聖書が示す「神」Hatena?

日本に聖書的超絶神観を! 基督教の「(三一)神」と聖書が示す「(唯一)神」とは同一に非ず。命より重きものは聖書的・生得的対神関係なり。この関係に有らざる者が神義論的問い、即ち神の全能と災難との矛盾を論じたところで不毛なり!「縁なき衆生は度し難し」・・・「対神関係なき者は救われ難し」。

イエスの「神の王国」ってユートピア?

 私はこのブログで「神」について思弁的に縷々書き連ねてまいりましたが、じつは私は「神」だけではなくその「国」との一体性において聖書から学ぶことに関心があるのです。言わば聖書的「神国」論です。

かつての大日本帝国の人々にとって最大の関心事は日本神話にもとづく「神国」としての「体」、すなわち「国体」であり、国体明徴運動なるものもありましたが、その「国」とはあくまでも「皇国」でした。

それで、昭和を経て平成に入り、その元号も今年の5月で改められるという時期を迎え、今、私が原点に立ち帰って思うことは我々、聖書宗教の信徒にとっての「国」とは、当然のことながら祖国である日本という国家を超えた「神の国」であるということです。この日本国もおろそかにはできませんが、究極的には世界のあらゆる国を超越したところに自分たちの真の祖国・本国を仰ぎ見なければならないのです。そこでは、イエスの「神の王国=神の支配」の告知は、終末論的なものとみなされています。以下、関連記事を引用します。

さて神の国は人類史の発展の頂点、進歩の最終段階、というようなものではない。イエスの時代には歴史の進歩とか発展とかいう考えはなかったのである。さらに神の国はこの世に対立するもの、此岸に対する彼岸、という性格をもっている。すなわち神の国は人間が歴史をつくってゆく、その目標、といったものではなく、従っていわゆる理想社会でもない。すなわち、イエス理想社会の姿を描き出してこれを実現するための具体的方法を提唱し、理想社会建設のためにひとびとに呼びかけ運動を組織する、というようなことはしなかった。 

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

ここで「神の国」ははっきりと「理想社会」すなわちユートピアではないと言われています。さりとて、使徒パウロが「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)と言うその「国」とエスが告知した「神の王国=神の支配・統治」( βασιλεία τοῦ Θεοῦ)とは、私には必ずしも同一現実とは思えません。なぜなら、その「本国」はイエスが再臨する出所としてイメージされていますが、「天にある」と言われているとおり私たちが人生を送る現実世界ではなく、イエス自身はそういう意味で語ったとも思えないからです(所謂「史的イエス」と「ケリュグマのキリスト」乃至は「教義のキリスト」との区別は、キリスト教において明瞭につけられるとは思えません)。

そして私は21節にある「からだの変容」、いわゆる「栄化」といわれるようなことはギリシャ神秘主義的要素と見て、そのまま受け取ることはできないのです。聖書の部分的な記事や、その解釈の細かい屁理屈にとらわれない限りは、神秘主義は聖書的宗教の頽落態であるか異教的混入物にすぎません。

ちなみに私にとって聖書が示す「神」は、イエスと「父 ― 子」の人格的関係において啓示されたお方であり(この関係はいかに親密とは言え、人格的に不可同・不可逆の関係性が明示されているので、神秘主義的なものとは言えない)、旧約聖書に描かれている「ヤハウェ」であって、それ以上のことは「子細に及ばず」です。

特にスコラ学者が引き合いに出したがる出エジプト記3:14の「エフイェ アシェル エフイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)への拘りは、有賀鐵太郎氏の如く「ハヤトロギア」などと言って昔のヘブライ語を神秘化し思弁する愚に陥ることにもつながり、聖書の記事であるという点ではどうでもいいとまでは思いませんが、聖書が示す「神」および「神の王国」を知る上では本質的なことではないと思っています。啓示の核心はあくまでも上記のイエスとの人格的関係にあります。

このお方が「唯一の神」なので、イエスは我々信者にとって対神関係の模範であり仲介者ではあっても「神」ではないということ、それを「神化」し、信者をも「神化」するものがギリシャ神秘主義的な考え方であり、この考え方がキリスト教の中でも特に「正教」に現出しているのであり、こういう神秘主義キリスト教は私が断然、拒むべきところです。聖書を全体的にみれば、世界観の基本は「創造主=神」と「被造物=自然」との質的断絶だからです。

それではイエスが伝えた「国」は、選ばれし者たちにとっては理想社会みたいなものでしょうか?

それについては聖書のことばに基づいて考察する必要があります。いずれにせよ、その「国」の「主(あるじ)」はイエス・キリストではなく「神」であるということ、そしてその「神」への信仰を抜きにして、その「国」に入ろうとすることは罪であるということを申したうえで、ここでは、その入口乃至は一端は、信者が日常生活を送っている現実世界のうちに見出されているものである、それは現実世界が物質(=肉)的次元と非物質(=霊)的次元との二重性においてあり、スピリチュアリズム的聖書解釈においては、後者がイエスが伝えた「神の国=神の支配」の内実である、というにとどめておきます。

私見では、「神」とその「国」とは不可分・不可同・不可逆であり、「神の国」も「神」に含まれると言えなくもないです。それはプロセス神学のハートショーンの「創る神と包括的宇宙は一つの神」という説に触発され参考にしてのことです。以下、引用。

ハートショーンにおいては喜田川信氏が『神・キリスト・悪』(新教出版社)の中で次のように指摘しています。
「ともかく神と世界とは同時的なのである。神に先立って世界はなく、逆に世界に先立って神は存在しない。そこで宇宙(世界)は神であるか、それとも神と宇宙という二つの卓越した存在があるか、どちらかである。このジレンマは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考えることにより解けるとハートショーンはいっている。原因(創造者)と結果(宇宙)とは神の二つの側面だというのである(中略)これはまさに汎神論ではないだろうか。ガントンはそのようにハートショーンを批判している。これに対しハートショーンは、自分の立場は汎神論(pantheism)ではなく万有在神論(panentheism)だというのである。」(p13)
喜田川氏の結論は次のとおりです。
「かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)
もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか
 

付論:聖書神体論と汎在神論 聖書の御神体/ウェブリブログ

神の支配そのものと、その支配が及ぶ領域また支配に服するひとびとというニュアンスの差はやはりおのずからあるのであって、後者のニュアンスが強いときには「神の国」と訳したほうがよいと思われる

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

たとえば、植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三位一体論に合わせて、「父=神」の人格のうちに「子=キリスト」という「身」と「聖霊」という「靈」があると理解するなら、コロサイ書2:16の〔新改訳、口語訳〕「本体はキリストにある」(=〔岩波版 保坂訳〕「実体はキリストに〔ある〕のだ」)という言葉を「神の国の本体は、キリストご自身」であると解釈する立場(例:神の国は )においては「父なる神」の身体がキリストということになり、その「キリスト」も「父なる神」と本質を同じくするという意味では「神の子」にとどまらず「(子なる)神」だといえるので、結局、「『神の国』本体=キリスト=神の身体」という図式が成り立ちます。

要するにイエスが伝えた「神の王国」の「神」と「王国」とは一体・不可分なのです。つまり、「神」の得体はその「国」に現されるのです。但しその「神の国」とは、領域的意味も残されるものの、「神の支配」としては八木誠一氏が言われる「神のはたらき」であって、「はたらく神」なのです。その八木氏の思想に感化されたであろう遠藤周作氏などがそのエッセイで「神」は対象ではないとか、存在ではなくはたらきとして感じるものだといったことを述べたところで、一般的な庶民の感覚に照らせば、結局、「神」は、いるかいないか、あるかないかということになり、それが物体的存在として対象的にあるわけではないにせよ、その「はたらき」を受ける経験によって確かに「神」はおられると感じるなら、その「はたらき」に「神」の得体が示されていると言えるのです。八木説に依拠すれば、神が「神の国=神の支配」をも含むという考え方は聖書的根拠を得られるのです。なぜなら、八木説においては「神のはたらき」と「はたらく神」との区別は必ずしも明確ではなく、むしろ両者は重なっていると言えるからです。そして何より、イエスが伝えた「神の国=神の支配」は原始キリスト教における「(復活の)キリスト」と同じリアリティであると言われているからであり、その点が上記のコロサイ2:17の「神の国」の本体としてのキリストという解釈に符合するからです。聖書が示す「神の体」は、物体とか、空間というか領土のような対象的・客観的なものではなく(それを「体」と呼ぶに相応しいか否かは趣味のレベルの問題だから横に置くとして)「はたらき」といった非対象的・感覚的なものであると言えます。ただし八木氏の思想においては上記引用のとおり、ニュアンス的に「神の支配」ではなく「神の国」と表現されるべき領域的意味もあるようです。但し、「神の体」としての「神の国」は、「神」の「支配が及ぶ領域」ではあっても、「支配に服するひとびと」を含まないことは当然のことです。

八木誠一氏の「神の国=神の支配」解説 全一者/ウェブリブログ

結局、究極の神観は人格主義的神観と非人格主義的(=場所論的)神観の双方を包含し、絶対有と絶対無の区別なども超えた、万有内在神論(=全ての被造物は創造主なる神の内に在るという説)ならぬ万有包在神論(=全ての被造物は創造主なる神に包まれて在るという説)こそ究極の聖書的神論であり神観だと思います。

以上のことは、論理的には成り立たないことであり、専門家でなくても自分の如き素人でも一読して屁理屈としか思えないことですが、イメージの表現としてはそのようなことであり、私自身としては感覚的に納得しています。

そして、その場合の聖書解釈においてイエス・キリストは「神」ではありません。神性は認め得ても、新約聖書のコリント人への第一の手紙15章28節にあるとおり、「すべてのものをキリストに従わせた方」が真の「神」だからであり、花岡(旧姓:川村)永子博士のようにこの箇所から「仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいない」との結論に至るかどうかはともかく(私見では仲保者としてのイエスの位置が絶対的であってこそキリスト教と言えるのではないかと思いますが…)、歴史の終末において創造主なる「神」は被造物の「すべてのもの」を帰一させるのであり、創造主なる「神」は人格,非人格の区別を超え、非物質,物質の区別をも超えるのです(もちろん「人格」は比喩であり「神格」とでもいうべきもの)。

それで、聖書から導き出される「ユートピア」も「神」と不可分であり、同時に不可同・不可逆ではありますが、「神」に含まれるといえば含まれます。

ユートピア」というのは元々、ギリシア語の ou (否定詞) と topos (場所) を組み合わせた造語であり、どこにも存在しない場所を意味するわけなので、現実世界のどこか特定の場所ではありません。しかし理想社会に近いと実感される場所はあるものです。

その一例として私が経験したことをご紹介したいと思います。現場は私が神学校の伝道実習先として受け入れてもらった静岡県にある「かなの家」というカトリック系のホームです。そこにはいわゆる「精神障がい」のハンディを持つ方々が共同生活しておられ、アシスタントの方々もおられました。

労働は石鹸づくりや農作業や廃品回収などがありましたが、これがけっこうハードで、真夏の炎天下での農作業ではバテたこともありました。しかし1か月間の実習期間は、私自身のこれまでの人生において最もユートピア的経験となりました。

特に印象に残っているのは、私と同様に大柄なひとりの青年との出会いで、彼は家からの通いでしたが他の仲間と同じペースでの作業は困難でした。その分、私は彼と会話をする時間を与えられました。そして最初は私を訝って警戒していたような彼が、ある時から心を開いてくれて兄さんのように言ってくれた時、自分もこのコミュニティーに受け入れられていることを実感できたのです。

期間の途中でメンバーたちとお祭りに行くと、そこにべーやん(堀内孝雄氏)が来ていて懐かしく歌を聴きました。歌と言えば私もギター伴奏して皆と「ふるさと」や「贈る言葉」を歌ったことがありました。

その他、どういう理由だったかは忘れましたが石鹸づくり作業の途中でホームに帰され、仕方なく部屋でギターを弾いていたらアシスタントの人が来て注意されたことや、野外のパーティーで焼きそばに焼酎をかけておこられた痛い思い出もあります。

実習の帰りに電車の窓から眺めた富士山の雄大な姿が1か月間の恵みを私の心に焼き付けました。私が帰った後に、後輩の男女ペアが「かなの家」に実習に行って喜んで帰ってきたことも、私にとっては神の恵みでした。

しかしその実習期間にお世話になったメンバーのひとりが最近、亡くなられたことをブログで知り、彼の顔が思い出されて感慨深いことでした。そのブログに掲載されている手紙の一部をここに引用させて頂きます。

「イエスが初期に貧しい人は幸いと言われた。この幸は天の国でそうなると言われる。別のところでも、天の国に書き記されることを喜びなさいと言われる。ところが、現代の人には天の国とは何か分からなくなっている。もう空も、宇宙も、神秘性を失いよく知られた空間になっている。すると、死後の世界と取る人が多いかもしれない。これは大きな間違いです。ここで言われる天の国とは、実にこの深みのことなのです。貧しい人は幸いとは、貧しさ、さみしさ、虚しさがなければ、神に、出会うことができない。神に触れることができない。逆に言えば、貧しさ、さみしさ、虚しさにおいて神に触れる。貧しい現在が実に幸いなのだということで、死後と取れば、イエスの教えは崩れてしまう。ですから、この国は実に深みにあるのです。深みにおいて人々は結びつくのです。」

(~「Sからの手紙: Sからの手紙」)

この文章の中で特に注意すべきは、イエスが告知した「天国=神の国」とは死後の世界のことではない、ということです。私見では、これは生死を超えた霊的次元のことであり、貧しき者たちが幸いであるといった世俗的価値観の逆転・逆説は、現実社会において、客観的にではなくても間主観(=共同主観)的には実現されるのであり、そこに聖書的ユートピアへの入口があるのです。

ところで、差出人の「S」とは佐藤仁彦さんのことであり、私は佐藤さんが「かなの家」の創立者だと思ってきました。創立当初は管理的にならないよう、社会福祉法人の施設にはしなかった旨を聞いたと思います。HPを見ると現在は社福法人施設になっています。

実習の時のことで佐藤さんに関して特に思い出されるのは、着いた初日にクルマで周囲を案内してもらったのはよかったのですが、お茶畑のところを通った時に、そこの人が散布していた農薬の白煙が車内に入ってきたので、私は慌てて窓を閉めました。私が座っていた助手席側に畑があったのです。閉めるタイミングが遅くて若干吸い込んだ可能性もあったのですが、佐藤さんはかなり平然としておられたので、この土地の暮らしに慣れているんだなあと驚いたものです。佐藤さんのお連れ合いさんにもお世話になりました。

ところで、上に引用した「Sからの手紙」のNo.473に「その頃、私は、ひとりの人をどうしても赦せなかったのです。」という言葉がありますが、それを読んだ時、「ひとりの人」が自分ではなかろうかと私は心配になりました。そうでなければよいと思っています。なぜ自分のことでないかと思ったのかというと、実習期間の私の生活態度はおよそ神学生らしくないものだったからです。自分としては体裁など気にせず本性丸出しでメンバーの人たちと接していたので自己解放になりましたが、飲むわ食うわで、訪問者としては、ましてや神学校からの実習生としては、現場責任者から(口には出さないまでも)怒りをかっていたとしてもおかしくはないからです。

但し、佐藤さんが神学校の校長だっけかに対するコメントとして書いて下さった内容は好意的であったような記憶があるし、最終日にはバイト料として身に余る金額を下さったので、おそらく「ひとりの人」は私ではないだろうと自分に言い聞かせています。