聖書の対神関係 Hatena?

「キリストの平和」共同体を志向するブログ。その「平和(シャーローム)」は終末に期さねばなりませんが、神の御子が血を流すほどの行動なしには実現できません。ブログ名の「対神関係」につきましては、無教会・無教派神学においてすでに「神関係」という用語がありますが(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p169 その他参照)、私は「対」を付ける方が日本語の表現としてはより正しいと思います。「主が御顔をあなたに向けあなたに平安(シャーローム)を賜るように。」(民数記6:26)

「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

量義治氏は『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)224頁以下でで西田幾多郎の言葉を引いて次のようなことを述べています。

(以下、引用)

絶対と云へば、云ふまでもなく、対を絶したことである。併し単に対を絶したものは、何物でもない、単なる無に過ぎない。何物も創造せない神は、無力の神である、神ではない。無論、何等かの意味に於て、対象的にあるものに対するとならば、それは相対である、絶対ではない。併し又単に対を絶したものと云ふものも絶対ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾があるのである。如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによって絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対すると云ふことは、自己が自己矛盾的に自己自身に対すると云ふことであり、それは矛盾的自己同一と云ふことでなければならない。単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。……自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むと云ふことは、自己が絶対の無となると云ふことでなければならない。自己が絶対無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとは云はれない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立すると云ふことは、無が無自身に対して立つと云ふことである。真の絶対とは、此の如き意味に於て、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神と云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三九六-三九八ページ)

「絶対の無なるが故に絶対の有」

晦渋にして難解である。精細に読解しなければならない。「対象的にあるものに対するとならば、それは相対的である、絶対ではない」と言う。ここで、「それ」とは、前後の文脈からして、「絶対」のことである。したがって、ここで言われていることは、絶対が対象的にあるものに対するとするならば、そのような絶対は実は相対であって絶対ではない、ということである。それでは「真の絶対」とはいかなるものなのか。西田は言う、「絶対は、無に対することによって絶対の有であるのである」と。ここは、前半はさして難解ではないが、後半はきわめて晦渋難解である。(中略)西田において、絶対が絶対の無であること、そのことがまさに絶対が絶対の有であることなのである。絶対は「絶対の無なるが故に絶対の有」なのである。絶対者としての「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである」。この「絶対の無なるが故に絶対の有」という表現は、もっと簡潔に、「絶対の無にして有」というようにも言い換えられている。西田の神観は、神は、「絶対の無にして絶対の有」、または「絶対無即絶対有」である、というものである、と言うことができるであろう。

世界としての絶対者

西田によれば、絶対無としての真の絶対有は「無限に自己自身を限定する」ことによって「無限に創造的でなければならない」(上掲書四〇〇ページ)。一なる絶対有は直ちに自己否定によって多としての世界となる。つまり絶対者は絶対者として絶対有なのではなくて、世界として絶対有なのである。西田の絶対無即絶対有とは絶対無即世界ということであり、それは端的に言えば、「空即是色」ということである。西田においては絶対有は絶対有としての意義は認められていないのである。(以上、引用終わり)

このように、西田幾多郎のロジックを解説しながらも、量氏自身はこれに全面的な同意はしていません。次の頁で、「西田哲学的絶対者は結局は絶対無であって、絶対無即絶対有とは言われるけれども、絶対有の絶対有としての意義が十分に認められているとは言えない。」と述べています。そして自ら無教会クリスチャンとして三位一体論の保持という課題について、西洋神学に於ける従来の「絶対有」だけの視点では成立しない旨を主張しバルトなどの教会・教派神学の理解を超えた無教会・無教派神学の哲学的解釈を提示しています(p219、229~235、292~293 参照 ※私の造語である「無教派神学」は主流のキリスト教神学とは異なる、すなわちバルト神学に代表される「新正統主義」に対応する「新自由主義」的な哲学的神学という意味であって、エキュメニズムとは直接的な関係はないし、福音派の所謂「超教派」的神学とも質を異にする)。それはともかく、このような神論について実践的見地からは不毛なる思弁ではないかとの批判もなされてくるわけで、量氏もそれを考慮してか次のように述べています。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(前掲書p236)

量氏は、「絶対無」に「超越性、他者性、人格性」が欠如し、「無律法性」と「無責任性」を指摘しています(前掲書p293)。また「神関係」という用語に加えて「絶対者関係」という表現も使っています。それは良いとしても、神観が救済と関係すると言うなら、理屈だけではなく心情も重視すべきです。すなわち西田のように理詰めで考えれば確かに絶対者は絶対有即絶対無などということになるのかもしれませんが、救いを求める人間の情としては神に「無」などとうネガティブなイメージを持つ言葉など使いたくないわけです。賛美の言葉はつねにポジティブでなければなりません。それが救済の要請なのです。だから私は信仰対象としての「神」に対しては「絶対有」とは言っても「絶対無」とは言いません。そして私は量氏のように哲学的理屈を用いてまで三位一体神論を保持する必要は感じません。

以下、三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』(講談社)より引用します。

(以下、引用)

あなたは、すべては相対的だと教えました。それは絶対的な法則はないという意味ですか?

「そう、絶対的なものはない。法則と状況は相対的な関係にあり、変化するものだ」

— では、神も変化するとでも?

すばやくアインシュタインは切り返した。

「君の言う神とはどういう意味なんだね?」

— やはり自然法則の創造者と考えていいと思うんですが。

「そう思うのはかまわんが、ことわっておくが、私の神は人格的な神ではないよ」

— あなたはいつか、人はそれぞれのイメージに合わせて自分の神をつくりあげていると言いました。では、あなたは、どんな神をつくり上げているんですか?」

「自分にとって」とアインシュタインは言った。

「神は謎だ。しかし、解けない謎ではない。自然法則を観察すれば、ただただ畏敬の念を抱くばかりだよ。法則にはその制定者がいるはずだが、どんな姿をしているのだろうか? 人間を大きくしたようなものでないことは確かだ」(中略)

「真に宗教的な天才は、こうした宇宙的宗教の感覚を身につけており、教義も聖職者も人格化した神も必要ない。だから異端とみなされてきたんだ。いいかね、民族と宗教の垣根を取り払えるのは、これまでそれにしくじってきた宗教指導者たちではない。現代の科学者ならできるかもしれないんだ」

(中略)

「牧師さん、宇宙的宗教では、宇宙が自然法則に従って合理的であり、人はその法則を使ってともに創造すること以外に教義はない。私にとって神とは、ほかのすべての原因の根底にある、第一原因なんだ。(後略)」

アインシュタインは、間違いなく神を信じていました。その神とは人間の姿をして教えを垂れるものではなく、自然法則を創り、それに沿って世界と人間を導くものでした。幼い頃に聖書と教会に絶望した彼はそれに代わる神を見いだし、その忠実な信奉者になったのです。

(中略)

天動説から地動説へ、地動説からニュートン力学へ、この世界がどのようにできているのかを考える科学のパラダイムシフトは、この世界で「絶対なるもの」は何かを追求することで起きてきました。それはとりもなおさず、「宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者」(『広辞苑』における定義)である神の領域を、次々に自然法則で説明し、相対化していくことでもありました。そしてニュートン力学から相対性理論へという転換により、ついに空間や時間までが相対化され、光速だけがこの世界で絶対のものであることが解き明かされたわけです。

(以上、引用)p169~174

聖書の宗教は救済宗教であり、宇宙宗教でもなければ道徳宗教でもなければ世界観宗教でもありません。人生の生活の中で経験される貧・病・争といった苦しみからの解放を切実に求めるというのが、聖書の宗教を含めて救済宗教の常道的な入り方だと思います。神学的には救済論に重きを置くタイプがそれです。その場合は関心が哲学よりも社会学や心理学に向く傾向があるでしょう。これに対して創造論に重きを置くタイプが世界観志向です。宗教に哲学的・世界観的関心から入るのは邪道とは言わないが観念的であり思弁に過ぎるので、かなりズレてくるでしょう。だから上記引用の物理学者の「神」などは救済者ではなく宇宙創成の説明のために要請される存在でしかなく、それなら人格神である必要はありません。「絶対なるもの」を科学的・世界観的に追求しても聖書が示す「神」と出会えないのは当然です。そもそも動機がズレているのです。もっともニュートンの場合はアインシュタインと「神」の観方が違うようですが(前掲書p124~128参照)、とにかく「絶対なるもの」は救済論的に、そして実存的に求められて然りです。但し、私はキリスト論を重んじません。歴史において、自然啓示は認め得ても特別啓示は認め得ないからです。

救済宗教という点では、ルメートルという人物はさすがに物理学者でありながら、「第一次世界大戦に従軍して戦場の悲惨さを目の当たりにした経験から神学校に入ってキリスト教を学び、カトリックの司祭となっ」っただけあります(p160)。

(以下、引用)

彼の発見が大きく取り沙汰されるほど、その背景にキリスト教的世界観を見いだす人たちによって、「科学と宗教」という対立構図が強調されました。そこで繰り広げられる議論は不毛なものだとルメートルは考えていたのでしょう。彼はこのようなことを述べています。

<聖書の執筆者はみな、「人間の救済」という問題についてなんらかの答えを得ていた。しかし、それ以外の問題については、彼らの同時代人たちと同程度に賢明、あるいは無知だった。だから、聖書に歴史的・科学的な誤りがあるとしても、それは何の意味もない。不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれに与えられたのかを正しく理解していない人が陥る誤解である>

これが物理学者と聖職者という二つの顔をもつルメートルの、根底にある考え方でした。

(以上、引用)p167

この人物については、「ハップルの法則」に関する対応もあっぱれとしか言えません。三田さん同様、尊敬すべき人物です(p165~166参照)。

いずれにせよ、進化論に立つ限り、アメリカのファンダメンタリストにおける反対運動とまではいかないにせよ、自然科学とキリスト教信仰は相容れないはずです。上掲書からもう一箇所、引用します。

(以下、引用)

■「創世記」2章7節 ■

<主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった>

つまり「人間は神が土から創造した」とあるのですが、アルバート科学雑誌を読んでいて、これがチャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論と矛盾することに気づいたのです。

(以上、引用)p142 

ちなみに私自身は、コヘレト的「神」信仰が救済論的アプローチとして、対神関係の距離感から言っても最適だと思っています。そしてコヘレト書の理解に関しては、旧約聖書学者の関根清三氏のように批判ばかりするのは間違いであって、以下のような理解が大切だと思い共感します。

なぜ『すべては空しい』と言うのでしょうか。ここで『すべて』と翻訳されている言葉を、ヘブライ語原典で見てみたいと思います。1章2節も12章8節も、この言葉は『ハッコール(הַכֹּל)』です。これはすべてを意味する『コール(כֹּל)』に、定冠詞『ハ(הַ)』が付いたものです。ヘブライ語において、名詞に定冠詞が付く用法には、その名詞を限定化するというものがあります。『すべて』という言葉を限定化しているのです。ある限定化された範囲での『すべて』ということなのです。私はそのように捉えています。1章14節に『わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな(この「どれもみな」もハッコール)空しく、風を追うようなことであった』とあります。コヘレトは『太陽の下におけるすべては空しいのだ』と言っていると、そう解釈したらどうでしょうか。ですから『太陽の下』の外側の存在を、コヘレトは『空しい』とは言っていないのです。(中略)コヘレトにとって神は『太陽の下』をすべて支配される方ではありますが、しかし『神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない』(3:11)と書かれているように、神は『太陽の下』を超えた存在なのです。コヘレトは『太陽の下におけるすべては空しいのだ』と言います。しかし『太陽の下』を超えた、神との関わりにおけること、あるいは神との関りにおいて『神様からのプレゼント』を受け取ることを『空しい』とは言いません。コヘレトにとってそれは『トーブ』なのです。コヘレトは『トーブ』を導き出すために、『空しさ』の徹底追及を行っているのです。(中略)確かに、神とつながっていなければこの世界は『とてつもなく空しい』のかもしれません。しかしコヘレトは、空しさを追求しつつも、その空しさの外側をきちんと見ています。神との関わりにおいて得ることのできる『神様からのプレゼント』を見ているのです。ではそれは一体何なのでしょうか。」(コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か― 臼田宣弘)

コヘレト書を読む(3)「すべては空しい」―コヘレトは厭世主義者か― 臼田宣弘 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

コヘレトは『無限』と『神の永遠』を峻別していることが分かります。コヘレトにとって『無限』とは、『太陽の下』での『限りのない始めから終わりまで』のことです。しかしコヘレトは、『それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない』(3:11)と、人間には知ることのできない、『無限の外側の始めから終わりまで』があることを知っています。コヘレトの無限概念が、ギリシャ思想からのものであるのかどうかは、確かなことは分かりません。ただ、コヘレトにとって『無限』とは、『太陽の下』のものであり、『神の永遠』とは次元が違うものなのです。コヘレトは、無限を『もの憂い』と言います。『何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない』(8節)。大地において世代が繰り返されることも、太陽が昇り沈みまた昇ることも、風が巡り巡ることも、川の水が流れ続けることも、『もの憂い』のです。(中略)コヘレトは、『無限』がすべてだとする世界観に、限界を感じていたのではないかと私は考えています。それで、『もの憂い』『ヘベル(空しい)』と言っているように思えます。しかしコヘレトは、神は『無限』の外側におられる方であることを知っていて、その神とつながっていること、あるいは『神様からのプレゼント』を受け取ることを大事にしていた人なのです。」(~コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環― 臼田宣弘)

コヘレト書を読む(4)「無限」―太陽の下(もと)の循環― 臼田宣弘 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

要するに、コヘレトの言う「空」なる感覚は、対神関係の中でも限定された現実の中でのことであって、その「すべて」が対神関係全体にまで及ぶものではない、ということです。この限定性の認識を抜かすと、コヘレトの神信仰自体への疑念が生じてしまって、一部の「敬虔」なるクリスチャンなどの誤解を招くことにもなります。問題は、人生の現実の中に限定された「空」なる領域があるのは何故か?ということです。この問題への探求は形而上学的思弁に陥る危険もありますが、やはりコヘレト書の理解の上では避けて通れないことだと思います。コヘレト自身、その問題への回答を直接、示しているとは思いませんが、暗示はあると思います。「空」は神信仰なき人々にだけあるのではなく信仰者を含む万人にある普遍的な事柄なのです。あくまでも神ご自身の摂理なのです。そこには当然、人知を超えた神秘があります。しかしすぐに思いつくことは人間の原罪によるのではないかということです。この現実世界に生起する悪しきことはすべて人間の罪によるものとの理解があるからです。しかしコヘレトには因果応報の法則性を否定しているので、そのような考えではなかろうと思うわけです。しかしその反面、コヘレトには箴言のように因果論に立つ文書からの連続性も部分的にはみられます。神を畏れるという伝統を継承している面があるのです。そして旧約の伝統的「知恵」理解……不可知論的な考え方がコヘレトに受け継がれているといわれます。そしてコヘレトに論旨の矛盾を指摘する人がいますが、コヘレトがその限定された現実「日の下」では否定している因果応報が、限定を超えた対神関係においては否定していない、それが有るとも無いとも決めつけず信仰的不可知論として創造主の御意志にゆだねているのだとみれば筋は通るので、必ずしもネガティブな意味で矛盾だなんだと批判しなくてもよいのです。つまり「空」の原因を人間の原罪にするという法則的な考え方は、「日の下」の日常生活世界では否定されますが、それは実践に重きを置くからであって、日常を超えた対神関係の世界観においては原罪を原因とする考え方は否定されないということです。むしろ聖書全体からして、それ以外に「空」の理由などあり得ないのです。しかしコヘレトはそれを「日の下」の現実において語っており、決して直示しているわけではないので、原罪説を強調することは教理の読み込みとなります。そういうことがコヘレトにおいて拒否されているのです。

なお、「神様からのプレゼント」とは何かについては、私のプロフィールを見てもらう方が早いでしょう。abemaさんのプロフィール - はてな

私見では、コヘレトの信仰対象である「神」は、彼自身がその「神」との関係を実存的に生きている日々の暮らしの中でその都度、自覚されている存在であり、客観的に「絶対者」か否か、「人格的存在」か否か、などと論じることなど無用とされており、来世についても想像を逞しくするような思弁は排されています。その姿勢は、まさに「知足知止」を思わせるものであり、形而上学的事柄を観念的に定義したりせず、つねに「空」(ヘベル)という現実経験に立って、そこから人生の意味を真摯に探求しています。私も厭世的ともとれる現実感覚の中で、そこからの救済を形而上学的にではなく現実的かつ切実に希求しつつ「捨小就大」を心がけて生きる中で、「神」の実体は誰に説明する必要もなく、自ずと己の中に明らかにされるのです。それで魂の平安を得てこそ、聖書の宗教は救済宗教だと確信できます。但し、救済宗教といってもあまりに信仰対象と近いのも息が詰まります。だからコヘレトの信仰的立場がよいのです。美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感です。あまりに近すぎる神秘主義的信仰は私が最も嫌悪する立場です。

本田哲郎神父がおっしゃっているとおり、イエスは自分を大切にするように隣人のことを大切にするということを神の御心の第一として教えておられます。しかし問題は、自分が隣人を求める人の隣人になるということよりも、自分自身が隣人を求めているという事実なのです。だからキリスト教徒が上から目線になるお話のすべてに対してリアリティーを感じられないのです。救われるべき貧しき罪人は、自分自身が隣人を求めているのです。だから自分を愛するように、ではなく、自分が隣人を求めているからこそ隣人を愛するということになってこないとウソですね。

★本田哲郎神父講演:「平和を脅かされている今の状況において、信仰者としてどう生きるべきか?――教皇フランシスコ『福音の喜び』をうけて」 - YouTube

ところで、無教会の指導者にして東大総長も務められた矢内原忠雄氏は、「神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません。絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。」と述べておられます(『矢内原忠雄全集』第19巻所収の講演録「日本精神への反省」の「本居宣長批判」〔岩波書店〕p25  ※濃色は管理人) 。

私にとっても聖書から示される「神」はまずもって創造主であるがゆえに「絶対(他)者」です。そして「絶対」ということは「最高」かつ「唯一」ということなので、「絶対最高唯一」が聖書が示す「神」の本質ということになります。被造物である人間とは質的に隔絶しているおかたです。但し字面からすれば、聖書的には「絶対」と言うより「全能」でしょう(「全知」も含まれる)。

 

エレミヤ書 32章17節 「あなたには何一つできないことはありません」 
ルカの福音書 1章37節 「神にとって不可能なことは一つもありません」 
同、 18章27節 「人にはできないことが、神にはできるのです」 

 

でもその全能が「義」によって正しく行使されないといけないわけで、その意味で「完全無欠」という意味で「絶対」でなければならないのです。

また、「神」が「唯一絶対」であることについては、そういう実存的な、つまり主観側の理由だけではなく、聖書的な、つまり客観側の理由もあります。

すなわち、聖書に示されたる「神」があくまで「唯一神」であり「多神」ではあり得ないのは、「遍在」の教理があるからです。所謂、アナザーワールドとかパラレルワールドなどを認めない限り、現実世界は「一」であり真実は「一」であるから「神」も「一」です。「神」の唯一性は現実世界の唯一性に対応しています。聖書では被造世界はあくまで「一」なのですから・・・。但し、終末には新天新地が到来します。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(ヨハネの黙示録 21章1 節)

それにしても何故、超越かつ絶対なる「神」を信仰しないといけないのか?と疑問に思われる方々もおられることでしょう。その答えは仏教的に言えば「縁」だと思って下さい。そういう「縁」というか「業」かもしれませんが、そういう宿命をもって生まれてくる人間もいるわけです。超絶神に頼らなければ生きてゆけない、私のような人間もいるということです。理由を探せば、まずもって日常の人間関係でのことです。職場の同僚や家庭での伴侶に対する自分の精神状態が、より安定した、余裕をもった穏やかなものになるには、どうしても宗教が必要なのです。

その実践性が伴うのであれば必ずしも聖書の宗教でなくてもいいか?と言えば、そんなことはなく、自分を愛しかつ律する人格的存在としての創造主との関係が絶対的に要請されるのです。これは個人レベルでの実践理性的信仰です。この創造主信仰さえあれば、「神」が「三位一体」だろうが「四位一体」だろうが、「二位一体」だろが「無位無体」だろうが・・・どうでもええ!神論なんかどうでもええ!ってことになりそうですが、要はこの創造主信仰がなければ、私のような劣等感に凝り固まった人間は常に自尊感情の過多とか承認欲求の不満状態であり、被害者意識(ないしは妄想)も強いので、そんなリスクをおかしてまで人間関係を結ぼうとは思わないのです。それでは社会生活は送れません。だから対人関係での苦悩を対神関係によって相対化することによって処理するためにも絶対他者なる唯一神が要請されるのです。

 

ところで、「神の全能」という聖書的教理に関して次のような文言があります。

「一つ明らかなことは、神はその全能をば人間に対しては抑制したもうたということであります。この『抑制』によってこそ、人間は自然物と区別される自由な人格的存在として造られ得たのであります。神がその全能を自然物に対するごとく人間に対しても貫徹しようとしたもうたなら、人間も自然必然性のうちに取り入れられて、『神の像』としての人格性はもち得なかったでありましょう。しかし、神は人間だけを他のいっさいの被造物と区別して、人格的存在――自由な愛の主体として造りたもうたのであります。」(北森嘉蔵著『日本基督教団 信仰告白解説 増補改訂版』同書p59)

この神の全能の「抑制」というのは、神の「自己限定」と言い換えることも可能でしょう。これは神が自主的になされることなので、あくまで全能とは矛盾しません。この冊子における問題点は、神の全能と矛盾することを北森氏が以下のとおり、人間の堕罪との関係で述べていることです。

「かくして人間の堕罪は二つの破綻をもたらしました。第一に、神の全能が貫かれ得なくなったこと、第二に、もし神の全能を貫こうとすれば、人間は死なねばならず、これは人間を生かそうとする神の愛と矛盾して来ること。『全能なる父なる神』がそれだけでは完結しえない真理であるというのは、このことをいうのであります。『全能の父なる神』の真理は、御子イエス・キリストの真理によってのみ完結され貫徹されうるのであります。すでに述べましたように、父なる神(創造秩序)の真理がキリスト論(和解秩序)のうちに包まれて成り立つというのは、このことを意味したのであります。」云々(同書p61~62)

このようなことなら、そもそも神は「全能」とは言えません。北森氏の神観が「有限の神」に近づいたという野呂芳男氏の指摘が思い出されます。すなわち北森氏は、「人間の堕罪が起こったということは、実質的な意味において、神の全能が否定に直面したことを意味します。神の意志は人間においてだけは貫徹され得なかったからです。人間は神の意志を否定したのであります。罪は、神の全能を否定するものであるからこそ、まさに罪なのです。」云々と言いますが(p60~61)、「人間に自由を与えるために神の全能が抑制された」から「全能の父なる神」だけではダメで子なる神のキリストが必要になるというのは「形式的」なことで「実質的」ではなく「実質的」なことは堕罪問題である…といった北森氏独特のロジックは、そもそも父なる神が全能と愛という相矛盾するものを抱えておられることを説いているかのような印象を与えるのです。

しかし聖書が示す創造主なる「神」は同時に「聖定」の主でもあられ、アダムとエバの堕罪のこともお見通しなのです。それによって全能が制限されるようなことではなく、堕罪の出来事は、所謂「許容聖定」という「神」の自己限定において起こったものであり、これも全能の内なのです。そのことを顧みない北森説は二元論的アポリアに陥るのであり、論理的には始めから破綻しているわけです。つまりどうしても「神」の有限性や相対性を認める方向にゆかざるを得ないという構造的欠陥が生じるからです。これは聖書の神学としては致命的です。

キリストの贖罪というのは、北森氏が言うような、父なる神の限界の先にある出来事とか、父なる神のはたらきより優越する御子のはたらきを意味するものではないのです。そこがひねくれているから、北森氏自身が奇異だとかいう、「子」(=キリスト)がご自分を含む「父、子、聖霊」の三位一体を啓示したなどという無理な聖書解釈を立てて、これを説明づけるために独特の哲学的屁理屈をこねてこねて、最後に解決しました…などと自画自賛するような机上の空論的遊戯を神学と称して語り続けることになるわけです。該当する箇所を下に引用しておきます。

「『イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていまし給ふ』。ここでは『父・子・聖霊なる三位一体の神』が『主イエス・キリストによりて啓示せられ』ると表現されております。これは一見奇異な表現といわれるかもしれません。なぜなら、『父・子・聖霊』の『子』は『主イエス・キリスト』と同一でありますから、この文章は『子』が『父・子・聖霊』を啓示するということとなるからであります。(中略)ここに残された解決の方法はただ一つしかありません。神の言全体を『キリストのみ』の内に包み入れること、すなわち、父・子・聖霊の『三』を子の『一』の内に包み入れること、であります。教団の信仰告白はそのとおりになっております。(中略)かくして初めて、ヤコブの手紙をも含めた神の言全体としての正典たる聖書への信仰告白が、『キリストのみ』『信仰のみ』というルター的信仰告白を貫いたままで、成り立つに至るのであります。」(北森氏前掲書p24~26)

・・・なにが「残された解決の方法」だ!なにが「成り立つに至るのであります」だ!北森思弁たれのアホ!と僕は声を大にして言いたいです。このじいさんの本にはこういった自画自賛的内容がよく見受けられます。自分で勝手におかしな仮定で論じておきながら、これまた勝手な屁理屈でフタをして、さも筋が通っているかのように大げさに書き立てる・・・こんなくだらない思考遊戯を神学と称して金を得ているのだから、まったくクソ食らえとしか思えません。日本で最小規模のプロテスタント神学だけの単科大学である東神大なんかに、クリスチャンが人口の1%にも満たない日本社会においてなんの公益性がありましょうや!こんなもん、大学である必要なんかない!私学助成を停止したらいいのです。いまだにこんな北森流のくだらない「神学」で飯を食っている人間がいるとしたらなおさらです。

(参照)「教団の信仰告白は『主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は父・子・聖霊なる、三位(み)一体の神にていましたまふ。』と告白されています。神を啓示したのは、主イエスキリストであると語っています。ここで言う教団の三位一体の信仰の告白は、主イエスキリストが前面に出ており、『キリスト論的三位一体論』という風に説明されます。救いの中心は御子イエスの十字架のあがないを中心に語られるのです。」(~日本基督教団赤羽教会 深谷春男牧師の説教)

http://home.att.ne.jp/moon/h-fukaya/haruohome/haruo-09-sekkyou/sekkyou08.htm

 

青野太潮氏の贖罪論批判に関しては、誰が言い出しっぺかは知りませんが、高の付く人が引用しているらしい、贖罪論における神は暴力的な神だとの意見があります。これは日本バプ連の平尾バプテスト教会での青野氏の講演記録を参照してください。このような神観は青野氏が言っているのではなく他の人が言っているのだと思いますが、擬人化し過ぎでナンセンスだと思います。ただ、青野氏は、神が世界を自然法則にゆだね、歴史に介入しないことをもって自らを「無力」とすることを決定された旨を述べておられ、そこは重視します。いずれにしても、信者さんが、なぜ全能の神が、わざわざ御子を犠牲にしなければ人類を救えないのだ? といった疑問を呈されることについては、そもそも神観がおかしいのだ、と言いたいわけです。人格神観と擬人神観とは全く違うのです。

それはともかく、私の脳には、ダニエル・デネットという哲学者が言ったという「神中枢」なる部位があるらしく、聖書を通して啓示された創造主なる「神」を思うと血が騒ぐのですが(『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』〔文藝春秋〕p130、174参照)、それはともかく私にとって「神」の現存が要請され、それも申命記6章4節にあるとおり「唯一」であり「絶対(他)者」でなければならない理由は、倫理的には特に科学技術の進歩に伴う危険性の抑止として、すなわち人間が侵してはならない創造主なる「神の聖域」が確保されるためです。

個人的には精神を蝕むニヒリズムからの救済であり、元々は祝福された被造世界でありながら原罪ゆえ悪に支配されて空虚で無常で不安定で相対的なるこの世の現実に耐えて生き抜いてゆくためです。すなわち自我の制御であり、対人関係に心の余裕をもって臨めるようにすること。そうでないと劣等感の強い人間は常に自尊感情を抑圧されて狂気・凶行に走ってしまいかねません。いずれにせよ自暴自棄的になります。そうならないためには(詩篇的に言えば)人間によるへたなカウンセリングなどより、自分の内面における「巌」の如き確固たる根拠とか安定した立場とかいったものが必要であり、それが私にとっては前生からの「対神関係」(詩篇139篇13~18節他参照)です。この原関係において、創造主なる「神」の現存を覚知し、不可視であろうとも得体の知れない存在でないことは先験的に了解できますが、それが他者と共同されていることを聖書から確信させられます。

聖書が示す救いは共同体レベルですが、感じ方には個別的な多様性があります。私にとって救いの現実性は第一に精神面で実感されます。なによりも「神」は癒し主として、また活力の主として超越者です。そして「神」こそが贖罪の主なのです。キリストの十字架はその「神」の愛と裁きとを象徴的に表すものであり、キリストの贖罪死は復活の出来事と同じく歴史上の客観的な事実ではないのですから、それをいかにも歴史的事実であるかのように語る北森神学などの教会教義には根本的な問題があるのです。肉の次元である歴史的事実と霊の次元である信仰の真実とはちゃんと分けて語られなければ信徒が混同してしまいます。何よりも聖書で語られているイエス・キリストという人物は歴史上の人物ではないということを明言しなければ始まりません。

ところで、自分が宗教者として生きるにせよ、どの共同体・団体に属するかを決める決め手は「神観」です。枝葉末節が違っても可ですが、この根幹が違ったら不可です。その点で私自身が既存の宗教団体の中から選択するなら伝統的キリスト教(のプロテスタント教会)よりもユニテリアンとかユダヤ教改革派とかの唯一論で非三一派ということになりますが、自分が実際に加入可能な範囲で選ぶとなると、どうしてもJWということになってしまいます。そんなことなら自分自身で共同体・団体を作ってしまった方がマシではないか、と思ったことは何度もありますが、経済的なことなどを含めて熟慮してゆけば非現実的だということになり、JWに入る方がより現実的な選択ということになるのです。

しかし根幹部分はそれでよいとしても、納骨の問題などは宙に浮いてしまいます。終末論的な点では理解に開きが大きいからです。所謂、終活は伴侶がある以上、自分個人だけの問題ではありません。じつに頭の痛いところです。この解決も聖霊のお働きに委ねるしかありません。

・・・ということで、たしかに当ブログの管理人である私の関心は、実践的であるよりも理論的・思弁的であるとは思います。しかし実践的関心ばかりが強くて理論的・思弁的関心が弱いタイプは不安なので、自分としてはそれよりはよいと思っています。思弁的関心が強いからこそ、同じく思弁的傾向が強い神学的思想を批判できるということも言えます。特に以下の如き自画自賛の現代的「十字架の神学」者に対してです。

「栄光の神学は、十字架と苦難の外に神のリアリティを見ようとする。しかし十字架の神学は、苦難と十字架の中にのみ真実の神にある信仰的実存があると判断した。それは信仰により苦難のただなかにこそ神にある実存があるという認識である。苦難の除去にではなく苦難を素材として苦難を内から克服し、神を讃美するそんな信仰的実存を真理として主張するのが十字架の神学なのである。『栄光の神学』が思弁的であって形而上学的世界観を試み、それをもって主知主義的に現実を克服しようとするのに対し、十字架の神学は『実践的』であり、実存的である。実存の苦難、そして人間の罪ふかさの謎、神の測りがたい知恵、それについてあえて思弁を試みようとしない。そこに人間の理姓、直感、感覚その他の認識能力についての相対性の認識、そして付随する謙遜、それが十字架の神学のプロフィールなのである。それゆえにいわゆる『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない。 十字架の神学は、現実に打ち勝つ信仰(WIRKLICHKEITSFAHIG)であると言われる。実践的なのである。理性が、不条理の現実を前にして途方にくれざるをえない状況の中で、十字架の神学はその不条理をとうめではなく、その不条理をあたえつつもそれを克服する道を備えてくださる神に信頼することを主張する神学なのである。」(~元・神戸ルーテル神学校校長 橋本昭夫氏の「ルター神学:秋の特別講座①」)

「…あえて思弁を試みようとしない」って、その語り自体が思弁です、って話なんですが、これは自身の「思弁」隠しの意図から「思弁」を否定的に言ってるのでしょう。また、上記引用文においては「『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない」と言われていますが、本来は神義論なき「十字架の神学」を「『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(北森嘉蔵著『今日の神学』p222)というのが、現代における「十字架の神学」神論であり、人類の世界大戦の歴史的経験を踏まえての、ヴェイユボンヘッファーなどに例をとった「神不在」感覚を普遍化するような時代認識が語られることから明らかなように、根っこには「『神義論』的関心」があるのですから、自身の「『神義論』的関心」を隠すために逆のことを強調してカモフラージュしているものと思われます。

「矛盾が真に矛盾として受け取られるならば、具体的にその矛盾を除去しようという念願に駆られねばならぬ。一言でいえば、実践に出なければならぬ。矛盾を具体的に除去する神が、聖霊にほかならぬ。十字架のキリストは聖霊によってつづかれるのである。」(『神と人間』〔現代文芸社〕p14 ※「除去しよう」と「実践」に傍点あり)(以上、引用は北森嘉蔵著『神と人間』より〔~現代文芸社〕)

たしかにルター神学には「『神義論』的関心」はなく、その意味においては思弁ではないのですが、そのルターの「十字架の神学」を利用している現代の神学的立場は真逆なのです。上記引用文には、敵に自分が味方であると思わせるために味方を悪く言うような「思弁」隠しや「『神義論』的関心」隠しが見てとれるのです。

そもそも上記引用文にあるように「実践(的)」という言葉に囚われるのもどうかなと思います。そこには思弁的神学者たちのある種のコンプレックスが見え隠れします。但し、倫理・道徳的行為に結びつく思想が「実践的」であって、そうでない思想は意味が無いかと言えばそんなことはないと思います。これは開き直りではなく、たとえ思弁的関心の方が実践的関心より強くても、それを隠す必要はないのです。「神」に関して考え語ることは、自分の人生において意義があると確信するからです。無論、批判し合うことはあっても、自分の解釈を絶対化するようなことは許されません。

 

※〝 神 〟という訳語は人名にもあるから不適語!でも既に普及しているので、このブログでも便宜上、カッコ付で使っています。

このブログで私が「神」と、〝 神 〟の字をカッコ付きで表記する理由は、「絶対(他)者」を人名にもある語で表わすこと自体、不謹慎で不信仰な行為だと思うからです。明治時代にGod の訳語については議論があり、「神」以外にも「上帝」とか「天主」などありますが、私としては聖書的に「創造主」がいちばんだと思います。

聖書が示す「神」の超絶性にふさわしい人間の態度は、「神」について必要以上に思弁的に語らない、自分勝手に定義しない、ということだとは思います。「神」の超越的不可知性(イザヤ書55章8~9節他参照)にもとづく積極的判断停止すなわち「知止の知恵」は、いわゆる「神秘主義」とか「否定神学」といわれる立場を肯定することにはなりません。なぜなら「神」は自己啓示者だからです。ものごとはなんでも程々でないとダメで、「神」についても語り過ぎても語らなさ過ぎても、どちらもダメなのです。

「神」を「(絶対)無」などと言い表わすことは、一見すると「神」の無制約性・超絶性に適ったことのように思われますが、次のような指摘もあります(但し、後述のとおり、この著者の思想には疑問点もあります)。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p293)

宗教哲学の「絶対無」は神論の徹底ではなく徹底し過ぎであり、かえって認識が浅くなっていると思います。なぜなら「神」はご自身を人間に示すために旧約の神YHWHとして、また、新約ではイエス・キリストの父として啓示なさいましたが、それはあくまでも人間の認識の範囲内にご自身を限定なさることだったと信じているからです。キリストが十字架に磔になったように、「父なる神」御自身も被造物に対してある意味、磔になられたのです。だから我々も実存論的規定として、この「神」の前に「子」なるキリストと共に磔にされているのです。
 
「神」はその自己限定の中で「妬む神」(エール・カンナー)として我々の対象となられました(出エジプト記20:5他)。だから我々が「妬む人」と同様に、否定的なイメージで受けとったのでは的はずれになります。
聖書では、人間に対しては「愛」とはみなされない、むしろ自分本位の否定的・消極的な意味を持つ「妬み」という表現を「神」に対して敢えて用いているわけで、この場合は肯定的・積極的な意味で受けとめる必要があります。訳の表現としては甘い食べ物に塩をちょっと加える、一種の対比効果とでもいいましょうか・・・。
そうしてみると、それは「神の愛」が単なる甘ったるい情を超えた、厳しさなども含むような、他者を生かす真実の愛として理解できるようになってきます。と言うか、「神の存在」それ自体が我々にとって「愛」であると思えるようになります。創造主なる
「神」、「絶対有」としての「神」がおられなければこの世は虚無だからです。

もちろん聖書には「神」の自由自在なありさまも示されています。被造界への「内在」であり「遍在」です。しかしそれも自存者である「神」が、創造主として被造世界と不可分に関わり続ける在り方であり、「神」の自己制約なのです。

出エジプト記3:14の「エフイェ」が「わたしはある」と共に「わたしはなる」とも訳される、その「なる」ということは(この箇所を上村氏などのように、単に「神」の非実体性や無制約性を示すものとして解する立場とは異なり)、「神」が被造物に「成る」いう意味にもとることができます。

「万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(第一コリント15:28)

ここで「すべてにおいてすべてとなられる」とはどういう意味か議論が分かれるところで、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが実現することだと解釈する人もいます。その祈りを弟子たちに教えられた御子キリストは、ここで「ご自分に万物を従わせた方=神」に従属する存在であることが示されています。御父と御子が同等などという「三位一体」の考え方は聖書的にみて誤りなのです。「神」は御子をはじめ全てを服従せしめる絶対主権のもとで、創造主なる天父にしてイスラエルの神ヤハウェとしての自己対象化・自己限定を解消なさり、本来の自由自在になられるのです。被造世界は「神」へ全帰入するのです。無論、それは被造物の神化でも神の被造物化でもありません。むしろそのような神秘主義的・汎神論的な見方を粉砕するのです。

関根正雄氏の指摘にもあるとおり(但し関根氏の説にも疑問点はあります)、「神」は被造物に「内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている」のです(『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p87)。

私見では聖書的な「汎在神教」は一般の「汎在神論」(=「万有在神論」)や「汎神論」とはちがって、つねに「超越」が「内在」に先行するのであり、「神」が何に成ろうとも、ご自身の人格的本質を失うほどに成りきることはなく、つねに創造主としての超越性を維持してのことであるという意味で、同じ「内在」でも「超越的内在」と言えます。また「遍在」も単に被造世界の全体にご自身を内在させているということではなく、これも超越性が先行してのことであり、聖書は「神」の在処として「天」に象徴させているのですから、「在天の遍在」とでも言えるでしょう。

本来は無限定・無制約である「神」が、啓示に伴って「神格」を「人格」に比喩させ、被造物との活きた関係を結ぶために、敢えて御自身を限定し制約なさったのです。繰り返しになりますが、この恩寵に応答するべく我々も「神」の前に、キリストと共に磔になって生きるのです。自分の十字架を負うてイエスに従って生きるとは、信仰的な自己限定あるいは自己規定ということです。それは能動的行為であると同時に、それ以前に根本的かつ聖なる「定め」という受動的な事柄です。

我々の存在根拠はその「神」との生得的な関係にほかなりません。カールバルトは自己の存在根拠について、デカルトの「われ思う故にわれあり」に対して「われ信ず故にわれあり」と言ったそうで(同上p243~244)、さらに「《父なる神よ!》という呼びかけの中に、キリスト者生活の不動の岩盤があり、不壊の根拠がある」と言ったとのこと(~山本和氏の論文「神概念の変転」~『現代における神の問題』〔創文社〕p265~266)。

「われ信ず故にわれあり」は、それと同じようなことを語るクリスチャンが少なくないですが、私の場合は「信ずる」以前に、対神関係に置かれて「神」に知られていたという原事実において自己の存在根拠を与えられていると自覚しています。存在根拠は受動的にしかあり得ません。

なお、量義治氏の思想についての疑問点は、「我―汝」関係の理解です。量氏の著書である『無信仰の信仰』(文春ネスコ)も併読してみるとどうやら量氏は、「神」も「人間」との関係なしには存在し得ないかのように考えておられたようです。

聖書が示す「唯一の神」は自存者であり、被造物との「関係」なしには創造主とはなりませんが「神」であることに変わりはありません。これに対して被造物は創造主なる「神」との関係なしには被造物足り得ず、人間は人間足り得ません。ゆえに「不可逆」の秩序があり、量氏は「我―汝の関係において、『関係』に対して『我と汝』の優位性を主張する立場を実体論的立場、それに対して『我と汝』に対して『関係』の優位性を主張する立場を関係論的立場と称するならば、」云々と言われますが(量氏前掲書p167)、神対人関係は、実体論か関係論かに分けて論じ得る事柄ではありません。
「神」は関係なしに自存し得る実体存在ですが、人間は関係(内)存在です。そして「神」も創造主としては関係(内)存在ですが、創造主は全被造物との関係を維持しなくても存在できるから、つまり被造物に対しては「選び」ということが生じるので、その意味で神人関係には不可逆性があります。

 ところで八木誠一氏によると、神論は「人格主義的」と「場所論的」とに分かれますが、人格神観は八木氏が、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と指摘しておられるとおり「神義論」が付きものです。その不毛な議論を回避するためには理神論的な観方を部分的に用いることは有効だと思います。私としては、人生経験における良いことは「神」の「恵み」に、悪いことは自分自身を含む「人間」の「罪」に帰して然りと心がけています。信仰生活の実践は、歴史的な旧約的神義論を克服した知恵の書であるコヘレト書から学ぶことが多いです。関根清三氏などはコヘレト書を酷評しますが、いっさいが霧や蒸気の如き捉えどころがないという「空(ハヴェール)」の価値観・世界観・人生観において、コヘレトが関係している「神」だけは捉えどころのある得体の知れた存在として示されています。その「神」は人格性が薄いといったような批判もありますが、だからこそコヘレトでは神義論が乗り越えられており、この書の最大の魅力とも言える日常生活に足が着いた実際的信仰が語られるのです。あまりに擬人的神観では却って生活現実から離れた無用な言葉が多くなってきます。神観の人格性も程々であってこそ聖書的だと言えます。旧約聖書を読んで「神」に対して怒ったりする人がいますが、これは「神」を擬人化しすぎていることによるのです。確かにJ資料がそのような表現をしていることに問題があるわけですが、読み手の側も古代の神話としての面を考慮して解釈して然りです。