聖書が示す「神」Hatena?

日本に聖書的超絶神観を! 基督教の「(三一)神」と聖書が示す「(唯一)神」とは同一に非ず。命より重きものは聖書的・生得的対神関係なり。この関係に有らざる者が神義論的問い、即ち神の全能と災難との矛盾を論じたところで不毛なり!「縁なき衆生は度し難し」・・・「対神関係なき者は救われ難し」。

「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

無教会の指導者にして東大総長も務められた矢内原忠雄氏は、「神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません。絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。」と述べておられます(『矢内原忠雄全集』第19巻〔所収の講演録「日本精神への反省」の「本居宣長批判」〕岩波書店 p24~) 。

私にとっても聖書から示される「神」はまずもって創造主であるがゆえに「絶対(他)者」です。被造物である人間とは質的に隔絶しているおかたです。聖書的には「絶対」と言うより「全能」でしょう(「全知」も含まれる)。

でもその権能が正しく行使されないといけないわけで、その意味で「完全無欠」という意味で「絶対」でなければならないのです。

私にとって「神」の現存が要請され、それも「絶対(他)者」でなければならない最大の理由は、社会的には特に科学技術の進歩に伴う危険性の抑止として、すなわち人間が侵してはならない創造主なる「神の聖域」が確保されるためです。個人的には、元々は祝福された被造世界でありながら原罪ゆえ悪に支配されて空虚で無常で不安定で相対的なるこの世の現実に耐えて生き抜いてゆくためです。そのためには(詩篇的に言えば)「巌」の如き確固たる根拠とか安定した立場とかいったものが必要であり、それが私にとっては前生からの「対神関係」(詩篇139篇13~18節他参照)です。この原関係において、創造主なる「神」の現存を覚知し、不可視であろうとも得体の知れない存在でないことは先験的に了解できますが、それが他者と共同されていることを聖書から確信させられます。

聖書が示す救いは共同体レベルですが、感じ方には個別的な多様性があります。私にとって救いの現実性は第一に精神面で実感されます。なによりも「神」は癒し主として、また活力の主として超越者です。

たしかに当ブログの管理人である私の関心は、実践的であるよりも理論的・思弁的であるとは思います。しかしだからこそ、同じく思弁的傾向が強い神学的思想を批判できます。特に以下の如き自画自賛の現代的「十字架の神学」者に対してです。

「栄光の神学は、十字架と苦難の外に神のリアリティを見ようとする。しかし十字架の神学は、苦難と十字架の中にのみ真実の神にある信仰的実存があると判断した。それは信仰により苦難のただなかにこそ神にある実存があるという認識である。苦難の除去にではなく苦難を素材として苦難を内から克服し、神を讃美するそんな信仰的実存を真理として主張するのが十字架の神学なのである。『栄光の神学』が思弁的であって形而上学的世界観を試み、それをもって主知主義的に現実を克服しようとするのに対し、十字架の神学は『実践的』であり、実存的である。実存の苦難、そして人間の罪ふかさの謎、神の測りがたい知恵、それについてあえて思弁を試みようとしない。そこに人間の理姓、直感、感覚その他の認識能力についての相対性の認識、そして付随する謙遜、それが十字架の神学のプロフィールなのである。それゆえにいわゆる『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない。 十字架の神学は、現実に打ち勝つ信仰(WIRKLICHKEITSFAHIG)であると言われる。実践的なのである。理性が、不条理の現実を前にして途方にくれざるをえない状況の中で、十字架の神学はその不条理をとうめではなく、その不条理をあたえつつもそれを克服する道を備えてくださる神に信頼することを主張する神学なのである。」(~元・神戸ルーテル神学校校長 橋本昭夫氏の「ルター神学:秋の特別講座①」)

「…あえて思弁を試みようとしない」って、その語り自体が思弁です、って話なんですが、これは自身の「思弁」隠しの意図から「思弁」を否定的に言ってるのでしょう。また、上記引用文においては「『神義論』的関心はルター神学においては起こってこない」と言われていますが、本来は神義論なき「十字架の神学」を「『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(北森嘉蔵著『今日の神学』p222)というのが、現代における「十字架の神学」神論であり、人類の世界大戦の歴史的経験を踏まえての、ヴェイユボンヘッファーなどに例をとった「神不在」感覚を普遍化するような時代認識が語られることから明らかなように、根っこには「『神義論』的関心」があるのですから、自身の「『神義論』的関心」を隠すために逆のことを強調してカモフラージュしているものと思われます。たしかにルター神学には「『神義論』的関心」はなく、その意味においては思弁ではないのですが、そのルターの「十字架の神学」を利用している現代の神学的立場は真逆なのです。上記引用文には、敵に自分が味方であると思わせるために味方を悪く言うような「思弁」隠しや「『神義論』的関心」隠しが見てとれるのです。

そもそも上記引用文にあるように「実践(的)」という言葉に囚われるのもどうかなと思います。そこには思弁的神学者たちのある種のコンプレックスが見え隠れします。但し、倫理・道徳的行為に結びつく思想が「実践的」であって、そうでない思想は意味が無いかと言えばそんなことはないと思います。

これは開き直りではなく、たとえ思弁的関心の方が実践的関心より強くても、それを隠す必要はないのです。「神」に関して考え語ることは、自分の人生において意義があると確信するからです。無論、批判し合うことはあっても、自分の解釈を絶対化するようなことは許されません。

 

※〝 神 〟という訳語は人名にもあるから不適語!でも既に普及しているので、このブログでも便宜上、カッコ付で使っています。

このブログで私が「神」と、〝 神 〟の字をカッコ付きで表記する理由は、「絶対(他)者」を人名にもある語で表わすこと自体、不謹慎で不信仰な行為だと思うからです。明治時代にGod の訳語については議論があり、「神」以外にも「上帝」とか「天主」などありますが、私としては聖書的に「創造主」がいちばんだと思います。

聖書が示す「神」の超絶性にふさわしい人間の態度は、「神」について必要以上に思弁的に語らない、自分勝手に定義しない、ということだとは思います。「神」の超越的不可知性(イザヤ書55章8~9節他参照)にもとづく積極的判断停止すなわち「知止の知恵」は、いわゆる「神秘主義」とか「否定神学」といわれる立場を肯定することにはなりません。なぜなら「神」は自己啓示者だからです。ものごとはなんでも程々でないとダメで、「神」についても語り過ぎても語らなさ過ぎても、どちらもダメなのです。

「神」を「(絶対)無」などと言い表わすことは、一見すると「神」の無制約性・超絶性に適ったことのように思われますが、次のような指摘もあります(但し、後述のとおり、この著者の思想には疑問点もあります)。

「絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治著宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p293)

宗教哲学の「絶対無」は神論の徹底ではなく徹底し過ぎであり、かえって認識が浅くなっていると思います。なぜなら「神」はご自身を人間に示すために旧約の神YHWHとして、また、新約ではイエス・キリストの父として啓示なさいましたが、それはあくまでも人間の認識の範囲内にご自身を限定なさることだったと信じているからです。キリストが十字架に磔になったように、「父なる神」御自身も被造物に対してある意味、磔になられたのです。だから我々も実存論的規定として、この「神」の前に「子」なるキリストと共に磔にされているのです。
 
「神」はその自己限定の中で「妬む神」(エール・カンナー)として我々の対象となられました(出エジプト記20:5他)。だから我々が「妬む人」と同様に、否定的なイメージで受けとったのでは的はずれになります。
聖書では、人間に対しては「愛」とはみなされない、むしろ自分本位の否定的・消極的な意味を持つ「妬み」という表現を「神」に対して敢えて用いているわけで、この場合は肯定的・積極的な意味で受けとめる必要があります。訳の表現としては甘い食べ物に塩をちょっと加える、一種の対比効果とでもいいましょうか・・・。
そうしてみると、それは「神の愛」が単なる甘ったるい情を超えた、厳しさなども含むような、他者を生かす真実の愛として理解できるようになってきます。と言うか、「神の存在」それ自体が我々にとって「愛」であると思えるようになります。創造主なる
「神」、「絶対有」としての「神」がおられなければこの世は虚無だからです。

もちろん聖書には「神」の自由自在なありさまも示されています。被造界への「内在」であり「遍在」です。しかしそれも自存者である「神」が、創造主として被造世界と不可分に関わり続ける在り方であり、「神」の自己制約なのです。

出エジプト記3:14の「エフイェ」が「わたしはある」と共に「わたしはなる」とも訳される、その「なる」ということは(この箇所を上村氏などのように、単に「神」の非実体性や無制約性を示すものとして解する立場とは異なり)、「神」が被造物に「成る」いう意味にもとることができます。

「万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(第一コリント15:28)

ここで「すべてにおいてすべてとなられる」とはどういう意味か議論が分かれるところで、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが実現することだと解釈する人もいます。その祈りを弟子たちに教えられた御子キリストは、ここで「ご自分に万物を従わせた方=神」に従属する存在であることが示されています。御父と御子が同等などという「三位一体」の考え方は聖書的にみて誤りなのです。「神」は御子をはじめ全てを服従せしめる絶対主権のもとで、創造主なる天父にしてイスラエルの神ヤハウェとしての自己対象化・自己限定を解消なさり、本来の自由自在になられるのです。被造世界は「神」へ全帰入するのです。無論、それは被造物の神化でも神の被造物化でもありません。むしろそのような神秘主義的・汎神論的な見方を粉砕するのです。

関根正雄氏の指摘にもあるとおり(但し関根氏の説にも疑問点はあります)、「神」は被造物に「内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている」のです(『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p87)。

私見では聖書的な「汎在神教」は一般の「汎在神論」(=「万有在神論」)や「汎神論」とはちがって、つねに「超越」が「内在」に先行するのであり、「神」が何に成ろうとも、ご自身の人格的本質を失うほどに成りきることはなく、つねに創造主としての超越性を維持してのことであるという意味で、同じ「内在」でも「超越的内在」と言えます。また「遍在」も単に被造世界の全体にご自身を内在させているということではなく、これも超越性が先行してのことであり、聖書は「神」の在処として「天」に象徴させているのですから、「在天の遍在」とでも言えるでしょう。

本来は無限定・無制約である「神」が、啓示に伴って「神格」を「人格」に比喩させ、被造物との活きた関係を結ぶために、敢えて御自身を限定し制約なさったのです。繰り返しになりますが、この恩寵に応答するべく我々も「神」の前に、キリストと共に磔になって生きるのです。自分の十字架を負うてイエスに従って生きるとは、信仰的な自己限定あるいは自己規定ということです。それは能動的行為であると同時に、それ以前に根本的かつ聖なる「定め」という受動的な事柄です。

我々の存在根拠はその「神」との生得的な関係にほかなりません。カールバルトは自己の存在根拠について、デカルトの「われ思う故にわれあり」に対して「われ信ず故にわれあり」と言ったそうで(同上p243~244)、さらに「《父なる神よ!》という呼びかけの中に、キリスト者生活の不動の岩盤があり、不壊の根拠がある」と言ったとのこと(~山本和氏の論文「神概念の変転」~『現代における神の問題』〔創文社〕p265~266)。

「われ信ず故にわれあり」は、それと同じようなことを語るクリスチャンが少なくないですが、私の場合は「信ずる」以前に、対神関係に置かれて「神」に知られていたという原事実において自己の存在根拠を与えられていると自覚しています。存在根拠は受動的にしかあり得ません。

なお、量義治氏の思想についての疑問点は、「我―汝」関係の理解です。量氏の著書である『無信仰の信仰』(文春ネスコ)も併読してみるとどうやら量氏は、「神」も「人間」との関係なしには存在し得ないかのように考えておられたようです。

聖書が示す「唯一の神」は自存者であり、被造物との「関係」なしには創造主とはなりませんが「神」であることに変わりはありません。これに対して被造物は創造主なる「神」との関係なしには被造物足り得ず、人間は人間足り得ません。ゆえに「不可逆」の秩序があり、量氏は「我―汝の関係において、『関係』に対して『我と汝』の優位性を主張する立場を実体論的立場、それに対して『我と汝』に対して『関係』の優位性を主張する立場を関係論的立場と称するならば、」云々と言われますが(量氏前掲書p167)、神対人関係は、実体論か関係論かに分けて論じ得る事柄ではありません。
「神」は関係なしに自存し得る実体存在ですが、人間は関係(内)存在です。そして「神」も創造主としては関係(内)存在ですが、創造主は全被造物との関係を維持しなくても存在できるから、つまり被造物に対しては「選び」ということが生じるので、その意味で神人関係には不可逆性があります。

 ところで八木誠一氏によると、神論は「人格主義的」と「場所論的」とに分かれますが、人格神観は八木氏が、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と指摘しておられるとおり「神義論」が付きものです。その不毛な議論を回避するためには理神論的な観方を部分的に用いることは有効だと思います。私としては、人生経験における良いことは「神」の「恵み」に、悪いことは自分自身を含む「人間」の「罪」に帰して然りと心がけています。信仰生活の実践は、歴史的な旧約的神義論を克服した知恵の書であるコヘレト書から学ぶことが多いです。関根清三氏などはコヘレト書を酷評しますが、いっさいが霧や蒸気の如き捉えどころがないという「空(ハヴェール)」の価値観・世界観・人生観において、コヘレトが関係している「神」だけは捉えどころのある得体の知れた存在として示されています。その「神」は人格性が薄いといったような批判もありますが、だからこそコヘレトでは神義論が乗り越えられており、この書の最大の魅力とも言える日常生活に足が着いた実際的信仰が語られるのです。あまりに擬人的神観では却って生活現実から離れた無用な言葉が多くなってきます。神観の人格性も程々であってこそ聖書的だと言えます。旧約聖書を読んで「神」に対して怒ったりする人がいますが、これは「神」を擬人化しすぎていることによるのです。確かにJ資料がそのような表現をしていることに問題があるわけですが、読み手の側も古代の神話としての面を考慮して解釈して然りです。