上2:25、使徒2:23

  • <神の予定〔predestination〕>

使徒4:28(神の聖定は神を罪の創始者とせず、神の聖定は神のみむねのよしとするところに従う。又、聖定は神の外側のいかなるものにも拘束されない)

ローマ9:14~15

〃  9:18(神はある者を神の怒りに、あるものを栄光に定められた)

ローマ9:22~23(神の計画と目的は人によっては説明も発見もされえない)

ローマ11:33

  • <永遠の摂理>

Ⅰコリ2:7(人間の永遠の運命についての聖定は天地のつくられる先より永遠に定められている)

エペソ1:4

  • <神の聖旨〔意志〕>

エペソ1:9(みむねのよしとするところに従い、すべてのことをなしたもう神は、ご自身の目的に従って人々を予定された)(わたしたちは御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下にキリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである)・・・大教理問答の問14では聖定が創造と摂理のわざにおいて実行されることをも示す参照聖句。1:10も重要。

エペソ1:11

  • <中心は、わたしたちの主キリスト・イエスによって実現される神の永遠の救いの計画。>

エペソ3:11

 

救済は個人レベルではなく、神の民という共同体レベルであるというのが聖書的教理であろう。自己同一性は存続するが神の民の一員としてである。自分個人の救いということに執着している限り「二重予定」説も「最後の審判」の教理も受け入れられず安易に「万人救済説」に走ることになる。聖書が示す創造主なる神の正義以上の正義などありはしないのだから、歴史の終末に究極の正しさ・真実が具現されることをもってよしとする境地にならなければどうしようもないのである。

ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』の345頁に書かれている問八九の講解(p62)で、「4 悪人は神が彼らを、永遠の生命に予定しておられないから、定罪されるのか。 ―― 神が「みすごしにされ」て、永遠の生命に選んでおられなかった人々は定罪される。しかし、彼らの定罪は彼らの罪の故であって、神の予定という聖定の故ではない。彼らは選ばれていない人々であるから、定罪に予定されているのではない。」とあるが、問一三の講解で、「聖書は神の見捨ての行為は、神の主権に基づくものであると教えている。(中略)見捨てられた人々を神が理由なしに見捨てられたということではない。しかし、その理由は神の秘められたみ旨の中にあるのであって、我々には啓示されていないのであり、人間の側の性格や行為や行動に基づいているのではないという意味である(ローマ九13、15、20、21参照)。」と書かれてある。そして「神の聖定は一切の者を包含する。すべておこりきたることを包含する。」(p58)とされている。