聖書が示す「神」Hatena?

「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安(シャーローム)を賜るように。」(民数記6:26)             The LORD lift up his countenance upon thee, and give thee peace.

聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?

よく、ユダヤ教キリスト教イスラム教の、いわゆる「(唯)一神教」である3つの宗教は「神」が同じ、といわれることがありますが、キリスト教の「神」は純然たる「唯一神」ではありません。ユダヤ教についてはキリスト教の母体といわれるにしても、キリスト教が生まれた当時は必ずしも明確な一神教ではなく、たしかにヤハウェのみの排他的宗教ではありましたが、神の現われについての考え方には多様性があり、「ロゴス」「知恵」「律法」において民を導くと解されており、それが箴言8章などで人格化されています。こうした観念がヨハネ福音書などにおけるイエスの神格化の背景になっているというわけです(以上は、橋本滋男氏の論文「ユダヤ教キリスト教:初期の関係史スケッチ」参照)。

CiNii 論文 -  ユダヤ教とキリスト教 : 初期の関係史スケッチ

そんな初期ユダヤ教から生まれたキリスト教は、ローマ帝国の宗教となる4世紀以降に「三一神」を信仰の対象とする詭弁の一神教へと変質してゆきました。詭弁だと言う理由は「三位一体論」(略して「三一論」。「三位一体論」は「神論」と区別されることがあるが、私は「三位一体神論」略して「三一神論」として扱う)が教役者の多くも明快には説明できないほど論理的整合性を欠如しているからであり、キリスト教は、まともな「神論」が「無い」という意味においては「無神論」と言うことも可能でしょう。神学者自身、三位一体論は人間の論理を超える神秘だ、みたいなことを言って疑義を呈する信徒を煙に巻こうとしますが、論理を超えるだの神秘だのと言いながら理屈をこねて説明しようとする者が少なくないことは矛盾の極みです。啓示は人知である程度は認識できるから啓示たり得るのです。「三位一体」は啓示ではなく人間の解釈にすぎません。人知を超える神秘なら解説などできないはずで、それを無理押ししなければよいのです。ただ、聖書が示す神は「三位一体」であると主張して、あとは無用な説明などしなければよいのです。それを北森嘉蔵氏のように合理的に説明しようとすることが護教的思弁であり、誤解の元なのです。

ここで重要なことは、キリスト教の「神」とその正典である聖書が示す「神」とは必ずしも同じだとは言えないということです。この点はいくら強調してもし過ぎることはありません。イスラム教ではキリスト教の「三位一体」を「神、キリスト、マリア」などとバカげた理解をしている点で、私にとっては論外の宗教になります。

ちなみに私自身が「三位一体」の教義を受け容れ難い理由は単純明快、信条にて「真(まこと)に人」といわれているイエス・キリストを、いかにその一方で「真(まこと)に神」といわれていようと「われらの造り主なる神」とは認められないからであり、「真に人」である者を「真に神」であると言うことは相対の絶対化であり、これはドイツ由来の所謂「歴史主義」の軽視ではなく「歴史的現実」の軽視だと思うからです。たとえば、キリスト教(の特に福音主義神学)では「神が人になった」と簡単に言いますが、もし「神」が「イエス・キリスト」に成ったのなら、そのイエスが「真に神」だといわれることは筋が通りません。「人になった」とは言い切れないからです。イエス受肉後、神になったり人になったりと切り替わったのですか?また、十字架刑死までが「真に人」であり、それ以後は「真に人」ではないのですか?現在は「真に神」だけのキリストでしょうか?もしそうだと言うなら、それはキリスト教が「異端」というレッテルを貼り付けて排除した側の教義に近くなり、もはや手の施しようのない論理的破綻です。イエス・キリストは三一の神の第2位格として「遍在」する時もあればしない時もあるのですか?もしそうなら、それはますます聖書から離れた形而上学的思弁となるでしょう。

いくら「真に」という副詞を付けて修飾したところで「人になりきれていない」のです。本当にイエスがいつも変わることなく「真に人」であるなら、肉体(=物質)の面で時空間制約されることになります。そうなると、「三位一体」のような非聖書的教理とは違って聖書に明示されている「神の遍在」の教理に反します。このようにキリスト教教義学の詭弁は穴だらけであり、いくらでも崩せるし、また崩し去らなければならないのです。

「『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(使徒1:11)

聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』」(使徒7:55~56)

すくなくともイエスは昇天後は地上にいないわけであり(父なる神はそうではなく在天しつつ在地しておられる・・・局在的遍在)、再臨の時はあらゆる場所に来られるわけではなく特定の場所に来られるのでありますから、イエスは遍在していないのです。

Everywhere Everytime. 遍在は空間だけではありません。存在していない場所もなければ、存在していない時もないのです。創造主なる「神」は常に超越的内在という仕方で被造界を包み、その栄光で満たしておられるのです。

復活の体とは言え、体に変わりはありません。霊という言葉を使えば自由自在にできるというなら、それは聖書とは相容れぬドケティズムやグノーシス主義などのような肉体軽視の考え方に近くなります。たしかにイエスは家の壁を通り抜けられたのかも知れないし(ヨハネによる福音書20:19,26)、そのことだけ見ればイエスの復活後の身体が肉体とは異質であったと言えるのかも知れません。しかしイエスの身体性そのものを全否定する根拠になるのでしょうか?霊的な身体とは言え、肉体との連続性を否定し去ることはできるのでしょうか?すくなくともイエスが弟子たちの隠れ家に入られたということは、イエスが特定の場所に身を置かれ、存在なさったということであって、この出来事を遍在の根拠に挙げることはできません。人の肉眼で見える体は遍在していません。同じくヨハネによる福音書では、「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』」(20:27)とあるとおり、肉体と大差ないのです。実際にトマスがイエスの言われるとおりのことをしたら、その人物が十字架にかけられた体であることを確認できたからです。すなわち復活の体にも肉体と同様の物質性が認められるのです。しかしそのような体が「遍在」などできないことは言うまでもありません。時空間の制約を受けないことが「遍在」であって、その制約を受けるのが物質だからです。従って、聖書に明示されている「神の遍在」の教理を認めるならば、イエス・キリストが「神」であることは否定されなければ筋が通りません。復活の体は霊の体であって、イエスの生前の肉体とは連続性が無いとの見方もあろうかと思いますが、それはパウロ的復活観ではあっても福音書記者的復活観では必ずしもないです。この点については、大林浩著『死と永遠の生命』(ヨルダン社)の92~93頁あたりを参照下さい。一部引用しておきます。
「復活のイエスは生前の身体との同一性、少なくとも連続性を示そうとしている。福音書著者たちは、当時のユダヤ人の民間信仰に近い、イメージでもって復活のイエスを描こうとしている。ところがパウロは、死よりの復活には新しい体、霊の体が与えられると考えていた。」(93頁)

このようにイエスは再臨に至るまで生前の肉体との連続性を有する身体性を持っているのであり、その「真に人」なるイエスを第2位格の「子」として含む三位一体の神は、被造世界に「遍在」することはできません。だから、ユダヤ教唯一神は「遍在」できても、キリスト教の三一神は「遍在」できない、ということになります。

そこで改革派の元・牧師である佐々木稔氏の以下の解説が問題となります(※「偏在」は「遍在」の誤記or誤植)。

プロテスタントの2大源流は、ルター派と改革派ですが、ルター派は、イエス・キリストは、神性と人性をもつが、キリストの人性は、神性と交流して、神としての性質を帯びるようになったと主張します。具体的には、キリストの人性、人間性は、全能、全知、偏在になったと考えます。しかし、これは誤りです。キリストの人性、人間性は、全能でもないし、全知でもないし、偏在でもないのです。キリストの人性、人間性は、決して、神の性質をもつものに変わらないのです。あくまでも、わたしたち人間と同じ人間性なのです。ですから、キリストの全能、全知、偏在は、キリストの神性、神としての性質に属するものです。しかし、キリストの人性、人間性は、神性とともにキリストのひとつの人格に結合しているので、キリストは、全能、全知、偏在と言ったり、記したりすることはいくらでもできます。また、逆に、キリストが飲んだり、食べたり、眠ったり、苦しんだり、死んだりということは、キリストの人間性に属することです。神性に属することではありません、神は飲んだり、食べたり、眠ったり、苦しんだり、死んだりはしません。しかし、キリストの人間性は、神性とひとつの人格において結合しているので、キリストは飲んだり食べたり、眠ったり、苦しんだり、死んだりといくらでも言うことができます。聖書はそのように記しています。」(~サイト「佐々木稔  キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第8章 仲保者キリストについて」の「第7節 ルター派の誤りの排除」)

 たしかにルター派の「属性の交流」よりは改革派の理解の方が聖書的であるかのようにも見えますが、「結合」と言いながら神性が人性に優位とされている点では変わりはないのです。これでは結合ではなく併合とか統合と言う方が近いでしょう。だって、「キリストの人性、人間性は、神性とともにキリストのひとつの人格に結合しているので、キリストは、全能、全知、偏在と言ったり、記したりすることはいくらでもできます」と言うのですから、主権は神性の側にあることは明らかです。これでは「真に人」とは言えません。「真に」と言う以上、それは100%の生物学的条件を満たしていなければなりません。すなわち時空間の制約を受けないなどということはあり得ないのです。人性は遍在し得ないのに、神性と結合することによって遍在できるようになるというのでは普通の日本語の表現として「真に人」とは言えないし、「真に神」と対等に言われていることにはなりません。「真に」とは言え、イエス・キリストは我々と同じ人間ではないということになります。たしかに原罪は無いという点での質的な違いは認めねばならないでしょう。しかしだから自由自在などとは言えないのです。そういうこと言っているとキリスト教の教義は「神秘」だの「秘義」だのといった言葉で誤魔化す段階から更に開き直りの暴論の段階に堕ちて、もはや「学」などという文字を付けることさえ恥ずべきことになります。キリスト教の神学が、いかにヨーロッパで医学や法学と並ぶ伝統があろうとも、現代はそんなものは化けの皮が剥がされる時代であり、いかに長い伝統があろうとも虚飾の権威は打ち砕かれる時代なのです。かつて「異端」とされた思想が再考され復権される時代でもあります。そもそもキリスト教の「正統」的価値基準に、聖書に合わない欠陥があるからです。

キリストの両性の関係については宗教改革者およびその派の理解よりネストリウス乃至はその派の理解の方が良いかも知れません。無論、ネストリウスとネストリウス派との考え方の違いは必ずしも小さくはないのでしょう。しかしいずれにせよ、本当は神性にはあっても人性にはないという事柄は教理に含めるべきではないのです。イエス・キリストが本当の意味で「真に人」であるなら、同時に「真に神」と言われようとも物体性を有するのであって遍在などし得ないことは当然なのです。そのイエス・キリストを三一の神の第二位格として論じるならば、神性だけではなく人性をも等しく重視しなければなりません。イエスは生前、「真に神」ではなく「真に人」のみであった、死後は「真に人」ではなく「真に神」のみになった、と教理を訂正するのであれば、それはまた別に議論ができるかもしれませんが、受肉以後再臨に至るまで「真に神」であると同時に「真に人」であるとキリスト論を規定するのであれば、そこは教会組織にとって都合のよいようないい加減な理屈で妥協せず、たとえ思弁に過ぎるとも徹底究明しなければなりません。教義潰し、神学潰しです。

さらに、その「三位一体」の考え方からすれば、「神が人になった」とは、代入すれば「父・子・聖霊の三一なる神が人になった」ということになり、イエス人間性には第二位格の「子」のみならず「父」も「聖霊」も関わっていることになりますが、聖書をどう読んでもそんな理屈には合いません。むしろイエスは「父」のみを「神」として服従し、その「父なる神」のみが「聖霊」を発出して、イエスに充満せしめておられるのです。

なお、聖書(特に、ヨハネ福音書1章やフィリピ書2章の賛歌)では「神が人となった」のではなく「神の子が人となった」のです。

また、コロサイ書1章15~17節などを引いて、御子・キリストを造り主だと解することはできません。カトリック神父にして物理学者の三田一郎氏は『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』(講談社)の中で、「…三者はそれぞれ異なった役割を受け持っています。まず父が、この宇宙を創造することを発案しました。子は、父の案に沿ってすべてを創りました。そして聖霊は、それらすべてを、父の案に沿って発展させました」と述べていますが(19頁)、御父が発案者にすぎず、創造したのが御子であるというのは創世記の天地創造の記事をどう解釈したら出てくることなのか、これでは創造主は父なる神ではなく子なるキリストということになってしまいます。

また、同じ頁に掲載されているアンドレイ・ルブルフ「至聖三者」という題の絵ですが、三人の人がテーブルを囲んで座っている様子が描かれています。もしこの絵を子どもたちに見せて「三位一体の神」の比喩として説明したら、子どもたちは三者の神がいると誤解するでしょう。こんな絵は使えないのです。「相互内在」(ペリコレーシス)の教理もこれでは表現できません。この絵にこじつけた三田氏の「山田さん一家」の比喩も同様です。「三位一体」ではなく「三者一組」の神ということになり、事実上の三神論になります。神学者などがどんな屁理屈をこねても「三位一体」は「三神一組」か「一神三様」になるのです。

聖書は部分ではなく全体的に把握しなければなりません。神学でも創造の業は「父なる神」に帰せられ、キリストは「救済」の担当です。キリストは「ことば」なので、ヨハネ福音書の冒頭で「神」であると言われてはいても存在は「父なる神」と別なのですから(そもそも「三位一体」の「三位格(父、子、聖霊)」の「存在」が別々であると言われる時点で、「三位一体」は事実上「三神一組」なのです)、キリストは創造業の媒体であると解し、「創造主」(神)と「創造者」(キリスト)という区別が有効です。ただし、同じコロサイ書2章17節の「神の国」の「本体(=実体)はキリストにある」ということを植村正久の「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(~「系統神学」第9章)という三位一体論に合わせて解せば、「神の国(の本体)=キリスト=神(の身)」という図式が成り立つので、「神の国=神の体」と解し得ます。そのような意味では私も三位一体論を頭から否定する立場とは異なりますが、肝要であるのはその場合、私は「キリスト」を史的イエスとは無関係の、あくまで聖書の超歴史物語の主人公として解することが大前提になるということです。山根明会長の名言にある「歴史に生まれた歴史の男」は、ゴータマ・シッタルタであろうがナザレ村出身のイエスであろうが、神格(=絶対)化は許されないのです。「三位一体」の教理の中核はイエス・キリストの神格化です。その聖書的根拠としてよく出される聖句がヨハネによる福音書の10:30や14:9ですが、文脈的にはこれらは八木誠一氏が「実体的一」ではなく「作用的一」であると言われているとおり、存在の同一性として解してはダメで関係の親密性として解されて然りです。すなわち、14:10の後半で「私があなたがたに話している言葉は、私自身から語っているのではなく、父が私のうちに留まっていて、その業を行なっているのである」とあるとおり、イエスの言動(「言葉」と「業」)の本来的主体が「父」なる「神=ヤハウェ」であるという、その親密なる「父-子」の関係が表わされていると解されて然りです。私見では「私が父のうちにおり、父が私のうちにいる」云々といった言い方はイエス自身の言葉ではなく、神秘主義的思想傾向がみられるヨハネの言葉であろうとは思いますが、史的イエスについてもよくわからないので聖句解釈においては、どちらにせよ大差はありません。

それで、「・・・キリストは人間なのか神なのか、神とキリストと聖霊の関係はどうなのか、一神教なのに三神いるのか、とか。こういう神学議論は暇な神学者の暇つぶしにはなっても、一般信者には意味不明だし、非キリスト教徒にはただの『不毛な議論』でしかない。」という上村静氏の指摘(~『旧約聖書新約聖書 「聖書」とは何か』〔新教出版社p347)には一理ありますが、このような神学的な事柄はキリスト教徒が少ない日本の社会に限ってみても「一般信者」と一括りにするには多様であり、現代では非キリスト教徒の中にも三一神論などに関する批判や問いを投げかける人が少なくないことは、たとえば「yahoo!知恵袋」の宗教カテなどのサイトを見れば明らかです。聖書が示す「神」はそのようなわけのわからないお方ではありません。簡潔に言って「三位一体」などではないのです!だからこそ私は、日本社会に聖書的な超絶人格神観を浸透させてゆきたいと思い、このようなブログで発信しています。

ここで、佐藤優さんの著書『神学の思考』(平凡社)60頁から引用します。

「三一は、聖書に明確な起源を持つものではありません。ただし、神学的操作を加えることによって聖書から三一を導き出すことは可能です。裏返して言うならば、別の神学的操作を加えれば、聖書から三一とは異なる結論を導き出すこともできます。このことを冷静に受け止めれば、三一を承認しない者でも、イエス・キリストが救い主であると信じる者はキリスト教徒なのです。三一を正統と異端の『踏み絵』にする発想は間違っています。」
つまり、正統と異端とを分かつものは「三位一体」の教義ではなく「イエス・キリストが救い主であると信じる」か否かです。そしてこの「救い主」は私見では「神」ではありません。言わば、神と人との中間者です。それは「神」でもあり「人」でもある、というのではなしに、まことの「神」でもなければ単なる「人」でもない、のです。私の基本的な見方は、聖書が示す唯一の真の「神」はイエス自身ではなく、彼が「アッバ」と呼びかけたお方、弟子たちに「主の祈り」などを通して「われらの父」として示されたお方である、ということです。すなわち「キリスト教」とは、イエスをキリストであると信じる宗教というにとどまらず、そのキリストとしての言動の主旨は、彼が弟子たちに信仰の対象が「(天の)父」であることを示すことであったので、何よりもその「教え」こそキリスト教の核心であると思います。ですからキリスト教の信仰対象はキリストではなく、彼が「(天の)父」と示した「神」、旧約聖書で「ヤハウェ」とか「エロヒーム/エル」とか言われているお方なのです。
エスはご自分を「神」だと言ってはおられないのであり、「わが神」も「あなたがたの神」も、すなわち「われらの神」は御自分が「父」と呼んで皆に示したお方であると言われていることです。そのことを多くの人は無視して、「イエス・キリスト」という信仰告白にのみに関心を向けようとするのですが、佐藤氏も同様です。

いずれにせよ、佐藤優氏の上記の言葉を踏まえれば、「三位一体」の教義を認めない団体に「異端」のレッテルを貼ることによって自らを「正統」とすること自体、どうかなとは思います。
現代は教義よりも、反社会的集団であるかどうか、所謂カルトかどうかが問題です。現代は聖書学などが発達して信仰的立場の多様性、宗教の多様性が尊重される時代ですから、カルトでないなら、「三位一体」を認めないからといって非難するべきではないと思います。

そして佐藤氏が神学者ではあっても宣教者ではあり得ないことは、たとえば、「牧師や神学者で、『キリスト教の信仰を持っていないと、キリスト教の本質はわからない』というようなことを言う人がいますが、私はそういう考え方に強い違和感を覚えます。」(~『神学の技法』〔平凡社〕p132~133)と述べてキリスト教の「普遍性」ということを強調しているところにも表わされていると思います。宗教は科学ではないのだから、普遍性など無くて当たり前なのです。信仰とは共同主観であり、ある意味、共同幻想としての面もあります。

佐藤氏はロッホマンという人物の「永遠の命」についての考えを説明している箇所では、「信仰を持たない人には『永遠の命』が何であるか、さっぱりわからないのです。」(p217)と、上記の内容と矛盾するようなことも述べています。
それはともかく、「三位一体なる唯一の神」という教義は教会公認の聖書解釈とは言え、決して聖書的神観ではなく、これを絶対化することは許されないし、この教義を基準に異端を排除してきたキリスト教の正統主義的教会の歴史は厳しく問い直されなければなりません。

「神は神に留まっていることを望まずに、人すなわちイエス・キリストになりました。」(佐藤氏前掲書p134)とか「神がイエス・キリストとして、人間の世界に受肉する」(同書p137)云々とか「キリスト教徒が信じる神は、唯一神絶対神に留まることを望まずに、人間になりました。」(同書p192)などという受肉理解は、福音書のキリストの言動とは合いません。ここで言われる「神」とは旧約聖書で語られている「ヤハウェ」のことなのか、もしそうなら、イエスが「父よ(アッバ)」と呼びかけられたお方と同じなのか否か、違うならどのような「神」なのか・・・イエス・キリストになったということは、その「なった」主体としての「神」はイエスを含まないのだから、キリスト教の教義の「三位一体の神」とは異なるはずです。

そしてもし、イエス・キリストに聖書の「神」の存在が集約され具現されているのなら、彼自身、「われこそ天地の創造主にして全能なる神である」と言えばよかったはずで、いちいち「天にいます父」を立て、自らをその「子」として演じる必要はなかったはずです。

エスユダヤ教徒の一人であり、彼にとっての「神」はあくまでも旧約聖書で「唯一の(主なる)神」といわれているお方、すなわち「ヤハウェ」であったことは言うまでもありません。そして彼ご自身がそのヤハウェの化身である、ヤハウェが人間になった存在である、といった類の発言が新約聖書に皆無であるということは、上記引用のキリストを「神」の化身とするかのような受肉理解は誤りであることを証明しています。

佐藤氏は、「神人論」とは「神が人となられたのは、人が神になるためである」というものであると述べ、西方教会カトリック教会、プロテスタント教会)が前段の「神が人となられた」ことを重視するのに対して、東方正教会は後段の「人が神になるためである」ことを重視すると述べていますが(p171)、小田切信男氏は、最初は「神が人となられた」ということは受け入れておられ、「人が神になる」は否定しておられましたが、やがて「神が人になられた」も否定するに至りました(聖書的にも「人となった」のは三位一体の「神」ではなく「神の子」です)。私も同様です。そもそもイエス・キリストが歴史上に生きて実在していた人物であると教会は語るのですから、そんな歴史上の人物が「神が人になられた」化身の如きおかたであるということは認めることはできません。これは歴史現実の軽視であり、知性というか理性の犠牲になります。あまりにばかばかしいということになります。だから聖書が証しするイエス・キリストは非歴史的存在であるという前提に立ってはじめて認め得るのです。

ヨハネ福音書では10章30節や14章9節などに、イエスの神宣言ととれる箇所がありますが、それはそう解することも可能であるというだけのことであって、けっして明言とは言えません。むしろこれらはイエスが父なる神と親密なる関係を自覚していることを表現していると解する方が全体の文脈に沿うのです。この点を正統的立場は誤魔化してきました。これを私は詭弁の重複と呼んでいます。

エスの所謂「エゴー・エイミ」発言にしても、イエスが神宣言をしたならそんな回りくどい言い方をせずとも、ズバリ、「私はあなたがたの神である」と言えばよいはずです。ところがイエスはそんなことは言わずに、一貫して御父こそ「神」であると言われ、ご自分の従属的立場を示されたのです。これはイエス自身が「神」なのではなく、御父こそが「神」であることの証言であることは明らかです。この点は護教神学者が都合が悪くなるとすぐに「神秘」とか言って煙に巻こうとする、そんな詭弁で誤魔化せるような曖昧なことではありません。護教(ごきょう)は卑怯(ひきょう)な手を使います。すぐに屁理屈を言って逃げようとします。しかし私はこういう輩を逃がしません。とことん追い詰めてゆきたいと思います。


高尾利数氏は、「三位一体の神・・・この神観は、確かにキリスト教に独特のものであるが、イエスは夢にだにこういう『展開』を考えたことはなかった。こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」と指摘しておられます(~『キリスト教を知る事典』〔東京堂出版〕212頁 ※濃色は管理人)。
また野呂芳男氏は、「私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト聖霊三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」と述べておられます(~講義「ユダヤキリスト教史」 第38回――アウグスティヌスの生涯と思想〔1998.3.17〕 ※濃色は管理人)。

http://www.geocities.jp/yoshionoro/jud-christ-3-17.html

日本のキリスト教徒、それも牧師からして「三位一体」を理解できない人が多い理由のひとつは、その訳語から与えられるイメージにあると思われます。
たとえば、日本基督教団信仰告白では、「主イエス・キリストによりて啓示せられ,聖書において証せらるる唯一の神は,父・子・聖霊なる,三位一体の神にていましたまふ。」となっており、ここで「唯一の神」の「一」と「三位一体」の「一」とがよく混同されます。聖書が明記しているのは前者(ヘブライ語「エハード」)であって後者ではありません。前者の「一」は「存在」が同一であるという意味で、後者の「一」は「本質」が同一であるという意味です。ところが「一体」の「体」という訳語が「胴体」の「体」のようにとられやすいので区別が必要です。「三位一体」・・・「三位格一実体」という意味の「実体」は身体的・物体的な意味ではなく「本質」と同義だからです。同義と言うと語弊があるかもしれません。井筒俊彦氏によれば、「実体」とは「主語Xによって指示されているもの」であり、「術語的に『本質』と呼ばれるものの具現した形」だそうです(「指示されているもの」の「もの」に傍点が付されています)。

「唯一の神」の「一」を「存在」が同一であるという意味ではなく、三位格の本質・本性が同一であるという意味に解説する人もいますが、それなら上記の信仰告白の文言では「唯一の」という修飾は不要になります。そもそも旧約聖書では「三位一体」など前提とはせずに「唯一の神」ということが書かれてあるわけで、その「唯一」が「存在」ではなく「本質・本性」を意味するはずもありません。なお、旧約聖書には「多」を包含する「一」という意味の言葉があるなどといった話も専門家に訊くと根拠が無いそうなので、三一論をこじつけるためのまやかしだと思われます。所謂「福音派」にはそういう詭弁があると私は思っています。一方、正統的神学に批判的な立場の知識人などは、キリスト教批判者のフォイエルバッハの三一論理解を高く評価してこれを活用することがあります。

フォイエルバッハの言わんとするところは、三位一体という神自身の内部における関係構造の源泉は、実は社会的・共同体的な人間の実在的生にあるのであって、三位一体という関係構造はそのような人間の実在的生の外的投射にほかならず、まったくの虚構である、ということである。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p149)
もう一つ日本のキリスト教徒が「三位一体」の教義を理解できないおもな理由は、「父、子、聖霊」の三位格を並列的にイメージすることにあります。私がよく言うのは、「三位格」は「並べ」るのではなく「重ね」るようにしなさい、ということです。これは「相互浸透、相互内在、相互相入」(ペリコレーシス)という教理です(ヨハネによる福音書などに典拠がありますが、存在論的に解釈されたからこんなおかしな教理になったのであり、作用論的に、つまり意思の一致として解釈すれば問題なかったのですがそれはともかく)。イメージとしては、なかなかうまい比喩が見つからないのですが、光の三原色で言えば、R・G・Bを「父」・「子」・「聖霊」とします。いつもWってことですが、そこに「父」をイメージして見ている時は「子」も「聖霊」も重ねて見ていることになり、「子」についても「聖霊」についても同様に他の2者を重ねて見ていることになります。しかし光がそれぞれ別の色であるように「存在」は別々なのです。それなのに「唯一」と矛盾しないのか?それがしないのです。よく誤解されるのは、「唯一の神」という存在がまずあって、それが「父」と「子」と「聖霊」という三つの役割を演じるというものです。これは様態論であり異端とされました。そうではなく、「唯一の神」は今、認識されている対象です。そこに「神」のすべてがある。「三位一体」はもともとキリスト論から生じており、キリスト中心なので、つねに信仰の認識対象は「神」の特別啓示である「主イエス・キリスト」です。啓示者にして仲介者である「キリスト」はガラス窓であると思って下さい。透明なガラスを通る光は、G(子)だけではなくR(父)でもありB(聖霊)でもあるのです。それぞれの位格に「神」のすべてがあるのであって、その背後になにかしら真の神なる存在があるわけではありません。常に啓示者「キリスト」という窓に「唯一」の「一」があります。…と言うとまた早合点して、御子のみが唯一の神なのだと言い出す人が出そうですが、それは「スウェーデンボルグ派 新教会」や「イエスの御霊教会教団」などのような所謂「ワンネス」の立場であって、ここで言わんとしているのは、キリストという窓を通して見える位格という光が唯一の神を意味するということです。逆に言えば、キリストという窓を通さず、その啓示という枠組みの制約を受けずに通る光、見える位格は、何色であろうと、どの位格であろうと、唯一の神とは言えません。御父であれ御子であれ御霊であれ、です。御子キリストには「啓示する者」としての面と「啓示された位格のひとつ」としても面とがあります。
しかしこのような「三位一体」なる神論自体が非・聖書的なのです。私にとって啓示者イエスは、ガラス窓ではなく鏡です。彼は「子は親を映す鏡」という諺通り、「父なる神」を映す鏡なのです。イエスの振る舞いを見れば、彼と「父ー子」の人格(神格?)的関係にある「神」の得体を知れるのです。鏡が対象を映し出すには光が必要です。その光が聖霊です。聖霊の光は「神」御自身から発せられる。その光を見て聖書では「神は光なり」と言っているのです。

ところでよく、「三位一体」は聖書に明示されてはいないが「萌芽」はあるなどと言われます。これも詭弁の類であり、植物だって養分などの環境条件が整っていなければ成長しないわけで、新約聖書の記事の中に後代から見た場合に「三位一体」と教理化されて然りと思えるような表現があったからと言っても、それが本来、教理に合うような意味で書かれたかどうかは断定できないわけで、教理化の過程も聖書の記事がそのまま時間の経過に伴って必然的に「三位一体」へと解釈されていったわけではなく、激しい論争を繰り返し、政治権力の介入を受けて会議を開いたりして、人間たちによっていろいろと条件が整えられてそうなったわけですから、そこの歴史的経緯を問題とせずに、聖書と教義とがまるで直線的に連続するかのような情況捨象的な言い方は断じて認められません。その点では「啓示の漸進性」などという理屈も同じであり、ドグマにドグマを重ね塗りするようにして聖書の内容を捻じ曲げてゆく誤魔化しの「神学」に対しては厳しく批判し、教会主義的圧力に反抗しなければなりません。
特に現代では、三一神論が「十字架の神学」というものと関連づけられて、伝統的神観である「神の不受苦、不死」を否定する方向に展開されている点が問題です。その背景には、ある種のインテリに共通する以下の如き時代認識・時代感覚があります。

神学においては、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)というのがクセモノなのです。その背景にはインテリが好む「神義論」というものがあります。

「現代が神無き時代であることは否定することはできないであろう。神が無いということは無信仰ということである。信仰とは、人が神を対象的に信ずるということではなくて、神が人と共にいますということを知っていることである。現代を一つの時代として見るとき、現代は神無き、信仰無き時代である。そのことはアウシュヴィッツや広島・長崎を想起するだけで十分である。それらの所には神はいたか。われわれ自身がそこにいあわせたとするならば、そのとき、われわれは神を信じえたであろうか。われわれは思わなかったであろうか。『もうこの世は終わりだ、神も仏もない』と。われわれは神無き所で神を信ずることができるであろうか。無信仰のただ中で信仰を持つことができるであろうか。現代は神無き、無信仰の時代である。このような時代のただ中で神と共にあることができるであろうか。なおも神を信ずることができるであろうか。ボンヘッファーは獄中書簡で『われわれは、神無くして、神の前に、神と共に生きる』と綴った。これは言い換えれば、無信仰の信仰に生きる、ということである。しかし、このようなことがいかにして可能であろうか。(中略)われわれはそのような信仰の成立を、イエスの十字架上におけるあの絶叫において見るのである。イエスはその十字架で『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と絶叫して死んだ。イエスは神無くして神と共にあったのである。無信仰の信仰に生きかつ死んだのである。無信仰の信仰が成立した場所は十字架である。瀧澤は神と人との第一義の接触を『インマヌエルの原事実』と呼んだ。しかし、無信仰の信仰の場所としての十字架こそが救済の原事実である。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p293~295/p33~34参照)

世界大戦の経験、特に「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマナガサキ」は現代の思想家がよく持ち出すキーワードですが、特に「十字架の神学」との関係で問題になるのは、これが所謂「神義論」的問いを動機とし、イエスの十字架上での「絶叫」の死にこじつけて、「神の不受苦、不死」という伝統的神観を形而上学的神観と決めつけ、聖書的神観はその逆に「神の受苦、死」であると強弁するところにあります。その点で北森嘉蔵氏などは日本人の代表的存在です。さらに上記引用の量氏の場合は、「イエスは神無くして神と共にあった」などという、自身の「無信仰の信仰」なる思弁に結び付けるがために「十字架」理解が極めて断定的になっています(量氏前掲書p255~256も併せて参照されたし)。

これはまったく短絡的なやり方であり、果たして量氏が言うように、イエスが十字架上で「神」に対して神義論的問いを絶叫して死んだと言い切れるのか?ということが厳しく問われます。これはひとつの聖書解釈を史実であるかの如く絶対化しているという過誤だからです。マタイとマルコの両福音書に記されているイエスの「わが神、わが神、なぜ私をお見棄てになったのですか」は詩篇22篇の冒頭句と同じ言葉であり、これまでの聖書学の論議を踏まえるなら、到底、量氏などのように思弁的に解釈することはできません。イエスの口から神義論的問いを語らしめたがるインテリ説教家らの思弁的企てが、北森氏の言う「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということなのです。

「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提とする神学に利用すべく三一神論につなげるというのは邪道も邪道です。そのような神学は神義論的動機にもとづく人情に合わせた非聖書的神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。とにかく「神」が全能だからといって、御意なくしてお苦しみになることはなく、ましてや死なれることなどありません。神学者らが「神」を人間のために苦しませ、死なせようとしても無駄なことです。

「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)

前述のとおり、「十字架の神学」といえば宗教改革者のルターであり、彼は神義論を否定しました。さらに遡れば使徒パウロですが、彼の神学でも神義論は克服されています。そもそもイエス・キリストの教えに神義論はありません。現代人がよく言う、全能なる神の愛や正義と人間の災難との矛盾に関する疑問など問題ではない、それが生得的な対神関係の現実なのです。逆に言えば、この神関係にない者がいつまでも創造主にして全能なる神に対して神義論的問いを発するのです!
※現代神学における「十字架の神学」に関して詳しくは下記参照。

「十字架の神学」の詭弁 遠くの神/ウェブリブログ

「十字架の神学」の詭弁 �U 遠くの神/ウェブリブログ

そういうことで、三位一体の教義について理解がなくても信徒の救いには何ら問題はありません。この教義が確立する転機になったニカイア公会議(325年)はアリウス排除の欠席裁判であり、その決議内容に関わらずアリウス派は勢力を強めてゆくわけで、ニカイア信条は事実上、でっちあげ同様であり、かの正統主義的教義学者と見られていた北森嘉蔵氏でさえ、『福音主義教会連合』なる団体の機関紙の昔の記事で、正統主義者の第一人者とも言えるアタナシウスが中間派に対して「きわどい」と言われるような根まわし工作をして「ホモウシオス」派の勝利に至った旨を書いていました。ずると言えばずるですね。すくなくとも聖職者と呼ばれる者に相応しい行動ではない。むしろ祭服の中身は俗物です。ニカイア公会議過半数は中間派であり、皇帝権力がアタナシウス側かアリウス側か、いずれに味方するかで勝負が決まったと云われています。そのような政治的で不純な会議が教会会議だったのです。従ってそのような会議で、しかも正典としての新約聖書が確定(393年、於.北アフリカのヒッポ)するよりも前(コンスタンティノポリス信条が381年)に制定された信条など、聖書的教理とは認められないので、現代の信徒は聖書に次ぐ第二の信仰基準であるかのように尊重する必要などありません。現代の教会は、ニカイア公会議およびコンスタンティノポリス公会議によって決められたニカイア・コンスタンティノポリス信条をエキュメニカルな信仰告白としていますが、そういうこととは関係なく、この所謂「ニカ・コン信条」の歴史的教会的普遍性を無効として採用しない独自のキリスト教会を形成することは理論的にも十分可能だと思います。
ところで、一説によるとアタナシウスには、御父を「源泉」、御子を「川」、御霊を「飲む」と言っているように、ネオ・プラトニズム的というかオリゲネス的というか従属的三位理解の残滓とでもいったものがあり(もちろん従属説ではないが)アタナシオスの段階で後の正統教義である「三位一体」論が成立したわけではなく三位の区別について、また「ホモウーシオス」に関しても御父と御子との関係だけではなく、その二者と御霊との関係など説明が不十分な点は他の神学者によって弁証されてニカ・コン信条に至ったと云われております。
私はアリウス派でもなければアタナシウス派でもありませんが、単立で行くなら教会独自の聖書的信条を立て、教会の伝統などにはとらわれずに進んで行きたいと思います。
聖書的神観の基本である、創造主としての「神」の「人格、超越、絶対」といったことは信仰の要素になるので、脳に特に異状が無い人の場合は、啓示認識として自覚していなければなりません。異状ある人の救いについては、「ウェストミンスター信仰告白」10-3などを参考にして下さい。私はこういう正統主義的な信条については是々非々で臨んでおります。批判すべき面は多々ありますが、大いに学ぶべき面もあるのです。

しかし根本的なところが異なります。キリスト教では、「神が人になった」といわれますが、実際には「人が神になった」のです。すなわち歴史的には、イエスという一人のユダヤ人男性の神格化なのです。その場合の「神」とは、もちろん「ヤハウェ」(他に「ヤㇵウェ」、「ヤーウェ」、「ヤーヴェ」など)という意味ではありません。旧約時代は啓示が十分ではなかった旨の所謂「漸進的啓示説」では「ヤハウェ=三一神」とされますが、この解釈は誤解であると見做します。歴史的にはイエスが「アッバ」と呼びかけた「父なる神」こそ「ヤハウェ」です。イエス自身が(革新的というか異端的ではあれ)ユダヤ教徒だったからです。
あるいはまた、「イエス・キリスト」が「ヤハウェ」と同一の存在である、などと言う人がいますが、これも誤解であり、キリスト教会が「イエス・キリストは神である」と主張するのは、「ヤハウェ」と同じ「神」の本質を「イエス・キリスト」が有しているという意味です。確かに聖書からはそのような解釈も成り立ちます。私には哲学的な理屈はよくわかりませんが、「本質/実体」と「存在」とを区別するなら、「イエス・キリスト」は「神」と「本質/実体」は同じだが「存在」は別ということになります。
三一論というのは信徒の信仰生活と乖離した、実に不毛で、学習するだけ時間の無駄になるような、前述の上村氏の指摘のとおり暇な神学者の暇つぶし・・・もっと言えば観念の遊戯であり、およそ教会現場では語るだけ虚しい空疎な言葉の集積であり、批判するのもばからしくなるようなしろものなのですが、ここでは概要だけ引用して入口のところだけふれておきます。
<4世紀初め(313年)に信仰の自由を保証されたキリスト教においては、この頃から神とキリストとの関係が問題化し、神とキリストとを一つとする正統派の見解に対し、神よりもキリストは従属的であるとするアレクサンドリアの司祭アリウスの主張が現れた。このためにコンスタンティヌス帝は最初の万国司教会議であるニケア公会議(325年)を開いた結果、そこでは神とキリストとの「本質的統一」が正統的見解と定められ、アリウスは弾劾された。しかし、「統一」のためには「差異」が前提されるのではないかとのオリゲネス派の主張のゆえに、アリウスの復権も成るかに見えたが、アタナシウスは、ニケア公会議で採択された見解を擁護し、アリウス派を異端として断然排斥した結果、この派は以後異端とされた。アタナシウスはさらにその後(362年)、神とキリストとの「本質的統一」ではない「本質的同等」を主張するに至った。その結果、コンスタンティノープル公会議(381年)で、父なる神と、子なるキリストと、聖霊との、「本質的同等」すなわち「三位一体」説が確立された。そして4世紀末(392年)にはキリスト教ローマ帝国の国教とされ、異教はすべて排撃された。>(~渡邊二郎『哲学入門』〔放送大学教育振興会〕p149~150) 
ニカイア公会議を「アタナシウスVSアリウス」という図式で語る人がいますが、アタナシウスは、ニカイア公会議では従者として参加したにすぎず、アリウスは参加させてもらっていません。それはともかく、上記は概要にも及ばない簡略なメモ程度の解説ではありますが、あえて引用した理由は、神とキリスト(実際は「唯一の神であり創造主なる御父」と「唯一の主であり御子なるイエス・キリスト」)との「本質的統一」ではない「本質的同等」ということを明記しているからです。つまり両者の関係は「同質」であるだけではなく「同等」でもあるということ、この点は重要なところであり、私見ではニカイア信条を理解する上でのアキレス腱だと思います。と言うのは、この「同等」が抜ければ従属説が認められることになり、その方が聖書の証言に合っているのですが、この「同等」の主張によって「三位一体」は神秘化されることになったからです。まさに、いつ誰が言ったか、実際に言われたかどかもわからないが伝えられている「不合理なるがゆえに我信ず」という思考停止の言葉が象徴している、正統主義教会のドグマティズムにおける不合理主義の歴史の始まりです。但し、この「同等」の意味も学者の解釈によって違ってきます。ちなみに日本の正教会の或る神学者は、「同等なのは、『神性』であって『関係』においてではありません。しかし、西のキリスト教では『関係』までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。」(私信)と述べておられます。
「三位一体」の「一体」の「体」はギリシャ語で「ウーシア οὐσία」であり、ニカイア信条で「同じ本質」とか「同じ実体」と訳される「ホモウーシオス όμοούσιος」の「ウーシオス ούσιος」はその形容詞形になります。
高尾利数氏が訳されたカレン・アームストロング著『神の歴史( A HISTORY OF GOD ) 』(柏書房)によると(以下、引用にあたっては頁数の表記は省略させていただきます)、「ホモウーシオン」は「文字通りには、『同じ素材から成る』の意」だそうで、「同じ材質」とも言えたようです。だからこの語は「物質主義的な連想をさせた」ので「大いに論争の的となった」とのこと。イオタを入れて「ホモイウーシオン」とすると「~のような、あるいは似たような性質の」という意味になる。
※ ニカイア信条の原文では、「ホモウーシオス」ではなく「ホモウーシオン」とある。「ウーシオン」は「ウーシオス」の対格。
「ニカイア信条は、そのままでは、父、子、霊という三つの神が存在するという三神論の非難を受ける可能性があった。論争の的となった『ホモウーシオン』の代わりに、マルケルスは妥協的な言葉「ホモイウーシオン」(「~のような、あるいは似たような性質の」の意)を提案した。(中略)アタナシウスは、マルケルスと彼の弟子たちが大勢に従うように説得することに成功した。なぜなら彼らはアリウスよりもアタナシウスと共通する面が多かったからである。ロゴスが父と同じ性質だと信じた人々と、ロゴスが父と同じような性質だと信じた人々は『兄弟であり、われわれが言おうとしていることを言っている人々であり、用語について論争しているだけなのである』。優先されるべきことはアリウスに反対することでなければならない。彼は御子が御父と完全に違うものであり、根本的に違う性質のものであると宣言したのだ。」云々(アームストロング著前掲書p158~159)
ここでは、アタナシウスの「ホモウーシオス」派が中間派であるマルケルスの「ホモイウーシオス」派と大同団結して、共通の敵であるアリウスの「ヘテロウーシオス」派との戦い臨んだ旨が述べられていますが、この事実はニカイア信条の虚妄性を暴露しております。何故なら、いかにアタナシウス派から見て中間派の方がアリウス派よりは近い立場であったにせよ、「イオタ」という記号文字一つ入るか入らないかで「同じ」であるのか「似ている」のかという、キリスト論においては天と地ほどの決定的な違いが生じるわけですから、いかに公会議で勝利するための方便とは言え、神学的には極めていい加減なやり方だからです。当時のギリシャ語圏は日本と同じく多神教世界だったので、公会議においてもこうした無節操がまかり通ったということなのでしょう。
「ウーシア」は三一論では「本質」とか「実体」とは訳されますが「存在」と訳されることはあまりありません。 但し「ウーシア」は 「エイミー ειμι」という「~である」とか「存在する」という、英語のbe動詞に相当する意味の動詞の不定法「エイナイ」の女性分詞形「ウーサ」に由来すると云われ、アリストテレス以来「存在」と「本質」の両方の意味を含むとの説もあります。「ウーシア」は新約聖書で「財産、資産」という意味で用いられています〔ルカ15:12〕)。
※「三位一体」のラテン語訳については省略。また、「三位」の「位(格)」と訳されている「ヒュポスタシス υπόστασις 」についても煩雑になるので省略しますが、前掲『神の歴史』で「ウーシア」と「ヒュポスタシス」の違いが書いてあるので、部分的に引用します。
前者が「内部からそうであらしめるもの」すなわち「普通、あるものがそれ自身の内部においてそうであるものに適用された」語であるのに対し、後者は「外側から見られた事物を示すために用いられた」語であるとのことで、後者の類義語には「プロソポン」があり、本来は「力」を意味したが転じて「ある人の表情」をも意味し、「ヒュポスタシス」と同じく、「誰かの内的な性質についての、あるいは彼を眺める者に提示されたその個人についての外的表現を意味した」とのこと。
それでカパドキア人にとって「神は三つのヒュポスタセースにおける一つのウーシアであると言ったとき、彼らが言おうとしていたこと」(p164)はどういうことだったのか?私は、わかりやすいように、あえて半分ずつ分けて引用します。「神は三つのヒュポスタセース」と言えば、「神が被造物に自分自身の何かを垣間見させようとするときには、神は三つのプロソポンである」(同上)ということで、「・・・における一つのウーシア」(同上)であると言えば、「神自身においてあるがままの神は一つである」(同上)すなわち「唯一の神的自意識があるのみである、ということ」(同上)であった。以上。

そして、「われわれのギリシャ人の友人らは、一つの本質〔エッセンス〕と三つの実体〔サブスタンス〕について語ったが、ラテン人たちは一つの本質あるいは実体と三つのペルソナについて語ったのだ」(p167)という一文から、ギリシャ定式の方が「本質」と「実体」とをきちっと区別している点で、ラテン定式の「本質あるいは実体」という考えよりはわかる気がします。
それでラテン定式で言えば要するに、「イエス・キリスト」と「神」とは、「本質/実体」は「一」でも「存在」は「一」とは言えないのです (「存在」とは何か?などという哲学的問いはここでは控え、世間の常識の範囲内で考えたいと思います )。「一体」が「一つの存在」を意味するなら、それは異端とされた様態論的モナルキアニズムになります。しかし、イエスが「神」と「存在」を異にするのであれば、いかに「本質/実体」が同じであっても「唯一神」との整合上、せいぜい「神的存在」とか「第二の神」とかいうことになり、キリスト教の「神」は決して「唯一神」の「神」とは言えないでしょう。だからキリスト教では「唯一神」と矛盾しないように、イエスは元々「神」であり、「神、イエス聖霊」という三一ではなく、「神」の中に「父、子、聖霊」の三者が位格として存在を別にするということになります。この場合、「神」は「父」だけを指して言う場合と、「父、子、聖霊」の三者を総じて言う場合とがある、ということになります。
しかし、繰り返しますがこのようなことは聖書解釈のひとつであって、これが啓示だとか真理だなどと言って絶対化することは許されない事柄なのです。教会側はよく「神秘」とか「秘義」とかいう言葉を用いて思考停止に誘導して、言わば「不合理」なる教義を「合理」化しようとするのですが、到底、許されるものではありません。
前述の高尾利数氏などの批判学者は「知性の犠牲」に甘んじることなく、三位一体論の詭弁性を暴露してこられたわけです。現代のキリスト教徒は神学的諸疑問を司祭や牧師にぶつけるくらいなら、このような批判学者の声に耳を傾けてみるのもよいでしょう。
ちなみに、前掲『神の歴史』では、「三位一体」について「究極的には、三位一体は神秘的あるいは霊的経験としてのみ意味を成すことができるだけであった。それは考えられるべきことではなく、生きられる(体験される)べきことであった。なぜなら神は人間的な諸概念をはるかに超出するものだからであった。」云々と書かれてあり、また、「ギリシア人にとってそれは、ただ直観的にのみそして宗教的経験の結果としてのみ把握されうるドグマ的真理なのである」とか、「三位一体は・・・難解で深遠な『理論』などではなく、テオーリア、つまり瞑想・観想の結果なのである」とか書かれてあります。このような東方の神秘主義神学に欠如しているのは、民衆の中に生きたイエスとの「父 ー 子」関係に御自身を具体的に啓示なさり、その意味で、言わば自己限定なさった「神」についての視点です。端的に言えば神秘主義神学はエリート知識人の神学であって、現代の非人格的神観を説く一群の学者たちの思想のように抽象的で庶民の現実生活からかけ離れたものなのです。そのような学者たちの中に、所謂「京都学派」の禅仏教系神秘主義哲学に関心を抱く者が多いのも頷けます。これぞエリート知識人の哲学であり、民衆の視点が欠落しているからです。

その点では同じく「絶対無」を言う人ではあるものの量義治氏の次の所見では、アウグスティヌスカール・バルトらに代表される西方教会の三一論を「絶対有の立場」とし、これを批判し得ていることは注目に値します。多くの論者は「絶対有」と「絶対無」の区別など関係なしに、古代・中世の教父や現代の神学者の説に依拠して、三位一体の教義が聖書の啓示に合致した神理解であるかの如く主張してきましたが、それと比べれば量氏の場合、「絶対有の立場に立つかぎり」という条件付きではありますが、とにかく三一神論に論理的難点があることや支持の困難さなどを率直に指摘し、正統自任派がやるように「神秘」だの「秘義」だのといった詭弁を用いて批判停止に追いやるようなことはしていないからです。但し、そうかと言って「絶対無」を持ち出してみたところで、私見では三一神論は論として成り立たないことに変わりなく、むしろ益々歴史現実を無視した空理空論になるだけだと思われます。

「三位一体論における三位格は絶対有である。しかし三位一体論には論理的難点がある。それは絶対が三つもあって、しかも一である、ということである。いったいこれはなんとしたことか。絶対はつねに一ではないか。それなのに、絶対が三つもあって、しかもその三が一であるというのは、どういうことか。これに対しては、古来、さまざまの命題表現をもって答えられてきた。たとえば、アウグスティヌスは、神は『一つの実体、三つの位格』(una substantia,tres personae)であると、また、カール・バルトは、『一つの存在、三つの存在様式』(ein Sein,drei Seinsweisen)と答えた。前者は『実体』概念と『位格』という概念を用い、後者は『存在』概念と『存在様式』の概念を用いて、なんとか合理的に表現しようと努めている。しかし、いずれにしても、一なる有が三なる有である、または、三なる有が一なる有である、と言うのである。そのようなことは理解できるであろうか。絶対有の立場に立つかぎり、三位一体論は支持しがたいのではなかろうか。あるいは三位一体論を保持しようとするかぎり、絶対者観を変えなければならないのではなかろうか。」(量氏前掲書p229~230)

「神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。」(同、p292)

その線で行くなら、量氏は北森嘉蔵氏の「神の痛みの神学」における三一神論も否定せざるを得ないのではないだろうか?北森氏は京大哲学科出身とは言え日本基督教団神学者である以上、西田哲学を神学に積極的に採用するわけにはいかなかったわけで、量氏からみれば北森氏もまた「絶対有の立場」に立つということになるのだろうからです。

ところで、前掲『神の歴史』における「考えられるべきことではなく、生きられる(体験される)べきこと」と同じような文言がその「京都学派」の西谷啓治氏の本にも書かれてあります。それは、「・・・絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」というもので、いちおう日本基督教団の教師で、「みずき教会」なる教団無所属の家庭集会を主宰しておられた哲学的神学者の小田垣雅也氏が好んで引用しておられます。詳しくは下記を参照されたし。

小田垣雅也|復活について

このような神観は、「他者」とは言われていますが実は、宗教学者波多野精一氏が言われた「自我の内に吸収され解消される」観念であると言えます。当然、反論が予想されますが、「自我」という表現を用いるかどうかはともかく、要は「神」と「人」との不可同・不可逆の厳然たる区別がついていない思想は聖書の啓示とは無関係です。すなわちこうした神人関係が曖昧な「体験」主義的ないしは神秘主義的な思想は、聖書に示された「神」の具体的な人格性や対象性を軽んじ、日本人の神観を弱体化させ、それこそ得体の知れない汎神的偶像を造りあげるのです。たとい、汎在神論・万有在神論などと表現を変えてみたところで、創造主の超絶性が明確化されない限り庶民信徒を惑わす詭弁に等しいのです。
なお、前掲『神の歴史』の「三位一体」に関する解説の中に「三位一体は、文字通りの事実と見られるべきではなく、神の隠された生命のなかの本当の事実に呼応するパラダイム(理論的枠組)と見られるべきである」(p164)という文言があるように、すくなくとも「三」や「一」といった数字で「神」を言い表すことは比喩であることを八木誠一氏が教えてくれています。私見では「位」や「体」も本来は被造物に用いられる概念であって、これを創造主に用いることは類比に当たるのではないかと思われます。だからいくら神学者が唱えたところで、「三位一体の神」なるものが実在するわけではないのです。前掲『神の歴史』ではアウグスティヌスの「心理学的三位一体論」において「われわれの内部に出会う三位一体は、神自身ではなく、われわれを創造した神の痕跡にすぎない。」(p172)と書かれてあり、神秘主義も徹底してくるとディオニシウスのように「『神』という言葉を用いるのを好まな」(p177)いのはともかくとして、「事実、神を『無』と呼ぶほうがもっと正確である」(同上)というのもともかくとして、「われわれは神を三位一体とも呼ぶべきではない。なぜなら、神は『われわれが知っているような意味においては同一でもないし、三位一体でもない』からである。」(同上)とは当然の帰結でしょう。しかし「啓示」については、「神はその名前の幾つかを聖書において啓示した」(同上)と言われている程度で、自然啓示にせよ特別啓示にせよ、踏まえられてはいません。それどころか「神化」(テオーシス)について多く語られています。

この『神の歴史』の中で聖書の誤解ではないかと思われる箇所は以下のとおり。

「三位一体においては、父は自分がそうであるもののすべてを子に委譲し、すべてを放棄する――自分自身を別な『言葉』において表現するという可能性さえも。ひとたびその『言葉』が語られるや、いわば神は沈黙したままになるのだ。われわれが彼について語りうることは何もない。なぜなら、われわれが知っている唯一の神は、ロゴスあるいは『子』だけだからである。それゆえ『父』はアイデンティティを持っていない。通常の意味での『わたし』はないのであり、それは、われわれの人格という考えを困惑させる。」(p182)云々。悪しき神秘主義思想の典型。
ところで三位一体の教義は異端審問の踏み絵のような役割を果たしてきたようにも思われますが、現代のキリスト教系の「異端」については、現代では神観の多様性を表わすものとして積極的な捉え直しが可能です。神学の正統主義的立場を批判するにあたっては部分的にではあれ参考になることがあるのです。
しかし「異端」を反・社会的集団、いわゆる「カルト宗教」と混同する人が多いのが現状です。たとえば、日本のキリスト教会の多くは「エホバの証人」と「モルモン教」と「統一協会」を一括りにして「異端」だと言って警戒を促してきました。しかし前二者と後一者とは上記のような違いがあります。
前述のとおり「三位一体」の教義では、神とイエスとは「同質」であるだけではなく「同等」なのですが、「従属」説はルカによる福音書パウロ書簡にも聖書学者によって認められていることであり、私見では、新約聖書は全体的に見て、「イエス・キリスト」を「神的な存在」とは認めているものの、「神」そのものとは認めていないと思います。
ヨハネによる福音書には「ひとり子なる神」(1:18)という表現などがあって微妙なところですが、その執筆目的は読者が「イエスが神の子キリストであることを信じる[ようになる]ため」(20:31 岩波版 小林稔訳)であって、「イエスが神でありキリストであることを信じる[ようになる]ため」ではありません。


以下、参考までに引用。
「われわれはいったい何をそんなに恐れているのだろうか。いったい何にそんなにおびえているのだろうか。使徒信条の内容は決して新約聖書の使信を正確に伝えているわけではないと言うことが、それほどに恐ろしいことなのか。三位一体の神というとらえ方の萌芽は新約聖書の中にあるにはあるが、その後の教会史において確立されたような理解は新約聖書の中にはまだないと言うことが、それほど忌避すべきことなのか。とくにパウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』〔新教出版社〕p5 ※濃色は管理人)
「われわれはただただ正統主義的な『キリスト論的集中』といったような捉え方の中に止どまり続けていてよいのだろうか。三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(青野氏前掲書 p61 ※パウロの「神中心主義」を青野氏が岩波版訳の注で指摘している聖句はⅠコリ3:23や15:28。濃色は管理人)

ちなみに「ユニテリアン」と言えば、日本の怪僧ラスプーチンといわれた佐藤優氏は、竹内久美子という理学者との対談で以下のことを述べています。

ダーウィンケンブリッジで神学を学んだという話が出ましたけど、ダーウィン自身も両親も、ユニテリアンなんですよ。ユニテリアンは、イエスは宗教指導者ではあるが、神だとは認めない。だから『最初の一撃』みたいなところに行きやすいんです。『最初の一撃』とは、この地球をつくったところに神の意志が働いている、つまり最初の一撃は神様が起こしたのだと考えるわけです。そしてそのあとは、ニュートン慣性の法則なり進化論なり、自然の法則によって宇宙は自己発展するんだと。(中略)ユニテリアンはイギリスにはあまり多くなくて、アメリカに多いんですけどね。CIAの職員やアメリカの従軍牧師はほとんどユニテリアンです。だから、ある意味でユニテリアンはアメリカの国教といってもいい。アメリカの大統領は『神に懸けて』とは言うけど、『キリストに懸けて』とは絶対に言わないでしょ。あれもユニテリアンを意識しているからですよ。(中略)ユニテリアンは教派の一つではなく、あらゆる教派に横断的にいるんです。ユニテリアンが持っている教会もあるけれども、長老派にも会衆派にもメソジストにも、あるいは英国国教会にもユニテリアンはいる。ダーウィンの家は国教会のユニテリアンでした。(中略)ユニテリアンが理神論と違うのは、神が宇宙を創造する段階では人格的中身を持っているような感覚がある点ですね。それに対して理神論は、自然の法則以外の何らかの力が働いたという感覚だから、人格はまったく持たないんです。理神論は哲学で言うところの始原論とおなじものなんです。」(~『~佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』〔文藝春秋〕p47~49)

イエス・キリストを、真の神で真の人と考えることは、キリスト教の教理の基本ですが、イエス・キリストは偉大な人間であり、模範的な人生を示したわれわれの先生であるという認識に至るようになったのです。このようなキリスト論を持つのが、アメリカに多いユニテリアンです。

ユニテリアンについて、『世界大百科事典』(平凡社)の記述を引用しておきます。

キリスト教の正統教義である三位一体論に反対して、神ひとりだけの神性を主張し、イエスの神性を否定する教派。神学思想としては、古代教会のアリウスや宗教改革時代のセルベトゥス、ソッツィーニなどによって主張されていたが、教派としては18世紀から19世紀にかけてイギリスとアメリカで別々に成立した。とくにアメリカでは会衆派教会のなかで、ハーバード大学神学部を中心として一教派になるまで発展した。(中略)ユニテリアンはアメリカ思想界における合理主義と人道主義の代表的系譜を形成してきた。

ここで指摘されているように、ユニテリアンは合理主義的なキリスト教です。そうなると、十字架におけるイエスの死が超越的な出来事ではなくなり、イエスという一人の人間が死んだという以上の意味を持たなくなります。合理主義において、十字架の意味は、偉大な教師であるイエスが、命を賭けて理想を追求したということになるのです。言い換えると、十字架におけるイエスの死を、他の人間も模範にすべきであるということです。『イエスという偉大な教師は、自らの死によって、他の人間への愛を示した。こういう愛を、われわれもできるだけ実践すべきである』というように、福音が道徳に還元されてしまうのです。

こういう合理主義的なキリスト論は、一九世紀のヨーロッパで、またアメリカでもハーバード大学神学部を中心に無視できない力を持ちました。ユニテリアンを名乗る教会もでき、会衆派、長老派、メソジスト派などの教会にも、教派横断的にユニテリアンの影響が及びました。」(佐藤優著『神学の技法 キリスト教は役に立つ』〔平凡社〕p42~43)