聖書の対神関係 Hatena?

「キリストの平和」共同体を志向するブログ。その「平和(シャーローム)」は終末に期さねばなりませんが、神の御子が血を流すほどの行動なしには実現できません。ブログ名の「対神関係」につきましては、無教会・無教派神学においてすでに「神関係」という用語がありますが(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p169 その他参照)、私は「対」を付ける方が日本語の表現としてはより正しいと思います。「主が御顔をあなたに向けあなたに平安(シャーローム)を賜るように。」(民数記6:26)

聖書が示す「神」に「体」はあるか?

「神」の得体(・・・所謂「霊的実体」)は、旧,新約聖書全体を通して人格的存在として明らかです。
 創造主なる「神」は、旧約では「ヤハウェ」という固有の名を持つ「イスラエル民族の神」と成り、新約では「イエスの父(なる神)」と成って啓示なさいました。

「神」はモーセに顕現なさった時、問われた「名」(「ヤハウェ」と決まっている!)を答える代わりに「エフイェ」(私は在る/私は成る)を2度繰り返して強調なさいました。それは 「名は体を現す」との諺どおり、「神」は「成る」ことによって「在る」べき「体」を得られるということをお示しになったのです。この場面では「神」は「出エジプトの神」に成ろうとされ、実際にそう成られました。生成は自己限定です。無制約の「神」は本来、「もの自体」ではないですが人間の認識を超えたお方であり、そのお方が創造主という人格的存在と成って御自身を対象化なさったところから啓示が始まりました。さらに「神の存在は生成においてある」(~ユンゲル)わけですが、何に「成る」にせよ、人格的主体性や超絶性を失わないのが創造主なる「神」なのです。そして人格神と成られた以上は、何らかの「体」をお持ちなのです。

すでに創世記18章でヤハウェは、「三人の男」の内の一人としてアブラハムの前に顕れたと言われています(これを「三位一体」の根拠に出来ないことは22節以下で明らか)。これは全能の「神」が可視的身体性を取ろうと思えば取れるということを物語っており、人間と等身大といった意味に直解することはできません。霊的な意味であれ「神」はお体を持っておられることを間接的、象徴的に伝えています。それは偶像崇拝とは無関係です。

ただ、その可視的身体というのも、聖書の歴史的批判的解釈においては、J資料の異教性というか原始性といった特殊な面が指摘されるのであり、カレン・アームストロング著、高尾利数訳『神の歴史』では次のように述べられています(引用での赤色は管理人)。 

『創世記』第十八章では、Jはエルがヘブロンの近くのマムレの樫の木のそばでアブラハムに現われたと述べている。アブラハムが見上げると、三人の見知らぬ人々が、真昼の一番暑い時に彼の天幕に近づいて来るのが見えた。典型的な中東の礼儀に従って、彼は急いで食事の支度をさせる間、彼らが座り、休息を取るように懇請する。会話を続けるうちに、きわめて自然に、三人の内の一人が、Jが常に「ヤハウェ」と呼ぶ彼の神自身にほかならないことが分かったのである。他の二人は天使であることが分かった。誰もこの啓示によって特に驚いた様子もない。しかし、Jが著述をしていた紀元前八世紀までには、神をこのような仕方で「見る」などと期待するイスラエル人はいなくなってしまった。当時のたいていのイスラエル人は、それをショッキングな考えだと思ったであろう。Jの同時代人であったEは、族長たちが神と親しかったという古い物語を不適切だと思った。つまり、Eが、アブラハムあるいはヤコブと神とのやり取りについての物語を告げるときには、彼は出来事を遠ざけ、古い伝説を、より擬人的ではない仕方で描くのを好んだのである。そういうわけで彼は、神がアブラハムに天使を通して語ると言う。しかしながらJはこのような潔癖さを共有せず、彼の物語のなかに、これらの原始的な顕現の古代的風味を保存しているのである。

旧約聖書の初期神観の異教性 全一者/ウェブリブログ

 

さて、キリスト教の関係において「神の体」などと言うと、人によっては悪名高き所謂「統一教会統一協会」(現・「世界平和統一家庭連合」)の教義や、斉藤由貴さんが所属していることで有名な所謂「モルモン教」の教義を思い出すかも知れません。

しかしそのいずれもが、ふつうのキリスト教が正典としている聖書の啓示に基づいていないために「神の体」と「人の体」とを混同してしまっているのです。従って私が「神の体」を論じる場合は、このような異説(→ 私は正統主義者ではないので「異端」という言葉を他者に向けて言うことはしません)とはまったく関係が無いということをどうぞご承知置き下さい。私が、無制約なる霊の「神」に「体」を問う理由は汎神論的関心によるものではなく、あくまで、「神」の「得体」を明確にしたいという一念です。

つまり「体(からだ)」と言っても当然のことながら、人間のような「肉体」という意味ではなく、その「はたらき」の「主体」です。「主体」は物質的な「体」とは限りません。それはある種の身体性であるとは言えますが、旧約聖書の神人同形的表現はあくまでも比喩であって文字通りの意味ではありませんから、このアプローチで汎神論に陥る危険はありません。

問題はその「主体(性)」を明らかにすることです。これが重要だと私は思うのです。なぜなら、世間で有名な、影響力ある知識人・文化人の中に、聖書が示す「神」の存在がわけのわからないものであるかの如き印象を与える無責任な発言が見られるからです。こういうことで一般の人々に誤解を招いているとしたら、私は少しでもその誤解を解きたいと思うのです。

たとえば、作家の故・三浦綾子さんは「神は自分のかたちに人を創造された」ということの意味として、次のように述べています。

「神は、体をお持ちにならない方(キリストは「神は霊である」と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。だから人間の肉体から逆に考えて、神も人間のような顔形であると思うのは誤りである。わたしたち人間は、神に似た霊性を与えられたのである。つまり神は人間の霊性の原型なのである。」(~『旧約聖書入門 光と愛を求めて』〔光文社〕p15)。

「神も人間のような顔形であると思うのは誤り」との見解には賛成ですが、神はいかなる意味・仕方においても「体をお持ちにならない」とは言えません。霊的には「体をお持ちになることができる」ということが(これを「霊体」などと呼び得るかどうかはともかく)「顔」などのメタファーによって示されています。
「霊」(ルーアッハ/プニューマ)は「風」とか「息」とも訳されますが、物質で言えば気体のような流体に喩えられているともとれます。たしかに「神」は目に見えないので形はありません。これではいかにもつかみどころのない、得体が知れないかの如くですが、人格という比喩に対応するのは流体よりも固体的なイメージです。
比喩ではあれ、「神」を人格的存在として観る以上、物体ではなくても、(「霊体」と呼ぶかどうかはともかく)霊的な意味での実体性ないしは「姿・かたち」を認めて然りでしょう。但し
それは三浦さんが指摘しておられるような、人間が「神の似像、神の似姿」(イマゴ・デイ)として創造されたという創世記1章の記事の転倒・曲解によるものではありません。

「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』/神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:26~27 新改訳2017)

同じく創世記の5:1 や 9:6なども参照。また、これはコロサイ1:15「この方は見えざる神の形姿。あらゆる創造の〔内で〕最初の誕生者。」(岩波版訳)にも関連してきます。

目に見えない方であられる神が、私たち人間のもとにそのお姿を表して下さったのが御子イエス・キリストであると解するのが普通のキリスト教です。しかし私の場合はこの聖句から、実体論的なキリスト神形説は採らないし、キリストは被造物か否かはともかく、神に従属する存在の中での第一者であると解します。

古代オリエント世界において、神にかたどって創造された者、すなわち『神の像』を有する者は王だけであった。王のみが、地上における神の代理表象、『神の似姿』であり得た。古代オリエント世界にあった王の政治神学を素材として受容しつつ、それを換骨奪胎して、聖書は、王ではなく、すべての人間の始祖であるアダムとエバに『神の似姿』を帰している。これは、当時の社会通念に対する大きな挑戦であり、王の政治神学に対する痛烈な批判である。王といった特定の人間類型にではなく、人間一般に『神の似姿』を付与しようとする聖書の意図に、近代以降形成されてきた『人権』や『尊厳』につながる理念を認めることができる。また、一人ひとりの人間に、神に由来する等しい価値があるという考え方は、一神教に共通する人間観である。もちろん、こうした考えが、実際の社会の中で実現しているかどうかは別問題である。」(小原克博著『一神教とは何か キリスト教ユダヤ教イスラームを知るために』〔平凡社〕p47~48)

上記の創世記1章の記事を誤解している例としては、統一教会(=統一協会)の教義を指摘することができます。それは27節だけを見て26節を見ていない、あるいは見ていても「かたち」(ツェレム)だけ見て「似姿」(デムート)を無視しているのです。それが意図的なのか無知によるものかはわかりませんが、とにかくこれにより文鮮明は次のようなバカげた発言をするのです。

「人間は神の見えるかたちであり、神は人間の見えないかたちであります。主体と対象とは本質において、一つなのであります。神と人間とは、一つなのであります。人間は実体化した神なのであります。」人間に対する神の希望

これも悪しき人間神化説の一種であると言えるでしょう。人は「神の姿に似せて」造られたのであって、人の像(かたち)がそのまま「神の像、姿」というわけではないことは、そもそも「王のみが、地上における神の代理表象、『神の似姿』」であったと小原氏が述べているとおりで、歴史的にわかりきったことです。

なお、この件で参考になるのは「『神の似姿』の解釈史」という表題で6つの説が紹介されている、関根清三著『旧約聖書の思想』(講談社学術文庫)の72頁以下に述べられいる内容であり、74頁以下の「解釈史の吟味」の結論としては、第5のカール・バルトの説と、第6のJ・ヘーンらの説の折衷です。

すなわち、文鮮明の如く直解的に「人間は神の見えるかたちであり、神は人間の見えないかたち」などと解することは誤りであって、「交わりの愛」としての人格的関係性と、「神の代理」としての自然環境の尊重という志向性が重視されなければなりません。

ちなみに北森嘉蔵氏は、「神が人間を『神の像』にしたがって造りたもうたとしるされる場合(創世記1・26、27)、その『神の像』は人格性を意味すると解してよいと思います。それでは人格性とはどのような内容をもつものでしょうか。聖書によれば、神は『愛』であります(第一ヨハネ四・一六)。ここよりして、神の像としての人格性を、愛の主体として解することができると思います。」云々と述べているので(~『日本基督教団 信仰告白解説 増補改訂版』〔日基教団出版局〕p58)、バルトの説を参照しているものと思われます。いずれにせよ、文鮮明の解釈よりはマシです。

また、「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳」では、「カルヴァンは 、創世記5章1節と同9章6節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する釈義的根拠は薄弱であるといったことは論じているが、御子が人間創造における範型としての『神のかたち』であるという理解は改革者にあっても忘れられたかのようである。」との批判がなされています。しかしその批判も実体論的なキリスト神形説であるなら、誤りとみなすことになります。

☆「神のかたち」であるキリスト - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

ところで、 「神」について「実体」という語を用いる場合の意味は、キリストが「神」と同じ「実体」である、すなわち「三位一体」の「体」いう場合の意味とは異なると思います。その場合は「本質」と同義です。ただし、コロサイ書2:17の「神の国」の「本体(=実体)はキリストにある」ということを植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三一論に合わせて解せば、「神の国(の本体)=キリスト=神(の身)」という図式が成り立つので、「神の国=神の体」と解し得ることになります。その場合、私は「キリスト」を「真に人」だとは言っても堕罪前の「イマゴ・デイ」としての本来的人間と解し、「真に神」であるとされる以上、史的イエスとは無関係の、あくまで聖書の超歴史物語の主人公として解することになります。従って贖罪福音の理解も登場人物である弟子たちの非歴史的・実存的解釈とみなします。そしてその弟子たち、使徒たちをはじめとする「神の国」の成員である信徒は、「キリスト」に霊的に近づくにしても「神の体」には含まれないとしなければ、神秘主義的人間神化の邪教に陥ることになります。

なみに、哲学では「実体的形相」(実体的本質)という用語もあります。井筒俊彦氏は「主語Xによって指示されているもの(術語的に『本質』と呼ばれるものの具現した形としての『実体』)」と述べておられます(「指示されているもの」の「もの」に傍点が付されています)。

それはともかく、私見では「実体」という概念は、無形的・非対象的な「性質」といったニュアンスと、有形的・対象的な「身体」とか「物体」といったニュアンスと、この2種類があり、当ブログで「『神』の実体」という場合は後者の意味です。

また、「得体」というのも語源的には「衣体」とか「為体」とかだそうで、「本質」とか「本性」といった意味もあるようですが、当ブログではそういうのとは関係なく「当体」とか「本体」といった意味で使います。

キリスト教では「受肉」という教理があり、「神(の御子)が肉体をとられた」などと言いますが、イエスを「真に神」とする以上は、もう一方で「真に人」とも云われるのですから、キリストは肉体を持った神ということになります。「神」の得体を「受肉」に求めることは聖書的に可能でしょうか?結論から言えば無理です。

キリスト教において、イエス・キリストの「聖体」が「神」を現したと実体論的に言われることは聖書の誤読です。これは関係論的、作用論的に解されなければなりません。肉体は物体であり目に見えるので、その点では得体は明らかに知られますが、どちらにしてもイエスの時代に生きていた人しか見えない有限なものです。それでは「神」の「体」とは言えません。ペトロの第一の手紙1:8~9によれば、イエスを見たことがないのに愛しているのが魂を救われた信仰者ですが、結局、「受肉」は「神」の得体を知らしめる手段とは言えません。そもそも物体は相対性を免れ得ず、「神」の絶対性や超越性が蔑ろにされてしまいます。それなら、イエスの復活体はどうでしょうか?イエスは「子」として「父(なる「神」)」の身体性を、自らの復活体をとおして我々に示しているとは言えないでしょうか?これも肉体の場合と同様にノーです。「子は親を映す鏡」と云われるとおり、イエスは「神」との「父 ― 子」関係において、ご自身の人格によって「神」の「人格(→ 神格)」を映現したのです。

ヨハネによる福音書20章においてトマスは、その「鏡=子」に映った「父なる神(の栄光)」を見て「わが主よ、わが神よ」と賛美したのであり、これをもって「イエス=神」という教義の根拠にはできません。

讃美歌121番「まぶねのなかに」における「この人を見よ」は、ヨハネ福音書19:5のピラトの言葉の意味とは違って、私見では「この人=イエス」の身体を見よということではなく、その身体の振る舞い(言葉と業)を見よということであり、その振る舞いによって示される霊的な「父―子」関係を通しての「神啓示」へと注目させるのです。

しかしヨハネ福音書は特に、イエスの体が「実体」的に「父=神」を現したかのように誤解されやすい表現の記事が見られます。これは前述のように、イエスが「父」との親密なる人格的「関係」を言葉と業で身をもって示すことにより「神」を現したと解するべきです。特に14章のイエスとピリポとの対話についてそう言えます。10:30などの言葉も、八木誠一氏の表現を借りて言えば、「実体的一」ではなく「作用的一」です。

「子」なるキリストの「体(からだ)」が「父」なる「神」の「得体」を示したと言えるとしたら、上記のように、「実体」ではなく「関係」の意味においてです。即ち、「体(からだ)」なき者は人格関係を結ぶことはできませんから、キリストがその言葉と業という身体の働きを通して「父=神」との人格的関係を示し、それによって人格的存在としての「神」を啓示したということにおいては、キリストの「体(からだ)」が間接的にではあれ、「神」の「得体」を現したと言えるでしょう。でも何故、よりによってキリストの「体」でなければならないのか?それは「父」との人格的関係において、言葉と業によって「神」の栄光を現すことができるほどの「子」の「体」というのは、聖霊に満ちた聖なる「体」でなければならないからです。

しかしこれはあくまでも「神の物語」としてのHis Storyでの出来事であって、実証的歴史としてのHistoryでの出来事ではありません。

ちなみに、イエスの復活体の観方は、使徒パウロ福音書記者とではかなり違います。これは復活観の違いとも言えるが、以下のとおり。

「信仰に生きるならば、その体が死ぬことによって、『新しい体』が与えられるとパウロは信じたのである。これは、福音書に見られる復活観とは大きく異なっている。福音書では、『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。』(ルカ二四・三九)と促したり、手の釘跡や脇腹の傷跡を弟子たちに見せ、トマスには触って見よと迫ったり(ヨハネ二〇・一九-二九)、エマオ途上やガリラヤ湖畔では弟子たちと一緒に食事をしたりして(ルカ二四・三〇、ヨハネ二一・一二)、復活のイエスは生前の身体との同一性、少なくとも連続性を示そうとしている。福音書著者たちは、当時のユダヤ人の民間信仰に近い、イメージでもって復活のイエスを描こうとしている。ところがパウロは、死よりの復活には新しい体、霊の体が与えられると考えていた。新約聖書には、一貫した復活観が存在しなかったのであろうか。」(大林浩『死と永遠の生命 そのキリスト教的理解と歴史的背景ヨルダン社〕p92~93)

まさにそうであり、それは「当時のユダヤ教ラビ思想における復活観」において、「復活の様態とか、終末の出来事の詳細については、固定した考え方を誰にも押しつけていなかった」からです。使徒パウロ福音書記者との違いは「その信仰を表現するイメージだけ」であったということで、エスの復活体のイメージはパウロ書簡と福音書とでは違うが、福音書の方がわかりやすいです。それは肉体とかなり近いからです。しかしどちらの復活体も「神の体」のイメージには合いません。イエスはあくまでも「子」の立場で「父(なる「神」)」の得体を示しただけなので、当方は参考にするにしても指標程度にしか見ていません。

ちなみに、ルカやヨハネの身体観は、イエス・キリストの身体性を否定する「仮現説」(ドケティズム)への反対を前提としていると考えられています。

ということで、「神」の「体」はあくまで無限で、人間の感覚対象にはならない「霊」的な「体」であって然りです。聖書が示す「神」について言われる「霊的実体」とは「霊的本質」ではなく「霊的身体」です。 

※「霊的実体」については、以下、参照。

「実体」の実際的定義 遠くの神/全一者/聖書の御神体/ウェブリブログ

 

ちなみに、「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(~『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p1291)とも言われています(濃色は管理人)。

 

私が学んだ神学校のある先生が『神様の正体』と題する本を出しておられます。私自身は読んではいません。でもその先生にメールで訊いたところによれば、やはり私が思っていたとおり、「神様の正体」は「愛なり」というのがその先生の答えでした。

しかし私は必ずしもそうは思わないです。教会の看板に「神は愛なり」と書かれているのを見た人は少なくないでしょう。私が在任していた教会の看板にもそう書かれていました。これは日本のキリスト教会の特徴とも言える現象なのかも知れませんが、聖書の本文から「神は愛なり」だけを切り取って、これが「神様の本質だ!正体だ!」と言わんばかりに掲げるのです。しかし「神=愛」であるわけがないです。

八木誠一氏によって指摘された聖書の二大神観、すなわち「場所論的」神観と「人格主義的」神観ですが、前者の後者に対する補完的役割しか認めない私にとって、聖書では「神」とはあくまで人格、「人格神」です。「愛」は働きであって、人格的主体の存在を前提として成り立ち得るものです。だから「神の愛」ということはあり得ても、「神は愛」ということは文字通りには成り立ちません。だからこれは一種のレトリックであることが明らかです。それを文字通りに「神=愛」と受けとるのは愚かなことだと思います。そしてそのように説教などで語ってきた牧師や司祭には、日本人の神観を軟弱にしてきた責任の一端があるのです。

聖書の本文では「神は愛なり」(ヨハネ一4:8)の前に「愛は神より出づ」と書かれてあります(同、4:7)。「愛」の出所、すなわち愛する働きの主体は「神」であるということです。だから「神様の正体」が「愛」なのではなくて、被造物・・・特に人間を活かす「愛」を根源的な働きとする主体が聖書に示される「神」なのです。人間同士が真に相手のことを思い合っているなら、そのような関係は創造主なる「神」の働きによるものだ・・・と聖書は語っているのです。

このように、人間同士が愛し合うという時のその「愛」が相手を活かすものであるなら、それは「神」から来ているわけで、「神」は「愛」の源と言えます。しかし世間で言われる「愛」は大概、「神」から来る「愛」(アガペー)ではないですね。それを商業主義的な映画やテレビドラマでは、いかにも純愛であるかのように美化して描かれていることがあります。笑ってしまいますね。

「神」から来る「愛」は甘ったるい愛情なんかではありません。相手に対しては厳しく突き放せる愛・・・つまり自分が嫌われてでも相手を活かすために心を鬼にできる愛であり、場合によっては死の自己犠牲も辞さない愛なのです。ところがどうでしょう!信者の多くが思っている「神の愛」の、いかに甘ったるいものであることか!そういうことだから、旧約の神は怒りの神だから悪くて、新約の神は愛の神だから良い・・・といったおかしな見方や、いわゆる神義論的問いというものが信者の中に沸き起こってくるわけです。こういうことは日本の牧師や司祭の聖書的神観に対する未熟さとセンスの無さに根本原因があると言えるでしょう。

ところでネット上に以下の文言があります。
「三位についてはそれぞれ父、子、聖霊の位格であるという点では正統派諸教派と差異はない。 特徴的といえるのが一体についての理解である。一体の部分のそれが何であるかを明確にしない限り礼拝の対象が定まらず正しい神観が得られないとし、即ちイエス・キリストがそれであると明確に示す。言葉を変えて言うなら唯一の神の中に父、子、聖霊の三つの位格が存在すると説く三位一体論と比較して、唯一のイエス・キリストの中にこそ父、子、聖霊の三つの位格が存在していると説く点に教理的違いがある。(ワンネス信仰)」(~wikipediaの「イエス之御霊教会」の「教理的特徴」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E6%95%99%E4%BC%9A
赤字箇所は、信者の信仰対象への思いという点で共感できますが、前後の文言には問題があります(赤色は管理人)。

聖書では「神」と言えばまずもって御父です。この「父なる神=ヤハウェ」こそが「唯一の神」であり、キリストは聖書の神話においても「神」ではなく、「子は親を映す鏡」という意味での映現者として「御子」であり、人間との仲介者なのです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ一2:5)

いずれにしても、新約聖書においては歴史上の人物である「ナザレ人イエス」と、神話における「神の子・子なる神・ロゴス」としての「イエス・キリスト」とが混同されているので、現代においてはこれを区別して理解しなければなりません。キリストに関しては、歴史的には以下のとおり。

< ブルトマンは天使的存在としての「人の子」と言う、此のイエスについてパレスチナの信仰者集団が使った――ブルトマンは以上の如く考えているのだが――呼称とともに、パレスチナの信仰者集団の使用した呼称として「メシヤ」、「ダビデの子」、「神の子」、「神の僕」をあげ、それらが終末を持ち来らす王者的存在を意味すると主張している。之等に対応するものとして、ブルトマンは、ヘレニズム的なキリスト教集団の人々によって使われたイエス――イエスはそこでも新しき時代を此の世に持ち来らしたと考えられた――への呼称として「主」、「神の子」等の呼称をあげ、それらが神的領域に属し、礼拝され、又或る意味では神とも考えられたのであるが実は絶対者としての神よりも一段と低い存在を意味したと言う。此のようなイエスへの原始キリスト教会の呼称の研究より、ブルトマンは原始教会のイエス理解がカルケドン的な神・人二性の一人格としてのキリスト論からは、遥かに遠いものであったと言う。>(~元・日本基督教団牧師、元・立教大学キリスト教学科教授 故・野呂芳男氏の論文「実存論的なキリスト論への一試み」)

※青、赤色、濃色は管理人。

http://www.geocities.jp/yoshionoro/1959kirisutoron.html


 以下の3つは部分的にも共感する文言。


1.「私たちは『霊』というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には『姿』あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。(中略)神が霊であることはまた、神が生命であり、人格的存在であることを意味する(「人格」ではなく、本当は"神格"と言ったほうが良いのだろうが)。」(~「Remnant キリスト教読み物サイト」の「わかる組織神学 神論」の「二 神に関する基本知識」の「(7) 霊であって人格的存在」)

2.「神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています」(~キリスト教アデルフィアン派の「聖書基本知識」)

3.「神​は​体​を​持っ​て​おら​れ​ます。わたしたち​の​よう​な​物質​の​体​で​は​なく,霊的​な​体​です。『物質​の​体​が​ある​なら,霊的​な​体​も​あり​ます』と​聖書​は​述べ​て​い​ます。(コリント​第​一 15:44)」(~ ものみの塔 オンライン・ライブラリー 「神とはだれですか」)
※挙げられている聖書箇所は、いかに救われる信者の復活について言われているにせよ所詮は人間の体のことであって神の体のことではありません。また、コリント二3:17の「キュリオス」(「主」=キリスト)を「エホバ」と訳し(~新世界訳)、創造主である神と被造物である天使とを「霊者」という言葉で一括りにし(~「聖書の見方 神​は​どんな​方​か」)、「人間​と​は​異なる​生命​形態​です。人間​の​目​に​は​見え​ませ​ん​が,体​が​あり​ます。それ​は『霊的​な​体』です。」と言いながら、そこでも人間の復活体について語るコリント一15:44を挙げて述べているのは、あまりに無理があります(~「あなた​は​神​を​喜ばせる​こと​が​でき​ます」)。