聖書の対神関係 Hatena?

「キリストの平和」共同体を志向するブログ。その「平和(シャーローム)」は終末に期さねばなりませんが、神の御子が血を流すほどの行動なしには実現できません。ブログ名の「対神関係」につきましては、無教会・無教派神学においてすでに「神関係」という用語がありますが(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p169 その他参照)、私は「対」を付ける方が日本語の表現としてはより正しいと思います。「主が御顔をあなたに向けあなたに平安(シャーローム)を賜るように。」(民数記6:26)

イエスの「神の王国」ってユートピア?

「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3:15)

 聖歌 キリストの平和 塩田泉 作詞作曲 歌 いけだみつほ ご視聴ありがとうございます - YouTube

 太宰治は『如是我聞』という作品の中で「私の苦悩の殆んど全部は、あのイエスという人の『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。」と述べており、この「己れを愛するがごとく」は口語訳では「自分を愛するように」ですが岩波版のマルコ12:31の注では「自己愛を前提とした文面で、適さない」と記されています。それはイエスは「第二の掟」として「お前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう」(レビ記19:18)という旧約の言葉を引用されたからです。しかしどうでしょう……「自分を愛するように」という自己愛を前提とする愛し方でさえ難しい我々が、どうして他人を自分「自身として」という愛し方ができるでしょうか?それこそ理想というか無理難題にもならない不可能な話です。我々一般人が相手を自分自身として愛せるとすれば、それは自分の分身のような存在以外にはあり得ません。それはせいぜい親子関係のような血のつながった関係になるでしょうが、それさえも殺し合う現実があるのですから、イエスの言葉を現代の状況で受けとめるなら、あまりに人間の欲求など生理的なことを無視したきれいごと乃至は理想論というものは暴論にすぎないと思われてくるのです。そこに信仰の葛藤が生じます。そして解決策としては、こういうイエスの言葉は方向性を示すものではあっても決して課題を示すものではない!と理解する一時です。なぜなら我々の様々な欲求もまた神が備えらえたものだからです。その運用を間違えると罪に陥りますが、原罪という教理も人間が欲求の運用を誤って神に対して「的外れ」な関わり方をすることを指すのであって、けっして遺伝的な性質のように解することはできません。 

ところで欲求を無視した理想論は暴論にすぎないという観点で思うことですが、奈良小1女児殺害事件で確定死刑囚となり2013年に執行された小林薫さん(犯行当時36)や最近の日本薬科大の女子学生殺人事件の容疑者である無職広瀬晃一さん(35)については、死刑反対の立場から見れば同情の余地があります。特に後者の事件では被害者にもかなり疑問点があると私は思います。もちろん殺人は大罪であり、どんな理由を付けても肯定することはできません。二・二六事件などのように必ずしも自己中心的理由とは言えない権力者殺しでさえそうなのだから、このような個人の欲望による殺人はなおさらです。しかし、だからといってなんでも「自業自得」とか「自己責任」ですませる考え方を私は採りません。死刑制度の殺人行為に対する抑止力が実際にどれくらいあるのかはよくわからないし、冤罪の可能性があるのに死刑制度を維持することは、国家権力により人間が人間の生命を奪うということの深刻さを直視しているとは思えません。

「世の中が悪い」との理由は否定すべしと言う方が恰好は良いでしょうが、現実には世の中の責任も大なのです。まずもって政治家が悪いです。その悪い政治家を選んだ国民がまず悪いと理屈をこねる前に、選ばれたのにちゃんと仕事をせず、自分が選挙で再選させることを第一に考えて政策の優先順位をつけるあり方を問題としたいのです。犯罪防止のシステム作りとしてやるべきことはたくさんあります。まずはカウンセラーと一般に称される人間をもっと活用できるようにすることです。臨床心理士のように異常を生じた人間ばかりを相手にするのでは仕事としてダメでしょう。普通の人間の職場や学校における対人関係などの問題に関する相談相手になってこそ犯罪や病の防止になるのです。庶民からすれば名前ばかり重宝されて日常生活から離れている、そんな資格職ではダメです。もっと庶民生活に根差した実効性のある仕事に換えてゆくべきです。その点はアメリカなどを参考にすべきでしょう。ただしカウンセラーほど玉石混交の集団はないので、精査するシステムをまず設けなければなりません。そして官民の別はともかくとして、庶民生活の中に入れてゆくためには街中にカウンセリングを1時間千円程度で受けられるような場所を作らなければなりません。弁護士のような高額な相談料では犯罪者予備軍は利用しないので無効です。

上記の広瀬さんや小林さんなどには、社会に予防のシステムがあれば十分に防げた殺人なのです。もちろん広瀬さんの事件はまだ解明されたわけではないので断言できないこともありますが、子供の頃から集団生活が苦手な人間というのは少なくないし、自分もそうでした。そういう人間でも社会のシステムがどうなっているかによって運命が分かれるのです。ちょっとしたきっかけで人生が決まってしまいます。現状では、臨床心理士だの公認心理師だのは犯罪防止に役立っているとは言えません。気象予報士なんかと同様、一般庶民にとってはどうでもいいような資格であり、むしろ話題性がある割には実効性を感じられない職種なのです。多くの庶民の生活に役立たない資格職などはブランド品と同じで名目価値は高くても実用価値は低いのです。実用価値の低いものをもてはやすのはマスコミ、特にテレビの商業主義によるものです。バラエティー番組には庶民をバカにしたクズ番組が多く、吉本の謀略かなにかしりませんがお笑い芸人が本業もそこそこに映画・ドラマから歌番組からあちこちに出まくっているという状況は現代のテレビメディアの退廃を象徴しています。ネットよりもテレビから差別の原因が発生し、媒介されて犯罪につながっている例は多々あると確信します。テレビにはいろんなコメンテーターと称する人間が出てきて、専門家気取りの人間もおりますが、犯罪は地震と同じで起きてから分析だの解説だのしたって、それを使って再発防止する知恵がなければ意味がないのです。
加藤諦三氏は、劣等感の原因は所属感の欠如だと言われますが、私は違うと思います。少なくともマズローの欲求階層説で言えば所属(と愛の)欲求ではなく承認欲求に関わる事柄です。加藤氏は、ある大学の不合格が劣等と関係ない理由は、
エリートといわれるような人にも劣等感による自殺があるのは何故か?ということに答えが得られないからだといったようなことを言われますが、エリートであれなんであれ、その人なりの基準というものがあるわけです。私の知人は教育者の家庭に生まれ、最低でも修士にならなければダメだと思わされてきたのです。そういう人は私のように大卒なら人並みでOKだという基準の者とは違うわけ。修士にあらずんば人にあらずという基準で刷り込まれてきた人間は、自分が学士で終わったら修士の人に対して劣等感を持つのです。修士になれても博士号を取得した人に対して劣等感を抱くでしょう。だから人それぞれの基準に応じて劣等を感じる対象が異なるのです。自分と優劣を比較する相手が違うのだから。結局、切実に劣等感を抱えて苦しむ経験を持たない人間が理論で語ると加藤氏のようなわけのわからない話になるのです。自分自身が厳しい対人関係において劣等感を持つ経験をしていなければ、現実的なアドバイスなどできるわけがありません。だから学者と称するような連中には庶民の生活現実に役立つ活きた心理学を語ることはできません。せいぜい外国の心理学者の説を紹介したり受け売りするのが関の山です。我々庶民の生活における対人関係から生じる劣等感を克服するための方法は、その現実を経験している我々自身の手によって構築されるしかないのです。心理学は純正な意味では科学ではないからです。当人の経験が大きなウェイトを占めまる分野です。心理学でいう「下方比較」など使わずとも心の平安を保てるのが宗教の力です。心理学はしょせん対人関係だけの世界。宗教は対神関係を基礎に対人関係を捉えるので質が違うのです。

加藤氏は、自分にとって重要な他者に認めてもらえるのであれば、不合格だっていいじゃんみたいなことをおっしゃるが、その「自分にとって重要な他者」が人間である限り、そんな考えは非現実的でしかないです。親のことをそう言っておられるようですが、世の中にはいろんな親がおりまして、大学に合格しなければわが子の価値を認めないバカもいるわけです。だから加藤氏の論理を進めてゆくと宗教的になってしまう。その「重要な他者」は人間ではあり得なくなるのです。シリーズ9 加藤諦三さんが語る、著書「劣等感がなくなる方法」 - YouTub

自分の関係者が精神科にかかっていれば、クスリ漬けに顕著なとおり、いかに精神医学など半分は非科学であるか、いかに心理とか精神とか付く学問なんかでは現実の人間の心や精神というものを根本的に救うことなどできないということが痛感されます。それでも犯罪防止のきっかけくらいにはなれないとあまりに税金などの無駄すぎ虚飾すぎます。しかし今の日本社会ではそれさえも難しい状況です。発症しちゃった人間が宗教団体しか行くところがないというのも困ったものです。宗教は発症前の人間に予防的効果を与えることは可能でしょうが、発症しちゃった人間については専門家にまかせるしかなく、へたに関わるとかえっておかしなことになりかねません。それなのにカウンセリングとか称して素人が関わったことにより殺された事件もありました。

宗教的救済は広瀬さんなどのように、人間関係に問題を抱える人に活力を与え得るものでなければなりません。そのような活力が人間から与えられるのではなく人間を超えた絶対人格神から与えられることを告げる宗教でなければ邪教となります。いかに超絶者の神観を持つ宗教であっても、庶民の自尊感情による対人関係での普遍的な問題…たとえば広瀬さんのように命令されるのがイヤで、傷つけられるくらいなら独りがいい、友達はいらない、といった感情をしっかりと受け止めて、そういう個人レベルの日常的な苦難から地球レベルの歴史的な苦難へとつながってくるスケールで対応してゆける大統一理論的救済論を聖書を通して示せなければならないのです。

人間は自尊欲求を制御しきれないで暴発する場合が多いです。自尊欲求がある程度、満たされている者は一般的にはしあわせと言えるでしょう。精神の安定を得ているからです。あとは肉体の健康が維持されればよいのですが、精神が快調な人はえてして肉体が不調です。心身一如という言葉があるとおり、どちらかがおかしいと全身がおかしくなります。

肉の制約から自由に生きる、御霊の自由を生きるということ。自我を十字架につけるということ。

「皆さんの中で、自分の周りには嫌な人がいるなあと思ったり……しかし主のみこころは、わたしたちがへりくだって、そして神様のみこころをなすことではないでしょうか?主はとなり人をあなたがた自身のように愛しなさいとおっしゃっておられます。わたしは絶対許すことができないというのは肉に縛られている状態ではないでしょうか?ぜひ祈ってみてください」

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ところで2019年5月28日早朝に起きた神奈川県川崎市の19人殺傷事件ですが、動機が問題であり、自殺した岩崎隆一容疑者のいとこが、犠牲者の一人を出したカリタス小学校に通っていたそうで、親の処遇の不公平感が動機に結びついていたなら、そこには一般人が見えない問題点が自分には見えてくるのです。それはひとことで言ってキリスト教主義学校のブランド化による偏差値教育推進という偽善性です。これは日本では昔からカトリックプロテスタントとを問わずキリスト教が事業としてやってきたことです。組織化したキリスト教がいかに聖書の精神を裏切ってきたかを象徴しています。キリスト教主義学校が聖書の精神に沿った運営をするなら、中流家庭の子女を相手にするような運営ではなく、むしろ不登校やひきこもりのように偏差値教育に合わない子どもたちに寄り添う運営をこころがけるべきなのです。

自分の経験にもとづいて話しますが、母親が自分に対して思っていたことがコピーされて「もうひとりの自分」を構成し、その自分が自分を見ているわけ。そこにある人物が出てきて自分と会話したりするわけですが、「もうひとりの自分」がその「ある人物」に対して、こんな低レベルの人間が自分と対等に会話するとは何事か、ましてや自分より知識があることをひけらかしたり、自分の言うことを否定するなんて許せない、といった感情を持つのです。しかし現実はそうなっていない。母親のコピーである「もうひとりの自分」が軽蔑するような人間が、自分自身に優越することが起きてしまっているのです。そこに深刻な事態を招く劣等感の問題が伏在しているのです。

TVなどで聞きかじった雑知識をひけらかしたがる人間が下層社会には多いので、そういう人と仕事で組まされるとストレスが溜まり、最悪の場合、よくニュースで報じられるような凶行に及んでしまうことにもなりかねません。自分の場合は凶行に及ぶことはありません。むしろ自分の心身に異常をきたします。まともに会話したら、言い過ぎたことにせよ、言いそびれたことにせよ、必ず後悔が残り、それが脳を支配してストレスになるのです。これを自力で防止しようとすれば、時々ガス抜きをしなければならないということで、どうしても言い返したりする攻撃的な行為を要します。それがイヤなら必要最低限の会話しかしないようにするしかありません。実際に職場で夜勤の時に実践したことがあります。気まずい感じはありましたが、やってやれないことはなかったので、後者が非現実的なことだとは思いません。ただし、相手によっては無理な場合もありましょう。なんでもの言わんのか!とキレたりしてね。だから私はこのお通夜状態的方法は程々にしか使えません。明らかに相手に避けているとさとられるようなことは自分の気が重くてできないのです。

最悪なタイプは前述の自分の実例の相手ですが、言い逃げて都合が悪くなると笑って誤魔化すタイプです。相手が言いもしない、わかりきったことをさも相手が知らないかのようにしてさっと言って話をすり替える。そこを突くと笑って誤魔化すというやり方です。どうかしたら、相手が会話の中で言ったことをさも自分が知っていたかのように言うこともある、そんな人間です。こういう相手だと気が短い人ならキレる確率が高いでしょう。でもこういうふうにいくら類型的にどうこう言ったところで解決にはつながりません。対応としては反撃には無理があります。バカにされたと怒りを感じる度に反撃しないといけないなら、心に傷が多ければ多いほどその頻度が多くなり、日常的に興奮することになるので自分の体に悪いからです。自滅行為です。いつものように怒っていないといけないのは不幸です。白坂氏が言うように「許し」ということができれば、それに越したことはないでしょうが(それを白坂氏のようにイエスの「愛敵」の教えに結び付けるのは大いに疑問あり。 劣等感を克服する方法 - YouTube)、現実は自分に劣等感の原因を植え付けた相手の皆が皆、自分をわざと傷つけるつもりで言ったわけがない、などと楽観的に言い切れないのです。それこそ自分側のお人よしな解釈にすぎない。その解釈が実感に根差しているならともかく、白坂氏のように自分を誤魔化すような楽観視はかえって深刻化させるおそれがあると思います。より現実的な楽観主義で言えば、相手は自分が気にするほど気にしているとは限らないと思うことです。相手に自分よりいろいろ考えるべき用事があれば忘れることもあるし、思い出しても一時的かも知れないのであり、少なくとも自分が頻繁に思い出すほどには相手が断続的に思い出してほくそ笑んでいるなんて限らないのです。ある時の会話で自分がバカにされたと感じた場合、その会話の内容が自分の頭の中で自動的にリピートされるわけで、それが睡眠障害につながったりもするわけですが、自分がバカにされた、言い返しそびれた、と気に病んでいるところを相手も逆の感情で嘲笑いながらバカな奴だと思っているか、と言えばそうとは言い切れません。相手の記憶力との関係で逆に相手の方がバカにされたと思っているかも知れないし、自分がミスったと思い込んで気にしている部分を相手は忘れたかもしれません。議論のような明瞭な対話ではない以上、どこの部分をどう感じたか、それを現在もどの程度記憶しているかなどといったことはわからないです。そこは客観的事実と主観的事実とが一致しないことがあるということであり、普通は一致するより不一致の部分の方が多いのではないかと思います。たしかに私の前述の例は相手が自分の失言を笑ったという客観的事実が前提になっています。しかしたとえ、実際に相手が自分を嘲笑った(としか見えない)顔を見たことがあるとしても、いつもいつも相手がそうとは言い切れません。全面的にではないにせよ、一致しない部分もかなりあるでしょう。特に私のように劣等感や被害者意識が強い人ほどそうでしょう。嘲笑ってバカにしているのは自分が想像した相手なのだから自分自身ということも言えます。その自分の無駄な一人芝居を止めるのが一番、実効性が高い処理の仕方です。しかし脳はそうならない厄介なものです。自動的にリピートしちゃいます。その間の行動がおろそかになって妙なミスを犯したりもします。いちばんやりやすいのは何かもっと自分が関心を持つ事柄について考えることによって、気になっている相手との会話のことに上書きする方法です。しかしパソコンの上書き保存とは違って、下書きの内容は消えません。ちょっとでも上書きがおろそかになったらすぐに表面に浮きあがってくるのです。だから上書きより上塗りにたとえた方がいいかも知れません。だから上塗り思考は一定の厚さを持続しないといけないので疲れることは疲れます。気を抜くと脳がリピートを始めてしまいます。すると不整脈になったり胃にストレスがかかります。

宗教はこの脳の自動的な働きを制御できるようにしなければなりません。そういう訓練が必要です。そこまでいかなくても、「許容」することは可能です。但しこれは程度が軽い場合です。その場合は自力でも可能ですが、重くなると他力が不可欠になります。他力による「許容」です。これは聖霊の働きであり、自分が気になる相手の言動を「許容」すること(実際は相手が自分を意図的に侮辱したわけではない可能性もあるが、自分自身はそのような被害的な受けとめをしているのだから単なる「受容」とは違う)は自分の他力信仰に実践的意義を自ら実証してゆくことになるので、その点では自力的意思が働きます。実際、「絶対他力」とは言っても人のはからいである以上、自力的要素が全く無いことはないわけで、要は根本に聖霊の働きがあることです。たとえ自分が想像するとおり、いやそれ以上に相手が自分をバカにし嘲笑っているとしても、それでも「許容」できるのでなければ聖霊の働きによるとは言えません。そもそもそれほどまでに気にするのはなぜかを内観してみるなら、結局、自分が相手をバカにしている、軽蔑しているという事実につき当たるのです。こんな奴にバカにされたくはない…という過剰な自尊心の防衛というか過剰な優劣比較とでも言おうか、そういう負の感情が自分自身を苦しめているのです。相手を尊敬できるなら、尊敬とまではいかずともどこか良いところを見つけて着目したり、自分がお世話になっていることとか探せば気持ちに変化も生じます。少なくとも相手を軽蔑などしていなければ、ちょっとした言動についてそんなに気に病むことはないはずなのです。

「幸いなるかな、貧しき者」の教えに関してはマタイがあえて「トゥー・プニューマティ」(「心の」と訳すより「霊において」)を付け加えた意義も認めるべきだと思うのです。これを否定したのでは「霊の次元」を信じていないということになります。

「霊」を「心」と訳したのは厳密ではないですが、皮肉にもそれがこのイエスの言葉の二重の意味を表現するに役立っています。すなわちこれはよく誤解といわれる、「心」そのものが否定的な意味で貧しいという意味もあり、また、「霊」において、霊的にということですが、その貧しさという肯定的な意味もあるということなのです。原文が「心」(カルディア)となっていたなら直訳して、その「貧しさ」を否定的な意味にだけ解して、これを「幸い」とみなすことは逆説であるということになりますが、「心」と訳されているのは「霊」(プニューマ)ですから、その「貧しさ」は謙虚さとして肯定的な意味に解し得るのです。すなわち「霊」を「心」と訳した日本語訳聖書でこのイエスの言葉を読む限りは、同じ「貧しさ」でも一方では対人関係における意味(「量」)が示され、もう一方では対神関係における意味(「質」)が示されるのです。これは「霊において乞食である者たち」(岩波訳5:3注)と直訳された場合よりも一段と深く理解することができます。なぜならまずもって現実はまさしく「心が貧しい」という問題があって、そこに対人関係におけるストレスの苦悩が生じているからです。その「心」の苦しみを根本的に解決するには、人間業である精神医学や心身医学あるいは臨床心理学などの学問では限界があるということ、むしろカウンセリングなどは商業主義のニセモノが横行しているので過度の期待は危険だということを促されるのです。「天の王国」は現実の日常世界から離れているわけではなく、その戸口はつねに日常の現実と重なり生活世界と近接しています。「肉」と「心」と「霊(魂)」は同じ身体として不可分・不可同であり、上記では右から不可逆。

「神」との関係において貧しくされるとは謙虚にされるということです。自分と優劣を比較し合う対象になる相対的な存在(=人間)との関係では必ずしもそうではなく、むしろ傲慢になり、その場合は心が狭量という意味で貧しいのです。「神」のような、自分など比べものにならない絶対的な存在(=神)との関係では謙虚になるしかないのです。そこから他者への「許容」ということも出てきます。

対人関係で傷つくのは「心」であって「霊」ではありません。「不幸」な状態・・・相手と言い争うような怨憎会苦のような心の状態から解放され、相手を怨んだりせず、むしろシャローム(平和、平安)な関係を築いてゆけることが幸福の入口です。だからそれは「心」の次元の問題を「霊」に次元まで深めて、つまり心理的な問題を宗教的な問題まで徹底して考えてゆくことが幸いへの道であるということです。そうすると、他人との関係における自分の「量」的貧しさへの憤りが、神との関係における自分の「質」的貧しさへの自覚によって解消されてゆくのです。「量」的貧しさというのは他者との優劣比較によって生じてくるものだり、富だったり能力だったりいろいろです。

とにかく、信者の対人関係はシャーロームを心がけねばなりません。人間、できるだけ笑い合える生活がよいに決まっているのですから…。となると、理性力を高めて自分の感情を制御できるようにしないといけません。そのために絶対他力の働きを受けなければならない、そういう宗教に身を置かねばならないのです。どうしても一神教ってことになるのです。でもキリスト教はイヤです。自分にとって「イエスの宗教」は、八木誠一氏が考えるそれに近く、イエス自身を「神(的存在)」とはせず、その「父」のみを絶対者という意味での「神」とするものです。だからいちばんよいのは、キリスト教を含む既存の宗教で生きることではなく自分で創ることです。いずれにせよ、信仰心は共同体の中にあってこそ励まされ、困難を乗り越えて持続できるのであり、単独では無理です。

でも、そんな人間関係なんか、心理学とか自己啓発の類で対応できるのであり、宗教の救いの話とは次元が違うだろう?と思う人もいるかも知れません。しかしそうではないのです。人間の力だけで自分の精神状態をコントロールできるくらいなら宗教は要りません。それが限界があるからこそうつ病患者も増え続けているのではありませんか?宗教の実践は、来世救済を現世救済と遊離させて説くのではなく、現世救済からの延長線上に来世救済を説くことにあるのです。精神病に関しては、発症しちゃった人間が来ても専門家ではないから対応できない牧師や司祭に罪は無いですが、発症前の予備軍的連中に対しては、これを救う使命があるのです。但し、キリスト教の教義にはそんなことに活用できる実用的要素は皆無です。

エスが告知した「神の王国=神の統治・支配」というのは人間を楽観視する考え方には立っていません。単なる性善説ではなく、神に対して的ハズレな生き方をする者と捉え、その傾向性を「(原)罪」と呼び、信仰においてそれが赦されるという福音が前提となっています。福音とは喜びの音信ですが、現世の日々の営みから離れてはあり得ないものであり、日々の対人関係が良ければ対神関係への感謝が深まり、創造主から与えられた人生を喜べるようになり、またその喜びが他者にも良い影響を与えるのです。そこから「神の国=天国」が体験されてゆきます。「神の国=天国」の戸口は隣人との愛ある平和な関係に開かれているのです。そして家庭・家族関係が平和であるなら、肉体的には苦しくても霊的には穏やかに死を迎えることができます。「家庭」に「平和」とくれば、あの悪しき統一協会の偽善名称を想起する人もいるかも知れませんが全く関係がありません。っていうか対極の話をしています。

とにかく究極の宗教思想はいきなり「霊」をテーマにせず「心」の現実から入るのです。対人関係から対神関係へと深めてゆくのです。最初の段階、表層レベルの事柄をテーマにしている時には心理学などを参考にしてもよいですが、臨床と付いたって問題の本質からは遠いのです。本質に迫るためには「霊」まで掘り下げて考察されなければならないからです。これは対人関係の次元ではダメで、対神関係の次元に入らなければなりません。唯一絶対神信仰が大前提となりますので、この前提に立てない学問や療法などは限界があって然りです。

但し、その前提に立つなら、なんでもよいというわけではありません。社会的現実における「心」の問題を軽視して、「霊」のことばかり言うような宗教や俗流スピリチュアリズムなどの思想はダメです。日常生活から遊離した「霊」観は信仰とは関係ない幻想・幻覚の場合が多いし、それが邪教やオカルトの類につながるので、くれぐれもご注意!

実践的宗教は、女性脳の枝葉末節的実際的要素と男性脳の根本的観念的要素との両方がバランスよく構成されていて然りです。どちらかに偏るとその分、思想としては劣ることになります。イエスの「神の王国の福音」というのは、その両方が絶妙に合成された究極の宗教思想なのであり、思想を超えた導きなのです!「民衆の宗教」はまずもって個人倫理の実践であり、いきなり社会倫理に行きたがるのがインテリの宗教ですが、灯台もと暮らしになりがちです。永遠の平安を求めるなら、まずは日常の隣人関係で平和を保持できるよう聖霊によって他力的に努力せよということです。人間関係で悩むことがあるなら、それは本人の宗教が実践的でないか、あるいは実践的であるのに本人がその宗教を実践していないかのいずれかであると反省すべきです。そしてその反省の機会をくれた相手に感謝すべきです。感謝はできないとしても憎むべきではないのです。

日常の事柄を閑却して天下国家のことや来世の永遠の命のことばかり考えるのは観念論であり無用なる思弁です。宗教哲学的には、ミクロレベルのテーマからマクロレベルのテーマまで大統一理論的にカバーし得ている思想家は八木誠一氏の他には知りません。倫理的・実践的な話から形而上学的・観念的な話までスケールが凄いのです。

それはともかく、自分自身を愛するように隣人を愛する…なんてことは口で言うほど簡単ではないでしょう。それを日々実行している人間は滅多にいないかも知れません。少なくとも自分などは日々どころか年中やれていません。だから自分なりに実際的に解釈する、敷衍してみるのです。「愛する」なんて大げさな言葉を使うからイエスの教えは実際的倫理にならないんだと呟きながら、要するに、自分を大切に思うように他人をも大切に思えってことだ、さらにこれを条件文にして、自分を大切に思うのであれば他人を大切に思うべしとして、まず思うことから始めるのです。

私は聖書ないしはイエスの教えを教条主義的には観ていません。所謂「誤りなき神の言葉」としての聖書観はキリスト教の中でも幅がありますが、私は正典主義にも立っていません。あくまで特別な参考文献という程度であって、霊感のはたらきは認めますが、所詮は人間の言葉であり、いかに福音書で描かれているイエスも絶対者という意味での「神」であるとは認めませんので、その点では人間であると思っているので、福音書に記されている言葉も絶対化はしません。実存論的というかどうかはともかく、私は自分の経験知のようなものも宗教生活の基準に置きます。そこにも聖霊の導きを信じられるからです。

エスの隣人愛の教えについては、竹内久美子さんなどのように愛すべき「隣人」の範囲を旧約的文脈に戻して限定することでハードルを下げ実行しやすくする方法もあるのでしょうが、私はそもそもイエスの言う「愛(する)」という言葉(アガペー、アガパオー)に引っかかるのです。これをどうにかしないと現実的にはならないのです。

そうやって自分の頭の中で処理しておかないと、常に人は無用なプライドなり自尊感情を抱えて生きていますので、職場などの人間関係において、ちょっとしたことで他人に対する怒りが生じて、憎しみなど悪感情が心を満たしてしまいます。そうなると理性の制御が効かず、悪くするとニュースで報じられるような暴力事件にまで発展するわけです。たとえば目が合ったくらいで、その時の表情にもよりますが、自分をバカにしたと思いこむ被害妄想的というか劣等感の塊というか、そういう人もいます。また、多くの人は苛立つ気持ちを一時的に酒などで紛らわせていますが、無理に抑圧しようとすれば却って程度の差こそあれ反動的行為に及びます。近親者への八つ当たりは最悪ですね。自分は物に当たって投げたり蹴ったりすることがあります。そういう無駄なことにならない為には、自分の場合、「捨小就大」とか「捨名取実」といった熟語を思い出して、また、自尊のためには他尊が先だとか、本体に深い傷を負わないためには浅い傷でいちいち報復などしないでおこうとか、自分に言い聞かせるのです。いや、それ以前に小事にいちいち激昂するようでは心が狭すぎるぞと、感情をコントロールできていない自分を情けなく思い、その解決は宗教によるしかないんだと、あらためて信仰生活の実践的意義を自覚するのです。所謂「怨憎会苦」の処理システムとしての宗教の意義ということです。すると悪感情が雨雲のようにたちこめていた心の中に光が射してきます。少しずつ晴れた気分になってくるのです。これが宗教をやる上での基本的実用性であって、この基本に立たない宗教、この日常的実用性の地面に足が着いていない宗教は、いかに高尚な教義を掲げていても現実の救いにはならないのです。そして現世の現実の救いを媒介し得ない宗教は、来世の永遠の救いをも示せないのです。宗教である以上、来世のことを語ること自体は問題ないが、その来世がユートピアだと言うなら、現世の人間関係の現実を抜きにして言うことは幻想にすぎないということなのです。現世の大衆的日常の心身問題とは無関係に、来世の無階級的永遠の霊魂問題などというものはあり得ない。心身と霊魂とは一体だからです。現世での救いが来世の救いへと連続してゆくのです。それがイエスの言う「神の王国=神の支配,統治」の福音が単なる来世利益を告げるものではなく、終末になって初めて実現するというものでもなく、またキリスト教徒が言うようにその「終末」がキリストとともに到来したなどということでもなく(…そんなバカげたことを言うから「終末の遅延」問題が生じたりカルト宗教を招来することになるのであって、「終末」とは関係なしに)、信心を得ている者にとってはすでに現実として始まっている、開き始めている、と理解すべきです。

一般的に言って来世の天国とは要するに誰も傷つくことのない、誰をも傷つけることのないユートピアのことですが、そういうユートピアについて語るなら、現実社会の対人関係を踏まえて言わなければ詰まらないのです。その中にこそ「神の王国=神の支配,統治」の門戸が開かれると観るべきです。そうでなければ宗教は大衆の生活現実から離れて説得力が感じられない。地に足の着いていない思想は宗教であれ哲学であれ無用の思弁となります。だからと言って人権問題に特化することには反対です。生活保守主義に迎合すべしというわけではないが、その傾向は実際的に理解した上でなければ宗教的とは言えません。教会がその地域にある原発や基地での仕事で食ってゆくしかない人たちのことを一顧だにせず、宣教とは名ばかりの主義主張を掲げて反対運動に参加するようなものです。

たとえば「解放の神学」関連のように、イエスの福音をマルクス主義的に解釈する立場には疑問を抱かざるを得ません。これはたとえ大衆運動的な面を偽装していても、インテリの発想から抜け出せないものであって、いかに高尾利数氏が批判するような伝統的教義の不解放という保守性はあっても、それだけで「民衆の宗教」の視点を重視しているとは言えないし、中南米などの貧困問題が激しい地域ではともかく、少なくとも日本の社会においては「民衆の宗教」という視点を欠落することになっていると思うからです。なぜなら、そこでは大衆ではなく一部の被洗脳市民を担い手の対象としているからであり、解同などの利権人権団体に利用されている面があるからです。そんなイデオロギーがイエスの福音であるわけがありません。究極の平和・平安はけっして暴力的な方法では実現されません。それが聖書の真理なのです。

そういうイデオロギー福音主義の教会が内部に紛争を抱えているとしたら、灯台もと暗しと言いましょうか、本末転倒でしょう。まずは日常の人間関係における争いから平和・平安にしてゆかなければなりません。倫理的個人主義です。それが宗教的使命です。言い争うことが暴力沙汰にまで発展するのです。日常の実際的な問題と言うとインテリなどはすぐに差別問題を持ち出しますが、それを外的・法的に解決することは宗教本来のやり方ではないです。まず一人一人が差別の元になっている度過ぎた自尊感情などを内的・心霊的に解決することが重要です。表層的レベルの問題は心理学でも社会学でもなんでも参考にすればよいでしょう。しかしそれらの学問では人間の「心」の問題は根本的な解決をみません。必ず「霊」まで掘り下げないといけないからです。それは少なくとも科学といわれる学問の領域ではなく宗教実践の領域になります。心理学的解決など対処療法の暫定的なものにすぎません。精神科にしたって然り。患者を薬漬けにして短い会話をカウンセリングなどと言って誤魔化しています。こういったものは信用できません。根本的な解決にはなりません。実質的解決のためには自力ではなく他力であり、それも絶対他力。人への信頼より神への信頼の方が優先されます。

他人からバカにされたようなことを言われた時には反撃して言い返すことがあってもよいでしょう。しかしそれによって得るものは一時的な自己満足であって(それでも神の恵みと受け取れないことはない)、またバカにされたような気持ちになるのでキリがありません。反撃しなければならない事態になるたびに繰り返していると、全面的な争いへと発展してゆきます。軽い言い方ならともかく、相手の言動を気にしていればいるほど、マジに思っていればいるほどそれが態度に表われ、語気も荒くなって相手への刺激も強まるからです。もちろんお互いの気性などにもよりますが、大抵の人はジャブだけではすまなくなり、よりダメージの大きなパンチを出そうとするのです。ならば、ジャブだけならよかろうという甘い考えは捨てるべきです。

じゃあ、イエスが言うように打たれた頬と反対の頬まで向けてみれば済むのか、と言えば、自分は経験的に考えても必ずしもそうとは思いません。小~中と同じ男からいじめを受けていましたが、最終的にはこちらが切れて殴った(が不発でメガネだけ落とした)行為によって相手のいじめは終息したのです(もっともそのメガネはこちらが修理してやりましたが…)。また、私は田川式解釈も採りません。田川建三という人物自体が私は大嫌いだからです。それに反抗だかなんだか知りませんが、わざわざ相手に頬を向けること自体、現実的ではないと判断します。気持ちの面ではともかく、身体的には打たれても、それがちょっとした言葉のレベルであるなら、あまり反応を示さない方がよいと思います。適当に聞き流しておればよいのです。それでその相手の人と争わずに済むなら、その職場でやってゆけるのですから、あえて争いのタネを撒くべきではないのです。日常の対人関係での問題については、責任上、主張すべきことは別にして、そうでない些細なこと、自尊感情レベルのことなんかは、相手に向かって、外界に対して処理するより、自分の内面に取り込んで処理してゆく方が宗教の実践的意義に適うことだと私は確信します。自分が信仰を持つということは、人間関係でのストレスの処理装置を持つということを意味します。すると、そういう信仰によって成立している宗教はどのような団体であり、具体的にどのような処理技術を教えているのか?そしてそういったものが従来のキリスト教の中にはまったく見られないのか?見られるとしたらどういったところか?という問題が浮上します。

もちろん貧困問題も労働との関係では日本社会でも極めて大衆的な現実問題であり、「民衆の宗教」は第一に倫理的個人主義であるとは言っても個人レベルの人間関係の問題に終始してよいとは思いません。まずは個人主義的なところから入って精神的安定性を高めながら、社会的な問題へと関心を向けてゆかなければ、「神の王国」としての共同体的な面に適合しなくなります。

聖書では、このことは「富める青年」の話(マルコ福音書10章17節~22節/マタイ19:16~22、ルカ18:18~23 )においてイエスが厳しく戒めていることです。足下の現実に意識を向けるという点で、禅語では「看却下」です。この話の重点は貧民への寄付行為とか財産放棄にあるわけではありません。全財産を施せば天国に行けるよ♡って言うような新興宗教的な善行主義の話なんかではありません!もっと深い意味がある!すなわち富める青年は言わば個人救済主義者です。自分さえ救われたらいいといった感じ。そこで貧乏人の存在は視野に入ってきません。「ラザロと金持ち」(ルカ16:19~)の話については、下のリンク先のように「金持ち」を好意的に解釈する立場もありますが、もっと単純に読んでもよいと思います。

http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message110123mf.htm

それはともかく、路上生活者など貧者の存在は、私たち大多数の市民が日常、目をそらしている現実であることに変わりはありません。その現実を直視しながら生きるとなると何らかのサポートをしなければならず、いかに少額であっても面倒くさいとか勿体ないとか思うからです。でも本来は宮沢賢治が言うとおり、世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえないのです。これは八木誠一氏の言う「統合への規定」やマルクス主義の考えにも通じる真理です。だって、自分が不幸な貧乏人の側であると想像した場合に、イエスの言う「富める青年」や「金持ち」のように、身近にいる自分の存在を無視して綺麗ごとを並べる宗教家や政治家や学者などにどうして尊敬を感じることができるでしょうか?

その点、いわゆる「社会派」と称されて自己満足に浸っている牧師の中には、いざとなると路上生活者などに対して冷たい人間がいることを私は見てきました。偽善者ですよね。私は経験に基づいて書いています。もちろん、一部を全体に拡げることはできませんが、いろんな情報も併せて一般的に言えば、社会派牧師にも口ほどにもない人はいるということです。もちろん全体ではなく部分ですが役職への上昇志向ないしは権力欲で活動している者も少なからずいるのです。私は研修先で、障害を持つ牧師の体を足蹴にしていた社会派気取りの牧師を見ました。特に友人関係とかいう間柄ではありません。親しい関係ならいいというものでもありませんが、朝の起床が遅いからといって暴力的なやり方をしたのです。そういう人は、言葉の暴力は日常茶飯事です。そんなこともあって、私がいちばん信用できないのが「社会派」と称されるような牧師連中です。そんな人たちが幅をきかす集団なんて偽善の空気に息が詰まるので身を置くものではありません。私の教団離脱の理由の一つでもあります。以前、私の家族の者が教団のその手の委員会に献金したので、現実を知らないなと思って当人をたしなめたこともあります。貴重なお金をドブに棄てるようなものですよ、とね。一方、他教派の福音派もアリバイ的にNGOとかNPOとかやっている例があるので、あまり信用できませんが敢えて言えば、社会奉仕活動をしているキリスト教団体で私がいちばん信用できるのは救世軍であることを、私は経験から言えます。例外もあるでしょうが…。

エスの精神に反するキリスト教団体として私がすぐに思うのは、所謂ミッションスクールとかキリスト教主義学校といわれる中でも特に「……女学院」と称するブランド学校であり、また、聖路加国際大学病院のように、あつかましくも「ルカ」という福音書記者の名を用いながら、ルカ福音書の貧者志向に逆行するとしか思えない全室個室の富者志向的医療機関です。

ちなみに上記の話の中でイエスは、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神おひとりのほかに善い者などいない」(18)と言っているので、素直に読めば「イエス 神」ということになるのは明らかです。そして私の実践的な座右の銘は「捨小就大」です。囲碁用語だそうですが、自分なりにパラフレーズすれば、現時点での大目標を常に意識して、それを実現するためには日々の些細な痛みは小事と諦めて前進せよ!ということです。現世から来世へと、対人関係と対神関係とが平安な状態で過ごせることこそ救済の実質だと思います。傲慢な言い方だとは思いますが敢えて言わせてもらえれば、死後の家族や友人たちとの再会といった話は副次的な事柄であると思うのです。死後の行方を心配していると現世のことが疎かになります。聖書はけっして現世の命を来世の命より軽んじてはいません。永遠の命とは現世から来世へと貫いてゆくものです。

繰り返しますが、人間は自分自身を制御しきれません。自力は限界があります。へたな心理学やカウンセリングなどを受けるより、コヘレト書にあるとおり、なるべく人生の早いうちに自身の造り主をおぼえておくことが何よりも平安になる道なのです。肉の父は亡くなったらあの世の人であって、守護する存在ではありません。肉の父よりも魂の父こそが自分の本当の守護者であり救い主なのです。究極の救済者はキリストではありません。その「父」です。聖書における神の啓示はキリストの特別啓示だけに集約されないことは、改革派神学の方が明確に語っております。それはバルト神学に対する批判としても十分、通用しているのです。

日常の現実性なくして、いきなり来世的救済を説いても現実逃避になるだけで意味がありません。聖書にも影響がみられるペルシャ系の光(の子)と闇(の子)の二元論やグノーシス主義的な幻想に耽ったところでカルト宗教に陥る危険が増すだけであり、全的・究極的な意味での救済にはならないのです。

こういう飛躍というのは、インテリが個人倫理を軽視していきなり社会倫理を語りたがるのと似ています。実話ですが、自分が連れて歩く犬の後始末もできない人間がデモだのストライキだの笑わせるな!というのと同様です。我々庶民は、まずもって日々の人間関係における身心への暴力とこれに伴う怨憎会苦から救われていなければ霊魂の救済も何もないのです。所謂「いじめ問題」の抜本的解決の方向性にも関連してきます。但しここでは身心の「心」すなわち身体に対する暴力において「精神的」側面を「肉体的」側面とは区別して考えなければなりません。一方がダメージを受ければもう一方もそれ相応のダメージを受けるわけで心身を分離的に扱うことはできませんが、思考の上では区別が必要です。ここで対象としている「暴力」の問題は「心的・精神的」側面に重点が置かれます。これは普通、相手の問題であるより以上に自分自身の問題です。なぜなら傷つきやすい状態になっているからです。いじめは、いじめた側よりいじめられた側の方がよく憶えていると云いますが、それは傷がなかなか癒えないからでしょう。しかし軽い心の傷は身の傷と同様、時間の経過とともに少しずつ癒えてゆきます。心は不快な記憶が消えてゆくことによって回復するのです。心を強化して傷つきにくくする、あるいは傷ついても回復しやすくするといった心の改良は宗教だからこそ出来る仕事だと思いますが、信仰なり信心は脳の働きが衰えるに伴って失われてゆくのではなく、さらに深まってゆく部分もあるのではないかと思います。もちろん生活には補助者が必要な場合もありますが、その補助の仕事も他力による自力でなければうまくいきません。すなわち心の問題の根本的な解決は超絶人格神との関係(=対神関係)を抜きにしてあり得ません。臨床心理学や精神医学などの処置はしょせん対人関係の中だけの話です。これでは人力の限界にぶつかるだけであり、根本的な解決にはなりません。単なる自力ではなく他力による自力、絶対他者の他力にもとづく自助努力こそが真の人間改革につながるのです。そしてここに「民衆の宗教」としての根本があります。キリスト教が「民衆の宗教」として機能するためには、仏教ではないが庶民個々人の日常の生活現実にこそ「苦(難)」を直視し(特に「怨憎会苦」)、その解決から入ってゆくべきです。いきなり遺伝的イメージで原罪を説いたり迫害のような特殊な話から入っても庶民には実生活につながらないので意味が伝わりにくいです。そして、いきなり隣人愛の実践から入るのは無理です。絶対他力による救済といってもいきなり何か圧倒的なパワーを得てイエスの如く倫理でも癒しでも超人的行為をなせる、ということではありません。そんな観念的で抽象的なものではなく、絶対他力は小さなところから簡易かつ具体的な方法でやれるよう実用的に働くわけです。そういう宗教は対人関係において劣等感などで自尊心が傷つきやすい人間がいかなる対処をすれば回避できるかといった方法を実践的に教示できなければなりません。いきなり隣人愛だの何だのと言い出したらダメなのです。自他を愛せない人間だからこそ救いを求めているのです。方法としては意識の持ちようで交わしてゆくとか観念操作を用いるとかいろいろあり得ます。それが心理学的手法と異なるのは、その元に絶対他力を認める点です。その前提を認めるか否かが宗教と心理学との分かれ目です。最初の段階では心理学的な気休め的方法のように思えてもそれは入口であって、信仰心にもとづいているかぎり、やがて「神の王国=神の支配、統治」という宗教的・霊的意識へと移ってゆけるのです。信仰対象はイエスでもキリストでもなく「唯一絶対の父なる神」として「YHWH」の名において自らを対象化なさったお方です。その啓示の媒介者がキリストです。

福音書に描かれているようなキリスト・イエスが歴史上に実在したとするなら、そのイエスは「真に人」とは言え煩悩具足の凡夫ではなく聖人とか超人とかいわれるような人物だったから愛敵を実践し得たわけで、だからこそ「神の子」ないしは「神」とも言われるようになったのでしょう。われわれ生身の人間は愛敵どころか、これも聖書に書かれている、友のために命を捨てるということもなかなか実行できるものではありません。実際、身内ならともかく他人のために自分の生命を危険にさらす行為は本人の信心如何に関わらず自力だけの所業とは思えません。他人を助けようとして亡くなる人がニュースで報じられることがありますが、それは稀なことです。できるとしたらあくまで特殊な状況において、しかも宗教的、すくなくとも一神教的宗教の見方においては、絶対他力の働きを受けてのみ奇跡的に可能になる事柄です。あの「塩狩峠」の出来事も、自ら轢死したというのが事実なら、そういうことも言えるでしょう(この件については下のリンク先参照)。

「塩狩峠」三浦綾子この作品の最初のページに書いてある文を訳してほし... - Yahoo!知恵袋

とにかく隣人愛を日常的に実行すべく命令する資格者は普通の人間ではあり得ないし、またその命令を実行できる者も普通の人間ではあり得ません。そして普通の、すなわち凡人を救済対象としない宗教は「民衆の宗教」とは言えず、超人を志向するような宗教も同じです。凡人が凡人のままに救われると説いてこそ「民衆の宗教」であり、真に実践的な宗教であると言えます。凡人は凡人なりに努力が求められる、この自助努力の倫理的要請は当然です。そこには甘えは許されません。しかし凡人に対して超人になることを要求する宗教はまともな宗教ではありません。所謂、カルト宗教的傾向があります。そういう志向性は結局、相対の絶対化、人間の神格化につながるのです。真の宗教は人間をあくまで相対化するものでなければならず、そのためには信仰対象が唯一絶対の人格的存在でなければならないのです。一神教神秘主義が入ると、その秩序が壊れてしまいます。イエスの宗教には神秘主義的要素が見られるので、その面で人間の相対化が弱くなっていると感じるところもあります。神秘主義を排する方向で解釈する必要があり、そうなると隣人愛は日常的実践課題と受け取るのではなく、あくまで絶対他力の働きによる特別な恩寵と受け取るべきです。

自分を愛するように隣人を愛するというなら、その自分を愛するということが自明とはなっていない現実、広瀬さんのように自殺願望を抱えるような現実から救いあげてゆかなければなりません。まずは聴き手の存在が必要なのです。イエス・キリストの活動は当時のユダヤ人社会と今の日本社会との差異もあって必ずしも我々にとって最底辺レベルからの救済とは思いません。階級的視点があっても自尊心を捉えないとダメで、原罪存在という人間観がネックになるのかどうかわかりませんが、もっともっと個人の対人関係の問題に入ってゆくべきでしたね。そうでないから今の日本社会に生きている犯罪予備軍的劣者たちの犯罪防止に役立つ通時的な文句が少ないのです。その点でもイエスは絶対者などではあり得なかったのです。ただし「神の王国の福音」自体は普遍性があり、その価値が唯一絶対人格神観と共に聖書を第一教典とする最たる根拠になっています。

日常生活での対人関係がうまくゆけば、そこから「神の王国=神の支配,統治」の現実の扉が開かれてゆくのです。真のユートピアとはそういうものです。日常生活の対人関係の問題を軽視したり閑却して、いきなり来世の魂救済に関心を持つことは自殺願望につながり、それは「民衆の宗教」でもなければ「聖書の宗教」でもありません。聖書的宗教倫理は将来の希望に向かって然りです。方向は終末に向かうのですが、それは遅延しているという、とうぶんは来ませんよ、ということであり、いきなり終末論を説いて現実の問題を矮小化するのがカルトです。これは庶民を却って異常心理に追い込んでしまう危険があります。そうではなく我々の人生は理性を働かせて近い将来の明るい展望を持ち得なければなりません。そのための活力を与えるものが創造神でありその聖霊であると説き、広瀬容疑者のように対人関係に恵まれない人間の精神を救済し得る宗教でなければ「民衆の宗教としての聖書宗教」とはならないのです。そしてそういう宗教にならないキリスト教などは無意味であり、ブランド学校の運営などブルジョア向きの偽善的宗教として批判され、教会組織も当然、解体されて然りです。

私はこのブログで「神」について思弁的に縷々書き連ねてまいりましたが、結局、キリスト教であれ何教であれ、また宗教でなくても人生というのは、なるようにしかならないわけです。キリスト教的に言えば、すでに創造主の聖定により、世界の行く末も人間個々人の運命も決まっています。だからジタバタしたって始まらないのです。もちろん、最後の審判があるので教会通いと善行奉仕はしておかないと天国入りは望めません。そしてそこまでして天国入りしようとは思わない、思うけど意欲が出てこない、といった私のような者は、自分は救いに選ばれていないのだなと諦めるしかありません。せいぜい万人救済を信じるのがせきの山です。いずれにしても、いくら「神」について思弁を尽くしたところで真実は未知なのだから自己満足にすぎず、実際には無意味なことなのでしょう。

「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(コリント人への手紙第一13:12  新改訳2017)

逆に言えば、「一部分」は知り得ているのです。その範囲では神について、思弁的にではあれ聖書に基づいて論じるならば意義があるのです。だから神秘主義者などのように「神」について不可知だと言うのは誤りです。それは聖書を通して神が啓示を与えておられるからです。問題はその「啓示」をバルト神学などプロテスタント主流派のようにキリストに集中させる狭い理解の仕方ではなく一般啓示・自然啓示も重視すべきであり、そこに形而上学的思弁の余地も生じます。

バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは、行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神は、ヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトをはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。」
http://minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html(※赤色は管理人)

それはともかく、私は「神」だけではなくその「国」との一体性において聖書から学ぶことに関心があるのです。言わば聖書的「神国」論です。

ところで佐藤優氏は、失礼ですが、いかにも穏健な神学者を気取っているかのようにこのように述べています。

「よい行いをすることと救済の間には、何の関連もありません。救済は、人間の行為とはまったく関係なく、ただ神からの恩恵によってのみ実現するのです。それだから、人間は虚心坦懐にこの恩恵を受け入れ、ひたすら神の栄光のために生きることが求められているのです。一人ひとりの人間が、神によって、召されています。人生とは、神による呼びかけへの応答によって構成されているのです。イエス・キリストを救い主と考えるキリスト教徒にとって、キリストの再臨とともに行われる最後の審判は、決して恐ろしい出来事ではありません。むしろキリスト教徒が『永遠の命』を得て、『神の国』に入る救済に向けた重要な出来事なのです。『神の国』とは、未来においてのみ出現するものではありません。教会という形で、この世に『神の国』が先取りされています。しかし、地上における『神の国』と最後の審判の後に現れる『神の国』が、同じ形態を取るわけではありません。最後の審判の後の『神の国』がどのようなものであるか、制約の中に生きる私たちにはわからないのです。それと同様に、復活後の人間がどのような姿を取るかについても、私たちにはわからないのです。逆説的ですが、わからない事柄なので、信仰の対象になるのです。復活を信じるキリスト教徒は、復活後の人間について観念的に考えるのではなく、自らが生きているこの世界の現実の中で、他者に奉仕するという形で復活信仰を実践することが求められています。教会の頭は、ベツレヘムの家畜小屋で生まれ、粗末な十字架上で本当に死んだイエス・キリストであるという現実を、隣人との関係でどのように実践するかが問われています。」(~『神学の技法』〔平凡社〕p276~277)

恐縮ながら佐藤氏にはこういうキャラは似合いません。あの不気味な形相はまさに日本の怪僧ならぬ怪神学者がお似合いなのです。ちゃっかり母校に取り入って神学部で講義などしてる場合ではなく、むしろ従来の神学教育に抗議してほしいものです。神学者を気取るなら異色の神学者を気取ってほしい。それが佐藤氏に期待されることでしょう。なぜなら彼は外交官としても言論者としても「異端」的なキャラなのですから、神学を飯のタネにするにしても、一般の教団御用神学者が言うようなことを言ったって面白くもなんともありません。キリスト教の異端になれという意味ではなく、教団御用神学者とは別の角度から神学を語ってほしいものです。そこにこそ彼の本領も発揮されるのではないでしょうか?佐藤優さんにこの思いを伝えたい!

そういうこともあって、私は、上に引用した佐藤氏の文言の全体にリアリティーを感じないのですが、特に最後のところはまったくダメです。私にはイエス・キリスト自身が「神」であるとはどうしても思えないので、こうしたセンチメンタリズムというかロマンチシズムというか、なんか感動させるようなイエス物語にはうんざりなのです。繰り返しになりますが、私の関心事はイエスその人ではなく、彼が「父よ(アッバ)」と呼びかけたお方です。そして福音書のイエス自身が、自分よりもこのお方を人々に示そうとしておられることがよくわかるのです。そこのところを佐藤氏など、キリスト中心主義者はまったく見えていないようです。

ところで、かつての大日本帝国の人々にとって最大の関心事は日本神話にもとづく「神国」としての「体」、すなわち「国体」であり、国体明徴運動なるものもありましたが、その「国」とはあくまでも「皇国」でした。

それで、昭和を経て平成に入り、その元号も今年の5月で改められるという時期を迎え、今、私が原点に立ち帰って思うことは我々、聖書宗教の信徒にとっての「国」とは、当然のことながら祖国である日本という国家を超えた「神の国」であるということです。この日本国もおろそかにはできませんが、究極的には世界のあらゆる国を超越したところに自分たちの真の祖国・本国を仰ぎ見なければならないのです。そこでは、イエスの「神の王国=神の支配」の告知は、終末論的なものとみなされています。以下、関連記事を引用します。

さて神の国は人類史の発展の頂点、進歩の最終段階、というようなものではない。イエスの時代には歴史の進歩とか発展とかいう考えはなかったのである。さらに神の国はこの世に対立するもの、此岸に対する彼岸、という性格をもっている。すなわち神の国は人間が歴史をつくってゆく、その目標、といったものではなく、従っていわゆる理想社会でもない。すなわち、イエス理想社会の姿を描き出してこれを実現するための具体的方法を提唱し、理想社会建設のためにひとびとに呼びかけ運動を組織する、というようなことはしなかった。 

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

ここで「神の国」ははっきりと「理想社会」すなわちユートピアではないと言われています。さりとて、使徒パウロが「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)と言うその「国」とエスが告知した「神の王国=神の支配・統治」( βασιλεία τοῦ Θεοῦ)とは、私には必ずしも同一現実とは思えません。なぜなら、その「本国」はイエスが再臨する出所としてイメージされていますが、「天にある」と言われているとおり私たちが人生を送る現実世界ではなく、イエス自身はそういう意味で語ったとも思えないからです(所謂「史的イエス」と「ケリュグマのキリスト」乃至は「教義のキリスト」との区別は、キリスト教において明瞭につけられるとは思えません)。

そして私は21節にある「からだの変容」、いわゆる「栄化」といわれるようなことはギリシャ神秘主義的要素と見て、そのまま受け取ることはできないのです。聖書の部分的な記事や、その解釈の細かい屁理屈にとらわれない限りは、神秘主義は聖書的宗教の頽落態であるか異教的混入物にすぎません。コリント二3:18にも「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(新改訳2017)と、「主と同じかたちに姿を変えられて」ゆくという表現が、正直、どうかなとは思います。ちなみにここで「鏡のように主の栄光を映しつつ」と訳されているところを口語訳は「主の栄光を鏡に映すように見つつ」と訳して、「見る」という動詞を入れたために「神を見る」ことと誤解した愚かな解釈の例も見られます。それに「主の栄光を……見る」と仮定しても、「主」そのものを見ることと、「主の栄光」を見ることとは別です。下のリンク先にはその二重の誤りがあります。神を見る — コリント第一13:8-13

さらに私見を言えば、この「主」は「主イエス」の「主」であり、「ヤハウェ」の訳語としての「主」、すなわち聖書が示す唯一の父なる神を意味する「主」とは区別されます。

とにかく今の日本で、パウロ書簡の最も信用できる翻訳は岩波版の青野太潮訳です。そこではこの部分は「主の栄光を鏡に映し出〔すように〕しながら」と訳されています。

ちなみに私にとって聖書が示す「神」は、イエスと「父 ― 子」の人格的関係において啓示されたお方であり(この関係はいかに親密とは言え、人格的に不可同・不可逆の関係性が明示されているので、神秘主義的なものとは言えない)、旧約聖書に描かれている「ヤハウェ」であって、それ以上のことは「子細に及ばず」です。

特にスコラ学者が引き合いに出したがる出エジプト記3:14の「エフイェ アシェル エフイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)への拘りは、有賀鐵太郎氏の如く「ハヤトロギア」などと言って昔のヘブライ語を神秘化し思弁する愚に陥ることにもつながり、聖書の記事であるという点ではどうでもいいとまでは思いませんが、聖書が示す「神」および「神の王国」を知る上では本質的なことではないと思っています。啓示の核心はあくまでも上記のイエスとの人格的関係にあります。

このお方が「唯一の神」なので、イエスは我々信者にとって対神関係の模範であり仲介者ではあっても「神」ではないということ、それを「神化」し、信者をも「神化」するものがギリシャ神秘主義的な考え方であり、この考え方がキリスト教の中でも特に「正教」に現出しているのであり、こういう神秘主義キリスト教は私が断然、拒むべきところです。聖書を全体的にみれば、世界観の基本は「創造主=神」と「被造物=自然」との質的断絶だからです。

ここで佐藤優氏が解説しているモルトマン神学における「収縮」についてふれておきます。

伝統的キリスト教創造論ではアウグスティヌス以来、神の創造の業を「外へと向けられた神の働き」として三位一体論的な「内へと向けられた神の働き」と区別しましたが、神が人間と自然とを外部から創造したという考え方では「神の遍在」の教理と矛盾するということで、今度は「神の収縮・自己撤退(自己限定)」という明け渡しの創造論が出て来たわけです。しかしこれにも形而上学的矛盾があります。

「ドイツのプロテスタント神学者ユルゲン・モルトマン(1926~)は、『創造における神』(1985年、邦訳1991年)で、ユダヤ教カバラ思想を援用して、こう考えました。『神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた。』」

モルトマンは、プロセス神学の創造論については「伝統的な『無から創造』ではなく、『混沌から秩序への創造』であると解」したとのこと(~芦名定道氏の論文「ホワイトヘッドキリスト教思想 ──プロセス神学の評価を中心に──」) 。
モルトマンの主張については、その「世界」自体、「神の収縮」によって生じたのではないのか?という疑問が生じます。「満ち満ちていた」といっても物理的には際限があるわけで、言わば枠が決まっているので、神殿の外壁のように原初から「神」と共に存在していたというわけでもないでしょう。つまり「神」という存在が人格的当体と、その容れ物である非人格的物体との複合体として存在しているのでなければ、あるいはハートショーンのように「創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考える」(→「聖書神体論と汎在神論」の喜田川信著『神・キリスト・悪』からの引用を参照)でもしなければ、比喩的・思弁的には、「神」が収縮したところで「空いた隙間」などというものは出てこないのです。仮にそのハートショーンの考え方をとるとしても、喜田川氏の「もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。」という疑問というか批判が生じます。だから、神の収縮にともなって世界ないしは宇宙が創造(というか生成)されたなどというのは思弁中の思弁で意味をなさないのです。なぜなら、その世界ないしは宇宙の成り立つ「場」がそもそも「無い」からです。それは「無からの創造」ではなく「創造が無い」ということです。「神」が自発的に「収縮」することによってそこに「空間」が出来るとするなら、前述のように「神の体」が、人格的(=非物質的)な内部と非人格的(=物質的)な外部との二重構造になっているとでも考えない限り、存在論(というか形而上学的思弁)ではアポリアを乗り越えられないということになります。つまり、聖書の啓示はそもそも存在論的にだけ考えても行き詰まるということです。

佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】 : 第24回 創造論(2) 創造とは神の収縮である(1)

  

それではイエスが伝えた「国」は、選ばれし者たちにとっては理想社会みたいなものでしょうか?

それについては聖書のことばに基づいて考察する必要があります。いずれにせよ、その「国」の「主(あるじ)」はイエス・キリストではなく「神」であるということ、そしてその「神」への信仰を抜きにして、その「国」に入ろうとすることは罪であるということを申したうえで、ここでは、その入口乃至は一端は、信者が日常生活を送っている現実世界のうちに見出されているものである、それは現実世界が物質(=肉)的次元と非物質(=霊)的次元との二重性においてあり、スピリチュアリズム的聖書解釈においては、後者がイエスが伝えた「神の国=神の支配」の内実である、というにとどめておきます。

私見では、「神」とその「国」とは不可分・不可同・不可逆であり、「神の国」も「神」に含まれると言えなくもないです。それはプロセス神学のハートショーンの「創る神と包括的宇宙は一つの神」という説に触発され参考にしてのことです。以下、引用。

ハートショーンにおいては喜田川信氏が『神・キリスト・悪』(新教出版社)の中で次のように指摘しています。
「ともかく神と世界とは同時的なのである。神に先立って世界はなく、逆に世界に先立って神は存在しない。そこで宇宙(世界)は神であるか、それとも神と宇宙という二つの卓越した存在があるか、どちらかである。このジレンマは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考えることにより解けるとハートショーンはいっている。原因(創造者)と結果(宇宙)とは神の二つの側面だというのである(中略)これはまさに汎神論ではないだろうか。ガントンはそのようにハートショーンを批判している。これに対しハートショーンは、自分の立場は汎神論(pantheism)ではなく万有在神論(panentheism)だというのである。」(p13)
喜田川氏の結論は次のとおりです。
「かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)
もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか
 

付論:聖書神体論と汎在神論 聖書の御神体/ウェブリブログ

神の支配そのものと、その支配が及ぶ領域また支配に服するひとびとというニュアンスの差はやはりおのずからあるのであって、後者のニュアンスが強いときには「神の国」と訳したほうがよいと思われる

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

たとえば、植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三位一体論に合わせて、「父=神」の人格のうちに「子=キリスト」という「身」と「聖霊」という「靈」があると理解するなら、コロサイ書2:16の〔新改訳、口語訳〕「本体はキリストにある」(=〔岩波版 保坂訳〕「実体はキリストに〔ある〕のだ」)という言葉を「神の国の本体は、キリストご自身」であると解釈する立場(例:神の国は )においては「父なる神」の身体がキリストということになり、その「キリスト」も「父なる神」と本質を同じくするという意味では「神の子」にとどまらず「(子なる)神」だといえるので、結局、「『神の国』本体=キリスト=神の身体」という図式が成り立ちます。

要するにイエスが伝えた「神の王国」の「神」と「王国」とは一体・不可分なのです。つまり、「神」の得体はその「国」に現されるのです。但しその「神の国」とは、領域的意味も残されるものの、「神の支配」としては八木誠一氏が言われる「神のはたらき」であって、「はたらく神」なのです。その八木氏の思想に感化されたであろう遠藤周作氏などがそのエッセイで「神」は対象ではないとか、存在ではなくはたらきとして感じるものだといったことを述べたところで、一般的な庶民の感覚に照らせば、結局、「神」は、いるかいないか、あるかないかということになり、それが物体的存在として対象的にあるわけではないにせよ、その「はたらき」を受ける経験によって確かに「神」はおられると感じるなら、その「はたらき」に「神」の得体が示されていると言えるのです。八木説に依拠すれば、神が「神の国=神の支配」をも含むという考え方は聖書的根拠を得られるのです。なぜなら、八木説においては「神のはたらき」と「はたらく神」との区別は必ずしも明確ではなく、むしろ両者は重なっていると言えるからです。そして何より、イエスが伝えた「神の国=神の支配」は原始キリスト教における「(復活の)キリスト」と同じリアリティであると言われているからであり、その点が上記のコロサイ2:17の「神の国」の本体としてのキリストという解釈に符合するからです。聖書が示す「神の体」は、物体とか、空間というか領土のような対象的・客観的なものではなく(それを「体」と呼ぶに相応しいか否かは趣味のレベルの問題だから横に置くとして)「はたらき」といった非対象的・感覚的なものであると言えます。ただし八木氏の思想においては上記引用のとおり、ニュアンス的に「神の支配」ではなく「神の国」と表現されるべき領域的意味もあるようです。但し、「神の体」としての「神の国」は、「神」の「支配が及ぶ領域」ではあっても、「支配に服するひとびと」を含まないことは当然のことです。

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

ローマ人への手紙11:36の(すべてのものは…)「彼へと〔向かっている〕」(エイス アウトン)ということも、コリント人への第一の手紙8:6bの(われらは)「その方へと〔向かう〕」(エイス アウトン)ということも、「彼」とか「その方」と訳されている「神」が被造物の帰するところといった、西田哲学などとはまったく関係ないながらも、まさしく文字通り「場所(論)」的神観であって、それは聖書が示す「神」が単なる人格的存在というにとどまらず、国的、領土的なイメージをも含んでいることを表していると言えなくもないです。

結局、究極の神観は人格主義的神観と非人格主義的(=場所論的)神観の双方を包含し、絶対有と絶対無の区別なども超えた、万有内在神論(=全ての被造物は創造主なる神の内に在るという説)ならぬ万有包在神論(=全ての被造物は創造主なる神に包まれて在るという説)こそ究極の聖書的神論であり神観だと思います。

以上のことは、論理的には成り立たないことであり、専門家でなくても自分の如き素人でも一読して屁理屈としか思えないことですが、イメージの表現としてはそのようなことであり、私自身としては感覚的に納得しています。

そして、その場合の聖書解釈においてイエス・キリストは「神」ではありません。神性は認め得ても、新約聖書のコリント人への第一の手紙15章28節にあるとおり、「すべてのものをキリストに従わせた方」が真の「神」だからであり、花岡(旧姓:川村)永子博士のようにこの箇所から「仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいない」との結論に至るかどうかはともかく(私見では仲保者としてのイエスの位置が絶対的であってこそキリスト教と言えるのではないかと思いますが…)、歴史の終末において創造主なる「神」は被造物の「すべてのもの」を帰一させるのであり、創造主なる「神」は人格,非人格の区別を超え、非物質,物質の区別をも超えるのです(もちろん「人格」は比喩であり「神格」とでもいうべきもの)。

それで、聖書から導き出される「ユートピア」も「神」と不可分であり、同時に不可同・不可逆ではありますが、「神」に含まれるといえば含まれます。

ユートピア」というのは元々、ギリシア語の ou (否定詞) と topos (場所) を組み合わせた造語であり、どこにも存在しない場所を意味するわけなので、現実世界のどこか特定の場所ではありません。しかし理想社会に近いと実感される場所はあるものです。

その一例として私が経験したことをご紹介したいと思います。現場は私が神学校の伝道実習先として受け入れてもらった静岡県にある「かなの家」というカトリック系のホームです。そこにはいわゆる「精神障がい」のハンディを持つ方々が共同生活しておられ、アシスタントの方々もおられました。

労働は石鹸づくりや農作業や廃品回収などがありましたが、これがけっこうハードで、真夏の炎天下での農作業ではバテたこともありました。しかし1か月間の実習期間は、私自身のこれまでの人生において最もユートピア的経験となりました。

特に印象に残っているのは、私と同様に大柄なひとりの青年との出会いで、彼は家からの通いでしたが他の仲間と同じペースでの作業は困難でした。その分、私は彼と会話をする時間を与えられました。そして最初は私を訝って警戒していたような彼が、ある時から心を開いてくれて兄さんのように言ってくれた時、自分もこのコミュニティーに受け入れられていることを実感できたのです。

期間の途中でメンバーたちとお祭りに行くと、そこにべーやん(堀内孝雄氏)が来ていて懐かしく歌を聴きました。歌と言えば私もギター伴奏して皆と「ふるさと」や「贈る言葉」を歌ったことがありました。

その他、どういう理由だったかは忘れましたが石鹸づくり作業の途中でホームに帰され、仕方なく部屋でギターを弾いていたらアシスタントの人が来て注意されたことや、野外のパーティーで焼きそばに焼酎をかけておこられた痛い思い出もあります。

実習の帰りに電車の窓から眺めた富士山の雄大な姿が1か月間の恵みを私の心に焼き付けました。私が帰った後に、後輩の男女ペアが「かなの家」に実習に行って喜んで帰ってきたことも、私にとっては神の恵みでした。

しかしその実習期間にお世話になったメンバーのひとりが最近、亡くなられたことをブログで知り、彼の顔が思い出されて感慨深いことでした。そのブログに掲載されている手紙の一部をここに引用させて頂きます。

「イエスが初期に貧しい人は幸いと言われた。この幸は天の国でそうなると言われる。別のところでも、天の国に書き記されることを喜びなさいと言われる。ところが、現代の人には天の国とは何か分からなくなっている。もう空も、宇宙も、神秘性を失いよく知られた空間になっている。すると、死後の世界と取る人が多いかもしれない。これは大きな間違いです。ここで言われる天の国とは、実にこの深みのことなのです。貧しい人は幸いとは、貧しさ、さみしさ、虚しさがなければ、神に、出会うことができない。神に触れることができない。逆に言えば、貧しさ、さみしさ、虚しさにおいて神に触れる。貧しい現在が実に幸いなのだということで、死後と取れば、イエスの教えは崩れてしまう。ですから、この国は実に深みにあるのです。深みにおいて人々は結びつくのです。」

(~「Sからの手紙: Sからの手紙」)

この文章の中で特に注意すべきは、イエスが告知した「天国=神の国」とは死後の世界のことではない、ということです。私見では、これは生死を超えた霊的次元のことであり、貧しき者たちが幸いであるといった世俗的価値観の逆転・逆説は、現実社会において、客観的にではなくても間主観(=共同主観)的には実現されるのであり、そこに聖書的ユートピアへの入口があるのです。

ところで、差出人の「S」とは佐藤仁彦さんのことであり、私は佐藤さんが「かなの家」の創立者だと思ってきました。創立当初は管理的にならないよう、社会福祉法人の施設にはしなかった旨を聞いたと思います。HPを見ると現在は社福法人施設になっています。

実習の時のことで佐藤さんに関して特に思い出されるのは、着いた初日にクルマで周囲を案内してもらったのはよかったのですが、お茶畑のところを通った時に、そこの人が散布していた農薬の白煙が車内に入ってきたので、私は慌てて窓を閉めました。私が座っていた助手席側に畑があったのです。閉めるタイミングが遅くて若干吸い込んだ可能性もあったのですが、佐藤さんはかなり平然としておられたので、この土地の暮らしに慣れているんだなあと驚いたものです。佐藤さんのお連れ合いさんにもお世話になりました。

ところで、上に引用した「Sからの手紙」のNo.473に「その頃、私は、ひとりの人をどうしても赦せなかったのです。」という言葉がありますが、それを読んだ時、「ひとりの人」が自分ではなかろうかと私は心配になりました。そうでなければよいと思っています。なぜ自分のことでないかと思ったのかというと、実習期間の私の生活態度はおよそ神学生らしくないものだったからです。自分としては体裁など気にせず本性丸出しでメンバーの人たちと接していたので自己解放になりましたが、飲むわ食うわで、訪問者としては、ましてや神学校からの実習生としては、現場責任者から(口には出さないまでも)怒りをかっていたとしてもおかしくはないからです。

但し、佐藤さんが神学校の校長だっけかに対するコメントとして書いて下さった内容は好意的であったような記憶があるし、最終日にはバイト料として身に余る金額を下さったので、おそらく「ひとりの人」は私ではないだろうと自分に言い聞かせています。