救済先行 信仰後続

シャローム! キリストの平和がわたしたちの心の隅々にまでゆきわたりますように。※記事の日付は事実と異なる場合があります。ご了承ください!ハレルヤ!

幸福志向と救済志向

ただボーっと生きているだけでは意味が無い、何かのために生きなければ……などと思うのが人間です。

ところで「ウェストミンスター大教理問答」の最初の問いは、「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」であり、その答えは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶこと」だと言われています。その根拠とされている聖句を4つ引用します(~聖書協会口語訳)

(1)ローマ11:36 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」

(2)コリント一10:31「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」

(3)詩篇73:24~28 「あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身をわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。」

(4)ヨハネ17:21~23「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。」

同じく「小教理問答」では、「人のおもな目的は何であるか」という問いに対して、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」と言われています。根拠聖句は上記のコリント一10:31とローマ11:36と詩篇73:24~28の3箇所です。

一方、「ハイデルベルク信仰問答」の最初の問いは、「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」であり、その答えは「わたしのからだも魂も、両方とも、生きる時も、死ぬ時も 、わたしのものではなく 、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです 。」とのことです(根拠聖句は、イザヤ書43:1〔「恐れるな、わたしはあなたを贖う」他割愛〕、ヨハネ福音書10:27~28〔「わたしは彼らに永遠の命を与える」他割愛〕、ローマ14:7~9〔「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」他割愛〕)。さらに、日本キリスト教会の2017年の「大信仰問答」では、第一問が「人間は真に生きるために、何を求めるべきでしょうか」であり、答えは「まことの神を知り、神を崇めて、生きること」であるとされています。根拠聖句は、旧約が申命記30:20をはじめとし、新約はマタイ4:4をはじめとして、それぞれ全部で約10箇所(句ではない!)も挙げられているので、ここでの引用は2つだけにとどめます。

申命記30:20「すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」

マタイ4:4「イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」

なお、「ジュネーブ教会信仰問答」の第一問は「人生のおもな目的は何ですか」であり、その答えが「神を知ることです」というのは有名です。神認識は、自分がすでに与えられいた対神関係を自覚することを意味します。この関係こそが信仰を与えられている者にとっての存在根拠にほかなりません。究極の居場所というわけです。イエスが言う「神の国・神の支配」とは結局、対神関係であると私は思います。

自分の肉欲を満たすことばかり考えて生きるのはヤクザであり人間のクズと蔑まれる人たちです。常人はそこまで堕ちたくはないと普通は思います。マズローの欲求階層説のように多くの人は生理的欲求だけではなく承認欲求を持っています。それは肉欲ではなく理性的に…すなわち人格的に満たすべき欲求ですが、無用なプライドが人間関係のトラブルの原因となります。

たしかに生存しているだけで人生に何の目標も楽しみも生き甲斐もなく、特に高齢になって趣味さえなければ、何のために生きてるんだろう……という疑問を感じてもおかしなことではないでしょう。八木誠一氏によれば、「人間は大体において究極的関心を持っているもの」だそうですが(~『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p70)、それってある程度の教養とか思想性がある人の場合でしょう。差別的な言い方かも知れませんが、いわゆる下層労働者の頭の中には「究極的関心」などという概念自体ないでしょう。八木氏自身がインテリだからわからないのです。そこで言われている「何であっても、それが失われたら自分の生きている意味がないようなものを持っている」というのは、キルケゴールかぶれの学生かなんかの青くさいセリフのようですが、その「自分」などは実社会で他人との関係の中で傷つけられ傷つけることにおいて変わってゆきます。一般的に、「それが失われたら自分の生きている意味がないようなもの」の典型は家族でしょう。結婚して子供が生まれた人には、その家庭を守ってゆくという大きな目標があり、その団欒の楽しみがあります。でも世の中には人生の目標を失って無気力に陥っている人もいます。

しかし八木氏は、< あるいは持っていないかもしれない。その場合でもしばしば、「ほんとうはそういうものがなくてはならないのだが、いろいろな事情で持つことができない」という諦め、なにがしかのニヒルがみられ、そこにやはり究極的関心事への志向があらわれている。>と述べています(…以上の引用は、前掲書p70~71)。無きに等しい人々の中からクリスチャンとして選ばれた自分の究極的関心事はズバリ「救い」ということになります。それも人為的なことではなく、つまり人間による救いではなく、あくまでも神の救いです。そのような人間は「宗教的実存」と言われますが、いい年をして定職にも付けず、フリーターのようなことをして生活しているままでは非本来的な生き方ということで社会的人格が成り立ちませんが、政治団体とかキリスト教会などに入って活動するようになれば、社会的地位としては何ら進展しなくても、その団体とか教会の共同主観においては、つまり仲間内では、とりあえず路傍の石の如き空しい人生は回避した実存的な生き方ということになるわけです。でも社会一般においては所詮、「負け組」であり(古い表現では)「落伍者」であるわけで、客観的にはどう見ても幸せな人とは言えません。敬われたり羨ましがられることはないが、いかに下流に生きていてもその人たちなりの信念や誇りをもって、借金はなく罪を犯さずに家内安全で生きているなら、蔑まれることはなく憐れまれることもなく、その点では救われている人だとは言われ得るでしょう。

「幸福」はこの世のことで「救い」はこの世だけではなくあの世のことでもあります。そして「幸福」はいつ「不幸」に転じるかわかりません。バブル経済などに見られます。しかし「救い」はいつ「滅び」に転じるかわからないなどということは、すくなくともユダヤキリスト教においてはないです。

人生の究極の目的は「救われること」であって「幸せになること」ではないのです。「幸福」は相対的で有限な価値観であり、宗教的意味の「救済」は絶対的で無限な価値観であると言えます。ところで八木誠一氏は旧約聖書の『ヨブ記』に関して以下のように述べています。

<この世のありのままの現実とは、病があり死があり、地震津波も噴火も暴風も病も飢饉もある世界である。戦争も奴隷化も差別も格差も、罪悪も嘘も悲惨も苦悩も不条理もある世界である。人は、義なる神のもとで「なぜ」不義が栄えるのかという「神義論」を問うてきた。しかしその「なぜ」に答えはない。例えば、旧約聖書の『ヨブ記』は、ヨブが見神によって「我」を捨てたという観点から一般には理解されているが、実はさまざまな粉飾が施されているから、一見しては読み取りがたいけれども、ヨブは「義・不義と幸・不幸は別問題だ」と語るのである。>(~『回心』p194 濃い字は自分。)

このように、言い方を変えれば、この現実世界の価値観における「幸・不幸」と、霊的世界の価値観における「救い・滅び」とは別問題なのです。

 

「お前たち、主を捨て、わたしの聖なる山を忘れ/禍福の神に食卓を調え/運命の神に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。」(新共同訳 イザヤ書65:11)

「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、」(口語訳 同上)

※新改訳は、上記で「禍福の神」と訳されているところを「ガド」、「運命の神」を「メニ」と訳している。明治(文語)訳は、「ガド(禍福の神)」と「メニ(運命の神)」というふうに両方で訳している。

 

「禍福は糾える縄の如し」と云いますが、現実世界は相対世界でいろんな二項対立があるとは言え、人は「不幸」の無い「幸福」だけの人生を望みます。苦難の経験にも成長的意義があるなどと言える者は余裕があるのです。ちなみに矢内原忠雄氏は、敗戦のような国難級の苦難について次のように述べておられます。

<この苦難に処する第一の必要な態度は、エレミヤが説いたように、我々がこの苦難をば神の手より受けるということであります。この苦難は神の与え給うところであるという信仰であります。今日の苦難のきたった根本的原因は、神に対する我々の不真実であり不義であったということを認めることが、第一の必要な条件であります。従ってこの苦難は神の懲しめである、神の審きである。これが必要な、また正当な認識であるのであります。神より受くる当然の懲しめであり、審きである。かく信ずる時に、かく知る時に、私どもは本当に謙遜な心になって、無条件に、理屈なしに、この苦難を受け取ることが出来るのです。これをその信仰に立たないで、人間から受ける苦難であると考えるならば、例えばアメリカから蒙るところの苦難であると考えるならば、誰でも一種の憤りを有つ。〔※「有」に「も」とルビあり。〕抗議を有つ余地がありましょう。しかしそのような反抗心、あるいは復讐心、あるいは怨みに思う心をもってこの苦難を受取る間は、苦難の解決はきたらないのであります。昔、エレミヤの時に神はバビロンを用いてイスラエルを審き給うたように、今日神はアメリカを用いて日本を審き給うたのであります。苦しいけれども、苦難の中にあって私どもは眼を閉じ心を澄まし、じっと我慢をしてこの苦しみを神から受ける。苦しみに対ってあらがわない。〔※「対」に「むか」とルビあり。〕この信仰的態度が、病気の治療のためにまず大切な態度であるのです。苦難によって従順を学ぶ。我らは罪を犯し、エホバこの苦しみを与え給うのであるから、我らは黙してこれを受ける。その心、その態度によって、私どもの心に平安が臨むのであります。しかして心に平安を得ることは、肉体の病気でも同じでありますけれども、病状好転の第一歩であるのです。審きは神に委ねよ、苦しみは神より受けよ、であります。>(説教「日本の傷を医す者」~『日本の説教11 矢内原忠雄』〔日キ教団出版局〕p195~196)

上記の「信仰的態度」は個人レベルでも応用されるべきことだと思われます。

高倉徳太郎牧師はヘブル12:10の「霊魂の父」の懲らしめの聖句を引用した後、次のように述べておられます。「苦難によりて神は強者を挫きて、自己の弱さを識らしめ、傲慢なるものをくだきて謙らしめたもう。」ここでパウロの「肉体の刺」にふれ、「自己の力に信頼し、自己の性向を押し通さんとするとき、神は苦難によって我らを謙らしめ、神への信頼と従順とを新たに学ばしめたもう。」と述べておられます。 以上、高倉徳太郎牧師の言葉の引用は、『日本の説教8 高倉徳太郎』(日キ教団出版)より。

コロナ禍の状況になってあらためて自覚させられたことは、宗教的な救いということも身体性を抜きにしてはあり得ないということです。霊魂だけの救いでは救いにはならないのです。なぜって人間は心身霊肉全体でヒトだからです。肉体だけでもヒトではないし、霊魂だけでもヒトではありません。ヒトが真に救済されるためにはその心身霊肉全体が救済されなければならないのです。

それはどうすれば可能になるかと言えば、まずひとつ言えることは、聖餐に与りキリストの血と肉を頂くことです。これが身心霊肉の全体的救いを象徴しています。実際は、身心の救済はこの現実社会の中に自分の「居場所」を与えられることです。経済的に「衣・食・住」の生活手段を確保することです。そして健康が支えられること。これが身心の救済です。これなしには霊魂の救済などあり得ません。だってヒトは現世において肉体を抱えて生きるからです。霊魂救済だけを求めるグノーシス主義的な人は、下手をすると薬物中毒になり、さらには安楽死を望むことになるでしょう。ところが、八木氏の思想においては「居場所」は「神の支配」ということになります。

<居場所がないのは、ホームレス、苛められっ子、部外者、異分子、よそ者、のけ者、邪魔者、アウトサイダー、落ちこぼれ、窓際族、ガイコクジン、差別される人、要するに本拠のない、あるいは本拠から外に連れ出された人間、身寄りもなく、取り仕切っている人たちからはトゲトゲしい眼で見られる人間、周辺化されて相手にもされず、定住することもできず、孤独で無力な人間である。会社でも学校でも、自分の勤め先のことを「ウチ」という人がいる。「ウチではこうこうで……」。こう言えるのは、自分の居場所を築いた幸いな人である。居場所がない人は不幸である。生活の安定も、こころの安定もない。居場所を失えば、錯乱状態にすらなる。イエス自身はどうだったのであろうか。(中略)『狐には穴があり、鳥にはねぐらがある。しかし、人の子には枕するところもない』(中略)実際、イエスは公生涯のあいだ定住せずに巡回伝道をしていたようである。そして居場所のない人々のもとに行って、神の国を宣べ伝えた。(中略)イエスにとっては、神の国に入ることが何よりも大切だったのだ。(中略)こうしてイエスは「居場所のない人々」に神の国を宣教した。神の国を求めなさい、君たちは神の国に居場所をもつことができる、というのである。(中略)若くして殺されたイエスは、「ここ」を神の国のはたらきの場所に転換するすべを具体的に(たとえば行の方法として)示さなかったし、神の国を表出する教団を組織することもしなかった。まして、圏(生活圏、経済圏など)を全体として神のはたらきの場所に転換する方法を説くことはなかった。しかしイエスの言葉から、われわれは以下のメッセージを読み取ることができる。それは、「君たちはこの世界に居場所を求めるけれども、不動の居場所はありえない、そのつど仮の居場所を見つけるだけだ。ほんとうの居場所は神の国にあり、そこに居場所をもつ者は、仮の居場所が神のはたらきが現実化する場所に転換されるのを見るだろう」というものである。さらに言えば、イエスはこの世界に「居場所」のない人々こそ、神の国に居場所を求め、見出だすだろうと期待したように見える。その期待は正しかっただろうか。民衆は、イエスがこの世で彼らに居場所を与えることを期待したのではないだろうか。イエスエルサレムに入城したときには歓呼をもって迎えた人々は、イエスが十字架につけられると祭司長、律法学者と一緒になって、イエスを処刑せよという(略)。イエスはこの世界に居場所をもつどころか、十字架につけられて、この世界から排除されてしまったのである。神の国を居場所とする者には同様の覚悟がいる。換言すればそれでも神の国を求める者が神の国に入るのである。>(~『イエスの宗教』p189~193)

但し、身心の救済が行き過ぎると俗に穢れて霊魂は救われません。何ごとも程々が重要なのです。すなわち社会の中に居場所を得るということが、他人との比較において、より優越しようと欲することです。マズローの5段階欲求階層では特に「承認欲求」が霊魂救済への妨げになります。だから「居場所」は身の程をわきまえたものであること、知足知止が賢明なのです。

極端な話、宗教者は霊魂救済を旨とするのだから社会生活などどうでもよく、身分がホームレスに堕しても宗教的価値観によって生きることができる……などということは現実には無いのです。それをあり得るかのように思うのが観念癖なのです。現実の社会生活をおろそかにして宗教生活などあり得ません。だから私は、仏教は小乗よりも大乗の方が救済宗教として相応しいと思うし、キリスト教でも世間から閉鎖的な観想修道院的なあり方にはなじめません。小田垣氏の「二重性」の真理観で言えば、「聖」は「俗」においてあるわけで、「俗」から離れた「聖」などは観念にすぎないのです。

さりとて、社会生活に欲が出過ぎると宗教生活は崩壊します。ヒトは宗教哲学的な観念のみによっては生きることはできない、救われることはできませんが、他者との優劣比較にはまってしまってはなおさら救われることができないのです。むしろ現実世界が他者との優劣を競わされる構造になっているからこそ宗教的な救いが求められるのですが、現実世界から逃避して内向きになることが宗教的な救いではないのです。観念操作は一時的な慰めの効果を発揮することはあります。いわゆる自己啓発なんかがそうで、意識を変えるために観念操作をするのです。ある種のマインド・コントロールです。でもそういった観念操作だけでは救われないから、実践を必要とします。それもカルト宗教的実践ではダメで、地に足をつけた生活実践です。まずもって生命手段としての労働……暮らしのために働くという家庭生活実践。その次の段階が教会生活実践。前者が基本にあってこそ後者が成り立つのです。家庭生活が破綻していては、教会生活をやろうとしても実際にはなかなか困難をきわめるでしょう。

聖定信仰においては、キリストのためなら苦難を経験する(パスコー)ことも恵み(カリス)なりです(~フィリピ1:29)。そこでは「カリゾーマイ」(施す、賜う)の受動一過「エカリスセー」で「恵みとして与えられた」を意味し、また、「単に彼を信じるということだけではなく、また…」(ピストゥーエイン アッラ カイ…)と(「アッラ」は通常は反意接続詞だが、ここでは繋合接続詞)、いかにも信仰だけでは不足であるかのような言い方がなされていますが、こういう表現が「信仰のみ」に矛盾する誤解を与えるのです。苦を受け入れることもまたキリスト信仰の内なのです。だからここの「信じる」は「信頼、信仰」とまでは言えないレベルとして解するしかありません。


以下、私が最も尊敬するキリスト教指導者の矢内原忠雄氏の言葉を引用します。〔 〕のルビは自分。

「世間の人は神などあるものかと、神を無視して我まま勝手に行動していました。しかし『神は目を開けていらっしゃる!』その事をエレミヤ一人が見抜いたのです。散歩から帰って彼は台所で鍋の煮え立っている様子を見まして、ハッと気が付きました。『災禍〔わざわい〕が北から来る!』そこで彼は叫んで同胞国民を警〔いまし〕めました。『諸君あぶないぜ。諸君の生活諸君の行動を反省して神の前に正しい行いをしなければいけない!』と。国民が皆虚偽の宣伝によりいい気になって、自分の国の正義と繁栄とを過信していた時、エレミヤ一人事の真実を見分け、彼一人真実を語りました。しかし真実の人の運命がいつもそうであるように、彼も国民に受け容れられませんでした。彼は殴られ唾せられました。彼は悲哀の人でありました。内村先生がまた悲哀の人でありました。(中略)大正十二年(一九二三年)関東震災の時、内村先生は国民の罪をその中に認め震災はこれに対する天譴なりと唱えて国民の悔改を促した。しかし先生の得たるものは嘲弄のみであって、何らの国民的悔改は起らず、後の状態は前よりもひどくなった。最近三陸地方の地震と海嘯〔かいしょう〕は我々を驚かし、政府も新聞もこれが救済に奔走した。しかし神を怖れ国民の罪の悔改を促がす声はどこよりも聞かれなかったのである。このたび被害地方は満州事変の従軍兵の出身地である。さらでだに飢饉状態に悩める三陸地方の無辜〔むこ〕の住民がかかる地震の惨害を受けたことには、我が国のどこかに恐るべき罪があって、その天譴をここに下し給うたのではあるまいか。天譴はそれに値する責任者の上に直接に課せられる時よりも、国民中直接責任なき最も弱小なる部分に負わせらるる時において特に深刻である。我が国民は果して悔改むべき罪なしと言い得るか。虚偽は我が国になかったか。約束の蹂躙はなかったか。隣家の牡羊を掠めはしなかったか。神は日本国民に向って悔改を促し給う。国民的罪の悔改か否か日本の興るも亡ぶも全くこれにかかっていると私は信ずる。」(~『日本の説教 11 矢内原忠雄』〔日キ教団出版局〕p17、22~23 ※太字は自分による)

天譴とは天罰と同義であり、キリスト教徒である内村氏において天罰は神罰にほかなりません。現在の「コロナ禍」にあっても、エレミヤや内村が持っていた預言者精神が発揮され、天譴ならぬ神譴として語られて然りです。実に日本資本主義の父とも言われる渋沢栄一氏も関東大震災の時に天譴を論じたとのこと。

東日本大震災によせて~渋沢栄一の『天譴論』と『因果倶時』 – 無用の用~高井伸夫の交友万華鏡

私見では、その渋沢などによって始まった日本資本主義こそが、三島由紀夫が空っぽでニュートラルな経済大国になると預言した堕落せし日本の元凶なのであり、天譴はまさに経済大国という無用なプライドによって慎ましい日本人としての道徳心を失い、同志社香里高校ダンス部のミニスカ姿のキレキレダンスなどに見られるキリスト教主義を看板とした学校の恥さらしにも反映されているように(個々の人々は不信仰なのだからしょうがないので)、そのような堕落した教育現場をよしとしているキリスト教団体ないしは教会組織にこそ向けられていると私は思うのです。その点では教会主義よりは無教会主義の方が、宣教に付随した社会事業を行う場合にも、より福音的形態をとりやすいということはあるのかも知れません。

東日本大震災にせよコロナ禍にせよ、死者を出すような歴史的大惨事に関して迂闊に天譴などを語ることは、いかに預言者精神云々と言っても配慮を欠くと非難されるは必至です。しかし福音伝道者なら聖霊に感じたことは、語るべきであると確信するなら、預言者エレミヤなどのように世間からの非難などを恐れず大胆に、与えられた聖言によって(聖句の文脈的制約など関係なく)覚悟の上で語ればよいでしょう。私は日本だけの災害ではなく、世界全体の災禍であるコロナ禍の方にこそ天譴ならぬ神譴を感じるのです。ただ、コロナ禍からの救いという安全な説教ばかりしている者は偽預言者です。すくなくともコロナ禍も創造主の許容なしには生起し得ていません。であるならそれが直接的な終末予兆などと断言することはできないにしても、「コロナウイルスの危機とその結果は、主の再臨に先立って起こる出来事のリハーサルとなる」くらいのことは言えるでしょう。

コロナウイルスは終末のしるし? 現在の危機から教訓を引き出す – セブンスデー・アドベンチスト教会 (adventist.jp)

コロナ禍の摂理的意味は、終末・再臨への心備えに緊張感を取り戻す機会であると読み取れるのです。預言者的福音宣教者は、パンデミックのような苦難の時にこそ神の審きを語って然りなのです。そしてふだんは終末のことすら思い及ばない多くの信者に対して、コヘレトの「空」(ヘベル)的厭世観を否定媒介とする再臨待望を惹起せしめるのです。そう、聖書信仰的厭世観はコヘレトの空観に関係する厭世観であって、有神論的厭世観無神論厭世観すなわち単なるペシミズムではありません。

ところで、いかに聖書の宗教はいわゆる御利益宗教といわれる日本の新興宗教の如き低俗なものではないなどと言っても、たしかに「福」を信心の目的とはしないとは言え「禍」が続くと神への不信感が生じることはあります。現在の「コロナ禍」の状況の中で、教会は一堂に会する礼拝をできていないところもあるし、そんな中で信者の中には神義論的問いや不信感が醸成される傾向もあるでしょう。

そんな中、牧師が礼拝説教で、「私から言うとね、『そんな神様ならいらねー』『そんな神様ならいらない。』私の知っている神様はねえ、そんなに冷たくない。」と言ってはダメなんです。その前後の文脈は自助の問題ですが、その主旨は聖書的に正しいとしても…です。どんなにもっともらしい理由があっても、牧師が説教において「そんな神様ならいらない。」などと言ってはならないと私は思います。あらためてテレビというものの恐ろしさを痛感させられますが、私も個人的に電話でお世話になったことがある奥田先生ほどの人であっても、NHKの番組に出演されて一躍有名になると、そういうことも口にされるのかなあ、それとも元々、そのような説教をされていたのかなあ、などと失礼ながら生意気にも思ってしまいました。

https://www.youtube.com/watch?v=hDNmdh76EJU 

(19:00あたりから)

社会活動では誰からも尊敬されるとは思いますが、だからといって思ったことをなんでも言っていいということにはならないと思います。特に牧師として講壇に立つ場合にはなおさらでしょう。何故なら、それを聞いた信者たちはどう思うか?といえば、聖書が示す神は人間の都合で要る,要らないを決めることのできる相手だということになります。これは聖書の主旨に反します。確かに、聖書が示す普遍なる神はキリストという個における自己限定によって対象化され、人間に対して必要とされる存在となられました。すなわち罪人は救い主を得て、その信仰において存在を肯定されることになりました。万人個々の必要はすべて御存知のお方として、しかし根源的に罪人にとって必要であるのは救いであり、その主である御自身を啓示されたのです。この特殊な福音を信じる者としては、かくかくしかじかの神を必要としますと言うことは許されますが、あくまでも賛美に反しない限りであり、当然、肯定的な言い方になります。神に対して、あなたは私たちの人生にとって必要なお方です…という肯定的な言い方は許されても、あなたがかくかくしかじかであるなら、私たちには必要ではありません…などという否定的な言い方は許されません。ハレルヤに反するからです。

ところで、ローマ9章では、「栄光へとあらかじめ用意した憐れみの器」と「滅びへと造られた怒りの器」とがあることが示されています。前者がイスラエル民で後者が異邦人を指すのかどうかはわかりませんが、神の聖定には「滅びへと造られた」者が存在するということ自体、厳粛かつ慄然たる思いがします。

私自身は、信仰が観念的だとか何だとか非難されようとも、「コロナ禍」パンデミックに「霊の父」(ヘブル書12章)たる神の懲らしめを仰ぎます。大震災にしても同様です。多くの死者の霊に対して頭を垂れつつも、これは自分の信仰的所感として憚らず書かねばなりません。特にいきすぎた資本主義経済への警鐘としての意味を感じます。それは政策だけのことではなく、所得で人間の価値や人生の意義を測るような世の中の風潮に対する鉄槌であり、偏差値教育も糺されることだと思います。

聖書が示す神の対世関係は、直接的摂理ではなく、自然法則を用いた間接摂理であり、理神論的観方にも一理あるとするにせよ、また、希望という事はそもそも絶望的状況あってのことだから、個人的にも終末(論)的信仰は構造的に否定的媒介であるにせよ、やはり自分が聖人などではない以上は、不運としか思えない出来事が続くとさすがに信仰心の萎えを感じるものです。問題はそこで幸福志向が挫折し救済志向へと転換するか否かでしょう。

ところで量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。

<……イエスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。>(p208~209 ※太字は自分による)

エスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、ただ、苦しみからの解放ということから新天新地の創造・到来という救済が要請されるというわけです。しかし新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。従って、この箇所を私なりに敷衍すれば、イエスの神性は切実なる終末救済の要請において認められるということです。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。信仰要件について、頭の中の観念では受け入れがたいこと、特に史実とは言えない復活などは、救いの実際的必要性から捉え直してゆく時に、受け入れられるようになる…ということです。幾何の問題であるとばかり思っていたものを関数の問題ではないかと見直してみることによって謎が解けるという例えのように、視点のベクトルを変えてみるのです。これは私のような観念的な人間にとって、信仰の秘訣でもあります。すなわち、コヘレト的「空」観による聖書的厭世観から終末信仰の意義をつかみ、再臨待望において神の子キリストの意義をつかめるのです。その場合の「神の子」はダニエル書7章で預言されている「力ある者の右に座し、天の雲と共にやって来る」ところの「人の子」にほかなりません。それをイエスは、十字架刑に処せられる前の裁判で、大祭司から「お前は讃むべき者の子キリストか」と問われた時、これを肯んじて引用し、これが直接の死刑理由とされたのです(マルコ14:61~64、マタイ26:63~68、ルカ22:67~71 ※ルカでは再臨とまでは言えない。ヨハネの裁判の場面は共観福音書と全く違う。)。再臨のキリストへの信仰は十字架と復活のキリストへの信仰と密接に結びついているのです。十字架<復活<再臨という関係です。苦難は終末の新天新地の到来なしには解決されないのです。

自分も職場での人間関係における出来事をきっかけとして「社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験」したのです。但しそれは人類が被害者としてというより加害者としてであり、原罪を有つゆえの悪魔性と、それによって生じる闘争関係の地獄的現実の苦しみです。そこから救われるためには、真に人にして真に神であるような超越かつ内在的な救い主を必要とするのです。さらに同書より引用します。

<たしかに、老・病・死は苦である。このような苦を内にかかえこんでいる生自体が苦である。(中略)現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。(中略)このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶対絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。>(p215~216 ※太字は自分による)

コヘレト的「空」虚感に包まれるような厭世観を持たずにはおらないような世界の現実があるのに、それをいろんな娯楽などで誤魔化しているのが俗世間に生きる罪人の有様です。でも現実を直視するなら、この世界を脱構築でも刷新でもなんでもして、新天新地を到来せしめる神の力を求めるしかないのです。その終末の始まりを告げるキリストの再臨こそ待ち望まれるのです。だから再臨せるキリストは人間ではあり得ないわけです。超越者すなわち神性を持つことになるのです。だから我々は創造主である「絶対他者」を信仰するというだけでは不十分なのです。それは宗教哲学ではあっても宗教ではありません。救済の必要から言えば、どうしてもキリストが仲介者として出てくるのです。「絶対」とか「普遍」だけでは済まないのが宗教の現実であり、救済の特殊性がキリストという媒介者を招来せしめます。そこから自己相対化された神、普遍から個として自己対象化された神、そのような特殊な信仰に徹底するキリスト教…ということになるわけです。自分自身、キリスト教以外の一神教であるユダヤ教イスラム教の信者には現実問題、なれないのだから、救いを求めるならキリスト教において救済主を信じる以外にはないのです。つまり信仰においては、知的欲求よりも霊的救済願望の方が優るということです。前者はどうでもよくなるのです。

そうなると、聖書に基づいて「絶対他者」に該当するのは「父・子・聖霊なる神」ということになり、救い主という点では就中、「子なる神・キリスト」ということになり、「新天新地の到来」以前に「キリストの再臨待望」(マラナ・タ)が信仰の中心になるのです。ただし、「はじめに三位一体ありき」というのは間違いです。それは聖書に教義を先立てること、すなわち神の前に教会組織を先立てることを意味します。イエスが超越者(神〔の子〕)である理由は、はじめっから存在論的に三位格のひとつが子なる神キリスト・イエスとして決定しているからではありません。そうではなく、イエスに超越性を認めねばならない切迫した要請を、自分のこの世界現実感覚を通して、否定的媒介によって痛感させられるからです。それは存在論的信仰ではなく実存的信仰です。自分にとってイエスが神であるのは存在論的理由によるのではなく実存(論)的理由によるのであって、事柄の次元を異にしているのです。だから私は、イエスを神と信じ告白はしても、三位一体の神を自明であるが如くに認めることはできません。

奥田知志牧師の言葉に、「きずな」を結ぶには「きず」を引き受ける覚悟がいる…というものがあります。これは東日本大震災の後に「絆(きずな)」という言葉が流行り、それが美化された感じで言われていることに疑問を持たれたことから生まれたそうです。私も同様の感じを受けていましたので、これには共感しています。今は「寄り添う」という言葉が流行っていますが、これも「よりそう」の中に「りそう」が入っていることを自覚した方がよいです。

キリスト教の信者か未信者かの違いに関係なく、現在の日本人の多くは、聖書が示す神は天地の創造主であり「全能」といわれていることを知っています(キリスト教の基本信条の中の基本信条とも言うべき使徒信条の原型である初期の「古ローマ信条」では、神は天地創造主とはされていないが「父」として全能とはされている)。イエスも、人にはできなくても神はなんでもおできになる旨を述べておられます(※旧約聖書における「全能」に関しては、当サイトの「聖書が示す『神』に『体』はあるか?」の最初のほうをお読み下さい)。

そしてヤフーのサイト「知恵袋」などを見ると、次のような問いが投げられます。

「神が全能であり愛であるなら、なぜ人間にとって良いことだけが起きて、悪いことは起きないようにできないのか?」

世界には人間にとって善いこと(福)も悪いこと(禍)もあるという現実を認めるところからしか信仰は始まりません。それは自分自身が苦難に遭っていない人間にして言えることだと言われるのなら、無理に神を信じ続ける必要はないでしょう…と言いたい。そんなに神の義を疑うのであれば、いっそ信じるのをやめればよいのです。それを無理に信じ続けようとするから、くだらない神義論的問いが繰り返されるのです。自分が苦難に見舞われて信仰と矛盾すると言うのなら、信者をやめればよいだけのこと。それが出来ないのは滅びを恐れるからでしょうか?御子イエスでさえ、十字架刑の苦しみの中で父なる神に何故?と問いました(単に詩篇22篇冒頭句を暗誦しただけではないでしょう)。それは神の救いのはたらきを否定するようなことです。それでもイエスは神によって起こされたのです。人間もそれほどまでに神を信じられないのなら潔く神を疑い抜いて絶叫して果てればよいのです。それで滅びるか復活するかは神のみぞ知るです。信仰は最終的にはそういった賭けになります。ただ、普通の賭けと異なるのは勝ち負けの結果を当人が知ることは無いということです。

「善悪」に関する説教としては、たとえばアダムとエバが善悪の木の実を食べて開かれた目は、神のご意思を理解できない「的はずれ」(ハマルティア)の視界になってしまったという解釈が可能です。世界と人間に関する表層的な事柄ついては自分たちが裸であることを恥ずかしく思ったように目覚めたわけですが、逆に、深層にある神のご意思については見えなくなったのです。

そこで、イエスファリサイ派の人々に対して「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ9:41)と言われたことを想起します。

すなわち善悪の木というのは、人間にとっての善悪であって、神にとっての善悪とは必ずしも一致しないのです。人間にとって善いことが神にとって善いことだとは限らないし、悪いことも同様です。となれば、人間が神に対して、なぜ人間にとって善いことずくめの世界にしてくれないのか?と問うこと自体、神をないがしろにする不信仰的態度であり罪によることだと言えます。

あるいはまた、創造主なる神が「全能」だと言うなら、何故、御子キリストを十字架刑で死なしめるようなことをせずして、直接的な罪の赦しを成し得なかったのか?と問うことも、その罪による迷いであると自己批判せねばなりません。信徒が実存をかけるべきキリスト教の特殊性は、この十字架の贖罪福音としての特殊性なのであり、父なる神をより普遍的に捉えようとする志向性は排されて然りです。

以下、小田垣雅也氏が創世記の創造神話に関して述べていることを引用します。※濃い字は自分による。

<アダムとエバの物語を知らない人はいないだろうが、そこにはこうある。神がアダムのあばら骨からエバを作られたとき、二人とも「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(二章二五節)。その後、蛇の誘惑によってエバが神によって禁じられた木の実を食べ、アダムもそれを食べると、彼らは「善悪を知るもの」となり(因みにいえば、当時のユダヤ教の語法では、善悪とは「すべて」という意味である)、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(三章六~七節)、というのである。つまり、そこでアダムとエバ、すなわち人間は(アダムとはもともと固有名詞ではなくて、人間という意味)、すべてを知る者となり、自立した自意識が生まれたのである。羞恥は、自意識があって初めて生まれる。自立した自意識のないところでは羞恥もない。今日の聖句はそれに続くものである。すなわち「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞えてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」。この物語によると、神とは、人間が「もともと」結び合わされていたもの、少なくともその前で裸であっても恥ずかしくないようなものだということである。そこでは人間の自意識は生まれていない。それが、その神の前で自分たちが裸でいても、恥ずかしいと思わなかった理由である。しかしそのような神とは、人間に自意識が発生する以前のもの、その意味で、人間の意識にとっては、「意識外」にあるものであるということであろう。言い換えれば、この神は、少なくとも人間の意識にとっては、意識の届かないという意味で、無なる神であるということになる。したがって人間の意識にとっては、有とも無とも言えない絶対無ということになろう。つまり、人間が自分が自立した意識を獲得することに対して払わなければならなかった代価は、「もともと」結び合わされていた神と、切り離された自己ということである。それが、人間が自立した自己意識をもつということだ。人間の自立した自己意識は、禁断の木の実を食べることで、神の前で自分たちが裸であることが恥ずかしいと思うことと引き換えに生まれたのである。しかしこのような、「人間がもともと結び合わされていた神」とは、少なくとも人間の意識の及ばないところにいます神、つまり人間の意識にとっては絶対無なる神ということになるだろう。人間の自己意識の発生と、人間が神を対象として意識し、その前で自分が裸であることが恥ずかしいと思うようになる神とは、同じことの表裏なのであろう。そのような、神の前で裸でいることが恥ずかしいという自己意識の発生そのものが、人間の罪、原罪ということなのではあるまいか。動物は裸だが、それを恥ずかしいとは思わない。したがって、動物には自意識もない。原罪意識もないだろう。人間が神からと切り離されるされるとは、人間が自立した意識をもつということではないか。その人間に向かって神は「どこにいるのか」と問うている。神と「再び結び合わせる」、つまりレリジョンということの含意は、このような、一度切り離されてしまった人間と神との関係を「再び結びなおす」ということであるが、そのことは、人間の意識の対象外にある、その意味で、絶対無なる神を暗示しているのではあるまいかと思われる。>(~みずき教会説教「結ばれていたもの」)※太字は自分による。「レリジョン」に関しては、みずき教会説教「懐かしさ」も参照。

「善悪を知る」に関しては、< たびたび書いたことがありますが、「善悪を知る」とは、神のように「すべてを知る」ということです。つまり、神から独立した人間の成立です。もともとアダム(創世記二の五)とは、土からできた人間ということです(エヴァは「命」の意。同、三の二〇)。>(~みずき教会説教「手で考える」)

細かい釈義はともかく、小田垣氏も私も、堕罪の出来事の本質とは結局、小田垣氏は自己意識の発生、私は表層しか見えない目覚めと言い表しましたが、要するに「的はずれ」と言われているとおり、神の意志とずれた意志のために神の御心がわからなくなるということです。

ところで、この「幸福志向と救済志向」と名付けた記事の要点は、プラスはマイナスを媒介してこそ得られる……肯定は否定を媒介してこそ成り立つ…ということです。No pain, no gain! (痛みなくして得るものなし!)です。

以下の、吉本隆明氏によるヴェイユの神論も、否定媒介的だと言えるのでしょうか。

< つまり、ヴェイユの神の考え方は、たいへん、ぼくらに、ある意味では、わかりやすい考え方に近づいていますし、また、ある意味で、非常に徹底していて、神学的にいうと、あらゆるキリスト教的な信仰に対して、ぜんぶアンチテーゼだと、ぜんぶ違うんだと、苦痛と、不幸と、死しか、人間は神に到達する道はないっていうふうな言い方になっています。>(~「シモーヌ・ヴェイユの神」)

吉本隆明の183講演 - ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)

「否定媒介」という言い方は、当サイトの「神話と歴史」で引用している八木誠一氏の書評「聖書神学の基本問題 熊沢義宣著『ブルトマン』増補をめぐって 」を参考にしたのですが、一般的には「否定的媒介」というふうに「的」が入ります。私個人がこの表現を初めて見出したのは北森嘉蔵氏の著述の中でしたが、おそらく『対話の神学』(教文館)あたりだったと思います。例は下に挙げていますが、ここでは、「ヘーゲルの根本思想が否定媒介的であり他者媒介的であることについては、疑いの余地はない。」(~『哲学と神』〔日本の薔薇出版社〕p21)だけ引用しておきます。

聖書における否定媒介的使信として一つ挙げておくと、使徒パウロイスラエルユダヤ人と異邦人との関係について述べている箇所です。

「そこで私は言う。ユダヤ人たちは倒れるために躓いたのであろうか。断じてそんなことはあってはならない。むしろ彼らの罪過によって、救いが異邦人たちへと〔至り〕、それが彼らに妬みを起こさせる結果となるのである。」(岩波版〔青野太潮〕訳 ローマ人への手紙11:11) パウロの伝道からして、「いかにかして私の同胞に妬みを起こさせて、彼らのうちの何人かを私は救いたい」(14)とあるように、「異邦人たちの〔ための〕使徒」(13)と自覚しながらも間接的・否定媒介的に同胞ユダヤ人をも救いに導こうとするものでした。しかしパウロの救済の論理が本当に「否定媒介的」と言えるのかは、イスラエルの民が「福音」に従えば「神の敵」ではあっても「選び」に従えば「神に愛されている者たち」である(28)という対神関係の二重性現実を示す言葉や、その根本をなす「神の恵みの賜物と召しとは、破棄されることがない」(29)という対神関係における原理を示されるとわからなくなります。何故なら、選民イスラエルは一見、異邦人ないしは全人救済(32)のための媒体であるかのようで、実は選民であるがゆえに媒介される対象でもあるわけです。言わば、自分も含めた神の救済対象を自ら否定的に媒介していると言えましょう。この矛盾かつ複雑な感覚は、パウロが示す「神」についても言えることです。パウロの「神」は、「すべての者を憐れむため」に「すべての者を不従順へと閉じ込め」る(32)という、人間から見れば手間のかかることをあえてなさる救済者です。そのはたらきも、出エジプトの時のように、一方では民を導き、一方では民の敵をして民を苦難に陥らせ進行を妨げさせるという矛盾した行動として現れます。創造主が矛盾に満ちている以上、被造世界の現実もその矛盾を反映しており、イエスの福音は逆説となり、神学は矛盾を観念的に解決する弁証法が哲学から神学への橋渡しになっています。

パウロは神の「愛」とか「憐れみ」の面だけではなく「峻厳」の面をも示しています(22)。ところが、多くの信徒は前者の方ばかりを偏り見て、後者の方をまったく見ようとはしません。最終的には前者が前面に出るとしても、今のコロナ禍のような時には、後者の面から示されるメッセージを聞きとらなければならないし、また、宣教者は世間の誤解や批判を恐れずに預言者のように大胆に後者の面をも語るべきなのです。試練の中に逃げ道が備えられているのは、あくまで信仰者であって、不信仰者にはそもそも試練はなく逃げ道もないのです。対神関係なしに生きるべく定められているからです。それが「滅び」です。

ガラテヤ人への手紙3:22「しかし聖書は、イエス・キリストへの信仰によって、信じる者たちに約束が与えられるために、すべてのものを罪のもとに閉じ込めたのである。」も、注には「イエスによる『解き放ち』(五1)の逆説的前提。」とあるので、これも「罪のもとに閉じ込めた」という否定的な事柄を媒介して「イエスによる解き放ち」という肯定的な出来事が起こるということです。ただし、注意しておくべきことは、パウロが、特にロマ書3章で述べていることです。親鸞的に言えば「本願ぼこり」という誤解です。
<もしも私たちの不義が神の義を明らかに示すのだとしたら、私たちは何と言う〔べき〕か。怒りを下す神は不義なのではないだろうか」。私は人間的に〔理屈を〕語っている。〔しかし〕断じてそんなことはあってはならない。もしそうだとしたら、神はこの世界をどのようにさばかれるであろうか。(中略)つまりある人たちが、「善なることがらがやって来るために、悪なることがらを為そうではないか」と私たちは言っている、と語っているように。〔そんなことを言う者たちが〕断罪されるのは当然である。>(5~8節/岩波版 青野太潮訳)

このブログで言うところの「否定(的)媒介」というのは、神の善が現わされるために人間の悪が必要だ…などという意味ではないのです。また、パウロにおいては「律法」が「キリストへと至る私たちの養育係」と言われており(ガラテヤ3:24)、「律法は怒りを生じさせるのであり、律法のないところには違反もない」(ローマ4:15)とか「律法がなければ、罪は〔人に〕帰せられない」(ローマ5:13)とか「律法は、罪過が増し加わるようにと、〔この世に〕入り込んできた」(ローマ5:20)とか「律法をとおしての罪の欲情が私たちの肢体のうちにあって働いていた」(ローマ7:5)とか「私は、律法をとおしてでなければ、罪を知ることはなかった」(ローマ7:7)とか「律法がなければ罪は死んでいる」(ローマ7:8)と言われているのを見ると、パウロにおいて「律法」はあくまでも否定的・消極的な概念かなあと思いきや、「律法〔そのもの〕は聖いものであり(中略)善いもの」(ローマ7:12)と言っています。次の13節「善いものをとおして私に死を生じさせつつ、罪が露わにされるため」というくだりを見ると、これはむしろ「肯定的媒介」だと言える気がします。そしてまた、「律法は霊的なものである」(ローマ7:14)と言うのですから、律法のはたらきを悪魔の仕業のように解して福音信仰に至るための否定的媒介とすることはもちろん無理です。以上の点は誤解なきよう、お願いしておきます。

 

例文①:「神学的宗教哲学の立場として武藤がとりあげるのはキルケゴールである。これは、神学と哲学が否定的に媒介され宗教哲学は神学と哲学の言わば境界線、『間』にある。そのことをキルケゴールに即して言えば、宗教性Aと宗教性Bとの関係ということである。」(~小田垣雅也著『哲学的神学』〔創文社〕p13)

例文②:「『宗教哲学』(一九五五)の中で、武藤は宗教性AとBとの間の否定的媒介の関係を説明するのに、しばしば西田幾多郎の『逆対応』という語を用いている。このことは、武藤の言う神学的宗教哲学の立場が、単に宗教性AとBとの否定的媒介という、言わば一所不住的状況だけには留まっていないことを暗示している。即ち宗教性AとBとの否定的媒介という循環の場はどこかということが問われなければならない。」(同上、p16)

例文③:「特殊的なものは科学を進歩させる力となっている。特殊的なものと一般的なものとの対立によって科学は発達する、或いは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。かように科学が弁証法的構造をもっているということは、現実の世界が弁証法的なものであるということに相応している。」(~三木清著『哲学入門』)

例文④:「哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。哲学的探究の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。」(~同上)

例文➄:「もしこの世界に異なる福音というものが一切現れないのなら、以上のような意味での神学の必然性は生じようがないのです。神学が暗黒という否定によって媒介されるという性格が、おわかりになるでしょう。神学は究極的に言えば、自己が存在しなくなることを念願しながら存在しているのです。」(~北森嘉蔵著『神学入門』p8)

例文⑥:「キリスト論とはどういう真理でありましょうか。それは、直接的には神と接触しえず、神の言に従順でありえない私たちを神が赦し、征服して、神の言に従順な者にまで成らせて下さるという真理であります。この場合には、神に従順でありえないという否定が介在しています。〔※「介在」の各文字に傍点あり。〕 神の側から言えば、神にそむく反逆者が他者として神の前に実在しているのであります。しかも、その他者は真実の他者として固有性をもっております。実在的他者としての固有性であります。キリスト論は、否定媒介的・他者媒介的ということを、その中心的内容といたします。」(~同上、p28)

例文➆:「ルターのキリスト神秘主義の特質は、否定媒介的というところにある。〔※「否定媒介的」の各文字に傍点あり。〕 人間主体の否定的固有性を媒介しているということである。『媒介』とは、他者の固有性のままでその他者を自己の内に包むことである。(中略)ルターがキリストについて語るとき、それは十字架のキリストのことである。キリストによる媒介は、キリストの十字架による媒介である。したがって、さきに述べられたキリスト神秘主義は、十字架神秘主義にまで具体化する。十字架は神の否定媒介的な愛を示すから、十字架神秘主義はあの直接的な神秘主義から厳密に区別されることが明白となる。しかも、その否定媒介的な神の愛と神秘主義的に合一するのである。(中略)十字架における否定媒介的な神の愛は、人間主体の否定的固有性を征服して、彼を神と合一せしめるに至る。これが十字架神秘主義の成立である。(中略)しかし、そこにおいて信仰主体が合一する対象は、直接的な『神』ではなくして、否定媒介的な十字架のキリストなのである。」(~北森嘉蔵著『哲学の神』p33~35)

例文➇:「ヘーゲルの根本思想が否定媒介的であり他者媒介的であることについては、疑いの余地はない。それがキリスト教に最も近い哲学といわれ、宗教改革と結びつけられることも、いちおう首肯されよう。しかし、問題は、このような否定媒介的・他者媒介的な思想が内実的にどのようなものであったかということである。(中略)否定媒介的・他者媒介的思惟は、自己が自己の外に出ることである。この『外』が他者であり否定である。しかし、ヘーゲルにおいて特徴的なことは、この『外に出る』ことがあくまで自己の『内』でなされるということである。(中略)否定的他者が実在的である場合、自己は絶望に陥る。しかし、ヘーゲルにおいては、『外』は『内』にあり、否定的他者は実在的でなく観念的であるから、そのような他者によって自己は絶望させられることはない。『観念化』とは、自己が他者を完全に自己の支配圏内に入れることである。したがって、観念論は絶望のない哲学となる。」(~同上、p21~22 ※「内実的」、「実在的」、「観念的」の各文字に傍点あり。)

例文⑨:「今やヘーゲルにおいてその否定的媒介の論理がこの困難を解くことが出来るとすれば、その特殊における二重性転換性が徹底的に顕現せしめられなければならぬ(中略)しかるにヘーゲルは(中略)単に特殊を分割から全体へ復帰せしめることによって達せられる。これは論理的にいえば明白なる同一性の立場であって否定的媒介の立場ではない」(~「田辺元全集」第七巻 二四四頁。~北森嘉蔵著『哲学と神』p17~18)

例文➉:「著者によれば、『神学と歴史との両者の関係は否定を媒介とする弁証法的関係である』」(~北森嘉蔵氏の書評「ハヤトロギアをめぐって ― 有賀鉄太郎博士著『キリスト教思想における存在論の問題』― 」)

例文⑪:「『個』はみずからの根源たる『種』を否定して自存しようとする。これが『分有』(種の論理)に対する『分立』(個の論理)である。しかるに、この『分立』は利己主義的個人を成立させる一方で、『種』を『類』へと媒介的に高める契機ともなりうる。翻って言うなら、『類』は(『個』によって否定的に媒介される)『種』によって媒介されてのみ成立するのであって、『現象形態より言えば』、『種』と異なるものではなく、『種』の普遍的側面を言い表したものなのだ。『個』によって否定的に媒介されるとはいえ、しかし、『種』が先在することに変わりはない。」(~合田正人氏の論文「『種の論理』論争をめぐって ―高橋里美、務台理作再考― 」)※こちらは明らかに玄人の文章です。「否定的媒介」といった表現は、西田哲学よりもこちらの田辺哲学(「種の論理」)の方により関係があるのではないかなと思いました。なぜならこの論文内で引用されている高橋里美氏の言葉に、「この絶対媒介の哲学は媒介の概念を基礎とするものであるであることはいうまでもない。」云々とあるからです。しかし西田には次の例もあります。

例文⑫:「私と汝との間には、同一の一般者に於てあるものとして、色が色に干渉し、音が音に干渉する意味がなければならない。私と汝とは共に弁証法的限定によつて限定せられたものとして、私と汝とは絶対の否定によって媒介せられてあると考へられねばならぬ。斯く絶対否定の媒介といふことが私と汝との間に物質界といふものを考へることとなるのであるが、かかる絶対の否定面といふものは私と汝とを切断するものではなくして、私と汝とを媒介すべく置かれたものでなければならぬ。」(~西田幾多郎氏の論文「私と汝」)

例文⑬:「この二つの破綻を避けるためには、罪の固有性という否定的現実を媒介として、それを仲保媒介するキリスト論を明確化せねばならない。一言にしていえば、否定媒介的なキリスト論である。これによって、罪の固有性を位置づけると同時に、キリスト論を確保することができるのである。」(~北森嘉蔵著『対話の神学』p184 ※「否定媒介的なキリスト論」の各文字に傍点あり。他の箇所で「媒介性」の英訳語は mediate とされている。)

 

疲れました( ;∀;)。上の引用でわかるとおり、北森氏が「否定媒介的」という言葉を多用しています。「十字架」と言えば、キリスト教宗教哲学的理解において「十字架」は、下に引用する小田垣氏の文章のように、神の子キリストの「自己否定」・「自己無化」(ケノーシス)と解されるようですが、それはどうでしょうか?イエスの存在を否定し無化したのは父なる神であり、イエスはただの主体ではなく客体的主体であるとも言えます。

<何の宗教でもそうだが、キリスト教(この場合)の場合、キリスト教を否定し、それを超え出る要素があってこそキリスト教でありうる。「文字は殺し、霊は生かす」(コリントⅡ、三の六)であり、不立文字・教外別伝である。そしてそれこそが、イエスの十字架上での自己否定の意味でもあるだろう。十字架は、それ自体としては透明になることによって、十字架としての意味をもちうる、とティリッヒも言っている。宗教には、宗教自体の自己否定が必要なのである。>(~みずき教会説教「母の日」)
ところで、聖書における独特な論理としては、逆説性・逆理性ということがよく言われ、キリスト教を「逆説の宗教」などと呼ぶ者もあるようですが、それはともかく、弁証法についてちょっと調べました。おもな初歩的入門用参考書として、(A)中埜肇著『弁証法 
自由な思考のために』(中公新書)と、(B)松村一人著『弁証法とはどういうものか』(岩波新書)と、(C)岩崎武雄著『辯證法 ―その批判と展開― 』(東大學術叢書)と、(D)茅野良男著『弁証法入門 正しい認識を求めて』(講談社現代新書)の、計4冊を選びました。まず(A)から引用します。

目次は、「はじめに」、「序説」、「第一章 弁証法の本質(理想型)」、「Ⅰ ことばの問題」、「Ⅱ 対話と弁証法の構造」、「Ⅲ 弁証法の精神」、「第二章 弁証法の歴史(現実型)」、「1 ソクラテスまで」、「2 プラトン」、「3 アリストテレスから中世まで」、「4 カント・フィヒテ」、「5 ヘーゲル」、「6 マルクス・エンゲルス」、「7 キェルケゴール弁証法神学・反弁証法」、「おわりに」、「参考文献」・・・となっています(最小単元の見出しは省略)。

「はじめに」から順に、ポイントと思われる箇所を引用し、特に重要と思われる箇所を濃くし、必要に応じて感想も書きます。ルビは〔 〕に記入。文字に傍点が付いている場合は、その旨、〔※ 〕で表記。省略する場合、比較的短めの省略は(略)、長めの場合は(中略)と表記。

<「弁証法」は現代では一見はなはだ知性的に見えるが、実は健全な知性にとってすこぶる有害なものになりさがってしまっているとも言えよう。内容が不明確でただひとの心をそそるだけの煽動語に甘えることは知性の堕落でしかないからである。ある哲学事典の「弁証法」の項には、賢明にもこんな断り書が記してある。「このことばは実にさまざまな意味を受け入れてきたので、これがそもそもどういう意味に解されているかということを厳密に示しておかなければ、それを有効に用いることはできない。しかしこういう制限をつけておいても、まだ不当な連想を喚び起こす惧れがあるから、警戒する必要がある。」(A. Lalande〔ed.〕:略)言うまでもなく「弁証法」はもともと哲学の土壌に芽生え、そこで育ったことばであって、ギリシアの昔から現代に至るまで、きわめて重要な哲学的意義を持っている。しかし不幸にも、その長い歴史のなかで、野放しと言ってもよいほどに、その意味内容や使用法を多様化してしまったために、思想の歴史に登場するさまざまな「弁証法」に対して一貫してあてはまるような定義を与えることはもはや不可能になってしまったと言えるほどである。たとえば現代の多くのひとびとは「弁証法」と聞けば、すぐさま反射的に「正・反・合」とか「止揚」〔アウフヘーベン〕を連想するかもしれない。しかしそういう観念と結びつくような「弁証法」は、それの長い歴史のなかでもごく限られたもの(簡単に言えばヘーゲルのそれ)でしかないのである。そしてその背景には哲学そのものの歴史とほぼ等しい長さを持つ弁証法の歴史があり、そこでは実に多種多様な形態の弁証法が出現していることを私たちはまず知らなければならない。かつて、ともに日本を代表する二人の世界的な哲学者である西田幾多郎博士と田辺元博士との間に激烈な学問的論争が交された時、田辺博士は恩師である西田博士に面と向って、「だから先生は弁証法がおわかりにならないのです」と厳しく叱咤されたという伝説がある。>(ii~iii)

<…私は二つのテーゼを基礎に置く。第一に、弁証法は論理でもなければ法則でもなく、ひとつの思考方法(中略)であるということであり、第二に、ヘーゲル以降のいわゆる近代弁証法だけがけっして弁証法そのものではなく、それのひとつのタイプにすぎないということである。>(p5)

<さて、ディアレクティケーという語は、もっと溯れば、動詞ディアレゲスタイ(略)から由来することが知られるが、(中略)ディアレゲスタイはディアロゴス(略)と同じく「対話(する)」を意味するが、接頭辞ディアの持つ意味を充分に考慮すれば、「参加者が話題を分割し、相互に相手の立場を理解しあいながらテーマを共同して追求し、これを深めてゆくような語り合い」を意味するという。(中略)以上に述べたところから明らかなように、要するにディアレクティケーの語源は「対話」(ただし上に記したように深い意味での)であるから、ディアレクティケー・テクネーはもともと「対話の技術」である。弁証法がしばしば「問答法」と呼ばれる理由もここにある。(中略)ところで私は弁証法というものを単なる「技術」から一歩進めて「方法」として、しかも「思考の方法」としてとらえるべきであると考える。すなわち弁証法は論理でもなければ、法則でもなくて、ひとつの「思考方法」なのである。〔※「ひとつ」の各文字に傍点あり。〕しかも弁証法の語源は「対話」であった。さらにこの場合に、語源とはただ弁証法の言語的・歴史的な起源を示すだけではなくて、実はむしろそれの本質的な始元、言い換えればその意味内容の原点を示すものであると私は考えた。したがって弁証法は「対話をモデルにした思考」、すなわち本質的・根源的に「対話的思考」だということになる。これが弁証法を考察する場合の私の出発点である。>(p16~17)

<Ta「次の台風は北西に進んでいる」に対して、〔※「に対して」と各文字に傍点あり。〕Tb がたとえば「しかし上空の偏西風のためにそれは進路を北に振るだろう」〔※「しかし」の各文字に傍点あり。〕というものである時、初めて対話が成立つのであり、「しかし」のなかに対話の必要条件としての両者の内容的な連関が含まれているのである。今まで述べてきたかぎりでの対話の条件を弁証法との関係を予想しながら整理してみると、次のようになる。①二人の語り手の間に共通の話題があること。②先行する発言Taは部分的なものであるから、自分自身のなかに否定性(欠陥)を含むこと。つまり肯定的なものは必ず否定的なものを含んでいること。(このことはきわめて重要である。)③したがってTaは必然的に自分を否定しながら補うようなTbを産みだすこと。④TaとTbとは相互に相手をはっきりと志向する対立の関係にあること。(中略)「イエス」よりも「ノー」のほうが、肯定よりも否定のほうが生産的だということに注意する必要がある。〔※「生産的」の各文字に傍点あり。〕(このことは弁証法にとっても重要なことである。)(中略)いかなるものにせよ、およそ二つのものが相互に関係し合っていることは、両者が対立しながら依存し合っていることを意味する。AとBとが対立している時、〔※「対立」の各文字に傍点あり。〕Aは一方ではもちろんBを否定しようとする。そうでなければ対立という関係は成立たないであろう。しかしAがBを完全に否定し、Bがまったくなくなってしまえば、対立関係もなくなり、したがってその関係のなかにあるAの存在意義もなくなる。だからAはBを否定するだけではなくて、同時に他方ではBを肯定してもいるわけである。同じことがTaとTbについても言える。要するにTaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立のなかで共存している。こういう、言ってみれば対立的共存の関係を相互媒介という。そして相互媒介の関係にあるものは、当然ながらそのことにおいて相互に補い合ってもいる。こうして対話するTaとTbとは相互媒介と相互補完においてあるということになる。もちろん媒介には強弱深浅という程度の違いもあるし、(中略)相互媒介がなければ、闘争ということさえも不可能であろう。そして、闘争するものは、そのかぎりで、実はたがいに補い合っているとさえ言うことができる。このように考えれば、対話する二個の発言TaとTbとは、論理的にも人間的にも相互に媒介されていることが知られるのである。(中略)さて対話が成立つためには、相手の発言に対する無条件の肯定ではなくて、ある程度の否定〔※「ある程度の」の各文字に傍点あり。〕(それが「しかし」で表わされる)が必要であり、肯定よりも否定のほうが生産的であると前に述べたが、相手の発言を完全に打消すことに終始する無条件の否定、〔※「完全に」の各文字に傍点あり。〕否定のための否定は、そこから積極的なものが何も産み出されないことにおいて、無条件の肯定と同じように非生産的であり、もちろんそこには対話も成立たないであろう。対話というものはやはり真理の発見というもともと生産的な目的のために行われるべきものだからである。(中略)少なくとも現実の対話においては、たがいに「しかし」と言い合うこういう振子運動が限りなく続くものではなく、発言内容(情報)が相互に働きかけ合うことによって、語り手の間の対立度も次第に収斂されて行って、遅かれ早かれどこかで一致するはずである。そのような一致点(一致した場合の発言)をTmとし、議論を簡単にするために、かりにTaとTbがすぐ次の段階で和解点Tmに達したとする。たとえばTmは「次の台風は偏西風の影響を受けて北北西に進路を変えるだろう」となる。(中略)TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって内容的な働きかけを受け、要するに両者は相互媒介によって総合されてTmとなったわけであるから、〔※「総合」の各文字に傍点あり。「綜合」ではない。〕TmはTaおよびTbよりも内容的にはいちだんと高められ、豊かになったことになる。(いわゆる弁証法のことばをここで使ってしまえば、〔※「いわゆる」の各文字に傍点あり。〕Taが定立〔テーゼ〕で、Tbが反定立〔アンチテーゼ〕で、TmはTaとTbとの総合〔ジュンテーゼ〕であり、TaとTbとの対立はTmへと止揚アウフヘーベン〕されたことになる。)(中略)TaとTbとのどちらが多くTmに含まれるかということは、実はそれほどたいした問題ではないのであって、むしろ大切なのはTaとTbとがたがいに媒介しあいながら何らかの意味で両方ともTmに含まれていること、〔※「たがいに媒介しあいながら」と「両方とも」の各文字に傍点あり。〕さらにこれをTaを基準にして否定的な面に注目するならば、TaはTbによって(ある程度)否定されるが、それがさらにもう一度否定されてTmに止揚されるということ。つまりこのプロセスは「否定の否定」から成立っているということである。〔※「否定の否定」の各文字に傍点あり。〕弁証法においてこのことが重要な意味を持つのは言うまでもない。

*このような「両方とも」ではなくて、あくまでも両者の一方を完全に捨ててしまう「あれかこれか」でなければならないと主張する「弁証法もある。これについては第二章-7「キェルケゴール」の項を参照されたい。>(p26~33)

<さてキェルケゴールの哲学的な関心はけっして超越的な実在や抽象的な理念に向けられるのではなく、ただひたすら、今ここで、このなまなましい現実のなかで、必死に生きている生身の人間の存在とその生き方とに、簡単に言えば「実存」の問題に集中される。実存とは人間のもっとも具体的な、その意味でもっとも根源的なあり方、言い換えれば現実的な人間の主体的な現存在〔ダーザイン〕である。彼にとってはこれこそが哲学のアルファでありオメガであって、それ以外に人間の真剣な思索に値する対象はない。そしてこの自明のことを無視し忘却したというので、キェルケゴールが徹頭徹尾攻撃するのはヘーゲルである。彼の著作はヘーゲルに対する非難と弾劾のことばで満ちていると言ってよい。キェルケゴールに言わせれば、ヘーゲル哲学の核心にあるものは存在と思惟の同一性であるが、それは結局のところ存在を思惟化し観念化すること、要するに「存在」を「本質」へと転化することにほかならない。つまりヘーゲルの哲学は「存在の思考」ではなくて、「本質の思考」のうえに成立っている。そして本質とはもともと客観的なものでなければならず、こういう本質的・客観的な思考(思弁)はいわば傍観的な精神の所産であるから、そこでは当然のことながら人間にとってもっとも切実で重大な「この私はいかに生きるか」という問題が欠落してしまう。こういう点でヘーゲル哲学は人間存在とその生存に対して不誠実であり、本質的に無責任な思想である。その不誠実と無責任は、いっさいのものを精神や理性の自己展開のなかにくるみこんでしまう「体系」、とくに「世界史の哲学」に集約的に表現されている。そこでは人類の歴史の全体が世界理性の発展過程という壮大な体系のなかに収められるが、そのかわりに生きた人間は黙殺されるか、せいぜいのところ「理性の狡智」に踊らされる人形にすぎなくなってしまう。要するにヘーゲル哲学を培う体系的思考は、私たちの眼をもっとも根本的なものからそらす欺瞞的なものである。キェルケゴールにとって哲学的思索の対象となる根本問題は、この「私」が実存として現実的・主体的に生きるということである。そして現実的・主体的に生きるとは、今ここにいるこのかけがえのない「単独者」としての私が、一瞬一瞬に自分の前に示された生き方について「あれかこれか」と「決断」し、そのいずれかを「選択」しながら行為することにほかならない。こういういわばぎりぎり〔※「ぎりぎり」の各文字に傍点あり。〕の真剣な生存はもはやけっして概念や論理によって処理され得るものではなくて、すぐれて「倫理」の問題である。そして「論理には体系があるが、倫理に体系はない。」(『哲学的断片への結びの学問外れな後書』大谷長訳による。以下では『後書』という。)実存として生きる時、私は他者ととり代えのきかない独自の存在であり、しかも現在の「瞬間」における「決断」と「選択」にすべてを賭けるから、どの瞬間も私にとって絶対的な意味を持つ。そこでは量的な連続ではなくて、「質的」で非連続な「飛躍」が問題である。このように生きる私にとって何よりも大切なのは「主体」となること、「主体的」であることである。「主体的になるということが各人に与えられた課題、しかも最高の課題である。」(『後書』)。ヘーゲル的な「客観的反省の道は主体を偶然的なものとしてしまい、それによって実存をどうでもよいものにしてしまう。……主体と主体性とがどうでもよいものになるにつれて、真理もまたどうでもよいものとなる。」(『後書き』)つまりキェルケゴールにとって、真理は絶対的に主体性と深く結びつけられている。だから重要なのは、多くの哲学者たちが考えたように、客観的な真理があるかないかということではない。それは実存とは何の関わりをも持たない。実存にとっての真理はただ主体的な生き方のうちにそれとの関わりにおいてのみ考えられ求められなければならない。したがって真理は主体的なものであり、「主体性が真理である。」(『後書』)しかも主体性とはすぐれて「内面性」であり、この内面性を支えるものは「無限の情熱」である。「無限性の情熱は真理そのものである。」(『後書』)では実存が真剣に生きるなかで、無限の情熱を傾けて必死に求める主体的な真理の内容は何か。端的に言えば、それは「この私の魂が救われるのか否か」ということ、つまり神と人間との関わりであるところの信仰の問題である。「内面性の情熱は信仰である。」(『後書』)この信仰もヘーゲルキェルケゴールとではその本質をまったく異にする。ヘーゲルで信仰とは「(有限)精神による(無限)精神の認識」であって、神と人間とは精神である点では同じであり、また信仰は行為ではなくて認識であった。ところがキェルケゴールは神の絶対的な超越性、すなわち神と人間との質的に無限な距たりと人間の罪の深さとを徹底的に自覚していた(この自覚は彼の多くの著作のなかで、強烈な迫力をもって読むひとの心にせまってくる)と同時に、信仰は彼にとって何よりも内面的な行為であった。(中略)信仰はけっして安らかな境地ではない。「危険なくして信仰はない。」(『後書』)キェルケゴールにとって最高の生き方は真実のキリスト教徒となることである。彼は『人生行路の諸段階』という書物のなかで、人間の生き方を四段階に区別した。その第一(つまりもっとも低い)段階は美的・享楽的な生き方であり、第二は倫理的な生き方である。第三が宗教性の段階であるが、これがAとBに分けられる。そしてこの最後の宗教性Bという段階が真のキリスト者として生きることである。しかもこの生き方は深い内面の努力(「実存は努力であり、努力は無限なものに向けられている」(『後書』)を伴う。何となればこの信仰には理性を超えた重大な逆説と背理とが含まれているからである。キリスト教のうちにある逆説もしくは背理とは、永遠な真理が有限な実存に関わりを持つということである。信仰というものはもともとこういう背理を前提とするから、深い情熱と激しい努力によって果されるべき厳しい内面の営みである。しかも信仰の対象である永遠の真理そのものが大きな逆説を含んでいる。というのはキリスト教の根本教理は「絶対者である神が人間(イエス)の姿をとって生れ(受肉)、汚辱のうちに刑死した」ということだからである。このことこそ「もっとも厳格な意味での逆説、絶対的逆説である。」(『後書』)したがって真実のキリスト教信仰はこういう絶対的逆説としての永遠な真理が有限な実存に関わるという二重の背理である。このような逆説的信仰に基礎を置くキェルケゴール弁証法は「逆説弁証法」と呼ばれる。しかも逆説はもともと人間の量的・連続的な思考を越えたものである(そうでなければ逆説とは言われない)から、信仰はひとつの「飛躍」であり、そこでは「信ずるか信じないか」「救われるか滅びるか」という厳しい二者択一しかない。この点を強調するキェルケゴールは、ヘーゲル弁証法(和解の弁証法、「あれもこれも」の弁証法、「量的弁証法」)を峻拒し、「質的弁証法」(断絶の弁証法、「あれかこれか」の弁証法)を説くのであるが、これはいわば行為の弁証法と言うべきものである。ところが以上に述べた行為の弁証法の根底には、人間とは「精神と肉体、無限と有限、永遠性と時間性、自由と必然の総合」(『死に至る病』および『不安の概念』)であって、過去と未来、永遠と時間との接点である現在の瞬間においてあるという存在の弁証法がある。(実存弁証法とはこういう行為の弁証法と存在の弁証法とが結びついたものである。)しかも人間が総合であるということは、それが無限と有限、永遠と時間、自由と必然の中間に位置するものであることを意味し、「中間にある」(inter-esse)から、人間はすべてのものに「関心」(Interesse)を持つ。そしてこの「関心」から「不安」や「絶望」が生まれてくる。このような気分は、人間の弁証法的な実存の根底から由来するものである以上は、いずれも弁証法的なものであって、(「不安は共感的な反感であると同時に反感的な共感である」……不安の弁証法、「絶望は自分自身に関係する総合という関係における齟齬である」……絶望の弁証法)きわめて深刻な存在論的意義を持つ。いわばそういう気分は実存が深淵の底から日常性の表面に浮かびあがったものであると言えるが、しかも実存は意識されない深みにおいて神につながっている。だからこそ「自分が絶望していることを知らない絶望」がある。絶望とは、本質的に神を離れてはあり得ない実存が神を離れている状態である。だからそれは「死に至る病」なのである。以上に述べたように、キェルケゴールでは実存そのものがもともと弁証法的なものなのである。キェルケゴールの思想や著作のなかにはいわば「弁証法」が溢れている。だから彼が用いている「弁証法」をひとつの定義的な文章に要約することはきわめて難しいが、彼の「弁証法」の発想的な起源を求めるならば、それはやはりソクラテス的な「問答」に見出されると言ってよいであろう。キェルケゴールはもっとも初期の著作におけるように、時にはソクラテスを非難したこともあるが、それはむしろ例外的であって、一般に彼がソクラテスの思想と方法から多くのものを学び、これを高く評価したことはよく知られている。なかんずくソクラテスが真理を直接に伝えることをせず、いわゆる「産婆術」(それを実行する手段が「問答」である)を用いたことは、絶対的な真理というものが間接的にしか伝達され得ない(もし直接的に伝達されるならば、神と人間とのあいだにある無限の質的な差異はなくなってしまうであろう)ことを強調するキェルケゴールのなかに大きな共感を呼んだ。つまり彼にとって「弁証法」は、根本的には、「真理の間接的伝達法式」であった。〔※「間接的」の各文字に傍点あり。〕しかも有名な「無知の知」に代表されるソクラテス的な「皮肉」〔エイローネイア〕が示しているように、ソクラテスの問答では否定的なもの(たとえば無知)のなかに肯定的なもの(たとえば知)が含まれ、両者は相互に矛盾しながらも依存しあい、密接にからまりあっている。これは第一章でも述べたように、弁証法の本質に属することであるが、キェルケゴール弁証法のこの本質を、何よりも人間の存在の根源に関わるものとして把握し、それを実存のなかへととりこみ、実存的思考に不可欠なものとして内面化したのである。このように考えるならば、彼の弁証法は「実存が自己の内側に根源的な矛盾と逆説(人間の構造や神と人との断絶)を事実として自覚し、この自覚を踏まえて生きるためのロゴス」と定式化されることができるであろう。つまり「実存弁証法は内面化の弁証法であり、質的区別化の弁証法であり、実存する単独の主体性が倫理的・宗教的関係のなかの逆説につまずく座礁弁証法である。」(E. Hirsch「セーレン・キルケゴール」、白水社版『キルケゴール研究』より。)(中略)ひとが一般に呼び慣れているように、理(観)念弁証法ヘーゲル)、唯物弁証法マルクス・エンゲルス)、実存弁証法キェルケゴールと名づけるとして、この三者に共通な「弁証法」はいかなる意味内容を持っているであろうか。三者の共通項を見出すのはむつかしいが、私はそれを次のように総括することができるのではないかと思う。「(1)人間の外側と内側とのあらゆる領域に矛盾や対立が存在するということを基本的な事実として認め、(2)そのような矛盾対立においてあるもの(たとえば主観と客観、存在と思惟、精神と物質、神と人間、永遠と時間、無限と有限、支配と隷属など)の関わり方を統一的に把握しようと試みる考え方が弁証法である。」このテーゼは少なくともヘーゲル以降のいわゆる近代弁証法には該当するであろう。ちなみにここに含まれた上記の三つの弁証法を総合しようとする努力を私たちは現代の実存哲学者サルトル弁証法に見ることができる。>(p171~179)(※ここでの引用にあたっては改行はせず、小見出しは省略しました。また、「キエルケゴール」と「エ」を大文字にしているのを小文字にしました。)

北森氏は次のように述べています。

キェルケゴールは、弁証法ヘーゲルから継承しながら、しかもそれをヘーゲルとは別の質をもつものへ転換させた。量的弁証法から質的弁証法へ、和解の弁証法から逆説の弁証法へ、というようにも表現された。(中略)弁証法はいずれの場合にも矛盾を本質的契機としているが、しかし、矛盾を問題としているからと言って、同じではない。矛盾にも質の相違がある。一つは「悩める矛盾」であり、他は「痛みなき矛盾」である。総括的に言えば、「痛み」の有る無しによって、矛盾や弁証法の質が違って来るのである。元来、弁証法は論理であり、論理は形式的なものである。かりに「質的弁証法」と言われようとも、その「質的」という規定は依然として形式的な規定である。矛盾とか否定とかいうことも、形式的概念として考えられているかぎり、質的区別は不可能である。質的区別を、形式的にでなく、質的に表現しようとしたとき、キェルケゴールは「痛み」が有るか無いかというような表現を使用せざるをえなくなったのである。ヘーゲルキェルケゴール弁証法を自己の方法論としており、ともに矛盾を中心として考えている。しかし、キェルケゴールヘーゲル弁証法は喜劇的なるものであり、自己の弁証法は悲劇的なるものであると考えた。その際、二つの弁証法の相違、二つの矛盾の相違は、もはやいかなる形式的概念規定によっても表現されることはできず、質的表現を用いざるをえなくなったのである。その時、キェルケゴールが用いた表現が、「痛み」であった。(中略)「神の内における戦い」こそ神の痛みである。そして重要なことは、「戦い」という言葉は、あくまで実在的な「外」との間にかわされる戦いを意味するということである。〔※「実在的な」の各字に傍点あり。〕 神の愛と対立する神の怒りが、その実在的な「外」である。〔※「対立」の各字に傍点あり。〕 怒りを意味するドイツ語の Zorn が「分裂」を表わす接頭語 zer から由来しているという説は、注目すべきである。ゴルゴタにおいては、「神が神と戦い給うた」(WA. , 45, 370)。罪びとを裁いて死を命じ給うべき神が、この罪びとを愛して赦そうとし給う神と戦ったのである。しかも、この相矛盾する怒りの意志と愛の意志とは、同一の神の意志なのである。この同一性こそ神の痛みにほかならない。キェルケゴールのいわゆる「悩める矛盾」である。ルターのいわゆる「十字架の神学」(theologia crucis )である。神の愛を神の痛みたらしめるのは、神の怒りの実在性である。神の痛みとは、神の怒りと神の愛という絶対に相容れないものの統一である。ルター神学において神の怒りの実在性が譲り渡しえない契機となるゆえんである。>(~『哲学と神』p15~28)

ついでに「弁証法神学」についての記事もポイントと思われる部分だけを抜粋引用します。

弁証法神学はその名の示すように、キェルケゴール弁証法概念に依拠するところが多いので、ここで簡単な瞥見を試みることにする。バルト自身が、一九一九年ごろ、彼の『ロマ書』の初版と第二版とのあいだの危機的な転回点において、キェルケゴールが真剣な意味で自分の思想のなかにはいってきたと語っている。(前掲『キルケゴール研究』所収のバルトの講演より。)事実バルトは『ロマ書』第二版の序言のなかで、その初版から第二版への展開を可能にした四つの要素の第三番目に「新約聖書理解のためにキェルケゴールおよびドストエフスキイから学ばねばならない事柄に対する注意の増大」(『バルト著作集』第一四巻、吉村善夫訳、新教出版社、一九六七年)を挙げ、同書の本文中にもキェルケゴールからかなり多くの個所を引用している。たしかに「神と人間との無限の質的差異を抹消するすべての思弁に、キリスト教を直接的に伝達しようとするあらゆる試みに……彼(キェルケゴール)が肉薄(攻撃)するのを私は見た」(前掲の講演より)とバルトが語るかぎりにおいて、彼がキェルケゴールからある決定的な影響を受けたことは明らかである。しかしバルトは長くその影響下にあったわけではなく、やがてキェルケゴールに対して批判的になる。「キェルケゴールの教説は……料理のためのほんの少しの肉桂であるが、教会やひとびとにすすめる料理そのもの、すなわち正当な神学の課題ではない」(同上)と言い、キェルケゴールに対する神学者の三つの型を挙げて、自分を「キルケゴールを読み、その学校に入り、しかもそこを卒業した」グループに数えている。さてこの弁証法神学(これは一九三〇年代になると分裂しはじめる)とは、簡単に言えば、神学上の近代主義を徹底的に批判することによって、神と世界もしくは人間、永遠と時間、無限と有限のあいだにある質的・根源的な矛盾を徹底的に自覚し、これにもとづいて信仰の事実が持つ弁証法的な本質構造を把握しようとするものであって、究極においては弁証法を用いて「啓示」を理解しようとする営みであると言えよう。そして既成神学に対する深刻かつ強烈な批判性のゆえに、「危機神学」もしくは「拒絶の神学」とも呼ばれる。思うに近代の神学は哲学的観念論の影響によって、神に対する世界の自律性を肯定し、さらに進んで神と世界を同一視し、歴史を神意の実現と見て、そこで神と人間とを直接に結びつけることによって汎神論や神秘主義に著しく接近するに至った。また人間の理性を無条件で肯定することによって合理主義に奔り、文化に究極的な価値を認めて、人間の有限性に対する反省と神の超越性や信仰の厳しさに対する自覚が稀薄になった。弁証法神学はこういうなまぬるい近代主義に対する痛烈な警鐘として、神の超越性と、神と人間との質的な断絶と、啓示の間接性とを強調し、その媒介者としてのイエス・キリストの事実を、歴史と永遠、審判と救済、神と人間という絶対的な矛盾の結びつきとして、私たちの現実存在に関わる切実な自覚のうちへと内面化し、いっさいの人間的なものを捨て去って神に生きることを説く「終末論」を唱えた。このように見るならば、弁証法神学の基本的志向に内在する弁証法は、キェルケゴールのそれと本質的に等しいことは明らかであろう。>(p180~182)

そして、「おわりに」の後半。

<…私が本書を書くにあたって、もし当時の各担当者の研究成果を利用することができたとすれば、少なくとも第二章の内容はこれよりもはるかに充実したものになったことであろうが、当時の記録類はすべてどこへ行ったのか、少なくとも今の私にとってはただちに手の届くところにないため、私はみずからの浅学を顧みず、あえて独力でこれをまとめることになった。しかし本書に展開した事柄は、もともとやはり前述したような研究会の成果にもとづいて論ぜられるべきものであると私は信ずるし、そのような集りによる篤実な共同研究がこれからも日本のどこかで行われることを切に念願してやまない次第である。>(p188)

なお、「参考文献」の原則条件として、「1. 叙述とその対象が一般的であること。」、「2. 容易に入手し得ること。」、「3. 私が参照することの多かったもの。」とされ、邦書は以下のとおり。

「岩崎武雄『辯證法―その批判と展開―』東大出版会、一九五四。」

「小林登『弁証法』青木書店、一九六四。」

茅野良男弁証法入門』講談社、一九六九。」

「谷嶋喬四郎『弁証法の社会思想史的考察』東大出版会、一九七二。」

高峯一愚『存在と論理』理想社、一九七〇。」

「上山春平『弁証法の系譜』未来社、一九六三。」

「上山春平『歴史と価値』岩波書店、一九七二。」

以上です。私はこの本(A)を読んで、「テーゼ」と「アンチテーゼ」との相互媒介とか、「テーゼ」の「否定」は「ある程度の」と言われているように「否定のための否定」という非生産的な全否定ではなくて肯定につながる生産的な部分否定であって、京都学派の言う仏教哲学的「否定」とは意味が違う気がしました。本書で言われている「否定」は相手の存在意義を消滅させるような無条件否定…言わば、無へと向かう消極的・破壊的否定ではなく、むしろ相手の欠けを補って活かすための条件付き否定…言わば、有へと向かう積極的・建設的な否定です。いかに「しかし(ノー)」と言うからといっても、これを「否定」と言うと全否定と誤解されやすいので、私なら「補足」と言い表します。そして「否定のための否定」と似て非なる「否定の否定」ということが肝要であり、これが「テーゼ」が「アンチテーゼ」によって否定され、さらに「ジンテーゼ」によって否定されることを意味しているようですが、これも部分否定の二重であって、全否定の二重ではないので、二重否定とは言えないなと思いました。もちろん、「部分否定」,「全否定」,「二重否定」…これらは引用文にある言葉ではなく、私がまとめのために持ち出した言葉です。ちなみに「否定の否定」は(B)の「いわゆる否定の否定について」(p195~)で、「ヘーゲルはその論理学において、肯定、否定、否定の否定という形をもって概念を進行させますが、このばあい、否定の否定は同時に綜合を意味します。」(p206)というように、重要な意味を持って書かれています。

そしてキェルケゴールの「実存弁証法=質的弁証法」は、時間性とか発展性を伴う標準的な「弁証法」とは異なり、無時間的な二者択一なので、まさに例外的な弁証法(と言えるとすれば…)なのだと思いました。

結局、この本には「否定的媒介」という表現はありませんでしたが、「テーゼ」と「アンチテーゼ」との関係を「相互媒介」とか「相互補完」と言っているので、「しかし(ノー)」という「否定」によって連結しているという観点では「否定的媒介」なのかな?と思うのです。少なくとも「テーゼ」からの方向における「アンチテーゼ」との関係はそういうことでしょう。但し、「否定的媒介」という言葉は一般的には必ずしも上記のように「正→反→合」の形で用いられているわけではなく、要はネガティブな物事……例えば「病気」とか「死」とか「貧しさ」とかいった事柄を経験的に通ることによって、ポジティブな物事……例えば「健康」とか「生」とか「豊かさ」とかいった事柄をより高次で経験することになるようです。これは正と負の二重性の現実認識であり、聖書にも苦難を試練として肯定的に意味づける思考があります。

次に、(B)に移ります。

弁証法には2種あって、1つは「神秘的弁証法」、もう1つは「科学的弁証法」であり、前者は「非科学的」で「逆説的」であり、後者はマルクス・レーニン主義の唯物弁証法ってことです(p4)。著者の松村氏は、「科学的弁証法は、逆説ではありません。」(p43)と明記しています。

私の関心は1つめの「神秘的・逆説的弁証法」ですが、「逆説」の論理という点では「神秘的弁証法」以外に「詭弁・折衷主義」があり、「『詭弁に転化した弁証法』(レーニン」(p73)とも言われているようですが、弁証法と言っても区別を軽視しているようです。これについては関心がありませんので割愛します。

「神秘的・逆説的弁証法」は、日本では京大の西田・田辺哲学の「無の弁証法」に代表されるとのこと(p9~10)。以下、引用。

<じっさい、西田哲学や田辺哲学にかぎらず、神学や神学的哲学のうちでは、両立しがたい矛盾(あるいは両立しがたい矛盾として頭のなかでつくりあげられたもの)は、神秘的で超越的な神のうちでかんたんに解決されてしまいます。中世と近世、神学と科学との過渡期に立ちながら、根本的には新しいものに向い、新しいものを代表していたデカルトにおいても、神学的解決の大きな残りがあります。(中略)いったいに、神と世界との関係は、その間に、一つの深淵がよこたわっているかぎり、一方ではそのあいだになんらかの橋渡しを考えだそうとする試みをつくりだしもしますが、他方、この絶対の矛盾を神秘的弁証法によって合一させようとする試みをつくりだしてもきます。弁証法的神学なるものは、そうした試みであり、西田、田辺的な逆説の弁証法は、中世および現代の神秘的、神学的方法と同じものなのです。田辺哲学は、このような神学的弁証法の根本構造、すなわち結びつかないものを神秘のうちに結びつけるという根本構造を、あらゆる問題のうちに応用しているにすぎません。その一般的方法は、結びつかないものを調和させようとする逆説的で神秘的方向であり、その社会問題への応用は、階級対立を神秘化された国家によって解消しようとする努力であり、>(p37~38)云々

・・・と、けっこう辛らつですが、誤解もありそうです。そして、フォイエルバッハヘーゲル哲学の秘密は神学だと言ったことが引用され(p12/たしかフォイエルバッハは神学の秘密は人間学だとも言ったはずですが、よっぽど秘密が好きなのですね。暇人です)、また、マルクスの「弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行となった。」という言葉も引用されています(第2章目の「神秘的弁証法と対立の調和」という表題のウラ頁、p64)。そもそも宗教哲学弁証法に対して「神秘」という形容がなされる所以は、マルクスのこの言葉ではないかと思われます。

とにかく、マルクス・レーニン主義の思想的立場からすれば、キルケゴールを含めて、神学的な弁証法はすべて科学的ではないと言われるわけです。それはそうでしょう。キルケゴールの「逆説弁証法」なんか科学的であるわけがありません。それなら、神秘的弁証法って何なの?と言えば、次のように書かれてあります。

<田辺氏によれば、弁証法とは、神秘的方法に論理的形態をあたえるものだということになります。ところで、この神秘的弁証法とはどんな根本性格と構造をもつでしょうか。まず、その根本性格から言えば、それは科学的方法からはっきり自分を区別し、科学的方法では解決できない問題をより高い立場で解決すると称し、科学的方法とは原理的に対立する方法をとります。あとでもっとくわしくふれますが、弁証法ときりはなすことのできないヘーゲルも、やはり弁証法を科学的方法からはっきり区別しています。ヘーゲルによれば、科学は原則的に弁証法的ではありえず、弁証法はただ、科学的認識と原理的に区別される「哲学的認識」にのみ固有のものです。>(p10~11)

<神秘的弁証法は、形式論理の同一の原理を超えると称しますが、その実そのなかにはまるこんでいるのです。それは、科学的に、あるいは論理的に思考するかぎり、あくまで、反弁証法的思考を一歩も出ることができません。(中略)逆説と見えるのは、その実、反弁証法的な考えにとってそう見えるだけです。ところが、神秘的弁証法で問題を解決しようとする人は、思考と言い科学と言えば、それをあくまで古い段階のそれに固定してしまっています。だから、逆説と言って大さわぎするのです。そしてそれを超えるには、神秘以外に道がないことになります。ですから、このような立場では、絶対の矛盾でもなんでもないものが、絶対の矛盾と考えられてきます。>(p56)

< 神秘的弁証法の根本的特徴は、普通の論理学書では、「AはAである」およびその否定的表現としては「Aは非Aでない」という形で言いあらわされている「同一の原理」および「矛盾の原理」を、神秘のうちでやすやすとやぶってしまうところにあるとも言えます。>(p73)

西田哲学などはまさにそうだろうと妙に納得してしまう説明です。田辺哲学と共に、次のように書かれています。

< 田辺哲学の根本構造はどんなものでしょうか。その根本構造は、まず矛盾なるものを科学的思考をもってしては絶対に統一できないものと考え、科学を超える論理のうちにのみ統一が可能であると見るのです。それはまず絶対の矛盾を説き、次にその超越的なもののうちでの合一を説くのです。西田哲学では、「絶対矛盾の自己同一」ということが言われていますが、田辺哲学でも、根本は同じです。ですから、ここでは、あらゆる両立しがたいものが両立し、あらゆる不可能が可能となり、あらゆる逆説が真理となります。それは解決不可能な矛盾、あるいは解決不可能と考えられている矛盾を解決する方法です。>(p12~13)

こういう批判を読むと、しょせんマルキストの偏見だろう、宗教なんてわからない人間の戯言だ……と言って斬って捨てることはできない説得力を感じます。科学的であるか否かを基準とした評価では、科学では解決できない心霊上の問題については排除されることになり、そこに宗教の意義があると思うし、宗教をよく知らない唯物論者であると見受けられる松村氏には、その点で大いに独断と偏見もあろうかと思うし、信仰心を持つ者からすれば、キルケゴールその他の宗教的な弁証法的思考にも真理契機は認められて然りであるとは思いますが、やはり戦時体制のような歴史的現実にどう対処するかという問題意識下では、神学的弁証法など無意味に思えるのは当然です。つまり社会倫理の面では科学的であることの重要性が感じられるわけです。しかし、坂口弘氏が魂の救済に関して、ML主義の限界を指摘しておられるとおり、エゴイズムと死については科学的であるだけでは解決しないと思われます。

「言いようのない死刑の重圧の下で、嫌悪感を押して森文書を分析している時、余りの苦しさから、私は初めて聖書を読んだ。いや、それは聖書ではなく、犬養道子女史の解説書であった。その読み方も、苦しみを和らげてくれそうな箇所を拾い読みするといった実にいい加減なものであった。それでも苦しい分析に萎えた気力を、再び養うことが出来たのである。キリストは実在の人物なのかどうか?彼は人なのか神なのか?創世記や数々の奇蹟は、余りにも非科学的ではないか?こういう疑問は、苦しみの只中に居る者にとっては、どうでもよかった。自分と同じように、人間以下の存在に堕ちて、死の苦悩にのたうつ人が居るということが、慰めになり、救いになったのである。マルクス主義にこういうものはない。それは階級闘争の理論であり、資本主義からプロレタリア独裁を経て共産主義社会に至るという社会の発展コースを予測する理論であり、さらに社会改造の理論である。それは徹頭徹尾現世的で、死生観や魂の救済については語られていないのだ。これでは宗教に勝てないとつくづく思った。」(坂口弘著『続あさま山荘1972』〔彩流社p285

(B)に戻ります。弁証法的な考えとして、「『媒介』のない対立」および「『直接飛躍的』に統一」ということが書かれていますが(p16)、このような直接無媒介の論理は、およそキリスト教の福音とは相容れないものだと感じました。福音の弁証法は逆説的かもしれませんが、けっして無媒介ではなく、むしろ否定的媒介だからです。そこらへんはマルキストの察し得るには及ばないところでしょう。

唐突な感はありますが、ここで西田哲学に対する北森嘉蔵氏の論述を引用しておきます。頁の順序とは前後しますが、まず弁証法に関して…。

<「場所」の思想が「世界」の思想に展開具体化するのは、『哲学の根本問題』以後である。「一応個物の側に吸収されてしまった一般者の自己限定の面が再び自己を回復し、個物の自己限定即一般者の自己限定という総合的な形が樹立されなければならないであろう。詳しくは個物の自己限定即個物と個物との相互限定であり、それはさらに即一般者の自己限定なのである。かかる論理的構造をもつものが外でもない世界であり、正しくは弁証法的世界なのである」(高坂氏上掲書二〇六頁)。〔※「世界」と「弁証法的世界」の各字に傍点あり。〕 (中略)「純粋経験」より「無の場所」を経て展開して来た西田哲学の立場は、今やMすなわち弁証法的一般者としての世界にまで具体化されるに至ったのである。(中略)「個物的なるものは一般的なるものの自己限定として考えられねばならぬ。しかも個物は単に一般の自己限定として考えられるのでなく、個物は自己自身を限定するものでなければならない。しかして個物が自己自身を限定するということは、個物が一般として自己自身を限定することでなければならない。ゆえに具体的論理においては、個物が一般である、主語が述語であると考えられる。実在的なるものは、かかる論理的構造を有っていなければならない。かかる意味において弁証法的統一と考えられるものが、真に自己自身に同一なるもの、自己同一と考えられるものでなければならない」(同一二六頁)。ここに到達せられた弁証法的論理はヘーゲルの観念弁証法マルクスの唯物弁証法をもさらに批判超越する具体的論理であるとされる。「それにおいてあるものの一々が個物的なるこの現実の世界を、弁証法的一般者の主語的限定において見れば客観的弁証法の世界というものが考えられ、これをその述語的限定において見れば主観的弁証法の世界というものが考えられる。前者をマルクス的といえば、後者をヘーゲル的ということができるであろう。両者共に真の行動の世界の弁証法ではない、真の具体的弁証法ではない」(同三二頁)。>(p180~184)

この本の中で特に神学との関係で参考になる箇所が「日本の宗教哲学 ―京都学派を中心として― 」(p135~)と「西田哲学と神学の問題」(p147~)なので、そこから長くなりますが、重要箇所と思われるところを引用します。濃い字は自分によるものです。

< 西田哲学も田辺哲学もそれぞれの仕方で終始一貫して宗教哲学的であった。したがって、京都学派の哲学について語ることは、そのまま宗教哲学について語ることともなるのである。しかしここでは、「日本の神学」の中で京都学派について語るのであるから、この宗教哲学をあくまで神学との対話の角度から取りあげようと思う。(中略)さてそれでは、西田哲学はキリスト教神学に対してまずどのような問いを発するであろうか。それは、従来の歴史的キリスト教が絶対者たる神を「有」として考えてきたことに対して、絶対者は「無」として考えられねばならないのではないかという問いである。神が有であるかぎり、この有によって限定される人間は、ついに独立性と自由とを失い、したがって人間の人間たるゆえんは基礎づけられなくなるであろう。たしかに、歴史的キリスト教の一つの形態たる極端なカルヴィン主義においては、このような批判がそのまま妥当するかのようである。さらには、キリスト教的背景をもって形成されたヘーゲル哲学が観念論に堕したのも、絶対観念としての神に対して人間個体が固有の独立性を確保しえなくなったことに基づく。西田哲学はここにいわゆる「西洋的」な思惟に対する根本的な問いを提出することとなるのである。そして、東洋的思惟による解決を与えようとするのである。それが絶対無の立場である。(中略)西田博士はその最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』の中で、次のように述べている。―「今日の時代精神は万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。(略)」(略)ここに「万軍の主の宗教」といわれているものがどのような立場を指示しているかは、次の文章において明白となる。―「宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、何処までも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的b君主的神にして、何処までも内在的なる絶対愛の神ではない。(中略)」(略) 西田博士が最後に表明したこのような主張の中には、最初から一貫していた根本的な立場が現われている。今やそれが「絶対無」という表現から「自己否定的な神」という表現に変わっただけである。そして、この神に対比されているのは、「君主的神の宗教」の立場である。(中略)第一戒を神学的公理とする神学が、いかに「人間とのかかわりにおける神」を語るように「転向」したといわれようとも、また「否」よりも「然り」を言うようになったといわれようとも、その基本的方法論としての「序説」(プロレゴーメナ)が変革されないかぎり、究極的には依然として律法的排他性によって「人間的現実」を否定・排除してゆくのである。その具体的な表われは、この神学が実存性や土着性に対して究極的には否定・排除の態度をとることである。これでは依然として「自己否定を含まない神」といわれねばならないであろう。(中略)さてしかし、次の問題は、このような「自己否定的な神」が果して「東洋的」な立場や西田哲学において十全に明らかとされているかということである。(中略)ここにある問題点は次のような西田博士の文章の中に示されている。―「自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。しかして自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無となるということでなければならない。……真の絶対とは、かくのごとき意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、かくいうの外はない」(略)この文章の前半については、私はほとんど問うべきものを持たない。かえって、神学が逆に聞くべき問いと考えたい。神と人間との「対立」を主張する神学は、それによってかえって真の絶対性を逸する結果にならないかということを、この西田哲学の主張から問われるであろう。しかし、問題は後半にある。そこでは、自己否定的な神が絶対無としてとらえられている。この事と、さきに西田博士が言おうとした「絶対悲願の宗教」とは、どのように関連するであろうか。おそらく、悲願の宗教は絶対無の宗教にほかならないと言われるであろう。(後述される田辺哲学において、大非即大悲といわれることと通じる)。しかし、私は「悲願」を「絶対無」と等置することの中に、西田哲学の根本的な問題点を見るのである。西田哲学が西洋的思惟への批判を通して打ち出そうとした立場は、個体の固有性と独立性とを認めながら、しかもこれを自己の場所のうちに包む絶対者の立場であった。このことは、「包まれ得ないものを包む」こととして表現されるであろう。西洋的キリスト教の立場では、その「包まれ得ない」という固有性が十分生かされないと考えられたわけである。西田哲学が「絶対矛盾的自己同一」と呼ぶのは、このような絶対者の立場である。しかし問題は、その「絶対矛盾」にある。ここで私は二つの問題点を指摘したいと思う。(1)包む絶対者と包まれる個体との間に、「絶対矛盾」が成り立つということは、どのようなことであろうか。もしその場合、包む絶対者が「無」と考えられるだけであるなら、それに対して個体が絶対矛盾的になるということはなくなるのではあるまいか。絶対者と個体とが絶対矛盾の関係にはいるのは、個体がその絶対者にそむく場合であるが、〔※「そむく」の各文字に傍点あり。〕しかし個体によってそむかれるものが無であるならば、「そむく」ということもなくなるのではあるまいか。「そむく」という事実が成り立つのは、そむかれるものが「有」である場合だけではあるまいか。有なる個体が有なる絶対者にそむく場合にだけ、固有の意味において「そむく」という事態が成り立つのではあるまいか。ここに、従来のキリスト教が説いてきた「有」としての神の意義があるのである。これを端的に否定することは、西田哲学が最後に明らかにしようとする「絶対矛盾的自己同一」をかえって成り立たせなくするのではあるまいか。「絶対矛盾」は、いかにしても包まれ得ないという事態だからである。仏教的絶対者から区別されるキリスト教的神のもつ「律法」や「怒り」の意義は、ここに求められるこれらの事実の中に見いだされる融通不可能な固有性は、仏教的思惟の融通無碍性からキリスト教を区別するのである。「第一戒」の神の意義もここに見いだされる。(2)しかし、真実の絶対者はこの「いかにしても包まれ得ないもの」をあくまで包むところに見いだされることは、西田哲学の言うとおりである。絶対矛盾的「自己同一」はその間の消息を言おうとするのであろう。しかし、西田哲学はこのことを「絶対無」と「絶対悲願」との二つの概念で示そうとする。「無」と「悲」とである。しかし、この二つの概念の間には問題が見いだされるのではあるまいか。(中略)絶対矛盾を背負った自己同一は、無以上の性格をもたねばならないのではあるまいか。これが悲痛の性格である。キリストの十字架はその具体化である。>(~『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p138~143)

< さて福音とは、神が徹底的なる他者のために徹底的に責任を負うたという出来事である。神にとって徹底的なる他者とは、「神なき者」(エペソ書二・一二)として神に敵対する人間である。この敵としての在り方が他者の徹底性である。神はこの他者としての人間に対してあくまで超越し対立している。〔※「超越し対立している」の各字に傍点あり。〕 神は愛である(ヨハネ第一書四・一六)がゆえに、敵としての人間は神の愛の外に脱落している。神の愛は人間の反逆敵対によって破れている。この神の愛にとって人間はいかにしても包むべからざる者である。〔※「包むべからざる者」の各字に傍点あり。〕 神が人間と対立しているという事は、神の愛にとって人間がいかにしても包むべからざる者であることを意味する。人間が神の愛の外に脱落し、いかにしても神の愛によって包まれ得ない者であるという事こそ、人間が神にとって徹底的なる他者であるという事である。このような人間に対して神の愛は、神の怒りとなる。神の怒りは、人間の反逆敵対によって破られた神の愛である。イエス・キリストの福音は、このような徹底的なる他者としての人間を徹底的に包む神の愛である。包むべからざる者を包むことが福音の本質である。〔※「包むべからざる者を包む」の各字に傍点あり。〕 人間から超越し人間と対立する神が、その超越対立を維持せるままでこの人間を愛の中に包むのである。しかし包むべからざる者を包む愛は、その愛の行為そのものにおいて破れ傷つき痛むのである。福音における神の愛は、神の痛みである。〔※「神の痛み」の各字に傍点あり。〕 イエス・キリストの十字架こそ神の痛みである。神の痛みとは、神の怒りの固有性を徹底的に認めて、しかもこれを貫き突破せる神の愛である。神の痛みとしてのキリストの十字架は神にとっては矛盾そのものである。しかし我々にとって最も注目を要求する点は、その「矛盾」のもつ質の問題である。〔※「質の問題」の各字に傍点あり。〕(中略)キリストの十字架はあくまで痛みという質をもてる矛盾である。痛みとは、怒りと愛との自己同一性である。(中略)痛みをして痛みたらしめるのは、怒りの固有性である。怒りが固有性をもたなくなれば、愛の一元主義があるのみで、痛みは消失する。キリストの十字架においては、神の愛が神の怒りを負ったのである。神の愛が神の怒りを負ってこれに撃たれたという事が、神の痛みである。(中略)神の怒りとは、人間の罪に対して人間の責任を問う神の意志にほかならない(中略)ところで矛盾が真に痛みとして受け取られる場合には、その矛盾は決して現状肯定を容認しない。〔※「現状肯定を容認しない」の各字に傍点あり。〕 矛盾が痛みである場合には、その矛盾が矛盾のまま放任されることは許されず、必ずやその矛盾を解決しその痛みを除去するようにとの実践に出なければならない。〔※「実践」の各字に傍点あり。〕 矛盾を突破せしめ克服せしめる原動力は、その矛盾の質としての痛みから汲み取られる。矛盾が痛みであるならば、その矛盾は現状肯定的に放任されることを許さず、現実的に具体的に克服解決されるようにと突き動かすのである。福音においてキリストの十字架の死がキリストの復活によって突破克服されるゆえんである。〔※「復活」の各字に傍点あり。〕 (中略)神の痛みに基礎づけられた「愛」による罪人の聖化は、罪を現実的具体的に克服してゆく神の行為である。この神の聖化が人間の倫理的精進に対応する。(中略)神の痛みの力が神の「愛」となって、人間の自発的な責任行為を生み出して来る構造が、ここに明らかとなる。この責任行為によって、赦された罪人の聖化が進展せしめられてゆくのである。(中略)神学はその固有性において存在するという事実自体によって、他者たる哲学になんらかの発言をなしている結果となるであろう。なんとなれば神学固有の内容たる福音は、あくまで他者のために責任を負うという真理にほかならないからである。〔※「他者のために責任を負う」の各字に傍点あり。〕 このような意味において私は、神学の問題とするところが西田哲学に対していかなる問いを発するかを考えて見ようと思う。この際いかなる角度から問題が設定さるべきかを決定せねばならぬ。それは西田哲学にとって根本的と考えられる諸点を取るほかない。西田哲学が根本的となす諸点が、真にその掲げるごとき成果を結び得るか否かを、神学が問うのである。私はその根本的な諸点としてここでは取りあえず、絶対矛盾的自己同一における「矛盾」の問題と行為的直観における「行為」の問題とを取り上げようと思う。西田哲学における「矛盾」は果して真に矛盾であるのだろうか、またその「行為」は果して真に行為であるのだろうか。この二点を以上に叙述した神学の内容たる福音から問うであろう。そのために前述の福音の内容を今一度要点に添って整理して置かう。第一、罪人としての人間は神にとって徹底的なる他者として「包むべからざる者」であり、神は人間と対立してこれを審くべき怒りの固有性をもつ。怒りの実在者としての神は「有」としての固有性をもつ。第二、福音とは、徹底的他者として人間と対立する神が、その怒りを貫いてこの人間を愛し、包むべからざる者を包む愛において破れ傷つき痛むことである。罪の赦しは徹底的な矛盾として痛みを担っている。第三、矛盾が痛みを質としてもつがゆえに、その矛盾は現状肯定的に放任されることを許さず、その矛盾を克服解決すべき実践へ出なければならない。 

西田哲学が最後に到達した究極的な立場が絶対矛盾的自己同一であったことは言うまでもない。この概念において自己同一が自己同一としての威力をもつのは、それが絶対矛盾の弁証法止揚たるためである。したがって絶対矛盾が絶対矛盾でなくなれば、自己同一も自己同一ではなくなる。西田哲学における「絶対矛盾」がその論理的形に応ずる質をもっていたか否かということが、最も注目すべき点となるのである。この点を確かめるためには我々はこの「絶対矛盾的自己同一」なる論理の定式が生まれるまでの西田哲学の思想的系譜をたどって見なければならない。いうまでもなく西田哲学の出発点は「純粋経験」であった。純粋経験とは主客未分の具体的全体としての直接経験である。〔※「直接経験」の各文字に傍点あり。〕 西田哲学の出発点が最も直接的な経験であったという事は極めて重要な事実である。〔※「直接的な」の各文字に傍点あり。〕 何故なら後期の完成せる体系もこの直接経験の論理的具体化以外の何ものでもないからである。絶対矛盾的自己同一といわれるものも直接経験としての「純粋経験」と全く別の世界ではない。しかし直接経験の世界は既に在る世界であり、そこでは一切の事実が既に包まれているのである。〔※「既に在る世界」と「既に包まれている」の各文字に傍点あり。〕 直接経験の世界は一切を既に包んでいるのであって、包むべからざるものを一つとして残しているのではない。〔※「一切を既に包んでいる」の各文字に傍点あり。〕 「純粋経験」以後の論理的展開は、この既に一切を包んでいる直接経験の事実を、一応「分裂不統一」を媒介とする対自性において展開したものである。〔※「一応」の各文字に傍点あり。〕しかしそれはあくまで「一応」の操作であって、直接経験の世界と別の世界が固有の意味において展開したのではない。したがって西田哲学の出発点より貫いている根本性格は、既に一切を包んでいる直接経験の世界の構造であって、包むべからざるものを包むという意味での矛盾ではない。既に一切を包んでいる直接経験の世界は、たといいかに矛盾的様相をもっておろうとも、結局平常性の地平に立つものである。〔※「平常性」の各文字に傍点あり。〕 しかるに包むべからざるものを包むという福音は、あくまでも異常性を担っているといわねばならぬ。〔※「異常性」の各文字に傍点あり。〕 既に一切を包んでいる直接経験の世界の根本性格を徹底的に顕わならしめるのは、包むべからざるものを包む福音の光である。「純粋経験」の思想が「絶対矛盾的自己同一」の論理にまで展開したといわれる場合、その「絶対矛盾」の性格がいかなるものであるかを決定するのは「純粋経験」の直接性であり、この直接性こそ既に一切を包んでいる平常性にほかならないのである。既に一切を包んでいる直接経験の世界の論理的展開が「絶対矛盾的自己同一」であるならば、その「絶対矛盾」は決して包むべからざるものを包む異常性をもつものとはいえないであろう。しかしてこの事を明らかにする光を投ずるものは、福音である。福音の論理としての神学において始めて、包むべからざるものを包む異常性が確保されるからである。既に一切を包んでいる直接性の世界が果して「絶対矛盾的」と呼ばれ得るであろうか。たといそこには「絶対矛盾」という論理形は存しても、それに応ずる質がないのではなかろうか。福音においては、包むべからざるものを包む絶対矛盾の質は、痛みであった。そこで次の問題はこの「痛み」の質と対照的に西田哲学の質的表現を取り上げる事である。それが即ち「無」にほかならない。西田哲学の脊椎ともなるべき概念が「絶対無の場所」であることは改めていうまでもない。しかしてこの概念が「弁証法的一般者」を経て「絶対矛盾的自己同一」へと展開するのである。「絶対無の場所」が生まれて来たモティーフは個体の基礎づけにあった。もし個体を限定する一般者が「有」であれば、個体は結局一般者の「様相」のごときものとなって個体たることを止めねばならぬ。逆にもし個体を限定する一般者が無いならば、個体と個体との相互限定は不可能となる。このアポリアを解くものは、場所的一般者としての絶対無である。無の自己限定によって、個体は個体たることを維持しつつ、個体相互の限定を可能ならしめられる。そこで我々にとって最も重要な問題は一般者と個体との関係である。この関係についての西田哲学の考え方の特質は、有としての固有性を個体の側にのみ与えて、一般者の側には与えない点である。一般者は個体と対立する相対有ではなく、有たる個体を限定する絶対無であるとされる。これが西田哲学がヘーゲル哲学をも越える画期的意義をもつとなされるゆえんでもある。しかしここでもまた極めて重大な問題の伏在することを明らかにするのが神学ではなかろうか。一般者が個体を限定する場合、有としての固有性が個体の側にのみ与えられて一般者の側に与えられないならば、そこにはまた真の意味での「絶対矛盾」は成り立たなくなるのではなかろうか。なんとなればこの時一般者は個体を徹底的に自己の外に撥く一般者の固有性が始めから奪われている。個体を「包むべからざるもの」となす主体としての固有性が一般者にない。したがって無の自己限定は真の絶対矛盾ではなくなる。無が無であって痛みでないゆえんである。福音における神の痛みは、罪人を徹底的に審くべき怒りの神の固有性を前提として、しかもこの怒りの神が罪人を赦して愛の内に包む所に成り立った。罪人を審くべき怒りの神の有としての固有性が始めて神の痛みを成り立たしめるのである。もしこの怒りの神の固有性がないなら、罪人に対する神の愛は単なる「無」としての愛であり得たであろう。しかし単なる無即愛は未だ真の絶対矛盾としての痛みではない。無と痛みとは論理の形としてはいずれも「絶対矛盾」をなしているが、それに入れられている質が全く異なる。人間が神に反逆する時に、その反逆が神にとっていかにしても審くべき怒りの対象となるのは、人間によって反逆される神があくまで有としての固有性をもつ時のみである。神が有としての固有性をもたないならば、反逆せる人間が神にとっていかにしても「包むべからざる者」となることはない。したがってこの人間に対する神の愛も決して痛みではなくして、単なる無即愛にすぎない。しかしこれは絶対矛盾の破棄にほかならない。

さて以上において我々は西田哲学の根本概念たる「絶対矛盾的自己同一」における「絶対矛盾」の検討をなして来た。次に我々は「行為的直観」における「行為」の問題を取り上げたいと思う。行為が直観であり働くことが見ることであるという命題は、何を意味するのであろうか。(中略)見るということは、外を内の支配の中に入れることである。もし外が徹底的に外であって内の支配の中に入れられ得ないものであるなら、その外は「見る」の対象ではなくして、「信ずる」の対象でなければならない。しかし西田哲学においてはこのような「信仰」は厳密な意味においてはいかなる論理的位置をも占めることは出来ない。働くことが見ることであり、行為が直観であるという命題は、絶対矛盾的自己同一が既に一切を包んでいる直接経験の世界の論理的構造であることと対応する。既に一切を包んでいる直接性の世界が、たとい「絶対矛盾的」と呼ばれようとも、結局平常性の世界であったのに対応して、行為が直観であるという事は、物が結局我の支配の内に入れられ得るものであり、外が結局内に包まれ得るものであるという平常性を示すのである。しかしここにおいて最も重要な問題は、外が結局内に包まれ得るものであり、物が結局我の支配内に入れられ得るものである場合には、真実の意味での実践が出て来ないという点である。〔※「実践」の各字に傍点あり。〕 さきに述べたごとく、真実の意味における実践は、矛盾が真に矛盾として受け取られ、したがって矛盾が痛みとして受け取られる時のみ、生まれることが出来る。痛みとしての矛盾が存しない所には、結局現状肯定があるのみであり、現状肯定は一切の実践を暗殺するものである。なんとなれば実践とは、肯定され得ない現状が痛みを担う矛盾として受け取られ、その現状を変革して矛盾を除去しようとする行為にほかならないからである。しかるに行為が直観であり、絶対矛盾的自己同一が既に一切を包んでいる直接経験の世界にほかならない場合には、包むべからざるものを包む矛盾の痛みがこの矛盾を具体的に除去解決する実践へ突き動かすということはなくなる。外があくまで内に包まれ得ない外であり、物があくまで我の支配の内に入れられ得ない固有性をもつ場合にのみ、この外なる物の変革が真の実践となるのである。

以上において私は福音の理解としての神学が西田哲学に対していかなる問いを投げかけるかを述べて来た。最後に私は、以上のような神学と哲学との接渉そのものが神学的にいかなる意味をもつかを述べねばならない。神学が哲学と接渉することを神学的にいって問題視するに至ったのは、バルト神学である。バルト神学の主導的モティーフは、神学をして「神の言葉」にのみ奉仕する学たらしむるために、哲学との接渉を一切否定することにあったといってもよい。バルトが「神のみを神とせよ」という第一誡を神学的公理となすゆえんである。そこで今日の神学にとっての根本問題はこのバルト神学にいかに対するかという事である。一言にして結論をいうならば、このバルトの神学的モティーフが福音という事実に対して徹底的な反省を欠いているということである。この事は既にバルトが第一誡を神学的公理となしている事によって明らかなごとく、彼の神学的モティーフは福音よりもむしろ律法に置かれているといわざるを得ない。(中略)>(同上、p151~157)

北森氏の論述は常に自身作「神の痛みの神学」の自我自賛になっています。私が北森氏を観念的キリスト教徒ないしは神学者の代表的存在として小田垣雅也氏の先駆とみなした人物です。観念的とは言うまでもなく、非実践的という意味です。ところが北森氏は御自身が観念的であるということを十分に自覚しておられなかったようで、<…もしイエスの真理を単に超越的・奇跡的に説くだけであるなら、〔※「単に」の各文字に傍点あり。〕あるいはそれは人間の頭の上を素通りしてしまうかもしれません。これが、「人生とからみ合わない」・「人生に密着しない」キリスト教となるのです。人生というものの皮を切らせ、肉を切らせ、骨を切らせて、福音を徹底させるということにならないのです。頭でだけ理解される「観念的」なキリスト教、「卒業信者」を生み出してゆくキリスト教です。>(~『対話の神学』〔教文館〕p145)などと他人事のように語っています。ところで北森氏は、御自分に(倫理的)実践が欠如しているというコンプレックスの裏返しなのか、観念のレベルで「実践」ということをよく語っています。北森も結局のところ「聖化」を語るのです。北森氏が日本基督教団信仰告白の解説で、「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」という箇所の「この変わらざる恵みのうちに」について自画自賛していることを想起させられます。

<…真実の意味における実践は、矛盾が真に矛盾として受け取られ、したがって矛盾が痛みとして受け取られる時のみ、生まれることが出来る。痛みとしての矛盾が存しない所には、結局現状肯定があるのみであり、現状肯定は一切の実践を暗殺するものである。なんとなれば実践とは、肯定され得ない現状が痛みを担う矛盾として受け取られ、その現状を変革して矛盾を除去しようとする行為にほかならないからである。しかるに行為が直観であり、絶対矛盾的自己同一が既に一切を包んでいる直接経験の世界にほかならない場合には、包むべからざるものを包む矛盾の痛みがこの矛盾を具体的に除去解決する実践へ突き動かすということはなくなる。外があくまで内に包まれ得ない外であり、物があくまで我の支配の内に入れられ得ない固有性をもつ場合にのみ、この外なる物の変革が真の実践となるのである。(中略)神学は純粋に福音に奉仕することによって、かえって哲学のためにも責任を負わわしめられるのである。何故なら神学の奉仕する福音はあくまで他者のために責任を負う神の言葉にほかならないからである。かくして神学が哲学と接渉するという事は、神学の逸脱ではなくして、神学の奉仕する福音そのものから課せられた課題なのである。しかるにバルトのごとく、神学が哲学と接渉しなことをもって神学の純粋を保証しようと考えるのは、実はその神学が未だ厳密に福音に仕えているのでなく、律法に仕えているに過ぎないことを示すといえないであろうか。律法は栄光の排他的独占を目指すがゆえに、他者のために責任を負うという福音的実践を不可能ならしめる。さらに悪いことには、律法はかえって罪を誘発して、神学をして神の言葉への不従順に陥らしめ、誤れる方法において哲学と接触する誘惑に陥らしめる。バルト神学の出現によって近代主義的神学がある面においてはかえって誘発刺戟されているのはこのためである。真の福音は、神学が他者と接渉する時にも、その神学をして決して不従順に陥らしめないごとき威力をもつものである。この福音に救われた神学のみが、他者としての哲学にも正しき意味において接渉し得るのである。>(『哲学と神』〔日本之薔薇出版社〕p156~158)

 

一方、教団内では「実践」と言えば「社会(倫理的)実践」であるとみなす人たちが大勢を占めてきたわけですが、北森氏はこれに関して次のように述べています。

<「おのれのごとく隣人を愛せよ」「飢えたる者に食わせ、裸なる者に着せよ」という誡命が、いわゆる社会救済事業の限度で実践される場合には、福音信仰とこの愛の実践との関係は一応円滑であり得る。また信仰がおのずからにして新らしいエトスを生み、そこに文化や経済のキリスト教的形成がなされるという場合にも、信仰とこの実践との関係は円滑であり得る。そしてこのような信仰からいずる実践が今日強力に実効的に推進さるべきことは、最も望ましいことである。しかし今日の全く新らしい困難は、このような限度の実践ではなお残存する問題性があるという点である。「飢えたる者」や「裸なる者」をキリスト者が善意と誠意とをもって「おのれのごとく愛し」て、彼らに食や衣を与えても、このような人間を次から次へと無限に生み出してくる社会機構そのものの矛盾が放任されている限り、その実践はついに実を結ぶことができない。さらに悪いことには、キリスト者のこのような愛の実践によって一おう貧窮者が「救済」されることによって、これらの人々を生み出す機構の矛盾自体はかえって温存される結果となる。単なる善意と誠意とが逆効果を生むゆえんである。「その熱心は知識によらざるなり」である。真実の意味での愛の実践が単なる社会救済の限度では不可能であることが明白となったのは、おそらく今日が始めてであろう。それでは単なる社会の救済から社会の変革へ展開せしむる契機は何であるか。それがすなわち政治にほかならない。政治によって始めて「飢えたる者」「裸なる者」が生み出されてこない社会が作られ得る。この政治を疎外している限り、いかに熱心な信仰的実践も結局においては空転する。否さらには歴史の歯車をうしろへ廻す作用をすらなすであろう。しかしそれならば福音信仰はこのような実践の必然的契機としての政治を、直接的に円滑に自己の中から生み出し得るであろうか。(中略)もちろんジュネーヴにおけるカルヴィンの市政のように、教会が直接的に政治を形成した事例はある。しかしその場合の市政はむしろ教会にとっての自己そのものであって、決して他者ではなかったといわねばならぬ。ジュネーヴ市政が「神政政治」(Theocracy)と呼ばれるゆえんである。(中略)政教分離ということは信仰ないし教会が政治を直接的には生み出してはならないことを意味する。なにゆえであろうか。政治は必然的に権力意志と結びつくからである。権力意志とむすびつかない政治は存在し得ない。(中略)権力意志こそ福音にとっては根本的に矛盾するものである。イエスは荒野においてこの権力意志への誘惑を徹底的に拒否したもうた(略)「わが国はこの世のものならず」(ヨハネ伝一八・三六)といわれる場合の「世」は政治の世界にほかならない。したがって信仰の実践が社会救済を生み出し、信仰のエトスがキリスト教的な文化や経済を生み出すような意味においては、福音信仰は政治を生み出すことはできない。福音ないし教会と政治との間には徹底的な断絶がなければならない。〔※「断絶」の各文字に傍点あり。〕 たといキリスト教政党なるものがあるとしても、それが固有の意味における本格的な政治をなし得るものであるなら、必ずやその政治は右に述べた問題性の中に陥没しているのであって、断じてキリスト教と直結せるものであることはできない。要するに福音と政治との関係において第一にいわれなければならぬことは、両者の断絶である。〔※「断絶」の各文字に傍点あり。〕 したがって教会はいっさいの政治から超越している。しかも福音信仰はこのように断絶せる政治を自己の不可避的必然的な媒介とせずしては、実践的となり得ないところに、今日の全く新らしい問題性が存する。教会は政治から超越しながら、しかもこの政治と連帯的にならなければならないのである。〔※「連帯的」の各文字に傍点あり。〕 これが両者のもつ第二の関係である。しかしここで看過されてならないことは、この連帯関係も第一の断絶関係を維持したままで成り立つという点である。教会は政治から断絶超越せるままで政治と連帯的になるのである。(中略)それはすなわち、教会は教会としてはあくまで政治から超越しておりながら、その教会の中なる信仰者をして各自の自由な責任的決断において政治と連結せしめることを意味する。〔※「教会としては」と「信仰者」の各文字に傍点あり。〕したがって教会は決して一定の政治的立場と直結しない。これ教会の対政治自由である。〔※「したがって」の次の「教会」と「自由」に傍点あり。〕この自由の中で信仰者は政治的に決断するのである。これが「断絶しながら連結する」という事の具体相である。このさい信仰者の政治的決断はあくまで学問と状況への洞察とを媒介とせねばならぬ。(中略)教会が対政治的自由を確保しているということは、決断さるべき政治的立場が必ず複数であることを意味する。〔※「複数」の各文字に傍点あり。〕(中略)キリスト教政党なるものがかりに存在し得るとしても、それもまた「一つの可能性」にとどまるべきであって、「唯一の可能性」となることは許されない。ある一つの政治的立場が唯一の可能性となることは、教会と政治との断絶が抹消されて、教会が政治に内在化してしまったことを意味する。これはあくまで拒否せねばならぬ。政治的実践に出てゆく信仰者は、「信仰より出る実践はこのほかにはない」と信じるであろう。そうでなければ政治的実践はできない。しかしこのような確信をもつ者が誤りなき道を進むためには、そのような実践者のあり方そのものを正しからしめるように絶えず反省と配慮とがなされねばならぬ。教会はこのような厳密な配慮の上に立ちつつ、決して無為に陥ることなく、真実の意味での実践者を自己の中から世へ送り出さねばならないのである。これが「断絶しながら連結せしめる」という教会のありかたである。教会が政治と連帯的となりつつ、しかも依然として教会自体は政治から断絶超越しておるのは、政治のもつ問題性のゆえであった。この問題性あればこそ、たといいかに理想に近い政治的立場といえども、福音と直結することは許されなかったのである。(中略)「キリスト者たる者はすべてこの政治的立場に立たざるべからず」という主張を教会は許さないのである。〔※「すべて」の各文字に傍点あり。〕 そこで最後に今一つの新らしい事柄が語られねばならなくなる。これが福音ないし教会と政治との第三の関係である。それはすなわち、政治のもつ問題性を具体的に実際的に除去してゆく実践である。〔※「除去し」の各文字に傍点あり。〕 福音を信仰する者が政治的実践にはいってゆくならば、彼は必ずやその政治のもつ問題性を実際に少しでも除去しようと念願し、かつ実践せねばならない。万一彼が政治のもつ問題性を手放しに現状肯定するならば、彼はもはや福音信仰者としての政治を実践しているとはいえない。前回にも述べたように、「責任」ということは相手の問題性を実践的に解決するのでなければ、決して十全な意味で考えられない。ただ相手の立場に内在化するのみで、その問題性を放任しておくならば、それは相手のためにいまだ責任を負っていないのである。以上において福音が最後に相手とすべき他者たる政治の問題を考えてきたが、ここにおいて述べられた教会の位置に最も深く相応する存在者は、旧約の預言者ではないかと思う。預言者は第一にはあくまで政治から超越して神の代言者として立ちつつ、しかも第二にはこの他者たる政治と連帯的となり、絶えず王や政治家と接渉する。しかも決して手放しに政治に内在化することなく、第三には絶えず政治の逸脱と頽落とを批判糾弾してその問題性を除去しようとしたのである。>(~『救済の論理キリスト教入門― 』〔教文館〕p131~137)

要するに北森氏は、聖書に示される愛の実践を社会救済としてやっても限度があり、政治でやらなければ解決しないが、キリスト者は政治を教会単位でやるのではなく、信徒個々人の単位でやるべきだ…と言っているわけです。これはとても観念的であり保守的な考え方であることは明らかです。ここで「今日」と言われているのは、この本が出版された1960年代初頭であり、安保闘争に続いて学生運動が過熱してゆく時代なので、教会が左翼的キリスト教徒によって社会の政治的混乱の渦に巻き込まれないために、このような保守的神学者の存在も組織論的には必要だったと言えるでしょう。しかし日本基督教団は合同教会として「一定の政治的立場」と直結したのではないでしょうか?教団が出す声明文はすべて反自民であり、ほとんど社会党の方針に沿うものであったのではなかったでしょうか?そして70年代以降は、社会党系の「部落解放同盟」という団体と直結し、共産党系の「全国部落解放運動連合会」とは関係を持ちませんでした。そして各個教会においても例えば、私が学習のため狭山事件現場を訪ねた時に同行した人物が牧師を務めていた某教会では、教会名入りの赤旗を作っていて、それを見た私は福音がイデオロギーに替えられているのではないかと思い慄然とした記憶があります。もちろん部落解放は反差別という点で福音と矛盾しません。問題はその運動・活動を特定の団体の特定の立場と直結させることです。ましてやその団体となった「解・同」には行政への暴力的介入などの問題があることが共産党系メディアなどによって指摘されていました。それなのに当時の日本基督教団の多数派は突っ走ったのです。昔は、東京教区の総会で竹槍を持った青年信徒が流血事件を起こし、その人物はのちに牧師になりました。また、北森氏が万博問題で過激な神学生かなにかから暴力をふるわれたこともあったそうで、異常な時代の空気の中での異常な教会の話です。

そんなことはどうでもいいのですが、そもそも日本において観念的人物の代表が西田幾多郎であり、その思想がいかに誉めそやされようとも、そんな非実践的なものは現実社会の益にはなりません。北森神学とて同じことです。上記の引用の中で、<「キリスト者たる者はすべてこの政治的立場に立たざるべからず」という主張を教会は許さないのである。>と言われていますが、許さないと言っても教会にそんな権力は無いわけで、権力なしに「許さない」とか言っても意味がないのです。実際、教団は北森氏などの保守的神学者の思惑とは逆行したのであり、自分が教授として牙城とすべき東神大に機動隊を導入しなければならないほどの事態に陥りました。まさに飼い犬に手を噛まれるって感じです。北森氏が、右翼的であれ左翼的であれ教団あげての政治活動は「許さない」と言うのなら、力には力という論理を肯定するしか現実的な方法はなかったはずです。機動隊導入はたしかにその有力な手段の一つではあったのでしょう。しかし必要なことは、問題提起者だとか造反とか呼ばれたいわゆる社会派の牧師・信徒たちをいかに抑え込み、あるいは排除し得るかだったのであり、そのためには教会こそが権力を持ち、その戒規によって教憲違反者を処分するという強権政治をやる以外にはなかったのです。ところが当時の教団執行部は誰も弱気であり、井伊直弼のように自分が悪者になってでも国を救うといった武士の鏡のような傑物が不在だったのです。まあ、牧師になるような人にそこまでは期待しないにしても、教会の規則を掲げて、どんなに非難されても分裂しても、規則違反に対する処罰を断行する人がいなかったから教団は今日に至るまで福音を見失い、この世の左翼的イデオロギーに浸食された非宗教的団体に堕してしまったのです。ある牧師は私にエイズを比喩に用いた実に不適切な発言を聞かせましたが、その本来的意図や心情だけは私も共感しました。

日本基督教団福音主義教会連合」なる団体などは「正常化」などと言っても基本的に言論だけなので画餅の餅ということになったのです。実力行使をしないことが福音的であるかのように思い込んでいたようですが、課題は律法主義を福音主義との関係において再発見し、信仰の立場の許容範囲内で可能な実力行使というものを探る努力をすることだったのです。教団内では表面上、伝統的路線に乗っていると思われているだけで、バルト左派といわれる神学的立場の牧師や、純正カルヴィニズムを自認する立場の人からみてさえ、自分たちで教職試験や按手礼執行までやったのですから、非聖書的な脱線的要素があったと思われます。そういう神学がキリスト教界内でどんなに高く評価されようとも一般社会では注目されないし、キリスト教徒にとってもあまり意味がないでしょう。

ちなみに自分の場合、観念的信仰ということでは究極的観念が「神の救いのはたらき」ということになります。「神」を対象として意識することを避けるようにしてからは特にそうです。聖書的には「神の国」が究極的な観念です。いずれにしても、神の力ですから「観念」ではあるものの「観念」としての殻を破るものです。それは北森氏の言う「救済論」における「救済」の「パトス」と「論」の「ロゴス」との関係に対応していると言えます(~『救済の論理』p20~21参照)。

(B)に戻ります。無論、田辺哲学も観念の体系です。しかもその国家論の内容たるや、概略を読むだけでも(p22~)実にひどいものだと感じます。所感的には、戦死に意味を求めて悩む学徒兵の中に、この田辺の著書を読む者も少なからずあった旨の何かの記事が思い出されました。当時の日本国がもう少し民主的な国であったなら、その国家を全体とし自分たちを個としてその対立の統一を思弁することにも少しは意義があったのかも知れませんが、なにせ当時の大日本帝国は松村氏が指摘しているように、大資本家や軍人たちが政治を支配する絶対主義的天皇制による専制国家的状態だったわけで、そんな非民主的国家を全体とし、抑圧されている人民各自を個とすることは、そのような思考自体が非現実的ということになります。

< われわれが科学的弁証法の核心である対立の統一を正しく理解して、それをあらゆる誤解からふせぐためには、この意味でも、「同一の原理」の正しい克服の仕方を示し、同時に、神秘的ではないが弁証法の不十分な理解のために、科学的弁証法の理解のうちにもややもするとまぎれこんでいる対立の統一の誤った理解を訂正する必要があります。>(p73)という言葉にはマルキスト特有の独善的傾向が垣間見られます。

ところで、神学的弁証法が歴史的・社会的現実における実践においていかに無力であるかということはさておき、私が聖書の福音の論理については「逆説」という言葉を好まず、「否定的媒介」という言葉を好む理由は、「逆説」は青野太潮氏など多くの人々が強調してきているからということもありますが、それだけに限ったことではありません。そもそも「逆説」という概念自体、方向性が決まっていないからなのです。「貧しき者たちは幸いなり」はマイナス→プラスですが、逆に「幸いなる者は貧しき者なり」とプラス→マイナスで言うことも可能です。従って福音の逆説性にはマイナス→プラスという方向性が入っており、だからこそ否定的媒介となるのです。これが次に引用するヘーゲル弁証法の論理とどう関わるのかが問題。これはよくわかりません。※濃い字は自分。

ヘーゲルはその論理学において、肯定、否定、否定の否定という形をもって概念を進行させますが、このばあい、否定の否定は同時に綜合を意味します。そしてヘーゲルにおいては、このことはこれ以外にありえない理由があるのです。なせなら、ヘーゲルにおける概念の三段階的進行は、その内容から言えば、現実の歴史的進行ではなくて、対立の一項から他の項へ、そして両者の綜合へという思考による綜合の過程をあらわすものにすぎないからです。有、無、成という進行を考えてみましょう。これは現実の歴史的発展ではありません。もちろんこの進行は、神秘的とは言え、現実の歴史的進行からその形式をとってきており、この面から言えば、現存するもののうちにその否定をさぐり、新しいものによる古い矛盾の解決を指示しています。しかし、概念的連関の内容から見れば、そこには一面的、抽象的な概念と綜合的、具体的な概念との連関が示されているにすぎません。(中略)さらに、ヘーゲル否定の否定という概念のもっとも後むきの発展は、神秘的弁証法のうちに見いだされます。ここでは、ヘーゲルにおける否定の否定の綜合的意義から、対立の統一は対立の調和の理論に変えられてしまいますあらゆる対立を両立しがたい矛盾と考え、そしてそれを神秘的なもののうちで調和させ、のりこえる方法が、ここでは弁証法とよばれています。それは古い形態のうちでは解決できない矛盾に、神秘的解決の幻想をあたえることによって、弁証法を革命と発展の理論から保守と反動の理論に変えてしまうのです。ヘーゲル弁証法のうちにあった革命的、発展的側面はすてられて、保守的、神学的要素のみがここでは発展させられているのです。>(p206~208)

ここから(C)に移ります。肝要と思われる箇所を引用します。旧字体新字体に直しているのは、自分がしようと思う箇所だけであり、していない箇所もあります。

<わたくしの見るところによれば、まず第一に辯證法は現在では一般に矛盾の論理すなわち形式論理學に言う矛盾律を否定する全く新しい論理として考えられているが、實はここにわれわれの検討すべき最も根本的な點が存在しているのではないかと思うのである。いわゆる辯證法論者達はこの點を餘りにも簡單に通り過ぎてしまっているのではないかと考えられる。(中略)辯證法哲學といえども學説それ自身としては矛盾を犯してはならないとするならば、それは少くともその限りにおいては矛盾律をその原理として認めねばならないはずである。矛盾律はその學説が學説として成り立つための不可缼的條件であると言わねばならないであろう。しからばわれわれは當然それはいかなる意味で矛盾律を否定し、いかなる意味で矛盾律を否定しないのかということをもっと厳密に考究しなければならないであろう。辯證法論者達がこの點を全く看過してひたすら辯證法を以て全然矛盾律を否定する新しい論理であると考え、これこそ一切の問題を解決する強力な論理であるとなしているのは極めて非哲學的な態度であると言わねばならない。事實また辯證法という概念を歴史的に考察しても、それは決して初めから矛盾律を否定する矛盾の論理として考えられていなかったと言わねばならない。われわれは今この點について詳述する必要はないであろうが、辯證法〔ディアレクティケー〕ということばがもともと對話術という意味であり何等矛盾の論理という意味を持たないこと、そしてアリストテレスによって『辯證法の發見者』と呼ばれたエレアのゼノンの議論は矛盾律を唯一の根本原理として自己の思想に反對の立場が矛盾を含むことを論證したものであることを述べれば、このことは明かであろう。辯證法というものが今日のごとく矛盾の論理と解せられるようになったのはむしろヘーゲル以後の特異の現象であると言わねばならない。しからばわれわれは辯證法といえばただちに矛盾の論理であると初めからきめてかかることなく、このように矛盾の論理と考えられるにいたったのは何故であるか、そしてまたそのことは果して必然的な根據を有するのかということを深く反省してみるべきではないであろうか。>(p4~5)

私の場合は、あくまでも「矛盾の論理」としての「弁証法」にこそ関心があるのですから、岩崎氏の勧めに関係なく、あくまでもヘーゲル以降の弁証法について学ぶ必要があります。

ここから(D)に移ります。

 ヘーゲルは、真の実体とは悟性による否定や分解を通して自分を維持するものと考えます。真の実体は動くものでなければなりません。動かずに自分に閉じこもる実体でなく、否定の力を通して、媒介されていないあり方から媒介されたあり方へ展開し、動いてゆくものでなければなりません。ヘーゲルはつづけていいます。この魔力はまえに主体とよばれたものと同一である。主体はただ一般に存在しているという直接性を止揚し、これによって真実の実体なのである。媒介を自分の外部にもつものでなく、媒介それ自身である存在または直接性である。『精神現象学』は、真実の実体を主体とし、精神とします。精神の特質は、悟性の分解や分析という否定的なものの巨大な力を通してはじめて動くものとなり、否定的なものを通して自分を維持することとされます。精神としての主体が、自分に即し、対象に即し、知に即して行なう弁証的な運動は、精神が自己を知り、自己となる運動であり、低次の段階から高次の段階へ否定的なものの力を媒介として上昇する運動であります。>(p134) 

ちなみに「弁証法」はギリシャ語の「ディアレクティケー」という形容詞にさかのぼり、これは対話術であって弁論術とか論争術とか詭弁術と区別されます。弁証法とは概して言えば、対立関係を認識し克服し解決する思考です。「ディアレクティケー」の名詞形は「ディアロゴス」、動詞は「ディアレゲイン」です。「ディア」は「分かつ、区別する」を意味し、「ディアロゴス」は「ダイアローグ」の語源です。

ところで、キリスト教は「逆説の宗教」と云われるそうですが、私はそれより「否定媒介の宗教」という方が適していると思います。逆説だけでは方向性がわからないからです。キリスト教というか聖書はあくまでもマイナスを媒介してプラスです。その点は高倉徳太郎も「恩寵の深み」という題の説教で、神は徹底した否定によって肯定するといったことを述べています。「最悪より最善へ」という説教も同じような主旨です(~『日本の説教 8 高倉徳太郎』〔日キ教団出版局〕)。要するに、イエスの「十字架の死」という否定を介してこそ「復活」の力による肯定があるというわけです。

また小田垣雅也氏は次のように書いています。赤字は自分。

<結局、イエスの十字架と復活とは弁証法的関係にあるのだとモルトマンは言う。「復活は十字架の有意義性を表現しているのだというように、十字架に還元してしまうことはできないし、十字架も、それは復活の前段であるというように、復活に還元してしまうこともできない。それは形としては矛盾を通してのみ存在する弁証法的同一性の問題であり、その同一性の中に存在する弁証法の問題なのである」(モルトマン)。モルトマンはこのような逆説的弁証法という論理で、イエスの復活の意味と復活の出来事を結び合わせている。しかし逆説的弁証法的同一性とは、別の言い方をすれば問題を放棄したということである。復活理解に関して、モルトマンは問題を放棄している。ここには何の解答もあたえられていない。論理的に解答をあたえられないからこその弁証法であるには違いないが、しかしその弁証法が在る場所――それは概念として把握できる場所ではないが――に対する関心を離れてそれが主張される場合、逆説的弁証法は恣意的判断停止にならざるをえない。ましてこの場合は、復活をその意味すなわち十字架の有意義性と、復活の出来事そのものとに区別して前者を優先させる傾向に反対して、後者を復権させよという意図のものであるはずである。ここには復活の出来事の具体的確認が求められているのである。弁証法的同一ということは、その意図と往き違ってしまっている。>(~『哲学的神学』〔創文社〕p211~212)※引用文中のモルトマンの言葉の引用元は『希望の神学』。

<「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」とパウロは言う。パウロの世の知恵に対する敵意は相当なもので、それは「学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」と、世の知恵を舌鋒するどく糾弾していることからも窺える。わたしは、いわゆる学者や論客の「世の知恵」、つまり現代的用語で言い直せば啓蒙主義的・科学的知も大事だが、それだけが知恵の全体であると考えると、世の知恵は歪み、パウロの糾弾の通りになると思う。世の知恵は、いつも十字架の知恵と拮抗していなければならぬ。むしろ知恵の基本は十字架の知恵ではないか、と思う。(中略)「十字架の言葉」とは何か。二章には「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」とある(二章七節)。(中略)その神秘の知恵とはどのような知恵か。これは認識を超えた神秘だから、論理的に説明することは難しいだろう。しかし少なくともそれは、学者・論客の知恵を一度否定したところに実現する知恵ではなかろうか。(中略)そもそも信仰という事態がありうるためには、光は影を伴わなければ光ではないように、不信仰という事態が裏側になければありえないのである。しかしこのことを別様に言えば、信仰という事態は、光が影を伴って光であるように、常に不信仰を伴い、不信仰を必要としているということでもある。(中略)信仰と不信仰とはいわば二重性の現実であり、決して信仰は不信仰とクリスプに分けられた事態ではないのである。むしろ、それこそが信仰である。ルターが「罪人にして同時に義人」と言ったのも、不信仰という最大の罪は、同時に義、つまり信仰である、と言ったのではないか。しかし信仰でも不信仰でもないものはないから、この二重性とは、曖昧な、神秘としてしか言いようのないものではないか。そしてこの二重性は、禅的な即非の事情と通じ合っていると言ってもよいだろう。パウロがここで言う「十字架の言葉」に関して、ケノーシスということが言われることがある(フィリピの信徒への手紙二章七節)。イエスは神の子でありながら僕の姿をとり、神の子としての自己を空しくし(ケノーシスし)、十字架の上で神に見捨てられて死んだ。しかしそのことによって、逆に自分が神の子であることを証明したという。「十字架の言葉」とはこのように、神の子としての自己を空しくすることと、それによって神の子としての自己を啓示することとの、二重性の言葉だとわたしは思う。それが神秘の言葉ではないか。それは本性ファジーな言葉で、少なくともクリスプな言葉ではない。そのひそみにならって言えば、学者・論客の「この世の知恵」は、それが一度否定されることによって、逆に本当の真実が到来するようなものではないか。むしろそのような、否定を通過した肯定という二重性の神秘に立つときに、学者・論客の言葉は、人間の言葉としての自分の分限を弁え、虚構に転落することなく、科学的真理を表わすのではないか。写真がたしかにその人の面影を写しとっているように、である。>(~「友あり 二重性の神学をめぐって」〔日本出版制作センター〕所収「二つの言葉」〔p89~〕)※「ケノーシス」に関しては、みずき教会説教の「ケノーシス説 ―— 盛夏所感」参照。

私見では、パウロ神学においては「十字架」を言わずともキリストそのものが否定的媒介者なのです。イエスは先在の御子のケノーシスによる受肉において、否定的媒介者として神から選び出されていたのです。すなわちパウロは、キリスト「によって」(を通して)神へ…という方向性を示しています。

例えばロマ書5:1で、「私たちの主イエス・キリストによって」(ディア トゥー クリウー ヒュモーン イェ―スー クリストゥー )、「私たちは神に対して平和を持っている」(エイレーネーン エコメン プロス トン セオン)と述べています。その「ディア」という前置詞が、キリストが神と人との平和な関係を媒介する役割を担っていることを表わしています。キリストが仲保者とか仲介者と呼ばれる所以です。キリストは単なる媒介者でなく、あくまでも否定的媒介者なのです。はじめから神の聖定において十字架の死によって人間の罪を贖うことが決められていたからです。復活によって肯定されたのはキリストそれ自身であると言うより、人間の救いのために御子キリストを送り給うた父なる神の御意志です。

 

ところで、佐竹明氏は「復活」を史実とは認めないので「復活信仰」について、「つまりそれは、刑死し、神に捨てられたかに見えたイエスに対し、神が決定的な然りを宣したという告白であった。この場合、イエスに対する神の然りとは、同時に、彼の地上でのわざに対する然りを意味する。告白する信徒の側から言うならば、それは、到底一人前に扱われる資格なしと自他ともに決めていた自分たちを一人前に遇したイエスのわざに対しての然りであった。」云々(~『新約聖書の諸問題』〔新教出版社〕p162~)などと、いかにもインテリらしいセンチメンタルな民衆観に浸っておられますが、私はそういうのとは全く違って、イエスの「復活」はそういう解釈ではなく、神話としての意義をつかまえないといけないと思います。

すなわち、イエスの「復活」という出来事は、彼の倫理的言動に対する神の肯定ということではなく、聖書を読む者がどう感じるかと言えば、イエスが十字架の死によって無惨なる最期を遂げておしまいではなく、まだ希望が残されているのだ…ということです。絶望では終わらない現実を信じることが出来るということです。希望は絶望の経験を通してこそ希望なのです。救いはそのようにして切実に待ち望まれるわけです。イエスの絶望的な最期が人間によって希望の前提として肯定されるためにこそ、神は御子を起こし給うたのです。キリストはあくまでも否定されなければならない存在なのです。否定を通らなければ肯定がない……絶望的な経験なしに希望を必要とすることはない……地獄を見ることなしに救いを求めることはない……、ということです。だから、神の子イエスが絶望的で無惨な最期を遂げたのは、それだけ人の罪が甚大だということを人が思い知るためです。どうせ生き返るとわかっているなら十字架刑死に耐え得たのではないか…?などと下らぬ疑問を言う者はいますが、すくなくとも信仰を与えられている者においては、復活の出来事が十字架の苦難の意味が減殺されることはないし、また、そうであってはならないのです。

ロマ書5:3~4の「患難〔なやみ〕は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望〔のぞみ〕を生ずと知ればなり」(大正文語訳)ということです。聖書が示す神は苦難を、試練を、懲らしめを与えます。ヘブル書12:9~10で言われている「霊の父」としての神です。

このような否定的媒介の神のはたらきは現実経験に即しており、プラスはマイナスなしにはあり得ない……「幸い」は苦難を媒介しなければ感じられないのであり、その苦難があるからこそ人は「救い」を求め続けるのです。

「患難は忍耐を生じさせ、/忍耐は確証を、確証は希望を生じさせる〔ということを〕。/希望は〔私たちを〕欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。」(岩波版 青野訳ローマ5:3~5)

「なぜならば、神〔の意志〕に沿った悲しみは悔い改めを造り出し、〔それは、〕後悔する必要のない救いへと至り、他方、この世界の悲しみは死をもたらすからである。」(同、コリント二7:10)

苦しみや悲しみが否定的媒介となるのは、人類に「(原)罪」という根源的なマイナス因子があるからです。だから、いきなりプラスの「幸い」を願い求めるのではなく、まず苦しみ、悲しみの元凶である自分たちの「(原)罪」を深く認識し、悔い改めて救い主を待望しなければなりません。そのように信仰が思弁に陥らず実践的になるには、福音における否定媒介がはたらく必要があります。と言うより、キリスト信仰は否定的媒介なしには成立し得ません。これは三木清氏の言う「弁証法的構造」でしょう。

「福音」の「福」は「禍」を媒介している……すなわちキリストの十字架における苦と死という特殊で否定的出来事です。キリスト信仰は、人の原罪とキリストの十字架における苦難と死という否定媒介によって成り立つのです(但し、パウロ書簡においては原罪を示す単数形の罪については贖いということは無く、律法違反の罪を示す複数形の罪について贖罪論が成り立つとのこと)。無論、3日目に復活しますが、それは十字架の否定性を帳消しにするものではありません。十字架はつけられるとも言いますがかけられるとも言います。福音は、十字架に象徴される人間の原罪とキリストの死という2つのマイナスをかけて生まれたプラスであり、否定性を介さないプラスとは質を異にします。

キリスト教会のマークが十字架であることに疑問を呈する人は、キリストの福音の逆説性とか否定的媒介性に気づいていないのです。キリスト教は「否定的媒介の宗教」と言えるとして、それが弁証法といかなる関係にあるかは考慮しておいてもよいでしょう。

福音主義キリスト教の関係で「弁証法」と言えば、バルトの「弁証法神学」であり、バルトが参考にしたキルケゴールの「質的弁証法」ないしは「実存弁証法」です。_pdf (jst.go.jp)

バルトとキルケゴールの両者に関する研究者である小川圭治氏によると、<「実存(的)弁証法」という表現は、キルケゴール自身の用例としてはきわめて少ないのであるが、ヘーゲル的な純粋思惟の反省を越えたところに成り立つ実存的反省の弁証法として、実存の三段階説における「無限の二重の運動」など、彼の著作全体をつらぬく方法を表す用語として広く用いることは許されるであろう。>(~論文「キルケゴール研究の方法について」)ということです。「実存の三段階説」とは、美的実存、倫理的実存、宗教的実存(A、B)の飛躍的移行であり、この自己変革のプロセスを「実存弁証法」と言うそうです(~稲村秀一著『キルケゴール人間学』〔番紅花舎〕p24)。すなわち「実存弁証法」とは、<「宗教的実存」(より厳密には「神の前にたつ単独者」)へと深まってゆく「運動」のこと>だそうです。日本では「実存弁証法」は「実存の三段階説」と結びつけて理解されてきたのであり、敷衍すれば、<「実存弁証法」は、人間の実存が、「美的段階」から「倫理的段階」をへて、最後に「宗教的段階」へといたるいわば「人生行路」を導く方法 >であるということです(~谷塚巌氏の論文「キルケゴール研究史における方法論について ― 「実存弁証法」の再考 ― 」)。これは、とてもわかりやすくまとめられています。

(「実存の三段階説」については「茅野良男著『弁証法入門 正しい認識を求めて』〔講談社現代新書〕p202~212参照)

しかし、「実存弁証法」を「実存三段階説」と結びつけて理解してきたのは日本でのことであり、キルケゴール研究における「実存弁証法」の提唱者であるドイツ人神学者のヘルマン・ディームにおいては両者は結びつけられないとのことです。ディームを介してキルケゴール自身が「実存-弁証法」という表現で示した内容は、<「思惟」されたことがただちに「行為」と結びついていた古代ギリシアの哲学者たちの「実存」のこと >を意味する「ギリシア的」なものの中でも、< とりわけキルケゴールによって代表させられたソクラテスが、知っていることと知らないこととを明確に区別しようとした「問答」のこと >であるそうです。「実存弁証法」という語は、ソクラテス的実存の立場に立った「対話的思惟」の特徴として言われているのです。ディームによると、「実存弁証法」には二つの側面があり、「思惟されたものを、自己の実存において内面化することに導く弁証法」としての面と、「自分自身で実存する思惟者が、それによって自己の周囲の世界とコミュニケーションをする伝達の弁証法」としての側面です。前者が「ソクラテス弁証法」とも言われる「内面化の弁証法」、後者が「伝達の弁証法」と言われています。そしてキルケゴールには「倫理的なもの」を問題とする意図があったとのことです(~谷塚巌氏の前掲論文)。arcs_07_17.pdf (kyoto-u.ac.jp)

肝心なことはそんなことより、キルケゴールにとっての「啓示の事実」の意味であり、基本的にキルケゴール思想における真理観は「主体性は真理である」という言葉に示されるとおり、問う人自身の内面にすでに答えがあるというものであり、その答え(真理)を想起するべくソクラテスの産婆術的ダイアローグが出てきて、「内面化の弁証法」になるのですが、<「対話者相互が、相対して、自己自身へとみずから深まっていくようにさせるソクラテス弁証法は、ここでは不十分である。というのは、実存についての決定的な真理は、外部にある事実であり、それは、直接的に、知識として伝達されなければならないからである。」(中略)つまり、ここで「真理」として理解された「啓示」(神が人となったということ)は、人間の内にもとからあったものではなく、その外から与えられるものとされる。「キリスト教の真理」については、それは人間の内にはないので、「ソクラテス弁証法」だけではそれに至ることができないということである。」ということです(~谷塚巌氏の前掲論文)。そこから神と人との質的差異の認識にもとづく「質的弁証法」における「神が人となった」という「逆説」が出てくるわけで、「逆説弁証法」なる言葉も出てきます(茅野良男著『弁証法入門 正しい認識を求めて』〔講談社現代新書〕p21)。それは、「前進が後退であるという逆説の中に、宗教的実存の道行というものがある」ということで、『死に至る病』の構造はこの「逆説的弁証法」が動力になっているそうです(~山下秀智氏の論文「キェルケゴールの魅力 ― 信仰を支える逆説的弁証法 ― 」)。Kierkegaard表紙-

ちなみに、「弁証法」とひとことで言ってもヘーゲルマルクスキルケゴールに限らず多様であることは、絶版で入手困難である中埜肇氏の『弁証法 ― 自由な思考のために』(中央公論社)を図書館から借りるなどしてご参照下さい。結局、自分の思考にとって都合の良い「弁証法」を見つけるなり、自分で作るなりするのがよさそうに思えます。

しかし私にとっては、「実存弁証法」であれ何弁証法であれ、「弁証法」それ自体は重要ではありません。重要なことはそれが実際にどのように役立つか?ということ、そして、自分が何かに役立つと思って用いたその思想と、その実践の結果です。弁証法と言っても所詮は思考方法であり思考の道具・手段にすぎません。しかも私の場合、キルケゴールの「実存弁証法」とか「質的弁証法」のように信仰論的な内容としての弁証法にはあまり関心ないし、今のところ役立つことはありません。自分にとって弁証法的思考を必要とするのは救済論的な事柄です。自分が福音主義キリスト教に立場を取ることが、いかなる意味で救いとなり得るのか?という問いへの答えとしてなのです。信仰自体は他力的なものであり、神のはたらきによるしかないので、小田垣氏のように信と不信の二重性などということにはあまり関心はないですが、自分がキリスト教徒として人生を歩んでゆくことがベストの選択であるのか?ということであり、目的は魂の救済であるにせよ、具体的にいかなる救いを得られるのか?ということが最大の問題になります。もしかしたらキリスト教…すくなくともオーソドックスな福音主義信仰の立場以外にもっと有意義な道があるのではないか?といった疑い・迷いの闇夜をついて、恐れずたゆまず福音主義キリスト教を生きてゆくだけの実存的な根拠を得たいのです。土台作りをきちんとしないでおいて行動ばかりやって無内容なものを重ねてみたところで意味がない…といった考えがあるので、生涯のすべてをかけてでも納得できる土台作りをしてから死にたいわけです。物事はセオリーとプラクティスの両方が必要ですが、私は前者だけで終わりそうだし、それでよしとするのです。さすがに後者もゼロということはないのですから……。

広義では「否定的媒介」の思考も弁証法的であると言えますが、その思考を実践した結果がどうであるかが問題なので、道具・手段が「弁証法」であろうとなかろうと、どうでもいいことなのです。例えば、ベルリンの壁を壊すための道具がツルハシであろうとハンマーであろうと何であろうと、結果的にソ連社会主義が崩壊して民主化されたことが重要なのです。ただし、思想に関しては認識として「弁証法」だの「逆説」だのといった概念を用いる方が有効であるということは言えます。「実存の三段階説」については小田垣雅也氏が赤岩栄氏の解釈を紹介しています(~『神学散歩』〔虹企画〕p29参照)。

青野太潮氏は講演の中で、イエスの処刑方法はローマ式の十字架刑ではなくユダヤ式の石打ちの刑になった可能性もあるようなことを言われましたが、私は神の聖定の中で、イエスの死は十字架によって象徴されることが決まっていたのだと思います。主の「十字架」は否定を、主の「復活」は肯定を、象徴的に示すのであって、主の福音はそのように否定的媒介によって表されてきたのです。

現場を担わない無責任な宗教哲学者は救済の普遍性を志向しますが、現場に生きる者はキリストの十字架と復活の福音という特殊性に徹することになります。それが自分を否み、自分の十字架を背負って主に従うという生き方として実践されるのです。

従ってキリスト者は、自分という存在について何者か?などと観念的な疑問に囚われることなどありません。神の前で(coram Deo)キリストと共に十字架に磔にされる(=信仰者として自己限定される)ことにおいて、キリストと共有されるこの世での苦痛が否定的媒介となって、(原)罪を贖われている者として自分の存在を実感されるのです。一般的にも喜んでいる時より苦しんでいる時の方が自分の現実存在を実感できます。喜んでいる時は舞い上がって、ひどい場合は夢の中になるからです。

「『限界状況』を見つめることによって初めて、私たちは、『私たち自身へと生成』してゆくことができるのであって、『限界状況を経験することと、実存するということとは、同じことなのである』。そこでこそ初めて人間は、『存在を確認することができる』のである。」(渡辺二郎著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p149)

「限界状況」は否定的なものなので、これを経験することで自分の実存が開明されるということは、やはり否定媒介です。私の「われ痛むゆえにわれあり」に通じると思います。自分の存在が実感できないとか言う人は苦労が足りないわけで、きつい労働でもやればいいのです。わざわざそんなことをしなくても怪我や病気で身体的苦痛を経験すれば実感できるでしょう。 

「十字架が信徒を実存的に規定するものである」(~川島重成氏)http://160.23.12.112/bitstream/handle/123456789/215/th-n65v1-p1-35-aon.pdf?sequence=1&isAllowed=y

 

ツイートより……、< 主は生きておられる(ハイ・アドナイ)!選民の誓約語・信仰告白。彼らの神との関係がリアルなんは律法・戒律ゆう自己否定的なものを媒介してるからや。宗教は、自己肯定的なだけでは確信を持てへん。 だから主イエスは群衆と弟子達に対し、「己を捨て己が十字架を負ひて我に従へ」と言われたんやな。>

しかし要点は否定的媒介ではありません。人格的な歴史の実質です。否定的な出来事を通っているから良いという、そんな機械的で短絡的なことではないのです。それなら自虐的だと言われてもしかたないでしょう。否定的な出来事を通っても、そこに教訓や現実的自覚など肯定的なことを得ていなければストレスだけが残り無意味なだけです。マイナスからプラスを、否定的なことからいかにして肯定的なものを導き出し得るかが重要なのです。

選民史はバビロン捕囚という亡国難にまで及びますが、選民の選民たる所以はそこで彼らが国難から神の意志を受け取り背信への罰であることを悟った点です。国難を単に災いの面だけで受けとめ、神義論に陥り不信仰に堕すような人々は選民の中にあっても選ばれてはいなかったのです。選民史は選民の神との格闘の歴史です。ヤコブ物語に象徴されるように顔と顔とを合わせての、すなわち真正面からの神との人格的交わりの歴史なのです。その歴史の重さが彼らの信仰を堅くしていったのです。我々も(異教的表現で恐縮ですが…)縁あって聖書の宗教に招き入れられた以上、そこから始まって人生の中で、自分の神との歴史をどこまで深めることができるか、現時点でどれだけ深め得ているか否かで、他人からの批判などにどこまで耐え得る信仰を有ち得るか決まるのです。どれだけ自分(たち)の神とおつあいしてきたか、その交流の実質が重要であり、歴史と言っても単に時間の長さだけを問題とするわけではありません。むしろ横軸の時間的長さより縦軸の実存的深さの方が重要なのです。知的には疑い迷いがあって否定したくても、情意的には否定しきれない何かが深層に支えとしてあるということです。だからカトリックではないけど普遍的な宗教などを求めるのではなく、ましてや世界の諸宗教を統一したようなものを想い描くのでもなく(それはカルト教団)、これも個別や特殊を徹底することにより真の普遍性…というか永遠性に通じるという考え方が重要です。

また、ツイートより…、<「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」…宗教は色々あるが教えは同じ、万教帰一や言う人は普遍の信者。聖書が示す神との関係は親との関係と相似で個別かつ特殊。絶対やないけど特別。そこに徹して人生かけて、キリストいう道を愚直に歩み、同じ月より同じ十字架見て永遠へ出~へんか!>

自分が縁あって導かれ、所属してきた宗教を大切にするということです。さりとてそれはその教団組織が提示してきた教義・信条を無批判に盲信するという意味ではまったくありません。むしろ自分が属す宗教を徹底するということは、伝統の批判的継承という意味があります。同性愛を罪とする従来の解釈や考え方も現代においては批判的に捉え直されて然りです。また自分の場合は特に、三位一体の教理も従属的三一神信仰として捉え直す必要を感じます。職務的であれ何であれ、素直に福音書を読めば御父と御子との関係は同等ではないからです。終わりの日を御子は知らず御父のみが知っていることや、神を見た者が御子だけであるということなど、御父(主神)と御子(副神)とは従属的に区別されています。これはパウロ書簡において更に明快です。青野太潮先生の御著書『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)の中にある、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(p5)という言葉も、自分が読んで受ける感覚を裏打ちしてくれました。三位一体の教義それ自体に対する批判としては、「三位一体の神・・・この神観は、確かにキリスト教に独特のものであるが、イエスは夢にだにこういう『展開』を考えたことはなかった。こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」(高尾利数著『キリスト教を知る事典』〔東京堂出版〕212頁)とか、「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男氏の講義「ユダヤキリスト教史」第38回)といった言葉にも共感し、援用させて頂けることは幸いです。イエスの「神の子」という称号についても、<この名称は、ある時には、その担い手(御子)と「御父」の間の独自な救済史的関係における、前者の尊位を言い換えている。ただしその場合、後世のキリスト教神学のように、実体の同一性あるいは本性の一致について思弁されてはいない。他の時には、子としてのイエスの完全なる服従を言い換えている。(中略)この称号は、(特にマルコ福音書において、ヘレニズム的な仕方で奇跡を行う「神の人」として奇跡物語と結合されたことがうかがえるが、福音書編集段階では十字架の神学から訂正され)事実上イザ53章に近い発言と結合される。>(~『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p323) と言われています。

参考サイト: キリスト教「三位一体」批判 (ehyehist.blogspot.com)

このあたりは、このブログの< 聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?>にもコピペして編集しました。

自分自身の神観が、他人の神に関する言論によって翻弄されるのは自分の神観に確信を持てていないからであり、自信が無いからです。なので堅信するために他者の神観を批判し否定しなければならなくなります。論争に勝った方の神観の方が優れてる…現実的である…といった結果にもっていきやすいのです。しかしどうでしょう、堅信するためには自分が自分に対して否定的なことを実践するしかありません。戒律を守るでも何でもよいのですが、自分に負荷をかける行動でなければ意味がありません。否定媒介こそ現実感を得るための方法です。福音も否定媒介です。負荷をかけられてこそ自分は自分であることに自信が持てるようになります。自分という存在に実感が持てないのは、自己肯定感ばかりを求める甘えた環境にいるからです。

以下、バプ連の篠崎キリスト教会の説教から関連したメッセージを引用させて頂きます。※太字は自分による。

<・ヨシヤはダビデ王のように、主の信仰を基本にして、国政の建て直しを図りました。しかし、やがて破局が訪れます。前612年、アッシリアは滅び、バビロニア時代を迎えました。バビロニアネブカドネザルはエジプトと覇権を争い、バビロニアを支持したヨシヤはエジプト王ネコと戦うためにカルケミシに向かいましたが、メギドにおいて殺されてしまいます。39歳の時でした。ヨシヤの死はユダ王国にとっては大きな損失でした。ユダ王国はこの後、一直線に滅亡への道をたどっていきます。

2.例え義人がいても
・ヨシヤ王は心から悔改め、正しい方向へ国を導びこうと努力しました。それにもかかわらず、主はユダを滅ぼすとの決定を変えられませんでした。そしてヨシヤはエジプトとの戦いに負け、死んでいきます。ヨシヤは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰り」ましたが、主は彼を志半ばで死なせ、改革を挫折させ、終にはユダ王国を滅ぼされました。何故か、先週考察したテーマですが、もう一度、別の角度から、考えてみます。
ユダ王国は前597年にバビロニア支配下に入り、主だった指導者はバビロンの地に捕囚となります。捕囚地で預言者として召されたエゼキエルは、次のような預言をしています「主の言葉が私に臨んだ『人の子よ、もし、ある国が私に対して不信を重ね、罪を犯すなら、私は手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ』」(エゼキエル14:12-14)。捕囚地の人々は、「エルサレムにも義人がいるはずであり、主はエルサレムを滅ぼされない」という藁にもすがる楽観論にすがっていました。エルサレムの滅亡は帰還先の喪失であり、それは捕囚の長期化を意味し、人々は現実を見つめようとはしませんでした。その人々にエゼキエルは安易な幻想を捨てよと言ったのです。なぜ義人がいても救いがないのか。それは神の前に「罪なし」といえる義人などいないからです。そのことはパウロがはっきり言う通りです「私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません・・・ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです・・・正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない・・・彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(ローマ3:9-18)。罪は誰の行為を持ってしても決して購うことはできない、救いは人の義の上にではなく、神の憐れみの上にしかない。だからこそ私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの中に、神の憐れみを見るのです。

3.滅びを通しての救い
・エゼキエルは、「例えヨシヤのような義人も神の目からは罪人にすぎない、だから滅ぶ者は滅ぶ、その滅びの先にこそ、本当の救いがある」と言います。今日の招詞にエゼキエル14:21-22を選びました。次のような言葉です「私がこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見る時、私がエルサレムにくだした災い、私がそこに臨ませたすべてのことについて慰められる」。
・エゼキエルは捕囚地バビロンに立てられた預言者です。人々は捕囚という苦難が一日も早く終わり、エルサレムに帰ることを待望していました。その彼らにエゼキエルはエルサレムの滅亡を宣言します。帰る所がある限り、民は心から悔い改めず、空しい望みを持ち続けます。帰る所がなくなった時、人々は初めて厳しい現実を見つめることが出来ます。国を滅ぼされ、帰還の道を断たれた民は、滅びの意味を求めて、父祖からの伝承を集め、編集していきました。その結果、神を離れ、奢り高ぶった罪が罰せられたことを知り、悔改めます。創世記や出エジプト記等のモーセ五書が最終的に編集されたのは、この捕囚期です。イスラエルの民は捕囚により、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする民族共同体から、神の言葉、聖書を中心にする信仰共同体に変えられて行きました。神の救いは、裁き、あるいは苦難を通して為されるのです。私たちも自分たちの周りに起きる出来事の中に、神の経綸、導きを認める時、苦難が祝福に変わっていきます。今、私たちの国は東北大震災によって引き起こされた苦難の中にありますが、今こそ「救いは滅びを通して来る」ことを認識すべきです。>

2011年3月20日説教(列王記下23:1-15、御言葉に聞き、従う) - 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 (shinozaki-baptist.jp)

「救いは滅びを通して来る」…これ、まさに否定的媒介ということです。ヨシヤ王が心から悔改め、正しい方向へ国を導びこうと努力したにもかかわらず彼は戦死しユダ王国が滅ぶに至ったのは、あくまで神の聖定なのであって、あえて解釈すれば、人類救済史の長いスパーンの中では新約の時代になって信者たちが、ロマ書5:3~4にあるとおり、「患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知」るためであり、ヘブル書12:10~11にあるとおり、「霊魂〔たましひ〕の父は我らを益するために、その聖潔〔きよさ〕に與〔あづか〕らせんとて懲しめ給へばなり。凡ての懲戒〔こらしめ〕、今は喜ばしと見えず、反つて悲しと見ゆ、されど後これに由りて練習する者に、義の平安なる果〔み〕を結ばしむ」るためでしょう。すなわち旧約時代の偶像崇拝背信と懲罰と悔改めの歴史は、新約時代以降の救いのための犠牲とも思われてきます。しかし窮極の犠牲の子羊が救済史の中心に立つキリストです。だから上記引用の説教でも主旨は唯一の義人であるキリストの贖罪に集約されてくるのです。義人は超越性・神性を有しなければあり得ません。シモーヌ・ヴェイユでさえ、キリスト以前の旧約時代の人々の救いに疑問を感じたようですが、キリストが時空の制約下にある一人のユダヤ・イエスに過ぎないのであれば十字架刑死の贖罪解釈はそれだけのものですが、キリストが再臨主としてまた最後の審判主として、職務的には従属的ではあれ神性を認められている以上、その贖罪効果は過去にも及ぶと解することができます。

それはともかく、私デカルトの「我思うゆえに我あり」を「我痛むゆえに我あり」と自分勝手に変えて思っていますが、自分に負荷をかけることによって自分の何たるかが見えてくると思うのです。自分の存在感がイマイチだという人は、自分に負荷をかけることを考えるべきです。そうすれば「実体」感を得られるかどうかはともかく、以前よりは自分を生きているという感覚を得られるはずです。酒鬼薔薇聖斗の「透明な存在である自分」のような存在感のない自分というのは、自分が忍耐や我慢を強いられるような労苦を経験していないわけで、そういう否定的な経験を通してこそ自分の存在を実感できるようになるのです。そうすれば他人を傷つける必要はなくなるのです。他人に苦しみを背負わせるのではなく、自分自身が苦しみを背負わなければ自分の存在を実感するには至らないのです。そして自分の存在を確かに感じ、自信を持てるようになると、次はその自分が主と信じ仰ぐ神との関係に自信が持てるようになり、他人から自分の神観ないしは神信仰を批判されても、いちいち過剰反応を示して論争に陥ることなく、飄々として自分の信仰世界を歩み続けることができるのです。

それはともかく、以下、引用。

TV朝日の土曜ワイド劇場の終着駅シリーズ「霧笛の余韻・小樽不倫の旅、死の匂いのする女…失踪した姉は殺されたのか!?」〔原作:森村誠一、脚本:池広一夫(?)〕で、双子の妹(役は吉本多香美)が姉を殺害した動機として、「姉の影・亡霊のように生きたくはなかった。自分は自分であり実体として生きたかった。」と最後の謎解きの場面で述懐したことを思い出す。まさに我々一般人が感じている自分の存在感というのはこのような意味での実体感であり、「自己,自我=実体」を否定する哲学や社会学の説の方が現実から遊離した机上の空理空論・観念論なのだ。
「自己の個体性といった場合(中略)むしろ、名もなき庶民、平凡な暮らしを営む万人がみな、それぞれ、かけがえのない、ひとごとならぬ、それぞれの尊い人生とその一回限りの人格的生涯を生き抜いているのである。(中略)ヤスパースは、このように自己自身へと態度を採り、それを通じて超越者へと態度を採ることを、人間の実存と呼んだ。自己の自己性は、そうした実存に存すると言ってよい。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p95~99)
五木寛之氏は、酒鬼薔薇という犯罪少年の「透明な存在である自分」という表現に関しては、「はじめてドストエフスキー的な犯罪というか、形而上学的な感覚で殺人が起きた、そういう時代が始まったのだと思った」そうで、免疫学者の多田富雄氏の『免疫の意味論』を踏まえて、<酒鬼薔薇という少年には、精神的な免疫不全症候群が現れているのではないかと思います。自己と非自己の区別がつかなくなれば、自己免疫が起こってしまう。(中略)私たちの社会はいま精神的な免疫不全症候群に陥っています。「透明な自分」というのは、まさにこの症候ではないでしょうか。>と述べています(同、p92~93)。
<実体の消失。──
(1)「実体」とは、同一性を保つものであり、その同一性によって他のものから区別されるものである。したがって、区別される限りにおいて、ものは別々のものとして存在し、逆に、区別されない限りにおいて、同一のものと見なされる。
(2) このような定義に従って現代社会を見ると、現代社会のあらゆる場面から、かつては実体と見なされていたものが、次第にその境界が曖昧になり、ものとしての存在を徐々に失っていっている、言い換えれば、いろいろな実体が消失しつつあるように思われる。それは例えば、学校、会社、家族、土地、お金、国家などである。
(3) 学校は統合や廃校によって、あるいは名称の変更によって、母校という連続性は簡単に失われる。会社もまた、買収や合併によって変化するし、転勤や配置転換によって自分の仕事も簡単に変化する。家族もまた、かつては土地に根差し、血縁に繋がり、延々と歴史を貫いて連続して来たものであったが、今では両性の合意によって、夫婦も親子も仮初の関係を営むだけになっている。お金は、かつては金銀財宝といって所有物の典型であったが、今では銀行口座の通帳に記される数字やカードでやり取りされる計算になってしまい、文字通り名目だけの存在になっている。携帯で株を売買し、大損して自己破産しても、それは数字の操作で生じた事実でしかなく、本当か嘘か、その事実を実感しようにも確かめようがない。そして、国家。国家との関係はただ、国政選挙の投票や旅券の申請に際して意識されるだけで、日本国民として意識が上るのは、スポーツの国際試合くらいのものでしかない。国政の最高責任者である総理大臣でさえ、任期途中であっさり職を投げ出すのであるから、国家や国民の意識は相当希薄になっていると言えるだろう。(いつか近い将来、万世一系天皇でさえ、自ら退位して民間人になりたいと表明するかもしれない。)
(4) 実体の消滅は、実体に支えられていた現実の存在が曖昧になり、薄弱になるということである。実態はその自己同一性によって、内と外、自己と他者を区別していた。しかし、その実体が消失するとすれば、それを基盤にして築かれていた現実が現実であることを失うということを意味する。学校や会社や家族がその連続性を失い、いつなくなるかもしれない仮の集合体でしかないとすれば、個人としての人間も自分の連続性を失うことになる。単なる数字でしかないお金も、携帯電話で繋がるだけの友人も、実体があるのかないのか、益々曖昧になっている。こんな虚構の人生で唯一つ確かなのは、自分の決断であり実行であるとして、自殺によって現実を取り戻そうとしても、自殺によって証明されるのは人生が虚構であるということだけである。死んでしまえば、元よりなかったも同然な人生であることを確かめただけのことになるだろう。>(~九州大学教授 菊地惠善教授の哲学ノート「A.観察と感想 V 100」)
自己が実体ではないことを示すのに昔からラッキョウの皮むきの喩えがよく使われるが、八木誠一氏も次のように述べておられる。
<「我思う。ゆえに我あり」といっても、この立場が主体の自覚の立場であるといっても、この自己は非我から峻別された自己なのである。ところがこのような形で自己を求めてゆくと、すなわち「非我ではない我」を求めてゆくと、自己の真相は見失われることになってしまう。たとえば自己を精神として自覚すると、一切を精神の自己展開として説明しようとしても、この自己理解はやはり物質としての自己の反抗を招くのだ。つまり非我ならぬ我をどこまでも求めてゆくと、いわばラッキョウの皮をむいて内部にラッキョウの実体を求めるような結果となる。むき棄てられた「非我」が、かえって「我」であることを主張し出すのだ。実際、観念論を完成させたヘーゲル以後、フォイエルバッハマルクス唯物論を立て、ショウペンハウワー→ニーチェは生の方が精神より深いことを説き、シュティルナーは観念存在はエゴイズムの所産だと主張した。つまり自己認識に際して、自己が自己を対象化すると主体が知の外に落ちてしまう。また主体的自覚といっても、そこで非我ならぬ我を求めるとその我は内容を失うのである。だから事実を対象化してその自己同一的内容を事物の本質とし、それを言表・伝達するという日常的知性と伝達の言葉の立場が克服されなくては、自己の何たるかはついに明らかにはならないのだ。」(滝沢克己×八木誠一『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p87)
皮肉なことに人間は順境的平時よりも逆境的非常時の方が生の実感を得やすい。頭の中だけの観念的自己証明としての「我思うゆえに我あり」ではなく、心身全体としての現実的自己証明としての「我痛むゆえに我あり」なのだ。ところで、故・武藤健氏はキリスト者にとっては「我信ず、故に我在り」(credo ergo sum)だと述べておられる。その前に氏は、「キリスト者にとって自我は何よりもまず神に対する存在である。換言すれば神からよびかけられ、神から選ばれ、神から使命を与えられる事によって初めてキリスト者の自我意識が生ずる。」と述べてローマ8:29~30のパウロの言葉を引いておられる(~『日本の説教 12 武藤健』〔日キ教団出版局〕p130~131)。その「使命を与えられる」という所謂、「召命(感)」というのが私にとっては高尚な感じになる、プチブルっぽくなっちゃうのだ。親鸞教にはそういうのはなかろう。だからおおよそ「召命」に生きているなんて自負せずとも、あるがままの罪人で南無阿弥陀仏ゆうて生きてゆける・・・ある意味、キリスト教信仰よりもラクなのである。自分が神に向かって背伸びするようなことをしなくてよい。でもキリスト教は違う。職業召命(感)などもあるがために、少しでも世の為人の為に役立つ職業に就かないといけなくなる。その点で上昇志向となり、より社会貢献度の高い職業に就くために学歴や資格取得など、社会的価値基準に囚われることになる。キリスト教主義大学などブランド化しているではないか。そこに国費から私学助成金が流れ込んで無駄遣いされている。
武藤健氏もその私学のブランド化したキリスト教主義大学に無批判に関わってこられたのであるとしたら、その点では一般の私学の神学部教授やその後援を受けて飯を食べている牧師たちと同様に、私にとっては尊敬の対象にはなりませんが、武藤氏の説教は他の牧師の説教とは違って哲学的で味があると思う。武藤氏はメソジストの伝統に立っておられるが、ホーリネス系福音派的「自我磔殺」を説教する立場ではなく、自我の現実を直視してそれを十字架のキリストにゆだねるという実存的福音主義の立場である。だから「イエス・キリストこそ、私たちの実存の究極の『型』」であるといわれる(同書p54)。そしてその「実存」とは、「この世界に生きる具体的現実的な自己であってしかも真にあるべき姿の人間存在のこと」だと述べられている(同書p52)。武藤氏のいわれる「キリストにある実存」(同書p53)というリアリティーを私も共有し得る。武藤氏は、「ある時突然『死』というような、問題を考え出す時、私たちは日頃の漫然とした生活を中断され、改めて自分というものを見つめさせられるのであり」、そのような場合を「実存主義者たちは、人間の『限界状況』と呼」ぶと述べておられる(同書p48)。特に、個別的といわれる限界状況に置かれる時が本来的実存の時となる。
「死の問題を、たんに『一般的』に他人事のように眺め、死ねばすべてが終わるとか、万物はことごとく没落の運命を免れ難いとかと、嘯いているだけでは、まだ死の問題が本来的に自覚されているとは言い難いのである。大切なのは、死が、当の自分自身に『個別的』に関わる切実な問題として自覚され、ぞっとするような孤独の思いにおいて、その先の見越しえない、ヤスパースの言う『限界状況』のひとつとして痛切に意識されてきたときにこそ、ほんとうの意味での死の問題が始まるのである。そのときにこそ、人間にとってのいわば不可避の宿命としての死に対して、どのような態度を取るべきかが、真剣な課題となるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p23)
「『限界状況』を見つめることによって初めて、私たちは、『私たち自身へと生成』してゆくことができるのであって、『限界状況を経験することと、実存するということとは、同じことなのである』。そこでこそ初めて人間は、『存在を確認することができる』のである。」(同、p149/p52参照)

とにかく、福音主義キリスト教徒の生き方は、いきなり永遠不変の真理などを求めるのではなく、キリストの福音という特殊性に徹して永遠の生命という普遍性に通じる…一個の宗教にすぎないキリスト教の相対性に徹して、唯一の神の救いという絶対性に通じる…というわけです。自分をいかなる宗教的立場にも置かない宗教多元主義などの哲学はすべて金儲け主義のペテンです。十字架には「原罪」(を贖うこと)と「死」という否定性があり、復活は強いて言えば「史実ではない=神話」という否定性があります。キリストの福音…信仰義認は、否定的媒介による創造主の絶対肯定なのです。真実は直接無媒介的に、いきなり普遍で絶対的なのではなく、歴史的社会的現実においては特殊かつ相対的です。それをきちっと踏まえる立場が宗教的実存あるいは実存的宗教ということです。

オーソドックスな信仰的立場からすれば、ブルトマンの「非神話化」は聖書解釈として否定的なものになります。しかしその否定的なものとしての(非神話化された)史的イエスを媒介しなければ、自分たちの現実生活において救い主たる超越者としてのイエス(=キリスト)に出会うことはできず、信条の中の観念的存在にとどまるのです。

私個人が、新約聖書の中で「神話の中の非神話化」と呼んでいるのがフィリピ書2:5~11の所謂「キリスト賛歌」です。ここでは「自己無化」とも解される「ケノー(シス)」という言葉が使われており、保守的な解釈では逆にキリストの栄光化の箇所とされますが、私はこの箇所に象徴される思想として、ヨハネ福音書に特徴的な神性面を強調されたイエスが、イエス自身の自己否定による人性面の徹底という物語を通して、現実的な意味において神から超越者(=「主」)とされている…という逆説のキリスト論をみるわけです。

ヨハネ福音書などにはこの否定媒介や逆説によるキリスト論を欠くのであり、そこがギリシャ思想の影響とかヘレニズム云々といった問題点の一つではないかと思われます。

そもそもパウロの神学的思想において「否定媒介の原理」はどのような点にみられるのでしょうか?たとえばこれです、

「そこで私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。それは、キリストの力が私の上に宿るためである。/それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ。なぜならば、私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだからである。」(岩波版 青野訳 コリント二12:9b~10) 

「事実、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、しかし彼は〔今〕、神の力によって〔力強く〕生きておられるのである。そして私たちもまた、キリストにあって弱いのだが、しかし、あなたがたに対しては、彼と共に神の力によって〔力強く〕生きることになるであろう。」(同、コリント二13:4

パウロには、一般に「十字架の神学」といわれる、ルターにつながってゆく宗教思想が、実存主義的であるが故に、罪人としての自己否定を介してこそ創造的肯定性を得る…という逆説の福音という特殊的な真理として展開されていると思われます。

私はそのような思想的なことは、パウロが口下手でなんらかの持病を持っていた人物であったことと無関係だとは思いません。むしろその点を重視します。人類の悪魔性みたいなものを感じるきっかけは、そういう負の部分に対する人々の偏見や差別であることが多いからです。ここで青野太潮著『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)より引用します。

< 最初期キリスト教会のユダヤ主義的な人々や、ヘレニズム的な霊的熱狂主義者たちは、イエスの「十字架」を、「弱さ」「愚かさ」「躓き」「呪い」のように、単に否定的な意味で捉えていた。ところが、パウロはそれを裏返して、「弱さこそが強さ」「愚かさこそが賢さ」「躓きこそが救い」「呪いこそが祝福」というように、イエスの「十字架」を、逆説的な意味で肯定的に捉え直した。パウロが伝えようとしているのは、イエスの死を「贖罪」とみなす捉え方では「救い」や「ゆるし」を十分には語りえないということ、そして、それを十分に語りうるのは、イエスの「十字架の逆説」のみなのだ、ということである。(中略)『ガラテヤ人への手紙』の箇所では、「贖罪」の概念ではなく、「呪いこそが祝福」という「十字架の逆説」が貫徹されているのである。「贖罪」の概念について考える際には、その対極にある「十字架の逆説」をつねに念頭に置いておく必要がある。>(p130~131)

エスの「死」の救済論的理解については、「贖罪」に対して「十字架の逆説」を主張する青野氏ではありますが、やはり教会現場で説教する立場ではそう単純な切り方は出来ないわけで、青野氏自身、平尾バプテスト教会の協力牧師として現場に立っているとは言え、そこには主任牧師などとの違いがあるのではないでしょうか?すなわち、青野氏がいくら「たしかに…イエスの『死』を『贖罪』の概念と結びつけた記述は存在する」とは言え、「『死』と『十字架』を入れ換えて、『イエスは十字架にかかって、私たちの罪のために死んでくださった』、あるいは『イエスの十字架は、罪の贖いであった』というような記述は、聖書のどこを捜しても存在しない」(p129)と主張したところで、信徒にとっては同じ事柄なのであり、たとえば「三位一体」について、その表現は聖書には無いけど、その内容は聖書に明示されいる…とか、青野氏の言い方だと「萌芽はある」などと言うことが通用するのなら、当然、こちらの場合も、青野氏が指摘するような表現は聖書には無いけど、その内容は新約聖書に明示されている…と言えるのです。すでに長年の間、教会の中に浸透してきた「十字架の贖罪死」という観念は根強く、そう簡単には変えられないということでしょう。

ここで説教についての私の考えを述べておきたいと思います。説教は聖書講解が主流ですが、主題説教にせよ伝道説教にせよ何説教にせよ、講話ではなく、礼拝の一部であるので、牧師の主観が出ることは極力避けて然りです。説教は教理的性格を有して然りであり、高倉徳太郎の説教も教理的説教だったと云われています(~『日本の説教 8 高倉徳太郎』〔日基教団出版局〕の「解説」参照)。しかし高倉牧師の場合は植村正久の簡易信条主義の系統ですから、教理といっても体系的ではありません。教理的説教という以上、その内容はその教会の信条によって規制されて然りです。そうでないと、牧師がその時々の所感を込めて語ることになり、同じテキストなのに毎回、異なる解釈が語られることになります。それでは説教とは言えません。その点ではウェストミンスター信仰基準のような体系的な信条を採用している教会での説教が好ましく感じます。説教は信条主義教会…特に改革派教会が良いということで、バプテスト派とか会衆派系の教会は傾向としてダメということです。特に社会派牧師の社説のような話は聞きたくありません。聖書解釈もこじつけめいて、とても神の言葉という感じにはなりません。むしろあまりに人間臭い言葉なのです。

一例として奥田知志牧師のyoutubeにあげられている説教を挙げておきます。講演者や社会活動家としては尊敬される牧師が、説教者としてどうかということはまた別のようです。

www.youtube.com

そもそも説教は礼拝の一部なので教会の暦に従わなければなりません。信者を主たる対象とする礼拝説教と、未信者を主たる対象とする一般向けの伝道説教とは区別されて然りです。説教される聖書箇所はその時々で牧師の好きに選んで良いというわけではないのです。イエスの十字架の場面は教会暦では3月か4月にくる受難日に説教されるのが常です。それ以外の時に説教されてはいけないという決まりはないですが、節度が必要でしょう。説教は講演ではないので、説教者自身の主観が制限されなければならないと同時に、説教者自身の活動がどうとかいうことでその意義が左右されるものでもありません。イエスの隣人愛や敵愛の教えについて語るからといって、その語り手である牧師自身が日頃から隣人愛や敵愛を実践していなければ説教は無意味だ…とはならないということです。もちろんそれは説教が神主の語る祝詞とか呪文のような、会衆にとって意味不明なものでもいい…という意味ではありません。人間的な評価の基準でその良し悪しを決めるべきものではないということです。たとえば、ホームレス救援活動をしている牧師の方が、そのような活動をしていない牧師よりも、福音書における貧者や被差別者へのイエスのはたらきについて語りやすいとか、その話に説得力があるとかいうようなレベルではないということです。説教は語り手だけではなく聴き手の心構えが正しくされていないといけません。

ところで、旧約聖書では第二イザヤにおける「苦難の僕」の詩に人類の悪魔性が表わされています。そういう否定的なことを通して、原罪状況への認識と、そこから救う贖罪主の超越性が切実に要請されてきます。それが、私が晩年になって体験し得た(ルターの「福音の再発見」〔おもにロマ1:17〕ならぬ)私の「キリストの再発見」〔おもにガラ1:4〕です。当初はロマ1:16にしていましたが、「キリスト」に関する聖句でないと「キリストの再発見」にはなりませんので、ロマ1:16は適当とは言えません。私の「キリストの再発見」の主旨に合うのは、ガラテヤ1:4です。

「そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちの父なる神の意志に従って、私たちを現在の悪の世から解放するためである。」(岩波版 青野太潮訳)

さらにガラテヤ6:14では、「しかし、私にとっては、私たちの主イエス・キリストの十字架以外のものを誇ることは、断じてあってはならない。そのキリストをとおして、世界は私に対して、私も世界に対して、十字架につけられてしまっているのである。」(同訳)と言われ、コリント二5:19では、「なぜならば、神はキリストにあってこの世界をご自身に和解させ続けておられたからであり、その際神は、人間の罪過を彼らに帰すことをせず、私たちのうちに和解の言葉を託されたのだからである。」(同訳)ということで、この世は「悪」だと言われてもキリストの十字架の贖罪によって、「悪」の原因である原罪から「世」は救われるわけです。しかし私が実感する人類の地獄性・悪魔性というものは、その「悪の世」として自覚されるのであり、キリストが超越性・神性を有つ必要性はその救い主としてです。罪人を救うのは無罪人であり、同じ罪人ではあり得ません。

ところでパウロは、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(コリント二5:16)と述べており、「史的イエスとケリュグマのキリスト」という現代神学的キリスト論からすれば、パウロのキリスト論は否定的媒介によるとは言えず、すなわち非神話化のような考えはもちろん想像にも及びません。

エスを「肉に従って知」るということは、今日では史的イエス研究のような、オーソドックスな信者にとっては否定的な経験を回避して、福音派の人たちのように賛美に興奮しつつ、神の子キリストを信仰し続けようとすることにほかなりません。

結果的に人類の救いは人類を「超」えた存在によってしかあり得ない…ということ、すなわちヒューマニズムの限界の実感は、戦争体験者の中の知識人だけではなく、私たちのような名も無き民衆の心理にまで共有されています。性善説が誤りだ、性悪説が正しいんだ……という単純な話ではなく、たとえ人間に本来、善性があると仮定しても、それもまた「(原)罪」によって汚れているということです。

ここで再び、青野太潮氏の言葉を見たいと思います。これは講演記録(「十字架の神学」と贖罪論)であり、私が特に重要と思われる箇所を引用します。※赤字は自分による。

聖書の基本的な使信にとっては「十字架の神学」のほうが贖罪論よりも重要なのではないか、という結論になっていくわけですが、そのことについてしばらくお話をさせていただきたいと思います。私には、贖罪論の中には、以下において若干ふれますような問題性が多く含まれており、したがってそれは、それが本来置かれるべき位置に戻されるべきではないか、というふうに思われます。まず、レジュメにも書かせていただきましたように、むしろ「十字架の神学」よりも贖罪論のほうが聖書の使信においては中心的だとみなされるのが、今日の教会では圧倒的に多いように私には思われるのですが、皆さんにおかれましてはどうでありましょうか。そしてもしもそうであったとしたら、果たしてそれでよいのでありましょうか。「十字架の神学」という言い方は、ご存知の通り宗教改革者のマルティン・ルターが用いたラテン語の術語(テクニカル・ターム)であるtheologia crucis です。しかし、ルターがそれでもって言っていることがらは ―― 私は教会史家ではなくて新約聖書学が専門の者ですが ―― 、新約聖書の中でパウロが語っている「十字架」理解と極めて深く通低しているように思われます。というよりも、ルターという人はパウロの「十字架」理解、つまりパウロの「十字架の神学」を非常に深く正確に理解した人だったのではないか、と私は考えているのです。この「十字架の神学」という理解の基本的なところには、言うまでもなくイエスの「死」をどう理解するかという問題があります。しかし、「イエスの死」と「イエスの十字架」、つまりこの「死」(thanatos)と「十字架」(stauros)という単語は、事柄そのものとしては同じイエスの死、イエスの十字架上の死を当然指すわけですが、ところがそれが「死」として言い表わされた場合と「十字架」として言い表わされた場合とでは、それぞれが持っている意味内容がほとんどまったく違ってくるという事実があるのです。ですから、その二つは厳密に区別されなければならないのだ、という基本的な認識を持たなければならないのです。つまり、二つは交換可能ではないのです。「イエスの十字架」と言われているところを「イエスの死」というふうに言い換えても一向に意味は変わらないし「イエスの死」と言われているところを「イエスの十字架」と言い換えても一向に構わない、などというのでは決してないのです。そうではなく、それぞれが、それぞれの特有の意味合いを持っているのです。特に「十字架」という単語は、そのような特別な意味合いを強固に持っているのです。こうしたことがらが、基本的な認識として現在の私にはあるのです。私はこのような認識に、パウロ書簡の釈義を通して到達いたしました。そして私は、これを私は自分で発見したとしばらくは思っておりました。しかし実は私よりも5年ほど前に、ドイツのハンス・ヴェルナー・クーン(H.-W.Kuhn)という先生が論文を書いておられまして、その中で彼は、この区別をしている先駆者たちの名前を挙げた上で、「この二つは厳密に区別されなければならない。しかし残念ながらその区別は、繰り返して無視されて来ており、見過ごしにされている」と嘆いておられました。以前からそういう指摘があったにもかかわらず、私自身も含めてそのことに大きな注目をなすということをほとんどして来なかったのです。現在の私は口を酸っぱくしてそのことを言っていますが、しかしそれに注目する人は多くはありません。実はつい昨日まで私は天城山荘で行なわれておりました日本バプテスト連盟の年次総会に出席していたのですが、そこで新しく教会組織をした三つの教会が連盟に加盟することを承認されました。その際には、バプテスト教会ですので、それぞれの教会が作成してきた信仰告白の文章が提出されたのですが、それらの中には、私が日ごろから繰り返して言っているそのような区別の反映はほとんど全く見出すことができませんでした。そしてこれがほとんどいつもの現実であります。他の教派における信仰告白文においても、それが大多数の傾向でしょう。「仕方がないか」とほとんど諦めておりますが、しかし、それは見過ごしにしてよいような区別ではない、ということだけは確かだと私は思っております。エスの「死」が「十字架」あるいは「十字架の死」として言い表わされたときには、それはさしあたっては、「弱さである、愚かさである、躓きである、呪いである(あとで述べますように「神による呪い」ではなくて「律法による呪い」ではあるのですが)」と、さしあたっては否定的に、ネガティブに捉えられるのです。しかし、それはそのまま否定的であり続けるわけでは決してなくて、逆説的に、「そのような弱さこそが真の強さであり、愚かさこそが真の賢さであり、その躓きこそが本当の意味での救いであり、その呪いこそが、本当の意味での祝福なのだ」というふうに展開がなされていくのです。もちろんそのような展開は、神の目からご覧になればそのような「逆説」がすべてのことがらにおいて貫徹されているのだ、という、神の意志の啓示に基づく確信に基礎づけられているのは言うまでもありません。エスが、そしてパウロが「神」と呼ばれた絶対者は、常にそのような「逆説的な現実」こそが真実の現実なのだと宣言してくださっているのです。すべてはその「宣言」に基づいているのです。「力は弱さの中でこそ完全になる」このような「逆説」が典型的に言い表わされているのが、第二コリント12章8-10節においてです。自分の身に肉体の「とげ」を与えられていたパウロは、「これを離れ去らせてほしい」と復活の主に願ったときに、「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜなら力は弱さの中でこそ完全になるのだからである」(9節)という言葉をいただいた、と記していますが、その復活の主の言葉の中に言い表わされている「逆説」です。(中略)

私たちは通常「イエス様は私たちのために、あるいは私たちの罪のために、あるいは罪の贖いとして、十字架にかかって死んでくださいました」、あるいは「十字架の上で尊い血を流して私たちの罪を贖ってくださいました」、などと口にしまして、それによって贖罪論を「十字架にかかって」とか「十字架の上で」という言葉と結合させながら語るのですが、そしてそれは、厳密さを要請される組織神学者の文章の中にもしばしば出てくる言い方なのですが、実はそういう言い方が新約聖書の中にはまったくない、という事実です。まったくないのです。「ない」と言うと、「そんなことはないだろう」と皆さんほとんどが常に言われるのですが、ほんとうにありません。ペテロの第一の手紙2章24節に「十字架」の語と贖罪論の結合がありますために、「ここにあるではないか」と言われるわけですが、しかしそこでは実は「十字架」という単語は使われておりません。ただ「木」という単語が使われているのみです。後で述べますように、ガラテヤ3章においても「木」という単語が「十字架」という意味で使われておりますが、しかし第一ペテロが書かれたのはほぼ確実に紀元100年以降のことですので、50年代にガラテヤ書がパウロによって書かれたときの「木」が「十字架」を指している意味合いと、それを同日に論ずるわけにはいきません。ともかく、新約聖書の中には「イエス様は私たちのために、私たちの罪のために、<十字架にかかって>死んでくださった」という言い方はありません。なぜないのだろうか、ということを私はずっと考え続けてきたのですが、それは、先ほどの日本経済新聞の河野さんのまとめにもありましたように、十字架とは極めて悲惨で、残酷な処刑の道具でありましたから、イエスが私たちのためにあのむごたらしい死を死んでくださったということを「十字架」という単語を用いながら「直接的に」語るということを、やはり初代の信徒たちはなしえなかったからではないだろうかと思っています。それが時代を経るに従って、十字架もきれいなシンボルになり、教会の上にも飾られるようになり、十字架刑のむごたらしさが忘れ去られていったときに、「十字架の上で、十字架にかかって、私たちのために死んでくださった」という言い方が成立してくるということになったのではないでしょうか。しかし、イエスは、「死んでくださった」わけではないのです。後でもふれますが、イエスは十字架の上で「殺された」のです。エスは「殺害されたのだ」という、その事実が曖昧になってしまうということをも、やはり贖罪論が孕んでいる問題性として言われなければならないだろうと私は思います。>

http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/223/th-n67v1-p19-62-aon.pdf?sequence=1&isAllowed=y

このように、青野太潮氏の見解ではキリストの福音の特性が「逆説」として捉えられ、それが強調されているわけです。しかし、「逆説」は必ずしも、「弱さこそが真の強さであり、愚かさこそが真の賢さであり、その躓きこそが本当の意味での救いであり、その呪いこそが、本当の意味での祝福なのだ」というふうに、否定(マイナス)→肯定(プラス)というベクトルをとるとは限りません。しかしキリストの福音は必ず、このベクトルをとるわけです。だから、福音の特性はただ「逆説」と言うだけでは不十分であり、「否定的媒介」ということも言われなければなりません。そして何故、「否定」(マイナス)が先行するのか?という理由が聖書から示されなければなりません。それは人が「(原)罪」を持つということであり、神話物語的には、アダムとエバが「堕罪」して、その結果を人類が受け継ぐかたちになっているからです。その「(原)罪」は遺伝因子のようにイメージされるべきではなく、「的はずれ」(ハマルティア)の傾向性として受けとめられなければなりません。すなわち創造主の意志からズレる生き方をしてしまう傾向を人間は持っているので、そのために「否定」(マイナス)が先行するのです。しかし「十字架」はその「(原)罪」の「贖い」のために(とは言え、前にも書きましたが、パウロにおける贖罪の罪は「原罪」を示す単数形ではなく、「律法違反の罪」を示す複数形)、すなわち救済のために、キリストが神によって定められた犠牲の形であって、これが「復活」との組み合わせによって「否定」(マイナス)にとどまらない意味を持ち得たわけです。「十字架と復活」の福音…と言う場合、十字架は死刑の道具なので、苦難と死という「否定」(マイナス)を象徴し、復活は死への勝利ということで「肯定」(プラス)を象徴するのです。そして両方がセットで「贖罪」という救済的意味を持ち得るのであって、「復活」なき「十字架(の死)」は「贖罪」の出来事たり得ないのです。なぜならパウロが言うように、キリストは弱さにおいて十字架につけられ死んだが、神の力によって復活して生きているからこそ、その十字架の弱さが誇りとなる…すなわち肯定的意味を持ち得たからです。復活がなければ、十字架はただの弱さであり敗北の象徴にすぎません。このあたりは青野氏の言説ではふれられません。「逆説的な現実」こそが真実の現実だと言う、その理由を聖書から解き明かさなければ、すくなくとも聖書神学と言う程のことではないと思います。この点で青野氏の主著『「十字架の神学」の成立』の書評における山田耕太氏の指摘を以下、参考までに引用します。

<方法論的な事柄に関する点であるが、佐竹氏が正しく指摘しているように、著者は伝承史的方法をとらず、神学的釈義の立場を一貫している。(中略)この指摘は、佐竹氏とは対極的に通時的ではなく共時的に見て類型論の立場をとる八木氏による、著者との論争の総括の言葉にも通じるように思う。「パウロの苦難理解について、青野は、パウロにおいては苦難はあくまで苦難即栄光であって、栄光は苦難を離れることはない、とするのに対して、八木はパウロにおいては成る程苦難即栄光ではあるが、しかし、終末論的展望においては栄光が苦難を克服すると見られている、と解して、意見の一致が見られないでいる」(中略)著者は歴史的関心の強い佐竹氏と神学的関心の強い八木氏の中間に位置づけられようが、伝承史的方法をとらないこととかかわって(それは八木氏が正しく指摘しているようにパウロ解釈において「終末論的展望」を欠くことにも繋がる)、パウロの逆説的「十字架」理解がパウロの生涯のどの時期にどのような歴史的状況の下で成立したのかが本書では明確にされていない。確かに、イエスからパウロへ、パウロからマルコへ、という経緯が「逆説的」という概念を媒介して示されているが、それは具体的な歴史的経過というよりは、観念的な理念史と言ったものに近いように思われる。パウロの「十字架の神学」がパウロの生涯のどの時点でどのような問題の中で成立したのかを明らかにする為には、歴史的背景ばかりでなく、社会学的方法ないし社会史的方法による社会的背景をも明らかにする必要がある。(中略)イエスパウロパウロとマルコとの関係についてであるが、著者がこれらの連続性を明示したことは大きな貢献であるが、これらの連続性、すなわち現在の用語を用いれば統一性を見るばかりでなく、多様性をも視野に入れた、統一性と多様性を見ることが必要なのではないだろうか。一例を挙げれば、マルコがパウロの逆説的な「十字架の神学」を受け継いでいる点を認めるとしても、「十字架の神学」とは相入れず、むしろ「栄光の神学」とも言うべき奇跡物語(しかも、共観福音書伝承の奇跡物語はほとんどマルコによる福音書に収められている)は、どのようにマルコの「十字架の神学」と調和するのだろうか。さらに、そのようなマルコの「十字架の神学」は、パウロの「十字架の神学」と全く同じなのだろうか。>

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku1962/1991/30/1991_30_90/_pdf/-char/en

山田氏の指摘で特に注目したのは、青野氏の立場は「神学的釈義」であり、イエスパウロ~マルコが「逆説的」という概念を媒介して示されているのは歴史的経過というより「観念的な理念史」に近いという点です。まさに我が意を得たりといった感じがします。そうなんです、青野氏が「逆説」という概念でパウロの十字架の神学について語るやり方は実に観念的であり、荒井献氏や田川建三氏や(かつての)八木誠一氏や大貫隆氏などのような歴史的社会的文脈を重視する立場ではないのです。私自身もどちらかというと神学的釈義の方に関心がありますが、青野氏の「逆説」理解には飽きます。

そもそも昔からキリスト教は「逆説の宗教」と云われてきたようです。参考までに以下、引用します。※濃字、赤字は自分。

<「内地に止るべきか朝鮮に行くべきか、これらは第二の問題である、十字架を負わんとするや、これが第一の問題である。『然り我これを負わん』と直ちに言下に答へることは僕には出来ぬ。・・僕の心には戦いが始まった。確信を得たい、・・祈らねばならぬ。」
ここには、矢内原が「十字架を負う」ことを重視する点が顕れている。その特徴は修養的、律法的、苦学力行的生き方を信仰的に優れたものとする価値意識が濃く、信仰的エリートたらんとする意欲が横溢している点である。当時の真面目な帝大生の意識でもあろうが、彼の信仰観はさらにその傾向を強くしている。
「十字架を負ふ」とは、イエスの言葉に由来する。この言葉の消息について武藤一雄著作の中で次のように述べている。
キリスト教が逆説的宗教とされる所以は、信仰の対象そのものが、勝義において逆説として規定される点にあった。・・なかんずく「十字架の主」は最大の逆説をなすであろう。信仰は、客観的にはどこまでも不確実、いな背理の極みである真理のために、あらゆる地上的幸福を断念し、自分自身を永遠者に向かって捧げる死の飛躍である。・・有限な世界と自己に対して不断に否定的関係を保つことによって、どこまでも苦悩を耐え忍ばなければならない。」
すなわち、肉体の生命・地上の幸いよりも神の世界に殉じることを目指すのである。>(~山中健司氏の論文「矢内原忠雄の朝鮮観」)

しかし前述のとおり私は、キリスト教は「否定媒介の宗教」という方が適当であると思います。「否定的媒介」という方が良いかもしれません。とにかくキリスト教の核心である福音が、そのような否定的媒介によって成立するのです。それは十字架と復活との関係でもあります。なぜ否定が媒介されるのかと言えば、人間の原罪という否定的なものがイエスの死によって贖われることが福音だからです。その福音を信じることによって救われます。

私は青野氏が協力牧師をしておられる平尾バプテスト教会で行われた講演のDVDを持っていますが、その講演で青野氏は、被造世界を自然法則にまかせるということを神は太初の昔に決定した旨を言いました。そのために東日本大震災のような自然災害が起こって多数の人が犠牲になるような惨事も起きたのであり、それでも神ご自身は介入しないと決定しておられるというわけです。介入しないことにおいて惨事を防ぐことはできないので、その意味で神は弱さを認めているというわけです。これが神義論的問いへの答えとなるわけですが、イエスの方は、このままでは殺されるとわかっていながら律法主義を批判し続けたのであり、ローマ式の十字架刑ではなくユダヤ式の石打ちの刑で殺された可能性もあったから、十字架に殊更、特別な意味を認める必要は無いというわけです。そして、青野氏は贖罪論は神がイエスを十字架につけて死なしめ、その死によって他の人々を生かすというのは(…そのような神はなんと邪で残酷だろう…と誰かの言葉だそうですが、それを青野氏も引用しており)一殺多生の考えであり、それは靖国思想と同じだと言うのです。つまり青野氏は贖罪論に対しては全否定に近い考えであり、その点で佐藤研氏から批判も受けているとのこと。結局、青野氏は贖罪論に代えて逆説論を立てるのであり、この思想がイエスパウロとマルコをつないでいるというわけです。ついでに三位一体論については否定も肯定もできない、よくわからないとのことで、新約学者に三位一体論を説明せよというのは無理とのこと。滝沢克己氏はユニテリアンという批判を受けて、青野氏自身はイエスを(百卒長のように逆説的にではあろうが)神の子と認めるので自分をユニテリアンだとは思っていないが、トリニタリアンでもないとのこと。青野氏自身は滝沢氏の影響ではないと言われていますが、太初の原決定などという言い方を聞くとまさにインマヌエル神学です。そして十字架の出来事がなかったとしても救いは成立したというのですから、普遍救済主義と言っても過言ではないでしょう。ヨハネ福音書3章16節の「独り子を信じる者が」がなければよかったのに…と批判なさるのだから普遍救済主義者だと言えるのです。但し、普遍救済主義と言っても、青野氏は贖罪説に否定的なので、アルミニウス主義のバプテスト派(ジェネラル)について言われる普遍救済説とは異なり、万人救済主義ユニバーサリズム)と言う方が適切かも知れません。ローマ8章19~22節では万有救済が見られますが、とにかく主知的傾向の強い人はとかく普遍主義的志向になりやすいようです。

さらに私なりの青野批判ですが、青野氏はギリシャ語の現在完了形の受け身ということにこだわるがあまり、復活のキリストが今もなお十字架につけられてしまっているキリストというおかしなキリスト論を導き出しており、いつまで継続するのかは知りませんが、これは終末に再臨するキリストが昇天した時と同じ姿で雲に乗ってやって来ると言われていることと合わなくなっています。

< 彼が〔天に〕昇って行くと、彼らは天をじっと見詰めていたが、その時に、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らの傍に立って、/言った、「ガリラヤの人たちよ。なぜ天を仰いで立っているのか。あなたたちのもとから天に挙げられたあのイエスは、天に昇るのをあなたたちが見たのと同じありさまで、やって来るであろう。」。>(岩波版 荒井献訳 使徒1:10~11)

無論、青野氏は自分がパウロ書簡のギリシャ語本文における現在完了形にこだわって、キリストが復活後も十字架につけらてしまったままでいると言うのは、客観的にではなく弟子たちの主観において、幻としてである…と言われるわけですが、そもそも新約聖書のキリスト証言は大部分が神話であり、上記のルカによる使徒行伝の記事も客観的事実ではないわけですから、ルカの証言とパウロ書簡における弟子たちの幻覚とを区別する意味は無いと思われます。

このような問題から言えることは、青野氏のように文法などにこだわってそれがドグマのようになると聖書解釈としてはろくなことにはならないという一例だと思われます。そもそもパウロ書簡は彼が直接書いたのではなく、誰かに口述筆記させたという説があり、もしそうなら、いちいちそこはアオリストではなく現在完了形を使えなどと指定するわけではなく、文法なんか後の時代に出来たのだから、筆記者がパウロの言う意味を正しく受けとめて現在完了形で書いたかどうかなんかわからないわけで、その点では青野説の史実性は信憑性を欠きます。それにそもそも、そういう聖書の文法的な理解が、福音主義信仰においてどれだけ本質的な意味を持つのか?という疑問があります。神学というもの自体、一定の知能を持つ人を前提とする営みであり、信仰にはそのような前提などありません。だから、こう言っては暴論かもしれませんが、青野説のような文法的な理屈などを聞くたびに、知的欲求は少し慰撫されますが、それによって信仰の現実から足が離れてしまうのです。贖罪論の問題も、「イエスは私たちの罪のために十字架につけられて死んで下さった」という言い方が聖書に無いからといって、その事柄を否定する根拠にはならないと思います。わかりきっていることだからわざわざ書かなかったとも解し得るし、青野氏の推測を受けて、十字架刑があまりにむごたらしいから直接的に語ることはできなかったとしても、だからと言って初代の信者たちが贖罪の信仰を持たなかったなどとどうして独断できるでしょうか?私は「聖定」とか「予定」の教理を聖書内容と一致すると信じる者であり、イエスはあくまでもユダヤ式の石打の刑ではなくローマ式の十字架刑によって殺されることが決まっていたのです。そしてその「十字架」がキリスト教のシンボルマークとなったことは当然であり必然的です。なぜなら、キリストの福音は否定的媒介であり、人間の原罪とイエスの死という二つのマイナスが掛け合わされてプラスになるということだからです。そのことを表わすのは「十字架」以外にはあり得ません。なので、「イエスが私たちの罪を贖うために十字架につけられて死んでくださった」という言い方がそのまま聖書に書かれていないと言っても、誤った言い方とはなりません。神の御計画においては結果的に同じことだからです。より厳密に言えば、神が御子を十字架につけて、人の罪の贖いのために死なしめられたのではありますが、キリストは神に対して客体的主体であり、その主体的側面においては、私たちのために死なれたと言えるからです。これに感謝するのは当然でしょう。

ここで高倉徳太郎の贖罪についての説教の一部を引用しておきます。

キリスト教の恩恵教なる所以はかかってキリストの救拯に存する。キリストの十字架により、何らの功なくして救わるるとは、理知を備えたる我らにはなかなかに信じ難くもある、愚かしくも見ゆる。またよし贖罪の教理を鵜呑みに信じておるものでも、贖罪の経験を味わっておるものは少ない。贖罪の教理と贖罪の経験とは別である。我らは贖罪の教理によって救われるのでなく、贖罪の経験によって救われるのである。我らはパウロの贖罪論には矛盾があったり、合点のゆかぬところはあっても、彼の深玄強烈なる贖罪の経験には満腔の敬意と、同感を惜しんではならない。」(~『日本の説教 8 高倉徳太郎』〔日本キリスト教団出版局〕所収 「贖罪の意義」p21)

聖書解釈においてヘブル語やギリシャ語の文法的知識を習得することの重要性を否定するわけではありませんが、何事も程度問題であり、青野氏の現在完了形へのこだわりなどは、信徒の信仰生活にとっては考え過ぎ、無駄な思想…とでもいった類いのことでないかと思われます。信仰にとって究極的に重要なことと究極的ではないが重要なこととの区別がつかないことが問題なのです。その意味では、私が「否定的媒介」という、そのこだわりも同様ですから、その点は自己批判として受けとめています。聖書解釈に証明などを求めても無駄なように、ある見方を否定する場合、よほどのことがない限り、他人の説に対して「決して~無い」などという言い方で否定し、自説を絶対化するようなことは、まさに知者の傲慢として反発を感じます。どんなに語学が出来たからと言っても、文法知識などを根拠に自説を絶対化するようなことが福音主義信仰の本質に関係し得るはずはないのです。文法にこだわり過ぎという点では、旧約学の方では有賀鐵太郎氏の「ハヤトロギア」も同様でしょう。言わば、第二義的なことを第一義的なことであるかのように論じているわけです。

自分自身にとっては、福音主義信仰の特性として、青野氏が強調する「逆説」も重要なことであり、その理屈なしに自分の「キリストの再発見」と名付けた信仰体験は省察されません。だから知的欲求のレベルだけではなく、信仰体験の省察として有用な学びはあるのですが、体験そのものは文法的理屈などを超えているわけです。あくまでも信仰体験は神の救いのはたらきであって、いかなる理屈にも先んじて現実となっています。そこにこそ信仰の本質があります。そこを捉えなければなりません。信仰は主知的ではなく主意的です。人の意識を超えている一方的な神からのはたらきが省察以前に体験されます。繰り返しますが、その体験にこそ信仰の本質・内実があるのです。極めて個別的であるかのようで、その個別の特殊性を徹底することによって普遍性へと通じてゆけるものと確信します。しかしそういった理屈への関心も程々にしないと信仰は観念論にとどまり生活実践されません。結局、自分が関心を向けるべきは「神」ではなく「神のはたらき」であり、その集中の余白として結果的に「神」も対象とされる…ということです。

ちなみに、ルターの「福音の再発見」とか「塔の体験」とか言われる出来事は、ある日・ある瞬間に一挙に起こったものではないと思います。ある気づきがあってそれが一定期間内に省察され、徐々に論理的に語られるようになったものと思われます。自分の「キリストの再発見」も同様であり、期間としては2020年の9~10月ですが、何日の何時に始まったのかといったことは正確にはわかりません。ただし職場の口論の時のすぐ後だとは思うので、2,3日の誤差はあるとしても特定はできます。問題は起点がいつかということではなく、それが宗教改革記念礼拝の近くまでの間に自分の中で省察され、種から芽が出て茎を伸ばして葉をつけ花を咲かせてゆくように、自分でも思わぬ思想的な発展を遂げたということです。

とにかく、信仰体験の省察においては主知的になると信仰の内実を見失うおそれがあります。だから神学は程々にすべきです。青野氏の文法的こだわりのような主知的営みにハマってしまうと、信仰の生活現実から乖離してしまうからです。神学も哲学と同様に科学などではなく、基本的には知的道楽とでも思っていればよいのです。

ところで浄土宗の寺に生まれ仏門に入った作家の武田泰淳日中戦争の経験から次のことを言っています。

「戦争というものは結局は人を殺すために出かけて行くと…ことに坊主であり中国文学を研究している人が中国へ出かけて行って人殺し戦争に参加しなければならないと…僕はその意味で自分というものが何であるかということはまず罪人として分かるわけです。それは私個人の罪であって、あるときは意識しないぐらいに無神経になって生きていくわけですから…」

「地球上には非常にたくさんの殺人事件があるし戦争もあるし争いもあって人が殺されている。それは無関係で自分が生きているということは僕にはとても考えられない。人類の持っている矛盾とか原罪というものから解釈するよりも他に方法がない。」

https://www.youtube.com/watch?v=B8MWindkW3k

仏教徒の武田氏でも「罪人」とか「原罪」という言葉を語らざるを得なかったほど、人間の悪魔性の所以には人間自身の罪が感得されるのです。これを解決しなければ世の不条理はなくなりません。全人類ないしは全被造物レベルの歴史的救済は実現し得ないのです。そこにキリスト・イエスが人間以下にとどまらず、人間を超えた性質を持つ媒介者として待ち望まれるべき実際的な理由があるのです。仏教では「業」と言われるでしょうが、「罪」性は普遍的です。但し、イエスの人間を超えた性質…言うなれば神性については、キリスト教教義でいわれる両性論とか単性論とか合性論といった形而上的思弁的な事柄とは関係なく、あくまでも歴史的現実を踏まえての象徴的意味として言うのです。

信心は神からの賜物です。こういった信仰的認識は人間の中から生じてくるものではなく、「神の力」によって(コリ一2:5)、上(=聖霊)から与えられるものです。個々人が社会生活の中で、いじめによる自殺など多様なかたちにおいて「地獄」を見る経験をし、そこから人類全体の悪魔性への実感が生じてきます。たとえ入り口が個人的であっても、その恐怖は自分だけで担えるものではなく、その感情は人類の普遍性の方向へと流れてゆくのです。

出口として人類が歴史的に救済されなければ現世はあまりにも地獄ではないか…という思いに襲われます。そのように最初から神話として超越的存在として描かれた神の子キリストではなく、その神話的キリストが非神話化されることを通して、観念ではなく現実的意味での「超越」者としての神の子キリスト(=主イエス)が私たちの心の中に生まれてくるのです。

それは「復活」信仰にも通じることであり、オーソドックスな立場においては「非神話化」という否定的な解釈によって一旦は死んだ神話的キリストが、人類の悪魔性を実感する体験を通して、また、罪人が罪人を救うことはできないというヒューマニズムエス主義の限界についての認識を通して、超越者キリストとして「復活」するのです。

ブルトマンにおいて「復活」は「十字架の有意義性の表現」であって史実ではありません。それはそうですが、これではあまりに抽象的すぎます。宗教である以上、庶民にもわかるように物語られなければなりません。非神話化を通して生まれた、現代でも通用する新しい神話として物語られる必要があるのです。

キリスト信仰は救済志向であって幸福志向ではないのだから、希語「ευαγγέλιον (エウアンゲリオン)」ないしは英語「evangelion」や「gospel」の訳語として「福」を使って「福音」というのは妙訳ではあっても好訳とは言えないでしょう。

「gospel」は、希語の「ευαγγέλιον」(ευ⦅良い⦆+ αγγέλιον⦅知らせ⦆)を、古英語「god」(=good)+「spell」(=news)で訳したもの。だから「福音」は意訳であり、直訳は「良き知らせ」。「福音」より「朗報」の方がまだよかったかも、です(笑)。

マイナスにマイナスをかけるとプラスになる。人間の「(原)罪」というマイナスに贖罪主イエスの「死」というマイナスをかけたのがキリストの十字架です。プラスになったという点では「福音」の「福」もあながち「的ハズレ」とは言えないが、そのプラスは実はマイナスを媒介してのプラスであるから、単に得したという意味のプラスとは意味が違います。こじつけのようですが、キリストの頭文字の「Χ」(キー)は、「加減乗除」の「乗」の記号(×)に似ていますね(それを言うなら十字架の十字は「加減乗除」の「加」の記号に似ています)。

キリストの十字架贖罪信仰は2つのマイナスを「掛ける」ことであり、それによるプラスに「賭ける」ことでもあり、またその信仰に人生を「懸ける」ことでもあります。キリスト教のシンボルが十字架という否定的なものであることに疑問を抱く人は少なくありませんが、キリストの福音への信仰が「否定媒介の原理」によるものであり、キリスト教という宗教は言わば「否定媒介的宗教」であると思えば、それはけっしておかしなことではないでしょう。

キリスト教が幸福(プラス)志向の宗教であるなら御利益宗教と大差ないです。しかし救済(ゼロ)志向の宗教だからこそ結果は永遠にわからない賭けなのです。終末の神の国到来は普遍的な人類救済であって、選びというのは一般的に見てプラスではなく、キリストに縁なき者にとってはむしろマイナスでしょう。

滅ぶ者は自らの意志で滅ぶのです。しかしその滅びとは聖書的救済には与らないという意味であって、表現は否定的であっても内実は中立的であり、他の道に縁あるならば、そちらで救われるのだと思えばよいでしょう。救済信仰は実存主義的なのだから、一般論で選びを論じ得るものではありません。私は実質的には万人救済が聖書の教えだと思います。選びを言うのは贖罪の必要と関連します。

しかしキリストの贖罪によってこそ万人に救いが開かれたとみることもできます。このへんのところは通常の論理で考えても思弁に陥るだけです。贖罪の「罪」は律法違反の(複数形の)「罪」を超えて、人類に普遍的な(単数形の)「原罪」なのです

ところで聖書には大別して2種の人間が登場します。ここではイエスに出会った人を例にあげてみます。

1つめは「幸福志向」の人。代表的なのが「金持ちの青年」(マルコ10:17以下)といわれる男です。彼は恵まれた環境に育ったようで、律法の主たる掟は子どもの頃から遵守してきたと言っています。しかし彼の願いは救われることではなく幸せになることです。この男に対するイエスの言葉で特に重要なことは、「あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者などいない」(10:18)ということです。これは福音派の牧師がどんなに詭弁を弄したところで、イエスが「(唯一)神」では無いということを自ら示した言葉だからです。

このようにオーソドックスおよびファンダメンタルな信仰的立場からすれば否定的な言葉があるのに、福音派の牧師などはそれを直視せず誤魔化しているので、これを真理認識への媒体として活かすことができないのです。神話からの直接無媒介的解釈では、聖書を現代の信仰生活における基準とすることはできません。

この金持ちの男は「永遠の命」を求めているのだから、一見すると救いを求めているかのようですが、この「永遠の命」というものがクセものであり、死後もずっと平安に生き続けたいというような思いであるなら、それは救いを求めていることにはなりません。救いというのはマイナスの地に足を着けている人が普通の生活というゼロに戻ろうとすることです。それはマイナスの状況を経験してこそ普通とか平凡ということがいかにありがたいことかを実感できる、そういう境涯です。

2つめですが、イエスが救った人は皆、マイナスの状況に生きており、ひたすらゼロに戻れることだけを願っている「救済志向」の人たちでした。長血の病に苦しむ女しかり、ゲラサの狂人しかり、てんかんに苦しむ人たちしかり、生まれつきではありますが盲目の人しかり、そして他の病や障害の人、さらに遊女や税金取りや犯罪者まで、皆、普通の暮らしを求めて生きながらうまくゆかず、イエスに出会って救われたのです。

幸せというのはプラスの状況であって、他人との比較および競争によって目指されるものです。これは利益追求の世界であり、人間の悪魔性とか人間社会の地獄性みたいなものを経験しておらず、人間に絶望的な現実を感じる経験をしていないので楽観的な考えになります。イエスの弟子の中にもピリポやトマスなど、ちょっとおめでたい人たちがいます。彼らの特徴はものごとを対象化することです。

ピリポは「父をお示しください」とイエスに頼みましたが、これは神の対象化です。イエスはこれをうまくかわして、自分の言動を見て来たのであれば、そこからおのずと父なる神がイメージされる旨を伝えたのです。それを教会の神学はおろかにも実体論的に解説して三位一体論の根拠にしています。トマスも復活の体を見なければ信じないとだだをこねました。

いっぽう、金持ちの青年は「隣人を愛せ」の「隣人」を客体化して、それがどのような人々であるかを限定しようとしました。しかしイエスはこれを主体に転じて、自分が隣人になってゆくというあり方として教えたのです。

このように一見、救いを求めているようで実は幸せを求めていることがよくあります。しかし伝道者は救いを求める人…救済志向者でなければ務まらないでしょう。救われた体験を持たなければ伝道はできないということです。

これまでは日本の伝道者の中に戦争体験者がおられました、戦争体験は最悪のマイナス状況に足を着けて語るということです。その地獄のような経験なり体験こそ、人類が救われるべき必要性を痛感せしめるのです。そうなるとその人は、対象的な事柄に心を煩わされなくなるのです。ただ、救いの希望のみに心を向けるからです。その意味では、ここにも「否定媒介の原理」がみられます。

旧約聖書の登場人物には、まだ「贖罪主」の必要性を自覚するに至っていない者が多く、バビロン捕囚の出来事を経験する世代以降の預言者などは例外として、やはり「救済志向」よりも「幸福志向」の方に傾いています。ヨブやコヘレトも元々「幸福志向」者であると言えます。でもヨブの場合はそれが絶たれ、そこから「救済志向」への道が開かれてゆきました。つまり、神を客体化して論争を挑むという観念性の壁が突き破られ、実際的な信仰を回復するに至ったのです。

コヘレトの場合、「空」の世界観によってその「幸福」観は相対主義的です。いかなる「幸い」も絶対化し得るものではなく、また「空」に耐え得るものではありません。すなわちコヘレトには「永遠の生命」などという、新約聖書で典型的な「幸福志向」者である金持ちの青年が求めた絶対的価値などは否定もしくは相対化されいるのです。すなわちコヘレトには所謂「死後救済」は無いのです。あくまでも現実主義的です。それは良いのですが、人類の悪魔性の現実は経験しておらず認識不足なので、労苦に幸いを見て取るというような楽観主義が見られるのです。それがコヘレトという当時の知識人の限界でしょう。

幸福志向者は合理性を追求するので、理屈の壁にぶち当たり苦悩します。合理的な解答を得ないと先に進めないのです。これに対して救済志向者はどうでもよい疑問に囚われることはありません。マイナス体験によって理屈を乗り越えるのです。つまりそのマイナス体験は合理性を超える意志の力を伴うのです。藁にもすがる切実な思いは救済志向者の境地です。

ところで私は最近、ある男に包丁を向けられ刺されそうになるというマイナス体験をしました。これによってまた一つ、人間についての悪魔性を知ることになりました。そんな人間関係は救われなければなりません。そんな人間関係の中で優劣を比較して幸いを求める生き方など、とても平安があるようには思えません。このような社会の地獄から人間を救ってくれるものがキリストであり、その再臨がなされ神の国が到来する終末こそ救済が完遂される時であると思うようになりました。これが、自分で「キリストの再発見」と名付けた信仰体験です。

終末までは歴史的救済は希望なのですが、それでも人類は選民の霊的救済によって救われるべきことを実感してこそ、無用な理屈や疑問ぬきにキリストに集中できるのです。そこからは余計な神義論や形而上学的問いは生じてこないはずです。ルターにせよ、キルケゴールにせよ、ボンヘッファーにせよ、実践的信仰が「キリスト中心」であって「神中心」ではない所以でしょう。ルターの「福音の再発見」といわれる出来事には、友人の死や自分が雷に打たれて死の恐怖を実感したというエピソードが語られていますが、これもそのようなマイナスな出来事を通して福音を再発見するというプラスの出来事が生まれるという「否定媒介の原理」が示されています。ただしルターの場合、その否定性は個人的なレベルにとどまっており、人類の持つ悪魔性といった普遍的なレベルは後退しているかのようです。いわゆる「塔の体験」も彼自身が、キルケゴール的に言えば神の前の単独者として修道生活を送ってきた、その臨界状況での体験でしょう。結局、ヨーロッパの知識人が人類の悪魔性という普遍的な問題を実感するのは、第一次世界大戦以後ということになるのでしょう。自分が救われることと人類全体が救われることとが必要性において一致する否定的な出来事こそが、神話的世界観から科学的世界観へと転換した時代において「神の子キリスト」の超越性を根拠づけ得るものなのです。

「否定媒介の原理」についてさらに言えば、ブルトマンが影響を受けたハイデッガーの思想においても実存開明は死への先験的決意性ということであり、死という否定的なものを媒介して実存が立ち現れてくるわけです。だから自己というものの実体性というか確かさというのは、デカルトの「我思うゆえに我あり」ならぬ「我苦しむゆえに我あり」なのです。不安であれ恐怖であれ痛みであれ……、人は身心の苦痛を通してこそ自分が生きていることを実感できるという皮肉な存在なのです。皮肉は、言い換えれば逆説的とも言えます。

ちなみに、私がプロテスタント史で特に重視している3人物…キルケゴール、ブルトマン、ボンヘッファーに共通するのが「ルター派」ということです。

現在、キリスト教……特にプロテスタントは、日本のリベラル派(日本基督教団や日本バプテスト連盟など)は特にそうかもしれませんが、宗教的実存まで及ばない倫理的実存にとどまる面があります。つまり「神話」と「歴史」とのダイナミックな関係が活かされずに、左翼的イデオロギーに毒されているという意味です。やたらと「人権」とか「差別」といった言葉が強調されて飛び交いますが、宗教者として自覚しなければならないことは、ある差別事象では被害者である人も、他の差別事象においては加害者の側に立つこともあり得る…それも往々にしてあるということです。たとえば私が教会の牧師なり信者から学歴差別を受けて精神的苦痛を受けた、被害者である!と叫んで教会の礼拝などに乱入したとします。これは「糾弾」まがいの行動であり、(実際にやったわけではないので想像でしかありませんが…)教会の人たちは皆、怖れをなして私の言葉に耳は傾けるかもしれません。しかし腹の中ではこう問うことでしょう、「お前だって、他人を差別しない善人なのか?」と。そうです、人は誰もが被害者であると同時に加害者なのであり、善悪両面を持っているのです。私は学歴差別の被害者かもしれませんが、同時に部落民差別や障害者差別の加害者になっている可能性もあるわけです。誰もが相対性の中にあるわけで、誰かが自己の考えを絶対化して他人を裁くことはできないのです。そのことを自覚しない宗教者は宗教を生きているとは言えません。せいぜい擬似宗教を生きているのです。その点でキリスト者よりも仏教者の方に、…特に真宗徒の方にそのような人間の実相を見抜く力の持ち主が多くいるかもしれません。もちろんその反対に自分の本を売ったり講演をしてカネを儲けようとする元・カルト系教団にいた若手僧侶などもいて、youtubeを見れば、そういう連中が出る動画が配信されているのですぐにわかりますが、これも人間には偽善があるというしるしです。キリスト教の牧師にだってそんな連中はいくらでもいます。自分が被差別者になりかわって他者を厳しく批判(というより非難)しながら、自分も他のところでは差別的発言をすることだってあるし、そういう差別心理というものは誰の中にも根強くあるわけです。それは深層意識の問題ですが、人に自尊心がある限り、必ず誰かを自分を比較して優劣を競う心がはたくものです。それが差別につながるわけです。これって、深層心理学とかで突っ込んでみたところで、結局、学問では人間にはそういう構造があるとかいう話で止まります。ではなぜ、人間にはそういう意識が根強くあるのか?という問いには答えられません。特に心理学なんて科学といっても実証性が薄いので、そういうものだという仮説で終わりです。そこから先、あくまでも問い続けてゆくのであれば、そして、どうせ実証できないのであれば、究極的答えを求める限り、宗教の領域に入ってゆくしかありません。人間に善悪の両面が遍在するとするなら、それはそのような人間を創造した絶対者の存在を信じてみるしか答えを求めようがないのです。人間は性善説でも性悪説でも、どちらの説によっても説明がつかないものなのです。言わば、天使と悪魔とが共存している存在なのです。悪魔の面では、人間の「(原)罪」の問題が出てきます。これを単に抽象的な教義として理解しようとしている限り、けっしてそれからの「救い」もその主であるとされるキリストにもつながってきません。その「(原)罪」が自分自身のこととして実感される体験をし、それによって人間に潜む悪魔の現実に震撼とさせられ、そこからの「救い」を切実に願うような心境に至らなければ、けっしてキリストの贖罪というものが「福音」として意識されることはないのです。それはただキリスト教の教義観念としてとどまるだけです。そしてそんなものは知的欲求から思弁的に問答されることはあっても、実存的な事柄として問答されることはないのです。神学という営みはおうおうにして前者の傾向がありますが、その神学者自身が戦争体験や被差別体験など、人間の悪魔性を身をもって知り、そこから切実に救いを求めてキリストの贖罪の福音に至った人であるなら、その内容は少しはちがってくるでしょう。

さて、そのように、深層心理学脳科学などでは人間に遍在する心の闇……悪魔性とでも言いましょうか、キリスト教的には「(原)罪」から生じる暴力的なエネルギーについて何らかの説明はできるでしょうが、それがなぜ、人間の構成要素となっているかについては何も言えないでしょう。それを言えるのは宗教であり、それを説明するために必要なことは神話を物語ることです。すでに聖書には歴史の中で人々が様々な地獄を見る体験をすることを通して信じられ、担われてきた神話の枠が備えられています。すなわち天地創造における人間創造と、その人間の堕罪による楽園追放および創造神による世界の刷新と神民選びとその歴史です。その歴史は亡国の歴史となり、けっして幸福志向などではありません。新約時代もキリストの誕生を機に幸福志向に転じたのではなく、救済志向となったのです。そういう大きな物語の枠があり、信者はそこに自分自身の人生を重ねて、それぞれの神話を物語ってゆくのです。そうしないことには人間の悪魔性を体験した恐怖から救われるすべがないからです。そこで神話が歴史の中に活かされてくるのです。神話はけって歴史と混同されてはなりませんが(…人間の神化=相対の絶対化こそが偶像崇拝の罪!)、切実なる実存的救済願望においては、神話固有の意義が個人史の中で活かされるのです。「キリスト」という神とも人ともつかない…(これを神であり人でもある…と実体化し有象化するから誤解になる)「キリスト」という存在が「わたしの救い主」たる所以となるのです。それが現代において神話を物語るということであり、ただオカルトのように歴史と混同させた神話を教義化することではありません。すなわち無批判の神話信仰は擬似宗教なりカルトの特徴となります。我々が「キリストの罪の贖い」を「福音」とし得るには、その「キリスト」が徹底的に非神話の批判にさらされたうえでの超越的存在でなければならないということに加え、そのような存在が自分の心の中に受肉し誕生するに至る理由が、切実な人間救済の思いであるということです。そこからキルケゴール的な宗教的実存が立ち現れてくるのかもしれません。なぜならキルケゴールという人自身も、生前はけっして幸福な人ではなく、言わば人間の悪魔性とでもいうものを体験しただろうし、いわゆる地獄を見るという経験を彼なりにして、その震撼から救いを求めるということで神人の逆説的超越存在であるキリストに出会っているのかも知れないからです。ではなぜ、キリストという超越者でなければ人を救えないのか? なぜ、史的イエスではダメなのでしょうか?それは人間に救い得る人間などたかが知れているからです。宗教が神話を語りながらも現代に至るまで曲がりなりにも続いてこれたのは、超越者でなければ救えないほどに悪魔性に支配された人間と出会う体験から生じてくる個々人の切実な救いへの願望によって要請され洗練され、実を得てきたからでしょう。いわゆるアウシュビッツ体験から生まれて来た神学もそうでしょうし、解放の神学なんかもそうでしょう。すなわち人間にはこんな悪魔性を持つ人間を救うことはできない……どんなに善人とみなされる宗教者であろうと哲学者であろうと政治家であろうと・・・結局、人である限り「(原)罪」の支配から自由ではあり得ないということ、たとえば、他人が被差別者と結婚することは奨励しながら、自分の子どものこととなったら断固として結婚相手として認めないといった偽善があるということ、他人の親に対してはエリートに育てる必要などなく、学校の成績で人の真価が決まるものではなく個性を豊かに育てることが肝要などとか言いながら、自分の子はぜったいに一流大学を出さなければならないといった欺瞞があるということ、そういう人間の、善人といわれる人でさえの限界を経験的に知っていてこそ、そんな人間を超越する存在を現実的にも信仰せざるを得ないというのが現代的救済宗教の要件となってくると思います。ただし現代という時代の特徴として、古くからの神話をそのまま文字通りに、形而上学的に受け入れる必要はないし、それはかえって切実さとは合わないことにもなるので、いったんは非神話化されて然りです。特に聖書の中でも神話性の強いヨハネ福音書の「ひとり子なる神キリスト」などというものはいったん史的イエスとして非神話されなければなりません。しかしそれだけではやはり贖罪主としての救済主たる超越性は出てこないので、その古代人イエスの歴史性を見つめることを通して、父なる神との関係における客体的主体としての超越性を信仰するという境地に至れるのです。すなわち否定媒介的超越性です。キルケゴールの時代はまだ史的イエス研究は始まっていなかったと思うので、彼のキリスト論の弱点は非神話化がなされていないゆえに、キリストの超越性が、逆説的ではあれ直接的に語られるということです。「非神話化」の本家であるブルトマンは、結局、ケリュグマというか「使徒的宣教」への信仰を決断してキリスト教の枠内に踏み止まった感じですが、それがどういう動機から、心境から来ているかが問題です。彼自身の地獄を見る体験から来る人間の悪魔性の実感と、そこから人類救済の必要性…みたいな動機に基づいているなら良いですが、仮に、キリスト教社会の中で大学教授として、あるいは聖書学者としての地位を得るため…みたいな理由によるなら、じつにつまらんということですね。無論、人間は社会生活してゆかねばならず、職業を軽視すべきではありませんが、そういう考えで聖書学者をやっていたなら、「非神話化」とか実存論的解釈なんかは空しい気がします。まあ、ブルトマンのキリスト信仰の本意がどこにあるのか具体的な背景とか動機がわからない以上、滅多なことは言えません。ただ言えることは、前近代のカントにせよ、ましてや現代のブルトマンにせよ、いかに合理的精神をもって宗教に対して批判的に学問をしている知識人ではあっても所詮はクリスチャンの子だったということです。カントは敬虔派の信徒家庭に、ブルトマンはルター派の牧師家庭に育っています(ちなみに、繰り返しになりますが、私が重視する、キルケゴール、ブルトマン、ボンヘッファーの3者に共通するのが「ルター派」ということです。日本人では矢内原氏や八木氏や小田切氏など「無教会系」の人に私は惹かれます)。そういう信仰の根っこを持つ人間には、どんなに宗教に対して批判的態度を示し得ても限界があるわけです。もっともブルトマン自身、宗教批判者としての自覚は無いでしょう。しかし実際にはオーソドックスな信仰的立場の人々からすれば、「非神話化」論など教義・信条に関しては破壊的な考え方ということになると思います。しかしブルトマン自身、当時としてはラディカルに行きながら、結局、「使徒的宣教」という特俵に足を残した理由は、親から受け継いだ信仰の根っこみたいなくだらないものではなく、あくまでも本人自身の「救済の出来事」がなければならないわけです。より正確には「救済されねばならないと実感した出来事」が先行していなければなりません(これも広い意味では「救済の出来事」の経験と言えないこともありません。なぜなら、「救済されねばならないと実感した出来事」がなければ、自分が歴史上に実在したナザレのイエスではなく福音書に書かれた「神の子キリスト」にこだわらなければならない実存的理由を得ないからです。赤岩栄氏のようにキリスト教を「脱出」したっていいはずです。しかしそうならないのは、人類の悪魔性の実感とその元凶である「(原)罪」の認識および「贖罪」の必要性……人類的・個人的に「救済されねばならないと実感した出来事」という否定的な経験を媒介してこそ自分は、キリスト教徒であり続ける積極的な意味を得られるということです)。それは本人が、戦争であれ事件であれ何であれ、人間の心に潜む悪魔性を思い知らされて震撼し恐懼する体験でなければなりません。個人的な体験にとどまらず、それが人類に普遍的な問題として感じられる体験でなければなりません。しかも自分個人の救いにとどまらず人類全体の救いが必要とされる経験でなければならないのです。すなわちそれは「(原)罪」であって、これは人類に普遍的なものなので、人類がこの「(原)罪」から救われなければ自分個人も救われないのです。そこからキリストによる「贖罪」の必要性が実感されます。「キリスト中心」ということです。これがいきなり父なる神による救いとならないのは、「神中心」になると歴史的社会的状況が捨象されてしまって、形而上学的思弁としての神義論に陥りやすいからです。やはり歴史的社会的現実において人類の「(原)罪」から生じる悪魔性が具現されて人は地獄を見るわけなので、その現実を自ら経験している者でなければ救い主たり得ないということがあります。同時に「(原)罪」を持つ人間では、人間を救いことはできないということで、人間を超えた存在が要請されてくるわけです。それが「真に神、真に人」といわれる「神の子キリスト」なのです。ただし、この「神の子キリスト」はオーソドックスな立場でいわれるそれではなく、あくまでも「史的イエス研究」を否定媒介したものでなければなりません。聖書に書かれているままの神話的キリストでは現実生活における信仰対象として通用しないからです。その意味で当サイトの「神話と歴史」で引用されている八木誠一氏の書評にあるとおり、「救済史」は「史実史」によって否定媒介されなければ「虚構」になるわけで、その点がオーソドックスおよびファンダメンタルな信仰的立場を自分が採れない最大の理由になります。

ちなみに現代日本社会におけるいわゆる擬似宗教では、神話を無批判に採り入れて都合よく組み合わせたりしています。教祖神格化の「幸福の科学」に限らず、「浄土真宗親鸞会」でさえそうですが、これらの団体では何かについて「しあわせ」というものを信仰の目標として語るわけです。幸福志向です。そしてなにも不幸を志向しなければ宗教ではないということもまったくないわけです。しかし幸福志向では真の救済宗教にはならないのです。キリスト教はいざ知らず、キリストの福音は幸福志向ではなく救済志向なのです。この二つは似て非なるものです。

とにかく、救済宗教的実存の原点は人間の悪魔性への恐怖であり震撼体験です。その強烈な個人的体験が普遍的な人間救済への切実なる願いとなって、キリストによって贖われるべき人類の「(原)罪」とその贖いの「福音」を信じ、形而上学的思弁による理屈や不毛な教義問答への執着の壁を乗り越えて現実生活の実践へと赴かしめるエネルギーとなるのです。だから個別的限界状況としての苦難の経験による救いの切実なる要求は、救済宗教における福音信仰の肥しであるとも言えます。

私の前の世代の人たちの多くは戦争を経験し、個人的にも人間に潜む悪魔性を体験した人がいて、そういう人たちがキリストの福音を切実に求め、またその救いの希望を伝えていったわけですが、いつしかその切実さが薄れ、キリスト教は神学というひとつの権威主義に陥り、キリスト信仰とは縁もゆかりもない上昇志向、幸福志向の(擬似)宗教へと変わってしまっています。もはやキリスト教主義を標榜する学校には救済宗教の本質は活かされず、もっぱらブランド志向の世俗的価値観が浸潤していると思われます。キリスト教教育といってもせいぜい倫理的実存にとどまっており、キリスト教倫理といっても世間的なヒューマニズムとどれだけ違うのか大いに疑問です。結局、聖書的倫理はヒューマニズムを相対化し、世間的常識的には否定されるような神の審判という神話を物語らざるを得ないのですから、本気で宗教者が震災などを神のさばきであると言うのであれば、これに対する批判を一身に背負う覚悟がみられる以上、それは宗教者として軽視してはならないことだと思います。私が日本史において、人間の悪魔性を特に感じるのは、幕府権力者がキリシタン対策に被差別部落を悪用し、それによってキリシタン被差別部落民から苦しめられることになり、両者が殺し合うことまであったという事実です。現在はキリシタンの里とかいって五島列島の観光産業に使われている美名の陰に、このような過酷な歴史があったのです。

「『五島キリシタン史』によると、五島でもキリシタンは差別され、卑しい者・全く別の生きものとされ、海に出ることも許されず、山に隠れて農業で生計を立てて生きていたという。1868(明治元)年には「五島崩れ」という弾圧が行われ、久賀島では200人の信徒が6坪の牢に8カ月間閉じ込められ、40人以上が死亡した。」

・・・そういったキリシタンが受けた差別の苦しみに同じく差別を受けて苦しんできた被差別部落民で五島列島の中学校に教師として赴任した中尾という人が同情したとのことです。

「そこは、電気も水道もない、山の薪を燃料に使う自給自足の村だった。子どもたちと学校に通い、夜には自分の家に子どもを集め、勉強を教えた。勉強の傍ら、子どもたちはぼろぼろになった聖書を読み、祈りをささげることもあった。その姿に打たれ、中尾も聖書を読むようになった。そして中尾は、被差別部落キリシタンの対立の歴史を知る。」

http://kumonoue-lib.jp/OPAC/Search/Details/100010580

https://www.christiantoday.co.jp/articles/20857/20160512/ikinuke-sonohinotameni.htm

 こういう話は美化されやすいですが、これは美談にしないほうがよい話だと思います。同情されてうれしいことはないですからね。それよりなにより、この中尾という人物は後に部落解放同盟長崎県連副委員長となったそうで、私は「解・同」という団体には「糾弾」のことなどで好感を持っていないこともあります。但し、私は人間を集団では評価せず個々人で評価すべきだと思っているので、いかに「解・同」という組織には否定的立場であっても、その構成員ということのゆえに人格を否定するものではありません。

私は、「解・同」が出てくる以前の啓発団体として世に提起せられた「水平社宣言」における「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。」という最後の節は心から共感できます。まさしく「人の世の冷たさ」という人間社会の構造的悪魔性を現実に体験した者であってこそこのような宣言を世界に向けて発信することができたのでしょう。ただし、これがあくまでも社会運動であって宗教運動ではあり得ないことは、「この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」という一文に明示されています(宣言では「人間」を「じんかん」と読ませるが、それは個人別々にではなく、個人の「間」に光が当たるという意味らしい)。それは日本における差別が、宗教と関連する神話や伝説を通して助長されてきたということへの痛烈な批判が込められているのでしょう。「神」は言われても「仏」は言われなかったのは、起草者が(昭和3年の3・15事件で検挙され獄中転向することになる)西光万吉という仏教者だったからでもあるのでしょう。そしてここで宗教批判がなされているとしてもそれはおもに神道に対するものであって、仏教は免責されているのでしょうか?仏教説話集のいわゆる『日本霊異記』は内容的にどうなんでしょう?

それはともかく、差別に結びつく伝説などは救済宗教とは無関係であるとみなすべきです。確かに迷信がハンセン氏病者への差別を助長したから、その迷信を科学的教養を身に着けることによって払拭してゆくということは歴史的必然だと思いますが、迷信はあくまでも信に迷うことであり宗教ではなく、宗教を誤解したレベルにも達してはいない、まさに「迷い」にすぎません。それもまたキリスト教的には「(原)罪」の所産なのです。