聖書が示す「神」Hatena?

日本に聖書的超絶神観を! 基督教の「(三一)神」と聖書が示す「(唯一)神」とは同一に非ず。命より重きものは聖書的・生得的対神関係なり。この関係に有らざる者が神義論的問い、即ち神の全能と災難との矛盾を論じたところで不毛なり!「縁なき衆生は度し難し」・・・「対神関係なき者は救われ難し」。

聖書は万人救済説や転生説を認めているの?

結論から言えば、聖書に万人救済を読み込み得る箇所はあっても、輪廻転生を読み込み得る箇所はありません。それでも無理に無理して読み込んでいる神学者のひとりが野呂芳男氏です。

神学的には以前としてバルトやモルトマンなど、民衆の視点が極めて弱い、その意味で面白みに欠ける神学がメインの日本基督教団の中でも、とてもユニークというか異端的でさえあると思って私が関心を持っていた牧師兼神学者が野呂氏ですが、かつて私は書簡を通して個人的に学びを得たことがあります。そのことが野呂氏のエッセイ論文の中で紹介されているので、以下、引用します。改行箇所は詰めて、特に注意すべき部分を赤くしました。

(以下、引用)

最近のことであるが(1992年2月)、ある神学校の学生から私の神学、特に拙著『神と希望』に関連して質問の手紙を受け取った。その質問は、私の神学が、イエスを神からわれわれに語りかけられた言葉としており、その神の言葉に対してわれわれが主体的な応答をしなければならないことを中心としているものである事情と関係していた。何らかの身体的障害を持っているために応答も出来ない、否、自分が自分であることさえも意識できない人々は、私のような実存論的神学、主体性を強調する神学ではどうなるのだろうか、というような質問であった。この手紙による質問者は、障害者の方々への奉仕の中に自分の生きる意味を見いだしておられるようであった。手紙の文面には書かれていなかったが、恐らくこの質問の背景にほ熊沢義宣氏の好論文「身体性と神学――とくに障害者神学の視点から」(日本組織神学会編『身体性の神学』新教出版社、1990年刊、209頁以下)を質問者が読んだという事実があったのであろう。熊沢氏は上述の論文の中で、北ドイツのべ-テルという町の社会福祉施設を訪れた時の体験を語っている。そこの重症患者の部屋で、氏は焦げ茶色で長さ50センチくらいの丸太のようになってしまった人物に出会った。この人物は生まれた時からこのような状態で、既に50年以上を過ごして来たのであった。ナチの時代にヒトラーは、障害者を安楽死させて施設を閉鎖するように命令したが、施設で働いていた人々は捨て身で障害者を守り通したので、ヒトラーも遂に自分の方針を貫けなかったとのことである。つまり、その時に、この丸太状の人が施設に働く人々にとって、ヒトラーに抗するシンボルとなったのであった。熊沢氏はこの感動的な物語の後で、人間の価値は、ヒトラーが考えていたように、その人間の能力によるものではなく、人間が神の像を宿す存在であることにある、と主張されているが、もっともな主張である。恐らく私に手紙をくれた学生の質問は、人間が神の像を宿す存在であるということにも関わっていたのではないかと思う。例え主体性を失う程の、丸太状の障害者も救われるというなら、私の実存論的神学の中心をなしている主体性は、神学としてそのように重んじられてはならないものなのではないか。これが質問者の心の中にあった疑問なのであろう。私は返事として、神の像を宿す人間の存在が尊いとする時に、その存在と、その存在が持つ障害とを同一視することの危険を、先ず指摘した。障害そのものが尊いのではなく、障害のない人々(実は、心の中に罪という障害を持っているのではあるが)も、障害のある人々も、変わらずに救って下さる神の愛を、われわれは賞賛すべきなのである。ナチに抗して、1人の丸太状の人物を守り抜いた人々は、そのような障害者であっても、神が愛しておられるが故に、人々が勝手に処置することの出来ない神聖な存在であることを証したのである。決してその丸太状の障害そのものを賛美したのではない。もしもその障害そのものを賛美したとすれば、そこにあるものは不幸そのものの美化であり、不幸への病的な耽溺である。意識さえない人々のことであるから、これは比喩的にしか言えないが、自分の障害に気づけば、誰だって自分の障害をできれば取り除いて貰いたい筈である。障害を持つ人々がわれわれ神学者に提起する問題は、不条理との関連で、神義論との関連で、取り上げられねばならないものなのである。神が欲したが故にその人々は障害を持っているのではなく、神の意志に反して、無の持つ不条理の故にその人々は障害者なのである。この点については、他のところで既に多くを論じて来たので、ここでこれ以上に述べる必要はないであろう。健常者のようには言葉を話せず、通常の意味では主体性のない人々も、輪廻転生の結果いつの日にか神の摂理の下に建常者となり、自覚的に言葉のなかに生きる主体的存在となって、沢山の生の体験に基づいた決断によって、神を信ずるようになると私は確信しているのである

(以上、引用終わり)

野呂芳男「民衆宗教としてのキリスト教」1994年

 このように、野呂氏の「実存論的神学」もまた、多くの神学者と同様に「神義論」というものへの関心に基づいています。そこがこの神学のユニークさを生み出す要因であると同時に思弁を逞しくしている要因でもあります。