聖書が示す「神」Hatena?

日本に聖書的超絶神観を! 基督教の「(三一)神」と聖書が示す「(唯一)神」とは同一に非ず。命より重きものは聖書的・生得的対神関係なり。この関係に有らざる者が神義論的問い、即ち神の全能と災難との矛盾を論じたところで不毛なり!「縁なき衆生は度し難し」・・・「対神関係なき者は救われ難し」。

「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

以下、三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』(講談社)より引用します。

(以下、引用)

あなたは、すべては相対的だと教えました。それは絶対的な法則はないという意味ですか?

「そう、絶対的なものはない。法則と状況は相対的な関係にあり、変化するものだ」

— では、神も変化するとでも?

すばやくアインシュタインは切り返した。

「君の言う神とはどういう意味なんだね?」

— やはり自然法則の創造者と考えていいと思うんですが。

「そう思うのはかまわんが、ことわっておくが、私の神は人格的な神ではないよ」

— あなたはいつか、人はそれぞれのイメージに合わせて自分の神をつくりあげていると言いました。では、あなたは、どんな神をつくり上げているんですか?」

「自分にとって」とアインシュタインは言った。

「神は謎だ。しかし、解けない謎ではない。自然法則を観察すれば、ただただ畏敬の念を抱くばかりだよ。法則にはその制定者がいるはずだが、どんな姿をしているのだろうか? 人間を大きくしたようなものでないことは確かだ」(中略)

「真に宗教的な天才は、こうした宇宙的宗教の感覚を身につけており、教義も聖職者も人格化した神も必要ない。だから異端とみなされてきたんだ。いいかね、民族と宗教の垣根を取り払えるのは、これまでそれにしくじってきた宗教指導者たちではない。現代の科学者ならできるかもしれないんだ」

(中略)

「牧師さん、宇宙的宗教では、宇宙が自然法則に従って合理的であり、人はその法則を使ってともに創造すること以外に教義はない。私にとって神とは、ほかのすべての原因の根底にある、第一原因なんだ。(後略)」

アインシュタインは、間違いなく神を信じていました。その神とは人間の姿をして教えを垂れるものではなく、自然法則を創り、それに沿って世界と人間を導くものでした。幼い頃に聖書と教会に絶望した彼はそれに代わる神を見いだし、その忠実な信奉者になったのです。

(中略)

天動説から地動説へ、地動説からニュートン力学へ、この世界がどのようにできているのかを考える科学のパラダイムシフトは、この世界で「絶対なるもの」は何かを追求することで起きてきました。それはとりもなおさず、「宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者」(『広辞苑』における定義)である神の領域を、次々に自然法則で説明し、相対化していくことでもありました。そしてニュートン力学から相対性理論へという転換により、ついに空間や時間までが相対化され、光速だけがこの世界で絶対のものであることが解き明かされたわけです。

(以上、引用)p169~174

聖書の宗教は救済宗教であり、宇宙宗教でもなければ道徳宗教でもなければ世界観宗教でもありません。人生の生活の中で経験される貧・病・争といった苦しみからの解放を切実に求めるというのが、聖書の宗教を含めて救済宗教の常道的な入り方だと思います。神学的には救済論に重きを置くタイプがそれです。その場合は関心が哲学よりも社会学や心理学に向く傾向があるでしょう。これに対して創造論に重きを置くタイプが世界観志向です。宗教に哲学的・世界観的関心から入るのは邪道とは言わないが観念的であり思弁に過ぎるので、かなりズレてくるでしょう。だから上記引用の物理学者の「神」などは救済者ではなく宇宙創成の説明のために要請される存在でしかなく、それなら人格神である必要はありません。「絶対なるもの」を科学的・世界観的に追求しても聖書が示す「神」と出会えないのは当然です。そもそも動機がズレているのです。もっともニュートンの場合はアインシュタインと「神」の観方が違うようですが(前掲書p124~128参照)、とにかく「絶対なるもの」は救済論的に、そして実存的に求められて然りです。但し、私はキリスト論を重んじません。歴史において、自然啓示は認め得ても特別啓示は認め得ないからです。

救済宗教という点では、ルメートルという人物はさすがに物理学者でありながら、「第一次世界大戦に従軍して戦場の悲惨さを目の当たりにした経験から神学校に入ってキリスト教を学び、カトリックの司祭となっ」っただけあります(p160)。

(以下、引用)

彼の発見が大きく取り沙汰されるほど、その背景にキリスト教的世界観を見いだす人たちによって、「科学と宗教」という対立構図が強調されました。そこで繰り広げられる議論は不毛なものだとルメートルは考えていたのでしょう。彼はこのようなことを述べています。

<聖書の執筆者はみな、「人間の救済」という問題についてなんらかの答えを得ていた。しかし、それ以外の問題については、彼らの同時代人たちと同程度に賢明、あるいは無知だった。だから、聖書に歴史的・科学的な誤りがあるとしても、それは何の意味もない。不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれに与えられたのかを正しく理解していない人が陥る誤解である>

これが物理学者と聖職者という二つの顔をもつルメートルの、根底にある考え方でした。

(以上、引用)p167

この人物については、「ハップルの法則」に関する対応もあっぱれとしか言えません。三田さん同様、尊敬すべき人物です(p165~166参照)。

いずれにせよ、進化論に立つ限り、アメリカのファンダメンタリストにおける反対運動とまではいかないにせよ、自然科学とキリスト教信仰は相容れないはずです。上掲書からもう一箇所、引用します。

(以下、引用)

■「創世記」2章7節 ■

<主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった>

つまり「人間は神が土から創造した」とあるのですが、アルバート科学雑誌を読んでいて、これがチャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論と矛盾することに気づいたのです。

(以上、引用)p142 

ちなみに私自身は、コヘレト的「神」信仰が救済論的アプローチとして、対神関係の距離感から言っても最適だと思っています。そしてコヘレト書の理解に関しては、旧約聖書学者の関根清三氏のように批判ばかりするのは間違いであって、「コヘレトにとって神は『太陽の下』をすべて支配される方ではありますが、しかし『神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない』(3:11)と書かれているように、神は『太陽の下』を超えた存在なのです。コヘレトは『太陽の下におけるすべては空しいのだ』と言います。しかし『太陽の下』を超えた、神との関わりにおけること、あるいは神との関りにおいて『神様からのプレゼント』を受け取ることを『空しい』とは言いません。コヘレトにとってそれは『トーブ』なのです。コヘレトは『トーブ』を導き出すために、『空しさ』の徹底追及を行っているのです。(中略)確かに、神とつながっていなければこの世界は『とてつもなく空しい』のかもしれません。しかしコヘレトは、空しさを追求しつつも、その空しさの外側をきちんと見ています。神との関わりにおいて得ることのできる『神様からのプレゼント』を見ているのです。ではそれは一体何なのでしょうか。」(コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か― 臼田宣弘)

コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か― 臼田宣弘 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

「コヘレトは、『無限』がすべてだとする世界観に、限界を感じていたのではないかと私は考えています。それで、『もの憂い』『ヘベル(空しい)』と言っているように思えます。しかしコヘレトは、神は『無限』の外側におられる方であることを知っていて、その神とつながっていること、あるいは『神様からのプレゼント』を受け取ることを大事にしていた人なのです。」(~コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環― 臼田宣弘)

コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環― 臼田宣弘 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

といった理解に共感します。なお、「神様からのプレゼント」とは何かについては、私のプロフィールを見てもらう方が早いでしょう。abemaさんのプロフィール - はてな

私見では、コヘレトの信仰対象である「神」は、彼自身がその「神」との関係を実存的に生きている日々の暮らしの中でその都度、自覚されている存在であり、客観的に「絶対者」か否か、「人格的存在」か否か、などと論じることなど無用とされており、来世についても想像を逞しくするような思弁は排されています。その姿勢は、まさに「知足知止」を思わせるものであり、形而上学的事柄を観念的に定義したりせず、つねに「空」(ヘベル)という現実経験に立って、そこから人生の意味を真摯に探求しています。私も厭世的ともとれる現実感覚の中で、そこからの救済を形而上学的にではなく現実的かつ切実に希求しつつ「捨小就大」を心がけて生きる中で、「神」の実体は誰に説明する必要もなく、自ずと己の中に明らかにされるのです。それで魂の平安を得てこそ、聖書の宗教は救済宗教だと確信できます。但し、救済宗教といってもあまりに信仰対象と近いのも息が詰まります。だからコヘレトの信仰的立場がよいのです。美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感です。あまりに近すぎる神秘主義的信仰は私が最も嫌悪する立場です。

本田哲郎神父がおっしゃっているとおり、イエスは自分を大切にするように隣人のことを大切にするということを神の御心の第一として教えておられます。しかし問題は、自分が隣人を求める人の隣人になるということよりも、自分自身が隣人を求めているという事実なのです。だからキリスト教徒が上から目線になるお話のすべてに対してリアリティーを感じられないのです。救われるべき貧しき罪人は、自分自身が隣人を求めているのです。だから自分を愛するように、ではなく、自分が隣人を求めているからこそ隣人を愛するということになってこないとウソですね。

★本田哲郎神父講演:「平和を脅かされている今の状況において、信仰者としてどう生きるべきか?――教皇フランシスコ『福音の喜び』をうけて」 - YouTube

ところで、無教会の指導者にして東大総長も務められた矢内原忠雄氏は、「神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません。絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。」と述べておられます(『矢内原忠雄全集』第19巻所収の講演録「日本精神への反省」の「本居宣長批判」〔岩波書店〕p25  ※濃色は管理人) 。

私にとっても聖書から示される「神」はまずもって創造主であるがゆえに「絶対(他)者」です。そして「絶対」ということは「最高」かつ「唯一」ということなので、「絶対最高唯一」が聖書が示す「神」の本質ということになります。被造物である人間とは質的に隔絶しているおかたです。但し字面からすれば、聖書的には「絶対」と言うより「全能」でしょう(「全知」も含まれる)。でもその権能が正しく行使されないといけないわけで、その意味で「完全無欠」という意味で「絶対」でなければならないのです。

また、「神」が「唯一絶対」であることについては、そういう実存的な、つまり主観側の理由だけではなく、聖書的な、つまり客観側の理由もあります。

すなわち、聖書に示されたる「神」があくまで「唯一神」であり「多神」ではあり得ないのは、「遍在」の教理があるからです。所謂、アナザーワールドとかパラレルワールドなどを認めない限り、現実世界は「一」であり真実は「一」であるから「神」も「一」です。「神」の唯一性は現実世界の唯一性に対応しています。聖書では被造世界はあくまで「一」なのですから・・・。但し、終末には新天新地が到来します。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(ヨハネの黙示録 21章1 節)

それにしても何故、超越かつ絶対なる「神」を信仰しないといけないのか?と疑問に思われる方々もおられることでしょう。その答えは仏教的に言えば「縁」だと思って下さい。そういう「縁」というか「業」かもしれませんが、そういう宿命をもって生まれてくる人間もいるわけです。超絶神に頼らなければ生きてゆけない、私のような人間もいるということです。理由を探せば、まずもって日常の人間関係でのことです。職場の同僚や家庭での伴侶に対する自分の精神状態が、より安定した、余裕をもった穏やかなものになるには、どうしても宗教が必要なのです。

その実践性が伴うのであれば必ずしも聖書の宗教でなくてもいいか?と言えば、そんなことはなく、自分を愛しかつ律する人格的存在としての創造主との関係が絶対的に要請されるのです。これは個人レベルでの実践理性的信仰です。この創造主信仰さえあれば、「神」が「三位一体」だろうが「四位一体」だろうが、「二位一体」だろが「無位無体」だろうが・・・どうでもええ!神論なんかどうでもええ!ってことになりそうですが、要はこの創造主信仰がなければ、私のような劣等感に凝り固まった人間は常に承認欲求の不満状態であり、自尊心を傷つけられるとか自尊感情を損なわれるとかいった被害者意識(ないしは妄想)が強いので、そんなリスクをおかしてまで人間関係を結ぼうとは思わないのです。特に、聞きかじった雑知識をひけらかしたがる人間が下層社会には多いので、そういう人と仕事で組まされるとストレスが溜まり、最悪の場合、よくニュースで報じられるような凶行に及んでしまうことにもなりかねません。これを自力で防止しようとすれば、時々ガス抜きをしなければならないということで、どうしても言い返したりする攻撃的な行為を要します。それがイヤなら必要最低限の会話しかしないようにするしかありません。実際に職場で夜勤の時に実践したことがあります。気まずい感じはありましたが、やってやれないことはなかったので、後者が非現実的なことだとは思いません。ただし、相手によっては無理な場合もありましょう。なんでもの言わんのか!とキレたりしてね。前者にも無理があります。バカにされたと怒りを感じる度に反撃しないといけないなら、心に傷が多ければ多いほどその頻度が多くなり、日常的に興奮することになるので体に悪いからです。いつものように怒っていないといけないのは不幸です。白坂氏が言うように「許し」ということができれば、それに越したことはないでしょうが(それを白坂氏のようにイエスの「愛敵」の教えに結び付けるのは疑問)、現実は自分に劣等感の原因を植え付けた相手の皆が皆、自分をわざと傷つけるつもりで言ったわけがない、などと楽観的に言い切れないのです。それこそ自分側のお人よしな解釈にすぎない。その解釈が実感に根差しているならともかく、白坂氏のように自分を誤魔化すような楽観視はかえって深刻化させるおそれがあると思います。

劣等感を克服する方法 - YouTube

人間、できるだけ笑い合える生活がよいに決まっているのですから…。となると、理性力を高めて自分の感情を制御できるようにしないといけません。そのために絶対他力の働きを受けなければならない、そういう宗教に身を置かねばならないのです。どうしても一神教ってことになるのです。でもキリスト教はイヤです。それなら既存の宗教ではエホバか幕屋あたりになるし、ベターは自分で創ることです。いずれにせよ、信仰心は共同体の中にあってこそ励まされ、困難を乗り越えて持続できるのであり、単独では無理です。

でも、そんな人間関係なんか、心理学とか自己啓発の類で対応できるのであり、宗教の救いの話とは次元が違うだろう?と思う人もいるかも知れません。しかしそうではないのです。人間の力だけで自分の精神状態をコントロールできるくらいなら宗教は要りません。それが限界があるからこそうつ病患者も増え続けているのではありませんか?宗教の実践は、来世救済を現世救済と遊離させて説くのではなく、現世救済からの延長線上に来世救済を説くことにあるのです。精神病に関しては、発症しちゃった人間が来ても専門家ではないから対応できない牧師や司祭に罪は無いですが、発症前の予備軍的連中に対しては、これを救う使命があるのです。但し、キリスト教の教義にはそんなことに活用できる実用的要素は皆無です。

エスが告知した「神の王国=神の統治・支配」というのは人間を楽観視する考え方には立っていません。単なる性善説ではなく、神に対して的ハズレな生き方をする者と捉え、その傾向性を「(原)罪」と呼び、信仰においてそれが赦されるという福音が前提となっています。福音とは喜びの音信ですが、現世の日々の営みから離れてはあり得ないものであり、日々の対人関係が良ければ対神関係への感謝が深まり、創造主から与えられた人生を喜べるようになり、またその喜びが他者にも良い影響を与えるのです。そこから「神の国=天国」が体験されてゆきます。「神の国=天国」の戸口は隣人との愛ある平和な関係に開かれているのです。そして家庭・家族関係が平和であるなら、肉体的には苦しくても霊的には穏やかに死を迎えることができます。「家庭」に「平和」とくれば、あの悪しき統一協会の偽善名称を想起する人もいるかも知れませんが全く関係がありません。っていうか対極の話をしています。

とにかく究極の宗教思想は、女頭の枝葉末節的実際的要素と男頭の根本的観念的要素との両方がバランスよく構成されていて然りです。どちらかに偏るとその分、思想としては劣ることになります。イエスの「神の王国の福音」というのは、その両方が絶妙に合成された究極の宗教思想なのであり、思想を超えた導きなのです!「民衆の宗教」はまずもって個人倫理の実践であり、いきなり社会倫理に行きたがるのがインテリの宗教ですが、灯台もと暮らしになりがちです。永遠の平安を求めるなら、まずは日常の隣人関係で平和を保持できるよう聖霊によって他力的に努力せよということです。

日常の事柄を閑却して天下国家のことや来世の永遠の命のことばかり考えるのは観念論であり無用なる思弁です。

自分自身を愛するように隣人を愛する…なんてことは口で言うほど簡単ではないでしょう。それを日々実行している人間は滅多にいないかも知れません。少なくとも自分などは日々どころか年中やれていません。だから自分なりに実際的に解釈する、敷衍してみるのです。「愛する」なんて大げさな言葉を使うからイエスの教えは実際的倫理にならないんだと呟きながら、要するに、自分を大切に思うように他人をも大切に思えってことだ、さらにこれを条件文にして、自分を大切に思うのであれば他人を大切に思うべしとして、まず思うことから始めるのです。

私は聖書ないしはイエスの教えを教条主義的には観ていません。所謂「誤りなき神の言葉」としての聖書観はキリスト教の中でも幅がありますが、私は正典主義にも立っていません。あくまで特別な参考文献という程度であって、霊感のはたらきは認めますが、所詮は人間の言葉であり、いかに福音書で描かれているイエスも絶対者という意味での「神」であるとは認めませんので、その点では人間であると思っているので、福音書に記されている言葉も絶対化はしません。実存論的というかどうかはともかく、私は自分の経験知のようなものも宗教生活の基準に置きます。そこにも聖霊の導きを信じられるからです。

エスの隣人愛の教えについては、竹内久美子さんなどのように愛すべき「隣人」の範囲を旧約的文脈に戻して限定することでハードルを下げ実行しやすくする方法もあるのでしょうが、私はそもそもイエスの言う「愛(する)」という言葉(アガペー、アガパオー)に引っかかるのです。これをどうにかしないと現実的にはならないのです。

そうやって自分の頭の中で処理しておかないと、常に人は無用なプライドなり自尊感情を抱えて生きていますので、職場などの人間関係において、ちょっとしたことで他人に対する怒りが生じて、憎しみなど悪感情が心を満たしてしまいます。そうなると理性の制御が効かず、悪くするとニュースで報じられるような暴力事件にまで発展するわけです。たとえば目が合ったくらいで、その時の表情にもよりますが、自分をバカにしたと思いこむ被害妄想的というか劣等感の塊というか、そういう人もいます。また、多くの人は苛立つ気持ちを一時的に酒などで紛らわせていますが、無理に抑圧しようとすれば却って程度の差こそあれ反動的行為に及びます。近親者への八つ当たりは最悪ですね。自分は物に当たって投げたり蹴ったりすることがあります。そういう無駄なことにならない為には、自分の場合、「捨小就大」とか「捨名取実」といった熟語を思い出して、また、自尊のためには他尊が先だとか、本体に深い傷を負わないためには浅い傷でいちいち報復などしないでおこうとか、自分に言い聞かせるのです。いや、それ以前に小事にいちいち激昂するようでは心が狭すぎるぞと、感情をコントロールできていない自分を情けなく思い、その解決は宗教によるしかないんだと、あらためて信仰生活の実践的意義を自覚するのです。所謂「怨憎会苦」の処理システムとしての宗教の意義ということです。すると悪感情が雨雲のようにたちこめていた心の中に光が射してきます。少しずつ晴れた気分になってくるのです。これが宗教をやる上での基本的実用性であって、この基本に立たない宗教、この日常的実用性の地面に足が着いていない宗教は、いかに高尚な教義を掲げていても現実の救いにはならないのです。そして現世の現実の救いを媒介し得ない宗教は、来世の永遠の救いをも示せないのです。宗教である以上、来世のことを語ること自体は問題ないが、その来世がユートピアだと言うなら、現世の人間関係の現実を抜きにして言うことは幻想にすぎないということなのです。現世の大衆的日常の心身問題とは無関係に、来世の無階級的永遠の霊魂問題などというものはあり得ない。心身と霊魂とは一体だからです。現世での救いが来世の救いへと連続してゆくのです。それがイエスの言う「神の王国=神の支配,統治」の福音が単なる来世利益を告げるものではなく、終末になって初めて実現するというものでもなく、またキリスト教徒が言うようにその「終末」がキリストとともに到来したなどということでもなく(…そんなバカげたことを言うから「終末の遅延」問題が生じたりカルト宗教を招来することになるのであって、「終末」とは関係なしに)、信心を得ている者にとってはすでに現実として始まっている、開き始めている、と理解すべきです。

一般的に言って来世の天国とは要するに誰も傷つくことのない、誰をも傷つけることのないユートピアのことですが、そういうユートピアについて語るなら、現実社会の対人関係を踏まえて言わなければ詰まらないのです。その中にこそ「神の王国=神の支配,統治」の門戸が開かれると観るべきです。そうでなければ宗教は大衆の生活現実から離れて説得力が感じられない。地に足の着いていない思想は宗教であれ哲学であれ無用の思弁となります。だからと言って人権問題に特化することには反対です。生活保守主義に迎合すべしというわけではないが、その傾向は実際的に理解した上でなければ宗教的とは言えません。教会がその地域にある原発や基地での仕事で食ってゆくしかない人たちのことを一顧だにせず、宣教とは名ばかりの主義主張を掲げて反対運動に参加するようなものです。

たとえば「解放の神学」関連のように、イエスの福音をマルクス主義的に解釈する立場には疑問を抱かざるを得ません。これはたとえ大衆運動的な面を偽装していても、インテリの発想から抜け出せないものであって、いかに高尾利数氏が批判するような伝統的教義の不解放という保守性はあっても、それだけで「民衆の宗教」の視点を重視しているとは言えないし、中南米などの貧困問題が激しい地域ではともかく、少なくとも日本の社会においては「民衆の宗教」という視点を欠落することになっていると思うからです。なぜなら、そこでは大衆ではなく一部の被洗脳市民を担い手の対象としているからであり、解同などの利権人権団体に利用されている面があるからです。そんなイデオロギーがイエスの福音であるわけがありません。究極の平和・平安はけっして暴力的な方法では実現されません。それが聖書の真理なのです。

そういうイデオロギー福音主義の教会が内部に紛争を抱えているとしたら、灯台もと暗しと言いましょうか、本末転倒でしょう。まずは日常の人間関係における争いから平和・平安にしてゆかなければなりません。倫理的個人主義です。それが宗教的使命です。言い争うことが暴力沙汰にまで発展するのです。日常の実際的な問題と言うとインテリなどはすぐに差別問題を持ち出しますが、それを外的・法的に解決することは宗教本来のやり方ではないです。まず一人一人が差別の元になっている度過ぎた自尊感情などを内的・心霊的に解決することが重要です。心理的解決ではありません。それは一時的なものにすぎません。カウンセリングなどは根本的な解決にはなりません。実効性の点では自力よりも他力であり、人への信頼より神への信頼の方が優先されます。

他人からバカにされたようなことを言われた時には反撃して言い返すことがあってもよいでしょう。しかしそれによって得るものは一時的な自己満足であって、またバカにされたような気持ちになるのでキリがありません。反撃しなければならない事態になるたびに繰り返していると、全面的な争いへと発展してゆきます。軽い言い方ならともかく、相手の言動を気にしていればいるほど、マジに思っていればいるほどそれが態度に表われ、語気も荒くなって相手への刺激も強まるからです。もちろんお互いの気性などにもよりますが、大抵の人はジャブだけではすまなくなり、よりダメージの大きなパンチを出そうとするのです。ならば、ジャブだけならよかろうという甘い考えは捨てるべきです。

じゃあ、イエスが言うように打たれた頬と反対の頬まで向けてみれば済むのか、と言えば、自分は経験的に考えても必ずしもそうとは思いません。小~中と同じ男からいじめを受けていましたが、最終的にはこちらが切れて殴った(が不発でメガネだけ落とした)行為によって相手のいじめは終息したのです(もっともそのメガネはこちらが修理してやりましたが…)。また、私は田川式解釈も採りません。田川建三という人物自体が私は大嫌いだからです。それに反抗だかなんだか知りませんが、わざわざ相手に頬を向けること自体、現実的ではないと判断します。気持ちの面ではともかく、身体的には打たれても、それがちょっとした言葉のレベルであるなら、あまり反応を示さない方がよいと思います。適当に聞き流しておればよいのです。それでその相手の人と争わずに済むなら、その職場でやってゆけるのですから、あえて争いのタネを撒くべきではないのです。日常の対人関係での問題については、責任上、主張すべきことは別にして、そうでない些細なこと、自尊感情レベルのことなんかは、相手に向かって、外界に対して処理するより、自分の内面に取り込んで処理してゆく方が宗教の実践的意義に適うことだと私は確信します。自分が信仰を持つということは、人間関係でのストレスの処理装置を持つということを意味します。すると、そういう信仰によって成立している宗教はどのような団体であり、具体的にどのような処理技術を教えているのか?そしてそういったものが従来のキリスト教の中にはまったく見られないのか?見られるとしたらどういったところか?という問題が浮上します。

もちろん貧困問題も労働との関係では日本社会でも極めて大衆的な現実問題であり、「民衆の宗教」は第一に倫理的個人主義であるとは言っても個人レベルの人間関係の問題に終始してよいとは思いません。まずは個人主義的なところから入って精神的安定性を高めながら、社会的な問題へと関心を向けてゆかなければ、「神の王国」としての共同体的な面に適合しなくなります。

聖書では、このことは「富める青年」の話(マルコ福音書10章17節~22節/マタイ19:16~22、ルカ18:18~23 )においてイエスが厳しく戒めていることです。足下の現実に意識を向けるという点で、禅語では「看却下」です。この話の重点は貧民への寄付行為とか財産放棄にあるわけではありません。全財産を施せば天国に行けるよ♡って言うような新興宗教的な善行主義の話なんかではありません!もっと深い意味がある!すなわち富める青年は言わば個人救済主義者です。自分さえ救われたらいいといった感じ。そこで貧乏人の存在は視野に入ってきません。「ラザロと金持ち」(ルカ16:19~)の話については、下のリンク先のように「金持ち」を好意的に解釈する立場もありますが、もっと単純に読んでもよいと思います。

http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message110123mf.htm

それはともかく、路上生活者など貧者の存在は、私たち大多数の市民が日常、目をそらしている現実であることに変わりはありません。その現実を直視しながら生きるとなると何らかのサポートをしなければならず、いかに少額であっても面倒くさいとか勿体ないとか思うからです。でも本来は宮沢賢治が言うとおり、世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえないのです。これは八木誠一氏の言う「統合への規定」やマルクス主義の考えにも通じる真理です。だって、自分が不幸な貧乏人の側であると想像した場合に、イエスの言う「富める青年」や「金持ち」のように、身近にいる自分の存在を無視して綺麗ごとを並べる宗教家や政治家や学者などにどうして尊敬を感じることができるでしょうか?

その点、いわゆる「社会派」と称されて自己満足に浸っている牧師の中には、いざとなると路上生活者などに対して冷たい人間がいることを私は見てきました。偽善者ですよね。私は経験に基づいて書いています。もちろん、一部を全体に拡げることはできませんが、いろんな情報も併せて一般的に言えば、社会派牧師にも口ほどにもない人はいるということです。もちろん全体ではなく部分ですが役職への上昇志向ないしは権力欲で活動している者も少なからずいるのです。私は研修先で、障害を持つ牧師の体を足蹴にしていた社会派気取りの牧師を見ました。特に友人関係とかいう間柄ではありません。親しい関係ならいいというものでもありませんが、朝の起床が遅いからといって暴力的なやり方をしたのです。そういう人は、言葉の暴力は日常茶飯事です。そんなこともあって、私がいちばん信用できないのが「社会派」と称されるような牧師連中です。そんな人たちが幅をきかす集団なんて偽善の空気に息が詰まるので身を置くものではありません。私の教団離脱の理由の一つでもあります。以前、私の家族の者が教団のその手の委員会に献金したので、現実を知らないなと思って当人をたしなめたこともあります。貴重なお金をドブに棄てるようなものですよ、とね。一方、他教派の福音派もアリバイ的にNGOとかNPOとかやっている例があるので、あまり信用できませんが敢えて言えば、社会奉仕活動をしているキリスト教団体で私がいちばん信用できるのは救世軍であることを、私は経験から言えます。例外もあるでしょうが…。

エスの精神に反するキリスト教団体として私がすぐに思うのは、所謂ミッションスクールとかキリスト教主義学校といわれる中でも特に「……女学院」と称するブランド学校であり、また、聖ルカ国際大学病院のように、あつかましくも「ルカ」という福音書記者の名を用いながら、ルカ福音書の貧者志向に逆行するとしか思えないような方向性の医療機関です。

ちなみに上記の話の中でイエスは、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神おひとりのほかに善い者などいない」(18)と言っているので、素直に読めば「イエス 神」ということになるのは明らかです。そして私の実践的な座右の銘は「捨小就大」です。囲碁用語だそうですが、自分なりにパラフレーズすれば、現時点での大目標を常に意識して、それを実現するためには日々の些細な痛みは小事と諦めて前進せよ!ということです。現世から来世へと、対人関係と対神関係とが平安な状態で過ごせることこそ救済の実質だと思います。傲慢な言い方だとは思いますが敢えて言わせてもらえれば、死後の家族や友人たちとの再会といった話は副次的な事柄であると思うのです。死後の行方を心配していると現世のことが疎かになります。聖書はけっして現世の命を来世の命より軽んじてはいません。永遠の命とは現世から来世へと貫いてゆくものです。

繰り返しますが、人間は自分自身を制御しきれません。自力は限界があります。へたな心理学やカウンセリングなどを受けるより、コヘレト書にあるとおり、なるべく人生の早いうちに自身の造り主をおぼえておくことが何よりも平安になる道なのです。肉の父は亡くなったらあの世の人であって、守護する存在ではありません。肉の父よりも魂の父こそが自分の本当の守護者であり救い主なのです。究極の救済者はキリストではありません。その「父」です。聖書における神の啓示はキリストの特別啓示だけに集約されないことは、改革派神学の方が明確に語っております。それはバルト神学に対する批判としても十分、通用しているのです。

ところで、「神の全能」という聖書的教理に関して次のような文言があります。

「一つ明らかなことは、神はその全能をば人間に対しては抑制したもうたということであります。この『抑制』によってこそ、人間は自然物と区別される自由な人格的存在として造られ得たのであります。神がその全能を自然物に対するごとく人間に対しても貫徹しようとしたもうたなら、人間も自然必然性のうちに取り入れられて、『神の像』としての人格性はもち得なかったでありましょう。しかし、神は人間だけを他のいっさいの被造物と区別して、人格的存在――自由な愛の主体として造りたもうたのであります。」(北森嘉蔵著『日本基督教団 信仰告白解説 増補改訂版』同書p59)

この神の全能の「抑制」というのは、神の「自己限定」と言い換えることも可能でしょう。これは神が自主的になされることなので、あくまで全能とは矛盾しません。この冊子における問題点は、神の全能と矛盾することを北森氏が以下のとおり、人間の堕罪との関係で述べていることです。

「かくして人間の堕罪は二つの破綻をもたらしました。第一に、神の全能が貫かれ得なくなったこと、第二に、もし神の全能を貫こうとすれば、人間は死なねばならず、これは人間を生かそうとする神の愛と矛盾して来ること。『全能なる父なる神』がそれだけでは完結しえない真理であるというのは、このことをいうのであります。『全能の父なる神』の真理は、御子イエス・キリストの真理によってのみ完結され貫徹されうるのであります。すでに述べましたように、父なる神(創造秩序)の真理がキリスト論(和解秩序)のうちに包まれて成り立つというのは、このことを意味したのであります。」云々(同書p61~62)

このようなことなら、そもそも神は「全能」とは言えません。北森氏の神観が「有限の神」に近づいたという野呂芳男氏の指摘が思い出されます。すなわち北森氏は、「人間の堕罪が起こったということは、実質的な意味において、神の全能が否定に直面したことを意味します。神の意志は人間においてだけは貫徹され得なかったからです。人間は神の意志を否定したのであります。罪は、神の全能を否定するものであるからこそ、まさに罪なのです。」云々と言いますが(p60~61)、「人間に自由を与えるために神の全能が抑制された」から「全能の父なる神」だけではダメで子なる神のキリストが必要になるというのは「形式的」なことで「実質的」ではなく「実質的」なことは堕罪問題である…といった北森氏独特のロジックは、そもそも父なる神が全能と愛という相矛盾するものを抱えておられることを説いているかのような印象を与えるのです。

しかし聖書が示す創造主なる「神」は同時に「聖定」の主でもあられ、アダムとエバの堕罪のこともお見通しなのです。それによって全能が制限されるようなことではなく、堕罪の出来事は、所謂「許容聖定」という「神」の自己限定において起こったものであり、これも全能の内なのです。そのことを顧みない北森説は二元論的アポリアに陥るのであり、論理的には始めから破綻しているわけです。つまりどうしても「神」の有限性や相対性を認める方向にゆかざるを得ないという構造的欠陥が生じるからです。これは聖書の神学としては致命的です。

キリストの贖罪というのは、北森氏が言うような、父なる神の限界の先にある出来事とか、父なる神のはたらきより優越する御子のはたらきを意味するものではないのです。そこがひねくれているから、北森氏自身が奇異だとかいう、「子」(=キリスト)がご自分を含む「父、子、聖霊」の三位一体を啓示したなどという無理な聖書解釈を立てて、これを説明づけるために独特の哲学的屁理屈をこねてこねて、最後に解決しました…などと自画自賛するような机上の空論的遊戯を神学と称して語り続けることになるわけです。該当する箇所を下に引用しておきます。

「『イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていまし給ふ』。ここでは『父・子・聖霊なる三位一体の神』が『主イエス・キリストによりて啓示せられ』ると表現されております。これは一見奇異な表現といわれるかもしれません。なぜなら、『父・子・聖霊』の『子』は『主イエス・キリスト』と同一でありますから、この文章は『子』が『父・子・聖霊』を啓示するということとなるからであります。(中略)ここに残された解決の方法はただ一つしかありません。神の言全体を『キリストのみ』の内に包み入れること、すなわち、父・子・聖霊の『三』を子の『一』の内に包み入れること、であります。教団の信仰告白はそのとおりになっております。(中略)かくして初めて、ヤコブの手紙をも含めた神の言全体としての正典たる聖書への信仰告白が、『キリストのみ』『信仰のみ』というルター的信仰告白を貫いたままで、成り立つに至るのであります。」(北森氏前掲書p24~26)

・・・なにが「残された解決の方法」だ!なにが「成り立つに至るのであります」だ!北森思弁たれのアホ!と僕は声を大にして言いたいです。このじいさんの本にはこういった自画自賛的内容がよく見受けられます。自分で勝手におかしな仮定で論じておきながら、これまた勝手な屁理屈でフタをして、さも筋が通っているかのように大げさに書き立てる・・・こんなくだらない思考遊戯を神学と称して金を得ているのだから、まったくクソ食らえとしか思えません。日本で最小規模のプロテスタント神学だけの単科大学である東神大なんかに、クリスチャンが人口の1%にも満たない日本社会においてなんの公益性がありましょうや!こんなもん、大学である必要なんかない!私学助成を停止したらいいのです。いまだにこんな北森流のくだらない「神学」で飯を食っている人間がいるとしたらなおさらです。

(参照)「教団の信仰告白は『主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は父・子・聖霊なる、三位(み)一体の神にていましたまふ。』と告白されています。神を啓示したのは、主イエスキリストであると語っています。ここで言う教団の三位一体の信仰の告白は、主イエスキリストが前面に出ており、『キリスト論的三位一体論』という風に説明されます。救いの中心は御子イエスの十字架のあがないを中心に語られるのです。」(~日本基督教団赤羽教会 深谷春男牧師の説教)

http://home.att.ne.jp/moon/h-fukaya/haruohome/haruo-09-sekkyou/sekkyou08.htm

 

私の脳には、ダニエル・デネットという哲学者が言ったという「神中枢」なる部位があるらしく、聖書を通して啓示された創造主なる「神」を思うと血が騒ぐのですが(『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』〔文藝春秋〕p130、174参照)、それはともかく私にとって「神」の現存が要請され、それも申命記6章4節にあるとおり「唯一」であり「絶対(他)者」でなければならない理由は、倫理的には特に科学技術の進歩に伴う危険性の抑止として、すなわち人間が侵してはならない創造主なる「神の聖域」が確保されるためです。

個人的には精神を蝕むニヒリズムからの救済であり、元々は祝福された被造世界でありながら原罪ゆえ悪に支配されて空虚で無常で不安定で相対的なるこの世の現実に耐えて生き抜いてゆくためです。すなわち自我の制御であり、対人関係に心の余裕をもって臨めるようにすること。そうでないと劣等感の強い人間は常に自尊感情を抑圧されて狂気・凶行に走ってしまいかねません。いずれにせよ自暴自棄的になります。そうならないためには(詩篇的に言えば)人間によるへたなカウンセリングなどより、自分の内面における「巌」の如き確固たる根拠とか安定した立場とかいったものが必要であり、それが私にとっては前生からの「対神関係」(詩篇139篇13~18節他参照)です。この原関係において、創造主なる「神」の現存を覚知し、不可視であろうとも得体の知れない存在でないことは先験的に了解できますが、それが他者と共同されていることを聖書から確信させられます。

聖書が示す救いは共同体レベルですが、感じ方には個別的な多様性があります。私にとって救いの現実性は第一に精神面で実感されます。なによりも「神」は癒し主として、また活力の主として超越者です。そして「神」こそが贖罪の主なのです。キリストの十字架はその「神」の愛と裁きとを象徴的に表すものであり、キリストの贖罪死は復活の出来事と同じく歴史上の客観的な事実ではないのですから、それをいかにも歴史的事実であるかのように語る北森神学などの教会教義には根本的な問題があるのです。肉の次元である歴史的事実と霊の次元である信仰の真実とはちゃんと分けて語られなければ信徒が混同してしまいます。何よりも聖書で語られているイエス・キリストという人物は歴史上の人物ではないということを明言しなければ始まりません。

ところで、自分が宗教者として生きるにせよ、どの共同体・団体に属するかを決める決め手は「神観」です。枝葉末節が違っても可ですが、この根幹が違ったら不可です。その点で私自身が既存の宗教団体の中から選択するなら伝統的キリスト教(のプロテスタント教会)よりもユニテリアンとかユダヤ教改革派とかの唯一論で非三一派ということになりますが、自分が実際に加入可能な範囲で選ぶとなると、どうしてもJWということになってしまいます。そんなことなら自分自身で共同体・団体を作ってしまった方がマシではないか、と思ったことは何度もありますが、経済的なことなどを含めて熟慮してゆけば非現実的だということになり、JWに入る方がより現実的な選択ということになるのです。

しかし根幹部分はそれでよいとしても、納骨の問題などは宙に浮いてしまいます。終末論的な点では理解に開きが大きいからです。所謂、終活は伴侶がある以上、自分個人だけの問題ではありません。じつに頭の痛いところです。この解決も聖霊のお働きに委ねるしかありません。

・・・ということで、たしかに当ブログの管理人である私の関心は、実践的であるよりも理論的・思弁的であるとは思います。しかし実践的関心ばかりが強くて理論的・思弁的関心が弱いタイプは不安なので、自分としてはそれよりはよいと思っています。思弁的関心が強いからこそ、同じく思弁的傾向が強い神学的思想を批判できるということも言えます。特に以下の如き自画自賛の現代的「十字架の神学」者に対してです。

「栄光の神学は、十字架と苦難の外に神のリアリティを見ようとする。しかし十字架の神学は、苦難と十字架の中にのみ真実の神にある信仰的実存があると判断した。それは信仰により苦難のただなかにこそ神にある実存があるという認識である。苦難の除去にではなく苦難を素材として苦難を内から克服し、神を讃美するそんな信仰的実存を真理として主張するのが十字架の神学なのである。『栄光の神学』が思弁的であって形而上学的世界観を試み、それをもって主知主義的に現実を克服しようとするのに対し、十字架の神学は『実践的』であり、実存的である。実存の苦難、そして人間の罪ふかさの謎、神の測りがたい知恵、それについてあえて思弁を試みようとしない。そこに人間の理姓、直感、感覚その他の認識能力についての相対性の認識、そして付随する謙遜、それが十字架の神学のプロフィールなのである。それゆえにいわゆる『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない。 十字架の神学は、現実に打ち勝つ信仰(WIRKLICHKEITSFAHIG)であると言われる。実践的なのである。理性が、不条理の現実を前にして途方にくれざるをえない状況の中で、十字架の神学はその不条理をとうめではなく、その不条理をあたえつつもそれを克服する道を備えてくださる神に信頼することを主張する神学なのである。」(~元・神戸ルーテル神学校校長 橋本昭夫氏の「ルター神学:秋の特別講座①」)

「…あえて思弁を試みようとしない」って、その語り自体が思弁です、って話なんですが、これは自身の「思弁」隠しの意図から「思弁」を否定的に言ってるのでしょう。また、上記引用文においては「『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない」と言われていますが、本来は神義論なき「十字架の神学」を「『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(北森嘉蔵著『今日の神学』p222)というのが、現代における「十字架の神学」神論であり、人類の世界大戦の歴史的経験を踏まえての、ヴェイユボンヘッファーなどに例をとった「神不在」感覚を普遍化するような時代認識が語られることから明らかなように、根っこには「『神義論』的関心」があるのですから、自身の「『神義論』的関心」を隠すために逆のことを強調してカモフラージュしているものと思われます。

「矛盾が真に矛盾として受け取られるならば、具体的にその矛盾を除去しようという念願に駆られねばならぬ。一言でいえば、実践に出なければならぬ。矛盾を具体的に除去する神が、聖霊にほかならぬ。十字架のキリストは聖霊によってつづかれるのである。」(『神と人間』〔現代文芸社〕p14 ※「除去しよう」と「実践」に傍点あり)(以上、引用は北森嘉蔵著『神と人間』より〔~現代文芸社〕)

たしかにルター神学には「『神義論』的関心」はなく、その意味においては思弁ではないのですが、そのルターの「十字架の神学」を利用している現代の神学的立場は真逆なのです。上記引用文には、敵に自分が味方であると思わせるために味方を悪く言うような「思弁」隠しや「『神義論』的関心」隠しが見てとれるのです。

そもそも上記引用文にあるように「実践(的)」という言葉に囚われるのもどうかなと思います。そこには思弁的神学者たちのある種のコンプレックスが見え隠れします。但し、倫理・道徳的行為に結びつく思想が「実践的」であって、そうでない思想は意味が無いかと言えばそんなことはないと思います。これは開き直りではなく、たとえ思弁的関心の方が実践的関心より強くても、それを隠す必要はないのです。「神」に関して考え語ることは、自分の人生において意義があると確信するからです。無論、批判し合うことはあっても、自分の解釈を絶対化するようなことは許されません。

 

※〝 神 〟という訳語は人名にもあるから不適語!でも既に普及しているので、このブログでも便宜上、カッコ付で使っています。

このブログで私が「神」と、〝 神 〟の字をカッコ付きで表記する理由は、「絶対(他)者」を人名にもある語で表わすこと自体、不謹慎で不信仰な行為だと思うからです。明治時代にGod の訳語については議論があり、「神」以外にも「上帝」とか「天主」などありますが、私としては聖書的に「創造主」がいちばんだと思います。

聖書が示す「神」の超絶性にふさわしい人間の態度は、「神」について必要以上に思弁的に語らない、自分勝手に定義しない、ということだとは思います。「神」の超越的不可知性(イザヤ書55章8~9節他参照)にもとづく積極的判断停止すなわち「知止の知恵」は、いわゆる「神秘主義」とか「否定神学」といわれる立場を肯定することにはなりません。なぜなら「神」は自己啓示者だからです。ものごとはなんでも程々でないとダメで、「神」についても語り過ぎても語らなさ過ぎても、どちらもダメなのです。

「神」を「(絶対)無」などと言い表わすことは、一見すると「神」の無制約性・超絶性に適ったことのように思われますが、次のような指摘もあります(但し、後述のとおり、この著者の思想には疑問点もあります)。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p293)

宗教哲学の「絶対無」は神論の徹底ではなく徹底し過ぎであり、かえって認識が浅くなっていると思います。なぜなら「神」はご自身を人間に示すために旧約の神YHWHとして、また、新約ではイエス・キリストの父として啓示なさいましたが、それはあくまでも人間の認識の範囲内にご自身を限定なさることだったと信じているからです。キリストが十字架に磔になったように、「父なる神」御自身も被造物に対してある意味、磔になられたのです。だから我々も実存論的規定として、この「神」の前に「子」なるキリストと共に磔にされているのです。
 
「神」はその自己限定の中で「妬む神」(エール・カンナー)として我々の対象となられました(出エジプト記20:5他)。だから我々が「妬む人」と同様に、否定的なイメージで受けとったのでは的はずれになります。
聖書では、人間に対しては「愛」とはみなされない、むしろ自分本位の否定的・消極的な意味を持つ「妬み」という表現を「神」に対して敢えて用いているわけで、この場合は肯定的・積極的な意味で受けとめる必要があります。訳の表現としては甘い食べ物に塩をちょっと加える、一種の対比効果とでもいいましょうか・・・。
そうしてみると、それは「神の愛」が単なる甘ったるい情を超えた、厳しさなども含むような、他者を生かす真実の愛として理解できるようになってきます。と言うか、「神の存在」それ自体が我々にとって「愛」であると思えるようになります。創造主なる
「神」、「絶対有」としての「神」がおられなければこの世は虚無だからです。

もちろん聖書には「神」の自由自在なありさまも示されています。被造界への「内在」であり「遍在」です。しかしそれも自存者である「神」が、創造主として被造世界と不可分に関わり続ける在り方であり、「神」の自己制約なのです。

出エジプト記3:14の「エフイェ」が「わたしはある」と共に「わたしはなる」とも訳される、その「なる」ということは(この箇所を上村氏などのように、単に「神」の非実体性や無制約性を示すものとして解する立場とは異なり)、「神」が被造物に「成る」いう意味にもとることができます。

「万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(第一コリント15:28)

ここで「すべてにおいてすべてとなられる」とはどういう意味か議論が分かれるところで、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが実現することだと解釈する人もいます。その祈りを弟子たちに教えられた御子キリストは、ここで「ご自分に万物を従わせた方=神」に従属する存在であることが示されています。御父と御子が同等などという「三位一体」の考え方は聖書的にみて誤りなのです。「神」は御子をはじめ全てを服従せしめる絶対主権のもとで、創造主なる天父にしてイスラエルの神ヤハウェとしての自己対象化・自己限定を解消なさり、本来の自由自在になられるのです。被造世界は「神」へ全帰入するのです。無論、それは被造物の神化でも神の被造物化でもありません。むしろそのような神秘主義的・汎神論的な見方を粉砕するのです。

関根正雄氏の指摘にもあるとおり(但し関根氏の説にも疑問点はあります)、「神」は被造物に「内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている」のです(『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p87)。

私見では聖書的な「汎在神教」は一般の「汎在神論」(=「万有在神論」)や「汎神論」とはちがって、つねに「超越」が「内在」に先行するのであり、「神」が何に成ろうとも、ご自身の人格的本質を失うほどに成りきることはなく、つねに創造主としての超越性を維持してのことであるという意味で、同じ「内在」でも「超越的内在」と言えます。また「遍在」も単に被造世界の全体にご自身を内在させているということではなく、これも超越性が先行してのことであり、聖書は「神」の在処として「天」に象徴させているのですから、「在天の遍在」とでも言えるでしょう。

本来は無限定・無制約である「神」が、啓示に伴って「神格」を「人格」に比喩させ、被造物との活きた関係を結ぶために、敢えて御自身を限定し制約なさったのです。繰り返しになりますが、この恩寵に応答するべく我々も「神」の前に、キリストと共に磔になって生きるのです。自分の十字架を負うてイエスに従って生きるとは、信仰的な自己限定あるいは自己規定ということです。それは能動的行為であると同時に、それ以前に根本的かつ聖なる「定め」という受動的な事柄です。

我々の存在根拠はその「神」との生得的な関係にほかなりません。カールバルトは自己の存在根拠について、デカルトの「われ思う故にわれあり」に対して「われ信ず故にわれあり」と言ったそうで(同上p243~244)、さらに「《父なる神よ!》という呼びかけの中に、キリスト者生活の不動の岩盤があり、不壊の根拠がある」と言ったとのこと(~山本和氏の論文「神概念の変転」~『現代における神の問題』〔創文社〕p265~266)。

「われ信ず故にわれあり」は、それと同じようなことを語るクリスチャンが少なくないですが、私の場合は「信ずる」以前に、対神関係に置かれて「神」に知られていたという原事実において自己の存在根拠を与えられていると自覚しています。存在根拠は受動的にしかあり得ません。

なお、量義治氏の思想についての疑問点は、「我―汝」関係の理解です。量氏の著書である『無信仰の信仰』(文春ネスコ)も併読してみるとどうやら量氏は、「神」も「人間」との関係なしには存在し得ないかのように考えておられたようです。

聖書が示す「唯一の神」は自存者であり、被造物との「関係」なしには創造主とはなりませんが「神」であることに変わりはありません。これに対して被造物は創造主なる「神」との関係なしには被造物足り得ず、人間は人間足り得ません。ゆえに「不可逆」の秩序があり、量氏は「我―汝の関係において、『関係』に対して『我と汝』の優位性を主張する立場を実体論的立場、それに対して『我と汝』に対して『関係』の優位性を主張する立場を関係論的立場と称するならば、」云々と言われますが(量氏前掲書p167)、神対人関係は、実体論か関係論かに分けて論じ得る事柄ではありません。
「神」は関係なしに自存し得る実体存在ですが、人間は関係(内)存在です。そして「神」も創造主としては関係(内)存在ですが、創造主は全被造物との関係を維持しなくても存在できるから、つまり被造物に対しては「選び」ということが生じるので、その意味で神人関係には不可逆性があります。

 ところで八木誠一氏によると、神論は「人格主義的」と「場所論的」とに分かれますが、人格神観は八木氏が、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と指摘しておられるとおり「神義論」が付きものです。その不毛な議論を回避するためには理神論的な観方を部分的に用いることは有効だと思います。私としては、人生経験における良いことは「神」の「恵み」に、悪いことは自分自身を含む「人間」の「罪」に帰して然りと心がけています。信仰生活の実践は、歴史的な旧約的神義論を克服した知恵の書であるコヘレト書から学ぶことが多いです。関根清三氏などはコヘレト書を酷評しますが、いっさいが霧や蒸気の如き捉えどころがないという「空(ハヴェール)」の価値観・世界観・人生観において、コヘレトが関係している「神」だけは捉えどころのある得体の知れた存在として示されています。その「神」は人格性が薄いといったような批判もありますが、だからこそコヘレトでは神義論が乗り越えられており、この書の最大の魅力とも言える日常生活に足が着いた実際的信仰が語られるのです。あまりに擬人的神観では却って生活現実から離れた無用な言葉が多くなってきます。神観の人格性も程々であってこそ聖書的だと言えます。旧約聖書を読んで「神」に対して怒ったりする人がいますが、これは「神」を擬人化しすぎていることによるのです。確かにJ資料がそのような表現をしていることに問題があるわけですが、読み手の側も古代の神話としての面を考慮して解釈して然りです。